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泳げ、人魚姫!

 2012-08-22
最近、とある場所で小耳に挟んだ話。かれこれ10数年、20年近くも妻子ある職場の上司と不倫関係を続けている女性がいると。その女性は、アラフィフの年齢で独身。「子供が成長して離婚が成立したら、必ず君と一緒になるから」そんな彼の言葉を信じて待ち続けてきたので、結婚歴はない。その間もずっと彼一筋。

だが、最近どうもモヤモヤして仕方ない。「彼は本当に私のところに来てくれるのだろうか?このまま彼を待ち続けていいのだろうか?」という思いが浮かんできて、正直どうしたらいいのか迷い、悩んでいると。

「妻との関係は冷え切っている。子供がある程度の年齢になったら離婚するつもりだ」という彼の言葉も、最近では素直に信じられない。事情をよく知る親友や信頼出来る人からは、以前から「別れたほうがいい」と言われている。占いなどにも行ってみた。だが、いざとなると心が揺れて決められないとのこと。

「・・・とまあこんな感じの話やねんけどな。どう思う?」とその話を出してきた人の問いかけに、私を含め、その場にいた全員(女性)が、一斉に「そらあかんわ~」と。

「無理無理!とっとと別れたらええねん」「そのおっさんずるいわ~なんやかんや上手いことゆうて気ぃ引くんやろ?おるおる!そんなヤツ!」「大体意地汚いねん。既婚者のくせに若い部下に手ぇ出すとかさーありえへんって!」まあその他にも、「そんな奴は去勢してしまえ!」などと過激な発言もいろいろ出たのだが、それなりに人生の酸いも甘いも噛み分けてきたおねいさん達が全員一致で出した答えは、「そんな男とはさっさと別れてしまいなさい!」

他人の恋愛に首を突っ込む気は毛頭ないが、このケースに関しては、「もうそのへんでやめておいたら?」と。

男女の仲―恋人関係や夫婦関係において、特殊なケースを除いては、「百対ゼロの過失」というものは存在しないと思う。この状況だけ見れば、男性側に非が多くあるような感じだが、「どっちもどっち」というところ。「責任」は二人にある。途中いろいろあったとしても、ここまで関係が続いてきたのは、「双方の合意」があったから。単純に、「被害者」「加害者」という括りは出来ない。

だが、この女性の場合、自分ではもう結論が出ているにもかかわらず、あえてそれに気づかない振りをしているだけのような気がするのだ。それを認めるのが怖くて、ただ悪戯に「決断の時」を先伸ばしにしているというか。ズバリ言ってしまえば、「別れる覚悟が出来ない」のだと思う。

20年近くという長い年月を彼一筋に費やしてきたことが、彼女の決意を鈍らせているのではないかと。その「ブランク」は大きい。それを経て「一人」になること。「彼に費やしてきた時間」が、すべて「無」に帰すということ。「この先、新しい出会いはあるのだろうか?」「自分はまだ女としての魅力を備えているのだろうか?」そういったことに対する強い不安や恐怖、躊躇いがあるのではないかと。

それも無理はない。20~30歳の頃の、世間で「若い」と言われる年齢での恋愛とは訳が違う。若い頃の恋愛は、「次」があった。たとえ失恋したり、別れた後も、ほどなく「次」がやってきて、それにぽんと乗っかるだけでよかった。落ち込んだりしても、意識のどこかは常に楽観的だったような気がする。若さに任せて、「勢い」で恋愛が出来た時期。

だが、年齢を重ねていくにつれ、それが叶わなくなってくる。「大人」としての「分別」「責任」といったものが、ブレーキを掛けるのだ。良くも悪くも「計算」といったものが働くようになる。年齢と共に身に付いた「殻」、一方では「社会的信用」「思慮深さ」とも言えるそれが、「感情」の行き場を妨げる。

「立場」「年齢」「世間体」若い頃には「壁」とも思わなかったようなもの、むしろ「へ!そんなもん!」と笑い飛ばしてきたものが、知らぬ間に大きな「障害物」となっていることに気づき、愕然とする。以前は大して深く考えもせず、ただ「好き」という気持ちだけで突っ走れたものが、「取るに足らないもの」とかつては気にも止めなかったようなことに足止めされている現実に気づいた時、人は臆病になる。

「あれ?自分ってこんなに小心者だったっけ?」と、「いつの間にか変わってしまった自分」「リスクを避け、ちんまり無難にまとまろうとしている自分」に気づき、困惑するのだ。「当たり前だったこと」が、自分のテリトリーから消えつつある状況に慌て始める。

仮にその「壁」を乗り越えたとしても、「リスク」を冒してまで手に入れたそれが、もし失われることがあったら、一体自分はどうなるんだろう?どうなってしまうんだろう?という「恐怖」が先に立つ。「元は取れるのか?」そんな損得勘定も頭を掠める。そこで得るかもしれない「ダメージ」を恐れるようになる。自分の「回復力」に、若い頃のような自信が持てないのだ。

「傷つくくらいなら気持ちを隠しているほうが楽」「片思いでいい」そう思う人が増えていく。そうやって「大人」は恋愛にどんどん臆病になっていく。恋愛に関しては、10代や20代の若い世代より、確実に「ガラスのハート度」が高いのだ。一見余裕をかましているようでも、内心ではビクビクドキドキという状態。何よりも、「真剣度」が違うのだ。

だから「大人の恋愛」は心を隠す。相手の「脈あり度」を慎重過ぎるくらい探るのは、「万が一の事」を考えてのこと。もしそこで「キズ」を負うことがあっても、最小限の被害で抑えたい―そう思っているから。この過剰な自意識、ティーンエイジャーのそれと変わらない。むしろ「大人」のほうが強いかも。

年齢も経験も積み重ねてきた「大人」であるがゆえに、いくつもの「最悪のケース」を、冷静に客観的に思い描くことが出来てしまうということも拍車をかける。まさに諸刃の剣。その領域に踏み出すことが怖くなるのだ。「かつては当たり前だったこと」に躊躇したり、それを出来なくなっている自分に自信がなくなる。不意に「老い」を突きつけられたような気がして、心もとなくなる。

件の女性も、まさにその状態にあるのではないかと。同世代だからこそ、よくわかるのだ。本当は、心のどこかではもう諦めている。彼から心が離れ始めている自分に気づいている。自分が彼にとって「都合のいい女」であることも。多分、彼に離婚する気はないであろうことも。その事実を認める勇気がないだけなのだ。

「彼に捧げた時間」への未練もある。「長い時間待った挙句がこれ?」その「不公平」とも言える結末に納得がいかないのだ。「等価」を受け取れない自分に、「結局損をしているのは自分だけ?」そんな釈然としない思いもこみ上げてくる。だが、いつになっても状況は変わらない。焦りと彼に対する不信だけが日々募っていくばかり―。こういった「不倫」という関係にあって、更に「相手の都合で長期間待たされている人」の心理とは、多分こういうものではないかと。

「それでも自分は彼を待つ」と彼女が決めたのならそれでいい。自分のすべてを犠牲にしても、もしそれが自分の思い描く結果にならなくても、恨み言一つ言わず、すべてを飲み込んで、自分の中だけでその思いを昇華できる「人魚姫」のような女になることを覚悟できるのであれば。

だが、「これだけ待ったのだから責任を取ってよ」「これだけ待ったのだから自分のところに来てくれるはず」と、彼に「見返り」を要求したり期待しているのなら、潔く終わりにしたほうがいい。それは完全な「執着」だ。まあそれも一つの「愛」の形ではあるのだろうが、どことなく「取り引き」めいた感があるのは否めない。

結局、「ゴール」は何か?ということなのだと思う。「自分が求めているもの」「目指しているもの」は何なのか?ということ。

「なぜ彼と一緒にいるのか?」ということを考えてみたらいい。「好きだから」「一緒にいたいから」ではなく、「一人になるのは嫌だから」「次の出会いの保証がないから」「もう歳だから」そんな「条件」が出てきたら、心はもう彼から離れているのかも。「愛情」ではなく、「惰性」で繋がっているのかもしれない。

何よりも、「あ、ダメだな」と思うのが、彼に対して疑念や不安を感じていること。この時点で、もう相手を信用していないのだ。「無責任な彼」を既に見限っているということ。

年齢を重ねるにつれてわかってくる。男にとっての「責任」は、「=愛情」なのだ。そして、仕事でも恋愛でもすべての領域において、「責任を取る覚悟」があってこその「男」だと。

20代の頃などは、恋愛に関して「責任をとって云々」と言われると、まるで義務感から、それを仕方なくされているような気がして、「何それ!?」と憤慨したこともあったが、今ならそれがどんな意味を持つのかよくわかる。「結果を含め、それを全部自分が引き受ける。背負う」ということは、男にとって、並々ならぬ決意や覚悟が必要なのだ。

奥さんや子供にも責任を取らない彼。自分にもそれをしようとしない彼。その人に「男」としての価値がないことを既に知っている。結局、彼が一番大切にしていて愛しているのは、ほかならぬ「自分自身」なのだ。

いくら優しくても、気が合っても、魅力的でも、一緒にいて楽しくても、自分の理想とピッタリだとしても、「無責任な男」「誠実さを蔑ろにする男」はやっぱりダメだと思う。本来「男」にとって一番大事なもの、「男としての価値」「男としての証」が備わっていないのだから。

「責任感の欠けた男」が考えるのは、「自分のこと」だけだ。そこに「誰かの」という要素は含まれない。端的に言えば、自分さえ幸せで気分よく過ごせれば、あとは誰がどんな状況にあっても構わないということ。非常に利己的なのだ。そんな自分の「利益」しか考えない人間との不確かな未来を夢見るより、「自分の幸せ」「自分が理想とする未来」を考えたほうがいい。

その男の「自分第一」という思考は、多分この先も変わることはない。「私が変えてみせる」「私とだったら変わってくれるはず」と頑張ったとしても、その可能性は限りなく低いと思う。彼とめでたく一緒になれたとしても、彼が今度は「別の人」と同じことを繰り返す可能性があることは否定できない。大体、当の本人自身にその考え方を変える気がないのだから。

男というのは、「自分のファン」を欲しがる生き物だ。女よりもその欲求は強い。そういった存在を周りに置くことで、自分の「男としての価値・魅力」を確認できるから。そうすることで、生き物として備わっている「征服欲」を満たすことが出来る。ある種の「ナルシシスト」。

妻や恋人以外の女性に手を出す男は、もともとそういった要素が強いのだと思う。一度でもその「快感」を味わってしまったら、多分その男は、この先も「生涯一人の女」で満足することはない。世の中の「再犯率」「累犯率」を見ていればそれがわかる。

占いやチャネラーの類に走って、「別れたほうがいいでしょうか?待っていていいのでしょうか?」とお伺いを立てたり、スピリチュアル本に書いてあることを鵜呑みにして、「この関係や状況からも学びがあるはず。気づきがあるはず」と無理矢理思い込むことによってその状況に甘んじているような人もいるが、観ていると、それは完全に「現実逃避」と「決断の先延ばし」だ。

「人を好きになるのは理屈じゃない」と言うではないか。理屈が通用しない「本能」の領域に、占いやらスピリチュアル流精神論やらを持ち出してきて、「理屈=頭」で処理しようとしていること自体、既に「終わっている」。「出会った理由」「関係を続ける理由」「今の2人の関係から学ぶべきこと」そういったことにしがみつかないとモチベーションを保てなくなっているのがその証拠。自分がそこに「留まる理由」を見つけるようになったら、その関係は冷め始めていると言っていい。

彼との関係を続けるか否かということに対して一番大事なことは、もっともらしい理由を見つけ出したり当てはめたりすることではなく、「続けたいのか?続けたくないのか?」ということでしょ、と。

夫婦や恋人間の「浮気」にしたって同じこと。世の中には、本当にいろいろな人がいる。価値観もそれぞれ違う。不倫や浮気の類を罪悪視する人もいれば、相手に何の不満がなくても、ただ単純に「自分の魅力を確認するため、したいがため」に浮気をする人も実際にいるわけで。本人達は、それを「遊び」「後腐れのない関係」と称してケロッとしていたりする。

「単なる気の迷い」「遊び」「本気」にかかわらず、そういった事態が発覚した時、自分達の関係を反省したり、何だかんだとスピリチュアル的意味付を行ったりしても、結局最後に行き着くところは、「許すか?許さないか?」「許せるか?許せないか?」なのだ。所詮生身の男と女、理屈や綺麗事だけで片付けられるものではない。

「自分はどうしたいのか?どうするのか?」結局大事なのはそこじゃない?と。恋愛において一番大事なはずの「気持ち」を蔑ろにして、答えなど出るわけがない。彼を含め、「自分以外の誰かや何か」に自分の人生や幸せを委ね切ってはダメなのだ。

件の女性、私には、必死に藁にしがみつこうとしている人魚姫に思えて仕方ないけど。泳ぎ方を忘れ、溺れかけている人魚姫。その「藁=彼」が、多分彼女には大きくて頑丈な救命ボートに見えているのだろうが、「藁は藁」ですって。幻影に惑わされてそれにしがみついたまま、転覆して、結局最後は童話の結末と同じように、海の泡となって―という展開になるのではないかと。

人魚姫の最大の不幸は、自分の幸せを、すべて王子様に委ねたことにある。自分以外の人を選んだ王子様に執着することをやめて、もう一度自力で海を泳ごうと決心した時、ひょっとしたらどこか他の場所で、幸せを見つけることができたかも。

王子様と出会うまでの彼女は、大海原を自由自在に泳ぎ回っていたのだから。「泳ぎ方」をもう一度思い出したらいい。本物の人魚姫は、報われない愛に殉じて最後は海の泡となって消えたけど、視点や思考を変えたら、まったく違う展開になっていた可能性もある。

「海の世界で一番美しい」と称された自分の声と引き換えに、魔女から「人間になれる薬」を手に入れた人魚姫。だが、彼女を待っていた結末は、王子の心を手に入れることなく、自身が海の泡となって消えるというものだった。

皆まで言わずともわかるでしょ?と。自分以外の何かや誰かに託した幸せが、どういう結果になるのかを。「丸投げ」が招く結末は、多かれ少なかれそんなものだ。「どの段階で決断するか」結局それに尽きる。自分の人生、自分の決断に「責任」を持つ覚悟をすることだ。

だから泳げ、人魚姫!藁の王子にしがみつくことをやめて、自分の力でまた泳ぎだせ!幸せも人生も、自分で選んで切り開いていくものだ。それは必ず存在しているし、あなたはきっとそれを見つけるはず。ひょっとしたらそれを手に入れた頃には、「藁の王子様」のことを笑って懐かしく思い出しているかもしれない。

「自分の中の幸福力」それを忘れたらダメですよ。自分の中にそれが存在していることを信じなさいって。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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反動

 2012-08-19
「霊感体質」を自称する人達の中には、「自分は想念の影響、特にマイナス想念や悪念の影響を受けやすい」と言う人が多い。それは、「あちらの世界」のものに限ったことではない。

いわゆる「生霊」とも称される、「生きている人が発する念」もそこに含まれる。悪意、敵意、妬み嫉み、好意―。「想念」とは、いわば「むきだしの強い思い・感情」だ。

確かに、「気」「想念」というものの存在やそれに伴う影響はあると思う。誰でも多少なりとも日常で経験しているはずだ。「元気かな?」と思い浮かべた友人から数分後に電話がかかってきたり、起きる直前に見ていた夢に出てきた人から、まさにその夢を見ていた時刻にメールが来ていたり。特定の場所や人に対し、居心地の良さや悪さを感じたり。それを「テレパシー」と呼ぶ人もいる。

テレビ、ラジオ、携帯電話、無線―この世界には、様々な電波が飛び交っている。それらの中に、人や物が発する「不可視のエネルギー」が混じっていてもおかしくはない。太古の時代、それはむしろ「当たり前のもの」だったはずだ。それを感じ取る能力も、「普通に」備わっていたはず。「虫の知らせ」という言葉が、それを示している。

だが、いちいちそこに「マイナス」「悪」「負荷」等という言葉を付けることは、果たして必要なことなのか?と思うのだ。

そもそも、「マイナス想念」「悪念」「霊的負荷」というその意味付けは、それを受けたり感じたりした本人の独断だ。いわば「結果論」。あくまでも「その人から見た場合」という前提での話。「自分にとって都合の悪いもの・相性の悪いもの」は、当然「マイナス」「悪」となるわけで。

「念」は「念」であって、それ以上でもそれ以下でもないはず。「良い」「悪い」という区別は、結局それを受け取る側の「都合」にかかっている。

恋愛においてのストーカー行為などはその最たるもの。される側にしてみれば、迷惑この上ないものだ。しかし、それをする本人からすれば、純粋な好意や強い愛情の表現だ。それとまったく同じこと。

そういった、受け取る側の意識が大きく関わってくるものだからこそ、自分の意識や立ち位置の状態を冷静に見返ることが必要なのだ。

スピリチュアル系ブログなどに目を通していると、「想念の影響云々」と言っている人達というのは、ほとんどがマイナス思考だ。加えて、自己防衛本能が過剰だ。例えば、「批判」を「悪口」「誹謗中傷」、「忠告」を「脅し」と思い込んで「攻撃された!」と大騒ぎしたり逆恨みしたりとか。

基本、「自分を悪く言われることが我慢ならない」という人達。プライド以前に、「嫌われること」に対する強い不安や恐怖を抱えているような印象がある。多分、それに纏わる嫌な記憶や体験を持っていて、未だにそれを引きずっているのではないかと。おそらく、その時に失われた「自信」や「プライド」が未だに回復していないのだと思う。それらしきニュアンスを少しでも感じ取ると、過剰に反応するのはそのせいだ。

そういった傾向が強い人が言う「想念の影響」とは、正直どんなもんかと。自分の感情に囚われて、深読みや裏読みをした挙句、被害妄想に陥って、何でもないことを「マイナス認定」している可能性が非常に高い。すべてがマイナスから始まるのだから、その分割り引いて考える必要がある。

彼らを観ていると、「自称悪魔に憑かれた人達」とよく似ている。キリスト教の宗派の一つ、カソリックで今なお行われている「悪魔祓い」の実態は、そのほとんどが「気のせい」らしい。

「自分は悪魔に憑かれている」と訴え、エクソシストに悪魔祓いを依頼してくる人達の97%が、「本人の思いこみ」もしくは、「何らかの精神疾患が原因(幻覚や幻聴、強い被害妄想といった症状を伴う統合失調症等)」であると報告されている。「本物」は、実に1%以下の割合であると。

ベクトルを「自分の外=悪魔、人からの想念」に向けるところ、自分の不具合の原因を「自分以外のもの」に求めるところなど非常によく似ている。ある種の「逃避願望」の現れだと思う。自分ですべての責任を背負い込むより、誰かや何かのせいにしたほうが、人は断然楽なのだから。

「想念の影響云々」と言う人達が「マイナス想念」「悪念」と思い込んでいるものの「97%」は、実は「気のせい」だったりして―ということもある。

被害者意識が強いということは、「自分は正しい側にいる」「自分は悪くない」という意識が強いということでもある。当然、「正しい自分にとって都合の悪いもの=悪、マイナス」と捉えるようになる。被害妄想や被害者意識、過剰な自己防衛本能が、勝手にその「影響」を大袈裟にしていたり、本来そこにないものを自分で作り出している可能性もある。一概に「外からの影響」とは言い切れない。

スピリチュアル教信者や「想念の影響云々」と言う人達を観ていると、いつも不思議に思う。彼らは、何の躊躇いもなく、自分達を「正」「光」の側に据える。例えば、それは「マイナス想念が及ぼす危険に晒される自分」だったり、「『正しい教え』と共に『正しい道』を歩んでいるにもかかわらず、一方的に攻撃される自分」だったり。常にどこか「非の打ち所のない被害者」「本来いわれのない迫害を受ける殉教者」といった意識が言動の端々に覗く。

別の可能性、例えば、実は自分達のほうが「悪」「闇」、逆に「加害者」「迫害者」であるかもしれない可能性を疑ったりすることはないのだろうか?と。1ミリの疑いをも持っていないようなその様子、「狂信」は何を根拠に生まれるのかと不思議でならない。


人間には、必ず「両極」が存在している。陰と陽、相反する二つの要素が、どんな人の中にも存在しているのだ。「優しさと厳しさ」「温かさと冷酷さ」どちらか一つの要素だけで占められているということはない。

例えば、普段「おとなしい人」が、怒った時は別人のようになったりすることがある。それもその表れ。その人の中には、同等の「激しさ」も存在しているということだ。普段どちらの要素が多く「表面」に出ているか、出しているか―ということなのだ。

それは、「霊感」等の領域に関してもまったく同じことだ。「念の影響を受けやすい」ということは、必ずその反対の要素、「念を飛ばしやすい」という要素も持っている。本人は「受けること」ばかりに意識が向いているが、「自分が飛ばしていること」「飛ばしているかもしれない可能性」に関しては、まったくの無頓着。

「自分は正義の側、被害者側にいる」という思い込みが強い彼らには、それを「受けること」はあっても、自分が「飛ばす側」になることはあり得ないと思っている。「自分はそんな人間じゃない」根拠のない自信が彼らの中には存在している。

この国においての「念」というものの在り方も大きく影響しているかもしれない。「願掛け」「祈願」といったものに始まり、この国では、古来から「念」というものが身近だった。だが、「念を飛ばす」ということに対しては、どちらかというと「負」のイメージが先行している。

文学の中でも、「念=良くないもの」としての位置付けで描かれる機会が圧倒的に多い。「源氏物語」の中の、光源氏の愛人 六条御息所の生霊が、嫉妬心から正妻 葵の上を取殺す場面はその最たるものだ。

生霊、怨念、祟りといったものを含め、「タブー」として描かれる機会の多さによって、「それをする者=自分を制御できない人間、精神力が弱い人間、良くない意味で執着心の強い人間」という印象が植え付けられてきた。「それをすること=良くないこと」として、意識に刷り込まれているのだ。

そういった文化的な土壌に加え、「高い波動を持った魂」を有難がるスピリチュアル教では、そういった「念を飛ばす」、とりわけ「マイナス想念を飛ばす」などということは禁物だ。「愛」と「光」「高い波動」だけが存在するその世界では、それは「あり得ないこと」なのだ。

そこでしばしば言われる言葉、「委ねる」「明け渡す」ということは、「執着しない」「考えない」ということなのだから。その不文律の掟、無言のプレッシャーが、信者の中に「自分は念を飛ばすような人間ではない」という意識を植えつけていく。狂信者ほど、その思い込みは強くなる。

だが、その「隙」、「慢心」こそが、「念」の抜け道なのだ。「まさか自分が」その根拠のない思い込みは、ある種の傲慢さと言える。

「無意識に支配されている自分」を意識することはない。理性や常識でコントロール出来ない領域だからこそ、「まさか自分が」ということが起きても不思議ではない。「自分に限ってそんなことはない。そんなことをするような人間じゃない」そう思いたいのは本人の自由だが、そこに100%の根拠はない。

悪意、敵意、悔しさ、妬み―。「そんなものは自分の中に存在しない。あるわけがない」そんなふうに自分を過度に理想化している人ほど、「もう一人の自分」から目を背けようとしている人ほど、「まさか」を起こしている可能性がある。

ここ最近、警察官や消防士、教師や僧侶による痴漢行為のニュースが立て続けに報道されているが、いずれの職業も、公私に渡って強い倫理意識を求められるものだ。スピリチュアル教信者の意識の状態も、非常にそれと近いものがある。

「~でなければ」「~すべき」彼らの場合、自分達が信仰する宗教、「スピリチュアル教」の教義で自身を律している。だが、その「枷」が外れた時、自分を律することから生まれる「抑圧」の分、噴き出すものは大きくなる。

「すべては光であり愛である」という一元論の教義で縛られたスピリチュアル教信者は、自分の中に存在する「闇」「悪」を決して認めない。自分はそんなものとは無縁の人間だと信じている。自分達を「覚醒した存在」だと思い込んでいるから。

だが実際は、事実から目を背け、排除し、気づかない振り、見ない振りをしているだけに過ぎない。それは変わらずそこにある。「意識的に表面に出している部分」と同等レベル、もしくはそれ以上のレベルで存在している。

日頃はスピリチュアル教の教えに従い、表面上は「平和主義」に徹している人であっても、普段の「抑圧」が強い場合、無意識に飛ばす「念」もそれに見合ったレベルのものになる。本人の意に反して、「好戦的」「攻撃的」だったりする場合もあるわけで。

「気に入らないこと」を言われた時の、彼らのキレっぷりを見れば、その可能性は非常に高いのではないかと。常日頃唱えている「愛と光」「高い波動」はどこに行った?という感じの、その片鱗も見当たらないような「怖っ!」「きつっ!」というような言葉を平然と吐いたりするのだから。

スピリチュアル系ブログやサイトのコメント欄や掲示板等で時折発生する「戦争」では、その手のことはめずらしくない。アンチに対する信者の「暴言」は、かなりのものがある。「兆候」は、既に現れているのだ。咄嗟の、その感情に任せた反応こそが、彼らのシャドー、「隠されたもう一人の自分」の存在を告げている。

「受けやすい」と自称するのであれば、「飛ばしやすい自分」も意識すべきなのだ。自分が「加害者」になる可能性も、必ず同等の割合で存在しているということを。「知らないのは自分だけ」それも大いに有り得るのだから。「無意識はコンロトール不能な領域」それを忘れないことだ。

「念を受けやすい」自分の「霊的な敏感度」を誇示したいがために言うその言葉は、「自分は念を飛ばしやすい」と言っているも同然のことなのだ。受けやすいは飛ばしやすい―その「敏感体質」は、決して誇れるだけのものではない。必要以上に自分を買い被らないことだ。人は、「一元論」で成り立っているわけではないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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身の程

 2012-08-15
スピリチュアル系ブログによく見られる「敏感体質自慢」、目にする度に「なんだかなー」と。霊的な存在や場所が持つエネルギー、「気」の影響をどれだけ自分が受けやすいか―その手の話が飽和状態。特にお盆の前後は、その数が一気に増える。テレビ番組の「怪談特集」と同じで、「季節物」といった感じ。スピ系ブログには「お約束」というか、「付き物」の話題だ。

「敏感自慢」の人達を観ていると、その多くは、「霊的なものの影響を受けやすい自分=霊的に進化した存在」と言いたがっているような節がある。「敏感度=霊的能力の高さ、繊細さ、正確さ」だと思い込んでいる人も少なくない。ヒーラーやチャネラー、霊能師等の有料プロに至っては、「商売上のセールスポイント」としてそれを大々的にアピールしていたりする。

敏感だの鈍感だの、人様の「体質」のことはどうでもいいのだが、「選民意識」がそこはかとなく感じられるその物言いが正直うざい。「だから何?」と。「そんなんいちいち言わんでもよろしいがな」とうんざりする。

その人達の常で、「誰にでも霊感はあります」「特別なものではありません」と言いながら、憑いたの感じるだのと一番騒がしいのは当の本人達だ。「当たり前のもの」なら騒ぐなよ、と。上辺だけの謙虚を装いつつ、「それを感じることができる自分達」を全面に押し出しているあたりが、実に小細工感満載なのだ。

特に、その影響を受けた場合、肩がこったり頭痛がしてくる等体の具合が悪くなると言う人に関しては、「結局それがあなたの『レベル』でしょ」と。憑かれたり具合が悪くなったりするのは、その人自身の問題だ。同じ場所、同じ状況で、同じものを見たり感じたりしても、平然としている人もいる。仮に「何か」が憑いたとしても、ほんの一瞬だけしかその状態が続かない人も現にいるのだから。

大体、いくら「感じる力」が高かろうが、「何らかの影響を受けた場合の対処」が出来ないのなら、何の意味もないし、ひけらかすようなことでもない。「勘違いしなさんな」と。


「自称敏感体質の人且つスピリチュアル教信者でもある人」の言動を観ていると、マイナス思考のサンプルのような人が多い。本来針の穴ほどの大きさの悩みを、妄想力と思い込みであっという間にスイカくらいの大きさにしてしまうようなタイプ。被害妄想と被害者意識が強く、「じめじめ」「じとじと」という感じで、常にどこか「湿り気」を感じさせるというか。

亡くなった後もこちらの世界に留まり続けたり、強い念を残すような存在は、基本「ネガティブ」だと思う。恨み、悲しみ、後悔、執着―それがどういう種類のものであれ、生前の「感情」を断ち切れないままでいるのだから。言ってみれば、「往生際が悪い」というか、「粘着質」というか。

そういった要素が、「自称敏感体質」の人達の「ウェットさ」に反応するのだ。結局「同類」が引き合っているということだ。

それらの存在との遭遇に関して、彼らがよく引き合いに出す「高い波長云々」という説も、あまり関係ないかと。見える時は見えるし、聞こえる時は聞こえるのだ。特に相手が「必死な状態」にある時などは、波長の高低差は問題ではない。あの手この手で簡単に超えてくる。

大体、その「高い波長」とやらを保っているかどうかをチェックするのは誰なのか?目安は何なのか?という話になる。結局それも「自己申告」「自称」でしょ?と。はっきり言って、あてにならない。何かと「自分に甘い人」であるなら尚更だ。

そんな曖昧な定義より、たとえ見えたり聞こえたり感じたりしても、動じないでいることが、本当の意味で「波長が高い」ということではないか、と私は思う。そして、どう対処するか、どう関わり合うかを心得ていることと。

「ドライさ」「冷淡さ」それらを適切に用いることが出来ないのであれば、「異次元」とは関わらないほうがいい。道路標識や雑踏に混じって時折聞こえてくる話し声に対する関心と同じ程度の、いわば「無関心」とも言えるような態度で平然とやり過ごすくらいで丁度いいのだ。この三次元の世界で「普通に」生きていくのであれば、本来「関わる必要のない世界」なのだから。

ただ騒ぐだけで、何もできない・何もしてあげられないのであれば、最初から関わるべきではない。そのほうがお互いのためだ。中途半端な状態で騒ぎ立てたりするから、余計にややこしいことになる。「隙」を作っているのは自分。「受けやすい」というよりは、自分で「受け入れやすい状態」を作っているのだから。

実態は、決して「受身」ではなく、極めて「能動的」なものだ。それも、極めて不健康な。結局その「アピール」は、「選民意識」の表れなのだ。

影響を受けたり憑かれたり―その「責任」は、「受け手」である自分自身にあるのだ。「相手」が悪いのではない。それらは「ただ存在しているだけ」「ただ反応しているだけ」なのだから。

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差異(2)

 2012-08-05
人と話したり、人が書いた文章等を読む度に思うことだが、「説得力」がある人とない人の「差」というものは、「その人の言葉が何から来ているものなのか」という部分に負うところが大きいと思う。

どこかで聞いたような、何かや誰かの受け売りや表面だけの綺麗事に終始する人は言わずもがなだが、「理屈」「道理」より自分の感情や感覚を最優先する人、いわゆる「感情的な人」の発言もそれに欠ける。本腰を入れて、身を入れてそれに耳を傾けてみようと思わせるものがないのだ。

ここまで読んでムッとした人は、「感情的な人」と言える。本題に入る前、その「根拠」を説明する前から、既に感情に支配されているのだから。「刺激」による咄嗟のその反応こそが、その表れ。それでは物事の「本質」を捉えることは出来ない。その「偏った状態」では、そこから遠ざかるばかりだ。

「感情的な人」を観ていると、「感情のままに」と「思うままに」を履き違えている人が多い気がする。これらの意味を「完全に同じもの」として捉えていることが、彼らの発言から説得力を奪っているのだ。

この種の人達には、本人達の意思に反して、なぜかコミュニケーション上でのトラブルが付き纏う。言葉での失敗―それが非常に多い。実際、カウンセリング等でそれに纏わる悩みを話す人も少なくない。誤解されたり、逆ギレされたり―それも一度や二度ではない。

そんな「トラウマ」から、人間関係に過敏になる人もいる。相手に必要以上に気を遣ったり、逆に警戒したり、コミュニケーション自体を疎んじるようになったり。

決して「悪い人達」ではないのだ。だが、よくよく話を聞いてみると、そのトラブルのほとんどが、例外なく、「感情のままに」と「思うままに」を混同していることに端を発している。「話し方教室」に通ってコミュニケーションスキルを磨く訓練云々で解決出来る類のものではない。

「感情的な人」というのは、その瞬間に生じた感情や感覚がすべての軸になる。「理由はないけど」「説明できないけど」「よくわからないけど」「ただなんとなく」彼らの発言に対して説明を求めると、必ずと言っていいほどそういった言葉が返ってくる。

実際、彼らの発言を聞いていると、「感覚だけで物を言っている」という印象が強い。「その場の思いつき」「口先だけ」「上っ面」そんな感じなのだ。浅くて軽い―真っ先に目に付くのはその部分。「重み」「真剣さ」それらが存在しないのだ。なぜなら、その言葉はあくまでも「気分」や「感覚」からのものであって、「本質」からのものではないから。

「理屈」「理論」よりも、「感情」「気分」を優先・重視する「考えるより感じろ主義」の彼らは、自分の内側から自然に且つ勝手に湧き上がってくるものに、言葉や説明は不要だと思っている。感情や感覚に「理屈」は存在しない、関係ない―そんな彼らの言い分に従えば、「言葉による理由の説明」が出来ないのも当然のことなのだ。「言葉なんて二の次。大事なのはあくまでも自分の感覚」そう思っている。

そんな彼らに共通するのは、「気分屋」の要素だ。「気まぐれ」「飽き性」「むら気」そういった傾向が目立つ。自分がその時どう感じたか―いわば、その場の思いつきや気分を中心に行動するので、言動に「一貫性」がない。その都度言うことが変わったり、急に何かに熱中し始めたと思っていると、突然それを放り出して見向きもしなくなるとか。その次の瞬間には、矛盾した言動を平然と行ったりする。

周りからしてみれば、呆気に取られることもしばしば。彼らの言動をいちいち真に受けていた自分を馬鹿らしく感じたり、一方的に振り回されているような気がしてきて疲労感を覚えるのだ。その結果、「感情的な人」は、「勝手な人」「いい加減な人」という分類に仕分けされることになる。

だが、当の本人達はあっけらかんとしている。彼らの軸は、あくまでも「feel」にある。「その瞬間の自分の感情や感覚がすべて」であり、「真実」なのだ。「自分はそれに素直に従ったまでのこと。何がおかしいの?」というところ。

だが、周りの人間からしてみたら、その時々の気分や感覚で発言内容がその都度変わるような「いい加減な人」の言葉を真剣に受け止めろと言われるほうが無理なのだ。そこにあるのは、まさしくその本人の感覚や感情だけ―ということに、ある種の「無責任さ」を感じるのだ。「本質」「中心」「全体」「相手」それらの欠如を感じ取る。

「ただ何となく」「よくわからないけど」それだけなら、まさに「言ったもん勝ち」で何だって言える。年端のいかない「子供」ではないのだから、それでは通用しない。ましてや、その言葉が、言われた側の信念や人格等に関わってくるものである場合なら尚更だ。「よくわからないけどそう思うんだもん」出処不明の小学生のような言い草に納得するはずもないのだ。

その「根拠のない言いっぱなしの、思いつきからの軽い言葉」は、言われた側からしてみれば、単なる「言いがかり」でしかない。それを「デリカシーのなさ」「無神経」と取る人もいる。当然、不満や不信、疑問から、その言葉を受け入れるわけもないのだ。状況や内容次第では、口論に発展することもある。

だが、そういった周囲に対し、彼らは反発する。彼らからしてみたら、自分自身やその存在意義まで否定された気になるのだ。「自分の中心」から生まれたものを認めてもらえないのだから。

周囲からの反発や反論といったものは、彼らからしてみたら「まったく思いもかけないこと」なのだ。「思ったことを正直に言っただけなのに」なぜ自分が否定されるのか理解できない。責められる理由が見当たらないのだ。

覚えがないことで理不尽に扱われる自分―度々そんなことが続くと、やがて彼らの中には「被害者意識」が芽生えてくる。相手の反応や指摘を、一方的な「攻撃」「言いがかり」と捉えるので、本人達の中では、「自分は周囲を敵に囲まれた孤独な存在」という意識が強くなる。

時折彼らが垣間見せる「孤独」や「孤立」に対する強い恐れや不安はその表れだ。「誰も自分を理解してくれない」そんな思いが、常に彼らには付き纏う。だが、自分のその「偏り」に気づかない限り、彼らがその孤独感から解放されることはない。


「思うままに」には、その人の信念や思考等から生まれる「根拠」「理由」といったものが確実に存在する。系統立てた筋道、「理」があるのだ。「I think~because」が成立する。「because」の部分、「理由」を明確に出来る。

だが、「感情のままに」にはそれがない。まさにその瞬間、パッと浮かんできたもの、閃いたものであり、「本能」や「感覚」といった領域から生まれる、いわば「反応」なので、「感じる」ことは出来ても、それを言葉等で表すことは出来ない。「because」の後が存在しないのだ。

「感情的な人」が受け取る「直感」は、「はずれる」ことが多い。同じことに対して受け取ったそれも、その都度内容が前回と180度違うこともしばしば。だが、彼らはそれを意にも介さない。「言ってることが前と違う」そう指摘されてもケロッとしている。彼らにとって重要なのは、「当り外れ」ではないのだ。整合性云々よりも、「その時自分がどう感じたか」なのだ。

「直感を大事にする」「直感に従う」彼らの多くはそう言う。だが、彼らの言うところの「直感」は、まさに「感情から直(じか)に来たもの」なのだ。つまり、「中心」「出所」が、感情や感覚だということ。インスピレーションは理屈や理論とは無縁の領域―そう思い込んでいる。

「大事にする」「従う」と彼らが言っているものは、まさしく「自分の感情・感覚」に他ならない。それが悪いということではない。だが、「自分以外」が存在しないその偏った状態では、受け取るものも偏っていると思ったほうがいい。その「直感」が「本物」であるかどうかは、「今現在のその人の状態・立ち位置」に負うところが大きいのだから。

「直感」が正しく発動するためには、「すべてがフラットな状態」でなければならない。思考や感情、価値観、思い込みや決めつけといったものに左右されない状態、執着していない状態にあってこそ、初めて「直感」は「直観」となり、意味を持つ。冷静さと知的さが存在する観察眼をもって状態を把握する「直知」になるのだ。

ブレたり、偏ったり―最初から感情ありき、偏見ありきの状態では、「中心」からのメッセージは正確に受け取れない。残念ながら、そういった状態にあっての「直感」は、「無」に等しい。「理」が存在しないそれは、単なる「感想」「こじつけ」と変わらない。

たまたまそれが「当たった」のは、「下手な鉄砲」の喩え通り、いわゆる「まぐれ当たり」、もしくは無理矢理「当たり」にしてしまったかのどちらかだと思う。「その時の気分や感覚」がすべての彼らには、得た内容が毎回違ったものだったとしても、「そのすべてが正解」なのだ。なぜなら、「その時はそう感じたから」。

だから、彼らの言う「直感」の内容は毎回変わる。そこには必ず「矛盾」が伴う。結局、彼らのそれは、その瞬間の気分や感覚、感情に左右される類の、不安定なものだということだ。本当にそれが「直観」から来たものであるなら、毎回内容が変化するはずはないのだ。

冷静でフラットな立ち位置と冷徹な観察眼から生まれる「思考」には、「理」が宿る。「言霊」と言い換えてもいい。薄っぺらで不安定で、いい加減なものから生まれた言葉にはそれがない。何よりも、「自分以外の観点」が完全に抜け落ちているそれには、人を立ち止まらせ、耳を傾ようと思わせ、動かす「力」が欠けているのも当然なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

【当ブログを訪れてくださった方達へ】このブログを読んでくださり、ありがとうございます。7月31日に、このブログが属しているFC2ブログ運営局から、先月に引き続き、当ブログが再度「カテゴリマイスター」になった旨の連絡を受けました。

成分解析結果と読者の投票数やアクセス数から算出されたスコアで決定されるカテゴリランキングなのですが、「カテゴリマイスター」は、1~10位にランクインした「読みごたえのあるブログ」に与えられます。当ブログは、前回同様「社会問題」のカテゴリで9位にランキングされたとのこと。(順位も前回と同じです)

応援ボタンの類を一切設置していないにも関わらず、このような機会を再度与えていただけたのは、このブログを読んでくださった皆様のお陰です。これからも、媚びない・ぶれない・潔いスタンスで、「自分が信じること・思うこと」を手抜きをせず、丁寧に書いていきたいと思います。

読んでくださった方達に、「インスピレーションのきっかけ」をもたらすことができたら幸いです。この度は本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。厳しい暑さが続くこの時期、くれぐれもご自愛くださいませ。(樫田ミラ)

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【重要】自死遺族グリーフケアの会活動休止に関するお知らせ

 2012-08-04
2008年より開催してきた自死遺族グリーフケアの会ですが、10月から活動を休止させていただきます。再開時期に関しては、今のところ未定です。自死関連の記事は、今後もアップしていく予定ですので、よろしくお願い致します。

現在、全国の都市部を中心に、自死遺族のメンタルサポートを行うグループや会合等が年々増えてきているようです。お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループをネット等で検索してみてください。地域の保健所、心療内科・精神科のある病院等に問い合わせてみるのもいいかもしれません。

ブログ内の記事でも触れていることですが、自死遺族(ご家族に限らず、友人や知人、職場の同僚等も含まれます)は、故人の死の直後から「かつて経験したことのないような激しい感情の波」にさらされます。

最初はある種の「ショック状態」に陥ります。「すべてが夢の中で起こっているような気がして現実味がない」「雲の上を歩いているような感じで、足元がふわふわしている」「水の中にいるように、自分や周囲の動きが緩慢な気がする」「悲しいはずなのに涙が出てこない。泣けない」等の状態が数ヶ月程続きます。この間は、気が張っているため、比較的冷静に、気丈に振舞うことが出来ます。

しかし、葬儀やそれに伴う雑事の処理等が一通り終わり、表面上での落ち着き―「日常」が戻ってくると、最初のショック状態から一転して、感情の激しい浮き沈みを経験する時期がやって来ます。この時期は、「すべての自死遺族が通過しなくてはならない部分」でもあります。

悲しみや苦しみはもちろんのこと、自分も故人と同じような状態になるのではないかという不安や恐怖、「助けてあげられなかった」という罪悪感、もしくは故人に対する激しい怒り等、瞬間瞬間でそれらの感情が入れ代わり立ち代わりやって来ます。「このまま気が狂ってしまうのではないかと思った」今までお会いしたほぼすべての自死遺族の方達に共通した言葉です。それほどまでに、辛く苦しい時期でもあります。

その時期の「乗り越え方」というものは存在しません。「正解」が存在しないのです。自分ひとりで、手探りで進むしかない時期でもあります。同じ家族間であっても、同様です。一人ひとり、その時期の乗り越え方は違います。100人の自死遺族がいたら、100通りの乗り越え方がある―そう思ってください。

「こうしたらいい」というアドバイスもありません。正しくは、「出来ない」のです。経験者が言えるのは、「自分の場合はこうだった」と自身の体験を語ることだけです。そして、その経験者自身も、自分ひとりで、手探りの状態で、その時期を乗り越えてきたのです。

マニュアルも存在しない、正解も存在しないというその状態が、殊更に遺族の苦しみを深めます。それに耐えかねて、「この苦しい状態から抜け出せるなら、自分も死んでしまいたい」と思い詰めるようになる人もいます。実際「後追い」のケースは、この時期に発生することが多いようです。そのような精神状態になった場合、迷わずに、一刻も早く、心療内科や精神科を受診してください。

現在そういった希死念慮がある方はもちろんのこと、故人の死後(特に3年未満の方)下記の症状が1ヶ月以上続いている方は、医療機関を受診してください。

【精神面の症状】
①気分の落ち込みがひどく、憂鬱な気分や悲しい気分から抜け出せない。
②何の希望もなくなり、仕事を含め何もする気が起きない。
③これまで好きだったことへの興味や喜びがなくなる。
④友人関係等を含め、人付き合いが嫌になる。
⑤新聞やテレビを見なくなる。
⑥身だしなみに関心を払わなくなる。(女性の場合、メイクを一切しなくなる等)
⑦意味もなく焦燥感があり、イライラする。
⑧過去の出来事や些細な失敗を繰り返し思い出しては悩む。
⑨根拠もなく、すべて自分の責任だと思う。
⑩集中力がなくなり、仕事や家事の効率が低下する。
⑪物事の判断が出来なくなる。(例えば、「昼食に何を食べるか」という簡単なことも決められない等)
⑫「生きていたくない」「(故人の後を追って)死にたい」等と思う。

【身体面の症状】
①眠れない。眠りが浅く、深夜や早朝に目覚める。もしくは寝過ぎる。
②朝目覚めた時が一番憂鬱である。
③睡眠不足から、頭痛や肩こりに悩まされる。
④食欲がなく、何を食べてもおいしいと思えない。
⑤体重の増減があった。
⑥胃腸の調子が悪い。胃がもたれたり、むかつき、吐き気がある。便秘と下痢を繰り返す。
⑦微熱が続く。
⑧体がだるく、動いていないのに疲れやすい。動作が緩慢になる。
⑨時々めまいがし、息切れや冷や汗、寝汗をかく。
⑩生理不順が続く。性欲が落ちる。

上記の症状がある場合、鬱病の可能性があります。特に自死遺族の場合、鬱病の発症率がかなり高くなる傾向にあります。(「パニック障害」を併発する人の割合も高いようです。過呼吸等の症状が出ている方もご注意ください)鬱病は、「心の弱い人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなる病気」ではありません。

鬱病とは、セロトニンやノルアドレナリン、アミン等脳の神経伝達物質が上手く働かなくなる病気、いわば脳の神経機能に変調が起きている状態です。「脳の病気」「体の病気」です。投薬治療が必要な「疾患」だということを理解してください。

心療内科や精神科を受診することに対しての誤解や偏見を持っている方、投薬治療に抵抗感がある方などは、スピリチュアル系の「ヒーリング」「浄化」等に走りがちになることもあるようですが、上記のような状態にある時は、率直に言って、そういったものはお勧めできません。更なる心身の混乱状態を招く恐れがあります。

実際、そういった行為やそこで言われたこと(「スピリチュアルの観点からすると」「カルマの影響云々」等というもの)がきっかけで、症状が悪化するケースも少なくありません。同様に、判断力が鈍っているその時期、悪質な霊感商法や新興宗教の勧誘に引っかかる人も多いので、そういった要素には近寄らない方が無難です。

「藁にもすがりたい」というお気持ちは理解できますが、誤解や偏見、思い込みを捨て、まずは心療内科や精神科を受診してください。物事には順番があります。代替医療は否定しませんが、最優先すべきは、現在の心身の状態を改善すること―「医療機関での治療」だと思ってください。

また、故人が亡くなった現場に居合わせた人(第一発見者等)で、その場面が頭から離れない等フラッシュバックがある方は、PTSDの可能性もありますので、同様に医療機関を受診してください。その状態は、気力で解決出来るものではありません。思い込みによる素人判断は危険です。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。「アドバイス」というものは、直接お会いして、その方の現状やその詳細を正確に把握した上でないと出来ないものなので。どうかその旨ご理解ください。

また、活動休止中、特定の方のみに「便宜を図る」ということは一切致しませんので、ご了承ください。その旨のお問い合わせ等もご容赦くださるようお願い致します。


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さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すものさよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの
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(2007/08/06)
アン・スモーリン、ジョン・ガイナン 他

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9月自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2012-08-01
2012年9月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2012年9月2日(日) 13時~15時(おおよその目安時間です)

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *8/2定員に達しました。

■申し込み方法 : 8月26日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えています。「アドバイス」というものは、直接お会いして、その方の現状やその詳細を正確に把握した上でないと出来ないものなので。どうかその旨ご理解ください。

遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループ主催の会合への参加、心療内科等各医療機関の受診や専門カウンセラーによるカウンセリング等をお勧め致します。



*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にも通院中であること・医師の許可を得たこと等をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。(その場合、少なくとも退院から3ヶ月以上経過してからのご参加をお願い致します)

現在通院治療中でない方でも、故人の死後(特に3年未満の方)下記の症状が1ヶ月以上続いている方は、鬱病の可能性があります。まずは心療内科や精神科を受診してください。こういった症状のままカウンセリング(グリーフケア)を受けた場合、かえって逆効果になることがあります。まずは症状の改善を優先してください。改善が認められてからのご参加をお勧めします。

【精神面の症状】
①気分の落ち込みがひどく、憂鬱な気分や悲しい気分から抜け出せない。
②何の希望もなくなり、何もする気が起きない。(これまで好きだったことへの興味や喜びがなくなる。人付き合いが嫌になる。仕事をしてくなくなる。新聞やテレビを見なくなる。身だしなみに関心を払わなくなる等)
③意味もなく焦燥感があり、イライラする。
④過去の出来事や些細な失敗を繰り返し思い出しては悩む。
⑤根拠もなく、すべて自分の責任だと思う。
⑥集中力がなくなり、仕事や家事の効率が低下する。
⑦物事の判断が出来なくなる。例えば、「昼食に何を食べるか」という簡単なことも決められない。
⑧「生きていたくない」「(故人の後を追って)死にたい」等と思う。

【身体面の症状】
①眠れない。眠りが浅く、深夜や早朝に目覚める。もしくは寝過ぎる。
②朝目覚めた時が一番憂鬱である。
③睡眠不足から、頭痛や肩こりに悩まされる。
④食欲がなく、何を食べてもおいしいと思えない。
⑤体重の増減があった。
⑥胃腸の調子が悪い。胃がもたれたり、むかつき、吐き気がある。便秘と下痢を繰り返す。
⑦微熱が続く。
⑧体がだるく、動いていないのに疲れやすい。動作が緩慢になる。
⑨時々めまいがし、息切れや冷や汗、寝汗をかく。
⑩生理不順が続く。性欲が落ちる。

鬱病は、「心の弱い人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなる病気」ではありません。脳内には、心身の働きを活性化させ、意欲や気力をコントロールしている場所があります。その場所は、「アミン」という神経伝達物質が大きく関係しており、それが正常に働くことによって、心身の健康が保たれます。

鬱病は、その神経伝達物質「アミン」がうまく働かなくなることによって起こります。いわば、「脳の病気」「体の病気」です。誤解や偏見を捨て、心療内科や精神科を受診してください。思い込みによる素人判断は危険です。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただいておりません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~3時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

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沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

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【重要】自死遺族グリーフケアの会活動休止に関するお知らせ

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