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沸点

 2012-07-25
「魔が差す」という言葉がある。まるで悪魔が心に入り込んだように、ふっと普段では考えられないような悪念を起こすこと。大抵の場合、人は自分の中に湧き上がったそれを打ち消すことができる。邪な事を思い描いている自分に気づき、はっと我に返る。「こんなことを思うなんてどうかしてる」そう反省し、思いとどまることが出来る。

だが、それが出来ない人もいる。自分の中に出現した悪念や邪念を、そのまま実際の行動にしてしまう人。それは、「犯罪者」に限ったことではない。大なり小なり、程度の違いこそあれ、「魔が差したがゆえの行為」を行う人、それも平然と行う人が、世間にはいるのだ。

「小悪党」とでも言ったらいいだろうか。完全に「悪党」になり切る度胸も器もないくせに、その真似事ばかりしたがるのだ。「バレたら怖い。でもおいしい思いはしたい」そんな卑しさを持っている。中には、「みんなでやれば怖くない」とばかりに、言葉巧みに周囲の人を「共犯」に引き入れようと画策する者もいる。「一見普通の人」「一見いい人」それだから、尚更に厄介で怖いのだ。

「バレなければいい」「黙っていればわからない」「偽名を使えば大丈夫」「この程度のことは誰だってやっている」「べつに命に関わるようなことじゃないし」「ちょっと真似をさせてもらうだけ」言い訳を駆使して、彼らは自分の中の「魔」を正当化する。

だが、所詮小物は小物。いざ自分の悪事が明るみに出そうになったり、実際に発覚すると、あれこれ小細工を労し、事態を免れようと必死になる。中には、ほとぼりが冷めるまで一定期間潜伏したり、証拠の隠滅を図った後、逃亡する者もいる。何だかんだと、最後は「保身」に走るのだ。非常に見苦しい。そこまで自分をよく見せたいのだったら、「最初から手を出すな」と。

結局、それがその人の「自制心」の限界なのだと思う。そういった感情や欲望を抑える力の不足。言い換えれば、それがその人の「精神力」のレベルなのだ。

時として心の中に悪念が浮かぶのは、人として当たり前のこと。自分の中のそういった「ダークサイド」が許せないと言う人達もいるが、その部分があってこその「人間」だ。神や仏ではないのだから、それはある意味人として「正常」なのだ。我に返り、反省し、思いとどまることが出来たのならそれで十分。瀬戸際まで追い込まれた時、どちらを選択するかが問題なのだ。踏みとどまるか、それとも―たとえぎりぎりの所だったとしても、とどまれたのならそれでいい。


人柄や人格等、いわゆる「品性」というものは、「人目の少ない時」もしくは「まったく人目がない時」にこそ表れるのではないか―と私は思う。「匿名性」が高い時―そこに自分以外の者はなく、言動を含め、「すべて」が自分の裁量次第という状況にある時、人は自分の「精神力」や「品性」を試されるのではないかと。「黙っていればわからない」「誰も見ていない」「自分以外にその事実を知る者はいない」そういった状況での振舞いこそが、それを物語るのではないかと思うのだ。


悪念が、自分自身のほとんどを覆いつくし、自分の中の「光」がそれによって吹き消された時、それに抵抗を止めて流されることを選んだ時、人は「魔」に支配される。

「魔」が実際の形、「行動」に変化するラインは、人それぞれだ。その設定基準が極めて低い、まるで本能のままに行動する「動物」レベルの人もいれば、「そこまで耐えたのになぜ・・・」という人もいる。

だが、程度の差云々に関係なく、彼らが自分の中の「闇」に押し潰されたという事実に変わりはない。欲望や衝動が、モラルや精神性を凌駕してしまったということだ。「闇」のほうが強大だったということ。そして、それがその人の「本性」なのだ。

一度でもその「たが」が外れてしまうと、「二度目」は容易に起こりやすくなる。歯止めが効かなくなるのだ。また同じような状態になった時、「魔」に支配される可能性は格段に上がる。犯罪者の再犯率を見れば、どれだけ人間が「弱い生き物」であるかがわかる。一度でもタブーを犯した人間は、「それをしたことのない人間」に比べ、「一線」を越えることに対しての抵抗力が低くなるのだ。

「既にそれをした者」が自分の周囲にいる場合も同様だ。「タブー」としての認識が低くなり、ある種の「気安さ」「手軽さ」のような意識さえ芽生えてくる。それを非難する気持ちもある反面、無意識に「それも『あり』なんだ」と、「選択肢」の一つとしてインプットされる。その「刷り込み」によって垣根が低くなり、同様の道を辿るケースも多い。朱に交われば赤くなる―「環境」がもたらす影響は大きい。

「魔が差す」という言葉には、どこか「他律」の響きがある。まるで、どこからともなくやってきた、何かや何者かの命令や束縛によって操られているような。だが、その人達は自分の中の欲望や衝動に負けたに過ぎない。律することが出来ないくらいの、それだけ大きく深い「闇」が彼らの中に存在しているということだ。

巨大化する一方のそれは、内側から彼らを圧迫し、どんどんその力を増し、やがて「行動」という形で一気に噴出する。そして、その「規模」は、彼らの「闇」の深さや大きさと比例する。

「正しさ」「光」そういうものに固執する人ほど、自分の中の「闇」を認めようとはしない。「スピリチュアルという名のオカルト教」をはじめ、その他の特定の思想や宗教に過度にのめり込んでいく人達は、その典型的な例だ。だが、彼らは無意識で気づいている。自分がどれだけ衝動的で、感情的な人間なのかを。容易く「闇」に自分を明け渡してしまう「弱さ」が自分の中に存在することを。

彼らには、自分を「束縛してくれる何か」が必要なのだ。自分を繋ぎとめてくれるもの。戒めてくれるもの。制御してくれるもの。「絶対的な何か」、「錨」のような存在―彼らはそれを求めている。特定の思想や信仰―そういった「拠りどころ」によって、彼らの多くは辛うじて「道」を踏み外さずにいることができる。

「教義」を呪文のように繰り返し唱えることによって、自分自身を「洗脳」するのだ。「自分は光の存在だ」「自分は愛そのものだ」と思い込むことで、「闇」とは無縁でいられると信じている。「信仰」への依存度―それは、同時に彼らの「闇」の深さでもある。「闇」をそれだけ意識しているからこそ執着するのだ。

だが、その「洗脳」が、ふとした瞬間、何かの拍子に途切れる時がある。「素の自分」が顔を出す。「洗脳」にも限界がある。「無意識」の領域までは入り込めない。そこに存在している「素の自分」は、何ものの影響も受けない。その一瞬の隙を突いて、「魔」はやって来る。

「素の自分」の内側にある「欲望」や「衝動」が次第に活発化し、煮えたぎり、そこから生じたものの力が、もはや「信仰」では押さえつけられないくらいにまで増大する。「信仰」によって何とか押さえ込むことに成功していた「闇」が、今まで圧縮されていた分、反発するのだ。

そして、それが「依存度」のレベルと等しくなった時、彼らの「たが」は外れる。それまで無形だった「念」が、「行動」という実際の「形」となって表れる。隠し、抑え込んでいた「闇」が一気に姿を現す。そして、出現したそれ、その「行動」こそが、彼らの「本性」を告げているのだ。

光と闇のせめぎ合い―人は常にその状況に晒されている。どちらが自分を凌駕するのか―その可能性は常に50%ずつの割合で存在する。「光」にも、「闇」にも、人はどちらの存在にもなり得るのだ。それは何かを信仰することによって決まったり、保障されたり、防げたりするものではない。踏みとどまるかとどまらないか―あくまでも、自分自身の「選択」なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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リミット

 2012-07-19
「自分には関係ない」「興味がない」「どうでもいい」今の世の中を観ていると、物事や人に対してこういったスタンスを取る人が目立ってきているような気がする。

何事にも無関心な人というのは、いつの時代にもいる。だが、私には、この手の人達が昔から不思議だった。「関心がないから」というだけで、それを一度も手に取らないその人達は、「知りたがり屋」の私には、「えー、なんで??」という存在なのだ。

「入るな」と言われれば入ってみたいと思い、「行くな」と言われれば余計行ってみたくなり、「やるな」と言われればやりたくてうずうずしてくる性質の私には、物心ついて、この世には自分と正反対の人達が存在するということを知った時はかなりの驚きだった。

ある程度の年齢になった時、その驚きはもっと大きくなった。世の中には、「興味がない」「どうでもいい」という以前に、「わからない」「知らない」という言葉だけですべてを片付けてしまう人がいるということが信じられなかった。それが悪いとは言わないが、「そこから先」に進まない人もいるんだなー、と。

「バカだからわからない」「学がないから知らない」「教えてもらってないから知らない」と開き直る人など、宇宙人との遭遇に等しい。「だったら調べろ!わからないままにしておくからバカなんだろーが!」と説教したくなりつつも、「やっぱりこういう人っているんだなー」と半ば感心する。それで今までやってこられたということが、ある意味すごいというか。

「え?何それ?」と思ったものは必ず調べる私には、知らないままのその状態を気にも留めない、「半径5メートルの世界」で満足しきっている人達がいるということは、かなり衝撃的であり、尚且つ不可思議なことでもある。

私の場合、好きか嫌いか、興味があるかないかということを思う以前に、それを目にした瞬間、もう手に取っている。とりあえず触ってみて、眺めてみて、匂いを嗅いでみて、「へぇー」とか「ほぉー」とか言いながらひと通り観察し、その存在を確かめずにはいられない。「感想とか好みとか、結論なんか後でもいいじゃん」そう思う。

最初の瞬間から「嫌い」「苦手」と感じた物や人でさえ、「とことんその正体を見届けてやろう」と思う。「なぜ自分がそういった反応を示したのか?」「何が自分を刺激したのか?」という「原因」を突き止めてやろうと思うのだ。だから、余計にじっくりそれを観察する。最終的には、「嫌いな人」「苦手なもの」を通り越して、「観察対象の個体」になっている。

「関心がないもの」に対し、あえてそれを行うこともある。例えば、水道管工事の現場脇を通りかかって、道路のアルファルトが削られ、数メートル下にある水道管が剥き出しになっていたとする。「おー、水道管だー」何の感慨もなく、その程度のことしか頭に思い浮かばなくても、家に帰ってから、水道や水道工事についてネットで調べてみたりする。

以前、そんな感じで土木工事のことを調べている最中、そこに出てくる用語や工法等興味の惹かれるままにどんどん検索していったところ、なぜか「アリの生態」について紹介しているサイトにたどり着いたこともある。

それが後で役に立つかどうかなんて関係ないし、気にしたこともない。ただ、この世界にあるものについて知ろうと思っているだけだ。「自分の好きなもの」「自分が関心があるもの」だけで自分を囲み、閉じてしまっては面白くないではないか。

「あえてのムダ」それがあるから、世界や人生は面白いのだ。第一、それが最終的にどこに繋がっているかなんて、今の時点では誰にもわからない。後に「すごい何か」に大化けする可能性もあるのだ。その可能性を含んでいるかもしれない原石を、みすみす捨てるなんてもったいない。「とりあえず持ってたらいいのに」そう思う。捨てるのはいつでも出来るのだから。

10代や20代のうちから「ムダ」を嫌う人もいる。「面倒なことには首を突っ込まない」「自分の好きなものや興味のあること以外には手を出さない」そういった「効率重視」の姿勢や方法は、学校の勉強や「楽して得したい人」には適しているかもしれない。だが、そう考えている時点で、その人の世界は既に終わっている。「頭打ち」の状態にあると言ってもいい。それ以上の広がりを期待できない。それはある種の「逃避」だ。

自分が心地良く感じるものだけで満たされた世界。狭く浅い世界。「老人」と「子供」のそれによく似ている。

老いた人達の世界は、年毎にどんどん狭くなっていく。加齢に伴う心身の疲労が、人や物事に対する興味を失わせ、「変化」を億劫がらせるようになる。「未来」よりも「過去」に執着するようになる。彼らの会話に「繰り返し」が増えるのは、「閉じた世界」にいるからだ。変わり映えのない日常には、新しく語るものなどないのだから。

「子供の世界」は、人としての未熟さゆえに、どうしても「感情」がベースになる。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか―彼らの世界は二元論で成り立っている。「好きなものだけ」「やりたいことだけ」で自分の世界を満たしたがる。

だが、「自分に心地の良いもの」だけで成り立っているそれらは、「偏った世界」とも言える。本人の望むままに、意図的に作られたそれは、「現実」とは程遠いものだ。それがある程度許容されているのは、「年を取ったから」「まだ子供だから」という、半ば「諦め」に近い「特例措置」のお陰なのだ。

この世界には、必ず「陰と陽」が存在する。両面が存在することが、「正常」なのだ。「陰」だけ、「陽」だけの世界は、その時点で既に歪んでいる。

私は、「この世のすべて」を見てやろうと思う。陰も陽も、裏も表も、好きなものも嫌いなものも、美しいものも醜いものも、命が終わるその瞬間まで、見られるものは全部見てやろうと思っている。せっかく「両面」があるのに「片面」しか知らないで終わるなんて、「知りたがり屋」の私には我慢ならない。だから、とことん見尽くしてやるのだ。この世のすべてを。

仕事柄、10代から70代までの、様々な年齢の人とお会いする機会がある。その度に思う。「人の成長に年齢は関係ない」と。20歳そこそこで、まるで仕事や組織に疲れ果て、人生を諦めきった中年のサラリーマンのように「事なかれ主義」を唱える人もいるし、70代後半という年齢にあっても、みずみずしさを感じさせる人もいる。

その「差」に深く関係しているのは、「感性」ではないかと思うのだ。「それは一体何だろう?」と思うこと。実際に体験してみること。その体験によって感じること。感じたものについて思考すること。それを積極的に自分の中に取り入れようとすること―その欲求が高く強い人に「限界」は存在しない。

「感性」は、「刺激」によって磨かれていくものだ。好きなものや関心のあることだけで満たされた世界は確かに心地いい。だが、「居心地の良さ」は「刺激」にはならない。「鈍さ」を増長することはあっても、「鋭敏さ」はその分失われていく。

「嫌い」ということを罪悪視したり厭う人もいるが、「嫌い」よりも性質が悪いのは、「無関心」だと私は思う。その存在自体を無視している状態、いわば、「認めてすらいない」ということなのだから。必要もないのにわざわざしゃしゃり出ていくことはないが、最初から「なかったことにする」「存在しないものとして考える」というそのやり方は、単なるご都合主義だと思う。「放棄」であり、「逃避」だ。

「知りたいことしか知らない」「やりたいことしかやらない」「見たいものしか見ない」それを望む人もいるのかもしれないが、私は何の魅力も感じない。そんな小さくまとまった世界にふんぞり返っている状態の、何がそんなに面白いのかと。そういった「惰性」から生まれるものって何よ?と思うのだ。

「今のままでいい」「もういい」その考えが大半を占め、「惰性」を好むようになり、自分以外の人や物事に「疑問」を持たなくなった瞬間から、「成長」は止まり、「世界」は閉じていくのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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不変

 2012-07-16
つい先頃、ブルガリア国内の修道院発掘作業現場で、約700年前のものと推定される2体の男性の人骨が発見された。どちらの人骨にも、胸に鋤の刃と見られる鉄片が打ち込まれており、その様相から、埋葬された死者が「吸血鬼(バンパイア)」となって甦ることを封じたものであることが判明し、大きな話題となっている。

興味深いのは、ここ数年、ブルガリア国内では同様の埋葬方法による人骨が100体以上発見されているということだ。そして、その大半が、貴族階級に属する人間のものと推定されている。

修道院の発掘現場で、件の人骨を発見した考古学者は述べている。「14世紀という中世の時代、進歩的な考え方を持っていた知識人達は、バンパイアになる可能性があると人々に恐れられたためではないか」

中世のその時代、「学者」や「貴族」は、いわゆる「インテリ層」に当たる。富や権力以外に、「教養」を兼ね備えていた人々。富と権力のあるところには、自然と「情報」も集まるものだ。何よりも、地続きのヨーロッパでは、それらのやり取りは、比較的容易だったのではないかと思う。

だが、その人々は、単なる「博識」「学のある人」という言葉だけでは括れない存在だったのではないだろうか。自分が得た「情報」について、さらに思考・分析する能力、「理解力」を備えた人々であったことは間違いない。

700年前、いわゆる「中世」のヨーロッパでは、キリスト教が絶対的な権力を誇っていた。キリスト教のみならず、「宗教」の最大目的は「支配」にある。それを潤滑に行うには、物心両面での「規定と束縛」が必要となる。与えられたものをひたすら盲信し、従う―必要なのはそれだけだ。そこに「個人の思考」は不要だ。

キリスト教が、「考える人」であった学者や貴族を疎んじたのも当然なのだ。多分彼らの中には、当時の社会では考えられないような急進且つ進歩的な考えを持つ者も存在したはずだ。その教養や知性の高さゆえに、「支配」を目的とするキリスト教という権威やその在り方に対し、疑問や不審を抱いても不思議ではない。彼らによって、反キリスト主義が領民等一般市民に拡大するのを恐れたのではないかと。

おそらく、当時の人口比率では、そういった階層に属する人々は、全体の数パーセントを占めるに過ぎない「少数派」であったはず。言い換えれば、その少数の危険分子さえ「粛清」してしまえば、支配は順調に進むと言える。その他は、古くからの階級社会によって、いわば支配されることに慣れている一般市民等「従属階級」の人々なのだから。ある意味「無知」である彼らを支配するのは簡単だ。「神」に対する彼らの畏怖心を刺激すれば事足りる。

件の人骨が発見されたブルガリアが位置するバルカン半島は、ヨーロッパの中でも特に、吸血鬼に関する伝承が集中している地域でもある。そして、それらの地域には、死後に吸血鬼になるとされる人間の特徴として、「神や信仰に反する行為をした者」が挙げられている。「反逆者」をそこに結びつけ、存在自体を「タブー」にしてしまえば片が付くのだ。

キリスト教では、死後の「復活」が約束されている。最後の審判の日、イエスと共に楽園に甦り、永遠の生命を約束される。信者はそれを願い、日々信仰を深める努力をする。だが、神に背けばそれは叶わない。当時の社会状況―価値観等を含め、人生の大半を「信仰」が占めていた時代において、死後も「神と信仰に背いた者=吸血鬼になる恐れのある者」という烙印を押され、「復活」を許されないことは、最大の恐怖に値することだったに違いないのだ。

「考える人」が当時唱えていた思考や思想は、キリスト教本来の教義とは、大きく異なるものだった可能性が高い。それは、まさに「神や信仰に反する行為」だったのだ。胸に鉄片を打ち込んでから埋葬するその方法は、死者が吸血鬼として甦ることのないようにするための「呪術」、「反逆者」であることの「証」、そしてキリスト教思想を脅かす存在が未来永劫出現しないようにという「封印」なのだ。

「組織」「団体」の栄光栄華には、そこに属する者達が一枚岩となることが不可欠だ。同じ思想・目的のために、同じように考え、同じように行動することが求められる。その団結を乱す者がいれば、それは直ちに取り除かれて然るべきなのだ。それがどんなに小さい「ひび」だとしても、「崩落」の原因になりかねないのだから。

臭いものには蓋的なその排除方法は、自分達の存在を脅かす存在、「異端」「異分子」に対する恐怖の表れでもある。魔女狩り然り、異教徒迫害然り、「神」の名の下に行ってきた数々の「粛清」は、結局支配者側の「恐れ」の裏返しであり、「生き残り」への執着なのだ。

物事の「成長」「発展」は、議論や批判があってこそのものだ。医学や科学等「学問」の領域が日々進歩し続けるのは、それが存在する世界だから。だが、そういった要素を拒む「宗教」に、その機会は訪れない。そこで重視されるのは、築いたものをこの先も維持していくことなのだから。自分達の思想を末代まで残すこと―それが最大の目的の一つなのだ。

盲信者が「安定」「成熟」と呼ぶ現状は、実は「停止」なのだ。「宗教」が、何百年もの時を経て現在まで存続してきたのは、それが「真理」を伝えているからではない。単に、「自分達とは異なるもの」を頑なに、強引に排除し続けてきた結果でしかない。不都合なことはすべて締め出す―そうやって自分達の世界を保持してきただけということ。

「成長」「発展」を失った世界が向かうのは、「衰退」と「滅び」だ。世界的に「宗教離れ」が進んでいる現在、宗教界は何とかその流れを食い止めようと、あの手この手を使って躍起になっている。だが、それらが「体質」を変えなければ、「和を保つための異分子排除」という旧来からのやり方を改めなければ、現状は解決しない。ただ緩やかに、だが、ひたすら「終焉」に向かって進んでいくだけなのだ。

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免罪符

 2012-07-09
先日、たまたま目に付いたスピリチュアルブログを読んだのだが、何というか、相変わらず「イタイ人」がいる世界だな、と。スピリチュアル狂信者特有の、「自分に都合のいいこじつけ」満載というか。理屈も何もあったもんじゃない。その言い分の余りの勝手さやズレ具合に思考がついていかず、二回読んで、ようやく言い分を理解した。

そのブログの記事は、すべて目を通させてもらった。それほど記事数が多いわけではないのだが、すべてに共通しているのは、「こじつけ」だ。曲解と利己主義―伝わってくるのはそれだけ。「愛」とか「光」とか「ワンネス」とか、声高に言っている人がこんな具合では世も末だ。「スピリチュアルに目覚めた自分」を自称する人の人間レベルって、所詮この程度なのね、と。

そのブロガーさん、数年前に、感情に任せるまま友人にひどい事をしてしまったらしい。相手の方はとても傷ついたらしく、それがきっかけで絶縁状態になってしまったとか。傷つけてしまった本人も、時間が経つにつれて後悔の念が沸いてきて、それをずっと悩んで苦にしてきたと。そして、「アセンション」を目前にした今この時期に、自分のそういった気持ちにけじめをつけたくて、勇気を振り絞って相手の方に謝ったらしい。

だが、その人からは色好い返事はもらえなかった。それを非常に怒っていらっしゃる。スピリチュアル教の定番教義、「許すことが愛」を持ち出してきて、相手のことを「愛がない」とか「自分は本当に勇気を出して謝ったのにひどい」とか言いたい放題。ここまで来ると救いようがない。

物事の見方には、少なくとも3通りあると言われている。「mine(私の)」「yours(あなたの)」「the truth(事実)」―このスピバカ人の場合、完全に「mine」しかない。しかも、そのすべてが「自分の都合」なのだ。謝ろうと思った理由も非常に利己的。「アセンションを前にすっきりさせたかった」とか「ものすごく勇気を出したのに」とか「謝ったのに許してもらえなかった」とか。結局自分が楽になりたいだけなのだ。

非常にあさましいというか、何勘違いしてんの?と。謝ったら許してもらえて当然と思い込んでいること自体、既に厚かましいのだ。「yours(あなたの)」と「the truth(事実)」、相手の気持ちや自分がその人にした事を勘定に入れず、謝ったらすべてをチャラにしてもらえると考えるその発想からしておかしいでしょ、と。

「自分がこれだけ悩んで、苦しんで、反省したのだから、当然相手は許してくれるに違いない」この人に限らず、そういった思い込みをしている人は結構いる。だが、そこに何の利害関係もない第三者の立場から言わせてもらえば、「少々虫が良すぎませんか?」と。

許すか許さないかは、相手次第。「許してほしい」と思うのは勝手だが、相手にも同様に「許したくない」「許さない」と思う自由や権利はあるのだ。それを「許さないなんて愛がない」とか、何勝手なこと言ってんだと。「許すべき」「許されて当然」それは単なる「強要」ではないか。居直り強盗のようなものだ。

自分の感情のままにひどい事をした「加害者」が、傷つけられた「被害者」に、「謝ったのだから、あなたは私を許すべきです」「私を許さないあなたは愛のない冷たい人です」と責めているわけだ。被害者からしてみれば、「そんなの知るかっ!」というところ。

そもそも、原因は「自分」にあるのだ。「感情のままに行動した自分」「その自分が相手にしたひどい事」によって、そういう事態が生じたわけで。自分の責任を棚に上げて、「許してもらえる」「許されて当然」と思い込むのは、身勝手が過ぎるというもの。自分がどれだけ長い時間、悩んで苦しんだかなんて相手には関係ない。それこそ自業自得でしょ、と。スピリチュアル狂信者の大好物、「カルマの法則」ってもんじゃないの?と。

相手に謝罪するのは結構。だが、その謝罪によって、「自分がしたこと、それが起こったということ=事実」まで帳消しになると思うのは大間違いだ。

「謝ったのだから云々」と言う人達は、結局何も分かっていないのだ。どんな結果になろうとも、一応謝罪したということで、多少なりとも自分がこれまで背負ってきた「重荷」を下ろしたことになる。だが、自分が下ろしたその分は、良くも悪くも相手にいくことになる―それを全然わかっていない。

相手の勝手な都合で、半ば一方的に自分の心が乱されるのだ。一応「許す」とは言ったものの、どこか割り切れないものが残ったり、忘れかけていた嫌な記憶や感情が掘り起こされたり。たとえ「許さない」ことを決めたとしても、それはそれで苦いものがある。投げられた石によって生じた波紋は、決して小さくはない。

自分にとっては安堵や爽快感をもたらすものであっても、相手にはそうでない場合もあるのだ。「謝罪」という行為には、そういった側面も存在していることを忘れてはいけない。それによって表面上はすべて解決し、一見元通りになったようでも、やはりそれは表向きのものでしかないのだ。

自分が楽になりたい一心で行う謝罪というのは、どこか軽々しさを感じさせる。それをした瞬間、その時の自分自身も、自分がした行為も、それが相手に与えた影響も、それらすべてがなかったことになる。「その事が起こる前」の状態に戻れる-そういった勝手な「期待」のような、嫌らしい虫のよさのようなものを感じさせるのだ。

それは、たとえ許されたとしても、自分や自分がしたことの重さや影響等「すべて」を背負って、その「事実」をこの先もずっと忘れまいという覚悟をもって生きていくこと―「償い」とは程遠いものだ。それが「責任を取る」ということ。「許してもらえて当然」そういった無意識の期待を含む謝罪は、己の快楽のためだけに行う自慰行為と何ら変わらないレベルのものなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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芽吹き

 2012-07-05
時々、ゲスト講師としてカウンセリング指導やそれに伴う講義を行うことがある。招かれるスクールはその都度違うし、時期も決まっていない。その時々で受講生の数も変化する。だが、平均すると1クラス20名前後だろうか。年齢も性別もバラバラ。プロのカウンセラーやセラピストもいるし、プロを目指して勉強中の人もいる。どのクラスもそれぞれ個性があって面白い。

その第一回目の講義の冒頭で、私は毎回必ず同じ質問をする。「この中で、キリスト教とか仏教とか、何か特定の宗教を信仰している人はいますか?」2~3人の手が上がる。「それでは、E原さんやM輪さんとか、スピリチュアルに興味があったり、そういう世界が好きな人は?」半数近くの手が上がる。「自己啓発系に興味のある人や好きな人は?」前回と同じ位の手が上がる。「それじゃ、スピリチュアルや自己啓発、自分の信仰している宗教、もしくはジャンル関係なく、以前読んだり聞いたりした言葉で、自分が気に入ったものを何かに書き留めている人はいますか?」今度は、ほぼ全員の手が上がる。

この段階で、受講生は皆一様に不安げな表情を浮かべている。隣の人と目を見交わしている人もいるし、「何が始まるだろう?」といった感じで、私語はないものの、何となく教室自体がざわついた感じになる。そこで私は毎回同じことを言う。

「はーい、今この瞬間から、自分が信仰している宗教の教義やスピリチュアルや自己啓発で言われているような言葉、気に入って書き留めておいた言葉は全部忘れてくださいねー。少なくともカウンセリングの場には、そういうものを一切持ち込まないように」

教室が水を打ったようにシーンとした次の瞬間、無言のざわめきが大きくなる。「え?どういうこと?」「なんでダメなの?」そんな感じの、とまどったような空気が流れる。

「皆さんが個人的に何を信じようと自由です。べつにスピリチュアルや自己啓発が好きでも結構。お気に入りの言葉をメモってもいいです。でも、それはあくまでも皆さん個人のことに限ってです。カウンセラーやセラピストとして接するクライアントさんに対して、自分の好みや価値観は持ち込まないように。そんなものは邪魔だし、必要ありません。

中心はクライアントさんです。「こう考えるべき」「こう考えなくてはならない」という「正解」はありません。クライアントさんをあなた方の価値観や特定の思想に沿わせるようなことはしないこと。カウンセラーは「宣教師」じゃないですからね。クライアントさんの「ゴール」をあなた方が設定したり、そこに向かわせようとコントロールすることはタブーです。

例えば、親子の縁を切ることを真剣に考えるような家族問題で悩んでいる人に、『E原さんは、魂の学びや課題があるから近い関係に生まれてきたって言ってるんで、もう少し我慢してみましょう』『許すことが愛です』なんて言うようなカウンセラーは必要ないですから。その程度のカウンセリングなら、E原さんの本を渡せば済む話です。隣の家のおばちゃんにでも相談したほうがマシ。

クライアントを弄り回した挙げ句、誰かや何かの言葉を持ち出してきて、そこに全部丸投げして逃げるのはあるまじきことですから。その言葉を実際に自分で身をもって経験して、実感しているならOK。でも、受け売りや綺麗事を並べるだけで自分の言ったことに責任を持てないような人は、カウンセラーを名乗る資格はないですから。いいですね?」

この時点で、毎回受講生の大半がポカーンとした顔をしている。E原さん信者と思しき人は、反発した表情を浮かべていることもある。そのどちらでもないが、「なんだかわからないけど、とにかく持ち込んじゃいけないのね」ととりあえず自分を納得させたような感じの人もいる。

だが、複数に渡る講義や実習が進むにつれ、全員の顔つきが変化していく。私が最初に言ったことに明確な根拠があることを、身をもって理解するからだ。カウンセリングの真髄や目的、自分達の本来の役割といったものを理解し、それが身に刻まれた証拠。

「とりあえず土壌は作れた・・・かな」彼らの顔を見てそれを確認する。指導する側である私が出来るのはここまでだ。後は本人達の自覚や努力に賭けるしかない。


最近、いろいろな人からスクールを主宰することを勧められる。外部からお話をいただくこともあるし、そういった予定の有無を尋ねるお問い合わせも時々ある。だが、自分の性分や仕事に対するスタンスを考えると、多分その可能性は限りなくゼロに近い。「現場主義」ということもあり、いろいろな意味で落ち着きたくない気持ちが強いのだと思う。

大人気警察ドラマ「踊る大捜査線」でいうと、柳葉敏郎さん演ずる「警視庁エリート管理官の室井さん」より、織田裕二さんの「所轄の一刑事である青島君」タイプ。「正しいことをしたければ偉くなれ」という言葉も頷けるが、「事件は会議室で起こっているんじゃない!」の言葉のほうに、より共感する。


「役割」は、年齢と共に変わってくる。今の私の年齢は、後進を「指導・管理する側」に適したものだと思う。自分のことだけで精一杯な20代や30代は、自分以外の人にまで手が回らない。いろいろな意味で「余裕」が出てくるのは、40代からだと思う。

それまでの経験の積み重ねによって、人としての度量や思考の幅も広がってくるのがこの年代だと思う。世の中や仕事、人というものに対する理解が深まってくる時期でもあるので、上の世代、下の世代、そのどちらにも程よい距離感で沿うことができるようになる。「真ん中」ゆえの、ある程度の「中途半端感」は否めないが、それは「中堅」の良さでもある。

先日友人とも話していたのだが、本当に子育てに適しているのは、40代ではないかと思うのだ。精神的な余裕が20代や30代の頃とは全然違う。まあ時々はブチ切れそうになることはあるとは思うが、今なら概ね楽しんで子供と接することができるような確信がある。

昔から、子供と接するのは苦ではない。学生時代の塾講師のバイトやアメリカの小学校での日本語教師等「行きがかり上」とはいえ、なぜか子供と接する機会が多かった。今も、いろいろな場所で見知らぬ子供からちょっかいを出されることが多い。その相手をすることは嫌ではないし、むしろ面白がってやっている。まあ「子供嫌い」ではないと思う。

だが、それでも若い頃は、子育てが楽しそうとは思えなかった。友人達の育児の様子を見ていて、「うわ・・・大変だわ・・・無理」そう思っていた。自分のことは常に後回しで、24時間365日子供と関わる。それもかなりの年数を費やして―当時の私には、とてもそんな覚悟はなかった。いくら自分の子供とはいえ、「自分以外の誰か」のために費やす時間の膨大さを考えると、せっかちな私は気が遠くなりそうだった。

それが今、現実を知らない者ゆえに言えることだとは思うのだが、「育児って面白そう」と本気で思っていたりする。10年前ならとても考えられなかった。これも、人生でいろいろ経験して生まれた精神的な余裕からではないかと。

私の場合、「育児」を「仕事」で経験させてもらっている感が強い。実際に育児経験のある方達からすれば、あくまで「ごっこ」の域を超えないものだとは思うが、根底は同じだと思う。カウンセリングやセラピー、後進の指導等を通じて、「人を育てる」という部分は共通している。

「それならば尚更」と言われても、自分のスクールを立ち上げないのは、正直なところ、「野党」でなくなるのが嫌なのだと思う。通常は地方に住みながらも、中央政治に目を光らせ、有事になれば中央に駆けつけ意見する人―「カントリージェントルマン」を目指す私は、常に「傍観者」「観察者」の立場でありたい。遠くから中央政治を眺めているために、その渦中にいる人達には見えないことがよく見える人。自分自身が「中心与党」になれば、それは難しくなる。

まあ、もともと群れることが嫌いで、「同志」「仲間」と称した仲良しごっこに興じる趣味や「教祖願望」もないので、「組織」「団体」を主催するのは、正直面倒で邪魔臭いということが一番の理由かもしれない。完全に「指導者」の役割に徹することは出来ないが、求められる機会があるのなら、今の自分が出来る範囲でそれをしていこうと思っている。


数日前、4年ほど前に私の講義を受講した方からメールをいただいた。当時30歳で、プロの心理カウンセラーを目指して勉強中だった女性。近況報告によると、現在心理カウンセラーになって3年目とのこと。お元気でご活躍中のようだ。そのメールにこう書いてあった。「先生がおっしゃっていたことが、今実感としてようやくわかるようになりました」と。

自分の価値観や特定の思想をカウンセリングに持ち込むなと言った理由も、現場に出て初めて理解できたと。特に、「どんなに『いい言葉』でも、そこに自分の体験から来る実感が伴わない上辺だけのものなら何の役にも立たないし、クライアントには響かないよ」という言葉が、折に触れて思い出される―そう書いてあった。

その後の受講生の方達の成長を実際に見届ける機会は少ない。だが、この方をはじめ、以前自分が担当した生徒さん達からこういった形でメールをいただいたりする度に思う。「きちんと根を下ろしたんだ」と。

「成長」には、「時間」が伴う。昨日今日ですぐに結果が出るインスタントなものではない。むしろ「待つ」部分が多い領域。心配したり、やきもきしたり―何かと気を揉む時間のほうが多い。だが、時間は掛かったとしても、こんなふうに、多少なりとも自分が手を加えさせてもらった土壌で、種が確実に芽を出し、しっかりと根を下ろし、どんどん伸びていく様を見るのは、やはり嬉しい。生物学的な方法でなくても、自分の「遺伝子」は残せるのだ。


一瞬「『室井さん』になってもいいかなー」という考えが頭をよぎることもあるのだが、まだ落ち着きたくない私は、次の瞬間「いや、やっぱり当分は『青島君』でいこう」とその度に決意を新たにするのだ。

そして願わくば、最終的に「現場一筋ン十年のベテラン”おやっさん”刑事」、故いかりや長介さんの当たり役でもあった『和久さん』のように、野に在り続け、そして要所要所でさりげなく道を示し、自分の後姿だけで後輩の成長を促せるような、そんな「いぶし銀」の輝きを持つセラピストになれたらいいな―と思うのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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無限

 2012-07-02
「その道の第一人者」「成功者」と呼ばれるような人達に対して、世間の多くの人は誤解をしている。

その人達がそうなれたのは、多分彼らが「持っている人」だから―そう思っている。運、才能、タイミング、強力なバックアップ―それらの要素が揃ったから、「その道の」という存在になれたのだと。

確かに、そういった部分は少なからずあると思う。だが、それは「すべて」ではない。彼らをそう見ている人の多くは、「始まる前に諦めてきた人」だ。なんだかんだと理由をつけ、「自分で自分の可能性を潰してきた人」であり、「何もしてこなかった人」。「挑戦=無謀」、「停滞=安定」、「人の目を気にする=自分を偽る」そんな勘違いをしている人に多い。

「自分で成し遂げた経験がない人」は、「持っている人」の「真実」を知ることはない。なぜなら、それは「成し遂げた人」だけが知り得ることだから。彼らの思考や感覚は、同じようにそれを体験した者にしか理解できない領域だから。「何もしてこなかった人」が、いとも簡単に彼らを「ラッキーボーイ」「ラッキーガール」と呼ぶのは、その部分の真相を知らないからだ。

「持っている人」は、運や才能、策略や根回し等の力技で、いわば「覇道」でその道を制したのではない。努力は言わずもがなだが、それを遥かに上回るもの、「覇気」があったからだ。覇者になろうとする意気。その道の第一人者、成功者になろうと、積極的に立ち向かおうとする意気込み。

彼らを突き動かしてきたのは「意志」だ。夢や目標をを実現しようと取り組んでいる最中、その「過程」で発揮してきた意志の強さに負うところが大きい。

「もう一歩だけ進んでみよう」「あそこまでがんばってみよう」困難や問題にぶつかって挫けそうになった時でも、そう自分に言い聞かせ、それに立ち向かい、乗り越えてきたからだ。「諦めない力」とも言える。諦めなかったから、「諦めないこと」を継続してきたから、そこに到達できたのだ。

「何もしてこなかった人」ほど、勘違いをしている。「持っている人」も、実は自分と「まったく同じ」なのだ。「ある段階」までは。

何かを始める時、「もし上手くいかなかったら」「本当にやれるだろうか」という不安は付き物だ。「変化」に対して臆病になるのは、生き物として当たり前のこと。夢や目標に向かう前から、やりたい事を始める前から、既に「結果」について考える。例外なく、どんな人でも通る道。

だが、ここが「分岐点」なのだ。大きな「差」でもある。

「何もしてこなかった人」は、そのシミュレーションの段階で諦める。不測の事態や「もし上手くいかなかった場合」を考えて、「やっぱり無理」とそこで終わる。「夢だけじゃ食べていけないよね」溜め息と共に諦める。

「持っている人」もまったく同じ。同じ様に「もしも」の部分をシミュレーションする。「『持っている人』は根っからのプラス思考の人」「勢いに任せる度胸がある人」世間の多くの人は、そう思い込んでいる。「=自分の感情や感覚に任せて即行動に移す積極的で行動的な人」と捉えられがちだ。

だが、予想に反し、彼らは非常に冷静だ。感情より、むしろ理性のほうが上回る状態にある。その他の人と違わず、「予想し得る最悪の事態・可能性」を何パターンも思い浮かべるのは、理性が働いている証拠。その時の感情や感覚のままに、やみくもに思いつきで行動するのは子供と動物だけだ。

だが、「持っている人」は、「それが起きた場合の解決方法」を同時に思考している。「何もしてこなかった人」が「無理」と諦める地点に来ても、それをしない。「もしこうなったらこうしてみよう」「この方法だったらいけるかも」彼らはそれを考えている。思考も歩みも止めない。そして、決して諦めない。なぜなら、彼らが焦点を合わせているのは、「実現」だから。

問題が生じても、逃げずに、その解決策を考えることを諦めない―真のプラス思考とは、彼らのような思考を指す。巷の自己啓発等で言われているそれは、ただの「すり替え」「逃避」だ。自分の中にあるネガティブな思考や感情を無理矢理明るいものに変えようとしたり、あえて考えないようにして目を背けたり―そんなものは、むしろ「ネガティブさ」の表れであり、更に強調・意識させるものでしかない。

そもそも、「持っている人」には、最初からポジティブだのネガティブだのという括りはないのだ。やるかやらないか、やりたいかやりたくないか―それが彼らの思考なのだ。「何もしないうちから諦める」そういった思考や選択は、彼らには存在しない。なぜなら、「持っている人」が行うのは、「判断」ではなく、「決断」だから。

実行に当たっての問題点やリスクを考えた時点で諦められるくらいのものなら、「所詮その程度のものだった」ということだ。本気でそれを望んでいるのなら、「いかにしてそれを実現させるか」ということを真剣に考える。「持っている人」にとって、先延ばしにしたり、諦めたりすることができるものは、「夢」や「目標」ではないのだ。彼らにとって、「夢」「目標」というものは、「自分が『やりたい』と思ったこと」「実現させようと決めたこと」なのだ。そして、それは「実現させるもの」なのだ。

「運転資金が足りなくなった場合はこうしよう」「事務所の家賃が払えなくなった時はこうしよう」問題が生じた時の、「もしも」の事態への対処法や解決法を何パターンも考えるのは、「実現」に焦点を置いているから。彼らの思考や想像力は、「その事態をなんとかすること」に対して使われる。「諦める理由」「諦めなければならない原因」を探すために使われるものではないのだ。

そして、「諦めない」「進んでいこう」という意志と共に、実際に自力で「なんとかしてきた」のだ。困難や問題に果敢に立ち向かうことを止めなかったことが、その継続が、彼らを「その道の」と呼ばれる場所まで導いてきたのだ。冷静な思考と、静かだが熱い思いと強い覚悟―彼らの中にはそれらが存在している。

「持っている人」と「何もしてこなかった人」、どちらもスタート地点は同じなのだ。ある地点に差し掛かった時、そこで止まるか進むか―違いはそれだけだ。

だが、「持っている人」は、世間から評価される立場になっても、自分がゴールに到達したとは思っていない。「まだまだこんなもん」そう思っている。彼らが進むことを、諦めることをする時は来ない。自分の可能性に自ら制限を設ける気などさらさらないからだ。彼らは決して止まらない。なぜなら、彼らが目指すのは、「誰も触れたことがない、見たことがないその先」だから。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

【当ブログを訪れてくださった方達へ】このブログを読んでくださり、ありがとうございます。先日、このブログが属しているFC2ブログから連絡が来まして・・・先月末日、当ブログが「カテゴリマイスター」になったとか。

成分解析結果と読者の投票数やアクセス数から算出されたスコアで決定されるカテゴリランキングなのですが、「カテゴリマイスター」は、1~10位にランクインした「読みごたえのあるブログ」に与えられるとのこと。当ブログは、「社会問題」のカテゴリで9位にランキングされたようです。

応援ボタンの類を一切設置していないにも関わらず、このような機会を与えていただけたのは、このブログを読んでくださった皆様のお陰です。これからも「媚びない、ぶれない、潔い」スタンスで、「自分が信じること・思うこと」を手抜きをせず、丁寧に書いていきたいと思います。

読んでくださった方達に、「インスピレーションのきっかけ」をもたらすことができたら幸いです。本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。(樫田ミラ)

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8月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2012-07-01
2012年8月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2012年8月5日(日) 13時~15時(おおよその目安時間です)

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 7月31日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えています。「アドバイス」というものは、直接お会いして、その方の現状やその詳細を正確に把握した上でないと出来ないものなので。どうかその旨ご理解ください。

遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループ主催の会合への参加、心療内科等各医療機関の受診や専門カウンセラーによるカウンセリング等をお勧め致します。



*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にも通院中であること・医師の許可を得たこと等をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。(その場合、少なくとも退院から3ヶ月以上経過してからのご参加をお願い致します)

現在通院治療中でない方でも、故人の死後(特に3年未満の方)下記の症状が1ヶ月以上続いている方は、鬱病の可能性があります。まずは心療内科や精神科を受診してください。こういった症状のままカウンセリング(グリーフケア)を受けた場合、かえって逆効果になることがあります。まずは症状の改善を優先してください。改善が認められてからのご参加をお勧めします。

【精神面の症状】
①気分の落ち込みがひどく、憂鬱な気分や悲しい気分から抜け出せない。
②何の希望もなくなり、何もする気が起きない。(これまで好きだったことへの興味や喜びがなくなる。人付き合いが嫌になる。仕事をしてくなくなる。新聞やテレビを見なくなる。身だしなみに関心を払わなくなる等)
③意味もなく焦燥感があり、イライラする。
④過去の出来事や些細な失敗を繰り返し思い出しては悩む。
⑤根拠もなく、すべて自分の責任だと思う。
⑥集中力がなくなり、仕事や家事の効率が低下する。
⑦物事の判断が出来なくなる。例えば、「昼食に何を食べるか」という簡単なことも決められない。
⑧「生きていたくない」「(故人の後を追って)死にたい」等と思う。

【身体面の症状】
①眠れない。眠りが浅く、深夜や早朝に目覚める。もしくは寝過ぎる。
②朝目覚めた時が一番憂鬱である。
③睡眠不足から、頭痛や肩こりに悩まされる。
④食欲がなく、何を食べてもおいしいと思えない。
⑤体重の増減があった。
⑥胃腸の調子が悪い。胃がもたれたり、むかつき、吐き気がある。便秘と下痢を繰り返す。
⑦微熱が続く。
⑧体がだるく、動いていないのに疲れやすい。動作が緩慢になる。
⑨時々めまいがし、息切れや冷や汗、寝汗をかく。
⑩生理不順が続く。性欲が落ちる。

鬱病は、「心の弱い人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなる病気」ではありません。脳内には、心身の働きを活性化させ、意欲や気力をコントロールしている場所があります。その場所は、「アミン」という神経伝達物質が大きく関係しており、それが正常に働くことによって、心身の健康が保たれます。

鬱病は、その神経伝達物質「アミン」がうまく働かなくなることによって起こります。いわば、「脳の病気」「体の病気」です。誤解や偏見を捨て、心療内科や精神科を受診してください。思い込みによる素人判断は危険です。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただいておりません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~3時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと

不毛な論争

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