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マテリアルガール

 2012-06-28
「オーガニック婚」とかいうものをした有名モデルの方が、先頃出版した自著の中で、今までの恋愛関係を赤裸々に綴っていることが話題になっている。立ち寄った書店の「話題の本」のコーナーに平積みになっていたので、「どれどれ」と手にとって見たのだが、過去の交際相手達について、かなり詳細に語っている。氏名こそ伏せられているが、読めば明らかに「あー、あの人ね」とわかる。

別れたとはいえ、かつては大切な存在だったはずの相手を、こういった形であれこれ言うのは感心しない。そもそも、「あーだったこーだった」とプライベートな部分を世間に公表する必要があるのか?と。そういう話は、本来「身内」の間だけに留めておくのがルールというもの。相手についてあれこれ吹聴するのは、自分を貶めているのも同然だ。

この年齢になって、いろいろと経験してきて思う。相手がストーカーや病的な性格だった等のケースを除いて、夫婦や恋人、いわゆる男女間の問題については、「100対0の過失」というものはないのではないかと。たとえそれが99.9対0.1の割合だったとしても、どちらかが100%一方的に悪いということはない。恋愛というのは、「どっちもどっち」「喧嘩両成敗」という要素―いわば「お互い様」の部分が大きい領域なのだから。

だが、このモデルさん、どうも一方的というか独善的なのだ。大体、ご自身も妊娠・結婚されて幸せになったというのに、このタイミングで暴露本を出版する意図がわからない。これが「相手だけ幸せになって自分は不幸のどん底」というのならまだわかる。「それは面白くないよね。無理ないよね」と多少は同情も出来る。だが、すったもんだあったようだが、結局すべてが丸く収まったのだから「もういいじゃん」と。

元交際相手の方達に対しても、出版に関しての報告や事前の断り等一切なかったようだし、そんな感じで好き放題やり放題では、バッシングされて当然かと。もし私がこの人の友達だったら、ケンカしてでも本の出版を止めるよう説得するけど。「自分でオンナ下げてどーすんの!」多分そう言う。

「いろいろあったけど、お互い幸せになろうね」と、そこでスパッと終わりにすればよかったのだ。いろいろ納得がいかなかったり、腹の虫が収まらない部分があったとしても、二人で話し合って終わりにすることを決めたのだから。終わった後もあれこれゴチャゴチャまくし立てるのは美しくない。そういう割り切れない部分も、「お互い様」とすべて飲み込んで幕引きするのが「大人の恋愛のルール」ではないかと思うのだ。

交際中、楽しいことや嬉しいこともたくさんあったと思うし、相手にだって言い分はあるはず。「自分だけが」と一方的に「被害者」をアピールするのは筋違いだ。フェアじゃないし、潔くない。

本の中に、やたら「スピリチュアル」という言葉が出てくるのだが、「スピリチュアルな私」をアピールする割には、言ってる事とやっている事は、むしろ非常に「マテリアル」。

ワイドショー等でも盛んに取り上げられていたが、今のご主人から贈られたダイヤの婚約指輪を「(ダイヤが)小さい」と言ったことから大ゲンカに発展し、そのストレスからご主人が体調を崩してしまったらしい。それを「その程度で病気になる器の小さい男」と言い放っている。

他人事ながら、「この結婚、本当に大丈夫か?」と。ご主人が怒ったのは、せっかく贈った指輪を「小さい=ケチ」と言われたことではないと思う。多分、「何と、誰と比べたのか?」という部分に引っ掛かりを感じたのだと思う。今後彼女に何かを贈る度、してあげる度に、彼女の中にあるそれと比較されるのだから。

「一体自分は彼女にとって何なんだ?」という思いが生じたのではないかと。その時の感情の大半を占めたのは、多分「虚しさ」と「まだ元カレを忘れていないのでは?」という疑念だったのではないかと思うのだ。そして、「本当にこの人と結婚していいのだろうか?」という迷いと。取り止めるとしても、既に彼女は妊娠中。かなりお悩みになったのだと思う。そんな過度のストレスにさらされた精神状態では、胃潰瘍になっても当然かと。

挙式先のアメリカから帰国したそのモデルさんを、空港で待ち構えていた報道陣が取り囲んでいた。件のダイヤの指輪をクローズアップで映していたが、決して「小さい」というレベルではない。世間の基準で言えば、むしろ「大きい」。超一流宝飾店の物なので、ン百万は下らないと思う。まあご自身で、元交際相手達は「リッチな人」が多かったと言っているので、過去にその人達から贈られた物と比較してしまったのではないかと。ご主人には同情するしかないのだが、今後もこの手の諍いがちょくちょく起こる可能性は非常に高い。

彼女のようなタイプは、男女関わらず、世の中に結構いる。「気持ち」より「物・値段」を重視するような人に多い。「目に見える物」で、愛情や友情を測る人達。そして、彼らに共通するのは、「常に飢餓状態にある」ということ。際限なく相手に要求し続けるのだ。この「飢えた人達」を満足させることは、並大抵なことではない。

例えば、今その人が激しく落ち込んでいるとする。その人の話を聞いて、こちらが何らかの慰めや労わりの言葉を掛けたとする。「大変だったね」「辛かったね」という短いが、でも十分に気持ちがこもった言葉であっても、彼らは絶対に満足しない。10も20も、それ以上のものを要求してくる。

多分、彼らの中には独自の「基準」のようなものがあるのだと思う。それに達するまでは、決して満足することはない。多くの場合、それに「もう十分」というものはないのだ。ざるに水を溜めようとすることに等しい。注いでも、注いでも、それは決して満杯になることはない。

彼らは常に「欠乏感」を感じている。家庭環境や人間関係等、物心両面で「満たされなかった経験」が原因になっていることが多い。「まだ十分じゃない」「まだ足りない」「自分は何も持っていない」「あの人は持っているのに、自分は持っていない」その意識が強い。もはや「強迫観念」と言っていい。彼らの目には、「自分に欠けているもの」しか映らないのだ。だからひたすら求め続ける。その「空白」の部分を埋めるために。

彼らの多くが「物」に固執するのは、それが「安心感」をもたらすから。指輪でもバッグでも、「目に見えるもの」は形があって、実際に触ってその存在を確認することができる。「自分は今これを手にしている」と、「現実」として実感できる。「お金」も、「自分のためにこれだけ使ってくれた」と、目で確かめることができる。

それに比べ、「気持ち」などといった「実体のないもの」は、ただ感じるしかない。「手に取ることができないもの」は、彼らにとって「無」も同然なのだ。姿形がないものを、彼らは信じることができない。指輪やバッグ、車等「物質」に固執するのはそのせいなのだ。

「相手が自分のために使ってくれた時間や手間ひま」もそう。「見えないもの」であるそれは、彼らには何の意味も持たないのだ。「だったら形で、わかるように、具体的にそれを見せてよ」それが彼らの言い分。

「その人が何をしてくれたか、何を言ってくれたか」ではなく、「何を買ってくれたか、どこに連れて行ってくれたか、いくら使ってくれたか」が、彼らの「基準」なのだ。自分に対する相手の気持ちを量る「ものさし」。言葉でも、その「内容」より、「回数」が重要なのだ。

好きな人が、自分のためにじっくり時間を掛けて丹念に選んで贈ってくれた本やCDより、「やばい!誕生日のプレゼント買うの忘れてた」と慌てて入ったブランドショップで、「上から2段目の棚の、一番右側のやつください」ととりあえず目に付いた、おざなりに選んだバッグのほうを有難がるのだ。「公園デート」なんてもってのほか。彼らにとっての「デート」とは、高級フレンチやイタリアンの店での食事を意味する。

「値段の高さ=自分の価値、自分に対する愛情の深さ」と信じて疑わないそんな彼らに疲れ果て、人はどんどん離れていく。結婚秒読みとも言われていた元交際相手の俳優さんが結婚に踏み切らなかったのは、多分そういうところに気づいたせいではないかと。


恋愛は、本能と感情の領域だ。どんなに熱烈な恋愛だとしても、それはやがて落ち着いてくる。「冷静さ」が戻ってくると、今度は相手の「人間性」に目が行くようになる。人柄、信念、思考、生き方、才能―そういった「人」としての部分がクローズアップされる。その人の「人間力」に対する興味や尊敬といったものが、「好き」という部分に取って代わる。むしろ、今後の関係に与える影響は、その部分のほうが大きく強い。「異性」としてでなく、「人として」の部分が物を言うのだ。ある意味、恋愛感情が落ち着いてきた時からが「勝負」と言える。

相手の外見に惹かれたり、「好き」だの「一緒にいたい」だの「楽しい」だのと浮かれているうちは、多分相手のことは何も見えていない。感情が勝っているその状態は、いわば「期間限定」のものだ。それを過ぎた時に見えてくるものが、相手の「真の姿」なのだ。恋人、夫婦とは言っても、本を糺せば「人対人」。「異性」としてではなく、「人」としてのその人をどう思うか―結局「決め手」はそこなのだ。

「飢えた人」は、相手のすべてを食い尽くす。物心両面において、彼らの「食欲」は凄まじい。それも、決して満腹になることがないというのだから困るのだ。だがそれは、あくまでも彼ら自身の問題なのだ。既に足りていることに、それも十分過ぎるほどに持っていることに気づかない限り、その食欲は収まるところを知らない。飢えた悲しい物質主義者―それが彼らなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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刹那

 2012-06-25
つい先日、「国際研究実験OPERA」のチームが昨年9月に発表した「素粒子のニュートリノは、光よりも速く飛ぶ」という実験結果が、事実上撤回された。指摘されていた不備等を解消し、再実験した結果、ニュートリノと光の速さに明確な差が見られなかったためらしい。

素粒子のニュートリノが光速を超えるというその発表は、「質量を持つ物質は、光速を超えない」というアインシュタインの「相対性理論」に反するもので、「もしそれが事実であれば、物理学の教科書が書き換わる」とまで言われていた。同時に、光よりも速い物体が存在すれば、タイムマシンの実現も可能になるという説が、にわかに現実味を帯びて語られるようになってきた矢先だった。

「タイムマシン実現説」が浮上してきたその直後、ネット上でアンケート調査が行われていた。「タイムマシンで過去や未来、どの時代にも好きに行けるようになったとしたら、あなたは誰に会いたいですか?」という質問だった。確か6割近くの人が、「自分の先祖」を挙げていたように記憶している。その他は、亡くなった肉親や未来の子孫、歴史上の人物といった感じだった。

私の場合、自分の先祖や子孫に会うことに対して、それほど強い興味はない。良くも悪くも、身体的にも気質的にも、今の自分や父方・母方それぞれの血筋に共通している特徴を観ていれば、それは自ずと想像できると思うからだ。今の私を構成している要素を濃くしたり、薄くしたりしたものが、先祖や子孫だと思うので、「ま、いっか」と。「どっちでもいい」というのが正直なところ。「絶対に会ってみたい」という気持ちはない。

未来に行くことには、それよりもっと関心が低くなる。というより、「いや、いいわ」という感じ。先のことがわかり過ぎても、それはそれで面白くない。

私は、未来というのは、「現在」の延長だと思っている。仕事上、いろいろな人を見ていてそう思う。「現在」を一生懸命生きて頑張っている人は、過去も同じように頑張ってきた人が多い。そして、多分未来も頑張っている。「今頑張っていれば、未来も大丈夫なんじゃないの?」それは、自分自身の経験やその人達を照らし合わせて得た「確信」だ。

すべての起点は、「今現在」なのだ。「過去」はそれを積み重ねてきたものだし、「未来」はそれを積み重ねていく先にある。「現在」への取り組み方で「未来」は変わってくるし、「現在」が「未来」を作っていくのだと思う。「現在の自分」を観ていれば、「未来の自分」は想像できる。それもかなりの確率で、その想像通りになっているはずだ。すべての「源」であり、「土台」でもあるその部分がしっかりしていれば、多少の波風はあったとしても、まあ大抵のことは大丈夫ではないかと思っている。

私はむしろ、先祖や子孫に会うことよりも、各時代の、「決定的瞬間」と言われるものを見てみたい。例えば、地球が誕生した瞬間やそこに初めて「生物」が出現した瞬間、「文明の曙」とも称される「火」を、初めて人類が使った瞬間、今尚「世界の七不思議」の一つと称される、エジプトのピラミッド建設に取り掛かった瞬間とか。その時代毎の要というか、後に大きく影響を及ぼす「きっかけ」「原因」となった、いわば「その始まり」に立ち会ってみたい。

もしくは、「インスピレーションが訪れた瞬間」がいい。「誰に会いたいですか?」件のアンケートの内容を読んだ時、瞬時に頭の中に浮かんだレオナルド・ダ・ヴィンチが、「モナ・リザ」を描くことを決めた瞬間とか。

「モナ・リザ」のモデルは、フィレンツェの裕福な権力者フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ夫人と言われている。だが、レオナルド自身の自画像説等「モナ・リザ」のモデルに関しては、諸説入り乱れている。近年行われたコンピューターによるデジタル解析等科学技術を使った調査により「自画像説」の可能性が高まったようだが、それを確定できる決定的な証拠はない。真相は未だ不明だ。

謎に満ちたあの絵画の「真実」にも心惹かれるが、「天才」の名を欲しいままにした彼の発明や芸術等、レオナルドがその度に受けたであろう「閃き」のきっかけやそれによって起こる彼の心身やその場の空気の「変化」を目の当たりにしてみたい。

そこには必ず、「見えないもの」が引き起こす何かが存在する。自分にそれが起こる時、「当時者」としての興奮から、それを冷静に観ることができない。高揚感が邪魔をするのだ。冷静に、冷徹に捉えることができない。

思考を続けている最中にインスピレーションがやって来る時の、あの特有の感覚。首筋から背筋にかけて、ゾクッとしたものが走り、次にみぞおちの辺りがカーッとしてくる。そしてその「熱」が体全体に広がると同時に、体中に力が満ちていくのがわかる。「わー!」という感じで、無性に走り出したくなる。心臓の鼓動が速くなり、脳が大きく膨らんだような感覚を覚える。至福、至高、絶頂―そういったものが一度に押し寄せる。もしくはその波の中に、自分が飛び込んでいくような―。

その瞬間を、「傍観者」の立場で、「観察者」の眼で、一部始終を見届けてみたいのだ。「稀代の天才」にそれが訪れる瞬間を。「天才」と「凡人」のそれは同じなのか、それともまったく異なるものなのか―それを確かめてみたい。

「20世紀最高のヒプノセラピスト」と謳われたミルトン・エリクソンのセッションを見学するのもいい。

医師であり、心理学者でもある彼が行うセッションは、「アンコモンセラピー(uncommon therapy)」と称された。実際、彼のセラピーに関する様々な文献を読むと、まさにそれは「ありふれたものではない特別なもの」だったことがよくわかる。

枠に囚われず、深い知恵と洞察力によって行われたそれを、同じ空間で一日中見学していたいと思う。たとえ何も言われなくても、教えられなくても、「ただ観ているだけ」で十分だと思う。「本物」が、知恵や知識、人間力といった「自分のすべて」を駆使して行うセッションは、多分想像する以上に「雄弁」だと思うから。

クライアントの「変化」は、時にその場の空気まで変えてしまうことがある。そして、それは少なからず施術側のセラピストにも何らかの影響を与える。お互いの、そのある種の「エネルギーの交感」とも言える場面を、あえて「部外者」の視点で観察したら、何か非常に「面白いもの」が発見できるような気がするのだ。

学問とか、医療とか、そういった「括り」といったものを突き抜けた「何か」、でも同時に、そういったものも含んだ「すべて」に深く繋がっている「何か」―エリクソンのセラピーが、「uncommon=特別な」と称された理由は、きっとそこにある。それを自分の眼で確かめることは、きっと心躍る体験に違いない。


私は、「結果」よりも「動機」を重視する人間だ。私にとっては、「終わり」よりも、「始まり」のほうが重要なのだ。今までもそうだったし、多分これからもそうだと思う。自分の中に形作られたそれを信じ、従ってきたが、後悔は一切ない。

「結果」とは、「不確かなもの」でもある。いわば「未来」に属するそれを語る時、「多分」「おそらく」という言葉が絶えずついて回る。今後何に繋がっていくのか、後にどう評価されるのか―行く末を正確に予想することが出来ないもの。場合によっては、自分自身でそれを見届けられないこともある。

だが、「動機」は違う。「始まり」をもたらすそれは、今この瞬間、「現在」に、自分の中に確実に存在している。「多分」「おそらく」といった言葉と共に語られるような茫洋としたものでなく、小さくとも強いきらめきを放つ確かなもの。今この瞬間に自分が感じているもの、見ているもの、聴いているもの―それが、私にとっての「真実」だ。自分が確かにそれを手にしていると実感できるものを、私は信じる。私が信じるのは、「今この瞬間」と「今この瞬間に存在する自分」なのだ。

「何かが始まる時」「始まる前」多くの場合、それらは「結果」よりも軽視される。だが、それが簡単に忘れ去られてしまうような、「ほんの一瞬」のものであったとしても、そこには「強い何か」が確実に存在したのだ。「永劫に続く約束された未来」より、「始まり」が持つきらめき、その刹那が放つ輝きを、私は信じる。

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掴む

 2012-06-21
「文章を書く人」なら、多分わかると思う。作品が自分の手を離れた瞬間から、それはもう「自分のもの」ではなくなる。その中に込めたものがどう解釈されるのか―書き手の「真意」や「狙い」といったこともお構いなしに、それは行われる。「すべて」を読み手に委ねるしかない。

小説などはその筆頭だと思う。「秀作」「駄作」どちらの烙印を押されるかは、すべて読み手の感性や好みに掛かっている。文体や言葉の選び方、描写の仕方やテーマ等を含め、その作品が好きか嫌いか、面白いかつまらないか、共感できるかできないか―そういった「読み手の個人的嗜好」を基準に、作品の良し悪しが一方的に決定される。

そこで貼られたレッテルに書き手が異を唱えても、それは無駄なことなのだ。自分以外の人間の目に作品が触れた時点から、それはもはや自分のものではなくなっているのだから。どんな評価を受けようと、書き手はそれをそのまま受け入れるしかない。

ただ、書き手の側から言わせてもらえば、読み手の側に唯一期待することがある。それは、その作品に自分が込めた「真意」「意図」に気づいてほしい―ということだ。いわば、その人の「読解力」に賭けているのだ。伝わるか伝わらないか―一番肝心な部分を自分以外の人間に委ねるというその状態は、「賭け」というより「祈り」に近い。

人間は、自分が見たいように物事を見て、思いたいように思う生き物だ。そこでその人が感じたり思ったことが、その人にとっての「真実」になる。こちらの祈りも虚しく―という結果になったとしても、ある意味それは仕方のないことなのだ。


日頃、ブログの記事についての感想メールをいただくことが多い。セラピーやカウンセリングでお会いする方達の中にもブログを読んでくださっている方が多く、直接感想をお聞きすることもある。面白いのは、人それぞれの捉え方の違いだ。

ある人は、このブログを「人生哲学を述べている」と言い、ある人は「スピリチュアル批判ブログ」と言う。そうかと思えば、「心理学系ブログ」とする人もいるし、全ジャンルを網羅した「エッセイ」「コラム」として位置付けしている人もいる。どれ一つとして同じものがない。そしてそれは、その人達の意識の「投影」でもある。

書き手の側から言わせてもらえば、そのすべてが「正解」でもあるし、同時に「間違い」でもある。それらの要素がすべて含まれているのは事実だし、実際に意識している部分もある。だが、「一つの記事の中に一つの要素だけ」ということは決してない。

哲学、宗教、歴史、科学、医学、文学、心理学といった学問や世論、私個人の思考等、いろいろな形でそれらを散りばめている。「見たものやあるものをそのまま書く」そういった短絡的且つ浅薄な文章に終始することは、文章を書く人間としての「矜持」が許さない。

比喩や引用の中にそれを込める時もあるし、科学の分野を取り上げながら、同時に文学や人生観を語っている時もある。蜘蛛の巣のように、それらを張り巡らし、繋げている。そして、それは「読む人が読めば」わかるようにしてある。決めつけや思い込みで、表面に現れている部分だけに焦点を当てている人には、「見えないが、でも同時に確実に存在しているその他の部分」は見えてこない。表面をさっとなぞった程度で終わる。多分肝心な点には一切触れることなく。

私が読み手に期待しているのは、まさにその部分なのだ。私が文章に込めたものを読み解く力―「洞察力」「探究心」という言葉に置き換えてもいい。単なる表面的な部分だけを見て判断し、決めつけてほしくないのだ。例えば、スピリチュアル教批判の内容の記事を、単純に「嫌いだから敵視している」だけとか。そこで私が語っていることは、一つのことだけではないから。

確かに、読み手にすべてを委ねるしかない。どう解釈しようとその人の自由。だが、その読み手の「立ち位置」が、「個人的嗜好」や「思い込み」といったものに終始するものであったら、それは「評価・解釈以前の問題」なのだ。最初の段階で読み誤っている状態―いわば「勘違いした状態」で読み進めていることになるのだから。スタート地点を間違っていたら、レースはその時点で既に「無効」なのだ。

「読解力」とは、「=観察力」でもあると、私は思う。物事の真の姿を、間違いなく理解しようとよく見る力。そこに「感情」や「価値観」は不要だ。ただ冷徹な眼で対象を観る―必要なのはそれだけだ。個人の感情や価値観といったものは、「観察」の場では「偏り」しかもたらさない。

文章への評価や印象を決定付けているのは、この「偏り」なのだ。自分の感情や価値観に、その文章がマッチするかしないかというだけのこと。「好きな文章」「嫌いな文章」、「面白い作品」「つまらない作品」そういったレッテルは、単に個人の好みの反映でしかないのだ。そして、その「偏り」がある限り、その文章の「真意」には永遠にたどり着かない。その全体像さえ掴めていないのだから。

「好きな文章」「面白い文章」が「=いい文章」であるとは限らない。それは、自分の好みを満たしてくれる、言うなれば「自分にとって都合のいい文章」でしかないのだから。決して「共感=理解」ではないのだ。共感したからといって、その文章を完全に理解しているとは限らない。単に、感情が共鳴・反応しているだけだったりする。むしろ、その部分だけに目がいって、肝心な部分を見逃している可能性もあるのだ。


ここしばらく、東西問わず、「名作」「古典」として読み継がれている文学作品を読んでいる。夏目漱石や泉鏡花等明治時代の作品、「源氏物語」をはじめとする「古典」と言われる分野、シェイクスピアやドストエフスキー等学生時代に読んだ作品を読み直している。今になって思う。「自分は何も読めていなかった」と。

あの頃は、単に自分の好みや価値観を中心に据えて読んでいた。古文独特の文体やそれに伴うややこしさや鬱陶しさ等も手伝って、半ば義務感で読んでいたようなところがあった。「名作って言われてるから、とりあえず読んでおこうか」という程度。中には、「なんでこれが名作?」と疑問に思っていたものもあった。

だが、今、あえてそれら―自分の価値観や好み、思い込みといったものを全部抜き去った状態で、白紙の状態で改めてそれぞれの本に向き合ってみると、見えてくるのだ。作者の「真意」が。目から鱗とはまさにこのことだと思う。作者がそこに込めたものが浮き彫りになって、自分に迫ってくる。

確かに、「好みの文章」でない場合もあるのだが、それでも、思わず唸りたくなるような描写があったり、構成の見事さに感服したりする。完全に圧倒された。そして、今までの自分の評価を完全に覆された。どれだけ曇った眼で、偏ったスタンスで自分がその作品を捉えていたかを痛感した。

「いい作品」をこの世に送り出す編集者の眼、いわゆる「目利き」とは、こういうものなのかもしれない。冷徹な観察眼とフラットな立ち位置―それがあってこそ、その作品の「価値」を公平に判断できるのだと思う。

文章だけでなく、物事や人に対しても同様だと思う。「本質」「真意」というものは、「偏り」のない状態で向き合ってこそ得られるものだ。「感情」だけでも、「頭」だけでも、それは掴めない。

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 2012-06-18
子供の頃、「早く大人になりたい」と思っていた。小学校の中学年くらいには、既にそう思っていたような気がする。15~6歳の頃も、周りの友達が「20歳になったらオバサンじゃん。やだなー」「大人なんかになりたくないよねー」と口々に言う中、「早く30歳くらいにならないかなー」と密かに思っていた。

中高生だった時、当時絶大な人気を誇った「10代のカリスマ」と称されたロックシンガーが、自身の曲の中で「大人になること」への抵抗や苛立ちを訴えるのを聴いても、「なんで?」と不思議だった。やたら感情だけが先走ったようなその歌詞が、私には子供っぽく映った。「大人」への強烈な否定や反発が、逆に彼の「幼稚さ」を表しているように思えて仕方なかったのだ。

そのシンガーの曲では、度々「自分を受け入れてくれない大人」への怒りが描かれていた。「やりたいことをさせてくれない。自由にさせてくれない。そうやって『大人』はいつも自分の存在を否定するんだ」「だから大人は嫌いだ。大人になんかなれない。なりたくない」という感じで。

思春期の、それも反抗期にあった人には、多分その歌詞は強烈な共感をもって受け入れられたと思う。「詰め込み教育」「偏差値絶対主義」という教育背景も手伝って、日頃から折に触れて抑鬱感のようなものを感じることが多かった当時の10代の、いわば「代弁者」として、彼は熱狂的に支持されたのだ。

だが、彼の曲を耳にする度に思った。「だからこそ『大人』になればいいじゃん」と。「大人が許してくれないから好きに生きられない。自由になれない」と言うのなら、さっさと彼らと「同じレベル」になってしまえばいい。そうすれば、いちいち彼らにお伺いを立てたり、その顔色を気にしたりしなくて済むではないか。自分の不自由さの原因が「大人」にあるのなら、「同じ大人になること」によってそれを乗り越えたほうが話が早い―そう思ったのだ。

私が早く「大人」になりたかったのは、自分や自分の生き方に、誰にも口出しさせたくなかったからだ。だが「子供」でいる限り、それは叶わない。だから「大人」になりたかったのだ。年齢的にも、経済的にも、社会的な責任能力といったものも含め、「大人」と見なされれば、堂々と、彼らと同じ立場で渡り合える。

世間の「大人」達を見ていて知ったのだ。「大人のわがまま」は許されることを。そして、そのわがまま、自分の「主張」を認めさせるには、まず彼らと同じ土俵に立つことが必要なのだと。

件のシンガーの曲で謳われているのは、いわば「子供のわがまま」なのだ。「大人」が許してくれない、認めてくれないのは、それが「子供のわがまま」だから。

「子供」というのは、「感情」を最優先する生き物だ。そこに「理」はない。自分が好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか、合うか合わないか-「感情」がすべてのベースとなる。「ああしたい。こうしたい」子供の言うそれは、まさに気分や感情に任せた身勝手な言い分でしかないのだ。どちらかと言えば、傍若無人な「要求」に近い。

自分が「大人」になった今、それがよくわかる。道理も根拠も存在しないそんな無責任且つ曖昧なものに対し、ゴーサインを出せるわけがないのだ。その時々の気分や感情によってころころ変わるようないい加減なものを、「はい、そうですか」と認めるほうがおかしい。

「子供のわがまま」というのは、その根拠、「なぜそうしたいのか、そう思うのか」という部分を説明できない。「だって○○ちゃんも持ってるから」「みんながやってるから」と周りの環境に左右されたり、「やりたいから」「欲しいから」といった感情や気分を中心にしたものであることがほとんどだ。「その場限り」「一過性」「衝動的」そういった要素が強い。

彼らを司っているのは、「感情」なのだ。「よくわからないけど何となく」という言葉を彼らが使うのはそのせいだ。感覚に終始するだけで説明が覚束なくなるのは、それが「直観」を経たものではないから。あくまでも、中心が「感情」だからだ。

だが、「大人のわがまま」は違う。子供のそれと大きく違うのは、そこには明確な「根拠」があるということだ。「大人がわがままを通す時」というのは、多くの場合、「信念」が掛かっている。自分の存在意義や生き様といったものも、そこには含まれる。逡巡、試行錯誤、決意-そういったプロセスを経た上でのものなのだ。「子供」のそれのように、瞬間的な気分や感情から生まれたり、成り立っているものではない。強い「思い」や「覚悟」が存在する。

たとえ内心ではそれに反対だとしても、渋々だとしても、「大人」が「大人のわがまま」を許すのは、それを口にするまでの、その人の並々ならぬ覚悟やそこに至るまでの過程を知っているからだ。

「わがままを聞いてもらうために大人になった」私の場合、そう言っても過言ではない。子供の頃は、ほとんどそれをしなかった。今から思うと、多分子供心に、自分の「要求」が、「どうでもいいようなこと」であることを感じていたからかもしれない。「聞いてもらうほどのことではない」どこかでそれを知っていたからだ。

20代半ばでこの世を去った件のシンガーの晩年は、葛藤に満ちたものだったらしい。「大人への反発」を常に謳ってきた彼も、年齢を重ね、世の中や道理を理解する「大人」になるにつれ、自分が抱える矛盾に気づき始めたのだ。「支配される側」から「支配する側」に回った時、多分「今まで見えなかったもの」が見えてきたのだと思う。「大人」と「子供」の板ばさみになる苦悩を周囲に漏らしていたと聞く。

「子供のわがまま」の実態に気づいた時、「10代のカリスマ」は、もはや手放しでそれを賛美することが出来ない自分に気づいて愕然としたのだ。「子供」の自分が訴えてきた「自由」「大人への反発」が何から出たものだったか―それを知ってしまったのだ。

感情や価値観は、永遠ではない。一瞬で覆る不確かなものだ。それらを軸にして得たものや見たものは、「本質」「真意」から外れたものだ。「不確かなもの」をベースに作られた自分の曲が、それらからは遠いものであったこと、自分がこれまで訴えてきたものが、「子供という名の気分屋の生き物の無責任な戯言」「道理の欠片も存在しない勝手な要求」であったという現実に気づいた時、多分彼は虚しさを覚え、そして絶望したのだと思う。

彼は、既に十分に、完全に「大人」だったのだ。「子供」は、自分の世界の狭さや幼さ、偏りや矛盾に気づくことはない。それを認識する人は、年齢は関係なく、「大人」なのだ。

自分の中の「子供」の喪失―それは、彼にとって「すべて」を失くしたも同然だったのだ。「自分の中の子供」が、彼の信念であり、存在意義であり、インスピレーションの源だったのだから。それは彼の「核」、いわば「魂」そのものだったのだ。そして、彼にとって、「それを失うこと=自分自身の消滅」でもあったのだ。


信念と覚悟と責任と-それらが伴ってこそ、初めて「大人のわがまま」になる。そして、周囲がそれを認めてくれるのは、その人の中に、ぶれや媚びのない「潔さ」を見出した時なのだ。気分や感情に基づいた「子供」のそれとは明らかに一線を画した真摯なもの―それが「大人のわがまま」なのだ。

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カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

不毛な論争

 2012-06-06
今年初め、自殺対策強化月間のPR用に内閣府が考案した標語が、世論を賑わせた。今現在大人気の某アイドルグループの名前をもじって名付けられたそれは、当初の「あなたもGKB47宣言!」から「あなたもゲートキーパー宣言!」に変更された。

変更の理由は、国会審議中の答弁及び世論の大半を占めた「深刻で重いテーマを扱っているのに軽過ぎる。不謹慎だ」という意見を受けてのこと。そのアイドルグループを宣伝広告の類に起用することを念頭に置いての、いわば「その人気にあやかること」を前提にしての「あえてのもじり」だったのか、それとも逆に世論の大きさに「開き直った」結果のものなのかはわからないが、イメージキャラクターとして、件のアイドルグループがCMに起用されている。

内閣府が提唱する「ゲートキーパー」とは、「その人が発している自死のサインに気づき、話を聴いて、専門の相談機関に繋ぐ役割を担うことを期待される人」を指す。それを「国民みんなでやりましょう」と呼びかけているわけだ。国を挙げて、大々的に自死防止に取り組もうとするその姿勢は評価したい。だが、率直に言って、この啓蒙運動によって状況が変化する可能性は極めて低いと思う。なぜなら、問題の本質を完全に履き違えているから。この国特有の価値観や思考、民族性といったものを考慮せずに作られたそれは、結局表面的なものでしかない。

「ゲートキーパー」は、いうなればボランティア的なものだ。「強制」「義務」という言葉には敏感且つ従順だが、自主性を求められると途端に腰が引ける人が多いこの国で、果たしてどれくらいの人が自ら進んでその役割を担おうとするのか甚だ疑問だ。

ましてや人の命に関わることだ。「自分には荷が重過ぎて無理」「敷居が高い」となるのは目に見えている。もうその時点で、世の中のほとんどの人が及び腰になる。そして、それは「ふさわしい人がやればいい」「自分がやらなくても誰かがやるだろう」という、この国の人達にありがちな思考へと繋がっていく。

「本音と建前」「事なかれ主義」「よそ様」多くの日本人に見られる思考や感覚の特徴を考えれば、そういったやり方はかえって逆効果だ。良くも悪くも、「特別な役割」を自分が背負わされることを重荷に感じたり、避けたがる人が多いこの国では、任命制度も強制力も何もない、自覚を促すための宣伝に使用された「単なる標語」、いわば便宜上のものだったとしても、「ゲートキーパー」などとわざわざ固有名詞化されたそれに対し、無意識に警戒心を抱く。

人気絶頂のアイドルのグループ名に引っ掛けて、いい意味での「気軽さ」や「親しみやすさ」を狙ったのだろうが、「ボランティア=奇特な人」という意識が根強いこの国では、個人の自主性に訴えようとするやり方はそぐわない。かえって「裏目」に出る可能性が高い。

定義されている「ゲートキーパー」の役割が非常に曖昧であることも気にかかる。「死んでしまったほうが楽だと思う」「生きていくのが辛い」「いつも死ぬことばかり考えてしまう」そういった希死念慮(きしねんりょ)を持つ人に対応するには、細心の注意が必要だ。専門の知識を持った精神科医やカウンセラーでさえ困難を伴うもの。ただ本人の話を聴いていればいいというものではないのだ。話を聴く側が、精神的に引きずられることもある。たとえプロであってもそれは同じだ。

そういった一筋縄ではいかない要素を含む役割を、知識も経験もない一般人、いわば「素人」に丸投げして、果たして本当に大丈夫なのか?と。企業によっては、ゲートキーパー育成のための研修制度を設けているところもあるようだが、わずか数回、数時間の研修で身につけるもので十分な対応が出来るとは到底思えない。下手をすれば、「二次災害」の可能性も起こってくるのだ。政府の見解が安直過ぎるような気がしてならない。


この件を審議していた国会中継を、その日たまたまリアルタイムで見ていた。「軽薄だから変更すべきだ」「遺族の心情を考慮してない」「作成者は誰だ?許可者は誰だ?」等の批判や非難、標語の発案趣旨に始まり、その決定までの経緯説明等が行われていた。

それらの一連のやり取りを最後まで見ていたのだが、自死遺族として、個人として、セラピストとして―どの立場からしても、ただ「不毛」としか思わなかった。「本当にこれで成果が出るのか?」疑問や違和感しか残らないのだ。何というか、そもそもの出発点からして間違っているような気がするのだ。その実体や状況をよく知らない人達が想像力だけで練った政策と現実との「ずれ」というか。

自死防止に全力で取り組んでいる方達の努力や苦労を重々承知の上で、敬意を払った上で、あえて言わせていただくが、本気で自死を考えている人を止める術はない。それは、私自身の経験とこの4年間グリーフケアでお会いした多くの遺族の方達とお話させていただいた中で得た実感だ。

本気で死を覚悟した人というのは、それを決して周囲の人に悟らせない。「そんな気配はまったくなかった」遺された多くの人達は言う。それだけ自死者本人は「本気だった」ということだ。それを止められないように、確実に遂げられるように―本気で死を覚悟した人達が望んでいることはそれなのだ。彼らにとってそれは、唯一自分に残された「希望」であり、「救い」なのだ。いわば「最後の砦」。それを守るために必死になるのだ。自分の目的を悟られないように、全力でそれを隠そうとする。

万が一、周囲の人が何らかの変化に敏感に気づいて、その時は未然に食い止められたとしても、大半の人は別の機会を見つけて目的を遂げる。本人が「本気の覚悟」を捨てない限り、それは時や場所を変えて、必ず起こりうる。そして、それは誰にも止められないのだ。たとえ「ゲートキーパー」が身近にいたとしても、国中総出で防止に取り組んだとしても、だ。

実際、親身になってくれる親族や友人に恵まれた人でさえ、それを悟らせることなく逝っている。決して「自死をする人=希薄な人間関係」にあった人達ではないのだ。あえて身も蓋もない言い方をするが、周囲による防止活動には「限界」があるということだ。

自死遺族のグリーフケアに関わり始めてから特に思うことだが、この国の人々の「自死」というものに対する認識は、20数年前から何も変わっていない。国策の重要課題として取り上げられるようになった現在でも、それは以前と変わらず「遠巻きにされるような類のもの」なのだ。「何か特殊な事情や問題を抱えた人や家庭にしか起こらない事」であり、「タブー視される領域のもの」という思い込みが根強い。

国民に大きな影響を及ぼす立場にあるメディアでさえ、そういう認識なのだ。毎年、国の統計で自死者の数が発表されれば、その時は「一大事!」という姿勢を取るものの、それも一時のもの。数日経てば、見向きもしなくなる。そして翌年、また統計が発表されると、前年とまったく同じ事が繰り返される。

ニュース番組で自死や心中のニュースが流れる度に、解説委員やコメンテーターが「死ぬ勇気があれば生きられたはず。もっと頑張れたはず」という使い古された筋違いの精神論を持ち出して、その話題を締めることがお約束になっていることからもそれは明らか。結局、すべてが上っ面なのだ。自死者本人の精神状態や置かれていた状況に焦点を当てたとしても、そこから先を深く掘り下げようとはしない。

「ゲートキーパー宣言」等の啓蒙運動を通じて国民の意識へ訴えかけるやり方は否定しないが、如何せん時間がかかり過ぎる。それは、この20数年間の様子―自死に対する世間の認識、メディアの取り上げ方等を見ていればわかるはずだ。受け取る側に「所詮他人事」という感覚しかないのであれば、そういった取り組みのすべては無駄に終わる。

「防止」を最優先課題にするのであれば、「死を考えている人」を中心にして考えるべきなのだ。自死者の8割以上が、いわゆる「鬱(状態)」であったということに焦点を当てたほうがいい。調査の結果として、根拠のある数字として報告されているその事実に目を向けようとしないことが不思議で仕方ない。ほぼすべての自死者に共通するその特徴を、なぜ掘り下げようとしないのかと。

国民の意識の変化を促すなどという、いつ結果が出るかもわからない茫洋としたものに期待をかけるより、自死に至る寸前の段階、その心身の状態―「鬱病(状態)」を改善する手段を講じるほうが、現実的なのではないかと思うのだ。

この国では、鬱病に対する誤解や偏見が蔓延している。「心の弱い人や真面目な性格の人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなるもの」と思い込んでいる人が大半を占める。

その言葉がいつ使われ始めたのかは不明だが、鬱病は、「心の風邪」とも称される。「誰でも罹る可能性のある病気」「決して特殊ではない病気」という意味合いで、「風邪」という言葉が当てはめられているのだが、意図に反して、あらぬ誤解を招いているのだ。「風邪?だったら病院に行かなくてもそのうち治るだろう」という思い込みを人々に与えてしまっているのだ。そして、その思い込みが、無知の状態が、いつのまにか「本当のこと」として変換され、人々の意識に定着してしまっている。

鬱病というのは、セロトニンやノルアドレナリンといった脳内神経伝達物質の減少や機能の低下によって引き起こされると考えられている。いわば、「脳の病気」「体の病気」なのだ。決して「気の持ちよう」でなんとかなるようなものではない。投薬等適切な治療が必要とされる、れっきとした「体の病気」なのだ。

「心の弱い人がなる病気」「放っておいてもそのうち治るもの」等という鬱病にまつわる様々な誤解を正すことから始めたほうがいい。先日、知り合いの心療内科のドクターが言っていたが、最近健康番組等で鬱病が取り上げられることが増えてきたせいか、鬱病の症状を訴えて受診する人が増えたとか。一様に、「今までは気持ち的なものだと思っていたんですが、体の病気だと知って診察してもらおうと思ったんです」と。

心療内科や精神科を受診することが、長い間「恥」「怖いこと」「忌むべきこと」とされてきたこの国では、そのことに対し、いまだに強い抵抗感を覚える人が少なくない。「鬱病は体・脳の病気であること」「鬱病が心と体にどんな症状をもたらすのか」等といった正確な情報を与えることによって、自死を覚悟する人が必ず通る段階でもある「鬱病(状態)」に対する認識を高めるほうがいいのではないかと。

自死というもの・それに伴う心身の状態、そういった事態に繋がる可能性のある主な疾患と症状、心と体の深い関係性、心療内科や精神科が担う役割、誤解や偏見の是正等年齢に応じた内容で行う学校での教育、入社時の研修内容に必須項目として取り入れる等「義務化」して周知徹底させるとか。

心身の不調を感じている本人やそれに気づいた周囲の人が、「病院に行ってみよう」「病院で診てもらったら?」と抵抗なく思えたり言えたりする環境作りが最優先課題だと思うのだ。それが「当たり前のこと」「自然なこと」という意識が定着した時、初めて「防止」に結びつくのだ。多分そういったことが、自死者の数に反映される。

わざわざ国家予算を使って、人気アイドル達にただキャッチフレーズを言わせるだけの、わずか十数秒程度の訳のわからないCMを流すより、よっぽど確実で効果があると思うのだが。肝心なものが伝わらないCMなど、一体何の役に立つのかと。件のそのCMを、私は今日まで一度しか見たことがない。

そもそも「ゲートキーパー」という言葉自体、まったく世の中に浸透していない状態なのだ。例の騒動で、ようやく知ったという人がほとんど。そしてその後、現在も、その制度に関心を持つ人はほとんどいない。「あー、この前なんか騒いでたやつね。でもあれってどういうこと?いまいちよくわからないんだけど」その程度だ。時間も予算も使って、あれだけ大騒ぎした挙げ句がこの状態。結局あの騒動は何だったのかと。軸の外れた政策や20数年間変わらない世の中の認識―今まで個人の関心度や自主性任せにしてきた結果がこれなのだ。

本気で社会全体で自死防止に取り組むのであれば、一層のこと、自死やそれと関連性が深い疾患等について学ぶことを「義務化」したほうが確実だ。人間は、物事を見たいように見て、見たいものだけを見て、思いたいように思う生き物だ。元来、「トップダウン方式」「長い物には巻かれよ方式」に慣れているこの国の人達には、「押しつける」くらいの強引なやり方で丁度いいのかもしれない。それぞれの個人の自主性への期待やそれを重んじることは大事だが、時と場合によっては、「スパルタ式」が必要なこともある。

何よりも、真実と実状を知らない人が世の中の大部分を占める今の状態では、自主性云々の話ではないのだ。それは「土壌」が完成してからの話。荒れて雑草だらけの土地に種を撒いても、芽は出ない。政府はいい加減そこに気づけよと。だからいつまでたってもこの問題は、「他人事」と「偏見」の域を出ることがないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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7月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2012-06-04
2012年7月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2012年7月1日(日) 13時~15時(おおよその目安時間です)

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 6月26日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループ主催の会合への参加、心療内科等各医療機関の受診や専門カウンセラーによるカウンセリング等をお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にも通院中であること・医師の許可を得たこと等をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。(その場合、少なくとも退院から3ヶ月以上経過してからのご参加をお願い致します)


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~3時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


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