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狂気の継続

 2012-05-27
新年度開始に伴う慌しい空気が落ち着いてくるちょうど今頃、「今の仕事は自分に向いていないのではないか?」と悩む人達の数が一気に増加する。

新卒者の言う「向いていない発言」は、「なかなか職場に馴染めない」「上司や先輩に自分を否定された(実際は単に『注意された』だけ)」「やる気や自信があるにもかかわらず、雑用や簡単な作業程度の仕事しかさせてもらえない」という不安や不満が原因のことがほとんど。本人の自覚や時間の経過と共に解決していく類のものだ。

年齢的に人生経験も少なく、「仕事」というものがよくわかっていない年頃なので、ある意味仕方がないというか。「そこはまあ徐々に学んでいってね」と、今後の伸びしろに期待することが可能だ。社会人一年生が必ず通り抜けなければならない第一関門、「洗礼」といったところ。

だが、企業や世間で「中堅」と呼ばれる位置にいる人からその発言が出た場合、ちょっと事情は変わってくる。特に最近は、自己啓発教や「スピリチュアルという名のオカルト教」がいろいろと幅を利かせているせいで、「適職」だの「天職」だの「やりがいのある仕事」だのといったものを気にする人が、年齢性別にかかわらず年々増えている。

特別そういった世界に興味を持っていない人でも、「この前雑誌に書いてあったんですけど」と、オーラ教教祖が唱える「適職とは~」「天職とは~」という教義を持ち出して、「自分はこれに当てはまらないんです。やる気が出ないのはそのせいでしょうか?」などと言ったりする。もしくは、某居酒屋チェーン店創業者の「夢を仕事に。仕事に夢を発言」を引き合いに出して、「仕事の中に『夢』がないのでどうしたものかと」とか。そういった「楽しくなければ仕事じゃない」「魂が喜ぶ仕事こそが」等という妙な定義、戯言に振り回される人が増えたなと。

「向いていない」というその言い方は、自分の能力や適性に問題があるかのように聞こえる。だが実は、単に「その仕事が好きではない」「これから先も好きになれると思えない」「その仕事をしている時は楽しくない」ということなのだと思う。能力や適性云々ではなく、「感情」の問題なのだ。

これが「スピリチュアルという名のオカルト教」だと、「それが与えられたお役目」だの「今起きていることはすべて正しい」だの「苦手なことに取り組むことが修行」だのという講釈を垂れて、結局は「まあ我慢しなさい」的な方向に持っていくのだろうが、そういう「修行云々」と無理矢理自分に言い聞かせるやり方は、結局その場しのぎ、「対症療法」でしかない。そう自分に言い聞かせ、思い込むことで、しばらくの間はやり過ごすことができる。だがそれは、必ずぶり返すのだ。「根本」は何も解決していないから。

「好きこそものの上手なれ」という言葉はあるが、能力と適性は必ずしも比例しない。それが好きでなくても、上手な人は大勢いる。反対に、好きにもかかわらず、能力的にはイマイチな人とか。たとえそれが「好きな仕事」であっても、「楽しい」「嬉しい」とは反対の要素を強いられる職種もある。

「楽しいだけの仕事」「嬉しいだけの仕事」など存在しない。件のオーラ教教祖やカリスマ経営者の「客寄せのためのキャッチコピー」を基準にしていると、際限なく転職を繰り返すことになる。何かの拍子に一瞬で変化するような「感情」という不安定なものに重点を置いていれば、そんな状態になるのも当然だ。

そもそも「仕事」とは、本来、そういった好きだの嫌いだの、向いているだのいないだのという次元でするものではないと思うのだ。私は、「仕事」と「感情」はそれぞれ違う次元に属しているものだと思っている。それらを融合させようとすること自体、最初から無理があるのではないかと。

金八先生ではないが、「なぜ『しごと』は『仕事』と書くのか?」ということなのだ。「仕事」とは、「する事。しなくてはならない事」をいう。「仕」という字には、「かしずく。奉仕する」という意味がある。そこには、「自分を、自分の感情を二の次にして」というニュアンスが含まれている。いわば、それは「決して楽しいことばかりで成り立っているわけではない」ということを示しているのだ。

先日、ヨガをやっている友人が言っていた。彼女の尊敬する先生が、「年に2回くらいこの仕事を辞めたくなる時がある」とツイッターでつぶやいていたらしい。自分が好きで始めたことでも、そういった気分になることがあるのだ。

私自身、この仕事は自分で望んで始めた仕事だ。「やりがい」とか、そういったものを求めていたわけではなく、初めて受けたヒプノセラピーに衝撃を受けて、セッションから帰る道々、「やる!」と決めてしまったのだ。もうかれこれ10年近いキャリアになるが、決して「楽しい」や「やりがい」だけで続けられる仕事ではない。確かにそういう要素も存在するが、決してそればかりではない。

一回のセッションが、平均して3~4時間という長丁場のものなので、体力も精神力も要る。「個人」としての、いわば「人間力」のようなものが仕事に反映されるし、仕事で得たものが「個人としての自分」に返ってくるという仕事なので、「公」と「私」の線引きが難しいという複雑さもある。「切り替え」「割り切り」のタイミングや加減を誤ると、公私両面に「あまり好ましくない影響」が出たりする場合もある。

人相手の仕事なので、当然それに伴う「面倒なこと」もある。頻繁ではないが、年に数回くらい、なかなかやる気が起こらない日があったり。それを「よしっ!」と気合を入れて、奮い立たせて仕事モードに入るのだ。仕事の内容やその意義に懐疑的になることもあれば、「飽き」を感じることもある。

「やりがいのあるお仕事でうらやましいです」「いつもお元気で楽しそうですよね」多くの人からそう言われる。だがそれは、「私が舞台裏を見せないから」なのだ。自分の体調だの気分だの、いちいちそういった個人的な事情を仕事に持ち込むのはプロではない。それ自体が興醒めな行為。だが、「見せないだけ」であって、「それ以外のもの」は存在している。

世間の多くの人達は、「適職」「天職」「やりがいのある仕事」の要素を全部備えたのが、自営業だと思い込んでいる。それらの言葉は、いわば「セット」になっているのだ。すぐに「起業」を思い浮かべる人が多いのは、そのせいだ。すべてにおいて「自由」だと思われているが、実際は違う。自分で立ち上げたものだからこそ、「面倒なこと」も多い。

時間にも融通が利いて、「体調が悪いから一週間休みま~す」なんていうことも気軽に出来ると思われているようだが、それが可能なのは、その仕事を「趣味」でやっている人だけだ。最低限度の生活が保障されていたり、誰かの扶養家族になっている等自分の収入が生活そのものに大きく影響しないような環境にいる人に許されること。

ある程度の規模の組織なら、各部署毎に仕事が決まっている。だが、大半の自営業者は、「すべての部署の仕事」を全部自分で行わなければならない。経理、人事、総務、企画・開発、宣伝、営業、販売―その中に不得手なものがあったとしても、「担当部署に回す」なんてことは出来ないのだ。そのハードさは、同じ環境にいる者でなければ理解できない。「自分の都合」など二の次だ。「何をおいてもまず仕事」それが現状。たとえ自分が望んで始めた仕事でも、「厳しさ」は必ず存在するということだ。

「天職」「適職」「やりがい」という部分にこだわっている人達は、自分がそれを手に入れれば、そういったやる気のなさ、気苦労、飽き等といったものとは完全に無縁になると思っている。業務に伴う煩雑ささえ解消されるかのように思っていたりとか。「常にポジティブで、楽しい気分で毎日を送れるに違いない」「好きなことや得意なことだけをしていればいい」と勘違いしている人も多い。まさに知らぬが仏。そんな甘いものじゃないよ、と。

「好きで始めた仕事」「自分が望んだ仕事」をしている人達は、日々そういったしんどさや割り切れない思いといったものと折り合いをつけ、乗り越えながら、その仕事と向き合い、取り組み、そして続けているのだ。黙々と、淡々と―。周りにそんな素振りは一切見せていないとしても。傍目にはまったくそう見えていないとしても。

多分彼らは無意識で知っているのだ。「仕事」そのものに意義を求めるよりも、「その仕事にどう取り組んだか」ということが、最終的に「自分がやっていることの意味」になるということを。


「狂気とは、今日やっていることと同じことをやり続けて、明日の結果が今日よりも良くなることを期待することである」名門外資系企業の要職を歴任した名経営者、新将命氏の言葉だ。

自分自身の経験を含め、さまざまな仕事に関わっている人達を見ていて思うのだ。それが好きだろうが嫌いだろうが、向いていようがいまいが、「仕事をするということ」は、ある種の「狂気」の中に自分を置くことではないかと。それも、自分から進んでその中に入っていくような。

「好きこそものの上手なれ」この言葉は、実は「狂気」から出たものではないかと思うのだ。その果てにたどり着いた境地―喩えれば「涅槃」で得た「実感」ではないかと。

「好きになればこそ、飽きずに努力する。そしてその道の上手となる」その言葉は、辞書ではそう定義されている。多分多くの人は、「まずそれを好きになることから、上達への道が開ける」と思っている。「好き故に、苦にならないから、飽きずに自然と取り組む時間も多くなって、その結果上手くなれる」と。以前は私もそう思っていた。

だが、本当は、それが嫌いで、つまらなくて、向いているとも思えなくて―という気持ちで、選択の余地もなく、「仕方なく」とも言えるような気持ちで渋々何かに取り組んでいた人が、それを続けているうちに、何かの拍子にだんだん面白く思えてきて、「好き」とさえ思えるようになってきた時、結果上手になっていた―という経験から生まれた言葉なのかもしれないと思うのだ。

もしかしたらその人は、「いつかこれを好きになれる日が来るのだろうか」「面白いと思える日が来るのだろうか」と溜め息混じりに、仕方なくそれに取り組んでいたのかもしれない。一日の終わりに、「あー、本当につまらない。毎日毎日好きでもなく楽しくもないことをしなきゃならないなんて。こんなことでも、ほんの少しでも『楽しい』『好き』と思えたら、少しはやりがいを感じられるようになるのだろうか?」と思っていたのかも。

そして、「明日は今日よりも少しは面白いと思えるだろうか?」「明日は好きになれる要素が見つかるだろうか?」と、「ひょっとしたら明日こそは」というわずかな期待や希望を抱いて日々を送っていった結果、それが好きになった上に、上手くなっていた―ということなのではないかと。確証もない「可能性」や「未来」への期待と希望をひたすら持ち続けた結果なのではないかと思うのだ。

「それが起こる可能性は限りなくゼロに近いと思っていること」に対し、あえて期待や希望をかけ続ける―そういった、人によったら「馬鹿なこと」「無駄なこと」「あり得ないこと」と言われるような類のことにあえて取り組んだ人が到達した境地が、先の言葉の本当の意味のような気がしてならない。

ひょっとしたら、人間は賢く、また「ヒマ」になり過ぎたのかもしれない。「仕事」にわざわざ意味付けをしたりすることなど、本当は無意味なことなのかも。身分制度による、限られた職業の選択肢しかなかった時代に生きた先人達こそが、「仕事」というものの本来の意味を具現化していたのかもしれない。

多分彼らの多くは、「明日には暮らし向きが少しでも良くなりますように」という一心で、保障されない未来への期待と希望を紡ぎ続けたのだ。やりがいや面白い等という自分の感情を二の次にして、ただ一心に働く。「生活のため」たとえそれ以外に意味や目的がないとしても―それは、彼らの「覚悟」でもあったはずだ。

「好き」「やりがい」「楽しさ」「喜び」そういったものは、仕事以外のもので賄うという方法もある。むしろ「遊び」と言ってもいい要素を、なぜ「するべき事=義務」と言い換えてもいい「仕事」に持ち込もうとするのか?と。本当にそうする必要はあるのか?と。

自己啓発教やスピリチュアル教は、それを一本化することを薦める。「それは可能だ」と「宣教師」達は言うが、本当にそうか?と。そういう彼らを観ていると、何だかんだ言いながら、次から次にいろいろなものに手を出している。しばらくすると、まったく畑違いのものに関わっていることもめずらしくない。

そして、その度に言うのだ。「古い役割から卒業します」「どうやらこの仕事での私の役目は終わったようです」「次の次元にシフトします」あれこれもっともらしいことを並べ立ててはいるが、「結局は飽きたんでしょ?もうやりたくないんでしょ?」と。

各宗教の信者達の、「仕事」にまつわる発言や「転職癖」を見ていれば、彼らの幼稚さがよくわかる。「仕事」というものの本来の意義を無視したその思考―感情を中心に据え、それに左右され、それを基準にしかできない考え方は「子供」の証拠。「大人」は、「感情」だけで物事を捉えない。彼らの世界は、「うれしい」「楽しい」「好き」で成り立っている。別の言い方をすれば、「嬉しくない」「楽しくない」「嫌い」と思った時に、その世界は終わるのだ。それだけ幼稚で脆弱な世界と言える。

「宗教」の支配の方法に、「あえて難題を課す」というものがある。例えば、「敵を愛せ」「許せ」といったような、なかなか実現することが難しいことを信者に課すことによって支配するのだ。「それを出来ないおまえは信仰が足らないからだ」と。「信仰を続けていれば、それが出来るようになるだろう」そうやって人々を取り組んでいく。

「適職・天職・やりがいのある仕事に就こう」「夢を仕事に、仕事に夢を」等、自己啓発教やスピリチュアル教が教義に掲げるのは、「信者獲得」のためなのだ。世間の大半の人には難しいこと―実は「本来不必要且つもともと無理があること」を可能と謳うことで、それを「呼び水」に出来る。「出来ない?難しい?だったらこのセミナーが効果的かも。受けてみない?」という感じで。そこには必ず「利益」が絡んでいる。そういった「あからさまに表に出ていないもう一つの目的」があることを忘れないことだ。


「やりたい仕事」「好きな仕事」があるのなら、やってみたらいい。だが、それは決して甘くて楽しいことだけで満たされているわけではない。厳しく辛い面も、必ず存在している。場合によったら、不得意なことにも取り組まなければならないこともある。なぜなら、それは「仕事」であって、「遊び」ではないのだから。

たとえそれが好きな仕事、やりたかった仕事でも、飽きを感じる時もあれば、やる気が出ない時もある。どんな仕事にも「両面」が存在するということを忘れないことだ。作家やミュージシャンの「休筆宣言」「充電期間と称した活動停止」は、そういった部分から来ているのだ。

「仕事」に「感情」を持ち込むのは、現代人ならではの、ある種の「贅沢」なのだ。今の仕事が好きだろうが嫌いだろうが、向いていようがいまいが、「これが今の自分がするべき事だ」と腹を決め、明日訪れるかもしれない、でももしかしたらこの先もずっと訪れないかもしれない「何か」に対する期待と希望を持ち続けながら、ただひたすらに進み続けようとする覚悟―それが、「仕事」というものに対して、唯一必要なものなのかもしれない。

「その仕事が楽しいから長く続けているんだろう」周りからそう見られている人達は、知っているのだ。自分が冷静な狂気の中にいることを。彼らのベースは、「感情」ではないのだ。むしろ、それ以外のところで静かに形作られる「何か」、それも、訪れるかどうかさえもわからないような不確かなそれに対する期待と希望を「核」にして、「自分が今するべき事」に坦々と取り組みながら、ただ進み続けているだけなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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安全牌

 2012-05-23
セラピストの仕事に就いた当初、意外に思ったのは、「世の中には自分に自信がない人が結構多い」ということ。男女関わらず、多分8割くらいの人がそう思っているのではないかと。その中には、外見や立ち居振る舞いから、まったくそんなことを感じさせないような人も含まれている。「内心はヒヤヒヤなんです」そう苦笑する人も多い。

特に、男性は「隠れ自分に自信がないんです人間」の割合が非常に高い。まあ本来男はプライドが高い生き物なので、本心をなかなか明かさない。口ではあれこれ言ってはいても、結構繊細なのだ。繊細とは、言い換えれば「傷つきやすい」ということでもある。

彼らは「出来れば傷つきたくない」のだ。程度に関わらず、自分にダメージを与えることは出来るだけ回避したい―彼らはそう思っている。男が女に比べて慎重なのは、いわば「危険回避」のためだ。そして、それが「案外保守的」という男の特徴に繋がっている。

奇を衒った新しいものよりも、慣れ親しんだ「定番」を好み、それに執着する―それが「保守的」ということ。男が「行きつけの場所」にこだわるのはそのせいだ。一度そこが気に入ると、「またぁ?」とこちらが呆れるくらい、通い倒す。

日頃から「男と犬は一緒」を公言している私は、それを「犬の散歩」と称しているのだが、それくらい変わり映えのないものなのだ。「変化」に柔軟な女には、「同じことを飽きずに繰り返す」というその習性が理解できない。

大抵の女は、「新しいもの」が好きだ。本来好奇心が旺盛な生き物なので、「新しい」「初めて」という物や場所にも平気で近づいていく。そして、それが楽しいのだ。海外旅行に対する関心度や実際の回数、新製品に手を伸ばす確率も、圧倒的に女が高い。自分のアンテナにちょっとでも触れたものは、迷わず手に取って確かめてみる―それが「女」という生き物。

だが、男は違う。それこそパン1個選ぶのにも、毎回判で押したように同じ物を選ぶ。同じ店で買い物をして、同じ店で、毎回同じメニューを食べて、同じ居酒屋でお酒を飲んで―決まったコースを行き来きする。そして、そのことに何の疑問も抱かない。彼らにしてみれば、「同じで何が悪いの?」というところ。

「毎回同じデートコース」が原因で、ケンカになったカップルは多いと思う。「変化が好き」な女の側からしてみたら、その「毎回同じ」という部分が、自分に対する「手抜き」ではないかと感じるのだ。自分が喜ぶこと・楽しいと思うこと―新しい店を試してみるとか、行ったことのない場所に遊びに行くとか、「新規コースの開拓」を、どうして一緒にやってくれないのかと不満を覚える。だが、男の側に悪気はない。ましてや「手抜き」なんて気はさらさらない。

彼らにしてみたら、「知ってる所のほうが安心じゃないか」なのだ。そう、男が求めるのは「安心」なのだ。「前に行ったことがある」という経験、いわば「それについての情報を持っている」という安心感が、彼らに精神的な余裕をもたらす。常に自分が「主導権」を握っていたい―それが「男」だ。「相手より有利な立場にいたい」常にそう思っている生き物。

だから、彼らは「新しい○○」「初めての○○」というものを好まない。自分が予測できる範囲のものでなくては不安なのだ。大抵の男が持っている「シミュレーション癖」は、女にとって「そこまでしなくても」というくらい綿密だ。「そうなったらそうなったで」というハプニングを、男は楽しめない。男にとってのそれは、「サプライズ」ではなく、あくまでも「トラブル」でしかないのだ。むしろ、出来る限りその可能性を事前に排除しておきたいと考える。

だから男は「縄張り」にこだわる。それが自分が把握しているテリトリー内で起こったことなら、まだ手の打ちようがあるから。それらはすべて、「自分に有利に」を望むがゆえのものなのだ。もし「縄張り」以外の場所で何か突発的な事態が起こって、そしてそれに対する自分の対応が、彼女や妻の満足のいくものではなかった場合、相手から「返ってくるもの」が怖いのだ。

例えば、初めて行く店が休業日だったら―。初めての店に入ったものの、値段の割に全然おいしくなくて、雰囲気も悪かったら―。初めて出かけた場所でトラブルが起こって帰れなくなったら―。自分にとって何かマイナスな、不利なことが起こった時、相手の発する言葉や態度によって自分が傷つくのが怖いのだ。「手に余りそうなものには最初から近づかない」それが「男」だ。そして、それは男の「見栄」なのだ。


彼らのその「恐れ」は、女性の好みにも表れている。これはあくまでも私の個人的な意見でしかない。だが、結構強い確信を得ていることでもあるのだが、「好きなタイプは?」と聞かれた時、「清楚な人」と答える男は、自分に対して自信がない。

多分、世代を問わず、世の中の7割近くの男が該当すると睨んでいるのだが、男の好きな女性のタイプは「清楚な人」が圧倒的に多い。男が「清楚」という言葉の意味を、ちゃんと理解しているのか甚だ疑問と言わざるを得ないのだが、男の言う「清楚」は、正直首を傾げるようなものである場合が多い。

同性を見る目は、やはり同性のほうが確実だ。その「同性の目」で見てみると、そのほとんどが「なんちゃって清楚」なのだ。顔立ちやファッション等見かけだけで中身は真逆ということもあるし、単に「地味でおとなしそうな感じ」という印象の場合がほとんど。「清楚」の定義に不可欠な、「凛とした」「たおやか」「品格」という要素があるふうでもない。

同性である女が「清楚仕分け」すると、その8~9割は「はい却下!」という結果になる。「そんなことない!」と男がその結果に異議を唱えても、しばらく経つと「やっぱりそうだった・・・」とすごすご戻ってきたりする。やはり「同性の目」は確かだ。

以前、男性の友人達と話している時、男女それぞれの「清楚」の基準があまりにも異なっていることに騒然となったことがあるのだが、その時も女性陣の意見は一致していた。やはり男が言うそれは、「なんちゃって」の域を出ない。

「男にとっての清楚な人」を同性の目から見た場合、無礼を承知で言えば、「色気がない」というか。「フェロモン」なんていう言葉とは無縁な、化粧気もなく、「女の子」という感じ。どこか「幼さ」を感じさせる、ワイドショーやニュースのお天気コーナーに出てくるお姉さんのような―。舌足らずで、ほんのり野暮ったさを感じさせる「ロリッとした」雰囲気の―。年配のおじ様達が、「娘にしたい子第1位」に選ぶような―。

「あー、なるほどね」と。つまり、男の言う「清楚な人」は、「=心配しなくていい人」なのだ。他の男に盗られるんじゃないかと常に心配していないといけないような色気たっぷりの女より、自分以外に目を向けている者がいないような、地味でおとなしい女のほうが安心なのだ。「手におえる女」彼らはそれを望む。

そして、そんな女のほうが、別に意味で「安心」なのだ。「おとなしい女」なら、自分に深刻なダメージを与えないだろう。こちらが慌てふためくような、予測不可能な行動はまず取らないだろう―そう踏んでいる。「ハイリスクな女」より、「ローリスクな女」を男が求めるのはそういった理由があるのだ。いろいろな意味で、「自分の枠の中に収まる女」のほうが余裕を持てる。

面白いのは、男と女では「諦め方」が違うことだ。例えば、「前からいいな~と思っていた人」を諦める時、男は「自分」に、女は「相手」に基準を置く。「あの子、可愛いよなー。だけど可愛過ぎて自分には不釣合いだ。無理っぽいからやめておこう」それが男。「告白したけどフラれたからあきらめるわ」「彼女がいるみたいだからやめておく」それが女。

実際の行動よりも、自分の脳内で行ったシミュレーションの結果を、男は重視するのだ。そういった意味では、男のほうが「身の丈」というものを知っている。だが実際は、「ハイリスクな女」に挑んでみたものの、あえなく撃沈されて凹むのが怖いだけ―なのだけれど。「打たれ弱い生き物」それが男だ。

「弱気」ゆえの確実性重視なのだと思うが、恋愛関係を含め、人間関係に一切妥協しない私には、何とも歯がゆく映って仕方ない。大体、そんな確実に手に入る、言ってみれば「自分にはこの程度」と妥協したレベルの相手で満足できるのか?と。そんな毒にも薬にもならないような相手なんかつまらないじゃん、と。私ならすぐに飽きる。

私が勝手に思っていることだが、男のこの「保守的」「ローリスク選択」という習性は、太古から受け継がれる遺伝子のせいではないかと思うのだ。実入りは大きいが、その分リスクも大きいマンモスを狩るより、大きさはさほどでもないが、マンモスよりはずっと扱いやすくて、そこそこの空腹を満たせるシカを仕留めるほうが、確実に命を保てる。いわば、「本能」がそうさせるのではないかと。自分の遺伝子をどれだけ多く残せるか―「質」よりも「量」が重要な男にとって、「確実性」というものが最優先事項だからではないかと思うのだ。

20歳そこそこの若い男の子達でも、「ローリスク」の傾向は変わらない。「覇気がないねぃ」と思うこともしばしば。案外男の「草食化」は、かなり昔から始まっていたのかも。最近それが一気に増えたように感じるのは、単に男達がそれを隠すことをやめたせいかもしれない。

確実且つ安全―なんだか投資話に出てくるような言葉だが、恋愛においてそれを優先するのは、一番美味しい部分、いわば恋愛の醍醐味を捨てるようなものだ。私だったら「毒と色気」がある男のほうがいいけど。常にある種の「緊張感」が漂っているほうが、ゾクゾクワクワクするではないか。それに釣り合う自分でいようと、自分磨きにも精が出るというもの。「手を抜いてもいいや」そう思うようになった時、恋愛は終わる。

安心とか安全とか、50年連れ添った夫婦みたいなものを、恋愛の初期、それも「始まる前」から求めるなんて、それでおもしろいかね?と。「なんかつまんないの~」と、保守化が顕著な世の男にぼやいてみる。

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ファンタジスタ

 2012-05-20
サッカーにおいて、たった一つのプレーで試合の局面をひっくり返してしまう選手を「ファンタジスタ」と呼ぶ。全体の流れやその先、各場面での「重要ポイント」を一瞬で読み取る「直感」と「直観」の持ち主。プロとしての高い技術―ファンタジスタとは、いわば「何かを引き起こす人」なのだ。誰もが予想だにしなかった展開、人々をあっと言わせる「意外性」をそこにもたらす人―セラピストやカウンセラーに求められるのは、この要素だ。

「ある一つの言葉」や「別の視点からの考え方」を提供することで、クライアントの膠着した状態を完全にひっくり返すのだ。「あ、そうか・・・そんなふうに考えることもできるんだ」「さっきまではこう思ってたけど」その言葉がクライアントから出てくれば、「試合」は一気に形勢が変わる。劣勢だった流れが変わり、逆転の可能性が出現する。だがそのチャンスは、「既にずっとそこにあった」のだ。クライアントには、ただそれが見えていなかっただけ。目の前の覆いを取り除かれた感じ。一気に視界が開ける。

クライアントの数だけ「道」はある。「答え」や「やり方」は一つではないのだ。そもそも、それぞれが「目指す場所」からして違うのだから、当然そこに至るまでの「道」も、それぞれの数だけあっていい。宗教をはじめ、特定の思想や価値観等「既存のひな型」は不要だ。

人生において、「万人に共通する正解」など存在しない。「一般的には」「普通は」「この宗教の教えによれば」カウンセリングにおいて、そんな「基準」は一切不要。むしろ、そんなものは邪魔だ。というより、そういった「後付け」でどうにでもなるようなことを中心に据えること自体おかしいのだ。一般論など、ただそのやり方を支持する人数が多いというだけのことであって、必ずしもそれが「正しい」ということではないのだ。

常識や道徳、世間体といったものを考慮することなど、当然最初から考えの中には含まれている。だが、それは決して「中心」ではないのだ。「一応考えに入れおく必要のある要素」ではあるが、あくまでも「事項」の一つ。極端な言い方をすれば、「最低限必要なレベル」を抑えていたらいいだけの話。「必要最低限あればいい」という程度のものを最優先して、肝心の自分自身を二の次にするから、余計に事態がこじれるのだ。悩みが一向に解決しないのは、「優先順位」を間違えているせい。

その中には、「マジョリティーのやり方」に固執する人も多い。それも、「世間ではこう言われているから」「みんなそう言っているから」というだけの理由で。大部分の人に有効なやり方が、自分にはそうでない場合もある。彼らは、自分や自分が抱えているものが「少数派」「例外」であることを薄々感づいていたとしても、決してそれを手放そうとはしないのだ。柔軟性の欠如―それが彼らの思考の共通点でもある。

例えば、妙ちきりんなスピリチュアル系や自己啓発系ブログのコメント欄等でよく見られるやり取りなのだが、「今の仕事や職場に馴染めません。やる気も出ず、失敗ばっかりしていて、職場に行くのが苦痛です」という書き込みに対し、「スピリチュルの世界では、そういう状況もあなたの今生での『学び』の一つです。修行だと思ってがんばりましょう」とか「『修行させていただいてありがとうございます』と毎日唱えていれば、必ず状況は変化します」とか。

「なんじゃそら?」と。「全然答えになってねーし」と。特定の思想を持ち出してきて、「こう考えろ」「この考えに自分を沿わせろ」と押しつけているだけで、まったく「解決」になっていない。個性や現状といったその人の「事情」は一切無視ですか?と。その人の背景をまったく考慮せず、「スピリチュアルの世界では云々」と自分が信仰している宗教の教義を持ち出して「説得」にかかるとは、随分乱暴な話ではないか。

上から目線の、その一方的な押しつけは、典型的なキリスト教の布教の手口、「宣教師」のそれとまったく同じ。結局は、「これが正解」というものが、既に設定されているのだ。そこに絶対に向かうように「道」が出来ている。正確には、それ以外の道は、すべて寸断されているのだ。完全な出来レース。

一般論や特定の思想や宗教の教義等、「前提されているもの」を自分に言い聞かせることによって、その場は何とか気を紛らわせることができる。その瞬間は、すべてが解決したかのように感じられることもある。だが、それはその場しのぎの「対処法」なのだ。あくまでも一時的なものでしかないので、遅かれ早かれまた同じ悩みが頭をもたげてくる。「根」は、相変わらず残ったままなのだから。

必要なのは、「その人に合ったやり方や答え」なのだ。「スピリチュアルの世界では」とか「人として」とか、特定の思想や一般論なんかどうでもいい。「世間一般のやり方」が有効な人もいれば、そうでない人もいる。言い換えれば、そういった「世間一般のやり方が有効な人」というのは、多分抱えているものの質が、「世間一般のやり方が有効となる内容」なのだ。

少なくとも、カウンセリングにおいては、「誰にでも当てはまるような無難な答えややり方」など用を成さない。必要なのは、「”その人に”有効な答えややり方」なのだ。まず、「その人がどうしたいのか?どうなりたいのか?」という部分を最優先して考えることが大前提。それが固まった上で、後から常識や道徳、世間体といったものを加味して、調整・修正していけばいい。「中心」「最優先」となるのは、あくまでもその人自身なのだから。

同じ悩みを持つ人でも、その人の個性や今現在の状況、望んでいる方向によっては、その答えや方法もそれぞれ異なってくる。この悩みにはこういう答え、この問題にはこの解決法―という「マニュアル」はない。一般論や精神論、特定思想や宗教教義等は、それに当たる。一冊のマニュアルで、すべての人の悩みや問題が解決できるのなら、「悩める人」はこの世に存在しないはずだ。そもそも最初から無理な話。全員が「まったく同じ」にならなくてもいいのだ。違っていていい。むしろ、それが「正常」なのだ。

ファンタジスタは、「フィジカル」に頼らない。つまり、「理屈」や「論理」に過剰に依存しないということだ。決してそれに固執することはない。パスやシュートの度に、いちいちサッカーの技術論を持ち出して、考え込みながらプレーする選手などいない。試合は、「法則」に支配されているわけではないのだ。試合は生もの、つまり、「生きている」のだ。その一瞬一瞬が「生きている」。次の瞬間何が起こるかわからない。そして、それを支配しているのは、「理屈」ではないのだ。

「どうしたら今の局面を変えられるか?」「今自分はどう動いたらいいか?」彼らの頭の中にはそのことしかない。中心は、「今」と「自分」なのだ。そして、たった一つのプレー、「その瞬間に必要だと感じて取った行動」によって、すべてを変える。

セラピストやカウンセラーの役割、「徹するべきこと」はただ一つだ。「クライアントの今の状況を、どうしたら良い方向に変えられるか?」ということを常に考えること。それが大前提。「常識」とか「世間一般の考え方では」などという「法則」は、そこには不要だ。「~すべき」「~でなければならない」という絶対的な基準はない。特定の宗教や思想をはじめ、一つの決まった枠の中に、クライアントを押し込めてはならない。それこそが、「たった一つの」という概念そのものが、悩みや問題の要因となっているのだから。

「ファンタジスタであれ」クライアントの「試合」―その人達が悩みや問題と対峙している状況の中で、不利な流れを逆転させる役割を担うこと。突破口を開くこと。それこそが、セラピストやカウンセラーの本来の仕事であり、存在意義であり、期待される要素なのだ。

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彼らの願望

 2012-05-18
「セラピーやカウンセリングの効果が望めない人って、どういう人ですか?」セラピストやカウンセラーを目指して勉強中の人達からよく聞かれる質問だ。まあ何を以って「効果」と言うのか?という話になってしまうのだが、あえてそれを「受けても何ら現状に変化が起こらない可能性の高い人」と定義するなら、それは「開き直っている人」ではないかと思う。

セラピーやカウンセリングを受けに来る理由は人それぞれ違う。だが、「改善」への期待と希望は、すべての人に共通している目的だ。それは自分自身だったり、状況だったり―理由はどうであれ、「今現在よりも良くなりたい」という思いから、人はプロの門を叩くのだ。

だが、中には「実はまったくそう思っていない人」もいる。「今よりも良い状態になりたい」口ではそう言っているが、本人にその気はない。「でも自分で希望して受けに来てるんでしょ?そんなことあるんですか?」そう不思議がる人も多い。だが、そういった人は実際に存在するのだ。

セラピストの仕事に就いて以来ずっと思っていることだが、人間とは不思議な生き物で、矛盾の塊のような存在だ。言動の不一致等序の口。言葉と表情がちぐはぐである場合もめずらしくない。傍から見ていると「なんかおかしくないですか?」という状態にあるのだが、当の本人はまったくそのことに気づいていない。

この「本人が気づいていない」というのが、一番の曲者、セラピスト泣かせの部分でもある。非常に厄介なのだ。口では「良くなりたい」としきりに言いながら、実は意識の底ではまったくそれを望んでいない。彼らには「特徴」がある。それが「開き直っている」ことなのだ。自分自身で「改善したい」と言っている部分、いわば「欠点」「問題点」と認識している要素を、彼らは平然と「盾」にして抗う。

例えば、「もっと人の話を素直に聴ける人になりたい」と言いながら、自分の気に入らないことを言われれば、「自分はこんな性格だからそれは受け入れられない」とか。「長年に渡って自分の中に存在する恨みの感情を解放したい」と言いながら、その手段を示されると「でも、私はそれくらい酷いことをされたんですよ!?出来る訳ないじゃないですか!」と途端に怒り始めたり。自分の言葉足らずが原因で人間関係に深刻な支障をきたしているにもかかわらず、「自分は言葉が足りない人間なんで」とあっけらかんと言い放つ人とか。その様子は、時に「ふてぶてしい」と称されるようなものだったりする。

「舌の根も乾かぬうちに」「言っているそばから」が、「開き直っている人」の特徴だ。「一体何をしに来たんですか?」という人達。ああ言えばこう言うといった具合に、彼らはひたすら自分自身を正当化する。「弁解」に終始して、結局埒が明かない。同じ言葉を延々と繰り返す。その「反応」「行動」こそが、彼らの「本音」なのだ。「良くなりたい」「変わりたい」などと爪の先程も思っていない。自分の聞きたいことしか聞かない。受け入れない―それが彼ら。

「自分でそう思い込むこと」によって、「心」は嘘をつける。いわば、「自己暗示によるマインドコントロール」だ。だが、「意識」は嘘をつけない。それは、その人の「素」「本音」そのものなのだ。

例えば、生理的に受け付けない人に対し、表面上それを隠して愛想よく振舞っていても、体はその人から最も離れた位置にあるはずだ。ある程度の距離を保っているはず。「あんな人べつに」と口では言っていても、内心ではその人に強い好意を抱いている場合、その姿を無意識に目で追ったりする。会話の中に急にその人の名前が出た時に、思わず体がぴくっとしたり。その「相手との距離」や「体の反応」こそが、その人のいつわざる本心なのだ。

「開き直っている人」もそれと同じ。言っている事とやっている事が完全に矛盾している。本当にそれを改善したいという気があるなら、それを逆手にとるような言動はしない。言動の一致―それがないのであれば、今後の「改善」は望めない。何よりも、当の本人がそれを望んでいないのだから仕方がない。

「自分は悪くない」「これが自分なんだから仕方ないじゃないか」実は意識の底で、彼らはそう思っている。「欠点」や「問題点」を、自分自身の事にもかかわらず、自分とは無関係なもののように、次の瞬間にはそれを平然と「武器」にして開き直る―それが何よりの証拠。まるで他人事のようにそれを行うのは、心と意識がばらばらなせい。だが、彼らはそれを絶対に認めない。相変わらず「自分は変わりたいと本気で思っているんだ」と強く思い込むことで、心に嘘をつかせている。

何だかんだ言っても、彼らはそんな自分が大好きなのだ。「あれこれ悩んでいるように振舞っている自分」「より良い自分になろうともがいているように振舞っている自分」が、彼らは愛しくてならない。「被害者側」「迫害される側」に自分を置くことで、ある種の「安心感」を得る人達。自虐的なものを好む人は、確実に存在するのだ。

彼らはまったく気づいていない。自分の意識の底に、複数の強烈な「願望」が存在することに。彼らはなりたいのだ。「悲劇のヒーロー」や「悲劇のヒロイン」に。喜劇やハッピーエンドの物語の主人公より、「悲劇の主人公」のほうが、人目を引きやすいことを「本能」で知っているから。

ある意味、非常に動物的な人達なのかもしれない。人間は、「自分より下にいる他者」を見て、ある種の安心感を得るようなところがある。そういった「ツボ」を瞬時に嗅ぎ当てる彼らの能力は、飛び抜けたものがある。

「自分を見てほしい」というのが、彼らの最も強い願望なのだ。「解決したい」「改善したい」と言いながら、次の瞬間にはその「欠点」や「問題点」を盾にして言い訳に終始する―それは、相手に自分を注目させる時間を長引かせるためなのだ。非常に屈折したやり方なので、世間の大部分の人には理解されない。結果、彼らはますます「孤独」を深めることになる。「どうして自分だけが」「誰も自分を理解してくれない」特徴の一つである「過剰なまでの被害者意識」は、そこに由来しているのだ。

大抵の場合、その種の人達の人間関係は、いろいろな意味で「希薄」だ。「破綻している」と言ってもいいくらいの人もいる。「プロ」を利用するのは、絶対に注目せざるを得ない「客」の位置に自分を置くことで、正々堂々と、一定の時間、相手の注意を自分だけに向けさせておくことができるから。基本「相談料無料」の家族や友人知人ならこうはいかない。相手の都合もあるし、そんなことが頻繁にあれば、嫌がられたり避けられたりする可能性も出てくる。いわば、「お金」という対価と引き換えに、「人からの注目」を買っているということだ。

次々に医師を変える「ドクターショッピング」ならぬ、「セラピストショッピング」「カウンセラーショッピング」の常習者も多い。彼らがそれを行う「タイミング」は、「相手が自分の思うようにならなかった時」だ。その人から、自分の欲しい反応や言葉が返ってこなかった時、彼らは「次」を探しにかかる。

彼らには、「改善」などという気はさらさらない。なぜなら、自分自身を誰よりも強烈に愛しているのだから。そんな愛しい存在を、「変えよう」などと誰が思うだろうか。「今の自分」「そのままの自分」が好きでたまらないのだから。そんな自分を変えてしまう人間やアドバイスなど不要なのだ。だから、それらをことごとく撥ね退け、排除する。彼らが欲しいのは、「注目」と「肯定」だけだ。

「こっちはちゃんと料金を払ってる客なんだから、買った時間の分だけニコニコしながら話を聴いてりゃいいんだよ」彼らの言い分はこんなところだろう。変化、改善―そんなものは端から望んではいないのだ。「私を見て!」「ぼくを見て!」それこそが彼らの「真意」であり、一番強く「求めているもの」なのだ。


【追記】最近、この手の人達の話を、同業者の友人知人達から立て続けに聞いた。セラピストやカウンセラー等から気に入った反応が返ってこない時、彼らが吐く決まった「台詞」がある。「どうせ金のためにやってるんだろ?」判で押したように、この言葉が返ってくる。「ええ、そうですけど。それが何か?」と。この仕事で生計を立てているのだから、「金のために」というのは、「おっしゃるとおり」だ。こちらは「仕事」として、技術と時間と場所を提供しているのだから、「対価」が発生するのは当然かと。

「金儲け」という意味でそれを言っているのなら、「冗談じゃない」と。利益重視で仕事をするのなら、こんな面倒で、手間がかかって、「アブナイ人」との遭遇率がかなり高くて、心身共に疲れる仕事なんかするかっつーの。

言わせてもらえば、こんな「非効率的な仕事」はない。実際、疲労困憊して半年~1年で辞めていく人もかなり多い。「料金を支払う側」という立場を利用して、施術時間をあの手この手で引き延ばして、規定の時間の3~4倍くらいの時間、居座って帰らないような人もいる。匿名や成りすましの悪質な迷惑行為をする人もいる。そういうことをしておいて、「金のために云々」とか。こっちにも言いたいことは山ほどあるんですけどね。まあ世の中、いろいろな人がいるものだ。

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騙し絵

 2012-05-15
初対面の人や初めて訪れた場所に対し、「以前この人に会った気がする」「前にもここに来たことがあるような気がする」という感覚に駆られた経験を持つ人は多いと思う。まったくその経験がないにもかかわらず、かつて経験したことがあるように感じることを、「既視感/デジャ・ヴ」と言う。

これに対し、「未視感/ジャメ・ヴ」というものがある。見慣れていたり、既に体験している物事や人に対し、まるでそれを初めて見たり、体験したりするかのように感じること。まるで未知のものが目の前に突然現れたかのような、ある種の新鮮さや驚きを以ってそれを見つめること。

時々、セラピストやカウンセラーを目指している人達に聞かれることがある。「この職業に最も必要なことは何ですか?大事なことは何ですか?」と。多分、その答えはセラピストやカウンセラーの数だけ存在する。そして、そのどれもが「正解」なのだと思う。私にとってのそれは、「未視感を提供すること」だと思っている。相談者―クライアントに対し、「もう一度これを見てみませんか?」と提案すること。「別の角度からの視点を示す」と言い換えてもいい。

セラピーやカウンセリングを受けに来る人達に限らず、人間は、悩みが深い時ほど一つの視点に縛られていることが多い。「そこから見えるものだけに執着している」と言ったほうが正確かもしれない。それと同時に、自分の悩みの種であるそれ自体を、実は彼らは「それほどよく見ていない」のだ。

表面に表れている部分だけを見て、慌てたり、怯えたり、嫌がったり。大抵の場合、悩みや問題というものは、本人にとって「不都合なもの」だ。出来れば避けて通りたい「好ましくないもの」。ある種の防衛本能とそれに伴う条件反射なのだと思うが、それらをじっくり見ようとする人は少ない。

虫や爬虫類、そりの合わない相手等、「嫌いなもの」「苦手なもの」というのは、生理的に、いわば本能が拒否しているものだ。だから、視界に入った瞬間、パッと目をそらす。例えば、ゴキブリが苦手な人に、「ゴキブリの足は何本あるでしょうか?」と聞いても、多分答えられない。なぜなら、「それをよく見たことがないから」だ。「嫌い」「嫌だ」という「感情」ばかりが先に立ち、「冷静さ」や「思考力」が失われる。その結果、「観察」まで手が回らなくなるのだ。

問題や悩みというのは、いわば「苦手なもの」「嫌いなもの」なのだ。ゴキブリや犬猿の仲の相手と同等のもの。だから、それを避けようとする。嫌悪感が先に立つので、出来ればさっさと視界から消えてほしいし、どうにかして回避したい。手っ取り早くそれを片付けようと焦るあまり、上辺だけの「対処」になる。

今現在とりあえずパッと思いついた方法を用いて、一刻も早くそれを何とかしようとするのだが、如何せん「咄嗟に思いついた方法」だ。それも、ろくにそれを見もせず、「なんとかしなきゃ!」という一心で、慌てふためいて出てきたものなので、根本の「解決」には至らない。的外れであることが多い。「方法」というより、単なる「反応」でしかないからだ。

だが、当の本人は、それは命綱にも等しい唯一の解決方法であるという強い思い込みを持っている。その為、なかなかそれを手放そうとしない。「この方法しかない!」「これで何とかなるはず」と、相も変わらず同じ一つのやり方で、悩みや問題と格闘し続ける。違う思考、違う視点―「他の可能性の存在」がまったく目に入らない状態なのだ。

「悩みに囚われた人達」が、同じ場所をぐるぐると回り続けた挙げ句、いつまで経っても埒が明かないのは、「嫌悪感や焦りのあまり、その正体をよく確かめていないことが原因」と言っていい。この状態を何とかするのが、セラピストやカウンセラーの仕事。

今クライアントの目に映っているものを、まず一緒に見てみる。だが、それは「見る」ではなく、「観る」だ。客観性を持った、いわゆる「観察」。感情や損得、自分個人の価値観等を一切交えず、冷徹とも言える眼で、それをしげしげと丹念に「観る」のだ。

そして、その観察から導き出されたものを、クライアントに提供する。「あなたにはこう見えているようですが、実際はこうみたいですよ」「あなたの目指すところはここですよね?だったらこの部分をこうしてみませんか?」という感じで。それにより、クライアントに「未視感」がもたらされる。

今まで自分が見ていたものを、「あれ?」っと、おっかなびっくりながらも、まじまじと見つめ始める。視点や思考を変えるだけで、それまでとはまったく違う姿が出現するのだ。「今まで自分が見ていたものは何だったんだろう」不思議がる人も少なくない。

見え方によって、様々な絵柄に見えるように描かれた絵を「騙し絵」と言う。最初に見た時はトロフィーの絵柄だったのに、視点のポイントを変えてそれを見てみると、今度は人間の横顔が出現したり。同じ一つの絵の中に、実は何通りものモチーフが描き込まれている。そして、それらは視点を変えることで、次々に姿を現すのだ。今まで一つの絵柄しか描かれていないと思って眺めていたキャンバスの中に、いくつものそれがあることに気づき、驚き、それをもう一度新鮮な気持ちで眺める―「未視感」は、騙し絵を見ている時の感覚と同じだ。

「ここには一つのモチーフしか描かれていない」クライアントがそう思い込んでいる絵を、実はいくつもの他の絵柄が描き込まれている騙し絵だということに気づかせること―「ここに目の焦点を合わせてじっと見てください。うさぎが見えてきません?」「この角度から見ると、女の子の顔が見えてきますよ」セラピストやカウンセラーの役割とは、いわば「ガイド」になることなのだ。今までクライアントには見えていなかった、だが実は「既にそこにあったもの」を示すこと。

描き込まれた他のモチーフの存在に気づくことが、クライアントの悩みや問題の解決へと繋がっていく。視点を変えれば、ピンチがチャンスになることもある。絶体絶命だと思い込んでいた状況の中に、打開策が見えてきたり。だが、それは「既にそこにあった」のだ。たった一つの視点とそこから見えるものにこだわり過ぎていたせいで、今までそれに気づかなかっただけ。

同じ一つのものを、どれだけ違う角度から観ることができるか―重要なのは、そこなのだ。騙し絵の中に見るいくつものモチーフ―人や物事はそれとよく似ている。それらは、「たった一つの要素」で成り立っているわけではない。たとえそれが見慣れた景色であっても、視点を変えれば、いつでも新鮮な驚きや感動をもってそれを見つめることができるような、そんな不思議な奥深さを備えたものなのだ。

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 2012-05-11
最近スピリチュアル系ブログでよく見かける「ガイドスピリット」という言葉、「何よそれ?」と調べてみたら、やはり出所はオーラ教教祖だった。この方、何でもカタカナに直すのがお好きなようで、ご自身の肩書きでもある「スピリチュアリスト」をはじめ、「スピリチュアルフード」とか「オーラマーキング」とか、教義の中にやたらカタカナ表記が目立つ。

例によって、件の「ガイドスピリット」も同様。説明によると「守護霊の一部」とか。「だったらそのままでよくね?」と思うのだが、日本語でそのまま「守護霊」とするよりも、胡散臭さがかなり払拭され、どことなくおしゃれ感が漂うものになる。「喫茶店」を「カフェ」と呼ぶようなものだ。

「守護霊」だの「背後霊」だの、そういった言葉は、新興宗教やその手の関連セミナー等の勧誘にさんざん使い回されてきた要素。カタカナ表記に変えただけで、おどろおどろしさが一掃される。そういったレッテルの付いた怪しさ満点の団体や世界とは一線を画したいのね、と。

いろいろな意味で「カタカナに弱い日本人」向けの「戦略」の一つでもあるのだ。能力的にはイマイチなサラリーマンでも、「それにはやはり先方のコンセンサスが」とか眉間に皺を寄せながら言っていると、「それなり」に見えたりするのと一緒。

そうすることによって、「なんだかよくわからないけど、とりあえず高尚な事っぽい」と思い込ませることができる。字面といい響きといい、そのままの日本語表記だとあくの強さを感じさせるその言葉を、適度に「暈す」のにも都合がいい。そこに生じる「曖昧さ」が、逆に効果を挙げるのだ。警戒心等心理的なガードも一気に下がる。


何でも「ガイドスピリット」というのは、その人の職業・才能・趣味等を司る存在らしい。それを生かした人生に導いてくれるとか。芸術家には芸術家の、医師には医師のガイドスピリット・・・というように、才能や職業等いろいろな意味で「自分と類似する存在」がつくのが一般的らしい。その人の興味の変化に応じて途中交代することもあるとかないとか。

最近の巷のスピリチュアル系サロンでの「流行」は、この「ガイドスピリット」を鑑定することのようだ。直接対面やメールや電話―鑑定スタイルはいくつかあるようだが、猫も杓子も「あなたのガイドスピリットを鑑定します!」とやっている。今現在教祖が力を入れていること―最新著書等で「売り」にしているネタが、そのまま業界の流行となる。それを鵜呑みにして真っ先に踊らされているのが「信者兼スピリチュアリスト(自称)」である業界人。何というか・・・実に香ばしいですな、と。

スピ業界の「流行度」を調べてみようと「ガイドスピリット鑑定」のキーワードで検索してみたところ、なんと約29万件がヒットした。目に付くサイトをざっとチェックしてみたのだが、すべて「本物の」を謳っている。鑑定方法も、「依頼人の名前だけでOK」というところもあれば、メールや手紙等に相談内容や興味の対象、現在の職業等を記述した上に、写真の添付が必要なところもある。

写真?現在の悩み?興味のあること?職業?それだけ「情報」があれば、霊能力がなくても「鑑定」は可能ではないか。「鑑定」というより、単なる「コールドリーディング」じゃないの?と。「観察」によって、相手からより多くの言葉や情報を引き出す方法。カウンセラーやセラピストが用いる心理学的な手法だ。

スピリチュアル業界には、「霊能力」でなく、この方法で「鑑定(と本人が思い込んでいるもの)」を行っているプロも多い。厄介なことに、「自称霊能力を持つ人」自身がそのことに気づいていなかったりする場合もある。騙してやろうとかそんな気はなく、無意識にその手法を使っていたりするから、余計にややこしいのだ。そして、そういう鑑定者ほど、依頼人の「情報」を要求する。「霊能力による鑑定」を謳うなら、それこそ名前一つで事足りると思うのだが。その他諸々は不要じゃない?と。

例えば、写真一枚あれば、いくらでも「推測」は可能だ。顔つきや服装等「外見」というのは、大きな情報源だ。観察力と想像力がある人は、対象が面識がない人であっても、写真に写っているその外見から、性格や嗜好をかなり突っ込んだ部分まで正確に読み取ることが出来る。霊能力を使わずとも、それは十分可能なのだ。

大体、才能や趣味を生かした人生に導く存在で、一般的に医師には医師の、芸術家には芸術家のそれがつくことが多いというなら、今の職業や興味のあることに関するものを適当にくっつけるだけで何とでも言える。「仏教に興味があるんです。お寺巡りが好きなんです」と言う人には「あなたのガイドスピリットは、禅宗の修行僧です」、「現在法律関係の仕事をしています」と言う人には、「中世ヨーロッパで裁判官をしていた人がついていらっしゃるようですね」とか。

ブログで度々「スピリチュアルってどーよ?なんかおかしくね?」という内容を取り上げる私などは、さしずめ「魔女狩りの時代の異端審問官」か「自分の勘に引っかかった取材対象を徹底的に追いかける新聞記者」というところではなかろうか。インディアンジュエリーを扱う仕事をしていた時は、きっとネイティブ・アメリカンでもついていたんでしょーよ。ここ数年ヨガに熱中している友人のガイドスピリットは、「インドのヨガ行者」に間違いない。アロマテラピストの友人は、「古代中国の漢方医」とかね。

それこそ「何とでも言える」のだ。「疑われるのは心外だ!」と言うのなら、依頼者本人に関する情報を、一切聞かずに鑑定してみれば?と。「あなたの趣味は?現在のお仕事は?」そんなことを逐一聞いた上でだったら、それこそガイドスピリットの定義を知っている人であれば、誰でも「鑑定もどき」は可能なのだから。


先日、テレビを点けたらたまたまNHKの「高校講座 地学」を放送していた。その内容が「宇宙の成り立ち」についてだったので、興味を引かれてそのまま見ていた。その中で、宇宙を構成する物質について触れていたのだが、思わず「へぇー」と。

それによると、宇宙は73%のダークエネルギー、23%のダークマター、4%の通常の物質で構成されているらしい。全体の96%を占める「ダークエネルギー」と「ダークマター」―つまり、宇宙の大部分は、「正体不明のエネルギーと物質」で占められているということだ。

宇宙や自然は、人間を含めた生き物と不思議な繋がりがある。女性の生理周期と月の満ち欠け、人の出生や死亡時刻と潮の満ち干き等、深く関連している。だったら、宇宙の状態―96%が正体不明の「ダークなモノ」で構成されているというその状態が、この地球上の何か―特に「人間」に反映されていても不思議ではない。

何かにつけて「宇宙の法則」「宇宙の真理」とやらを持ち出すスピリチュアル業界人が、さしあたってそれに該当する可能性が一番高いかと。こぞって「本物」を謳う29万件の鑑定者―その現状と照らし合わせれば、それは意外ではないかもね、と。正体不明の「なんだかわかりまへん」という96%の謎のモノで成り立っている宇宙―スピリチュアル業界の真贋の比率と符合する気がしてならないのは、果たして私だけだろうか?

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6月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2012-05-08
2012年6月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2012年6月10日(日) 13時~15時(おおよその目安時間です)

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)*定員に達しました。 

■申し込み方法 : 6月7日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループ主催の会合への参加、心療内科等各医療機関の受診や専門カウンセラーによるカウンセリング等をお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にも通院中であること・医師の許可を得たこと等をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。(その場合、少なくとも退院から3ヶ月以上経過してからのご参加をお願い致します)


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~3時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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マイノリティー・レポート

 2012-05-06
「あの人、変わってるよね」日常でよく聞く言葉。その「変わってる」は、良い意味でのものなのか、それとも悪い意味でのものなのかは、話し手の表情や口ぶりから判断するしかない。だが、多くの場合、それは話し手の感情論でしかない。そこに明確な道理や理屈はない。思考や行動、外見等相手を目の前にした時にどう感じたか―という、いわば「感想」なのだ。

セラピストの仕事に就いて以来、「変わっている」という言葉を怖がる人が多いことに驚いている。「人がどう思うかを考えたら怖くて・・・。変な人って思われたら嫌なんです」その言葉が自分に向けられることがないよう戦々恐々としている。言いたい事ややりたい事があるにもかかわらず、人の目を恐れる余り何もしない。フラストレーションを抱え、ただ悶々としている状態。一般の多くの人々と同様の程度や状態であること、「人並み」という言葉とその概念が「基準」となり、至るところで幅を利かせている社会ならではの悩み。

多くの場合、この国では、「変わってる」ということは、「=変(へん)」を意味する。「異常」「奇妙」というネガティブなニュアンスで使われることが圧倒的に多いから。誰かから「変わってるね」と言われれば、それは自分がその場所にふさわしくない排除されるべき「異物」「異端」の存在であること、ある種の「マイノリティー」のレッテルを貼られたも同然のことになる。

「変わった人」この言葉を耳にする度に思う。そもそも、何を以って「変わっている」というのだろうか?と。正確には、「違っている」「違った人」なのだ。何と?誰と?勿論「自分と」だ。人間は、常に「自分」を基準にする。あくまでも「正常」なのは自分であり、自分こそが「標準」なのだ。自分と比べてどうなのか―結局終始するのはその部分。

言ってみれば、人間にとって、「自分以外の人間は、全部変でおかしい」のだ。親兄弟であってもそれは同じ。「自分以外のすべての人=変わった人」になる。反面、相手からしてみれば、自分のほうこそが「変わった人」なのだ。まあそれはお互い様というところ。

他者との、何かとの「違い」というものに対して、この国の人々は独特の感覚を持っている。思考や行動、好み等自分が大多数の人のそれと違うことに強い恐怖や不安を抱く反面、突出した存在になることにも憧れる。「違った人」を羨みながら、それに反発する。「変わっている」という微妙なニュアンスを持つ言葉で、その相反する思いを表現する。憧れ、羨望、嫉妬、非難、侮蔑―この国では、「変わっている」は、忌み言葉でもあり、褒め言葉でもあるのだ。

20代の頃在住していたアメリカは、「個性を重視する国」だった。日本とは正反対の、いかに自分をアピールするかという文化。学校や職場でも、「人と違うこと」が求められる。誰かや何かの「コピー」「受け売り」ではなく、いろいろな面で「ユニーク」であること―思考や行動を含め、その人自身の「核」から出た独自の「何か」がそこにあることが重要なのだ。幼いうちから、「人と違う点=自分の個性」を見つけ、それを大切に扱うことを教えられる。同時に、自分以外の人達のそれを尊重することも。

「違っている」がポジティブに捉えられ、歓迎される文化なので、それに関する褒め言葉や表現には事欠かない。「人と違って当たり前」なので、日本のように「人と違うこと」が、即「マイナス要素」「好ましくないもの」と結びつけられることはない。たとえその人の「違い」が自分にとって受け入れ難いものでも、理解し難いとわかっているとしても、その人がそこに至るまでに辿った「プロセス」を知ろうと試みる姿勢がある。

少なくとも、日本のように、現在表面に出ている部分をちらっと見ただけで、「変わっている」の一語で片付けて、後は遠巻きにヒソヒソコソコソ言いながら見ているだけ―ということはない。「なぜあなたはそう思うのか?なぜそうするのか?」と必ず問われる。

「出る杭は打たれる」「多勢に無勢」の感があるこの国で、「マイノリティー」になることを躊躇する気持ちはわからないでもない。だが、「変な人」と思われるのが嫌なばかりに、自分の気持ちや思考を曲げたり諦めたりするのはちょっと違うんじゃないの?と。「個性的と言われる人になりたい」「飛び抜けた存在になりたい」と言うのなら、人の目を気にしてる場合じゃない。「どっちもほしい」は通用しない。ほしい物を手に入れたいなら、それに伴うリスクを背負う覚悟も必要になる。

どうせ「自分以外はみんな変でおかしい」のだ。だったらいいじゃん。腹をくくれば?「結果」を思いわずらうよりも、「動機」を優先させたら?と。「違った人」になりたいのなら、「変人上等!奇人上等!」と自分から開き直ってやればいいのだ。他人が勝手に設けた「基準」に自分を合わせようと右往左往して、挙げ句に疲労困憊して―あなたは一体何がしたいんですか?何がほしいんですか?と。「他人から見た自分」を知ることも大事だが、それは「=気にする」「気に病む」ということではないのだ。

「でも日本にいる限り、やっぱりそれは難しい」と言う人は、多分どこの国に住もうが、今とまったく同じことを言っているはずだ。そんな今の自分の状態を作った原因を「環境」のせいにしているうちは、何も変わらない。「原因は自分」でしょ?と。マジョリティーのグループから外れて孤立することを恐れて、その場に留まっていることを選んでいるのは、他ならぬ自分自身なのだから。

「変わった人」と呼ばれる側の人間からしてみれば、そちら側の人達のほうが、よっぽど不思議で変わっている。自分の思考や感情より、自分以外の人達のそれを優先させることを選ぶなんて、一体誰のための、何のための人生なのかと。

「変な人」と呼ばれることが「不幸」なのではない。そういった曖昧な言葉に囚われていることが「不幸」なのだ。そして、最大の不幸は、そうやって不安定な他人の価値観や感情に迎合して、どんどん自分の核を切り捨てていった挙げ句、最後に残ったものは虚しさと後悔だけだった―という状態に陥ることだ。

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象を撫でる

 2012-05-03
【群盲象を撫でる(ぐんもうぞうをなでる)】多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分だけで巨大な象を評するように、凡人が大事業や大人物を批評しても、単にその一部分にとどまって全体を見渡すことができないことをいう。「群盲象を評す」(広辞苑より)

「すべてやり尽くしたので、これからは自分のためでなく、家族や周りの人達のために生きていこうと思うんです」「やりたいことが見つからないんです。ほとんどのものには手を出してきたんですけど」時々、こんなことを言う人達がいる。だが、そういった言葉を聞く度に思う。「ちょっと待った」と。

「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」彼らは簡単に口にするが、実際のところは、「自分が満足する範囲の程度で」なのだ。「その人が今までいた世界の中に限っての―」ということ。そもそも、何を以って「すべて」「ほとんど」と見なすのか?「やり尽くした」とはどの程度を指すのか?ということになる。

結局、「自己申告レベル」「自己満足レベル」のものなのだ。「もうやれることは何も残っていない」と思っているのは、本人だけだったりする。「思い込み」と言ってもいい。

生き方を含め人生に関わることについて、「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」と言う人ほど、実は限られた視点からでしかそれを見ていない。それにまつわる体験も、実は非常に乏しいものだったりする。そうでなければ、こういった言葉は出てこない。それは、本人の決めつけから出たものであって、実状からのものではないのだ。


「見るべき程の事は見つ。今は何をか期(ご)すべき」平家一門の栄華と没落・滅亡を描いた「平家物語」の中にある一節だ。平清盛の四男で、「平家屈指の知将」と謳われた平知盛の言葉。「我らが平家一門の行く末、見届けることはもうすべて見届けた。この後何を期待することがあろうか」源平最後の合戦の地である壇ノ浦の戦いでの勇戦後、知盛はこう言って入水(自害)する。

平均寿命が30歳位だったと言われるその時代、33歳の知盛は人生の最晩年期だったと言える。現代のように科学も医学も文明も発展しておらず、海を渡った先には、肌や目や髪の色が違う人々が暮らす国が数え切れないほど存在することさえ考えつかないような、人間の生き方が非常に限られていたその時代において、多分彼の言葉は真実だったのだと思う。「見るべき程のことは見つ」そういった時代に生きた人の言葉だからこそ、重みを持って響くのだ。

今現在、科学や医学の進歩に伴い寿命も延び、文明も発展の一途を辿っている。それを良しとする向きもあるが、その分「長く退屈な時間」も増えることになる。人間は、それをやり過ごす方法、「暇つぶし」を見つけることが必要になったのだ。

800年前には、ごく当たり前の日常―労働や育児、家事等、人間の生活の最低限度の要素をこなすだけで慌しく過ぎていった日々や人生が、今や大きく様変わりしている。スイッチ一つでお湯が沸いたり電気が点いたりする便利な生活。表立った身分制度もなく、自由に職業を選択でき、国内外問わず好きな場所を行き来できる。世界中の情報が瞬時に手に入り、内戦や紛争等もなく、日常深刻な生命の危険に晒されることもない。

生き方が多様化し、それが許されている今、この国の人々は飽き飽きしているのだ。「自由」や「選択肢」が多過ぎて、逆にそれをもてあましている状態。それを扱いあぐねている。人間というものは勝手なもので、制限があれば「自由がほしい」と言い、逆に身に余るくらいのそれを与えられると、「どうしていいかわからない」と困惑する。

「家族のために」「世の中のために」「地球のために」今後、自分以外の誰かや何かのために生きると口にする人達というのは、その「無制限の自由」に疲れているのだ。ある種の「燃え尽き症候群」。だが、本人達にその自覚はない。自分以外の誰かや何かに対して「生きる動機・口実」を見出さなければ、「間(ま)」が持たない状態に自分があることに。

その人達に共通しているのは、非常に狭く小さい枠の中に生きているということだ。自ら「根拠のない限界や制限」を設ける人達。自分だけにしか通用しないルールや常識に囚われ、融通が利かない。悪い意味で、諦めが早く、決めつけも強い。多角的に物事を観ることが苦手でもある。その表れが、「誰かの為に」「何かのために」という言葉なのだ。

現代の「退屈している人達」が言う「見るべき程の事は見つ」は、「極めた」という意味ではない。It's not all but a part of it―彼らが「見たもの」は、その中の「ごく一部」でしかない。「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」あくまでも、「限られた範囲内での」という前置きが付く。実際は、「ほんの少し覗き見た」「表面だけ齧った」「一例だけを知っている」という程度。

喩えて言うなら、たかだか2~3種類の業種での数年間の職歴、せいぜい数日から数ヶ月程度の駆け足で主だった観光地を巡る海外旅行、家と職場とその周辺内の人間関係だけで、社会や世界、人間というものを知り尽くした気になっているようなものだ。

平均寿命80年、地球上には約70億の人間がいるこの時代、「見るべき程の事は見つ」としたり顔で言うには早過ぎる。見たいものだけ見、見たいようにしか見ない彼らは知らないのだ。自分達の「勘違い」に。自分が「見た気」「知った気」になっているだけだということを。

この世界は、「未だ見ぬもの」で溢れている。「すべて見尽くした」いとも容易くそう言い切るのは、多分彼らが「見るべきもの」さえ見ていないからなのだ。

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不連続の世界

 2012-05-01
常々思うのだが、男と女では、「時間」に対する観念が異なるような気がしてならない。時間の在り方そのものが―と言ったほうがいいかもしれない。例えば、女にとってのそれが、「過去」「現在」「未来」というように、きっちりと区分けされ、電車の車両のように一本の線上に連続して存在しているものだとするなら、男にとってのそれは、脈絡もなく、「点」の状態でばらばらに存在しているような感じ。

女の場合、意識が「現在」から「過去」に向かう時、それらを区切る扉をいちいち開け閉めして行き来するようなものなのに対し、男のそれは、ただ点から点にジャンプするだけのような。自分がいる現在地点から、一挙にポーンとその過去の地点に飛ぶのだ。タイムスリップするような感じで。女のそれのように、一貫した流れがない。男にとっての「時間」とは、継続性のない、いわば「ぶつ切り」の状態で存在するものなのだ。

例えば、学生時代の同窓会で、数十年ぶりに当時付き合っていた人や片思いをしていた人に再会したとする。その瞬間、長い空白期間があるにもかかわらず、相手に対して、まるで昨日までずっとその人のことを想い続けていたかのように強いときめきを感じてしまうのは、大抵男だ。そういった場でやたらテンションが高かったり、そわそわと落ち着かないのも圧倒的に男。なぜなら、その瞬間、彼らは「身も心も完全にその当時の自分に戻っている」から。

「過去」に飛んだ男の頭の中からは、「さっきまで自分がいた場所」のことはきれいさっぱり消えている。彼らにとっては、「今自分がいる場所」がすべてになる。「過去」にタイムスリップしたのなら、そこが彼らにとっての「現在」になる。「社会人になっている自分」「妻や子や彼女がいる自分」ではなく、「その人を好きだった学生時代の自分」に戻るのだ。

それに対し、女は、常に「過去」と「現在」の違いを意識している。たとえ当時のことを思い出したり懐かしむことはあっても、「でもあの頃とは違うよね。もう終わったことだから」という意識が常に頭の中にある。あくまでも、「過去は過去。今は今」でしかないのだ。男のように、身も心も、意識でさえも丸ごと戻ることはない。常に「現在」に自分の一部を残している。ひと時その時間の中に身を置いて楽しんだとしても、時が来れば、女はさっさと「日常」に戻るのだ。「過去」と「現在」を区切る扉を開け閉めし、今現在自分が身を置いている流れ、「現実」の中に、またすんなりと帰っていく。

昨年、往年のアイドル達が出演して話題になった某化粧品会社のCMソングにも使われて大ヒットした斉藤和義氏の「ずっと好きだった」は、まさにそういった「男の特徴」が表れている歌だな、と。高校時代にずっと憧れていたマドンナと同窓会で久しぶりに再会した心境を詠った曲。世代を問わず、世の男性から絶大な支持を受けたのだが、あまり女性受けがよろしくない。メロディーも独特で耳に残る印象的な曲なのだが、その歌詞が、あくまでも男目線からの、いわば「男特有の感覚から生まれた男のための歌」なので、女は共感できないのだ。

サビの部分に繰り返し使われている「ずっと好きだったんだぜ」という言葉は、女の側からしてみたら、「ちょっと待て」なのだ。「ずっと好きだった?でも今日私と再会するまでの間、好きな人や付き合った人もいたでしょ?『私のことをずっと好きだった』っていうのは、最後に会った日から今日までの間、脇目も振らずに私のことだけをひたすら思い続けてきた場合に限って言える言葉なんだからね」となる。

「ずっと好きだった」というその言葉のニュアンスは、男と女ではまったく違うのだ。女にとってのそれは、「過去から現在まで、一瞬たりとも自分のことを忘れたことはない。恋人も作らず、結婚もせず、会わなかった年月を含め、自分に対する好意をずっと途切れることなく持っていた」ということを意味する。「過去から脈々と継続しているもの」を指す。

だが、男にとってのそれは、まったく違う。「時間」が点と点で存在しているので、会わない年月が長かろうが、その間彼女のことを一度も思い出したことがなかろうが、今現在彼女がいようが結婚していようが、臆面もなく「ずっと好きだった」と言ってのける。「彼女を好きだった」という「点」は、相変わらず存在しているし、そこに行けば、その地点が彼にとっての「現在」になる。「好き」という気持ちが現在進行形で自分の中に戻ってくる。彼らにしてみたら、それは「矛盾」ではないのだ。「ずっと好きだった」という言葉は、あながち「嘘」ではないのである。

「男の恋愛は『フォルダー別保存』、女の恋愛は『上書き保存』とはよく言ったもので、男は、過去の女達との思い出やその時にまつわる感情まで、彼らはそっくりそのまま「フォルダー」に保存する。「これはA子のフォルダー、こっちはB子のフォルダー」というように。そして、そのデータを呼び出す時、彼らは身も心も瞬時に「その当時の自分」に戻るのだ。

例えば、A子さんとの別れが、お互いどこか未練を残すものだったりした場合、何年経とうが、「あいつの中には、俺のことを好きだという気持ちがまだどこかに残っているに違いない」と思い込む。彼の中には、A子さんとの思い出が、当時の状況そのままに保存されている。そして、意識がそこに向かう時、それに関する「データ」が再生されると同時に、彼にとっては「過去」が「現在」になる。気持ちは、あの時の未練の別れの瞬間に戻る。そんなふうに「時空」を自在に行き来できるので、きっと相手も自分と同じ気持ちに違いないと思い込むのだ。

だが、男と違って「上書き保存」の女には、その理屈は通用しない。いくら元カレとの別れが未練たっぷりのものであったとしても、ひとたび新しく好きな人や彼ができれば、女は「前の男」のことはきれいさっぱり忘れる。フォルダー別に、タイトルまできっちりつけて保存する男と違って、それはもう見事なくらい、元カレのデータを何の躊躇いもなく消去する。あれだけ大切にしてきた記念日や誕生日もどうでもよくなる。彼にまつわるすべてのことが、ただの「記号」と化す。そして、「新しい彼」についてのデータ収集と書き込み作業に熱中するのだ。

男が「女は冷たい」と言うのは、この部分だ。「情の欠片もないのか!?」と言われても、「だってあなたとはとっくに終わってるじゃない。今さら何言ってんの?」としか答えられない。女が過去の男を思い出す時の心理状態は、「古いアルバムをめくっている時」と同じだ。「ああ、昔この人のことを好きだった時期があったな」という感じ。そこに強い感情は存在しない。せいぜい「なつかしい」というレベル。昔の女の記憶を当時の感情込みで後生大事に保存する男との一番の違いだ。

女の場合、「事実」だけが残るのだ。「そういえば、そういう人がいたよね」という感じで。過去から現在までの「区切り」がきっちりしていること、感情面を含め、「すべて」をきちんと整理をつけた上で次に向かうので、男のように、わざわざそれを独立した「点」「フォルダー」として残さない。あくまでも流れの一部、「過去に通り過ぎてきたもの」として処理されるので、彼女達の中では、その当時のことは「思い出」というより、「記録」に近いものになる。だから、昔の男と再会しても、大抵女のほうは淡々としている。

だが、男は違う。「過去のことだ」と納得しつつも、彼女に会えば、当時の気持ちが「現在進行形」のものに取って代わる。落ち着いた、場合によっては「つれない」とも言える彼女の様子に「やっぱりこいつとは終わったんだ」と改めて認識しつつも、心の一割の部分では、「もしかして」「あわよくば」という可能性を期待している。男性がストーカー化する要因は、多分こういった部分にあるのではないかと思う。

女にしてみたら、とっくにけりがついている問題に、未だそういった感情を抱いている男が理解できない。「未練」としか映らない。はっきり言えば、「傍迷惑な妄想」の域でしかない。新しい男の出現と同時に、「昔の男にまつわるすべて」をバッサリ断ち切る女には、「あわよくば」「もしかしたら」は存在しない。女にとっての「運命の人」は、「今の男」なのだ。男の「一割の期待」は、女には「男の能天気さ・おめでたさ」を示すものでしかない。

男の中では、過去・現在・未来という「時間」の区別は存在しない。彼らにとって、時間とは、「一つの流れ」ではなく、それぞれが独立したものなのだ。そして、それらは並行して存在している。そのすべてが同時進行している世界。常に「もしも」が存在している世界―ある種のパラレルワールド。男という生き物は、そこを自在に行き来する「時間旅行者」なのだ。

「連続した世界」の住人である女と、「不連続の世界」の世界の住人である男―所詮「異人種」なのだ。この先もずっと、多分未来永劫これら二つの世界が完全に混じり合うことはないのだ。

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