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ファム・ファタール

 2012-04-29
「男は、その女にとっての『最初の男』になりたがり、女は、その男にとっての『最後の女』になりたがる」男と女の、「生き物」としてのそれぞれの「特性」を表している言葉だ。

ただ、最近の世間の様子を観ていると、そのセオリーが崩れてきているような気がする。多分ここ数年の不安定な世相を反映しているのだと思うが、男女とも「最後の相手になりたがる人」が増えている。

その表れの一つが、いわゆる「婚活」。特に昨年の東日本大震災以来、誰かとの絆を求める人が性別や年齢を問わず増え、婚活パーティー等は大盛況だと聞く。

その一方で、「男性の女性化」に拍車がかかったせい―指摘する向きもある。「○○男子」と称される男性達の出現。確かに「男」「オス」ではないな、と。料理男子やスイーツ男子、べつに悪いとは言わないが、正直、今現在の世の中、「男性」というよりは、「男の子」って感じの人が目立つよね、と。

いろいろな意味で「中性的」というか。外見がどうこうというだけでなく、オス特有のエネルギーを発している人が減っているような。妙に油っ気がなく、「さらさら・つるつる」という感じ。「草食系」とはよく言ったものだ。今はそれがさらに進んで「植物系」なのだとか。草を食べるどころか、自分が草そのものになっちゃったという。

「肉食系」の獣チックに「よっしゃあああーーーっ!!」と自ら獲物を狩りにいくのではなく、「どうぞボクを摘んでください」とひたすら待ちの姿勢に徹するというか。10代や20代の、それこそ心身共に人生で一番恋愛に積極的になる年齢の男の子達でさえ、そういう感じ。相手のほうから来てくれることを期待している。

良くも悪くも、「強引さ」「粘り」がない。どこか遠慮がちで、全般的にあっさりしている。「男の子」を通り越して「乙女化」している状態なのだ。だから「最後の男」になりたがるのね、と。「それを招いたのは『女性の男性化』だという意見もあるが、そんなものは「ニワトリが先かタマゴが先か」というのと同じで、多分答えは出ない。

確かに、どの分野においても「最初」と「最後」というのは、いろいろな意味で印象が強いので記憶に残りやすい。特に恋愛においては、それが「特別な機会」である分尚更だろう。初恋を特別視したり、独身時代の最後に付き合った人の印象が他の人達のそれよりも強く残ったりするのは、そういう理由から。

だが、相手にとって、自分が「最初の人」であろうが、「最後の人」であろうが、実はそれほど大した意味はないのではないかと思うのだ。

「どっちでもいいし、そうでなくてもべつにかまわないし、なんでもいい」と思っている私は、「順番」に対する思い入れはない。恋愛において重視しているものが、多分その部分ではないのだと思う。

むしろ、順番どうこうではなく、いろいろな意味で「どれだけ相手の中に強い記憶や印象を刻みつけたか」ということが、おそらく私にとっての重要事項なのだ。「最後の女」になることより、むしろ「忘れられない女」になることを選ぶと思う。

その出会いが男にとっての何らかの「転機」をもたらすような―。多大なインスピレーションの源になるような―。人生のある場面を振り返った時、好むと好まざるにかかわらず、その姿が必ずそこにあるような―。憎しみゆえに忘れたいのに、あまりにもその女との出会いが自分の人生に大きなものをもたらしたために、その存在を絶対に忘れられないものになっているような―。何年、何十年経っても、ふと思い出した拍子に、共にその時の強い感情が甦ってくるような―。

男にとっての運命的な出会いの女。男を惑わし、魅了し、時には破滅に追いやる魔性の女。相手の男にとって、良くも悪くも忘れ難い記憶や思いを残す女が、過去から現在、果ては未来においてまで、実は一番鮮烈な存在となる。

「最後の女」が、必ずしも「運命の女」であるとは限らない。そして、「最後の女」になることが、「=その男のすべてを手に入れた」ということではないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。モラルを守ってくださるようお願い致します。

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こじつけのスピリチュアル

 2012-04-27
最近、スピリチュアル系ブログ―特に「オーラ教信者」と思しきブロガーの記事をチェックしていると、やたら「オーラマーキング」という言葉が出てくる。冒頭に「オーラ」とか「スピリチュアル」をくっつけて、何でもそっちの世界に結びつけるのが、オーラ教教祖のやり方。つい最近まで、「スピリチュアルフード」「スピリチュアル子育て」等という教義を唱えていたが、今度は「マーキング」ですか・・・。思わず「・・・・・・犬かよ( ̄ε ̄) 」と。

マーキングとは、読んで字の如し「マーク=印をつけること」だ。動物が尿などで、自分の縄張りを示すことを指す。お散歩中のわんこが電信柱等にする例のアレ。それにわざわざ「オーラ」をつけちゃうところが、もうなんというか・・・。ネタ切れですか?と。

「霊性の向上がどうたら」「魂の波動がなんたら」と高尚なことを説いていても、所詮は「ビジネス」。次々に新しい「教義(ネタ)」を生み出していかなければ、「客(信者)」はすぐに飽きる。商売は「仕掛け」が肝心だ。それが商機―書籍や関連グッズ、講演会のチケット等の売り上げに繋がる。

スピリチュアル教信者は、「教祖様はそんな下世話な人じゃない!今の世の中を愛で満たすためにスピリチュアリズムを広めようとしているのよ!」」と言うが、たとえそこに10円でも金銭が発生するなら、内容や動機の如何に関係なく、それは立派な「ビジネス」だ。神社仏閣や教会だって同じこと。言うなれば、「宗教ビジネス」。神主や僧侶、牧師や神父はれっきとした「職業」だし、その業務に従事することで生計を立てている。

オーラ教教祖だって例外ではない。「スピリチュアリスト」などという日本人には意味を掴みにくい非常に曖昧なニュアンスの言葉を当てはめているので、大概の人は丸め込まれる。むしろ、その「わかったようなわからないような曖昧さ」が教祖に有利に働いているのだ。どこか高尚さを感じさせる言葉の響きが、ビジネス臭を払拭している。人々に「商売」「売り上げ」といった下世話さを忘れさせるのだ。

だが実際は、他の職業と何ら変わりない。水面下では、がっつりと「ビジネス」が進行している。なぜなら、それが彼の「職業」だから。そして、それを「職業」とするのであれば、利益を追求することも、また当然のことなのだ。

自分が信仰しているものに純粋さや気高さを求める気持ちはわからないでもない。魂とか霊性とか、ある意味「自分の存在意義」に関わるものだ。出来たらそこに「下世話な要素」は入れたくない―と思うのが「人情」というもの。ましてや、崇拝する教祖様が「金銭」「ビジネス」「売り上げ」等といった超現実的でありきたりのフツーの世界とがっちり繋がっていると思うだけで、ちょっとした「がっかり感」がある。

ある種の「生活臭」を感じてしまうと、世知辛い現実世界に引き戻されるのだ。同時に、自分が相変わらず「つまらない存在」であることを思い知らされる。「信仰によってワンランク上の世界に行けたように思ったけど、実際は何も変わっていない。自分は今もこの代わり映えがしない世界に生きているんだ」という現実を突きつけられるのだ。

今の時代、今の環境、今の自分に馴染めず、いわば「現実逃避」からスピリチュアル教にハマっていった信者からすると、それは耐え難いものだ。嫌で逃げたものが、どこまでも追いかけてくるのだから。本人からすれば「たまったもんじゃない」というところだろう。やっと安住の地を見つけたと思ったのに、そこも追われ・・・という状態なのだから。

一切の現実的なもの―批判や否定や疑問の声をひたすら自分達の世界から締め出し、耳を塞ぐ。自分達が信仰するものの先にあるもの・繋がっているものの「裏側」を認めない。彼らは相変わらず「逃げ続けている」のだ。「オーラ教から始まったスピリチュアルという名のオカルト教」の信者に、地に足がついていない「不安定な人」が多く見られるのはそのせいだ。常に何か縋っているものが必要な人達。だから、「オーラマーキング」とかいう、非信者からすると「アホくさ・・・」と呆れるような教義さえ有難がるのだ。

自分のオーラを物や場所に付着させて馴染ませる??その場所に長時間滞在したり、歩き回ったり、手で触れたりすることで自分のオーラがそこに浸透して、自分の存在感が高まったり本領を発揮しやすくなる??そこにいる人達に気持ちが伝わりやすくなったりする??家の掃除をするとオーラが浸透して家族を守る??引越し先の地域に馴染みたい時は、近所中を歩いてオーラマーキングをすると早く馴染める??

もう「なんすかそれ・・・」の内容なのだ。存在感や本領を発揮したいんだったら、オーラをどうこうしなくても、もっと他にやり方があるでしょーが。仕事ぶりとか態度とかで示せば?本領を発揮できる環境や存在感って、そういうことの積み重ねで出来上がるんじゃないの?

人に気持ちを伝えたいんだったら、言葉でそれを伝えれば?「わかってもらおう」「伝えよう」という気持ちがあれば、言葉を尽くしてそれをすると思うけど?何のために人間が「言葉」を生み出したと思ってるんですか。

「どうせわかってくれない」「向こうがこっちを理解するべきだ」ってどこかで思ってません?そういう人って、大抵「言葉が足らない人」なんで。余計なことも言わないかわりに、必要なことも言わない人。言葉を飾ることもしないけど、必要な言葉さえも省く人。自分のコミュニケーションの方法、真剣に見直したことあります?

あなたに足りないのは「言葉」です。言葉。その場所にオーラをベタベタ貼りつけることじゃありません。そんなことするヒマがあったら、コミュニケーション能力磨いてください。「話し方教室」に通ったほうがよっぽど役に立ちます。

引越し先に早く馴染みたいんだったら、ご近所にご挨拶に伺ったら?最近は、そういう挨拶回りも「防犯上」とか「プライバシー上」とかの関係で、どんどんしない方向に向かっているみたいだけど、王道でいくなら、「向こう三軒両隣」のお宅、マンションの管理組合や町内会の役員の方達にご挨拶に伺うとかすれば?町内清掃なんかの行事に参加したり、近所のお店の人と世間話してみるとか。もちろん、日頃のご挨拶は自分からきっちりとね。

「見慣れない人」がオーラマーキングするために、町内中をふらふらぐるぐる歩き回ってたら、中には「不審者」と疑う人もいるかもね。もし万が一通報でもされて、職質なんか受けた日にゃあ、馴染むどころか敬遠されます。町内をさまよってた理由、正直に言えます?「実は引っ越してきたばかりで、早く馴染めるようオーラマーキングをしてまして・・・」どう考えても「変な人」でしょ。それでなくても、宗教・スピリチュアル絡みの事件が多発している昨今です。そういうものに無関心な人・否定する人には、その理由、通用しませんから。

結局、「オーラマーキング」とやらは、「自助」の部分をすべて取り去ることを奨励しているということだ。自分で自分の身を助けること。他人や何かに依存せず、きっちり物事に向き合って、努力して、自分自身の力で向上すべき部分を、オーラをマーキングするとかいう意味不明な独りよがりの方法で何とかなるとそそのかしている。

オーラマーキングの「効能」として挙げられている部分は、すべて「相手ありき」が前提の要素だ。「自分対相手」との関係から培っていくもの。こつこつと積み上げていくもの。教祖本人がどういうニュアンスでその教義を唱えているのか真意は知らないが、人嫌いやコミュニケーションを苦手とする人達は必ず誤解する。「オーラをマーキングさえすれば、すべて上手くいく。わざわざ苦手なコミュニケーションを取らなくてもその場に馴染めるようになれる。自分の存在感が増す。何も言わなくても、みんな自分の気持ちをわかってくれるようになる」

もともと逃避願望が強い人達だ。そういう人達の常で、彼らは「すべて自分に都合のいいように解釈する」という傾向が強い。提唱者本人の意図と大きくずれているとしても、「受け取る側の問題」として片付けられないものがある。そもそも、「普通に、常識的に、周囲と真摯に向き合い、向上心を持って、努力を継続し続けること」をしていたらいいだけの話。オーラをマーキングするとか関係なくね?と。

「言い訳」を探している人なら、間違いなく飛びつく教義。手間をかけずに勝手に一人でごそごそやっていればいいだけなのだから。実際、その教義に飛びついた信者のブログの幾つかに、既に「勘違い」の兆候が現れているけれど。「だから言わんこっちゃない」なのだ。

教祖にしてみたら苦し紛れの珍教義だったとしても、狂信者達にとって、それはまさに「天啓」なのだ。「教団」がここまで巨大化した今、ここで「自己責任」なんて言葉を持ち出すようなら、今後新教義の発表はしないに限る。「特定の思想を真理として語ること」には、それだけの大きな責任が伴うのだ。言いっ放しで放置、「自己責任」の言葉ですべて丸投げ―というのは、無責任の極み。「真理」と断言するのなら、それに殉ずるくらいの覚悟を持たなければ思想は語れない。それが「自分の欠片」であるなら尚更だ。もっとも、件の新教義はあまりにくだらなさ過ぎて失笑を誘うレベルの珍妙なもの。殉教者の覚悟を要求するのは、ちょっと酷なことなのかも。

しかし、スピリチュアリズムに「マーキング」という言葉が登場するとはね。そこまで新ネタに困ってるのかと疑いたくもなる。本来は「霊性」を重視する思想と言っている割に、かなり「目先のテクニック」に走っているような気がするが。これでは、「楽して得して手っ取り早くご利益ゲット!」を謳い文句にするチープな新興宗教と思われても仕方ない。

まあ実際、その「裏側」は、「仕掛ける側」の欲望と思惑が渦巻く超リアルな、「高尚」とは程遠い世界の何物でもないのだけれど。何分にも「ビジネス」なのでね。「次の仕掛け」のための言うに事欠いたこじつけ教義を有難がるのは、狂信者や盲信者だけなのだ。

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紙一重

目論見

元凶

仕掛けられた飢餓感

ファストフード・スピリチュアル

あの手この手のスピリチュアル

増殖

口車

盲信

勿体をつける理由

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残滓

 2012-04-22
【残滓(ざんし)】のこりかす。残ったかす。(広辞苑より)

「自分のほうが間違っている可能性があるとは思わないのでしょうか?」自分が狂信している信仰、「オーラ教教祖が広めたスピリチュアルという名のオカルト教」を批判された信者達が決まって言う台詞。もちろん批判者に対して向けられたものだ。

この言葉、そのまま返そう。彼らのその思考こそ不可思議なのだ。そこまで盲目的に「自分達は正しい」と言い切れる「根拠」はどこにあるのかと。「もし自分が信仰しているものが・・・」と考えてみたことはないのだろうか?

教祖の書いた本をバイブルとして崇め奉って、そこに書いてあることをすべて鵜呑みにする。オーラの色がどうとか、どこそこのパワースポットがこうとか。一連のそれについて考えもせず、検証もせず、無条件に信じ切ってしまうところが怖いなと。挙げ句の果てに、「それが真理です」と言ってのける。

「真理」という言葉の意味をわかって言ってるのか甚だ疑問。万人が、この地球上の人間すべてが一人残らずそれを「そのとおりだ。間違いない」「答えはそれ一つしかない」と認めるのであれば、それは成り立つ。「雪は白い」「猫は犬ではない」というように。

「オーラ教教祖が広めたスピリチュアルという名のオカルト教」及びそのベースにある「スピリチュアリズム」は、「真理」でもなんでもない。ただの「思想」だ。単なる「考え方」であり、一つの思考の形。「こんな考え方が存在する」という、いわば「サンプル」だ。「ある一つの考え方」に過ぎないそれを「真理」として奉るのであれば、それはもはや「宗教」なのだ。

「教祖様の言っていることはすべて正しい。本当のことだ」そう固く信じている信者にとっては、教祖の提示するものは「真理」となる。だが、それは信者だけに通用するものだ。あくまで「その宗教・教団内限定」としてのもの。キリスト教・ユダヤ教・仏教・イスラム教等、各宗教で「真理」とされているものはそれぞれ違う。だが、各々の信者達は、「自分達が信仰するものこそが正しい」と主張する。「我々の宗教こそが真理を語っているのだ」と。

人類史上最古且つ最も長期間続いている争い―宗教対立は、お互いの「真理」の押し付け合いが長じたものだ。スピリチュアル教信者のやっていることも、それとまったく同じことなのだ。

「狂信者」と化した上司に、その手のかなり高額なセミナーをしつこく受講(もちろん自腹)するように勧められてノイローゼ状態になった人。「信者」となった友人が、「許しなさい」「受け入れなさい」等というスピリチュアル教の定番教義を押し付けるようになったことがきっかけで、仲が疎遠になったり絶縁状態になった人。家族がその類のセミナーやその講師に入れ揚げた挙げ句、受講するためのお金を金融機関から多額に借りていたり、「あるがままでいいのです」という教義を真に受けて、黙って職場を辞めていたことが発覚して途方にくれている人。大半の人が「信者」という職場で、まったく興味を示さない人を「魂が未熟だから」と決めつけるその雰囲気に居心地の悪い思いをしている人。「霊能師(自称)の先生から、あなたが自分の伴侶になるべき人だというお告げを受けた」と言い張るストーカーに付きまとわれて迷惑している人―そういった話は一つや二つではない。むしろ、年毎に増加している。

どんな思想も、所詮は人間が考えたこと。必ずしもそれが「万人にとって良いもの・正しいもの」とは限らない。何を信じようと個人の自由。だが、「もしかしたら」と疑いもせず、誰かが提唱した一つの思想―考え方に飛びついて、自分とそれを一体化させるのは、魂を売り渡したも同然のことだ。第三者の提唱するものに自分自身を沿わせているだけ。提唱者のフィルターを通して物事を見ているだけに過ぎない。そこに本人の思考は存在しない。その状態は「洗脳」と呼ばれる。

大体、狂信者達が「真理」と言っているものは、彼ら自身の実際の体験や思考を通じて得たものではない。ただ盲信する教祖の言葉に同調しているに過ぎない。もしそれが自分独自の体験や思考から導き出され、行き着いたものであると主張するなら、そこに至るまでの過程や根拠を明確にできるはずなのだ。

だが、彼らはそれをしない。正確には「出来ない」のだ。教祖の口真似をしているだけ、ただ付き従っているだけなのだから。批判や疑問の声を徹底的に排除するのは、自分達が単なる「コピー」であって、中身は空っぽだということが露見するのを防ぐためだ。「教祖様が真理って言ってるんだから、それは真理で間違いないのっ!」そういうレベルなのだ。

その教祖を信じるきっかけの大半も、「いいことを言っているから」「いい人そうに見えるから」「なんか納得できるから」ただそれだけの理由から。「共感」「好感」を持ったというだけで、「正しい」「間違いない」と思い込む単純さ―完全に「洗脳」「盲信」でしょ、と。

もし万が一、教祖の言っていることがすべて間違いで、嘘だったら?今まで自分が「真理」だと信じていたものが実は違っていたとしたら?自分の存在意義にもなっているその思想が崩壊した後に残るものは?

その思想や信念が、自分の経験や思考から得たものであるなら、それは決して揺るがない。堂々とどんな相手とも渡り合える。だが、特定の宗教にしろ思想にしろ、誰かから植え付けられた考え方や見方が自分独自のそれと取って代わって中心になってしまっている人は、もはやその人自身、「個人」とは言えない。言うなれば、既に「抜け殻」の状態なのだ。植えつけられたものが消失した後は、何も残らないのだから。

過去の例を見たらいい。ドイツのナチズムやイタリアのファシズム―「思想」が何を引き起こしたのかを。特定民族や反体制側の人間達の虐殺、市民的・政治的自由の極度の抑圧、他国への侵略―そこには、道理や理屈に適った合理的な思想や体系は存在しない。もっぱら感情に訴える方法で、国粋主義の思想を人々の中に刷り込んだだけだ。そして、結果そのどちらも、敗戦と共に崩壊している。何やらどこぞの国で流行中のスピリチュアル教の台頭と布教の過程、そして「行く末」を暗示しているようではないか。

日本もまた例外ではない。「一億玉砕」「神風」「神軍」「お国の為に」―第二次世界大戦中、当時の政府やマスコミのプロパガンダによって植えつけられたその思想が敗戦によって完全に崩れ去った時、自分達が信じ、拠りどころにしていたものが完全に覆された時、多くの国民は虚無感を覚えた。

「自分が信じてきたもの」の崩壊とそれに伴うショック―「自分達こそが正義だ」「これは聖戦だ」そう信じて戦地に赴いた兵士を含む軍関係者、「お国のために立派に死んでこい!」そう言って多くの教え子達を戦地に送り出してきた教育関係者の中には、虚無感からその後廃人のようになったり、自ら命を断った者も少なくない。今までの価値観が覆され、すべてが「無」になったのだから。国として、民族として、個人として―一つの思想の崩壊は、それらの根幹を大きく揺るがせたのだ。

「イズム(主義・説)」というのは、単なる「一つの考え方」に過ぎない。それを信じるのは個人の自由。だがそれは、時代の影響を受け、反映するものだ。流動的で不安定なもの。スピリチュアリズムも例外ではない。各時代毎にその形を変え、発生・隆盛・衰退を繰り返す、ある意味「リバイバル」なのだ。ある時期が来ると再び活性化する「流行」「現象」のようなもの。それを万人が必ず行き着く先のもの、当てはまるもの―「真理」と断言するのは、狂信者の傲慢さでしかない。

そして彼らのほとんどは、スピリチュアリズムが持つ暗黒の歴史を知らないのだ。深く掘り下げもせず、「片面」の認識のみで容易に下す「真理認定」―本当にそれを理解しているのか?と。真理とは、そんな「浅い」ものなのだろうか。

本当にそれを「真理」と確信しているのなら、「ダークサイド」の部分を含め、スピリチュアリズムと心中できますか?もし万が一、何かの拍子に「教祖の言っていることが実は全部嘘でした」ということが科学的・論理的に証明されて、「ニセモノ」の烙印を押され、世間の非難を浴びて表舞台から葬り去られたとしても、「でも私は信じてます」と断固として言い切れる覚悟はありますか?

世間から「スピリチュアル鑑定だって。なんか怪しいよね~あれって結局嘘だったんでしょ?それでもやってるって何考えてるんだろ」と謗られ、馬鹿にされても、「プロ」として続けていく覚悟はありますか?信仰のために殉教したキリスト教の聖人達のように、命や人生を賭けてそれを貫く自信はありますか?

「スピリチュアリズムに基づいて生きる人=スピリチュアリスト」を自認するのであれば、もちろんそれくらいの覚悟はありますよね?「私の役目は終わったようです」とか何とか言ってフェイドアウトしませんよね?いつの間にかこっそり廃業していたり、サイトやブログを閉鎖したりしませんよね?

「信仰」とは、本来そういった真摯な覚悟の上に成り立つものだ。ガイドスピリットだのオーラの色だの、そんなお気楽な教義に惹かれてきた不思議なことが大好きなだけのミーハー信者に、その覚悟はない。それが崩壊した時は、多分蜘蛛の子を散らすようにいなくなっているはずだ。彼らが望んでいるのは「信仰」「主義」などではなく、自分の好奇心を刺激してくれて、「なんか不思議~♪」と仲間ときゃわきゃわ騒げる「めずらしいおもちゃ」なのだから。

スピリチュアリズムに基づく生き方とやらを実践している皆さん、もしその思想が崩壊・消失したら、あなた達の中には何が残っているんですか?その後は、何を縁(よすが)に生きていくんですか?

「支え」と「存在意義」を同時に失った時、狂信者達は途方にくれる。それが、自分で考えることを放棄し、第三者に魂を明け渡した人間の成れの果ての姿なのだ。

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覚めない夢

 2012-04-19
先頃マスコミを賑わせていた「自称霊能師」による有名芸能人の洗脳騒動の影響だと思うが、ここ最近のスピリチュアル系ブログには、プロフィールに「○○スピリチュアルスクール○期卒業」「△△スピリチュアルインストラクター資格所持」等の肩書きを羅列しているものがやたら増えている。2~3個などはざらで、多いところなど10個近くある。本人達はそれで「信用」をアピールしているつもりなのだろうが、正直、胡散臭さに変わりはない。

数年前に大ブレークしたオーラ番組をきっかけに、「スピリチュアルという名のオカルト教」が大流行の今、その手の関連サロンが乱立している。去年の時点でその数およそ200万件。現在はもっと増えている可能性がある。ネット検索すれば、出るわ出るわ・・・その全部が、「うちは本物です!」を謳っているのだ。そして、「鑑定」と銘打ったものを行っているその大半が、スピリチュアル業界関連スクールの卒業生なのだ。

得てしてそういったスピリチュアル業界関連スクールは、主催者側が、いわゆる「箔」をつける為に、「スクール」「協会」と名付けて設立したものだ。そういう名目で組織化したほうが、「肩書き」に弱いこの国の人達には受けがいいし、なにかと好都合。「○○スクール」「○○協会」という名称がつくだけで信用度も上がる。欧米等海外から進出してきたものも多い。組織化されているというだけで、「なんかちゃんとしたところっぽいから」それだけで、人は気軽に門をくぐっていくのだ。

だが、その信憑性も「自称 本物」の自己申告に過ぎない。大体、その主催者の「霊感」「霊能力」とやらが「本物」だという確証はどこにあるのかと。スクールや協会を主宰しているからといって、その人が「本物」というわけではないし、「本物」だからそれらを設立できるというものではないのだ。

結局は、すべて「自己申告」の領域だということ。つまり、当の本人が「そうだ」と言えば、そうなるのだ。真贋認定組織が存在しないのだから、いくらでも好きなように言える。「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」主催者の能力の信憑性は曖昧だ。ゴールドやプラチナの純度のように、「完全」というものがない。「不純物」が混入している可能性が常に存在する。それも必ず50%以上の確率で。

その上、不可視の領域だ。何だかんだと結局そのまま本人の言い分を受け入れるしかない。「自己申告」でどうとでもなるいい加減な世界。そんな胡散臭さ満点の、真贋の明確な基準さえない業界やそこで言われていることを素直に信じろと言うほうが無理なのだ。


「見えない世界」「見えない存在」を感じ取る力というのは、どんな人にも多少なりとも備わっていると思う。だがそれは、神仏や霊に感応する不思議で特殊な能力というよりは、むしろ「本能」だと思う。太古から受け継がれてきた遺伝子の中に組み込まれているもの。それは人間だけでなく、犬や猫等その他の動物全般に備わっているのではないだろうか。

犬や猫の様子を見ていて、「何か見えてるんだろうな。感じてるんだろうな」と思うことは多々ある。突然誰もいない空間に向かってしっぽを振って甘えた声を出したり、何かにじゃれつくような仕草をして、まるで何かや誰かと遊んでいるようにしか思えない様子の時もある。もしくは、体中の毛を逆立てて、低く唸りながら一点を凝視していたりとか。動物達からしてみれば、単なる「反射」「反応」でしかないのだ。だが人間は、それを「霊感」「霊能力」とわざわざ名付け、もてはやす。

文明が発展するより以前の時代―いわゆる「原始人」と呼ばれていた時代、多分それはごく当たり前の「普通」のことだったはずだ。電気もない、暗闇が支配する夜などは特に、自分の生命を脅かすある種の「異物」―敵や危険な野生動物の気配に敏感でいなければならなかった時代に、人類が生きる上で必要不可欠な感覚だったのだ。太古に比べ、生命の危険に晒される確率も段違いに減った現代、人間のそういった能力は、かなり弱体化しているはずだ。だが、決してゼロになったわけではない。

人間以外の動物には「当たり前」のその力に「霊能力」「霊感」と勿体をつけ、それを「強い」だの「すごい」だのと騒ぎ立てるのは、くだらない「選民意識」の表れだ。「霊感は誰にでもある」と言うのなら、どうしてわざわざそういった霊能力開発スクールの類に入っていくのかと。「目的」は何よ?と。守護霊だの先祖霊だの天使だののメッセージを伝えて何をしたいんですか?なのだ。

彼らは「お役目」という言葉を何かと持ち出すが、言動を観ていると、何だかんだ言って「自分のため」なんじゃないですか?という感じ。「お役目」という謙虚な響きを持つ言葉で巧みにコーティングされてはいるが、自分の利益だけ、それ以外の「損」「害」になるものに対しては、徹底的に見ないふり、存在しないふりをしているのだから。

それを自分の責任として課せられた務め、「役目」であるというのなら、自分にとって不本意なものでさえも、すべて引き受ける覚悟を持つべきなのだ。それができないのなら、「お役目」という言葉を軽々しく使うな、と。結局彼らにとっての「お役目」とは、「自分にとって都合のいいことだけ」を指すのだ。そこに「信念」などはない。根本にあるのは「見栄」だ。

ナントカスクールに通って磨いたとかいう「霊感」「霊能力」とやらも、そこで何かを憑けられた結果アップしたものだったり、単に「その気になっちゃった」だけかもしれないではないか。本人達は、「霊感や霊能力は誰にでもある。自分達には最初からその力があった。後付けされたり気のせいの類ではない」と主張するが、それは「さぁーどーだかねー」なのだ。

彼らの大半が心酔しているオーラ教教祖でさえ、「憑いている人の影響で、数日間天丼ばかり食べてましてね~」とのたまうくらいだ。「信者」にだって同様のことは十分起こり得る。むしろその可能性は教祖以上かと。「自分は違う」「自分は大丈夫」何をもってそう言い切れるのか。だったら根拠を示してくれよ、なのだ。

本当に、そういった能力―特に強いものを備えている人は、既に子供の頃から「予兆」や「自覚」があるものだ。誰かに指摘されて初めて気づいたり驚いたりということは、まずない。「あることが当たり前」なので、むしろ世間の大半の人が自分と違うことを知った時に愕然とする。「驚くポイント」からして違うのだ。

その能力が、如何に面倒でややこしいものであるかを身をもって知っているので、「磨く」だの「開発」だのということには積極的でない。むしろ、周囲に隠していることのほうが多い。「紹介制」等ごく限られた人を対象にすることはあっても、宣伝は一切せず、「知る人ぞ知る副業」として行っているケースが圧倒的に多い。その能力を利用した「商売」を大々的に、自ら進んで積極的に行おうとする人はほんの一握りだ。

「オカルト好き」がその世界に憧れるのは、その「過酷さ」を知らないが故だ。想像を超えた「舞台裏」の実情を実際に体験したことがないから。スクールやらセミナーに嬉々として通っているうちが花。

その人達には、その手のスクールやセミナーは、どちらかと言えば、「回避すべき対象」なのだ。「最近そういうの増えてるんだってね。なんでわざわざそんな面倒くさいことをしたがるのか理解できない。本気で『あっちの世界』に関わりたいのかな。実際は大変なのにね~止めといたほうがいいよ」一様に口を揃える。自分にないものを求める―それが世の常だ。


「スピリチュアル関連スクールやセミナーを受講して以来、霊能力が格段に上がった」という場合等は特に、「集団ヒステリー」の可能性を捨てられない。むしろ、大半の受講者達がその状態あったのではないかと。そうでなければ、「本来どんな人にも霊能力は云々」という部分を差し引いても、今のスピ系サロンの乱立の説明がつかないのだ。そういったスクールの卒業生がこぞってプロ開業し、その数数百万件とか。現在の日本の人口比からすると尋常ではない数だ。

「集団ヒステリー」とは、その集団を構成しているメンバーの一人の感情や思考が、その他のメンバー達に伝染・伝播し、グループ全体に精神的な興奮や恍惚状態等の症状が生ずることをいう。端的に言えば、その場にいたすべての人間が同時に、「今それが目の前で起こった」という確信(思い込み)に陥る群集心理だ。「集団催眠による暗示」と言ってもいい。

この状態は、国や地域、文化の違い、時代等は関係なく、全世界で頻繁に発生している。古くは中世のヨーロッパ、江戸時代の日本でも確認されている。あくまで個人の見解だが、バリ島の「ケチャ」、日本各地に存在する「都市伝説」もそれに相当するのではないかと思う。群集心理―集団状態に置かれた人間の心的状態は、想像以上に特殊なのだ。暗示にかかりやすく、衝動的な言動を取る傾向が強い。

集団ヒステリーが発生する背景には、社会的・心理的なストレスや不安があると言われている。だが、「ストレス」と言っても、決してネガティブなものだけを指すわけではない。喜びや楽しみ、わくわくやドキドキといった期待感や興奮も「ストレス」に含まれる。

スピリチュアル系スクールやセミナーを受講する人達の精神状態は、まさにこの状態そのものなのだ。人生や自分に対しての不安や恐れ、「見えない世界」に対する期待や興奮―最初から下地は整っている。加えて、そういったものに目が向く時というのは、大抵自信や確信を失っている時だ。似たような精神状態にある人間が、そこに複数、かなりの数居合わせるのだ。共感や同調も生まれる。そして、それが更なる効果を生む。

そこに権威的な存在、霊能力者を自称する自信に溢れたように見える講師が現れれば、それは一気に起こる。心理的な状態も手伝って、暗示が受け入れやすくなる。根拠や論理といったものを全部すっ飛ばして、疑うことも考えることもせず、無条件に講師の言葉・思考・指示を受け入れ、信じ、それを実行する。自分以外の人間もすべて同じ状態―それが確信(思い込み)を生む。「これは本当のことだ」と。

「あなたには強い霊感がある」講師に言われれば、言われたほうはその気になる。その言葉は、その瞬間から「事実」になるのだ。驚きこそあれ、然程強い疑問も抱かずにそれを受け入れるのは、完全な暗示状態にあるから。洗脳された人間によく見られる特徴だ。漠然と意識の底にある選民思想もそれに拍車をかける。

そうこうしているうちに、あちこちで「同調」が起き始める。講師は言う。「それは皆さんが覚醒したからです」かくして集団ヒステリー状態に陥ったその団体は、「覚醒した高い波動を持った魂の集団(自称)」となり、「世間の人達より早く覚醒した自分は『お役目』を果たさねば!」と次々とプロデビューしていく。スピ系サロン乱立の実情はそんなところだろう。

所詮「自称」の世界。スクールの主催者である「師匠」に認定されたからといって、それが「本物」の証であるとは言えない。その師匠自体、「本物」であるという証拠はないのだから。その人が心理学やら何かを齧った経歴があるなら、疑いはますます大きくなる。霊感などなくても、心理学やそれに付随する知識やテクニックを利用すれば、心理操作は可能だ。そういった世界のものに興味を持ったとしても、話半分で聞いておくのが丁度いい。真贋の確率は、最低でも50%必ずあるのだから。

「覚醒」の正体は、案外人為的に仕掛けられたものだったりする可能性もある。何よりも、批判を「いじめ」「攻撃」呼ばわりし、頑なに排除しようとするスピリチュアル狂信者のその様子は、「集団ヒステリー状態にある人の典型的な特徴」なのだ。その集団の中にいる時間が長ければ長いほど、その効果は持続する。

常に「同胞」だけで群れるのは、彼らが夢から覚めることを望んでいないから。そこにい続けることを自ら選択しているのだ。「夢」は、彼らが望む間続くのだ。

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エデンの蛇

 2012-04-15
プロパガンダ、いわゆる「宣伝」の基本は、「一番頭の弱い人を基準にすること」だ。語弊を招く表現だが、要は「誰にでもわかりやすく」ということ。年端のいかない幼児から老人まで―年齢はもちろんのこと、知的レベルを問わず、幅広い層の人々が理解・共鳴できる内容にする。それが原則だ。

中でも、特性や違いをアピールしたい時には、「比較法」が最も手っ取り早い。単純だがわかりやすいその方法は、ある意味「宣伝の原点」だ。つまり、「ライバル役」「悪役」を設定するのだ。

過去に世界的に有名な某清涼飲料水メーカーが、他社の競合商品と自社商品を消費者に飲み比べをさせた時の様子をCMとして使用した時は、大きな反響を呼んだ。実際、そのメーカーは件のCM効果で売り上げを驚異的に伸ばし、ライバル会社に大きな差をつけた。

宗教は、「世界最古の宣伝文化」と言ってもいい。キリスト教や仏教の教義に登場する「天国と地獄」「極楽と地獄」がまさにそう。生前に善い行いをすれば天国や極楽へ、悪事を働けば地獄へ―自分達を「正義」の側に置き、それを際立たせるために、対極の存在―地獄や悪魔、異教徒という「悪役」を設定したのだ。

善と悪、光と闇、天国と地獄―「白か黒か」「二つに一つ」「その二つ以外に選択肢はない」という設定は、単純でわかりやすい。理解力が浅い幼い子供にも十分伝わる。

キリスト教に馴染みがない人でも、聖書に登場する「アダムとイブ」は知っていると思う。神が自分に似せて土から造った「最初の人類」であるアダムとその配偶者であるイブが、蛇にそそのかされて、食べることを禁じられていた「知恵の樹」の実を食べたことにより、エデンの園から追放されたという話。人類に「原罪」である死と罪がもたらされたのは、二人がこの禁を犯した為―と聖書は謳っている。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において、蛇は「悪魔・悪魔の化身」とされている。多くの生き物が持つ手足がないという、ある種「奇異」ともいえるその姿や長期間餌を食べなくても生きていけるという生命力の強さから、「醜悪で不吉な生き物」「執念深い生き物」と概ね毛嫌いされる傾向にあるようだ。

だがその一方、蛇を「神・神の使い」とする文化圏も少なくない。ギリシャ神話では、「生命力」の象徴とされ、その中に登場する医神アスクレピオスが持つ蛇の巻きついた杖、「アスクレピオスの杖」がWHOのマークに使用されている。

楽園で幸せに暮らしていたアダムとイブを「罪人」にした犯人―不吉なものを運んでくる負の存在のアイコンとして、キリスト教は蛇に目をつけたのだ。多くの人が生理的な嫌悪感をもよおすその奇妙な姿も、まさに「不幸の使者」に打ってつけ。

悪の存在は、決して美しくあってはならない。いかにもそれらしい、禍々しさを感じさせる外見のほうがより効果的だ。なにせ幼い子供にも、簡単にその「違い」が感じられるものでなくてはならないのだから。

聖書において、蛇は「悪の存在」として描かれている。だが、同時に、「知恵・知識」を象徴しているのだ。「それ以外の世界」を見せる者。一つの思想しか認めないその世界に、「異なる新しいもの」を持ち込んだのが件の蛇だ。

聖書では、アダムとイブをそそのかし、禁を破らせたと悪役として描かれているが、別の観点からみれば、「新しい可能性」を提示した存在と言える。

アダムとイブの追放は、いわゆる「見せしめ」として描かれている。だが、二人にとって、禁断の実を食べ、楽園を追放されたことは、果たして本当に「不幸なこと」だったのか?別の見方をすれば、それは「束縛からの解放」「自我の目覚め」であり、「新しい可能性が広がる世界への旅立ち」なのだ。

宗教の最大の目的は「支配」にある。「思想の統一」がそれを可能にするのだ。支配する側にとって、「自我や独自の思考を持つ存在」は邪魔なだけだ。

「それ以外」を持つ者・見た者・知る者が、自分達の思想や教義に異を唱えたり反発するようになれば、組織の瓦解に繋がりかねない。アリの穴から堤も崩れる。たとえそれがごくわずかな数でも、後に取り返しのつかない大事に至ることもある。異なる観点、異なる思考―それらを締め出すのは、自分達の世界を保持するためだ。

エデンの園からの追放の件(くだり)は、いわば「脅し」なのだ。神の教えに逆らった者がどんな運命を辿るか―その他の思想や思考、自我を持つ者を「悪」「反逆者」として位置付けることで、本能に働きかけていく。人間なら誰しもが持つ不安や恐怖といった「弱み」につけ込むことで、支配はより簡単になる。

キリスト教において、人間は単なる「コピー」でしかない。「神に似せて造った」ということが、それを示唆している。つまり、「本体」である神と「完全に同じ」であることを要求されているのだ。

思考も行動も、すべて神のそれと合致していなければならない。寸分の狂いもあってはならないのだ。本体をそっくり写し取ったものでなければ、コピーとは言えない。過不足なく、完全に神と「同じ」であることが、人間に与えられた役割なのだ。

楽園追放の箇所は示しているのだ。「信仰に個人としての思考や自我は不要だ」と。「それを捨てろ」と、「神のコピーであれ」と強要しているわけだ。蛇という悪役を登場させ、それとなく匂わせている。「神以外のものを信じれば、罪人になる。不幸になる」と。

恐怖や不安を煽り、それによって信仰に縛りつける。恫喝による支配―それが「宗教」の根本だ。その実は、かなり下世話な世界なのだ。

神の不興を買うことを恐れる者ほど、「蛇」を頑なに拒むようになる。異なる思想、異なる意見―「神以外のもの」を完全にシャットアウトするやり方は、楽園追放の件によって刷り込まれたものだ。

「コピー」が「本体」を超えた時に何が起こるか―彼らが恐れているのはそこなのだ。自分達の世界が崩壊し、「コピー」である自分自身の存在意義さえ失われることに対する恐怖と不安。だから「蛇」を恐れる。

彼らの「不幸」は、ただ一つの思想しか受け入れないことにある。もし彼らが物事を多角的に観た時、別の視点から同じ物を観た時、気づくはずなのだ。物事には、必ず「両面」があるということを。一つの物事や事象の中には、必ず対極の二つの要素が存在する。

例えば、「慎重さ」は別の角度から捉えれば「優柔不断」となり、「安定」は「停滞」となる。愛だけ、光だけ―そんなことはあり得ない。宗教は、そういった矛盾を「真理」という言葉を使って煙に巻こうとする。だが、それは完全な詭弁だ。ただ「見ないふり、見えないふり」をしているだけ。

そういった宗教の子会社ならぬ子宗教であるスピリチュアル教・自己啓発教は、「親」の体質をそっくりそのまま受け継いでいる。「コピー」というより「クローン」と言ったほうが適切かもしれない。異なる思想や意見―「蛇」を恐れ、自分達の世界に侵入させまいと躍起になるところなど、本当によく似ている。

別の観点からの見え方や思考である「批判」を、自分達の信仰にけちをつけられた腹いせに、「知識をひけらかしたいだけ」とほざく者もいる。挙げ句の果てに「いじめだ!攻撃だ!」と煩いことこの上ない。

そういう輩が「自称 覚醒して得た真理」と得意げに語るものなど、胡散臭くて仕方ない。そんな程度のものならいらねーよ、と。本当にそれが万人に共通する唯一無二の「真理」なら、堂々と批判を受け止めるはずだと思うが。

何の道、彼らに「蛇」は不要なのだ。単なる「コピー」なのだから。コピーに「知恵」は要らない。刷り込まれたものだけを、何も考えずにただひたすらなぞり続けていればいい。自分達の「楽園」の中で。それが彼らに与えられた役割であり、何よりも、彼ら自身がそれを望んでいるのだから。

「私達は高い波動を持つ覚醒した魂の存在」と嘯く「コピー」のみで構成された虚構の世界で、身内同士せいぜい馴れ合っていればいい。だが、その実は、単に「宣伝広告」にまんまと乗っかってしまったミーハーでしかないのだ。裸の王様状態の自分達の姿を認識させてくれる「蛇」は、彼らの楽園にはいないのだ。

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旅路の果て

 2012-04-09
今の世の中、「条件」や「方法」にこだわる人が結構いるようだ。「結婚相手の年収は800万円以上じゃなければ嫌だ」「どんな人と結婚したら自分は幸せになれるのか」「どうしたらやりがいのある仕事に就けるのか」とか。結局、求めているのは「正しい答え」「正しい選択」「正しい方法」なのだと思う。

そういった人達を観ていると、大抵の場合、「どう生きるか」「どう生きたいのか」その部分が定まっていない。大まかな「方向性」のようなもの。人としてどうありたいのか、どんな人になりたいのか、どんな人生を送りたいのか―「自分は最終的にどの地点にいたいのか」というものがない。同じ場所をぐるぐると、出口を求めて彷徨い続けている。

妙なスピリチュアル教や自己啓発教に入れ揚げて、本物かどうかもわからない守護霊やら天使やらからのメッセージを欲しがったり、オーラの浄化だの、「ありがとう」「ツイてる」を一日に100回ずつ唱えている人は、間違いなくその口だ。

「どこに行きたいのか」目的地が決まっていないのに、どの電車に乗って、どこで乗り換えればいいのかと悩んでいるようなものだ。なんかやってることおかしくね?と。「順番」からして違うのだ。まず「行き先」を決めてみれば?と。

「どんな人になりたいのか」「どんな人生を送りたいのか」その部分、たとえ大まかでも「人生の方向性」が何となくでも定まっていれば、「条件」など然程重要でなくなるはずだ。どの方向に自分は向かうのか―それさえはっきりしていれば、そこに到着するまでの、途中のコースの良し悪しや種類に固執することはなくなる。

結婚相手の年収とか仕事の種類とか、そういった「こうでなければならない」「こうあるべき」というチマチマした「条件という名の制限」をいちいち設定したり、「正解」「保証」というものを求めるから、話がややこしくなる。大体、何かの拍子で一瞬で覆るかもしれない不安定な要素を中心に据えること自体おかしいのだ。

現在年収が1千万円あっても、それが永遠に続く保証はない。「やりがいのある仕事」に就いたとしても、何かの拍子にそれを感じられなくなる時が来るかもしれない。「条件」という不確かなものをあれこれ設定し、それにこだわって、自分自身をがんじがらめにしてどうするのかと。

人生において何が「正解」かなんて、死ぬ間際になってみなければわからない。どんな道を選ぼうが、自分でそれを「正解」にしてしまえばいいのだ。そもそも「万人に共通する正しい答え」なんて、最初から用意されていないのだから。


年収800万円以上で、次男で、持ち家で、上場企業勤務以外の人とは絶対に幸せになれないんですか?大体あなた自身は、一体「どんな人」になりたいんですか?「こんな人になりたい。こんな人になろう」という自分像が決まれば、人柄とか信念とか、それに見合った人を選べばいいでしょ。年収とか勤務先ってそこに関係してくるんですか?

「やりがいを感じられる仕事」「天職」や「適職」に就いていないと生きている価値がないんですか?仕事ってね、やりがいや楽しさばかりじゃないんですよ。所詮人間ですからね、体調や精神状態にも波があります。たとえ自分が好きでやりたくて始めた仕事であっても、やる気が出なかったり飽きを感じる時もあります。もしそういうスランプに陥ったら、また転職するんですか?

そもそも「やりがい」は、「どこかに存在するもの」じゃないですよ?「その中に自分で見出すもの・作り出すもの」です。いい加減そこに気づいてくれませんかね。「やりがいのある仕事」が見つからないことを嘆くのではなく、それに気づかない自分の思考の甘さや浅薄さこそを嘆いてください。右往左往しているその状態は、あなた自身が作り出しているものなんですから。

「正しい選択」とか「正しい答え」とか、一見高尚に聞える言葉を振りかざしてはいるが、突き詰めれば、そういうことだ。いかに楽して得するか―結局欲しいのはそれなんでしょ?と。どうりで「条件」「方法」に固執するわけだ。


「条件」や「方法」は、その場所に自分を連れて行ってくれるものではない。「それさえ守っていれば、それを辿って行けば、目指す場所、目指す人に到達する」勘違いしている本人達はそう信じ込んでいる。だが実際は、目的地未定のままの状態で、時刻表やら路線図をただひたすら見まくって、右往左往しているだけなのだ。

ちなみに私の場合、「人生の最期に『あー、楽しかった~♪』というひと言を残して死ねる人生」を送ろうと思っている。多分私は、それがどんな結果になろうと、「その時の自分がやりたいこと」をすべてやったら、最期に「楽しかった~」と心から言える。だから今後も、そうしていくつもり。

だが、職業や住む場所、パートナーに対する理想等「条件」に関する希望や計画は一切ない。「こうじゃなきゃ嫌」「こうでなければ困る」というものは何もない。「現在の状態」に固執するつもりもない。今後どんな仕事に就こうが、どこに住もうが、どんな相手と出会おうが関係ない。だって「死ぬ前に『楽しかった~♪』と言える人生」に最終的に辿り着ければいいのだから。その時々に「今自分が選びたいもの、今やりたいもの」を選んだらいいだけだ。

結果目的地に到着できるなら、途中何を使ってもいいではないか。電車ではなくバスでもいいし、自転車に乗ってもいい。場合によっては徒歩もありだ。途中で他のものに変更しても構わないし、寄り道してもいい。旅の方法や楽しみ方は一つではない。参加者全員で同じコースを回るお仕着せの団体ツアーより、自分の好みやその時の気分で自由に動ける個人旅行のほうが、断然楽しいと思うけど。

本来無限に存在するはずの選択肢を、自分の思い込みや執着によってわざわざ狭める必要などないのだ。

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ミニマム

往生際

仕掛けられた飢餓感

両極の一致

自分らしさ症候群

ドリームキャッチャー

「やりがい」というもの

データは「未来」じゃない

人生はチョコレートの箱

こけたら立ちなはれ

自由と覚悟

ループ


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 2012-04-06
最近世間を賑わせていた「自称霊能師」による洗脳騒動、渦中にいたのが有名芸能人ということであれだけの騒ぎになったが、特別めずらしいことではない。「洗脳」など、今や世間では日常茶飯事に行われている。巷に蔓延している「スピリチュアル教」「自己啓発教」がまさにそれだ。「セミナー」「セッション」という名目で、堂々とそれを行っている。

厄介なのは、洗脳する側とされる側の双方に、その自覚がないことだ。本人達は、「真理に目覚めた」「魂が覚醒した」等と悦に入った、ある意味「非常にハッピーな精神状態」にあるので、余計にその状況に気づきにくい。だが、傍から見れば、それは完全に「洗脳の結果」なのだ。

「オーラ教教祖」のテレビ番組がきっかけで、あっという間に世間に広がった「スピリチュアルと称したオカルト教」と「信者達」を見れば、それは明らかだ。「あの方のおっしゃることはすべて正しい」とばかり、教祖のお墨付きパワースポットに押しかけたり、オーラの色を気にしたり。

「教祖様がそう言ってるから」それだけの理由で、何の疑問も抱かずその言葉や思想を受け入れているのであれば、既に洗脳状態にあると思っていい。件のタレントに関する報道を見て、「怖いねー」等と言い合っている場合ではない。他人事ではないのだ。

そのレベルが軽度であれ重度であれ、「いい人そうだし、良さそうな事を言ってるし」「周りの友達も信用できるって言ってるし」「テレビにもよく出てるし、本もたくさん出してベストセラーになってるし」ただそれだけの理由で信じ込んでいるのなら、かなり危ない。「感化」も、形を変えた「洗脳」だ。

洗脳された人間には、「自分は洗脳された」という自覚はない。だが、その事実や可能性を指摘されると、一様に激しい抵抗を見せる。自分の信じているものの正当性を頑なに主張し、否定することを許さない。スピリチュアル系ブロガーによく見られる特徴でもある。

直接でなくとも、何気なく手に取った書籍やたまたま目にしたテレビ番組を媒体にして、その状態に陥ることもある。その時の心理状態や現在自分が置かれている状況とそれが合致した場合、少しでも自分と共通する何かを感じた場合等、簡単に「洗脳を受け入れる状態」が出来上がる。シンパシーが引き起こす悪戯。

洗脳に不可欠な要素は、「繰り返し」だ。何度も何度も同じ言葉を聞かせ続ける。言わせ続ける。教え続ける。いわば「暗示」を与えるのだ。そうなるように周りから、自分から仕向けていく。内と外から「だんだんとその気にさせていく」のだ。約20年前、東京の地下鉄に猛毒のサリンを撒いた宗教団体が、座禅を組む信者に「修行するぞ、修行するぞ」という言葉を延々と唱えさせていた目的はそれ。

スピリチュアル系や自己啓発系セミナーでは、「○○のアファメーション」と称される言葉の類が、間違いなく登場する。それを折に触れて繰り返すことを推奨する。「1日に100回」「朝起きた時、寝る前に必ず」という指示が出ることもある。「私は光の存在です。私は自分のすべてを肯定します」「私の人生は必ずうまくいきます。私は成功者になります」完全な自己暗示。

最近では、重度の洗脳状態にあったスピリチュアルおたく・自己啓発おたくが、どんどん「プロ」デビューしている。いわば「宣教師」である彼らは、植えつけられた思想を、今度は他の人間に植えつけていく役割をしているのだ。皮肉なことに、当の彼ら自身、洗脳によって植えつけられたそれは、自分自身が覚醒して得た真理だと思い込んでいる。「自分がそこに到達した証だ」と。

だが実は、それは「繰り返してきたこと」で「単にその気になっている。そう思い込んでいる」だけのことだったりする。教祖様の書籍を何度も繰り返し読んだり、そこに書かれていることをまるでよく訓練されたオウムのように、一字一句違わず、話したり書いたりしてきたことを延々と繰り返してきたためなのだ。そうすることで、まるで自分が実際に体験して得たかのような気分になっているだけ。

その証拠に、時として、彼らの言動の中に矛盾が現れることがある。それは、彼らが言う「真理」と相反する性質のものだ。それこそが、彼らの「素、本音」なのだ。意識の奥底ではそれを受け入れられない。信じられない―その表れだ。外部から植えつけられたり押しつけられた「真理」は、本当の意味で根付くことはない。

スピリチュアルにしろ自己啓発にしろ、各業界で「真理」とされていることは、あくまでその業界内でのみ通用するもの。人間は千差万別だ。性格、考え方、感じ方、環境もそれぞれ違う。そういった単純にひとくくりに出来ない繊細さや複雑さを持つ人間を、たった一つの思考や方法を押しつけ、縛り、まとめあげようとすること自体、既におかしい。要は、自分達の世界が崩壊しないようにするため、それを招くような危険性のある要素を排除するための「思想の統一」なのだ。「個人」は不要だということ。

すべての真実、真実と言われているものを疑え―鵜呑みにせず、自分で調べ、考え、検証するのだ。それをしないということは、自分自身を正体不明なものに明け渡し、それが自分を侵食することを許すことになる。洗脳によって得たものなど、自分を縛りつけ、得体の知れない存在に繋ぎとめる、本来不要な鎖でしかないのだ。



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原理主義者の意地

 2012-04-05
「私が信仰しているスピリチュアル教は、絶対に正しいんですっ!」そう言い張るスピリチュアル狂信者というのは、共通点がある。その一つが、「意固地」という要素。年がら年中愛だの光だのと言っている割に、結構我が強いというか、意地っ張りというか、負けず嫌いだよね、と。アンチスピリチュアル派や疑問視派を相手にする時などは、特にその要素が強く出る。

ちょっとでも矛盾や疑問を挙げれば、「いじめだ!」「攻撃だ!」「否定された!」と大騒ぎするし、自分達の正当性を主張するために、筋の通らない屁理屈を捏ねたりするのがその証拠。矛盾に気づいたからこそ、保身を考える。いわば「ばつの悪さ」を隠すため。虚栄心の反射運動。

何を信じようと個人の自由。だが、彼らの様子を観ていると、自分が信仰している宗教やその教義を何が何でも正しいものにしたい―そういった「執念」のようなものしか感じられないのだ。「自分達が正しいことを証明できるなら何でもする」妙な意気込みというか、鬼気迫るものを感じる。

信仰している宗教の教えはすべて真実であり、正しいものとする「原理主義者」特有の、短絡的な物事の捉え方や「異なるもの」を徹底的に排斥するその姿勢が、狂信ぶりをより際立たせる。なんでそこまでして『自分達は正しい側にいる』ということを主張したいの?それに固執するの?と。躍起になっているその様は、「部外者」に、その偏狭さや頑なさの印象しか残さない。

狂信者は、自分達が信奉しているその教義と一体化している。「自分が信じるものが正しければ、それを信じる自分は正しい」彼らはそれを縁(よすが)にしている。生きる上の、または自分の存在意義に対しての―。彼らにとって「異なるもの」は、自分達を脅かす存在なのだ。いわば「敵」。だから彼らは防戦に必死になる。自分を守るために。そこで負ければ、自分が存在する意味が失われてしまうのだから。

彼らの意固地さは、生き残るためのものなのだ。自分の価値や正しさ、いわば自分の存在意義を賭けた戦いなのだ。意地にもなろうというものだ。そうなると、道理を引っ込めて無理を通そうとする無茶苦茶な言動や「異なるもの」を徹底して排除しようとする、あの、ある種の「見ないふり・存在しないふり」にも合点がいくのだ。


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5月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2012-04-04
2012年5月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2012年5月13日(日) 13時~15時(おおよその目安時間です)

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)*定員に達しました。 

■申し込み方法 : 5月9日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

【お願い】大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談(アドバイスの提供要請等)は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループ主催の会合への参加、心療内科等各医療機関の受診や専門カウンセラーによるカウンセリング等をお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にも通院中であること・医師の許可を得たこと等をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。(その場合、少なくとも退院から3ヶ月以上経過してからのご参加をお願い致します)


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~3時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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