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其の実

 2011-05-26
【其の実(そのじつ)】実際のところ。本当は。(広辞苑より)


例のオーラ番組がきっかけで、猫も杓子も「スピリチュアルがどーたらこーたら」と言う時代になった。だが、その人達が言うところの「スピリチュアル(スピリチュアリズム)」とは一体何を指しているのか―当の本人達ですらそれを理解していないことがほとんどだ。彼らにとって、それは「=E原さんがあの番組の中でやっていたこと、言っていたこと」なのだ。

オーラ、守護霊、前世、霊視、透視、リーディング、チャネリング、霊能力等「見えない世界」の領域に関することを、「=スピリチュアリズム」だと思っている。彼らのスピリチュアリズムに対する認識は、夏になると必ず放送される怪奇心霊特集の番組内容と同じ程度のものでしかない。そういったものと同類、もしくは混同していると言ったほうがいいかもしれない。

だが、彼らがスピリチュアリズムだと思い込んでいるそれは、「オカルティズム」だ。通常の経験や科学では認められない「神秘的な隠れた力」の存在を信じ、それを研究したり、その能力を身に着けようとすること。占星術や錬金術、心霊術等がそれに該当する。

「霊能力開発ナントカ講座」といったものに始まり、オーラを見るためのトレーニングや高次元の存在と繋がってメッセージを受け取る方法、前世リーディング等「スピリチュアル」を謳っているサロンや講座で行われていることは、時代や場所によっては、魔女や魔術師の領域とされていたことだ。そして、それは「オカルト」と呼び習わされてきたのだ。

プロの業界人としてそれに関わっている人は、大抵「スピリチュアリスト」を自称している。だが、定義に基づき、尚且つ彼らの言動から判断するなら、むしろ「オカルティスト=オカルト術者、オカルト信仰者」を名乗るべきなのだ。


「スピリチュアリズム」という言葉は、「精神主義」「心霊主義」と訳される。「精神主義」は、物質的なもの・現実的なものより、精神的なものを優先、重要視して考えることを、「心霊主義」とは、死後の霊魂やその科学的証拠の存在を信じることを言う。簡単に言えば、意識やあの世等不可視の領域を重んじることだ。そして、それを「真理」として受け入れ、指針として生きる人を「スピリチュアリスト」と言う。

だが、プロアマ問わず、「自称スピリチュアリスト」の人々は、時々おかしなことを口にする。「スピリチュアルが大好きなんですぅ~」「スピリチュアルにハマってるんですぅ~興味があるんですぅ~」とか。この段階からして、既に「おかしい」のだ。好きとか嫌いとかツボったとかの問題ではないのだから。

「スピリチュアリズムに基づいて生きる」とは、「道を歩むこと」なのだ。信念を持ち、真理を鏡とし、一生をかけてその道を全うしようとする厳しいもの。「人の道を如何に歩くか」という自分との対峙が要求されるもの。

喩えるなら、一生を神や仏に仕えることに捧げたキリスト教の修道士や仏教の修行僧。日夜厳しい鍛錬を自分に課して、心技体を磨き上げる武道家。自分の持てる技を結集し、納得のいく物を作り上げることに全身全霊を傾ける職人―というような。敬虔さや真摯さ、厳しさといったものが、中心に存在するものではないかと思うのだ。

スピリチュアリズムやスピリチュアリストという言葉は、少なくとも、天使や女神と繋がってメッセージ云々とか、オーラの浄化やソウルメイトを引き寄せるといったことに現(うつつ)を抜かして舞い上がっているような人を指す言葉ではないと思う。

スピリチュアリズムの本来の定義からすれば、「道を追究する者」には、目先の怪異に執着したり、拠りどころにすることは不要なのだ。彼らが必要とするのは、ただ一つの真理に己の魂を照らし合わせ、「人の道」を追究して坦々と歩んでいくことだけなのだから。

思想や哲学、信念といった「イズム=主義」に基づいて生きるということは、「覚悟」が必要とされる。真理や悟りの境地を求めてひたすら修行を重ねる者、「求道者」であり続けるということなのだから。むしろ、それは「孤独な道」ではないかと思う。それを強いられることもあるし、自ら選び取る場合もある。甘さやぬるさが付け入る隙はないのだ。

好きだのハマってるだのと言う時点で、「ただのオカルト好き」に過ぎないということだ。単に不思議な話が大好きで、オーラや天使や守護霊が見えたり、未来のことが透視できるという人や能力に憧れているというだけのこと。一生をかけて「人の道」を求め、究めていく覚悟や真剣さなど、彼らには微塵もない。

実際、彼らが欲しいのは、ご利益や高揚感や満足感、それらに伴う選民意識なのだから。ソウルメイトや幸運を引き寄せるためのナントカセミナーをはしごしたり、金運アップのために、満月の夜に財布や通帳をヒラヒラさせたりとか。「願わくば、自分も高次元の存在とチャネルできる能力をゲットしたい」と霊能力開発セミナーとやらを受けまくったり。「不思議~すごーい♪」ときゃわきゃわ浮かれてやっていることが「スピリチュアリズム」だと思い込んでいるようなお気楽なものだ。

「今起きていることはすべて正しいのです!必要だからそれが起きるのです!それが宇宙の法則です!カルマの法則なのです!」と言いながら、自分に都合が悪くなればすぐにトンズラとか。結局は「ご都合主義」なのだ。単なる道楽の域。一体それのどこがスピリチュアリズムだ、と。どこに哲学や信念、真摯さがあるのかと。

巷に大繁殖しているスピリチュアル教信者の正体は、「スピリチュアリスト」などという高尚なものではなく、実は単なるオカルト好きの、「オカルトおたく」というだけのことだ。そこに「求道者」の覚悟はないのだ。




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ゼロ

 2011-05-23
昨年の暮れから今月にかけて、ブログを読んでくださっている複数の方から、同じ件でメールをいただいた。あるブログランキングに参加しているスピリチュアル系ブログが、うちのブログの内容を盗用・剽窃しているのではないか―ということだった。記事がアップされるタイミングもそうだが、「内容や表現が、あまりにも似過ぎている」と。

指摘されているブログはすべて同じもの。盗用が疑われる該当ページのURLがいくつか添付されていたので確認したところ、「あー、やっぱりね」と。実は、前からそうではないかと思っていたブログだった。

該当するそのブログは、友人が参加していたブログランキングでたまたま見つけて知っていた。スピリチュアル批判ネタで取り上げたこともあるので、記事にはすべて目を通している。その他にも、ちょいちょい酷似したフレーズがあったりとか。

ランキングにも参加していないこんな地味ぃーなブログを、先方がどうやって見つけたのかは知らないが、「ん?」ということが度重なっていたので「もしかして?」とは思っていた。詳細は省くが、「うちの内容そのまま真似するなら、前にあなたが同じテーマで書いてることと矛盾しますけど?」という感じで、つぎはぎだらけの感が否めない。

何よりも、書いている本人はどう思っているのかと。その矛盾に気づいていないのだろうか。まあ気づいていたらこういうことにはなっていないだろうけど。騒ぎ立てるのも大人気ないし、何よりも面倒くさいのでそのまま放置していたのだが、意外と皆さん、観ているんだなーと。

愛だの光だの魂の覚醒だのと言っている割に、現実世界でのモラルが欠如しているスピリチュアル教信者ってどーよ、と。他人のブログやサイトの内容を平気でパクるとか、その神経がわからない。自分のしていることに対して後ろめたさを感じないのだろうか。

他人の文章の中の文句や説を盗み取って、自分のものとして発表することを「剽窃」というが、これを平然と行っているわけだ。端的に言えば、「著作権の侵害」をしているということ。口ではご立派なことを言っていても、なんだか情けないねぇー、と。

ブログやサイトには、必ず「All rights reserved by ○○」という一文が記載されている。当然うちのサイトやブログも例外ではない。「すべての権利は○○(著者)が保有します」という意味。当然その中には、著作権も含まれている。言うなれば、警告されているわけだ。「無断転載や盗用は法に触れますよ」と。だけど、それでもやる人はやるんだなー、と。「チャレンジャーだねぃ」なのだ。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はある。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されればいいわけで。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられる。「軽い気持ちで・・・」のツケは、意外と重い罪なのだ。

少し前に、俳優の渡辺謙さんが出演したハリウッド映画で、人の潜在意識の中にあるアイディアを盗む組織の話があった。ビジネスのアイディア、記憶―それを対象者の夢に潜り込むことで盗み出すビジネスの話。形になっていようがいまいが、「アイディア」というものにはそれだけの価値があるのだ。

文章や音楽、絵等「創作」には、必ず「生みの苦しみ」が付きまとう。ゼロから何かを生み出す時というのは、多大な労力が必要とされる。締め切りが迫っているのに一向に筆が進まない小説家やスランプに陥った画家の様子を見れば、それがわかる。平気で他人の作品を盗作・剽窃するということは、そういった人の努力を踏みにじっているのと同じことだ。しいては、その創作者を完全に軽んじているということ。

多分、それがその人の「本音」なのだ。人を大事にしない、人が作り上げたものを軽視する―結局、その人にとっての「人」というものは、その程度の存在なのだ。そんな人が、一体スピリチュアルの何を語るのかと。現実世界で他人の「見えない部分」を思い遣ることが出来ない人が、魂の領域を語れるはずがない。


先日ヒプノセラピーを受けに来られたクライアントの方が、絵を描かれる人だった。創作に関しての話など、「そうそう!それわかります!そうですよねー」と、いろいろ共感する部分が多かった。その方とも話していたのだが、世間の多くの人は、「創作」というものを、どうも簡単に考えているようなのだ。絵にしろ、文章にしろ、想像力と感性さえあればいいと思っている節がある。

だが、それをする側からしたら、「とんでもない!」なのだ。想像力だけで何とかなるものだったら、誰も苦労しない。学生時代から文芸同人誌に参加するなどして文章を書いてきた私からすれば、「想像力だけで小説が書けるだぁ?なめんじゃねーぞ!くおらぁ!」なのだ。

誰の目にも触れさせない、ただ自分を満足させるためにこっそり書く―というものなら、ただ筆の走るままにツラツラ書いていればいい。だが、不特定多数の目に触れる可能性のある場に作品を発表する時など、「読ませる文章」を書くには、かなりの手間隙が必要なのだ。

文章も絵も音楽も演劇もそうだが、テーマや内容等あらゆる要素の構成を思考する工程である「構想」には、むしろ論理的な思考が必要になる。先のクライアントの方もおっしゃっていたが、いろいろな可能性や効果を考え、時間をかけ、細心の注意を払って構図を決めるとか。右脳も左脳もフル回転状態。世間一般が言うところの「感覚」だけではダメなのだ。

このブログの記事もそうだが、私自身、文章を書く時、それを表現するのにぴったりな、ただ一つの言葉を探すために30分以上かけることもある。類語辞典を何度もひっくり返したり。ふと浮かんだその一行の、わずか数十文字のフレーズをどうしても書きたいばかりに、他の二千字を書いたりとか。一通り書いてみてはみたものの、やっぱりしっくりこなくて数行だけ残して全部書き直したり。そんなことはしょっちゅうだ。一つの文章に数日掛けることもある。絵や音楽にもまったく同じことが当てはまる。何かの片手間にちゃちゃっと―なんてことはあり得ないのだ。

「人の目に触れる」という最終段階までの道のりは、創作した本人しか知らない。だが、どんな作品であれ、そこには間違いなく、他人が想像している以上の労力が掛かっているし、様々な思いも込められている。インスピレーションを形にするということ、ゼロから何かを生み出すということを軽く見ないでいただきたい。

大物霊能師E原氏の本やその他のスピリチュアル本の内容丸写しとか、スピリチュアルナンタラ講座とやらで聞きかじった話をそのまま書いているだけ―なんていうパターンが多いスピリチュアル系ブロガーには、多分「生みの苦しみ」はわからない。既にあるものを、そのままコピーしているだけの人間に理解できるはずがないのだ。だからこそ、他人が苦労して生み出したものを平気で自分のものにすることができる。少しでもそれを理解している人間なら、絶対に出来ないはずなのだ。

そういう人達は、これまでも、既存の何かに寄生して生きてきたのだと思う。それを真似したり、それに従ったりするだけで、「自分で考える」ということをしてこなかったのだ。生みの苦しみとは無縁のそのお気楽さが、他人のものを平気で盗用・剽窃するような無神経さを作り出したのだ。インスタントな学びが何を生むか―そのいい例だ。

パクリでは世界で右に出るものはいないアジアのどこぞの国とよく似ている。「自主性」や「思考」を意図的に排除してきた国では、人々は真似をすることしか出来ない。スピリチュアル教に魂を抜かれ、「考えること」を放棄して、楽をして得をするために他人のアイディアを平気で盗む信者とまったく同じだ。(もっとも、自分で考えられないからこそ、あれこれ指図して支配してくれるスピリチュアル教にハマるのだろうけど)

結局、彼らの中身は空っぽなのだ。スピリチュアル教の教義や思想にはじまり、他人の意見の真似等すべてが寄せ集めのパッチワークで出来ている。言うなれば、その人自身の「核」がないのだ。人間の「核」というのは、本人が作り上げていくものだと思う。経験や思考を積み重ね、そこで得たものが、その人の中心になる。誰かや何かの受け売りによって得たそれは、「核」とは言えない。

その空っぽの中身を満たすには、誰かや何かから奪うしかないのだ。それをかき集めて、自分のものにするしか手段がない。だが、それをしても所詮すべては借り物。それを取り去ったら、多分その人の中には何も残らない。やはり中身がゼロのままであることには変わらないのだ。



【追記】自分のオリジナルに見せかけようとあれこれ小細工しても、そういうことはバレバレなのだ。特にブログ等、それ以前の文章が複数ある場合、それを読めば違和感はますます強くなるし、矛盾点もどんどん出てくる。これまでの経緯―その人の思想や思考からは「こういう言葉は出てこない。こんな考え方はあり得ない」という展開になるので。数ヶ月前と正反対のことを言っていたりとか。「この前と言っていることが全然違うじゃないですか。この考えはどこから来たんですか?」という感じで。

盗用・剽窃をする人というのは、それ一回きりで済むことはない。これまで以前にも同じことをしている可能性がかなり高い。もし今回がその一回目であっても、今後同様のことをする可能性があることは間違いない。実際、「再犯」のパターンをいろいろ見てきているが、懲りずに繰り返す人が圧倒的なのだ。結局、「性根」「想像力の欠如」「共感能力の低さ」の問題なのだと思う。

・・・こういうことを言うと、「ネガティブな思念を飛ばされた」とかなんとか言われるんだろうなー。べつにその人個人に興味はないし、正直どーでもいいです。大体、仕事やその他のことが忙しくて念を飛ばすほどその人のことを考えているヒマはないですし。そういった強迫観念に囚われるのは、自分の中に疚しいことや思い当たることがあるせいかと思います。それこそ自分がやったことが自分に返ってくる「カルマの法則」じゃないかと。だったら仕方ないんじゃありません?と。逆ギレは筋違い、そちらの問題です。



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コピー

 2011-05-22
うちのサロンは、ご紹介の方が多い。紹介者の方の友人知人のみならず、そのご家族全員とお会いすることもよくある。特に親子の場合、お会いした瞬間に「おー!」と思わず納得なのだ。

とにかく皆さん、親子だけあって本当に似ていらっしゃる。顔立ちや体つき等の外見をはじめ、物腰や雰囲気も「やっぱり親子だな~よく似てるな~」と感心することしきり。ボディーワークの仕事に携わっている友人が、「親子の骨格はそっくり。だから姿勢も似ている」と言っていたが、「なるほどねー」と。

だが、似ているのは外見だけではない。その考え方や価値観、悩むポイントも非常に似通っている。人によって度合いこそ違うが、かなりの部分がリンクしているのだ。「ここはお母さん、ここはお父さんの影響だな」という感じで、良くも悪くも親の価値観や思考・行動パターンをそっくりそのまま受け継いでいる。まるでコピーしたかのようなのだ。

それは、動物界によく見られる「刷り込み」とよく似ている。卵から孵った直後の鳥の雛は、初めて目にするものを親だと思い込む。それが違う種類の鳥やその他の動物でも、ぬいぐるみでも、目覚まし時計でも、初めて目にしたものが、彼らにとっての「親」になる。生物学的にはあり得ない「親」でも、雛は疑問を抱くこともせず、それを親と認識する。そして、この先もその状態が途中で覆ることはないのだ。

それと同じように、人間の子供は、親のやり方―考えや価値観を「間違いのないもの」「お手本」として、そのまま自分の中に取り入れる。善悪や自分の好み、感情や都合といったものは一切関係ない。書類をコピーするかのように、そっくりそのままそれを写し取る。

子供は何の疑問も抱かない。彼らにとっては、親がすることが「真実」であり、「正しいこと」なのだ。「親がそうしているから」それだけの理由で、「すべての人間はこうするものだ。こう考えるものなのだ」と思い込む。問答無用のインプットがそこで行われるのだ。「洗脳」と言ってもいい。

例えば、過剰に世間体を気にする親の元で育った子供は必要以上に人の目を気にするし、親が事なかれ主義の場合には、子供は人とぶつかり合うことを「悪」とし、それを避けるようになる。何でも人のせいにする親の子供は、自分以外の者にすべての責任を押し付ける。だが、子供にしてみたら、それは「正しいやり方」なのだ。なぜなら、「自分の親がそうしていたから」だ。

だが、ある程度の年齢―自我が芽生える思春期を迎える頃になると、子供の中に、ある種の疑念が湧き起こってくる。自分の考えや価値観だと思ってきたものが、どうもそうではないらしいということを、無意識で感じているのだ。今まで何の疑いもなく従ってきたそのやり方が、どうにも居心地が悪い。はっきりとした理由はわからない。だが、「何かが違う」ということだけはわかる。

でも、これは「自分のやり方」だし、今までそれで通してきた。なのにどうしてすっきりしないんだろう。自分が自分に抵抗を覚えるなんてことがあるのだろうか。何かがおかしい。でもその理由がわからない―自分の中に突如芽生えた正体不明のもやもやに対する不安や焦燥を、子供は、親や教師や学校、世間に対する「反抗」「反発」という形で表現する。

いわば、「反抗期」というのは、「洗脳」から目覚めるためのものなのだ。知らないうちに刷り込まれた親の価値観や思考と改めて対峙し、それを捨てるか残すかを自分自身で選択し、自分独自の核を確立するための時期。「子供」という存在から「人」になる時期。そのプロセスを経て、人は「自分」になるのだ。

親の価値観と自分のそれが同じ、もしくは近いということは悪いことではない。もし、それが一度粉々に破壊した後に作り上げてもそうなった―という場合であれば。だが、少しでも違和感のようなものを覚えるのであれば、それは「刷り込み」によるものかもしれない。自分の核にあるものが、「自分の考え」ではなく、「親の考え」であるということだ。未だ「子供」であり、未だ「親のコピー」であるということ。

人間というのは、その時々の年齢に「経験しておくべきこと」があるのだと思う。例えば、幼児期には親との関係を通じて愛情や信頼を学んだり、思春期には友人等周囲の人達との付き合いから、世の中には様々な考え方や価値観があることを知ったり、青年期には「自分」の存在を確立したり―という感じで。

そして、何らかの理由でそれぞれのプロセスをスルーしてきた場合、人生のある時期で、その部分を必ず体験するようになっているのだと思う。提出期限は無期限で自由、でも提出は必須―そんな「宿題」に取り組むように。人によって、季節はずれの思春期や青年期が訪れたりすることがあるのは、そういうことなのだと思う。

思考や価値観等「自分自身に悩む」ということは、極めて「正常」なことだ。「自分」という人間を確立している最中だということ。その状況は、「刷り込み」からの脱却でもある。「=親離れ」なのだ。そして、それをして、初めて親の「コピー品」から、唯一無二の「オリジナル」、「自分」という存在になれるのだ。




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あとだしの国

 2011-05-19
この国の人達のコミュニケーションの取り方は独特だ。じゃんけんをする時、相手よりも遅れて手を出す―俗に言う「後出しじゃんけん」とよく似ている。相手の出方を見てから自分の出方、態度を決めるというこのやり方、私はこの国に生まれ育った人間だが、これが非常に面倒くさい。というより、まったく性に合わない。

戸の隙間からこっそり相手の様子を伺って、無害な相手だとある程度確信してから外に出て行く。そしてまた、そこで慎重且つ無難なやり取りがあって、お互いの腹の底を探って―と、非常にまどろっこしい。「向こうがここまで見せてくれたから」と自分も同じ程度のものを見せる。延々とそれの繰り返し。「あーもう!ちゃっちゃっといこうよ!ちゃっちゃとさぁ!」と思う。

多くの人は、それを「慎重さ」「大人の振る舞い」などと呼びたがるが、単に臆病なだけ。未知との出会いで、自分が損をしたり痛い目に遭うのが怖いのだ。「よく知らない人は怖い」そう言う人がいるが、何言ってんだよと。それはお互い様でしょ、なのだ。自分が怖けりゃ相手も同じくらい怖くて不安に決まっている。結局自己中心的なのだ。自分のことしか考えていない。

「怖いし不安だから、まずは様子を見て・・・」そう言って、後出しじゃんけん方式に固執する人ほど、「本当に心を開いて話せる友達がいない」などと嘆く。当たり前ではないか。「心を閉じた人間に、誰が心を開きますか?」と。

なんというか、ある意味ずるいやり方だと思うのだ。自分からは何もアクションを起こさず、相手にばかりそれを求めるのは。何かと物騒な今の時代、自分の身を守るために慎重になるのはわかる。だが、友人や恋人等新しい人間関係を築く時というのは、自分から扉を開かなければ何も始まらない。


「自分が痛い目に遭ったり損をするのは嫌だけど、気の置けない付き合いが出来る友達がほしい」今の世の中、こんなことを言う人が結構いる。「人付き合いは煩わしい。でも孤独は嫌」とか。何虫のいいこと言ってんだ、と。両極端のものを同時に欲しがるとか、自分がどれだけ矛盾したことを言っているかという自覚もないようなのだ。

それを自分と相手、双方でやっているものだから、一向に埒が明かない。ちょっとだけ開けた戸の隙間から、「早く向こうから出てきてくれないかな」とお互いをチラ見している。そんなことやっているヒマがあったら、さっさと自分が出て行けよ!なのだ。「友達になりたいって思ってるんだから察してよ。そっちから来てよ」大人から子供までがこんな調子の「一億総ヒトミシラー状態」、それで大丈夫か?と。

こんなことを言うと、「ここは日本だ!」などと言い出す人が必ずいるが、そうやって開き直れる時代は終わったのだ。「以心伝心」「察する」「汲み取る」日本人は、何かとこれらの言葉や概念を人間関係に持ち出してくる。だが、その言葉が日本で通用したのは、戦後間もなくの頃までだ。

かつて、日本には階級制度が存在した。皇族や貴族、士族等の特権階級と平民―それぞれ「住む世界」が決まっていた時代だからこそ、「以心伝心」「察する」という言葉は有効だったのだ。自分が所属している階級以外の人間との接点はほとんどなく、付き合いがあるのは同じ階級の人間ばかり。当然似たような価値観や思考を持った人間ばかりが集まることになる。何も言わずとも、お互いの胸の内を読み取ることは簡単だったのだ。

だが、戦後に階級制度が廃止され、すべての国民が「平等」になった今、思考も価値観も多様化した。「その身分特有の」というものがなくなり、文明も進み、ネットや電話で瞬時に世界と繋がれるようになった今、「以心伝心」「察する」などという言葉は通用しない。「語り合うこと」「開示すること」が必要とされる時代なのだ。ただ待つだけの「受け身」の時代は終わったのだ。

「阿吽の呼吸」も「察する」ということも、さんざん語り合った末に初めて出てくるもの。ひたすら相手の出方を待ち続けるやり方が通用する国を、私は日本以外知らない。

世界の国々の多くは、そんな特殊なコミュニケーションスタイルが「普通」になっているこの国を、「理解しがたい奇妙な国」と見ている。なかなか腹の内を見せない。打ち解けない。ぶつかり合うことを極端に嫌う。その場では何も言わないのに、後で不満を口にする―本来のコミュニケーションの定義から大きく外れた人々を扱いあぐねている。

そうして貼られたのが、「日本人はコミュニケーション下手」というレッテルなのだ。ある意味、日本は「マイノリティー」なのだ。コミュニケーションに関しては。そして、そのことを日本人が自覚する必要がある時期に来ている。


文化や民族性の違いと言ってしまえばそれまでだが、特に初対面の時、大抵の日本人は、相手の表情を確かめてから自分の表情を作る傾向がある。相手が笑顔だったら、自分も笑顔になるとか。どうしても表情が一拍遅れてしまうのだ。無表情の瞬間が必ずある。タイムラグというか、奇妙な間(ま)が存在する。

同じ日本人の私がそう感じるのだから、外国の人だったら尚更だと思う。どうして自分主導で行動できないのかな、と思うのだ。「あなたに会えて嬉しいです」相手への好意を示したいのなら、躊躇わずに、それを表せばいいのだ。そういう部分さえ、相手の出方を見てから―というのは、既にその時点で「コミュニケーション」とは言えないのだ。

既に日本語化したと言える「コミュニケーション」という言葉、そもそもの原義は、「他人と共有する」ということだ。コミュニケーションギャップというのは、情報の不足から生まれる。自分はどんな人間なのかということに始まり、自分の感情や思考を相手に示すこと―「自分に関する情報」を相手に与えないことから発生するのだ。

例えば、人と話すことが苦手なら、それをまず相手に伝えることが必要なのだ。何かとええかっこしいの日本人は、「いやー、私実はものすごい人見知りでして」などと初対面の相手に言うことはまずない。だが、あえてそれをするのだ。自分が人見知りをする人間であるということを相手に最初に伝えておけば、その後会話が途切れて多少気詰まりな瞬間があっても、相手は納得してくれる。何よりも、それをすることで自分が楽になる。

自分がどんな人間なのか、どんな思考をして、今どう思っているのか、好きなものや嫌いなものは何なのか―それを相手に知らせることが、「自分をオープンにする」ということなのだ。相も変わらずクローズした状態で、「見たらわかるでしょ」とばかりに、相手が察してくれるのを当然のように待っているだけの日本人のやり方は、不親切極まりないものなのだ。

「私ってこういう人だから。それでもよかったらよろしくね~」最初に自分を開示して、相手がそれに対してどう反応するのかはわからない。だが、所詮人間関係なんて、「人には添ってみよ。馬には乗ってみよ」のいちかばちかの領域だ。実際に付き合いが始まってみなければ、本当のところはわからない。仲良くなれたらそれでいいし、ダメだったとしても、それはそれでいいんじゃね?と。

ただ「自分からオープン方式」の人間から言わせてもらえば、そのほうがいろいろと話は早いよ、と。恐る恐る腹の探り合いをしながらおっかなびっくり進んでいく関係なんて、いつまで経っても表面だけの付き合いの域から抜け出せない。ぐちゃぐちゃうじうじやっているヒマがあったら、その分他のことをしたほうがいい。

ここは一発、堂々と先にこちらの手の内を見せちゃえば?と。「相手は自分の鏡」と言うのなら、自分の態度が相手にも反映されるはず。しちめんどくさいことは抜きにして、お互い最初からガチンコでいけばいいのだ。

時代が変われば、人も考え方も変わる。古くからのやり方を尊重するということは、それにしがみつくということではないのだ。自己保身のための執着は、結局何も生み出さない。



【追記】「そんなの無理!」と思うヒトミシラーさんは、今までそれをやったことがないから怖いだけかと。未知の世界に踏み出す時は、誰だって不安だし怖い。でも、せめてそれを試してから「やっぱり無理」って言ってほしいかも。何でもやってみなくちゃわからない。意外と簡単にいっちゃうかもよ?

小学校2年生くらいまで「超」がつくほどのヒトミシラーで、今はセラピストなんていう「接客業」に就いて、日本人だろうが外国人だろうが、初対面だろうが、どんな相手とでも平気で話す人間が言うんだから、結構信憑性あると思いますけどね。ま、どうするかはそれぞれの自由です。




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からくり

 2011-05-11
オーラや魂の状態、守護霊や天使等の異次元の存在からその人に関する霊的な情報を得ることを「リーディング」と言う。「霊視」と言い換えてもいいかもしれない。スピリチュアル業界の定番メニューの一つだ。そして、それを行う人を「霊能師」「チャネラー」と呼ぶ。人気オーラ番組に出演していたE原氏がそれに該当する。

現在、リーディングを行うスピリチュアル系サロンは、全国に200万件以上存在する。年々その数も増加している。霊的存在と繋がってそこからメッセージを受け取ったり、オーラや魂等からその人の霊的な情報を読み取ったり出来ると自称する人が万人単位からいるということ自体、どうにも胡散臭く感じられて仕方ない。しかも、そのすべてが「本物」を自称しているのだ。

その人達には申し訳ないが、本人達が自分の霊能力を使って行っていると思っているそれは、実は「能力」ではない可能性もある。むしろ世の中で行われているリーディングの多くが、それに該当するのではないかと。霊能力がなくても、ある種の「技術」を使えば、十分「それらしく」見せられるのだ。


「初めて会ったばかりなのに、どうしてそんなことまでわかるんですか!?」カウンセリング中、クライアントによくそう言われる。だが、その人をよく観ていれば、それは難しいことではない。本人が意図的に隠している感情、無意識の本音といったものも、「外見」には表れる。「読み取る技術」というよりは、「観察眼」と言ったほうが適切かもしれない。

表情、姿勢、仕草、話し方、使う言葉、服装等「外見」は、「情報の宝庫」だ。部屋の様子、乗っている車、本棚の中身、趣味や関心のある事柄、職業―そこには確実に、その人の本質や本音が表れている。その人が書いた一通のメールや手紙、本人が写っている一枚の写真でも十分だ。そのように、観察によって相手に関する情報を掴んだり、質問によって相手からより多くの言葉や情報を引き出すことを「コールドリーディング」と言う。

「自称霊能力でのスピリチュアルリーディング」の場合、行う本人が、無意識にこのコールドリーディングの手法を使っていることがある。いろいろな意味で感受性が強い人、人の顔色を読むことに長けている人の場合、特にその可能性は高くなる。観察と想像力―霊能力を使わずとも、「リーディング=他人を読み取ること」は可能なのだ。

リーディングを申し込んで来る時点で、客側は、既にある程度の信用を行う側に置いている。「自分が選んだこの人は本物だ」と信じたい気持ちも強い。すべてが術者に有利に働く。曖昧な言葉であっても、客は自ら進んでそれに該当することを探し出して結びつけてくれる。取るに足らないような些細なレベルのことにまで、その「こじつけ」は行われる。何も言わずとも、客側が勝手にフォローしてくれるというわけだ。その結果、客は心の底まですべて見透かされた気分になり、そのリーディングを「本物」と思い込む。

もし仮に客から否定されても、「あなたに自覚はなかったかもしれないけど、霊的な世界ではそうだった」「でも私の霊視ではこう見える」「でもあなたのオーラの状態では」「でも魂レベルでは」「あなたの後ろにいる人が、『本当はこうだった』と伝えてきている」と言えば済む。「証明しようのないこと」を持ち出せば事足りるのだ。

だが厄介なのは、ほとんどの場合、たとえそれが霊能力によるものでないとしても、その人に「騙してやろう」等という悪意がないことと、自分が使っているのは霊能力ではなく、「技術、手法」だという自覚がないことだ。ましてや養成スクールや講座から認定証を授与される等何らかの「お墨付き」をもらっていれば、自分の能力を「本物」と思い込むのも仕方のないことかもしれない。

「高次元」と称される精神世界に関しても、蓋を開けてみれば―というものが存在する。それを行う人間ですら自覚していない巧妙な仕掛けが存在している場合もあるのだ。盲信や過剰な期待は禁物なのだ。



【追記】コールドリーディングに対して、「ホットリーディング」というものがある。事前調査やリーディング前の話の立ち聞きにまで至り、相手のことを調べ上げ、情報収集した上で行われる。大規模になると、弟子や協力者を動員することもある。セールスマン等を装い、予約者宅を訪問し、情報を収集することもある。宗教の勧誘や霊感商法等、この手口を使う団体の存在が、日本のみならず、世界各国で多数報告されている。「まさかここまでやらないだろう」という思い込みは禁物だ。(対象が友人や知人等面識のある人、ブログやサイト、出版物等を通して何らかの情報を持っている人の場合は「ウォームリーディング」と言う)


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裏事情

 2011-05-03
リーディングやチャネリング、オーラやカルマの浄化に透視や守護霊との対話―こういったことを行うスピリチュアル系サロンが、年々増加している。「スピリチュアルサロン」でネット検索すると、今やヒット数は200万件以上になる。10年程前には考えられなかったことだ。スピリチュアル系サロンの急激な増加の背景には、スピリチュアル業界が本格的に乗り出した「認定ビジネス」の影響がある。

組織化と認定証・修了証の授与―ここ5~6年の間、スピリチュアル業界内に目立つ特徴だ。例えば、「○○協会」等と銘打った団体を立ち上げ、組織化するやり方が増えている。スクールやセミナーを開講し、一定の課程を修めた受講生に対して認定証や修了証を発行する。だが、それは「権威」や「肩書き」に弱いこの国の人達の弱みにつけ込んだやり方なのだ。

スピリチュアル関連の仕事というのは、基本「自己申告」だ。実体はともあれ、当の本人が「自分は○○だ」と名乗れば、周囲は認めるしかない。まさに「名乗ったもん勝ち」なのだ。しかし、あくまでも「自称」の域を出ないという曖昧さが、世間の目や評価を厳しいものにしているのもまた事実。

そんなところに「○○協会主催△△スクール□□講座課程修了ヒーラー」「○○協会認定チャネラー」という肩書きは心強い。「身元」がはっきりしているということで信用が得られやすくなるし、相手に安心感を与えることもできる。権威や肩書きに弱い人やそれを拠りどころにする人が多いこの国では、認定証はある種の「お守り」「武器」になる。それを目当てにする人を見込んだのが、スピリチュアル業界の「認定ビジネス」なのだ。

だが、そういった団体が、どのような基準で認定証を授与しているのかは定かではない。プロとして開業できる確かな能力を持っていると判断された者のみに与えているのか、それとも単に指定された課程を一応すべてこなした「証明」として一律全員に与えるのか―その部分が明確にされていないのだ。

だが、それがどんなものであろうと、認定証や修了証をもらった受講生の多くは、「=プロ開業の許可証」「=自分にその能力があると公に認められた証拠」と思い込む。自らそういったものを受講する人は、もともとその世界への興味や憧れが強い。「お墨付き」をもらったことで自信をつけ、「これこそが自分の使命だ。お役目だ」と思い込み、勢いでプロデビューする人が増加した。その結果が、昨今のスピリチュアル系サロンの乱立なのだ。

私は、霊的な世界の存在は肯定するが、そういった安直なセミナー等によって開発されたり得た能力というものは、眉唾物だと思っている。特に成人以降のものは、「憑き物」の影響、もしくは本人の願望が引き起こした思い込みくらいに思ったほうがいい。

中でも、「ある時期から突然」「セミナーを受講して以来」などというのは、その最たるものだと。最初は単なる興味だけで出席したものの、そこで「何か」を憑けられたという可能性もある。妄想を伴う精神疾患を発病している場合等、その妄想を霊能力と勘違いすることもあるのだ。

認定する側が「本物」であるという証拠もない。すべて「身内」の中で行われる認定―それもビジネスの一環として行われるそれに、一体どれほどの信用性があるのかと。それが「商売」である以上、「客=受講生」を満足させるために、「店=団体」はおべっかも使えば、ヨイショもする。何しろ、「相手を否定しない」「批判しない」という掟が存在する業界なのだ。それに則った甘くて優しい言葉を真に受けて、勘違いする者も出てくる。

スピリチュアル系スクールや講座で認定証や修了証を授与される期間は、平均すると、わずか数ヶ月。長くてもせいぜい半年から1年というところ。最短で1日というものもある。そうして認定証を手にした受講者が、サロンを立ち上げ、「スピリチュアルのプロ」として活動を開始する。非常にイージーな世界なのだ。しかも、そのすべてが「本物」を自称している。胡散臭いことこの上ない。

「宗教」の最大目的は、どれだけ自分達の教えを世の中に布教させることが出来るかということにある。組織化するのは、社会的な信用度を上げて教えを浸透しやすくするためであり、認定証や修了証の授与等の儀式は、「信者」「同胞」を増やすためなのだ。「=本物であるという証」ではない。

現在日本に流行中の「スピリチュアル」と呼ばれているものは、キリスト教と仏教の思想を合体させて生まれた「新興宗教」だ。そのベースの大半―9割は、キリスト教由来と言っていい。その新興宗教から認定証や修了証を授与された者は、いわば「スピリチュアル教の宣教師」なのだ。それは能力に対するお墨付きなどではなく、布教のために利用できる者、いわば「下僕」としての認定なのだ。

以前、知人のインド人のご夫妻が言っていた。「インドには、特に『聖地』と呼ばれる所やその周辺には、自分を聖者・覚者だと名乗る人が山ほどいる。だが、そのほとんどが偽物だと思ったほうがいい。自らそれを名乗る者に本物はいない。妙な憧れを持った馬鹿な外国人が、ほんの数ヶ月修行の真似事をしただけの偽物に簡単に騙される」国こそ違えど、精神世界にまつわる問題は、どこも似たり寄ったりのようだ。

結局人間は、どこまで行っても肩書きや権威に弱い生き物なのだ。それに踊らされ、利用され、笠に着る。高次元の世界だろうが、下世話な俗世だろうが、やはり「弱点」は弱点のまま。根っこの部分、「本質」は何も変わらないのだ。




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6月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2011-05-01
2011年6月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2011年 6月5日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 6月2日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループを探してみることをお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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