FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

熱帯魚の強がり

 2011-04-25
スピリチュアルおたくにとっての「勲章」の一つに、「テレビを見ない」というものがある。「テレビ見ない率」と「おたく度」は、ほぼ比例する。おたく度が最高レベルにまで達すると、家にテレビすら置かなくなるようだ。べつに他人がテレビを見ようが見まいがどーでもいい話なのだが、いちいち周囲に対して、得意げにその「理由」を語るのが面倒くさい。

「テレビ見ない派」のスピおた曰く、「悲惨なニュース等は強いマイナスエネルギーを発しているので、自分の霊的エネルギーに悪い影響を与える」要は、自分がどれだけそういうものに対して「敏感な体質」なのかということを言いたいようだ。「反応の度合い=霊的レベル」と思い込んでいる彼らにとって、それは「自慢」なのだ。

「敏感」を別の言葉に置き換えれば、「ひ弱」「脆弱」になる。水温をしっかり管理しないと生きていけない熱帯魚や清流にしか住めない魚を連想させる。だが、実際のところは、マイナスエネルギーが至る所で飛び交うこの現実社会では生きていけない人達なのだ。現実に対する耐性が欠如した人種だということ。

打たれ弱いひ弱な熱帯魚である彼らは、水温もまちまち、時に汚水が流れ込んで澱んだり、様々な危険に晒される可能性の高い「俗世」という河では生きていけない。愛や光や肯定しか存在しない世界、一切のリスクを排除した安全な環境である精神世界でしか生息できない魚―それがスピリチュアルおたく達なのだ。

熱帯魚達は、事あるごとに言う。「現世の古いやり方や考え方から卒業しましょう」だが、それは「卒業」ではなく、「逃避」なのだ。垢や汚れにまみれた、時に過酷な現実社会では生きていけない弱さゆえの言葉。「悲惨なニュースが発するマイナスエネルギー」とやらに耐えられない自分達の脆さを隠すためのものなのだ。

大抵の場合、彼らは、俗世を「苦界」と感じている。事あるごとに「修行」や「苦行」という言葉を持ち出すのはその表れだ。俗世と繋がる道具であるテレビは、自分達の生態系を破壊する危険性のある代物なのだ。自分が見たいと思うものしか見たくない―そんな彼らにとって、いつ何時「見たくないもの」が送られてくるかわからないテレビは、有害でしかないのだ。

彼らは自慢げに言うが、エネルギー云々という理由で日常からテレビを意識的に排除するということは、「俗世を捨てた」「俗世から逃げた」ということでもある。心を乱すものはすべてシャットアウトして、「都合のいいもの」しか存在しない自分の世界を必死に守ろうとしているだけだ。その正体は、高い霊的エネルギーを持つ覚醒者などではなく、世の中を見捨てて、山野にひっそりと隠れ住む隠遁者、世捨て人なのだ。

プロの業界人だろうが、ただのおたくだろうが、精神世界に関わる人間こそ、現実社会というものを知らなければならない。精神世界に関しては雄弁多弁、だが現実世界ではグダグダ―そんな「地に足が着いてない人」が多過ぎる。高尚と下世話―両面を知らなければ、真理など語れるわけがない。少なくとも、現実逃避している状態で語られるそれは、彼らが言うところの「真理」とは程遠い。

テレビのニュースから発せられるマイナスエネルギーに干渉される霊的エネルギーなど、もともと大したものではない。完璧に水温管理された水槽にしか住めないひ弱な熱帯魚の詭弁なのだ。

テレビ(現実)を拒絶して手に入れたユートピアなど、所詮は砂上の楼閣だ。自己満足の域でしかない。時に「悪食(あくじき)」とも称される雑食性の魚―コイのように、何でも食べてみなければ、真実も全体も知ることはできない。甘やかされて飼育された熱帯魚の知るそれは、自分達で作り上げた幻なのだ。




■関連記事

べジーな人々

トンカチだけの道具箱

歪んだ鏡

スモールワールド

鎖国

セイレーン

「今ここ教」の矛盾

アリとタカ

考えない人々




スポンサーサイト
カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

手前勝手

 2011-04-18
人間とは、つくづく勝手な生き物だと思う。何だかんだ言っても、結局優先するのは「自分の都合」なのだ。

例えば、一部分だけで自分を決めつけられたと不満を漏らす人。だが、その決めつけの内容は、その人にとって「都合の悪いこと」だったのだ。「自分をこんなふうに見てほしい」という期待が裏切られたこと、「そんな人間には思われたくない」「自分はそんな人間じゃない」という自負を覆されたショック、自己評価や予想、期待を下回るレッテルを貼られたことに対する不満や腹ただしさ―それが先の言葉となる。

だがそれは、当の本人が、自分の中に存在する「その一部分」を認めていないことが原因だったりする。自分が今まで目を背けてきたその「一部」への容赦ない指摘―感じている不満や不快は、それに対する反応なのだ。痛いところを突かれた悔しさからの捨て台詞。

「一部分だけで」と言うけれど、「されど一部」でもある。その一部に、その人の「すべて」が凝縮されることもある。一瞬の表情や言葉といった「ほんの些細なこと」が、その人の真の姿を雄弁に語ることもあるのだ。一切の感情やしがらみを抜きにして、まっさらな状態でその人を「観る時」、「一部」は「すべて」を伝えてくる。

ミクロとマクロ、「視点」が違うだけで、見ている対象はまったく同じ。人間に関しては、どちらの視点から見ようが、結果はそれほど違わない。それぞれの視点から見たものを拡大しようが、縮小しようが、結局同じような答えに行き着くはずだ。


都合のいいことに、もしその一部による決めつけが、「自分にとって都合のいいこと」であるならば、多分何も言わないはずなのだ。

例えば、ある時たまたま自分がしたことが、結果誰かにとって「親切な行為」になったとする。だが、それは優しさや思いやりから出たものでなく、単なる義務感から行ったものだった。その時そこには自分以外誰もいなくて、仕方なしにその役割を引き受けなくてはならなかったのだ。

だが、それを偶然見ていた人がいた。その人が、「あなたって優しいよね」と言ったら、多少の謙遜はするけれど、多分否定はしない。利益や賞賛、「自分に得になること」に関しては、「決めつけ」を許すのだ。


「一部による決めつけ」は、日常頻繁に行われている。物や人に抱く「イメージ」など、その最たるものだ。直接会って話したこともない芸能人を、「性格悪そう」と評したり。初めて入ったレストランで、注文した料理が美味しくなかったら、「こんな不味い店には二度と来ない」とか。初めて読んだ作家の小説が、全然面白くなかったら、「つまらない。この作家の本はもう読まない」電車の中、自分の足を踏んだ人が謝らなかったら、「失礼な奴だ。きっとろくな人間じゃない」当然、その逆のケースもある。


他人が決めつけた自分の「一部」が、自分に損をもたらすのか、得をもたらすのか―結局、決め手はそこなのだ。すべては自分の都合次第。何とも身勝手な話ではないか。




■関連記事

都合の賜物

曲解された「わがまま」

ショックの真相

理由の不在

「偽ソウルメイト」という珍説

「釣られた魚」の本音

ネイティブアメリカンと友達になる方法

羅生門現象

あわいのゆらぎ

ペルソナ

ボーダーライン

パッケージ効果





カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

パッケージ効果

 2011-04-15
今の時代、これほどまでにスピリチュアル教が世間に広まったのは、某オーラ番組に出演していたE原氏の功績だと思う。E原氏の登場以前、霊能師等「見えない世界」に関わる人々は、「見るからに怪しげな人」が多かった。風体や言動を含め、「いかにも」という感じの人達が大半で、世間は完全に色物扱いしていたと思う。言うなれば、その手の人達は、「アンダーグラウンドの住人」「遠巻きにされる人達」だったのだ。

それが、例の番組がきっかけで、「怪しげでおどろおどろしている世界」から、一気に「明るく親しみやすいもの」へと変化した。今までは、ごく一部の限られた人達のものだったそれが、10代や20代の若者の間にまで浸透していった最大の理由は、E原氏にある。それも、氏の「容姿」に因るところが大きいのだ。あの番組の成功は、森の中から出てきた心優しい熊さんのようなあの外見にあると言っても過言ではない。


「人は見かけではない」という言葉があるが、意外に人は、「見かけ、外見」に意識を左右されている。複数の実験でも検証されていることだが、人間は、人や物に対する印象の9割を視覚によって決定付けている。

化粧品メーカーが、宣伝広告、パッケージや容器等「イメージ」に力を入れるのはそのためだ。消費者の無意識では、「見た目=化粧品の効果」なのだ。例えば、高級感のある容器とそうではない容器、中身は完全に同じであったとしても、大部分の人が「効果があった」と選ぶのは、圧倒的に高級感のあるほうなのだ。

情報が視覚を通して入ってきた時点で、「すべて」が決まってしまうと言ってもいい。好きか嫌いか、信じるか信じないか―対象が視覚に入ったと同時に、評価は下される。人間は、無意識では「その人が何を話しているか」ということよりも、「誰が話しているか」という部分を重視している。人間の無意識の本音は、「人は見かけ」なのだ。


「なぜE原氏を本物と思うのか?なぜ信じるのか?」信奉者にその理由を聞くと、様々な答えが返ってくる。例えば、「話している内容に一貫性がある」とか「いいことを言っている」とか。だが、それは完全なる「後付け」だ。

人間は、常に無意識で「つじつま合わせ」を行っている。自分の言動や感情に対し、「もっともらしい理由」を探し、結び付けている。自分を「正当化」するためだ。先の答え、「一貫性がどうこう」「いいことがどうこう」というのは、実は後から「いかにもそれにふさわしく思える答え」を引っ張ってきたものなのだ。

大抵の場合、人は自分自身を、偏見とは無縁の人間だと思い込んでいる。外見で人を決め付けるような下世話な人間ではない、と。正確には、「そう思いたい」のだ。その無意識の「願望」が、後付けの理由を運んでくる。自分の願いとは裏腹に、無意識では、「一瞬で決め付ける行為」を行っているのだ。氏の話している内容等「中身」で判断したというのは、本人の思い込みに過ぎない。実は、彼の話を聴く以前に、初めてE原氏を見た瞬間に、既に評価は決まっているのである。


「誰が話しているか」この部分の影響は、想像以上に大きい。これはE原氏に限ったことではない。例えば、詐欺師の被害に合った人達からよく聞かれる「そんな人には見えなかった」という言葉、これがすべてを物語っている。企業の営業マンに関しても同様だ。上司や同僚が腰を抜かすような大口の契約を頻繁に取ってくる優秀な営業マンというのは、得てして「普通の人」だ。多くの人が想像するような、いかにも有能そうなやり手タイプではなく、どちらかと言うと、実直で朴訥な感じの人だったりする。

E原氏にしろ、詐欺師にしろ、優秀な営業マンにしろ、彼らに対して人々が抱いている共通の感情がある。それは、「期待」だ。「この人が騙すはずがない」「こういう人は嘘は言わないだろう」「この人なら信じてもいい」「この人の売る物なら大丈夫だろう」「霊的な世界に関わる人はこんな人であってほしい」人々が抱く「理想像」に、彼らは合致したのだ。

E原氏がテレビ番組や自著の中で述べていることは、特に目新しいことではない。それこそ、何十年も前から「いかにも怪しげな業界人」が言っていたことと何も変わらない。そこに日本古来の道徳観や西洋由来の宗教的概念等、多少のアレンジは加えられてはいるが、基本は同じだ。以前はごく限られた人達にしか受け入れられなかったものが、なぜ万人に広く浸透していったのか?それは、「言っているのがE原氏だから」なのだ。

もしこれが他の人だったら、おそらくこうはいかない。例えば、さかなクンやつぶやきシローが、「愛とはこの世で最も美しいものなんですよ~ギョギョッ♪」「天職とは、魂が喜ぶ仕事なんだな・・・ブツブツ・・・」と例の調子で言ったとしても、多分真剣に耳を傾ける人は少ない。もし何らかの「修正」が入るとしたら、「実はさかなクンってね」「つぶやきシローって本当はね」というような、「へー!そうなの!?」と感心するくらいの「秘められた真実の姿」が明るみになった場合だと思う。

「あんた地獄に落ちるよ!」が口癖のナントカ占星術の先生も、言っていることはE原氏と大差ない。だが、ファンよりもアンチが上回る状況に陥った原因は、その「外見」にある。いつもニコニコ、物腰の柔らかい万人受けするE原氏とは正反対の容姿、態度、言葉―それが不信感や反感を生んだのだ。

同じようなことを言っているにも関わらず、H木氏は拒絶され、E原氏が支持される―それを信じるか否か、受け入れるかどうかということは、「誰がそれを言ったか」という部分に掛かっている。まさに「見かけ」が物を言っているということだ。


心優しい熊さんを髣髴とさせる「普通にいい人」のE原氏と、いろいろな意味で「浮世離れした人」であるご意見番役のM輪氏―強烈なコントラストを醸し出す二人の組み合わせは、期待以上の効果をもたらした。E原氏の、いい意味での「普通さ」を際立たせ、「この人なら」「この人こそ」という安心感や期待感を人々に抱かせた故の成功なのだ。領域によっては、「特異」より「普通」がその信憑性を高める場合がある。

話す内容に一貫性があるからといって、「本物」であるという証明にはならない。たとえそれが「間違ったこと」でも、始めから終わりまでその考えを貫き通しているのであれば、一貫性は保たれる。「いい人は正しい」という証拠もない。

人間は、自分が信じたいものを「本物」と認定したがる傾向がある。その時の「タイミング」の影響も大きい。例えば、自分の状況や考えていること等、そこに何らかの「合致」が見られた場合、無条件にそれを「本物認定」してしまったりする。加えて、「プライド」も関わってくる。「自分が支持するものは正しい」そう思いたいのだ。だが、本人達の自負に関わらず、その「眼力」は、自分自身の好み等「主観」に左右される不安定なものなのだ。

容姿、話し方、表情といった「外見」等、視覚から得た情報は、時に強い思い込みを生み出すことがある。それが自分の中の期待や理想とたまたま合致した時ほど、「視覚の罠」から抜け出すことは難しくなる。重要なのは、「誰がそれを言っているか」ではなく、「その人が何を言っているのか」なのだ。

パッケージにばかり気を取られていると、真の姿が見えなくなる。「本物であってほしい」そういった期待や願望が、目を曇らすのだ。どんな人間も、気づかないうちに「主観」に支配されていることがある。自分を過信することなく、冷徹な目を以って、物事や人を「観察」することだ。



【追記】以前M輪氏が、「黒は悪魔の色」と発言されていたが、カウンセラーやセラピストには、仕事の際、黒を好んで着る人が多い。黒というのは、何物にも染まらない「強い色」だ。別名「セラピストの色」とも言われている。意識や感情等、クライアントに同調し過ぎることのないよう、セラピストとしての立ち位置を自覚し、その意識を保つためだ。色彩の与える影響は大きい。いわば、色で自分の役割を確認しているのだ。

日本では、黒は結婚式等のお祝いの席でも使われる。女性の着物の留袖は黒地だし、「あなた(夫)以外の色には染まりません」という意味で、花嫁が着る打掛けにも黒地のものがある。何を根拠におっしゃっているのかと不思議でならない。その「悪魔の色発言」を真に受けて、「黒い服は着ないことにした」と、黒を毛嫌いする人も実際にいるし。そういう人は、大抵例の番組のファンだったりする。

例の番組のファンを自認し、且つ出演したことがあるハーフのタレントさんが、先日どこかのバラエティー番組で、「黒は悪魔の色だから嫌い云々」と発言していた。「なんだかなー」という感じ。世の中何でもかんでも鵜呑みにする「考えない人」が多過ぎる。




【関連記事】

霊能力

本物

見えない世界

紙一重

目論見

ミイラ取りの油断

観察者

カリスマ

アリとタカ





カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

共犯

 2011-04-10
「自分の人生に起こる問題の原因は、すべて自分自身の中にある」「他人の好きな箇所や嫌いな箇所は、すべて『他人』という鏡を通して見ている自分自身の長所と欠点」「他人の欠点は、自分の欠点を投影しているもの。相手の欠点を責めたり、悪口を言うのは、自分自身を責めたり悪く言うのと同じこと」スピリチュアル教と自己啓発教の共通教義、「鏡の法則」というものだ。

どんな宗教も、信者を縛りつけ、コントロールするために「自罰感」を利用する。自分達の教えを信者に浸透させるには、まずその信者達を、精神的支配下に置くことが必要なのだ。

ネガティブな思考に支配された信者達は、罪深い自分を何とかするために、その宗教に救いを求める。無価値感や劣等感に打ちひしがれた信者のほうが、支配には好都合なのだ。教義に何の疑問も抱かず、すべてを鵜呑みにして、ただひたすら盲目的に付き従うから。教えが浸透する速度も上がる。

「おまえは生まれながらに不完全で罪深い存在だ。すべてはおまえに責任がある。諸悪の根源はおまえだ」そう繰り返し、暗示を刷り込んでいくことで、洗脳が進んでいく。「洗脳」を受けた信者達の見分け方は簡単だ。「他人を批判した罪は消えない」「人の批判をすることは、自分を批判しているのと同じこと」などと言い出す。

要するに、「あんたも私達と同様『罪深い存在』なんだから、私を悪く言う筋合いはないのよ!」と言っているわけだ。「目くそが鼻くそを笑うな」と。相手に自罰意識を植え付けることで、自分に対する「攻撃」を封じようとするのだ。批判する相手を「共犯」に仕立て上げることで黙らせようとする狡猾なやり方。単なる「口封じ」だ。

大体、「すべて」と断言していること自体が、いかにも宗教臭い。確かに、家族や周囲の人の中に、自分自身を投影することもあるかもしれない。だが、それは「いつも」ではないし、「すべての人に」ではない。それを、「いつも」「すべて」「誰でも」と言い切ってしまうところが、やはり「宗教」なのだ。その特徴でもある「極端さ」「偏狭さ」の表れだ。


「鏡の法則」にのめりこんでいく人というのは、大抵の場合、物事や人に向き合うことに疲れている。長年思い通りにならない人間関係や人生について「原因」や「理由」を探すこと、その状況に取り組むことに疲れ果てているのだ。ずっと背負い続けている重荷を下ろすことへの渇望もある。

相手や物事等、「自分の外側」にあるものを変えることは難しい。だが、「自分」を変えることは簡単だ。なぜなら、「心」は嘘をつける。他人に嘘をつくことよりも、自分に嘘をつくほうが簡単なのだ。「やっぱり自分が悪いんだ」「すべて自分の責任なんだ」そう思い込むことで、その状況から逃れることが出来る。自分自身を誤魔化したり、責めたり、諦めるほうが、断然楽なのである。

マイナス思考の人ほど、そういった方向に流れやすくなる。常日頃から、ネガティブに物事を捉えることに慣れ親しんでいるので、彼らにしてみたら、「自分が悪い」と考えるほうが、ある意味「自然」なのだ。長年馴染んだ方法や得意なものに、どうしても人間は流れていきがちになる。「鏡の法則」の自罰思想が、特にマイナス思考の人達に容易に受け入れられるのも、そういった背景があるのだ。

スピリチュアルや自己啓発に傾倒していくきっかけは、大抵の場合、心身の疲弊とそれに伴うマイナス思考だ。そんな自分に対する嫌悪感も、傾倒ぶりに拍車をかける。人間特有のネガティブな要素を利用して作られた思想や思考に、「疲れた人」がフラフラと引き寄せられていくのも当然のことなのだ。

自分や相手、物事に向き合うことに疲れた人は、「許す」「受け入れる」ということに逃げ込みがちになる。だが、それは「解決」ではなく、「逃避」なのだ。「放棄」と言ってもいいかもしれない。「許し、受け入れることですべてが解決する。そこからすべてが始まる」そんなスピリチュアルや自己啓発教の謳い文句に心引かれるのであれば、今の自分自身の状態をじっくりと見つめ直す必要がある。自分の心を誤魔化して得た爽快感や高揚感は、一時的なものだ。まやかしでしかない。


「鏡の法則」のやり方は、信者達に「共犯意識」を植え付けて口を封じ、支配するためのものなのだ。結局のところ、それは「信者の獲得=ビジネス」に繋がっている。信者の数とその宗教の潤沢さは比例するのだ。

やたらと「許し」を強要したり、過度の自罰感を植え付けては煽るそのやり方、さすがは「罪人思想」のキリスト教をベースに作られた新興宗教だけのことはあると。信者同士を「共犯関係」にすることで、結束力を固めることが狙いなのだ。どんな形であれ、そこに何らかの「連帯感」が生まれれば、その集団から抜け出ることは難しくなる。

「共犯」に仕立て上げるのは、信者を引き止めておくための手段―それが、スピリチュアル教や自己啓発教の「やり方」なのだ。




【追記】この「鏡の法則」、世の中に広まったきっかけは、自己啓発業界人のブログだった。現在は全文をネットで読めるが、書籍化された時の惹句がすごかった。「ハンカチを用意して読め」「読んだ9割の人が泣いた」とか。既にこの謳い文句から「洗脳」が始まっている。暗に、「泣けないあなたはおかしいんですよ」とすり込みをしているわけだ。

ブログにしろ、サイトにしろ、書籍にしろ、人間は、「活字」になったものを「本当のこと」「真実」と思い込んでしまう傾向がある。中途半端に「いいこと」も取り混ぜて書いてあるので、読んだ人はより信じやすくなる。

だが、その内容には、自己啓発やスピリチュアルの定番の手法が満載されている。「ありがとう」を百回唱えることの推奨や、一人を許したらすべての人間関係が良くなったという「シンクロニシティー」を利用したエピソード等、裏事情を知った人が読めば、「べつにどーってことのないもの」だ。「あー、お約束ね」という感じ。

スピリチュアル教や自己啓発教の信者が蔓延している今、「共感できない人間は欠陥がある」「感性がおかしい」とされる風潮が出来上がっている。「多数が支持・賛成するもの=正しいもの・良いもの」という思い込みも、目を曇らせる。そういった妙な「新興宗教信者の選民意識」に惑わされることのないように。

「いいことを言っているから」ただそれだけでむやみやたらと信じるのではなく、その提唱者(作者)のバックグラウンドを調べるくらいの慎重さや冷静さがあったほうがいい。「洗脳」は、「油断」「思考の放棄」から始まるのだ。





■関連記事

Mの極致

許す

受け入れる

ペルソナ

無知の無知

生兵法

口車

安っぽい法則

増殖

マッチポンプ




カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

セイレーン

 2011-04-07
スピリチュアル教と自己啓発教に共通する教義に、「頑張らなくていい」というものがある。「今のままのあなたでいいのです」とか。この際はっきり言わせてもらうが、「何言ってんだ」と。そう言う信者達を何人も見てきたが、結局は「口実」なのだ。不甲斐ない自分や周囲に認めてもらえない自分を肯定するための、「頑張らない自分」を正当化するための詭弁。

本人達にしてみれば、願ったり叶ったりだ。正々堂々と開き直れる口実が出来たのだから。そして教義を鵜呑みにして、怠惰な道をそのままダラダラと歩んでいく。「頑張らなくてもいいんだ」「このままでいいんだ」と、ひたすら自分に言い聞かせながら。

それは、ある種の「自己暗示」だ。体のいい言い訳として繰り返し利用することで、自分自身をその状態に導いていく。暗示というものは、本人が望まなければ効力を発揮しない。相も変わらず延々とその言葉を唱え続けるのは、彼ら自身が「がんばりたくない」「変わりたくない」「変わらなくても構わない」と無意識の部分で望んでいるからだ。

人間は、「主観」の生き物だ。物事や人を、自分が見たいように見て、聞きたいように聞く。だが、それを割り引いたとしても、「頑張らなくても云々」を言い訳にする人達は、到底「頑張っている」とは言えない状態にあることが多い。彼らが頑張るのは、「言い訳」をすることなのだ。如何にして自分を正当化するか―力を注ぐのは、自己弁護に対してだけ。

中途半端な力しか出さない割には、諦めが早い。「今やるべきこと」さえ疎かにしているのにもかかわらず、「こんな自分になったのは、周りが理解してくれないからだ」「環境が悪いせいだ」と責任を外部に押し付ける。本人が「努力」と言い張るものが長年報われないことや、「変われない自分」に対しても、いい加減嫌気が差してきている。「頑張ること」に疲弊しているのだ。

そう感じる時期が長ければ長いほど、機会が多ければ多いほど、「出口」への渇望は強くなる。そこに降って沸いたのが、「頑張らなくていい」「今のままでいい」という教義なのだ。否定されることに慣れてきた彼らには、それはまさに「啓示」なのだ。初めて自分を肯定された高揚感に、一気にその世界にのめり込んでいく。

そして、彼らは自分達の世界を更に拡大しようとする。「頑張らなくていい世界」を。誰彼構わず、「頑張っている人」に近づいては、同じ世界に引きずり込もうとする。「頑張らなくてもいいじゃない。今のあなたで十分じゃない」耳元で優しく囁き続けるのだ。一緒に「居場所」を完成させる「仲間」を、一人でも多く増やすために。

「もういいじゃん。一緒に楽しく楽にやろうよ。ね?」相手をその位置から引きずり落とし、自分と同列に並べようとする。だが、「頑張っている人」には、自分が頑張っているという自覚がない。「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」「頑張り過ぎないでね」誰かにそう言われたとしても、「は?特に頑張っているつもりはないけど?」と本人達は一様に怪訝そうな顔をする。

第三者からすると「頑張っている」ように見えるその状態は、彼らにとっては「普通」「当たり前のこと」なのだ。なぜなら、彼らは「今の自分がやるべきこと」に、自分が持てる力をすべて注ぎ込んで、真剣にそれに取り組んでいるだけなのだから。周囲の目に映る姿とは裏腹に、本人達の内面は、至って淡々としている。

スピリチュアル教と自己啓発教の信者達が、いくら「頑張らなくてもいいですよ。今のままのあなたでいいんですよ」と耳元で囁き続けたとしても、「頑張る人」は意に介さない。人間の女性の上半身、鳥の下半身と翼を持ち、その歌声を聴いた者を死に至らしめるという美しい声を持つ三姉妹の海の怪物、セイレーンに惑わされなかったギリシャ神話の英雄、オデュッセウスのように。

スピリチュアルと自己啓発業界に巣食う現代のセイレーン達も、虎視眈々と狙っているのだ。船を難破させ、遭難者を出すことを。隙あらば、その甘い歌声で、自分達の世界に誰かを引きずり込もうとしている。その声に耳を傾けたら彼らの思う壺。歌声に魅せられて命を落とした者と同様、累々と積み重ねられた屍の一部となる。

同志、共犯、道連れ―「頑張らない人」は、常にそれを求めている。今自分がいる世界が広がれば、ますます生きやすくなるからだ。「頑張らないこと」「変わらないこと」が当たり前のことになれば、もう言い訳をしなくてもいいのだから。正々堂々、努力を放棄することができる。だから彼らは歌うのだ。「頑張らなくてもいい。そのままでいい」と。

ギリシャ神話の中では、その美しい歌声に惑わされなかった者が現れた時、セイレーンは死ぬ運命にある。歌を聴いた者すべてを虜にしてきたことを自慢に思っていた彼女達は、「例外」だったオデュッセウスにプライドを打ち砕かれ、海にその身を投げたのだ。

「頑張る人」を自分のほうに振り向かせたいのなら、彼らと同等、もしくはそれ以上に「頑張る人」でなければならない。のんべんだらりと中途半端に過ごしている人間から、「頑張り過ぎじゃない?」と言われても、まったく説得力がない。どこが頑張り過ぎだと思うのか、なぜ「そのままのあなたでいい」と思うのか―少なくとも、その部分を明確に説明できなければ、彼らは決して納得しない。聞く耳を持つ以前の問題なのだ。

「頑張らなくていい」「今のままのあなたでいい」その言葉は、物事に全力で取り組んで、「もうやれることは何一つない。出来ることはすべてやり尽くした」と息も絶え絶えになっている状態の人に言うものだ。そして、その言葉をかけられるのは、その人と同様、「頑張る人」だけなのだ。

自分の進む道を知る者は、どんな声にも惑わされたりはしない。彼らが聴く声、信じる声は、自分の心の声だけだ。誰かの声に、自分を簡単に明け渡したりはしない。自分の心の声を信じる者だけが、セイレーンの呪いに打ち勝つことが出来るのだ。




【追記】「セイレーン」は、警報や信号を表す言葉、「サイレン」の語源になっている。その怠惰で甘い囁きは、ダークサイドに引き摺りこまれることに対する「注意信号」なのだ。昔から言われている。「悪魔の姿をした悪魔はいない」と。表面は甘く優しく―そういった存在は、羊の皮をかぶって近づいてくる。



■関連記事

スピ系支配者の手口

サッカー小僧に覆されたエセスピリチュアル

「一条の鉄」がない真理

スモールワールド

歪んだ鏡

イン アンド アウト

勘違いの被害者意識

あの手この手のスピリチュアル

ボーダーライン

ジキルとハイド

根性なしの屁理屈

ミイラ取りの油断

ショックの真相

瞑想の形

オプティミスト




カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

マッチポンプ

 2011-04-05
【マッチポンプ】和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消化する意。意図的に自分で問題を起こしておいて、自分でもみ消すこと。また、そうして不当な利益を得る人。(広辞苑より)


「宗教」というものをひと言で表すなら、「制約」だと思う。何かしらの条件や規定を課して、自由に活動させない。それを設けることによって、信者をコントロールする。有名なところでは、キリスト教の「七つの大罪」とか。「汝これを犯すべからず」といった掟を作り、それを守ることを信者達に要求し、束縛をかけるのだ。「家畜化」と言ってもいい。

キリスト教と仏教の思想を合体させた新興宗教である「スピリチュアル教」も、「母体」と同様、必ず守らなくてはならない「掟=法則」を定めることが好きだ。「○○の法則」というのがそれ。引き寄せの法則、鏡の法則、カルマの法則―よくまあそんなに次々と「掟」を作り出すものだと。

「自分の波動が起こることを引き寄せる」「人生で起こることはすべて正しい」当の本人達は、自分の身の回りの出来事を、いちいちその法則に当てはめては一喜一憂している。何か起これば、「波動が低いせいかも」「こんなことが自分の身に起こるのは、過去生のカルマのせいなのだろうか」と悩んだり、落ち込んだり。その挙げ句、「波動を高くするために」「カルマを浄化するために」と、その手のヒーリングやらチャネリングやらセミナーやらを受けに走る。

傍から観ていると非常に不思議。彼らの様子は、「マッチポンプ」そのものだ。わざわざ自分で火をつけておいて、「火事だ!」と騒いでは、それを消して回る。かと思えば、他人の家に放火しておいて、「大変!すぐに消さないと!」と一緒に消火活動する放火魔もいるし。「何やってんの?」と。

箔付けのためだか、自分達の選民意識を満足させるためだか知らないが、勿体ぶっていちいちそんなものを設定するから、そういった面倒くさい状況に陥ることになる。自分の首を自分で絞めてどうするのかと。自分達の宗教を、「より良く生きるためのもの」と称している割には、それに完全に振り回されている。

何というか、「浅いなー」と。日頃さんざん引き寄せの法則だの何だのと言っている割には、結局それが適用されるのは、「自分に都合のいいことに限って」なのだ。常套句である「すべては必然」は嘘なんですか?と。本当にその意味を理解しているのなら、何が起ころうと、どんな目に遭おうと、泰然としているはずだと思うけど。

「ありのままを受け入れる」「起こることはすべて正しい」と言いながら、しっかり「保険」をかけるのだ。次の数ヶ月を「無事に」過ごすためのリーディング、なかなか見えてこない将来に対する不安や恐怖を解消するための占いやチャネリング、カルマやオーラを浄化するためのヒーリング―矛盾しているではないか。

「必然だ」「引き寄せだ」と言いながら、結局その手のものに依存するのは、理解も覚悟もないからだ。「カルマだろうが、何だろうが、どんと来い!」自分の人生を丸ごと引き受ける度胸がないから。日頃からうるさく唱えている「必然」はどこに行ったんだか。やっぱり「自分に都合の悪いこと」「自分に害を及ぼすもの」に関しては、「適用外」なんですか?と。

「すべては必然説」を唱えるのなら、未来がどうとか、カルマがどうとか気にする必要はないではないか。むしろどんなことが起ころうと、それを楽しみにするくらいの意気があるはずだ。柳に風とばかり、涼しい顔でやり過ごせるはず。高尚なことを言う割には、中身がまったく伴っていない。外部から批判されるのも当然かと。それこそ自分達の矛盾した言動が、批判を「引き寄せて」いるわけだ。

「支配」のために作られた法則を真に受けて、それに振り回されて―。そういったものによって発生する他人の「自罰意識」を徒に煽って、過度に依存させるような商売をする人もいるし―。つくづく妙な世界だと。マッチで火をつけて、ポンプで消して―延々と同じことを繰り返しては大騒ぎする。スピリチュアル教信者の行動は、まったくもって不可解だ。




■関連記事

安っぽい法則

仕掛けられた飢餓感

勿体をつける理由

盲信

浄化中毒

鎖国

から騒ぎ

カルマの実相

踊るアセンション

受け入れる

リピート

あの手この手のスピリチュアル





カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

増殖

 2011-04-02
巷に流行中のスピリチュアル教や自己啓発教の共通点は、「人間を既存の枠にはめること」だ。特定の思想、モデル化した特定の人の思考法や行動様式に自分自身を沿わせることによって、心の平安や覚醒した魂、人生における成功を手に入れることができると謳っている。「そうすれば、すべてがうまくいく」と。

だが、それは自分の心や脳を「プログラム化」するということでもある。そこに「自分」はないのだ。自分自身の内にある思考や信念に基づいて生きるのではなく、一律化した、パターン化したそれに従って生きるということなのだから。「自分を殺す」と言い換えてもいい。

世間のスピリチュアル教や自己啓発教の信者が、「同じ」に見えるのはそのせいだ。まるで判を押したように同じことを話し、同じ行動をする。そこには「その人らしさ=個性」というものがまるで存在しない。ブログやサイトの内容は、書いている人間の名前が違うだけで、まるでコピーしたかのように代わり映えがしない。

それぞれの宗教から植えつけられた思想や思考を除いたら、後には何も残らない―彼らの姿は、「抜け殻」や「張りぼて」を髣髴とさせる。結局、彼らの「核」は、寄せ集めのパッチワークで成り立っているのだ。「真理だ。法則だ」と騒いでいるものは、すべて何かや誰かからの「受け売り」だということだ。

ある意味、彼らは「クローン」なのだ。「スピリチュアル教」「自己啓発教」という細胞や生物から増殖した一群の存在。完全に等しい遺伝子や細胞―同じ思想や思考を共有するクローン。クローンが増えれば増えるほど、「本体」の遺伝子が生き残る可能性は高くなる。「信者」が増えれば増えるほど、その「宗教」は拡大し、勢力を増していくのだ。

そして、やがてクローン達は、「グランファルーン」を形成し始める。「誇りを感じさせるが、無意味な人間同士の連帯」と呼ばれるそれは、外部からの批判に対抗するためのものだ。同じ思想や思考を信仰する者という「共通項」によって作られた連帯感を軸に、彼らは結束を固めていく。

同じグループに所属する人間は、そのグループ内のルールや期待を裏切らない行動をする傾向がある。スピリチュアル教や自己啓発教は、しっかりとその「ツボ」を押さえている。共通の思想や思考を植えつけることで芽生える信者同士の連帯感を利用し、布教を進めていくのだ。

だが、クローン達は気づいていない。自分達が完全なる「コピー」であることを。信仰によって約束された魂の覚醒も、高い波動も、人生における豊かさや成功も、実は「本体」から投げられた餌なのだ。自分を明け渡した見返りは、依存体質や閉塞感や分離感、妙な選民意識や矛盾に満ちた言動なのだ。

言うなれば、彼らはただの「駒」なのだ。スピリチュアル教や自己啓発教が、その「遺伝子」を確実に残せるようにするための。自分と同じ遺伝子を宿したクローンの増殖は、本体にとっては喜ばしいことなのだ。未来永劫自分の遺伝子が生き続けるということを確信する「サイン」なのだから。

クローン達がどうなろうと、本体には関係ない。魂が覚醒しようが、教義に疑問を感じて苦しもうが、どうだっていいのだ。本体の願い、目的はただ一つ。クローンを増殖させることだけ。自分の遺伝子を、確実に、広く、多く残すことだけなのだ。

それがどんなものであれ、「宗教」の最終目的は、「布教」にある。どれだけ自分達の教えを広めることが出来るか―信者の増殖は、その一環、手段や道具の一つでしかないのだ。




【追記】スピリチュアル教や自己啓発教の信者は、どういうわけか、人生を「修行」と称する人が多い。「苦行」と言う人も少なくない。そういった言葉が出てくるのも、「他人の思考」「他人のやり方」で生きているからだ。本来の自分の大きさに合った「型」でなく、まったく違う形のそれに、無理矢理自分をはめて生きることに苦しさを感じている証拠。彼らの無意識の本音が、その言葉に表れている。



■関連記事

スモールワールド

Mの極致

同じ穴の狢

先取りの感謝

あの手この手のスピリチュアル

成功者が強調する「ツキ」の実体

上から目線のスピリチュアル

スピリチュアリスト達の矛盾

嗜好品

口車

目論見

錬金術師の条件

紙一重

不勉強の害



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

5月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2011-04-01
2011年5月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2011年 5月15日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。
■申し込み方法 : 5月12日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループを探してみることをお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






カテゴリ :グリーフケアに関するお知らせ トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。