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安っぽい法則

 2011-03-28
近年流行の「スピリチュアル教」の一番の特徴は、やたらと「法則」という言葉を引き合いに出すことだ。カルマの法則、引き寄せの法則、宇宙の法則、鏡の法則―数え上げたらきりがない。だが、スピリチュアル教信者は気づいているのだろうか。「法則」という言葉の意味の重さを。

「一定条件の下に成立する普遍的且つ必然的な関係」だけが、「法則」の意味ではない。「必ず守らなければならない規範・掟」という意味もある。

規範、掟―どちらもストイックな意味を持つ言葉だ。そこに自分の意思や好みが反映される余地はない。「~でなければならない」というその「要求」に従うこと、それを「嘘偽りのない絶対的な真実」として受け入れ、疑うことなくひたすら信じること―それが「法則」という言葉が持つ、もう一つの顔なのだ。


以前、アメリカのL.A.で、ムスリム(イスラム教徒)の男性と話す機会があった。ふらっと立ち寄った先の、ペルシャ絨毯等中近東の織物を扱っている店の男性だった。10年ほど前に、親族であるその店のオーナーを頼って、中東の某国からアメリカに移住してきた人だったのだが、度重なる戦争や紛争で家族や親戚の多くを失ったという。

「辛い思いをされましたね」と言った私に、その人はこう言った。「でも、これはアラーの思し召しだと思う」と。私達の横で話を聞いていたその店のオーナーも言った。「That's the Islamic law.(それがイスラム教の教え、私達の法則であり、掟なんだ)」

キリスト教の宣教師であるアメリカ人の友人は、十数年前、不慮の事故で右手の指を2本失った。そのことを、彼はこう言う。「自分が事故に遭ったのも、指を失ったのも、宇宙の法則だと思う」その時、「the law of universe(宇宙の法則)」「the law of God(神の法則)」という言葉を使っていた。

「法則」とは、そういう言葉なのだ。戦争で家族全員を失おうが、自分の指を失おうが、恨み言も嘆きもなく、「これは法則である。真理である」と断固且つ淡々とした態度で言い切る言葉。覚悟なくして発することができない言葉なのだ。やたらめったら「法則」という言葉を口にして悦に入るスピリチュアル教信者には、その覚悟がありますか?と。


以前、「すべての物事は自分が引き寄せている」「私達は自分が信じていること、望むことを体験する」「人生で起こることはすべて正しい」そんなことを説く「引き寄せの法則教宣教師」のブログのコメント欄に、不慮の事故で夫と子供を亡くした方からの書き込みがあった。

あまりの出来事に、自分を納得させられる理由を心底欲しているような感じで、嫌がらせといった雰囲気もまったくなかった。真剣に、自分が一度に夫と子供を亡くす目に遭ったことに対する説明が欲しかったのだと思う。

これは自分自身が無意識に望んでいたということなのだろうか。夫や子供がああいった亡くなり方をしたのは、前世で何か悪い事をした報いなのだろうか―そういったことが綴られていた。

だが、その引き寄せ教の宣教師は答えなかった。翌日にコメント欄をクローズし、その数日後には、ブログ自体を削除したのだ。結局その程度なのだ。スピリチュアルおたくの「覚悟」というものは。自分達の説く「法則」が本当に正しいと思うなら、「真理」であると言い切るのなら、その問いに答えたはずだ。

それが、彼らの「狡さ」なのだ。法則だの何だのと普段はやかましいくせに、都合が悪くなるとピタリと何も言わなくなる。人の生き死にに関するような重大なことには、途端に口をつぐむのだ。その時々の都合で出したり引っ込めたり―まさに「ご都合主義」そのものだ。

結局、彼らの法則や真理というものは、自分達がいる場所から半径5メートル以内の世界にだけ適用される程度のものだということだ。「お気楽な領域限定」なのだ。そんな薄っぺらい「法則」がどこにあるんだと。

いちいち「法則」という名の規則や掟を作っては、自らそれに縛られる。わざわざそんなものを作ったりするから、結局それに囚われることになるのだ。挙げ句、起こることすべてにその法則を当てはめて一喜一憂したり。自分で自分の首を絞めるようなことをしてどうするのかと。

「法則」とは、ストイックなものだ。ある種「宗教的」ともいえる強い信仰を持って語られるべきもの。自分の人生をすべて委ねるくらいの、何があろうとも絶対にそれが正しいと信じる覚悟が要求されるもの。その時々の都合で左右されたり、揺らぐものではないのだ。

スピリチュアルおたく達が連呼する「法則」とは、そういった覚悟とは無縁の、単なる安っぽい「こじつけ」でしかないのだ。



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から騒ぎ

 2011-03-24
【空騒ぎ(からさわぎ)】さほどでもなことを騒ぎ立てること。騒ぎだけで成果のないこと。(広辞苑より)


思うようにならないことや困ったことが生じた時、そのすべてを自分の責任と考える傾向を、「自罰的」と言う。スピリチュアルおたく達が崇め奉っている定義―「引き寄せの法則」は、その典型だと思う。

「すべてのことは自分が引き寄せている」というこの法則、実は「自己卑下の勧め」ではないのかと疑いたくなる時がある。例えば、何かトラブルが起こると、「自分の波動が下がっているからだ。悪いからだ」とか。

逆恨み等、すべての責任を自分以外の人や物のせいにしようとする他罰的思考も問題ではあるが、引き寄せの法則信者のその思考も、別の意味で厄介なのだ。

自分を省みることは大事だが、彼らのそれは、完全に度を越している。何が何でも自分が悪いことにしないと気が済まない。「何もそこまで」というくらいに自己卑下をし、重箱の隅を突っつくようにして、自分の中に原因を探すのだ。「波動を上げなきゃ。波動を高く保たなきゃ」と常に強迫観念に晒されている。

人間生きていれば、いろいろな人や物事に遭遇する。活動範囲が広ければ、その分出会う人や起こる事も増えるわけで。人の2倍行動していれば、遭遇率も2倍になる。人生は波があって当たり前。すべての物事が順調に進むほうがめずらしい。何か不都合なことが起こる度に、いちいち波動だとかカルマだとかを持ち出していたらきりがない。

さすがスピリチュアル教、「人間は生まれながらの罪人である」という前提で束縛をかけるキリスト教が母体の新興宗教が作った教義だと。何が何でも自分の中にその原因や罪悪感を植えつけようとするその思考法、完全に「宗教」だ。

近年流行中のスピリチュアルや自己啓発に関わらず、何かの思想や教義にはまっていく人というのは、もともとMの要素が強い。自虐的且つ嗜虐的、その「受け身」の気質は、「絶対的な何か」の前に額づいたり、従ったりすることに対して抵抗を覚えない。支配するよりされる側の彼らには、むしろそのほうが楽なのだ。もともとのマイナス思考に自信のなさが加われば、「罪人思想」に引きずり込まれるのも当然のことなのだ。

だが、「引き寄せの法則」は、所詮人間が作ったもの。スピリチュアル教が、「信者」の支配を目的に作り上げた教えなのだ。どうとでも好きなように、自分達に都合よくでっち上げることができる。それを鵜呑みにして、すべて自分に責任があると思い込むのは、完全な洗脳状態にあるということだ。

大体、その教えを広めている宣教師自体が胡散臭い。彼らによれば、「波動が高くなると周囲のことは気にならなくなり、ありのままを受け入れるようになる」らしい。だが、自分が批判の対象になっていると知るやいなや、感情的に攻撃してくるわ、自己弁護に終始するわ、「魂の成長云々」を語る割には、子供じみた言動が目立つ。自分に関しては、「引き寄せの法則」は適用外。やっていることは、教義とは正反対で「他罰的」なのだ。

「覚醒した高い波動の魂の持ち主」を自称する某有名宣教師は、自分を批判したブロガーに自分の信者が匿名の中傷メールを送ったことを大変気に病んでいらっしゃる。中傷メールのIPアドレスに表示された地域が、自分が在住している地域と同じだったことを公表され、「自分が送ったと思われるのが嫌だ」と。覚醒した人でも、自分がどう思われているかはやっぱり気になるとみえる。これが「高い波動(自称)」の実情なのだ。

一見良さそうなことを言っているとしても、巷に流行しているスピリチュアル教は、所詮「ビジネス」。今や星の数ほどある「波動を高めるための」と謳ったセミナーやらセッションも、「信者=客」がいてこそ成り立つものだ。「低い波動の自分」という自罰意識を植えつけられた挙げ句、まんまと彼らの「カモ」になってどうするの?と。

自分の波動が高かろうが低かろうが、物事は起こる時には起こる。すべては、なるようにしかならないのだ。何か起こる度に、自分の中に無理矢理「罪の種」を探し回る必要などないのだ。




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喪失

 2011-03-21
「癒し」「ネガティブな感情を浄化する」「魂の覚醒」「学びや気づきを得る」「愛ある言葉」「愛ある態度」「ありのままを受け入れる」スピリチュアルおたくや自己啓発おたくの定番の台詞。彼らは、いとも簡単にこれらの言葉を口にする。

言葉の響きだけを捉えれば非常に立派。だが、「薄っぺらさ」だけが鼻につく。如何せん中身が伴っていないのだ。経験に裏打ちされた理解や実感がなければ、どんな言葉を並べても空々しく響く。

どういうわけか、それらの言葉を何かにつけて持ち出す人ほど、言葉本来の意味から程遠い状態にあるように思える。言動が一致していない。もっとも、言い訳や逃避、口先だけの自分を正当化するための体のいい口実として利用される言葉に、深みなどあるわけがない。本当にそれらが持つ意味や重みを理解していたら、軽々しく口にできる言葉ではないのだから。

やたらと連呼するのは、理解や実感からではなく、それを欲するが故なのではないかと。「愛が欲しい」「癒しが欲しい」「覚醒したい」本当は、その人の「欲望」を反映したものなのではないかと。

何よりも、当の本人達がわかっていないのだ。「愛ある言葉ってどういう言葉?」「覚醒するってどういうこと?」「受け入れるってどういうこと?」そう問われると途端に言葉を濁す。出てくるのはスピリチュアルや自己啓発で唱えられている一般論。本人達が自力でたどり着き、得た答えではないのだ。「実はよくわかっていないこと」を、なぜそうも自信たっぷりに語れるのかと。


癒し、浄化、覚醒、学び、気づき、受容、愛―心理学や心理・精神療法には欠かせない概念だ。実際、精神療法の技術の中には、そのものズバリ、「浄化法」というものも存在する。だが、ここ最近、それらの言葉が妙に癇に障るのだ。カウンセリングやセラピーの中では、説明の都合上、どうしてもそれらの言葉を使わざるを得ないことがあるのだが、「出来ることなら使いたくない」というのが正直なところ。

スピリチュアルや自己啓発業界に、客寄せの文句としてさんざん連呼された結果、市民権を得たそれらの言葉は、どんどん他の業界にも浸透していった。「癒しの空間」「愛あるサービス」今や美容室や家電量販店の宣伝文句にも使われるのだ。響きの良さだけで受け入れられ、使い回されていくうちに、安っぽい言葉に成り下がった。中高生でさえ「癒されたい」と口にする時代なのだ。「言葉」が非常におろそかにされている。貶められた―と言ってもいい。


「言霊の幸ふ国」日本は、古来からそう呼ばれてきた。言葉に宿っている不思議な力、「言霊」の働きによって幸福をもたらす国という意味。古(いにしえ)の人々は、それだけ「言葉」を、それが持つ「力」を信じていた。「正しい心で唱えられた正しい言葉」が生み出す力を敬い、同時に「正しい心が伴わない言葉」がもたらすものを畏れてきたのだ。

スピおた・自己啓発おたが発する言葉には、その「正しい心」がない。自分が発する言葉に対しての、「責任」「覚悟」がないのだ。経験に裏打ちされた理解も実感もない上辺だけの、「教祖」からの受け売りで唱える言葉に魂など宿るわけがないのだ。太古の人々は言っている。「その言葉の裏に慢心があれば、それに見合った事象がもたらされる」まさにその通りではないか。

「多くの気づきや学びを得て覚醒した魂を持つ愛ある人間」を自称する彼らの言葉にあるのは、「慢心」なのだ。だが、所詮自称は自称。仲間内で認め合ったその称号の実体は、何とも安っぽい。責任や覚悟―「心」が伴わない言葉がどんなものをもたらすかというわかりやすい事例なのだ。

そこにあるべき「心」が喪失した言葉など、単なる「飾り」でしかない。そしてまた、飾りだけの言葉が蔓延するスピリチュアル業界や自己啓発業界は、所詮そういった類の世界なのだ。




【追記】今現在、何かにつけて「癒されたい」と口にする人が多い日本って、一体どんな国なんだと。「癒す」という言葉には、病気や傷を治すという他に、飢えや心の悩み等を解消するという意味がある。一体何に飢えてるの?と。

紛争地域でもないし、途上国のように、明日の食料さえ危ぶまれるような飢餓や貧困状態でもない。簡単に「癒されたい」などと口に出来るのは、今現在、最低限のラインが保障されているからだ。あとどれくらい満たされたら気が済むのやら。

「癒しは、『卑しい』に通ずる」と言われている。そういった意識が込められた言葉を大勢で連呼していれば、「おかしな国」になるのも当然のことなのかもしれない。




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だから今は

 2011-03-19
連日放送されている地震関連のニュースの中に、しばしば避難所の様子が映し出される。水や食料の不足を含め、決して良いとは言えない避難所の環境もさることながら、今私が一番気に掛かっているのは、被災された方達の精神状態だ。

今回の地震のように、生命の危機に直面するような体験をした場合、肉体や精神が受ける衝撃の強さは計り知れないものがある。一度に家族や友人知人を亡くしたということ、家や財産等すべてを失ったということも、更にその衝撃の度合いを強める。そういった衝撃が心身に及ぼす影響、心的外傷後ストレス障害―PTSDへの対応が必要なのだ。

避難所の環境整備は、一番の優先事項であるとは思う。だが、出来ることなら、被災者の精神面のケアも急いでほしいところだ。精神科医や心理療法士、カウンセラーといった専門家を現地に派遣することを、ぜひリストに加えていただきたい。

テレビ画面に映し出される人々の様子を見ていると、その中には、PTSDの症状を呈している人達が少なからずいらっしゃる。正確には、その出来事の直後から一ヶ月未満に発症すると言われるASD―急性ストレス障害だ。

全身の倦怠感や疲労感、不眠、頭痛やめまい、肩こり、耳鳴り、手足の震え、動悸、呼吸困難、胃腸等の消化器官の不調、焦燥感(イライラ)、抑うつ、注意力・集中力・記憶力の低下、無感動等、神経症や鬱等に見られる症状が表れたりする。感情のコントロールが困難になる、人の視線が怖い、フラッシュバック等もその一部だ。

元気そうに、活力に溢れて見える人でも、心身に多大なショックを受けている。そういった人の場合、「災害躁病」の可能性がある。ショックに対する防衛機能が働き、落ち込んだりするのとは反対に、躁状態になるのだ。しばらくすると、その反動で激しい鬱状態に陥る人もいる。どちらの場合にしろ、心身に異常が起こっていることには変わりない。

特に懸念されるのは、つい見逃されがちになる子供達だ。笑ったりふざけたり、いつもと変わらないように見えても、彼らの中にあるショックやストレスは大人と変わらない。むしろ、それ以上かもしれない。特にこういった災害時、自分の周りの多くの人達、「大人」がそこここで泣いている光景は、子供達にとってはショッキングなことなのだ。「異常」を、彼らは敏感に感じ取っている。ただ、それをどう表現したらいいのかわからないのだ。

泣いている親の姿を見て、「自分がしっかりしなければ」と感情を無理に抑え込み、平然と振舞っている場合もあるし、その反対に、不安や恐怖から幼児返りすることもある。「一見普通」に見えたとしても、彼らが傷ついていることには変わりない。児童心理の専門家のサポートを、早急に行っていただきたいと思う。

被災者の中には、自分を奮い立たせて前向きにがんばろうとしている方達もいる。特に、親や家長、自治体の長や避難所の責任者等、家庭や組織の中でリーダーシップを取らなければならない立場にいる人ほど、自分の感情や思いを後回しにせざるを得ない状態になる。

だが、今すべての被災者の方達に言いたい。「泣いていいんですよ」と。年齢や性別、立場といったものは関係なく、気にすることなく、今は自分の気持ちに素直になっていいんですよ、と。

違う形でPTSDを経験した者として言わせてもらえば、今の自分の感情に素直に従うことこそが、回復への道なのだ。無理にそれを堰き止めることで、心身のバランスが余計に崩れていく。「現実を受け入れなくては」などと、今は考えないでいい。それは、回復への道の一番最後にある部分。ゆっくり時間をかけて、いつかたどり着けばいい場所だ。

今は、「自分の感情に素直に従う時期」なのだ。回復へ向かう道の一番最初の段階、「悲しむ時期」を通ってこそ、正しいプロセスを踏むことでこそ、心は本来の強さを取り戻せる。だから今は、泣いていいのだ。




■参考記事

自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷







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ノーブレス・オブリージュ

 2011-03-17
連日報道される地震被災地の様子には、言葉を失う。12~3歳の少女が、「今までどれだけ自分が裕福だったかわかった。幸せだったかわかった」と、先祖代々漁業に携わり、海からの恩恵を受けて生計を立ててきた漁師の方が、「海が憎い。海なんかないほうがいい」と、家族や家を失った80代半ばを過ぎたお年寄りが、「長生きなんかしなければよかった」とそれぞれが呟く言葉に、地震が残した爪痕の大きさを感じずにはいられない。


現在、被災地以外の地域で、「買占め」による物不足が広がっている。水や食料、ガソリンや灯油、トイレットペーパーやティッシュペーパー、電池等が首都圏を中心に品切れ状態になっている。「万が一被災した場合」に備えての行動だとは思うが、その様相は完全な「集団ヒステリー」だ。パニック状態と言ってもいい。


地震発生から4日目の月曜日、仕事の合間に近所のスーパーへ夕食の材料を買いに出た。午後3時くらいだったと思う。いつもは空いている時間帯のはずなのに、やたらと人が多い。いつもはその時間にはほとんど見かけないスーツ姿のサラリーマンの姿がやたらと目立つ。

不思議に思いつつ、店内に入って驚いた。カップ麺や保存可能なご飯のパックをカゴいっぱいに詰め込んだ人達が大勢レジに並んでいるのだ。ミネラルウォーターを箱買いしている人もいた。それらの商品が並んでいた棚は、完全に空になっている。

「何事?!」と最初は訳がわからなかったのだが、どうやら「万が一買い」らしいと。被災地での避難所の様子、特に水や食料が不足して十分に行き渡っていない様子が、その前日から徐々に報道され始めていた。それを見た人達が危機感を感じ、買い求めに来ていたようなのだ。

先程見かけたサラリーマン達は、会社の備蓄品を買出しに来ていたらしい。同じ会社の人達が複数で連れ立って、「うちの社員数だったらこれくらいは」等と真剣な顔で相談しながら、毛布やタオルケット、トイレットペーパーを大量に買っていく。そして、その張り詰めた、ある種殺気立った空気が周りに伝染していく。

レジに並んでその様子を見ていた他の買い物客が、わざわざ列を離れ、既に手にしている分とは別のティッシュやトイレットペーパーを取りに行くのだ。不安感が増したのだと思う。パニックが発生するまでのプロセスや心理状態というものを、間近で観察させてもらった。

「備える」ということは大切だ。自分の身を守るということを考えれば当然のこと。だが、今回被災地以外で発生している「万が一買い」は、「備える」という意味で行われたものではないと思う。自分の中に生まれた不安を解消することが目的なのだ。その結果、最もそれらの物資を必要としている被災地に届きにくい状況を作っている。まったくの悪循環というか、一体この状況は何だと。


「ノーブレス・オブリージュ」という言葉がある。階級社会のヨーロッパで生まれた概念だ。直訳すると、「高貴さは義務を強制する」という意味になる。財産や地位、権力等を持つ者は、同時に社会に対しての義務や責任が伴う―ということだ。

そういったものの上に胡坐をかいて何もしないというのではなく、例えば私財を投じて民衆の為に橋を作ったり等、何か世の中の役に立つことをすることが、高貴で裕福な者の当然の務めであり、それをすることでその地位が保たれるということだ。

言い換えれば、「持つ者」が「持たざる者」を助けるのは当然ということ。今回に当てはめれば、「被災を免れた者」が「被災した者」を助けるのが筋なのだ。少なくとも今現在、「免れた者」は最低限のラインは満たされているのだから。不安から「もう一個」と思う気持ちは理解できる。だが、その「もう一個」を、今は被災地の人達に回してあげることは出来ないだろうか。

被災地で、時間や人数制限付きながらようやく開いたスーパーで、買える物がお菓子類しか残っていなかった女性が言っていた。「もっと助けが必要な人達がいるはずです。その人達を優先してあげてください」

とりあえず現在は「普通の生活」が営める状態にある人間に、「もう一個」は本当に必要ですか?と。「お互い様」という日本古来の精神が、今こそ必要なのだ。「他の誰かがやるだろう」と、他人任せにして自分は楽をして得をするという利己主義が蔓延するこの国は、それを完全に忘れている。今それを取り戻さなくてどうするの?と。

被災地の様子を見て、何も出来ないことへの無力感を訴える人は多い。だが、「今自分ができること」の手はじめは、自分の「もう一個」を、それを本当に必要としている人達に回すことなのだ。募金や物資の寄付、ボランティア活動だけが援助の方法ではない。そういった意識を持つこともまた、「援助」の一つの形なのだ。

「自分がやれることをする」というさり気ない「自覚された義務」が、やがて大きな力を生み出す原動力となるのだ。




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まやかし

 2011-03-09
説明や証明のプロセスを経ず、一瞬で物事の真相を感じ知ること―それを「直感」と呼ぶ。それが狂う時、そこには必ず何らかの「感情」が絡んでいる。中でも、最も「ハズレ」を生じさせる感情は「期待」だ。「そうなればいい」「そうなってほしい」それが実現する瞬間の訪れを望み、待ちわびている状態にある時、直感は外れる。

直感を確実に捉える時に必要なのは、「冷静さ」だ。「冷徹な観察眼」という言葉に置き換えてもいい。一切の感情を抜き去った、ある意味「冷酷」とも言えるくらいの冷めた目で、人や物事を捉えるのだ。時に自分自身さえも、「他人の目」で観察する―それを出来る者が、「当たる直感」をキャッチする。

例えば、「運命の人」「ソウルメイト」との出会いを切望している人というのは、そのタイミングで出会う人すべてがその対象のように思え、混乱状態に陥ったりする。相手の中に、「運命の人」「ソウルメイト」の要素を必死で見つけ出そうとし、あれこれこじつけた挙げ句、無理矢理「本物」に仕立て上げ、「この人こそが本物!」と自分を納得させようとする。「ハズレの直感」がやって来る時の状態は、それとまったく同じなのだ。

憧れや期待、執着がベースにあるうちは、たまたま偶然そこにあった取るに足らないものでさえ、「本物」に思えてくる。だが、それは自分自身の感情が見せている「幻影」なのだ。今までの経験や環境によって裏打ちされ、磨かれたセンサーが、感情によって狂わされる。

巷の「直感力を高めるためのセミナー」などというものに目が向いているうちは、本当の直感力は身につかない。そういったものに反応すること自体、既に「期待」が勝っている証拠。「高い直感力」というものに憧れ、それを手に入れることに執着している中で得た「直感力」とやらは、いわば「まやかし」なのだ。

優秀な経営者が次々に新規事業を開拓・展開し、成功に導いていけるのは、直感云々というよりも、むしろ「冷静さ」と「観察力」の賜物なのだ。それによって、その時代の風潮や傾向―「時流」を読めるから。

直感力は、必ずしも人格や感性と比例するとは限らない。いくら訓練を積もうが、感性を磨こうが、期待や執着等、「感情」に支配されている状態では、すべてが「当たり」「正解」に思えてくる。むしろ「直感力を高める訓練」など不要なのだ。

一切の感情を抜き去り、冷静に観ること―直感を受け取る時に必要なのはそれだけだ。文字通り、感情に左右される要素の強い「直感」よりも、理性で物事の本質を見極める「直観」を養うことこそが必要なのだ。

「本物の答え」は、すべてを削ぎ落としたミニマムな状態になった時に訪れる。感情が見せる幻影、まやかしの姿に惑わされてはいけないのだ。




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異端児

 2011-03-07
【異端児(いたんじ)】正統派に属さず、独自の活動をする人。常識に囚われず、自由奔放に行動する人。(広辞苑より)


時々、ブログの感想メールを送ってくださった方達から、「コメント欄は作らないんですか?」「ランキングには参加しないんですか?」と聞かれることがある。友人達にも同じことを言われる。だが、立ち上げた当初からその気はなかったし、今後もその予定はない。

その代わり、メールフォームは設けてある。言いっ放しや言い逃げはフェアではない。異論反論をはじめ、忌憚のない意見や感想は歓迎するし、こちらもそれによって勉強させていただける。だがそれは、あくまでも私とその人との間で行われればいいことであって、わざわざ第三者の目に晒す必要はないと思っている。

何というか、個人的に、「コメント欄」というものがどうもしっくりこないのだ。確かに、書き手と読み手、双方にとってそのほうがいろいろと気軽で手間も少ないと思う。いちいち一通ずつ返信する必要もないし。だが、私自身の「こだわり」と言ってしまえばそれまでなのだが、まずは個人対個人でじっくり向き合いたい。

率直に言えば、ハンドルネームとか、匿名とか、書き込んだ人の「背景」が見えない「ひと言」でお茶を濁されたくない―というのが正直なところだ。だからここはお互い真剣勝負で行きましょうよ、と。少なくとも、どこの誰であるかを名乗って、フェアに行きましょう、と。

勝手なことを言わせてもらえば、こっちは氏名や顔写真にはじまり、個人情報の大半を開示して、腹をくくって発言している。サロンは自宅兼だし、当然住所も電話番号もパソコンのメールアドレスも公表している。未公表なのは、携帯の番号とメールアドレスだけだ。だからあなたも同じくらいの覚悟を持って向き合ってくださいね、と。

「卑怯者!名を名乗れ!」「拙者、○○藩江戸屋敷留守居役を務める○○と申す」時代劇のシーンによくあるように、日本は「名乗りの文化」を持つ国。自分の素性を明かし、相手と対峙する―それが「礼節」というものであり、「自分の発言や行動に責任を持つ」ということなのだ。言いたいことがあるのなら、正々堂々と名乗るのが筋だと思う。

そういった意味では、「顔」の見えないハンドルネームや匿名でのやり取りが成立するコメント欄が、私は好きではない。それもコメント欄を設けない理由の一つだ。


だが、何よりも、コメント欄の設置によって、ある種の「コミュニティー」が出来るのが嫌なのだ。例えば、それが趣味に関するもので、仲間を募ったり情報交換をすることが目的のものなら構わない。だが、自己啓発やスピリチュアル等のように、「思想」が絡んでくるものに関しては、そこを起点に寄り集まった「同類」が作り上げた共同体が、「妙なもの」を生み出す可能性がある。

どんな種類のブログにしろ、そこにコメントを残すということは、そこに何か共鳴するものを感じたからだと思う。大抵の場合、その内容は好意的なものだ。だが、その好意が、書き手に「慢心」や「快感」をもたらすこともまた事実。「教祖願望」が呼び覚まされる場合もある。

基本人間は、「認められたい」という強い願望を持つ生き物だ。自分の主張に共感、同意し、それを受け入れてくれる人を得たということで我欲が満たされる。たとえそれが数名であってもだ。「独りではない」という心強さが生まれるのだ。そしてそれを手放したくないばかりに、次第に支持者ウケする言動が目立つようになったり、お互いの間に馴れ合いが生じることがある。


実際、オリジナルの先祖供養法を提唱する某スピリチュアル系ブログは、カルトの様相を呈している。1つの記事に対し、平均して数百のコメントがつく。ある時期は、軽く千を越えていたこともあった。そこで繰り広げられるやり取りは、「宗教」そのものだ。「ブロガーと読者」ではなく、「教祖と信者」の関係になっている。

コメントとそれに対する返信―というよりは、完全に「お伺い」と「御神託」なのだ。その内容を読んでいると、正直背筋に寒いものを感じる。おまけにその教祖、顔や氏名を含め、一切のプロフィールが非公開なのだ。どこの誰かもわからない得体の知れない人物の語ることを、よくまあそんなに容易くに信じられるなと。外部の人間にしてみたら、狂信者や盲信者の姿としか映らない。「ねぇ、大丈夫なの?」と。

同じ思想や思考を持つ者だけで作られるコミュニティーの危険性はそこなのだ。単に「同じ」というだけで、冷静且つ公正な検証もなく、闇雲に「真理」として認定されてしまう危さ。複数の「共感」を得たことで、自分の思想を「正」とし、それを声高に吹聴する裸の王様化したブロガー。教祖の「お墨付き」をもらったことで天狗になる信者―その様は、宗教が浸透していく過程とよく似ている。

同類が主張する「正統」は、あくまでも「自称」でしかない。いわば、それは自分達の価値観を基準として作られたものであって、必ずしも「正」や「真理」を示しているとは限らない。冒頭に、「仲間内での」という但し書きが必要なものだ。そして、それは異なる意見や思想を持った者、「よそ者」を排除し、締め出す偏狭な村社会へと変貌していく「はじまり」でもあるのだ。


コメント欄にしろ、ランキングにしろ、そういった自分の中に存在する選民思想やプライドを満たして悦に入るための道具を持つ気はさらさらない。今の世の中、「共感」を求める人が多いのは、それを「=理解」と思い込んでいるからだ。共感を強く求める人ほど、内に抱えている孤独が強いのかもしれない。

以前、友人の一人が言った。「ミラちゃんのブログって、『そういうことだから。じゃ』って感じだよね」なかなか言い得て妙だな、と。彼女に言われて気づいたのだが、私のスタンスをこれほど的確に表した言葉はない。まさにその通りなのだ。

私は、「異端児」でいようと思う。「こういう考え方もあるんじゃない?」澱んで凝り固まったその共同体に一石投じるような―。「違う考え」をそこに投げ込むことによって、ある種の波紋、「考えるきっかけ」を呼び込むような―。

「共感すること=理解」ではない。「同類」で作るコミュニティーに過剰に執着したり、依存するのは、「繋がり」や「安定」を渇望している孤独の表れだ。

コメント欄もなし。ランキングにも参加しない。「共感」も求めない―こんな「異端」のブログが世の中に一つくらいあってもいいでしょ。縁のあった人達に読んでもらって、願わくば、その人達のインスピレーションのきっかけや思考の幅を広げるための叩き台になればそれでいい。




【追記】ネットやメールが発達した近年では、捨てアドレスを使った匿名で、他人に中傷メールを送るアンポンタンが結構いるらしい。掲示板の類はともかく、わざわざ個人のところにそういったものを送りつけてくる輩は、はっきり言ってクズ中のクズ。「卑劣な奴は名乗らない」というのが、太古からの定番らしい。まあ自分で疚しいことをしているという自覚があるので身元を隠すのだ。しっかり自己保身するところが、小者っぷりを表していて非常に笑える。

私だったら死んだら絶対化けて出てやるなー。「その節はどーも♪」と、閉まっている窓をいきなり開けたり、コップや皿を落としたりとか。本人が送った文章とまったく同じ内容をエンドレスで携帯やパソコンの画面に表示してさしあげる―っていうのもありかも。もちろん、きちんと名乗らせていただきますよ。匿名では失礼ですし。壁に血文字で私の名前が浮かび上がるようにするとかして「ご挨拶」しましょうかね。

ここ数年、ニュージーランド在住の方のブログを見に行っているのだが、先日のニュージーランド地震の際、「あんたが被害に遭った学生の代わりになればよかったのに」というメールが送られてきたらしい。(その方自身は、震源地から遠く離れた場所に住んでいらっしゃるので無事だった)

まったく頭の構造を疑うような行為だ。呆れて物も言えない。そういった内容を匿名で送りつけるという行為もそうだが、他人に対して簡単に「死ね」とか「死ねばいいのに」という言葉を投げつけるその神経、どれだけ病んでいるんだと。逆恨みも甚だしい。

だが、どんなに身元がばれない様に工作しても、IPアドレスやメッセージID等の記録は必ず残る。それがパソコンからであろうが、携帯からであろうが、どこの誰がやったのかは特定できるのだ。立派な「犯罪行為」なので、警察に被害届を出して、裁判所命令が出れば、即捜査が入る。

特に携帯会社経由の場合、その会社から輩に「警告」もしくは「契約解除」の通達が行く。当然ブラックリストに名前が記載されることになる。蛇の道は蛇―他の同業者にも要注意人物として通達がいくわけで。今時のこの時代、どの会社も契約してくれず、携帯も持てないような羽目になる。もっとも、悪用する人間には最適な措置かもしれない。それが匿名で行う卑劣行為の「代償」なのだ。人を呪わば穴二つ―他人に輩行為を行った報いは、必ずその輩本人に返るのだ。




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ミニマム

 2011-03-04
「決断」とはどういうことか?それは、「きっぱりと決めること」だ。「たった一つの答え」を選び取ること。「白黒をつけること」と言い換えてもいい。言うなればそれは、二つに一つ、「極端な二択」を行うことだ。選択の最終段階―それが「決断する」ということなのだ。

決断をする時、そこに「曖昧さ」は存在しない。「数年以内にトライする」「もっと後になって挑戦するかもしれないが、今の時点では行動を起こさない」そういった「どちらでもない」「中間」「グレー」の答えを選択することは、「決断」ではなく、単なる「保留」だ。「断定」を避けているだけ。

白か黒か、正か邪か、理か非か―どちらか一つを選び取るということが、「決断」の本来の意味なのだ。


「決断力がない人」というのは、「現在考える必要のないこと」まで考えようとする。自信の有無にはじまり、将来の可能性、果ては精神状態の安定まで心配したり。情報やデータ集めにこだわる人も多い。「今考える必要がないこと」「今考えても答えが出ないこと」について考え、答えを出そうとする。その挙げ句、結局何も決められずに「保留」となる。

そこで必要なのは、「今どうするのか?」ということだけなのだ。まだ何も始まってもいないのに、その後についてあれこれ気に病んでも仕方ない。その時々の状況や条件によっても展開はいろいろ変わってくる。この先何が起こるのか、それは誰にもわからない。考えても仕方のないことだ。「それを考える時」が来たら、考えたらいいのだ。

決断力を鈍らせているのはそこなのだ。考えることが多ければ多いほど、ますます答えは出にくくなる。集中力が多方向に向けられ、思考が散漫になるのだ。情報や選択肢の多さを求めるのは、「自信」を持ちたいから。だが、皮肉なことに、それは「決断力」とは比例しない。かえって余分なそれに振り回されることになる。


アメリカの高級食材店で、ある実験が行われた。実験の目的は、「商品数は売れ行きを左右するか?」ということを調査するため。店内に設けた珍しいジャムの試食コーナーに、ある時は6種類、ある時は24種類のジャムを置き、その時々の売れ行きを比較調査したのだ。

経済学の理論では、選択数が多いほうが客の購買率が上がると言われている。商品数が多いほうが、客が自分の好みの商品を見つけやすくなるというのだ。だが、結果はその理論を覆すものだった。6種類の時は客の30%がジャムを購入し、24種類の時は3%だったのだ。

この実験に限ったことでなく、この傾向は、戦場やビジネス等あらゆる場面に共通する。選択肢や情報の多さが、かえって決断力を鈍らせることが証明されている。

実際、優秀な軍隊の指揮官は、戦闘前に十分な分析を行うが、一旦戦闘が始まれば、部下に余計な情報を与え過ぎないようにする。その場での臨機応変な判断が求められる戦場では、その情報の多さが瞬時の判断の妨げになるのだ。


つまり、それがジャムだろうが人生だろうが、何かを選び取るために決断する時は、出来るだけ「シンプルな状態」になることが必要なのだ。やるかやらないか、やりたいのかやりたくないのか―その「極端な二択の状態」にまで余分なものを削ぎ落とすことが道を開くのだ。

時に痛みや苦しみが伴うこともある。だが、心の安定や楽さを優先しているばかりでは答えは出ない。むしろ、それがどんなものをもたらそうと、そのすべてを引き受ける覚悟をすることが必要なのだ。「ぬるさ」を求め、好む人にはそれがない。心を決められないのも当然なのだ。

「決断」は、思考や感情を突き抜けた先に存在する。その果ての、最後に行き着いた段階、「二つに一つ」というギリギリまで絞り込んだ最少の選択肢以外存在しない場所で行う「究極の極端な選択行為」なのだ。




【追記】「保留」が通用するのは、単純に割り切ることのできない「感情」の領域に関してだ。許したいのに許せない―そういった場合、「グレーゾーン」を選択することは「あり」なのだ。


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アリとタカ

 2011-03-02
先日、新聞のテレビ欄で「哲学的に物を考えるとはどういうことか?」というタイトルを見つけた。確かNHKの番組だった思うが、哲学者とゲストとの対談番組だったように記憶している。

うっかり見逃してしまったのだが、多分そのタイトルに目を止めた人は意外にいたのではないかと。なぜなら、「哲学的に物を考える」とは具体的にどういうことか、実はみんな知っているようで知らないのだ。

それは小難しい言葉を並べ立ててあれこれ理屈をこね回すことだったり、こじつけするということではない。「哲学的思想」を自称する人のそれは、大抵の場合、何でもないことをただ理屈っぽく言っているだけだったりする。

今の世の中、何でも「哲学」という言葉を持ち出せばいいと思っているような節がある。本や雑誌記事のタイトルには「哲学」という文字が氾濫し、最近では、キリスト教思想にあれこれ仏教思想の要素をくっつけただけの「スピリチュアルという名の新興宗教」まで、「スピリチュアルは哲学です!」などと主張している。

宗教にいたっては、ただの教義の押しつけ―いわば「洗脳」だ。外部との対話を拒否し、すべてを教義に結びつけて考え、それに固執する―意識の広がりがないそれは、「宗教」が持つ偏狭さそのものだ。「哲学」でも「学問」でもない。曖昧な認識をされている言葉を使って誤魔化すのはいい加減やめてほしいものだ。


「ハーバード大学史上最多履修者数を記録した講義」の担当教官である、アメリカの政治哲学者マイケル・サンデル教授は言う。「哲学とは、新たな知識を得るためのものではなく、既に誰でも知っていることについて考えるものだ」

「それは道徳的な観念や自分自身の信念から来る考えを見つめ直すことだったり、現在人々が考えていることを理論的に解析し、そこで得たものを自分の思考や信念の構築に新たに反映させていくためのものである。最終的には、『社会の理想的なあり方』について考えることに繋がっていくものだ」


哲学的に物を考えるとはどういうことか?私自身は、それは「ミクロとマクロの視点を持つこと」だと思っている。微視と巨視―その両方の視点から同じ一つの対象を見つめ、それぞれの視点からの見え方を知ることだと。喩えるなら、「蟻の目」と「鷹の目」を持つこと―そう思っている。

地上に立っている人間を見る時、蟻と鷹ではまったく違う見え方をしているはずだ。わずか数ミリの大きさの蟻が地面から人を見た場合と、鳥類で最も高い高度を飛ぶと言われている鷹が空から人を見た場合、その視界に映っているものはそれぞれ違う。

「人間」という一つの対象に対して、「蟻の目から見た人間」と「鷹の目から見た人間」が存在する。つまり、物事に対する考え方や感じ方は一つだけとは限らない―ということだ。

お互いが見ているものを理解するには、それぞれの視点に立つことが必要だ。蟻の目線から―。鷹の目線から―。違う視点からの景色を知ること。「真理の追究」とは、一つの視点や考えに固執することではない。

99%を占める意見と1%を占める意見、そのどちらについても考えることが必要なのだと思う。「全体」を語るには、多数の意見だけでも、少数の意見だけでもだめなのだ。偏った視点や偏った思考は、偏った答えしかもたらさない。

微視と巨視、少数と多数―ひとつところにとどまらず、いろいろな方向や可能性に対して自由自在に意識を飛ばし、そこから見えるものについて考えてみる。それぞれの視点から見える形を知り、それについて考えること―それが本当の意味での「哲学的にものを考える」ということではないかと思うのだ。




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4月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2011-03-01
2011年4月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2011年 4月3日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 3月30日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

大変申し訳ございませんが、デリケート且つ慎重さを必要とする性質のものですので、電話やメールでのご相談は受け付けておりません。こういったものは、やはり「直接対面」で行うべきものだと考えておりますので。どうかその旨ご理解ください。遠方で参加するのが難しいという方は、お住まいの地域や周辺で活動しているサポートグループを探してみることをお勧め致します。


*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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