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嗜好品

 2011-02-27
【嗜好品(しこうひん)】栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物。酒・茶・コーヒー・タバコの類。(広辞苑より)


「直感力のある人はスピリチュアリズムを信じない人が多い」という一節を、どこかのスピチュアル系ブログで見た。直感力がどうこうという部分は抜きにして、「スピリチュアリズムを信じない人」についてあえて言わせてもらうなら、その人達は「信じない」のではなく、「必要ないと思っている」のだ。

現在巷に流行中の「スピリチュアル(既にこの言い方からしておかしい)」は、キリスト教と仏教を合体させた「新興宗教」だ。内訳は、キリスト教9割、仏教1割といったところ。やたらと天使を持ち出すのはキリスト教の影響だし、輪廻転生やカルマを謳うのは仏教思想を取り入れているから。

キリスト教も仏教も、「死後のご利益」を約束している。極楽浄土に行けることだったり、イエスと共に復活し、天国で永遠の生命を与えられることだったり。

その一方、新興宗教である「スピリチュアル教」は、「現世利益」を謳っている。従来の、古来からある宗教との大きな違いはそこなのだ。生きているうちにそのご利益を得ることを目的としている。極楽浄土と永遠の生命が「ソウルメイト」や「輝くオーラ」に、念仏や祈りの言葉が「ナントカを引き寄せるためのアファメーション」になったのだ。


特定の宗教を信仰するきっかけは、人それぞれだと思う。心の平安や救いを求めたり、生きていく上での拠りどころにしたり。信仰によって何らかの幸福感や心強さを得る人もいる。

だが、「宗教のサポートを必要としない人」もいる。彼らにとって、宗教とは、いわば「嗜好品」のようなものなのだ。コーヒーやタバコと同じように、それらが生活に欠かせない人もいれば、無くても全然困らない人もいる。

あえて言うなら、彼らの信仰の対象は「自分自身」なのだ。信念や選択―自分自身の「核」から出たものを信頼している。

たとえ自分に不都合なことが起こったり落ち込むようなことがあったとしても、彼らは天使や女神に助けや癒しを求めたり、オーラを浄化したりはしない。それは自分自身に揺るぎない確信を抱いているからだ。自分は必ず「目指す場所」にたどり着ける―そう信じているから。

彼らは「自分の行き先」を知っている。というより、「自分で決めている」のだ。自分自身がどこに行きたいのか―ということを。最終目的地がどこであるかわかっているから、どの道を選ぶかということは、大した問題ではないのだ。

だからそれがどんなものであろうと、途中で何があろうと、動じずに淡々と歩き続けることが出来る。どの道を選ぼうと、それは必ず自分の目的地に繋がっている。どの道を歩こうと自分は絶対にそこにたどり着ける―そう信じているから。誰かや何かを「よすが」にする必要はないのである。


「宗教」は、必ずしもすべての人間に必要不可欠なものではない。それを必要としない者にとっては、天使や女神のサポートも、コーヒーやタバコといった「嗜好品」と同列のものでしかない。無くてもべつに困らない―そういった「どうでもいい類のもの」を「信仰」の対象にして自分を委ねることなど必要としていないのだ。信じる信じない以前の問題なのである。




【追記】「スピリチュアル教」の熱狂的な信者に「スピリチュアルは生きていく上で絶対に必要なものなのです!」と熱く語られても、それを必要としない人間からすれば「いや、べつに必要じゃねーし」なのだ。むしろ、何でもかんでもスピリチュアルに結びつけて考えるその思考方法に疑問すら感じるわけで。率直に言って「こじつけ」にしか思えない。逆に「それって危なくね?」と。何よりも、「必要」という前提でスピリチュアルを説くということ自体、既に「宗教の勧誘モード」なのだ。



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心の使い

 2011-02-21
数年前の「流行語大賞」にもエントリーされた「KY=空気読め。空気の読めない人」という言葉、実に嫌な響きを持っている。今の世相、ひいては日本人の意識の底に燻っている歪みのようなものを反映している言葉だ。

「空気を読む」その場の雰囲気に合わせる。周りの顔色を伺う。機嫌を取る―ひたすら何事も起こることなく無事であることばかりを望む消極的な態度、「事なかれ主義」が蔓延する日本の社会の悪い癖だ。

問題なのは、それを「気配り」「心配り」と混同している人が多いこと。一見相手や周囲のことを考えているように聞こえるが、それは単なる「迎合」だ。要は、他人の機嫌を取るということ。大抵の場合のそれは、「自己保身」のためのものなのだ。

本来の「気配り」「心配り」は、相手を思い遣る心から生まれるものだ。相手の身に自分を置き換えて考えた末に表れるもの。だが、「KY」にはそれがない。あるのはただの「卑屈さ」だ。ひたすら「無難」を望む小心さの表れ。何ともあさましいな、と。


「空気を読むこと」を必要以上に気にする人やこだわる人には、周囲の人の顔色を伺ってきた生きてきた人が多い。彼らの過去の人間関係、ひいてはそれがどんなものであったのか―それをうかがい知ることができる。少数派より多数派、自分が好きな物より多くの人が好きだと言う物―そうやって自分の「立ち位置」を選んできた人だと思う。

「こういう場合、世の中の多くの人はどういった態度を取るのか?」「どういった反応が『普通』なのか?」そういったことをやたらと知りたがったり、知っておくべきと考えるのも彼らの特徴だ。その中には、「批判は悪だ、罪だ」と妙な持論を振りかざす人も多い。

「同化する」「定番」「多数派」それに必要以上にこだわったり、思考や行動、選択の「基準」になるということは、必ずそこに至るまでの経緯や理由がある。彼らの場合、「空気を読まなかったこと」に関する何か―例えば、嫌な経験やそれに伴う強いマイナス感情を経験した可能性が高い。いろいろな意味で、「人並み」ということに強くこだわる家庭で育ったとか。

ある意味、「真のコミュニケーションを知らない人達」でもある。批判や議論等「ぶつかること=悪」と思い込んでいるのも、そういった経験がないからだ。ひたすらその場を無難にやり過ごすことに終始して、相手の顔色を伺って自分の言動を決定してきたのだから。そして、そこに彼らの「意思」はなかったのだ。

彼らが「空気を読まない人」を徹底して嫌う理由はそこなのだ。「自分はどうしたいのか、どうなりたいのか」という気持ちよりも、その場の空気に迎合服従するしかなかった悔しさをぶつけているのだ。自分の考えや気持ちを「和」のために犠牲にしてきたことを。「嫉妬」の裏返しと言ってもいい。

空気を読むための「取るべき定番の態度」など知る必要はない。そんなことを気にするヒマがあったら、むしろ「対話」を心がけたほうがいい。たとえ意見の違いがあったとしても、相手を理解しようとする真摯な思いがあれば、全面的な合意はできないとしても、歩み寄れる部分は必ず見つけられるはずなのだ。「合わせること」「同じであること」だけが、「=理解」ではない。


「言葉は心の使い」と言われる。心に思うことは、自然に言葉に表れる。不思議なことに、いくら美辞麗句を連ねようと、その「源」の様相は隠すことができない。その人が何気なく使う言葉、選ぶ言葉には、その人の心の在り様や無意識までが反映されているのだ。「その人が発する言葉=その人そのもの」と考えてもいい。

「KY」日本ならではの島国根性が生んだ歪んだ「処世術」―そういったものの横行が、現在の日本の薄っぺらい希薄な社会を作り上げたのだ。「言葉は心の使い」何よりも、その「KY」という言葉自体が、今の日本人の心や意識のあり様そのものを映し出しているということを真摯に省みるべきなのだ。





【追記】KYだとか、上っ面だけの「和」とかが重視される日本って、本当に奇妙な国だと。そのくせ見えないところでコソコソ陰口叩くとか、後になってバッシングしたりとか。優秀な人材がどんどん海外に流れていっているのもわかるような気がする。「対話が出来ない社会」に「成長」は望めない。そういった今の世の中に不満があるのなら、個人の意識レベルから見直していかなければならないのだ。




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鎖国

 2011-02-14
他国との交渉が少ないために視野が狭く、閉鎖的でこせこせとつまらないことにこだわる性質を「島国根性」と言う。「よそ者」には冷淡で、和を乱すことを極端に嫌う。多数に従うこと、その場の空気を読んでそれに合わせることを暗黙のうちに求められる―日本人の気質や民族性を表す時によく用いられる言葉でもある。この特徴がそのまま当てはまるのが、日本のスピリチュアル業界。

「同志」だけで固まり、外部からの批判を一切受け付けない。「批判=悪口、中傷、攻撃、やり込めて憂さを晴らす八つ当たり行為」としか捉えられない。自分達と意見を異にする者の言葉には一切耳を傾けず、即刻排除しようとする。「他人を批判した罪は消えない」等罪悪感を植えつけ、口封じをする。「批判は罪」という言葉が、彼らの思考を表している。


先日、どこかのスピ系ブログで「間違った批判」という言葉を見たが、それってどういう意味よ?と。例えば、その発言が、「どうせおまえなんて~だろう」という事実無根の、勝手な想像の域を出ないものに終始する「誹謗中傷」であるなら話は別だ。だが、本来「批判」には、間違いも正しいもない。

そもそも、自分に対するそれを「間違ったもの」と捉えるのは、「自分は正しい」という前提があるからだ。主観―いわば自分の思い込み、自分の立ち位置からでしかそれを捉えていないということ。もしその人が自分自身を含めた物事を客観視出来ているなら、それがどんなものであれ、他の人間からの言葉を「=別の観点からの見え方、意見」と捉えるはずなのだ。

そこで「間違った」という言葉を持ち出してくるのは、「批判」という行為を悪口や中傷と同じように捉えている証拠。「自分に起こることはすべて正しい」事あるごとに持ち出すスピ定義に従うなら、他者からの批判も「正しいこと」だと思うのだが。


「批判者自身が自分を棚に上げてそれを行っている場合もある。親密な関係以外の人からの批判をあまり気にする必要はない。大体自分自身が矛盾したことをしているのに、他人のことに口を出すのは筋違いだ。それぞれのことに口を出さないのがお互いのためだ」

何というか、こういう発言を聞くと、「あー、島国だなー」と。閉鎖的な島国特有の「見て見ぬ振り方式」。そうやって隣近所との「争い」や「無駄なトラブル」を避けてきたわけね、と。

なぜ日本人の多くは「批判」を蛇蝎の如く忌み嫌うのか?狭く小さな土地でお互いがそれぞれ暮らしていくには「和」が欠かせない要素だった―ということは勿論のこと、かつて第二次世界大戦前まで存在していた「階級社会」にその原因があるのではないかと思うのだ。

江戸時代の封建社会の階級概念に従って作られた「士農工商」の身分制度をはじめ、戦前までの日本には「階級」が存在していた。皇族・士族・華族等の特権階級と、いわゆる一般庶民である「平民」とに分類されていた国だったのだ。

「身分」という枠組みに隔てられ、自分が所属する階級以外と接触する機会はあまりないような閉鎖的な社会、付き合いのほとんどは同じ階級に属する人―という環境。「分相応」の概念も、この階級制度から生まれたものだ。いまだ日本の社会に根強い「見て見ぬ振り」「人様のことには口出ししない」という風潮は、多分ここに由来している。

時代劇のシーンによくあるように、年貢に苦しむ農民が殿様に対して「直訴」を試みることはご法度だった。その場で手打ち、もしくは磔獄門の刑とか。自分の所属階級以外のことに「口を出す」ことは禁忌だった。「物申すこと」は、まさに命懸けの行為だったのだ。

上流階級等、「他人」が理不尽で我慢ならないような暴挙を行っていても、そこで下手に口を出せば、自分や身内にどんな災難が降りかかってくるかわからない。自分の身を守るために、見て見ぬ振りをすることが必要だったのだ。

人様のことには口出ししない。必要以上に関わらない。その場を丸く収めるためなら多少の不満はあっても口をつぐんでいたほうが得策―階級社会が生んだその概念、先祖代々伝えられたきた「処世術」が、今尚脈々と現代の日本に受け継がれているのだ。それも歪んだ形で。

「今の世の中は冷たい」「世知辛い社会」「人との繋がりが希薄な社会」今、多くの人が嘆いている。それもこれも、かつての階級社会の名残―「人様のことに口を出してはいけないという掟」に盲目的に付き従っている人が多いからだ。理解力と想像力の不足が、もともと存在する「島国根性」と称される民族性に結びついた結果なのだ。

そこに「矛盾のない完璧な正しさ」が存在しなければ他人のことに口を出してはいけない―そういった妙な概念が、「無縁社会」と称される現在の日本を生み出したんじゃないんですか?と。


他人の「批判」を受け入れることをしないスピリチュアルおたく達―年貢の軽減を決死の覚悟で直訴した農民をあっさり切って捨てる領主となんら変わらない。いわば「同類」なのだ。「ありのままを受け入れることが必要なのです!今起こっていることはすべて正しいのです!」そう言う割には、やってることが正反対なんですけど。自分に不都合なことには耳を塞いで受け取り拒否なんですね、と。

外部からの都合の悪い言葉、耳ざわりの良くない言葉をすべてシャットアウトして、同志だけで居心地の良い世界を作り上げようとするその頑なさと偏狭さ―完全な鎖国状態ではないかと。「自称覚醒した魂を持つ存在」である本人達は、理想郷―ユートビアの住人を気取っているが、その実情は単なる「引き篭もり」なのだ。

「外部」との接触を頑なに、故意に遮断しているその様子からして、「開国」する気はまったくないようだ。もっともそれは、彼らにとっては「崩壊」を意味するものだ。スピリチュアルを逃避の口実に利用する打たれ弱い人々にとって「聞き耳を持つ」ということは、恐怖以外の何物でもないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

【追記】先日、本来は日本領である北方領土をロシアの首相が訪問した事態を、日本の総理大臣は「許しがたい暴挙」と非難している。何というか「今頃何言ってんだよ」と。だったら先日開催されたAPECに出席した際に正式に抗議すればよかったじゃん。その時は何も言わないで愛想笑いに終始して、今頃になって「暴挙だ!」とか。

特に相手の欠点や過失等を責める時には、タイミングが必要なわけで。それを逃した場合、ただの文句や言いがかりになってしまう。数日前の外相会談でロシアがへそを曲げているのは、そういうことなのだ。ロシア側からすれば、「はあ?何を今更。あの時はおくびにも出さなかったじゃないか」と。

面と向かって言うべき時に言わないくせに、後から文句を言い出す―島国根性の典型的な態度。それが通用するのは身内だけで、グローバルスタンダードからは程遠いということをいい加減認識しろと。身内ルールが外交の場で通用すると思ったら大間違いなのだ。

自分達が「普通」「当たり前の常識」だと思っていることも、その他から見れば「非常識」「顰蹙」「奇異」の対象にしか映らないことも多々あるのだ。特に、「その場では何も言わないのに、後になって陰口を叩く」という日本人の島国根性は、他の国からしてみれば理解しがたいことなのだ。「言いたいことがあるならどうしてその場で言わないのか」と。それは「卑怯」としか映らない。

「空気を読む」「大人の対応」こういったことを連呼する人は、結局それを「逃避」の手段として利用している場合が多い。相手との「対話」を避けているということ。そういう人は、往々にして「人様のことには口を出しては云々」と言っている。まあ上辺だけ良好な関係をお望みならそれでもいいですけど。でも「本当の関係」って、そんなやり方で作れるんですかね。

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往生際

 2011-02-11
【往生際(おうじょうぎわ)】①死に際。②ぎりぎりのところまで追い詰められた時。また、その時の態度。「―が悪い」(広辞苑より)


例えば、今までの人生において物事を決断する時、自分の意思や希望より、条件や環境、利益を優先させてきた人の多くは、どれだけ時間が経ったとしても、そのことについての後悔や別の可能性への未練を捨てきれないようだ。「もしあの時自分の気持ちに従っていたら・・・」そう口にする人は多い。

彼らの思考には特徴がある。「自分がしたいのはどちらなのか」ではなく、「それをしないほうがいいか」で物事を考える。彼らは怖いのだ。形のない、目に見えない「自分の気持ち」を信じることが。いつ変わるとも知れないような、そんな不確かな要素に自分自身を委ねることに恐怖や不安を感じている。

やたらと「データ集め」をする人が多いのはその証拠。彼らが信用するのは、自分自身の気持ちではなく、数字や証明等「目に見える形あるもの」なのだ。自分への不信度とそれは比例する。「しないほうがいいか」と考えるのも、「自分には出来ない」という意識が前提となっているからだ。そして、さんざんデータ集めをした挙げ句、結局何もしない。

人生は、手探りで進む部分のほうが圧倒的に多い。マニュアルすら存在しないまったくの未知の領域。予測すらしなかったようなことが次々に起こる。いくら情報集めをしようがそれを詳細に分析しようが、何の役にも立たない時もある。想像を超えたことが起こる―それが「人生」なのだ。

結局、最後に決め手になるのは自分の気持ち、「自分はどうしたいのか?」なのだ。自分の「好き嫌い」や「欲求」が鍵となる。そうやって人生を決断してきた人は、どんな結果になろうが決して後悔することはない。「自分で選んだことだから」とすべてを引き受けることが出来るのだ。

人生は、選択の連続で成り立っている。「自分に優しくする」と「自分を甘やかす」を同じことだと勘違いしている人は、「何もしないほうがいい時もある」とうそぶく。だが、それはただの「放棄」なのだ。決断の時期を悪戯に先延ばしにしているだけ。

現に、「その時何もしなかったこと」を悔やみ続けている人がどれだけいることか。「結局自分は逃げただけのような気がする」そう口にする人の多さが、それを物語っている。

それならどうして他のやり方を試さないのか?と。長年しがみ付いてきたそのやり方、自分に後悔をもたらしてきた思考パターンをなぜ変えようとしないのか?と。その人達の一番の問題は、相変わらず「何もしようとしないこと」なのだ。下手をすると、この期に及んでまで「考えを変えたほうがいいのか」とやっている人もいる。

「あの時親がこう言わなければ」「もし今がこんなに不景気じゃなければ」言い訳しながらも一向に覚悟を決めようとしない。その挙げ句、スピリチュアルに逃避する人も多い。過去生やカルマにその理由を求めたり。自分を正当化するための理由が必要なのだ。だが単純に、現在の自分の思考パターンを変えればいいだけの話。どうしてそっちに逃げるかね?と。

確実に言えるのは、もし今何も変えないのであれば、多分1年先もまったく同じことを後悔しているということ。現在を変えなければ、未来は変わらない。今も続くその後悔を、これから先もずっと繰り返したいんですか?と。

「わかってはいるけど、でもやっぱり・・・」と何もしようとせず、相も変わらずそんな自分を嘆いたり悔やんだり。どんどん自分の足で先に進んで行く人を妬む人もいる。「いい加減腹をくくれ」と。そういったどっちつかずで煮え切らない潔くないその態度、往生際の悪さが自分自身の歩みを止めているのだ。





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口車

 2011-02-08
【口車(くちぐるま)】口先でうまい言い回しをすること。「―に乗る」うまい言い回しに騙されること。(広辞苑より)


いわゆる「成功者」と呼ばれる人達の言葉を啓示のように有難がる風潮は、日本に限ったことではない。そういった人達が主催する講演会やセミナーは常に大入り満員、関連書籍は飛ぶように売れ、ベストセラーやロングセラーになる。

何を人生の指針や支えにしようと個人の自由。だが、「成功者」の言葉をそのまま鵜呑みにすることはお勧めしない。彼らに心酔しきっている「信奉者」によく見られることだが、「教祖」の言っていることをすべて真実、正しいことと思い込むのは、「洗脳状態」「盲信状態」にある証拠。

最近、テレビ番組の常連コメンテーターとしても有名で、東京都知事選への出馬も噂される某居酒屋チェーン店の創業者の方が、トーク番組の中でこうおっしゃっていた。「夢を仕事に、仕事に夢を」

「ほら!やっぱり夢を仕事にするべきなんだよ!夢がない仕事なんてやる価値がないんだよ!」様々な業界に太いパイプを持ち、「カリスマ経営者」として大きな影響力を持つこの人の言葉を聞いて、どれだけの人がこう思ったのかと。特に20代や30代の若い世代でまだ人生経験に乏しく、最近今後の自分の人生について思い悩んでいるような人達には、まるで「天啓」のように響いたかもしれない。

「ワクワクすることを仕事にしよう」成功哲学について書かれた書籍等でも、同様のことが書かれている。スピリチュアルでも、「適職・天職を見つけるには」「好きなことを仕事にするには」と銘打ったセミナーやセッションが大盛況だし、「ワクワクする仕事をしなければ魂が死んでしまう。ハートが閉じてしまう」と口々に言っている。

何かこう、仕事というものは楽しくなければいけないような気持ちにさせられる。「嬉しい、楽しい、ワクワクする―そういった要素がなければ、あなたは間違った仕事に就いているのです」と暗に言われているような。現在の仕事に飽きを感じていたり、やりがいを見出せないような気分になっている人などは、ついフラフラと引き寄せられてしまうような言葉だ。

スピリチュアル界の大御所も「天職は魂が喜ぶ仕事、適職は人様の役に立てて喜んでもらえる仕事」と事あるごとにおっしゃっているせいか、それを真に受ける人も多い。どうしたら「魂が喜ぶ仕事」に出会えるか、必死になっている人もいる。中には「楽しくて、自分の好きなことで、人の役に立てて喜んでもらえて、ワクワクする仕事」を求め、職を転々としている人もいる。

それもこれも、「成功者」と呼ばれる人達が、口を揃えて言うからだ。「夢を仕事にしよう」「仕事には夢がなくてはいけない」「仕事は本来楽しみながらするものだ」「好きなことや得意なことを仕事にすれば人生は100倍楽しくなる」

すべての要素が組み合わさったら、そりゃあ楽しいだろうと。だが思う。「楽しいばかりが仕事じゃないよ」と。好きなことを仕事にしようが、得意なことを仕事にしようが、楽しくて嬉しいことばかりではない。その対極―嫌なことや腹の立つことも必ず含まれている。「楽しいだけの仕事」など、この世にはない。

警察官や弁護士、自衛官や海上保安官の仕事を考えてみればいい。果たして「楽しくて夢のある仕事」ですか?と。時に喜びややりがいを感じるかもしれない。だが、やり切れないことや怒りに震えるようなことに遭遇する機会のほうが圧倒的に多いはずだ。

医師や看護士、消防士の仕事もそう。日常的に「死」と向き合う仕事。命を預かる職場では、楽しさや嬉しさより、緊張感を強いられる。無力感に打ちひしがれるような時もある。「本来仕事は楽しくするもの」なんて悠長に言えるのは、「ごく限られた職種に就いているごく限られた人々」だ。

夢とか嬉しさとか楽しさとか、そういった要素だけを成功者達が強調するのは、それが彼らにとって欠かせないことだから。それを強調することこそが、自身が「成功者」であることの証になるのだ。「演出」の一部と言ってもいい。

「成功者」は、いうなれば時代の寵児。時流に乗ってもてはやされる存在だ。アイドル、スター、カリスマ―そう言い換えてもいい。崇拝の対象となる存在は、「それなりの振る舞い」が求められる。人々の期待と憧れに見合ったものを要求される。外見や言動―すべてがその呼び名にふさわしいものでなくてはならない。

「成功者」には、成功に値する何か―世間が「なるほど」と納得するような要素やその他大勢の人達との「決定的な差」がなければいけないのだ。能力や人生哲学、信条―「自分との違いはここなのか」と人々を唸らせるようなものを兼ね備えていなければならないのである。同時にそれは、大衆からの「要求」でもあるのだ。

「成功者」自身もそれを十分に認識している。自分が人々の期待に応える存在でなくてはならないこと―それは「成功者」に課せられた「義務」でもあるのだ。「成功者」と呼ばれた瞬間から、彼らは「成功者」という役を演じることを要求される。それを演じ続ける上で、作り上げる必要のある部分も出てくる。成功者としての外見、成功者としての言動―すべてが「ありのままの、素のその人」ではないのだ。

件の居酒屋創業者の方、「夢を仕事に、仕事に夢を」という熱弁の後、笑いながらこんなことを言っていた。「僕はコピーライターのようなものですから」コピーライター―いわずと知れた「広告文を作る人」だ。「夢を仕事に、仕事に夢を」は、彼の作った「宣伝広告」なのだ。


いろいろな意味で世の中が混乱状態にある今、これまで通用してきたこと―常識や概念等がことごとく崩壊していく現状に、多くの人は不安を覚えている。何を信じたらいいのか、どうしたらいいのか―それがわからなくなっている。

いつの時代も、人は「断固としたもの」を求める。「これが真実だ」「これが正解だ」と力強く、迷いなく言い切ってくれる存在を。不安定で混沌とした状態にある現在は特にそう。そんな中、きっぱりとした自信に満ちた態度で持論を言ってのける「成功者」は、まさに大衆が求める存在なのだ。

「強引」とも言えるその態度が、逆に人々に安心をもたらすのだ。「この人の言うことを聞いていれば間違いない」と。「自分を導いてくれる強い存在」を渇望している人にとっては、まさに渡りに船。あっという間に傾倒していく。真っ暗な海で出会う灯台の灯りのように感じるのも当然だ。

そういった自分の中にある不安や欲求が強い人ほど、成功者の言葉は「御宣託」「バイブル」になる。「これは本当に真実なのか?」ということすら考えず、ひたすらそれを信仰、実践するようになる。

だがそれは、単なるキャッチコピーである場合も多々あるのだ。「成功者」の自己演出のために作られたその宣伝文句、口車に簡単に乗せられてはダメだということ。

商品を売るために作られる宣伝文句―何の考えもなしにそれに飛びついた挙げ句踊らされる人を、世間では「ミーハー」と呼ぶ。「自分で考える」一番大切なその過程までを赤の他人に委ねるな、と。経験や理解が伴わないミーハー達の追従は、「仕掛け人」の自尊心と支配欲をくすぐるだけだ。




【追記】投資話等もそうだが、勧誘する側が「リスク」に触れることはない。「うまくいけばこれだけの利益が出ますよ」など、おいしい面しか強調しないわけで。やっぱり「仕掛ける側」って、どこの世界でもやることは同じだということです。



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目論見

 2011-02-05
近頃、イギリス王立協会発行の科学雑誌「哲学紀要」が、「宇宙」に関する特集を組んだ。ケンブリッジ大学進化生物学教授サイモン・コンウェイ・モーリス氏は、寄稿した論文の中でこんなことを述べている。「宇宙人と交信しようとしている人は最悪の事態を想定すべき。知的宇宙人は、地球の生命と似たような進化過程を辿り、似通った生物学的分子を持っている可能性があり、暴力的な傾向を持っている可能性がある」

地球外生命体―いわゆる「宇宙人」と呼ばれている存在は実在するのか、我々人間に友好的なのかそうでないのかということは、かなり以前から論議されてきた。SF映画や小説等にも、それに題材を取ったものは多い。

私個人は「存在肯定派」だ。「宇宙人など存在しない」と断言する人もいるが、むしろなぜそう言い切れるのかと。否定派の人達は、地球以外の惑星の環境条件を挙げて、生物が生存している可能性は極めて低いと言う。だが、宇宙に関して人類が持っている情報などほんの一握りだ。ほとんどが未解明。この広大な宇宙空間、まだまだ人間の与り知らないことが数多く存在しているはずだ。

ひょっとしたら、人間が想像だにしないくらい遠い場所に、地球と同じくらい生命に適した環境の惑星があるかもしれない。そこには文明があって、生活を営んでいる者達がいて―という可能性は決してゼロではない。現時点で解明されているわずかな部分だけで宇宙の全体像は測れないし、結論付けることは出来ない。

「宇宙の果て」を見た者はまだいない。その「果て」に何かが存在していたら?宇宙の未解明の部分の比率と宇宙人が存在する確率は比例するのではないだろうか。

その存在の可能性といったものも含め、今まで「とんでも話」の域を出なかった宇宙人について、科学者達が真剣に論議するようになったということは、その問題がこれまでのように軽視できる類のものではなくなったということだ。言うなれば、議論に値する確実な何か―裏付ける証拠等があるからではないかと。実に興味深い。

件の「宇宙特集」には、神学者の意見も掲載されている。宗教関係者の宇宙人に対する意見は、なかなか面白い。その発言に、「宗教」というものの本質、本音、腹の底が透けて見えるのだ。所詮はこういうことかと。

先の発言を受けて、米カリフォルニア州ルーテル神学校のテッド・ピータース教授はこう言っている。「各宗教者は、新たな世界観に教義を結びつけることで生き残る道を切り開き、宗教観が更に広がる可能性がある」

要は、宇宙や宇宙人を自分達の宗教の教義に取り入れることで、新たな信者を獲得するチャンスを作り出そうというわけだ。信者獲得のために、この先何らかの形で宇宙人を利用することもありかもね、と。

世の中には、いろいろなタイプの人がいる。それこそ「神は信じないけど宇宙人は信じる」という人もいるわけで。「ほらほら~うちの宗教は宇宙人も信仰の対象なんですよ~」その人達が信奉している存在を加えることで、将来的にその「無党派層」を取り込める可能性が出てくる。

宗教の目的は、あくまでも「信者の獲得」だ。どこまで自分達の勢力を拡大することができるか―それが最大の目標。そして、それは最終的に「利益」に繋がっている。キリスト教はその典型的な例。布教の歴史を見れば、それがよくわかる。「布教」という名目でその土地に乗り込み、支配し、そして略奪する―キリスト教はそうやって世界中に勢力を広げてきた。「宗教」というのはあくまでも隠れ蓑。その背後にあるのは、教主国の利益獲得だ。

そして今、宗教間や国家間のみならず、「信者」と「利益」の獲得を巡って、個人レベルでも同様のことが行われている。半ば宗教化しているとも言える巷に流行中のスピリチュアルでは、早々とその「宇宙の存在」をビジネスの展開に利用しているところもある。

「銀河連合ナントカ司令官○○と繋がるアチューンメント」とか「○星の女神カントカのチャネリングセッション」とか。先の神学校の教授ではないが、「新たな世界観に教義を結びつけることで生き残る道を切り開き云々」という言葉そのままのことをやっている。

「霊性の向上のために」「人類が愛のもとに一つになるために」等、それらしい理由を掲げても、セミナーやセッション、書籍やグッズの販売等が絡んでくれば、それは完全に「ビジネス」だ。利益を上げてなんぼの世界。売り上げアップのためには、それなりの「仕掛け」をしてくる。

本来「多神教」を批判してきたキリスト教でさえ、「新たな信者獲得のために使えるものは宇宙人でも何でも使え」と今や生き残りに必死なのだ。ましてやビジネスの世界なら、より熾烈な競争が繰り広げられるわけで。宇宙人のみならず、今後もどんどん新しい存在が投入されてくる可能性がある。

何を信仰しようと構わないが、「裏」もきちんと知った上で望まないと甘言に振り回されることになる。物事は一面だけではない。必ず「裏」が存在する。そしてその裏側には、決して表には出ない何らかの企て、あえて意図的に伏せられている目論見が隠されている場合があるのだ。




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正体不明のアチューンメント

 2011-02-02
「楽して得したい」最近この国の人達は、どんどんその方向に流れていっている。そんな世相を反映してか、スピリチュアル業界のセミナーやセッションも、「楽と得」に的を絞った内容のものがかなり増えてきている。その代表的なものが、「アチューンメント」。

アチューンメントとは、本来英語で「同調」を意味する言葉だが、スピリチュアル業界では、「エネルギー伝授」を指している。例えば、大天使○○や○○の女神といった特定の存在から受け取るエネルギーを利用できるように、自分の中にそのエネルギーの通り道、「回路」を開くのだ。回路開通からエネルギーの受信まで―その一連の儀式を行うことを「アチューンメント」と言う。

大抵の場合、伝授される側はその間何もしなくていい。ただリラックスしてそのエネルギーを感じていればいい―という場合がほとんど。すべて施術者に任せておくだけ、特に難しいこともなくエネルギーが受け取れる。まさに一石二鳥、「楽して得する」ことができる。

少し前までは「大天使系」がほとんどだったのだが、バリエーションは年々増加している。ギリシャ神話の女神や古代エジプトの神々、キリストや聖母マリア、18世紀のヨーロッパに存在した錬金術師、銀河系宇宙の存在に至るまで、それこそ「何でもあり」の状態になってきている。

天使系が飽和状態になったので、その余剰分の収容先が必要になったのだ。要は、「新規メニュー」の開発が必要になったということ。毎回同じメニュー内容では飽きられるし、その他の所と同じことをやっていては差別化が図れない。愛とか光とか言ってはいても、所詮スピリチュアルも「ビジネス」だ。独自の「売り」を持つことは欠かせない。その結果が、女神や古代エジプトの神々といったものの「導入」なのだ。


伝授されるエネルギーの「効能」もそれぞれ違う。人生を変化させるためのもの。過去の傷を癒し、そこから解放されるためのもの。豊かさや成功への恐れを癒すもの。不必要な思い込みや感情をクリアにするもの。自分の中の無限の可能性と繋がるためのもの―こんな感じで、それぞれの効能が、「これでもか」というほど並べ立てられている。

いつも思うことだが、その「エネルギー元」は、果たして「本物」なのか?と。アチューンメントを施す側の人達は、本物と言い張るが、そう断言できる根拠は何なのか?と。大天使もさることながら、キリストや銀河系○○星人、古代エジプトの神々といったエネルギー元の真贋は、あくまでも施術側の「自己申告」なのだ。「安全」「本物」そういった謳い文句は、すべて本人達から出たものだ。自分を「偽者」と称することはまずあり得ない。

真贋以外の面でも、「どういうつもりで選んだわけ?」というような「胡散臭い存在」をエネルギー元に設定している団体も多い。最近サロン宛に送られてきたスピ系小冊子に掲載されていたアチューンメントなのだが、そのエネルギー元がかなり怪しい存在なのだ。

「サン・○○」もしくは「セント・○○」という名前で、「不老不死の錬金術師」と称されるこのエネルギー元、18世紀のヨーロッパに実在した人物と言われている。だが、その出自は一切不明。スペイン王女と貴族の間に生まれた私生児、トランシルバニア国の王位継承者等と諸説あるが、それらの事実を証明するものは存在しない。「世界史上最も謎に包まれた人物」とされている。

この人物がいろいろと取り沙汰された18世紀のヨーロッパというのは、混沌と怪しさに満ちた時代だった。オカルティズムが台頭してきた時期でもあり、そういった世相を利用して、一山当てようと目論む詐欺師達が跋扈していた時代。霊能力者、預言者、魔術師を自称し、王侯貴族に取り入ろうとする者も多かった。

件の人物も同様で、ヨーロッパの歴史やオカルト史では、「錬金術師」どころか、「詐欺師」「大ぼら吹き」として取り上げられている有名な人物。長年の調査研究を経て、近年では「詐欺師説」が定着している。布の染色技術や皮革加工技術等、化学分野に秀でた才能を持ち、その研究にも熱心だったこの人物は、研究資金を援助してくれるパトロンを探す目的があったようだ。いわば、金持ちに取り入るために錬金術師や魔術師を自称したのだ。

そういった胡散臭い背景を持つ正体不明の人物を「エネルギー元」とするのは、一体どういう了見なのかと不思議で仕方ない。謎めいた魅力的な一面、「表」だけを前面に押し出して客引きをするのは、スピリチュアル業界の常だ。エネルギー元になる存在についてろくに調べもしないとは・・・。

また、言われるがままに、自分で調べもせずに、考えなしに容易に飛びつく側にも問題はある。大体、そういった怪しい存在のエネルギーの助けがなければ、自分の中の負の感情を浄化したり、人生を変化させられないんですか?と。

天使も女神も、キリストも聖母マリアも、古代エジプトの神々も存在するとは思うが、いちいち個人の人生に干渉してくるだろうか。スピリチュアルおたくの人達は、何かとそういった存在を温かくて慈愛に満ちたものとして捉えたがる傾向が強いが、「可愛い子には旅をさせろ」と突き放すことも「愛」なわけで。「何もしないで見ているだけ」ということも十分あり得る。

「神仏は敬うものであって頼るものではない」江戸初期の剣客であり、「五輪書」でも有名な宮本武蔵は言っている。やれアチューンメントだ浄化だと、自分のエゴのためにそういった存在をいちいち呼び出すのは、完全な依存だ。楽して得をしようとあれこれ算段する前に、まずは自分の内面を含め、その怠慢を省みることだ。




【追記】私自身、過去にレイキのアチューンメントを受けたことがあるが、そういったものを受けなくてもヒーリングは出来る。自浄能力というものは、どんな人にも元々備わっているのだから。考えなしにエネルギー系のアチューンメントを受けるのは危険かと。中でも、特定の存在を掲げているものに対しては、その背景を自分自身でしっかりと調べることだ。インターネットで瞬時に情報が手に入る便利な時代なのだから。「いいことを言っているから大丈夫」とスピリチュアルを盲信するのは危険極まりないことなのだ。




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3月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2011-02-01
2011年3月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2011年 3月6日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 3月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。




*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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