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ミイラ取りの油断

 2011-01-12
この国の人達は、心理テストの類が好きだ。「この中のどれを選んだかで大切にしているものがわかる」「こんな仕草をした場合の心理状態はこう」人が複数集まる時の定番の話題。本音と建前を使い分ける民族気質ゆえに、お互いの「素」を掴みづらい社会であるということも影響しているのかもしれない。心理テストは、相手の隠された部分、その人の「本当の姿」を知るための格好のツールなのだ。

年明けのドラマをいくつか見たが、今シーズンはプロファイリング等をはじめ、「心理分析」をテーマにしたものが多い。メディアがこぞって題材に取り上げるのも、そういった背景の影響があるせいかもしれない。その分野のテストやドラマ、書籍が人気を集めるのは、それが日本人の「本音」だからだ。

一見他人に無関心なようで、実は興味津々。だが相手と面と向き合う自信もないし気が引ける。でも知りたい―そういった心理の表れなのだ。ある種の「覗き願望」と言ってもいい。


ここ数年、セラピストやカウンセラー等、人間の心理に関わる職業に就きたいと言う人達が増えてきた。カウンセリング中にも、そういった言葉を聞くことが多い。その人達は決まってこう言う。「だって心理学って面白そうじゃないですか」

その人達の話を聞いていると、完全に勘違いしているのがわかる。「当て物」「人を見抜く術」そういった軽いノリの延長線上のものとして捉えている。それを悪いとは言わないが、極めて危うい状況だ。

最近巷でブームの「霊能力開発講座」にも共通することだが、安易な発想で入り込むと、早晩それに絡め取られて身動きできない状況になる。今自分が見ているのは、あくまでも「上澄み」の部分でしかないのだ。「楽しそう」「役に立ちそう」などと浮かれて近づこうとするのは、「表面」「光」の部分しか見ていないということだ。

そして、早かれ遅かれそれに踊らされることになる。心理学の理論に振り回される人は、実は「人そのもの」を観ていない。マニュアルに固執するあまり、人の側を理論に当てはめようとする。「観察力」のない人ほど、その傾向が強くなる。

言うなれば、心理学は人を理解するための「道具」だ。それは「人」から派生したもの―いわば「脇役」でしかない。あくまでも、「中心は人」なのだ。経験の積み重ねとそこで磨かれたものがなければ、それは無用の長物。単なる「知識」で終わる。いくらその理論を応用しようと、「当て物」「お遊び」の領域を出ることはない。心理学を勉強したからと言って、「すべて」を理解しているわけではないのだ。

精神科医は、定期的に専門家によるメンタルチェックを受ける。「それをよく知る者」が、どうして自分の心身のバランスをチェックする必要があるのか―その理由は想像できると思う。「よく知る者」だからこそ危険なのだ。「ミイラ取りがミイラになる」という言葉があるが、ちょっとした油断が命取りになる。ましてや「知らざる者」が足を踏み入れた時には―。

要は、「どうしてそれを学ぶのか?」ということなのだ。ただの好奇心、選民意識、利益獲得が目的で迂闊に手を出すのは浅はかだ。心理学然り、霊能力然り、それを「理解する」ということは、光と闇の両方を知ることでもある。きれいなものだけ、楽しいものだけ、自分が見たいものだけ―そんなわけにはいかないのだ。「深淵を覗く」その覚悟はあるのか?と。

「面白く」「楽しく」「気軽に」そんな謳い文句で誘いをかける業界人がいたら要注意だ。紙一重の領域に他人を安易に巻き込もうとすること自体、「実は何にもわかっていない証拠」なのだ。心のバランス、身体のバランス、はてはその両方のバランス―その人がそれを崩していたら、「ミイラになったミイラ取り」だと思っていい。それを「利用」するつもりが、逆に取り込まれてしまったのだ。その迂闊さゆえに。

「自分だけは大丈夫」そんな保証はどこにもない。そう油断する者が、真っ先にミイラになる。その領域の危険性を認識・理解しない者、「光」「表面」しか知らない者が、ミイラ化するのは時間の問題なのだ。

闇と裏、多くの人が目を背けようとする部分とそれに伴う「恐れ」「危険」ととことん対峙する覚悟が常について回る―「すべてを知る」とはそういうことなのだ。安易な発想は「命取り」でしかない。油断は禁物なのだ。




【追記】巷の霊能力開発セミナー等、一体「目的」は何なのか?と。興味を持って集まってくる人達のそれを開発して、何をしようというのか。守護霊とか背後霊とかあちらの世界の存在が見えたり聴こえたり、未来のことがわかったりしたとしても、原則として、「縋ってくる存在」を「本来いるべき場所」に送り届けてあげる力がないのであれば、そういった世界に一切関わるなと。

本人達がどういうつもりで霊能力を開発しようとしているのかは知らないが、その力がアップした時点で、見えない世界の存在「すべて」と関わることになると思ったほうがいい。自分にそのつもりがなくても、相手には関係ないのだ。物事に関わるということは、その「両面」と関わることだ。自分が見たいほう方だけ―そんな都合のいい話ではない。

向こうから縋って来たり、自分が引き寄せた場合にそこで起きる現象や事態の「後始末」ができないのであれば、その能力はゼロに等しいと言ってもいい。能力を開発すれば、そういった存在や事態と遭遇する確率は格段に上がる。避けることは不可能だ。中途半端な能力開発は、はっきり言って有害でしかない。

もし参加者がそういった事態に陥った時、主催者達は一体どうするのか?と。その「責任」は取れるのか?と。「参加者の自己責任」などという詭弁は通用しない。「主催者としての責任」とはそういうことなのだ。中途半端な霊能力(もどき)を笠に着て、安易にセミナーを主催するなどまったくもって危険極まりない。

そして、憧れや好奇心から後先考えずに飛びついていく無知で軽薄な参加者にも責任はある。霊能力のアップによって得るものは、「光」だけではないのだ。天使や女神といった存在だけと繋がると思っていたら大間違い。浮かれていると痛い目に遭う。本当に「考えない人」が多いなと。主催者側も、参加者側も、危機管理能力が完全に欠如しているという証拠なのだ。

生まれながらにそういった能力を備えている人は仕方がない。だが、わざわざそれ以上の「開発」をする必要があるのか?と。今現在ごく普通の一般的な生活を送っているのなら、そのままでいいではないか。その能力を更にアップさせた暁に何をしようというのだろうか。「動機」が生み出しているものは何か?―ということだ。人間としての「成長」に、「霊能力」の開発は果たして必要だろうか?




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