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ボーダーライン

 2011-01-25
人は生まれながらにして善であるか、悪であるか―いわゆる「性善説」と「性悪説」は、人類にとっての永遠のテーマだ。太古から多くの哲学者達が取り組んできたこの課題、未だ結論が出ていないのは、その「区分け」があまりにも単純且つ短絡的なせいだ。「人間」という地球史上稀にみる複雑な生き物を、たった二つの選択肢に当てはめようとすること自体無理がある。

「人は皆生まれながらの罪人である」とキリスト教は説き、現在巷に蔓延するスピリチュアルは、「人は皆光の存在なのです」「すべての人が愛に満ちた存在であり、愛そのものなのです」と謳う。一方は罪悪感や劣等感、不安感を煽って教義に縛りつけておくために、もう一方は「敷居」を低くして、いわば客寄せのために、それぞれの説を利用する。

善か悪か―すべてを二元論で片付けようとするのは、「宗教」特有のやり方。宗教に「曖昧さ」は禁物なのだ。「どちらでもいい」などと言っていては、統制がとれない。中心があやふやでは信者は揺らぐ。「洗脳」にグレーゾーンは不要だ。あくまでも「きっぱりと断言すること」が必要なのだ。そこが「如何にも宗教」らしいところである。

セラピストとして多くの人を観てきて思う。人間は、善でも悪でもない。そのどちらの要素も持っている存在だ。善だ悪だと言われている状態は、どちらかの要素がその一方のものより勝っている状態、いわば一つの要素が強く前面に現れている状態なのだ。もう一方は「隠れている状態」に過ぎず、消失したわけではない。何かの拍子にそれが入れ替わったりすることもある。

多くの人は、「自分の中に存在するダークな部分が許せない」と言う。そして「それを消したい」と。光だけ、愛だけ、善だけの存在になりたい、と。この人達もまた、完全な二元論者だ。光になる。愛になる。善になる―それは、闇や影、悪の部分を消失させることだと思い込んでいる。

だが思う。善と悪、光と影の境界線は、意外と単純なものではないかと。「一線を越える」という言葉があるが、地面にザーッと一本の線が引いてあって、その線から向こうに行くか、それともその手前で踏みとどまるか―それだけの違いではないかと。

「善になる」「光になる」とはどういうことか?例えば、最高に嫌なことがあって、気分もムシャクシャして誰かに当り散らしたい。誰でもいいから自分が受けた仕打ちと同じことをしてうさを晴らしてやりたい―そういった感情が自分の中に湧き上がってきたとする。「他人からどう思われようと関係ない。その人が傷つこうがどうなろうと知ったこっちゃない。とにかく誰かを自分と同じように思いっきり傷つけてやらないと気が済まない」

そんなどす黒い感情に支配された「もう一人の自分」と闘うことなのだ。「ホーダーライン」を越える寸前で思いとどまること。衝動に負けてそのラインの向こう側に行こうとする自分を気力でねじ伏せる―それが、善や光になることであり、そういった感情と闘い続けることが、善や光であり続けることなのだと思う。

結局、「踏みとどまる努力」をすることなのだ。善でいたければ悪の誘惑に負けないように。光でいたければ闇に落ちないように。つまり、必要とされるのは、ダークな部分を消そうとすることではなく、いかにして自分自身を律することができるか―ということなのだ。「克己」と言い換えてもいい。光と闇、善と悪―どちらに自分を明け渡すかということだ。

人間は、光と闇の間、善と悪の間、「あわい」を生きる存在だ。光でもなければ闇でもなく、善でもなければ悪でもない。それを分ける「線」を越えれば、簡単にどちらの存在にもなり得るような、言うなれば「危い存在」だ。「魔が差す」という言葉が、人間の持つその危さを的確に表現している。

常に自分の中の光と闇に対峙すること。どちらの側にいることを選ぶか―人間が取り組む「課題」の一つでもある。そのラインを越えるか、越えないか―自分の人間性、心のあり方を決めるのは、自分自身の「選択」にかかっている。




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タナジョ

 2011-01-18
昨年の夏、アメリカから友人のキャシーが日本に遊びに来た。3週間の滞在期間中の1週間を我が家に滞在していたのだが、その間あちこち案内して回っていた。彼女のリクエストで、主に京都や奈良の神社仏閣を巡っていた時に思った。「なんかえらいことになってるなー」

ここ8年ほど、初詣を含め、神社仏閣の類には一切足を運んでいなかった。今回久しぶりにキャシーとあちこちのお寺や神社を巡ってみたのだが、やたら若い人―特に20代くらいの女性の姿が目に付くのだ。世の中には、年齢や性別を問わず、いわゆる「寺好き」「神社好き」の人達がいる。彼女達もその口かと思っていたのだが、観ているとどうも様子が違う。

大抵の場合、神社仏閣ファンというのは、参詣や参拝以外の部分にも時間をかける。庭や仏像等をじっくりと時間をかけて観賞し、滞在時間も結構長い。その場所の「気」を味わうことが一番の目的だったりする。

だが、彼女達の場合、お参りを済ませると、「はい!終わった!」という感じで足早にそこを後にする。何というか、非常にせわしない。キャシーも、「あの子達急いでるみたいだね」と振り返っていたので、実際そうだったのだと思う。

だが、彼女達を観ているうちに、「急ぐ理由」が判明した。その子達の多くが手にしていたのは、「パワースポット」を紹介している雑誌や書籍だったのだ。「なるほどねー」と。あくまでも、目的は「ご利益祈願」なのだから、庭や仏像に興味を示すはずはないのだ。中には「急げば○○神社にも行けるよ!」と小走りになっているグループもいた。まるでスタンプラリーでもやっているようなノリなのだ。

その様子を少々呆れながら見ていたところに、「ねぇ、あれ何?」とキャシーに肩を突っつかれた。彼女が指を指す方向を見ると、そこにはずらりと絵馬が奉納されていた。「あれ?あの板にお願い事を書いて結びつけておくと神様が叶えてくれるの。『絵馬』って言うんだよ」「本当?私も書きたい!」

「日本の神様って英語わかるかな?英語で書いてもいい?」「大丈夫だと思うよー。日本の神様は寛大だから」ワクワク顔でお願い事を書き込んでいるキャシーの横で、ずらりと並んだ絵馬を見るともなしに見ていたのだが、思わず「え?・・・」となるような内容のもので埋め尽くされていた。

「○○君(超人気若手俳優)みたいなルックスで、身長が180センチくらいで、性格が良くて、次男で、できたら上場企業勤務で、年収は○○円くらいで、持ち家があって、私のことだけを大事にしてくれる人とのご縁がありますように」「経済力があって、優しい人とのご縁が授かりますように」「一日も早くソウルメイトと出会えますように。そしてその人が経済力があって、優しい性格の人でありますように」

まあ、人様のことをあれこれ言いたくはないけれど、正直どん引きした。こんなお願い事ばかりじゃ、神様もうんざりするだろうな、と。「ご縁」以前に、「相手に求める条件」が最優先なのだ。まるで「買い物」みたいではないか。「こんな商品があったら即買いなんだけどなー」という感覚。それも求めているレベルが、ヴィトンやシャネル級。「高級品」を手に入れたいと、鵜の目鷹の目になっている。「結婚するからには絶対に『カス』は掴みたくない」そういった心情の表れだ。

「自分のことは棚に上げて」という言葉があるが、男女関わらず、パートナーに対する「条件」をあげつらう人達というのは、まさにその状態にある人が多い。高級品を欲しがるのは結構だが、自分がそれに見合うだけの人間なのか?ということをまったく省みない。相手にはヴィトンやシャネルレベルを要求する割には、本人はスーパーの衣料品売り場に卸されるような、大量生産された2~3千円の合皮のバッグレベルだったりする。

そういった自分を棚に上げる男性・女性を、私は勝手に「棚に上げる男=タナダン」「棚に上げる女=タナジョ」と呼んでいるのだが、婚活が大流行の今、本当にそういう人が多いよね、と。特にタナジョは増加傾向にある。

去年、何かのテレビ番組で、「カリスマ仲人」と呼ばれる結婚相談所の女性経営者に密着した内容を放送していた。その中で、ある男女のお見合いに同席する場面があったのだが、その時の女性会員の様子が、まさに「買い物中」といった感じだった。相手の男性を見る時の目が、完全に「値踏み」している時の目なのだ。

結局その話はまとまらなかったのだが、カリスマ仲人に断りを入れる時の彼女の言葉を聞いていると、完全に相手を「物扱い」している。彼女の中に、何か「基準」のようなものがあって、そこに達しないとダメらしいのだ。「喫茶店で伝票を自分のほうに引き寄せなかった」とか「髪型がどうこう」とか。要は、見栄えが良くて、機能的な商品じゃなくちゃ嫌なのね、と。

そういう本人は、同性の目から見て「もっとオンナ磨こうよ・・・」という体なのだ。通勤着と思しき地味なグレーのスーツでノーアクセサリー。化粧気はゼロ。とてもお見合いに来た女性には見えない。相手が話を振っても「はい」と「いいえ」だけで無愛想だし、協力して話を盛り上げようという努力すらしない。あんた何様?と。カリスマ仲人にもやんわりたしなめられていたが、多分本人は何も気づいていない。

そりゃあお見合いの席で相手が好みじゃなかったらがっかりするかもしれないけど、せめて初対面の相手を気遣って、礼儀正しく感じのいい態度を取れないのかね?と。そこまでくると、「人としてどーよ?」ということなのだ。相手を「物」としか見ないあなたを、相手は「人」として見てくれますか?と。

観ていると、「条件重視」の人というのは、その条件が変化した場合、途端に手の平を返したように態度が一変する人が多い。要は、飽きたら使い捨て―という人だということだ。そして、それは恋愛に限ったことでなく、その他の人間関係に関しても同等なのだ。損得で物事を計るタイプと言ってもいい。そんな人と一生を共にしようと思う人がどこにいるのかと。少なくとも私は嫌だ。

相手に対してあれこれ条件をつけたがる前に、まったく同じ条件を自分自身にも突きつけてみればいい。どれだけ自分が分不相応のことを言っているのかわかるから。ヴィトンやシャネルを欲しがるのであれば、自分もそれと同等クラスの「品質」になる必要があるということだ。

「こんな人がいい」と理想を語るのは勝手だが、意外と相手に求めている要素というのは、自分のコンプレックスの裏返しだったりする。パワースポットの神社で、絵馬に書き切れないくらいびっしりと結婚相手に求める条件を書き連ねる前に、もっと自分自身を省みたら?と。相手に厳しく自分に甘い―そんな人と「ご縁」が結ばれた相手にしてみたら迷惑以外の何ものでもない。

「E原さんお勧めのパワースポットの神社で祈願したけど一向に出会いがない」そう嘆いているのなら、自分を見直す必要があるのかもね。「自分のことを棚にあげるな!」という神様や仏様のメッセージかも。努力を放棄して、自分の不足分をひたすら相手に補ってもらおうとするその浅ましさ―そういう心根は相手にもきっちり伝わっているものだ。そんな人を誰が選びますか?なのだ。


「出来た~!」絵馬を書き上げたキャシーは満足そうに奉納場所に結び付けていた。「なんて書いたの?」「世界中のすべての人達が平和で幸せに暮らせますように」「偉い!」くれくれよこせ祈願に満ち溢れた絵馬が並ぶ中、私利私欲のまったく入っていないキャシーの絵馬は、お世辞抜きで潔く、清浄なエネルギーを発しているように見えた。多分こういう絵馬を、神様は手に取るんだろうなと。

自分を棚に上げての神頼み―いくらなんでもそれは虫が良すぎるってもんですよ。「ふざけんな!」と神様に足蹴にされるのが関の山です。




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ミイラ取りの油断

 2011-01-12
この国の人達は、心理テストの類が好きだ。「この中のどれを選んだかで大切にしているものがわかる」「こんな仕草をした場合の心理状態はこう」人が複数集まる時の定番の話題。本音と建前を使い分ける民族気質ゆえに、お互いの「素」を掴みづらい社会であるということも影響しているのかもしれない。心理テストは、相手の隠された部分、その人の「本当の姿」を知るための格好のツールなのだ。

年明けのドラマをいくつか見たが、今シーズンはプロファイリング等をはじめ、「心理分析」をテーマにしたものが多い。メディアがこぞって題材に取り上げるのも、そういった背景の影響があるせいかもしれない。その分野のテストやドラマ、書籍が人気を集めるのは、それが日本人の「本音」だからだ。

一見他人に無関心なようで、実は興味津々。だが相手と面と向き合う自信もないし気が引ける。でも知りたい―そういった心理の表れなのだ。ある種の「覗き願望」と言ってもいい。


ここ数年、セラピストやカウンセラー等、人間の心理に関わる職業に就きたいと言う人達が増えてきた。カウンセリング中にも、そういった言葉を聞くことが多い。その人達は決まってこう言う。「だって心理学って面白そうじゃないですか」

その人達の話を聞いていると、完全に勘違いしているのがわかる。「当て物」「人を見抜く術」そういった軽いノリの延長線上のものとして捉えている。それを悪いとは言わないが、極めて危うい状況だ。

最近巷でブームの「霊能力開発講座」にも共通することだが、安易な発想で入り込むと、早晩それに絡め取られて身動きできない状況になる。今自分が見ているのは、あくまでも「上澄み」の部分でしかないのだ。「楽しそう」「役に立ちそう」などと浮かれて近づこうとするのは、「表面」「光」の部分しか見ていないということだ。

そして、早かれ遅かれそれに踊らされることになる。心理学の理論に振り回される人は、実は「人そのもの」を観ていない。マニュアルに固執するあまり、人の側を理論に当てはめようとする。「観察力」のない人ほど、その傾向が強くなる。

言うなれば、心理学は人を理解するための「道具」だ。それは「人」から派生したもの―いわば「脇役」でしかない。あくまでも、「中心は人」なのだ。経験の積み重ねとそこで磨かれたものがなければ、それは無用の長物。単なる「知識」で終わる。いくらその理論を応用しようと、「当て物」「お遊び」の領域を出ることはない。心理学を勉強したからと言って、「すべて」を理解しているわけではないのだ。

精神科医は、定期的に専門家によるメンタルチェックを受ける。「それをよく知る者」が、どうして自分の心身のバランスをチェックする必要があるのか―その理由は想像できると思う。「よく知る者」だからこそ危険なのだ。「ミイラ取りがミイラになる」という言葉があるが、ちょっとした油断が命取りになる。ましてや「知らざる者」が足を踏み入れた時には―。

要は、「どうしてそれを学ぶのか?」ということなのだ。ただの好奇心、選民意識、利益獲得が目的で迂闊に手を出すのは浅はかだ。心理学然り、霊能力然り、それを「理解する」ということは、光と闇の両方を知ることでもある。きれいなものだけ、楽しいものだけ、自分が見たいものだけ―そんなわけにはいかないのだ。「深淵を覗く」その覚悟はあるのか?と。

「面白く」「楽しく」「気軽に」そんな謳い文句で誘いをかける業界人がいたら要注意だ。紙一重の領域に他人を安易に巻き込もうとすること自体、「実は何にもわかっていない証拠」なのだ。心のバランス、身体のバランス、はてはその両方のバランス―その人がそれを崩していたら、「ミイラになったミイラ取り」だと思っていい。それを「利用」するつもりが、逆に取り込まれてしまったのだ。その迂闊さゆえに。

「自分だけは大丈夫」そんな保証はどこにもない。そう油断する者が、真っ先にミイラになる。その領域の危険性を認識・理解しない者、「光」「表面」しか知らない者が、ミイラ化するのは時間の問題なのだ。

闇と裏、多くの人が目を背けようとする部分とそれに伴う「恐れ」「危険」ととことん対峙する覚悟が常について回る―「すべてを知る」とはそういうことなのだ。安易な発想は「命取り」でしかない。油断は禁物なのだ。




【追記】巷の霊能力開発セミナー等、一体「目的」は何なのか?と。興味を持って集まってくる人達のそれを開発して、何をしようというのか。守護霊とか背後霊とかあちらの世界の存在が見えたり聴こえたり、未来のことがわかったりしたとしても、原則として、「縋ってくる存在」を「本来いるべき場所」に送り届けてあげる力がないのであれば、そういった世界に一切関わるなと。

本人達がどういうつもりで霊能力を開発しようとしているのかは知らないが、その力がアップした時点で、見えない世界の存在「すべて」と関わることになると思ったほうがいい。自分にそのつもりがなくても、相手には関係ないのだ。物事に関わるということは、その「両面」と関わることだ。自分が見たいほう方だけ―そんな都合のいい話ではない。

向こうから縋って来たり、自分が引き寄せた場合にそこで起きる現象や事態の「後始末」ができないのであれば、その能力はゼロに等しいと言ってもいい。能力を開発すれば、そういった存在や事態と遭遇する確率は格段に上がる。避けることは不可能だ。中途半端な能力開発は、はっきり言って有害でしかない。

もし参加者がそういった事態に陥った時、主催者達は一体どうするのか?と。その「責任」は取れるのか?と。「参加者の自己責任」などという詭弁は通用しない。「主催者としての責任」とはそういうことなのだ。中途半端な霊能力(もどき)を笠に着て、安易にセミナーを主催するなどまったくもって危険極まりない。

そして、憧れや好奇心から後先考えずに飛びついていく無知で軽薄な参加者にも責任はある。霊能力のアップによって得るものは、「光」だけではないのだ。天使や女神といった存在だけと繋がると思っていたら大間違い。浮かれていると痛い目に遭う。本当に「考えない人」が多いなと。主催者側も、参加者側も、危機管理能力が完全に欠如しているという証拠なのだ。

生まれながらにそういった能力を備えている人は仕方がない。だが、わざわざそれ以上の「開発」をする必要があるのか?と。今現在ごく普通の一般的な生活を送っているのなら、そのままでいいではないか。その能力を更にアップさせた暁に何をしようというのだろうか。「動機」が生み出しているものは何か?―ということだ。人間としての「成長」に、「霊能力」の開発は果たして必要だろうか?




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込める

 2011-01-10
IT用語にもあるが、「ステガノグラフィー」という技術がある。絵や画像、文章や音声等の中に、さらに他のメッセージを隠すこと。一見何の変哲もない箇所に、「謎」を潜ませるのだ。

「暗号」とはまた違うものだ。暗号は、たとえそのメッセージが発見されたとしても、読み手に解読されないようにする技術。だが、ステガノグラフィーは、メッセージがそこに隠されていること自体を気づかれないようにする。見た目をほとんど変化させず、何の違和感もないように、極めて自然に見えるよう状態の中に、それを埋め込むのだ。

白紙に果汁等で絵や文字を書く。乾いた後は、一見ただの白い紙に見える。だが、それを火であぶると、今まで見えなかった文字や絵が浮かび出してくる。ステガノグラフィーは、その「あぶりだし」に喩えられる。

古くは紀元前の古代ギリシャの歴史書や平安初期の三十六歌仙の一人である在原業平が、「古今和歌集」の中でそれを行っている。木を森に隠すように、文字の中に文字を隠す。それを知る者、気づいた者だけが、秘められた「真実」を知ることになる。

願わくば、そういう文章を書いていきたいな、と思う。十代の頃、プロアマ混合の同人誌等でちょこちょこ書いた物を発表していた時に漠然と思っていたことだが、それは今も変わらない。こうしてブログを書いている今、それは確固たるものになった。

インターネットの台頭もあり、現在世の中にはありとあらゆる種類の文章が溢れている。どんな形であれ、物を書く人間は、「活字中毒」とも言えるくらい大量の文章に目を通す傾向がある。ご多分にもれず、私もその口だ。だが決まって惹かれるのは、書き手の「底」が見えないくらいの奥深さを感じる文章だ。

行間とか裏とか、そういった部分を読み取る以前に、文章そのものに「まだ何かそれ以上のものが秘められている予感」を感じさせるもの。読む度にそれを感じ、探さずにはいられないもの。マトリョーシカのように、これで最後かと思うとまだ次がある―そんな文章に惹かれるし、自分もそういったものを書きたいと思う。

読み手の意識が外や他に向かっていくような、インスピレーションのきっかけになるような、ミクロからマクロへ、マクロからミクロへ―そんなふうに自由自在に意識を飛ばすきっかけになるような文章を。

スピリチュアル系の書籍やブログにありがちな、読み手の意識や視点を一箇所に固定して縛りつけるような文章、読み手からの誤解を恐れるあまり、「言い訳」に徹して論旨が不明確な文章は、私にとっては「駄文」だ。ましてや「(アイディアを含む)盗用」「無断引用」は言語道断。「布教」や「宣伝」「自己満足」に終始する文章は、書き手の中身、「目的」が透けて見える。

万人受けする無難なものを書こうとも思わない。共感されること、好かれることを前提に書かれた文章は、「媚び」が鼻につく。あくまでも「自分が書きたいこと」を書く。自分のブログでそれをできないのなら意味がない。読み手の好みに合わせるつもりはさらさらない。お気に召さないのであれば、読まなければいいだけの話。

イギリス文学のファンを自認するある作家がエッセイに書いていた。「冷徹な観察眼と自虐的ユーモアとも言うべき些かの稚気、教養と合理性、そこにちょっと『風変わり』というスパイスを効かせれば『イギリス人』になる」

なるほどー。私の目指すところは「イギリス文学」なのかもしれない。そして、「謎」「メッセージ」を時々紛れ込ませておくのだ。「誰か気づいてくれるかな」というほんの少しの期待と、「ふふーん♪わかるかな~」という小さな意地悪さと一緒に。

文章を書くということは、読み手との「対決」でもある。常に真剣勝負の「気」を双方にもたらすような、読む度に「メッセージ」「謎」の存在を探さずにはいられなくなるような、そんなクオリティーのものを書いていきたいな、と。

「あの内容のやつ、どれだっけ。また読みたくなった」と再読されるような、じっくり読まずにはいられないくらいに強く、濃くて深い。でも読後はすっきりと抜ける。上質のお酒のような―そんな文章を目標にしようと。

遅くなりましたが、いつもこのブログを読んでくださっている方達へ、感謝の意を込めて新年のご挨拶とさせていただきます。今年もよろしくお願い致します。

【昨年ブログの感想メールを送ってくださった方達へ】
多くのメールをいただき、ありがとうございました。全員にお返事を差し上げましたが、届いていないようでしたら「迷惑メールボックス」等を確認なさってみてください。当方のプロバイダーはヤフーなのですが、時々ヤフーメールが自動的に削除されてしまうことがあるようです。「宛先不明」で返ってきたものはないので、多分届いているとは思いますが、万が一届いていない場合はご一報くだされば・・・と思います。


*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。

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分岐点

 2011-01-07
【分岐点(ぶんきてん)】道路や物事のわかれる所。わかれめ。「人生の―」(広辞苑より)


セラピストの仕事をしていると、時々、まるで鏡合わせのようによく似た生い立ちを持つ人達に出会うことがある。「あれ?前にもこんな話を聞いたことがあったな」という感じで。

例えば、「Aさん」と「Bさん」という二人がいる。もちろん赤の他人同士で面識もない。性別も同じで、年齢も非常に近い。二人とも、10歳の頃に交通事故に遭い、その時に家族全員を一度に亡くしている。家族の中で自分だけが生き残った。家族を亡くした後、しばらく親戚の家を転々としたのだが、最終的に養護施設で生活することになった。中学卒業と同時にその施設を出、就職した。昼間は会社で働き、夜は高校の夜間部に通う―という生活を経て今に至っている。

生い立ちこそよく似ているものの、現在の二人の状況はまったく違う。Aさんは、「今はとっても幸せです。今の幸せを思うと、ありがたくて涙がこぼれるんです」と笑顔で言い、一方のBさんは、「どうして自分がこんな目に遭わなければならなかったのか納得ができないんです。世の中もっと悪い奴らがいるじゃないですか。どうして私なんですか?」と怒りや恨みを露わにする。

性格の違い―と言ってしまえばそれまでだ。だが、二人とも同じ状況を経験している。環境等、後天的な要素の影響を強く受けて形成される「性格」が現在の状況を形成している原因であるならば、この対極とも言える「違い」「差」はどうやって生まれたのか?と。


仕事柄今までいろいろな人達を観てきて思うのだ。AさんとBさんのように、「今の自分に満足している人」と「そうでない人」には、決定的な違いがある。よく似たプロセスを通ってきた二人の人間のその後を分けるものは何なのか。それは、「諦観」なのだ。自分の人生、ひいては自分自身を諦観することができるか、できないか―それが大きな違いを生むのだ。

「諦観」とは、入念にそれを観ることを指す。冷静に、客観的に観察すること。感情は一切不要。「無機質」と言ってもいい冷徹さで、ただそれを眺めるのだ。まるで他人事のように。それをしてこそ、新たに見えてくるもの、気づくこと、理解することが現れてくる。文字通り、それを単なる「あきらめ」と取る人は、その本当の意味を理解していない。

「諦」という字には、「真理」「悟り」という意味が含まれている。真理を悟った上で、自分の意思が及ばない領域の「変えられないこと」「仕方のないこと」として、納得してそれを思い切る。いろいろと観察した結果を取りまとめ、明確になったその「事実」「真相」と向き合って、「よし、わかった」と手放す―それが「諦観」なのだ。

過去にこだわる人というのは、「過去に執着している」ということでもある。彼らは、変えられない過ぎ去った時間までをも何とかしようと躍起になっている。だがそれは、日本に生まれたこと、この両親の元に生まれたこと―そういった絶対に変えることのできない部分、「宿命」を変えようとしているのと同じことだ。ある意味、「過去」は宿命なのだ。過ぎ去った時間は変えることはできないし、起きた出来事をなかったことには出来ないのだから。

過去に執着して前に進もうとしない人達は言う。「もしあのことさえなかったら、自分はもっと幸せになっていたのではないか」「違う環境で育っていたら、もっといい人生になっていたかもしれない」「こんな人間になったのは、あんなことをされたせいだ」

確かに、それぞれが抱えている「事情」というものはある。だが、それは必ずしも今現在自分が不幸である「原因」「理由」にはならない。それを自分の不幸の原因とするのであれば、同じような経験を持つもう一方の人はなぜ幸せなの?と。同じ環境で育った兄弟姉妹間でも、こういった違いは起きる。やはり、「事情」は直接の「原因」ではないのだ。

幸せになったその人達は、理解したのだ。「宿命(過去)は変えられない。だったら自分でいくらでも好きなように変えていける運命(現在と未来)を大事にしていこう」と。彼らは、人生を「諦めて投げ出した」のではない。「よし、終わったことは仕方ない。これからがんばっていこう。幸せになろう」と、過去を思い切り、執着を振り払ったのだ。前に進むために。

まずは自分自身を観ることが必要なのだ。そして決める。自分がどちらに進みたいのかということを。不要な執着を捨て、歩き続ける。そうすれば、人はどこでも自分の好きな場所に到達できる。道を選ぶのは、あくまでも自分自身なのだ。




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2月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2011-01-05
2011年2月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2011年 2月6日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 2月2日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。




*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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ネバーランド

 2011-01-04
「実家」という言葉と概念は、日本独特のものだと思う。自分の生まれ育った家を、「実の家、本当の家」と称して憚らない国は、世界広しといえ、他に類を見ないのではないだろうか。「実家に帰る」という表現も、「この家こそが、あなたが帰るべき『本当の家』なんですよ」というニュアンスを含んでいる。

英語には、「実家」に相当する言葉はない。しいて言えば、「parents' home 両親の家」だ。成人し、独立して家を離れたら、そこはもう「自分の家」ではない。なので、「帰る」という表現は使わない。例えば、休暇や行事等で親元に戻る時も、「I'm going to visit my parents」なのだ。そこは、あくまでもvisit―訪問する場所であり、go back―帰る場所ではないのだ。

何年か前、アメリカで、親元を離れない子供が増えていることが大きな話題になった。大抵のアメリカ人は、高校卒業、大学入学と同時に実家を出る。そして、それを機にもう親元に戻ることはない。一度独立した後は、あくまでも「親は親、子供は子供」になる。アメリカではそれが一般的であり、「ごく普通のこと」なのだ。

以前、アメリカ人の友人知人に聞いてみたことがあった。「日本では、30代とか40代の息子や娘が親と同居してることも多いんだけど、どう思う?してみたいと思う?」答えは全員が「NO!」だった。「十分大人なんだから自立するべきでしょ」「それぞれの人生を楽しめないじゃないの」一様にそんな言葉が返ってきた。

そして、その子供達の答えも親とまったく同じなのだ。「親と同居?どうして?考えたこともない・・・っていうか、別々に暮らすのが普通なんじゃないの?」「特別な理由もないのに親と同居するの?あり得ないよ。だってお互いの人生があるんだし」

「子供はその時期が来たら親元を離れるのが当たり前」というのが、親と子の双方、ほとんどのアメリカ人に共通する認識なのだ。

だが、ここ最近様子が変わってきた。今までの認識を覆される「あり得ないこと」が起こり始めたのだ。大学を卒業して就職した後もそのまま親と同居を続ける子供や、一度は独立したものの、離婚やリストラ等が原因で、経済的な理由から親元に戻ってきたりする子供が増えてきたのだ。

実家に出戻ってきた息子と年老いた両親との生活を描いたドタバタコメディー映画も話題になった。実家に戻ってくる子供、実家を出ていかない子供―映画の題材になるということは、アメリカでは「今までになかっためずらしい状況」なのだ。同時に「由々しき事態」でもある。メディアもある種の「社会問題」として捉えているし、「独立精神の欠如」「依存心の表れ」等、「弱くなったアメリカ人」を懸念する声も多く上がっている。

日本では、親との同居はめずらしいことではない。男女問わず、結婚するまで親元で過ごす人や離婚を機に同居を再開する人も多い。むしろ、世間もそれを当然と思っている節がある。それがいいとか悪いとかということではないが、「ひきこもり」にしろ、「ニート」にしろ、「パラサイトシングル」にしろ、それもこれも、この国特有の「実家」という言葉とその概念が成せる業だと思うのだ。

良くも悪くも「実家=甘える場所、避難場所」という認識が人々の中に確立されているのは、その言葉のせいではないかと。実の家、本当の家というその響きが、何かを狂わせているような気がするのだ。


先日、友人と話していた時にも話題になったのだが、最近「ひきこもり」の子供さんを持つ人が本当に多い。友人の職場でも、そういった人が数名いるとか。その子供さん達は、特に差し迫った問題を抱えているわけでもないらしい。学校もちゃんと卒業し、健康状態にも問題はない。本来なら、社会人3~4年目として働いているような年齢。

「やりたいことが見つからない」「やる気が出ない」というのが、ひきこもっている理由らしい。バイト先を見つけてきても長続きせず、職を転々とする。親御さん達は、ヤキモキしながらも、その状況を黙認しているようだ。家に住まわせ、食事を食べさせ―そんな子供達の面倒を見続けている。

友人曰く、「あっちこっち専門家に相談に行ったりもしたらしいんだけど、口を揃えて『黙って見守っててあげてください』しか言わないんだって」うーん・・・これってどーよ?と。何というか、「根本から間違ってないか?」と思うのだ。よそ様の家のことをとやかく言う気はないが、何か妙に後味が悪いというか、引っ掛かりがあるというか・・・。

健康で、それなりの学歴を持った人間が、仕事もせず、親に生活のすべての面倒を見てもらっている国。渋々ではあると思うが、そんな我が子を受け入れる親が存在する国。また、そういった子供達を「ひきこもり」と称し、その存在をいろいろな意味で社会が容認している国―「異常」ではないのか?と。それも、ごく普通の一般家庭で起こっていることなのだ。


親元から独立するまでは、特に未成年のうちは、不条理なことだらけだと思う。親の意見が尊重され、子供の意思など二の次。不平不満を唱えても、「子供は黙ってなさい」のひと言で、渋々それを受け入れざるを得ないことのほうが断然多い。

年齢を重ねるにつれてわかってくることだが、世の中には、たとえそれが理屈や割に合わないことであっても黙ってそれに従うことや受け入れることが必要な時もあるのだ。納得は出来ないけれど、あえてそれをしなければならない時がある。「仕方の無いこと」というものが存在する―それを認めることが、「大人」であることの証明でもあるのだ。


以前、アメリカ人の友人とちょっと込み入った話をしていた時だ。当時4歳くらいだった彼女の息子が、私達が話しているところにやって来た。理由は忘れてしまったが、お菓子がほしいとかおもちゃはどこにあるのかという類のものだったと思う。母親の注意を引こうとするのだが、彼女は息子を見向きもしない。相変わらず私との会話を続けている。

そうこうしているうちに、その子が癇癪を起こし始めた。そりゃそうだ。大好きなママが自分を無視して話も聞いてくれない状態は、4歳児には結構なストレスだ。とうとう「マァーーミィーー!!」と金切り声を上げた。横で見ている私のほうが気になって仕方ない。

「話聞いてあげて」と言うのだが、彼女はまったく気にしない。「いいの。で、それでどうしたの?」「う、うん。それでね・・・」と会話を再開したのだが、またもや「マァーーミィーー!」今度はテーブルをバンバン叩く音がおまけについている。

その時彼女がキッと息子を見た。「静かにしなさい。ママは今大事なお話をしているの。終わったら聞いてあげるから邪魔しないでちょうだい」彼女の怖い顔効果もあり、しばらく部屋は静かだったのだが、しばらくするとまた「マミー、まだぁ?」「いつお話終わるの?」「もう待つのやだ」と始まった。

「お話が終わるまで待ってなさい」「あとどれくらい?なんで待ってなきゃいけないの?」「ママは大事なお話をしてるって言ったでしょ?だから終わるまで待ってなさい」「えー、なんでー。ぼくずっと待ってるのにー」と、その時、とうとう痺れを切らした彼女は、今まで見たことのないような怖い顔して立ち上がると、自分の息子にこう言った。「Because I said so!!(なぜならママがそう言ったからよ!)」

「ママが待ちなさいって言ったんだから、言うとおりにしなさい!」子供にしてみたら、不条理以外の何物でもない。「こっちの言い分と都合は完全無視かよ!?そんなのひどくね!?」というところ。

いつも不思議に思っていた。扱いにくさに欠けては世界一とも言えるアメリカのティーンエイジャーが、どうして親の言うことを渋々ではあっても、結局おとなしく従うのか。それこそ185センチくらいのでかい図体の17歳のやんちゃ盛りの男の子が、「与えられた役割」である夕食後の皿洗いを2日連続でさぼった罰として言い渡された「学校から帰った後の外出は3日間禁止」の命令に、ブツブツ言いながらもちゃんと従うのだ。

親を「○○ちゃん」「○○くん」と名前で呼んだり、また親もそれを許しているような「友達親子」が存在したり、親を小ばかにする子供が増えている日本では、「はあ?マジうぜー」と無視するのが関の山だ。その「違い」は何か?それは、親側の毅然とした態度、「不条理」というものの存在をどれだけ断固とした態度で子供に教えられるかというところにあるのだ。


人生においての意味付け―「生まれてきた理由」とか「人生においての使命」とか「やりがい」とか「生きがい」とか、そういった要素を多くの人は求めるが、自分の都合がどうであろうと、納得しようがしまいが、それを二の次にしてまでやらなければならないことがある。それが「仕事」であり、ひいては「生きていくこと」なのだ。

人生には「不条理」が満ちている。仕事や人生というものは、たとえそこに意味がないとしても、それを見い出せないとしても、ただひたすら黙々と取り組んでいくものなのだ。「理由?都合?ぶつぶつ言ってないでさっさとやれ」という感じで。

多くの人は、その不条理、「四の五の言わずにさっさとやれ!」という類のものは、ある程度の年齢になれば消滅すると思っている。どんなことにもきちんと理由があって、ちゃんと納得できるもので人生は成り立っているに違いない、と。だが、むしろ現実はその逆だ。不条理、グレー―人生はそういったもので埋め尽くされている。

「口ごたえするな!」「いいからさっさとやりなさい!」今まで親が果たしてくれていた役割をしてくれる人は、年齢を重ねるにつれ、どんどんいなくなっていく。今度は自分自身が親の役を兼ねなくてはならなくなるのだ。「そっとしておいてあげてください」なんて他人の言葉に乗っかっていい気になっていたら、あっという間に人生は終わってしまう。

「それが見つかるまで」「その気になるまで」一緒になって「お告げ」が降りてくるのを待っている親も、ある意味ひきこもりの我が子と変わらない。最近「親の権威が失われた」と言われるのは、多分ここなのだ。「because I said so!」と断固として言い切れる親がいなくなってきたということ。

「あんたのやる気だのやりたいことが見つからないだのこっちには関係ないの!ちゃんと学校まで出してあげたんだから後はあんたの責任!何でもいいからさっさと仕事見つけて働きなさい!今後自分の面倒は自分で見ること!」と毅然として突き放せる親がいないのだ。

「実の家、本当の家」という概念が、諸刃の剣になっているのだ。子供はそれを盾に取って親に依存し、親も渋々ではあるが、立場上それを受け入れるのが役目だという意識を捨てられない。

そして、多分その親達自身も、「四の五の言わずに取り組まなくてはならないことがこの世には存在する」ということを、納得・理解できていないのだ。自分が出来ないことを、子供に自信を持って言えるわけがない。そういった親のスタンス―その自信のなさや躊躇い、消化し切れていない曖昧さと日本特有の「実家」という概念―正しくは意味の履き違えが絡み合って引き起こされたのが、今日の「ひきこもり」「ニート」という現象なのだ。

納得のいかない不条理な世界―子供の頃にうんざりしていた世界は、そのまま続いていく。そして、それが「現実」というものなのだ。それを受け入れられないということは、大人になることを拒否している状態とも言える。

そして、そういった状態に陥る人は、多分身近に毅然として、自分の屁理屈をねじ伏せて現実を突きつけてくれる人、「仕方ないこと」に黙々と取り組む姿を見せてくれるような、それを身を持って体験させてくれる人がいなかったのではないかと。

成人年齢をはるかに過ぎて、自立できる要素がきちんと備わっているにもかかわらず、「やる気がでない」とか「やりたいことが見つからない」と家にこもり、おんぶに抱っこ、衣食住の面倒を全部親に見てもらい、いつまでも「子供」でい続けようとするその状態は、まるで永遠の子供―ピーター・パンそのものだ。そして、我が子に「子供」でいることを許し続け、同時に自分自身も「子供」である親が蔓延するこの日本は、子供しか存在しない国―ネバーランドなのだ。








カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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