FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

コドモの証拠

 2010-12-27
子供は「同じ」が好きだ。「みんな持ってるから買って」「どうしてうちはみんなの家みたいに○○じゃないの?」みんな―多くの人が持っている物を欲しがる。「うちはうち、よそはよそ」その度に親から言われる言葉の意味を理解できない。

先日、繁華街を歩いていて思った。「今の若い子って見分けがつかない」10代や20代の子達―男の子も女の子も、何かにつけて「個性」「自分らしさ」を強調、要求する割には、メイクもファッションも似たり寄ったりのものばかり。カラーリングしている髪の色まで一様に同じなのは「不思議」としか言いようがない。

だが、若い子達の「おんなじ好き」はファッションやメイクだけでない。生き方も、「みんなと同じ」がいいらしい。家族や友達を含めた多くの人がしていること―例えば、結婚とか出産とか、世の中の結構な割合の人達が選択することを、同じように選びたがる。「どうしてそうしたいの?」と聞くと、途端に口ごもる。結局、明確な答えなどないのだ。彼らがそれを望むのは、「みんながしていることだから」なのだ。

「みんながしている=正しい」ではないし、「みんながしている=自分に合っている」ではない。だが、彼らにはそれが理解できない。「同じ」を相手に求め、「同じであること」を自分に課すのは、それを「=共感」と思い込んでいるからだ。

周囲と同じファッションやメイクをして、よく似た生き方をすることで、「自分はひとりではない」「みんなと同じようにしていれば心配ない」「多くの人と同じことをしている自分は幸せなはず」という安心感を得ているのだ。「同じでなければ理解できない」「同じだったら理解してくれるはず」共感と理解を混同している。

共感と理解はまったく違う。むしろ、「違うから」理解できることのほうが多い。意外と「共感している時」というのは、狭い範囲でしかそれを観ていなかったりするものだ。「わかる!わかる!そうだよね!」という共感は、ある意味自分と相手を同一視しているがゆえのものなのだ。「感情移入」であり、「近視眼的な捉え方」と言ってもいい。

だが、そうではない場合、ちょっと上の方から、いわば「俯瞰」して「全体」を捉えている。そうなると、至近距離からでは掴めないものが見えてくる。「真の理解」に至るきっかけは、そういった「俯瞰の位置」に存在している。「全体」を掴むには、それを「理解」するには、あえて「離れてそれを観ること」も必要なのだ。


愛だのソウルメイトだのと騒いでいる人達から一斉に非難されそうだが、誤解を恐れずにあえて断言する。ぶっちゃけ言ってしまえば、人間は、愛や友情がなくても生きていける。得がたい物であるがゆえに、愛や友情は「宝物」と称される。確かに人生をより豊かにしてくれる要素の一つでもある。だが、その反面、たとえそれがないとしても、人は生きていける。あったら素晴らしいが、なくても何とかなる―「宝」とはそういうものだ。

「人はひとりでは生きていけない」と言うが、それが指し示す「範囲」によっては、当てはまらない場合もある。例えば、自分が今食べている野菜は、種を蒔いて育てて収穫してくれた人がいて、それをお店に運んでくれる人がいて―という段階まで含まれるのであれば、確かに「一人で生きている」とは言えない。自分の命や生活が、無数の人達によって支えられているということになるのだから、もっともな話。

だが、そういったことを抜きにした場合、「人はひとりでは生きていけない」というのは、果たして「本当のこと」なのだろうか?「愛こそがすべて」という世界的に浸潤しているその「思想」は、万人に当てはまる「真実」なのだろうか?

年齢的にも社会的にも「中堅」のポジションにいる今、それなりの人生経験を積み、思想や信念を含めた「これが自分だ」という「核」が完成されつつある今思うのだ。「自分自身の価値観」だと信じ込んでいるそれは、自分自身による「完全なオリジナル」ではないのだ。世間や自分以外の人間によってすり込まれたもの、植えつけられたものが大部分。

「友達をたくさん作りなさい」「結婚して家庭を持ってこそ一人前」この国では、物心つくかつかないくらいの頃から、子供に対してそう言い聞かせる。学校や家庭、日常のあらゆる場面で事あるごとに聞かせられるその言葉は、ある種の「洗脳」だ。その結果、「友達がいない自分」や「結婚していない自分」を、「失格者」や「欠陥品」として見なす人が多くなる。それにまつわる悩みを持つ人達の数は少なくない。

「友達がいないとダメ」「結婚にこそ幸せと成長の機会がある」そう断言する人ほど、その根拠を尋ねると、途端に曖昧になる。「友達がいたほうがいいに決まってる」「結婚できるのであれば、しないよりしたほうがいいでしょ」所詮はこんな程度のものなのだ。そして、その根拠さえ定かではない概念に、多くの人が振り回されている。

現在、地球上には66億の人間がいる。それこそ「価値観」なんていうものは、それと同じ数だけ存在する。国や民族性の違いもさることながら、「これこそが幸せなのです」という定義は、個々によってまた異なってくる。「友達がいること」「結婚していること」が、「=幸せ」にならない人も必ず存在するのだ。

例えば、性格的に「誰かと交流を持つこと」「家庭を持つこと」を苦痛に思っている人は、世の中に結構いるものだ。そして、本人もそれを十分認識している。「自分ひとりでいるほうが気が休まる」「ひとりのほうが楽しい」「誰かと一緒にいることで自分のペースを乱されることが嫌」「自分は結婚には向いていない」むしろ、世の中で「いい」とされている概念に自分が当てはまらないことや、多くの人が欲しがるものを欲しない自分、「みんなと違う自分」を冷静に分析している。

だが、そんな自分を認めながらも、「やっぱり友達がいたほうがいいのかもしれない」「結婚したほうがいいのかも」と彼らは迷う。子供の頃から植え付けられてきた「洗脳」が解けていないのだ。それに背こうとする自分に対し、罪悪感や不安が芽生えてくる。「やっぱり自分は間違っているのかもしれない」無理矢理自分を既成の枠にはめようとする。

時々、「結婚するべきかしないべきか」「友達を作るべきか」と言う人達がいる。その言い方でわかるのだ。彼らは、本心ではそれを望んではいない。「結婚したいのに出来ない」「友達がほしいのに出来ない」と言うのならまだわかる。「~すべき」と考える時点で、「そうすることが正しいこと」「しなくてはならないもの」と位置付けられているということなのだ。本来個人の自由意思で決定されることが、いつの間にか「課せられた義務」「従うべき掟」になっている。

「ひとりでいるほうが幸せ」と感じる自分を、彼らは信じ切れない。「世の中の多くの人がやっていることをしない自分」を受け入れることを拒むのは、自分自身に対する不信感のせいなのだ。だから、本心とは裏腹に、「みんなと同じこと」をしようと四苦八苦する。それは、彼らの「恐怖」の表れでもある。「みんなと違う自分」が怖いのだ。

子供の頃に、友達みんなが持っている物を自分だけが持っていないと気づいた時に覚える「疎外感」や「ばつの悪さ」、そういったものを味わうことを恐れている。そして、「持っていない自分」が周りからどう見られるのか―ということも。

「個性」「自分らしさ」そういったものを求める反面、「人と同じ」にこだわるのは、「子供」であることの証拠なのだ。実は子供社会のほうが、「異端」に対する目は厳しい。いじめの原因も、突き詰めればそこなのだ。そして、自分を曲げてでも多数に添おうとするそのやり方は、「子供のやり方」以外の何ものでもない。

「大人」とは、相手の言い分を聞く耳を持ちながらも、自分の意思を明確且つ穏やかに、堂々と主張できる人だと思う。そして、相手と自分の「違い」を尊重することが出来る人。「そっか。でも私にとっての幸せは違うんだよね」と、人と違う選択をする自分に対して覚悟を決めることが出来る人。どんな結果になろうと、自分の下した選択とそれを選んだ自分自身を信じられる人。自分の心の声を聴くこと、それに正直になることが、大人というものだ。

「みんながそう言ってるから」「みんがやってることだから」それだけの理由で、社会が形作った観念に盲目的に付き従い、そこから外れることに恐怖や焦りを感じるのは、「子供」であることの証なのだ。たとえ「同じ」でないとしても、「大人」だったら、お互いの「違い」を尊重し合い、「共感」と「理解」を混同することはないはずなのだ。自分にとっての幸せの形―それを知っている人こそが、本当の意味での「大人」なのかもしれない。





■関連記事

自由と覚悟

幸せへの道

イメージの向こう側

仕掛けられた飢餓感

解けない洗脳

成功への鍵

あれこれ考える前に

曲解された「わがまま」




スポンサーサイト
カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

【重要】自死遺族グリーフケアの会に関するお知らせ

 2010-12-24
2011年1月のグリーフケアの会は、都合によりお休みさせていただきます。

次回開催は2月を予定していますので、その旨ご了承くださいますようお願い申し上げます。

詳細は後日改めてお知らせ致します。


カンテ・イスタ 樫田ミラ








カテゴリ :グリーフケアに関するお知らせ トラックバック(-) コメント(-)

スピリチュアルリスク

 2010-12-22
古今東西問わず、どんな社会にも、精神病とも神経症とも分類出来ないものの、言動や物事の認識の仕方が「正常」から逸脱している状態の一群の人達が存在してきた。歴史的に「性格異常」「異常人格」「変質者」と称されてきた人々だ。

ここ十年ほどの間、徐々に、ほんの僅かずつではあるが、そういった特徴を持つ人達がメディアに取り上げられる機会が増えてきた。日本では長い間その領域がタブー視されてきたこと、極めてデリケートな内容ゆえに「触れるべからず」という暗黙の了解が社会に根付いていたということもあり、多くの誤解や偏見を生む原因ともなっていた。

最近社会問題化している非常識で理不尽な問題行動を取る人達、「モンスター○○」というような人達の出現と増加も、そういった領域に目を向けるきっかけになったのかもしれない。

大抵の人は、自分の感情や衝動を理性で抑えることができる。意思の力で冷静さを取り戻せるものだ。だが、それが出来ず、感情と衝動のまま次々と問題行動を起こす人達が存在する。場合によっては、通り魔や無差別殺人、悪質な嫌がらせ行為や誹謗中傷、DVやストーカー行為に発展したり。そういった問題行動を起こす人、またそんな行動を取る自分自身を思い悩む人を「人格障害(パーソナリティー障害)」と呼ぶ。

不安や怒りへの低い耐性。衝動的な暴言や暴力。自傷行為の繰り返しと自殺の頻繁なほのめかし、または脅し。芝居がかった言動。他人への共感や思いやり、良心の呵責や反省心の欠如。強い劣等感(人によっては誇大な自己像)。人に対する強度の不信感。百対ゼロの被害者意識。理想化とこき下ろし、依存と攻撃等、人に対する感情や行動の不安定さ。慢性の空虚感と抑うつ感。無責任。無計画。生きることへの苦しみ。見捨てられることへの強い恐怖。融通のなさ。計算高さ。粘着気質―彼らに共通する特徴だ。原因の詳細は解明されていないが、遺伝的要因と環境的要因の相互作用で発症すると推定されている。

知能に問題はないので、「ごく一般的な普通の生活」を送っている人が多い。一見「普通の学生」「普通の社会人」だ。特に、女性に多いとされる「境界性人格障害」の場合、一見魅力的で情熱的、一生懸命で熱心な印象を周囲に与えることが多い。そういった意味では、表面上では至って普通の人達なのだ。

だが、次第に、自分自身の安定を得るために、自殺や自傷をほのめかす等周囲を不安にさせて操るような言動が現れてきたり、突然激昂して口汚く相手を罵り始めたり―ということが増えてくる。耳を疑うような発言を平然と口にしたり。その正常から逸脱した言動や認識の仕方が原因で、周囲との絶え間ない摩擦を引き起こすのだ。家族を含め、安定した人間関係を築くことができないので、孤立した状態にある場合がほとんどだ。

気分も浮き沈みが激しく、機嫌よくしていたかと思うと次の瞬間には激怒したり―その変わりように周囲は当然ついていけず、「怖い人」「変わった人」「面倒くさい人」と敬遠するようになる。職場や学校、地域社会でトラブルメーカー扱いされている人も多い。それも孤独を深める原因の一つだ。

私個人の推測だが、古来日本で「狐憑き」と呼ばれていた人達の中には、人格障害だった人が含まれていた割合がかなり高いのではないかと思う。その変貌ぶりは、実際に目にした者にとっては「何かが憑いた」としか思えないほど激しいものだ。その様子は「熱愛」と「激しい憎悪」の両極を行ったりきたりしているような極端なものなので、昔の人が人知を超えた存在の影響を疑っても不思議ではない。

当の本人とその周囲に支障が出ている状態は、言うなれば「病的な状態」なのだ。単なる「性格や性質の問題」で片付けられる領域ではない。心理療法や薬物療法等、医療機関での治療が必要な「疾患」なのだ。実際、人格障害の人は、鬱病、パニック障害、物質依存(アルコール、薬物、セックス等)、統合失調症、注意欠陥障害等、他の精神疾患を併発しているケースが非常に多い。

だが、知能には問題がないことに加え、その他の日常生活に何の支障もないことから、医療機関での診察や治療を受ける機会を持つ人はごく稀だ。万が一そういった機会に恵まれたとしても、人格障害特有の特徴が手伝って、医師やカウンセラーと信頼関係を築けないで終わる場合がほとんどだ。

最初の数回は無難に過ぎたとしても、彼らの態度は突然変化する。過剰とも言える依存期間が過ぎると、今度は相手を口汚く罵り始める等の「攻撃」が始まる。基本「自分の聞きたい言葉を言ってくれる人」しか受け入れない傾向があるので、次々に医師やカウンセラーを渡り歩く「ドクターショッピング」をする人も少なくない。

「解決に導いてくれる医師やカウンセラー」より、「新たに病気を見つけてくれる医師やカウンセラー」を求める人が多いのも特徴だ。症状の一つでもある「常につきまとう強い不安感」に何らかの意味を見出し、それが自分の中に間違いなく存在することを再確認させてくれる人を好むのだ。問題を大きくして、一緒に大騒ぎしてくれるような人を求めると言ってもいい。

だが、そんな医師やカウンセラーを見つけ出すことは困難だ。しかし、彼らはひたすら自分の理想を満たしてくれる相手を求め続ける。医師やカウンセラー巡りが始まるのだ。そして、勝手に期待し、勝手に絶望し―という状態を延々と繰り返す。その結果、治療の必要性がある人の大半が、専門家のサポートを受ける機会を逃すことになる。

治療が困難である最も大きな理由は、本人にその事実と治療の必要性があることを告げると、「私の頭がおかしいって言うんですか!?」と激怒して席を立ってしまうような人が多いということだろうか。なので、そのことを本人はあえて知らせずに治療を開始するケースもある。本人は「普通のカウンセリング」を受けているつもりでも、治療の一環としての精神療法を兼ねているものだったりする。当然本人に自覚はないので、自分が人格障害であることすら知らない人も多いのだ。

だが、一方で本人はそういった不安定な自分自身を思い悩んでもいる。今の自分を何とかしたいと思っているのもまた事実。(だが、それは「=反省」ではない。同じことを何度も繰り返すのはそのせいだ。言うなれば、それが疾患の特徴でもあるのだが)

実は、危険なのはそこなのだ。医療機関の治療から漏れた彼らがどこに向かうか?それは間違いなく、ほぼその行き先は「スピリチュアル」なのだ。関連書籍やサイト、ブログを読み漁ることから始まり、セッションやセミナーを、次々にはしごするようになる。「なぜ自分はこうなったのか?」心身共に不安定になった原因を過去生やカルマ、しいては先祖の行いに見出そうとしたり、そういった世界を慰めや依存の対象としたりする。

スピリチュアル系ブログのコメント欄を見れば、それがよくわかる。治療中であることを告白している人、病気について悩んでいる人、本人に自覚がなくとも明らかにその兆候を示している人がどれだけ多いことか。そして、そういった人達をイージーに受け入れ、自分達の世界に引き込む無責任な人達がどれだけ多いか。

今やカルト化している某スピリチュアルブログのコメント欄では、無責任な教祖と無知な信者がいとも簡単に「診断」を下している。明らかに精神疾患と思われる症状で悩んでいると思われる人の書き込みに対し、「あなたは病気ではないと思います。あなたの過去生でのカルマが原因だと思われます」「○○さん(教祖)のおっしゃるとおりだと思います。私も病気だと思いません」とか。医療関係者からと思われる診察を勧める書き込みをこぞって否定したり。

専門家でも診断を下すまでにある程度の時間をかけ、慎重に吟味することを、たかだか数百文字の書き込みだけで何がわかるというのか。おまけに精神医学の知識どころか、まったくの素人が「病気ではありません」とは。開いた口が塞がらないとはこのことだ。

巷には「通信教育で学ぶスピリチュアル」などという妙なものも存在する。何か問題が起こった場合もそうだが、一体どういうつもりなのかと。主催者のことなどはっきり言ってどうでもいい。自分達の蒔いた種なのだから。だが、もし治療の必要な人がそれを受けた場合、更なる混乱を引き起こすことにもなりかねない。

その症状に「幻聴」「幻覚「妄想」が含まれる疾患、統合失調症等の場合は尚更だ。疾患から来るそれを、霊能力からのものと勘違いする人が少なくないからだ。事実、そういったことは数多く起こっている。霊能力を開発するためのセミナーへの参加等がきっかけで症状が悪化する人も多い。それに伴うトラブルも増えていると聞く。

わずか数回のメールのやり取りの文面だけ、電話等で話しただけで簡単に「問題なし」と判断するその安易さ―それがどんなに危険な要素を孕んでいるか、双方に、特に主催者側に自覚がないことが本当に恐ろしい。実際に会ってみて判明することのほうが多いのだ。通信教育で云々など無責任の極みだ。

そう思うと、「自称霊能力者」の中にどれだけ「本物」が存在するのか怪しいものだ。実際、そういう人達の中に、明らかに「おかしい」人達が含まれている。それが本物であろうとなかろうと、自分自身で「これって気のせいかもしれない」と疑うくらいの人のほうが信用できる。

大体、今の世の中おかし過ぎる。守護霊と会話できる人や会っただけで相手の過去生がわかる人、霊視が出来る人、天使や女神と繋がれる人が星の数ほど存在するなんて、ある意味「異常」だと思うのだ。「霊能力」「霊視」等のキーワードで検索すると、星の数ほどのサイトがヒットする。そして、その人達すべてが「自分は本物」「自分が繋がっている存在は間違いなく本物」と自称している。

その霊視とやらがどれくらいの精度のものかは知らないが、「目に見えない世界」についての「自己申告」ほど怪しげ且つ不確かなものはない。「ちょっと見える」くらいでプロ開業なんて、なんてイージーな世界かと。

医学だけ、スピリチュアルだけ―そのどちらかだけでもだめなのだ。「偏り」がもたらすものは、狭い視野と混乱だけだ。これだけスピリチュアルブームに沸きながら、相変わらず「三位一体の法則」をまったく理解しようとしないこの国の人達は、一体どこに向かうのか?理解の存在しない付け焼刃の知識など、リスク以外の何物でもない。





■関連記事

ファストフード・スピリチュアル

支離滅裂なスピリチュアル

仏を殺せ

トンカチだけの道具箱

間違いだらけのスピリチュアルカウンセリング

本物

身代わり

紙一重






カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

浄化中毒

 2010-12-14
「浄化」「ヒーリング」スピリチュアル業界では、「客寄せ」としてこれらの言葉が使われる。オーラやチャクラ、感情や肉体、過去生や魂、子供時代のトラウマ体験―それらを浄化し癒しましょう、と。「大天使ナントカによる浄化のワーク」とか「満月のパワーを使ったヒーリング」とか、そんな言葉が溢れかえっている。

本人がやりたいと言うのなら構わない。だが、それほどまでに「浄化」や「ヒーリング」は必要なのか?と。猫も杓子も「浄化」「ヒーリング」を謳うが、それを求める本当の理由は何なのか?と。

スピリチュアル業界やそれにはまり込んでいるスピリチュアルおたく達を観ていると、「浄化・ヒーリング=それをなかったことにする方法、チャラにするための手段」として捉えているようにしか思えないのだ。

「汚れがあるなら取っちゃえばいいんです!」と言い切るヒーラーもいる。疑問に思うのはそこなのだ。「何よその『汚れ』って?」と。要するに、「浄化しましょう」「ヒーリングしましょう」と言うのは、「汚れている」という前提での話。「今あなたは汚い状態にあります。だから清潔にしましょうね」ということなのだ。

自分の中に生まれたネガティブな感情や、過去のトラウマ、果てはチャクラやオーラまで、「汚れ=直ちにそれを取り除かねばならない忌むべきもの」と位置付けて、浄化だのヒーリングだのと大騒ぎする必要が本当にあるのか?と。ここ最近の「除菌・抗菌ブーム」と重なるものがある。

生きていれば、日々感情の揺れもあるし、時には思わぬことも起きたりする。それによって落ち込んだり傷つくこともある。だが、そこで生まれたものを、「清めること」を必要とする「汚れ・穢れ」として処理するのは何か違うような気がするのだ。

浄化も癒しも、「今の状態を解消する」ということだ。いわば、「消滅させること」が目的になっている。躍起になってそれを消そうとするのは、ネガティブな感情を「=悪」として位置付けているからだ。怒り、落胆、悲しみ、憎しみ、妬み、嫌悪―そういった感情を持つ人間は「劣っている存在」という偏見があるからだ。

スピリチュアルおたく達を観ていればそれは明らか。多くの場合、彼らのテンションは異常なくらいに高い。それこそ周囲が奇異に感じるくらいに。「覚醒した人間は常にポジティブでハッピーな状態にあるものだ」「覚醒者にネガティブな感情は不要だ」そういった強い思い込みが彼らの中にあるからだ。だから彼らはそれらを排除しようとする。

負の感情を、真っ白なシャツに飛んだ泥跳ねのように厭い、気にする。一点の染みもない状態、清浄な穢れのない状態に強くこだわり、それを求める。だがそれは、「善か悪」「黒か白か」単純な二元論ですべてを捉え、判断する彼らの偏った思考の表れなのだ。同時にそれは、彼らの「幼稚さ」の証明でもある。

洗濯すれば汚れたシャツは綺麗になる。そんなふうに過去の傷や現在のネガティブな感情を浄化し癒せば、すべてが元通りの綺麗で清潔な状態に戻る―それは年端の行かない子供の発想だ。人間の感情を、洗濯物と同等に考えているということだ。

人間というものは、特に感情というものは、そんな単純明快に割り切れるものではない。それを理解していないから、浄化だのヒーリングだのと簡単に謳うのだ。そして、当の本人達は、それを行うことによってすべてが解決したつもりになっている。何とも単純且つおめでたい話ではないか。

浄化やヒーリングを何回行おうと、「その感情がどこから来たものなのか」という原因を理解しなければ何も変わらない。一時的な方法で負の感情を消し去ったとしても、いずれまたそれは意識の表面に浮かんでくる。原因への理解―それこそが本当に必要なものなのだ。

それと向き合うことをせず、簡単に浄化やヒーリングに走るのは、ただの一時逃れ、「逃避」でしかない。浄化ジプシー、ヒーリングジプシーが後を絶たないのはそのせいだ。何も解決していないから、同じことを延々と繰り返すのだ。

どんな人間にも、光と闇の部分が存在する。光だけでも、闇だけでも、それはある種「異常」なのだ。両方あってこそ人間であり、またそれこそが人間であることの証でもある。光だけで自分を満たすことは、もはや神や仏の領域なのだ。

光にこだわる人ほど、無意識では自分の中に存在する闇の深さを感じている。浄化やヒーリングは、彼らにとっての「精神安定剤」なのだ。それをすることによって、自分の中に存在する闇やそれに対する不安や恐れを押さえ込むことができるのだ。自分の「清潔さ」を確認できる機会でもある。

過去の傷もネガティブな感情も、見方を変えれば「経験」になる。実際、それを足がかりにして大きく成長する人もいる。傷自体は消えなくても、少しでもそこから学ぶことがあれば、それは「単なる傷」で終わることはない。決して無駄にはならないのだ。「汚れること」は、悪でも恐怖でもない。

人間が持つ力を侮ってはいけない。多少の汚れや染みなど、人間はものともしない。重油で汚染された海が、いつの間にか元の状態に戻るように、人間には自身を回復させる力、「自浄能力」が備わっている。誰かや何かに浄化してもらったり、癒してもらったりする必要はないのだ。自分の外側に依存の対象を見出すのは、自分自身を信じていない証拠でもある。

ネガティブな感情を持つことは悪ではない。しいて言えば、そういった感情を持つことを悪と考え、浄化だのヒーリングだの、躍起になってそれを消そうとすることこそが問題なのだ。

何かある度に、条件反射のようにそれを求めるのは、慢性の中毒症状そのものだ。やがては自分自身の「免疫力」、魂の強さが失われていくことに繋がっていく。「無菌状態」は、必ずしも「良いこと」ばかりとは限らない。

【追記】「あなたは浄化が必要だと思うの」と人に言う割に、自分が同じことを言われると不機嫌になる人がいるが、それってどーよ?と。まったくおかしな人がいるものだ。

少し前に何かの記事で読んだが、最近の子供、特に幼児の免疫力が、20年前に比べてかなり低下しているらしい。これも最近の過剰な「除菌・抗菌ブーム」の副産物かと。

聞くところによると、現在ほとんどの産婦人科では、出産に際し、赤ちゃんのために空気清浄機と加湿器を用意するよう指導しているらしい。加湿器はわかるが、空気清浄機がマストアイテムに含まれるとは・・・。生き物としての耐性はどうなっていくんだろう?と思う今日この頃。


■関連記事

水槽の中のピラニア

ジキルとハイド

ループ

あの手この手のスピリチュアル

「違う波動」を引き寄せる時

オーラにこだわる人々

トンカチだけの道具箱

ファストフード・スピリチュアル

「ヒーラー」じゃなくて「セラピスト」です!

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。
カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

無意識の本音

 2010-12-05
心理学者であると同時に医師でもあったミルトン・エリクソンは、「20世紀最高のヒプノセラピスト」と言われている。ある日、彼のもとに、周期性疲労症候群に悩む女性が訪ねてきた。彼女は病気でほとんど働くことが出来ない状態にあった。その症状を改善したいために、ヒプノセラピーの施術を依頼してきたのだ。

施術前に行った問診で、いろいろなことが判ってきた。その女性の家族は、働くこともままならない彼女のことを非常に気にかけていた。病気になって以来、生活の面倒はすべて家族が見てくれていた。ある意味、彼女は病気になったことで「快適な生活」を手に入れた。働かなくとも家族が手厚く面倒を見てくれる。何の心配もない。彼女の無意識には、いつしかこんな気持ちが生まれた。「このまま病気でいよう。病気のままでいたほうが楽だ」

問診を終えるとエリクソンは言った。「今日のところはお引き取りください。本当に自分を変えたいと思うまで、ここには戻ってこないように」その女性には、病気を治そうとする気がまったくなかった。エリクソンはそれを見抜いたのだ。その後、その女性がエリクソンを訪れることは二度となかった。


「辛い」「苦しい」自分が置かれている状況について、いくら本人がそう強く訴えたとしても、そこに何らかの「メリット」が存在する場合、人は絶対にそれを手放そうとはしない。本人にとって、本当にそれが辛く苦しいものであるなら、本気でそこから抜け出す気があるなら、とっくにそうしているはずなのだ。

その人が抱える「事情」を考慮したとしても、結果は同じ。あえて断言するが、その状況に本人がい続けるのは、結局「その気がない」ということなのだ。エリクソンを訪れたこの女性のような人は、セラピストやカウンセラーをしている人間にとっては「お馴染み」のタイプ。決してめずらしくはない。

「今の自分を変えたいんです!このままじゃ嫌なんです!」涙ながらにそう言ったとしても、その言葉が「真実」とは限らない。その人が本気でそれを言っているかどうか―その人の様子を観ていれば、それは徐々に明らかになってくる。


心と体と魂は三位一体だ。その三つの要素が揃って初めて「その人」になる。それらすべてが「調和」しているかどうか―それがその人の「本心」を読み解く鍵なのだ。「口ばっかり」という言葉があるが、まさにそれ。口ではあれこれ言うものの、まったく行動が伴わない。「本気でない人」は、その状態にある。心と体と魂の状態がバラバラなのだ。

例えば、カウンセリング中、その人の悩みに対して新しい別の観点や方法を提示したとする。「こう捉えてみてはどうですか?」「こういう考えもできますよ」「その部分をこんなふうに変えてみては?」だが、その人達は決まってこう言うのだ。「でも・・・」「だけど・・・」「そうは言っても・・・」

「でも」と「しかし」しか言わない人を、私達の世界では「でもしか人間」と呼ぶ。彼らはそれに終始する。こちらが何を言っても、「でも・・・」「だけど・・・」を繰り返す。必ず提案を否定するのだ。そして、「それをできない理由」を挙げ始める。

奇妙なことに、「言い訳」を並べ立てている彼らは、一様に、ある種「得意げ且つ満足気な表情」なのだ。中にはどう見ても「嬉々として」いるようにしか見えない人もいる。「こうこうこうだから無理だと思います」「でもそれをしたら多分こうなると思うんです」言葉と表情にギャップがあるのだ。まったくマッチしてない。

反対に、こちらが新しい観点や方法を提示している時、「それを試したら上手くいきそうな方法」「今よりもっと楽になれそうな考え方」が出てきた時、彼らは不服そうな顔になる。すねているというか、落胆しているというか―それらが入り混じった表情になるのだ。

要するに、彼らは本気ではないのだ。言葉ではあれこれ言うものの、今の自分や自分の状況をまったく変える気がないということ。その状況を真剣に何とかしようと思っているなら、そんな表情にはならない。辛く苦しい状況から解放される望みが出てきたのだから、むしろ逆の表情になるのが自然なのだ。

「本気の人」は、言葉と表情のバランスが自然だ。「すべて」が調和している。そこが「そうではない人」との大きな違いなのだ。「なるほどー。そういう考え方もあるんですね」「そうか・・・そこを変えてみればいいんですね」その時の表情に思わず見とれることがある。新しい視点や方法に気づいた瞬間、まるで明かりが灯ったように顔が輝くのだ。「人間」に魅せられる瞬間でもある。

その人が「本気でそう思っているかどうか」ということは、表情や身振り手振り、声のトーン―その人の「体」を観ていればわかる。言葉ではいくらでも嘘をつける。だが、体は正直だ。無意識がそのまま現れる。意識が及ばないその部分に、その人の「本音」が出るのだ。

「本気でない人」は、自分の弁護をしている最中―言い訳をしている時は、明らかに表情が生き生きとしてきて、身振り手振りも大きくなる。話し方もなめらかで饒舌になり、声のトーンが上がる。「上手くいきそうになる時」に見せる不服そうな表情は、「同意」「共感」が得られないことに対する不満と、「解決方法」を手に入れることによって「今まで慣れ親しんだ状況」を覆されそうになることへの不安と恐れの表れなのだ。そして、それこそが彼らの無意識からの声、「本音」なのだ。

極端な言い方をすれば、その人が話している内容はさほど重要ではない。それよりも、その人がそれについてどんな表情で、どう話しているか―そこに大きなヒントが隠されている。心理学の世界にはこんな言葉がある。「問題を解決するための材料は、すべてクライアントが持っている」実際、彼ら自身がまさに「身を以って」その答え―彼らの「本心」を教えてくれているのだ。


アメリカで開催された某潜在意識開発セミナーに関する興味深い事例がある。そのセミナーは、脳の学習効率をアップさせることを目的としていた。参加者達は開発された手法を使い、「通常では不可能なこと」「非常に困難なこと」をやすやすとこなしていた。今までまったく習った経験のない外国語の単語を一時間で百個近く記憶する等、自分の中に存在する新しい能力や可能性に触れたことを、多くの人が驚嘆し、喜んだ。

だが、一部の参加者は違った反応を見せた。「今までの自分には不可能だったこと」が成功しそうになると怒り出したり、「自分がそれをできること」に対して傷ついたりショックを受けたりする人が出てきたのだ。そのセミナーに「自ら希望して参加した」にもかかわらず、だ。

この人達も、エリクソンを訪れたあの女性も、「変わりたい」と言いつつ、いざ解決方法が出てくると不満そうな表情でそれを否定し始める人達も、結局は同じなのだ。「本気でそれを望んではいない」ということ。

そして、そこには間違いなくその人にとっての「メリット」存在しているはずなのだ。「変化」がもたらすものよりも、「現状」がもたらしているもののほうが、明らかに価値があるということ。「今のままでいたほうが得」だから、現状を維持し、変化を拒否する。

「ネガティブな要素で自分を成り立たせている人」は特にそうだ。いくら本人が否定しても、それがその人の大部分を占めていたり、「原動力」になっている場合は尚更だ。ましてやそれが「=自分自身」になっているとしたら、自分の存在意義にも関わってくる。もしそれが消えてしまったら、自分も消えることになるのだから。

例えば、周囲からの同情を求める人は、「同情される自分」を変えようとは思わない。「同情」という他人からの関心を自分に集めておくために、「かわいそうな自分」「けな気な自分」でい続けることが必要なのだ。だからその状況が覆されそうになると、途端に抵抗を始める。今の状況が変わってしまったら、誰も同情してくれなくなるからだ。

周囲への怒りや恨みで自分を奮い立たせて生きてきた人もそう。もしそれらを手放してしまったら「今までの自分」「今までの自分の人生」「今後生きていくためのエネルギー」が失われることになる。

それがどんなものであれ、長年慣れ親しんだ状況の変化は、不安と混乱をもたらす。それが自分自身のアイデンティティーや存在意義に結びついている場合は尚更だ。その変化が自分にどれだけ良いものをもたらすか理屈で理解していても、無意識の中に存在する本音はそれを拒絶する。だが、その拒絶は、自分にとってのメリットを十分知り尽くした上でのものなのだ。

結局、「変わらない自分」を作り出しているのは、他ならぬ自分自身だということだ。変化への拒絶は、実は自分の信念やアイデンティティー、メリットを否定されることに対する「抵抗」なのだ。




【追記】セラピーやカウンセリング、セミナーや占い―こういったものをはしごする人というのは、結局この手のタイプかと。自分の気に入る答えが返ってくる相手に出会うまで、その「行脚」は続くのだ。そして、最終的にすべてを「自分以外のもの」のせいにする。

馬を水辺に連れて行っても、馬がその水を飲むかどうかは馬次第。自分で水を飲むことを拒否しておきながら、自分に落ち度はないと言い張るなんて、まったくお気楽且つ傍迷惑な話なのだ。





■関連記事

あわいのゆらぎ

不幸願望

自分LOVEの裏返し

根性なしの屁理屈

イメージの向こう側

青い鳥症候群

口弁慶





カテゴリ :ヒプノセラピー・潜在意識の話 トラックバック(-) コメント(-)

身代わり

 2010-12-02
カウンセリングを複数回重ね、その内容が深まっていくと、クライアント(相談者)がセラピストに対して強い感情を抱くことがある。それが尊敬・信頼・好感等肯定的な感情である場合を「陽性転移(陽性感情)」、嫌悪・憎悪・軽蔑・不信等、否定的な感情の場合を「陰性転移(陰性感情)」と言う。

「転移」は、人間関係構築の際のプロセスに必ず含まれる要素だ。ごく軽いレベルのものはどんな人にも見られる。それはあくまでも「正常」な範囲。だが、それが「過度」になると、陽性の場合は一方的な恋愛感情や友情に発展したり、それに伴うストーカー行為等が発生することもある。陰性の場合は、態度の豹変や誹謗中傷等の嫌がらせ行為にエスカレートしたり。

ある程度時間をおいて、「時間差」でそれが起きることもある。特に陰性転移の場合、終始和やかな雰囲気でカウンセリングが進み、機嫌良く帰っていったクライアントが、数ヶ月後に「捨てアド」を利用しての匿名で、性別を偽り、本人以外の第三者を装い、罵詈雑言に満ちた中傷メールを送ってくることもある。

だが、そこに書かれている内容は、書いた本人にそのまま該当することだったりする。昔誰かに言われて傷ついた言葉をそのままセラピストに対して用いたり、実際は自分自身が取っている言動をセラピストがしたことになっていたり。

簡単に言えば、陰性転移とは、今の今まで「あなたのことが大好きです!」と言っていた人が、突然「おまえみたいな最低な人間は大嫌いだ!」と言い出すようなものだ。「スイッチが入った」「地雷を踏んだ」という感じで、それは突然起こる。

言うなれば、カウンセリングを通じて、自分の内面とじっくり向き合ったことによってもたらされた「副作用」のようなもの。今まで封印してきたものを解き放ったショック、あらためて過去の傷に触れて感じた痛み、未だそれに囚われている自分を認識すること―そういったものが感情の混乱を引き起こすのだ。

疾患の治療を目的とする病院等のケースは除き、サロンにもよるが、うちの場合、そこまでの強い転移を起こす人はごくわずか。特に陰性のものに関しては、300人中1人いるかいないか―という程度。今までに3人くらいだ。そのうちの2人は予約を断ったことに対する腹いせで、実際に会ったことはない。

陰性陽性に関わらず、強度の転移を起こす人には「特徴」がある。家族や友人を含む人間関係が非常に希薄、もしくは皆無。過去に激しいいじめや虐待を経験している―という人がほとんど。過去の人間関係に強いトラウマを持っている人も多い。

そういったことも関係してか、彼らは相手を「敵か味方か」「好きか嫌いか」という二元論で区別する。他者との適切な距離が取れない人も少なくない。過度に依存的になるか、過度に攻撃的になるか―極端になるのはそのためだ。

「心の内を率直に打ち明けられる人」「どんな自分も受け止めてくれる人」が周囲にほとんどいないので、すべての感情を自分の中だけで処理するしかない。澱のように溜まっていくそれは、どんどん大きくなっていく。その分、吐き出す時の「反動」は大きい。それが転移の「強さ」に反映される。転移が起こる背景には、こういったクライアント側の事情が深く関係しているのだ。

いくら本人が「違う」と言い張ったとしても、「転移」に伴うその感情は、セラピストに対して向けられたものではない。言うなればフェイク、「偽物」なのだ。実は、それは「クライアント自身が、過去に家族や友人等特定の人達―主に両親に向けていた感情」なのである。

自分を認めてくれなかった両親、子供の頃に自分をいじめたクラスメート、自分を無能呼ばわりした元上司―クライアントの意識下には、その人達に対する感情が、未解決・未消化の状態で存在し続けている。本来その人達に向けるべき感情の矛先を、彼らはセラピストに向けている。いわば、セラピストは「身代わり」なのだ。その人達に代わって、クライアントの感情を受け止めている状態にあるということ。

「転移」が起こっている時、クライアントは、セラピストに「特定の人達」の姿を重ねている。その人達とセラピストを混同・錯覚している―と言ってもいい。そして、クライアントは自分の中に湧き上がってくるその感情が、すべてセラピストに起因していると思っている。

だが、その原因は、あくまでも「彼ら自身」なのだ。彼らの意識下に存在し続ける「特定の人達に対してかつて抱いていた感情」が、それを引き起こしているのだ。カウンセリングやセラピストは、「きっかけ」に過ぎない。

大抵の場合、クライアント本人にその自覚はない。わざと認めていないのか、まったくその存在を知らないのか、それともただ忘れているだけなのか―多分、そのどれもが「本当」なのだと思う。

しかし、どんな形であれ、そういった感情の存在を本人が自覚していないのであれば、目の前にいる人間がその感情を引き起こしている原因だと思い込むのも当然のことなのだ。今ここには自分とセラピストしか存在しない。自分がこんな状態になった原因はこの人にあるに違いない―クライアントはそう思い込む。


人間という生き物だけが持つ特徴、人間だけがする行為に、「正当化する」「つじつまを合わせようとする」というものがある。高度な思考能力を持っていなければ不可能な行為。人間が、「ホモ・サピエンス=賢い人」と呼ばれる所以でもある。

「転移」を起こした人間は、無意識でその一連の作業―「正当化」と「つじつま合わせ」を行っている。言うなれば、「その場しのぎのもっともらしい理由をでっち上げる」のだ。

例えば、和やかな雰囲気でカウンセリングが行われている最中、何の脈絡もなく、突然ネガティブな感情が浮かんできたとする。自分にも理解できないものだ。「なんだこの気持ち?」混乱が始まる。その原因を必死で探るのだが、自分が何に反応したのか一向にわからない。

そうなった場合、人はどうするか?正体不明のそのネガティブな感情に、何らかの「理由付け」をしようとする。「いかにもそれらしい理由」を無理矢理見つけ出そうとするのだ。「そうだ。今自分がムカムカしているのは、さっきこの人が馬鹿にしたような目で自分を見ていたからだ」という感じで。そんな事実は一切ないにもかかわらず。事実の歪曲、妄想とも言える記憶の改ざんが起こる。「被害者意識」の強い人は、特にその傾向が強い。

それを目の前にいる人―セラピストのせいすることで、そういった自分の感情の動きを「正当なもの」「つじつまの合ったもの」に仕立て上げる。そうすれば自分自身も納得するし、ちゃんと説明がつくというものだ。言うなれば、それは彼らにとって「バランス」を保つための方法でもあるのだ。人間は、それをするために、「事実」さえ歪める。それだけ「理由」というものにこだわる生き物とも言える。


そんな古い感情―主に両親に対して抱いていたそれが、未だに自分の中に残っていることなど、今尚自分に強い影響を及ぼし続けていることなど、多くの人は考えもしない。強く否定する人、それをかすかに感じつつも頑なに認めようとしない人もいる。

だが、両親との関係の中で生まれたものは、想像以上に強く大きな影響を後々にまで残すものなのだ。親子関係は、「人生で最初に築く人間関係」だ。その中で、人は他者との関わり方を学んでいく。良くも悪くも、その関係性、その中で培われた思考パターンや感情、価値観といったものが、その後のすべての人間関係の「基礎」「基準」「見本」となる。

つまり、人生で出会う人すべてに、両親を投影するのだ。無意識に、両親の「要素」を他人の中に見つけ出そうとする。「両親」というフィルターを通してすべての人を見るようなものだ。常にその面影を追っているようなもの―と言い換えてもいいかもしれない。

例えば、過干渉の母親の下で育ち、それを疎んじていた人は、自分を束縛する人に癇癪を起こす。その人の中に、「かつて自分を束縛した母」を見ているのだ。父親の厳格さを嫌っていた人は、教師や上司の厳しい態度に過剰に反発する。彼らに「嫌いだった厳格な父」を重ねているからだ。

夫の態度に腹を立てているつもりが、実はその怒りはかつて父親が取った態度に対して向けられていたものだったり。癇癪を起こした原因の妻の言葉が、子供の頃にうんざりするほど聞かされた母親の口癖と同じだったり。同僚の表情に嫌悪を感じたのは、昔自分をいじめたクラスメートのそれとよく似ていたせいだったり―その先には、必ず「かつて自分に強い感情を抱かせた誰か」が存在している。それが「転移」の真相なのだ。

どんな人にも「転移」は起こる。むしろ、その影響を受けていない人間関係など皆無に等しい。そういった意味では、今現在自分の周りにいる人達は、どんな形であれ、すべて誰かの「身代わり」なのかもしれない。





■関連記事

元を辿れば

ショックの真相

ペルソナ






カテゴリ :ヒプノセラピー・潜在意識の話 トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。