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両極の一致

 2010-11-27
適職・天職の見つけ方や見極め方、またその定義に対する人々の関心は、年々高くなってきている。ここ数年の不安定な社会状況、不景気故の経費削減で残業が減る等、「自分自身について考える時間」が多くなった人が増えたことも、その一因かもしれない。

「どうしたら適職や天職が見つかるのか?」カウンセリング中、そういった質問をしてくる人も少なくない。やはり多くの人、とりわけ日本人は、「仕事=自分自身、自分の価値」という意識が高いので、それにこだわる人が多いのも頷けるような気がする。「どう生きたいのか?」ということより、「自分のやっていること」で生き方を決めようとする人が多いこの国ならではの特徴だと思う。

「天職や適職に就けば、好きなことややりたいこと、得意なことだけをやっていられる」「天職や適職=好きなことや得意なことを仕事にすること」「適職に就けば毎日が楽しいはず」「天職に出会えば本当の人生が始まる」そう思っている人は多い。

どういうわけか、世間一般での「適職」「天職」に関するイメージは、すべてがポジティブだ。「好き」「得意」「楽しい」「やりがい」「喜び」「充実」そういった肯定的な明るい要素で構成されているもの、その感覚や状態が生涯ずっと続くもの―と思われている。

だが、本当にそうだろうか?例えば、「嫌い」「苦手」「忍耐」「選択の余地なく」そういった「ネガティブな要素」からは、何も生まれることはないのだろうか?それが「適職」や「天職」、もしくは最終的に自分の生きがいや喜び、充実感に繋がる可能性はゼロだと言い切れるだろうか?


先日、作家の森 絵都氏が新聞のコラムにこんなことを書いておられた。「私は勉強も出来なかったし、運動も苦手だった。書くことしか出来なかったので、家族の反対を押し切って作家になった」

「名人」と呼ばれ、その道70年という80代半ばの某伝統工芸の職人さんも、職人になるきっかけについてこうおっしゃっていた。「きっかけも何も。この仕事以外なかったからね。家が貧しくて選り好みする余裕なんてなかったから。とりあえずすぐにお金が稼げる仕事ってだけで選んだんだよ」

何年か前に友人から聞いた話だが、世界遺産でもある奈良県の春日大社の宮司さんが、こんな言葉を本に書いていらっしゃったとか。「昔は人前で話すことと字を書くことが苦手だった。でも今自分はそれをしている。不思議なものです」


英語に、「Extrems meet」という言葉がある。「両極端は一致する」という意味。日本語に当てはめるなら、さしづめ「長所は短所、短所は長所」というところ。

物事というのは表裏一体だ。実は「表」も「裏」もなく、ただ一つのものがそこにあるだけ―ということ。「表」「裏」と呼び分けるのは、単にそれぞれ違う角度、違う観点から見た場合の状態を言っているに過ぎない。

例えば、「真面目」を別の角度から見れば、「融通が利かない」になる。「慎重」は「臆病」に、「八方美人」は「誰にでも愛想良く応対できる人」になる。結局、それをどう捉えるか―という違いだけなのだ。

多くの人は、「好きなこと」「やりたいこと」「得意なこと」から天職や適職を探し出そうとする。それが出来る人はいい。だが、意外とその反対のこと、「苦手だと思っていること」「取り柄と言えばこれしかないこと」の中にも、思いがけない「何か」が隠れている場合もある。

人間というものは、「思い込み」に左右される生き物だ。自分が「苦手」「嫌い」「向かない」と思っているものは、「単に自分で勝手にそうだと思い込んでいるもの」で、実は「そうではなかった」という場合も多々ある。「苦手」「嫌い」そう思っているものは、先入観や感情が先に立つあまり、実はよく知らなかったり、よく観ていなかったりする。ただの「食わず嫌い」という可能性もあるのだ。

そこに目を向けてみるのもいいんじゃない?と。宝が眠っているかもしれない山に足を踏み入れようともせず、横目で見てただ通り過ぎるだけなんてもったいない話ではないか。それを確認してみるのも悪くない。たとえそれがネガティブなものであったとしても、「選択肢」としての幅は広がるのだから。

長所も短所も、幸運も不運も、成功も失敗も、言うなれば、すべて一方の面から見た場合のこと。見方次第では、それがもう一方に転ぶ可能性は必ず存在する。それをどう捉えるのか、どう逆転していくのか―それはすべて自分次第なのだ。それを適職にするのも、天職にするのも自分自身にかかっているということだ。

「自分の適性に合った」「天から命ぜられた」そういった形容詞は、結局自己満足の域でのこと。「魂が喜ぶ仕事が天職」というのなら、自分で自分の魂を喜ばせたらいい。「適職は自分の適性に合った仕事」と言うなら、取り組むうちにそれを身に着けていけばいい。最初から「この仕事に就けば魂が喜ぶ」「これがあなたの適職です」という仕事は存在しない。すべては後付けだ。

選んだ仕事を適職にするのも、天職にするのも、そこにどう繋げていくかは、結局は自分なのだ。どんな仕事を選ぼうと、大した違いはない。すべての仕事にその可能性があるということなのだから。

極と極が出会う時、プラスとマイナスが引き合う時、そこに生じる力は、思いもかけないくらい強いものなのかもしれない。そして、覚悟と信念が、その力をより強力なものにするための鍵となるのだ。





【追記】先日、歌手の宇多田ひかるさんが休業宣言の際に言っていたことが印象深かった。「得意なことばかりやっていると馬鹿になりそうな気がする」好きで得意な歌を歌ったり、作ったりしてれば、周囲がちやほやしてくれる。でも、それでいいのか?と疑問に思ったと。

「40代、50代になっても、マネジャーがいなくては何も出来ないような人間にはなりたくない。ボランティア等いろいろなことに関わって、もっと人間力を高めたい」というのが休業の理由だが、「好きなことを仕事にしましょう」と盛んに謳うその辺のスピリチュアルや自己啓発より、よっぽど共感できる。多分、彼女は「表裏一体」の仕組みを理解しているのだと思う。彼女を参考にして、違う視点から物事を見直してみるのもいいかもしれない。




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錬金術師の条件

 2010-11-24
スピリチュアル系ブログを観ていると、「ネタが切れ」を起こしていることが即座に分かる時がある。わかりやすい「特徴」があるのだ。これを言い出したら、間違いなくネタに困っていると思ってもいい。

それは、「今まで封印してきたことを公開したいと思います」「あえて書かなかったことを書いていこうと思います」という発言。この期に及んでなぜその封印を解くのか、秘密を公開しようと思ったのかという理由をもっともらしく述べてはいるが、要は「ネタがなくなってきたんでしょ?」と。

その台詞が出てくる少し前から「兆候」はある。以前の文章の焼き直しが増えたり、「それくらいのことは興味のない人でも知ってるじゃん」というような新鮮さに欠ける内容だったり。「煮詰まってるなー」という印象が強くなった直後くらいに「封印をナンタラ~」と言い出すので、「やっぱりね」と。

世間一般の傾向を観ていると、ブログの「平均寿命」は約3年だと思う。大体それを目途に、閉鎖されたり、更新が止まったままになっていたり。一番の理由は、やはり「ネタ切れ」かと。彼らのブログの大半も、開設から大体平均して3年は経っている。更新回数もまめな人が多い。そりゃあネタも尽きてくるわな、と。

だが、コメント欄に何十人もの「信者」や「ファン」の美辞麗句がちりばめられた応援メッセージが寄せられたりするようなブログならそうはいかない。仕事絡みのものなら尚更だ。結局継続することが前提となる。「信者」を惹きつけておくために、絶えず新しい話題を発信し続けなければ―そんな強迫観念じみた焦りを感じながら続けている人が多い。

だが、結局その背景にあるのは、「飽きられる」「忘れられる」ことに対する恐れや不安なのだ。自分の「限界」、足元を見られることも我慢ならない。もともと自己愛が強い人が多いので、どんな形であれ、プライドを傷つけられることを嫌う。自分のメンツや世間体といったものを保ったまま、今のイメージを崩さずにやり過ごせる方法が、「封印の解禁」「秘密の公開」なのだ。

少なくとも、それでしばらくは時間が稼げるし、人の目や関心も集めることができる。信者は今まで以上に興味を持つかもしれない。まさに一石二鳥なのだ。


大抵のそれは、奇異を衒った内容だ。自分の神秘体験とか、「高次の存在」から告げられた地球が誕生した頃の様子や数百年先の未来等、どういうわけか、決まって「証明のしようがないこと」なのだ。その真偽も定かではないことに限られている。もしくは、スピ業界での「定説」に多少の脚色を加えたものとか。

まさに、「なんとでも言えるじゃん」という内容。「言ったもん勝ち」のレベル。正直「なーんだ。結局客寄せかよ」と。「封印解禁!」「情報開示!」言葉はご大層だが、所詮そんな程度のもの。苦し紛れのネタ作りというか、「場もたせ」というか。結局そのスピ系ブロガーの「裏事情」が見えてしまう。必要以上の「多弁」は、得てして逆効果になるものだ。


「錬金術師は、人々から離れて、孤独のうちに生活すべきである。彼は寡黙で、慎重であらねばならない」13世紀のドイツのキリスト教神学者で、錬金術の実践・検証者であるアルベルトゥス・マグヌスは言っている。

錬金術とは、一般の物質、「非金属物質」を、金や銀等の「完全な物質」に変化、精練したり、不老不死の万能薬を製出する技術。古代エジプトで起こり、アラビアを経てヨーロッパに伝わったもの。

同時に、「完全な存在」である神に近い「完全な霊魂」を備えた人間を作り出すという目的もあった。ヨーロッパ史などで、「魔術」と関連して語られることが多いのはそのためだ。そして、それに携わる者が、「錬金術師」と呼ばれた。

スピリチュアル業界では、そのことに重ね合わせ、自分自身を「錬金術師」と称するプロも多いが、「現代の錬金術師」のなんと饒舌なことか。封印や秘密をいとも簡単に明かすとは、錬金術師の本来の「あるべき姿」からはだいぶかけ離れているようだ。

寡黙で慎重―求められる資質の欠片もない。神秘体験をこれみよがしに語ったり、関心を集めるために「とんでも話」を吹聴する。饒舌で軽率―実情はむしろ正反対。常に「同志」と群れることを求め、馴れ合う姿は、「孤独のうちに生きる」などという覚悟からは程遠いものだ。言うことがいちいち薄っぺらいのも頷けるわけだ。

堕落し、腐敗しきった現代の錬金術師達は、マグヌスの言葉を一体どう受け止めるのか?と。どの面下げて「錬金術師」を名乗るのだろうか。

自分のプライドやメンツを守るため。他人の関心を引くため。選民意識を満足させるため―結局「我欲」のためなのだ。その姿は愚かであさましい。自分自身を、自分の魂を、金や銀に精錬出来ない人間が、他人のそれを「完全な霊魂」にすることなど出来るわけがないのだ。

少なくとも、「スピリチュアルおたく」に毛が生えた程度の、饒舌且つ軽率、選民思想に凝り固まった「自称 現代の錬金術師」の中に「本物」は存在しない。純金や純銀を装った、表面に鍍金を施しただけの石ころ、「偽物」に過ぎないのだ。





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ご託並べ

 2010-11-20
【御託(ごたく)】(御託宣の略)くどくどと言うこと。また、傲慢な言い分。「―を並べる:勝手な言い分をくどくどと言い立てる」

【御託宣】託宣の尊敬語。くどくどと言うこと。もったいぶって言うこと。ごたく。
(広辞苑より)



どこぞの国のアホ丸出しの法務大臣曰く、「法相はいいですねー。2つ(の言葉を)覚えていればいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』これはいい文句ですよー。これを使う。これがいいんです。わからなかったらこれを言う。これで大分切り抜けて参りましたけど(後省略)」

政界だけに拘らず、どこの業界にも、「これさえ言っておけば間違いない」という定番の台詞が存在する。それが使われる時の相場は大体決まっている。いい加減にその場を誤魔化したい時や収めたい時、相手と自分の「差」「違い」を見せつけたい時だ。

スピリチュアル業界においては、その傾向がそのまま当てはまる。それを生業としている業界人や、セミナーやセッション巡りに忙しいスピリチュアルおたく達がそれを吐く時は、大抵が「自分を格上に見せたい時」だ。

神や仏の言葉かと思うくらい高尚な言葉のオンパレード。本人達がしたり顔で語るほど、胡散臭さが強くなる。その饒舌さや壮麗さが、逆に不信感を呼び起こすのだ。「あなた本当に理解してます?」と。

彼らが最もこだわっているのは、「権威」だ。「一目置かれるような存在になりたい」「その道のエキスパートとして認められたい」憧れと渇望と―。「名誉」「権威」に対する彼らの執着は、並々ならぬものがある。そして、その執着こそが、彼らの「俗人根性」の表れなのだ。

だが、実体に反して本人達の自意識は高い。何を根拠にしているのか知らないが、「選ばれし者」という自負がある。そして、「選ばれし者」である自分と「そうでない者」との違いを見せつけるために、あれこれもっともらしいことを口にする。しかし、その大半は「受け売り」だ。セミナーや本で身に着けた知識、傾倒している「教祖様」の言葉をそのまま繰り返しているだけ―という浅薄なもの。

嘘も百回言えば真実になるという。それはそのまま彼らに当てはまる。教祖やセミナーで得た言葉を100回繰り返しているうちに芽生えた幻想を振りかざして騒いでいるだけかと。そこに本人達の真の理解はない。言動を観ていればそれは明らか。思考と行動の矛盾と偏りばかりが目に付く。


仕事柄、大抵のスピリチュアルや自己啓発関係の書籍には目を通している。スピリチュアルや自己啓発の妙な理論に振り回された挙げ句、余計に混乱した人がカウンセリングを受けに来ることがあるためだ。

特に「信者」が多いE原氏の本は、ほぼすべて読んでいる。そのせいで、「E原教信者」のブログやサイトはすぐに見分けがつく。名前や出典を明記していなくても、「これはあの本に書いてあったことだな」と。まあその数たるやかなりのものだ。猫も杓子も・・・という感じで、E原氏の言葉を天からの啓示の如く取り上げている。

中には、まるで自分がE原氏そのものであるかのような錯覚に陥っている人もいる。彼の言葉をそのまま繰り返すだけ。言うなれば「教科書丸写し状態」で、「その人自身の言葉」がどこにもない。あったとしても、幼稚だったり焦点がずれていたり。結局彼ら自身の思想は無いに等しいものなのだ。他人のそれを寄せ集め、貼り付けただけのパッチワークであり、コピーなのだ。

まあ百歩譲って、それはE原氏と彼らの思想がたまたま合致した結果だとしても、そこに行き着くまでのプロセスを、「どうしてそういう結論になったのか」ということを、彼らが自分自身の言葉で説明できなければ、やはりそれは単なる受け売りであり、ご託でしかないのだ。

彼らの場合、教祖の言葉を100回繰り返しているうちに、まるでそれが自分自身の中から出てきた言葉のように思い込んでしまったわけだ。いわば完全な自己暗示。「洗脳」と言い換えてもいい。洗脳に思考は要らない。それを無条件に信じ、ひたすら繰り返す―必要なのはそれだけだ。まるで彼らの様子そのもの。


「天職とは魂が喜ぶ仕事」「適職とは、人に喜んでもらえたり、人の役に立てて、それで生計を立てていける仕事」という有名なE原氏のこの言葉、E原教信者には定番の「教え」だ。そこまで熱心でなくても、例の有名オーラ番組の影響で、この言葉を就職活動の際の「基準」にしている人がかなりいる。

だが、言わせてもらえば、私にとってそれは、単なる「もったいつけ」にしか思えない。信者の方達には申し訳ないが、この一連の発言、完全な「後付けのこじつけ」かと。

中には、「どうしてもこの会社で働きたい!」「この職業に就きたい!」と強い意志で臨んだ人や、「これこそが自分の天職だ!」「この仕事、本当に自分に向いてるなー」と実感している人もいるかもしれない。だが、そういう人はほんの一握りだと思う。

「たまたま内定をもらったから」「ここしか受からなかったから」「とりあえず安定してるし、知名度も高いから」「コネがあったから」「かっこいいと思ったから」「興味があったから」「特に理由はないけど、ただなんとなく・・・」大抵はそんなところではないだろうか。当のE原氏だって、昔はそういう時もあったんじゃないの?と。

人は「無意味」を嫌う。すべてのことに意味や理由を求めるのはそのせいだ。「適職」「天職」などという言葉は、無意味に耐えられない人間が、後付けで無理矢理捻り出した概念でしかない。

「適性」という言葉も同様。やたらとその部分にこだわる人もいるが、適性なんてものは、その職業に要求される業務内容を一定レベルでこなす能力があるかどうか、その大体の目安を測るための物差しでしかない。

それを「=生まれつき備わったもの」と思い込んでいる人が多いが、環境の影響や取り組んでいるうちに徐々に現れてきたり等、どちらかというと「後天的な要素」が占める割合が大きいのだ。「やってみなけりゃわからない」という領域のもの。

基本私は、ちょっとでもそれに興味や「やりたい」と思う気持ちを持ったのなら、それをやり遂げる最低限の能力は備わっている―と考えているので(ただし『本人の勘違い』が多いスピ業界は除く)、天職だの適職だのと気にしたことはない。

「やりたい」「やれるかな」という段階をすっ飛ばして、いきなり「やろう」「やるぞ」と決めてしまうタイプなので、今まで「自分がやろうと思った仕事」「やると決めた仕事」に就いてきた。「やりたい」「やろう」という意思や気持ち、なんでそれだけじゃダメなの?と。「魂が喜ぶ仕事がナントカ」「適職とは人様の役に立ててカントカ」と、いちいち定義付ける意味がわからない。

第一、スピリチュアル界の「法則」とやらでは、常に「すべてのことには意味がある」と言っているではないか。それなら「適職」とか「天職」とか、そんな括りは必要ないんじゃないの?と。その法則に基づくなら、「すべての仕事が適職であり、天職なのです」となるはずだと思うけど。

私に言わせれば、「四の五の言わずにやってみればいいじゃん」なのだ。自分でそれを断たない限り、可能性は常に無限なのだから。他人の考え出した理屈で人生を生きようとなんかせず、もっと自分の感情や本能に素直になればいいではないか。

わずか3歳ですべての楽器を弾きこなし、作曲をしたモーツァルト級の「天才」を除いては、どれが天職でどれが適職か、自分の適性は何なのか等、最初から見極められる人はいない。天才と自分を同列に考えるな、と。「凡人」に与えられたプロセス、「凡人」故に試行錯誤できる時間や機会を、どうしてフルに利用しようとしないのか?と。

「適職・天職を探せブーム」は、ゆとり教育を受けてきた「マニュアル世代」が社会に出てくる年齢になった時期とリンクしている。楽に、早く、リスク少なく―。「失敗を恐れる世代」「失敗に慣れていない世代」「失敗=敗北・負け犬と考える世代」が抱く、「マニュアルの通用しない世界に対する不安や恐れ」を利用して作り出されたものだ。

「面接の○人」とかいうマニュアル本がこの世代に受けたのは、その点を確実に突いたから。マーケティングの完全勝利。いわば、商売の「カモ」にされたわけだ。

「順調に物事が進むのが当たり前」と思い込んでいる幸せな人達が、後々に考えに考え、練りに練られた「天職とはぁ~適職とはぁ~」という、「いかにもそれっぽい」言葉に惑わされる。

教祖様の有難いお言葉は、信者集めのための「キャッチコピー」程度に思っていたほうがいい。自分を飾り立てるための、自分の中身を隠すための「手段」としてそれを乱用して悦に入っている信者の姿は、先のアホ大臣そのものだ。「これさえ言っていれば間違いないんですよ。楽なもんですな。はっはっはっ」結局「腹の底」にあるものは同じかと。


見ず知らずの他人によって作られた思想や価値観に、無理矢理自分を当てはめる必要などない。そして、それに丸ごと自分を委ねること自体、「確かなもの」を自分の外に求め、「与えてもらうこと」だけを望んでいるさもしさの表れなのだ。

上辺だけの「かっこ良さ」にこだわっていると、本当に大切なものを見逃すことになる。自分自身の思考や感情にに素直になればいいだけだ。「ご託なんてくそ食らえ!」なのだ。




【追記】勘違いや思い込みから霊的な世界に「プロデビュー」してしまう人などは、特に「天職」「適職」「適性」という言葉に振り回されている感がある。それも「もっともらしく聞える動機付け」が必要なせいかと。まあ「自己演出」上、ドラマティックな要素が必要なのだと思うが、いかにして自分がこの「天職」「適職」に巡り会ったか、いかに自分にその「適性」があるか―ということを必死にアピっている様子は「なんだかなー」という感じ。

ブログを読んでいても、心身の状態含め、アンバランスさが目立つ人がとにかく多い。思考も偏っているし。そういう人に「天職」だの「適職」だのと言われてもねぇ・・・。説得力がない。むしろ傍から観ている限り、不安定で危なっかしくて、とても「適性」があるとは思えないんですけど。まあ本人がそう思い込んでいるし、あくまでも「個人の自由」なんで。ただ、「淘汰」が存在する世界なので、その仕事がその人にとってどういうものだったのか―やがてそれが明白になる時が来るかと思います。



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紙一重

 2010-11-15
愛だの光だの覚醒だの、高尚な言葉を並べ立ててはいるが、所詮スピリチュアル業界も「ビジネス」だ。売り上げアップのために、手を変え品を変え、次々に「新製品」を投入してくる。

ここ最近巷に出回ってきているのが、「契約の解除」とかいうもの。それを目的としたナントカヒーリングやナンチャラエネルギー伝授を謳ったセッションが増え始めている。

「不必要な契約から魂を解放しましょう!」というセールストークでセッションの売り込みに必死なスピリチュアル業界の方達によれば、輪廻転生を繰り返す過程で、「人間以外の特定の存在」と契約を取り交わすということがあるらしい。

その「契約内容」は人によって様々で、例えば、「私は人を信じません」「愛されることを拒否します」という類のもの。それが今生での自分の幸せや成長を妨げていたり、苦しみや悩みの原因になっている―と。その契約を解除することによって「本来の自分」を取り戻し、不要な信念や価値観を手放すことができるとか。

なんというか、宗教とかスピリチュアル絡みに多いナントカ商法みたいだなー、と。「200年前の先祖が犯した罪が災いとなってあなた達家族に降りかかっている。でも、この霊的パワーが込められた壺を買えばナントカカントカ~」という類のやつ。

まあ言ってみれば、「200年前の先祖が犯した罪」が「過去生で人間以外の特定の存在と交わした契約」に、「霊的パワーが込められた壺」が「過去生で交わした契約を解除するためのヒーリングセッション」に変わっただけなのだ。

「先祖の因縁を断ち切るためのン百万円の壺」は警戒するのに、「過去生で特定の存在と交わした契約を解除するためのセッション」とかいうものに対しては、あっさりノーガードになる人達が不思議で仕方ない。大体、その「人間以外の特定の存在」って何者よ?どうして契約したってわかるわけ?非常に胡散臭い。

真偽も定かではないセールストークを真に受けて、ホイホイこの手のセッションを受けに行くのは、救われるために壺を買ってしまう人と何ら変わりはないのだ。大体、「この壺を買えば霊障がなくなる」とか「このセッションを受ければ魂が解放される」とか、「これをするだけで即すべて解決!」なんてうまい話があるわけがない。

霊的真理がどーとか、魂の成長がどーとか、あれこれ高尚なことを言っているとしても、それが「ビジネス」である以上、利益を上げなければならない。そのためには戦略を練るし、あの手この手で「商品」を仕掛けてくる。みすみす「カモ」になってどうするの?と。相手からしてみたら「上得意様」、「毎度あり~♪」というところだ。


スピリチュアルにどっぷりはまる人というのは、常に「魔法」を期待している。「このセッションを受ければ何かが変わるかも。新しい自分に生まれ変われるかも」彼らが期待を向けるのは、いつも「自分の外」なのだ。

スピリチュアル業界は、そういった「消費者心理」「消費者ニーズ」を確実に捉えている。最近のセッション内容の傾向を観ていてもそれは明らか。「早く、楽に」がポイントになっているものが多い。ヒーリングとかエネルギー伝授とか、その間特に何もせず、ただ「受け身」でいればいいだけ―というものが増えてきている。

需要を素早く察知するそのマーケティング能力・・・と言うよりは、その「嗅覚」の鋭さには感心する。まあ、いろいろな意味で「単純」且つ「怠慢」な人が増えたせいなのかもしれないけど。

「見えない領域」であることをいいことに、「特定の存在との契約解除」などという真偽不明、証明困難なことを謳って不安を煽り、セッションに誘導する―スピリチュアル業界の仕掛けた流行に飛びつくのはいいけれど、その前に、一番得をするのは誰なのか?ということを考えてみるといいかもね。ビジネスである以上、利益を上げてなんぼの世界なんで。

不安、恐れ、混乱、否定、不信―人間の中に存在するネガティブな要素を利用して、スピリチュアル業界は成り立っている。過度の幻想や期待は禁物なのだ。




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12月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2010-11-10
2010年12月 自死遺族グリーフケアの会開催日時のお知らせです。

■日時 : 2010年 12月5日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 12月1日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。




*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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残像

 2010-11-05
作家の筒井康隆氏の小説に、少しずつ言葉が消滅していく世界を描いたものがある。その言葉が使用不能になると、それが表していた概念も一緒に消える―という話。

まず、「あ」という言葉がなくなる。それと同時に、「あなた」「愛」「赤ちゃん」「雨」といった「あ」で始まるすべての言葉が、世界から消えるのだ。その言葉の概念―意味や特徴も同時に消える。

つまり、「あなたというもの」「愛というもの」「赤ちゃんというもの」が存在しなくなるのだ。そして「い」が、「う」が、「え」が―といった具合に、世界からどんどん言葉が失われていく。

「あ」という言葉が消えた後、以後話の中には「あ」で始まる言葉は一切出てこない。消えた言葉はすべて「無」になる。「存在しない言葉」を使うことは不可能だ。そして最後、世界には「ん」という言葉だけが残されるのだ。

20年位前の作品だが、出版当初は「実験小説」として大きな話題になった。主人公の作家が、使用可能な言葉のみで自分の日常風景を綴っていくという過程もそうだが、「言葉が命」の小説において、その「肝」を極限まで削っていくというドMな発想は面白かった。

本当に「言葉」というものは必要なのか?「言葉」がなければ人間は自分自身を含めた「すべて」を語ることはできないのか?という疑問に対する「検証」であり、「限られた言葉」で人間はどれだけ語ることができるのか?どう語るのか?ということへの「挑戦」なのだ。

この「言葉狩り」、スピ系ブログに適用してみると面白いかと。セミナーや関連本で身に着けた付け焼刃の知識を、もっともらしい言葉を使って繰り返しているだけ―という彼らの文章で、ぜひ試してもらいたい。

愛、光、覚醒、波動、波長、魂、オーラ、ソウルメイト、大天使、守護天使、守護霊、女神、アセンデッドマスター、ハイヤーセルフ、癒し、浄化、気づき、学び、使命、豊かさ、高次元、瞑想、ヒーラー、スピリチュアル、サポート、宇宙、真理、リーディング、チャネリング、アチューンメント、チャクラ、アセンション、カルマ、トラウマ、ライトワーカー、メッセージ、エネルギー、シフト、メンター、手放す、必然、シンクロニシティー、パワースポット、パワーストーン、クリスタル―。

スピ系ブログは、一面こんな言葉で埋め尽くされている。どれを読んでも似たり寄ったり。同じ人間が書いているのかと思うくらい。彼らはそれを「真理にたどり着いた証拠だ」と言い張るが、単に「洗脳」されているだけかと。「真理」は多数決や信者の数で決まるものではない。

愛とか光とか覚醒とか、飽きもせずに繰り返すこれらの言葉を一切使わずに、彼らが言うところの「スピリチュアリズム」や「霊的真理」について語っていただきたい、と。それが出来ないと言うのなら、それは「真理」などではない。「真理」だと思い込んでいる「妄想」だ。

「決まり文句」を抜き去った後、そこに残るのは一体何だろうか?もしかしたらそれは、残像すらない一面の「闇」かもしれない。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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仕掛けられた飢餓感

 2010-11-02
「適職」だの「天職」だの、「どうしたら『好きなこと』を仕事にできるか?」と悩む人が多い日本は、つくづく恵まれた国だと思う。適性や本人の希望以前に、「人種」や「出自・階級」で就ける職業が限定されたり、「出来ないこと」「許されないこと」が厳密に定められている国と比べ、なんて自由なんだろう、と。

だが、その「恵まれた国」に住む人達は、自分達の「幸運」にまったく気づいていない。適職や天職について思いを巡らせたり、悩むことができる自由があるということは、実はものすごいことなのだ。他の国では瞠目に値することだったりする。

だが、彼らはそれに気づくどころか、最近流行の妙なスピリチュアルや自己啓発の影響で、自分の中の「満たされていない部分」を重箱の隅をほじくるようにして見つけ出しては、それをしつこく嘆く始末。人間の欲というものは、本当に際限がない。

「魂が喜ぶことをしないとあなたのハートが閉じてしまう」「わくわくする仕事をしないと魂が死んでしまう」スピリチュアルを飯の種にしている「業界人」が、あの手この手の営業トークを駆使して取るに足らないようなことを「大問題」に仕立て上げて大騒ぎする。その最たるものが、「適職がどーたら」「天職がなんたら」ということなのだ。

どんな人でも、多かれ少なかれ、仕事に対して何かしらの悩みや不安、迷いを抱えている。言ってみれば、万人共通の、一番分かりやすい部分を突かれたということだ。「正解」がない領域ということも、ある意味都合がいい。何とでも言えるのだから。

特に一般企業でサラリーマンやOLをしている人などは、この手の「客寄せ」の言葉に簡単に引っかかる。何年も同じ職場で、毎日同じメンバーと顔を合わせ、同じことを繰り返す変わり映えのしない毎日。当然飽きも出てくるし、「部品の一部」に過ぎない自分やその仕事に対し、疑問や無力感も湧いてくる。

「やる気」「情熱」が失われ、ただ機械的にルーティンワークを黙々とこなす。「わくわく感」「喜び」がない仕事をしている自分。「こんな状態がこの先もずっと続くのか?」虚しさが襲ってくる。そんなところに、例の「啓示」が降ってくる。そして彼らはハッとするのだ。「そうか!自分がこんな状態なのは適職に就いていないからだ!この仕事が天職じゃないからだ!」と。


例えば、「あなたは見かけより繊細な人ですね。今、人間関係で気になることがありますね?」と占い師が言えば、大半の人から「はい、そのとおりです」という答えが返ってくる。

面白いもので、自分のことを鈍感と思っている人はほとんどいない。世の中には、「繊細な人間」を自称する人のほうが圧倒的に多いのだ。人間関係に対しての悩みがゼロという人はごくわずか。大抵の人は、家族や夫婦、友達、同僚や上司、ご近所等大なり小なり問題を抱えているものだ。「そういえば・・・」と反応する人が多いのは当たり前のこと。「本音」を出すことに恐怖を感じたり、和を乱すことを嫌う人の多い日本では、かなりの数の人が同様の反応を示すかと。

こういった、誰にでも当てはまりそうなごく一般的且つ曖昧な内容を、自分だけに該当する正確なものだと捉えてしまう現象を、心理学では「バーナム効果」と言う。血液占い等は、その典型的な例。先の「適職」や「天職」という言葉に過剰に反応する人達も、これに当てはまる。

「適職に就けない自分」「天職に出会えない自分」「仕事にやりがいや生きがいを感じられない自分」と悩んだり落ち込んだり焦っている人というのは、はっきり言えば、スピ・自己啓発業界の人間の営業トークにまんまと引っかかった―ということなのだ。

実際、「適職云々」「天職云々」と悩んでいる人は、大半が「スピおた」「自己啓発おた」だ。E原さんの言葉を鵜呑みにして、「魂が喜ぶ仕事」を探すにはどうしたらいいか―と真剣に悩んでいる人も多い。だが、それは彼らの作戦、いわば心理現象を利用した「罠」に見事にハマった結果なのだ。

言ってみれば、彼らにとってそれは「ビジネス」。あれこれ勿体をつけてハードルを高くしたほうが、有り難味が増すというもの。「高いハードルを越えた」というプライドもくすぐられ、達成感や充実感も味わえる。「お客」に簡単に「天職」や「適職」を見つけられては、それこそ商売上がったり―なのだ。

「適職に就いたら毎日が楽しいに違いない」「天職が見つかったら自分らしく生きられる人生が始まるに違いない」それを模索する人の多くはそう思っている。断言するが、それはただの「妄想」だ。「勝手な期待」と「思い込み」と言ってもいい。

「この仕事は私にとって天職だと思うの!」「自分には適性があるんです!」鼻息荒く「天職・適職を見つけた!」と勢い込んでいた人達が、1年もしない内に辞めている―なんていうのはよくある話。スピリチュアルや自己啓発の世界には、そんな人が腐るほどいる。

「やってみたけどなんか違った」彼らの多くがする「言い訳」だ。実際のところは、「何も変わらなかった。がっかりした」ということかと。天職や適職に就けば得られると思っていた喜びや満足感、達成感―そういったものが、自分の予想や期待をはるかに下回っていた、ということなのだ。

天職だろうが適職だろうが、「好きなこと」だろうが、長く毎日続けていれば、「飽き」は必ず出てくる。それはどんな仕事に就こうと付いて回るものだ。

天職や適職に対して妙な幻想を抱いている人達は、そういった要素は一切存在しないと思い込んでいる。それを手に入れれば、ハッピーでわくわくした状態が永遠に続くものと信じているのだ。毎日楽しく仕事ができるに違いない、と。だが、シビアな現実に向かい合って、彼らは初めて気づくのだ。「前と同じじゃないか。何も変わらないじゃないか」

そして、こう思うのだ。「天職だと思ったけど、わくわくしないからこの仕事じゃないんだ」「大して楽しくもないから適職じゃないのかも」そうしてまた、彼らの「天職・適職を探す旅」は延々と続いていくのだ。


誤解を恐れずに言うが、「適職や天職などというものは存在しない」と思ったほうがいい。「適性」だの「魂が喜ぶ仕事」だの、そういった要素に執着しているうちは、どんな仕事に就こうが、遅かれ早かれ失望を味わうことになる。「適性」や「やりがい」、そんなものは大して重要ではないのだ。

大事なのは「継続していく力」。飽きがこようが、やる気が落ちようが、その度に自分を奮い立たせて取り組んでいこうとする気力と覚悟だ。点と点を繋げていこうとする努力。やがてそれが1本の線になると信じる心。「プロ意識」と言い換えてもいい。そうやって取り組んでいった仕事が、最終的に「天職」「適職」となる。天職だの適職だの、そんな区別や呼称はあくまでも「結果論」に過ぎないのだ。


「選択の余地」「選択の自由」が十分過ぎるほど与えられているこの国に生きていても、彼らは常に飢えている。「適職に就けない」「天職が見つからない」「好きなことを仕事に出来ない」と。そして、その飢えが満たされることは多分この先もないのだ。彼らが自分達の「幻想」に気づかない限りは。




【追記】「よし、やってやるぞ!」という気概や覚悟、信念を持っている人は、どんな仕事に就こうが成功する。いくら適性があって高い能力を持っていようと、本人にその気がなければ「宝の持ち腐れ」なので。

何でもホイホイ鵜呑みにして、それこそ「飯の種」「いい鴨」にされないよう気をつけることだ。相手は「商売」なので、あの手この手で「商品」を売りつけてくる。心理作戦に簡単に引っかかるのは、「危機管理意識」が低いせい。「ちょっと考えればわかることを考えようともしない怠慢な人」が増えているということだ。

「脳内一面お花畑状態」の人がどんどん増えつつある日本って、つくづく平和で恵まれた国だ。適職とか天職云々で悩めるということは、最低限のラインは保証されているという証拠。つまり、「余裕がある」ということなのだ。なかなか就職口が見つからなかったり、仕事を失ったり―そういった人達に比べたら、十分恵まれていると思いますけどね。

適職や天職を必死になって追い求める本音って、結局「今の仕事に飽きた」というだけの話なんじゃないですか?観ていると、そんな人がほとんどのような気がしますけど。




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