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根付かない理由

 2010-10-21
先日、ホームレス自立支援等いくつかのボランティア活動に従事している方と、プライベートでお会いする機会があった。私自身、自分の体験がきっかけで、現在自死遺族のメンタルサポートをボランティアで行っているのだが、こういった活動をしていると、分野は違えど自然と「横の繋がり」というものが出来てくる。その方とも、そういうご縁で知り合った。

その最中、「なぜ日本にはボランティア(活動・参加)が根付かないのか?」という話題になった。その方がおっしゃっていたのだが、長く続ける人は少ない、と。「疲れた」と言って去っていく人が多いらしい。「私のような者には敷居が高くて・・・」と関心を持ちつつも参加を躊躇う人がかなりいるとか。

あれこれ話しているうちに、それは「ボランティア」というものに対する「誤解」が起因しているのではないか―という結論にたどり着いた。

実際にボランティア活動に関わってみると分かることなのだが、多くの人が「誤解」をしている。「ボランティア=崇高で強い使命感と共にそれを行っている人」という印象を持っている人が圧倒的に多いのだ。中にはそういった志を持った人もいるかもしれない。だが、私自身に関しては、「ただ『やろう』と思ったことをやっているだけ」に過ぎない。

私にとってそれは、「21年前の恩返し」なのだ。「崇高」とか「使命感」とか言われると、非常に居心地が悪い。単に自身の体験から得たことや、現在の仕事のスキルを通じて「今自分ができること」「やろうと思ったこと」をしているだけの私には、「違和感」があるのだ。この先もずっと続けていくかもしれないし、数ヵ月後にはやめているかもしれない。今後のことはわからないが、わずかであっても「自分の時間」を同じ体験をした人達に提供するのもいいかもしれない―そう思っただけなのだ。

身近な人が自死するという状況を経験する人は、まだ世の中にそれほど多くない。タブー視されている領域のものであるがゆえ、遺族等関係者達は多くを語らない。そのため、世の中にはそれにまつわる誤解や偏見が蔓延している。特に、その後遺族が経験する感情の揺れや心身に及ぼす影響等に関しては、ほとんど情報がない状態だ。自死遺族達は、いわば手探りで暗闇を歩いている状態なのだ。だったら、それを「先に経験した者」として、今その状態に置かれている人達に対して、何かやれることがあるのではないかと思ったのだ。

国や地方自治体に文句を言うだけで何もせず、誰かがアクションを起こすのをやきもきしながら待っているより、さっさと自分で何かを始めたほうがいい―そう思っただけだ。気負いや使命感などは一切ない。逆に、そういったものが必要不可欠の要素として求められるなら、多分私はやろうとさえ思わなかったはずだ。というより、ボランティアというものに、そんな「大義名分」が必要なのか?と。自分の行動にいちいち意味付けをしたり、もっともらしい根拠を見つけようとしたり、そんなの必要ないじゃん、と。それをやりたかったら、やろうと思ったら、さっさと取り掛かればいいのだ。ボランティアとは、本来そういうものなのだから。

だが、世間の大半の人が「ボランティア」というものに対して抱く考えとは、どうも大きくかけ離れているようなのだ。期待や要求、使命感―本来不要なものであるその要素を求められることが、多くの人をボランティアから遠ざけている元凶だと思うのだ。「出発点」から既に間違っているような気がしてならない。


20代の頃、日本語教師として在住していたアメリカは、ボランティア活動が盛んな国だった。もともとキリスト教圏の国なので、「奉仕」の精神は日常に根付いている。アメリカに旅行したり在住した経験のある人ならわかると思うが、公共のあらゆる場所で「ボランティア」と書かれた腕章やバッジを着けた人々を見かけることが出来る。

例えば、空港では荷物の受け取り場所や搭乗口の位置を教えてくれたり、美術館や博物館では展示物の説明や案内をしてくれたり―こちらがちょっと困った様子をしていると、「May I help you?(お手伝いしましょうか?)」とすぐに声を掛けてきてくれる。施設の「関係者」というわけではなく、その大半が「一般市民」だ。

言うなれば、その土地に住んでいる「普通のおじさんやおばさん」「普通のおにいさんやおねえさん」が、自分の時間を割いて社会奉仕活動をしているのだ。そして、それは決して一部の人達に限って―ではない。


当時勤務していた小学校で、校内にいつも父兄の姿が目立つことをずっと不思議に思っていた。「参観日でもないのに何だろう?」と。ある時、同僚の先生に理由を聞いて謎が解けた。その父兄達は、「スクールボランティア」として学校に詰めていたのだ。

家事や仕事の合間に、自分の子供が通う学校で、「ちょっとしたこと」をお手伝いするのだ。テスト用紙を印刷したり、先生達に郵便や印刷物を配ったり、子供達が授業中に描いた絵を壁に貼ったり、課外授業に引率者として付き添ったり―時間帯やその長さ、曜日等はすべて父兄次第。出勤前の30分をそれに当てる人もいるし、家事の合間にやって来る人もいる。

生徒のお父さんがコピー機の前に立って算数のテストの問題用紙を印刷していたり、お母さんが教室の隣の準備室で、図工の授業で使う予定の画用紙を数えていたりする。そういった光景は日常茶飯事なのだ。参加の強制といったものはなく、一切の選択が本人達に任されている。参加しなくてもべつに文句は言われない。父兄達は、自分達の「空き時間」を、「あくまでも自主的に」提供している。

日本の学校では、参観日や面談、学校行事以外の時に、校内で父兄の姿を見ることはまずない。保護者会の役員選出も嫌々渋々といった感じで、学校と父兄の関わりが消極的だ。その一方、アメリカでは父兄が「自分の空き時間」を学校に気軽に提供することが日常になっている。驚くと同時に「このスタイルはいいな」と。

何よりも、気負わずに、ごく自然にそれを行っている人達の姿が印象的だった。「生活の一部」といった感じで、ボランティアというものが、個人それぞれの中にしっかり「根付いている」のがよくわかる。

街や学校等、地域に対して自分の時間や能力を、それを必要とする誰かや何かに自主的に、気軽に提供する―「ボランティア」の定義とは、本来こういったものなのだ。非常にシンプルで、決してガチガチに構えてするものではない。

それが日本では、何か「大袈裟なもの」として捉えられている。「滅私奉公」というか、国家や社会のために自己を犠牲にしてまで他人に尽くす。献身的に行われなければならないもの―そんな感じの、ある種の「重たさ」を感じさせるものとしての印象が浸透していることが、足を踏み入れるのを躊躇わせるのだ。

そういった「自発的に行われるサポート」に対する「受け手の意識」も大きく関係している。もともと「ボランティアをする人は奇特な人」という強い思い込みがあるせいか、妙な誤解が生じるのだ。「本人が好きでやっているのだから」と、そこにつけ込むというか、過剰な依存をする人が出てくる。

最初は遠慮がちでも、時間が経ってその状況に慣れるにつれ、「してもらって当然」「なんでダメなの?だってやりたくてやってるんでしょ?」という意識が芽生えてくるようなのだ。常識の範疇を超えた「要求」をしてくるようになる。「無料」ということで気が緩むのか、「利用しなくちゃ損」とばかり、その度合いがどんどんエスカレートしてくるのだ。

「おまえらは金儲け目当てなんだろ!?医は仁術じゃないのか!」などと医療現場で理不尽な要求や言いがかりをつけるモンスターペイシェントと重なる部分がある。「サービス=無条件に仕えること」を強要してくるようになるのだ。

早朝深夜こちらの都合を問わず電話をしてきたり、メールやFAXを送ってきたり、金品の無心をしたり。「1年365日24時間この人のために待機していなければならないのか?」と思うくらいに、ボランティアを「こき使う」人もいる。頻繁に起こることではないが、実際にある話だ。

「困っている自分」を盾に、いわゆる「仁」の部分、思いやりや慈しみといったものを、「相手が行うべき当然の義務」として押付けてくる。ボランティアをする人間を、「四六時中何をおいても自分の希望を聞き入れるべき存在」と思い込んでいるのだ。「自分は許されて当然」という意識がどこかにあるのかもしれない。「人としての良心」が大きく関わってくる領域であることが、どちらにとっても「諸刃の剣」になる。

そういった「勘違い」、「ボランティアとは自分を犠牲にしてまで行うべきこと」という思い込みが社会、「提供する側」と「受ける側」双方に根強く存在するうちは、この国には習慣や精神としてのそれは育たないかもしれない。

少なくともそれは、「強制労働」や「義務」ではなく、それをする人の自由意志に基づいて行われるものなのだ。そして、そこには思いやりや慈しみといった「仁」の一方的な要求や、「~しなければならない」「~すべき」といった「犠牲」や「義務」など存在すべきではないのだ。


【追記】「医は仁術:医術は単に病気で苦しむ人を治すのみでなく、相手に人徳を施す術でもあるということ。『仁術』は、深い思いやりを以って、人に恵みをかける行為・方法の意。(広辞苑より)」という言葉を持ち出して、病院や医療従事者に理不尽な要求をする輩が最近増えているようだが、この言葉が出来た当時の時代背景をよく考えてみなさいよ、と。

江戸時代とか、昔は医者にかかることが出来たのは裕福な人々等、一部の人だけだった。それこそ治療費や薬代が払えずに何の手立てもなく亡くなる人達のほうが圧倒的に多かったような時代だ。そういった人達に「お金はいいから」「払えるようになったら持ってきてください」と無償で治療を行ったり、薬を与えた医者がいるような時代に出来た言葉なわけで。

健康保険制度も確立されて、病院側と患者側、双方に「医療=サービス業」という認識が出来つつある今、そこに「仁術」まで持ち出すのはちょっとおかしくないですか?と。ちょっと図々しいという感がある。

確かに現場の医師や看護師の方達の思いやりや優しさがあったら嬉しいが、それはあくまでも「おまけ」のようなものだ。当然の義務のように要求するのは筋違いかと。

観ていると、伝家の宝刀のようにその言葉を振り回す人というのは、大抵は「自分は患者だぞ!金払ってる側だぞ!」というタイプだ。その人達が満足するサービスは、正直「限界」がない。相手が自分の都合や要求をすべて受け入れてくれて、自分が望んだように振舞ってくれて―と相手を「奴隷」か何かのように思っている人が多い。あんた何様だよ?と。

「仁」には、基本、それを行う側にも受け取る側にも「礼」が必要とされる。それが今では・・・。「わきまえる」「慎み」「礼節」といったものを忘れた人間が増えた社会がどうなるか―という例だ。日本に古来から根付いていたものがどんどん失われていく今日この頃。本当にこの国は大丈夫ですかね??


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【重要】自死遺族グリーフケアの会に関するお知らせ

 2010-10-19
自死遺族グリーフケアの会は、奇数月:個人対象、偶数月:グループ対象に開催して参りましたが、2010年12月より、通年を通し、すべて「個人対象」とさせていただきます。

それに伴い、「留意事項」「参加条件」等は下記の通りになります。過去に参加された方、現在参加を考えていらっしゃる方は、再度ご確認くださるようお願い致します。



*以下詳細です。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 :当ブログ内のカテゴリー「自死遺族としての声」の全記事必読、当方のスタンスを十分理解した上でお申し込みください。年齢・性別・宗教等は問いません。

故人の死が原因で心身の調子を崩され、現在 精神科・心療内科に通院中の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得た上でお申し込みください。また、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。

入院治療中の方は、症状の改善を最優先していただきたいと思っています。退院後の参加をご再考いただけましたら幸いです。


■参加費用 : 無料(ボランティアとして行っていますので、参加費等一切いただきません)


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 :毎月第1日曜日 午後1時~4時(変更の際はその都度ブログ上でお知らせします)


■定員人数 : 1名(先着順)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「年齢」「連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(例:いつどこで、どんな状況で等)」を必ず記入してください。

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の会に回っていただくことになりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、主催者でもあり、自身も自死遺族である精神療法(ヒプノセラピー)セラピスト 樫田ミラと参加者が1対1で話し合うスタイルを採っています。今のご自身の思い等、何でもお話ください。同じ遺族の立場から、アドバイスを差し上げることもできると思います。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。 その旨が発覚した場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【お願い】以下は、カテゴリー「自死遺族としての声」内にある全記事です。「参加条件」の一つでもありますので、すべてに目を通し、当方のスタンスを十分理解した上でのお申し込みをお願い致します。


自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと






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不勉強の害(1)

 2010-10-14
「スピリチュアリズム」という、実はキリスト教が名前を変えただけの「新興宗教」にどっぷりはまっているスピリチュアルおたく曰く、「魂が高い波動を持つようになると、他人を批判したり裁いたりしなくなる」スピ系ブログでは「定番」の台詞と言ってもいい。中には、そのことを万人が認める唯一無二の、不変の「真理」と言い切る人もいる。

暗に、「他人をあれこれ批判したりする人は魂のレベルが低いのです」と言っているわけだ。それじゃあ、スピおたの中に「ファン」が多い、ダライ・ラマはどうなんですか?と。「最高の覚醒者」と呼ばれるチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は、チベット問題や今回ノーベル賞を受賞した劉 暁波氏に対する処遇を含め、折に触れて中国政府を「批判」してますけど?

「中国の振る舞いは子供のよう」「違う意見を持つ人を逮捕するという中国の日常は、真の超大国が備えるべき道徳的権威の欠落」「中国政府は個人が政府と異なる意見を持つことを認めないが、中国の人々を救う唯一の方法は、透明性のある開かれた社会を作ることだ。中国は変わらなければならない」「審判のすべてに政治的動機がある」

彼らの「定義」に基づけば、こういった一連の「批判」を述べるダライ・ラマの魂の波動は低い―ということになる。「ダライ・ラマと一般の個人を一緒にするな!」という「逃げ」は無しだ。「観音菩薩の化身」とされる身分でも、パスポートも持っているし、食事もする。「人間」としてカウントさせていただくのが「筋」かと。

ダライ・ラマ級の「大物」が絡んでくると、途端に「わ、私知りません!」と我先に逃げ出して説明を放棄するスピおたが圧倒的に多いが、「それが真理なのです!」と言うのなら、なんで逃げんの?と。それを体得したと言うのなら、きちんと説明できると思うけど。まあ結局のところ、「受け売りで言っているだけで、実はなーんにもわかっちゃいない」というのが真相なのだ。

日本に蔓延しているスピリチュアリズムという名の新興宗教は、キリスト教が名前を変えただけのもの。発信元はアメリカやヨーロッパ、いわばキリスト教圏の国。「宣教」の中心になっている欧米のヒーラーやチャネラーの大半はクリスチャン。当然ベースになる思想はキリスト教になる。

その手の人達は、ほぼ100%の確率で、仏教をはじめとする東洋思想にはまる。カルマ思想や瞑想等が取り入れられているのはその影響。だが、その「主体」はキリスト教だ。「大天使」だの「守護天使」だの、キリスト教でお馴染の存在が主役を張っているのはそのせいなのだ。

そういった、どこかリリカルな響きのある存在は、「なんかおしゃれ」な感覚をもたらす。「地蔵」とか「天狗」よりは断然スタイリッシュ。ファンタジーの世界だ。西洋文化に対する憧れもそれに拍車をかける。

数珠を持って正座して、線香臭い寺の本堂の仏像の前で「南無~」とやっているよりは、マリア様やら天使やらが描かれたキラキラのステンドグラスから差し込む光の下、十字架の前で跪いているほうが絶対に様になる。それに言っていることも「いいこと」だし―そうやって、設定された「低い敷居」を跨いで、多くの人は「スピリチュアル」と呼ばれるものにはまっていく。実はそれがキリスト教そのものだということも知らずに。

「スピリチュアルの定義からすると」「スピリチュアルの観点から言うと」スピおたは、やたらとそれを多用するが、それは「キリスト教の定義からすると」「キリスト教の観点から言うと」と言っているのと同じことなのだ。

自分達の信仰する宗教の親玉が何なのか、どこに由来しているのか―それさえも知らない人間が説くスピリチュアリズムとやらは、誤解と間違いに満ちている。結局、彼らが言い張っている「真理」とやらは、妄言に等しいということだ。その「核」になっているキリスト教とその教えを、まったく理解していないのだから。

聖書をまともに読んだこともないような人が大多数を占めるこの国で、キリスト教の教義やそこで言われている「真理」というものの意味が正確に伝わるわけがない。文化的背景や民族性といったものも関係するので、「異教徒」「異邦人」がそれを読み解くには、「勉強」が必要なのだ。その「勉強」を手助けする役割をするのが、牧師や神父といった聖職者だ。

言い換えれば、教義を正しく理解した者の助けがなければ、大きな誤解や曲解を招くという類のもの。素人が自分独自の解釈で読み解くには「危険」が伴うものなのだ。導き手がいない独学がもたらすものは、結局「害」でしかない。その影響がどれほどのものかは、スピおた達を観ていればよくわかる。「批判をする人の魂のレベルは低い」「批判する人は愛がない」という発言は、異教の教えを自分勝手に解釈した結果なのだ。

「裁くことなかれ」聖書に書かれている有名なこの言葉、当然巷で流行中のお気楽スピリチュアルにも含まれている。スピおた達の大半は、それを完全に誤解している。それを「=他人を一切裁いてはならない、批判してはならない」という意味で捉えている。この時点から、既に「間違い」なのだ。

もしそれを正確に理解しているのなら、「批判する人は魂のレベルが低い」「人を裁くとカルマが生じる」等という発言も出てこないし、「批判=悪口・中傷」といった曲解をすることもないはずなのだ。完全に見当違いの解釈をしている証拠。

「自分以外の人を一切裁いてはならない」イエスはそんなことはひと言も言ってない。実際、聖書には、彼が行った「批判」や「裁き」の場面が多数出てくる。

「祈る時には偽善者達のようであってはいけません。彼らは人に見られたくて、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなた方に告げます。彼らは既に自分の報いを受け取っているのです」「ものの見えない案内人、あなた達は不幸だ」「あなた達偽善者は不幸だ」「偽預言者には気をつけなさい。彼らは羊のなりでやって来るが、内は貪欲な狼です」

福音をまったく受け入れずに拒絶する者や異邦人を、当時のユダヤの「野蛮で穢れた動物」に喩えて「犬、豚」と呼び、間違った真理を説く者を家に招き入れることや挨拶することを禁じたりもしている。こういった批判や非難の箇所は山ほど出てくる。キリスト教は、「自由と平等と博愛だけの宗教」ではないのだ。

「汝の敵を愛せ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」博愛精神を謳っている箇所ばかりが取り上げられることもあり、聖書を知らない日本人は「裁くことなかれ」と言われれば、「=お互いに批判し合わないでただひたすら仲良くすること」と解釈する。

前後の繋がりや真の意味も知らず、切り取られたごく一部の言葉から受ける印象だけで、「慈愛に満ちた微笑と共に、すべてを優しく受け入れてくれる宗教」と勝手に思い込んでいるが故だ。だが、聖書を最初から読み解いていけば、キリスト教というものが、そんなエセヒューマニズムめいたことを掲げる宗教ではないということがわかるはずなのだ。

そういった不勉強による無知が、今の日本のスピリチュアルに蔓延している気持ちの悪い「仲良しごっこ」を生み出している。批判する相手を「愛がない」だの「魂のレベルが低い」だのと言って貶めるその態度は、自分の無知を曝け出しているようなものだ。愛だの光だの、キリスト教の常套句を持ち出してくるのなら、聖書を全部読んで正しく理解してからにしろ、と。

大体、「魂のレベルが低い人がする批判という行為」を行ったイエスについてはどうなのか?と。やっぱり愛がなくて、魂の波動が低い人なんですかね?

「上辺だけで裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」イエスは言っている。「一切の裁きを行ってはいけない。裁きや批判は悪だ。罪だ」とは、ひと言も言っていない。スピおた達が勝手にそう解釈しているだけだ。

キリスト教において、「裁き」は存在する。不信仰等そういった傾向のある信者は、その段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」という処分を受ける。無条件にすべてを受け入れ許し合う―キリスト教は、そんな甘っちょろい宗教ではないのだ。大体何をやっても許されるなどという都合の良い話があるわけがない。

どんな宗教も、「服従」と「戒律を守ること」が厳守される。甘やかされて受け入れられて―というような、「何でもあり」の世界ではないのだ。身内にこそ厳しい―それが「宗教」だ。批判も裁きも存在する世界なのだ。

身内同士で群れて、ひたすら和気あいあいの仲良しごっこに終始して、勝手に捻じ曲げた解釈を自分達の都合の良いように振り回す。挙げ句に「上から目線」の中傷で批判者を貶める―そんなぬるさと甘さと愚かさにどっぷり浸かったスピおた達が「真理」を語るとは、まったくもって片腹痛い。

「日本に蔓延するスピリチュアル=キリスト教」という認識がまるでないスピおた達は、何も知らぬまま、嬉々としてその教えに従っている。まるで見当違いの解釈と、「真理」だと思い込んでいるものを得意げに振りかざして。「アナタハ 神ヲ シンジマスカァ?」実際のところは、ただキリスト教の「勧誘」に引っかかっただけなのだ。

「批判=悪」と決めつけるスピおたは、真理どころか、何も理解していないということだ。えらそーにあれこれ説いてはいるけれど、実際は、イエスの言うところの「偽預言者」「羊のなりをした貪欲な狼」なのかも。「人を裁くな!批判するな!」なんてヒステリックに叫んでいたら要注意だ。まあある意味わかりやすい特徴かもしれない。間違った解釈の上に成り立つスピリチュアリズムなど「無」に等しい。所詮「虚構」なのだ。

イエスは言う。「狭い門から入りなさい。滅びに到る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」

天使だのオーラだのパワースポットだの、そういった馴染みやすいお気楽なものを取っ掛かりにして深みにはまっていく―日本で流行中のスピリチュアルへの入り口は、まさに「大きな門」「広い道」そのものだ。果たしてそれは、どこに続いているのだろうか?

不勉強が招く無知と曲解がどれだけ歪んだ価値観を植えつけるのか―スピおた達は自分自身と照らし合わせてみるといい。少なくとも、あなた方が信仰する「スピリチュアル」という新興宗教の「親」、キリスト教は、「批判・裁く=悪」とはひと言も言っていない。浅薄な受け売りの知識と、「真理」を体得したと自称するその傲慢さが生み出すものは、ただの「害」でしかないのだ。

【追記】「批判=悪」とか、妙な理屈を唱える人が世の中に増え始めたのは、日本に「スピリチュアル」が入ってきた時期(24~5年前くらいから)とリンクしている。第二次世界大戦で敗戦国となった後、「今後天才を出さないために」行われた洗脳教育で「下地」が出来ていたところに、更に追い討ちされたわけだ。

「どうしてみんな比べたがるのぉ?争わなくてもいいじゃーん。ナンバーワンにならなくてもいいんだよー。だってもともと『特別』な存在なんだからぁ」なんて言っている歌が大ヒットする時点で、この国は「もうあきまへん」な状態なのだ。そんな曲を子供の頃から繰り返し聞かされていたら、そりゃあ「批判・忠告=悪」と思うようにもなるわな、と。

「裁き」や「批判」を拒絶し、耳ざわりのいい言葉しか聞かない―そんな人間が増えたから、今この国は「無法地帯状態」なのだ。まあ結局、いろいろな意味で「キリスト教に屈した」ということだ。

ノーベル平和賞選考中、あれこれ圧力をかけていた中国に対し、ノーベル賞委員会は「大国であればあるほど、批判に耳を傾けるべきだ」と声明を出していたが、スピおたにそのまま進呈したい言葉かと。だってやっていることは中国とまったく同じですから。


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リピート

 2010-10-11
人間は「退屈」を嫌う生き物だ。特に、今現在自分がいる状況―例えば、それが文明水準の高い世界であればあるほど、人は退屈を持て余すようになる。文明化が進み、情報量が増え、生活水準が上がる―だが、社会の「成熟」は、同時に人々の意識に「退屈」をもたらすのだ。

物や情報量が溢れ、便利になった生活に、人々は「新たな発見」を見出すことが出来なくなる。当初は魅力的に思えたものも、「慣れ」と同時に「当たり前のこと」になっていく。「驚き」や「刺激」が生活から失われていく。その変化のない日常が、驚きや刺激への渇望を生む。そして人々の意識は、それを与えてくれるものへと向かうのだ。

闇や影の中にいる者は、光を求める。だが、ずっと光の中にい続ける者の中に、闇や影への憧憬が芽生えてくることがあるのもまた事実。煌々と照らされ続けていることが苦痛になってくる者が出てくる。

光と闇、自分が今どちらにいようと、人間というものは、結局「対極にあるもの」への憧憬を捨てられないのだ。その間を行ったりきたり―それを延々と繰り返す。「回帰」と言い換えてもいい。そして、それは多分永劫に続くのだ。何度も、何度も繰り返して―。


ここ最近、ヨーロッパの文化や歴史に関する本を何冊か読んでいたのだが、特に19世紀末、今から大体120年ほど前のヨーロッパの様子は興味深いものがある。

その当時のヨーロッパは、政治・経済・文化等、あらゆる面において「世界の中心」だった。蒸気船、蒸気機関車、電話、自動車、白熱灯、蓄音機、写真、映画、飛行機、電車といった文明の利器が次々と発明され、生活はどんどん便利になっていった。印刷技術の向上で、大量の印刷物発行が可能になり、それに伴いマスメディアが台頭し、手にする情報量も圧倒的に増えた。当時のヨーロッパの人々は、まさに最先端の文明を謳歌していたのだ。

だが、ますます近代化が進む社会とは逆行するように、人々の間では「オカルティズム」が興隆した。呪術、妖術、託宣(チャネリング)、霊視、予言、霊媒、超能力―当時の人々は、科学では説明不可能な「不可思議なこと」に傾倒していったのだ。「科学の世紀」と言われた時代の真っ只中に。

似ていないだろうか?今の時代と。日本を含む先進国で起こっているスピリチュアルブームと。時代背景や人々が抱いている退屈、「最高値」のレベルに到達してしまった故の空虚感、「繰り返し」で変化のない日常に刺激や意味を持たせることで何とか乗り越えようとするある種の逃避願望―120年前の「再現」と言ってもいい。どんな時代にあったとしても、結局「人間は満たされると退屈する生き物」なのだ。

月に行くだけにとどまらず、何ヶ月も宇宙空間に滞在することが可能になり、クローン動物が作られ、臓器の移植さえ行われるような、かつては「神の領域」とされたことをいとも簡単に手掛ける時代になっても、人間の本質は変わらない。満たされなければ不平を言い、満たされれば退屈し―。幸福過ぎてもダメ、不幸過ぎてもダメ―。ある意味、永遠に「満足」というものを手にすることのない生き物なのかもしれない。

かつてこの世界には、高度な文明を持つ人々が住んでいた大陸があったという。だが、やがて堕落が始まり、怒った神によってその大陸は一夜で海に沈められた。もしかしたら、人類は、地球が誕生して以来、何度となく同じことを繰り返してきたのかもしれない。誕生、繁栄、成熟、退廃、そして―。

They repeat it again and again―延々と繰り返される同じプロセス。今、人類がそのプロセスのどこにいるのかはわからない。だが、彼らはそれを繰り返すのだ。何度も、何度も飽きもせずに―。自分達が、先人達とまったく同じことを繰り返していることにさえ気づかずに―。

もしかしたら人間は、自分達が思っている以上に愚かで、未熟な生き物なのかもしれない。だから「歴史」は繰り返されるのだ。




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解けない洗脳

 2010-10-07
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍総司令部―GHQは、様々な占領政策を推進した。「教育改革」もその一つ。「自分独自の意見を作らせないこと」「討論や議論を学ばないこと」「受け身のパーソナリティーを作ること」こういった方針の下、教育プログラムが作成された。「今後日本から天才が出ないようにすること」を目的として。

要は、日本人を「家畜化」「下僕化」するための計画。そして、この計画内容の一切は、かつてイギリスの植民地だったインドで実践されたものとそっくり同じなのだ。

「冷静に」「大局的な見地に立って慎重に」「粛々と」尖閣列島沖での漁船衝突事故以来、ナントカの一つ覚えのように同じ言葉を繰り返す日本政府の対応は、GHQが行った「天才の出現を阻止する教育」「日本人の家畜化計画」が見事に成果を収めたという証拠でもある。当時埋め込まれた「時限装置」が、戦後65年経って、正確に発動したわけだ。

「教育改革」という名の、実質上は完全な「洗脳教育」の効果はてき面で、多くの日本人は、植えつけられた歪んだ価値観をいまだ引きずって生きている。個人レベルから国家レベルに至るまで、その洗脳の影響は続いているのだ。国際社会で生きていく上では、「致命傷」になるほどのものとして。


日本という国は、島国の上、国土も狭い。その狭く小さな土地で、定住型の農耕民族として肩を寄せ合うように生きてきた。それ故に争いはご法度。狭小な土地で互いに我を通していたら平和は保たれない。同じ場所に一緒に住んでいるのだから、それでは都合が悪い。まあみんなで仲良く平和に暮らしていきましょう―そうして「和を以って貴しとなす」の精神が育まれ、根付いていった国なのだ。

もともと平和主義が根付いた国、民族性であるところに持ち込まれたのが、件の「家畜化計画」だ。「自分の意見を持つこと=わがまま」「討論や議論、批判=悪」という洗脳が施され、それをする人間には罪悪感を抱かせようとする風潮が出来上がっていった。そうして「事なかれ主義」が蔓延していったのだ。

「冷静に」「慎重に」といった言葉を駆使した「大人の対応」で摩擦を避け、なんとか平和を維持しようとする。だが結局のところ、それは真の平和ではなく、表面だけの、「平和もどき」でしかない。「大人の対応」と称するものも、実際のところは、なす術もなく、ただ嵐の過ぎ去るのをじっと待っているような類のものなのだ。


「あれこれ言ってくる人というのは、ただ感情にまかせて難癖つけてきているだけだから、挑発に乗る必要はない。うっかりそれに乗っかると、たちの悪い相手と同じ土俵に上がることになるので、自分を貶めることになる。だからここはひとつ、大人になりましょう。かわいそうな人だと思って我慢しましょう」これが日本人の考える「大人の対応」なのだ。

反日感情の強い外国との間に摩擦が生じると、日本政府が多用する「冷静に」「慎重に」という言葉。響きだけはいかにもそれらしい言葉だが、結局のところ、それは「=何もしない」という意味でもある。「何もできない」「何もしてはいけない」国のトップ、政府内にまで洗脳が及んでいるということだ。

ある日突然やって来て、「お前の家はオレの家だ」と理不尽なことを並べ立て、他人の家を取り上げようとしている盗人にされるがままになっているこの国は、完全に「異常」なのだ。「駄々っ子を刺激しないように」と相手の顔色を伺っているヒマがあったら、「訳のわかんねーこと言ってんじゃねーよ!」と反撃しろよ、と。不動産登記簿でも証書でも、正当な権利を所有している証拠を突きつけてやればいいのだ。

本当の「大人の対応」とは、相手との間に一切の波風を立てないように、表面上だけでも「何事もなかったように」取り繕うということではない。我慢とか、媚びを売るとか、そういったことも必要ない。筋の通らない要求をしてくる相手には断固とした態度を以って堂々と渡り合う―それこそが「大人」が取るべき態度なのだ。

日本という国には、何かにつけて「大人の対応」を好む人が多いが、これも「戦後の洗脳教育」の賜物だ。戦後に生まれた世代にまで、「批判=悪」という思い込みが浸透していることからも、それは大成功裡に終わったわけだ。世の中に蔓延しているお気楽スピリチュアリズムにおいてでさえ、「批判をするとカルマが生じて自分に返ってくる」「批判するのは愛がない」「高い波動の魂を持っていれば批判はしないはず」などと言っている始末なのだから。

国の存亡がかかっているというのに、相手に好き放題やらせて黙っている日本って・・・。世界的に見たら、かなーり妙な国かと。「和を以って貴しとなす」「以心伝心」「慮(おもんばか)る」といった日本特有のメンタリティーは、国際社会、特に外交においては通用しない―と思ったほうがいい。狭く小さな国土に大勢の人間が一緒に暮らしていくことを前提に生まれた「教訓」は、万国共通の、グローバルスタンダードではないのだ。

外交とは、「=親善や交流」ではない。「利害」のためのものなのだ。いわば「戦争」の代わりなのだ。美徳、道徳といったものを持ち込む領域ではない。同時にそれは、お互いにそれぞれの言い分を伝えることができる「権利」を行使できる場でもある。それなのに、なぜそれを利用しようとしないのか?と。

政府が何の手立ても打たないこの状態は、相手がミサイルをバンバン撃ってきているにもかかわらず、何の反撃もせず、ただ逃げ回っているだけに等しい。それなのに、この期に及んでまだ「冷静に」「慎重に」「刺激しないように」とは。呆れて物も言えない。「外交=ケンカのやり方」もろくに知らず、ただ逃げ回るだけしかできないこの日本という国は、いずれ消滅するかもしれない。

現に今、今回の騒動に便乗して、ロシアが北方領土獲得に向けて動き始めている。過去から現在に至るまで、自分達が取ってきた「大人の対応」とやらがもたらした結果をよく見ろ、と。買わなければならない喧嘩からさんざん逃げ回ってきたツケが回ってきたのだ。

それでもまだ、こんな状態になっても、相変わらず自分の意見を主張せず、相手と真っ向から渡り合おうともせず、黙って相手方の態度に振り回され続けていることを選ぶのであれば、この国は、未だに65年前の洗脳から解けていないということだ。「批判=悪」という意味不明な考えをする人が多いことからも、この国が「異常」であることがよくわかる。そういった意味では、日本という国はいまだ占領下の状態にあるのだ。


(参考文献:「暴かれた”闇の支配者”の正体」ベンジャミン・フルフォード著)



【追記】「誰かや何かを批判するということは、必ずその人の自身の個人的な感情が絡んでいる」などと言う人達がいるが、まるで批判者が単なる自分の好き嫌いや感情に任せて八つ当たりしているかのようなその発言、かなり「洗脳」が進んでいるかと。

スピリチュアルでよく見られる発言、「高い波動を持っていれば他者を批判しない」とか、暗に「批判する人の魂は低レベルです」と言っているようなものだ。「個人的な感情」で物を言っているのは、果たして誰なのか?と。大体、「高い波動の持ち主=他人を批判しない、ジャッジしない」という根拠はどこにあるのか?と。

「感情で物を言う」というのは、「目付きが気に入らない」とか「話し方がむかつく」とか「あの国の人間は悪い奴らに違いない」とか、いわば「生理的なものから来る反発」と「過去の体験から得た印象や思い込み」がベースになったものだ。根拠や理論に基づく「批判」に、そういった要素は含まれない。「批判」と「悪口」「中傷」を同一視しているから、「批判には個人的な感情云々」という発言が出てくる。

「批判=悪口、八つ当たり」という思い込みが、「誰かを批判した罪は消えない」「批判と称した悪口を言っている自分を正当化してはいけない」などという発言を生む。まるで罪を犯したかのようなその物言い、「批判」の定義を理解していないことの表れだ。

何が何でも批判者を「悪者」扱いしたいようだがそれはどうしてなのか、そこまでして批判という行為に「=罪悪」という観念を植え付けようと躍起になるのか、その理由を聞いてみたいものだ。

GHQが行った洗脳教育そのまま、かつて「文化大革命」という名の下に、政治・思想・文化において共産党や行政機関のやり方に反発・批判をした人々を、大量に「粛清」した中国のようだ。

理論に感情で返してくるそのやり方は、まんま中国方式。理屈が通じないわ、自分の間違った思い込みと理解のなさを棚に上げて意味不明・理解不能の屁理屈を捏ね回すわ、非常に面倒くさい。

まあ「批判=悪口、八つ当たり」「誰かを批判することは罪悪だ」と思い込んでいる人達が今の日本に大勢いるということは、GHQの完全勝利ということだ。当初の狙い通り、大量のアホを作り出すことに成功したのだから。



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B級の手口

 2010-10-02
映画業界では、大作のストーリーやタイトルに似せて、低予算と短時間で制作する「なんちゃって作品」、いわゆる「便乗映画」というものが存在する。ハリウッド映画には、その手の作品が山ほどある。

「本家」の制作費の数百分の1、物によったら数千分の1以下とか、ワンカットの撮影に費やす時間もわずか数分、1日で全部の撮影を終わらせて、その日の夜には編集作業に取り掛かるとか。内容や設定も、「前にどこかで見たような・・・」という物。「○○パート2」等と、それが大ヒット映画の続編であるかのようなまぎらわしいタイトルをつけたり。

「うちみたいな弱小企業が世間の注目を集めるには、本物の力を借りる必要があるんだ。それは本物に対するオマージュ(賛辞)だし、まったく違う作品だから何の問題もないよ」手掛ける制作会社も悪びれる様子はまったくない。開き直っているというか、あっけらかんとしたものだ。熱心なファンもいるし、中には、「本家の監督公認」の作品もあったりする。ある意味、「便乗物」というカテゴリーが確立されている。

まあ本人達が堂々と「パクらせていただいてまーす」とその行為を完全に認めているからこそ成り立っているとも言える。思わず笑ってしまうような、いわゆる「ウケ狙い」が大半なので、制作者と世間、双方に「あくまでも洒落の領域」という認識や許容が出来上がっている。お互いの「了解」の上に成立しているものなのだ。

だが、さもそれが自分のオリジナルであるかのように装って、他人のアイディアを盗用して平然としている輩というのは、そのまま捨てて置けないものがある。「バレなければいい」「表現を変えてわからなくすればいい」とうそぶき、文章やデザイン等他人のそれを盗んでそ知らぬ顔をしている人間というのは、常識云々ということもそうだが、「人を大事にしない人」「人を軽んじる人」でもある。

知恵やインスピレーションというのは、その人の「核」から生まれるものだ。人生を通して「積み重ねてきたもの」の結晶。「=その人自身」と言ってもいい。それを無断で盗むということは、その人自身を蔑ろにしている、汚しているということなのだ。

その手の人種、他人の知恵を平然と盗む人達を観ていると、十中八九、「語るべき信念や思想」というものを持っていない。別の言い方をすれば、「自分自身」というものがないのだ。

すべてがいろいろな所からの切り貼り、それをつぎはぎしただけで、まったく「中身」というものが感じられない。いわば「張りぼて」なのだ。だが、そのくせ見栄は張りたがる。何の躊躇いもなく他人の知恵を盗んでいった挙げ句、それを「自分のオリジナル」に見せかける小細工をする。

だが、所詮は「B級」。そういった一連の小細工も、わかる人にはわかる。本人が上手く隠しおおせたと思っていても、実際は粗雑な「不良品」でしかないのだ。あちこちからぼろが顔を出している。

他人の文章を盗用し、表現や順序を変え、「オリジナル」を装ったとしても、そこには決して消えることのない「違和感」が残る。まるで取ってつけたような、「繋がり」「一貫性」というものが、そこにはまったく存在しない。

例えば、「オリジナル」の箇所を変えたことによって生まれた矛盾を補うために付け加えた説明とか、そういった部分に「隠蔽工作」の跡は現れる。前後の文章の関連性もないし、持ち出してくる喩えもどこかピン外れ。論旨は不明だし、筋が通っていないのだ。良かれと思って行われたそれは、かえって余計な違和感をもたらすことになる。

「本来自分のものではないもの」に、「本来の自分のもの」が継ぎ足されるのだ。それらが「異質」なものである場合、そこに「調和」は生まれない。強調されるのは「違い」だけだ。だが、本人達はまったくそのことに気づかない。まあ一貫性もなにも、最初からそんなものを持ち合わせてはいないので、それも当然のことなのだが。

良さそうな文章やアイディアを探したり、盗用してきたことを隠そうと小細工したり、そんなヒマがあるなら自分の頭で考えろ、と。いい加減「中身」がないことを認めて、中身がないなりに努力すれば?と。小賢しいというか、「楽して得する」ことしか考えない「小悪人」というのは本当にたちが悪い。

それが普段から愛だの光だの覚醒だの高尚なことを述べている人達であれば尚更だ。その前にその根性直せよ、と。まあ「本質」というものは変わらないので期待はしないけど。もっとも本人達に自覚や常識がないので、それ以前の問題かも。

漁船衝突事故ですったもんだしているお隣の国には、「芸術家の育成のため」と称して画家の卵を一箇所にわんさと集め、ゴッホやモネの複製を数時間で描かせては、それを「土産物」として数百円で販売している所がある。まあよく似ているなー、と。他人やその知恵を尊重しない国や民族がどんなものか―まさに格好のお手本があるわけだ。目の前に差し出されたその「鏡」をよく見れば?と。やっていることはまんま同じだから。

B級はどこまで行ってもB級。真似するか盗むか―そのどちらかしか出来ないのだ。そして、自分がB級であることを隠そうとするその行為自体こそが、紛れもない「B級」の証拠なのだ。




【追記】数日前、「文章の使用許可をいただけますか?」というメールをいただいた。ここでよく取り上げる心理学とかスピリチュアルとか、そういったことにまったく興味がない方で、仕事関連の調べ物をしていた時、このブログが引っかかったとか。「あるエントリーの文章からインスピレーションを得たので」ということだった。ご自身のブログとサイトのURLを送ってくださり、「こちらに引用させていただきたい」と。喜んでOKさせていただいた。

「きちんとした方だな」と。研究職に就いていらっしゃる方なので、他人のアイディアというものを尊重する姿勢が出来上がっている。それだけでなく、「黙っていればわからないこと」をわざわざ連絡してくださったその気持ちが嬉しいというか。「すべて」がきちんとした、とても気持ちのいい方だった。改めて感謝です。ありがとうございました。

そういえば、20数年前に、大物芸能人の娘さんが「盗作」騒ぎを起こしたことがあった。権威ある某美術展に出品した絵が賞を取ったのだが、その直後、その作品は、ある写真家の撮影した写真をそのまま真似たものだということが判明し、受賞が取り消しとなった。写真家本人やその他複数の人からの訴えでそれが露見し、盗作した本人もその事実を認めたことで騒動になったのだが、それもいわば、「わかる人にはわかる」ということだ。

「常識の範囲内ならいいんじゃないのぉ?」とふざけたことを言う人もいるが、そもそも「常識の範囲」ってどこまでよ?と。大体常識があったら、「○○より転載」「○○より引用」と記載するはずなんで。こういう言葉が出てくること自体、既に「常識がない」ということです。



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11月 自死遺族グリーフケアの会(個人対象)開催日時

 2010-10-01
2010年11月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。

【以前、気後れや緊張から参加申し込みを取り消したことがある方達へ:こちらから連絡を差し上げることは遠慮させていただいていますが、いつでも扉は開いています。サポートが必要な時にはいつでもご連絡ください。遠慮は無用です】

■日時 : 2010年 11月7(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順) *定員に達しました。

■申し込み方法 : 11月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 年齢・性別・宗教等は問いませんが、申し込みにあたっては、下記の「留意事項」及び「関連記事(「自死遺族としての声」のカテゴリーにあるすべての記事)を 熟読、当方のスタンスを理解した上でお願い致します。

現在精神科・心療内科に通院中で参加ご希望の方は、必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。お申し込みの際には、当方にもその旨をお知らせくださるようお願い致します。(入院中の方は、まず症状の改善を最優先に考えていただきたいと思っていますので、参加は見合わせてくださるようお願い致します。退院後、ある程度まで回復をされた後、ご連絡ください)


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」「故人が亡くなった簡単な経緯(いつ・どんな状況で等)」を必ず記入してください。 (親族や友人等複数での参加の場合、全員分の記入をお願い致します)

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の回に回っていただくことに なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。 (下のお名前や旧姓等を使用される方もいらっしゃいます)

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。

⑥ご家族複数での参加を希望される方へ:同じご家族から複数の方が同時に参加される場合、人によっては、お互いを意識するあまり率直な思いや考えを発言しにくく感じることがあります。参加申し込みされる際は、事前にご家族同士でその点を話し合ってください。不安や躊躇いを感じるのであれば、日時を変えて、それぞれ個々に参加されることをお勧めします。

⑦ご参加にあたっては、「自死遺族としての声」のカテゴリー内の記事すべてに目を通し、当方のスタンスを理解された上でお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


【関連記事】(「自死遺族としての声」のカテゴリー記事です。参加希望の方は、必ず目を通してください)

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沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

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沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと


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