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蝶の羽ばたき

 2010-09-27
「ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こる」蝶の羽ばたきによって起こったわずかな風が、数ヵ月後、遠く離れた土地で竜巻を発生させる原因になるかもしれない。通常は無視してしまうようなごく些細な現象が時間の経過と共に拡大し、差や違い等やがて大きな影響をもたらすこと―これを「バタフライ効果」と言う。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺や、経済等、日本が他国から受ける影響を表す時によく使われる「アメリカがくしゃみをすれば、日本は肺炎になる」という言葉もこれに相当する。

蝶の羽が巻き起こす風など、たかが知れている。ほんの微かな、感じるか感じないかという程度のもの。痛くも痒くもないものだ。それをわざわざ気に留める人など、多分いないに等しい。

だが、その「気にも留めない微かな風」が、後に巨大竜巻に発展する可能性があるとしたら―。後日、無視できないほどの大きな影響を与える要素を持っているとしたら―。


「自分」という人間が成り立つ過程も、それと同じことだと思うのだ。過去の出来事や経験、それによって得た思考や感情等が積み重なって起きた現象―それが「現在の自分」なのだ。

人格の形成には、生まれ育った環境や学歴といった「条件」は然程影響しない。そういったものは、いわば「外付け」に過ぎず、及ぼすものはたかが知れている。

むしろその時、その場でどう考えたか、どう感じたか、どう行動したか―ということが、「自分」を作っていく。「現在の自分」を作り上げたのは、他ならぬ自分自身なのだ。

「今の自分を嘆く人」は、そのことに気づこうとしない。自分の嘆きの原因を、すべて外に求めようとする。だが、「今の自分」は、そういった過去の自分の言動が生み出した「結果」なのだ。自分の羽ばたきが巻き起こした風が作用して発生した現象。原因やきっかけは、すべて自分自身にある。誰かや何かのせいにするのはお門違いなのだ。

何気ない言動の一つひとつが、そしてその積み重ねが、後の自分に大きな影響を及ぼしていく。たとえそれがどんなにかすかなものであったとしても、「蝶の羽ばたき」には、現在も未来も、「すべて」を変える力、可能性が秘められている。侮ってはいけない。

別の言い方をすれば、今後の羽ばたき方次第で、いくらでも「今の自分」を変化させることができるということ。もちろん「未来の自分」さえも。なぜなら、すべての起点は「今」なのだから。今の羽ばたきで起こった風が、未来に新たな現象を引き起こすかもしれない。自分を憐れんだり嘆いている暇など不要なのだ。




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盲信者の蛮行

 2010-09-18
「なぜそうなのか」という理由や理屈も分からずに、それが真実かどうかという根拠もないのに、むやみやたらと誰かや何かを信じ込む人を「盲信者」と言う。スピリチュアルおたくに多いタイプ。

例えば、自分が信仰する「教祖」が、「神社のご神木の皮を剥いで、お守りとして持っているといい」と言えば、一斉に神社に押し寄せて、ご神木の皮を剥ぎにかかる。彼らの言い分はこうだ。「教祖様の言うとおりにしていれば間違いない」

教祖様の発言は、いわば神託、「神のお告げ」なのだ。その真偽や根拠も問わず、盲目的にただ付き従う―そんな調子だから、いつまで経っても「スピリチュアル=胡散臭い」という評価が付き纏うのだ。世間では「迷惑行為」と言われていることも、「教祖様がそう言ったから」のひと言で、彼らはそれを正当化する。まったくもってたちが悪い。

その人達には共通点がある。思考力と想像力の欠如だ。そして、この二つが欠けている人ほど、誰かや何かからの「支配」を受けやすい。自分で考えて、自分で想像して―そういった能力が備わった人なら、言われるままにご神木の皮を云々するはずはないのだ。

そもそも「ご神木」は、「神様が宿る場所、寄り代」だ。「ご神木=神様」だと思ってもいい。その皮を剥がすということは、神様の皮膚を剥がしているのと同じこと。根本的な理解がないから、平気でそういった行為に及ぶ。

「ご神木だからダメだ」ということではない。考えてもみてほしい。樹木は「生き物」だ。人間のように言葉を話したり、感情を表したりすることはないが、「生きている」。「教祖様が勧めたから」「ご利益があるから」「お守りになるから」と自分の「欲」のために、その生きているものの皮膚を、よくもまあ情け容赦なく平然と削り取れますね、と。これが人間だったり、犬や猫だったら同じことができるんですか?と。

時々、学校や公園等の花壇を荒らしたりする輩がいるが、やっていることはそれとまったく同じなのだ。「魂を磨く」だの「波動を高める」だの「愛でこの世を満たす」だの、いつも高尚なことを言っている割に、「何よその言動は?」なのだ。身近な植物やその生命さえ大事に出来ない人間が何言ってやがんだ、と。

昔、中学時代の林間学校で登った山で、「まあきれい。私花が好きなのよね」と言いながら、高山植物を手当たり次第ブチブチ摘み取っていた中年のばばあ連中おば様達に遭遇したことがあるが、ご神木の皮を剥ぐ人達と共通するものを感じる。

私達と一緒にいた現地の山岳ガイドさんに注意をされて逆ギレしていた姿を今でも覚えているが、そういう人達に限って、「花が大好きで、趣味はガーデニングですの」としゃあしゃあと抜かしていたりするのだ。大体、花好きな人が、持ち出し厳禁の貴重な高山植物をあんなふうに摘み取るかね?と。

そういった言動の不一致、「ずれ」が非常に気持ちが悪いな、と。また、当の本人達がまったくその矛盾に気づいていないということが、さらに痛いというか。

「この地球上のすべての生物は繋がっているのです!すべてが尊い存在なのです!」と言いながら、「教祖様がお守りにするといいって言ってたわよ!」と平気で木の皮を剥ぐ人達というのは、いくら綺麗ごとを並べ立てたとしても、その「本性」までは隠せない。我欲のために、生き物を傷つけて平然としているのだから。

「もっと幸せになりたい」とか「もっとお金持ちになりたい」とか「ソウルメイトに出会いたい」とか、欲を満たすことしか考えていない「ご利益信仰」が主体の浅~いスピリチュアルというのは、所詮この程度のものかと。高尚なことを言う割には、行動は野蛮そのものですから。欲の前では、道徳も慈しみの心も消し飛んでしまうような人達だということです。




【追記】父方の親戚が代々神主を務めている神社があるのだが、あのオーラ番組で有名になった霊能師さんが「ご神木からパワーをもらうといい」と発言して以来、ご神木に触る人が増えたらしい。触れるだけにとどまらず、幹の皮を剥いで持ち帰る人が後を立たず、相当被害を受けたとか。周りを柵で囲ってようやく止んだらしいです。物事を深く考えない上、勝手に曲解してエスカレートする盲信者の行為に迷惑している神社が結構あるようですね。

ただ、霊能力等、特殊な能力を持った人達の中には、「ご利益最優先」「そのためなら何をしても許される」と言わんばかりの利己的な発言をする人がいることも事実。そういう人を手ばなしで崇拝する人達というのも、正直どんなもんかと思いますけどね。その人の言うことがすべて正しいとは限らないんですから。



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勿体をつける理由

 2010-09-10
スピリチュアルおたくが説くスピリチュアル思想(自称)というのは、やたらと「制約」が多い。「~でなければならない」「~すべき」「~であることが望ましい」規定や条件で埋め尽くされている。

例えば、「正しい先祖供養の方法」と称して、線香の本数やそれを立てる位置まで指定したり、「供養にはこの言葉が不可欠なのです!」と特定の言葉(スピおたオリジナル)を唱えさせたり。「霊的覚醒のために肉食は控えたほうがいい。野菜と玄米中心の生活に切り替えるべき」「瞑想を習慣化すべき」「毛皮や化学繊維はエネルギー的に問題があるので避けたほうがいい」「こういう感じのメイクはオーラ的に良くない」といった感じで。

その制約は、日常生活から思考方法、生き方など、「すべて」に及ぶのだ。あれをするなこれをするな、ああしろこうしろ―いちいち口うるさいというか、面倒くさいというか。大体、それって本当に「正しいこと」「絶対に間違いのない真実」なんですか?万人に当てはまること何ですか?と。

「エネルギー的に云々」「波動が云々」「霊的に云々」そういった「目に見えない世界」を持ち出しての説明―というよりは、完全に「逃げ場」を確保した上での彼らの放言にはもう飽き飽きなのだ。すべての原因が霊的世界にあるとは限らないでしょ?、と。

一番の問題は、彼らが、出所不明の、極端に言えば「迷信」めいた制約を、「従うべき掟」として断定する点なのだ。スピおた達は、自分達が信仰するスピリチュアリズムとやらを、「哲学」だ「思想」だと主張する。だが、それらには、根幹に「論理」と「実証」が存在していなければならない。

それがどういった意味を持ち、なぜそれに従わなければならないのか―主張するのであれば、それについて明確に説明すべきなのだ。何を聞いても、エネルギーがどーとか霊的にどーとかという発言に終始して、一向に埒があかない。まったく「説明」になっていない。

そしてそのことが、彼らの「盲信度、傾倒ぶり」をより一層際立たせることになる。「禁止」と「服従」と「束縛」―それは、完全な「宗教」なのだ。一体どこを見て「哲学」「思想」と言っているのだか。

「スピリチュアルは哲学・思想発言」をする人に限って、実は哲学書を読んだこともなければ、哲学がどんな学問かということさえわかっていない。言動を観ていればそれはわかる。まあそういった各々の区別もつかないような人達の発言なので、致し方のないことではあるのだが。

それに、いろいろな意味で「宗教」という言葉に敏感になる人が多い日本では、「宗教の信者」と自称・自認するよりは、「『哲学』や『思想』に基づいて生きています!」と言ったほうが断然聞えはいい。


「哲学」と言っても、単純に一括りできるものではない。「古代」「中世」「近代」「現代」という分類があり、更にそこから「仏教哲学」「ギリシャ哲学」「ヘレニズム哲学」「キリスト哲学」「イスラム哲学」・・・というように分岐し、そのそれぞれに「学派」が存在する。

その人達にぜひ聞いてみたいものだ。「で、あなたの思想はどれに準ずるものなんです?」と。大体プラトンも読んだことがないのに、「アトランティスがどーたらこーたら」とかしたり顔で語るような人達が大勢いること自体、噴飯物の世界なのだ。「学問」というものをなめないでいただきたい、と。


数多くの「制約」や「言い訳」も、彼らの場合、巷に星の数ほど出回っているスピリチュアル本から仕入れた知識や情報をそのまま垂れ流しているだけなのだ。「とんでも本」の内容を真に受けて、それを自分流にアレンジしたものを「これこそが真実なのです!真理なのです!」と得意げに吹聴している人もいる。

「嘘も百回言えば真実になる」と言うが、彼らが得た「真実」は、まさに「嘘」を百回繰り返して得たものなのだ。一種の自己暗示のようなもの。最初は受け売りだったものが、何遍も繰り返しているうちに自分自身でそれを体得したかのように思えてくる。そしてそれは、「自分は覚醒した者」「真理を得た特別な存在」という別の思い込みを運んでくるのだ。


そういった「~しなければならない」「~すべき」「~であることが望ましい(柔らかい強制)」という制約の数々が存在する理由は、結局のところ「勿体をつけている」だけなのだ。言ってみれば、ただの「箔付け」。

自分自身を「格上」の存在に見せたいというか、「多くの人が知らない知識をひけらかしたい」だけ。「霊的世界のことに一家言を持つ自分」に酔っているというか。「こういうことを言えちゃう自分って素敵♪」みたいな。「俗物根性」の表れなのだ。

スピおたというのは、「選民意識」が強い人が多い。「自分は選ばれた存在」「特別な使命を授かって生まれてきた存在」という自負があるので、他の人との「差」「違い」を示すことに執着する。「第一人者」「大家」として認められるようなもの、自分の力や存在を認めさせ、服従させる力―いわゆる「権威」が欲しいのだ。

彼らが設けている小うるさい制約の数々は、それを得るためのもの。あれこれ勿体をつけたほうが、「それらしく」見える。ベールを被って目だけを出して、目の前にでっかい水晶球を置いている占い師のような、いわば「小道具」「パフォーマンス」としてのものなのだ。

先祖供養の仕方とか、食べ物とか、洋服の素材とか、メイクの仕方や使用する色とか、そんなことにまでいちいち口を挟んで難癖をつけてくるのは、結局は「権威」を示したいから。やたら霊能力(と本人が言い張るもの)を自慢したり、頼んでもいないのに「あなたのオーラの色は~」「あなたの守護霊は~」などと勝手に鑑定したりとか。結局それも、「自分は特別」「自分が正しい」それを見せつけたいだけなのだ。

違うと言うのであれば、「霊的にどーたら」「エネルギー的にこーたら」「波動がうんたら」という以外に、きちんとした根拠を示してくださいよ、と。そういったこじつけや思いつきから生まれた制約の存在が、物事の本質から目を逸らさせるのだ。


スピリチュアルの世界が未だ「B級扱い」「色物」の域から抜け出せないのは、スピおたの功罪だ。自分の選民意識を満たすための「道具」として利用することしか考えていない、無知で無理解で狭量な人間が蔓延しているせいなのだ。

根拠と論理の提示を求められると、屁理屈をこねて誤魔化したり、逆ギレしたり。挙げ句の果てに、相手を「魂のレベルが低い」「波動が悪い」などという誹謗中傷をしたり―結局、そうやってすべてを曖昧にして逃げ回る人が、スピリチュアリズムというものを貶めている。

特に、「プロ」としてその世界に関わっているにもかかわらず、「責任逃れ」をする人があまりにも多過ぎる。そういう人こそ、外部の追及にきちんと向き合うべきなのだ。曲がりなりにも「プロ」を自称するのであれば、責任を含め、「すべて」を引き受ける覚悟をしろ、と。

中心にいる人間の多くがそんな調子だから、未だスピリチュアルは「色物」扱いされるのだ。結局、自分達の首を絞めているのは、他ならぬ自分達自身だということだ。

「言葉での説明が困難=言葉での説明が不可能」ではない。試みようと努力すらせず、批判されると逆ギレした挙げ句逃げる。相手を中傷する―そういった子供じみた態度を取る人達が多いこと、自分の権威やプライドを守ることしか考えていない「選民思想かぶれ」が蔓延していることが、スピリチュアルを「=胡散臭いもの」にしているのだ。

いい加減そこに気づけば?、と。「覚醒していない人」「魂のレベルが低い人」が、スピリチュアルを理解せずに批判するのではない。そこに「どっぷりはまり込んでいる人達」の言動が、矛盾に満ちた極めて感情的でヒステリックなものだから、外部は批判するのだ。

「わかる人にはわかる」と嘯き、常に自分達を一段高い所に置こうとするその高慢さを。自分の聞きたいことや見たいもの以外を排除するその狭量さを。馴れ合いと、依存し合うその体質の温さを。

理解されない上に批判される理由は、「伝え方、表現」にあるのではない。そこに「理(ことわり)」「筋、一貫性」が存在しないからだ。いわば、中身がスカスカの、上っ面だけの実体に対して、外部の人間は疑問を投げかけている。

「筋が通っていないもの」が批判されるのは当然かと。自分の発したものが返ってくる―まさに「宇宙の法則」が体現されているわけだ。何かにつけてカルマだの引き寄せだのと説いている人間が、一向にそこに気づかないのは、まったく皮肉としか言いようがない。


あれこれ勿体をつけて権威や選民意識をひけらかさなくても、その発言が「真実」であるのなら、万人が納得するはずだ。そして、それが真実か否かということを除いても、発言の内容がどんなものであれ、それがきちんと筋道が通ったものであるならば、誰も批判や否定はしない。

「特別な存在」になりたいがためにあれこれする「小細工」は、簡単に見破られるものだ。「本物」は、もっと大らかで、且つ厳しく、冷静だ。小細工をする時点で、既に「選民」ではなく、ただの「小物」であり、「俗物」なのだ。




【追記】あれこれ設ける制約は、現在巷に蔓延しているスピリチュアルが、結局は、「考えない人間」「自分の意見を持たない人間」「他律依存の人間」を生み出すための道具だということだ。それは「思想」でも「哲学」でもなく、キリスト教と仏教が合体した「新興宗教」なのだ。思想や哲学には、服従や犠牲、強要、束縛などといった要素などは存在しない。



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トンカチだけの道具箱

 2010-09-06
「道具箱にトンカチしか持っていなければ、問題はすべて釘に見える」という言葉がある。何でもかんでも「スピリチュアル」に結びつけるスピリチュアルおたく(以下スピおた)の思考方法によく似ている。

彼らにかかったら、財布を落としたことも、上司と衝突したことも、最近物事が上手くいかないことも、「それらにはすべてスピリチュアルな意味がある」ということになる。「自分の波動が低かったせい」とか「カルマが関係している」とか「生き霊のせい」とか。彼らを観ていて思うのだ。「ちょっとそこから離れたら?」と。

「すべてのことには意味がある」スピリチュアルの世界では「定番」の定義。仮にそうだとしても、それらすべてが同等のレベルとは限らない。中には、「無意味」に近い「どうでもいいようなレベル」のものもある。取るに足らないようなことにまで無理に意味を見出そうとするその姿勢は、本来不必要な「問題」や「悩み」を出現させることもある。

トンカチしか入っていない道具箱―まさにスピおたのこと。彼らの中には、スピリチュアル思想しかない。天使だの女神だの、ヒーリングにチャネリング、宇宙の法則とかカルマとか。四六時中そんなことにこだわっている。そして、大抵のそれは「逃避」が目的なのだ。人生や現実、そして自分自身からの。

単なる不注意や怠慢等、現実世界での自分の言動が引き起こした些細な日常の失敗や失態さえ、すべて「釘」のせいに、波動やカルマ等、「スピリチュアルの領域」に原因を求める。「こじつけ」と言ってもいい。

本来なら「よし、次から気をつけよう」と気を引き締めるだけで済むことを、「波動を上げるために」「カルマを解消するために」「滞ったエネルギーを浄化するために」とナントカヒーリングや御祓いの類を受けに走ったり。

そういった分野に興味があったり好きなのは結構だが、取るに足らないものにさえ、波動だのカルマだの、いちいち日常に持ち出してきてはそれを当てはめするその姿は、第三者からすれば、疲れるというか面倒くさいというか。興味がない人からすれば、「変な人」でしかない。

結局、一つの概念に囚われていると、偏った考え方しか出来なくなるのだ。精神世界のことしか知らなければ、「現実」の問題まで、すべて「あちらの世界」の領域のものに思えてしまったりする。だが実際は、単なる「視野の狭さ」が原因の場合が大半なのだ。

例えば、「ソウルメイト」の出現を待ち焦がれている人が、目の前に現れた人すべてがその対象に思えて仕方なかったり、霊現象に過剰に興味を持ったり恐れている人が、光線の加減が原因で写真に写ったものをオーブや霊の姿として捉えてしまうことによく似ている。「思い込み」が引き起こすものというのは、想像以上にやっかいなのだ。何よりも、当の本人が強くそう思い込んでいる時などは特に。


よくスピリチュアル本等に、「普段は食べない物を急に食べたくなったり、同じ物を何日も食べ続けたりするような時は、それを好物としていた霊が憑いている場合がある」ということが書かれている。オーラや前世霊視で有名な霊能師の方も、天丼だかうな丼だかを数日間食べ続けた時のことを「あれは私自身が食べたかったわけじゃないんです」と。

まあ時々はそういうこともあるかもね、と。あちらの世界の住人になったからとはいえ、悟りを開いて聖人君子になるわけではない。人柄や嗜好を含め、生前と「何も変わらない」のだ。自分と波長が合う人を通して、かつての大好物の「気」を味わってみたいと思う人もいるかもしれない。

だが、急に好みではない物を食べたくなったり、同じ物しか食べたくなることの原因が、100%「憑いているもの」のせいとは言い切れない。もっと現実的なもの、「無意識」が関係している可能性も高いのだ。


現代人は、普段から膨大な情報量に晒されている。その量は、江戸時代の人達が一生かかって得た分に相当すると言われている。一日街を歩き回った場合に得る情報量は1億個以上―という説もあるようだ。

人間というものは、気づかないうちに、膨大なそれらを自分の中に取り込んでいる。例えば、通勤時に利用している最寄駅の反対側のホームにある看板の文字とか、友人の部屋の本棚に並んでいる本のタイトルとか―関心の有無や強さに関わらず、人間の無意識はそれらをすべて記憶している。実は「見ていないようで見ている。そして記憶している」のだ。

その大半、約80%は視覚からのものだが、嗅覚や聴覚から得た情報も侮れない。昔付き合っていた人がつけていた香水や吸っていたタバコと同じ匂いを嗅ぐと、当時の思い出が鮮明に甦ってくる人が多いのはそのせいだ。

いわゆる「五感」を通して得た情報というものは、普段はまったくその存在を感じさせないとしても、何かの拍子―例えば、その時の体調や精神状態、気温や湿度等を含む周囲の環境等、何らかの「条件」と結びついて、思いもかけない時に意識の表面に浮上してくることがある。

食べ物に関しては特に、無意識層に蓄えられている情報の影響が強く出る。急に、訳もなく無性に食べたくなった物というのは、案外一週間くらい前にちらっと見ただけのテレビや雑誌等の影響だったり―ということもある。多くの人は、ただそのことを「忘れているだけ」なのだ。

その時はまったく注意を払っていなかったとしても、無意識にはしっかりとそのことが刷り込まれている。そして、浮かび上がってきたそれは、通常の自分の好みを簡単に覆してしまったりする。普段自分があまり食べない物やそれほど好きでない物が急に食べたくなったり連続して食べ続けたりするのは、必ずしも「霊が憑いたせい」とは言い切れない。無意識の力が強く働いた結果―という可能性も高いのだ。

それが「身体」に起因していることもある。特に20代後半からは、食べ物の好みがどんどん変化していく。苦手だった物を美味しいと感じるようになったり、逆に今まで好きだった物に手が伸びなくなったり。加齢に伴う味覚や体質の変化が、そういった逆転現象を引き起こす。

身体が、現在不足している成分を補うために、通常の好みを無視し、効率よくそれらを得られる食物を選ぶこともあるのだ。野生動物を観察していればそれがわかる。彼らは誰に教えられたこともなく、促されることもなく、胃腸の調子を整えるために草を食べたり、ミネラルや塩分を補給するために岩塩を舐めたりする。それと同じことが人間にも起こるのだ。心理学や生理学、生態学や脳科学等の分野できちんと説明がつく。

だが、そういった些細な取るに足らないようなことでさえ、スピおたは「憑いたものの影響」にしてしまう。これも「一つの概念=スピリチュアリズム」しかないことの弊害だ。まあ本人がそう思いたいのならそれはそれで構わないが、何でもかんでも憑き物のせいにするってどーよ?、と。

大体そんなに頻繁に「憑かれる」って、正直問題じゃないかと思うのだ。本人達はそれを「霊的感性が高い証拠」だと思い込んでいるようだが、別の見方をすれば、「隙がある」ということなのだ。そういう存在が、多くの人の中からわざわざその人を選んで干渉してくるのは、必ずしも、その人の霊能力の高さを見込んで頼ってくる、助けを求めてきているということではない。

「あちらの世界の住人」になったとしても、性格や人柄は生前と何ら変わりはない。当然こちらの世界と同じように、いろいろなタイプの人がいらっしゃる。意地の悪い人もいれば、サービス精神旺盛でおせっかいな人もいる。あちらの世界とこちらの世界、大した違いはないのだ。

「私、霊感があるんですよ~」と鼻高々にしている人や、やたらそういった世界のことが好きではまり込んでいる人を見て、「ちょっとからかってやるか」「そんなに好きなら体験させてやるか」とちょっかいを出す人もいるわけで。自分が「からかいの対象」や「遊び道具」「操り人形」になっていることもあるのだ。決して自慢げに言うことではない。

いくら本人達が精神力や思考力には支障はないと言い張っても、味覚を含め、体調に変化が生じるということは、早晩「すべて」にもっと強い影響が出てくる可能性もあるということ。なぜなら、「心と体と魂は一体」なのだから。既に体がそういったものの干渉を受けているということは、「=心と魂も干渉を受けている」ということなのだ。気づいていないのは本人だけ。

そしてそれは、スピリチュアリズムというものをまったく理解していない証拠でもある。心と体と魂の「三位一体」の関係性を本当に理解していたら、「干渉は体だけなので大丈夫」などとは言わない。その成り立ちを理解している人であれば、そういった「分断発言」は絶対に出てこないはずなのだ。

ある時期急に開花したり、セミナーやアチューンメントで身に着けたり強めたりした霊能力などは、それこそ「憑いているもの」の影響を疑ったほうがいい。そういったものを祓ったり、浄化したりする力が弱かったり、無いに等しい人、憑かれたりすることが多い「憑依体質」の人が、簡単に「あちらの世界」と関わって本当に大丈夫かね?と。

その人達は、「乗っ取られて持っていかれる」という危険に自分が晒されていることを分かっているのだろうか?本人が「自分は大丈夫」と思い込んでいる場合は、特に危険度が高いかと。その根拠のない自信こそが不測の事態を招くのだ。もっとも、分かっていたら、そういった世界に簡単に足を踏み入れたりしないはずだけど。


まあどちらにしろ、スピおたさん達には、もっと広くいろいろなことを勉強していただきたい、と。物を知らないというか、不勉強に胡坐をかいているような人が多過ぎる。スピリチュアル、スピリチュアルと浮かれて騒ぐのは勝手だが、「中身」が空っぽだったら、その高尚なスピリチュアル思想とやらは「宝の持ち腐れ」なので。

世界情勢や歴史、文化、政治経済、科学や文学、宗教―学ぶことはいくらでもある。幅広い世代の人、様々な職業の人、外国の人と話すとか、日本以外の国を見に行くとか。「人と関わる仕事、人の内面と関わる仕事」をしている人は、特にそれが必要になる。多くのことを知っておく必要があるのだ。そうして身に着けたもの、「人間力」が仕事に大きく反映されるのだから。

まあ少なくとも、すべてをトンカチで、スピリチュアル思想で解決しようとしたり、容易に結びつけて考えたり決めつけたりしない程度の視野や客観性、思考力を身に着けていただきたいものだ。何でもかんでもそこに結びつけて捉えていては、見えるものも見えてこない。「無知」が引き起こす危険性や混乱を認識するべきだ。

たった一つの概念だけでは、人や世界は読み解けない。たった一本のトンカチだけですべてが解決するほど、人も世も単純なものではないのだ。




【追記】ヒーラーとかチャネラーとか、スピリチュアル関連の仕事に就いている人というのは、とかく世界が狭くなりがちだ。数年の社会人経験と1~2年の修行期間(スクールやセミナー回り、無料お試しセッションの提供等)だけでその世界に入る人が多いこともその要因かと。頭でっかちというか視野が狭いというか、観ていると、かなり「偏った人」が多い。

大半が一人でサロンを切り盛りしているので、傍に「戒めてくれる人」がいないことも拍車をかけるのだと思う。同業者内では「仲良しごっこ」が横行しているし、外部からの批判を「=攻撃」と受け止めて締め出すので、更に「裸の王様度」が上昇していく。

客観性を無くした状態で、しかも、憑依体質の人が降ろす「メッセージ」とやらは本当に大丈夫か?と。それが「本物」かどうかは確かめようがない。チェック機構も存在しないのだから。あくまでもそれは、スピリチュアリスト自身の「自己申告」でしかないのだ。

その道何十年の占い師さんでも、鑑定の際にお弟子さん(師匠と同等くらいの能力がある人とか)が脇に控えていらっしゃる場合があるが、それも自分の鑑定に客観的視点を持たせるためだったりする。それくらい厳しく自分自身や自分の鑑定能力を客観視することが必要な仕事なのだ。

あの有名番組で、エハラさんとミワさんがペアになっていたのもそのためじゃないかと。「憑いた人」の影響で、数日間天丼ばかり食べ続けるような憑依体質のエハラさん(「祓う能力」もあまり高くないようだが)には、ミワさんは、いわば「お目付け役」なのだ。

ミワさんのような「お目付け役」もいなければ、外部の批判をシャットアウトして聞く耳を持たない、スピリチュアルの世界のことしか知らない、おまけに「私も憑かれやすいんです~エハラさんと同じなんです~」と得意げ自分の憑依体質を吹聴する―そんな人が降ろす「高次元からのメッセージ」とやら、はっきり言って信用できませんわ。




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元凶

 2010-09-03
インターネットの普及で、世の中は格段に便利になった。現在、巷には夥しい数の情報が溢れている。そして、基本的なパソコン操作が出来る人なら誰でも、自分が求めている情報を瞬時に手に入れることが出来る。

だが、「世の中が便利になること」と「そこに住む人間の賢さ」は必ずしも比例しない。世の中の人を観ていて思うのだ。環境等、「条件」が人間のに与える影響は、案外大したものではないのかもしれない、と。こういった便利な状況下にあってさえ、人はやはり「自分が知りたいこと」しか知ろうとしないのだ。

もしかしたら人間というものは、思考力や探究心、理解力や洞察力といったものも含め、その人自身が持って生まれた能力以上のことはしないようになっているのかもしれない。「自分が知りたいこと以外知ろうとしない人」を観ていると、そう思わざるを得ない。

彼らは、自分が持っている「古い情報」に囚われて、それ以外の新しい情報や変化、事実といったものを受け付けようとしない。完全な「思い込み」と「決めつけ」を以って、それらを拒否する。それが何に基づいているのか、何を以ってそうするのか、本人以外にはわからない。

無知、無関心、怠慢―考えられる要因はいくらでもある。だが結局のところ、その出所は、その人達の持って生まれたもの―いわゆる「本質」の部分ではないかと思うのだ。

たとえ同じ親から生まれ、同じ環境で育ったとしても、子供はそれぞれまったく違う個性を持った人間になる。当然関心を持つ対象も違う。それではその違いや差はどこから来るのか?というと、やはり「生まれ持ったもの」としか思えないのだ。

「自分で事実を確かめようとする人」と「それをしない人」と―もしかしたら、世の中には、二種類の人間しか存在しないのかもしれない。

たとえそれが個人レベルのものであろうと、そういった頑なさが生み出すものがある。「偏見」だ。物事や人に対する偏った見方や考え方―そして、大抵のそれは、事実とは大きくかけ離れたものなのだ。

やっかいなのは、そういった自分自身の穿った見解を「=事実、本当のこと」と思い込む人達が、インターネットを通じてそれを発信した場合なのだ。サイトやブログ、掲示板―そういった場でばら撒かれたそれは、「汚染」を拡大させていく。

それが事実であるかどうか、その情報が正しいのか間違っているのか―ネット上に流れている情報を判別するチェック機構は存在しない。嘘と真実が混在するネットの世界では、受信者は、「自分が信じたいと思うもの」「自分が共感できるもの」を「事実」として受け入れる。言うなれば、「個人の好み」がそれを判定するのだ。

そして、その不安定な「個人の好み」で「事実」となったその情報が、「本当のこと」としてまことしやかにまた広がっていく。自分が知りたいこと以外知ろうとしない人、自分が信じたいようにしか信じない人達によって。彼らはそのことさえ知らないのだ。自分の知る「真実」が、本当はそうではないということを。

【追記】あるスピリチュアル系ブログにこんなことが書いてあった。「最近鬱の人が多いが、それは病院側に問題がある。自分達の利益のために患者を長期に渡って薬漬けにしたり、不要な長期入院をさせる病院や医師が増えているせいだ」「鬱というのは、心の持ち様なので、精神を強く鍛えることをすれば大丈夫」と。

もうバカじゃないかと。「心の持ち様の問題」とか「薬漬けにされる」とか、鬱病や精神科についての「実情」「事実」を少しでも知っていれば、絶対に出てこない発言なのだ。こういう人に限って、「実は正確なことは何も知らない」。完全に「イメージ」だけで物を言っているのが丸わかり。

いくら個人のブログとはいえ、不特定多数の人が見る可能性があるのだから、自分の発言に責任を持っていただきたいと。というか、事前の「事実確認」も行わずに発言するとか、信じられないのだが。

またこういったいい加減な発言を鵜呑みにして、「私もそう思います。医者や病院は信用できません」とか「最近鬱の人が増えたのは、精神力が弱い人が増えたという証拠だと思います」などとコメント欄で同調する人がいるということも問題かと。(大抵はそのブログの「ファン」なので、これも「引き寄せの法則」だの「宇宙の法則」だのに該当するのでしょうね。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものです)

「自分自身で調べる」「自分自身で考える」これをしない人が本当に多い。情報を得るのにこれだけ便利な時代になってもそれをしない人というのは、怠慢というよりは、やはり「その程度の能力の人」じゃないかと思うのだ。


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10月 自死遺族グリーフケアの会(グループ対象)開催日時

 2010-09-02
2010年10月のグリーフケアの会(グループ対象)開催日時のお知らせです。

【以前、気後れや緊張から参加申し込みを取り消したことがある方達へ:こちらから連絡を差し上げることは遠慮させていただいていますが、いつでも扉は開いています。サポートが必要な時にはいつでもご連絡ください。遠慮は無用です】

■日時 : 2010年 10月3(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 9月28日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

①メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

②FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

①②の場合共、申し込み時に、参加希望者の「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。 (親族や友人等複数での参加の場合、全員分の記入をお願い致します)

尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月以降の回に回っていただくことに なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。 もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。 その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。 (下のお名前や旧姓等を使用される方もいらっしゃいます)

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。

⑥ご家族複数での参加を希望される方へ:同じご家族から複数の方が同時に参加される場合、人によっては、お互いを意識するあまり率直な思いや考えを発言しにくく感じることがあります。参加申し込みされる際は、事前にご家族同士でその点を話し合ってください。不安や躊躇いを感じるのであれば、日時を変えて、それぞれ個々に参加されることをお勧めします。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと


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