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曲解

 2010-08-27
【わがまま(我儘)】
①自分の思うままにすること。自分の思い通りになること。
②相手や周囲の事情を省みず、自分勝手にすること。きまま。ほしいまま。身勝手。
③思うままに贅沢を尽くすこと。また、そのありさま。
(広辞苑より)



「今まで私は世のため人のために自分を犠牲にして生きてきました。でももうそれを止めます。これからはわがままに生きていきます!」と宣言する人をたまにブログ等で見かけるが、「本当にその意味を理解した上で言ってんのかね?」と思う時がある。その人達の多くは、「わがまま」という言葉の意味を履き違えている。

「わがまま」というのは、文字通り「我がまま=自分のまま」ということ。自分の思うままに、ありのままの自分を押し通すこと。そう生きること。「わがまま」とは、本来「あるがままの自分」「ありのままの自分」ということなのだ。

だが、件の「わがままに生きます宣言」をする人達の言動を観ていると思うことがある。彼らの考える「わがまま」とは、単なる「駄々っ子」の域なのだ。

自分だけが自由気ままに振舞うことを許される。自分以外の人が同様のことをするのを許さない。認めない。周りの人間は、自分の言動をすべて無条件で受け入れるべき。自分の期待に応えるべき―そんなふうに思い込んでいる人が本当に多い。

彼らはまったく理解していない。「わがままに生きる=あるがままの自分で生きる」ということは、同時に、自分以外の人達の「あるがまま=わがまま」を受け入れることでもあるということを。わがままに生きると言うのであれば、当然自分以外の人達がわがままに、その人達が思うままに生きることを自分も認めなくてはならない。

例えば、自分が誰かを批判するのであれば、当然自分に対する批判も受け止める。それが筋なのだ。自分がわがままなのはOKで、その他の人達はダメ―それでは暴君や独裁者と変わらない。「わがままに生きる」ということは、相手に対して「要求」ばかりすることではないのだ。周りの人達の存在やその思考を含め、「すべて」をありのままに受け入れることであり、また、「そうしよう」と覚悟を決めることでもある。決して単純なものではないのだ。

「わがまま」の意味を履き違えている人というのは、自分の期待以外のものが返ってくることを認めない。それは相手の言葉であったり、状況だったり、自分が「こうであってほしい」と願ったもの以外は決して受け付けない。それらをすべて排除しようとする。

それがどんなものであろうと、自分の期待に反していようがいまいが、ショックだろうが辛かろうが、すべてをありのまま、全部受け止めよう、向き合おうという覚悟がない。その決意や覚悟がなければ、「わがままに生きる」と言う資格などないのだ。

自分の都合や期待がベースの「わがままな生き方」は、単なる「ご都合主義」でしかない。「自分に都合よく物事が進む人生」を求めているだけだ。「甘ったれたこと言ってんじゃねーよ」と。「わがままに生きます?だったらその覚悟を見せてみな」なのだ。

自分は散々好き勝手にやっておきながら、相手から期待していた言葉や態度が返ってこないと大騒ぎするとか―なんて虫がいいのかと。甘ちゃん達が主張する「わがままに生きる」というのは、所詮その程度のことなのだ。とことん自分に甘いというだけのこと。そこに覚悟も芯も存在しないものなのだ。





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上から目線のスピリチュアル

 2010-08-21
「自分は悟りを得た」「私は覚醒した」という妄想に取り付かれているスピリチュアルおたく(以下「スピおた」)の人々は、いつも決まって「上から目線」だ。自分自身を「高尚な魂を持つ存在」と思い込んでいるので、言動が傲慢になるのも、ある意味仕方のないことなのかもしれない。

彼らは、その強い自己愛故に他人の目から見た自分、いわゆる「体裁」というものを非常に気にする。評判に傷がつくことがないよう、その傲慢さが表に出ないように常に気を配っている。だが、用心深く振舞っていても、「素」というものは、意識の隙間をついて浮かび上がってくる。口に蜜あり腹に剣あり―それが彼らの「本性」なのだ。

第三者に批判された時に、彼らの「腹の底」が透けて見える。過剰な自己愛から来る「自己防衛本能」が作動し、自分を正当化することに躍起になる。普段意識して隠している「驕り」がそこに出現する。

自分を批判された時に、スピおたが言う台詞は大抵決まっている。「低い波長の人は大きなコンプレックスを持っているから悪口や文句を言うのです」「砂糖が甘いということは、それを舐めた人にしかわからない。真理に到達していない人はそれを知らないから、到達した人に対してあれこれ言うんです」「他人を批判した人にはカルマが発生します。性格が悪くなったりひねくれたりするという形で自分に返ってきます」

話にならない。謙虚さの欠片もないというか、どれだけ傲慢なのかと。本人達がそのことにまったく気づいていないことが、さらにイタさを誘う。「低い波長の人ナンタラ」「真理に到達していないからウンタラ」「人を批判すると性格がカンタラ」すべて「自分のほうが(相手より)上にいる」という前提での発言なのだ。「一体何様?」と。

批判者に対する「上から目線」の発言が彼らから出てくる度にいつも思う。「あなた方が大好きな『宇宙の法則』や『カルマの法則』は、ご自分には適用されないんですかね?」と。

スピおた御用達の「宇宙の法則」「カルマの法則」というのは、いわゆる因果応報、「自分が出したもの・与えたものが返ってくる」ということ。彼らはこの法則が大好物だ。何かにつけて「宇宙のぉ~」「カルマのぉ~」とやっている。

その割には、彼らはその「法則」をまったく理解していない。その時々に応じて、自分に都合よく当てはめたり引っ込めたりしているだけ。本当にそれらを理解しているのなら、まずこう思うはずなのだ。「批判を受ける原因はどこにあるのか?」と。「何が批判を引き寄せているのだろうか?」と。

彼らはこうも言う。「すべてのことには意味がある」「今起こっていることはすべて正しい」だったら、なぜ批判の中に「意味」を見出そうとしないのか?向き合おうともせずに、それを「悪」「攻撃」として締め出すのはなぜか?「いつも正しいこと」が起こるというのなら、自分に対する批判も正しいということだ。だったらなぜその「正しいもの」を恐れるのか?

自分の出したもの―行動や発言が理不尽だったり、矛盾していたり、偏っていたりしていれば、当然それに気づいた第三者から批判や指摘が入って当たり前。内容がどうであろうと、もしそれがきちんと理に適った納得のいくものであれば、「こういう考え方もあるんだな」と誰も何も言わない。「考え方の相違」だけで終わる話。

矛盾や偏見、屁理屈を振りかざし、それを「真理」として他人に一方的に押しつけるという「原因」があるから、批判されるという「結果」になる。自分が出したものや与えたもの返ってくるという「法則」がきちんと働いているではないか。

彼らの場合、その批判が「自分にとって不本意なもの」である時、「原因」はすべて相手側にあると考えるようだ。「レベルの高い自分」に原因があるとは思いたくない。「魂のレベルが低いから」「覚醒していないから」自分はその「レベルの低い人達」に八つ当たりをされている、不満の捌け口にされている被害者くらいに思っている。だが、批判を引き寄せているのは、他ならぬ彼ら自身なのだ。

彼らは「批判」を「攻撃」「悪」としか受け止めない。「ひょっとしたら、そうされる原因は自分にあるのではないだろうか?」という考えに及ばないのは、心のどこかに「スピリチュアルに生きている自分」「スピリチュアルに目覚めた自分」という驕りがあるからだ。

「批判」とは、言いっ放しや言い逃げが可能な匿名の掲示板やコメント欄に書き込まれる根拠のない「中傷」とは訳が違う。「この部分が矛盾している」「ここがおかしい」きちんと論理と根拠に基づいたものだ。それを一方的に排除しようとするのは、狭量さの表れだ。有り体に言えば、「正しい自分」が意見されることが我慢ならないのだ。

「謙虚さを持つ人」は、常に自分を客観視することが出来る。批判を「別の視点からの見え方」として、自分を省みる材料にする。「批判する人はコンプレックスを持った波長の低い人」とか「他人を批判したカルマは、自分の性格が悪くなることで返ってくる」などという相手を貶めるような発言をする前に、まず自分自身の言動をチェックする。それは「卑屈さ」とはまったく違うものだ。

「自分は正しい」という思い込みをベースに物事を捉えるから、「正しい自分を批判する相手がおかしい。間違っている」となる。当然、批判や指摘を「自分を否定するもの=攻撃」としか受け止められない。どれだけ自分達が偏った位置にいるか、物事を偏った視点で見ているか―彼らはそのことにまったく気づいていないのだ。そして、そういった部分は、彼らの価値観や本音、本質といったものの表れでもある。

そして、「批判したり否定するのは愛がない」などという妙な定義の下に繰り広げられる気持ちの悪い仲良しごっこが、更にその「無知」を増長させるのだ。その結果、「裸の王様」が溢れかえる。「本当の自分の姿」を知らない、知らされない、知ろうともしない人々が。


逃避願望と自己愛が強く、自分を省みる謙虚さを持たないスピおたにかかったら、「宇宙の法則」も「カルマの法則」も、簡単に捻じ曲げられてしまうのだ。なぜなら、彼らにとってあくまでも「正しいのは自分」なのだから。自分が正しくあるためには、自分のプライドを守るためには、どんな手を使ってでもそれ以外のものを捻じ曲げる―それが彼らの流儀なのだ。




【追記】「他人を批判すると、そのカルマは自分の性格が悪くなるということで返ってきます」「低い波長の人が他人を批判するんです」とか、何言ってんだかの世界です。「他人の目を気にして言いたいことを言えない人」が言うに事欠いて、悔し紛れに「おまえのかーちゃんでーべーそー!」と悪態ついているようにしか思えません。

そんなこと言ったら、学校の授業にも取り入れられているくらい議論が盛んなアメリカなんて、波長が低くて性格の悪い人だらけじゃないですか。議論には批判が付き物ですからね。白熱してくると、そりゃあものすごい状態になります。

どうして「批判=悪」となるんでしょうね??完全に個人の価値観というか、思い込みです。まあそう決めつけるのは、意識の中に、「はっきり物を言う人」に対しての妬みや憎しみのようなものがあるということです。過去にそういったことにまつわるトラウマがあったりとかね。その人の「こだわり」から、その人の「過去」や「恐れているもの」などが推測できるわけです。

自己愛が過剰な人の文章というのはすぐ判ります。くどくどと言い訳がましいですから。「これはこういうことであってこういう意味ではありません」とか。「懇切丁寧」とは全然違います。媚びも目立ったり。自分のブログなのに誤解されないように気を使ったり、好かれるようなことを言おうとするあまり言いたいことも書けないなんて、一体意味があるんですかね?ある意味気の毒です。

「自分が何を言いたいか」ということより、「どう言ったら他人に受け入れてもらえるのか」「気に入られるにはどんなことを言ったらいいのか」ということが大事なんでしょうね。

「人を批判すると性格が悪くなる」って言いますけど、性格が悪くなるというカルマを恐れるあまり、言いたいことを溜め込むほうが、よっぽど「歪んだもの」をもたらすと思いますけど。表面上は「いい人」に徹して、実は腹の中では「上から目線」全開で、人を小ばかにしているスピおたさんを見ていると特にそう思います。

傲慢さと、自分に都合の悪いことから逃げ回って相手を攻撃するということから生じる「カルマ」は、当然スピおたさん自身に返ってくるんですよね?だってそれが「宇宙の法則」ですもんね。

どちらにしろ、自分を批判する相手を「理不尽な因縁を吹っかけて絡んでくるチンピラ」扱いした挙げ句、「上から目線」を装って逃げるのは、卑怯者のやり方です。




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散華(再掲載)

 2010-08-15
【散華(さんげ)】①仏に供養するために花を散布すること。②誤って、「華と散る」と解し、戦死を指していう。(広辞苑「散華」の項目より一部抜粋)


母方の祖父には一度も会ったことがない。

私が生まれるずっと前、第二次世界大戦が終わる3年前、昭和17年に27歳で戦死しているから。実家の仏間に飾ってある遺影と、祖母の手元に残っている数枚の写真でしか祖父の顔は知らない。

色白で、ちょっとえらの張った顔で、くっきりとした二重まぶた。眼鏡をかけていて、髪は少し癖がある。細身で、物静かな印象を受ける。文学青年みたい。目のきれいな人だ。孫の私から見ても「いい男」だと思う。

祖母や母方の親戚、祖父の兄弟達から聞いた話によると、とても「いい人」だったらしい。

高校生の頃、祖父が戦地から家族に送ってきたハガキを見せてもらったことがある。10枚近くあっただろうか。どれも大分傷んでいて、数箇所に押されている「検閲」の赤いインクも所々擦れていた。

それを見ると彼の人柄が忍ばれる。祖母と、当時2歳と0歳児だった私の母と叔母に向けて書いたそのハガキの文面は、文章も文字も、余白に書かれた絵も、すべてが優しかった。

趣味で絵を描く人だったらしく、多分戦地に持っていったと思われる絵の具で、ハイビスカスやバナナ、椰子の木等、熱帯のめずらしい植物が丹念に描かれていた。戦死した場所は「南方戦線」としか分からない。ニューギニアではないかと言われているが、未だに詳細は不明だ。でもハガキに描かれた絵から推測すると、やはりそのあたりなのかもしれない。

当然遺骨や遺品も戻ってきていない。祖母によると、石ころがひとつ、骨箱の中に入っていただけだったという。

東京でサラリーマンとして働いていたところに召集令状の「赤紙」が来て、結婚3年目の妻と、2歳になろうとする娘と、間もなく生まれてくる予定の子供を残し、彼は出征していった。そしてそれから1年後に戦死した。

ニューギニア、フィリピン、ジャワ、ビルマ(ミャンマー)等「南方戦線」は特に悲惨だったと聞く。生きて帰って来られた人は本当に少ない。戦闘でよりも、餓死、マラリアやコレラ等の伝染病で命を落とした人が多かったという。

祖父がどんな死に方をしたのかは分からない。ただ、「もっと生きたかったろうな」と思う。まだ27歳で、まさに「人生これから」という時に、戦争という自分の意思等が一切及ばないことで死んでいくことを、どう感じていたのかと思う。

祖父だけでなく、あの当時戦場で死んでいった多くの人達も同じだ。みんな「お国の為に」「愛する者を守る為に」そういった思いを抱いて散っていった。日本の未来が明るいものになるよう、愛する者達が幸せに生きていけるよう―その為には自分達が犠牲になることも厭わなかった。「きっといい国になる」「きっといい未来になる」そう信じていたはずだ。


戦後65年経った今、日本は豊かになった。経済大国としての地位も得た。だが、今の日本の現状はどうだろう。我先に他人を踏みつけ、自分のことしか考えない。「もっともっと」「よこせよこせ」の欲のかたまり。

「もっと豊かな人生を手に入れるために!」「ソウルメイトと出会うための○○」「運命を好転させるための○○」ただの欲望を満たすための妙なスピリチュアルや自己啓発で溢れかえっている。またそれに群がる者の多さと浅ましさ。

今の日本に住む人達は「ヒマ」なのだと思う。「平和ボケ」と言ってもいいのかもしれない。切羽詰った生命の危険にとりあえず晒される心配がない。ただ個々の衣食住の確保だけを考えていればいいといった状況。

これが内戦や戦闘地域に住む人達だったらそうはいかない。「どうしたらソウルメイトに会えるのかしら」等と、ぼんやり考えていたらミサイルや爆弾が飛んでくる。

「もっと豊かな人生になるには」などと考えている暇はない。今日食べる物を手に入れるには、どうすれば明日まで生き延びられるか―それだけで精一杯だ。

今自分達がこうやってフワフワとお気楽に人生を悩んでいられる時間を持てるのも、すべて先人達のお陰。あの人達が命を賭してくれたから。彼らにはそういったことを思い悩む時間など、ほとんどなかっただろう。お国のために。愛する者のために―ある意味、「自分のものではない人生」を送った人達だ。

「彼氏彼女とうまくいかない」「人間関係が辛い」「仕事にやり甲斐がない」くだらない悩みとは言わない。ただ、そうやって自分自身のことだけに集中して悩んでいられる今の状況が、どれだけ幸せで恵まれたものなのか、それを認識してほしいと思う。

今の自分の人生が、どれだけ多くの人達の犠牲や思いや献身の上に成り立っているものか、それを考えてほしいと思う。表に出ない「陰」の部分、「お陰様」あっての今の自分があるということを。

そういった感謝の気持ちや理解がなければ、「自分を磨く」と言って様々なものに手を出しても、何の意味も持たない。


今の日本や、そこに住む人々の現状を見て、あの人達はどう思うか―最近よく考える。
嘆く人もいるかもしれない。怒る人もいるかもしれない。呆れる人もいるだろう。でも意外に、些細なことで青息吐息している私達を見てニコニコしているかもしれない。

祖父が戦地から家族に宛てたハガキには、こう書いてあった。「ただ、ただ、みんな元気でいてください。元気でさえいてくれればそれで十分です」

仕事がどうの、人間関係がどうのと、自分のことしか考えていない勝手な私達を「しょうがないな~でもいいよ、いいよ。平和な時代でよかったね」と笑って見てくれているような気がしてならない。


祖父が亡くなって68年。孫の私は祖父の年齢を遥かに越えてしまった。

もし祖父が、先の戦争で逝った人達がもし今の時代に生まれ変わっているのなら、どうか平和な国に―。例え物質的に豊かでないとしても、好きなことができて、好きなことを言えて、自分の意思で生きられる人生を―。戦争の前に、それぞれが夢見ていた、思い描いていたような人生を送れていますように―。




2008年11月26日に掲載した記事を、今日8月15日「終戦の日」に改めて掲載させていただきました。

私の父方の祖父は、当時埼玉県に2人しかいなかった農業検査技師でした。希少人材だったため兵役は免除され、戦地に赴くことはありませんでしたが、その長男(私の父の一番上の兄)は、学徒動員で召集され、学徒兵として送られた戦地で亡くなっています。

自分が兵役を免除された戦争で息子が命を落とした―祖父の心境は計り知れません。同じ家族の中でも、これだけの「差」があるというか、運命が分かれるわけです。

ここ1週間ほど毎日、NHKで深夜に連続して放送された戦争体験者達のインタビューに基づいたドキュメンタリーを見ていました。ある回の時、激戦地の南方戦線から生還した元陸軍兵士で、現在90歳を超えた男性が、こうおっしゃっていました。

「生きて帰ってきたことは自分にとっては恥なんです。この65年、自分が生き永らえていることを本当に心から申し訳なく思って生きてきました。死んだ仲間達に申し訳が立たない」顔をくしゃくしゃにして、涙をぽたぽた落としながら。

この方に限らず、元兵士やその遺族等、「生き残った人達」の多くは、「自分は今も生きている」ということに対し、深い罪悪感を抱えていらっしゃいました。見ていて胸が詰まりました。「この人達が悪いわけじゃないのに」と。

「生き恥を晒して生きている」「本当に申し訳ない」何度もそう繰り返し、終戦から65年以上経った今も自分自身を責める人達がやり切れないというか、切ないというか。改めて、「戦争って何?」と。

そして今日、終戦の日―。国籍・人種関係なく、先の戦争で亡くなったすべての方達に合掌。そして、戦争がもたらしたものに今も苦しむ人達の心が、少しでも安らぐ時が来ることを願って―。




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歪んだ鏡

 2010-08-12
「スピリチュアル狂信者」は、いくつかの特徴がある。その中の一つが、「強烈な自己愛」。

「自己愛が強い」と言うと、多くの人は「自分のことが大好きな人。またそれを周囲に押しつける人」と思っている。ナルシシストとか「俺様」キャラのような。だが、彼らは単に「自分という人間が大好きでたまらない人」なのだ。「自分自身の熱烈なファン」というだけのこと。

本当の意味での「自己愛が強い人」というのは、いろいろな意味で「完璧であること」「自分自身を守ること」に強いこだわりを持っている。「間違いを犯す自分、恥を掻く自分を認めたくない」という意識が非常に強く、プライドが高い。

例えば、「逆ギレする人」がその一例。自分に全面的な非があるのにもかかわらず、理不尽なことを並べ立て、結局すべてを相手のせいにする―それは強い自己愛を持つが故なのだ。彼らの中では、自分は常に「完璧で正しい存在」だ。完璧な自分に間違いや恥などがあるわけがないし、万が一にもそんなことが起きてはならない―彼らはそう考える。

だが事が起こり、自分の非を認めなくてはならない状況から逃れられないとなると、「相手が悪いと思いたい」という意識が芽生えてくる。「完璧な自分像」が崩れたことが許せないところに、もともとの強い逃避願望が加わる。やがてそれは高じて「相手のせいにしたい」になり、最終的に「相手が悪い」に変化する。

明らかに自分が悪いにもかかわらず、「恥を掻かされた」「おまえの責任だ!」と激怒する。「相手に~された」という被害者意識に転化されるのは、彼ら流の「防衛反応」なのだ。自分自身の正当化。相手が悪いと思い込むことで、彼らのプライドは守られる。これが「逆ギレ」の、そして「自己愛の強い人」の基本の思考構造なのだ。


強い自己愛を持つスピリチュアル狂信者の場合、平和主義というか、いろいろな意味で受動的な人が多いので、ベクトルは他人ではなく、自分自身へと向かう。「体裁」にこだわるのも特徴の一つ。他人の目を意識し、自分をよく見せようとする意識が常に働くので、「逆ギレする人」というレッテルを周囲から貼られることは、彼らには不本意なことなのだ。「いい人」でいることにこだわる人が多いのも、「他人から見た自分」を意識しているから。

「逃避願望」の強さや「完璧主義」、プライドに執着するところは「逆ギレする人」と同じだが、あくまでも「体裁」を気にする彼らの場合、自分の内面―意識や感情のほうを捻じ曲げる。そうすれば、他人の反感を買うこともないし、自分の評価も傷つかない。

そして一切をシャットアウトする。事実から目を逸らし、都合の悪いものや自分が見たくないものをすべて締め出す。見たいもの、見たいと思うものしか見ないようになる。自分自身の「本当の姿」も含めて。

例えば、友達の幸せや幸運を妬む夜叉のような顔をした自分が鏡に映っているとしても、自分の「闇」を認めたくない強い思いがあれば、彼らの目に映るのは、聖母のように穏やかで優しげな顔をした自分の姿なのだ。

それは一種の自己暗示だ。暗示というものは、本人がその内容を本当に強く望んでいる時にだけ作用する。「自分の闇を見たくない。自分はこんな醜い心を持った人間ではない」その人の「光」に対する願望が強く大きいものであればあるほど、暗示は強く働く。

鏡に映る夜叉の顔を一瞬にして消し、聖母のものに変化させるなど、彼らには簡単なことなのだ。強い暗示下にあれば、見たいものだけを見ることができる。もっともそれは、自分の意識が作り上げた「幻想」に過ぎないのだけれど。

自分が見たいもの・見たいと思うものだけで構成された世界に生きるということは、歪んだ鏡を覗き込んでいるようなものだ。そこに映っているのは、「ありのままの姿」とはかけ離れたものなのだから。歪められた「真実」があるだけなのだから。


「友達を羨んだり妬んだりする自分が嫌」と言う人に対し、「それはあなたが、『自分もその人と同じようになれる』という可能性を潜在意識で知っているからです」「嫉妬するのは、自分も同じものを手にすることができるのに、まだ手に入れていないからです」あるスピ系ブログの公開相談のやり取りだ。

世界的に有名なIT業界の大富豪の名前を出してきて「その証拠に、この人のことは妬ましくないでしょ?」とも言っている。そして、「そういった自分の中から湧いてくる感情は、過去生から持ち越していることがほとんどです。説明のつかない思いや感情の原因を探っても意味がありません。そう感じる自分をただ受け入れるだけで浄化が始まります」と。

これは「歪んだ鏡」を見ている人の典型的な例。事実や真実から目を背け続けてきたスピリチュアリストの典型的な回答なのだ。

自分の見たいものだけを見、見たいと思うものだけをそこに出現させる。自分に都合の悪いものは徹底的に排除する。道理を曲げてまで自分を正当化する―そうやって生きてきたスピリチュアリストは、やはりクライアントにも同様のことを強いるのだ。「問題」から目を背けさせ、ひたすら自分を甘やかし、闇雲に肯定させることに終始する。かつて自分が自分自身に対してそれをしてきたように。

「逃避」ベースのスピリチュアリズムを説くスピリチュアリストは、その定義を本来の意味とはかけ離れたものに捻じ曲げ、都合のいい「言い訳」にする。スピリチュアルの世界ではよくあることだ。実際、逃避願望がきっかけで、この世界にはまり込んでいく人は多い。

彼らは、すべてを「綺麗ごと」にしたがる。自分の「本当の姿」を見ようともせず、スピリチュアルの定義を捻じ曲げ、ひたすら自分自身を正当化することに終始する。自分の中に存在する闇の部分すら打ち消そうとする。

そして、そのスピリチュアリストの「コピー」―現実と向き合わない人、「本当の自分」から目を背け続ける人がどんどん巷に増殖していく。歪んだ自己愛から生じたものが、他者にどんな影響を与えるかという実例だ。


「歪んだ鏡」を持つスピリチュアリストは、「見たい自分の姿」しか見ようとはしない。自分の「本当の姿」を見ることさえ拒む人間が、誰かの姿を映し出す「鏡」になることなどできるはずがないのだ。「鏡になるということ」の意味を、それはどんなことなのかということをまったく理解していないのだから。

クライアントの「真の姿」を映し出すことが出来ない鏡など、何の役にも立たない。率直に言えば、それは「有害」でしかないのだ。




【追記】「相手に嫉妬するのは、先を越された悔しさからなんですー。相手がちょっと早くそれを手に入れたのを見て動揺しちゃっただけなんですー。あなたも同じようになれるから大丈夫ですよー」という意味不明のこの回答、実は有名どころのスピ本では必ずと言っていいほど言われていること。

以前目を通した何冊かのスピ本に、まったく同じことが書いてあった。もちろん著者はすべて違う人。スピリチュアル業界での「定説」というか、一種のマニュアル、回答例のようなものだ。「自分を否定しない」「すべてをありのままに受け入れる」という「定番」の定義を、その字面どおりに、杓子定規に当てはめただけのもの。

複数の人がまったく同じことを言うのはなぜか?それは、すべて「スピリチュアリズム(と名称変更しただけのキリスト教や仏教)」を基にしているから。それが唯一無二の「真理」、「正解」だから―というわけではなく、簡単に言えば、「同じ宗教」を信仰している人達が書いた本だから。

キリスト教であればカトリックとプロテスタント、仏教なら真言宗と浄土宗―多少の違いはあれど、信仰しているものは基本同じ。現在「信者」が増えている「スピリチュアリズム」という新興宗教は、キリスト教と仏教が合体してできたものなので、結果同じようなことを言い始めるようになる。

そして、一種バイブル化したスピ本に書かれていることを鵜呑みにして「宣教師」になるのが、件の「あなたも同じように云々」というブロガーのような人なのだ。スピリチュアルを「逃避」の手段として用いてきた人の典型的な例と言ってもいい。



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間違いだらけのスピリチュアルカウンセリング

 2010-08-08
スピリチュアル系のブログ―特にヒーラーや占い師等の形でセッションなりセミナーなりを開催している人達のブログを読んでいていつも思うことなのだが、「カウンセリング」に対しての理解がないと思われる人がかなり多い。きちんと勉強したことがないということも含め、カウンセリング本来の役割からは程遠いものを行っているのがよくわかる。

特に問題なのは、「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」とやらを行っているパターン。何を勘違いしているのかと。スピリチュアリズムに限らず、「特定の思想や主義」を基準にして行うカウンセリングなど存在しない。前提とするものが存在する時点で、いわば「偏った状態」で行うそれは、もう「カウンセリング」とは呼べないのだ。

端的に言えば、「基づくもの」などそこにあってはいけないのだ。カウンセリングの中心になるのは、あくまでも「人」、クライアント自身。もちろん、カウンセラー自身の主義主張や志向を持ち込むこともご法度だ。何かに基づいての「前提」や、添わなければならない「基準」など一切不要。むしろ「そんなものは絶対に持ち込むな」と。

心理カウンセリングでは、精神医学や心理学の位置から助言を与えることはあるが、それはあくまでも「サポート」するためのもの。クライアント自身に現況に関する情報を伝達し、認識してもらう。現在の自分の状態を客観視してもらうために、「今のあなたは心理学で言うところのこういった状態にありますよ」という「第三者からの視点」を提供するためのものだ。そこには、「~でなければならない」「~するべき」などという押しつけや決めつけ、強要はない。

「基準」があってはならない―それがカウンセリングの大前提であり、基本中の基本。「スピリチュアリズムという名のキリスト教思想」を中心に据えてそれを行うなど、とんでもないことなのだ。「タブー」を犯しているのだから。その認識がないから、「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」などと平然と謳う。

「基準」が存在している時点で、すべてが崩壊しているのだ。特定の思想や思考方法等、それがどんなものであれ、何かに人を添わせようとすることは「洗脳」や「説得」でしかない。

カウンセラーの役割は「鏡になること」。言うなればまっさらな白紙、ゼロの状態でクライアントと向き合うことが必要なのだ。自分が「鏡」になって、その人の「今のありのままの姿(状態)」を映し出し、クライアント本人にそれを認識してもらう―それがカウンセラーの最大の役割であり、すべての「始まり」となる。それなのに、最初から歪んだものが映った鏡を見せてどうするのかと。


「スピリチュアリズムに基づくカウンセリング云々」と言ってのけるのは、現在のスピリチュアリズムが100%キリスト教の影響を受けて出来たものだと知らないから。現在世の中に蔓延しているスピリチュアリズムは「宗教」であり、「キリスト教思想」そのものなのだ。

そのからくりを見抜けないのは、聖書も読んだことがない、宗教というものの歴史や成り立ちを知らないという「無知さ」と、上辺の良さに騙されて、「自分は大丈夫」と根拠のない自信と共に安易に飛びつく危機管理の意識の低さの表れだ。「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」というものは、言うなれば、「キリスト教思想の押しつけ」なのだ。

西洋の宗教から生まれたスピリチュアリズムなど、本来日本人には不要なもの。「お陰様で」「お互い様」「お天道様が見ている」「あの人に足を向けて寝られない」そういった精神性がもともとある国に、神だの愛だの光だの「何を今更」なのだ。

実際、キリスト教宣教師のフランシスコ・ザビエルは、来日してまだ間もない頃から「日本人という民族は、今まで出会った非キリスト教徒の中で、最も優れた人々だ」という感嘆の言葉を書いた手紙を何度も本国に送っている。

「スピリチュアリズムに基づくカウンセリング」など、やっていることは、その実日本にキリスト教を持ち込んだ宣教師と変わらない。現在の日本のスピリチュアルブームは、言うなれば、キリスト教の「リベンジ」なのだ。

ちょっと名前を変えただけで、自分達の信仰に簡単に飛びついてきた日本人達を見て、ザビエルさん達はあの世で嬉々としてハイタッチしているかもしれない。時間こそかかったが、彼らの「野望」は結局達成されたのだから。

もしかすると、既に現代に生まれ変わって、妙な論理を振りかざすスピリチュアルブログを書いたり、怪しげなセミナーを開いて信者集めをしているスピリチュアリストとして日本で生きているのかも。


「相手の話を聞いていればいいだけ」カウンセリングとは、そんな単純なものではない。「聞く」ではなく、「聴くこと」を必要とされる。そこには常に「観察者」としての目がなくてはならない。主義主張や思想、感情―いかなる「基準」も設けない、時として「冷徹」とも感じられるような立ち位置に「聴く人」が存在してこそ成り立つものなのだ。

それは、メーカーの品質管理実験とよく似ている。完成した自社製品を、様々な環境や条件設定の下でとことん試す。例えば、時計メーカーでは、ビルの5階の窓からアスファルトの地面に時計を投げ落としたり、パソコンメーカーでは、気温42度に設定された室内で、24時間ぶっ通しで3週間パソコンを作動させ続けたりする。消費者の目線から見た場合の自社製品を、客観的且つ徹底的に検証する。

心理学の分野においても、「スーパービジョン」という場が存在する。カウンセラーとクライアントのやり取りのすべてを、熟練した他のカウンセラー達―スーパーバイザー達が検証し、それに対しての評価や助言を与えたりする機会。その場では、クライアントに対して使用した言葉の一つ一つに至るまで、「すべて」が対象となる。

基本密室で、1対1で行われるカウンセリングというものは、時としてその特性が裏目に働くことがある。第三者の不在が、カウンセラー自身が気づかない「盲点」を作り出すことがあるのだ。

「中立」「鏡」の存在でなければいけないカウンセラーが、無意識に独善的になったり、私情で反応するとか。カウンセラーといえども「人間」なので、やはり無意識に自分に対しての「緩み」「甘え」が出てくるのは否めない。自分の状態を、第三者の立場から確認してもらうことは欠かせない。惰性から来る「慣れ」を作らないためにも、自分自身を省みるためにも。

カウンセラーの「観察者」「批判者」としてのその目は、自分自身にも常に向けられていなくてはならない。第三者の視点で、常に自分自身を観察する―それが出来なければ、誰かの「鏡」にはなれないから。カウンセラー本人が、自分自身に最も厳しく鋭い「観察者」「批判者」でなければならないのだ。

どんな形であれ、「カウンセリング」というものに関わる人間には、「カウンセラーの自分」という製品の品質チェックを常に行うことが必要なのだ。公平で客観的な「第三者の目」を以って、自分自身でそれを行うということが。


術者個人の感情や価値観、精神状態等によって左右される可能性もある不安定な要素を持ったチャネリングやリーディング、特定宗教の思想や道徳が適用されるカウンセリングは、本来の形から大きく外れたものだということを忘れてはならない。

自分の「スピリチュアルカウンセリング」にものすごく自信を持っている人もいるようだが、それは「たまたままぐれのラッキー」といったところ。クライアント自身も、自分と同様に「スピリチュアルおたく」である場合などは特に「まぐれ当たり」が増える。「同じ宗教」に洗脳されている状態であれば、同意・共感可能な部分が多くて当たり前なのだ。

勘違いしている人も多いようだが、自分達が信仰している「定義」が当てはまるのは、自分達の「テリトリー」の中だけだと思ったほうがいい。もともとそこは「狭い世界」、集まる人の大半は、必然的に「同志」となる。世間の多くの人達もその思想や定義を理解しているはず、共有しているはず―という錯覚は捨てたほうがいい。

実際、「スピリチュアリズムに基づいた云々」という妙なカウンセリングを受けたり、関連書籍を読んだ結果、余計に混乱して収拾がつかなくなってしまった人達が大勢いる。それは、本来「中心にあるべきもの」が蔑ろにされた結果だ。その現実をどう受け止めるんですか?と。

スピリチュアリズムは絶対的なものではない。ましてやそれが唯一無二の「真理」でも「正しいもの」でもない。所詮人間が作り出したもの。「完全」ではないのだ。矛盾、歪み―生じるものの存在を、どれだけ謙虚に認識し、受け止め、真摯に向き合っていくか―その姿勢に、そのスピリチュアリスト個人の「器(うつわ)」が反映される。

外部からの「批判」を、「悪口「中傷」「攻撃」「憂さ晴らし」としか捉えず、それを常に排除する狭量さだけが目立つスピリチュアリストなど、器以前の問題なのだ。「カウンセラー」として必要不可欠な「自分自身に対する第三者としての目線」を持ち合わせていないということなのだから。

スピリチュアリズムの限界と真実―それらから目を背けようとする時点で、彼らの「本性」は既に明白だ。信念と謙虚さを持った人、「観察者・批判者の目」を持ったバランスの取れた人であれば、批判を「自分を省みるための材料」としてそれを捉え、活用しようとするはずなのだ。

「相手を否定しない」という「掟」に基づいて、気持ちの悪い「仲良しごっこ」に終始するスピリチュアリストの皆さんには、到底受け入れ難いことなのだろうけど。「自分が見えていない人」がスピリチュアルの世界に多いのはそのせいかと。


「歪み」と「偏重」に基づいた「スピリチュアルカウンセリング」がどんなものをもたらすのか、それにどう対処していくのか―「自称スピリチュアリスト」の人々の器がどれだけのものか、今後もお手並み拝見といこうではないか。



【追記】オーラの浄化だのヒーリングだのの前に、まずは「本当のカウンセリング」を基礎からびっちり学んでくれよと思います。「基礎」も出来上がっていない状態なのに、魂や心の領域にズカズカ踏み込んでいくのは、無謀としか思えません。小学校の算数レベルで、高校の数学を解くのと同じようなものです。

西洋の宗教が名前を変えただけの「思想」など、本来不要なものです。「スピリチュアリズムがなければ問題は解決できない」などと言っている人もいますが、そんなことはありません。「カウンセリング」の力を軽く見ないでいただきたいですね。「なめんなよ」と。要らないのは「スピリチュアリズム」とやらのほうなんで。

本来無用の長物であるものに固執するのは、カウンセリングだけで問題を解決できる能力がないからです。「=人間力の低さ」とでも言っておきましょうか。他人様にあれこれ説く前に、まずは自分自身を磨いたほうがいいかもしれませんね。

あ、言い忘れました。最後にひと言。「逃げんなよ」と。「私の使命は終わったようです」とか「古い役割は卒業します」とか「すべては自己責任です」とかあれこれ都合のいい理由を持ち出して、自分の蒔いた種から出来た物を無責任に放置して、スピリチュアルの世界からトンズラする人って結構多いので。そのへんはきっちり筋を通してくださいね。

あなた方の説くスピリチュアリズムに基づくなら、それはあなた達の「カルマ」でしょ?大好物である「宇宙の法則」にきちんと従ってください。その覚悟がないのなら、この業界からさっさと足を洗ったほうがいいかもしれませんね。




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ファストフード・スピリチュアル

 2010-08-05
現在利用しているこのブログには、「アクセス解析」という機能が付いている。このブログを訪れた人が、どういったキーワード検索でたどり着いたのかということが分かるようになっている。もちろんメールアドレス等を含め、個人の特定は一切出来ない。検索で使われた言葉だけが表示される。

うちの場合、「ヒプノセラピー 大阪」「カウンセリング 大阪」が断トツで多い。次いで目立つのは、「スピリチュアル批判ブログ」「自死遺族 サポート」「ネイティブアメリカン 文化」「アメリカ 文化」等といったところ。世間の人がどういった事に関心を持っているのか、その片鱗をうかがい知るのはなかなか興味深いものがある。

ここ最近、そのアクセス解析で表示されたキーワードで、いくつか気になるものがあった。「スピリチュアル 通信教育」「通信教育で学ぶスピリチュアル」「霊能力開発方法 通信教育講座」こういった検索結果が数回に渡って表示されていたのだ。

「通信教育で学ぶスピリチュアルとか霊能力??そんなもんあるの?」と調べてみたのだが・・・あるのだ。これが。まあ驚いた。通信教育って・・・。何というか、ここまで来ると「なんでもあり」の世界だなと。通信教育を否定するわけではないが、いくらなんでも「限度」というものがある。こういったデリケートな分野を通信教育で学ぼうとする人がいることも驚きだが、それよりも、それを教える講座があること自体が衝撃だった。

その中の一つは、週1回1~2時間、電話やスカイプを利用して、オーラチェックや遠隔ヒーリング、オーラの浄化方法、ヒプノセラピー等を個人指導するらしい。時々「オフ会」があるらしいが、それ以外は講師と直接対面することはない。傾倒しているらしいエハラさんの本を事前に読んでおいてほしいという指示が出ているが、独自のテキストはないらしい。

まあ他人様の「商売」のやり方に難癖をつける気はないが、「これってどーよ?」という疑念を拭えないのが正直なところ。関西が生んだ偉大な文化、「吉本新喜劇」のネタに、「オレ、こう見えても高校時代空手習ってたんや。まあ通信教育やけどな」「ズデーン(一同コケる)」という鉄板ギャグがあるのだが、思わずこれを思い出してしまった。

何というか、本当に「お手軽」だなと。月数千円の、ホテルでのランチ1回分くらいの金額の通信教育で学んだ「思想(と本人達が言い張るもの)」だけですべてを理解した気になって安易にプロとして開業して、「スピリチュアリズムに基づいた」とかいうカウンセリングやらヒーリングやらを施しちゃう人がワラワラ出てくるのが怖いなと。

大体、「プロ」として開業していいという「お墨付き」は、一体誰からもらうのだろうか?何を以って「修了」とするのだろうか?「自己申告」「やったもん勝ち」なら尚更怖い。未熟なスピリチュアリストがもっともらしい顔をして、「スピリチュアリズム」とおしゃれに名称変更した「宗教(実体はキリスト教や仏教)」を押しつけてくるのだから。


3年位前、通信教育事業を展開している某企業から、講師のオファーをいただいたことがある。講義用テキストやDVDの作成・指導まで全般に関わってほしいとのことだったのだが、お断りした。なぜなら、ヒプノセラピーの真髄は、通信教育などでは伝えられないから。

最大のネックは、レポート提出だけで、直接対面の授業―スクーリングシステムが一切含まれていないということだった。自分がこれから指導を受けようとする講師が、「一体何者なのか?どういう人間性を持っているのか?」ということを、受講生が直接肌で感じる機会がないという時点で、もう「違うな」と。もし自分が受講する側だったら、通信教育という手段でヒプノセラピーを学ぼうとは決して思わない。

ヒプノセラピーに関わらず、心や意識、身体といった「人間」に関わることを学んだり教えたりするには、やはり「直接対面」でなくてはならない。こういったデリケート且つ慎重さが要求される分野では、「非言語的な部分」が実は最も重要なのだ。百聞は一見にしかず―「観て学ぶ・感じる」という部分。「間」「空気」といった「言葉だけでは埋められないもの・伝えられないもの」の中に、一番重要な「核」が存在している。

その「核」を、週に1度の1~2時間程度の電話やスカイプ、時々開催されるオフ会だけでどう伝えられるのか?どう学べるのか?ということ。そういった部分の重要性を認識しているのであれば、容易に通信教育講座など開設できないはずだし、ましてや安易にそういった手段でスピリチュアリズムを学ぼうとは思わないはずなのだ。

気軽に入って気軽に手に入れて―ファストフードそのものだ。師匠のかばん持ちから始める「修行期間」もなく、心理学や宗教学、哲学等「必要最低限のこと」も学ばず、オーラとかヒーリングとか、簡単に手に入れた知識だけを使って「プロ」を名乗る―実に安易な世界。通信教育で習った空手で黒帯をもらったと言っているようなものだ。

実際、そういった通信講座で安易にスピリチュアルを学んだ人達が「全然学んでいないこと」、所詮それが「上っ面のもの」でしかないということがよくわかるのだ。その人達には、「教えられたこと以外のこと」を自分で学ぼうとする気がまったくない。なぜなら、「師匠」が出来ないことは、やはり「弟子」も同様に出来ないのだ。

例えば、師匠が「私は除霊は出来ません」と言っていれば、間違いなく弟子も同じことを言っている。ある講座の講師と受講生のブログを読んだが、「こういったことは無理です」と書いてある事例が、まったく同じだった。師匠が「出来ない」と言っていることを、「出来る」と言う弟子がいないことが不思議だなと。

「自分で学ぶ」「さらに」「もっと」という探究心や向上心、「師匠を超える」という気概がない証拠。もしくは、師匠が教えることが「すべて」だと思い込んでいることによる「慢心」か―そのどちらかだ。それは「謙虚さ」や「分相応」といった意識から来るものではない。

師匠がエハラさんやミワさんの信奉者なら、弟子も同様に信奉者になる。「エハラさんの本に書いてあることには間違いない」「エハラさんやミワさんの言うとおりにしていれば大丈夫」といった感じで。「エハラさんやミワさんの言っていることはすべて正しい」という証明すらないのに、師匠が「あの人達はすごい!」と言えば、そのまま鵜呑みにして信じ込む。完全に「宗教」なのだ。

教えられたことだけ、同じように―そのやり方は、手の洗い方から野菜の切り方、1回にどれだけの割合で玉ねぎと牛肉を掬うかまで決められているハンバーガーや牛丼のチェーン店のようだ。「マニュアル」があれば、誰でもできる。だから雨後の筍のように、大量生産された判で押したような代わり映えのないヒーラーやら何やらが次々と世の中に出てくるのだ。スピリチュアリズムという「統一マニュアル」を手にして。

お手軽な「ファストフード・スピリチュアル」は、所詮この程度。サービスにしろメニューにしろ、すべて最初から盛り込み済みのマニュアル化されたものなのだ。それ以上の「深み」を求めるのは、むしろ酷なことなのかもしれない。




【追記】オーラの色が見えなくても、チャネリングをしなくても、初対面であっても、その人の体の姿勢―いわゆる立ち居振る舞いや表情、声や話し方を観れば、どんな性格でどんな思考パターンをする人なのか、どんな環境で育ってきたのかということは大体推測できます。心と意識と身体の関係性を知っていれば、それは難しいことではありません。

オーラを浄化したりヒーリングしなくても、日々を誠実に一生懸命生きていれば、オーラは自然に輝きます。別に「スピリチュアル」を持ち出すほどのことでもありません。

しかし、スピリチュアルに関わっている人って、本当に「不勉強な人」が多いです。オーラとかヒーリングとか、そういったことだけじゃダメなんですよ。もっと広く、いろいろなことを勉強しないと。スピリチュアルには物理学とか理系の分野も関係してくるんですよ。「え!?」と思ったら、それは不勉強の証拠です。また、そこに言及しない「師匠」の実力も、所詮は「その程度」ということでしょうね。




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9月 自死遺族グリーフケア(個人対象)開催日時

 2010-08-04
2010年9月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 9月5(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 9月1日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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