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右往左往のスピリチュアル

 2010-07-25
「信仰している宗教はありますか?」そう聞かれると、大概の日本人は「いえ、無宗教です」と答える。結婚式や葬儀等、「宗教的な要素」が必要とされる機会においては、便宜上「とりあえず」ということで神道や仏教、キリスト教やその他宗教の形式に則ることはあっても、宗教やそれに基づく信仰が日常に深く浸透しているとは言い難い。最近は、仏壇や神棚のない家庭も多いと聞く。

だが、「自分は無宗教だ」と躊躇いもなく答える人が大多数を占めるこの国でも、最近「宗教」はじわじわと勢力を広げ始めている。自分が知らないうちに「信者」になっていることさえ気づいていない人が増えてきているのだ。

メディアを通して、自覚のないまま「教義」に染まり、それを実践するようになり、周囲の人に勧め始める。共感する者が集まって「教団」が形成されたり、「教祖」が誕生したりする―それが「スピリチュアル」の世界。スピリチュアリズムを「学問」や「哲学」と言う人もいるが、現在巷に蔓延しているそれは、「規律」「契約」「束縛」「服従」がベースの完全な「宗教」なのだ。

「ワンネス」「無我」「覚醒」「愛こそがすべて」スピリチュアルの世界で説かれていることは、キリスト教や仏教の教義そのものだ。「自分は無宗教」と言いながら、実はしっかりと各宗教の影響を受けているということ。特にスピリチュアルにはまり込んでいる「スピリチュアルおたく」などは、キリスト教や仏教の「信者」と言ってもいい。「スピリチュアル」という名のものを介して、間接的にそれらの宗教を信仰している状態なのだ。

宗教が悪いということではない。問題なのは、そういった複数の宗教の影響を受けて誕生した「スピリチュアルという名の新興宗教」で説かれている教義を、「=真理」として押しつける「信者」が数多く存在することだ。

その人達は完全に忘れている。「宗教」というものの「成り立ち」や「歴史」といったものを考えた場合、そこで生まれた「教義」が必ずしも万人に当てはまったり、受け入れられるものではないということを。彼らの言う「真理」は、あくまでも「その宗教の中でのみ通じるもの・認識されているもの」でしかない。だが彼らは、「それこそが全人類に共通する唯一の真理」と叫ぶ。

本来「真理」とは、事実や論理に基づき、万人が一致して「その通りだ」と認めるもの。宗教否定者や無神論者など、それに対して異を唱える人達が存在する場合、それを「真理」として定義づけることは不可能なのだ。それにもかかわらず、スピリチュアル信者達はそれを強引に押しつける。それを拒否する者、批判する者を排除しようとする。「魂のレベルが低い人」「未だ覚醒に至っていない人」などという勝手な位置付けをして。

宗教―キリスト教と仏教においては、神や仏だけが「絶対的な存在」となる。そして、「神・仏と自分が一体になる。一体である」という意識に至ること―「悟り」「覚醒」「ワンネス」を得ることを最終的な目的としている。キリスト教と仏教―入り口は違っても、結局行き着く先は同じなのだ。

よく似た特徴と同じ目的を持つ「キリスト教株式会社」と「仏教株式会社」の2つの企業が合併し、「スピリチュアル株式会社」という新会社ができたと思ってもらったらいい。そして、新会社となった今も、目指すところも「体質」も変わらない。悟り、覚醒、ワンネス―結局、各宗教の教義の「焼き直し」なのだ。

スピリチュアリストを自称し、スピリチュアリズムとやらを説く人達は、いわば、「スピリチュアル」という新宗教を広めている「信者」であり、「宣教師」。しかし、当の本人達がそのことをどれくらい自覚しているのかは甚だ疑問。「私は無宗教です」と言うスピリチュアリストが大勢存在することからもそれは明らかだ。だが実際は、無宗教どころか、複数の宗教に染まっている状態なのだ。「掛け持ち信仰」といったところ。


スピ系ブログの定番の一つは、「瞑想の勧め」。「ワンネスを感じること」を目的とするアチューンメントの類も目に付く。それらの「目的」は共通している。「覚醒すること」だ。「悟り」という言葉にも置き換えられる。

彼らは言う。「覚醒すれば、自分が全体(宇宙)から分離しているという恐怖や疎外感から脱出できる」「自己という存在は幻影や錯覚でしかなく、この世にはもともと『大きな一つの存在』しかない」「自分の存在は、ただの意識そのものだと理解すれば、財産や名誉といった目先の一時的な現象に囚われなくなる」「肉体や自意識への執着を捨て、世界全体を『一つの意識』として感じることで神の存在を体験できる」「孤独や空虚感に苦しむのは、『すべては一つ』というワンネスに目覚めていないから」「ワンネスを感じられない分離感こそがあらゆる苦しみの元」

彼らによれば、「覚醒(悟り)とは、自意識や肉体を含めた『自我』を捨て、『自分は大いなる一つの存在の一部であり、また、その存在そのものである』という意識に目覚めること」らしい。そして、「覚醒に至る道、神に近づく唯一の道こそが瞑想である」と言う。

「瞑想」は、宗教においては「修行の一部」。仏教、ヒンドゥー教、キリスト教等、各宗教によっては少しずつニュアンスや目的も違ったりするが、「自我を消滅させるための方法」であることは共通している。

宗教において、「自我」は不要なのだ。神や仏だけが絶対的な存在であり、自分達はその「僕(しもべ)」に過ぎないのだから、その教えにただ黙々と従うことが要求される。個人の思考は邪魔なだけ。それは「洗脳」の妨げにもなる。神の教えを徹底的に浸透させるために、余分なものを消滅させる―これが宗教における「瞑想」の本来の役割なのだ。

現在のスピリチュアルが、実はキリスト教や仏教がただ合体したものであるということを理解していないスピリチュアリスト達は、この「瞑想の罠」にまんまとはまっている。せっせと瞑想に励んだ結果、キリスト教や仏教の教義そのままのことを言い始める。「自我=病巣」と言い切る人もいる。

「神と繋がるには自我をなくすこと」「個人としての存在はこの世にはない。すべては夢であり、幻想に過ぎない」「すべてはひとつの存在でしかない」とか。「覚醒」「悟り」「ワンネス」というのは、それぞれの宗教に基づく観念でしかない。「自称覚醒した人達」は、それが万人に通じる唯一の「真理」だと言うが、通用するのはキリスト教や仏教の中だけだ。

「ワンネスを感じるためのアチューンメント」とやらを行う団体によると、「覚醒する(悟りを得る)と、苦しみがなくなり、愛や喜びに満ちた状態になって、他人や『大いなる存在』との一体感を感じるようになる。他人の目や細かいことが気にならない状態になる」らしい。

「キリストや釈迦等、聖人と同じ意識状態になる」とのことだが、「自称覚醒した人」「自称悟りを得た人」を観ていると、その割には「普通の人」と同様、つまらないことを気にしたり、こだわっている人が多いのはなぜだろうか?

「今ここ教」のファンだか信者だかが、批判記事を載せたブロガーに中傷メールを送ったらしい。IPアドレスから判明した発信先が、教祖が在住している地域と同じだった。それを知った教祖様、「自分が送ったと思われているのが嫌だ」と大変気にしていらっしゃる。「覚醒した結果、他人の目や思考等から解き放たれた自由な境地―「涅槃」に私は存在しています」と言っている割に、結構「人の目」を気にしていらっしゃるんですねーと。

「すべては一つなのです!あなたは私で、私はあなたなのです!ワンネスこそがすべての源なのです!」と言いながら、批判者に対して「他人のことをあれこれ言うのはヒマだからです!愛がないからです!」と決めつけて中傷する感情的な人もいるし。

「愛と喜びに満たされた状態」はどこに行ったんでしょ?「一時的な現象が気にならなくなる」って言ってませんでした?瞑想で得る覚醒とか悟りって、そんな程度のものなんですか??だったらその時間、私は家の掃除でもしときますわ。だって「覚醒した人」や「悟った人」から、そんな「ショボっ!」「器ちっさ!」という言動を見せられたら「ほんまに効果あるんでっか??」と疑いたくもなる。

心を静めたり、集中力を高めたりするために行う瞑想は、私は否定しない。だが、覚醒や悟り云々のための瞑想は、所詮この程度だ。というより、「真理」に気づいたからと言って、人間の「本質」というものは、何も変わらないのだ。「神に近づいた」と自称する人達の言動がそれを物語っている。結局は「自己満足」の領域を出ないものかと。

瞑想によって「高次の存在」とやらと繋がって、「お告げ」をもらうだけで満足して、問題の解決を先送りにしたり、瞑想という「行為」をする自分に酔っているだけだったり、「瞑想をすればすべてが上手くいく」と思い込んで何の努力もしなかったり―実際、そういう人達が多いのだ。結局、各宗教の目論見どおり「骨抜き」にされている。

それがキリスト教なのか仏教なのか、人それぞれに違いはあるが、瞑想をするのにいちいち「覚醒」だの「悟り」だの「神」だの「霊性を高めるため」だの御託を並べている時点で、既存の宗教に染まっているということなのだ。キリスト教や仏教の間を行ったり来たりしているだけ。

だが、本人達はそのことに気づきもしない。というより、完全な「不勉強」だ。自分が信仰するものの由来も知らない。学ぼうともしない―完全な「盲信者」だということ。覚醒とか悟りとかワンネスとか、そんなことを気にして瞑想するヒマがあったら、自分達が有難がって信仰しているものの背景をちゃんと勉強しろよと。その「正体」を知れば、自分達がそれに踊らされているだけだということに気づくから。

「宗教」が示す真理が、必ずしも「=真実」であるとは限らない。それすら疑わないということは、完全に宗教の手に落ちたということだ。もし、その「真理」が覆された時、「自我」を失った彼らは一体どこに向かうのだろうか。


まあ自分自身で「ボクは覚醒しました!」「私は悟りました!」と自慢げに公表する人達が言うことですからねぇ。「話半分」で聞いておくのがよろしいかと。その人達が「真理」にたどり着いたかどうかは、冷静にその言動を観察していればわかることです。「一貫性のない真理」なんて、ただの戯言ですから。




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「今ここ教」の矛盾

 2010-07-19
「今自分が存在しているこの瞬間、この場所が最も大事なのです!『今ここ』を大切に生きましょう!」」スピリチュアルの世界でよく言われていること。いわばメジャーな「教義」の一つ。スピ系ブログやサイト、本や講演会―「今ここ」が漏れなく付いてくる。登場しないものの方が珍しい。それを筆頭教義に掲げてスクールやらセッションやらを開催している人や団体の数もかなりのもの。

その教義は自己啓発の分野にも存在する。「今現在にすべての意識を集中しなさい」という形でそれは広まっているが、根底にあるものは変わらない。

「唯一神」信仰、聖典の一部の共有―ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係とよく似ている。しかし、今現在の様子を観ていると、「教義の一つ」というよりは、「今ここ」という部分だけが、完全に独立していると言ってもいい。「今ここ教」というものが独自に存在している。

だが、「今ここ教」を熱心に説く「教祖」や「宣教師」を観ていて思うのだ。「本当は過去を『なかったこと』にしたいだけなんじゃないですか?自分の思い通りにいかなかった昔をその言葉で封印しようとしているだけなんじゃないですか?」と。

実際、「今ここ教の教祖や宣教師」の多くは、ブログやセミナー等で、「恵まれなかった自分の過去」について切々と語っている。自分の努力や期待が報われなかった虚しさや絶望、存在を否定された悲しみや辛さ、思いがけないことから人生の歯車が狂ったことに対する無力感や劣等感―何らかの形で「過去にトラウマを持つ人」が本当に多いのだ。

今でも明らかにそれにこだわっていることが言葉や態度から窺い知れる。「今でもあの時のことを思い出すと苦しくなる」とか「出来るならあの時期を人生から消したい」とはっきり口に出す人も少なくはない。

そのことがきっかけで、スピリチュアルの世界に「目覚めた(実際は『逃げ込んだ』」と言う人がほとんど。スピリチュアルや自己啓発にハマるきっかけは、「人生においてのつまづき」と「自分自身に対するコンプレックス」と大体相場は決まっている。そして、この人達も例外ではない。

またそこで、うまい具合に「需要と供給」が一致して、たまたまその「宗教」に救われたり(=現実から逃避するためのもっともらしい口実が出来たり、自分が欲していたものをタイミング良く得られたり)すると、「平信者」のポジションから、今度はその教えを広める立場である「宣教師」や、自分自身の思い込みや決めつけを「真理」として掲げた新しい「宗派」を立ち上げて「教祖」になったりする。

こういった面を観ているとつくづく思う。「スピリチュアルや自己啓発って、やっぱり『宗教』だよなー」と。新興宗教での「入信」から「幹部」になるまでの過程とまるで同じだ。


「今ここ」を一生懸命に生きる―ということは、確かに大切なことだと思う。カウンセリングをしていても、過去に囚われすぎたり、未来を心配し過ぎたりして、完全に「今現在」が上の空になっている人が多いと感じるのも事実。

だが、「今ここ教」の教祖や宣教師がそれぞれ説く「真理」には、正直疑問しか感じない。なぜなら、そこには「矛盾」が存在するから。そもそも、矛盾が存在する時点で、それはもう「真理」とは言えないのだ。


「真理」とは、「本当のこと」「まことの道理」を指す。その真偽を判定することが可能な文や内容―「命題」が示している事態が「その通り」であり、万人が認める「事実」とそれが矛盾なく成立している状態を「真理」と呼ぶ。例えば、「柴犬は犬である」「雪は白い」ということがそれに該当する。

だが、彼らの説く「真理」には、常に矛盾がつきまとう。妙なことに、彼らは「今ここを生きることが真理なのです!」と説きながら、一方ではそれを否定するのだ。「この世は夢」「この世は幻想であり、自己も時間も存在しない」と言って。

論理的矛盾が見られ、命題と否定が同時に成立することなど、「真理」においてはあり得ないことなのだ。なぜなら、「すべてが合致すること」が、真理を「真理」として位置付けるための定義なのだから。どちらが「本当のこと」なのか?と。

もし、「今ここ」を肯定するのなら、「この世は幻想であり、時間は存在しない」ということは嘘になる。反対に、「時間は存在しない。すべては幻想なのだ」と言うのなら、「今ここ」は存在しないことになる。「今ここ」を生きることは不可能になるのだ。

この矛盾、ぜひ説明していただきたいものだ。破綻した論理で説く「真理(とか言い張っているもの)」は果たして「本物」なのか非常に疑問。掲げた教義を否定する別の教義が存在するなんて、一体どうなっているのかと。「一貫性」のない真理など存在するのか?と。

まあこういった疑問や批判も、「本来真実とは矛盾を含んでいるものなのです」とか「宇宙の神秘は矛盾する真実の向こうに存在するんです」とか、メッセージソングの歌詞みたいな屁理屈を持ち出して煙に巻くんだろうけど。

どちらにしろ、「今ここ教」の教祖や宣教師が説く「真理」とやらは、その定義にすら該当しないようで。彼らが説く「真理」は、「自称覚醒した時」「自称悟りを得た時」にでも見た「幻想」ではないかと。

彼らは言う。「この世はすべて幻想で、時間も自己も存在しない」と。だったら「存在しない自分」が、覚醒したり悟りを得た「瞬間(時間)」も存在しないことになるではないか。当然、そこで気づいた「真理」とやらも存在しないことになる。そんな状態で「今ここが大事なんです!それがすべてなんです!」と言われても、全然説得力が無い。結局、そこには真の理解がない―ということなのだ。


数ある「今ここ教」の某宗派の教祖様曰く、「自分という存在には実体がない。それは混乱が見せている幻影」「すべての苦しみの原因は、『自分が存在する』という錯覚にある」「自分など存在しないという『無我』の境地に至れば、その苦しみから抜け出せる」

要は、「自分という個人の存在なんか無くしちゃえばいいんだよ~そうすればすべてがうまく行くんだよ~」ということらしい。「無我を理解する唯一の方法は、思考を止めることだ」とも言っている。

これはもう完全に「宗教」。「すべては幻想だ。夢だ」などという戯言を吹き込んで「自分」という存在を否定させて、考えることも止めさせて―まるで奴隷や家畜ではないか。

「すべてはひとつ」とか「無我」とか、現在のスピリチュアルで言われていることは、キリスト教や仏教等の「宗教」がベースになっていることを忘れてはいけない。どんな宗教においても、「中心」になるのは「神」や「仏」であり、「自分」ではない。生き方や考え方も、当然そこで説かれる教義に従うことが善であり、すべてになる。

極端に言えば、宗教においては「自己」など不要なのだ。「絶対的な存在」は、自分ではなく、神や仏なのだから。「すべてはひとつ」とか「無我」とか、「自分を捨てる」方向に導かれていくのはそのせい。現在巷に溢れているスピリチュアリズムは、「=各宗教の教義を集めたもの(大半はキリスト教のもの)」と思ってもいい。

それは「洗脳」の始まりなのだ。「おまえ達は生まれながらの罪人なんだよ!劣った存在のおまえらに出来るのは、ただ神に祈ることなんだよ!」罪悪感を植えつけて支配するキリスト教のやり方とまったく同じ。

その結果、「核」を失った依存心ばかりが強い人間だけが増えていく。「支配者」にしてみれば、むしろそのほうが好都合。「自意識」を持った「考える存在」など、支配には邪魔なだけなのだから。

思考を奪われた人間は、矛盾に満ちた「真理」を露ほども疑うことはない。教祖が「あっちを向け」と言えば、あっちを、「こっちを向け」と言えばこっちを向くように手なずけられる。「なぜあっちを向かなければならないのか?」ということさえ考えなくなる。なぜなら、教祖様が代わりにすべてを考えてくれる。それに、「自分で考えること」を止めれば、すべての幸せの元である「無我の境地」にたどり着けるのだから。

同じ「信仰」の下に一つになる―それも「宗教」の典型的な特徴の一つ。そういった教義を押しつけて来るのは、「布教」と「洗脳」の一環だ。そして、彼らが言うところの「真理」とは、現在のスピリチュアリズムの背景に必ず存在する「宗教からの受け売り」だったりする場合もあるのだ。


「今ここが大事なんです!」と説きながら、一方で「すべては幻想なんだよ~夢なんだよ~時間も自分も本当は存在しないんだよ~」などという意味不明の言葉を口走る怪しい教祖や宣教師の説く「真理」とやらは、やっぱりどうにも胡散臭くて仕方ない。

まあ「すべては夢だ。幻想だ」「自己も時間も存在しないんだ」と思い込まなければ、「辛い過去の時間」や「辛い思いをした自分」の存在を受け入れられないのだろうけど。なんだかんだ言っても、結局最後は「逃げ道」を用意する―というのが、現在の日本に蔓延するスピリチュアルの「本質」なのだ。




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「一条の鉄」がない真理

 2010-07-13
「スピリチュアルおたく」がぶち上げる「真実」とやらは、結局のところ、自分自身の矛盾を弁護するための「言い訳」かと。所詮は思い込みと付け焼刃の知識の寄せ集めで成り立っているものなので、やがて「ぼろ」が出てくる。それを隠すための「つじつま合わせ」が必要になるのだ。

「無理を通せば道理が引っ込む」と言うが、スピオタのやり方がまさにそう。自分達の矛盾を「正」として押し通す。年がら年中「宇宙の理」とか言っている割に、その「理(ことわり)」を平気で捻じ曲げて、自分達を正当化しようとするのだ。


ある時「宇宙の叡智」を体験し、大きな感動と衝撃を受け、そこで得たものを「同胞」に伝えることが自分の使命だと悟り、ミュージシャンとして身を置いていた芸能界を即時に引退して「スピリチュアル塾」を開いた元ミュージシャンのブロガーさん、めちゃくちゃな論理を展開している。

この人によると、「言葉を超えた宇宙の神秘というものは、矛盾する真実の向こうに存在する」らしい。「真実とは、本来イエスとノー、どちらも含んでいるという矛盾したものなので、『本当のこと』を伝えるには、徹底的に矛盾するしかない」とのこと。

「生きていることは『変化すること』。昨日は『赤が好き』と思ったが、今日になって『黒が好き』と思うことも真実。一貫性がなくてもいい。『その時の自分』を生きていこう」「自分は、理路整然として一貫性を持っている人が信じられない。なぜなら、そこにはある種の『作為』があるからです」

「一貫性があること=作為がある」というその決めつけは、ある意味衝撃的。こういう発想をする人を初めて見た。「作為」ねぇ・・・。この人、本気で言っているのだろうか?こちらからしてみれば、言うことがその都度変わるわ、自分の矛盾を正当化するためには道理を平気で覆すわ・・・という人が多いスピリチュアル業界の人達のほうがよっぽど不思議。その「一貫性の無さ」の理由を、逆に聞いてみたいのだが。

あえて言わせてもらうなら、多分この人は、過去に、自分の言動に「一貫性」を持たせるために、それがあるように見せかけるために、何らかの「作為」を行ってきたのだと思う。そうでなければ、こういった発想は出てこない。

自分の信念や思考に一貫性がある人は、「作為」などというものとは無縁だ。自分の中に揺るがない何か、「核」や「芯」が存在し、それに基づいての言動をする。だからそこには自然と一貫性が現れる。いちいち「あの時自分はこう言ったから今日ははこう言わなきゃ」など、わざわざつじつま合わせをすることもない。中心に存在するものが確固としていれば、必然的に言動も首尾一貫したものになる。

「作為云々」という言葉を持ち出すこと自体、その人自身の中に、何かそれに関連する何か―例えば、「いつも不安定で定まらない自分」や「信念を持たない自分」に対するコンプレックスや、それを持つ人に対する反感や嫉妬心のようなものが存在するのだと思う。この人の「本音」「本質」が、その言葉に凝縮されているように思えて仕方ない。

実際、この方の文章を読んでいて一番感じるのは、厭世観と疲労なのだ。どんなに明るい内容や表現の文章でも、その印象は共通している。簡単に言えば、「悲観主義」。それがすべてのベースになっている。常に「暗さ」を感じるのはそのせいかと。

「若い頃スターになりたかった。売れっ子の同業者の友人が羨ましくて仕方なかった。寝る間も惜しんで曲を書いた。感じの良い笑顔や表情を練習した。でもスターにはなれなかった」「今過去生がどうとか流行っているけど、そんなものは思い出さないほうがいい。それは今生と同じくらい苦しくて惨めで、なんとか日々を乗り切って、最期は失望と未練の中で死んだんだから」「人を非難したくなった時には思い出して欲しいんだ。その人も大きな荷物を背負った孤独な人なんだってことを。その人も本当は愛されたいんだよ」とか。

さすが元ミュージシャンだけあって、言うことも情緒的というか、まるで歌の歌詞みたいだな~と。

「すべては今ここにあるんです」「すべては中立、グレーなのです」と説きながら、「人生は闘うか降伏するしかない」「みんな一つの存在なんだから、競争なんかしなくていいんだ」とか。実際に言っていることは完全な「二元論」。明らかに「偏っている」。全然「グレー」じゃないじゃんと。

傍から見ている人間からすれば、「今ここが大事なんです!」と言いながら、実際は、自分の過去の満たされなかった思いやコンプレックスの「つじつま合わせ」に他人を巻き込んでいるようにしか思えない。いつ撮られたものかは知らないが、ブログのプロフィールに使われている写真も、大勢の観客だかファンだかを前に、ステージに立っているものだし。

「一貫性がなくてもいいんだよ~」というのは、実は「一貫性のない自分」への慰めの言葉であり、自己弁護なのだ。生き馬の目を抜くような芸能界での競争に疲れてレースから降りた自分、貫き通せなかった自分の不甲斐なさを、「スピリチュアル」という高尚な響きのある世界(実際は下世話)を隠れ蓑にして正当化しているだけのように思えるけど。


このブロガーさん、元ミュージシャンだけあって、「その時の気分と感覚」を中心にして物事を考えたり、捉えたりする人かと。それに左右される人。その瞬間に感じたことが、自分にとっての「真実」になるタイプ。だから言うことがコロコロ変わる。「好きな色が昨日と違っていてもいいんだよ~」と言うのがその証拠。いわゆる「芸術家タイプ」というやつだ。

その時の体調とか気分とか、何かの拍子に一瞬で変化する不安定な「好み」や「感覚」の問題を、本来不変なものである「事実」や「真実」と同列に並べて語る傾向があるのだ。いつもは「絶対にご飯党」の人が、何かの拍子に朝から晩までパンしか食べたくなくなるようなことさえ、「真実」に組み込むタイプ。「それとこれを同レベルで考えるか!?」という「次元の違うこと」を、すべて一緒くたにしてしまうのだ。

だが、本人にしてみれば、そこには「矛盾」など存在しないのだ。なぜなら、その都度感じたことは、すべて自分にとっての「リアル」なのだから。本人からすれば、「だってあの時は本当にそう感じたんだもん。でも今はこう感じるんだもん。全部本当のことなんだから仕方ないじゃん」となる。これだから「感」で物を言うスピリチュアリストはやっかいなのだ。


そもそも「ベース」にしているものからして違うのだ。「言動に一貫性のある人」は、信念や道理といった、いわば「時間を経て積み上げてきた強固なもの」「ちょっとやそっとじゃ揺るがないもの」「不変なもの」を核としている。だが、「そうでない人」は、一時の、その瞬間の気分や感覚など、「移ろいやすい不安定な要素のあるもの」を中心に据える。だから「一貫性のある人は作為云々」という発言が出てくるのだ。

本人達には、「自分達が正しい」という自負が常にあるので、当然それ以外のものは、「間違っている。おかしい」となる。「悟りを得て覚醒した人間である自分達は、常に思考が変化する。そんな高度な魂を持つ自分達でさえ一貫性を持たないのにおかしいじゃないか。一貫性を持つ奴らは、そう見えるように何か裏で工作をしているんじゃないか?その振りをしているんじゃないか?高いレベルにいる自分達が出来ないことをやれるのは、何か裏があるんじゃないのか?」と。

そして、「常に正しい自分達」を正当化するために、半ば悔し紛れの妙な理屈を捏ね始める。「真理は矛盾を含んでいる」とか「矛盾する真実の向こうに言葉を超えた宇宙の神秘が存在する」とか。ご大層に聞えるが、実際は、自分達の不安定さから来る矛盾、「確固たるもの」を持たない自分自身を正当化するための「言い訳」なのだ。自分達の気概のなさを「綺麗事」にして逃げているだけだ。

仏教に、「万里一条の鉄」という言葉がある。万里の間も一条の鉄で貫通する。すべての現象は時々刻々に変化するが、真理は永遠に連なっている―という意味。「一貫性」に対して「作為」を感じるこのブロガーさんは、これをどう捉えるのかと。こま切れの「真実(とか言っているもの)」を繋ぎ合わせた先には、一体何があるのやら。

「本当のことを伝えるには徹底した矛盾が必要」?そんなことはない。決して揺るがない、何ものの影響も受けない不変のものである「事実」に照らし合わせたらいいだけだ。そこに個人の感情やら感覚を持ち込むから面倒くさいことになる。スピオタの大好物の「法則」とやらも、本来はそういったもの。「法則」や「真理」は、個人の矛盾や感情、感覚などに左右されるものではないのだ。

それはあくまでも「自分の経験」「自分の感覚」から出た言葉。ナントカ塾とかナントカスクールとか銘打って開催している、お互いに群れて慰めあうための「同胞」集めの場所で、それを唯一無二の「真理」として押し付けるのはいかがなものかと。「伝える」と言ってはいるが、実際は「洗脳」だ。


その都度言うことが違ったり、言動が合致しない「矛盾した一貫性のない人」を私は信用しない。ビジネスの場だったら、即取引中止、ブラックリスト入り。それは、過去に企業で働いていた時の経験と、自営業の経営者である現在の立場から得た教訓。そういう人と関わると、まずろくなことがない。

というか、社会人なら当たり前の心構え。絶対に必要なこと。それなのに、「スピリチュアル」においては、そのガードを一気に下げて盲目的にその「教祖」を信じてしまう人があまりにも多いのはなぜなのだろうか?

「宇宙の叡智」とやらを体験した歓喜と衝撃から「お告げ」を受けて、事前の報告もないまま一方的に「今日で辞めます」のひと言で即日所属事務所を辞めてパワースポットで修行したり、就業中に会社のパソコンで個人ブログ更新していたことが見つかって叱責されたことを逆恨みしたり、「人を裁くな!否定するな!」と言いながら、根拠のない「中傷」を平気でしたり―。

そういう「現実社会で無責任な人」を、どうして簡単に信じるのか不思議で仕方ない。どうして現実世界と精神世界を分けて考えてしまうのかと。試しに、自分がいる組織の中に、その人達がいることをシミュレーションしてみたらいい。

朝出社してきたと思ったら、いきなり「ボク、今日限りで退職します!」と仕事の引継ぎもしないで退職届を出すとか、仕事をほったらかして個人ブログ更新しているとか、根も葉もない作り話や悪口を社内外にばら撒くとか―。

「かなり迷惑な人」であることがわかると思う。実生活では確実に避けるような類の人達を、なぜ「心や意識の領域」では、「教祖」や「メンター」として簡単に受け入れ、熱心に崇め奉るのか?

現実社会をきちんと生きていけない人は、魂の世界でもきちんと生きていけるわけがない。「今ここ=現実・現在」を積み重ねてきたものが「過去」であり、積み重ねていくものが「未来」。それは魂の世界まで続くのだ。「無責任な今ここ」を生きてきた人の「現在」が、きちんとしているかどうかは甚だ疑問。

「その時自分が求めている言葉をくれたから」「感じのいい人だから」そういった「自分の都合」や「甘え」を軸にして、全面的にその人を信用するのはとても危険なことなのだ。「自分だけは大丈夫」「この人に限って」などという根拠のない自信や思い込みは、既に「危機感ゼロ」の状態にあると言ってもいい。「すべてを疑え。何も信じるな」と言っているのではない。「自分のすべてをやみくもに、容易に明け渡すな」と言っているのだ。

スピリチュアルや自己啓発に関わらず、芸能人とか、「人を相手にする職業」には、良くも悪くも「人たらし」の要素が必要なのだ。その人の「パフォーマンス」に全部乗っからないこと。「いい人」を演じることなど、最初から一連の「演出」の中に折り込み済みのことなのだから。感じのいい態度や笑顔、優しい言葉は「仕事の一部」でもある―ということを忘れてはいけない。

スピリチュアルや自己啓発分野の仕事に携わる人は、「公私の境目」が非常に曖昧になる。プライベートと仕事、両方で得たものが心や意識に反映されるので仕方の無いことではあるのだが、いつの間にか「作った自分、演じている自分」と「素の自分」の区別がつかなくなっていくのだ。

だが、本人はまったくそれに気づかない。そして、その間の、「虚像」と「実像」のギャップが特に激しい場合に生じる「矛盾」を打ち消そうと躍起になるのだ。「真実は矛盾を含んでいる」「一貫性がある人には作為がある」などと無茶苦茶な論理を振りかざして。

そういった「張りぼて」に簡単に騙される人が多い日本って、何だかんだ言って、まだ無邪気というか、無垢というか、お人好しの傾向が強い社会なのかもしれない。言ってみれば「幼稚な社会」。そして、「繋がり」や「所属意識」に飢えている人達が、今現在世の中にかなり多く存在しているということでもある。


「一貫性のないスピリチュアリスト」の言う「矛盾する真実の彼方に存在する宇宙の神秘」とか、昔取った杵柄で作ったメッセージソングみたいな戯言を、「教義」として簡単に自分の中に取り入れるのは危険かと。「感覚」や「感情」に全面的に支配されるような「バランス」の悪い人の説く真理や真実は、やっぱり偏ったものだと思うのだ。

欧米の文化やキリスト教の影響下で捻り出された「スピリチュアリズム」とやらを有難がたがったり、「悟りを得た!覚醒した!」と自称する人達の妙な屁理屈を聞いたり読んだりするよりも、一つのことに一心不乱に取り組んできた職人さんの仕事ぶりや、スポーツ選手のプレイを見たりすることのほうが、よっぽどためになると思うけど。

「一貫性」を「作為」として否定したり、「真理は矛盾しているものなんだぜ~矛盾があってもオッケーさ~♪」と意味不明の理屈を捏ねて開き直るようなスピリチュアリストの言うことが通用するのは、「同胞」だけが存在する、彼の狭くて小さい「楽園」の中だけなのだ。そして、その楽園は、「同胞のため」というよりは、むしろ「彼自身のため」に作られた可能性もある。

批判は要らない。競争も要らない。すべては一つ―「ゆとり教育」のような「真理」を掲げるこの楽園の主の真の意図は、どこにあるのか?―それを今一度冷静になって観察することだ。楽園どころか、ただの腑抜けを生産する工場だったりしてね。「競争」や「批判」のない社会が辿る末路―世界の歴史を見ればそれは明らかだ。

自分に都合のいいことしか聞きたくない。見たくない―と現実を締め出すのは、既にそれが「逃避目的」であるという証拠。「同胞、仲間」とちやほやされて、気がついたら「道連れ」にされていて大慌て―とならないよう気をつけたほうがいいかも。

自分の中に確固たるものが存在すれば、誰かが作った「楽園」などを必要とすることはないのだ。




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イン アンド アウト

 2010-07-08
スピリチュアルや自己啓発系のブログを読んでいると非常に疲れる。一番の原因は、「筋が通っていないから」。論理が破綻しているので、書いている内容を把握するのに何回も読み直さなくてはならないことも度々だ。共感とか反論以前に、「何を言ってるのかさっぱりわからん」というレベル。

大半がセミナーや関連書籍等からの受け売り―いわば、そこから得た知識を切り取って、自分に都合の良いように繋ぎ合わせただけのものなので、一貫性に欠け、矛盾に満ちている。それに加え、「自分は悟りを得た!覚醒した!」という自負や、そこから来る優越感を前提に物を言うので、余計にやっかいなのだ。

その人の発言に基づいた根拠のある批判をしても、ネタにされた腹いせに「人のことをあれこれ言うのは受容力がないからです!ヒマだからです!そういう人こそ自分を棚に上げて何もしない人です!」等と、実際会って話したこともないのに「見えない部分」を妄想で決めつけて中傷してくるような類の人はご遠慮願いたい―というのが正直なところ。

「他人を裁くな!否定するな!」と言う割には、自分がそれをしていることさえ気づかないような、妙な選民思想に囚われている幼稚な人とは、出来れば関わり合いたくもない。そんなヒマがあったら、好きな作家の小説でも読んでいたい。「だったら読まなきゃいいじゃないか」と言われそうだが、そうはいかない。そうせざるを得ない理由がある。


カウンセリングの最中、「これはこの人の中から出てきた発想じゃないな。何かの受け売りだな」と感じることがある。それはその時々、人によって異なるのだが、簡単に言えば、「違和感」や「矛盾」のようなものだ。使う言葉やその時の表情等、そういった表面的なことを含め、「何かおかしい」という感覚が沸き起こってくる。

その人自身とそれらがマッチしないというか、どこかちぐはぐなものを感じるのだ。話の前後も噛み合わないし、妙な引っ掛かりを感じる。本来そこには存在しないものを、無理矢理ねじ込んだかのような。精進料理の中に、ステーキの皿があるような感じで。そして、その部分こそが、クライアント本人の悩みや苦しみの「原因」になっていたりする。

その原因の「元」は、十中八九、スピリチュアルや自己啓発系ブログ。特に、ブログランキングなどの上位にあったり、書籍の出版や講演会、セミナー主催等メディアに露出している度合いが多かったり、熱心な「ファン」がついているようなものであることが多い。

人間は、どうしても「多数の側」を重んじる傾向がある。「これだけ多くの人が読んでいて、良いことを言っているし、マスコミにも出ている人のブログだから間違いない。きっと正しいことを言っているに違いない」という感じで。

最初からそのブログを、「正」として位置付けてしまうので、内容に共感できなかったり、正反対の考えを持つ自分を、無意識に「自分が間違っている。共感できない自分は問題がある」と思い込んでしまうのだ。

コメント欄が肯定的な意見で埋め尽くされている場合などは特にそうだ。「少数派」の自分は間違っているのではないか?人として欠陥があるのではないか?と、自分に対してネガティブな意識を向け始めてしまう。そして結果、自分の意識や思考を、他人のそれに無理矢理合わせるようになる。

輸血の際に、適合しない血液型を体内に入れれば、当然「拒絶反応」が起きる。それと同じことが、意識や心の部分に起きるのだ。だが、既に「自分が間違っている」という意識に囚われている人からすると、その血液型に適応できない自分のほうがおかしい―ということになる。だから自分のほうを「矯正」しようとするのだ。


「それはご自身の考えなんですか?どういう経緯でそういった考えに行き着いたんですか?」と聞くと、大抵「実は○○っていうブログに書いてあったことなんですけど・・・」という答えが返ってくる。「いい人そうだし、大勢の人がその人の意見に同意してるから、多分それが正しいことなんだと思って・・・」あまりにもそう言う人が多いので、必要上いろいろとチェックするようになったのだが、まあ驚いた。

これだけ多くの人がスピリチュアルや自己啓発系ブログを読んでいるということもさることながら、何よりもその内容が・・・。論理は破綻しているは、言動は矛盾しているは、正直「なんだこれは・・・」と呆れるようなものが蔓延している。正直「これはやっかいだぞ」と。その大半は、自説の「押しつけ」「強要」なのだ。

多くの人が、その押しつけられたものによって、更に深く落ち込んでいく。だが、「後付け」の、自分を無理矢理押し込めようとしたその「自分には適応しない教義」を取り去った場合の視点を提供すると、その人達皆が見違えるように変化する。今後自分はどう行動したらいいのか、どう考えたらいいのか―それを自分自身で見つけることが出来るようになる。

そもそも、それぞれ背景や原因が異なる人達に、同一の思考を適用しようとする時点でおかしいのだ。それは単なる「洗脳」だ。

自分から進んでそういった分野のブログを検索して読むということは、「心身共に弱っている時」がほとんどだ。特に、自分が求めているもの、欲しかった言葉をそこに見つけた場合、人は一気にのめり込んでいく。そのブロガーが救世主に、ブログがバイブルになる。人は、心のどこかで「絶対的なもの」を求めている。そこを突かれるのだ。

一度そこにはまり込んだが最後、多くの人はそこから出ようとしなくなる。「もっと違う考え方があるかも。もっと違う世界(視点)があるかも」などとも思わなくなっていく。やっと見つけた「安住の地」。ちょっとぐらいの不都合は、自分が我慢すればいい―そう思うようになる。それにたくさんの「仲間」を発見したことで、心強さや「所属する場所」があるという安心感も得られる。

それだけ「精神的な拠りどころ」を求めている人が多いということなのだが、多くの場合、そこはただの「避難場所」や「逃げ道」になってしまっている。

一見居心地の良さそうなその場所は、実は「牢獄」なのだ。鉄格子も無く、明るくて楽しげな雰囲気。否定も裁きも存在しない。和気あいあいとした繋がりだけがある。「同調」だけが存在する世界。だがそこは、気づかないうちに魂を抜き取られる場所でもある。永遠にそこから抜け出せない恐れもあるのだ。


「スピリチュアルや自己啓発が嫌いなんですか?」「宗教否定派ですか?」批判記事を書いているせいか、そう聞かれることがある。まあこれだけ「なんかおかしくね?変じゃね?」とか言っているので、そう思われても当然。だが、べつに「アンチ」ではないし、存在自体も否定しない。というか、「あり」だと思っている。むしろ、そういった世界とは馴染みが深い。

父方は、神社の神主を代々出している家系で、別次元の存在が見えたり、聞えたり、話せたりする人が多い。未来のことがわかったりとか。いろいろな意味で「神道」色が強い家なので、日常には、それに関連した祭事等が多かった。

母方の血筋は武家なのだが、武士から修験僧になった先祖が何人かいる。世間で結構有名なお寺のいくつかが、その先祖と深い関わりを持っていたり。離婚した元だんなさんの実家はお寺で、まあ一応「寺の嫁」だった過去もあるわけで。結構宗教色の強い環境にいたと思う。

プロの占い師やチャネラー、ヒーラーの友人知人もいる。スピリチュアルや自己啓発、宗教関係のお仕事をされている方達もこのブログを読んでくださっているようで、感想メールをいただくことも多い。

興味を持ったものにはまず手を出してみる性質なので、20年以上前から、そういった分野が世間ではまだよく認知されていなかった頃から、スピリチュアルや自己啓発のセミナーやセッションも国内外でいろいろ受けてきた。

だが、実際にその「内部」に入ってみて思うのだ。「おかしいものは、やっぱりおかしい」と。変なものは変―それは、「内部」にい続けている限りは絶対に分からない。いくら居心地が良くても、少しでも「あれ?」と違和感や矛盾を感じるのであれば、一度「外」に出てみることだ。たとえそれが9:1の割合だとしても、そのわずかな部分が、「本質」を告げている場合もあるのだ。


「人を裁いてはいけない」とか「人を否定してはいけない」とか、愛とかワンネスとか、そういったことを声高に主張する人というのは、言動を観察するかぎり、どっぷりとその「中」にい続けている人だ。批判を含め、自分に都合の悪いことはすべて排除しようとするのがその証拠。「狂信的」と言ってもいい。

「スピリチュアルは哲学だ」と言う人達もいるが、少なくとも、現在世の中に出回っているスピリチュアルの類は「哲学」とは言えない。哲学とは、本来「学問」だ。肯定と否定、両方の面が存在するべきもの。だが、巷に溢れるスピリチュアルにはそれがない。なぜならそれは、キリスト教の教義がベースになっているものだから。その偏り、排他的な姿勢や思考、同調の強要―それは「宗教」そのものなのだ。学問としての片鱗もない。

「いいとこ取りをすればいい」「まずは形から」といったことも詭弁。新興宗教によくある手口。「最初から偏ったもの」の中から選ぶ「いいところ」や「真似」は、やっぱり「偏ったもの」でしかない。最初の段階からずれているわけで、そこには本当の姿、「本質」など存在しないのだ。

そういった妙なスピリチュアリズムが今の日本にもたらしたものをよく見ればいい。受け売りの知識を切り貼りした矛盾に満ちた妙な教義を都合よく使い分け、「本来向き合うべきものから逃げ続ける人」、真似しただけで満足して、「結局何もしない人」を大量に生み出しただけではないか。セミナーを次々にはしごしたり、特定の言葉を唱えて「ナントカの儀式」を行ったり。そんな「他力本願」な人達が世の中に溢れかえっている。

「いいとこ取り」「形から」「否定してはいけない」「裁いてはいけない」所詮そんな言葉は、正当化のための言い訳なのだ。教義に反する者の迫害、信者の洗脳、「家畜」の増産―過去にキリスト教が行ってきたことが現在でも行われている。「歴史は繰り返す」という言葉通り、やっていることは今も昔も同じなのだ。

狂信的な信仰で構成された世界の中でしか、その「教義」は通用しない。「異端」を締め出すのは、それによって自分達の「聖域」が崩壊するのを防ぐためなのだ。風通しの悪い澱んだ狭い世界の中で生まれる教義は、むしろ「妄言」と言ってもいい。

内と外、その両方を知らなければ、知ろうとしなければ、物事の全体像、「本当の姿」や「本質」というものを掴むことは出来ない。「どちらか一方だけ」では、真理には到達できない。偏った教義を信仰し、盲目的に付き従う―そんなふうに自分自身を明け渡し、降伏する必要などないのだ。




【追記】スピリチュアルがどうとか騒ぐ割には、自分達が主張するものの由来や背景といったものを全然知らない人が多いようで正直呆れます。スピリチュアリズムを説いたり持ち出したりするのなら、キリスト教や仏教をはじめ、まずは「宗教」を知れと。聖書も読んだことがない、キリスト教の成り立ちや背景、歴史も知らない・・・そんな状態で、よくあれこれ語れるなと思います。受け売りの知識だけで通用しちゃう日本のスピリチュアルって、やっぱり「その程度」なんでしょうね。



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サッカー小僧に覆されたエセスピリチュアル

 2010-07-04
「人を裁いてはいけない」「人を否定してはいけない」「人を批判するのは受容性がないから」「愛のない言葉は聞く必要がない」巷に蔓延するエセスピリチュアルの常套句だ。一連の言葉を突き詰めていくと、結局根底にあるのは「自己保身」かと。

こういうことを言い出す人は、大抵ブログなどで、過去の人間関係にまつわるトラウマを切々と語っている。裁かれ、否定され、批判され、「愛のない言葉」を言われて傷ついた経験を持つ人が多いようだ。「同じ思いは二度としたくない」「もしまた同じことが・・・」という恐れや不安を常に抱えている。それを意識させられるような言葉や態度に過度に反応する。

議論や批判を含め、どんな形であれ、「人とぶつかり合うこと」を極度に避けようとする。「=悪」と思い込んでいる人もいる。本人達は、そういった自分達の言動を「和」を尊んでいるが故と思っているようだが、それは違う。それは「和」ではなく、「回避」なのだ。

「あなたのことは悪く言わないから私のことも悪く言わないで」「私を傷つけたり嫌な思いをさせたりするようなことはしないで」という思いが、先の言葉になる。「人を云々」と言ってはいるが、実は自分自身がそうされたくないのだ。否定されたくない。裁かれたくない。批判されたくない。「愛のある言葉」しか聞きたくない―結局ベースとなっているのは、自分の中にある恐れや不安なのだ。

彼らの様子を観ていればよく分かる。場の空気が悪くなろうが、誰かに嫌な思いをさせることになろうが、「その時言わなければならないこと」を決して自分から言い出そうとはしない。お互いの顔色を窺いながら、自分以外の誰かがそれを言ってくれるのを、ひたすら待ち続けるのだ。自分は決して「悪者」になりたくないから。そうしなければ自分が傷つくことになる。

誰かがその役を買って出た時に見せる、彼らの安堵したような一瞬の表情と空気―それが何よりの証拠。とりあえず「悪役」になることから逃れられると、途端に態度は一変する。自分が安全圏にいることを確認できると、例の定義を持ち出して、あれこれ言い出すのだ。その場ではだんまりを決め込んで、後で陰口や根拠のない中傷をし始める者もいる。

お互いに耳ざわりのいい言葉しか口にしない馴れ合いの関係。表面だけの「仲良しごっこ」。それをもっともらしい言葉を持ち出して正当化しようとする。そうやって自分達の「魂胆」を隠そうと小細工するところがいやらしい。「人とぶつかり合うこと」にトラウマを持つスピリチュアルかぶれの人によく見られるやり方だ。


そういった意味不明の定義を駆使して、ひたすら「仲良しごっこ」に終始したがるスピ系ブロガーさん曰く、「心が萎縮するようなメッセージ、気分が暗くなったり重くなったりするメッセージには愛がありません」「心や気持ちが軽くなるメッセージこそが愛であり、宇宙の真理なのです!」

ふーん・・・面白いこと言うね。それじゃ、本当に相手に必要なものが、あなたが言うところの「愛のないメッセージ」のほうだったらどーするわけ?「良薬は口に苦し」っていう言葉もあるし。明るく軽く楽しげな響きのものだけが、愛や真実を伝える―っていうその「決めつけ」は何が根拠なわけ?「愛」って、本当にそれだけの要素で成り立っているものなの?

先日、サッカーワールドカップに出場した選手団が帰国した。今回活躍が目立った本田圭佑選手が、インタビューの際、こんなことを言っていた。「チームメイトは仲間であり、親友です。でも、自分達はただの仲良しこよしの集団じゃないんで、お互いにきついことも言うし、雰囲気が悪くなることもあります。でも、試合に勝った時なんか、そんなことは全部吹き飛んでしまう」

帰国前日にも、代表選考から練習風景まで、ワールドカップ出場までの彼らの様子を1年間記録したドキュメントをテレビで放送していたが、練習時の様子など、鬼気迫るものがあった。罵声や怒声が飛び交い、ピリピリした緊張が漂う。否定や批判は当たり前。フォーメーションの練習中、飲み込みの遅いチームメイトに苛立って、「あのフォワード変えて!イライラする!」と本人を前に怒鳴ったり。そんなことはしょっちゅうだ。

相手を否定しない。批判しない。裁かない。愛のない言葉を言わない―スピリチュアリストが定義するように、それが真の愛だというのなら、日本チームには「愛」などなかったと言える。

だが、ベスト8進出を賭けたパラグアイ戦で、惜しくもPK合戦の末敗れた時の彼らの様子を見れば、スピリチュアリスト達が説く「愛」の定義など、完全な嘘っぱちだということが分かる。無言で抱き合ったり、肩を叩いたり―お互いを気遣い、労うあの場面には、そんな安っぽい定義などは当てはまらない。シュートを外したチームメイトにも、くどくどと「心や気持ちが軽くなる言葉」など掛けていない。だが、彼に対する仕草や表情から、心の内は十分伝わってきた。

チームメイトとなってからの1年、その間彼らはさんざんぶつかり合ってきた。「あんな奴すぐ交代させろ!使えない!」「おまえのやり方じゃ通用しないんだよ!」とお互いを否定し、批判したこともある。相手を萎縮させたり、またその逆もあった。いわば、スピリチュアルの定義とはまったく逆のことをしてきたのだ。だが、そこにはちゃんと「何か」が生まれ、存在していた。

私には、「愛とは何か?」ということは、未だによく分からない。だが、彼らの姿を見ていて、これだけは思うのだ。否定しないこと。批判しないこと。裁かないこと―巷で言われている定義は、ただの「逃避」であり、自己保身のための「言い訳」に過ぎないと。

例えそれらをしたとしても、「愛」、もしくは「そのようなもの」、もしくは「それに値する何か」は、何物の影響も受けることはない。むしろ、何かの影響で崩れるような脆いものなら、それは多分「愛」ではないのだ。

彼らは、「全力を出し尽くす」という決意の下、ひたすら全力でトレーニングに取り組む。チームメイトが出すパスに反応できない自分自身への苛立ちを、「その感情をただ感じつくす」などという妙な修行で誤魔化したりしない。即座に次のパスを取りに走る。シュートが成功した時のイメージトレーニングをすることはあっても、ボールを蹴る前に、「シュートを決めさせてくれてありがとうございます」などという「先取りの感謝」はしない。ハイヤーセルフに「どんな作戦を立てたら勝てますか?」などと尋ねたりはしない。

スピリチュアルとは多分無縁の、「他の物には興味ねーし」とサッカー一筋に打ち込んできたサッカー小僧達が証明してくれたものこそが、限りなく真実に近いものではないだろうか。

「このチームでもっと戦いたかった」口々に言う彼らの様子を見れば、それが口先だけの言葉でないことが分かる。たとえ相手を否定しようが、批判しようが、「愛のない言葉」を連発しようが、スピリチュアルの世界で「タブー」とされていることをしたとしても、「本物の関係」は作れるのだ。

セミナーをはしごして身に着けた上っ面だけのエセ定義は、ひたすら一つのことに全力で取り組んできた人達が放った「事実」によって覆された。甘くて優しいものだけが「愛」ではない。それに該当しないものはすべて排除するその姿勢、「逃避」以外の何ものでもない。


こんな明白な事実を目の当たりにしても、それでもまだエセスピリチュアリズムにしがみついて「仲良しごっこ」を続けるんですか?「スピリチュアリスト」を自称する皆さん?





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8月 自死遺族グリーフケア開催日時(グループ対象)

 2010-07-02
2010年8月のグリーフケアの会(グループ対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 8月1(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 7月27日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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盗人の屁理屈

 2010-07-01
【盗人猛々しい】
悪い事を咎められているのに、あつかましくも逆に食ってかかること。泥棒が盗みを咎められても、ずぶとく構えて平然としている様子から。(学研 故事ことわざ辞典より)



愛だの光だの魂を磨くだのと高尚な言葉を声高に唱える割には、現実世界ではその真逆、「社会人」としての常識や自覚が欠けた言動を取って平然としている「スピリチュアリスト(自称)」が世の中には大勢いる。

「私達ソウルメイト婚なんです♪」をセールスポイントに、それに関連したセミナーやセッションをご夫婦でやっている人達のブログは、正直「非常識」のオンパレード。自分達を正当化するための言い訳や屁理屈で埋め尽くされている。申し訳ないけど、「夫婦揃ってこういう状態って痛くね?」と思うことも度々。「ストッパー」の不在が暴走に更なる拍車をかける―という悪循環。

「第三者の目から見た自分達の姿」「社会においての自分達のスタンス」というものを、この人達は意識したことがあるのだろうか?一社会人としての自分達の言動を、客観視できないところが怖いなと。自分達の非常識やけじめのなさを棚に上げて、「自分達は悪くない」と言い張る姿は正直いただけないものがある。

何でも、以前サラリーマンだったご主人は、その当時からスピリチュアルに関するブログを開設していたとか。そのご主人、休暇中に上司にパソコンの中身をチェックされたらしい。そのことによって、メールの内容も当然のことながら、ブログを書いていることも上司の知るところとなった。上司はご主人のブログを読み、「危険思想の持ち主だ」と会社の上層部に訴えた。その結果、別の部署に異動させられ、ブログでの活動を自粛するよう言い渡されたらしい。

奥様は、このことに大層憤慨している。「人のパソコンを無断で盗み見るなんてひどい!」とか「理不尽だ」とか。

このご主人、中世ヨーロッパで魔女狩りに遭い、火炙りの刑にされて亡くなった過去生がある―と某ヒーリングスクールのセンセーに言われたことがあるらしい。「うちのだんな様は、また過去生と同じように、罪もないのに迫害を受けたのです!」と奥様は大騒ぎ。

いつも思うことだが、スピリチュアルにどっぷりはまり込んでいる人というのは、なぜいつもこんなふうに自分達を「被害者」の位置に置きたがるのだろうか?悪いのはいつも相手のほう。自分達は、悪者から理不尽な攻撃を受けている―というその完全な「被害妄想」は一体どこから来るのかと不思議に思う。

無断でパソコンを盗み見たと上司を非難しているが、上司の方の行為は、極めて「正当なもの」だ。なぜなら、そのパソコンは「会社の所有物」なのだから。業務上必要なツールとして会社から「貸与されている物」であり、「個人の所有物」ではない。そのパソコンに関する「権限」は、あくまでも会社側にある。「勝手に云々」と上司を非難するのは、完全な筋違い。

パソコンの中身を含め、社員の動向を会社側がチェックするのは当たり前のこと。その為の専任部署を設けている企業も少なくない。というより、そういった対策を採っている企業が圧倒的多数なのだ。

以前私が勤務していたメーカーでも、同様のシステムが導入されている。自分の有休中や会議や打ち合わせ等で席を長時間外している時、上司や同僚が自分のパソコンを開いてデータを取り出すなども日常茶飯事。その反対の場合もあるし。というより、そういう体制が「普通」なのだ。騒ぎ立てるほうがおかしい。

大体、「組織」の一員として、「公」の立場でその会社に所属しているのだから、パソコンのチェックを含め、社内での自分の言動を「管理」されるのは当然のこと。「プライバシーの侵害だ!」と騒ぐのは、ちょっと違うかと。ネガティブなもののようにそれを捉えるのは、自分の意識の甘さだ。社会人としての「自覚」がないということ。

警察官などは、社会的立場や性質上、採用試験に合格した時点で「身元調査」が入る。自分や親族の思想(新興宗教に入信しているかどうか等)や犯罪歴等まで調べられ、交際相手や結婚相手に関しても、上司に申告する義務がある。それに比べたら、一般企業の社員管理などまだまだ緩い。所属先や理由の如何に関わらず、「組織に属する」ということは、そういうことなのだ。「管理」されるのは当たり前のこと。


「自分のパソコンを無断で調べられた。それは理不尽な迫害だ!」と騒いでいるが、逆に「黙って見られたら不都合なものでも入っているんですか?」と。

「自分以外の人間に見られたらまずいもの」が入っているから騒ぐのであって、そうでなければ何を調べられようと平気なはず。だって、それは「会社のパソコン」なのだから。仕事関連のデータしか入っていない状態が「当たり前」なのだから、本来誰が見ても構わないはず。「騒ぐのは、何か疚しいことがあるからですか?」と。

パソコンの中身を調べた上司が、最終的にそのブログを読む段階にまで至ったということは、そのパソコンを、仕事以外の目的に、いわば「私的に流用していた」ということだ。読者とやり取りしたメールとか、記事が保存されたフォルダーとか、そういった「明らかな痕跡」があるから。そうでなければ、ハンドルネームを使って開設しているプライベートな個人ブログにたどり着くわけがない。

本来仕事専用として、「仕事以外の目的に使用してはいけない」という前提で貸与されているパソコンを、自分が趣味で開設しているブログに利用することは、言ってみれば「公金の着服や横領」と同じ。漫画本や女性用の下着を事務所の経費で購入していることが発覚した政治家とやっていることは一緒なのだ。それを「理不尽な迫害」とか。呆れて物も言えない。いわば、完全な逆ギレ。自分のやったことを棚に上げて、上司や会社を加害者扱いするってどーよ?なのだ。


スピリチュアルのような狭い世界にどっぷり使っている人―特にセッションやセミナーを主催する側には、「奇異な印象」を与える言動を取る人が多い。常識外れというか、世間一般の感覚から大幅にずれた感覚を持つ人がかなりいる。いろいろな意味で、公私の境が非常に曖昧になるせいかもしれない。

同じ思考を持った人達、いわゆる「同類」だけが自分の周りに集まってくる。自分と同じ思考をする人達しか存在しないセッションやセミナーを何回か経験していくうちに、だんだん誤解するようになるのだ。「世の中の多くの人が、自分と同じ考えを持っているに違いない」と。彼らの感覚の中では、自分達が「多数派」になっている。

そして、その状態が、「自分達は正しい」という意識を生み出していく。人間というものは、その内容や正当性より、「それを支持している人の数」で、物事の良し悪しを測るところがある。「これだけ多くの人が支持しているのだから、これが正しいに違いない。良いものに違いない」といった感じで。口コミが及ぼす影響が大きいのはそのためだ。

自分を含め、周りには同じ考えを持つ人しかいない。いわば、圧倒的多数を占める自分達が「正」であり、「善」である―と思い込むようになる。「正しい自分」が攻撃されると、強い「被害者意識」に囚われるのはそのせいだ。「自分は正しい。自分は間違っていない」という意識が常にベースになっているので、「自分を否定する人や出来事=悪、いわれのない理不尽な攻撃」となる。

傍から見ている側から言わせれば、「いや、理不尽なこと言っているのはあなたのほうですから」なのだ。「危険人物」認定された挙句、左遷されたことが面白くないようだが、それは当然の処分かと。むしろ「危険人物」というその評価、案外的を射ているかも。だって自分の非を棚に上げて逆ギレした挙句、相手を「加害者」扱いするのだから。その言動からして、既に「やばい人」でしょ。


ゴールデンタイムでの番組の放送、関連書籍のヒット―スピリチュアルの分野が「市民権」を得たと言っても、それは「=同調、賛同」ということではない。まだまだ「あやしい、よくわからない」という形容詞と一緒に語られることがほとんどなのだ。ましてや、そういったことに馴染みがない人、嫌悪感を抱く人、信じない人からすれば、それに基づいた主張を繰り広げる人は、「変な人」でしかない。

現在巷に溢れているスピリチュアルの大半は、キリスト教の教義がベースになっている。そのせいで「宗教色」も濃い。何かの新興宗教の勧誘や伝道と勘違いされても仕方のないところがある。地下鉄サリン事件を起こしたカルト教団に、一般企業の社員が多数含まれていたこともあるので、「すべては一つなのです!」などと、それっぽいことを言っている社員がいれば、企業側が懸念するのは当然のこと。他の社員達を「危険」から守る必要性もある。

このご主人のブログは全部読ませていただいたが、正直スピリチュアルの要素を除いても、「変な言動」が多いので。ご本人はユーモアを交えて表現しているつもりなのかもしれないが、何も知らない人からすれば、「変質者?」「この人おかしいんじゃない?」と疑われたり、警察に通報されても仕方のないような、常識では考えられないようなことをやっていたりするので。

過去のエントリーで、トランクス一枚で、車がびゅんびゅん通っている道路の横に寝そべっている写真を掲載したりとか。何の意味があるのか分からないコスプレしたり。(まあ本人は、まさかそういった姿を上司に知られることになるとは想像もしていなかったのだろうけど)「良識に欠ける素行不良の社員、危険人物」という烙印を押されても仕方ないかと。

いくら上司に権限があるとはいえ、休み中にパソコンを隅々まで調べられるような社員は、そうはいない。不信感を抱かせる十分な根拠があったということだ。実際上司の方の「感」は当たったし。結局「自業自得」ということ。

こういう世間知らずというか、自分達を正当化するために意味不明の屁理屈を捏ねる幼稚な人達が説くスピリチュアリズム、本当に危険です。自分達の権利とか自由とか主張する前に、まず「義務」を果たしたら?最低限の責任さえ果たさないのに、要求ばかりは一人前。あつかましいにも程があります。魂磨きはひとまず置いておいて、まずはその常識の欠如を何とかしてください―と思います。




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カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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