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「甘口」に徹する日本のスピリチュアル

 2010-06-25
スピリチュアル業界のセンセーというのは、どうも「批判」されることに慣れていらっしゃらない方が多いようで。

まあ「高次の存在」とやらと繋がってメッセージ降ろしたり、オーラを浄化したり等、特殊な能力を持っていたりすることもあり、ある意味クライアントより「立場が上」だ。尊敬や憧れの眼差しで見つめられたり、褒めそやされたり感心されることはあっても、その逆の場合はそれほどないはず。相手から受け取るのは、肯定の言葉や感情のほうが圧倒的に多いはずだ。実際「勘違い」している人も多いし。

ちやほやされることに慣れきっているというか、それが「当たり前」になっているので、それ以外の反応が返ってくると、非常に動揺するようだ。感情的になる人がほとんど。こうなった場合、もう理屈は通用しない。理屈に対して感情が返ってくる。筋道の通った話し合いは出来ないと思ったほうがいい。

スピリチュアルの世界というのは、もともと論理よりも感情を優先するところがある。そういう世界にはまる人というのも、観ていると、情緒的な人が多い。いわゆる「右脳人間」。論理や理屈よりも感情が優先されるタイプ。スピ業界のセンセー方も、例外にたがわずだ。「理屈じゃないのよ。頭で考えるんじゃなくて、ただ心で感じるのよ」も常套句。

感情を優先する―というより、感情的なスピ系センセーというのは、「批判=否定」と即座に受け止めるようだ。まず最初に感情が反応する。それは本人の完全な「思い込み」でしかないのだが、頭に血の上った状態のセンセーには、その「違い」など関係ないのだ。


「批判」とは、その人物や行為、作品や学説等を、価値・能力・正当性・妥当性といった「根拠」に基づいて判定することだ。例えば、その人の書いたブログの文章や内容を、「感情抜き」で判定するのだ。論理の破綻はないか?内容に正当性があるか?といったように。

例えば、「今現在説明のつかない思いや出来事は、すべて過去生が原因です」とある人が自分のブログに書いたとする。だが数日後、その人は「今自分が置かれている状況は、すべて自分の強い思い込みや価値観が作っているのです」と書いた場合、「言っていることが矛盾しているじゃないか。前はすべて過去生が原因って言ってたのに、今度は自分自身が原因って言ってる。どっちが本当なわけ?おかしいじゃないか」と言うのは「批判」だ。

だが、スピ系センセーの多くは、そうは思わない。「自分の書いた文章があれこれ言われている→自分の意見が否定されている→自分が否定されている」と思い込む。強い自意識故だと思うのだが、「自分に属するもの=自分自身」なので、例えそれが文章であろうが何であろうが、ちょっと否定めいたことを言われたら、即「自分の存在自体が否定された」となる。

「否定」は、「批判」とまったく違う。そこにあるのは最初から「無」だけだ。「根拠」さえ存在しない。正当性がどうとか、矛盾がどうとか、そういった「判定」をする間もなく、「すべてなかったこと」にされる。単なる好き嫌い―いわば、個人の価値観や好みといった不安定で形のない、比較対照すら叶わないものによって決定されるのだ。

思い込みの強いスピ系センセーは、それを完全に混同している。自分に対する「批判」を、「否定」で返してくる。感情ばかりが先走って、そこには論理や理屈など存在しない。その否定の「根拠」すらないのだ。

共通しているのは、ちょっと上から目線の物の言い方。「魂のレベルが低いから」「他人の言動にあれこれ口を出すのはヒマだから。そういう人は自分のことは平気で棚に上げるような人だ」「否定するのは愛がないから」とか。

それじゃあ、どこを見て「魂のレベルが低い」とか「愛がない」とか「ヒマだから」とか「自分のことは棚に上げて」とか言ってるんですか?その「根拠」を具体的に示してくださいよ―なのだ。それが出来ないのなら、あなたがやっていることこそが「否定」なんですよと。「妄想」で物を言っているだけだ。

大体「現在自分に起こっていることはすべて正しい」とか「あるがままを受け入れなさい」とか年がら年中言っている割に、自分への「批判」を目くじら立てて騒ぐのは、完全な矛盾じゃないかと。「あるがままの相手を否定しないで受け入れなさい」という言葉もよく聞くが、実体はその逆のようだ。

理屈は通じないわ、感情的だわ、言っていることは矛盾だらけだわ、読解力はないわ、もうバカじゃないかと。あ、今のは「否定」でした。すみません。でも「根拠」があるから「批判」かもね。

まあ常日頃から、「すべてはひとつ」とか呪文を唱えながら、みんなで気持ちの悪い仲良しごっこをしている寒い人達が大勢いる世界なので。「否定=悪」というすり込みをされた結果、「批判」と「否定」の区別もつかないような思考回路になったんだろうと。この人達にかかったら、多分「議論」も「口論」になっちゃうんだろうなー。

今では一部の教育機関でも導入し始めているようだが、学校教育の一環として、「ディベート(討論)」の授業を必須科目にしてはどうかと真剣に思う。アメリカなどでは、小学校から普通に取り入れられている授業。

理論と根拠、「Mine,Yours,and the Truth」の視点に基づいて物事や人について議論を行う―ということを、日本人も学ぶ必要があると思うのだ。こういった感情に任せて騒ぐ人達が多い様子を観ていると、特にそう思う。

「批判=否定」ではないということを学ぶいいチャンスだ。「批判」に免疫のない「打たれ弱い」日本人には必要かと。欧米人の議論や批判は、そりゃあすごいものがある。みんな仲良し、和気あいあいの環境に慣れきったスピ系センセーなどは、ショックで大泣きするか、青ざめて口がきけなくなるかのどちらかに違いない。

自分の発言にあれこれ言われたくなければ、パスワードを取得した人しか見られないような設定にしたりとか、メルマガにすれば?と思う。どんな形であれ、自分の書いたものをネット上で公開するということは、自分の意思など関係なく、批判を含め、さまざまな意見や感想に晒される可能性があるということなのだ。いわば、最初から含まれているリスクだ。それが嫌ならシステムを変えるか、ブログ自体を閉鎖するしかない。

自分の気に入らないことをされると何でも「攻撃」と受け取って騒ぐこの大人気のなさ、こういうセンセー達がいる世界って、多くの人が想像しているものより、遥かに下世話で幼稚な場所だ。


以前、某企業主催のシンポジウムで、日本に30年近く在住している中国人映画監督が言っていた。「昔の日本人は、自分に対する批判を面白がって聞いたり、それを別の視点からの考えとしてきちんと受け止めることが出来る懐の深さがあった。だがここ20年程の日本人は、自分の耳に心地の良い言葉しか聞こうとしなくなった。今や日本人は辛口の四川料理を敬遠し、甘口の広東料理しか好まない民族に成り果ててしまった」

この方のおっしゃるように、今の日本人の体たらくが始まったのは20年ほど前。それは欧米発信のスピリチュアルや自己啓発が日本国内に蔓延し始めた時期とも一致する。これは単なる偶然の一致か、それとも否か。どちらにしろ、「批判」と「否定」を取り違えた被害妄想に囚われる人間がスピリチュアルの世界に多いのは事実なのだ。

「肯定」しか許されない。感情論に終始する―「将軍様」が牛耳っている国や、「クジラやイルカは知能が高い動物だから殺すな」と騒ぎ立て、その背景にあるものを完全に無視して危険な妨害活動を仕掛けてくるどこかの環境団体と変わらないではないか。自分達のその「偏り」に気づかないのは、当の本人達だけだ。最初からぶれた位置にいる人が説くスピリチュアリズムってどうよ?

「批判」をすれば、「他人を裁く権利はない!」とか言い出したり。比較することや優劣をつけることを否定し、運動会の徒競走ではみんなで手を繋いで一緒に仲良くゴールインさせるような妙な平等主義を中心に据えた「ゆとり教育」を思わせる。

大体「裁いている」なんて、どこをどう取ったらそういう結論になるんだか。「あなたがそう思う根拠を説明してくださいよ。どの部分がそうなんですか?」ちゃんとそれを教えてほしいもんだ。

ついでに「なぜ人を裁いてはいけないのか」という理由もね。大体、スピリチュアリズムにおける「裁くことへの否定」はどこに由来しているのか―それを認識・理解しているのだろうか?それが説明できないのなら、単なる「受け売り」だ。本やセミナーで仕入れた知識の口真似。

「人を裁くな」と言いながら、自分達も同じことを平然とやっているとことが、また矛盾しているし。「魂のレベルが低い」とか「愛がない」とか「人のことをあれこれ言うのはヒマだから」とかね。そうやって「決めつける」ことも「裁くこと」なんですけど?辞書でお調べになったほうがよろしいかと。

子供のケンカで、言うに事欠いて、見たこともないくせに「おまえのかーちゃんでべそ!」と憎まれ口を叩いているのと変わらない。「高次元」がお好きな割には、言動は「低次元」だし。

まったくどこまで「甘口」が好きなんだか。日本に蔓延しているスピリチュアルって、本当に妙な世界だ。



【追記】批判する側にも「仁義」というものがあります。例えば、私は誰かのブログ記事の内容を批判する時は、最低限の礼儀として、その人の書かれた記事を全部読ませていただきます。単なる誹謗中傷にならないよう、筋道を立てて、きちんと論理的に文章を組み立てるように常に努めていますが、それをどう受け止めるかは、「受け取る側」の問題なので。

まあ「発信する側」というのは、そこで生じる誤解等も含め、全部引き受ける覚悟をすることが前提なので、後で「本当はこういう意味なんです」というような弁解も致しません(めんどくさいし)。発信した後の記事は「自分の手を離れたもの」になるので、受け取り手にすべてを委ねるしかないわけです。まあそれなりの覚悟と責任を持って書いていますので、伝わらなければそれはそれで構わないと思っています。

記事についても、後日加筆したり、言い回しの変更をすることがあっても、記事自体の削除は一切行わないようにしています。それが「けじめ」ってものだと思うので。当方のスタンスをご理解の上、お読みいただければ幸いです。

唯一のお願いは、「きちんと読んでください」ということだけですね。たまに「はぁ?どう読んだらこういう受け取り方が出来るわけ?誰もそんなこと言ってねーし」という人が、たまーにいるので。(斜め読みとか、完全な思い込みで読んでいるとか)自分の読解力のなさが原因の「見当違いの否定」をこちらにぶつけられても「それ以前の問題」なので。まあそういうことでよろしくお願いします。



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都合の賜物

 2010-06-23
セラピストの仕事をしていていつも思うのだが、世の中には、「いい人」になりたがる人達が本当に多い。「周りの人全員から『いい人』って言われるような人間になりたいんです!」と言い切る人もいる。こうなると、「目標」というよりは、もはや「執念」に近い。

「○○さんてどんな人?」誰かの人となりを尋ねた時、最も多く使われる表現は「いい人」だと思う。「いい先生」「いい生徒」「いい上司」「いい女」もそう。それを聞く度に思うのだ。箸にも棒にもかからない答えだと。「やさしい」「面白い」も同様。

大体「いい人」とか「やさしい」とか、何を以って判断するのかと。人間というのは、結局は「自分の都合」を最優先する。言ってみれば、それを判断する基準は、「その人が、自分にとってどれだけ都合のいい言動をしてくれたか」という部分にかかっている。同一のことや人物に対する評価が人それぞれに異なるのはその証拠。

自分の期待通りの反応をしてくれて、自分の欲しているものを与えてくれて、自分を心地良い気分にさせてくれて―言ってみれば、「自分の好みに合った」というだけのことなのだ。それをどう感じるか、どう感じたか―中心は、あくまでも「捉える側」にある。ある意味、非常に利己的で公平さに欠けるものでもある。

「いい人」「やさしい人」とは、そういった「相手側の勝手な思い込みや都合」に基づいて、「一方的に下される評価」でしかない。「認定証」や「称号」のようなものだ。「あなたは私の期待に応えてくれた人です。私の好みに合う人です」と言われているに過ぎないということ。そして、それは「=自分という人間の価値」ではないのだ。

「いい人、やさしい人と呼ばれること=自分が上等な存在である」と思い込んでいる人が、世の中には本当に多い。「そうなることが自分を高めることであり、自分を磨くことに通じるのだ。自分がそういった存在になったという証なのだ」と、本人達は固く信じている。「修行」の成果―といった感じで。

だが、それは「他人の目、他人からどう思われているか」ということを気にしているだけ―という場合も多々あったりする。自分以外の者の中に、自分の存在価値を見出そうと必死になっているだけなのだ。


「いい人」になりたがる人達というのは、程度の差こそあれ、大抵自分自身に対して何らかの形でコンプレックスを抱いている。それは、「過去の人間関係」と関連していることが多い。職場や学校でのいじめや孤立、不仲―そういったことにまつわる嫌な思いや記憶を持っている人達だ。どちらかというと、「嫌な思いをさせられた側」。

彼らにしてみれば、自分以外のほとんどの存在は「格上」だ。かつていじめられたり無視されたりした「格下」の自分に自信がない。「劣った存在」である自分が、評価とか、決断とか、たとえそれが自分自身に関することであっても、何かを決めることに対して躊躇いがあるのだ。だから他人からのそれで自分の価値を測ろうとする。

「いい人」と呼ばれることは、彼らにとってはある種の「許可証」なのだ。ちゃんと周りの承認も得て、自分自身も「ここにいていいんだ」と安心して堂々と存在できる場所を確保できたという証明でもある。


「そんなことないです!私はもう過去から立ち直ったし、見返りを求める気持ちやコンプレックスは微塵もありません!私はそんな小さい器の人間じゃありません!」とその人達が必死になって言うことが事実なら、「『いい人』を卒業します!これからはわがままに生きます!」という「宣言」や、「あれだけ一生懸命やってあげたのに」と、自分の努力に関わらず、他人から思うような評価や反応が返ってこないことに疲れたり、落胆したり、逆ギレすることはないはずなのだ。

もっともらしい言葉を引き合いに出して、自分の打算を正当化しようとするのは止めて、もういい加減全部を認めちゃえば?と思うのだ。「今まで人に親切にしてきたのは、『いい人』って言われたかったからです」「また嫌われて昔と同じ思いをしたくないからです」と。

その人達は、「見返り」を求めるような浅ましさが自分の中に存在することや、過去のコンプレックスを未だに自分が引きずっていることを認めようとはしない。自分がそういった狭量な要素を持つ人間であると思いたくないのだ。「自分はそんな下世話なことからはとっくに卒業した」と信じ込んでいるから。

自分のダークな面や感情から目を背け、一切をシャットアウトして完璧な人格者を装おうするから、話が余計にややこしくなる。自分の中に、正と負の両面が存在することを認めず、あくまでも「正」にこだわるから、「自分には「正」の部分しか存在しない」と思い込んだままだから、「自分はいつも被害者」という意識を持つようになる。その結果が、「脱いい人宣言」や逆ギレや落胆、疲労感なのだ。


コンプレックスというものは、自分でそれを認めないから、いつまで経ってもコンプレックスのままなのだ。「劣等感」というように、いつまでも「感情」が伴う。だが、「なるほどー、自分ってこういうことを気にする人間なんだ」と認めれば、それは単なる「事実」になる。ただの「事柄」になるので、感情に振り回されることがなくなるのだ。

「いい人」と言われたいがために自分を殺して右往左往して、一喜一憂したり・・・一瞬で覆ることもある価値観や好み―しかも他人のそれに振り回されてどーするの?と。自分が良かれとしたことでも、その時の相手の「都合」次第で、まったく逆に働くこともある不確かで不安定なものに執着するのは、ちょっと筋違いだと思うのだ。

自分の評価を上げたいがための上っ面の親切は、相手に敏感に伝わるものだ。自分がしたいから親切にする―本当の「いい人」というのは、相手の評価など気にしないし、求めもしない。そこに妙な計算がないからこそ、相手の心を打つのだ。


結局「いい人」「やさしい人」というのは、自分がその人に対して満足感を与える言動を取ったというだけのこと。自分自身の存在や意味といったものをすべて委ねる先ではないのだ。




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【追記】最近よく耳する「やさしい味」っていう言葉も、「いい人」と同様、なんだかぼやけた言葉だな~と思います。聞くと思わずイラっとするのは私だけ??



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ショックの真相

 2010-06-14
人は、意外に「否定されること」に慣れていない。「自分は何て器の小さい人間なんだ」「私ってダメだな・・・」「どうしてこんな性格なんだろ・・・」自分で自分を否定することはあっても、「自分以外の人間」からそれをされる機会は、案外少ないものなのだ。

無意識では、人は意外に楽観的に物事を捉えている。普段からマイナス思考の強い人であっても、それは変わらない。どんな人でも、心のどこかでは、自分や自分の希望は相手に受け入れてもらえるはず―という思い込みを持っているものなのだ。

例えば、ランチを注文した時に、「申し訳ございません。そのメニューは売切れてしまいまして・・・」と言われた途端、一瞬ムッとした表情になる人が多いのも、「自分なんか相手にしてもらえるわけない」と思いながらもアタックした片思いの相手に予想通りに振られて、「ほらやっぱり無理だった」と半ば納得しつつもショックを受けるのはそのせいだ。

同時に動揺とショックが伴う「めずらしい経験」なので、その分記憶には強く残ることになる。だから「自分以外の人間からされた否定」は、いつまで経っても忘れられないのだ。「嫌いな人・苦手な人」も、そうなるきっかけの多くは、自分に対して否定的・批判的な言動を取られたことだったりする。

「まったくダメな子ね!」「お兄ちゃんは出来るのに、どうしておまえは出来ないの!?」「私○○ちゃんのこと嫌い」「もう君のことは愛してないんだ」「あなたのことは何とも思っていないのでお付き合いできません」「君にこのプロジェクトを任せたことが間違いだったな」「誠に残念ではありますが、この度貴殿の採用は見送らせていただきます」「邪魔だからどけよ!」

親や同級生、配偶者や恋人、片思いの相手、上司、採用試験を受けた企業、道ですれ違った見知らぬ人に至るまで、自分に出された「ダメ出し」は、程度の差こそあれ、何らかのダメージを残すものなのだ。特に「ぶつかり合うことを極力避ける文化」のこの国では、否定することやされることに対して免疫力のない人が多いので尚更だ。

カウンセリングの最中、何十年も前の子供時代等、過去に受けた「否定」を、まるで昨日のことのように詳細に語りながら涙ぐむ人は多い。同時にその人達は、「自己否定」の傾向も強い。延々とそれを繰り返すのも特徴の一つ。

むしろその自己否定のほうが、第三者からのそれよりもかなり強いのだが、不思議なことに、その点に関しては意外と無頓着なのだ。「だから私ってダメなんですよね」と強烈に自分をこき下ろし続けながらも、様子は淡々としている。だが、過去に一度だけ言われた否定の言葉に対しては、それが一変する。その時の状況や感情を切々と語り、強いこだわりを見せる。

自分で自分を否定することはOKで、第三者からの否定には強く反応する―それは当時者の強みというか、甘さ故なのだ。「まあ自分が言う分にはいっか」という感じで。だから飽きもせずに「なんて自分はダメな人間なんだ」という自己否定を延々と繰り返す。だが、自分以外の人間から同じことをされると我慢できない。「自分に甘い」というのも、人間の特徴の一つ。

人間というものは「都合のいい生き物」なので、無意識に自分自身を正当化しようとするところがある。日常生活の中では、特にその意識が強く働く。ある種の「防衛本能」が働くのだ。自分に都合の悪い部分を記憶から消去したり、事実を歪曲したり―記憶をデフォルメする。

たとえば、「逆ギレ」はその最たるもの。相手が正しいと分かっていても、やはり自分を否定されたショックは大きい。そのショッキングな出来事を「なかったこと」にしたくなる。それが「相手のせいにしたい」という思いを生み、最終的には「相手が悪い」という屁理屈に変化する。「すり替え」が起こるのだ。結局、人は「正確さ」や「正当性」よりも、「自分の都合」を優先するのだ。

そのことが忘れられないのは、誰に何を言われたかといった「内容」よりも、否定されたという「現象」が起きたことに対するショックのためではないかと。「めったにないことが起こったこと」に対する驚愕や衝撃の度合いが、それを「忘れられないもの」にしているという可能性もある。

大地震や大火災、世の中を震撼させた凶悪事件等がずっと記憶に残るのと同じことなのだ。「内容」や「感情」といったものは、意外と後付けのものだったりすることもある。

今でもこだわり続ける過去に受けた「否定」、忘れられないのはその「内容」のせいなのか、「現象」のせいなのか―その原因は、意外と自分が思っているものと逆だったりする可能性もあるものだ。

結局、人間というものは、「自分勝手な生き物」なのかもしれない。「加害者」でいるよりは、「被害者」でいるほうが断然気が楽なのだ。




【追記】「上司に叱られたから会社に行きたくない。辞めたい」と出社拒否したり、叱られた(実際には注意された程度)ショックで鬱になる新入社員が最近激増しているのもそのせいだ。家で大事に育てられ、父兄の苦情を恐れて生徒に恐々接する教師がいる学校に通って―と「怒られ慣れていない世代」だから。問題は、上司との関係や怒られた内容ではなく、「怒られたこと」そのものなのだ。



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生兵法

 2010-06-12
【生兵法(なまびょうほう)/生兵法は大怪我の基】
少しばかり兵法を知ってはいるが、未熟なこと。少しばかりその道を心得た者は、これを頼って軽々しく事を行うから、かえって大失敗をする。(広辞苑より)


インターネットの普及以来、巷には凄まじい量の情報が溢れている。以前なら「知る人ぞ知る」というような、ごく限られた人達しか知らなかったことも、誰もが簡単に知ることができる。スピリチュアルや自己啓発の分野においては、特にそう。長い間「閉じられた世界」であったこともあり、その分「反動」は大きい。

「オーラ」「前世」「守護霊」といった内容を扱うテレビ番組がゴールデンタイムに放送され、次々とスピリチュアル関連の書籍が出版される。「チャネリング」「ヒーリング」といった、ひと昔前は「怪しいもの」だったそれに、「普通の人々」が詰めかける。パワースポットを巡るツアー旅行も大人気。「もっと幸せになるための」「ツキを引き寄せるための」と称した自己啓発セミナーの類も大繁盛―今や完全に市民権を得た。

そういった分野に興味を持って、自分から積極的に関わっていく人も増え、関連情報も簡単に得られるようになったせいか、「弊害」が出てきている。ネットやテレビ番組、書籍、セミナー等で得た受け売りの知識を振りかざす「にわかプロ」が増えてきたのだ。

本人達には悪気はないのだが、完全に「勘違い」をしている人が本当に多い。聞いたこと・読んだことをそのまま鵜呑みにして、自分の周りの人達に吹聴する。だが、そこに「理解」はない。オウムや九官鳥が、人の言葉を真似するのとよく似ている。ただその言葉を真似して繰り返しているだけ―それが彼らの特徴なのだ。

「あなたは悲しみや怒りを溜め込んでいるのよ。だからそれを手放してもっとオープンにならなきゃ」「心と体のバランスを崩しているから気持ちが不安定になるのよ」「許すことが愛なんだから、すべてを許して受け入れなさい」とか。人の意識や心に関わる仕事をしている「プロ」から言わせてもらえば、「へぇー、言ってくれるじゃないの」と。

その人達に、ぜひ聞いて見たいものだ。「で、どうしたらその溜め込んだ怒りやら悲しみやらを手放せるわけ?オープンになるってどういうことを意味するの?ふーん、愛って『許すこと』なんだ。じゃあ許さなかったら愛じゃないの?許した後はどうなるの?心と体のバランスが崩れてる?何を根拠にそう思うの?」と。

「にわかプロ」の最大のたちの悪さは、何と言っても、その無責任な「言いっ放し」なのだ。「許すことが愛だ」とか「受け入れる」とか「手放せ」とか。いろいろと偉そうに語る割には、一向に「原因」や「解決方法」といった核心に触れようとはしない。

正確には、「触れようとしない」ではなく、「触れられない」のだ。なぜなら、それは受け売りの猿真似でしかないから。それがどういうことなのか―という「本質」への理解がないから、解決などできるわけがない。ただ無責任にあーだーこーだと騒いでいるだけ。

まあその人達の「本来の目的」は、「人からすごいと思われたい」「自分は周りとは違うということを見せつけたい」といったものなので。実際は、中身がスカスカの、つまらない小者だったりするものだ。必要以上に自分のことを大きく見せることに執着するのは、その「小ささ」を隠すため。言ってみれば、それがその人の「コンプレックス」であり、「願望」でもあるということ。

だから、もっともらしい言葉や態度で「それらしく」振舞おうとする。彼らにとったら、スピや自己啓発の世界で得た知識は、「とっておきのアクセサリー」なのだ。「演出」の一部と言っていい。高尚な言葉で人々を「導いている(つもり)」自分の姿に酔う傾向が強いのも共通している。サルの群れでの順位争いと同じで、「自分のほうが格上だ」ということを見せつけたいのだ。所詮は「他人事」、好き勝手言えるわけだ。「他人の人生」に自分が責任を持つ必要はないのだから。

はっきり言わせてもらえば、「ずぶの素人があれこれ偉そうなこと言ってんじゃねーよ!」なのだ。人の心や意識の仕組みや複雑さ、肉体との関係性―そういったことの「いろは」も知らないド素人が、テレビとか本で仕入れた上っ面だけの知識をもっともらしく振りかざして偉そうに語るなっつーの。あれこれ口を出すだけで、その人に「解決」への方法やヒント、違う視点から捉え方を提供できないならその口閉じてろと。「ドラマで手術のシーンを何回も見ているから自分も心臓バイパス手術ができる」と思い込んでいるアホと同レベル―と言ってもいい。

心理学の本を読み漁ったり、セミナーで手に入れた知識を駆使して、もっともらしく他人の心理を分析して悦に入っている人もそう。上澄みに触れた程度で何を得意げになっているのやら。大体「人間」についての何を知っているというのか。

最近では、精神科や心療内科に「先生、私は○○だと思います」と、自分で病名を診断して来る人も多いとか。医学書の知識だけで自分自身の心身の状態を診断・分析できるなら、医者やセラピストなど不要ではないか。そういった「ちょっと待ってくださいよ」の人が、あまりにも多過ぎる。

「受け売りは、所詮受け売り」でしかない。いくら本を読んだって、どれだけ多くのセミナーやセッションを受けたからといって、それは「=理解、知恵」ではないのだ。プロを気取った素人さんが、人様に聞きかじりの情報を得意げに披露して押しつける様子は、どこかの宗教団体の勧誘を思わせる。「余計なお世話」そのものだ。

知識や情報ばかりを集めたとしても、結局「素人」はどこまで行っても「素人」なのだ。「自分の分(ぶ)」というものをわきまえることが必要かと。そこに自分の信念や思想、理解もなく、ただ誰かさんの言った言葉を繰り返すだけだったら、それは「知恵」ではない。機械で十分事足りる。それこそオウムや九官鳥でもいいかもね。

勘違いだらけの素人さん達、はっきり言って迷惑です。他人様に構うヒマがあったら、まず自分のことを何とかしなさいよ―と思いますけどね。

【追記】
こういった「プロ」を気取る素人さんには、くれぐれも気をつけてください。「弱っている時」につけ込んでくることが多いので。よく観察していると、言動がちぐはぐなので、「あれ?」と気づくかと。最終的にはボロを出すと思うので、注意して「観る」ことですね。「良いことを言っているから」と、信じてガードを下げると支配されることになります。

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「おいしい」はうれしい

 2010-06-10
先日、たまたまチャンネルを合わせたバラエティ番組で、お笑い芸人の男性達が「女性に対する疑問」という内容でトークを繰り広げていた。その中の一つが、「なぜ女は『おいしい?』と聞くのか?」ということ。

奥さんや彼女がご飯を作ってくれた。一緒に「いただきまーす」をして食事が始まる。二口食べ、三口食べすると、奥さんや彼女が「どお?」「おいしい?」と聞いてくる―彼らには、それがどうにも解せないらしい。

「なんでいちいち聞くわけ?おいしいから食べてるんじゃないですか」「『まあまあ』って言ったら怒るし。なんなんですかあれ!?『おいしい』って言わせたいだけじゃないんですか?」その場は「そう!そう!」と共感の声で溢れている。観覧席の一般女性達からは、一斉に「えー!」というブーイングの嵐。それに対して「何そのブーイング!?」と男性芸人の面々が異議を唱える。

男と女の「違い」が見事に現れた瞬間。そういった思考回路の違いをはじめ、もともと「違う種類の生き物」なのでそれは仕方がないことなのだ。「外国人と付き合っている」くらいに思っていて丁度いいのかもしれない。こちらからしたら「そんなの当たり前でしょ?」ということが、相手にとったら「はあ?何それ?」という場合もある。まあそれは「お互い様」のことなのだ。

だが、女からすればどうにも納得がいかないというか、「それっておかしくない?」というような、矛盾以外の何物でもないことだったりする。


日本には、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と唱える美しい習慣がある。食事を作ってくれた人、目の前に並んでいる料理の材料である野菜や肉等を生産・加工してくれた人達、もちろん「命」を提供してもらった家畜や野菜に対して捧げる感謝の気持ちを込めた言葉。

だが、そのせいだろうか。既に「すべてのものへの感謝」が込められているせいか、その2つの言葉を言えばオールOK。例えば、「おいしい」とか「この味付けいいね」といったその他の感想や褒め言葉は一切言わなくてもいいものと思い込んでいる人がいるようなのだ。「ちゃんと礼儀や果たしたぞ。後は食うだけだ」みたいな。特に男性においては圧倒的にその傾向が強い。

「おいしいと言わない人」を観察していて思うことがある。彼らの意識の中では、「いただきます」「ごちそうさま」を言った時点で、既に「おいしいです」と言ったつもり―正しくは「思い込み」になっているのではないかと。彼らの場合、そういった「感想」は、「いただきます。ごちそうさま」に既に組み込まれているのだ。

例えば、女性というものは、目の前に料理が運ばれてくると、「わあ!おいしそう」と声を上げる。食べている最中も、「これおいしいねー」「この味好きだわ」「どうやって作るんだろ?」と感想を述べ、食べ終わった際には「おいしかったね」「あー幸せ」となる。マストである「いただきます」「ごちそうさま」の他に、最低限これだけのことを口にする。

だが男性の場合、「わあ!おいしそう!」が「いただきます」であり、ひたすら食べることが「おいしいねー」「これ好きだな」であり、「あー、おいしかったー」が「ごちそうさま」なのだ。先の芸人さん達の「うまいから食ってんじゃん」発言は、ここに由来しているのである。

男性の「矛盾」はまさにここなのだ。常日頃から言葉での論理的且つ明快な説明を求めるくせに、なぜ自分はそれをしないのかと。「おいしいから食べてるんじゃん」?だったら「おいしい」って言えよ!なのだ。「食ってる様子でわかるだろ」とか。ちょっと待てぇい!おまいさん達の好きな「説明」はどこ行ったんだ!?と女の側は腑に落ちない。

またそういう男に限って、ケンカの時には「不満があるならはっきり言えよ!」「口で言わなきゃわかんねーだろ!」とほざくのだ。マッタクナンテメンドクサイイキモノナンダ・・・。

男性というのは、自分の内面―自分がどう感じているのか、どう思っているのかということを語るのを苦手とする。仕事など、目標や目的、数字といった、そこに「目に見えるはっきりしたもの」「具体的なもの」が存在している場合には問題ないのだが、心や気持ちといった「形のないもの」「抽象的なもの」に関しては、途端にグダグダになる。「説明」は得意だが、「表現」を苦手とする。

実際、男性クライアントのカウンセリングを行う場合、女性クライアントのそれよりも、遥かに「手間」がかかる。自分の内面を自発的に語ることに慣れていないので、いざその場になると四苦八苦するようなのだ。人によっては、見栄やプライド、羞恥心といったものも絡んでくるので余計だ。

だが思うのだ。そういった「苦手意識」を割り引いても、「見りゃわかるだろ」なんてうそぶいて、「おいしい」のひと言もないのは、完全な「手抜き」だろうと。

「この野菜の切り方は芸術的だ」とか、材料をパンに挟んだだけのサンドイッチを「ハニー、君の作るサンドイッチは世界一だよ」なんて褒めちぎるアメリカ男(正直ちょっとウザイ)みたいなことはしなくていい。だが、やっぱり「おいしい」のひと言は嬉しいものだ。


私のアメリカ人の友人で、この20年間で30人近くの日本人をホームステイさせた経験を持つ人がいるのだが、彼女が笑いながら言っていた。

「日本人男性を(大抵は学生)引き受けた最初の頃は正直戸惑ったわね。だって何にも言わないから考えていることが全然分からなくて。アメリカの食事が口に合うかどうか私達も心配でしょ?『おいしい』とか『これは好きじゃない』とか言ってくれたらこちらも対応できるんだけど、なーんにも言わないで黙々と食べてるわけ。

こっちから『おいしい?』って聞くと『おいしいです』って言うし、勧められればおかわりもするし、残さないで全部食べてるから多分大丈夫なんだろうってことになったんだけど。女性に関しては全然そういうことはないのよ。素直に喜んでくれるし、むしろ料理を通して会話が弾んだりするの。

パーティーで会った日本人にそのことを話したら、『日本人男性は基本的にシャイだから、自分の気持ちとか感想を大っぴらに言うことに慣れていないんだ』って言うの。まあそれで私達も安心したんだけどね」

「そうなんだよねー。そういう男の人、結構多いかも」と彼女に言うと、「日本の女性達はよく我慢できるわね。自分の作ったお料理にうんともすんとも言わないで、ただ黙って食べてるだけのパートナーなんて。そんなの張り合いがないじゃない。私だったら嫌になって料理しなくなるかも。日本人女性が忍耐強いって本当なのね」と肩をすくめていた。

文化的背景や気質といったものを考慮したとしても、出された食事に対して何の感想も述べない日本人男性というのは、世界でもかなり稀有な存在なのだ。「食ってるところ見たら分かるだろ」なんて言い分が通用するのは日本国内だけ―と思ったほうがいい。

友人のアメリカ人男性達も、「ワイフの料理を褒めないなんてあり得ないよ!『作ってくれてありがとう』も言わないの?いくら家族とはいえ失礼じゃないか。それに対して奥さん達も特に何も言わない?そんなんでよく離婚宣告されないな」と口々に言っていた。まあ「褒める・伝える文化」と「謙虚さを重んじる・秘める文化」の違いでもあるのだが。


良いとか悪いとかは別としても、「おいしいよ」って言うことは、そんなに大変なことなのかなと思うのだ。特に日本人女性にとったら、そのひと言が、「愛してるよ」「好きだよ」と言われるよりも数倍嬉しいものだったりするのだが。

女性が料理をする時、そこには「食べる人を喜ばせたい」という思いが必ずある。女性にとっては、そういった思いで作った物を褒められるということは、男性が思っている以上の価値があるのだ。それなのに、その絶好の機会を逃してどうする!?と。自分の愛情を自然に、簡単且つスマートに伝えられるこの機会を逃す手はないと思うのだが。

以前知人から聞いた話。50年近く連れ添った知り合いのご夫婦に「夫婦円満の秘訣は何ですか?」と聞いたところ、その奥様からこんな答えが返ってきたらしい。「この人無口で本当に喋らない人だけど、作った料理は必ず褒めてくれるの。私は何も聞かないんだけど、必ず「うん、うまい」って。それが嬉しくてねぇ。その「うまい」が聞きたくて毎日ご飯作ってたらこんなに長く一緒にいることになっちゃったのよ」

昭和一桁生まれのご主人は、「愛してる」とか「好きだ」とか絶対に口にしない世代。でも、奥様にはちゃんと気持ちが伝わっていた。「うん、うまい」のひと言で。

「おいしい」なんて言葉は当たり前、年がら年中「私のこと愛してる?」「私のこときれいだって思ってる?」と「詰問」して、その度に「もちろんさ、ハニー」「君は世界で一番素敵な女性だ」なんて言葉を半ば強制的に言わせる欧米人女性に比べたら、日本人女性はなんて奥ゆかしく、情緒があるのかと。いちいち「愛してる」なんて直接的な表現を使わなくても、「うまい」のひと言に込められたものを敏感に感じ取れるのだから。

日本の男性の皆さん、そういった日本人女性の「美徳」の上に、平然と胡坐をかいていてはいけませんよ。「おいしい」のひと言が持つ「威力」を侮ってはなりません。

まあおいしくなかったら無理して言わなくてもいいけど、願わくば、「おいしい?」って聞かれる前に、「おいしいよ」って言ってあげてください。「またこれ作って」とかね。「おいしい」って言葉を言われることは、いつでも嬉しいことなのだから。女性にしてみたら、それは何よりの「栄養」なんです。




【追記】
「奥さんが手抜き料理をする」「メニューがマンネリ」とぼやいている男性に限って、まったく奥さんを褒めないんですよねー。口を開けば不平不満だけとか。そりゃやる気も失せますわ。料理って、意外と「感情のバロメーター」みたいなところがあるので、「うーん・・・」な物が出てきたら、ちょっと気をつけたほうがいいかもです。もちろん、仕事が忙しいとか体調が悪いとか、「理由」がある場合は別ですけどね。



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中華な人々

 2010-06-07
「今日は会いに来てくれてありがとう!」なんていう言葉は、芸能人の専売特許だとずっと思っていた。アイドル歌手やタレントが、自分のコンサートやサイン会の最後に、会場を埋め尽くすファンに向かって満面の笑みと共に発するような、「限られた人達」のためのものだと。

「(私に)会いに来てくれてありがとう」などという言葉は、「それを言う側」と「言われる側」の間に、ある種の「確固たる関係」が存在してこそのものなのだ。例えば、タレントとそのファンの関係のように、「崇拝する者」と「される者」というような「上下関係」が成立している場合。それを言う側にも、「自分が主役」という絶対的な意識や確信がなければ決して言えない類のものなのだ。

「普通の人」がそれを口にするには、かなりの勇気が要る。冗談めかしてでしか言えない言葉だ。面会やお見舞い等で耳にするようなニュアンスとはまったく違う。これを平然と言ってのけるのは、余程自分に対する自惚れが強い人間か、妙な「勘違い」をしている人間のどちらかだと思っていた。

「あんた何様?」と周りのほうが唖然として、気恥ずかしさを覚えるような、言ってみれば「おめでたい人」というか。芸能人等ごく一部の人を除いては、「普通の人」から聞くことは多分ないだろうと。だが、私のその考えはあっさりと覆された。スピリチュアルや自己啓発の世界では、「ごく当たり前の台詞」のようなのだ。

チャネラーや占い師、各種講座やスクールの講師とか、何の気負いもなくその台詞を口にする。ごく「普通の顔」で、「今日は会いに来てくれてありがとう」と小っ恥ずかしいその言葉をしれっと言うのだ。言われたほうは「( ゜д゜)ポカーン」である。こちらからすれば、「は?内容に惹かれて来ただけで、あなた個人に魅力を感じて来たわけじゃないんですけど」なのだ。

中には、そういう人もいるかもしれないが、私の場合、「個人としてのその人」は二の次だ。特に自分が「教えてもらう側」の場合、私が重視するのは、その人の「能力」や「スキル」。その人が、自分の求めているものやそれ以上のものを提供してくれるかどうか―ということが最優先事項。「人柄」などは最低限の常識や礼儀があって、一緒にいて不快にならない程度であれば構わない。個人としての好き嫌いなど、正直どうでもいい。

だから「会いに来てくれてありがとう」などと言われた時には、非常に戸惑う。「セッションを受けに来てくれてありがとう」「ぼくの講座を選んでくれてありがとうございました」ならまだ分かるのだが、明らかにその人個人を「主役」として中心に据えたニュアンスのものを言われると、正直「勘違いしてんじゃねーよ」と。

もちろん腰の低い方もいらっしゃる。そういう人と、「私に云々」を平然と言う人との決定的な違いは、やはり「誰が主役なのか?中心に据えているのは誰なのか?何なのか?」という意識やその捉え方なのだ。

どうも本人達にその意識はないようなのだが、「私に会いに来てくれてありがとう」と言う人達は、「自分が主役」という意識が非常に強い。「私のクライアント」「私の生徒」という具合に、すべてが自分に所属しているもの―と捉えている。すべてが自分を中心にして動いている。自分が世界の中心である―いわゆる「中華思想」なのだ。

当然出てくる言葉も、自分中心の「上から目線」のものになる。彼らにとっては、それはごく当たり前のことなのだ。なぜなら「主役は自分」なのだから。自分のところにわざわざ足を運んでくるということは、「主役」である自分に会いに来たのに決まっている―という意識が、「会いに来てくれて・・・」という言葉になる。

それは、「指導する側として自分を選んだくれてありがたい」という感謝ではなく、「うむ。苦しゅうない。大儀であった」というような、「下の者の労をねぎらう」といった感じなのだ。「自分の生徒やクライアント=自分のファン、下僕」と思い込んでいるおめでたい人達がかなりいることからも、それは明らか。

周りからちやほやされ続ければ、いろいろと勘違いするようになっても仕方ないと思うのだが、「裸の王様」「裸の女王様」が本当に溢れかえっているなーと。傍から見ていると、それは結構イタイ光景なのだ。まあそんなふうに思えるのは、それだけの自信があるからなのだろうが、すべてにおいて「自分が主役」というそのスタンスは、時に滑稽に映るものだ。

「私は憧れの芸能人や大富豪など、『すごい人』を次々に引き寄せてきました!」などと得意満面で語っていたり、「あげまんセラピスト」を自称する人もいる。「私は本物の霊能者です!」と自画自賛する人とか。そういった人達が嬉々として語る度に思うのだ。

「それって、あなたがその人達を引き寄せたんじゃなくて、あなたのほうから近づいていったんじゃないですか?あっちこっちに顔を出して作り上げたコネを利用して、それを辿っていっただけじゃないんですか?あなたがクライアントを成功させたんじゃなくて、その人の運気が上昇する時期に、たまたまあなたが居合わせたとは思わないんですか?」と。

まあ「自分が主役」の人にかかれば、「近づきの法則」も「引き寄せの法則」になってしまうし、自分で自分を「あげまん」の位置に押し上げてしまうということ。自分主体の人は、事実や論理もそれ用にすり替えるのが常なので。自分が世界の中心で咲き誇る「華」であり続けるために必要であれば、平然と道理のほうを捻じ曲げる。国名に「中華」が入ったお隣の国を見ていても、それは十分理解できるかと思う。


自分のことが大好きなのは大変結構なことだが、いつも「私が、私が」とやっていると、いつの間にか「中心」から外されますよ。どんなに偉くなったり有名になっても、謙虚さを忘れないようにしないとね。その勘違いに気づいた人達から総スカン食らうことになりますよ。

まあそういったことも、「魂の学びが終わったから」「魂のレベルが変わったから」「偽ソウルメイトだったから」と何でも自分に都合よく正当化しちゃうんでしょうけど。見ているほうからすれば、ただの負け惜しみとしか思えません。



【追記】「中華思想」の人って、結局「自分が主役」「自分が正しい」「自分は悪くない」と思い込んでいるので、それを覆されるような耳に痛いことを言われるのがお嫌いみたいです。必然的に周りに「イエスマン」しか置かなくなるので、「裸の王様」「裸の女王様」っぷりに拍車がかかり、結局は「中華」どころか「僻地」に飛ばされることになるんですけどね。



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勘違いの被害者意識

 2010-06-05
スピリチュアルを謳うあるブログで、「こんなのひど過ぎる!」と激怒している人がいた。

その人は最近、Aさんという「特殊な力」が備わった人を紹介され、意気投合して友達になったらしい。Aさんは、人の前世やオーラの色が分かったり、守護霊や亡くなった人と会話することができる。長い間、Aさんはそのことが「当たり前の普通のこと」だと思っていた。なぜなら家族全員が同じ能力を持っていたから。

だが、ある時ふとしたことがきっかけで、自分や自分の家族が当たり前のように使ってきた能力が、世間の多くの人にとっては「特別なこと」であることを知った。友人達を含め、周囲の人に自分の能力について話すようになった。そして、それを知った人達がAさんの能力を頼ってくるようになった。「プロ」ではなく、普通の仕事を持つ一般人であるAさんは、無料で鑑定を行っていた。

友人や知人が開く食事会等に招かれることが増え、その席で出席者の前世やオーラの鑑定を依頼されることも度々だった。評判は評判を呼び、その数はどんどん増え続けた。しかし、Aさんはだんだんと困惑してきた。あまりに多くの人が、自分の能力を頼るようになってきたから。だが、もともと人が良くて優しい性格のAさんは、その人達の頼みを断ることができない。今もどう対処していいのかわからず、困惑したまま鑑定を続けている―という話。

「こんなひどいことがあっていいのでしょうか!?無料だからといって聞くだけ聞いて、『ありがとう』のひと言だけで済ませるなんて。それって『食い逃げ』みたいなもんじゃないですか!相談され続ける側の気持ちを考えたことはないのでしょうか!?」

と、大層ご立腹の様子。まあ気持ちはわからないでもない。他人を利用しておいしい思いをしようとする「あつかましい人」は、確かに存在する。「無料」と知るや否や、欲の塊と化す人もいる。実際、「人相手の仕事」をしている私も、時々唖然とするようなことに遭遇することがある。ましてや善意で無料鑑定を行っているAさんからしてみれば、次々に押し寄せる人達のそれに愕然となるのも当然のこと。

だが、そういったことを割り引いたとしても、「Aさんにまったく非はない」とは言い切れない。Aさん自身の無防備さや迂闊さ、優柔不断さ―それがそもそもの原因と言ってもいい。友人知人との付き合い方や、その関係性においても同じこと。

もし、その人が自分にとって本当に大切な友達であれば、いくら本人からOKが出たとしても、やたらと吹聴したり、利用することはないと思うのだ。話したとしても、必ず釘を刺すはずだ。「善意でやってくれているんだから、そのへんはちゃんと自重してね。大事な友達だからそのへんはくれぐれもよろしく」といった感じで。

友達を「見世物」にして平然としているような礼節や思いやりのない人達と、これまで友人知人として付き合ってきたのは、他ならぬAさん自身なのだ。結局「それまでの関係」だったということ。Aさんの特殊な能力が明るみになったせいでその人達の態度が豹変したわけではなく、「最初からそういう人達だった」のだ。それを見抜けなかったのはAさんの責任。

私からすれば、「どっちもどっちなんじゃない?」と。あつかましく押し寄せる人達と、嫌々その依頼を受け続ける人と―何だかんだ言いながら、「需要と供給」は合致している。

大体、「どう対処していいかわからない」なんて言っているが、嫌だとか迷惑だとか感じるなら断ればいいだけのこと。「人が良くて優しいから断れない」というのは理由にならない。言葉や口調を選んだり、「伝え方」を工夫すれば、いくらでも「感じのいい断り方」は出来る。

それでも図々しくつけ込んでくるような相手なら、さっさとあきらめて関係を断てばいい。人の本質というものは、おいそれと変わるものではない。その人達のあつかましさは多分これからも続く。それが嫌なら離れるしかない。

結局、「なぜ断れないのか?」という部分が問題なのだ。それは「やさしさ」や「性格の良さ」故ではなく、ただ「優柔不断」なだけ。そういう人達の常で、「自分が断ることで相手に嫌な思いをさせたくない」などと言うが、その根底には必ず「嫌われたくない」という思いが潜んでいる。なんだかんだ言いながら、結局は「自己保身」なのだ。そういった自分の不甲斐なさや皮算用まで相手の責任にするのは筋違い。

そういったことを指摘する「身内」が誰もいない―というのが、「群れる人達」ならではの特徴かと。ひたすら同調して一緒に騒ぎ立てるだけで、「仲良し」の枠を絶対に崩そうとしない。所詮「ごっこ」なので、ちょっとでもその人に対するネガティブな響きを感じさせるようなことを言えば、簡単に崩壊するような脆い関係―だからひたすら甘くて優しい言葉や態度に終始する。相手の機嫌を損ねて、その結果「独り」になるのが怖いから。

結局、お互いに相手を甘やかすだけ―というその関係から生まれるものは、本当の友情なんていうものとは程遠い、上っ面だけの繋がりかと。それってただの「太鼓持ち」じゃん。まあ本人達が満足しているなら全然構いませんけどね。冷淡な私は、少し離れたところから生温かく見守らせていただきますわ。




【追記】
ご立腹のこのブロガーさん、人の能力を「無料だから」とさんざん利用する心ない人達のことを「食い逃げじゃないか!」と非難している割に、ちゃっかり自分や自分の知り合いの前世について質問している。何だそりゃ?と。意気投合して友達になったから、「身内」になったら「食い逃げ犯」と同じことをしても許されちゃうんですか?

「無料だからと聞くだけ聞いて、『ありがとう』だけで済ますなんて『食い逃げ』だ!」そこまで言うなら、どうして「心付け」やそれに代わる物をお渡ししないんですか?さんざんぶち上げているけど、結局同じように自分達も「無料で」やってもらっているじゃないですか。「自分のことは棚に上げて」って、こーゆー人達のことを言います。

友人知人の中にAさんのような能力を持った人がいるという方達、たとえその方が「無料鑑定」をしてくれるとしても、きちんと「節度」を弁えてください。「有料プロ」の友人知人がいるという人達も、「友達のよしみで、知り合いのよしみで」という「情」を利用して、なんとか無料でやってもらおうとか、安くしてもらおうなんて画策するような浅ましさは捨ててください。公私混同はいけません。

自分が困った時だけ、頼み事をする時だけ連絡を取ろうとする人も同様です。普段は知らん顔しているくせに、選挙の時期とか物を売りつける時だけやたら愛想よく近づいてくる人とかね。

腹黒さというものは、上手く隠しているつもりでも、自分の知らないところで、確実に滲み出ているものです。全部バレバレなんですよ。


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スモールワールド

 2010-06-03
スピリチュアルや自己啓発の「信者」というのは、なぜあれほどまでに「自分達の世界」を作りたがるのだろうか?彼らのそれは、時代劇に出てくるような「村社会」を彷彿とさせる。何よりも「身内」を優先し、「よそ者」を徹底的に排除する―極めて排他的且つ独善的な要素を持つそれを。

様々な意味で「独特」な世界。当然、その中での「独自の法律」といったものも存在する。「よそ者」には理解し難い類のもの。一蓮托生、運命共同体―そんな言葉を連想させる。それに従う者だけが「身内」として認められ、「同族」からの保護や援助を約束されるのだ。

もちろん、その見返りとしての「義務」は果たさなければならない。「みんなと仲良くすること」「相手を否定しないこと」「相手が不快になることを言ってはいけない」そこに所属するものすべてを肯定する―それが「身内になる」ということなのだ。

共通の意識を持ち、共通の法を守る「身内」が周りに増えるほど、「外の世界」に対する意識は薄くなっていく。「多数」の中に身を置いていると、だんだん感覚が麻痺していくのだ。「自分達が正義」であり、「自分達こそが世界の中心」という妄想が生まれ、閉鎖的で狭小な世界が出来上がる。

彼らにしてみたら、自分達とは異なる考えや掟を持つ「よそ者」こそが、「奇妙で間違った存在」なのだ。共有するべきものを持たない者は、群れの規律や秩序を乱し、混乱させる。だから徹底的にその存在を排除する。

そのやり方も陰険だ。決して堂々と渡り合おうとはしない。表向きは普通の態度を取ってはいるが、「あの人はまだ魂が覚醒していないから」「意識が低いから」などと陰でこそこそ言っていたりする。そうやって相手を見下すことで溜飲を下げ、プライドを保つのだ。そういった自分の腹黒さを隠そうとするところもそう。「選民思想」特有の嫌らしさ。彼らの特徴の一つでもある。


なぜ彼らは群れるのか?彼らの多くは「臆病」だ。自分が「見たくない」「聞きたくない」と思っていることが、自分の世界に存在することが我慢できない。そういったものが運んでくる苦痛や動揺や疲弊に向き合うことが出来ない人達―と言ってもいい。自分の世界を、「好きなもの」だけで埋め尽くしたいとも思っている。

自分と違う考えや思想を持つ人達とぶつかる事さえ、彼らにとっては「苦痛」なのだ。「ぶつかる事=争い、悪」と思い込んでいるから。「批判=否定、誹謗中傷」と捉え、落ち込む。そして、そういったものを自分の世界に持ち込む人と関わりさえしなければ、心の平安が保たれるはず―と思い始める。そして行き着いた先が、「常に肯定しか存在しない世界」であるスピリチュアルや自己啓発。

「ソウルメイトが次々に集結しています」そんな言葉で飾ってみても、所詮「現実逃避願望が強い人達が群れて慰め合っているだけ」に過ぎない。都合よく論理をすり替えて、「逃げた自分」の弱さを正当化する。見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞いて、自分と同じ考えを持つ人達だけが存在する世界?それはただの幻だ。幻の世界で得る「心の平安」も、所詮は幻なのだ。

現実逃避から生まれた集団妄想によって作り上げられた世界―それは決して妄想の域から出ることはない。所詮は限られた意識の中に存在する、ただの小さな世界でしかないのだ。




【追記】こういった人達に限って、「私達は常に視点を高いところ―宇宙や宇宙を超えた光の世界にそれをおいて物事を見ています」などと言う。宇宙や光の世界に視点なんか置かないでいいから、とりあえず地上に、現実の世界にそれを戻してくださいな。魂がどうとか、意識がどうとか偉そうなことを言っている割に、やっていることは「まんま子供」。やりたくない宿題から逃げ回っている小学生にしか見えませんけどね。


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仲間食い


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7月 自死遺族グリーフケア(個人対象)開催日時

 2010-06-02
2010年7月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 7月6(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 7月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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