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「偽ソウルメイト」という珍説

 2010-05-29
80年代を風靡した男性ミュージシャンと女優が20数年ぶりに縒りを戻したことが話題になった時、スピリチュアル信者は大騒ぎだった。「やっぱりソウルメイトは結ばれる運命にあるのです!この二人がそれを証明してくれました!」とか。

だが、その「ソウルメイト婚」(女性と前夫との離婚が成立していないので、結局婚姻届は受理されなかった)とやらから1年も経たないうちに、男性は別の女性と交際宣言。先日も、自分の海外での仕事にその女性を同行させ、空港の待合室でイチャイチャベタベタする姿をテレビカメラの前で披露していた。

「ソウルメイトは必ず結ばれるのよぉーー!」と鬼の首でも取ったかのように騒いでいたスピ系信者の方々に、この一連の騒動と事の顛末を説明してもらおうじゃないかと思ったのだが、なぜか皆さん沈黙している。というか、明らかにこの話題を避けている様子。まあ予想通りというか、「上っ面だけのスピリチュアリスト」がよく使う「やり方(逃げ方)」なので、今更驚くこともない。

臭いものには蓋。都合が悪くなると途端に黙る。見ない振りをする。なかったことにする。形勢が不利になると「道理」を捻じ曲げてまで自分を正当化しようとする―というのが今の日本に蔓延している「エセスピリチュアル」の神髄なので、「やっぱりね」と。

「ソウルメイトとは結ばれる運命にある」とか、愛とか光とか、天使や女神のナントカとか、メルヘンちっくなことを照れもせずに四六時中口にする割には、「自己保身」は徹底している。そのあたりは妙に現実主義。その落差、変わり身の早さが非常に小賢しいというか、卑しいというか。もっとも、既に「根本」から破綻しているので、そうやって逃げるしか方法がないのだろうけど。

特に「ソウルメイトとの出会い」といったことをセールスポイントにして、ヒーリングだのオーラクリーニングだのチャネリングだのを行っている人達は、そのあたりの「戦略」に長けている。「まあよくこれだけもっともらしい言い訳を考えつくもんだ」と呆れるくらいの「屁理屈」を事前に用意している。周到というか、うまーく「逃げ道」を準備している。

「癒しのスペシャリスト」を自称する人が披露している「定義」は噴飯ものだ。その人によると、何でも「偽ソウルメイト」というものが存在するとか。

「偽ソウルメイトは、その関係から学ぶことは多いが、傷つけられたり、大事に扱ってもらえなかったり、上手くいかなかったり、振り回されたりする」「偽ソウルメイトと結婚した人の多くが結婚生活において大変な苦労を強いられている」「偽ソウルメイトとは結局別離になる」「本物のソウルメイトであれば離婚しても縁は切れない。だが、偽ソウルメイトとは、望めばすぐに縁が切れて魂が解放されて楽になる」

要は、「偽ソウルメイト=自分が苦しむ関係」らしい。加えてこんなことを言っている。「一番離婚の相談が多いのは、偽ソウルメイトと結婚した人。本物のソウルメイトと結婚した人は、時に離婚を考えることもあるが、『あなた達はソウルメイトですよ』と伝えると、『やっぱりそんな気がしました』と離婚を取り止めることが多い」

・・・・・・もうバカじゃないかと。申し訳ないけど、こういったアホなヒーラーだかチャネラーだかの唱える根拠のない発言に洗脳された人が、過去生回帰(前世療法)をチャラチャラと受けに来る。「本物のソウルメイトが誰か知りたいんですぅー」「本物とは今生でもう出会っているのか、その人は近くにいるのか知りたいんですぅー」とか言って。

そのヒーラーが、芸能人等のクライアントを「常連」として持っていたり、頻繁にメディアに出たりするような「有名人」であれば、その影響力は尚更大きいものになる。どういう訳か、世間の人の多くはそういった「露出度」を「本物の目安」とする傾向が強い。特に日本人は「ブランド」に弱いので、「マスコミに出てる先生、芸能人のクライアントを持つ先生=本物」となる。

この単純発想は、「危機管理能力」の低さの表れでもある。「良いことを言っているから。マスコミに出ている先生の言っていることだから正しいに違いない」と思い込んで飛びつくと、知らないうちに魂を食われていたりする。「危機管理=身体の保安」だけではないのだ。

そのあたりの日本人の意識レベルというのは、はっきり言って「幼児並み」。無防備というか、無頓着だ。まあそれも、「自分だけは大丈夫」という根拠のない慢心から来ているのだが。毒ガスを巻いて多くの死傷者を出した宗教団体の信者も、入信のきっかけは、多分こういった意識の低さと自分自身に対する慢心故だったのではないかと思うのだ。日本人特有の、「宗教」というものに対するいろいろな意味での「大らかさ」が、裏目に出た結果だと思う。


こちらからすれば、「あんたの無責任発言で魂抜かれて、妙な考えを植えつけられて、脳内がお花畑状態になった人間を押しつけられる側の身にもなってみろ!」なのだ。

実際、そういった言葉を拠りどころにしてセッションを申し込んで来る人達の大半は、男女関わらず、今のパートナーとの関係に何らかの問題を抱えている。ろくに相手と向き合おうともせず、いわば「逃避」の手段として、過去生回帰(前世療法)を利用しようとする。「その結果によっては今後を考え直すかも」とか。もう呆れるくらい利己的なのだ。「妄想はそれくらいにして、まずは現実を見てください」と言いたくなるような人ばかり。


大体「偽ソウルメイト」って何ですか?いちいち「本物」とか「偽物」とか分類すること自体おかしいでしょ?あなた方がご神託のように有難がって崇め奉っているスピリチュアルの定義、「今起こっていることはすべて正しい」ということに基づくなら、苦労しようが傷つけられようが振り回されようが、その相手は「正しい人=本物のソウルメイト」なんじゃないんですかね?

「本物と結婚した人に『ソウルメイトです』と伝えると、離婚を踏みとどまる」?あのねー、人間っていう生き物は、いつも「保証」が欲しいんですよ。どんな人も迷ったり不安になるわけ。「大丈夫。それで間違ってないよ」って、自分以外の誰かに力強く言い切って欲しいわけですよ。保証されれば「安心」が手に入って自信も出てくるしね。

離婚を考えている時なんて特にそうでしょ。相手に対する愛情や感情以外の面で別離を思案中であれば尚更ですよ。昔に比べて気持ちは冷めているけど嫌いではない。でも・・・っていう場合なんかは特にそう。

新しい未来を考えると同時に、今の安定を捨てるのも怖い。気持ちは常に両極を行ったり来たりする―そんな時に第三者の、「高次元の存在」からのメッセージ(どこの「高次元」と繋がっているのか知らないけど)と称した「ソウルメイトです」という言葉が及ぼす影響はかなり大きいんですよ。だって「高次元の存在」の「お墨付き」をもらったんですから。

何だかんだ言っても、人間って無意識に「損得」を考える生き物なんでね。「欲」で動く習性があるんです。「え?私達ソウルメイトなの?だったら『本物』を逃したら損じゃないの。『本物』と結婚したんだからそのうち良いことがあるかも。それじゃ離婚は止めましょ」ってなります。「本物だから別れない」じゃなくて、「保証してもらったから安心して別れるのをやめた」なんですよ。「利益を保証してもらったから惜しくなった」だけっていうことです。


まあこの方のブログ記事は全部読ませていただいた。読んでいくにつれて、「ふーん、結局そういうことなんだ」という「真相」が見えてきた。当のご本人、「バツイチ」らしい。今は素敵な「本物」のパートナーと出会ってとても幸せなんだとか。なーんだ。結局「自己弁護」じゃん。最初のご主人との離婚と、二度目の結婚を「正当化」したいわけね。「本物のソウルメイト」と「偽ソウルメイト」っていう分類は、「自分自身を守るため」に作ったわけだ。結局「言い訳番長」なわけね。あー、アホらし。

「あるがままの相手を受け入れましょう。愛しましょう」スピリチュアルでは定番のこの定義、本当に理解していたら、こんな「偽ソウルメイト」などという分類方法は出てこないはずなのだ。

シェイクスピアは言う。「旅の果てに恋人達は出会う。賢い者はそれを知っている」本物だのニセモノだの、縁あって出会った人をそういった括りでしか見られない無粋な人達は、この言葉の真意や深さを永遠に理解することはない。それまでの「旅」を、「無駄」として否定し、貶め、平然と切って捨てるような類の人達なのだから。

自分自身を守るため、正当化するため、いわば「利己主義」から始まったスピリチュアルの正体なんて、所詮こんな程度のもの。何でもかんでも真に受けないことだ。よく耳を澄ませて、よく目を見開いて、「本当の姿」を捉えることだ。



【追記】
「偽ソウルメイト」とか「本物のソウルメイト」とか、こういったくっだらない屁理屈を、この人と同じように、自分に都合よく当てはめないこと。大体「自分が選んだ人」を、「ニセモノ」とか「本物」とか・・・見苦しいというか、卑しいだけだ。今までの縁を大事にできない人が、この先にあるであろう縁を大事にできるとは思えない。いくら綺麗事を並べても、相手を貶めてまで自分のくだらないプライドを守ろうとするその姿、腹黒さ全開です。相手にしてみたら、あなたのほうこそ「ニセモノ」なんじゃないですかね。


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一知半解

 2010-05-25
時々、何かの場面において「あのー、あなた本当にその意味分かってやってます?」と尋ねたくなるような言動を取る人を見かけることがある。それに対する通り一遍の知識はあるけれど、「なぜそれをしなければならないのか?どうしてそういうことになるのか?」という「本当の意味」を理解していない人。

例えば、葬儀の席で、真珠のネックレスを二連に着けて平気な顔をしている人とか。日本の冠婚葬祭のマナーでは、葬儀で身に着けていいアクセサリーは、基本結婚指輪と時計のみとされている。女性の場合、それに加え、真珠のネックレスやイヤリングが許される。

では、どうして許可されている真珠のネックレスを二連にして身に着けることがいけないのか?それは「不幸が二重になる=重なる」という、日本語特有の「忌み言葉」に由来している。結婚式のスピーチで、「別れる」「切れる」「離れる」等という「縁起の悪い表現」を避けたりするのと同じことだ。

二連の真珠のネックレスを身に着けて平気な顔をしている人というのは、その「意味」を理解していないのだ。「葬儀では真珠はOK」ということは一応知っている。実際世間の人はみんな着けているし。だが、「それだけ」なのだ。なぜ真珠だけは良しとされているのか?どういった意味でそれを身に着けるのか?そういった一番肝心な部分を理解していない。だから「失敗」を犯しても平然としているのだ。

それが10代や20代などの若い子達だったら、まだ許される余地がある。そういった「習慣」や「礼儀作法」というものが、実感を伴って身に着いていない、自分のものになっていない年齢だから。「まあ若いから仕方ないよね」といった感じで、まだ周りの目も優しい。

だが、ある程度の年齢の人が、公の場等でその「無知から来るタブー」を犯していると、正直唖然とする。こちらが勝手に期待しているだけなのだが、「しっかりしてくださいよぉー(泣)」と情けなる時がある。

若い子であれば、「そういうことはやっちゃダメだよ」と周りが注意してくれる。しかし、社会的に「いい歳」と言われるくらいの年齢になると、誰も何も言ってくれなくなる。「遠慮」が出てくるのだ。良かれと思っても進言しても、そのことで相手に気分を害されるのも嫌だし、何よりも「いい大人」なのだから、今更本人も分かっているだろう―といった感じで。結局、自分で気をつけるしかない。


知識が完全に自分のものになっていない状態を、「一知半解」と言う。そして、意外と本人はそのことに気づいていない。むしろ状態はその逆だと思っている。傍から見ていると、結構恥ずかしい状態なのだ。自分の無知を堂々とさらけ出しているということなのだから。そういったイタサを露呈しちゃったのが鳩山首相かなと。

沖縄の米軍基地移転の件で沖縄を訪問する度に、「かりゆしウェア」を着ていらっしゃるが、「かりゆし」という言葉の意味を知っているのだろうか?ご本人からしてみれば、沖縄や県民に対して敬意を表しているつもりで、いわば「サービス精神(という名の『媚』)」でわざわざ着替えているのだろうが、上辺だけの「友好」や「理解」は、かえって大きな反感を生む。

「かりゆし」の意味は、「おめでたい。幸せ。縁起がいい」ということ。いくら沖縄でシャツとネクタイに代わる服装として公的にも認められているとはいえ、「すみません。やっぱり県外移設は無理みたいですぅー」という謝罪の場に、そういった意味合いが込められている服を着ていくってどーよ?

そもそも、かりゆしウェアをはじめ、「民族衣装」というものは、現地の人が身につけてこそ―なのだ。中途半端な気持ちで、意味も分からず身に着けるのだったら、最初からスーツ着ていけよと思う。現地の人たちにしてみたら「おめでたくない報告」を「おめでたい服」でされてもねぇ・・・。真っ赤なスーツにアクセサリーじゃらじゃら着けて葬儀に参列した弔問客に、「この度はご愁傷様でございました」とお悔やみの言葉を言われているようなものだ。

「沖縄と言えば『かりゆし』だろ!」と、ヤマトンチューが意味も分からず自分達の「民族衣装」」をチャラチャラ着て、神妙に「ごめんなさい」と頭を下げる。「結局以前と何も変わらない」という結果を含め、「やっぱり本土の人間はわかってねーな」と沖縄県民は落胆を深くしたに違いない。

相手の懐に入るんだったら、ましてや積年の恨み、感情がベースとなった交渉事に臨むのであれば、文化や風習含め、もっと相手のことを勉強しなくちゃダメっすよ。ハトヤマさん。ブレーンも一体何をしてるんだか。

まあアメリカの大統領との会談で、「Trust me」なんて言葉を簡単に使ってしまう「前科」がある方なので。「trust」という言葉が意味するところや重みを理解していたら、軽々しく口にできるはずはないのだが。英語は堪能のようだが、それも表面だけ、「ただ話せる」というだけのことなのだと思う。真髄をまったく理解していない。

「かりゆしウェア」にしろ、米軍基地移設の件にしろ、この人本当に「上っ面」だけだなーと。「近所のおじさん」レベルだったら、多分「いい人」なのだろうが、一国を率いる首相としてはちょっとなー。

「こんなことできるわけねーだろ!」とツッコミを入れたくなる「思いつきと勢いで作成しちゃったマニフェスト」を出してきた政党のリーダーは所詮こんなものかと。政権を取っちゃったので、とりあえず生温かく見守っていたのだが、やっぱりねぇ・・・。「革命政府」としての派手さと勢いが通用するのは最初だけ・・・という見本だと思う。


今回の基地移設に関しては、「絶対表に出てこないこと」や「一方的な情報操作」があるようなので。「片面」を見ただけですべてを判断しないことです。




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愚問

 2010-05-24
「あなたにとって○○とは何ですか?」インタビューの「定番」とも言えるこの質問、出てくる度にうんざりする。インタビューの相手が役者なら、「あなたにとって演劇とは何ですか?」ミュージシャンだったら「○○さんにとって音楽とは?」とか。つくづく芸がない。

大体、何よこの質問?と。「あなたのとって○○とは?」ご大層に聞えるが、これほど曖昧で意味不明な質問もないと思う。それは単に、間を持たせたり、上手くその場を収めたり、「これさえ言っておけば間違いない」という、いわば「常套句」なのだ。

くそ面白くもない通り一遍の薄っぺらい内容でも、最後をその質問で〆れば、まあ一応は「それらしく」まとまる―みたいな。どことなく哲学的な深さのようなものを感じさせるその響きが、重厚で高尚な色を添え、内容を数段ランクアップして見せてくれる。

「それらしい質問」には、当然「それらしい答え」が返ってくる。「あなたにとって○○とは?」「そうですねー。人生の一部ですかね」などと即答する人は、確実に答えを準備してきている。まあ言うなれば、質問と回答、どちらも「茶番」なのだ。聞き手と答え手、そのやり取りを傍で聴いたり読む人達―三者すべてが納得するための、「とりあえずのオチ」が必要なのだ。その「オチ」をつける役割が、「あなたにとって○○とは?」という質問なのである。


世の中の多くの人は、その人が情熱を傾けて一心に取り組んでいることには、何か深い意味や理由があるに違いないと思っている。むしろ「そうでなければならない」「確固たる何かがあるからこそ、この人はこんなにも熱心にそれに取り組んでいるのだ」と思いたい。自分の中の「願望」「理想」「期待」を投影しているのだ。

「結果」には「原因」が付き物だ。だが、意外とその「原因」は、ドラマティックの欠片もないような、平凡で単純なものだったりする。「面白かったから」「好きだったから」「興味があったから」「褒められて嬉しかったから」小学生が答えているのかと思うくらいの、「ほんのささやかなこと」がすべての始まりだったりする。

「そんなことはないでしょー。もっと何か深い理由があるんじゃないですか?」と納得せず、躍起になって何とか「それらしいドラマティックな要素を含んだ答え」を引き出そうとする人や、それを期待する人というのは、物事や現象に対して、いちいちその意味や意義を見出さずにはいられない。

それを一番欲しているのは、実は他ならぬ彼ら自身なのだ。行動するには、生きるには、自分も周りも納得する『それらしい動機』がなければならない―そう思い込んでいる。そういった人の多くは、動機や意味、目標を「糧」にしなければモチベーションを保てないタイプだ。「燃え尽き症候群」に陥る人は、大抵がこのタイプ。

何かを始める度に、それに対していちいち意義付けしたり、意味を見出そうとするのは、単なる「エゴ」だと思うのだ。「自分は意義深いことをやっている」「自分がやることにはきちんとした理由がある」と、他ならぬ自分自身がそう信じたがっているだけ。結局それは、「自己満足」の域のもの。

そういった人達が、例の「あなたにとって○○とは?」という質問にコロッと騙される。茶番でしかない「もっともらしい質問」と「もっともらしい回答」に、ドラマティックな要素や重大な動機がなければ物事は成り立たない―という意識を植え付けられる。

その「成れの果て」が、「私の天職って何?」「やりがいのある仕事はどうやって見つけるの?」「自分の人生の使命は?」「人生の生きがいって何?」と右往左往して大騒ぎする人達。「意味」や「意義」、「目標」に過度に執着するあまり、肝心な部分がまったく見えていない。気づこうとさえしない―と言い換えたほうがいいかもしれない。

「違い」など、実はほんのわずかなものなのに。自分の中の、その「平凡で単純なささやかな衝動」に従うか従わないか、そしてそれを続けるか続けないか―ただそれだけのことなのだ。「情熱」の火種というものは、決して大きいものではない。だが、それは小さいながらも、確実に高い熱を放っている。

「あなたにとって○○とは?」その質問に即答できるようになることが、必ずしも「正解」ではないし、必要とは限らない。意義や意味といったものは、所詮「後付け」。「はじまり」の段階から、本来後からついてくるものにこだわり過ぎている間に、その「火種」は消えてしまう。

その火種をどこまで大きくするか―ということは、意外にそれほど重要なことではないのかもしれない。いかにそれを絶やさずに守っていくか、燃やし続けていくか―一見地味で何気ないその部分にこそ、「核」が存在しているのかもしれない。時として、真実がシンプルな言葉で語られることのように。




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お門違い

 2010-05-19
【お門違い(おかどちがい)】
目指す家・人を間違えること。転じて、見当違い。(広辞苑より)



人の数と同じだけ、考えや思いがあって当たり前。だが反面、どう考えても、どの観点から観ても、「いやー、それっておかしくないですか?」としか思えない類のものがあるのもまた事実。

先日、調べ物をしていた時、ある著名な方のブログにたどり着いた。ネイティブアメリカンに関する著書や翻訳を多く手がけている方で、いわばその道の第一人者とも言える人。偶然その人が手がけたネイティブアメリカンについての翻訳本を持っていたということもあり、目を通してみたのだが・・・。まあブログ内容はともかくとして、驚いたのは本文の横、プロフィール等を記載してある部分に書かれていることだった。

「このブログを維持することに、私は多くのエネルギーと時間を費やしています。このブログを有益なものと思い、また今後の存続を期待してくれるのであれば、paypal(クレジットカード機能を利用した振込みシステム)経由の寄付、私の著書の購入、私が開催するセミナーへの参加等でサポートをお願いします。アマ○ンギフト券での『サポート』も歓迎です」

・・・・・・何ですかそれ?

「なんでこーゆー理屈になるわけ??」と不思議で仕方ない。そもそも、その人自身が「自由意志」で始めたブログに対して「存続のための寄付」って何よ?と。

ビジネスとして、「利益」にこだわるなら、登録者だけに有料配信するメルマガにすればいいじゃん。月額料金を支払った人だけがブログ記事を読める「課金システム」っていうのもあるし。

「私はブログを維持するのに多くの時間とエネルギーを費やしています」はぁ??そんなこと「当たり前」ですけど?

たとえそれがブログという形であっても、何らかの形でネット上に自分の書いた文章を載せるということは、その先には、不特定多数の「それを読む人達」が必ず存在する。自分が今日食べたランチとか、買った服の写真を載せているだけのブログであっても、それは変わらない。

ブロガー本人もそれほど入れ込んでいないというか、「ちょっと見て~♪」的な「お気軽な域」に終始するものは別としても、ある程度のレベルの、不特定多数の読者を想定した上での「読ませる文章」を書くということに、それなりのエネルギーや時間がかかるのは当然のことなのだ。有名な作家センセーであろうが、ごく普通の一般市民であろうがそれは変わらない。

ご自身の肩書きを「作家・翻訳家」としている方なら、それは十分分かっているはず。「今更何言ってんの?」なのだ。

「皆さんが私のブログの今後の存続を期待していただけるなら」だからぁー、あなたが自分の意思で、「好きで始めたブログ」なんでしょ?なんで読者に丸投げすんのよ?自分が書きたいなら書けばいいだけじゃん。大体「いや、べつにあんたのブログがこの先どうなろうが興味ねーし」と思っていたとしても、本人に面と向かって言うわけないじゃないですか。

ギフト券とか現金での「寄付をお願いします」って何??「更新を楽しみにしています」「いつも楽しく拝見しています」「これからもがんばってください」自分が好きで勝手にやっていることに対して、見知らぬ人から思いもかけずに温かい言葉や気持ちをいただく・・・というような「形のないサポート」だけじゃ物足らないんですかね?

だったら誰でもタダ読み可能な「儲けゼロ」のブログなんかさっさと閉鎖して、確実に利益が入ってくることだけやってればぁ~と。その分のエネルギーやら時間やら、執筆活動やセミナーに回せるし。ブログを始めた趣旨は何なのよ?と本人に直接聞いてみたいもんだ。

「インディアンの富は、『持っている物』ではなく、『与えられる物』で測られる。これがインディアンの言う『与える人』の真意だ」という言葉がある。彼らの文化や思想、個人的な繋がり等を全面的に押し出して、それを「売り」にした仕事をしていらっしゃる割に、やっていることは正反対なんですけど。

「ネイティブのエルダー(長老)との出会いで人生が変わった」とか言っているけど、まあ本人の「妄想」かと。本当にネイティブアメリカンの「核」を理解していたら、「寄付をよろしく。ギフト券も可」なんて図々しい言葉は出てこないと思うけどな~。

まあ「お門違いも甚だしい」という言葉の「実例」っていうことで。




【追記】
以前のエントリー「支離滅裂なスピリチュアル」で取り上げた「本物の霊能者」を自称する人も、相変わらずお門違いのことをしているようで。何でも特定の宗教団体を批判したら、その旨をブログ運営会社から注意されたとか。「霊界の真実」を伝えることはやめたくないので、これを機にHPを立ち上げ、そこで日記を公開したいとのこと。まあべつに勝手にやっていただいたらいいのだが、

「自分にはPCの知識がないので、『応援者』の方にサイトの作成を依頼したのですが、なかなか難しいそうです。ですから、心ある読者の皆さんにお願いです。ボランティアでサイト作成を手伝ってくれる方を募集します!お礼に自分が書いた『霊符』を差し上げます」・・・ですって。

件の翻訳家の方にしろ、この霊能者のかたにしろ、一体自分を何様だと思ってるんでしょうかね。「応援者」とか「寄付」とか「サポート」とか「ボランティア」とか・・・都合のいいことばっかり言ってんじゃねーよ!自分の尻は自分で拭け!です。世の中には「図々しい人」が結構いるようで、本当にびっくりしますな。




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真性マザコン

 2010-05-14
「最近カミさんのことを『オンナ』として見られないんだよなー」などとボヤく男性に限って、子供と一緒になって、奥さんのことを「ママ」とか「おかあさん」とか呼んでいたりする。

自分の妻を、自国語で「母親」を意味する言葉で呼ぶ習慣のある国というのは、世界でも稀だと思う。結婚してある程度の年数が経って、子供ができて・・・と、人生のある時期から妻を「ママ」「おかあさん」と呼ぶようになる男と、それを受容する女のいる国―「夫婦間の年間セックス回数万年世界最下位の国」というのも頷ける。その時点で、既に「男と女」ではないのだ。誰しも「自分の母親」とはセックスできない。

「妻を母と呼ぶ男」は、それを妻のせいにする。「年がら年中すっぴんでジャージ姿でいられたら萎える」とか「色気が足りない」とか。しかし、そう言う男の側も、大抵はその「色気のない妻」と似たり寄ったりだ。「おっさんモード」全開で、「これだからおっさんは・・・」と陰口を叩かれる状態に自分があることに気づいていなかったりする。

彼らはまったく気づいていないのだ。妻から「女」を奪っているのは、実は自分だということを。妻に「母親」を求め、「永遠の息子」でいたがっている自分の無意識のせいだということを。

日本の男というのは、基本「マザコン」だと思う。それは、思想や習慣等含め、日本の文化的背景から来ているものが大きいと思うのだ。今でこそ、男女雇用機会均等法だとか、家事を分担して行う夫婦だとか、世間的に男女の格差はほとんどなくなったように見える。しかし、歴史的に見て、日本は「男尊女卑」の国だ。「妻は夫より三歩下がって歩く」とか「女三界に家なし」とか。数十年前まで、そういった思想がごく当たり前の国だった。

私達アラフォー世代は、「男は外で働き、女は家を守るのが当たり前」と考える風潮の強い時代で育ってきた。事あるごとに「女は男に尽くすもの」という観念を無意識に刷り込まれて育ったので、「そんなのおかしい!」と反発しながらも、心のどこかでは渋々それを受け入れているようなところもある。

今でこそ料理等、家事をする男性はめずらしくなくなったが、私達の世代では、「家事が出来る男性」と「まったくできない男性」に二分される。もしかすると、「できない男性」の割合のほうが多いかもしれない。それは、「男子厨房に入らず」「男は家事なんかできなくて当たり前。しなくてもいい」「家事は女の仕事」と考える人が大半の世代の親―特に母親―に育てられた人が多いから。

加えて、母親というものは、娘より息子のほうを断然大事にする傾向が強いということもある。黙っていても温かい食事やお茶が出てくるのが当たり前。取れかけたシャツのボタンがいつの間にかちゃんと付けられている。箪笥を開ければ洗濯されてきちんと畳まれた服や下着が並んでいる―日本では、母親の多くが、まるで夫に尽くすように息子に尽くす。

そうした母親の「献身」を、息子は当然のこととして受け取る。その「刷り込み」と「勘違い」が誤解を生むのだ。「女=母親」と。「女とは、母親のように自分の面倒を見てくれる存在であり、母親のように面倒を見てくれるのが、女というものなのだ」と。

その「誤解」を抱いたまま、多くの男は結婚することになる。彼らにとって「結婚」とは、「妻を娶る」というより、「『もう一人の母親』を手に入れる」ということが目的なのだ。そして、自分の無意識に存在する「本当の目的」に、彼らはまったく気づかない。

結婚し、「もう一人のおかあさん」を手に入れた彼らの「本音」が現れる部分が、「ママ」とか「おかあさん」といった妻への呼びかけなのだ。そうすることで、名実ともに、妻を「母」にする。彼らが求めているのは「妻」ではなく、あくまでも「母親」なのだ。「色気のない奥さん」に、実は安堵している。息子というものは、「色気のあるおかあさん」を望まない。彼らにとって、母親とは、そういった「生々しい存在」であってはならないのだ。


英語では、恋人関係も含め、パートナーへの呼びかけには、名前の他に「ハニー」「ダーリン」「スウィーティー」等という言葉がよく使われる。「ダーリン、今日の晩御飯は何がいい?」とか「ハニー、ちょっとこれ見てごらんよ」とか。まあ日本語の「あなた」「君」「おまえ」に相当する言葉だが、相手に対して「愛しい人」だの「可愛い人」だの、超甘甘な表現を使うところからして、パートナーに対する意識が日本人のそれとは根本的に違っているのがわかる。

たとえ自分達が家庭内で「父親」「母親」というポジションにあったとしても、お互いを「ママ」「パパ」などとは決して呼び合わない。それは「自分をこの世に生み出した人達=両親」に対してのみ使われる言葉であって、妻や夫に対して使うものではないのだ。あくまでも「妻は妻であり、夫は夫」なのだ。お互いにとって、相手はいつまでも「異性」であるということ。

日本と欧米の夫婦関係の一番の違いはそこではないかと。片や結婚して数十年経っても相手を「ハニー」「ダーリン」と呼び続け、「愛してる」だの「君はきれいだ」などと四六時中言い合う国と、片や「ママ」とか「パパ」とか夫婦なんだか親子なんだか分からない曖昧な言葉で呼び合い、相手を褒めもせず、不平ばかりが圧倒的に多い国との―。まあそれは、「女性への奉仕」等を理想とする「騎士道精神」の気風の強い文化圏と、儒教思想を根幹にした「武士道」の国との違いでもあるのだろうけど。

日本人女性をはじめ、多くのアジア人女性が欧米の男性にコロッと参ってしまうのは、その「騎士道精神」に基づいた女性の扱い方の部分に因るものが大きいと思う。「ハニー、それは僕が持つからいいよ」と、相撲部屋の新弟子みたいな体型をした奥さんにスーパーの袋一つ持たせようとしない欧米の男性達の振る舞いを、彼女達は「やさしさ」と思い込む。

だがそれは、「やさしさ」ではなく、文化的な「習慣」から来るものなのだ。自分を好きだから優しくしてくれているのではなく、「女性を労わるのは当たり前。女性とは守ってあげるべき存在」と定義する文化故なのだ。

日本人が誰かと会ったら会釈をするように、「レディーファースト」は、「礼儀」であり、当たり前の「習慣」。6歳の男の子がドアを押さえて待っていてくれたり、自分の体の半分くらいの大きさの荷物を持とうとしてくれるのも、子供の頃から徹底的にその精神を叩き込まれるから。

それぞれの国の礼儀や習慣を比較して優劣をつけるのは本来筋違いだが、日本人男性の場合、その「習慣」を笠に来て自分を棚に上げる人が結構多いということは否めない。

自分はソファにふんぞり返ってテレビを見ているくせに、忙しく洗濯物を畳んだりしまったりしている奥さんに向かって「お茶入れろ」とか。「今忙しいから自分でやって」と言われると、途端に拗ねる。「おふくろは忙しくてもやってくれたのに」挙句の果てに、「自分に対する愛情が感じられない」などと言い出したり。

「妻が自分にしてくれること・してくれたことの数」で愛情を計るようになる。しかし、そういう人に限って「それが妻の役割ってもんだろ」とばかりに、「ありがとう」すら言わないのだ。奥さんが両手でスーパーの袋を持っているのに、片手にタバコ、片手に携帯で、数メートル先を電話の向こうの相手とばか笑いしながら歩いていたり。「あんた一体何様よ!?」と。

いくら「夫婦」といえ、「血の繋がらない他人」が、料理を作ったり、洗濯したり、自分のためにあれこれ何かをしてくれることって、実は「すごいこと」だと思うのだが。母親だったら当たり前のようにやってくれることを妻がしてくれない―とブツブツ言うのは、妻と母親を同一視している証拠なのだ。


男女関わらず、パートナーの悪口や不平不満が多い人というのは、意外と相手と「鏡の関係」にあったりする。相手に対して言っていることが、そのままその人自身にも当てはまる部分が多い。結局、「お互い様」というところ。ここ最近、カウンセリングをしていると、特に男性にそういった傾向が強いなと。

奥さんを「色気がない」とかこき下ろす前に、無意識に「母親」になることを強要していませんか?と。本当の、真性のマザコンというのは、妻に「理想の母親になることを要求すること」なのだ。自分の「マザコン度」の高さに気づかず、奥さんに対してあれこれ言うのは身勝手というものだ。

「奥さんがお茶を入れてくれないのは自分を愛してないからだ」などという戯言を言う前に、たまにはあなたが奥さんにお茶を入れてあげたらどーですか?と。それが嫌なら「自分のかあちゃんと結婚しろ!」と言うしかないですな。




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仲間食い

 2010-05-09
「周りの人間=自分の利益や都合のために利用する道具・手段」という意識を持っている人というのは、「仲間」という言葉が大好物のようだ。「だって仲間じゃん」「仲間なんだからさ」何かにつけてその言葉を持ち出し、相手にその意識を植え付けていく。「利用価値」があると思えば、すかさずその輪の中にその人を組み込もうとする。いってみれば、それは彼らの「作戦」なのだ。


そもそも「仲間」って何よ?と思う。辞書(広辞苑)には、「仲間=ともに事をする人。同じ仕事をする人。またその集まり。同類。伴侶。類」とある。まあ、「同僚」「チームメイト」「同級生」等がそれに該当するのだろうが、「親しく交わっている人=友達」と呼ぶほどの付き合いではないし、「互いに知っている人、面識のある人=知り合い」ではちょっとよそよそし過ぎる。しかしその言葉で一括りにされると違和感や抵抗感がある―何だか非常に中途半端というか、収まりがよくない。「仲間」とは、なかなかやっかいな概念だ。

「相手を利用する人」というのは、「=依存可能な対象を求めている人」でもある。結局「自立していない」ということなのだ。自分自身の力で立てないから、支えてくれる誰かや何かを求める。本人達にはその自覚がない・・・というより、自分が何らかの支えなしには立てない人間だと思いたくない気持ちがある。だから「仲間」というもっともらしい言葉を巧みに利用するのだ。「正当な口実」として。

その人達は、早晩「図々しい」としか言えないような要求、「依存」をしてくる。そもそも彼らの目的は、「相手を利用すること」なので。もともとの狙い、「作戦」が発動したわけだ。

その「方法」も共通している。情に訴えかけるような、相手の「良心」につけ込むようなアプローチの仕方。断ったり難色を示すと、「愛がない」とか「仲間だと思ってたのに」とか言い出してキレたり。「さっきのしおらしさはどこに行った!?」というようなふてぶてしさ。もう呆れるというか、始末が悪いというか・・・。こちらからすると、「勝手なこと言ってんじゃねーよ」」と。

そういう人に限って、「仲間」だの「愛」だの「ワンネス」だの「ありのままを受け入れましょう」だのと、普段綺麗事を言っているくせに、やることは非常にえげつない。

あくまでも、「ご都合主義」が前提での「仲間」なのだ。その言葉で相手を縛っておけば、自分の手持ちの「駒」、メリットはキープできる。相手を動かす時の「正当な理由=言い訳」にもなる。「仲間って助け合うものだよね?」「仲間なんだから協力してくれるよね?」といった感じで。

そのくせ自分からは与えようとしないのだ。相手から取れるだけ取った後は、知らん振りをしている。だが、その魂胆を見抜かれると、自分が取るだけの人間、「taker」だということがバレそうになると、屁理屈を捏ねて取り繕おうとする。それが上手くいかないと逆ギレしたり。そのへんがいやらしいというか、小賢しいというか・・・。

彼らが言うところの「仲間」と称したその関係を外から観ていると、お互いを、相手から得られるメリットを貪り合っているような、いわば「共食い」にしか思えない。「より多くのものを奪ってやろう」そういった腹黒さを、「仲間」などという言葉で上手くカモフラージュしようと画策するところが浅ましいなと。

こういった人―仲間うちを食い荒らす人を「仲間食い」と呼ぶが、特に人間関係が希薄になっているこの時代、うわべだけの言葉の響きにホロッとさせられた挙句、すべて食い尽くされた―ということにならないよう気をつけることだ。


まあいつもこういうことをやっているから、「本当の仲間」ができないんでしょうけどね。




【追記】
分野に関わらず、各種「スクール」「セミナー」というものには、講師や生徒に関わらず、「仲間を求める人=都合よく相手を利用する人」がかなり多いようで。生徒を私物化してボランティアを強要するセンセーとか結構います。「仕事休んでセミナーを手伝いに来い」とか。日給も交通費も食事代も一切出ない無給の「ボランティア」として、朝から晩まで丸一日拘束してただ働きさせる・・・などという話はよく聞きます。

そういうセンセーというのは、何かにつけて「仲間」という言葉を強調しているようなので。立場を逆手にとって、当然のように利用するその浅ましさ。手伝いに来ない生徒のことをあれこれ言ったり。「何勘違いしてんだよ」と。生徒を「奴隷」とでも思っているんでしょうか??

面白いことに、そういうセンセーのところには、同類の生徒さんが集まるようで。センセーから得られるメリットが目的で、嬉々として「ゴマすりボランティア」をやっているみたいです。傍からは、狐と狸の化かし合いにしか見えませんけどね。まあ同類同士、勝手にやってればぁ~と思います。



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オンナは匂わす

 2010-05-03
某女優さんが離婚するとかしないとか・・・。奥さんとご主人、双方の言い分に食い違いがあるようで、事の真意を含め、「一体どうなっているのか?どうなるのか?」等と連日マスコミが騒いでいる。人様のプライベートなど正直どーでもいいのだが、まあ離婚の方向で話が進むことは確実だと思う。万が一「騒動」で収まっても、二人の関係が現時点より改善される確率はかなり低い。「雨降って地固まる」ということにはまずならないだろうと。

何よりも、切り出したのが奥さん―という時点で既に「終わったな」と。「今何が起こっているのかわからない。数週間前までは仲が良かった。先日の妻の誕生日には一緒に楽しく過ごしたし、そんな話は一切出ていなかった」と混乱の体でインタビューに答えているハイパーなご主人を見て思った。

「いやいや、奥さん絶対に『サイン』を出してたと思いますけど。あなたが気づいてないだけですってば」

オンナが離婚を切り出す時というのは、実はもう彼女の中では「すべてが終わっている」ということなのだ。脳内では「既にバツイチ」になっている。

「別れたいんだけど」と言われたオトコは大きな勘違いをする。それは、「あなたと離婚したいと思っています。それについてあなたはどう思いますか?どうしたいですか?」と、こちらの「意向」を尋ねているのではなく、「これ以上一緒にいるつもりはないから。ってことでよろしく」という「宣言」なのだ。交渉の余地はない―と思ってもらったほうがいい。

仕事でもプライベートでも、離婚経験のある女性―自分が切り出した側である人達の話を聞いていると、面白いことに気づく。その人達全員がまったく同じ言葉を口にするのだ。

「オトコって、どうしてあんなに鈍感なんですか?こっちがあれだけ『別れたいオーラ』出してたのに全然気づかないんですよねー。切り出したらものすごく驚かれて、こっちのほうがびっくりしちゃいましたよ。『あれだけ露骨にアピールしてたのに気づかなかったの!?』って」

これは離婚だけに関わらず、恋人との関係解消や、何とも思っていない人からの好意を拒絶する際にも当てはまる。かなり露骨に、時には残酷に思えるほどこちらの気持ち、「別れたい」「あなたに興味はありません」とそれとなく匂わせても、オトコというのはそれに気づかない。

それは単に「鈍感」というよりは、そういったオンナが発するものを感じる「センサー」が、もともと備わっていないせいではないかと思うのだ。その証拠に、女同士、同性の目線からだと、「○○ちゃんはあの人のことは何とも思ってないのね。アウトオブ眼中なのね」と何となくわかったりする。「△△君、★ちゃんが嫌がってるのどーしてわかんないかなー」とか。

男性には気の毒だが、オンナの言動を読み解く「マニュアル」はない。それは個々によって異なるものなので、「個別対応」するしか方法がないのだ。いくら文句を言われようが仕方ない。そういったことを含め、しょせん「違う種類の生き物」なのだから。

ただ、確実に言えることは、オンナがそれを切り出した時点で、ダメ出しをした時点で、事態が好転する確率はかなり低い―ということだ。むしろ「絶望的」と言ってもいい。「粘れば何とかなるかも」と一縷の希望に縋って努力したとしても、それは自分の株を下げるだけ。というより、「うざいオトコ」というレッテルを貼られた上に、ますます嫌われるのが関の山なのだ。

件のハイパーなご主人も同様かと。奥さんの出していた「サイン」を見落としていたということだ。いくらその男性が頭脳明晰でも、感受性が豊かでも、感が鋭くても、それはオンナの心情や真意を読み取る能力とは関係ない。

まあ「既に脳内ではバツイチ」になっているパートナーを、あの手この手で引きとめようとしてもねぇ・・・。ここは日本男児らしく潔く身を引いたほうがいいかも。「終わりよければすべてよし」ってことで、オンナの中には、かつてのパートナーの「いい思い出」だけが残ることになるんで。「最後の姿」って、意外と重要なのだ。


いくら他人が離婚理由を詮索したとしても、夫婦のことは夫婦にしかわからない。たとえ血のつながった親や兄弟姉妹、子供であっても、「本当のところ」は、当の本人達にしかわからないものなのだ。

まあ夫婦間の問題や関係においては、100対0の割合でどちらか一方だけが悪い―ということはない。いくら周りからそう見えても、理不尽に思えても、「双方に責任がある」ものなのだ。たとえそれが99.9対0.1の比率だとしても。男と女に関しては、しょせんすべては藪の中―ということだ。



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6月 自死遺族グリーフケアの会(グループ対象)開催日時

 2010-05-02
2010年6月のグリーフケアの会(グループ対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 6月6(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 6月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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陶酔する人々

 2010-05-01
自己啓発やスピリチュアル系のブログを見ていると、「体験談」と称した「苦労話」を延々と披露している人が多い。「私はこうして真の自我、『本当の自分』に目覚めたのです!」とか。

「自分語り」している本人は、そりゃあ気持ちがいいと思う。「書くこと」をはじめ、自分の気持ちを何らかの形で「表現すること」は、ある種のカタルシス、「浄化」をもたらすから。だが、誤解を恐れずに言わせてもらうが、他人の苦労話ほどつまらないものはない。その人のマスターベーションの瞬間に付き合わされているようなものだ。

「体験談」というのは、常に「第三者の目線」が必要になる。自分を「他人の目線」で語ってこそ成り立つものだ。そこで自分に起きたこと、その時の自分の状態等、ただ「事実」を語ればいい。極端に言えば、主語と動詞で十分なのだ。だが、そこに「当事者」としての、主観丸出しの「自分語り」が入った時点で、それは本来の意味とはかけ離れたものになる。

「苦労話」を嬉々として披露しているブログに共通しているものは、強烈な「自意識」と「自己愛」だ。そして、「自分は特別な存在」という意識が根底にある。もっともそれは、「特別な存在になりたい」という本人達の「願望」を投影した「思い込み」でしかないのだが。

「特別」という言葉に強くこだわればこだわるほど、自分の「凡庸さ」を露呈することになるということを、彼らは認識していない。実際、そういった人達の大半は「フツーの人」だ。騒いでいるのは本人達だけ。「自分探し」と称する「ただの悪あがきと現実逃避」の過程や子供時代からしつこくこだわり続けるコンプレックスを人様に披露して何が楽しいのかと。

自己啓発やスピリチュアルにはまるきっかけの多くは、「コンプレックスから来る自己嫌悪」と「人生においての躓き」と相場は決まっている。ご多分にもれず、彼らもその口。正直めずらしくもなんともない、いわば「ありきたりのこと」。本人達は思い入れたっぷりにあれこれ飾り立てて語ってはいるが、その実「なんてこたーない」レベルのものなのだ。

まあ本人達には「特別意識」があるので、「特別な自分」が特別に、自分に関する「特別な話」をしてあげている―と、ある種の「サービス精神」を発揮しているつもりなのだと思う。べつの見方をすれば、単に「みんなは自分の話を聞きたがっているにちがいない」と勝手に思い込んでいる「おめでたい人」なのだけれど。


時代が変わったということもあるが、最近「苦労」の基準が下がってきたなと。何を以って「苦労」とするのかは、人それぞれ違うので一概には言えないが、私にとっての「苦労」は、明治・大正生まれの祖父母世代の人達のそれが基準となっている。

私の子供時代は、第二次世界大戦時、捕虜としてシベリアに6年間抑留されたり、満州から無一文で、それこそ身ひとつで命からがら日本に引き揚げてきたり、乗っていた軍艦が撃沈され、板切れに掴まりながら3日間海を漂流した末救助された等の経験を持つおじいちゃんやおばあちゃん達が、日常に「普通に」存在していた。

そういった、戦争とか世界情勢とか、好むと好まざるに関わらず、「個人の意志の及ばないもの」に翻弄され、受け止めるしかなかった経験を「苦労」と言うのだと思ってきた。そういった意味では、私を含め、戦後生まれのほとんどの人は「苦労知らず」だ。

大体、世界でも1~2位を争うほど恵まれたこの国での「苦労」などたかが知れている。「本当の自分」を探すために割ける時間がある生活のどこに苦労があるのかと思う。

「自称 覚醒した人達」が語る苦労というのは、あまりにも浅薄だ。失礼を承知で言わせていただくが、それは単に「嫌だったこと・困ったこと」のレベルではないかと。まあ本人達が「辛い経験」と言っているので否定はしない。だが、「多くの人が同じようなことを経験してるよ」と。

カウンセリング中、ほとんどの人が必ず口にする「前置き」がある。「多分こんなふうに思っているのは(こんな経験をしたのは)自分だけだと思うんですけど・・・」

大抵の場合、「自分だけ」と思っていることでも、同じような考えや経験をしている人は、世の中に少なくとも10人はいると思ってもらってもいい。そしてその内の半数は、自分の身近にいる可能性が高い。ただお互い口に出さないから知らないだけなのだ。

いまだにウダウダと苦労話を書き連ねるのは、実は本人がまだそこから脱却していないという証拠でもある。今の世の中、ヒーロー・ヒロイン願望の強い「かまってちゃん・かまってくん」が本当に多いなーと。「私を見て!」「ボクを認めて!」と懸命にアピる様子はまるで「子供」。満たされなかった過去への記憶に未だ執着しているのだ。

まあ、その人達の「特別ごっこ」に付き合ってあげるつもりで、そのへんを割り引いて「体験談」とやらに目を通すことだ。「本当の体験談」というものは、「ただ淡々と事実を語るだけ」で、十分人の心を動かすものだ。

今の世の中、「大袈裟な人」が多過ぎる。もう少し冷静に自分を省みる目を持ちましょう―と。自分に酔いしれる人って、傍から見ると「ただのイタイ人」なんで。そういう「イタイ人達」が数多く集まる自己啓発やスピリチュアルの世界というものも、「イタイ世界」と言ってもいいかもね。



【追記】
「自分は『本当の自分』に出会うまでに、あんなことやこんなことをやった」と自慢げに、自分の職業遍歴を書き連ねている自己啓発スクール講師の人がいましたが・・・「肉体労働もやりました!」とか。何かそれを「勲章」みたいに思っているようですが、それって自分の根気や考えのなさを露呈しているだけなので。

大体どうして「肉体労働をした=苦労」になるのかと。だったらブルーワーカーの皆さん、すべて「苦労人」じゃないですか。しょせん「ぬくぬく育った頭でっかちの自己愛の強い人」の考えることです。何だかんだ言いながら、「苦労知らずの坊ちゃん育ち」なんでしょうね。自己陶酔の人にかかると、何でも大袈裟になり過ぎていけませんな。



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