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あわいのゆらぎ

 2010-04-24
公私問わず、たまに「なんかこの人『嘘っぽい』な」と感じる人と会うことがある。べつに詐欺師とか、犯罪者の匂いがするというわけではない。良い意味で「普通の人」。しかし、何というか、全体的に「作り物」めいている印象を受ける。端的に言えば、「不自然」なのだ。

「常に相手を見る(観る)仕事」に就いている今、仕事柄とはいえ、人の「顔(表情)」というものを間近で見ているとわかってくることがある。人間には、もともと『ずれ』が存在している。「バグ」と言い換えてもいい。

人間の顔というものは、次の表情へと変わる時、ある種の「時差」が生じる。それはコンマ何秒というような、ほんの一瞬にも満たないものだが、「AでもなくBでもない瞬間」が必ず存在する。例えば、笑顔から一転して泣き顔に変わる時、そこには「笑顔でもなく泣き顔でもない顔」がほんの一瞬現れるのだ。

表情と表情の合間にある表情。私は勝手にそれを「ゆらぎ(揺らぎ)」と名付けている。それは本人の意識が及ばないところからやって来るものであり、自身が認識しているということは多分ない。

そういったものが自分の中にあることなど、大抵の人は知らずに、気づかずに日々を過ごしていく。たとえ相手の中にそれを認めたとしても、たちまち意識の外に追いやって気にも留めない。取るに足らないような一瞬の現象。しかし、「ゆらぎ」は確実に存在する。人間が人間たる証拠でもある。

「嘘っぽい人」には、この「ゆらぎ」がない。その人達の、「ゆらぎ」がまったく存在しない顔を見るたび、私は文楽の人形を連想する。若い娘の顔が、一瞬のうちに夜叉のそれに変わる―まるで精巧なからくりの技を見せられているような気分になる。

本来あるべきはずのそれがないということは、「不自然さ」だけが強調されることになる。「違和感」と言い換えたほうが分かりやすいかもしれない。特に理由はないが、「なんか変」というような。人によったら、その人に対して居心地の悪さや、理由のない不信感のようなものを覚えるかもしれない。それは、本能が「欠如」を感じ取っているからだ。

彼らは総じて「理想主義者」だ。そして、いろいろな意味で「自分を嫌っている」。「ありのままの自分では愛されない、受け入れてもらえない」と思い込んでいる。「本来の自分の要素」をことごとく消そうとするのだ。

多くの人は、「作った自分」を気に病んだり、罪悪感のようなものを感じたりする。だが、それは「ごく当たり前のこと」だ。立場や状況等によって「顔」を使い分けるのは自然且つ必要なことであり、「作った自分」を意識しているということは、言ってみれば「健全な状態」なのだ。

だが、その意識がない人というのは、妙に整然としている。「し過ぎている」と言ったほうがいいかもしれない。あまりにも「隙」がなさ過ぎて、ある種「機械的」なのだ。

彼らを観ていると、「こういう時にはこういう顔をする」と正確にプログラミングされたかのような表情の切り替わりをする。まるで電気のスイッチを点けたり消したりするかのように、「どちらでもない顔」「どちらでもない一瞬の間」といったものが存在しない。本来人間に備わっているはずの「曖昧さ」が見られない。

「明るくて親切で人から好かれる人は、きっとこういう態度をするに違いない」「頼り甲斐のある人は、こういう表情でこんな言葉を言うに違いない」彼らは、その時々応じてに身に着ける「仮面」をいくつも持っている。それを着けたり外したり―ということを、延々と繰り返しているのだ。

だが、いつしか「仮面」が先行するようになる。着けたり外したりという動作の頻度や速度に、やがて「感情」が追いつかなくなっていく。「仮面の装着」と「仮面と符合する感情を作るタイミング」が合わなくなるのだ。当然その「ずれ」は「矛盾」を生む。この種の人達によく見られる「言動の不一致」は、そこから生まれる現象なのだ。

しかし、もともと「本来の自分」を消失させることを強く望んでいる彼らが、自身の状態を認識することはない。なぜなら、彼らにとっては「仮面を着けている自分=本当の自分」なのだから。自分に対する嫌悪や「求めるもの」への欲求が強過ぎて、「理想像」に対する憧れのほうが勝ってしまう。強烈な自己暗示の状態にある―と言ってもいいかもしれない。「これが自分。これが『本当の自分』」と常に自身に向かって言い聞かせている状態なのだ。

そして、自ら「プログラム」を作動させる。いつでも「適切な仮面」を選ぶことができるプログラムを。いつでも「理想の自分」でい続けられるように。瞬時に「求められている自分」を見せられるように。「完璧な人間」には、「どちらでもない」などという「中途半端さ=ゆらぎ」などあってはならないのだから。

彼らはまったく気づいていない。その「精巧さ」「緻密さ」が、かえって自分の「不自然さ=矛盾」を際立たせることになっていることを。

「どちらでもない」という一瞬の間、「あわい」に出現する「ゆらぎ」があってこそ、人は初めて「生身」の、「本物の人」となり得るのだ。



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やがては海へ

 2010-04-21
「勝間和代さんって、私より年下なんだよねー」と言うと、決まって「えー!?」と言われる。「その『えー!?』はどーゆー意味よ? 」というツッコミはこの際置いておくが、「カツマー」と呼ばれる熱心な信奉者を生み出す等、ある種の社会現象を引き起こしている勝間さんが、自分より1歳下ということを知った時は、正直驚いた。だって落ち着きといい、貫禄といい、とても年下とは思えない。(まあ私が年齢の割にヘラヘラしているせいでもあるのだが)

だが、「あー、やっぱり同世代か」と合点がいったことも事実だ。彼女が提唱している目標達成や仕事の効率性を高めるための方法は、正直、私達の世代にとっては、特にものめずらしくも斬新でもない。ああいった方法は、20年以上も前から既に一般的だった。その手のハウトゥー本の類や関連セミナー等も多かった記憶がある。言ってみれば、その「焼き直し」や「リバイバル」のようなものだ。

「カツマー」は、圧倒的に20代~30代の若い人達が多い。「マニュアル世代」で、且つ「楽に・早く」を求める傾向の強い彼らに「勝間式」が支持されるのも頷ける。

私が中学や高校に通っていた1980年代は、「詰め込み教育」の時代だった。近年の「ゆとり教育」とは正反対。「偏差値絶対主義」というか、いかに良い成績を取るか、いかにレベルの高い学校に入るか―ということを前提にして教育が行われていた。

もちろん、学習塾や予備校等も大盛況。学校では、教科書を満遍なく勉強する授業が行われていたが、予備校は「テクニック」重視。どうすれば点数が取れるか―という「方法」の伝授等、すべてが「受験合格」のためのカリキュラム。いかにムダなくゴールに辿り着けるか―という「効率第一」のものだった。

勝間さん提唱の方法は、まさにその「予備校スタイル」なのだ。「良い学校に入ることを目指している優等生」のそれ。「接待やミーティング等のビジネス上のコミュニケーションは効率とコスト面を考えてランチタイムに行う」とか「仕事は効率化を重視、ムダと判断したことは断る」とか「耳勉(ジョギングしながら英語のテープを聴く等)」とか。効率化とムダの排除、「目標達成」が最優先―完全に「受験生の勉強方法」そのもの。

だが、「勝間式」は言ってみれば、何か明確なゴール(目的)があってこそ―のものだと思う。彼女の学歴や職歴等を見ればそれは明らかだ。「○○大学に入る」とか「公認会計士試験に合格する」とか。「ひとかどの人物になる」というか、社会的なステイタスを求める人にはいいかもしれない。だが、「人生」そのものに対しては、そのやり方がすべて当てはまるとは限らない。


カウンセリング中、多くの人から「今の自分は何の目標も持っていない」という言葉を聞く。「目標がない」ということに対して不安感を覚えたり、それを自分の怠慢さの表れと思っている人もいる。何とか人生においての「目標」を見つけようと躍起になっている人もいる。

人生のある時期までは、「楽」だった。いい成績、いい学校、いい会社や仕事、いい結婚―目指す目標があったから。だが、その段階を過ぎた後、多くの人は途方に暮れる。そこから先の人生に、今までのように目に見える印、目標が忽然と消えるから。だから人は必死で目標を探し出そうとする。「今度はあそこまで行けばいいんだ」「あの為にがんばればいいんだ」という慣れ親しんだ「安心感」をまた得ることが出来るから。

「目標」に過度にこだわる人ほど、人生に対して不安を覚えているように見える。予測不可能で、形がなくて―。「不確かなもの」に対する恐怖―と言ってもいいかもしれない。そういったものの先に「未来」が存在するということが信じられないという思いが、「目標」へのこだわりを生むのだと思う。

学生時代、アメリカのオレゴン州で1ヶ月間ホームステイをした時、ゴムボートで激流を下る「ラフティング」を体験したのだが、「勝間式」はそれとよく似ている。水中や水面にある岩をいかに避けるか、どのようにしたら一番激しい流れの箇所を乗り切れるか、どの流れに乗れば最終地点まで楽にたどり着けるのか―。効率重視、ムダの排除、目標達成志向―共通する部分が多い。

ラフティングは面白かった。達成感もあった。だが、最終地点に着いてしばらくしてから、ある種の物足りなさを覚えた。川を下っている途中、鹿の親子が水を飲んでいたり、岩場をリスが走り回っていたりするのが見えていたのだが、「あ、可愛い」と思っても、次の瞬間、岩を避けるために必死になってオールを漕がなくてはならなかったり等、景色を楽しむ余裕がなかった。あの時の「慌しさ」に似ているなと。

多くの人は、「目標」を設定することによって自分のモチベーションを維持しようとする。それを達成した時の高揚感や達成感が、これから先を歩いていく力をくれると思っているから。「今自分がやっていることにはきちんとした理由がある」と、意義や正当性を見出すこともできる。だが思うのだ。意外とそれは、間に合わせの、一時しのぎの自己満足の域のものに過ぎないのではないのかと。

私は、人生は「川」のようなものだと思っている。いくつもの支流が、やがて1本の本流となり、海に流れ込む。結局、それがどんな流れであっても、どこを流されていようと、最終的には海、それぞれの魂の「目的地」へとたどり着くようになっているのだと思う。水は低きに流れるもの。海から遥か遠く離れていても、支流は海と繋がっているのだ。

最短最速で海にたどり着くのもいいが、私はすべての支流を体験してみたい。たとえそこに明確な目標や意味を見出せなかったとしても、「自分はどこに向かいたいのか」「どんな人生を送りたいのか」「どんな人間になりたいのか」という「方向性」さえしっかりと掴んでいれば、どんな川を流れていても、「大丈夫。必ず海へたどり着くから」と信じて進んでいくことができると思うのだ。








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「違う波動」を引き寄せる時

 2010-04-09
「自分の波動が同じ波動のものを引き寄せる」という「波動の法則」は、スピリチュアルの世界では昔からの「定番」だ。「高い波動(気、オーラ)を持つと、同じように高い意識を持った人達と出会えるようになる」とか。

特にスピリチュアルに興味があって熱心な人ほど、自分が今置かれている状況が「あまりよくない」「好ましくない」ものだったりすると、「今の自分の波動が悪いからこんな状況になったんだ」「自分がこの最悪な状況を引き寄せたんだ」と落ち込むことが多い。

だが、その人達を傍から観ている限り、礼儀を始め、人としてもきちんとしているし、日々努力して人生を真面目に生きている。「悪い波動」を出しているとは、とても思えない。

しかし、巷のスピリチュアルでは「同じ波長のものが出会う」ときっぱり言い切っているので、それを鵜呑みにして「全部自分のせい」と自虐的になる人が多い。そういった人達の大半が、素直ながんばり屋さんだということも関係しているのだろうけど。(まあ「融通が利かない悲観主義」とも言えるが)

長い間、どうしてスピ業界のセンセー方が、こうまで「波動云々」と言い切れるのか不思議に思っていた。いろいろ観察させていただいた結果、極めて簡単な答えに行き着いた。それは「世界が狭いから」。

分かりやすくいえば、スピ業界のセンセー方がいる世界は、サラリーマンやOL等、いわゆる「世間一般の普通の社会」に比べると、間口も奥行きも格段に狭い。今でこそ猫も杓子も精神世界と騒いでいるが、ちょっと前までは、ごく一部の限られた人達のためのものだった。アングラに近い、いわば「得体の知れない怪しい世界」というか。おしゃれで親しみやすいものになったのは、あの人気オーラ番組が放送された頃からだと思う。本当にごく最近のこと。

どんな種類のものでも、「小さくて狭い世界」に集まる人は限られている。何か「共通の目的・対象」がある場合は特にそう。そういった世界には、「類は友を呼ぶ」で、似たような考え方や性格、嗜好の人が集まりやすくなる。そりゃあ「同じ波動の人」と出会う確率も高くなるわなと。

例えば、「オタク」と呼ばれる人達が、いろいろな意味で「よく似ている」のを見ればそれが分かると思う。「波動の法則」は間違いではないが、それはすべてのことに対して「絶対」ではないのだ。

「同じ波動」と喜ぶのもいいが、意外とそれは「世界が狭くなった」ということかも。「動きや流れがなくなった」というか、「マンネリ化」というか。意地の悪い見方をすれば、巷の提唱者達が唱える「波動の法則」は、そういった自分達の滞った状態をもっともらしく言い訳しているように見えないでもない。

むしろ世界が広がれば、「違う波動のもの」と出会う確率は高くなるものだと思うのだ。自分の行動範囲が大きくなれば、当然今まで知らなかったものを目にする機会も増えてくる。その「違う波動のもの」を嘆きの対象とするか、肥やしにするかは、結局自分にかかっている。むしろそういった「違う波動」を引き寄せることが増えたということは、自分の世界が広がった印なのだ。

「同じ、似ている」が、いつも最良とは限らない。別の見方をすれば、それは「停滞」ということだから。「別の違うもの」を見たり体験することで、初めて物事の全体を理解できるのだ。

時には「違う波動」を自分の中に取り込んで、あえて波風立ててみるのも案外悪くないかもしれない。「流れのない川」は、やがては澱むものなのだ。




【追記】
最近のスピ業界では、「チャクラを開いて浄化する」だの「オーラをトリートメントする」だのというセッションやセミナーが流行っているようだ。なんでも「チャクラやオーラを浄化すると、澱んだ荒い『気』の人と出会わなくなる」とか。チャクラを開いたり浄化するヒーラー養成講座なんかもあるようで。「全国にそういうことが出来る人が増えると、心身が楽になる人が増えるし、社会もよくなる」などと、主催者のセンセーは言っている。

・・・相変わらず妙なことを言う人がいるもんだと。同時に、現実逃避する人や「楽な方向」に逃げる根性なしの人を増産する恐れもあるということを考えないんだろうか。ただでさえ、今の日本はそういった「イージーな人」が蔓延しているというのに。

大体、いくらチャクラやオーラを浄化したりしても、「本体」をどうにかしないと根本の解決にはならないんで。毎日洗濯済みの綺麗な服を着ていても、1ヶ月お風呂に入ってなかったらどーなのよ?ってこと。そこまでネガティブな刷り込みをして、人の危機感を煽って、自分の講座に呼び込もうとしなくても、そういうことに興味のある人は何もしないでも申し込んできますってば。

まあ何だかんだ言っても、結局は「ビジネス」なので。何でもかんでも真に受けて慌てないこと。しょっちゅうヒーリングの類を受けている人も同様です。現実面での努力や理解がなければ、そういうものを何度受けたとしても、結局「根本的な解決」に至ることはありません。





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支離滅裂なスピリチュアル

 2010-04-08
例えば、ダイヤモンドや金やプラチナの真贋を判定する時は、含有物の割合や硬度等、明確な「基準」というものがある。そこに表れた数値によって、それが「本物」かどうかが判定される。

だが、「人間」の真贋に関しては、そういった目に見える「基準」というものが存在しないので、なかなか難しいものがある。「本当に信用が置ける人なのかどうか」ということは、今までの自分の経験則や、直観・直感、もしくは周りの評価等に基づいて判断するしかない。

スピリチュアルの世界においての真贋について、例えば霊能師や占い師の類に始まり、「自分はスピリチュアルに生きている」と自認する人々のそれを判断する時は、加えて「観察と検証」が必要になる。その人の言動が一致しているかどうか―私個人としては、人柄云々より、むしろこちらのほうが重要ではないかと思っている。

スピリチュアルの世界を覗いてみると、「自分は本物」「自分は特別」と自称する人が山のようにいる。自分で自分を「本物」と言い切るからには、それなりに自信や根拠のようなものがあるのだとは思うが、そう言う人に限って、そのとおりであったためしがない。大体「本物云々」を決めるのは、自分以外の人だと思うのだが。

「自称本物」「自称特別な存在」の人達を観ていると、その言動は矛盾に満ちている。「さっきと言ってることが違うじゃないですかぁ~」「言ってることとやってることが反対でしょ~」ということがしょっちゅう。面白いことに、本人達はそのことにまったく気づいていないのだ。結局、そういった一貫性のない言動を取るということは、「本物」以前の問題だということ。その言動が「中身=本質」の状態を物語っているのだ。


先日、「本物の霊能者」を名乗る人のブログを読んだのだが、支離滅裂さもそうなのだが、「あなたは一体何がしたいんですか?」と。この方、ある日の記事で「オーラを見る修行」と称した方法を紹介していた。「毎日これをやればオーラが見えるようになる。でも幽霊が見えたりすることもあるので、生半可な気持ちでしないでください」

はぁ??「生半可な気持ちでするな」?だったらそんなもん最初から紹介すんな!なのだ。

別の日には「『憑き物』は自分が引き寄せるもの。引き寄せる危険性の高い心霊スポットなどには近づかないほうがいい」などと言っているではないか。それなのに、その「オーラを見る修行」とやらで「憑き物」をわざわざ引き寄せる機会を作ってどうするんだと。

「最後の段階は危険性が高いので、初心者はやらないほうがいい。ある程度の修行を積んだ人だけが最終段階の方法をやるように」とか。人の好奇心を煽るだけ煽って、その無責任さは一体なんだと。3歳児に百円ライターを渡して一人で留守番させるようなものではないか。

この方のブログの記事は全部読ませていただいた。その上で言わせてもらうなら、このセンセーの根底にあるものは「功名心」かと。もっと簡単に言えば、「有名になりたい」ってこと。

「有名な方に挑戦状を送りました!」と言って、アンチオカルトで有名な某科学者に送った「挑戦状」の内容を公開したり、先日の4月1日、エイプリルフールに「私の本が出ます。・・・嘘です(笑)」という記事をアップしたり。本人は気づいているかどうか知らないが、もうこちらにはバレバレなのだ。「なるほどねー。O槻教授(多分)と絡みたいのねー。テレビに出たいのねー。本を出したいのねー」と。

目立ちたいから、周囲の目を自分に引きつけたいから、ああいった「オーラを見る修行」などという危険な方法を、必要もないのにわざわざ見せびらかす。「あんたは小学生か!」というような幼稚さだ。自分の功名心のために他人を巻き込むなっつーの。

「ニセモノの霊能者は、行動が面白いほどおかしい」などとおっしゃっているが、自分のことはちゃんと勘定に入れているのだろうか。いやいや、あなたも十分「おかしい」ですよ。(思わずお茶吹いちゃったじゃないですか)

まあ自分のブログのタイトルの頭に、「本物の・・・」という言葉を躊躇いもなくつける時点で、既に胡散臭いというか、それってどーよ?的なものを感じるのだが。他の同業者やヒーラーを「エセスピリチュアル」呼ばわりしているが、傍から見れば限りなく「同類」の要素を感じるけどね。「あなたのやっていることはどーなんですか?」と。一般人に対して、必要もない危険度大な「修行方法」を無責任に公開したりとか。「本物」って、そんないい加減で軽率な行動を取るんですかね?

・・・いくら肩書きが立派でも、やっぱり「自称」ってこんな程度ですわ。



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愛を乞う人

 2010-04-05
スピリチュアル業界を観察していると、よくまあ「おかしな人」がこれだけいるものだと、半ば呆れ、感心することがしょっちゅうだ。支離滅裂というか、魑魅魍魎が跋扈している状態。とにかく言っていることがメチャクチャな人が溢れかえっている。

最近では、自分がどれだけ世のため人のためにがんばっているかということを、切々と訴える「自己陶酔型」の人が多いなーと。要は、「よくがんばってるねー。偉いねー」と、周りに認めて欲しいのねと。

「わがままに生きることはいけないことだと、私は自分を殺して周りに合わせて生きてきました。自分を犠牲にして今までがんばってきました。『優しい人になりたい』とがんばってきましたが、その結果、心も体もボロボロで、薬が手放せない状態になりました。だから私は、これからはわがままに生きます!」と、なんだかよくわからない「宣言」を自分のブログでしている人を見た時は、正直ポカーンとした。

セミナーを全国規模で開催したり、著書を出版している方なのだが、「私は被害者だぁ!」的な発言がとにかく多い。以前も、長年に渡って続けてきた講座をしばらく閉鎖することにしたという告知の際、「皆さんの幸せのために、プライベートな時間を削ってこれまでがんばってきましたが、家族と過ごす時間が取れず、家族間に深刻な問題が生じたため、しばらくお休みをさせていただきます」という言い方をしていた。

私はものすごーく冷淡な人間なので、この際はっきり言わせてもらうが、「どんだけ押しつけがましいんだ」と。いちいち「皆さんの幸せのため」とか恩着せがましく言わなくても、ただ「都合により当分の間休講します」でいいではないか。大体家庭がどうこうとか、仕事上に自分の「舞台裏」を引き合いに出してくること自体、「プロ」じゃない。

「皆さんのため」「自分を犠牲にして」大体そんなこと誰も頼んでねーし。「心や体がボロボロに」そんなこと訴えられても、一体どうしろと。ていうか、それって単に自分の健康管理が悪いんじゃないかと思うのだが。「だったらそれなりにスケジュール調整するなり、療養するなりしろよ!」と思うのは私だけだろうか。体調の悪さまでこちらの責任にされたらたまったものではない。

スピリチュアル業界や自己啓発系業界で仕事をしている人、特に代表や主催者の立場にいる人のほぼ100%は、自ら望んでこの業界に入ってきたと言える。いわば「自分がやりたくて始めた仕事」なのだ。同様に「自分がやりたくて始めた仕事」をしている私から言わせてもらえれば、「それっておかしくね?」と。自分がやりたくてやっている仕事なのに、「犠牲」という発想が出てくること自体既におかしい。

結局、この人のモチベーションはそこなのねと。「人から必要とされる存在になりたい」「人のためにがんばっている自分を認めてほしい」まあ何というか、要は「愛してほしい」と。「みんなから愛されること」を望む心がすべてのベースになっているから、こういう言葉が出てくる。


スピリチュアルや自己啓発系の仕事に関わらず、まあセラピストの仕事もそうなのだが、「人のために」「誰かの役に立ちたい」「人を助けてあげたい、救ってあげたい」という部分に軸を置いている人ほど長続きしない。あっという間に「(心身共に)疲れた」と言って辞めていく。人相手の仕事というものは、すべて自分の理想通り進むとは限らない。いろいろなタイプの人と会うことになるので、時には強いストレスを感じることもある。多くの人はそういったことに絶望して辞めていく。

だが、率直に言わせてもらえば、そんなことは当たり前のことであって、「それが嫌ならさっさと辞めれば?」と。全部承知でこの世界に飛び込んだのだから、今さら何言ってんだと思うのだ。「自分は人のために自らを犠牲にしている」等という「被害妄想」が出てくる状態なら、早々に身を引いたほうが、自分や周りのためになる。あくまでも自分が望んで始めた「自営業」であって「強制労働」ではないのだから、嫌なら看板を下ろして別の仕事をすればいいのだ。

「皆さんのために」「自分を犠牲にして」「がまんして」こういう言葉を多用するということは、多分この人は、過去に「愛してもらうには何かしなければいけない」という状況を多く経験してきたんだろうなーと。何かの「見返り」や「引き換え」に、愛や好意を得る。「ボクがこれだけしてあげたんだから愛してくれるよね?」という、ある種の「取引」というか。「犠牲者」になることで、周りの「同情」や「関心」を集めてきた人ではないかと思う。

恩を売ることで相手に罪悪感を与え、その「引け目」から、半ば強引に自分を愛さずにはいられない状況に相手を追い込んでいくというやり方。そこまでして愛されたい理由を聞いてみたいものだ。

まあ自分が愛に飢えていることを認めたくないから、「自分を犠牲にして」必死に他人のレスキューに回ろうとするのだろうけど。自分同様「飢えた人達」を何とかしようとするほうが、よっぽど気が楽なのだと思う。その人達を媒介にして、「本当の自分」と向き合っている「つもり」になれるのだから。

結局、自分の傷や浅ましさに正面から向き合う勇気がないだけなのだ。「犠牲云々」など、いろいろともっともらしいことを言ってはいるが、それは完全な詭弁であり、ただの「逃避」。他人を言い訳や餌にする前に、まずは自分自身をなんとかしたほうがいいんじゃない?と。

スピ業界の人や、スピ系信者は、何かにつけて「愛」を口にする。しかし、その実もっともそれを必要としているのは、それに飢えているのは、他ならぬその人達自身だ。飢餓感で苦しんでいるその状態で、他の人にそれを与えられるわけがない。「人のため。皆のため」と大義名分を掲げてはいるが、結局それは、「私に愛をください」と、声高に乞うているのと同じことなのだ。



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スピ系支配者の手口

 2010-04-04
愛だの光だの言っている割に、スピリチュアルかぶれの人達は、どうしてこうも「他人を支配したがる人」が多いのかといつも不思議に思う。はっきり言って「性質(たち)が悪い」というか、迷惑この上ない。「愛とは、ありのままのその人をジャッジせずに受け入れること」等とのたまう割に、その「愛」やら「スピリチュアルの定義」やらを自分に都合よく利用しては、人を意のままに動かそうとしたり。

困ったことに、当の本人達は、自分の中の「支配欲」を自覚していない。というより、決して認めようとはしない。愛に溢れた高尚な魂を持った自分が、そんな下世話なことを考える人種であるとは思いたくないのだ。なぜなら自分は「スピリチュアルに生きている人間」なのだから。

「スピ系支配者」のやり方、「支配方法」は大体3つに分類される。

①「恫喝型」・・・代表的な例は、ナントカ占星術で有名な先生。「地獄に落ちるよ!」とか「あんたみたいな人間は絶対に幸せになれない」等、文字通り、言葉や態度で相手を「脅す」タイプ。自分の思想ややり方に同調しないと、途端に逆上、感情的になる。相手の人格を根本から否定しにかかったり等、徹底的に相手を追い詰めて攻撃する。

②「懐柔型」・・・一見、いい意味で「普通の人」。だが、付き合いが始まってしばらく経つと、時折押付けがましい言動を取るようになってくる。例えば、ハッピーに機嫌よく過ごしている人に向かって、必要もないのに「○○さんはもっとハートを開く必要があると思うの」とか、「知らない間に身に着けたその『鎧』や『殻』を脱ぎ捨てれば、もっと楽になれるのに」とか。「あなたは気づいていないでしょうけど、私にはすべてわかっているのよ」的な、「寛大」を装った上から目線で、優しく柔らかい言葉や態度を使って内側に入り込んでこようとする。

③「巻き込み型」・・・「懐柔型」と同様、一見「普通でいい人」。だが、「仲間」「一緒に」「みんなで」等、やたら「一体になること=ワンネス」を要求してくる。その場にいたというだけで、知らないうちに「仲間」に組み込まれていたりとか。相手の都合や考え、感情を考えず、常に「同調すること」を強要してくる。拒否すると、「愛がない」とか「分かり合えていると思ったのに」とか、完全に相手を「加害者」扱いして、罪悪感を植えつけようとする。「仲間」を強調する割には、相手を利用することしか考えていない。

場合によっては、複数の要素を含んだ「混合型」も存在するが、いずれにしても、やっかいであることには変わらない。まあ共通しているのは、「自分は正しい」と思い込んでいるその「傲慢さ」だろうか。「世のため、人のため」を事あるごとにアピールする割には、「自分絶対主義」だ。人よりも上にいたい、一目置かれる存在になりたいという欲を持っているところも一緒。

そして、多分今までの経験や環境から来ているのだと思うが、「一人になること」を極度に恐れてもいる。だから自分の周りに人を引きつけておくことに躍起になるのだ。「支配者」になれば、「奴隷」は常に付き従う。奴隷がいる限り、支配者は独りになることはない。彼らにとっての「支配」は、孤独を解消すると同時に、自分の「欲」をも満たせる便利な方法なのだ。

面白いことに、「支配者」の多くは、自分にそれほどの「魅力」が備わっていないことを、漠然とではあるが認識している。「素」では敵わないことを自覚しているから、「スピリチュアル」を盾にする。彼らにとってのそれは、言ってみれば「お守り」のようなものだ。そういった「高尚な世界と関わっている自分」「人とは違う自分」という、ある種の優越感や選民意識を感じることによって、彼らは初めて自分自身を「価値ある存在」と思えるのである。「鎧」や「殻」を纏っているのは、他ならぬ「支配者」自身なのだ。

そして、その「支配者」の周りに存在する「取り巻き」も、ある種「奇妙な人々」だ。自分のすべてを無条件に「支配者」に明け渡して付き従う様子を見ていると、時に薄気味悪さすら感じることがある。

その人達を観ていると、「支配される者特有の特徴」がある。素直と言えば聞えはいいが、単純且つ短絡的。すべて鵜呑みにして自分の頭で考えない。表面だけに囚われて物事を深く観ようとしない。自分に自信がない故に、常に引っ張っていってくれる「リーダー」を求めている等。だから「裸の王様」に簡単に騙される。上辺だけの、いわば「張りぼて」にすぐ飛びつくのは、自分自身の「核」がないから。

「支配者」というものは、自分より優れた者を支配しようとはしない。常に自分が上でいられるような相手を選別し、あの手この手で取り込み、その支配下に置く。そういった人間を瞬時に判別する「嗅覚」は、どんなに遠くにいても血の匂いを嗅ぎつけるサメに匹敵する。

どうしてそれができるのかというと、結局のところ、お互いの「本質」が同じ類のものだから。「類は友を呼ぶ」ということだ。需要と供給の一致―と言ってもいいかもしれない。支配されている側も、自らそれを望んでいるところがあるので、当人達が満足しているならそれはそれで構わない。

だが、傍から見ていると、その関係は、どこか奇妙で歪んだものを感じずにはいられない。まあそういった形でしか人と繋がれないという点では、双方「気の毒な人達」なのかもしれない。

いずれにしろ、「支配者」には毅然とした態度で臨むことだ。自分の信念や考えを、理路整然と、淡々と伝えること。スピ系支配者の多くは感情的なので、その逆をアピールすればいい。一貫した態度で臨んでいれば、やがて支配不可能なことに気づき、「後で後悔しないようにね」「まあそれはあなたの自由だけど」等と、悔しさを滲ませた「捨て台詞」と共に離れていく。


あの手この手を使って、スピ系支配者は近づいてくる。くれぐれも彼らの思惑にはまらないように。一見思いやり深い態度や言葉に感じても、その奥に潜むのは、彼ら自身の欲望、「支配」なのだから。「いい人だし、いいことを言っているから」というだけで、自分のすべてを明け渡さないこと。最近、精神面においての「危機管理」が出来ない人が増加している。魂まで侵食されないように用心することだ。



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「顔じゃないよね」の本当の意味

 2010-04-02
「オンナって生き物はよくわかんねー」と男性陣が首をかしげることの一つに、「言動の矛盾」があるようだ。多くの男性曰く、「明らかに合致していない」と。「オンナってさ、よく『顔じゃないよねー』って言うくせに、結局イケメンに食いつくじゃん?言ってることと違うじゃないか!」と。「オンナは嘘つきだ!」呼ばわりする人もいる。

何言ってるんですか、あーた。あなた方だって飲み会の席に綺麗な女子がいれば「お♪」とテンション上がるでしょ?オンナだってイケメン君がいれば同じようにテンション上がりますわよ。「きれいなもの」が好きなのは、誰だって同じ。大体「顔じゃない=難ありでもOK」なんて誰も言ってない。オトコ共が勝手に意味を取り違えているだけだ。

オトコとオンナは同じ生き物だが、種類はまったく違う。言ってみれば、犬と猫くらいの差がある。種類が違えば、必然的に思考方法や言語表現の類も違ったものになる。自分達を基準に相手を解釈したり、それを押しつけたりすれば、誤解や摩擦が起きるのも当然のことなのだ。男女間の大抵の諍いの種は、この部分に負っていると言ってもいい。「顔じゃないよね発言」は、その最たるものだ。オトコの側の完全な解釈違い。


男女関わらず、「異性の好きな顔・容姿」があると思う。それは必ずしも「=イケメン、美人」ということではない。いわゆる「好みのルックス」というやつ。見た瞬間、無条件に「お!」となる顔というか、一目惚れともまた違う「なんかいいわ~♪」と思う顔立ち。「眉毛は濃くてきりっとしてて、目はくっきり二重で・・・」と厳密にカテゴライズされている場合もあるし、「俳優の○○さんみたいな感じ」と大まかな場合もある。

学生時代の友人に、「好みの顔は北大路欣也(しぶい)と松村雄基(昭和の子にはドラマでお馴染み)」と言い切っていた子がいたのだが、当時彼女の付き合っていた彼氏が、その二人に共通している「きりっと濃い眉毛に目力のある切れ長の二重」の特徴を持った人だった。「『見るからに人が良さそうっていう顔』が好き」と言っていた友人のご主人は、「絶対いい人に違いないオーラ」が全身からにじみ出ているような、「ほのぼの系」の顔立ち。

他の友人達も、公言していた好みのタイプとパートナーの容姿がほぼ合致していることが多いので、やはり人は「自分の好きな顔」を選ぶ傾向が強いと思う。ただ誤解のないように言っておくが、それは相手が「最低限の要素」を満たしていることを踏まえての話だ。性格とか礼儀とか。いくらイケメンや美人でも、性格が最悪だったり、根性が曲がっていたり、挨拶もろくに出来ないような礼儀知らずな人は論外。「好きな顔」を選ぶというのは、そういった最低且つ最小限の基準をクリアした上でのことなのだ。

面白いのは、たまにその「好きな顔を選ぶ」というパターンが当てはまらないケースが出てくる。デザイン云々というより、見た瞬間に「これはないわ」と無意識に排除している顔というか。率直に言えば、「食指が動かない」「そそられない」という感じ。「べつになんとも思わない」というような。

ルックスだけで考えた場合、恋愛対象になる可能性が限りなくゼロに近いと思った人、いわば「完全に好みじゃない顔、好みとは反対の顔、好みの要素がまったく含まれていない顔の人」を好きになったり、その人とどうこうなったりすることがあるのだ。

そうなった理由は人それぞれだと思う。相手の性格や才能が、そういったものへの自分のこだわりを凌駕してしまったとか、接しているうちに内面が好きになって、それと同時にルックスも好ましく思えてきたとか。それはある意味すごいことだと思う。

恋愛のきっかけにもなる「出会い」の段階で「好みじゃない」ということは、それ以上関係が発展する可能性は、「好みだった場合」に比べると、格段に低くなる。その予想や確率を完全に覆したということなのだから。

そういった「初めて会った時は『あり得ない』と思ったんだけどさー」という、自分に起こった「ミラクル」に対する驚嘆の気持ちや不思議さといったものを、オンナは「顔じゃないよねー」という言葉で表現する。世の多くの男性が思い込んでいるような「顔じゃない=性格が良ければ外見が多少難ありでもOK」ということではなく、「好みじゃないと思っても好きになることがあるから不思議だよねー。びっくりだよねー」ということなのだ。それは決して「表明」ではなく、どちらかと言えば、「感想」のようなものなのである。


オンナというものは、感覚で捉える部分が多い生き物なので、時に言葉足らずになる。というより、「ほら、そのへんは察してよ。ね?」ということが、同じオンナ同士の間では常日頃からごく当たり前に行われているので、オトコにもそれが同じように通用すると思っている。皆まで語らずとも、ぼかした部分を相手がそれとなく敏感に察して、気持ちを汲んでくれるもの―と信じて疑わないのだ。

しかし、何事も理屈で考え、それを明確な言葉で語る習性のあるオトコには、オンナのそういった感覚はなかなか理解するのが難しい。どちらが間違っている、悪いということではないのだけれど、別種の生き物に対しては、お互いに歩み寄る姿勢が大切かなーと。「理解しているつもり」「伝わっているはず」という思い込みが、結局誤解を生んだりするので。まあその違いがあるから面白いのだけれど。

まあ「オトコの常識はオンナの非常識、オンナの常識はオトコの非常識」なので。その点をお互いどれだけ理解するか―ということが必要になるのかも。要は、相手の言葉をそのまま「直訳」して受け取るな―ということだ。正直それは、時と場合によってはものすごーく面倒くさく感じることもあるが、その面倒くさい部分も含めてが「恋愛」なのだ。



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5月 自死遺族グリーフケアの会(個人対象)開催日時

 2010-04-01
2010年5月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 5月2(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 4月29日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループ対象時 4名、個人対象時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


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