FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

秘すれば花

 2010-03-29
異性の魅力の一つとして、「ギャップ」を挙げる人は多い。かく言う私も、ギャップに弱い。自分の思い描いていたイメージと、「実物」が違っていればいるほど、「素敵♪度」はアップする。

だが、相手のほうからこれ見よがしにそれをアピールしてこられると、途端に冷める。「実はボク○○をやってるんですよー」「こう見えてボク○○なんです」などと、こちらが聞いてもいないのに、自分から得意げに語られたりすると全然面白くない。

ギャップというのは、相手が発見してこそ効果があるのであって、自分から公表した時点で、もうそれは本来の「価値」を失っているのだ。

変な話だが、「チラリズム」と共通する部分があるような気がする。微かに見え隠れする。見えそうで見えない。「本当はどうなってるんだろう?」と、こちらの期待や興味をそそる余地があってこそなのだ。最初からあっけらかんと「さあどーぞ!」とやられてしまうともうダメだ。途端に興醒めしてしまう。それは、「オープンにする」ということとは、まったく別のものなのだ。

「オンナはギャップに弱いからこれでイチコロだぜぃ!」とばかりに、勇んで最初から切り札を出してしまう単純な思考回路のオトコとは、たとえ恋愛関係になったとしても、飽きが来るのが早いような気がする。

簡単に先が読めてしまうというか、「こういう展開になった場合、多分この人はこういうことを言うんだろうなー」と、ある程度予想可能なオトコというのは退屈だ。安定や安心、「わかりやすさ」を求める人にはそれでいいのかもしれないが、「発見する楽しみ」を相手に求める私には、正直物足らない。


学生時代、講師のバイトをしていた学習塾の休憩室で、バイト仲間のAちゃんが一生懸命編み物をしていた。お正月に帰省した時、お母さんに教わってマフラーを編んだらしく、今度はお揃いの帽子を編もうとがんばっていたのだが、難しい部分に差し掛かって四苦八苦していた。

「あー!ダメだぁ!ミラちゃんわかる?」「ごめーん。わかんなーい」「誰か編み物に詳しい人知らない?」「うちのお母さんでよかったら教えられるよ?仕事が休みの土日限定になっちゃうけど」「そっかー、どうしよう」

2人であーだーこーだと言っていた時だった。「俺でよかったら教えるよ」と声がした。「え?」と振り返ると、それまで窓際のソファで本を読んでいたB君がこっちを見ている。「教えるって・・・編み物だよ?」「うん、俺編み物できるよ」「ひえーー!マジで!?」「うそ!?どうしてできんの!?」「うちの母親、家で編み物教室やってるから。子供の頃から横で見てたら編み方覚えちゃったんだよね」

男の子が編み物・・・というのも十分衝撃的だったが、何よりも「あのB君が」という部分が大きかった。B君は理系の学生で、見るからに頭が良さそうな(実際そうなのだが)クールなタイプ。外見も「インテリ系」なので、白衣を着て試験管や顕微鏡をのぞいているイメージが強かった。そのB君が編み物って・・・。高3の時、受験勉強に疲れると、気分転換に自分用のセーターを編んでいたとか。まったく人というものは、外見ではわからないものだ。

B君はAちゃんの編みかけの帽子と編み棒を手に取ると、さくさく編み出した。「ここの部分はこうすると・・・」と説明しながらどんどん編んでいく。Aちゃんが何度もやり直していた難所も華麗に突破。「あ、わかった!そうやればいいのかあ!」と、Aちゃんも納得&感心している。

「B君すごいね!助かったよ!ありがとうね!」「わかんないことがあったらいつでも言って」B君はいつものクールな口調でそう言うと、受け持ちの授業に出て行った。「ちょっと何あれ・・・素敵過ぎる!」「やられましたな。あれはかっこいいわ。参った」それ以来、私達の間で彼の株は急上昇したのは想像に難くない。

もう一人のバイト仲間C君は、今で言う「チャラ男」だった。頭も良いし、いい人なのだが、ヘラヘラして軽い言動が多いので、みんなから「もうちょっとちゃんとしろよー」とか「またそういうことして!」と、よく突っ込まれていた。ファッションも、服飾系の専門学校生によくあるような独特で目立つものなので、塾長から「服装、もうちょっと何とかならないか?」などと言われるようなタイプ。街中でナンパしたりとか、いわゆる「遊び人」。

ある時、そのC君から「知り合いの陶芸家が個展やってるんだけど一緒に行かない?」と誘われた。何でもご家族の古くからの知り合いの陶芸家の方が、東京都内の某有名庭園内にある邸宅を借り切って、個展を開いているらしい。

その翌日、C君にくっついて出かけた個展会場で、私は思いがけない彼の一面を知ることになった。受付で記帳するC君の手元を見ていたのだが、これが驚いたことにものすごい達筆なのだ。筆ペンでさらさら~と、いかにも「書き慣れてます」という感じ。受付にいた人も、超個性的な外見のC君と、達筆な筆文字の取り合わせが意外だったらしく、びっくりしていたようだった。

「あんなに字が上手だなんて知らなかったよ」「うちのばあちゃん書道家だからさ。その関係でね」「そうなの!?ちなみに何段?」「免状持ってる」もうこの時点で私は「ギャップ萌え」の状態だったのだが、次の一撃で完全にやられてしまった。

「あっちでお抹茶飲めるんだって。行く?」「行くー」普段は一般公開されている広い日本庭園の芝生に、緋毛せんが敷いてあって、個展に来た人達にお抹茶が振舞われていた。「樫田さん、お点前わかる?」「うん、略式でいいなら」「OK」

お茶をいただくC君を横で見ていると、動作に迷いがない。明らかに「きちんと茶道を習った人」のそれなのだ。「この先何があるか分からないんだから最低限のお作法だけは覚えておきなさい!」と、裏千家の免状を持っている母に首根っこを掴まえられて無理矢理教え込まれた程度の私とは雲泥の差。

「ちょっと!まさか『茶道も御免状持ってます』とか言わないでよ?」「いや、持ってる」「!!」聞けば書道家のおばあちゃんが、茶道も嗜む方だったそうで。おばあちゃん子だった彼はその影響を受けたらしい。普段のチャラい言動といい、超個性的な外見といい、「普段のC君」を知る私には、良い意味でショックだった。

OLの頃、出席した異業種交流会で顔を合わせた人で、資格とか免許とか、50種類以上持っている男性がいた。確かどこかのメーカーで営業職に就いている人だったと思うが、正直何とも思わなかった。確かに「フラワーアレンジメント」など、男性にはめずらしいものもあったが、資格マニアというか、ただ「やったことがある」「持っている」というだけのことであって、あくまでも表面だけ―というか。本人も、話のネタや「売り込み」に使えればいいという感覚で受けたと言っていたが、なにか「浅いなー」と。

B君にしろ、C君にしろ、その「ギャップ」が日常に根付いているのがいいなーと。彼らの一部になっているというか、きちんと「身についている」ところが素敵なのだ。「究めている」というか。ただ「興味があったので手を出してみましたー。何回かやったことがありますー」という所までは、誰にでも出来る。誰にでも出来ることに魅力を感じることはない。

最近の婚活ブームで、「ギャップをアピールしろ」などという「必勝法」があちこちで取り沙汰されているが、正直これ見よがしわねぇ・・・あくまでも「自然な流れ」の中で見えてくるのがいいのであって、見せびらかされると「必死にアピってるのね」と、なんだか気の毒さが先に立ってしまうのは私だけだろうか。

ギャップも特技も、ふとした時に明らかになる―というのが魅力的。「秘すれば花」でこそなのだ。



■関連記事

蓼食う虫

恋愛の賞味期限



スポンサーサイト
カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

水槽の中のピラニア

 2010-03-26
例えば、観賞用として海外でも人気の高い錦鯉を、ブラジルに空輸するとする。成田からブラジルの首都サンパウロまでは、直行便でも30時間近くかかる。人間にとってもかなりハードに感じる旅程。当然錦鯉にとっても、それは過酷なものになる。到着時にコイ達が全滅していた―ということは、輸出開始当初はめずらしいことではなかった。

だがある時、実験的に、錦鯉を30~40匹入れた水槽に数匹のピラニアを一緒に入れて空輸したところ、長いフライト時間や、無謀な環境にも関わらず、コイ達はすべてピンピンしていた。むしろ今までにないくらい元気な状態だったという。

この実験結果が意味するものは何か?―それは、「ストレスは必ずしも悪ではない」ということだ。

カウンセリング中、ストレスを訴える人は多い。仕事や人間関係にはじまり、「意味もなくイライラする」等、その種類は多岐に渡る。だが、その人達を第三者の立場から観ていると、本人達が「ストレス」と呼ぶそれは、大半が自ら作り出しているものであるということがわかる。本人達はまったく気づいていないが、「好んで」それを行っている人がほとんどなのだ。


「ストレス」という言葉を当たり前のように使う割には、その言葉の意味を本当に認識している人はごくわずかだ。マスコミが、それを良くないものとして、有害なものとして取り上げることが多いせいか、過剰に反応する人がほとんどだ。それを「あってはならないもの」として捉える人が多い。

過労や睡眠不足、健康への深刻な影響を与えているものは別として、「ストレス=緊張・恐怖・不安」と多くの人は思っている。だが、喜びや驚き等、いわば心身の「興奮」状態も、同じく「ストレス」なのだ。

そういった観点から見れば、「ストレスを感じない人などいない」ということ。「物理的・生物学的な『外部刺激』によって生じる心身の機能の変化=ストレス」は、すべての生き物に起こる「現象」だ。それを「有害なもの」として切って捨てるのは、ちょっとおかしいと思うのだ。

以前、高層ビルの窓拭き業のベテラン作業員の方が言っていた。「ビルの高さを怖いと思わなくなったら、自分はこの仕事を辞めます」と。その緊張感や恐怖感が、慎重な判断や安全を生むのであって、それは決してマイナスには働かない。「大丈夫だろうか」という不安感が、万全の準備、「備える」ということに繋がることもある。

ピラニアと同じ水槽に入れられた錦鯉の場合も、「食うか食われるか」の緊張感が細胞の活性化等に繋がって、結果元気に目的地まで生き延びた。これもストレスが成せる業。「ストレス=有害」ではないのだ。


失礼かもしれないが、ストレス、ストレスと過度に騒ぐ人達を観ていると、共通点があることに気づく。それは、「今現在、とりあえず差し迫った重要問題がない人」ということ。その人達のほぼ100%が、仕事もあって、住む家があって、毎日3度の食事が食べられる―生きていくのに必要な、最低限のラインが保障されている人なのだ。もちろん健康上も何の問題もない。

リストラされて、住む家もなくて―という人達が巷に溢れる今のご時勢に、「十分恵まれている」と言ってもいいような状況にある人ほど、自分の中のストレスを訴える。だが、傍から見ていると、重箱の隅を突っついて、無理矢理それを見つけ出そうとしているようにしか見えないのだ。

その人達を観ていると思うのだ。「この人達には『ピラニア』が必要なんだな」と。

最低限の生活の保障がされている。そこそこに恵まれた安定した生活を送っている―ということは、「起伏のない、変化のない生活」を送っている―と言い換えることも出来る。「ストレスがない平穏な状態」というのは、度が過ぎると、生き物としての「停滞」や「死」に繋がることがある。

先日、惚れ込んで移住した先の沖縄を、わずか3ヶ月で引き払って東京に戻ってきたミュージシャンが言っていた。「沖縄にいた3ヶ月、曲を作ろうとさえ思わない自分が怖くなって戻ってきた」私の学生時代の友人のご両親も、子供達が全員独立した後、大好きでよく訪れていたハワイに移住したのだが、結局2年で日本に戻ってきた。ご両親曰く、「あのまま住んでいたら2~3年の内に絶対にボケる」

錦鯉が目的地まで生き延びるためにピラニアが必要だったように、平穏な生活を送っている人というのは、自分の緩んだ細胞を活性化して引き締めてくれるもの―何らかの刺激、ストレスが必要だということを無意識で知っている。いわば、それを求めているのは他ならぬその人達自身なのだ。それがどこから来るものなのか―それを理解していれば、「水槽の中のピラニア」を必要以上に恐れることはないのだ。




【追記】
世の中の多くの人が言う「ストレス」の大半は、お日様に当たって、体を動かして、きちんとした食事をすれば大抵何とかなるもの―と私は思っている。ストレス云々と騒ぐ人を観ていると、ひとつところにジーッと座って、いつまでも考え込んでいるような「インドアな人」が多い。だったら近所でも散歩してきたら?と。動くことで、脳に酸素が回って細胞が活性化されて新しい考えも出てくるし、気分も変わる。

それでもダメだと言うのなら、それは「自分の価値観への執着」から来ているのかもしれない。特に、「意味もなくイライラする」と言う人は、自分の中の「基準」を周りに勝手に当てはめようとしている人が多いような気がする。「~であるべき」「~でなければ」自分自身のそれが、すべての人やものに当てはまるとは限らない。「筋違いの期待」というところだろうか。

そんなことを四六時中していたら、そりゃ疲れるだろうなーと。自分の期待通りの答えや反応が返ってくることのほうが稀なのに、その度に落胆したり、怒ったり・・それは「価値観の押しつけ」でしかない。結局すべてを生み出しているのは自分自身だということだ。





カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

オーラにこだわる人々

 2010-03-18
某テレビ番組の中で取り上げられて以来、やたら自分の「オーラ」の色や状態について気にする人が増えたような気がする。

それを受けてか、現在「オーラ関連ビジネス」が雨後の筍状態だ。「オーラが変わると未来が変わる」ので、「そのためにあなたのオーラとチャクラを浄化しましょう」と謳ったヒーリングとか。その手のヒーリングセッションやセミナーの類を調べてみると、まあ出るわ出るわ・・・結構な数が存在する。

科学的な証明はされていないが、私はオーラというものは存在すると思っている。その人自身が持つ生命エネルギーが、何らかの形で、例えば色や光といったもので反映される可能性は、決してゼロではないと思うのだ。

オーラというものは、その人自身の核、いわば「魂(意識)」の状態が色等で表されているもの―と、私は理解している。その人の魂(意識)の状態が変化すれば、それに伴い必然的にオーラの色や状態も変化する―というように、まず「魂あってのオーラ」だと。あくまでもそれは魂に「付随するもの」であって、「主軸は魂」。オーラとは魂が放つ光、いわば「結果」だと思っている。

ただ、その色や状態といったものを、過度に心配したりこだわる必要はないかと。そもそもオーラは一瞬一瞬で変化する。一生同じ色であり続けるということはない。瞬時に変化するような、いわば「不規則」なものに囚われることが本当に必要なのかと思うのだ。

そもそも、「結果」であるオーラを浄化しても、根幹である「魂」、いわば「原因」の部分が変わらなければ、何にもならないと思うのだが。「熱が出たのでそれを下げましょう」と解熱剤を投与すれば、熱は下がる。だが、「どうして発熱したのか?」という原因を探らなければ、また同じことが繰り返される。「オーラトリートメント」とか「オーラヒーリング」もそれと同じ。その場しのぎの「対症療法」でしかない。

そういったセッションを主催している側の多くが、「定期的に受けると効果的です」と言っているのがその証拠。結局「なぜオーラが曇るのか?」という原因の部分を無視して、何も解決していないから、ただ「オーラの曇り、不調」という「一時的な状態」にしか焦点を当てないから、また症状がぶり返すのだ。「定期的に受けると効果的」ではなく、「定期的に受けずにはいられない」というのが本当のところ。

「チャクラを開いてゴールドのオーラにしてもらった」「オーラを浄化したら直感力や幸福力がアップした」等と嬉々としている人もいるが、「他力」で得たオーラや直感力ってどーよ?と。まあそれも一時的なもの。「薬」が切れたら、またいそいそとトリートメントやらヒーリングやらをしてもらいに行くんだろうけど。

ヒーリングの類でどうこうしなくても、きちんと地に足をつけた生き方をして、日々に感謝する気持ちがあれば、オーラは輝くものなのだ。



■関連記事

霊能力

見えない世界

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

観察者

 2010-03-13
数日前、ミュージシャンの男性が覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。逮捕に繋がる職務質問のきっかけとなったのが、「車を運転中のその男性が、すれ違った警察官から目を逸らした」という些細な行為。

「やっぱり『刑事の勘』ってやつ?」「さすがプロだねー」視線が合った他人から目を逸らす―という、誰もが日常に無数にしているであろう「当たり前の行動」を不審に思って職質をかけた警察官に、「やはり仕事柄人を見抜く能力が優れている人が多いのか」と驚嘆する人は多い。

確かに、職業柄から来る「勘」というものは存在する。経験に裏打ちされたものの影響というか、磨かれ、鋭さを増していく部分は絶対にある。今回の場合はまさしくそれ。「何か引っかかる」その警察官の「勘」が反応した結果だ。逮捕された男性の「何か」が、その「勘」を刺激したのだ。

だが意外なことに、警察官が「人を見抜く」という能力に飛び抜けて優れているというわけではない―という研究結果が報告されている。いわゆる世間一般の、「普通の仕事」に就いている人達のそれと、それほど大きな差は見られないらしい。

「え?それじゃ『刑事の勘』とかってどうなるの?」と思うかもしれない。それは間違いなく存在する。分かりやすく、誰もが納得できるように、「勘」という言葉が当てはめられてはいる。だがそれは、世間の多くの人達が思い浮かべているようなもの、「直感」とは違うものなのだ。

別の言葉で言い換えるなら、「観察眼」「観察力」。「相手、物事の姿をよく見る」その行為を、多くの人よりも緻密に行っているということなのだ。「だって見てるだけでしょ?誰にだって出来るでしょ」それを簡単に感じる人はいると思う。だが、その「観察する」という行為を、真の意味で出来る人は決して多くはない。


例えば、目の前に犬が1匹いるとする。「あ、犬がいる」誰でも最初はそう思う。犬の存在を自分の視野に認識するのだ。犬好きの人なら「わー可愛い」と思うかもしれないし、反対に、苦手な人は「うわ・・・どうしよう」と思うかもしれない。犬の存在に対して、好き嫌い等の「感情」が伴う。自分の中で、それを基にした「ジャッジ」が始まる。「触りたい」とか「あっちに行ってくれないかな」とか。「自分の都合」で、犬の存在を測ろうとする。

どちらも「犬を見ている」ということには変わりない。だが、そこに自分の好き嫌いや都合、価値観等が入った時点で、それはもう「観察」ではない。「観察」という行為には、私情や主観は不要なのだ。


それでは、「観察する」ということはどういうことか?

今「観察者」の目の前に、1匹の犬がいる。観察者はその犬の存在を視野に捉える―ここまでは同じ。だが、犬を確認した後の「違い」はここからだ。

「飼い主と思しき人物は見当たらないが、首輪をしているため、飼い犬と思われる」「体長は約60センチ、体高は約50センチ。中型犬に分類される」「毛並みや毛艶、歯の状態から推測にあたって健康状態は良好」「さまざまな身体的特徴から雑種と思われる」「しっぽを振って近づいて来たので攻撃する気はないようだ。人懐っこい性質と推測」

そこには「事実」しかない。「可愛い」とか「苦手」とか「触ってみたい」とか、そういった「個人」の価値観や感情の類は一切入らない。「そこに犬がいる。そしてその犬の様子はこれこれこうである」という事実を、「個人の要素」を交えず、淡々と、ただ見る。確認する―それが「観察」ということなのだ。件の警察官も、逮捕された男性を「観察」していたということ。


人は嘘をつく時、何か隠し事があってそれを疚しく思っている時、「普段しないこと」をする。例えば、子供がお小遣い目当てに親の肩を揉んだり、自分から進んで手伝いをしたりする―というのは、その典型だ。世間一般の多くの人達が示す確率の高い反応や言動とは違うものを示す―というのも、それに含まれる。

多分あの男性が視線を逸らせた時、多くの人が同様の行為をする時とのわずかな違い―それは目を逸らす時の眼球の動きや角度だったり、速さやタイミングだったり、顔の筋肉の動きだったり、ほんの一瞬浮かべた表情だったり―大抵の人には見られない反応を示したのだと思う。その「違い」に目を留めた結果だと。それは感情等に作用される「直感」ではなく、事実や真理に基づいた「直観」なのだ。

セラピストの仕事でも、そういった「勘」は存在する。たとえクライアントが初対面の相手だとしても、「何か隠してるな」という場合はピンと来る。肝心な事、核心部分を隠しているクライアントというのは、やはり「普段しないこと、他の多くの人達がやらないこと・言わないこと」をする。隠しているものが深刻であればあるほど、「不自然な部分」が目立つ。

わかりやすいところでは、こちらが何も聞かないうちから、カウンセリングの初っ端からいきなり「自分は悩みなんて1つもないんですよ!スーパーポジティブに生きてるんです!」と言い出したり。脈絡のない話をダラダラ続けて、なかなか本筋に入らなかったり。こちらの質問をはぐらかして、違う方向に話を持っていきたがるとか。本人達はうまく隠しているように思っていても、結果、「すみません。実は・・・」という展開になる。

クライアントとは別に、同業者からの「偵察」が入った時も同様だ。「OLですー」「自営業ですー」と、正体を隠しても、明らかに他のクライアント、「同業者以外の人達」とは違う言動をする。「失礼ですけど同業の方ですよね?」と聞くと、「どうしてわかったんですか!?」とギョッとされることがよくある。「多分そうだろうなー」と確信はあっても一切それには触れずに終わっても、後日「ほらやっぱり」と事実が判明したり。もう最初からバレバレなのだ。

極端な話、たとえポーカーフェイスで押し通そうとしても、仕草や目の動き等、「ちょっとした部分」からすべてが明るみになる事もある。結局人間というものは、「無意識」に支配されている部分のほうが多いのかもしれない。自分が気づかないところで、想像以上に、「自分についての情報」を自分自身で開示しているものなのだ。


「人を見抜く」ということは、結局そういうことなのだ。「観察者」になるということ。冷徹な、時には「非情」とも言えるような目で相手を観察すること。それが「真理」に迫る入り口。

ただ、「人を観察するということ」は、「観察されること」でもある。「この人の本質を見抜いてやれ」と思っている自分も、同時にその相手から観察されている。「観察」という行為は、決して一方的なものではない。

「あなたが鏡に映った人を見ている時、その人もあなたを見ている」うろ覚えだが、確かアガサ・クリスティーの作品の中に、こんな感じの言葉があった。観ることは観られることでもある―それを理解していなければ、相手の本質を見抜くことなど到底出来ないのだ。

例えば、最愛の人に先立たれて号泣している最中であっても、「自分はこういうことで泣くんだ」「この悲しみの大半はどこから来ているのか?」と、「鳥の目線」から自分自身を捉え、客観視、分析できる冷酷さがある人間が、「真の観察者」になれるのかもしれない。




カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

根性なしの屁理屈

 2010-03-11
今の世の中を見ていると、「死ぬ気で頑張る」とか「全力を尽くす」という言葉は死語のような気がする。全体的に「ぬるい」というか。その「ぬるーい世界」に住んでいる、いろいろな意味で「自分に甘い人」が低次元で共鳴し合って群れを作り、互いに慰め合うという状況。

確かに、世の中には根性や気合だけではどうにもならないことがある。だが、あえて言わせてもらう。「自分に甘い人」を観ていて思うのは、大概が「根性なし」だということだ。常に「言い訳」を探しているというか、「逃げ場」を確保することにエネルギーを使っている。そして、彼らの多くにとってのそれは、「精神世界」なのだ。

いつも不思議に思うのだが、「自分に甘い人」というのは、大抵は「精神世界、スピリチュアル」にどっぷり嵌っている。男女年齢関わらず、占いやパワースポット巡り、天使や女神のナントカヒーリングやアチューンメント、チャネリングやリーディング―その手のことが大好物ときている。

ワークショップに参加したり、関連書籍を読み漁っていることが多いので、当然「スピ系用語」にも精通している。「受け入れる」とか「あるがままに」とか「今起こっていることはすべて正しい」とか。そういった言葉を何かにつけて持ち出す人も多い。だが、彼らがそれを持ち出す時は、必ず「言い訳として」なのだ。

伝家の宝刀、非常用脱出パラシュート―なんというか、自分の不甲斐なさや根性のなさを綺麗にまとめる為の便利なツールのようなもの。それを出せば許されて、すべてをチャラに出来ると思っている。こちらから言わせてもらえば、傍で冷静に状況を観ている者からすれば、「また逃げるんですか?」と。それはただの「逃げ口上」でしかないのだ。


「受け入れる」ということはどういうことか―彼らはそれをまったく理解してない。というより、本当の意味に気づく次元に最初からいないのだ。年端の行かない子供が、意味も分からず大人達の使う言葉を真似しているだけのようなもの。だからあれだけ簡単に、「受け入れる」などと口に出来るのだ。

「今自分が置かれている状況を受け入れる」その言葉を言えるのは、その前に、全身全霊をかけて、「もうこれ以上やれることはありません。すべてやり尽くしました」というヘトヘトの、息も絶え絶えになった状態までがんばって、それでもうまくいかなかった―という時だけだ。

スポーツ経験者なら分かると思う。体力の限界まで練習した時、ある時点から汗が出なくなることがある。体中の水分がすべて抜け切った状態。毛穴からは汗ではなく、塩が噴き出す。なぜ今自分が動いていられるのか、どこにそんな力が残っているのか、自分でも不思議に思うくらいの極限状態―そこまで行き着いて、初めて「受け入れる」という言葉を口にする資格を得るのだ。

容易くそれを口にする人というのは、大概は「スタートライン」にさえ立っていない。ちょっとそれを齧っただけですぐに放り出す。瞑想や女神や天使にサポートしてもらうワークには熱心に取り組むくせに、「現実面」での努力はしようとしない。「本気で」取り組もうとしないのだ。本当に「上っ面」だけで終わる人が多い。

例えば、「自分に甘い人」が脱サラしてラーメン屋を開いたとする。開店当初はそこそこお客も入っていた。だが、最近では閑古鳥が鳴いている状態が続いている。だが、その人は何もしようとしない。「お客が入らないのはなぜか?」その原因を探ろうとさえしないのだ。味やメニューの見直し、店の雰囲気等、それらを見直そうともしない。

するとその人は「店が繁盛するようにしてください」と天使や女神にお願いしたり、店がお客でいっぱいになっているイメージトレーニングを始めたりする。瞑想してハイヤーセルフと繋がって、何か役に立つアドバイスをもらおうとしたり。だが、結局廃業を余儀なくされることになった場合、その人はこう言うのだ。「やっぱり商売って難しいよね。でも『今起こっていることはすべて正しい』ってことだから受け入れるよ」

決して大袈裟ではなく、「自分に甘い人」というのは、大抵がこんな感じなのだ。そして「受け入れた」後は、「ここは自分の居場所じゃない」とか「これは自分の天職じゃなかった」とか、いろいろともっともらしい言い訳をしながら、また「自分探しの旅(自称)」に出ていく。

正直他人様のことはどうでもいいのだが、「本気で、死ぬ気でそれをやったかい?」と。「受け入れる」とか「起こっていることはすべて正しい」とか、そんな言葉を拠りどころにしたり、自分を正当化する言い訳に使ったりする前に、「果たして『やるべきこと』をちゃんとやったのか?」と。

「自分に優しくする」「ありのままの自分を愛する」ということも、「最大限の努力をした上での話」だ。「自分に甘い人」達は、「ほらぁー、だから『努力しない私』も受け入れて愛してあげなきゃ」と、これまた自分に都合よく解釈する。だからいつまで経ってもダメダメ状態が続く。延々と負のループが繰り返される。

結局、「自分に甘い人」というのは、「自分の人生を引き受ける覚悟が出来ない人」なのだ。そのくせ妙なプライドがあるので、ダメな自分を正当化できる術を探すのだ。自分の中にある「甘え」を頑なに認めようとしない。そんな彼らにとって、巷に溢れるエセスピリチュアリズムは絶好のエクスキューズになるのだ。

まあ「根性なし」というものは、常に自己保身のための言い訳、「屁理屈」を捏ねるものだ。そんなヒマがあるんだったら「さっさとやることやれよ!」と。自分の怠慢や根性のなさを棚に上げて、なーんにもしていないくせに「受け入れる」とか。「寝言は寝て言え」というものだ。

そういった人達は、よくこう言う。「明日からがんばります!」どうして「今日から」じゃないんでしょうかね?「明日から本気出す」という人は、結局いつまで経っても「本気」になることはない。そもそも、「本気」なんて彼らの中には最初から存在しないのだ。

そうでしょ?いつも「言い訳」に終始するご自分にはとことん甘い皆さん?





カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

考えない人々

 2010-03-06
今の日本の体たらくは、「考えない人」が増えたせいだと私は思っている。他人やマスコミ、自分以外の誰かが言ったことをそのまま鵜呑みにして信じ込む。「テレビで言ってたから」「○○さんが言っていたから」それが絶対に間違いないこと、正しいことだと思い込んで疑わない。そういう人達が多くなってきたからだ。

「疑う」と言うと聞こえが悪いが、「検証」が必要ということ。自分で実際に調べてその真偽を確かめるということを多くの人はやろうともしない。そして「きっと本当だろう」というその思い込みが、結局「真実」として出回ることになる。まことしやかに語られていることが、蓋を開けたら事実と違っていた―ということはよくあることだ。

最近もある集まりでちょっと話題になったのだが、例えば「電磁波」。それが及ぼす危険性を恐れる人は多いが、「それじゃ『電磁波』って何?実際にはどんな物から出てるの?どんな影響があるの?」と聞くと、途端に曖昧な口調になる人がほとんどだ。ひどい人になると、電磁波がどんなものかも知らないのに、「だってみんなが危ないって言ってるから」と説明すら出来ない。だったらどうして自分で調べようとしないのかと不思議に思う。

むやみやたらと「危ない」「怖い」と騒ぐのは、「それをよく知らないから」だ。過度にそれを避けようとしたり、怯えたり―自分でよく調べた上でのことならいい。だが、世間の多くの人がそう言っているからというだけで、いわば「風評」、それもごく一部分だけを取り上げて騒ぎ立てるのはいかがなものかと思うのだ。

これだけ文明が発展した今の時代、特に先進国で生活していれば、電磁波の影響というものは避けられない。電子レンジ、テレビ、パソコン、ラジオ、電気カーペット、電気毛布、掃除機、こたつ、ヘアドライヤー、電気かみそり、蛍光灯、IHクッキングヒーター、携帯電話・・・ほとんどの電化製品は電磁波を出している。その影響から逃れるには、生活スタイルを、電気もガスもなかった江戸時代レベルに戻さない限り不可能だ。

ガンの発症率の上昇、頭痛・発熱・めまいの症状、睡眠障害や学習能力の低下等、確かに電磁波が及ぼす影響の可能性は存在する。高圧線の電磁波による小児白血病のリスクの上昇の可能性や、「電磁波過敏症」という症状も、WHOによって報告されている。

だが、すべての電化製品を生活から取り除いたとしても、電磁波は地球上に存在し続ける。人間がこの地球上に出現する遥か以前から、それは自然界に存在しているのだ。

例えば雷が起こる時、そこには強い電磁波が発生する。地震発生時には、地下の岩盤、地殻が破壊されるが、その際にも電磁波は発生する。空気が乾燥した室内を人間が歩く時等に発生する「静電気」、それもまた電磁波。言ってみれば、電磁波は常に人間と共にあったし、今もあるのだ。

確かにいろいろと危険性を取り沙汰されてはいる。だが、その影響の存在が認められているのと同時に、その科学的な根拠や因果関係は証明されていないのもまた事実なのだ。ガンの発症率との関係等も、「その可能性は否定できない。完全にゼロではないと思うが、本当にそれが電磁波の影響によるものなのかは、実のところよくわからない」ということ。「関係があるっって言えばあるかもしれないし、ないって言えばないかもしれない」という、「どっちやねん!?」と言いたくなるような、ある意味「いい加減」なレベル。

これは世の常で仕方のないことなのだが、物事は必ずどちらか一方の面だけが強調される。特に人間というものは、どちらかというとマイナス部分に目を向けやすい。事実を誇張して報道する傾向の強いマスコミの影響もある。ある種の情報操作も働く。一時期、スプレー等に使われている「フロンガス」がやり玉に上がった。「地球温暖化の原因」と騒がれ、一斉にその使用が中止されたが、今はどうだろう。いつの間にか地球温暖化の「犯人」は、「CO2(二酸化炭素)」になっている。

有害と言われれば不安になるのが人の心理。だがその危険性は、あくまでも「過剰にそれを受けた場合」という前提での話。いくら家の中から電化製品を締め出しても、職場をはじめ、外には電磁波が飛び交っているのだから大差はないと思う。電磁波以外の電波もそう。空中を飛び交う目には見えない無数のそれらの中に、ひょっとしたら電磁波よりも有害な、まだ発見されていないものが存在している可能性もある。

今のこの季節、外には花粉が飛び始めている。花粉症で苦しんでいる人もいれば、まったく平気な人もいる。「シックハウス症候群」もそう。電磁波の影響云々も、それと同じようなことだと思うのだ。「明らかにそれしか考えられない」というはっきりした原因の特定ができるような深刻な影響が今のところ見られないのなら、とりあえずいたずらに怖がらず、「普通に」生活していればいいのではないだろうか―と私は思う。

「宇宙からの電磁波を防ぐ」とか言って、建物とか木とか、あらゆる物に白い布を巻きつける宗教団体が話題になったことがあるが、言ってみればあれも「過剰反応」の一種。躍起になって電化製品を生活から締め出そうとしたり、その影響を極度に恐れる人というのも、彼らと大差ないような気がする。

「スピリチュアルな生活には電化製品は不要」「霊性に悪影響が出る」とか意味不明のことを書いているスピ系ブログがあったが、「それじゃあんたがブログ書くのに利用しているパソコンはなんなんですか?よく写真アップしてるけど、それだってデジカメ使ってるじゃないですか」と。そこまで電化製品の影響云々と騒ぐなら、一切の電気を止めてろうそくの明かりだけで生活すればいいと思う。ご飯も竈(かまど)で薪で炊けと。

大体電化製品の一つや二つで影響受けるような霊性なんて、元々大したものじゃないと思う。というより、これまでさんざんその恩恵に与ってきながら、今更「悪影響が出る」はないだろうと。霊性って、「環境」や「条件」に左右されるもんなんですかねぇ?「今起こっていることはすべて正しい」「ありのまま」「すべてを受け入れる」とか言いながら、今のこの状況を否定したりジャッジする―スピ系の人達って本当に不思議だ。

電化製品を普段ガンガン使いまくっている私は今のところ至って健康なので、多分この先もテレビを見ーの、パソコン使いーのという生活を変えることはないと思う。

「なんかよく知らないけど電磁波は心身に良くない」と思い込んでいる方、聞きかじりではなく、まずは「自分で」電磁波とはどういうものなのか―というところから調べてみてはどうでしょう。昔と違って今は便利なインターネットの時代。調べるのはあっという間のはず。すべては「それは一体何なのか」ということを理解してからの話です。

自分で調べる、自分で考える、自分で判断する―最近、「出来ない人」が本当に増えてます。肝心なところで「手抜き」する人が多いな―と。今の世の中、「極端な人」が多過ぎです。「過度」ではなく、「適度」なスタンスを身に付けてほしいと思います。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


■関連記事 

鵜呑みする人々




カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

無知の無知

 2010-03-04
ブログランキング等で見かけるスピリチュアリスト達のブログを読んでいると、時々ものすごく幼稚というか、狭量な意見を持つ人がいて驚くことがある。それがまた著書を何冊も出版していたり、講演会やセミナー等で全国を飛び回っていたり等と、結構派手に世間に露出している人だから尚更だ。

「すべては自分次第!」という決め台詞を持つ「開運アドバイザー」を名乗るこの先生、すべての記事を読んだ上で、失礼を承知で言わせていただくが、はっきり言って「浅い」。年齢は公表されていないが、すべてが上っ面というか、「人」や「心」というものを本当に理解していたら出てこない言葉が満載されている。

「子供を愛せない親なんていない」「子供の頃、親が自分を愛してくれなかったと思うのは、自分だけの思い込み。それは自分が勝手にそう感じていただけ」「どんな親でも存在していること、育ててくれたことに感謝するべき」

幸せな人だ。まあご自身でもおっしゃっているが、愛情深い親御さんに育てられたようなので。ここまで断言できるのは、本人が「絶対にそうだ!」と信じ込んでいるからだ。疑いの余地がないくらい家族に愛されてきたということなのだろう。べつに、この方が幸せな家族関係を築いてこられたことに対してどうこう言っているわけではない。ただ、本当に「想像力」がないな―と。

「物の見方」は、少なくとも3通りあると言われている。Yours, Mine, and the Truth―相手の観点、自分の観点、そして事実。自分の観点と相手の観点というのは、往々にして、それぞれの経験や感情といったものから形成、左右される。自分と相手の「真実(事実)」が、時にまったく違ったものになるのはそのためだ。

だが、「the Truth(事実)」というものは、そういった個人の観点などまったく関係のない、影響を受けない所に存在する。「ただそこにある」「見たまま」というように、「実際にあったこと」ただその事柄が存在するだけだ。

この開運先生の場合、「Mine(自分の観点)」しかない。本来個人の視点がまったく及ばない位置に存在する「the Truth(事実)」までも一緒くたになっている。どんなに自分の視点に自信を持っていたとしても、「事実」だけはまったく「別物」なのだ。「相手の視点」が消えたとしても、「事実」だけは絶対に消えることなく存在する。それをすべて混在させるということは、自分の思い込みの押し付けでしかない。

「欲しくてできた子供じゃない」「別れた夫に似ているから憎らしい」「目つきが気に入らない」そういった「理由」とも呼べないような「言いがかり」で子供を虐待する親が世の中には存在する。それは「自分の視点」も「相手の視点」も一切関係ない「事実」だ。それをこのセンセーは、どう説明するのかと。

毎日理不尽な理由で親から暴力を振るわれ、食事さえ満足に与えてもらえない状況にある子に向かって、「でもお父さんやお母さんは本当はあなたを愛しているんだよ」「愛されていないと思うのはあなたの勝手な思い込みだよ」絶対の自信を持ってそう言えるのかと。

折りしも、昨日奈良県で5歳の男の子が、実の両親の虐待によって死亡した。虐待の理由は「愛情が湧かなかった」。この先生が断言するように、「子供を愛せない親はいない」というのなら、なぜこういった事件が後を絶たないのか。世の中には「子供を愛する親」もいる。だがその反面、「子供を愛さない親」も確実に存在するのだ。

「知らない=無知」ということは「悪」ではない。だが、時としてそれは「狭量=受け入れる心の狭さ」を生む。スピリチュアル―「人のスピリット(魂)」と関わる仕事に従事していると自任するのであれば、「Mine(自分の視点)」に拘ること、それに何の疑問も抱いてない自分に気づかないことが、どれだけ危険なことか知っているはずだ。

自分以外の人の経験や感情を、まったく同じようになぞることは不可能だ。しかし、少なくとも「想像」はできるはず。それすら思いつかない、自分がそれをしようとさえしないことに気づかないのは、その人が怠慢か、もしくは「本当にオメデタイ人」かのどちらかだ。それともものすごい「鈍感」か―。

自分の無知を自覚する「無知の知」は、やがては「真の知」に到達するが、自分が無知だということを認識さえしない「無知の無知」は、自分の狭い世界の同じ所をぐるぐると歩き回るだけで、結局どこにも辿り着かない。自分の視界さえ開けていないのに、他人様の人生の開運のお手伝いとか・・・「そんなんで本当に大丈夫か?」と思うのは、私だけだろうか。

いつもの決め台詞「すべてはあなた次第」の通りなら、「親に愛されていない」というその思いを、「あなたは愛されています!子供を愛せない親などいません!」等と言って否定する必要はないかと。だって「自分次第」なんでしょ?だったらどう思っていようがいいじゃないですか。無理矢理思い込むことを強要するのは「洗脳」です。

「トラウマを浄化すると運命が上昇する。それには両親に感謝すること」とか。なーんだ結局本来のお仕事、「開運」目的ですか。「トラウマ」っていうのは、「浄化する=きれいにする、無くす」っていうものじゃないんですよ。「向き合って乗り越えていくもの」です。当然時間もかかります。手品みたいに一瞬で、何事も無かったようにその痕跡を消すっていうことはできません。だってそれは「事実」ですから。それは永遠に存在し続けるものなんです。

ただ「見て見ぬ振り」はできますけどね。自分の感情を無理矢理ねじ伏せて、本当はしたくないのに親に感謝するとかしてね。その場凌ぎの誤魔化す方法はいくらでもあります。一時期はそれでいいかもしれませんけど、でもやっぱりダメなんですよね。根本は何も解決されていないんで。いずれまたその痕跡が現れて無視できない時がやって来ます。

「開運アドバイス」と称した「誤魔化す方法」を伝授するのって、どうかと思うんですけど。でもまずは「自分の視点以外の視点」があるということを認識していただきたいと思いますね。あと「事実」の存在もお忘れなく。「物事には少なくとも3通りの見方がある」これを忘れたら、人の内面と関わる仕事は出来ません。

「無知の無知」とは本当に厄介なものだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


【追記】
「井戸の中の蛙大海を知らず」という諺があるが、これには続きがある。「井戸の中の蛙大海を知らず。されど空の高さを知る」スピリチュアルの世界の「無知の無知」は、「空の高さ」さえ知らないことが多い。過信しないことです。




カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

「趣味は料理」と言うオトコ

 2010-03-02
聞くところによると、婚活において、料理が出来る男性はポイントが一気に上昇するとか。先日もニュース番組の特集で、パートナーを求める男女が集まって一緒に料理を作る「料理合コン」なるものが取り上げられていた。

最近では、その「オレって料理できる男だぜ効果」を狙って、しきりにそれをアピールする男性も多いようだ。まあ出来ないよりは出来たほうがいいに決まっている。だが、婚活パーティーや合コンの自己紹介などで、「趣味は料理です」とか得意げに言うオトコってどーよ?と思うのだ。

「お料理が出来るんですかぁ?素敵♪」と若い娘さん達は簡単に騙せても、それなりに人生経験を積んできて、いろいろな人間を見てきた42歳のオンナには通用しない。

「趣味は料理」と平然と言い放つオトコにとって、料理は本当に「趣味」でしかない。言葉の響きからすると、毎日いそいそと台所に立ってあれやこれや作ってくれそうに思えるが、それは大間違い。彼らにとってそれは「娯楽」、いわば「自分がしたい時、気分が乗った時にやるもの」でしかない。

世の中の多くの女性、特に主婦の方々が「今日は何にしよう」と毎日献立に頭を悩ませたり、「疲れたー。今日は何もしないでこのまま寝ちゃいたい」という状態にあったとしても、家族のために重い体を引きずって食事の準備に取り掛かるという「義務感」とは、まったく無縁のものなのだ。それはあくまでも「気分」でするものであって、その気にならなければ何もしない―というもの。だから「趣味」なのだ。

特に「ボクの得意料理はー」などと、聞いてもいないのに自分からそれを言いたがるオトコというのは、「実はそれしか作れない」という場合がほとんどだ。ワインや日本酒にやたら詳しくて、薀蓄を披露したがるオトコとよく似たものを感じるのはなぜだろうか。

まあ「料理が出来るオトコ」が持て囃されるのも、まだまだ日本にそれをする男性が少ないということなのだと思う。「男尊女卑」とまではいかなくとも、「料理は女がするもの」という意識が根強いせいかと。男性が料理を出来なくても何も言われないが、それが女性の場合だと、いろいろと風当たりが強くなるのはその表れだ。

ただ女性の側から言わせてもらえば、「趣味」と称したそのままに、ごくたまーに気の向いた時だけ、やたら凝った料理を作ってくれるより、風邪気味で食欲がないという時に「これだけでも食べなよ」と、おうどんをサッと作って出してくれる人のほうがよっぽど素敵だ。そしてそういう人は、「趣味は料理」などとは絶対に言わない。

折りしも、先日美容室で読んだ雑誌に「婚活裏事情」という記事があった。婚活パーティーで知り合った女性と、結婚後7ヶ月で離婚―という39歳男性のインタビュー記事が載っていたのだが、そこに「結婚したら奥さんが甲斐甲斐しく世話をしてくれるものだと思っていた」と。そしてその人の趣味が「料理」とあった。

これはもう推して知るべし。何となくその男性の人となりというか、結婚やパートナーに対するスタンスや、無意識にあるものが見えてくる。ご本人は離婚理由の最大の原因に「性格の不一致」を挙げていたが、「そうじゃないでしょ」と。

「趣味は料理」と豪語する男性の皆さん、それってかなりヤバイですよ。自己チュー度がかなり露出してます。そういう人に限って、奥さんが体調悪い時でも「大丈夫?でも今日の晩ご飯まだぁ?」とか無神経なことを平気で言って、大顰蹙を買ったりするんで。妻側からすれば、「あんた料理できるって言ったでしょ!?だったらこんな時くらい自分で作ってよ!」となります。「本当に趣味の領域」での話なら、あまりひけらかさないのが賢明です。


カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

4月 自死遺族グリーフケアの会(グループ対象)開催日時

 2010-03-01
2010年4月のグリーフケアの会(グループ対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 4月4(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 3月31日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)

詳細な地図は、ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループセッション時 4名、個人セッション時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

◎メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


◎FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          


カテゴリ :グリーフケアに関するお知らせ トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。