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自分LOVEの裏返し

 2010-02-18
カウンセリング中によく聞く言葉なのだが、「自分が嫌い」と言う人がいる。「どうしたら自分自身を好きになれますか?」これはもう「人間の悩みあれこれベスト3」に確実に入る類のものだと思う。

セラピーやカウンセリングを受けに来る人達がどうこうといことではなく、昔から、私が人の意識や心理に関わるこの仕事に就くずっと前、それこそ10代初め等、ほんの子供の頃にも、周りの友達から同じような言葉をよく聞いた。

そしてセラピストになった今、世間では「いい歳」と呼ばれる年齢の40代や50代、もしくはそれ以上のお孫さんがいるような年齢の人からも、同じ言葉を聞く。これは時代や世代といったものは関係ない、すべての人に共通する「普遍の悩み」なのかもしれない。

だが、人は他の誰かになることは出来ない。身も蓋もないことをあえて言わせて貰えば、自分自身を好きだろうが嫌いだろうが、そんなことは「知ったこっちゃない」ことなのだ。自分は自分であり続けるしかない。

「あー!なんで私ってこうなの!?」「オレはなんて馬鹿野郎なんだ!」と頭を掻き毟りたくなるようなこと、「欠点」と呼ばれるものの一つや二つは誰にでもある。時にはそれの度が過ぎて、激しい自己嫌悪に陥ったりすることもある。そういった部分も含めての自分を「丸ごと好き」と言える人は、多分それほど多くない。全否定とまではいかなくても、ちょっとくらい自分を嫌ったり憎んでいる部分というのは、どんな人にもあるものなのだ。

しかし、あえてその部分を口にする人、「自分が嫌い」と自分以外の誰か、例えば友達とかセラピストとか、第三者に向かってその言葉を口にする人というのは、意外と「自己愛」が強かったりする。本人達はなかなかそれを認めようとしないことが多いのだが、わざわざ「自分が嫌い云々」を言葉で伝えるという時点で、「本当は自分が大好きなの♪」と宣言しているのも同じことなのだ。

本当は誰かに自分を肯定してほしくて仕方ない。「なんで!?○○ちゃんは良い所がいっぱいあるじゃない!」と言ってほしいのだ。「本当に自分を嫌っている人」というのは、そのことを誰かに伝えようとすることもしない。むしろ、周りに自分が抱いている感情を知られまいと隠そうとする。その結果、様々な方法で自分自身を傷つけたり、自分の存在を消そうとする。

物質的にも精神的にも、「自分という人間」の痕跡を消そうとするのだ。それは「死」を以って―というだけでなく、故意に破滅的な行動を取ったり、自堕落な生き方をしたり。「本来の自分」とはかけ離れた人生、多くの場合は決して「幸せ」とは呼べないそれを選択しようとする。自らを追い詰めていくというか、自分から破滅に向かって歩いていく。なぜなら彼らの望みは、「大嫌いな自分」という人間の存在が、いろいろな意味で「消滅」することなのだから。

自分にさえ好かれないようなダメな人間の存在を、その「消滅」の時を含めてさえ他の人間に知られたくない。すべて「なかったこと」にしたい―それが本当の「自分が嫌い」ということなのだ。


自分自身への嫌悪感を口にする人を観ていると、そのほとんどは、「自分の人生を自分で引き受けるという覚悟をしていないことによる甘え」から来ているものだ。その人達に共通するのは、「どうして自分に与えられたパーツはこれなんだろう」と、隣の人が持っているパーツを「いいなー」と妬んだり、それをもらえなかった自分を憐れんだり、呪ったり―ということを延々とやっている。

言ってみれば、「諦めが悪い」「往生際が悪い」ということ。「くやしーッ!もし私があのパーツを持っていたら藤原紀香になれたのにッ!」「くそ!なんで俺の手持ちのパーツじゃ福山雅治になんねーんだよッ!」と地団駄踏んでいるのと同じことなのだ。

気持ちは分からないでもないが、仕方ないではないか。今の自分が持っているパーツでは、藤原紀香や福山雅治が完成することはないのだから。だが、自分が持っているもので、それを超えるものが出来上がる可能性もある。紀香ちゃんまではいかないまでも、「あ、これも結構いいかも。意外と好きかも」と思えるようなものが完成するかもしれない。

確かに多少の不満はあるかもしれないが、いつまでも「これが嫌い」だの「あれが欲しい」だの愚痴ってみても仕方ない。手元にあるのは、今持っているものだけなのだから。だったら手持ちのパーツで「よーし!すごいの作ってやるぞー!」と、覚悟を決めたほうがよっぽど潔いではないか。

人は自分以外のものにはなれない。泣こうが喚こうが、自分が嫌いだろうが何だろうが、「自分は自分である」という事実は変わらない。それなら、「どうしたら嫌いな部分をなくせるか?」ということを考えたほうがいい。結局は手持ちのもので勝負しなくてはならないのだから。

例えば、スポーツの世界で、背が低い等身体的に恵まれない選手が、その欠点、不利な部分を優れたジャンプ力や筋力を身に着けることでカバーする―それと同じことなのだ。いくら嘆いても、背が低いという「条件」は変わらない。だったらその身長の低さを生かせるプレースタイルを考えたり、補える他の能力を身につけたほうがいいに決まっている。

「自分が嫌い」と言うのは仕方ない。嫌いなものを無理矢理好きになれとは言わない。だが、そう言う人達の多くは、何もしていない。「どうしたら自分を好きになれるか」ということさえ考えない。「いつか自分は別のものになれるんじゃないか」「待っていれば違うパーツが空から降ってくるんじゃないか」間違った期待をしているだけだ。「いい加減そこに気づきましょうよ」と。

そういった「努力」も「覚悟」も一切なしに、怪しげなスピリチュアルや自己啓発ワークを必死になって試しても、何も変わらない。「自分を愛せるようになるアファメーション?何ですかそれ?」なのだ。一時しのぎにはなったとしても、根本は何も変わらない。「自分が嫌い病」は必ずまたぶり返してくるかと。

「自分が嫌い」と思う自分を、ストイックさや感受性の高さを持った人間と勘違いしている人がいるが、それはまったくの見当違い。本当は「自分大好き」の裏返し。「自意識」が過度に強いだけだ。本当に自分自身のことが嫌いだったら、そんなことで悩んだり落ち込んだりしない。「もうどーでもいいや」そんなふうに投げやりになったり、自分に対してそれ以上の関心を持つことなどないのだ。

だったら自分自身に向けているその「ネガティブな関心」を、別の形で向けようとしたほうがいいんじゃないですか?少なくとも、それを克服する努力をした後で「嫌い」と言ってください。何にもしないうちから愚痴ってばかりは、ただの「幼稚さ」の表れです。





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カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

Mの極致

 2010-02-14
「宗教」というものを作り出した人間は、「Mを極めたドS」に違いない。痛みや苦しみが快感になるような人間が作ったから、あんなにも禁欲的なのだ。その中でもキリスト教は「Mの中のM」だと思う。

そういえば、「ダ・ヴィンチ・コード」の原作にも出てきた。キリストの受難を常に忘れないようにとかの目的で、金属の棘のついたベルトを太腿に巻きつけて、自分の肉を抉る狂信的な修道士・・・あんなに痛いことを自分からやりたがるのは絶対にドMに決まっている。

大体「贖罪(しょくざい)」とか意味わかんねーし。どうして人間が「生まれながらの罪人」にされちゃうんだか。太宰じゃないけど「生まれてきてすみません」てか?人間の罪をイエスが死によって償ってくれたから、神が人を赦してくれたとか、もう「何それぇーよくわかんなぁーい」なのだ。

「苦は善」という考えが根底にあるから、平気でそれを人に求めてくる。「許しなさい」とか「愛しなさい」とか。べつにそれをすることが容易な相手なら構わないのだが、「こいつにされたことは死んでも忘れない!」という奴にまで同じことをしろというのだから、たまったものではない。「本当にそんなことする必要あるんですか?」と。

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」っていうのもあるけど、右の頬を打たれたら左手でアッパーカットを出すタイプの私には、理不尽としか言いようがない。

学生の頃に取っていた「聖書研究」の講義の前期試験の設問に、件の言葉を「どう思いますか?あなた自身の考えを書きなさい」とかいうものがあった。「どう思いますか?」というのだから、自分が思ったとおりのことを自由に書いていいはず。だから思ったとおり、素直に「こういうのは変だと思いまーす」と持論を書いて提出しておいた。

その数日後、私は講義を担当していたS助教授の研究室に呼び出された。

S先生はイギリス文学が専門で、その他の講義でもお世話になっていた。当時50代初めくらいのお歳で、ちょび髭を生やして銀縁のメガネをかけた「明治の文豪」みたいな雰囲気の先生で、熱心なクリスチャン。敬虔な信者であるがゆえに、事あるごとに「キリスト教がいかに素晴らしい宗教か」と熱弁をふるうので、時々勧誘されているような気になってうんざりすることもあったが、それを除けば「聖書研究」の授業は面白かったし、先生自身も人間的には温厚でいい人だった。


突然の呼び出しに、何事かと先生のところに行くと、先日の試験の答案を出された。そして「この部分ね、これはどういうことなのかな?」と、例の「右の頬を・・・」に関して私が書いた部分を指すので、「え?思っていることをそのまま書いただけですけど?」と答えたら、それから小一時間ほど説教される羽目になった。

「こういう考え方はいけません」とかなんとかいろいろ言われたが、途中から聞いているのが面倒くさくなったので、顔だけは神妙にして「はい、はい」と返事だけしていた。帰る時、「これをあげますから読んでくださいね」と、授業で使っているのとはまた別に、新しい聖書―新約聖書と旧約聖書の2冊を渡された。「えー、重いし要らないんですけどー」正直ありがた迷惑だったのだが、「ありがとうございます」と一応いただいてきた。(今も実家にあるはず)

説教されたこともそうだが、一番腑に落ちなかったのが「どうして違う考え方をしてはいけないのか?なぜ聖書で説かれていることに無理矢理添わせようとするのか?」ということだった。

「だって『あなたの考えを書きなさい』って書いてあったじゃん。だったら自由に思ったことを書いていいはずでしょ?『こういう考えはいけません』とかおかしいじゃん。大体『これが正解』『こういうふうに考えなさい』なんてあり得ないっしょ」しばらく不貞腐れていたのだが、ふと思った。「あ、これが『洗脳』ってやつか」

宗教とは、そこに所属する者達が同じ考えを持たなければ成り立たない。私のように「それっておかしくね?」と、疑問を持ったり、新しいことをしようとして秩序を乱す者がいると、そこから綻びが生じる。そしてそれは全体の崩壊へと繋がっていく。宗教には、「自分の頭で考える者」「自分の言葉を持つ者」は不要なのだ。

そして、「自分は生まれながらの罪人である」という「劣等感」をさらに煽るために、無理難題をふっかけてくる。「汝の敵を愛せ」「許せ」出来なくても当然のことを、「できないだと?それはおまえが不完全な人間だからだ。神の教えを理解していないからだ」とこう来る。それこそが「手口」なのだ。


「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛してます」この4つの言葉を唱えるごとに、浄化され、癒され、幸せになる―最近話題になっている「ホ・オポノポノ」も、「手口」はまったく同じなのだ。正直、このヒーリング方法が話題になった時、「うわー、またやっかいなのが出てきたわ」と思った。

元々はハワイの原住民に伝わる家族関係を潤滑にするための伝統ヒーリングだが、現在巷で行われているものは、現代社会・個人用にアレンジされている。創始者の故モーナ・ナラマク・シメオナ女史は、ネイティブハワイアンであり、ハワイ伝統医療のスペシャリストだ。だが、英語版「ウィキペディア」で紹介されている彼女の項目にはこう書いてある。

「彼女のバージョン(女史が創始したホ・オポノポの方法)は、女史が受けたキリスト教教育(プロテスタントとカトリック)、インドと中国の哲学思想の影響を受けている」

「ハワイ伝統の」という部分だけが強調されているが、実はアレンジされた時点で、キリスト教思想が介入した時点で、それはもう「オリジナル」、ハワイに太古から伝わる方法とはまったく違うものになっているということなのだ。

この「ホ・オポノポノ」に取り組んでみたが、「何も変わらないのは自分の中の何かが足らないのだろうか」「素直に許せない自分は人間としてどこかおかしいのだろうか」と悩む人がいる。そう思ってしまうこと自体、自分を責めてしまうこと自体、もうキリスト教の「手口」に引っかかっているということ。そんなものは出来なくて当たり前なのだ。「愛する」とか「許す」とか、簡単にできるものではないのだから。

「許せない」自分がそう思う「正当な理由」があるのなら、無理矢理それをする必要はない。こういったキリスト教ベースの自己啓発やスピリチュアルにかぶれたカウンセラーやセラピストは、「許すこと」を執拗に説いてくる。失礼を承知ではっきり言わせてもらうが、その人達は「人の心」というものをまったく理解していない。

彼らが言う「許しなさい」は、「逃避の勧め」だ。その人達は言う。「許すことがすべての始まりになるんです」私からしたら「はあ?嘘つくなよ」なのだ。だったらどうして「私、もうあの人を許すことにしました」そう言った人達が、それまで以上に憂鬱そうな表情になるのはなぜなのか?訳もなくイライラしたり、妙に気分が落ち込むのはなぜなのか?結局「何も始まらない」のだ。なぜなら「許しは始まり」なのではないから。

「許す」という段階、そういった心境には「自然に」辿り着くものであって、「許したほうがいいから」「許すべきだから」と、まるでそれが「義務」かのような前提で行われるものではない。ましてや上から目線で他人から「許しなさい」と命令されるものではないのだ。

また、そういった考えに簡単に飛びつく人というのは、自分が誰かに対して憎しみや恨みといった感情を抱いている―というその状態が我慢ならないだけなのだ。「一刻も早くそのドロドロした気持ちの悪いものから抜け出したい。楽になりたい」「自分がそんな感情を持つ人間だということが許せない」結果、不本意なその状況から逃れるために、それを「許し」という行為にすり替えてしまうのである。

「『許し』が成功した人」というのは、幸運な人であると同時に、多分抱えていたものが、自分で考えていたほど深刻なものではなかったのかもしれない。もしくは、「許した」代わりに、それにとって代わったかもしれない「何か」の存在を見て見ぬ振り、気づかない振りをしているだけとか。

無理矢理に堰き止めた水は、別の隙間から溢れ出すこともある。一時的にすべてが解決したかのように見えても、根本は何も変わらず、その押し込めたものが、むしろ前よりも大きく強いものになってしまうことがあるのだ。人の心というものは、理屈や理論で簡単に曲げられたり解決できるものではない。「自然な流れ」に逆らうということが、後にどれだけの歪を生み出すことになるのか―それを理解していれば、簡単に「許しなさい」などとは言えないはずなのだ。

許したからといって、いきなり次の瞬間から人生がバラ色に変わるわけではない。そして、バラ色の人生に「許し」は必ずしも必要ではないのだ。

「許してください」「ごめんなさい」一体何に許しを求めて、何に謝っているのか?本当にそれをする必要があるのか?そのへんをよく考えてみると、「そういえばなんかおかしくね?」というものが出てくるかも。

訳もわからず、言われたとおりの呪文をただ繰り返して、何の疑問も持たないのは「家畜」と変わらない。決まった時間に餌を食べて、放牧されて、また決まった時間に室内に戻される。そしてそのことに対して疑問を持つこともなく、考えようともしない―。まさに飼いならされている家畜なのだ。


まあ呪文を唱え続けるのも結構だとは思うが、ドSの私からしてみれば、「なんでわざわざそんな痛いことしようとするわけ?」と不思議で仕方ない。べつに「苦行」する必要はないかと。滝に打たれたり、座禅を組んだり―なんかすごいことをしているように周りも自分も思ったりするが、それって意外と小さい自己満足の世界でのことだったりする。

プロ野球でもシーズンオフに「精神鍛錬」と称して、お寺で護摩行して大汗かいている選手がいるが、毎日やらないと意味がないんじゃないかと。1年に1~2回、数時間、炎の前で正座してお経唱えて本当に精神が鍛錬されるのだろうか。私だったらジムで筋トレするほうを選ぶけどなー。

ま、世の中M体質の方達が多いということなんでしょうな。必要も無いのに無理してわざわざ自分を追い込むのも、「恵まれていること」の反動なんでしょうね。「苦は善」ではありません。痛みに耐えている自分の姿に酔いしれないように。それは単に「超ドMのナルシシスト」というだけです。



【追記】
自分と同じ種類の生き物、「人間」が作った戒律、「宗教」というものに過度に振り回されないように気をつけてください。聖書なんか読んでいても、矛盾する箇所は山ほどありますから。「所詮人間が作りだしたもの」ですからね。

宗教に関わらず、誰かの言葉をそのまま鵜呑みにするのも同じこと。「こんないい人が言うことだから間違いない」「この人の言うことだから大丈夫だろう」と、そのまま自分の中に取り込むことも「盲信」です。




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Mの属性

ナルシシスト

外来の弊害

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

続く理由

 2010-02-12
インディアンジュエリーの仕事を通じ、ネイティブアメリカンの人達と関わるようになって8年ほどになる。友人知人の数もそこそこいる。不思議なことに、私は相手を知らないけれど、相手は私を知っているということがある。

居留地に住む友人の家を訪ねた時など、知らない人が挨拶してきたり、「○○の家に行くの?」と親しげに声をかけてきたりするので、「誰?!」と戸惑うこともある。居留地の中にかかわらず、ネイティブアメリカン誰か一人と友達や知り合いになると、その情報はあっという間に他の人にも伝わる。私がどこから来て、どんな仕事をしているのかということも、全部知られている。

以前ナバホの友達の一人が、「ナバホの伝統的なラグを織っているところを見せてあげる」と言って、知り合いのウィーバー(ラグ織職人)の女性の家に連れて行ってくれた。もちろんその女性とは初対面。だが、なぜか相手は私の細かい情報を知っている。自己紹介しようとしたら、「あなた、日本のオサカ(大阪)から来たミラでしょ?」といきなり言われた。「アリゾナには3日前に着いたんですって?時差ぼけは大丈夫?」「あなたが泊まっているホテルね、朝食が美味しいから絶対食べたほうがいいわよ」

「あなた今独身なんでしょ?また結婚する気はないの?知り合いの息子がお嫁さん募集中なんだけど、よかったら紹介するわよ?」「あなたツーソンに住んでるラコタ・スー(族)の○○と友達よね?彼とは以前△△で開いたパウワウ(お祭り)で会ったことがある。いい人よね」

その情報量たるや、「なんでそんなことまで知っとんねん!?」と、こちらが唖然とするほどなのだ。壁に耳あり、障子に目あり。これじゃおちおち悪いこともできやしない。恐るべし、ネイティブアメリカンの情報網・・・。一緒にいた友達に、「ねえ何でこんなに詳しく私のこと知ってるの?」とこっそり聞くと、「さあ。『世界は狭い』って言うじゃない?」と涼しい顔をしていた。

一時が万事そんな調子なので、「まあいっかー」と。べつにやましいこともないので、コソコソ何かを隠し立てする必要もない。それに、この「情報網」が時としてものすごく役に立つ時もあるのだ。

例えば、いろいろなことが「あいつの紹介?よし、わかった」と、そのひと言で片付いたり。逆に、その「見えないコネクション」を通じて、「知らない友達」からいい話が飛び込んできたりとか。

正直最初の頃は、何か監視されているようで落ち着かなく感じることもあったのだが、時間が経つにつれ、だんだんわかってきたことがあった。一連のそれは、いわば彼らからの「信用」の証なのだ。

ネイティブアメリカンの人々の社会や横の繋がりといったものは、いろいろな意味で「昔の日本の田舎」に似ている。良くも悪くも「身内」と「よそ者」をきっちり区別するところなど、特にそうだ。そういった彼らの特性や事情といったものに対して、あれこれ言うアメリカ人も多いのだが、ネイティブの人々にしてみたら、それは「当たり前のこと」であって、彼ら自身、決して「差別」とは思っていない。(まあ中にはそういう意識の人もいるが)

本当に親しくなるまで、受け入れられるまでは時間が掛かるが、一度彼らの信頼を受けたら、付き合いはぐっと濃密になる。「身内のことは知っていて当たり前」になるのだ。その表れが、あの恐ろしく詳細な「情報網」なのである。

ただ、私としては、ネイティブアメリカンの人達と付き合いがあることが「特別」とは思っていない。格好つけるわけではないが、あくまでも「なりゆき上」そうなっただけだと思っている。インディアンジュエリーや工芸品を扱う仕事をしていれば、いつの間にか友達の一人や二人はできて当たり前。「すごーい」と感心されることではない。

逆に、彼らからしてみれば、日本人の私のほうがめずらしい存在なのだ。友人の7歳の息子が、自分の遊び友達に、「ミラは日本からきたんだぜ。ママの日本人の友達なんだ」と、得意げに紹介したりする。居留地から出たこともなく、片言の英語しか話さないナバホのお年寄りに、「生まれて初めて日本人を見た」と、しげしげと顔を見つめられることもしょっちゅうだ。まあ「お互い様」というところだ。

べつに彼らを「聖なる人々」「スピリチュアルな意識が高い人々」と崇め奉っているわけでもないし、いちいち彼らのやる事為す事を有難がることもない。分類上、お互い「日本人」「ネイティブアメリカン」といった名称は付いてはいるが、それを取ったら双方「ただの人間」だ。それほどの違いはない。「学校で友達ができた」くらいの感覚でしかないのだ。


昨今の世界的なスピリチュアルブームで、ネイティブアメリカンの思想や儀式等がよく引き合いに出されている。彼らの伝統的な儀式、「スウェットロッジ」や「ヴィジョンクエスト」が、「スピリチュアリスト」を名乗る人々によって世界各地で行われるようになった。もちろん例外なく日本でも。その中には、ネイティブアメリカンのメディスンマンやメディスンウーマンを日本に招いて、そういった儀式を行っている団体もある。

先日も、そういった団体の一つから、国内某所で「スウェットロッジ」の儀式を開催する旨を案内するメールが来た。その儀式を司るために、ある部族のメディスンマンが来日するとか。「参加費用」と書かれている部分を見て驚いた。そこそこのランクのホテルのツインルーム1泊分くらいの金額が書いてある。結構奥まった不便な場所なので、交通費や宿泊代等を入れたら、近場の海外旅行に行けるくらいの費用になるのは確実だ。

メディスンマンを招くための経費―日本とアメリカ往復のための飛行機代や宿泊費、その他の掛かり等を捻出するには、多分それくらいの参加費を徴収することが必要なのだとは思う。その団体が「ビジネス」としてそれを行っているのなら、やはりそれは仕方がないというか、当然のことだ。

だが、原則として、ネイティブアメリカンの儀式は「すべて無料」だ。金銭のやり取りは発生しない。メディスンマンやメディスンウーマンに、個人的に特別な祈祷を上げてもらったり、儀式を行ってもらう時は、あくまでも「寄付」「お布施」「心づけ」といった感じで、特に「料金」といったものは決められていない。決められている場合も一部あるようだが、それでも20ドル程度と聞く。

それが、場所が日本に変わっただけで、「料金」が設定され、べらぼうな値段が付けられる。その他の国、例えば、やはりネイティブアメリカン熱が高いヨーロッパにおいても、多分状況は同じようなものだろう。

ネイティブアメリカンの社会では、他の国で、自分達の伝統的な儀式を有料で行うメディスンマンやメディスンウーマン達に強い憤りを持っている人が多い。「文化や精神性の切り売り」「冒涜」真正面から非難する人達もいる。その人達が「にせもの」というわけではないが、すべてのメディスンマンやメディスンウーマン達が高潔な人物とは限らない。「なまぐさ坊主」という言葉があるように、「なまぐさメディスン」も存在する。

その中には、「ネイティブアメリカンのメディスンマン」というだけで、他の国でチヤホヤされて調子に乗ったり、高額な報酬に味をしめて、本来の自分の役割を完全に忘れて金儲けに走る人が実際にいるのだ。彼らは自分の「ブランド力」を十分に知っている。欲のために、それをとことん利用することもあるし、自分のダークサイドを上手く隠し、それらしく振舞うことにも長けている。外国で儀式を行うメディスンマン達の中には、そういった類の人達が紛れていることがあるのだ。

同時に、彼らを担ぎ出したり、イージーに儀式に参加する「部外者」達に対しても、同様のものが向けられている。彼らからしたら、自分達の領域に土足で断りもなく入り込んできて、その「上澄み」にちょっと触れただけで、すべてを理解したような気になっている「よそ者」に許しがたいものを感じるのだろう。観光ついでに、訪れた京都の禅寺で、数十分のプチ座禅を体験しただけで、「ゼン」だの「サトリ」だのとはしゃいでいる外国人を見ているような感じなのだと思う。そこにあるのは「浅薄さ」や「自己満足」でしかないのだ。

ネイティブアメリカンの人々と関わるようになってから今まで、私が貫き通していることがある。それは彼らの領域、例えば伝統的な儀式等「アイデンティティー」に関わるようなことには決して立ち入らない、踏み込まない―ということだ。

「ミラだったらいいよ」「ミラもおいでよ」どんなに彼らが勧めてくれても儀式への誘いはすべて断ってきた。彼らの言葉はとても嬉しいし、ありがたい。体験したくないと言えば嘘になる。だが、その見えない「ボーダー」を越えた瞬間、何かが違ってしまうような気がしてならないのだ。この言い方が適当なのかはわからないが、しいて言えば、これは彼らに対する私なりの「けじめ」なのかもしれない。

「親しき仲にも礼儀あり」ではないが、やはりどんなに親しくても、「ノンネイティブ」である自分の立場をわきまえるべきだと思うのだ。

「有料の」ネイティブアメリカンの儀式に参加する人達を非難する気はない。そういった機会に恵まれることは、とても貴重で幸運なことだ。だが、くれぐれも肝に銘じておいてほしいのだ。それが「すべてではない」ということを。「部外者」が興味半分で自分達の伝統に入り込んでくることを、多くのネイティブピープルが、自分達の「核」を弄ばれたり貶められているように感じていることを。

ネイティブアメリカンの儀式―彼らの多くが「邪道」と呼んで憚らない、彼らの土地以外で行われる、「値段」が付けられたそれを、「選ばれた人しか体験できない」などと得意げに、自分の「選民意識」を満足させる道具としてひけらかすことは、「謙虚」を美徳とする彼らが最も嫌うことの一つでもある。

スウェットロッジにしろビジョンクエストにしろ、伝統の儀式は、彼らの日常に「普通に」組み込まれているものだ。日本人が神社仏閣に参拝したり、家を建てる時に地鎮祭をしたり、七五三や厄払いの時にお祓いを受けたり―そんな感じで気負いも衒いもなく、時期やタイミングが来た時や、必要性がある時に「それじゃやりますか」という感じのもの。

確かに儀式の意味合いからしたら、滝行や座禅等に通じる部分もあるのだが、そこあるような「修行!鍛錬!」といった張り詰めた気合や緊張を必要とするものではない。もっと穏やかな、「一部」「根付く」というような、「自然にそこにあるもの」「元から組み込まれいるもの」なのだ。

以前、ナバホの居留地でスウェットロッジの準備をしているところを横で見ていたのだが、みんな淡々としていた。熱狂や高ぶりといったものもない。時々笑い声も聞えたりするのだが、普段とまったく変わらない様子だった。

そもそも「平等」を重んじる彼らの文化では、「これは選ばれし者しか参加できない儀式なのじゃ」などと、もったいぶったり偉そうにする儀式などは存在しない。それを有難がっているのは、妙なスピリチュアルかぶれのノンネイティブだけだ。結局彼らの思想や伝統を変な形に曲げて、本来のそれとはかけ離れたものにしてしまっているのは、ネイティブアメリカンとは縁もゆかりもないその手の「部外者」なのだ。


なんだかんだ彼らとの付き合いが続いているのは、私が「ワナビー」ではないこと、「インディアンになりたがる人」ではないからかもしれない。儀式に参加しないのはなぜか、彼らにその理由を説明したことはないし、その必要もないと思っている。そのことについて特に話をしたことはないが、彼らは理解してくれているようだ。

相手がネイティブアメリカンだろうが何だろうが、友達でいることに「尊敬」以上の「媚び」は要らないのだ。



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彼らの憂鬱



カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

マスゴミ

 2010-02-10
以前、こんなメールが送られてきた。

「ネイティブアメリカンと結婚して現地に在住している人、もしくはネイティブアメリカンと一緒に生活を共にしていて何年も音信不通等という友達や知り合いの人はいませんか?もしご存知ならご一報ください」

差出人は某テレビ局下請けの番組制作会社。もちろんまったく面識は無い。メールには、年に数回放送されている「ご対面番組」の企画書の一部が添付されていた。有名男性アナウンサーが司会を務める全国放送のその番組は、以前見たことがあった。どういう経緯で決定されたのかは知らないが、どうやら今回のネタの一つは「ネイティブアメリカン」らしい。

「こりゃ同じ内容のメールをあちこちに送ってるな」と思ったので、インディアンジュエリーを扱う知人に「ねえ、こういうメール来なかったぁ?」と聞いてみると、案の定「来たよー」とのこと。どうもインディアンジュエリーショップやネイティブアメリカンと何らかの繋がりを持つ人をネット等で調べて、片っ端からメールを送っているような節がある。

「つーかさ、いきなりこういうメール送りつけてきて失礼だと思わない?」「ほんとだよね。勝手にメール送ってきていきなり『紹介しろ』はないわな。大体知ってたとしても相手側のプライバシーとか都合があるじゃん?顔も知らないような人間においそれと教えるかっつーの」「まったくだよねー」

サイトやブログを開設していると、こういった面識の無い第三者からのメール、特にマスコミ関係からのメールというのはめずらしいことではない。今回のような「知ってたら教えろ」的な内容のメールはかなり頻繁に送られてくる。インターネットのなかった時代は、それこそ「足を使って」時間も労力もかけて行っていたことが、今はパソコン一つ、メール一本で済む。便利な世の中にはなったが、その分マスコミの怠慢は目立つようになった。

なんというか、すべてにおいて「イージーさ」、「いい加減さ」が目に付くのだ。まあ部数を売ってなんぼ、視聴率を取ってなんぼの世界、結局は「ビジネス」の世界なので仕方ないのかもしれないが、「骨が無いなー」と。

最近ブログランキングの上位、人気ブログの書籍化が多いのも、そこに集まる読者をそのまま取り込んで売り上げに繋げようとする狙いが見え見えだし、ある程度の体裁が既に整っているので編集等にかける手間が少なくて済む。「楽して儲けよう」というマスコミサイドの狙いに、まさに打ってつけなのだ。

だが、ただ「人気があるから」「読者が多いから」という理由だけで、例えばそこに書かれていること、書き手であるブロガーが発信していることは果たして「事実」なのか―という「検証」「検閲」を一切行わない、いわば無責任な「垂れ流し」状態が平然と行われている。

「スピリチュアル」の分野では、特にそれが酷い。言ったもん勝ちというか、「自称霊能力者」「自称チャネラー」「自称ヒーラー」が好き勝手に書きまくったものが世の中に出回っている。

「霊視」や「チャネリング」と称した「妄想」としか言えないような、検証もされていないトンデモ話を得意げに披露しているブログを担ぎ出したりするのは朝飯前。それによって本を購入した人が受ける影響等に関してはノータッチ。確かにそこは「自己責任」の部分なのかもしれないが、「それってちょっと無責任過ぎやしませんか?」と。

出版業界やテレビ業界が「第二の江原さん」「第二の三輪さん」探しに躍起になっているのは、「スピリチュアルは金になる」ということを知ったから。「二匹目のドジョウ」を狙っている状態なのだ。



両親が共にマスコミ業界の人間で、その他の身内にも同じ業種が数人・・・という環境に育ったので、業界の裏事情やからくりといったものはよく知っている。傍から見ていても「無茶苦茶だなー」「腐ってるなー」と思うことは多々あったが、少なくとも今の時代よりは、「良心」や「使命感」といったものがきちんと存在していたように思う。

「真実を伝える」という責任感―報道する側、出版する側の「矜持」や「熱意」というものが感じられた。だが今はまったくそれを感じられない。

以前、編集部の推薦で、某雑誌に数回サロンが紹介されたことがあったのだが、その「取材」も、結局メールだけ―だった。編集者から質問事項がメールで送られてきて、それに答えて送り返すだけ。確かに内容確認等のやり取りはあったのだが、それもすべてメール。掲載されたものを見ると、私が書いた答えがそっくりそのまま載っていた。

拍子抜けするというか、正直「いいのか!?それで!?」と。「合理性」といった面ではそれでいいのかもしれないが、すべてにおいて「受け身」の姿勢なのは、「発信する側」としては如何なものかと思うのだ。


何年か前、ある男性俳優がネイティブアメリカンの世界を旅するというドキュメント番組が放送されたのだが、現状を知っている者が見れば、「ありえねー」と笑ってしまうくらい随所に「やらせ」が散りばめられていた。

「事実」を伝えるというよりも、多くの人が「ネイティブアメリカンって多分こんなんだろうなー」と想像している姿、いわば、「ネイティブアメリカンはこうであってほしい」「こういうものだ」と人々が期待している姿を何とかして映し出そうとしているようにしか見えなかった。視聴者の「期待」に応えるために、「事実」のほうを折り曲げている。そこまで視聴者に媚びる必要があるのだろうか。

当然何も知らない視聴者は「やっぱりそうなんだ」と、メディアが作り出した虚像を「事実」として受け止める。だが、それは「事実」とは程遠いものなのだ。


テレビ業界の方達、思い出したように時々ネイティブアメリカンを取り上げますけど、彼らは「普通のアメリカ人」と変わらない生活をしている人が大半なんで。毎日頭にイーグルの羽根をつけて踊っているわけじゃないです。

それにアリゾナのモニュメントバレーで、ビュート(岩山)の麓で夕方インディアンドラムやインディアンフルートでセッションやっているネイティブアメリカンなんていませんから。あそこは夕方5時過ぎると、管理しているナバホのレンジャー達も帰ってしまって、人っ子ひとりいなくなる場所ですからね。「あ、なんか太鼓の音が聞える」なんてシチュエーションは絶対にあり得ません。それに「本物のメディスンマン」は、滅多なことでは人前に出てくることはないです。「本物」だったら、テレビカメラの前で伝統的な儀式を行うことは断るでしょうね。

それから、先日亡くなったオリックスの小瀬選手に関する報道を見ていて思ったんですけど、思わぬ形で突然愛する人を失ったご遺族のところに押しかけて、「今のお気持ちは?」なんて聞くの、もうやめませんか?そんなこと聞かなくてもわかるでしょ。どうしてもそれを取り上げることが必要なら、せめて質問を変えましょうよ。

報道番組に出演しているテレビ局だか新聞社だかの解説委員の方達も、もっと勉強してください。自ら命を絶った人の話題の度に、馬鹿の一つ覚えみたいに「だって直前は元気に振舞っていたんでしょ?なんでこんなことになったのか理解できませんね」とか「死ぬ勇気があるならもっとがんばれたんじゃないでしょうか」とか、言い古された言葉しか言えないならいっそ黙っていてください。

年間自死者が3万人を超す今、それに関連する話題を取り上げることも少なくないはずです。関連書籍の類も数多く出ています。そこにはあなた方が「理解できないこと」に対する答え、もしくはヒントが書かれています。どうして「その先」を知ろうとしないのですか?「追求」こそが報道の真髄ではないのですか?

出版業界の方達、「ブログを書籍化しませんか?」「サイトの内容を本にまとめてみませんか?」と言いながら、「自費出版」の話を持ちかけてくるのはやめてもらえませんか?「ゴースト(ライター)使うと費用は大体これくらいになります」とか、ほんと興醒めです。高いお金出して自費出版させられるくらいなら、無料のブログで自分の言いたいことを自由に書けるほうが全然いいんで。他人の「飯の種」にされる気はないですから。


本来の「役割」を完全に失っているマスコミ。これじゃ「マスコミ」じゃなくて「マスゴミ」だ。完全に腐っている。


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「徳」を積み立てる銀行とかいうもの

 2010-02-07
愛とか光とか神とか天使とか言っている割には、スピリチュアルの世界というのは俗っぽい。はっきり言えば、「下世話」だ。最近では宇宙に銀行ができたとか。銀行は銀行でも、お金じゃなくて、「徳」を積み立てる銀行だそうで。この調子だと、次は「FX」とか言い出すんじゃないだろうか。

「宇宙銀行」と呼ばれるそこに「口座」を開設すると、人を喜ばせたり、尽くしたり、社会のために役立つことをする度に、それが「徳」となってその口座に積み立てられるらしい。「満期」になると、その量だけの恩恵が「ラッキーな現象」として授けられるとか。

その「徳」を得るために、いわゆる「ランク付け」というのもある。例えば、「初級」レベルは「常に笑顔でいること」、「上級」レベルは「人が面倒くさがってやらないことをする」とか。上級になるほど「預金=徳」が積まれる額も大きくなるそうだ。すごいことに、ちゃんと「利息」も付くのだ。人から悪口を言われたり、批判されたりすると、言った方の人がマイナスになるので、言われた方の人は反動でその分が「利息」になるらしい。

何というか、「いやらしいなー」と。いちいち何かするごとに「これは徳になる」とか分類、計算すること自体が浅ましい。大体自分から「徳」という言葉を出すこと自体既に変なのだ。それが「徳」かどうかということは、あくまでも自分以外の人達が感じたり思ったりすることであって、言ってみれば「後付け」のようなもの。自分で自分のしたことを「徳」と平然と言い放つことが、どれだけ傲慢なことなのかわからないのだろうか。「厚顔無恥」とはこのことだと思う。

この怪しい銀行の創設者(提唱者)の対談インタビューの記事を読んだのだが、その発言がなんともまあ・・・。

「人から誹謗中傷されても、人が悪口を言っても、『ああ言った人の預金が減って、こっちの預金が貯まったんだな』と思えば、すごく楽になる」とか「意地悪されても、意地悪したほうの預金がマイナスになって自分はプラスになるから、意地悪されてもそれだけで運がよくなると考えればいいと思う」とか「お祈りしても叶うか叶わないかは、その人の宇宙銀行に預金があるかないかだ」とか。

この方、自分が何気にものすごい発言をぶちかましていることに気づいていないのだろうか?大変失礼かもしれないが、ものすごーく腹黒いものを感じてしまう。ニコニコしながら実は相手を見下して腹の中では舌を出す。何とも陰険ではないか。

スピリチュアルの狂信者や妄信者というのは、なぜかこういった裏表のある人が多い。一見いい意味で「普通の人」で、感じも良く親切に見える。言っていることも割とまとも。だが、よく聞いていると、時々耳を疑うようなことを平気で口にしたりする。そしてたまに口にするその発言のほうが、実はその人の「本質」を表していたりするのだ。

何だかんだ言いながら、結局は「ご利益目当て」なのだ。「良いこと」をするのは「お返し」をもらうため。それも「倍返し」を狙っての計算されたもの。こういう人が行う「徳」の裏にあるもの―それを思うと薄ら寒いものを感じる。毎晩寝る前に床下や天井裏から通帳を密かに取り出して、記載してある預金高を確かめてひとりほくそ笑む因業じじいや因業ばばあよろしく、今日自分が積んだ徳(自称)を数え上げて、ノートにそれを書き付けて満足げに眺めていそうだ。

まあこういったスピ系の人達の大好物である「宇宙の法則」とやらは、「自分のしたことはそのまま自分に返ってくる」ということなので、ご利益を期待して「良いこと」をするその浅ましさは、形を変えていつかその人に返ってくるかと。ご利益を求める浅ましさの意識の上に成り立っている宇宙銀行も、顧客のどす黒い意識に押しつぶされて、近い将来経営破たんになり得る可能性も十分あるかも。

え?「そんなこと言っているとあなたの預金が減りますよ」って?あ、ご心配要りません。私宇宙銀行に口座持ってませんから。もともと口座もないし積み立てもしていないから、減るとか増えるとか関係ないんで。それに、契約の条件は「宇宙銀行と自分の双方が口座の開設を必要としていること」なんでしょ?今もこれからも口座を持つ気はさらさらないし、必要性も感じませんしね。勧誘されても困るんですよ。5次元レベルで契約必要な銀行より、この現実世界、2次元レベルの銀行だけで十分ですから。

それにしても、いちいち「徳」とか理由付けしたり、「利息」が返ってくるという「保証」を拠りどころにしたりしないと行動できないって・・・。情けないというか、呆れて物も言えない。「宇宙の銀行に徳の積み立てをしましょう」という訳のわからない怪しげなスピリチュアリズムにホイホイ賛同してしまう人が多い今の世の中、なんか可笑しくないですかね?




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外来の弊害

 2010-02-04
ほぼ100%と言っても過言ではないと思うが、現在日本に蔓延しているスピリチュアルや自己啓発物の大半は、欧米発信のものだ。当然「キリスト教思想」がベースになっている。「天使」や「神」という表現が多く見られるのもその証拠。

「八百万の神」という言葉があるように、日常の至るところ、ささやかかな物、草や木や石ころの中にさえも神は宿る―と考える日本人は、他宗教には寛大だ。「無警戒」と言ってもいい。だが、その「寛大さ」故、ある種の「無関心」とも言えるそのスタンス故、外来の思想に自分達の意識が知らないうちに侵食されていることに気づいていない。

とあるスピ系ワークによれば、「私は○○することで自分と周囲の人を幸せにします!」と宇宙に宣言することで、神や守護天使からサポートが入るらしい。最近では「ウチュー銀行」とやらと契約して、そこに開設した口座に、預金ならぬ「徳」を積み立てることが流行っている。

「宣言」とか「契約」とか、いちいち何かや誰かとそれを交わすことは、本当に必要なことなのだろうか?

学生の頃、専攻が英米文学だったこともあり、「聖書研究」という講義を一年間取っていた。イギリス文学やアメリカ文学は、キリスト教の文化や思想が根底にある。文化や思想には何が反映されるか?それは「宗教」だ。宗教の存在、そこで説かれている倫理観や道徳といったものが大きく影響している。その世界で書かれた物を読み解くには、やはりその根底、礎になっているものを学ぶこと、理解することは必要不可欠であり、避けては通れない。

講義の中で、旧約聖書と新約聖書を読むうちに気づいたことがあった。それは、「キリスト教=契約」だということ。

神が救いの業を成し遂げるために、人間と結ぶ恵みの関係―それがキリスト教なのだ。そもそも、旧約聖書の「旧約」とは、イスラエル民族が、モーセを通じて神と結ばれた関係、「旧い契約」であり、新約聖書の「新約」とは、後にイエス=キリストによって結ばれた「新しい契約」を指している。

「契約の宗教」の上に成り立っている欧米社会は、やはり「契約社会」だ。日常何かにつけてサイン(署名)が必要なことも、結婚の誓いの「死が二人を分かつまで」という言葉や、特に戒律の厳しいカトリックでは、本来許可されない離婚を「婚姻を無効にする」という言い方で表したりすることも、至るところに「契約」のニュアンスが含まれている。キリスト教徒がしばしば口にする「神に誓って」という言葉などは、そのものずばりだ。

意地の悪い言い方をすれば、そういった「契約」と称したある種の「束縛」や「制約」がなければ成り立っていかない社会であるとも言える。自分を律することができない脆弱さの表れでもある。

「あの人には足を向けて寝られない」「お天道様が見ている」「お蔭様で」という言葉があるように、べつに神や宇宙と契約しなくても、それに向かっていちいち宣言しなくても、本来日本人は自分を律すること、自分の見えないところで働いている力―人からの助力や縁といった「巡り合わせ」といったものに感謝できる精神性を持った民族なのだ。

いちいち「神」とか「宇宙」とか「守護天使」とかご大層なものを持ち出さなくても、きちんと自分自身の足で歩いていける人間が育つ土壌がある。キリスト教のように、「おまえらは生まれながらの罪人なんだから神様の言うこと聞けよ」というような罪悪感を植えつけて、そこを突いてコントロールする思想など本来必要ない国なのだ。

どんな宗教であろうと、根底にあるものは「束縛」であり、過度の信仰は「依存」になる。宗教とは、自立の意識や機会を奪うものにもなりかねない「諸刃の剣」でもあるのだ。何も考えず、「なんか良いこと言っているから」とよく考えず、その正体を見極めようともしないでホイホイそれに乗っかるのはとても危険なことなのだ。日本人の「危機管理能力の無さ」というのは、実はこういう部分を言っているのかもしれない。

神や宇宙や天使と契約したつもりが、実はまったく別のものだったりして・・・。冒険と享楽の生活と引き換えに、悪魔に魂を売る「契約」をした男の話。あれは確かゲーテの「ファウスト」だったかな。ウチュー銀行に口座開設したつもりが、アクマ銀行だったりしてね。神や守護天使のサポートが、似ても似つかない者からのサポートだったりとか。

ダークな存在ほど、明るく美しいものの引き合いに出してくる。上辺だけの言葉の響きや「ご利益」に騙されたり惑わされたりしないよう、くれぐれも気をつけることだ。

それにしても、日本人の神性を腐らせ、引っこ抜くような欧米発信の怪しげなスピや自己啓発の諸々、どうも気に入らない。「善」や「光」を装ったダークサイドの「家畜化計画」に巻き込まれないよう、ささやかではあるが警鐘を鳴らす。

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3月 自死遺族グリーフケアの会(個人対象)開催日時

 2010-02-03
2010年3月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 3月7(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 3月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループセッション時 4名、個人セッション時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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