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理由の不在

 2010-01-23
人間という生き物は、兎角「理由」を求めたがる。まあそれが人間が人間であるという所以でもあるのだが、たまに「めんどくさー」と思う時がある。特に恋愛の場において。

犬や猫をはじめ、その他の動物の求愛行動を見ていると、つくづくシンプルだと思う。気に入らない相手がやって来れば、「ウー!シャー!」と牙を剥き出して唸れば大抵は事足りる。相手がしつこい性質の場合でも、噛み付いたり何らかの攻撃に出れば、相手もそれ以上は近づかず、すごすごとあきらめて帰っていく。

間違っても人間のように、「ボクのどこが悪いの?」「私のどこが不満なの?」などと、自分が拒絶された理由をしつこく問い質したりすることはない。あくまでも生理的なものというか、感覚、いわば「本能」に従っているだけだ。そしてお互いにそれを了解している。

「茶トラはタイプじゃないの!黒と白のブチじゃないとイヤなの!」「あんたはしっぽが短いからダメ」「あたし小型犬って生理的にダメなのよねーやっぱりガタイのいい大型犬じゃなきゃ」「あんたいつもあのボス猫にへこへこしてるじゃない。そーいう『小物』には興味ないから」

人間のように「なぜ私があなたを受け入れないのかという理由」をいちいち言葉で説明する必要がないし、「どういうこと!?」と問い詰められることもない。「ウー!シャー!ガブッ!」で事足りる。そのへんが実に「シンプルでいいなー」と。

人間の場合、そうはいかない。面倒くさいことがてんこ盛りだ。交際の申し込みを断ったり、別れを切り出せばその理由をしつこく詮索されることもあるし、相手によっては泣くは叫ぶはの修羅場が展開されたりする。運が悪ければ暴力やストーカー沙汰になることもあるし、その関係や状況によっては、慰謝料が発生したり、弁護士や裁判所のお世話になったり。

誰もが言う。「好きになるのには理由はない」と。「パートナーのどこが好きなの?いつ自分の気持ちに気づいたの?」と聞くと、大抵の人は「えー、そう言われるとどこが良かったのかな。気がついたら好きになってたと思う」と答える。好きになるのに理由はない。だが、その感情が消えた時、理由もなく始まったことが終わる時は理由が必要になる―不思議と矛盾の混在。人間の世界は奇妙だ。


カウンセリングやヒプノセラピーのセッションを申し込んで来る人の中には、過去の恋愛で傷を受けた人もいる。自分の想いを受け入れてもらえなかったり、一方的に別れを告げられたり。その人達の多くは、「なぜ自分がそういう目に遭わなければならなかったのか?」という理由を今も探し続けている。

その中には、「先生、私のどこが悪かったんでしょうか?」「なぜボクは受け入れてもらえなかったんでしょうか?」と、セラピストである私に答えを求めたりする人も多い。果てはその相手との過去生での関係、カルマのようなものを前世療法や占いの類で探ろうとしたり。

その人達の大半は、まず十中八九、相手からその理由、「自分が納得できる理由」が返ってこなかった人だ。「嫌いじゃないけど何となくその気になれない」「異性として見られない」「もうこれ以上一緒にいたくない」「ときめかない」とか。もしくは、そういった説明も一切なしに、ひと言「ごめんなさい」「何も聞かずに別れてほしい」で終わったり等、その理由が茫洋として明確でない場合。

「なぜ?」にこだわるその気持ちはわからないでもない。だが、考えてもみてほしい。世間ではこう言われているではないか。「恋愛は理屈ではない」と。本来感覚や感情等、理屈ではない「本能」の領域のものに言葉での説明を求めること自体、最初から無理な話なのだ。

だが、それが自分にとって不本意な展開になった途端、人は理性を取り戻す。「自分を受け入れてもらえない」というその「現象」に対しての説明を求めるようになるのだ。感情、いわば心が納得できないものを、今度は理屈、頭で何とかしようとし始める。

人間というものは、因果な生き物だと思う。やはり「損得」が関わってくると、頭の中でたちまち計算が始まる。その相手から、その出来事から、どれだけのダメージを自分が受けることになるのか?そのダメージは、「正当性」のあるものなのか?自分側の非と相手側の答えは、均等に釣り合うものなのか?等。だが、得てしてそれは、「自分を納得させるためのもの」なのだ。感情を理性でねじ伏せようとしているだけ。


思う相手に受け入れてもらえないということは、時に自分自身の存在意義まで否定されたような気分にさせられる。だが、恋愛とは本来そういうものなのだ。拒絶される明確な理由、自分が心底納得できる理由がそこにないとしても、釈然としないものが強く残ったとしても、それを受け入れるしかない。

「そんなのは嫌だ!」と駄々をこねても仕方ない。もともと恋愛にはっきりした「理由」など存在しないのだから。言ってみれば、「食べ物の好き嫌い」と同じ。いちいち「この食べ物に含まれるでんぷん質の割合に対する味蕾の反応がウンタラカンタラ」等と説明しないのと同じこと。理屈ではないのだ。

その理由の不在、「何となく」「よくわからないけど」という茫洋さを受け入れることを含め、酸いも甘いも「すべて」を受け止める覚悟をすること―それも恋愛の一部なのだ。




【追記】
「相手が自分を振った本当の理由を知りたい」と、占い師やチャネラーの元に通ったり、相手との過去生での関係にその理由を求めようと前世療法を受けようとする人がいるが、それは完全に筋違いだ。どうしても納得できないのなら、もう一度相手に直接聞くべきだと思う。占いやチャネリング、前世療法に走るのは、ただの「逃避」だ。

本人に直接問いただす勇気がないから、自分がこれ以上傷つくのが怖いから、そういった間接的な方法に頼ろうとするのだと思うが、「それは違うでしょ?」と。現実と向き合う覚悟がないのなら、甘美な要素だけを求めているなら、恋愛はしないほうがいい。

年齢や性別にかかわらず、最近そういった「幼い人」が増えている気がする。「幼い=ピュア」と勘違いしている人もいるが、この場合は「未熟」という意味なので。「現実と向き合う」ということをよく考えてください。また、恋愛にかかわらず、「人と向き合う」とはそういうことです。




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カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

ドリームキャッチャー

 2010-01-20
「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは『試したり』であるとぼくは思う」(ホンダ創業者 本田宗一郎)

「人生の時間は限られています。他人の人生を生きてはいけない。そして一番大事なのは、自分の心に素直に従う勇気を持つことです。ハングリーであれ。愚かであれ。」(アップル創業者 スティーブ・ジョブズ)

「『したい』と言っているうちは何も起こらない。夢を実現するために必要なのは、『する』っていうことなんだよ」(民間外交官、社会活動家、プロ道化師、俳優でもあるアメリカの医師 パッチ・アダムス)



多くの人が言う。「人生はチャレンジだ」だが、本当にそれを理解している人は、世の中にどれくらいいるだろうか。見ること、聞くことは誰にでもできる。特に身を入れなくても、「受身」であってもできること。しかし、「試す」ということは、本人の意識がそこになければ絶対に成り立たない、いわば「能動的な行為」だ。

セラピーやカウンセリングの最中、自分の夢や目標を語る人は多い。だがその人達の多くは、「でも、しょせん夢物語だと思って・・・」と言う。私からすると、それは不思議で仕方のないことだ。「まだ初めてもいないのに?試す前からもう『叶わぬ夢』にしちゃうんですか?」これまでに何度こう言ったかわからない。

「夢物語」「叶わぬ夢」という言葉は、正直私にはピンと来ない。というより、こういう言葉が存在すること自体理解できない。なぜ語るだけで諦めようとするのか?なぜ初めからそれを「無いもの」として考えるのか?なぜそこに向かって開かれているドアを自ら閉めるようなことをするのか?と。

年齢や身体的制限、天文学的な巨額の資金を必要とする等、「条件」に左右されるものを除いては、それは「永久に有効」なはずだ。自分が「試す」ということを諦めない限り、「それが叶う」という可能性は常に存在し続ける。

世間では、夢や目標を持つことを良しとする風潮が強い。誤解を恐れずに言うが、私はそれが無くても、その人がそれを持っていなくても全然構わないと思う。夢や目標がないということが「悪」ではないのだ。

あくまでも私個人の見解だが、夢や目標というのは、ある種の「不満足」から生まれてくるものだと思っているので、周囲がどう思おうと、その人が自分自身や、自分の人生、環境といったものにいろいろな意味で「満足している」のであれば、夢や目標がないとしても、それでいいと思う。

何よりも、他人が口を挟むことではない。誰に何を言われなくても、放っておいても、自分でそれを見つける人は見つけるし、周りの人達に「夢を持て!」とどんなに熱心に説かれても、本人にその気がなければそれで終わる。あくまでも個人の問題だ。「持たなければ」「持つべきだ」と義務感で行うものではない。どちらかというと、世間で言われている本当の意味というかニュアンスは、「まあ無いよりかはあるほうがいいよね」という程度だと思う。

だが、せっかく「こんなことをしてみたい」「こうなれたらいいな」というものがあるのに、何も始まっていないうちから「やっぱり無理だよね」と諦めるのは、ちょっともったいないことだと思うのだ。

試す前から諦める人というのは、得てして「耳年増」だ。その人達の多くは、「備える」という名目で「情報収集」を行う。しかし、良かれと思って収集したその情報の多さが、その種の人達にとっては、かえって仇となったりする。この夢を実現するためには、こんなこともあんなことも必要なのか―目の前のハードルの高さや多さに竦んでしまうのだ。「やっぱり自分には無理だ」後ろ髪を引かれながらも、その夢に背を向ける。

なぜ彼らは諦めるのか?それは、過去にも、今までずっと、その人達は諦め続けてきたから。過去に「達成した」という実績がないからだ。「諦めてきた」というよりは、「逃げてきた」人達だから。いわば「逃げ癖」が付いている。まめに行う「情報収集」も、実は「慎重さ」からではなく、「臆病さ」故なのだ。

その人達の多くは、いつも「受け身」だ。自分で新たな道を切り開いていこうとするような「フロンティア」タイプではない。誰かの真似や、与えられたことをするのは得意だが、「自主性」に欠けている。「既存のもの」に頼ろうとする意識も強い。「なかったら自分で作ってしまえ!」「自分が第1号になってやる!」という気概がない。そのくせ不平不満は多いのだ。自分自身の自主性や気概のなさを、条件や環境、果ては自分の身の上のせいにする。

だが、いざ「好きなようにやりなさい」といった「自由」を与えられると、途端に躊躇する。結局それを持て余してしまうのだ。それをどう扱っていいかわからない。だからまた、長年慣れ親しんだ制約の多い檻の中に自ら戻ろうとする。

ちょっとうまくいかないことがあるとすぐに投げ出したり、何だかんだ理由をつけては、自分がそれを放棄することを正当化したり。「本当にやる気あんのか!?」そんな言葉を投げつけたくなるような態度の人が多い。言い訳と自己保身に終始するその態度は、彼らの「本心」でもある。狭い檻の中に戻りたがっているのは、結局彼ら自身なのだ。

その夢を叶える気など、最初から到底ないということ。「ちょっと言ってみただけー」という程度なのだ。何だかんだ言いながら、「夢を叶えられない自分」でいることが、ある意味心地良い。ぬるま湯でぽちゃぽちゃやりながら愚痴っているほうが断然気楽だから。夢が実現しない理由を、さも自分の外にあるもののせいにしてはいるが、その実何の努力もしていない―それがその人達の共通項。


夢を叶えることに本気な人は、言い訳なんかしない。その夢を自分があきらめなくてはならない理由を探す前に、「どうしたらその夢に近づけるか?自分は何をしたらいいのか?」その方法を考えている。そして貪欲に、チャレンジし続けるのだ。たとえ周りから「愚かなことを」と笑われたとしても。

一度や二度の失敗は、既に勘定の中。周りが何と言おうと関係ない。他人があれこれ好き勝手言うのは、「所詮他人の人生だから」だ。自分に何の責任もないから口を挟める。そんな無責任でいい加減な外野の声を気にしたり、真に受けるのは愚の骨頂だ。それこそ無駄以外の何物でもない。そういったものは右から左に受け流し、ただひたすらそれに向かって、少しでも近づこうとする熱意や信念があればいい。

夢を実現してきた人、今全力でそれを追っている人になら多分わかるはずだ。辛いのは夢を諦めることではない。その実現に向かって懸命に取り組んできたものがなかなか形にならない時、ただひたすら「待ち続ける」しかない時、この先に何も待っていないような不安や恐怖に襲われたとしても進み続けるしかない時―本当に辛いことがやって来るのは、それに向かって「スタートを切った後」なのだ。

「しょせん無理な話だよね」「やっぱり夢物語だよね」そう言い訳する人は、スタートラインにも立っていない。「夢を諦めるのが辛い云々」と愚痴る以前の問題なのだ。そういった言葉が出てくるのは、「まだ何も始めていない」から。


自分の人生の持ち時間を正確に知る人はいない。それがいつ終わりを迎えるのか、その時が来なければわからないのだ。それは2年後かもしれないし、明日かもしれない。ひょっとすると数時間、数分後―ということもある。

だったら、形振り構わず、貪欲に、心のままに夢を追い求めてもいいではないか。たとえ他人に愚かと哂われようとも、自分の中にそれを本気で求める気持ちがあるのなら。 夢に向かって歩き始める人、それに向かって行動を起こす人が、やがては夢を掴む人―ドリームキャッチャーになれるのだ。




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正体

 2010-01-15
子供の頃、「神様」と聞くと、レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画によく似た、白くて長いあご髭を生やして、純白のローブを着たおじいさんのような人を思い浮かべていた。

その人は、空の上からいつも下界、この世を見ている。どうしてそんなことができるのかはわからないけれど、この世界に生きているすべての人間達の行動を逐一チェックしている。悪いことをすれば罰を、良いことをすればご褒美を与える人。そういったことを決定する権限を持った「審判」のような人だと思っていた。

人知を超えた、計り知れない「大きなもの」は存在すると思う。その存在は、多くの場合、「神」という言葉で表現されている。何か「神」という名の、「人」によく似た姿の者がどこかに存在していて、彼、もしくは彼女が、この世のすべてを司っている―多くの人はそんなふうに思っている。

「神の愛」「神の怒り」「神から与えられた試練」そういった表現があるのも、この世の多くの人達が、「神」というものを自分達に近い存在―人間という生き物が持ち得るもの、例えば「感情」等を同じように持ち合わせている存在だと思っているからだ。

だが、時々思うのだ。当たり前のように擬人化されたそれは、本当にその通りのものなのだろうかと。それは本当に「人」によく似た、時に怒り、時に優しく―といった「揺れる要素」を持った、人間くさい存在なのだろうかと。

そもそも、その人知を超えた大きな存在、「神」と呼ばれている存在は、一体どんな姿をしているのだろうか?「神様って、どんな姿をしていると思う?」そう聞くと、かなりの人が「えっと、白いあご髭を生やしてて・・・」と、私が子供時代に想像していたものと、同じイメージを抱いていたりする。

人によっては「金色の杖を持っている」とか、「背後に天使みたいなものを従えている」とか、多少のアレンジがあるのだが、白くて長いあご髭に、純白のローブを身に着けたおじいさん―という点はなぜか共通している。

以前アメリカ人の友人達にも、同じ質問してみたことがあるのだが、やはりキリスト教の影響もあるのか、宗教画に描かれているイエスとよく似た風貌の男性や、年老いた賢者のような姿を想像している人が多かった。

文化や思想が違う国であっても、神という存在に対して抱いているイメージにそれほど大きな差はないということが、とても興味深い。ある人が持った強い思いは、条件―距離や文化や人種の違い等を超えて、まったく見ず知らずの別の人に伝わる―ユングが唱えた「集合意識」が関係しているのだろうか。お互いの存在さえ知らず、接触不可能な地域に住む人達が、それぞれ同じようなものを思い浮かべる―いわゆる共時性、シンクロニシティーと言ってもいいのかもしれない。

だが、国や文化も違う人々の多くが同じようなものをイメージするからといって、それが神の本当の姿であるとは断言できない。それはどちらかと言えば、「可能性の一つ」でしかないのだ。「まあひょっとしたらこういう姿をしている可能性もあるかもしれないね」という程度の。

慈愛に満ちた、でも時に厳しい存在。父のような、母のような―。人間は、その存在を、いろいろな意味で自分達と似たもの、近いものだと思いたがる。だがそれは、あくまでも人間側の願望の投影ではないだろうか。「神という存在はこういう姿であってほしい」という。なぜならその肝心の「神」の姿を、誰も見たことがないのだから。姿を含め、その「実体」は明らかにされてはいないのだ。

意外とその存在、多くの人が「神」と呼ぶものは、人の姿からは程遠い、無機質な「物体」であるという可能性もあるのだ。

「あんないい人がなぜこんな目に・・・」そういったやり切れない不幸が起こった時、人々は言う。「神様は無慈悲だ」と。だが、その存在が、慈悲とか愛とか元々持ち合わせてない存在だとしたら?人の姿ではなく、むしろ機械のような「物」だったら?

「神の国」というものを訪れた時、そこにいるのは優しく温かな微笑を浮かべ、両手を広げて歓迎してくれる賢老人ではなく、ただ巨大なコンピューターのようなものが、ぽつんと無造作に置かれているだけだったら?

そのコンピューターに似た物体には、この地球上に関するすべてのデータが記録されている。地球が誕生した瞬間からの膨大なデータ、人類の歴史はもちろんのこと、今現在地球上に存在する60億以上の人間、一人ひとりのデータもそこには記録されているのだ。そして、その物体には「ある機能」が付いている。60億以上の人間の人生が、最期の瞬間には「±0」になるように設定された機能が。

例えば、それはすべて数値化されている。「良いこと」「悪いこと」それぞれA~Eまでの5段階評価が設定されている。Aは1、Bは2・・・のように。そして、常にそれぞれの割合が均一になるようにプログラムされているのだ。「良いことのAレベル」が3回発生したら、今度は「悪いことのBレベル」が1回、「悪いことのAレベル」が1回、自動的に起こるようになっている。人生においての「良いこと」と「悪いこと」、それぞれの数値の割合が常に「均等」になるように、それは作られている。

そのプログラムには、慈悲とか怒りとか愛とか、情緒的なものの要素は一切含まれない。万が一それを操作する者がいたとしても、その感情が物体の働きに反映されることはない。ただただ人生のバランス、「良いこと」と「悪いこと」の割合が、最期の時にちゃんと±0になるように、そのためだけに物体は淡々と動き続けるのだ。ひたすら最期の瞬間に「帳尻」が合うように。

愛や慈悲を持った者ではなく、そういったものを一切持たない無機質な物―それが多くの人が「神」と呼ぶ存在かもしれない。荒唐無稽と言う人もいるかもしれない。だが、それを完全に否定することは誰にもできない。なぜならその神の姿を誰も見たことはないのだから。「神」とは、一体何だろうか。


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2月 自死遺族グリーフケアの会(グループ対象) 開催日時のお知らせ

 2010-01-14
2010年1月のグリーフケアの会(グループ対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 2月7(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 2月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループセッション時 4名、個人セッション時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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にぎやかな人々

 2010-01-11
しかし、スピリチュアルに関わる人達―それもどっぷり浸かっている人達というのは、どうして「大袈裟な人」が多いのだろうか。喜怒哀楽も過度に激しいし、言動もいちいち芝居がかかっているようでどん引きすることもある。何というか、ぶっちゃけ言ってしまえば「騒々しい」のだ。

あっちでギャー!こっちでギャー!という感じで、いちいちうるさい。過剰に感激したり、喜んだり、泣いたり。またその反動で、キレた時は手が付けられない。「あんたは子供か!?野生の生き物か!?」というくらいのけたたましさ。私は決してノリは悪いほうではないが、彼ら独特のにぎやかさには正直閉口するというか、うんざりする。

喜怒哀楽が激しいということは悪いことではない。だが、それが「過度」になると、ましてやそれを他人に押し付けてくるというのは、正直迷惑以外の何物でもない。

彼らの多くは、自分達のその「過剰さ」を、感性の豊かさゆえ、オープンさゆえ―と思い込んでいる。そして他人のそれも、自分達のそれと同じ尺度で測ろうとする。彼らにしてみたら、自分達とは正反対の、冷静で淡々とした反応を示す人などは、「その人が自身を抑圧しているせい」「心や魂をオープンにしていないせい」と映るようだ。

彼らの前で、彼らとは正反対の反応を示したら、もう完全にロックオンされたと思ったほうがいい。たちまち「追っ手」がやって来る。「もっとハートを開く必要があるんじゃない?」「もっと自分の感情に素直になってもいいんじゃないかな?それが『人間らしさ』ってもんじゃない?」

まったくうるさいことこの上ない。もっと、もっと、もっと―いつもそうだ。彼らは「もっと」、「それ以上」を常に要求してくる。相手にも、他のすべてにも。一見相手のことを思い遣っての上で・・・と思えるが、実は違う。すべては「彼ら自身のため」なのだ。「価値観の押し付け」でしかない。

何よりも、彼らはまったく理解していない。冷静で淡々とした反応は、心や魂を抑圧しているせいではない。「安定」から来ていることもあるのだ。それが「落ち着き」であるということ、抑圧と落ち着き、その「違い」さえ見抜けずに、何がスピリチュアルだと思う。上っ面だけの短絡思考に片腹痛い。

その勝手な思い込みや矛盾を指摘された時、また彼らは一段と騒がしくなる。「分かり合えたと思ったのに!」

はいはい、そうですね。あなた達の期待を裏切って悪うございました。でもね、いい加減理解してほしいんですよ。あなた方が言っていることは、すべて「押し付け」じゃないですか。そちらの物差しですべてを測ろうとするのは止めてくださいな。物事は一面だけでない―ってことを、そろそろ判ってほしいんですけどねー。

「自分達と違うから」と排除するのは、あなた方が大好きな「すべては一つ」っていうワンネス思想とはかけ離れてるんじゃないですか?確かスピリチュアルの定義に「ジャッジしないで受け入れる」っていうのがあったと思いますけど?

あらら、また余計にうるさくなっちゃった。「批判」と「非難」を混同しちゃってるのね。感情だけで捉えるからそんなにエキサイトするんでしょ?まあ落ち着いてくださいな。冷静に話をしましょうよ。

え?理屈で物を言う人とはこれ以上話したくない?何言ってるんですかぁ?理屈って、「理(ことわり)」ってことですよ?あなた方の大好物のスピリチュアルでもよく言ってるじゃないですか。「すべてのことには理由がある」って。ほら、スピリチュアルも理屈に則っているじゃないですか。

うーん、なんだか「火に油」状態になっちゃったみたい。これじゃ話もできないわ。困ったもんだ・・・。


彼らは気づこうとしない。自分達が作り出しているその喧騒こそが、周りからの、他からの「声」を阻んでいるということに。一見それはにぎやかそうには見えるが、実は孤立した寂しいものだということに。喧騒の中では、真実の声は聞こえない。本当は孤独な、にぎやかな人々―。




カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

不幸願望

 2010-01-10
セラピストの仕事をしていると、つくづく思う。「人間とは矛盾した生き物だ」と。「幸せになりたい」「より良く生きたい」そう言いながら、正反対の方向に自ら向かっていく人が世の中には割と多いのだ。だが、当の本人達は、そのことにまったく気づいていないのである。自分の言動が矛盾しているなどとは、夢にも思っていない。

日本人の気質は、基本「M」だと思う。「清貧」とか「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか「悲劇のヒロイン」とか・・・そういった言葉や表現が、日常に”普通に”存在することがそれを表している。苦難の中にこそ、人としての成長や生きる意義、美しさがある―そんな「思い込み」が、社会全体、人々の意識の底に深く根付いているように思う。

「あたしぃー、かったるいこと嫌いだしぃー」「苦労?それってマジだりぃー」普段面倒くさそうにしているような10代や20代の若い子でも、楽な道ばかり選択している自分に対して、内心では「果たして自分はこのままでいいのだろうか?」という不安を密かに感じていたりする。それもやはり日本の土壌から来る、一種の「強迫観念」だと思うのだ。

苦労をしてこそ人は大きく成長できる。困難が人間としての深みを作る。苦難こそが最大の学び―そういった「自分を追い込む」という意識が根強い国で、ちんたらお気楽に過ごしている自分が「正道」から外れているようで不安になるのだと思う。

そのせいだろうか。性別年齢関係なく、その必要もないのに、自分をわざわざ苦難の道に追い込んでいく人がいる。「破滅願望」までは行かない「不幸願望」、それを持っている人が世の中には結構多いのだ。

その人達を観ていると、まあ意地悪く言えば、「こんな自分って・・・」と悲嘆にくれつつも、それほど深刻になる必要もない程度、「冷静に」自分を哀れむことができる程度の「悩み」を持ちたがる傾向が強い。

その人達には共通点がある。それは、いろいろな意味で「安定して恵まれた状態にいる」ということ。家庭やパートナーとの関係にしろ、仕事にしろ、今現在際立って深刻な問題がないという人達だ。もちろん多少の不満はある。「パートナーの仕事が忙しくて一緒に過ごす時間がない」とか「子供が反抗期で困っている」とか「上司と反りが合わない」とか「不本意な部署に異動になった」とか。

だがその不満だって、世間の多くの人達が抱いているような「人並み」程度のものだったりする。その分を差し引いても、「いやいや、十分恵まれていると思いますけど?お幸せじゃないですか~」という状況にある人達だ。

だが面白いもので、その幸せで波風のない穏やかな生活が、逆にその人達の中にある「不幸願望」を刺激するようなのだ。観ていると、その人達は、何もないところから無理矢理に悩みや問題を作り出そうとする。本来針の穴くらいの大きさのものを、あれこれ余分なものをくっつけて、あっという間にスイカくらいの大きさに仕立ててしまうのだ。

そして巨大化したそれを手に持って、口では「困った困った」と言いながら、実は本人達は「安心感」を得ている。なぜならそれによって「私も人並みに悩みがあるんですぅ~能天気に生きているわけじゃないんですぅ~」ということを、周囲や自分自身に証明できるから。「悩みがない=人として浅い」と捉えがちな日本の土壌、「M気質」に沿おうとするのだ。

何もないところにわざわざ波風を立てたがるというか、重箱の隅を突っつき回してありもしないカスを探したり・・・その人達を観ていると不思議で仕方ない。というか、つくづく「ヒマだなー」と。要は、そういうことに割ける時間、余裕がある―ということなのだ。それを持て余しているから、あれこれ余計なことに気を回したり、弄繰り回したりできるのだ。その幸せにどうして気づけないのかと。

まあそういったことも含め、その人達の大半が「人生はドラマティックでなければいけない!」と強く思い込んでいるせいでもあるのだが。ハッピーエンドのヒロインよりは、悲劇のヒロインのほうがより一層それを実感できる。ある意味わかりやすいというか、イージーだ。

わざわざ無理にありもしない悩みを捻り出さなくても、人としての成長の機会は他の場面でやって来るし、アップダウンの激しさだけが「=ドラマティック」ではないのだ。むしろ、そういった表面的な短絡思考にこだわっていることこそが、人として「浅い」ということ。本当に「深い人」は、「何もないという幸せ」を噛み締めることができるのだ。


次から次に悩みを作り出すそこのあなた、それはあなたが「ヒマ」ってことですよ。そしてそのヒマ、余裕があるということは、とっても幸せなことだと思いますけどね。


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パズル

 2010-01-06
私にとって「物を書く」ということは、「考える」「作り出す」というよりは、むしろ「繋げる」「はめ合わせる」という行為である―と言ったほうがいいかもしれない。

それは、ふとした瞬間に突然やって来る。例えば、ボーっと空を見ている時、本や雑誌を読んでいる時、一枚の絵を眺めている時、乗り物に揺られている時、掃除をしている時―日常の、ありふれた「普通の時間」の中で「普通の行為」をしている最中、その向こうに、ある言葉やセンテンスが、ポンと唐突に浮かんだり、見えたりする。

目の前の、今置かれている状況や行為にインスピレーションを受けて―というのとも、ちょっと違う。なぜならその大半は、まったくそれとは無関係の、「どうして今こんな言葉が浮かんでくるんだろう?」というようなものだから。

それは、しばらくの間単独で漂っている時もあれば、それを皮切りに、他のものが一気にどっと押し寄せてくる時もある。だがどちらにしても、自分の無意識の中に存在するまだ無形のものは、遅かれ早かれ徐々にその姿を現してくる。


以前、仏像を彫る仏師に密着したドキュメント番組を見ていた時だ。下絵も描かず、どうやって木から仏像を作り出せるのか?という問いに対し、その人はこう答えた。「私はただ、木の中に埋もれている仏様のお姿を、道具を使ってそのまま掘り出しているだけです」と。

下絵や図面を描かなくても、じっと目の前の木を見ていれば、仏の姿がそこに見えてくる。ここが指、ここが顔・・・そのとおりに彫っていけば、自然と仏の姿になる―と。

「物を書く」ということは、これとよく似ている。これから自分が書くであろう文章、まだ見えてはいない隠れている状態にあるそれを見つけ出す。向こうから無秩序に、突然気まぐれにやって来る「断片」を頼りに、その「全体像」を探し当てる。

一見無関係のようにも思えるそれらを繋げていくと、やがて見えてくるものがある。バラバラに切り離されたそれぞれのピースをはめ合わせて、一つの絵を完成させるジグソーパズルのようなものだ。

最初は、どこにそのピースがはまるのか見当もつかない。むしろ「これは本当に必要なピースなのか?」と疑問に思うこともある。だが、やがてわかってくるのだ。「ああ、これはこの為のものだったのか」と。行き場がないように感じたそれが、あるべき場所にピタリとはまったその瞬間、全体が輝きだす。すべてが調和する。高揚感さえ覚える一瞬だ。

「なぜ物を書くのか?」正直自分でもわからない。自己表現としてでもない。お金のためでもない。名前を売るためでもない。頼まれたからでもない。あえて言うなら、「書かずにはいられないから」というところだろうか。もって生まれた癖、性質、いわゆる「性(さが)」なのだと思う。

私にとっての「物を書くこと」が、人によっては歌を歌うことだったり、絵を描くことになったりする。損得勘定抜きで、「好きだから」「やりたいから」という趣味嗜好ともまた違う。義務感や使命感でもない。だが、どうしてもそれをせずにはいられない―生まれもっての性とはそういうものだ。

これからも、自分の意識にピースが送られてくるかぎり、私はそのパズルの制作に取り掛かるに違いない。なぜなら私はそれをせずにはいられない、物を書かずにはいられない性を持った人間だから。





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アメリカにて「なぜ剃らぬ!?」

 2010-01-04
家の外で、車のクラクションが短く鳴った。キャシーが来たようだ。えーっと、忘れ物は・・・着替えは入れたし、歯ブラシもちゃんと持った。まあ何かあったらキャシーに借りればいいや。さ、あんまり待たせると悪いから早く行こう。おっと!肝心な物を忘れるとことろだった。かみそり、かみそりっと。

バスルームのキャビネットから、私は新品のかみそりを一本取り出した。今夜、これをキャシーに突きつけてやるのだ。彼女の隙を見て。もうずっと我慢してきたのだ。彼女と初めて出会って以来ずっと・・・。妙に私の神経を苛立たせる彼女の欠点、今日こそ積もり積もったこの鬱憤を晴らしてやる。

これを突きつけてやったら、彼女は一体どんな顔をするだろうか?泣こうが喚こうが絶対にやってやる。私の我慢はもう限界だ。一瞬キャシーの怯えた表情が頭に浮かんだ。構うもんか。私はもう決めたのだ。今日こそ本懐を遂げるのだ。この数ヶ月のフラストレーションから自分自身を解放するために―。


「郷に入れば郷に従え」よそ様のお国に行った時、基本その国の習慣や文化に従うようにしている。お互いの「違い」をブータラ言っても仕方ない。「なるほどー、おたくではこうするんですな」と素直に相手のやり方を尊重すれば、いろいろと話は早い。また、その「なるほどー」の部分が、旅の醍醐味でもあると思うのだ。

そういった「違い」を楽しむ性質なので、外国に行った時も、あまり現地でイラっとすることはない。大抵は機嫌良く過ごしている。だが、ほとんど「里帰り」感覚で20年以上行き来しているアメリカで、未だ目にする度に「イイイーーーーーッ!!」と歯軋りしたくなることがあるのだ。人に対しては結構忍耐強いほうだと自負する私を、「もう我慢ならねー!」とぶち切れる寸前まで追い詰めるもの―。それは「アメリカ人女性の産毛」である。

男性にはオンナの舞台裏を見せるようでちょっと気が引けるのだが、大方の日本の女性は、顔や体の産毛やむだ毛のお手入れは欠かさない。特に顔の産毛の場合、メイクののりにも関わってきたりするので、こまめに処理している人は多い。というより、それは女性としての「嗜み」、「基本」になっている―と言ってもいいと思う。男性の髭剃りのように毎日する必要はないが、一週間や十日に一度―というように、それは「時々必要な習慣」なのだ。

アメリカ人女性にとってもそれは同じ。特に彼女達は脚(大抵は膝下)のむだ毛処理には余念がない。「バスルームでシャワーを浴びる時=むだ毛処理タイム」だ。脱毛・除毛クリームの類も売っているが、大部分の女性は手軽さからかみそりを使用している。「今日寝坊して慌ててたら、その勢いで膝小僧の所切っちゃったわ」などという会話が結構頻繁に聞こえてきたりする。「毎日のシャワーのついでの脚のむだ毛剃り」は、彼女達の不可欠な習慣なのだ。

だが不思議なことに、脚のむだ毛にはそれだけ神経質になるにもかかわらず、彼女達は顔の産毛にはまったくの無頓着なのである。それこそ血が出るくらい脚のむだ毛はジョリジョやるくせに、「顔の産毛?どうして剃るの?」ときょとんとしている。中には「やだー!顔を剃るなんて、男の人みたいじゃないの」などと言う人もいる。

「顔の産毛処理は当たり前」の国から来た私からすると、「えー!?なんでー!?」と不思議で堪らないのだが、彼女達にとってはこちらのほうが不思議らしい。「そんなことして怪我したらどうするの?」と眉を顰める。

だから、すぐ隣、数十センチの距離から彼女達の顔を見ると、「おおこれは・・・」と絶句する時があるのだ。パウダーファンデーション等は、肌に付かずにその上を覆っている産毛にのって浮いてしまうので、全体的に粉っぽいというか、黄な粉をまぶしたお餅みたいになっているし、口の周りはうっすら髭が生えているように見えるのだ。大変失礼だと思うが、日本人に比べて毛穴も大きいし、顔全体の造りも大きいので、結構グロテスクな感じになる。

もちろん、化粧品売り場のおねえさん達等、そういった特定の職業の人達はちゃんとお手入れをしているので、ツヤツヤスベスベお肌の人が多いのだが、その他大勢の一般の女性たちは「なんかヒゲ生えてねーか?」というケースがほとんどだ。

友人のキャシーも「顔の産毛剃り?やだー!こわいじゃなーい!」とのたまう大勢の中の一人だった。彼女とは、当時私が日本語教師として勤務していたカリフォルニア州サンディエゴの公立小学校で出会った。私よりも3歳年上で、3年生のクラスを担任していた。

人間というのは面白いもので、時として、人種や国籍を超えて妙に馬が合う相手と出会う時がある。私とキャシーがまさにそれだった。彼女と初めて会った瞬間、「ほえ~!何でこの人学校の先生なんてやってるんだろ。ハリウッドデビューできるじゃん」と、まずその美貌に驚いた。

何というか、日本人が「外人」と聞いてまず思い浮かべるような、「生まれ変わったらこんな外見になりたい」と誰もが思うような容姿をしていた。深いブルーの瞳と生まれつきのキラキラのブロンドヘアー、肌はクリーム色にうっすら桃色を溶かし込んだような色で、180センチ近い長身に長い手足―まさにモデル・女優級のルックスなのだ。

「モデルとか女優になれるんじゃない?」仲良くなってからそう言ったことがあるのだが、彼女は無関心だ。「んー。何度もスカウトされたことあるけど私そういうのに興味ないから。知的な仕事がしたいの」父親が大学教授、母親が小学校の校長という、堅実な家庭で育ったせいかもしれない。浮ついたところのない人だった。

「なんっつーもったいない!」と誰もが思うようなルックスをもった彼女だが、一番の魅力はその人柄だった。昼休み、ランチを食べていると、嬉々とした表情でやって来て、「ねえ見てて!今から『サンディエゴ水族館のセイウチがくしゃみしたところ』やるから」と、まさかの顔芸を平気でやったりするのである。器官に入ったオレンジジュースにむせながら、セイウチの真似を繰り返す彼女を見て「こいつは本当にいいやつだ」としみじみ思ったものだ。

キャシーはキャシーで、「いつも冷静につっこみを入れる」私がツボだったらしい。どこに行っても私はこんな調子で変わらないのだが、キャシー曰く「こんなにちっちゃくて可愛いのにこのコったら強烈なこと言うわね。まるでミツバチみたい―って思ったの。そのギャップが面白いコだなーって」らしい。

まあそんなこんなで仲良くなり、プライベートでも一緒に遊んだり出かけたり、時々週末等には彼女のアパートに泊まりに行ったりするようになった。だが、気心が知れた仲になると同時に、気になることが出てきた。やはり仲良くなると、それに伴い、お互いの身体的な距離―パーソナルスペースも小さくなってくる。間近でキャシーの顔を見る機会が増えるにつれて、やはり必然的に彼女の顔をしげしげと眺めることになるのだが、キャシーの顔の産毛が気になりだしてきたのだ。

体毛が色素の薄いブロンドだったせいもあり、最初は気づかなかったのだが、ある時太陽燦々のビーチで隣に座っている彼女の顔を見た瞬間、「ちょっとまてぇーい!」となった。光線の加減で、細かい産毛がはっきり見える。「みっしり」というか「ぎっしり」というか・・・キャシーの顔面が金色の産毛で埋め尽くされているではないか。加えて口の周りが一段と濃く、まるで金色の口ひげを生やしているように見えるのだ。

「げ!これじゃ『(新宿)2丁目』の人だよ!美貌が台無しじゃん!」と思った私は、「ねえキャシー、顔の産毛剃らないの?」と聞いてみた。

「剃るわけないでしょ!こわいじゃない!」「なんで?脚のむだ毛はいつも剃ってるじゃん」「脚は脚!顔じゃないもん!」「え~、脚の毛剃るんだったら顔も剃ろうよぉ~」「怪我したらどうすんのよ!?絶対にイ・ヤ!」「この前私のほっぺ触って『つるつるで赤ちゃんみたい』って言ってたじゃん。剃ったらつるつるになれるよ?」「うー・・・言ったけどさ・・・」「じゃ剃ろうよ!つるつるお肌をゲットするために!ね?」「えー・・・でも・・・ダメ!やっぱりヤダ!」

思いのほか強いキャシーの抵抗にその日は渋々撤退したのだが、私は諦めたわけではなかった。「いつかぜってぇーに剃ってやる!」心の中で密かにそう誓っていたのである。


そして「その日」がやって来た。金曜日。夜にキャシーの彼氏のトビーと、その友達のダグと4人で「バッドマン」と「007」の二本立ての映画を観に行くことになっていた。私はそのままキャシーの家に泊まり、翌日は朝から2人でバーゲンのはしごをする予定だった。一旦家に帰り、お泊りの準備をしている時に決めたのだ。密かに温めていた計画を実行することを。そして「秘密兵器」をバッグに忍ばせたのだった。


その夜、私はキャシーがシャワーから戻ってくるのを、リビングのソファでじりじりしながら待っていた。乳液と新品のかみそりをクッションの陰に隠して。計画の実行は、ぎりぎりまで悟られないほうがいい。勘のいい彼女に気づかれないように気をつけないと・・・。

その時、彼女がリビングに入ってきた。鼻歌を歌いながら私の横に腰を下ろす。チラッと見ると、シャワーを浴びたせいか、血行も良く、さっぱりとした顔をしている。産毛も柔らかくなっているはずだ。産毛剃りには絶好のタイミング。

「ねえ、顔のマッサージしてあげよっか?」「してして!」「じゃあここに頭を乗せてくださーい」「はーい♪」「目をつぶってくださーい」「はーい」「乳液をつけまーす」「はーい」(・・・)「どうですかー?気持ちいいですかー?」「気持ちいいー。寝ちゃいそう・・・」

そのまま後ろ手にクッションの陰からかみそりを出し、キャシーの顔にそっと当てた。「はーい、そのまま動かないでくださーい。産毛剃りまーす」「はーい・・・ってちょっと!何を剃るって!?」「はいはい、動かないでねー。危ないよー」「きゃー!やめてー!こわいー!」「ほらほら、動くと危ないよー。いい加減に観念してくださーい」「ぎゃあーーー!」

剃り始めると、観念したのか彼女は動かなくなった。ギュッと両目を瞑っている。ふと彼女の手を見ると、両手の人差し指と中指をクロスさせている。「ちょっとキャシー、何よそれ?」「・・・だって怖いんだもん」「あんた本当に大袈裟だね・・・」彼女は「good luck」の形に指を交差させていた。

「はい!終わったよ~。手で触ってみ」「すっごーーーい!自分の肌じゃないみたーい!すべすべだぁ!」「明日のメイクののり、全然違うよ」「本当?すごく楽しみ~!」

翌朝、キャシーがバスルームから踊りながら出てきた。「ふふーん♪見てみて!いつもと違うの~わ・た・し♪」と顔をぐいっと近づけてくる。「おー!いいじゃんいいじゃん!さらに美しくなったじゃん!」

産毛剃りの効果は抜群だった。もともと綺麗な人だが、肌に透明感が出て、さらに垢抜けたような感じになっている。もう「黄な粉をまぶした餅」でも「2丁目の人」でもない。

「ね?やっぱりやってよかったでしょ?」「本当!今まで損してたかも~お礼に今日はランチを奢っちゃう!」「ラッキー!」かくして「キャシーの産毛剃りミッション」は、大成功のうちに完了したのだった。

「顔の産毛を剃るのは怖くない」ということを体得した彼女は、その後こまめに自分の顔のお手入れをするようになった。あれほど怖がっていたくせに、今ではすっかり手馴れた様子だ。まったく現金なものである。

それから少ししてから買った有名女性誌のスキンケア特集のキャプションに、「どうして日本人女性の肌は美しいのか?なぜなら彼女達はスシを食べているからだ」という訳の判らない一文があった。「この記事書いた人、何にもわかってないわね!秘訣はスシじゃなくて顔剃りよね?!編集部に投書してやろうかしら!」キャシーがえらく憤慨しているのが妙におかしかった。

「所変われば」と言うけれど、肌の手入れの仕方ひとつにも、それぞれお国柄が出ているようで面白い。やっぱりアメリカ人は大雑把だ。アメリカに行く度に、顔の産毛をボーボーにしたままで平気な顔をしている女性を見ると、かみそり片手に「ちょっとあなた!剃りなさいよ!」と、毎回詰め寄りたくなる衝動を抑えるのに苦労している私である。






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野暮天

 2010-01-02
【野暮(やぼ)】

世情に通じぜず、人情の機微をわきまえないこと。洗練されていないこと。風雅な心のないこと。無風流(⇔粋)。
→【野暮天(やぼてん)】きわめて野暮なこと。また、その人。(広辞苑より)




ニュースキャスターとの婚約発表等、最近何かと話題の某歌舞伎役者氏、最近テレビ番組内での彼の振る舞いを見て思った。「青いねぇー・・・」

絶大な人気を誇った祖父譲りと言われる資質に対して評価も高く、人気もあるようだが、歌舞伎役者としても、人としても、正直「まだまだ」だと思う。その「まだまだ」の部分は、彼の日常のふとした言動を観ていれば明らかなのだ。

年末、ある番組の中で、彼は早稲田大学内にある「坪内演劇博物館」を訪れていた。そこには日本のみならず、世界中の演劇や映像の貴重な資料が展示・保管されている。錦絵や舞台写真、関連図書等、まさに演劇資料の宝庫だ。

彼は、そこで歌舞伎に関する資料を閲覧したり、学芸員の方からさまざまなレクチャーを受けていた。

そこまでは問題はなかった。だが「えー!?」と思ったのは、途中「お腹が空いた」とお蕎麦屋さんから出前を取った彼が、博物館の閲覧室の机で「ずぞぞぞぞー!」とすごい音を立てて、ざる蕎麦を啜り始めことだった。

べつに彼が何をしようが、何を食べようが一向に構わないが、正直「あのさー、もうちょっとTPOってもんを考えようよ」と思うのだ。梨園の御曹司だろうが何だろうが、「社会人としてそれってどーよ?」的な振る舞いは、正直いただけない。

「歌舞伎役者だから」「芸人だから」世の中には、「○○だから仕方ない」と、周りがその行為を黙認するというか、半ば諦めて許してくれることがまかり通る職種や人種というものが存在する。本人達もそれに甘んじるというか、「特別待遇」につけ込んでいることが多い。「確信犯」的な狡猾さを感じるのだ。

特に梨園などは、完全に「治外法権」で「聖域」扱いされている。「フツーの芸能人」だったら朝から晩までワイドショーで延々と放映されるようなゴシップも、なぜか梨園関係者の場合は、メディアも遠慮がちになる。むしろ意識して取り上げるのを避けている感が強い。「触らぬ神に・・・」といったところだろうか。

今回の歌舞伎役者氏の場合も同様だ。スタッフや学芸員の方の様子を見ていると、出前の件はどうやら彼の独断らしい。周りの慌てぶりを見ても、彼は悪びれる様子もなく、平然と蕎麦を啜っている。「腹が減ってるんだから仕方ないだろ?なんか文句ある?」といった感じで。

一言も注意できないスタッフもどうかと思うが、博物館の、それもすぐ横に貴重な資料を置いたままにしているテーブルで蕎麦を食べる?信じ難いというか、そういった場所では飲食が一切禁止されていることを、この人は知らないのだろうか。まあご本人も、「生まれてこのかた図書館や博物館にはお世話になったことがない」と言っていたが、知らない云々の話ではない。要は「どれだけその場所や人、物に対して敬意を払っているか」ということなのだ。

学芸員にとっての博物館は、歌舞伎役者にとっての舞台に当たる。そしてそこに収められている資料の数々は、梨園の各一門に代々伝わる衣装や文献といったところだろうか。

その人にとって、その場所やそれらの物がどれくらい重要なものなのか想像できない―だから人様の職場で、すぐ横には貴重な資料の数々が置いてあるにもかかわらず、平然と蕎麦を食べることができるのだ。「たかが本」「たかが博物館」という意識、軽視の姿勢がそういう言動を引き出すのである。

もしそれと同様のことが、自分の稽古場や舞台で行われたら?本番さながらの真剣な通し稽古の最中、見学に来ていた人が無神経にバリバリと音を立ててお菓子を食べ始めたら?数百年前から伝わる衣装や小道具のすぐ横で、誰かがタバコを吸い出したり、その灰を平気で床等に落としていたとしたら?

本物の、いわゆる真の「プロフェッショナル」というものは、自分の土俵も大事にするが、相手のそれも同じくらい尊重するものだ。

「歌舞伎をやる時は、神様に捧げることも意識しなくちゃいけないかなと。だから心と体を清くしなくちゃ」ご本人はそう言って肉食をやめたり、ヨガをやっているらしいが、「その前にやることあるだろ!」と。自分の身と置き換える。相手の立場や心情を慮る―いわば「想像力の欠如」が、彼の「まだまだの部分」、人としての「浅さ」なのだ。その部分は、「歌舞伎役者としての幅」「伸びしろ」とも大きく関連していく。

特権意識を丸出しにして、また周りがそれを受け入れてくれることに甘んじて、平然と胡坐をかいているその様子は、「バカ殿」そのものではないか。「親以外の人からあまり怒られたことがない」と何かのインタビューでご本人はおっしゃっていたが、「それよりもまず自分で気づけよ!空気読めよ!」なのだ。もし彼が「敏感」なら、たとえ周りが怒っていないにしても、何かしらの「空気」でそれは十分学べるはずなのだ。

歌舞伎は江戸の庶民文化から生まれた演劇だ。いわば庶民の生活から題材を取った演目も多い。演じる役者に「江戸っ子気質」が貫かれていなければ、いくら姿形が良いとしても、結局「上っ面」だけのものになる。

「江戸っ子気質」の一つ、「豪放磊落」を「傍若無人」と完全に勘違いしているところなど、まったく「粋」じゃない。それこそ、野暮なお人―野暮天の証拠なのだ。


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