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おわりははじまり

 2009-12-30
多くの人は「終わり」を恐れる。

終わりは「喪失」だと思っているから。

「永遠」という言葉を作った人は、多分「失うこと」と「変化」を恐れていた人だ。

だが、何かが終わるということは、何かが始まるということでもある。

それは「喪失」ではなく、新たなものとの「出会い」、未知の世界への「旅立ち」の序章。

恐れるものでも、悲しむことでもなく、むしろ期待に胸膨らませて迎えるべきものなのだ。

なぜなら「おわりははじまり」なのだから。

人生の新たな幕が上がるということなのだから。



2009年もあとわずか。もうすぐ新たな「はじまり」がやって来ます。みなさん、よいお年を!




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さよならサンタさん

 2009-12-24
「愛とか連呼してるヤツってうざくね?」「ワンネス(『すべてはひとつ』というスピ系御用達用語)?何それ?食べられんの?」などと、やさぐれた発言を日々平然と連発する私だが、「じんぐーべー♪じんぐーべー♪」と口ずさみながら、画用紙にクレヨンでサンタクロースへの手紙を嬉々として書いていたような無邪気な時代もちゃんとあった。

インターネットを始め、情報が飽和状態の今、「サンタクロースなんているわけねーじゃん」」とのたまう可愛くないガキ早熟なお子様もめずらしくないようだが、私が幼稚園や小学校に通っていた1970年代頃は、まだ「子供が子供らしかった時代」だった。高度成長期ではあったが、今の時代と比べると、物も情報も圧倒的に少なかった。

だが、その情報や物の少なさが、年齢に不釣合いな妙な「しらけ」状態から、子供を遠ざけていたような気がする。ある意味「健全」な状態に置かれていたというか、「子供が子供らしく子供時代を送れるように」保護されていたような気がするのだ。物が少ないから不幸というのではなく、逆に、その「不足分」を物以外で補うことができる力をつけてもらったように思う。

だから純粋というか、おとぎ話やファンタジーを素直に信じる子供が多かった。もちろんサンタクロースの存在も。さすがに小学校中学年くらいになると、だんだん半信半疑の状態にはなるのだが、それでもまだ、多くの子供は圧倒的に「サンタさん」を信じていた。


「子供と大人の境目は?」という定義の中によく挙げられることだが、「サンタクロースの存在を信じているか、いないか」というものがある。だったら私の子供時代は、わずか6歳で終わったことになる。36年経った今でも「あの瞬間」を思い出すと、何とも言えない複雑な気分になるのだ。「自分が大人になった瞬間」をはっきりと自覚した6歳児なんて、めったにいないと思う。

子供心に「見てはいけないものを見てしまった」という罪悪感や、何の心の準備もなしに「現実」といきなり向き合った時の脱力感というか。私がこんなにやさぐれた大人になってしまったのは、ひょっとしたらここに原因があるのではないだろうか。


36年前のクリスマスイブの夜、6歳の私は布団の中で展転としていた。「起きてるとサンタさん来ないよ」と親に言われて慌てて布団に入ったのだが、興奮のせいか全然寝つけない。眠ろうと努力をしてみても、それに反して目や頭はギンギンに冴えてくる。「早く寝ないとサンタさんが来ない」と焦る一方、こんなことも思っていた。「このまま起きていたらサンタさんを見られるかも」

「好奇心は猫をも殺す」という英語の諺がある。9つの命を持つとされる猫でも、好奇心に任せてあちらこちらに首を突っ込むと命がいくつあっても足りないことになる―ということから、「好奇心もほどほどに」という意味で使われているのだが、この時の私はまさに、「好奇心いっぱいの猫状態」だった。だが、好奇心のない6歳児など、この世にいるだろうか。

しかし、この時の私はまだ知らなかった。その好奇心のせいで、あと数分後に自分が「子供」でいられなくなるということを。「子供が知らなくてもいいこと」がこの世には存在しているということを。


その時、廊下が小さく「ミシッ」と鳴った。誰かが廊下を歩いて来る気配がする。「サンタさん!?」気配は私が寝ている和室に近づいてくる。息を殺してじっと寝たふりをしていると、枕元の襖がそっと開けられた。「来た!サンタさんだ!」心臓の鼓動はマックスになっている。「サンタさんだ!サンタさんだ!」その言葉だけが頭の中をぐるぐる回っている。

そして、私の枕元に何かが置かれた気配がした。「プレゼントかな!?」今年はお手紙に「サンタさんへ ミーちゃんにおはなのゆびわをください」と書いておいた。何日か前、「サンタさんに届けておいてあげるね」と、おかあさんがその手紙をどこかに持っていったけど、あの手紙読んでくれたのかな?おはなのゆびわだったらうれしいな・・・

が、サンタさんと思しき人が、またそっと襖を閉めようとしたその瞬間、私の中の「好奇心いっぱいの猫」が「ニャアーー!」と目覚めてしまった。「後悔先に立たず」その後人生でこの言葉を聞くと同時に、私の脳内ではこの時の光景が自動再生されるようになってしまった。

襖が閉まる直前、私は好奇心を抑えきれず、薄目を開けてしまった。サンタさんの足元が見えた。だがサンタさんが足に履いていたのは、絵本でよく見るような赤いズボンでも黒のブーツでもなく、「普通のズボンと靴下」だった。廊下からの灯りで、ぼんやりとだが色や柄も判った。

「サンタさん着替えたのかな?」だが、どうしても違和感が残る。同じようなズボンや靴下をどこかで見た記憶があるのだ。それもごく最近。「なんで赤い洋服じゃないのかな?あれじゃお父さんの洋服と同じじゃん・・・ん!?」

私は気づいてしまった。サンタさんが履いていた靴下とズボンは、今日父が身に着けていたものとまったく同じだったことに。「お父さんが着ているような洋服」ではなく、それはそのまま「お父さんの洋服」だったのだ。

衝撃の事実、「サンタクロースの正体」に私は呆然としていた。また襖が閉まり、足音が聞こえなくなるのを待ってから起き上がって枕元を見ると、リボンが付いた箱が置かれてあった。枕元のスタンドの明かりをつけて箱を開けると、さまざまな色や形の「おはなのゆびわ」と髪につけるぱっちん留めのセットが入っていた。。嬉しかったが、衝撃のほうが大き過ぎて、しばらくボーっとしていた記憶がある。そして、自分がものすごく悪いことをしたような後ろめたい気持ちと。そして、なぜか胸の奥がキュッとした。

大人の秘密というか、事情というか、「子供の知らない世界」を覗いてしまった私は、それ以来「大人に対して妙に物分りのいい子供」になってしまった。「大人には『事情』があるんだなー」という感じで。

学校の先生や両親等、「大人の都合」で自分の期待を裏切られたり、約束を破られた時、猛然と食って掛かる友達や同級生を「まあまあ、先方さんにもそれなりの事情があるんだから」と思いながら見るようになった。ある種の大人からしたら、どこか冷めた可愛げのない子供として映っていたと思う。だが、すべてを知ってしまった後、たとえそれが「振り」であっても、「わーい!サンタさんありがとう!」と無邪気にはしゃげなくなってしまった。


翌年のクリスマスから、私はサンタクロースに手紙を書かなくなった。両親には何も言わなかったが、多分私の様子を見て、何か察したのだと思う。それ以来父も母も、「今年はサンタさんに何をお願いするの?」と聞かず、直接私に「プレゼントは何がいい?」と聞くようになった。

学生時代、バイト先でこの話をしたら、バイト仲間であるA君が、「同士よ!」と握手を求めてきた。彼は小学校1年生の時、自分と弟へのプレゼントが押入れに隠されているのを偶然に見つけてしまったらしい。その瞬間、咄嗟に思ったそうだ。「このことは絶対に親に言ってはいけない」

その上、人に気を使うタイプのA君は、小学校5年生まで親の前ではサンタクロースを信じている振りをしていたらしい。何とも涙ぐましいではないか。「俺、自分が親になったら絶対にあんな安易な場所にプレゼント隠さねーぞ!」と彼は力説していた。「子供も結構大変」なのだ。

20代のOLの時、職場の上司である某係長が、昼休みに目尻を下げて何やら読んでいた。「何ですかそれ?」「まあ見てやってよ (*´∇`*) 」渡されたのは子供の字で書かれた手紙だった。可愛い便箋に丁寧な字で、サンタさんへのお願いが書かれている。「お父さんとお母さんと妹と4人で遊べるゲームがほしいです」「今学校で流行っている○○をお願いします」「妹の○ちゃんは、△△をほしがっているので、プレゼントしてあげてください」等など。

「うわ~可愛い♪娘さんですか?」「そうなんだよ~可愛いだろ?(*´∇`*) 」「娘さんって何歳でしたっけ?」「小学校5年生」「え?まだサンタさんはOKですか?」「うん。まだ信じてるな。っていうか、俺は何とか小学校に通ってる間だけは、信じさせてやりたいと思ってるわけよ。だって一番夢を見ていられる時間じゃん?それを守ってやりたいと思ってさ(`・_・´) 」「係長!素敵!係長の子供になりたい!+.ヽ(≧▽≦)ノ.+」

その後、会社のイベントで係長の娘さん2人と会ったことがあるのだが、本当に素直で可愛い子達だった。「やっぱりああいうお父さんの下で育つと、こういう可愛い子供に育つのね」しみじみ思ったものだ。

その夜、家に帰って父にこの話をすると、思い出したように「そういえば、おまえは何歳までサンタクロース信じてたんだ?」と聞かれた。「んー、実はさ・・・」と例の6歳の時の話をすると、父は「へえー。でもそれは寝てないお前が悪いんだぞ( ̄ω ̄)b」と平然としている。係長の件もあり、「このオヤジ・・・(#゜Д゜)」 と癪に障ったので、「爆弾」を投下してやることにした。

「でもお父さん襖閉めた瞬間にくしゃみしたじゃん!あれですべてが台無しになったんだからね!(*`д´)b」

そうなのだ。サンタさんの足元を見た瞬間も、実は私はまだ半信半疑だったのだ。「なんかお父さんと同じ服着てる・・・」と変に思ったとしても、「そんなことないよ。あれは本物のサンタさんだよ」と強く言いくるめられれば、「なんかおかしい」と思ったとしても、多分「ふーん、そーなんだ」と大方納得できる余地はあった。

だが、普段から情緒の欠片もないすっとぼけた天然キャラの父は、肝心なその場面でも、いかんなくその天然っぷりっというか、ツメの甘さを見せつけてくれた。襖を閉めた瞬間に「ふえっくしょい!」と盛大なくしゃみをやらかしたのである。そのくしゃみを聞いた瞬間、まだ半信半疑だった私はすべてを知ったのだった・・・。

「そ、そうか~(; ゜∀゜)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」「・・・(´-ω-`)」

世のお父さん・お母さん、くれぐれも最後まで気を抜かないでください。お子さんの「将来のやさぐれ度」は、あなた方に掛かっています!今宵の「サンタクロース大作戦」のミッション成功を祈ります! (`・ω・´) 

楽しいクリスマスになりますように♪


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ジキルとハイド

 2009-12-20
相手に対して抱く印象、自分が心の中に思い浮かべる像である「イメージ」というものは、あくまでも「主観的なもの」でしかない。、いわば自分ひとりだけが感じたもの、考えたものであって、それが唯一無二のものであるとか、その人のすべてを余すことなく捉えたものであるとは言えない。「イメージ」とは、あくまでも「想像」であり、「実像」ではないのだ。

にこやか、ソフトな、社交的な、優しい、女らしい、明るい、協調性がある、几帳面、、敏感、素直、穏やか、冷静な、理知的な、思慮深い、さっぱりしている、男っぽい、短気、一本気、激しい、情熱的、大胆、、大雑把、厳しい、マイペース、淡白、リーダーシップのある、忍耐強い、飽き性、フットワークが軽い、好奇心旺盛、学者肌、楽天主義、緻密、丁寧、こだわらない―。

これは、家族や友人知人、仕事上等で関係のあった人達が私に対して抱いているイメージだ。実際に今まで言われたことを思い出せる限り書き出してみたのだが、こうして改めて見ると、なかなか興味深い。

「緻密」と「大雑把」、「飽き性」と「忍耐強い」、「優しい」と「厳しい」、「女らしい」と「男っぽい」等、相反する性質のもの、対極にあるものがいくつもある。だが、それは「どれも私」なのだ。


子供の頃から、通知表の「評価」の欄が不思議で仕方なかった。担任の先生が学期や年度を通じて見た生徒の人柄や性格、生活上での改善点等が書き込まれているのだが、それを読む度に「学校にいる間の私しか知らないのに」と思ったものだ。特に「最悪」と言ってもいいほど相性の悪かった小学校4年生の時の担任の先生(男)が書いたものを読んだ時には、「勝手に決めつけんな!ボケ!」と心の中で毒づいていた。

中学校入学からしばらく経った頃、通知表含め、小学校時代の物を整理していた。1年生から6年生までの通知表を並べて見ていた時に思った。「人って、相手を自分の見たいように見るんだな」と。それぞれ違った先生達が受け持った6年間、通知表の「評価」の欄に書かれていることが、6人の先生ごとに全然違うのだ。

ある先生が短所、改善点として指摘していることを、別の先生には長所として書いている。また、その逆もあった。しかし、良くも悪くも先生達が指摘している点は「同じ」なのだ。つまり、同じ一つのものを、それぞれ別の角度から見て、それぞれが思ったことや感じていることを言っているだけ。

例えば、その子のある時の態度を見て、ある先生は「内向的で協調性がない」と短所として捉えたとする。しかし別の先生は、その同じ態度を「落ち着きがあって思慮深い」というように、長所として見ていたりする。だが、結局それぞれの先生達が見ているのは、「同じ態度」なのだ。

それを短所として捉えるか、長所として捉えるか、結局その人自身の裁量というか、「好み」なのだと思う。相手に対する感情というものにも大きく左右されるものだ。

学生の頃、ある合コンで、一人の男の子に対する評価、印象がほぼ真っ二つに分かれたことがあった。ある子達は「無愛想で近寄りがたいよねー」と言い、別の子達は「チャラチャラしてなくて男らしいじゃん」と言う。

結局そういうことなのだと思う。人間というのは、自分が見たいように相手を見、思いたいように思うのだ。相手に対するイメージというのも、まさに英語の「image」の意味の通り、「心に描く、想像する」「~の像を造る」というように、「見る者の側の都合で、勝手に、自由に描くもの」でしかないのである。そして「自分が抱いたイメージ=その人自身」ではなく、あくまでも「その人の一部分」に過ぎないのだ。

そして、その人に対して抱いたイメージの対極にあるもの、いわばまったく正反対の要素も、同時にその人の中には存在している―ということも「道理」なのだ。

カウンセリング中に、よく「自分の中にダークな面があることが許せない」と言う人がいる。だが、私からすれば、それは極めて「自然な」ことだと思う。というよりも、それは「当たり前のこと」なのだ。その人達のほとんどは、そのダークな面を人に知られたくないばかりに、自分は「いい人」の振りをしている―と思っている。だが、それは「猫を被っている」ということでも、「偽っている」ということでも、「腹黒い」ということでもない。

この世のすべては「バランス」の上に成り立っている。もちろん人間も例外ではない。性別にかかわらず、一人の人間の中に、男性性と女性性、2つの異なる要素が存在するように、必ず対極の要素が同時に存在するものなのだ。光があれば、そこには必ず闇が存在する。光だけ、闇だけ―という、どちらか一つのものしか存在しないということはあり得ない。なぜならそれは「偏り」であり、「異常」なことだから。良くも悪くも「人ではない」のである。

光だけでは、もはや神や仏だし、闇だけでは、無差別に大勢の人を殺しても平然としているような、悪魔のような「異常者」になる。対極の存在ではあるが、どちらも「人間」の域ではないということだ。

多くの人は、自分の中に「光」だけが存在することを望む。だが、その望みが強ければ強いほど、闇を嫌えば嫌うほど、自分の中にある「闇」を意識しているということなのだ。その「闇」が、いつか「光」を食い尽くしてしまうのではないかという恐れの大きさや強さに、それは比例している。

美しいものだけ、優しいものだけ、明るいものだけを人は求める。だが、それらを求める時には、「その対極にあるもの」も常に一緒に、同時にやって来るのだ。好むと好まざるにかかわらず、それは必然の「法則」だ。

人は、多分一生をかけて、自分の中に存在する光と闇との「折り合い」のつけ方や、そのバランスの「加減」というものを学んでいくのだと思う。闇が光を凌駕しようとする時、どこまで踏みとどまれるか。どのように光を大きく育てていくか―それは延々と繰り返される。だが、それをやり続ける、向き合うことこそが「人間である」という「証拠」でもあるのだ。


今自分がその人に対して抱いているイメージだけが、「その人のすべて」ではない。そこには必ず、「自分が見ようとしていないもう一つの顔」が必ず存在する。なぜならそれは、「法則」に基づいた二つで一つの「セット」のようなものだから。

自分が「見たくないと思っている顔」を相手に発見した時、「そんな人だと思わなかった」と、自分の勝手な「期待」を押しつけたり責めたりするのは、お門違いのことなのだ。なぜならそれは最初からそこにちゃんと存在していたし、何よりも「自分が見ようとしなかった」だけなのだから。


人が自分に対して抱くイメージ、それが強ければ強いほど、凝り固まっていればいるほど、私はそれをぶち壊したくなる。「あなたが知っているのは、私の『ほんの一部』でしかないから」自分の「もう一つの顔」を見せる時、相手の「期待」が裏切られる瞬間が大きいほど、私は快感を覚える。

多分、私という人間のすべてを、全部知り尽くしていると勝手に思い込まれることが好きではないのだと思う。大体、自分の知らない所で勝手に枠が作られ、勝手にそれにはめられている―なんとも屈辱的ではないか。その屈辱に、私の中の「ハイド」が反応する。「その期待を裏切ってやりたい」と。もしかしたら私は、「私」という人間を誰にも理解してほしくないのかもしれない。

光と闇、正と負―対極の要素、「ジキルとハイド」は、どんな人間の中にも存在している。もちろん例外なくあなたの中にも。






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「駄々っ子」が蔓延する日本

 2009-12-18
ここ数年、カウンセリングをしている最中によく思うことがある。年々「駄々っ子」が増えてきているな―と。年齢や性別は関係ない。何というか、言っていることや考えていることが「それは駄々を捏ねているだけでしょう?」というような、「まるで子供」の人が確実に増えてきている。

「絶対に失敗したくない。でもしんどい思いはしたくない」
「今の仕事は向いていないしやる気もない。でも退職して新しい職種や環境に飛び込むのが恐い」
「他人に干渉されるのは絶対に嫌。人付き合いもあまりしたくない。でも無視されたり嫌われたりするのは嫌」
「何か『でっかいこと』をしたい。でも何をしたらいいのか分からないから、導いてくれる『メンター』が欲しい」
「自分が愛したり尽くしたりした分と同じくらいのものを相手からも返して欲しい」等々。

こんなのは「序の口」というか、氷山の一角。ごく一部の例だ。

自分の言い分を聞くことを相手には要求するのに、人の言葉に耳を傾けようとしない。人には自分への理解や共感を求めるのに、自分の都合や偏見でしか相手を見ない―という所も共通している。

結局自分のこと、自分の「利益」しか考えていない。すべてにおいて「自分だけが得をすればいい」という前提なのだ。自分さえOKなら、相手のことや周りのこと、その他諸々のことなど「知りまへーん」というスタンスなのである。

いわゆる「おいしいとこ取り」を狙っているだけで、楽して得する、楽して幸せになるということに対して、ものすごい食いつきを見せるというか、執着している。理屈が通らないことを主張するのは当たり前。むしろ自分の主張を通す為なら、理屈のほうを平気で曲げたりするのだ。「楽が好き」な割には、自分を「正当化」することに対しての労力は厭わない。

幼いというか、未熟というか―完全に「子供」の域なのだ。時々デパートなどで、欲しいおもちゃを買ってもらえない子供が「なんで買ってくれないの?!」と床にひっくり返って泣き喚いている姿を見ることがあるが、それと同じレベルなのである。

どうして親が買ってくれないのか―例えば、前回おもちゃを買ってもらった時に「今日は買ってあげるけど次は我慢だからね」「うん」と約束したことや、今日は親の持ち合わせがないこと等、「理由」や「道理」、いわゆる「筋」というものを理解しない。


何かを選ぶということは、必然的にもう一つの、他の何かを手放すということでもある。それがまったくの正反対の、対極に位置するもののどちらか一つを選ばなくてはならない場合は、特にそうだ。

失敗したくないけど努力するのは嫌だとか、新しい環境に入っていくのが恐いから今の仕事や生活をこのまま嫌々続けるとか、好きに自由に生きたいけど周りから変に思われたくないとか、何をしていいかわからないから、ある程度の所まで道をつけてくれる師匠が欲しいとか。

正直「なに虫のいいこと言ってんだよ!」と思う。完全に道理に外れているというか、「そんなうまい話なんかあるわけねーだろ!」なのだ。

失敗したくないのであれば努力するのは当たり前だし、努力することで報われるのだ。「変化」に恐怖や不安は付き物だ。そこをあえて「えい!」と飛び込むことで「得られるもの」があるのだし、自分の主義主張を通そうとすれば、人とぶつかることや理解を得られないこともある。

だが、「好きに自由に生きる」ということは、そういったリスク、「それでも自分の意志を通す」という「覚悟」が伴うものなのだ。

誰かや何かに頼って道をつけてもらうことしか考えないのは、それこそ「おいしいとこ取り」、「寄生」でしかない。「何かを始める」ということは、そんな依存心に満ちたものではない。ある程度の苦難は当たり前なのだ。

いわばそれが世の常、「道理」というものだ。陰と陽、正と負―というように、必然のもの、「法則」なのである。その「覆らない部分」を、「なんで?どーして?」とぶつくさ言っている様子は、親との約束や親の都合を完全に無視して「なんで買ってくれないのー!?」と床にひっくり返っておもちゃをねだる幼児の姿と何ら変わらないのである。

「どっちも欲しい」「どっちも選べない」それは単なる「欲深さ」と「浅ましさ」の表れだ。

もういい加減駄々を捏ねるのはやめにして、「覚悟」を決めたらどうですか?


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本当のプラス思考

 2009-12-15
カウンセリングをしていつも思うことだが、多くの人が「ポジティブになる」ということを誤解している。物事を肯定的に捉える思考法、いわゆる「プラス思考」「ポジティブシンキング」がもてはやされるようになったのは、大体20年くらい前からだろうか。欧米からそういった類の「自己啓発系ビジネス」が輸入され始めた時期と重なっている。

「ポジティブになろう!」「プラス思考で人生を切り開く!」など、書店にはその種の関連本がズラリと並び、ちょっとした女性誌等でも特集記事として取り上げられている。まさに猫も杓子も・・・という状態。

先日ひさしぶりに大型書店に立ち寄ったのだが、自己啓発関連のコーナーが明らかに拡大されている。そしてそれらの本を手に取って真剣な表情で見入っている人の数が、以前より圧倒的に増えている。

10年位前は、そういったコーナーにいるのは、見るからに「ちょっと変わってそうな」感じの人が多かった気がする。だが今は、いろいろな意味で「普通の人」が「普通に」本を手に取っている。スーツを着た年配のサラリーマン風の男性とか、巻き髪にネイルアートの20代前半くらいの女の子とか。一般企業でも、社員教育の一環としてそういったセミナーを開催するところも多い。その手の分野が、良くも悪くも「市民権を得た」ということなのだと思う。

だが、誰もが手軽に―という風潮になった今、それによる「弊害」も増えている。「プラス思考」が悪いということではない。だが、よくそれを理解しないまま、そのまま自分の中に取り入れた挙げ句、余計に混乱したり悩む人が、最近目に見えて多くなっているのだ。

うちのサロンにセラピーやカウンセリングを受けに来られる方達の多くは、「真面目な人」だ。頭もいいし、知的レベルも高く、世間で言うところの「きちんとした人」。自分を磨くことにも熱心だし、向上心も強い。自己啓発セミナーの受講や関連書籍を読むことを一通り経験した人も多い。

だが、その人達の多くが口を揃えて言うのだ。「セミナーで言われたことや本に書かれていることは、全部やってみました。共感したし、良いことだと思うんですが、全然ポジティブになれないんです。落ち込むこともよくあるし」

中には「これだけ努力してもプラス思考ができない、ポジティブになれない自分はダメな人間なんでしょうか?それともまだ自分の努力が足らないんでしょうか?」と、自分を責める人もいる。

その度に私は言う。「あ、できなくても気にしないでください。セミナーとか本で言われている方法や考え方は根本からずれてるんで。むしろできなくて当たり前なんですよ」


セミナーを受講したり開催したり、それに関する本を出版したり、今まで様々な形で自己啓発に関わる人達を見てきた。だが、受講者であろうが、提唱者であろうが、実は一番多くの人がぶち当たる壁は、この「プラス思考」の部分なのだ。「受講者はともかく、開催者・提唱者側である人達まで!?」多くの人が仰天する。

自分の著書で「いつも前向きに明るくポジティブに生きましょう」と言っている人でさえ、自分の掲げている理想と現実とのギャップに悩んでいたりする。ぶっちゃけ言ってしまえば、発信側の人間ほど「セミナーや本で言っていることと違うじゃないですかー」というケースが多いのだ。「あれは嘘ですか?」というレベルの人などわんさといる。

その人達を擁護するわけではないが、それも仕方のないことなのだ。「つねにプラス思考で!ポジティブで!」なんて、最初から不可能なことなのだから。「いつも120%の元気で!」なんてことができるのは、クスリをやっている人くらいだ。

人間なのだから、感情の揺れがあって当たり前。時にはズドーンと気分が落ち込んだりすることもある。悩みや心配事があれば尚更だ。そんな時に、明るく元気でいられないほうが「普通」なのだ。


多くの人が勘違いしている。「ポジティブになること=性格を変えること」ではないのだ。時々カウンセリングの最中にも、「性格を変えてポジティブになりたい」「プラス思考ができる性格になりたい」と言う人がいる。だが、「性格を変える」ということは不可能だ。性格を変えるのであれば、その人個人の性格の基礎になっている遺伝的・生物学的な要素、いわば「細胞」レベルから変えなくてはならないということになる。

その「細胞」」、「生まれつき」の要素が、いわゆる「気質」と呼ばれるものだ。混同している人も多いが、「気質」と「性格」はまったく違う。「気質」は、いわば「先天的なもの」であり、「性格」は環境や条件等で段階的に作られていく「後天的なもの」。

「だったら変えられるのでは?」と思う人もいるかもしれない。しかしそれはやはり難しい。個人差もあるとは思うが、やはり「性格」のベースになっているもの、その大半を占めているものは「気質」だからだ。「生まれながらにもっているもの」の影響力というものは、やはりそれくらい強く大きいものなのだ。

「プラス思考」を謳う巷の自己啓発は、「気質」と「性格」の違いというものをまったく理解していない。本当にその部分を理解していたら、「これで明日からあなたもプラス思考人間に!」などという謳い文句は出てこないはずなのだ。「いろいろ試してみたんですけど何も変わらないんです・・・」などと悩む人が多いのは、それが根本的に間違っているから。というよりも、完全に「ずれている」からだ。

大体様々な気質や性格の人が星の数ほどいるのに、一つの方法や思考を押し付けて、そこに全員を当てはめるということ自体おかしい。最初から無理があるのだ。


「ポジティブになる」ということは、気質や性格等その人自身に本来備わっているもの、感情や思考を含む現在の状態を打ち消して、まったく新しいものを持ってきてそこに据えるということではないのだ。いわば自分の「すべて」を否定して、全く別の新しいもの、「ポジティブな自分」になろうとすること自体おかしい。

それでは、物事を何でも悲観的に捉える傾向が強い気質の人は、「プラス思考」にはなれないのだろうか?いや、なれる。気質や性格を変えなくても、「考え方」を変えればいいだけの話なのだ。プラス思考もマイナス思考も、性格や気質の問題ではない。「考え方」「物事の捉え方」、いわば「くせ」から来ているものなのだ。

多くの人が「自分の性格がこうだからポジティブになれないのでは?」と悩んでいるのは、ほぼ100%、この「考え方のくせ」から来ている。

例えば、最近職場でミスを連発したとする。上司からも怒られた。自分のミスのせいで、周りにもその後処理や残業をさせてしまったという場合、「自分が情けない。またミスをしてしまった。みんなにも悪いことした」というところまでは、誰もが思うこと。その後失敗点を見直し、反省して「今度は絶対に気をつけよう」と一生懸命仕事に打ち込めばいい。これがいわば「プラス思考」だ。

だが、マイナス思考の人達はこう考える。「きっとみんな怒ってるんだろうな。誰も何も言わないし態度も普通だけど、内心ではすごく怒ってるんだろうな。『仕事ができない人』って思われたらどうしよう。課長も『使えない奴。やめちまえ』って思ってるのかな。また同じことをしたらどうしよう」

そんな考えがどんどん膨らんでくる。仕舞いには「今度のことでリストラ対象者に入ったらどうしよう。生活できなくなっちゃう。ホームレスになったらどうしよう」など、ほとんど「妄想」の域にまで達してしまう。

ネガティブ思考というものは、その大半が「妄想」で出来ていると言ってもいい。相手の感情や先々のこととか、「見えない部分」「まだ起こってもいない部分」まで、「絶対こうに違いない」と勝手に想像してマイナスの方向に向かっていく。早い話が、その「妄想」をやめればいいのだけのことなのだ。

今まで自分がリストラされてホームレスになるところまで思い描いていたのをやめる。一通り反省して「よし!もうミスは絶対にしない!がんばろう!」というところで止めればいいのだ。迷惑を掛けた人達に「すみませんでした」ときちんと頭を下げたら、後はどう思われてるかということは考えないでいい。

簡単に言えば、「プラス思考とはネガティブなことを止める」ということだ。考えや行動、そういったものを思い描いていたり、やっていると気づいた時点で「あ、また余計なことしてる」とスッパリそれを打ち切ることなのだ。後はそれを繰り返していけばいいだけだ。新たな「くせ」を自分につけていけばいいだけ。

最初のうちは、知らないうちに以前のパターンを繰り返していることがあるかもしれない。新たなやり方を試し始めたうちは、誰でもそうだ。最初から上手くやれる人はいない。でも、気づいた時点で止める―ということを何度も繰り返していけば、やがてそれが身について「自分のやり方」になってくる。

和気あいあいと上司や同僚と仕事をしている自分や、すべてが順調にいっている場面をイメージしたりすることがプラス思考ではないのだ。気持ちを押さえ込んで、無理にそれを「良いもの」と思い込む必要もない。ただテレビのスイッチを切るように「ネガティブな妄想」をそこで打ち切ればいいだけだ。

いろいろと考えを思い巡らせてしまうのは、人の常。最初から物事を良い方向に考えることができる人など、よほどの楽観主義者以外そうそういない。例えネガティブなことを考えたとしても、どの段階でその考えを打ち切るか―要はそのスピードにかかっているのだ。「プラス思考=ネガティブな考えを打ち切る速さ」と言ってもいい。

「プラス思考」「ポジティブになる」ということは、そんな大袈裟なものではない。例えば、今日さんざんどん底まで落ち込んでいたとしても、落ち込みながらも「まあ明日元気になってたらいいや」そう思えたら十分なのだ。



【追記】
何よりも、それが必ずしも良いことなのか?ということ。猫も杓子も「プラス思考」と騒いでいるが、あくまでもそれは「ひとつの考え方」でしかない。自分には適さないものを無理矢理身につける必要もない。周りの声に振り回されず、「自分に合ったやり方、スタイル」で歩いていけばいいと思う。「大多数が正しい」わけではないのだ。





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「本当の自分」はどこにいる?

 2009-12-14
「本当の自分を知りたい、本当の自分と出会いたい」と、いわゆる「自分探しの旅」に夢中になる人達がいる。自己啓発セミナーや、ナンタラヒーリングのセッションの類を梯子したり、膨大な金額をそれに注ぎ込んでいる人も少なくない。「本当の自分がわからないんです」「今の自分は『本当の自分』じゃない気がするんです」ヒプノセラピーのセッションでも、よく同じ言葉を耳にする。

これが自己啓発やスピ系のセミナーだったら、如何にも「私、愛と光と共に日々ポジティブに生きてます!」的な態度の講師やヒーラーが、あれこれ優しい言葉をかけて励ましたり慰めてくれるのだろうが、うちのサロンの場合、そうはいかない。

もともと口の悪い「オラオラ系スパルタ式セラピスト」なので、ぬるい事を言って現実逃避するクライアントや、あれこれ尤もらしい理由を付けてはいるが、実は「甘え」に来ているだけ―というクライアントには、時としてかなり手厳しい対応をさせていただくことになる。

「セラピスト=優しい人」と思い込んでいる人には、かなりの衝撃らしい。セッションの数日後に頂いたお礼のメールに、「正直、最初は大変な所に来てしまったと思いました(笑)」と書かれていることもよくある。先日は「アントニオ猪木さんのビンタばりに効きました!」とあった。(ちなみに暴力は振るいません)

「自分探し」「本当の自分」そういったものにのめり込み過ぎている人にとって必要なのは、各種セミナーやヒーリングの類ではなく、「本当の自分なんてものはない」ということにまず気づくことだ。だから私は容赦なく言い放つ。「本当の自分?そんなものどこ探してもありませんよ」と。

大抵の人はギョッとした顔をする。それじゃ今まで自分がその為に費やしてきた時間やお金は何だったの?悩んできたことはムダだったの?「本当の自分」がどこにもないなんてどういうこと?それじゃ「こんなの自分じゃない」っていうこの違和感は何なの?


はっきり言い切る。「本当の自分」を探している人というのは、「今の自分」とは違う「本当の自分」というものが、ここではない別の場所、「自分の外部」に存在しているかのように思い込んでいる。それが存在する場所にさえ辿り着けば、必然的に会えるもの、「やっとお会いできましたね」と対面するようなものだと思っている。

だが実は、「本当の自分」というものは、既に「自分の中」に存在している。その人達が「こんなの本当の自分じゃない」と思っている「今現在の自分」の中に、ちゃんと存在しているのだ。わざわざどこかにそれを「探しに行く」必要などないのである。

その人達の話を聞いていると、分かってくることがある。どうやら彼らにとっての「本当の自分」とは、「どうしたら自分らしく生きられるのか?」ということを意味しているようなのだ。

「それでは、あなたにとっての『本当の自分』とはどういうものなんですか?」と聞くと、一様に「今現在の自分は、何か『作っている』ような気がして・・・」という答えが返ってくる。

「具体的に言うと?」「『本当の私』はすごくマイペースなんです。一人でいることが好きだし、正直そのほうが楽なんです。でも『変わってる』『友達がいない人』って思われたくなくて、無理して周りに合わせて社交的に振舞っているだけなんです。猫を被っているというか、何か役を演じているような気がして仕方ないんです」

「役を演じている自分=作り上げた人物=『本物ではない』=偽者」という意識が、「後ろめたさ」「素の自分を隠している=周りの人を騙している」という罪悪感を生み出す。そして、「演じること=素の自分を隠すこと」に対する疲労感、迷い等が「本当の自分」を求めさせるのである。


その人達が求める「本当の自分」になること、「自分らしく生きること」は、とても簡単なことだ。べつにナントカヒーリングや、もったいぶっているだけで実は一番大事で必要な「核」を全然教えていないセミナーを受ける必要もない。ただ、今自分が感じている違和感、「こんなの本当の自分じゃない」と感じる部分を捨てたらいいだけだ。「演じる」のを止めたらいいだけの話。

一人でいるほうが好きなら、無理にみんなと一緒にいようとしない。マイペースが好きなら、周りに過度に迷惑を掛けない程度に気をつけて、自分のペースで行ったらいい。社交的になれないのなら、社会人として、人として、失礼にならない程度に、最低限の礼儀を弁えて過ごしていたらいいのだ。

「本当の自分」を隠そうとして、あれこれ余計な殻を身に着けて出来上がったものが「作られた自分」なのだ。元になっているのは、あくまでも「本当の自分」。周りの殻のせいで見えなくなってはいるが、その存在自体が失われてしまったわけではない。だったら、周りにくっついている余分な物、「作っている部分」を剥ぎ取ってしまえばいい。そうすれば本来の姿がまた現れる。たったそれだけのことなのだ。

仰々しく「自分探し!」と騒ぎ立てる必要はない。それは元々自分の中に存在しているものなのだから。「存在しない」ということでなく、「見失っているだけ」。人によっては「見ようとしないだけ」のことなのだ。

四十五十過ぎても、世間で言うところの「いい歳」と言われるような年齢になっても「自分探し」と称したセミナーやヒーリング巡りにいそいそと余念がない人達は、「青い鳥」は既に自分のところにいる―ということに気づかなければ、多分死ぬまで「本当の自分」とやらを探し続けているはずだ。

「本当の自分」に出会うには、そこに付着した余分な殻を取り去るだけ。「演じる」「作る」「隠す」のを止めたらいいだけだ。「今の自分」の中をもう一度探したらいい。

それでも「えー、でもそれって難しくないですかぁ?やっぱり人の目とか気になるしぃー」と、この期に及んでまだゴチャゴチャウジウジ言っている人に「猪木のビンタ」いきまーす!

なんだかんだ言っても、結局あなたは「本当の自分」なんて望んでないんでしょ?「今のまま」がいいんでしょ?そのほうが楽ですもんね。本当に今の状態が嫌だったら、「それって難しくないですか?」なんて言葉は出てきませんからねー。本気だったら出るのは「行動」なんですよ。やりもしないうちから「難しい」なんて言うのは、結局「やりたくない」ってことなんで。まあ「言い訳」ですな。「嫌よ嫌よも好きのうち」ってね。

大体虫が良過ぎるんですよ。「本当の自分」で生きたい、でも人から変に思われるのがイヤ―とかね。何かを選ぶということは、何かを捨てるということでもあるんです。それが出来ないと言うのなら、これからも「作った自分」でい続けてくださいな。私は一向に気にならないんで。だって私の人生じゃないですもん。あなたの人生がどうなろうと痛くも痒くもないし、私には関係ないことなんで。

まあ、あなたの人生なんでね。私があーしろこーしろとはこれ以上言えません。どうするかはあなたが決めてください。っていうか、これはあなた自身の問題なんで。どうぞお好きなように。それじゃ、今日はこのへんで。


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ときどき=、ときどき≠

 2009-12-12
ひと昔前に比べ、最近は一生独身で通すことや離婚経験があるということが、それほど「特別なこと」ではなくなってきた。だが日本の社会では、まだまだ「結婚=幸せ」という定義が根強く存在しているような気がする。

私自身、離婚経験者であり現在独身でもある。結婚生活10年の後に再びシングル生活に戻って、かれこれ5年になるが、心身共に至って快適な毎日を送っている。結婚生活は幸せだったし楽しかった。離婚した元旦那さんとは今でも仲が良い。「夫婦」から「親戚」に付き合いがシフトした感じで、行き来が続いている。

長い間苦楽を共にした相手と離れることに対して、寂しさや悲しさをまったく感じなかったわけではない。やはりお互い「情」というものや、それまで積み重ねてきた時間や思い出もある。だが、今現在の私自身や彼を見ていると、決して負け惜しみではなく、「これでよかったんだ」と思えるのだ。お互いに「自分の人生」を満喫している。

今まで友人知人の何人かから「後悔してない?」と聞かれたが、いつも「それはない」と即答してきた。事実そうだから。その言葉に嘘はないということは、今の私の様子を見ていれば納得してもらえると思う。毎日えへらえへらしている私を見て、「本当に楽しそうだよねー」と友人達がしみじみ言うくらいだ。「自他共に認めるくらいハッピー」な状態にあると言っても過言ではないと思う。

だが、「結婚=幸せ」と固く信じている人にとっては、どうも違うようなのだ。結構前のことなのだが、女性クライアントのカウンセリングの最中、話の流れで「あ、私離婚経験者ですよ」と言ったことがある。べつに隠す必要もないし、隠さなくてはいけない理由もない。私としては、「告白」などという深刻なものでなく、自分の「経験」を言ったまでのことだった。

しかし、それを聞くなりその人の様子が一変した。急にしんとして、「え、先生そんなふうに見えないのに・・・」と、何とも言えない目で私を見たのだ。これには私のほうがポカーンとしてしまった。「は?『そんなふうに』ってどういうこと??」

離婚した女は、演歌の歌詞に出てくるような、どこか「陰のある女」でなくてはいけないのだろうか?常にひっそりと着てはもらえぬセーターを寒さをこらえて編むような「薄幸の女」キャラにならなくてはならないのだろうか?

その時思った。いくら時代が変わったとはいえ、日本の人々の「結婚」に対する意識というものは、やはり「結婚=幸せ、離婚=不幸せ」」という図式の上に成り立っているのだと。


「結婚=幸せ」という定義が、日本人の意識に根強く残っているということは、人々の使う「言葉」によく表れている。よく独身の若い世代、特に20代~30代前半くらいの、世間で言うところの「適齢期」に当たる人達が何かにつけて言う「結婚できるかどうか」という言葉。これこそが、人々の結婚に対する意識、結婚というものの位置付けを表しているのだ。

自分の人生というものを真剣に考え始める年齢、中学高校時代から、この「結婚できるかどうか」という言葉が不思議で仕方なかった。親から「そんなんじゃお嫁に行けないからね」など小言を言われてもピンとこないというか、「だから何?」と完全に聞き流していた。

「結婚したい」「お嫁に行きたい」ならまだ理解できる。だが「できるかどうか」「行けない」って?「それって『できる』とか『できない』で考えるものなの?」ずっとそう思ってきた。

クラスメートが「将来結婚できるかな?」等と、休み時間にきゃわきゃわ話しているのを「んじゃ、できなかったらどーなのよ?『できない人』は何か問題があることになるわけ?」と横でシラーっと聞いていたものだ。

学生時代、仲間内でものすごく結婚願望の強い子がいたのだが、その子が事あるごとに「ねえミラちゃん、私結婚できるかな?」などと聞くので、「知らね」「えー!ひどーい!」「したかったらすればいいじゃん」「ひどーい!冷たーい!(泣)」「(めんどくせ・・・)」と完全にスルーしていた。

何よりも「できる」「できない」という言い方からして気に食わないというか、おかしいではないか。何か「結婚」と書かれた橋があって、その橋を渡った(渡れた)人は幸せで、渡らない(渡れなかった)人は不幸せ―みたいな、「はい!あなたは合格!」「あなたは不合格!」と決め付けられている気がして癪に障る。そもそも、その「橋」を渡るかどうかということは、あくまでも本人の意思、「選択」だと思うのだ。

その人が、自分の意思で「しない」と決めたことであっても、周りが一方的に、勝手に「できない」「できない=不幸」と決め付ける日本の風潮は、正直迷惑以外の何物でもない。その周囲の目に負けたり、決め付けに洗脳されて、「結婚すれば幸せになれる」「結婚こそが幸せ」と信じ込む人が出てくるのだ。

離婚歴のある人を「バツイチ」とか。大体どうして何の躊躇いもなく「バツ=ダメ」という言葉をそこに当てるのか。そこからして「離婚=いけないこと」という有無を言わさない前提がされている。「婚活」などという言葉を巧みに利用して、「未だ結婚できていない自分」に対する危機感を煽るメディアの影響も大きい。

以前ヒプノセラピーを受けに来られた占い師をしている方が言っていたのだが、男女問わず相談内容で断トツに多いのは、「自分は結婚できるかどうか」ということらしい。うちのサロンでも、カウンセリングの最中に同じ言葉を聞くことが多い。その占い師の方とも話していたのだが、「自分が結婚できるかどうか」などということを他人に聞いてどうするのかと思う。

だが「自分は結婚できますか?」という質問は、実は「自分は幸せになれますか?」という質問でもあるのだ。やはり「結婚=幸せ」と定義付けられている証拠だと思う。

「結婚=幸せ」と思うのは勝手だが、意外とそういう人に限って「性格の不一致」を理由にさっさと離婚したりすることが多いのだ。不一致なのは「性格」ではなく、「期待」と「理想」なのだ。「結婚さえすれば今よりも幸せになれるはず」「すべてがうまくいくはず」でもいざ蓋を開けてみると「現実」は違う―ということに落胆するのだと思う。

相手に幸せにしてもらおうと思っていたり、幸せになる為には誰かや何かの存在がなければ幸せにはなれないと思い込んでいるうちは、例え結婚したとしても、幸せを感じることはない。「本当の幸せ」というものは、自分ひとりでも十分作り出せるものなのだ。

折りしも先ほどちょっとテレビを点けたら、明石家さんまさんがCMで「幸せーってなんだっけ?なんだっけ?」と歌っていたが、それは「=結婚」ではなく、人それぞれ違うのである。「結婚できないから幸せではない」ということでもなく、「離婚したから不幸せ」ということでもない。

多くの人にとっては幸せであっても、自分にはそれが当てはまらない―ということもある。「結婚=幸せ」の人もいれば、「結婚≠幸せ」と「不等号」の人もいる。幸せは人の数だけ存在するのであって、「これこそがそうである」という「正解」は存在しないのだ。

ただ間違いなく言えるのは、バツイチシングルの私は、今十分幸せだということだ。さ♪そのことを証明するためにも、今日も私はハッピーに機嫌良く一日を過ごそーっと♪




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世界の中心で叫ぶのは

 2009-12-05
プライベートでも仕事でも、男女問わずいろいろな人と会う度に思うのは、「男と女は違う種類の生き物」であるということだ。身体的な特徴はもちろんのこと、感じ方や考え方、ほぼ対極にあると言ってもいい。もともとの思考回路からして違うので、誤解やそれに伴う衝突が生じても何ら不思議ではないのだ。

特に恋愛に関しては、それが一層顕著になる。「なぜそうなる!?」呆気に取られるというか、お互いの思考に苦しむのは、ごく当然のことなのだ。

その中でも、特に女の側からすると理解困難なのは、「なぜ男は『昔の女』を忘れないのか?」ということだ。これは女同士のガールズトークでもよく話題に上ることなのだが、男というものは、なぜか過去―正しくは「過去に関係のあった女(達)」を、いろいろな意味で「引き摺っている」ような気配がある。

何年か前、「セカチュー」という言葉で一世を風靡した小説「世界の中心で愛を叫ぶ」が大ブームになった。ドラマ化・映画化された際のストーリーは、高校時代に病気で失った恋人を20年近くも忘れられずに苦しむ男性の心情を描いたものだった。

確かに「これぞ純愛!」的なものだったのだが、女の側からしてみれば、「気持ちは分かるんだけどさー、ちょっといい加減にしてくれない?」というような「ウエットさ」が鼻につくものだった。

完全に「男目線」というか、実は密かに結構ベタなものに憧れている男という生き物が「いかにも好みそうな感じ」のストーリーだったということもあり、「うーん・・・なんだかなー」と若干引き気味で見ていた。

面白いことに、私の周りでも男女で完全に評価が分かれた。男性陣の多くは「すげーよくわかる!」「思わずウルッとしちゃったよー」と、主人公に共感していたが、私を含め女性陣は「女々しいって言ったら失礼かもしれないけど、なんかちょっとねー」と幾分批判的というか、「あんなふうに昔の恋人のことを引き摺られたらたまんないよねー。速攻で別れるわ」と、かなり辛口だった。

そんなふうに、いろいろな意味で男がいつまでも「昔の女」を忘れられないことを、「男は女よりもロマンティストだから」「純粋だから」等ともっともらしい説を持ち出して美化する風潮があるが、それは大間違いだと思う。べつに女が冷たくて現実的だというわけでもない。それは、あくまでも「対象」に対する感覚の違いなのだ。


男という生き物の多くは、「過去に関係のあった女は今も自分のものだ」という妙な思い込みをしていることがある。下手をすると、何年も前に大喧嘩の果てに別れた後も「あいつは今も心のどこかでは俺のことを好きに違いない」などと勘違いも甚だしい顰蹙ものの考えを抱いていたりするのだ。

恋愛において、男は「狩人」だ。男にとって女は「獲物」。狩人が獲物に一番興味を示すのは、「それを手に入れるまで」のプロセスだ。獲物を発見し、追いかけ、追い詰め、仕留める―アドレナリンが全開になり、心身が一番高揚する瞬間。そしてそれが手に入った後、「自分の物」になった後、その興味は一気に冷める。

最近よく思う。男は確かに「狩人」ではあるのだが、むしろ「肉食動物」のそれではないかと。人間というよりは、肉食動物の、獲物に対する意識というか、「感覚」がまったく同じような気がするのだ。

犬が骨を地面に埋めたり、ヒョウが残った獲物の肉を木の上に置いたままにしておくのも、すべて「後でまた食べる為」だ。男が「別れた女」をいつまでも自分のものと思い込むのは、まさに「後でまた食べる為=あわよくばまた」と、残した骨や肉片のように無意識に思っているからではないだろうか。

過去に関係のあった女に誘われれば意外と簡単によりを戻したり、気心の知れた気安さからセフレのような「その場限り」の関係を持つことに躊躇いを感じることがあまりない男が多いのは、その為ではないかと思うのだ。

彼らにとったら、むしろそれは当然の権利というか、「当たり前のこと」なのだ。仕留めた時からどれだけ時間が過ぎようと、獲物は獲物。「自分のもの」に変わりはない。以前埋めたり隠したりした餌の残りを掘り返しているに過ぎないのだ。

同時に何人もの女を愛せる、関係を持つことができる男というのも、「気が多い」「情が深い」というよりは、何箇所かに分けて隠しておいた肉や骨を「昨日はあの肉を食べたから、今日はあそこに隠した骨を食べよう」という、その日の気分とお好みで―というような、いわば「バイキング形式」の食事をしている感覚なのだと思う。

「昔付き合ってたコがさー」などと、聞かれてもいないのに「昔の女」のことをペラペラ喋って現在のパートナーに顰蹙を買う男というのも、実は「動物」としての「自然な行動」を取っているに過ぎない。

女からしてみたら「何の為にそんな話をするわけ?」と完全に理解不能な言動だ。過去の話を持ち出されても、困惑するだけというか、相手がどういうつもりで、何をしたいのかさっぱり分からない。男のほうはそんなことはお構いなしに、平然と話し続けるので、女は余計に混乱する。

だが、そういった言動も実は大した意味はない。べつにパートナーにやきもちを焼かせようとか、「昔の女」と比べているというわけでもない。彼らは「生き物」としての、自分の「今までの狩りの成果」を自慢、いや「報告」しているだけなのだ。

つまり、亡くした女、この世で二度と会えない女をいつまでも忘れられないのは、後でまた食べようと取っておいた肉片や骨を、別の動物に盗られたり、何らかのハプニングが起こった為に食べることが出来なかった、いわば「当然の権利」を奪われたことに対する悔しさや未練でないかと思うのだ。

世界の中心で叫ぶのは、失った恋人への愛いうよりは、むしろ食べることが出来なかった肉片に対する「くそ!食いっぱぐれたーーッ!後で食おうと思ってたのにーーッ!」という悔しさを込めた咆哮なのである。

「思い出は美しい」と言うが、それと同じで「食べることの叶わなかったご馳走」は、実際の味よりもかなり美味しく思えて仕方のないものなのだ。





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1月 グリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせ

 2009-12-04
2010年1月のグリーフケアの会(個人対象)開催日時のお知らせです。


■日時 : 2010年 1月10(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 1名(先着順)

■申し込み方法 : 1月6日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時 (奇数月は個人対象、偶数月はグループ対象)


■定員人数 : グループセッション時 4名、個人セッション時 1名


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、 申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、 いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、 今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、 ①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック →②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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自死遺族グリーフケアの会に関するお知らせ

 2009-12-03
「やはり人前で自分の体験や心情を話すことに躊躇いを感じる」「『複数』と聞くと参加する勇気がなかなか出ない」という声を受け、2010年1月より、自死遺族グリーフケアの会の内容を以下のように変更させていただきます。

■奇数月(1月・3月・5月・7月・9月・11月)・・・「個人カウンセリング」対象
■偶数月(2月・4月・6月・8月・10月・12月)・・・「グループカウンセリング」対象
(「第1日曜日13時~16時」という部分は、従来どおりです)

「個人カウンセリング」をご希望の場合は、お早めにお申し込みください。参加申し込みに関する諸事項は、従来どおり、「グループセッション」のものに準じます。

今まで参加を躊躇っていた方も、前向きにご検討いただけるかと思います。その他の参加者の方も、ご自分の希望される内容と開催月に注意して申し込んでいただけますようお願い致します。

以上











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