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U35の危機

 2009-11-28
■デートDV、学生の3割被害か/香川大学で調査

若い男女間で起きる交際相手への暴力行為「デートDV(ドメスティックバイオレンス)」について、恋愛経験のある香川大生の3割が被害を受けた可能性があることが、同大と香川県の共同調査で明らかになった。目立つのは、相手に常に気を使わされるなど精神的に重圧を受ける行為だが、中にはけがをしたり、性的行為を強いられる事例も。こうした経験を持つ4割近い学生は誰にも相談しておらず、問題が深刻化する恐れがある実態も浮かび上がった。

調査は、平野美紀法学部准教授のゼミ生5人が学生361人(男性218人、女性143人)を対象にアンケート方式で実施した。

まとめによると、恋人がいる(過去にいた)学生212人のうち、DVの可能性がある行為を受けたのは29.7%。内容(複数回答)は、「恋人の機嫌の浮き沈みが大きく、常に気を使う」がトップで25.5%。次いで「行動を制限される」(11.8%)、「言葉で嫌な思いをさせられる」(8.5%)など。

また、男性より女性に被害が多い行為として、▽相手の思い通りにしないと脅される▽目の前で物を壊されるなど、怖い思いをさせられる▽けがを負わされる▽性的行為を強要される―などがあった。

このほか、携帯電話に絡む問題行為(複数回答)として、「すぐにメールを返信しないと怒られる」(23.1%)、「着信、発信履歴を見られる」(10.8%)などがあった。

平野准教授は「受け止め方の問題はあるが、いずれも相手を尊重していない行動で、大きな問題につながりかねない」と指摘。「自分の中で消化せず、ささいなことでも相談することが被害防止の第一歩」としている。

(2009年11月24日 四国新聞社掲載記事より引用)




「大学生でDV?」と驚いた人も多いと思う。だが、もし同じ内容の調査を、18歳~35歳まで1歳刻みに行った場合、どの年齢においても、今回の調査結果とほぼ同じ結果になるような気がする。なぜなら彼らは、ある意味「同じ」だから。


「ジェネレーションギャップ」「時代の変化」という言葉で済ませてしまうこともできるのだが、1967年生まれの私からすると、若い世代、特に今現在30代半ば以下の人達を見ていると、ある種の違和感というか、「異人種」と接しているような感覚を覚える時がある。

セラピストの仕事をしていると実感するのだが、「焼け跡世代」「団塊の世代」等という言葉があるように、やはり「世代ごとの特徴=思考パターン」というものが存在する。すべての人がそれに該当するというわけではないが、やはりどこか「共通するもの」、「傾向」といったものがあるのだ。

大体30代半ばより若い人達、「U35(アンダー35)」というのは、子供の頃から、遅くとも中学や高校時代からポケベルや携帯、インターネットを利用していた、いわば「ハイテク世代」と言える。ネットで検索すればあっという間に答えが出る。いつでもどこでも友達や家族と連絡が可能。「即座に」ということが「普通」であり、「当たり前」という感覚でいる世代なのだ。

ネットも携帯もなかった学生時代、ゼミのレポートを提出する時には、図書館や書店に足を運んで数多ある資料の中から一冊ずつ選び出してはページを捲り、自分が求めている資料を探す。待ち合わせの時間に友達が来なければ、公衆電話でその子の家に電話を掛けるか、ひたすら来るまで待つ―というように、”自分の足を使って””時間や手間をかけて”ということが当たり前だった世代の私からすると、やはりハイテク世代との「差」は、いろいろな意味で大きい。


うちのサロンのクライアントの年齢層は幅広い。18歳の大学生から77歳までの開きがある。女性は30代~40代、男性は40代~50代が最も多い。だが平均すると、30代半ばの方が一番多いと思う。

一括りにするのは乱暴で失礼なことかもしれないが、10代~35歳まで、「没個性」というか、それほど「世代間の差」というものがないような印象を受けるのだ。ご本人達からは顰蹙を買うかもしれないが、「変わらない」のだ。18歳と35歳で「言っていることや考えていることがまったく同じ」。どちらが大人びているのか、幼いのかというよりも、ある時点で「成長が止まっている」ような―という感じ。

何というか、すべてにおいて「せっかち」であり、「マニュアル重視」という部分が共通している。言い換えれば、忍耐力に欠け、画一的な言動しか出来ない人が多い―というところがまったく同じなのだ。

だが、「それも仕方ないな」と思う。「ゆとり教育」とかいう、勘違いの「平等・協調」を謳った意味不明の妙な教育方針を押し付けられた事情もあるし、技術の発展でもたらされた便利な生活―キーワードを入力してエンターキーを押せば、即座に何万件もの結果や情報が表示される。場所や時間に関わらず、常に相手と連絡を取り合うことが可能―と、自分の求めている「答え」が瞬時に手に入ることが「普通のこと」という環境で育ってきたら、「待つ」という行為が苦痛になったり、「みんなと違ったことをしよう」と思わなくなるのは当然だと思うのだ。

だから相手からメールの返信がすぐに来なければ、イライラしたり、被害妄想に陥ったり。実際にセラピーやカウンセリングで、U35の人達とお会いすると、大半がこんな感じなのだ。皆さん常識のあるきちんとした方で頭もいいのだが、「打たれ弱い」。何か問題が起きたりすると、自分で考えることをせず、すぐに誰かに解決方法を教えてもらいたがったり、「失敗」を過度に恐れたりするところが非常に似ている。

「こうすれば成功しますよ、必ず上手く行きますよ」と、誰かや何かに「保証」や「マニュアル」を求めたがるのも、共通且つ最大の特徴でもある。「面接の達人」等、就職活動のマニュアル本の類が爆発的に売れたのも、「安全に・楽に・確実に」を求めるこの世代の「ツボ」を確実に突いたからだ。

与えられた課題をこなすことは得意だが、オリジナリティーや自主性がない。周りからはみ出ることを極端に恐れる―それもこのU35が、ちょうど「学級崩壊」が始まった世代に該当する為だと思う。

いじめも横行し、「今度標的にされるのは自分だろうか?」そういった恐れや不安を常に抱いて学校生活を送ってきた。「こうしていればいじめられない」そんな「方法」を四六時中模索していれば、トラブルや不幸を避ける為の確実な何かを頼ったり、求める癖がついて当たり前なのだ。

だが、マニュアル重視、「即座に」が当たり前―というその「思い込み」は、人間関係においては当てはまらない。「自分がこうすれば、相手は絶対にこうするはず」というような確実性は存在しない。むしろ予想外のことが起こるのが「普通」なのだ。

しかし、彼らはそう思わない。マニュアル通りの答えが返ってこないと、「どうして!?」という不安や不満、焦りが、暴力や怒りというものになって噴出する。そういう形でしか自分の気持ちを表せないというのは、言語能力を始めとするコミュニケーション能力が著しく落ちている証拠でもあると思う。

はっきり言えば、上手く言葉を操れない年齢の幼児と同じレベルなのだ。だから相手を殴ったり、物を壊したりといった、短絡的で直情的な「子供じみた行動」を取るのである。

セラピーやカウンセリングで、この世代の人達と話す時は、特にそれを感じる。「言葉足らず」というか、相手に自分の思っていることを伝える、伝えようとする気持ちが感じられないのだ。自分に関する情報を与えようとする気がない―と言っていいかもしれない。

例えば、「昨日のお休みはどこかにお出かけしたんですか?」という質問をしたとする。私だったら、「はい、昨日は友達と梅田に買い物に行ってきました」と答える。だが、彼らの場合はちょっと違う。

「昨日のお休みはどこかにお出かけしたんですか?」「はい」「どちらに?」「梅田に」「一人で?」「いえ」「じゃあ誰かと?」「友達と」「何しに?」「買い物に」

情報を引き出すのに、これだけの手間がかかるのだ。それも「文章」ではなく、ぶつ切りの「単語」で返ってくることがほとんどなのである。年齢が下がれば下がるほど、この傾向が強くなる。要は、「携帯メール」のやり取りそのままなのだ。「今どこ?」「家」「何してんの?」「CD聴いてる」といったやり取りと変わらない。

友人の、高校生の子供のメールのやり取りを見ていると、送受信の回数が尋常ではないので、不思議に思ってその内容を見せてもらったのだが、文章ではなく、単語の応酬なのだ。文章にしたら1~2回で済みそうな内容なのだが、本人達はそれを延々と続けている。

「パケット代大変でしょ?」「えへへ」と本人は笑っていたが、その「携帯メールスタイル」が、普段のコミュニケーションにそのまま反映されているのである。同世代の友人や知人で、経営者や管理職で部下持ちの人達も同じようなことを溢していた。その中の一人は、たまりかねて「文章で話せ!文章で!」と怒鳴ったことがあると言っていたので、やはり私だけの思い込みではないようだ。


メールの返信がすぐに来ないと腹が立つのも、発着信履歴を相手に黙ってチェックするのも、不安の裏返しだ。自分が求めている「答え」や、相手に関する「情報」が手に入らない、分からないから不安になる。その不安というのも、どちらかというと自分の都合しか考えていない勝手さから来るものだったりする。

自分から2~3ヶ月メールをしないこともざら、相手から返信が来なくても全然気にならない(むしろ自分がメールを送ったことさえ忘れている)、外出する時でさえ、平気で携帯を家に忘れていくことがある「アナログ」の私には、相手の携帯をこっそりチェックしたり、「すぐに返信が来ない!」と激怒するその心境がまったく理解不能なのである。

むしろメールを返さないくらいで不機嫌になるような人と付き合うくらいなら、一人で好きなことをしていたほうがよっぽどいい。勝手に都合を押し付けられるほうは迷惑だ。大体メールというものは、都合のいい時に返せばいい―という前提のものではないのだろうか。すぐに返事が来ないと怒るのだったら、「それなら最初から電話して来い」と思う私はおかしいのだろうか。


相手からの電話や手紙が来るまで、待ち合わせの場所に相手が来るまでの「待つ時間」というものが、むしろ「ワクワク、ドキドキするもの」だった頃を懐かしく感じる。

確かに携帯やインターネットの出現で、世界は確実に便利になったとは思うが、期待した答えが返ってこないとキレたり、相手を殴ったり―若い世代、U35の「忍耐力不足」を見ていると、単純に喜んでばかりもいられないようだ。やはり何かを得るということは、何かを失うということでもあるのだ。引き換えに失ったものの大きさに気づくのは、多分ずっと後にならないと分からないものなのだ。



【追記】
まあ私達「アラフォー」世代も、大きな顔はできませんが・・・「モンスターペアレント」関係の報道等を見ていると、同い年の、いわば「同級生」が耳を疑う行為を平然と行っているのを聞くと、愕然とします。「同世代の恥」ですね・・・。

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淋しいアメリカ

 2009-11-22
先日アメリカのオバマ大統領が来日した際、腰をほぼ90度に曲げて、天皇・皇后両陛下に深々とお辞儀をしたことが、アメリカ国内で大論争になっている。

あの様子を見て、オバマ大統領に好感を持った日本人は多いと思う。しかしアメリカでは、「国家を代表する存在は、海外であっても常に毅然とあるべき」などという屁理屈を捏ねるアホの政治評論家がいたりする。またそのアホの言うことを真に受けて、「そうだそうだ!自由と平等の国に住む俺達は、相手が誰であろうが頭を下げる必要はないんだぁ!」と同調する人間も多い。

プライベートや仕事を含め、アメリカとの付き合いは、かれこれ20年になる。アメリカ人の友人知人や在住経験を通して、多くの日本人よりは、アメリカという国やアメリカ人というものを少しは知っているつもりだ。

どんな国にも、良い面と悪い面の両方が存在する。その両方を踏まえた上で、アメリカは「好きな国」だ。「もう一つの故郷」と言ってもいい。だが、今回の「お辞儀騒動」のようなことが起こる度に、「あんた達いい加減にしなよ・・・」と毎回うんざりさせられるのだ。まさにアメリカの悪い面、「イタイ面」を露呈しているような気がして。

建国の起源からして「反体制」のお国柄なので、「自由と平等」に強いこだわりを持つ国民性なのは理解できるのだが、時として「いや、それが通用するのはアメリカ国内だけなんで」という思考を持つ人が多いのもまた事実なのだ。「無知」は、アメリカ人の特徴の一つでもある。

今回のオバマ大統領のお辞儀についての論争は、まさにその「アメリカ国内限定」の、いわば「そのやり方は国際社会では通用しないよ?恥ずかしいから絶対にやらないでね」的なものが表に出てしまった結果なのである。

例えば、「食事中は音を立てない」という習慣のヨーロッパで、蕎麦やうどんをすする時のように、ずるずると音を立ててスープを飲む日本人や、「大変結構なお食事でした。私は満足です」という意味で行う自国の習慣や礼儀でもある「げっぷ」を、それがNGとされている国でも平然と且つ盛大に行う中国人とか―それと同じように、「まあ!何て礼儀知らずな!」と、その国の人々から眉を顰められるような類のものなのだ。

それも、どんな国においても「基本」である挨拶を、訪問先の君主、いわば「一番偉い人」である天皇・皇后両陛下にさえも、「俺達の国ではみんなが平等だから、あんたがエンペラーだろうがキングだろうが、ぜってー頭は下げねーぜ」といきがっている姿は、民度の低さを物語るだけだ。

以前チェイニー元副大統領が来日した際、天皇・皇后両陛下にお会いしている時の映像が流れていたが、握手だけ―というその行為は、率直に言って「無礼」な印象が強かった。両陛下に対する敬意というものがまったく感じられない。自国の国民感情等を意識した上でのものだったとしても、お二人の手を両手で押し戴くようにするとか、会釈をするとか、もうちょっとやり方があるだろうに―というような、「粗野」な印象を受けるものだった。

その粗野な行為が、今回のオバマ大統領の礼に適ったお辞儀よりも評価される―アメリカという国の「狭量」、「大人気のなさ」を証明している。大体、礼儀に「自由」や「平等」といったことを持ち出してくる理由がわからない。「プロトコル(外交儀礼)を知らない無礼者」と称してもいい。

「毅然とする」と「無礼」をアメリカ人は完全に履き違えている。かつてイギリスの故ダイアナ元妃が訪日した際、天皇・皇后両陛下に対して行ったお辞儀、「カーテシー」を見てみろ、と。王族がすることを、「平民」がしないってどういうこと?と。要は、「自分達が占領した国の奴らに頭なんか下げられっか!ケッ!」というのが本当のところなのだ。

率直に言えば、彼らの意識の中では、戦後60年以上経った今も、やはり日本はアメリカの属国であり、日本人は「イエローモンキー」でしかない。自分達より劣った存在であるアジアの黄色いサルに、自分達のリーダーが頭を下げるということが単純に面白くないのである。

今年の4月、ロンドンで行われたG20の首脳会議において、オバマ大統領がサウジアラビア国王にお辞儀をしたことについてもアメリカのメディアは批判していたが、中東にしろ、アジアにしろ、アメリカにとってはすべて一緒くた、「自分達よりも劣った存在の有色人種」でしかない。明らかに”見下している”存在なのだ。そして、その「ランク付け」の順位は、この先も決して変わることはない。

これが白人種が多い国であるヨーロッパ、特に自分達の国の「親」でもあるイギリスに対しては、まったく正反対の態度となる。独立・建国から250年経った今でも、頭が上がらないのである。

その証拠に、以前オバマ大統領夫人ミシェルさんが、英国のエリザベス女王の腰に手を回した写真が世界中に配信された時、外国人が王室の権威を侵害することに対して非常に敏感な反応をする英国民や英メディアの先回りをして、「握手以外で女王の体に触れたミシェル夫人は、外交儀礼違反に問われるのではないか」と懸念するような報道をする等、明らかに英国の顔色を伺っている。

国や人種によってここまであからさまに態度を変える国というのも、呆れるのを通り越して気の毒になる。「そこまでして気に入られたいのね」と。卑屈さだけが強く印象に残る。

「アメリカ大統領たる者、軽々しく頭を下げることなど云々」と抜かす保守派の政治評論家などは、特にその傾向が強い。政治のことには詳しいが、他国の文化、特にアジア諸国のそれや、その根底にある「機微」などにはまったくの無知、そして強い偏見を抱いている。

そうでなければ今回のようなアホ丸出しのイタイ発言は出てこない。また、それに同調する人も、得てしてアメリカ国外、下手すると自分の住んでいる州からは出たことがない―というような「狭い世界に住む人」が多い。言うなれば「井の中の蛙」、自分達の縄張り以外の土地、世界のことなど何も知らないのだ。ヨーロッパ諸国で、アメリカ人を「田舎者」と称して見下す人が多いのも、こういったことに由来している。

多くの日本人は、自分達がアメリカについて知っているのと同じくらい、アメリカ人は日本のことをよく知っていると思っている。だが、それは大間違い。トヨタや日産の車に乗って、PCやテレビ等「made in Japan」の製品が家に溢れかえっていても、スキヤキやテンプラが好きでも、「日本?中国の一部なんでしょ?」そう言い放つ人のほうが断然多い。

アメリカ人にしてみれば、日本も中国も韓国も「アジアの国」でしかなく、「同じ国」と思い込んでいる人も大勢いる。以前マサチューセッツに住んでいた時、友人から誘われてあるパーティーに行ったのだが、そこで紹介された初対面の人が、素足にサンダルを履いた私の足を見てこう言った。「君の足って小さいね。(そりゃアメリカ人に比べたらね)それって布を巻いて小さくする習慣のせいなの?」

「え?あー、それは昔の中国の『纏足』っていう習慣だと思う。日本にはそういった習慣はないよ」「同じ言葉を喋るのに習慣は違うの?」「は?日本と中国は違う国だよ。言葉だって違うし」「え?そうなの?日本って中国の一部じゃないの?」「・・・違います」

ハーバードのロースクールを首席で卒業した人でさえ、こんな感じなのだ。日本人の友人や知人がいるという人でも、今でもサムライが刀を差して街を歩いていると思っている。決して大袈裟ではなく、21世紀の今でさえ、多くのアメリカ人にとって、日本は「ハラキリ、サムライ、ゲーシャガールの国」でしかない。「日本を知っている人」は、ほんの一握り。アメリカの全人口、1%いたら御の字ではないかと思う。

アメリカ人でさえも聞いたことがないような片田舎の小さな街で行われた「子豚レース」の模様が「アメリカのニュース」としてテレビで流れる日本と、ニュース番組の中の「世界の天気予報」のコーナーで、インドから東、アジアのそれがいつもカットされたり、アジア関連のニュースがほとんど放送されないアメリカとの「温度差」は大きい。アジアとの連携強化がどうのこうのとあれこれ尤もらしいことを言ってはいるが、アメリカの目はヨーロッパにしか向けられていない―というのが現状だ。

「頭を下げるのは云々」は、その温度差、正確には政府による「情報操作」が生んだ「無知」ゆえの発言でもあるので、ある意味仕方がないとは思うのだが、その無知に甘んじるというか、何の疑問も抱かずに「自分達こそがナンバーワンである」と思い込み、「御山の大将」意識全開でふんぞり返っているアメリカやアメリカ人は、自分達がどんどん世界から爪弾きにされていっていることに気づいてない。

皇室・王室に代表されるような「階級」「格式」「権威」「伝統」等、歴史の「重み」といったものに対して、実はアメリカ人は人一倍憧れを持っている。祖父母、もしくは曽祖父母の代から先の家系が不明―という人が大半のアメリカ社会で、自分の「ルーツ探し」に熱心になる人が多いのも、「脈々と受け継がれてきたもの」に対する渇望なのだ。

相手国やその君主に対する敬意の表現であるお辞儀を「卑屈さの表れ」と称する強がりは、自国の浅い歴史と、「軸」の存在しない不安定な社会に対するコンプレックスの裏返しでもある。

今回のお辞儀騒動に伴う発言の数々は、「駄々っ子 アメリカ」の強がりだ。「本当は自分が間違っている」と分かっていても、プライドが邪魔をして素直になれない。だが、かつて自分達が占領した国の有色人種に素直に頭を下げるのも癪に障る―そういったジレンマを、屁理屈を捏ねて何とか正当化しようと躍起になっているだけなのだ。

潔くないその様子に、世界の国々は冷ややかな視線を送る。「自分達こそがグローバルスタンダードである」そう思い込んでいる愚かさに、「自由と平等」を掲げ、史上初の黒人大統領が誕生した今でさえ「白人至上主義」を完全には捨てきれない矛盾にアメリカ自身が気づかなければ、アメリカはますます孤独になっていく。そう、アメリカは淋しい国なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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彼らの憂鬱

 2009-11-19
アリゾナ州のナバホ族居留地内にあるレストランで友人と食事をしていた時のことだ。場所柄、レストランで働く人もお客も、私を除いては全員ネイティブアメリカンという状況だった。

隣のテーブルの家族が、注文を取りに来た女性とナバホ語で話す様子を見るともなしに見ていたのだが、ふと思いついて、一緒にいたナバホ族である友人のドリーンに聞いてみた。「ねえ、家族と話す時ってナバホ語なの?」

ドリーンは30歳の生粋の、いわゆる「フルブラッド」のナバホウーマン。ネイティブアメリカンの社会において、彼女のような若い世代にはめずらしく部族の言葉を完璧に話し、伝統や習慣、文化等にも精通している。部族の歴史やしきたりを重んじる「伝統派」の家庭で育ったということが大きく影響しているだと思う。

「うーん、大抵はね。でも話す相手にもよるかな。おばあちゃんはほとんど英語が話せないから当然ナバホ語オンリーになるし。両親や兄貴達とは英語の時もあればナバホ語の時もある。英語で話しかけられたら英語で答えるし。その時の気分次第って感じ?

一番下の弟は簡単な言葉くらいなら大丈夫だけど、ナバホ語はほとんどお手上げ状態だから当然英語で話すことになるかな。おばあちゃんと弟の会話ってちょっとした見ものよ。お互い相手に自分の言いたい事を伝えるのに悪戦苦闘してるの。まあ結局は私達が間に入って通訳することになるんだけど」ドリーンは苦笑まじりに答えた。


現在ネイティブアメリカンの社会では、英語を理解しない祖父母世代と、生まれた時から当然のように英語が周りに溢れている環境で育った若い孫世代(特に10代から20代)との間に横たわる「コミュニケーションギャップ」の問題を、文化や伝統の喪失の根源になるものとして大変深刻に捉えている。

「伝え手」である高齢者層の人口が年々減少していることや、ネイティブアメリカン以外との婚姻による「混血化」の増加、「生まれながらのアメリカ人」でもある若い世代の部族文化離れ等の現状を、一民族としての「生き残り」をかけた問題とまで断言する人達も多数いる。

今現在、北米大陸に存在する部族は約500。そして250の部族語が確認されているが、人口の減少に伴う言語の消滅等が原因で、実際に日常的に使用されているのはその中の155のみと言われている。

また、属する部族語の完璧な話し手の数は、ネイティブアメリカンの総人口約243万人(2000年調査時点)のうち3分の1であるということが判明している。その中でも、ナバホ、イロコイ、ピマ、アパッチ、ラコタ・スー族の言語継承者数はかなり高いらしい。

実際、私のラコタ・スー族の友人であるチャックは、家ではラコタ語しか使わない。メディスンマンや部族の長を多く輩出した家系の出であり、自身もネイティブアメリカン社会の中のスピリチュアルリーダーの一人であるという自負もあって、部族の歴史や言葉を子々孫々に伝えていくのが自分の使命と認識しているからだ。

その甲斐あって、彼の5人の子供達は全員ラコタの言葉を自在に操ることができる。今はその中の3人が結婚し、7人の孫がいるのだが、その孫達と話す時もラコタ語しか使わないという徹底振り。だから彼の子供や孫は全員、英語とラコタ語を話すバイリンガルだ。

孫世代まで部族語を完璧に話すことができるというのは、ネイティブアメリカンの社会でも稀有なことだ。「ラコタのすべて、ラコタの魂を伝えるにはラコタ語でなければ」彼の信念というか、もっと切実な、執念とも言えるような、強い想いの賜物だと思う。


1992年10月26日、ブッシュ大統領は、ネイティブアメリカンの文化及び言語消滅を食い止める為、部族語教育に必要な設備や技能の習得、教材開発、教育者や通訳者の育成、幼児向け言語教育、部族の歴史の編纂等を含むプログラムを認可する法案に正式署名した。

現在も熱心な取り組みがなされているが、ドリーンの家族のケースのように、国家を挙げての一大プロジェクトの効果は、まだまだ個人レベルにまで浸透しているとは言えないようだ。

「週に2回、ナバホ語を居留地の小学校で教えてほしい」州政府からドリーンの父親に要請があった時、おばあさんはこんなことを言ったらしい。

「まったく白人のやることはよくわからないねえ。昔はナバホ語を話しちゃいけないとか言って、子供達を無理矢理親元から引き離して遠くの寄宿学校に入れたりしてたのに。今度はその逆だなんてねぇ。いつになったらあの人達はわたしらを放っておいてくれるようになるんだろう」


1870年~1950年代にかけて、アメリカ政府はすべてのネイティブアメリカンに対して「白人化教育」というものを行った。その名の通り、ネイティブアメリカンであることを捨て、「白人」になる為の教育。そこではネイティブアメリカンとしてのアイデンティティーを徹底的に否定され、それを捨て去ることを強要される。

特に子供達は故郷から遠く離れた寄宿舎に入れられ、言語や習慣といったものを含め、「白人」になる為の教育を受けさせられた。部族語は一切禁止。規則を破れば何年も家族との面会を許されなかったり、厳しい罰が与えられたり―といったものだったらしい。

ナバホ最大の居留地があるアリゾナ州の州都フェニックスには、ネイティブアメリカンの文化や歴史、ジュエリーや工芸品等を展示した博物館「Heard Museum」がある。その展示の中に、「白人化教育」の歴史や、実際にそれを体験した人々のインタビューのVTRが流れているコーナーがあるのだが、その内容はかなり悲惨なものだった。

禁止されている部族語を使用した為に鞭で打たれたり、口の中に石鹸を突っ込まれたり、あまりの辛さに脱走を試みた子供が、罰として数日間一切の食事を与えられなかったり。そこで行われていたことは「教育」ではなく、「虐待」そのものだった。

現在50代半ば以上の人達は、その「白人化教育」を受けた世代なのだが、当時のことは家族に対しても話したがらない人が多いようだ。「思い出したくないんだよ」そう言ったきり口を開こうとはしない。それがどれだけ悲惨なものだったかということは、彼らの様子で想像できる。実際、その当時の体験が元で、居留地の外の世界、「白人」と一切の関わりを持とうとしない人も多いのだ。


多くのネイティブアメリカン達は、自分は一体何者なのか、「アメリカ人」なのかそれとも「ネイティブアメリカン」なのか―というジレンマを抱えている。それぞれ異なる背景をもった「~系アメリカ人」が混在するアメリカではよくある種類のものなのかもしれない。

だが彼らのそれは、他の多くの「~系アメリカ人」の人達が抱えるジレンマとは異なるような気がする。もっと「影の部分」が濃いような気がするのだ。それは「禁忌、タブー」と言ってもいいかもしれない。日本の、いわゆる「在日」の人達が抱えているものと共通している部分が多いようにも感じる。

移民社会であるアメリカという国で、自分のルーツを全否定され、それを捨て去ることを強要された歴史を持つのはネイティブアメリカンだけ―ということも影を落としているのかもしれない。


1980年代くらいから、「ネイティブアメリカンに学べ」という大々的な風潮が起こってきた。彼らの理念や哲学といったものが、書籍や映画といったものを通じて世界的に、特に欧米諸国を中心に広がっていった。物質主義に凝り固まった先進国では、ネイティブアメリカンのシンプルな生き方や思想は、新鮮な驚きや感動をもって迎えられた。

そしていつの間にか、「ネイティブアメリカン=誇りある精神性の高い聖なる人々」という位置付けがされ、構図が出来上がっていった。それを受けて、日本でも熱狂的な「ネイティブアメリカンファン」が増えていった。無条件に彼らを賛美崇拝、憧れ、彼らの文化特有の儀式等に参加したがる人達、ネイティブアメリカンになりたがる「ワナビー、熱烈なファン、信奉者(wannabe→『I wanna be an Indian』から)」が数多いる。

だが率直に言って、今も続いている世界的なネイティブアメリカンブームや捧げられる崇拝や賛美とは裏腹に、現在でもアメリカでの彼らの扱いは「先住民の野蛮な人々」の域を出ていない。

小学校等では「ネイティブアメリカンの人達のことを学ぼう」というような授業が行われているのだが、そこで生徒達から出る質問は「彼らはまだティピ(テントのような移動式住居)に住んでるの?」「何を食べてるの?」「英語は話せるの?」という、「未開地の人達」に対するそれとほとんど変わらないものなのだ。大人でさえ同じレベル。無知というか、関心さえ抱かない人が大半というのが現状だ。

以前フェニックスの空港からタクシーに乗った時のことだ。「アリゾナには仕事で?休暇で?」「仕事で。日本でインディアンジュエリーを扱う仕事をしてるから買い付けに来たの」

挨拶代わりというか、明らかにお義理で私に話しかけた様子のドライバーの60歳くらいの男性が、その時バックミラー越しに、まじまじと私を見た。「インディアンジュエリー?日本で売れるのかい?」「ええ、人気がありますよ。根強いファンも多いし」

その人は「ふーん」と言ったきり、しばらく黙っていたのだが、また話しかけてきた。「どうして日本人がネイティブアメリカンに興味を持つんだ?映画の影響なのか?」「まあそれもあるとは思うけど。でも多くの人は彼らの哲学みたいなものに共感するんじゃないかな。日本人のそれとよく似てるから。日本人と彼らの祖先は同じモンゴロイドで容姿も似てるところがあるから、親近感みたいなものがあるんだと思う」

黙って私の話を聞いていたその人は、こう言った。「俺にはまったく理解できないね。よりによってどうしてネイティブアメリカンなんだ」最後の方は、ひとり言のように聞こえた。何というか、微妙なニュアンスがいろいろと含まれていた。そしてその大半は、決して「良い」とは言えない類のものだった。

その人だけでなく、ネイティブアメリカンに無関心、もしくは無知、偏見の類を抱いているアメリカ人からすれば、わざわざ彼らに関わろうとする私など、完全な「変わり者」であり「物好き」でしかないのだ。

いくら世界的に「聖なる人々」ともてはやされても、やはりアメリカ国内での人種差別や無理解は今でも根強く存在する。いろいろな意味で、彼らと「アメリカ人」との一線は、「よそ者」である私にも、時に痛いほど強く感じられるものなのだ。決して交わることのない二本の線。そういった場面に遭遇する度、いつもそのイメージが頭に浮かんでくる。

また、彼らも大きく3つのグループに分かれる。「ネイティブアメリカンであることに誇りを持ち、それを表に強く押し出す人達」と「そうでない人達」。そして「時と場合によって自分のポジションを使い分ける人達」。その三者の間には、それぞれに軋轢が存在する。

部外者である私には、それが良いとか悪いとかジャッジする権利もないし、する気もないのだが、三者に共通して感じることは「ジレンマ」と「痛々しさ」だ。

チャックやドリーンのように、自分の存在意義を「ネイティブアメリカンであること」に置いて、それを軸として堂々と人生を歩んでいる人達を見ても、時に「悲壮」に近い彼らの「意地」のようなものを感じてやるせない時もあるし、ひたすら自分のルーツを隠し、忌み嫌いながらも、それを完全に否定することに迷いを感じている人達の葛藤を見せられたり感じたりすると、複雑な気分になる。

自分には決して、完全には理解できない領域のものがこの世には存在するということを強く認識させられるのだ。

アメリカ国内でのネイティブアメリカンの自殺率、特に青少年のそれが、他の人種に比べて飛び抜けて高いのは、やはりそういった背景が少なからず影響しているのだと思う。

「自分は一体何者なのか?」それが自分自身でも分からない、決められないということは、自分の存在意義やアイデンティティーを脅かし、不安定にさせる。そのアンバランスさやジレンマが絶望のようなものを与えるのだと思う。

その絶望がどれだけ深いものなのかは、「何人か?」と問われれば、何の躊躇いもなく「日本人です」と即座に言える私には、多分永遠に理解できない質のものだ。そして、時折ふとした時に彼らが見せる憂鬱そうな表情の奥にあるものの正体や、それがどれだけ大きく重く、彼らの心に影を落としているのかということも。


食後のお茶を飲んでいた時、ボーッと窓の外を見ていたドリーンが唐突に言った。「アメリカ人とか、ネイティブアメリカンとか、ナバホとか・・・どうして『ただのドリーン』じゃいけないのかしらね」彼女は相変わらずぼんやりと外に目を向けたままだ。でもその時の声のトーンや目に浮かんでいる表情は、いつもの彼女のそれとは完全に異なるものだった。

何か言おうと思ったのだが、なぜか言葉が浮かんでこない。「・・・そうだね」結局私はそれしか言えなかった。そして、ドリーンと一緒に、しばらく黙って外を眺めていた。

”Who am I ?” 自分は何者なのか?

多分彼らは命が尽きる時まで、自分自身にそう問い続けるのかもしれない。その答えがいつ出るのか、どんなものになるのか―それは彼ら自身にもわからない。いつ終わるともしれない「自分探しの旅」は今後も続いていくだろう。心のどこかに常に存在している、決して消えることのないある種の憂鬱さと一緒に。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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ツンデレのジレンマ

 2009-11-16
過去にいじめを受けたり、信頼していた人に手酷く裏切られた経験がある人というのは、人に対する不信感や恐怖心を口にすることが多い。「人が恐い」「人が信じられない」会話の中にそういった言葉が頻繁に出てくる。「だからなかなか人に心を許せない。親しくなるのが恐い」そう漏らす。

だがその人達を見ていると、「そうは言ってますけど、内心は違うんじゃないですか?」と思う時がある。実際そう伝えると、「そんなことはないです。やっぱり恐いし、信じられないんです」と相変わらず頑なな答えが返ってくる。

だが、その人達は気づいていない。「人が恐い、信じられない」と口では言いながら、体はまったく逆の反応を示していることを。無意識レベルで本当は自分が「人を信じたい、近づきたい」と思っていること、いわゆる「本音」を体が語っていることを。


人間には「パーソナルスペース(PS)」というものが存在する。それはその人自身の体の周囲に存在する心理的な「縄張り空間」だ。その空間に他人が侵入すると、心理的な不快感が生じる。その広さは、民族や文化・対人関係・その時の状況・心理状態等によって変化する。

【密接距離】 家族・恋人等親密な関係―45cm以内(身体的接触が容易に可能な距離)
【個体距離】 個人的関係―45~120cm(友人と個人的な会話を交わす距離)
【社会距離】 社会的関係―120~360cm(同僚と一緒に仕事をする時等の距離)
【公衆距離】 公式的関係―360cm以上(公的な人物と、公的な場で対面する距離)

例えば、多くの人が、苦手な人や嫌いな人には出来るだけ近寄らないようにするのも、「必要上仕方なく」という場合は、側に寄ったとしても幾分体を引き気味にするのも、自分の縄張りに相手を入れたくない、相手の縄張りに足を踏み入れたくないという意識の表れだ。

「思考を隠す為に言語が人間に与えられたとするなら、身振りの目的はそれを露にすることだった」イギリスの数学者であり、科学者でもあるジョン・ネーピアはそんな言葉を残している。

交わす言葉も穏やかで表面上は仲良くやっているように見えても、相手と自分の間の身体的距離が「本当はその人をどう思っているか」という”本音”を知らないうちに明かしていることもあるのだ。


人間不信や対人関係に対する恐怖を強く言葉で訴えてはいても、本心はむしろその逆で、「この人こそ信頼できるかも。仲良くなれるかも」という「人恋しさ」や「期待」を抱いている人というのは、十中八九、PS―パーソナルスペースが狭いのが特徴だ。

というより、「相手のそれに侵入してくる」と言った方が正確かもしれない。しかし当の本人は、自分が相手のPSの「許容範囲」を侵しているとは夢にも思っていない。まったくの無意識でそれを行っているのだ。

例えば、相手が「同僚」にもかかわらず、「恋人や家族との距離」にまで近づいたりする等、実際の関係上よりも、「親密度の高い関係の距離」を取る傾向にある。だが本人は、自分の言葉と行動の「矛盾」に気づいていない。

セラピーやカウンセリングをしている時にも、時々そういった「ボーダー」を超えてくる人と会う機会がある。今まで如何に自分が人間関係で嫌な思いをしてきたか、どれだけ傷を負ったか等を含め、それによって生じた現在の自分の「人間不信度」を切々と訴えるのだが、案外それは本人が思っているよりも「軽症」だったりする。

それは、その人が座っている位置や、セラピストである私との間の「距離」を見れば一目瞭然なのだ。なぜなら、その人達は一様に、通常の「許容範囲」を大きく超えて、私のパーソナルスペースに侵入してくるから。

その人達と私との「関係」というか、そもそもの「始まり」が違うことも大きく関係しているとは思う。私はセラピストとして、いわば「仕事」、「公的な関係」でクライアントと会うことになる。だがクライアントは「プライベート」で、「個人」としてセラピーやカウンセリングを受ける。片や「公」、片や「私」―既にスタート地点から違っている。

その為、プライベートで、「個人」として来ているクライアントには、最初から私に対して「気安さ」のようなものがある程度存在している。無意識に「個体距離=友人との距離」の延長に私を置いている。だが私にとってクライアントはクライアント、あくまでも「仕事上での関係」なので、「個体距離」に近づくことはない。

だが「個人」として私と会っているクライアントは、無意識にその「距離」を縮めようとする。例えばイスの配置がL字型の場合、私が座っている場所に一番近いところに座って、ソファの端ギリギリまで身を寄せてきたり。真向かいに座っていれば、ほとんどソファから落ちそうなくらいまで浅く座り、身を乗り出してくる。「友人との距離」に私を引き入れようとするのだ。

頑なまでの人間不信や対人に対する恐怖感や不安を訴える人ほど、そうやって相手との身体的な距離を縮めようとする傾向が強い。人見知りの子供を呼んでも一向に側に寄ってこない。でも、ずっとその人の視界の中に留まり続けようとする―それとよく似ている。

言ってみれば「ツンデレ」なのだ。「あんたに分かってもらおうなんて思ってないんだからね!」的な、取っつきの悪い人も時々いるのだが、そういう人に限って、「あのー、近過ぎなんですけど・・・」と圧迫感を感じるくらいまでこちらのスペースに大きく入り込んできたりする。

その本心は、言葉とは裏腹なものなのだ。前出のネーピアではないが、言葉ではいくらでも嘘をつける。だが、体が嘘をつくのは難しい。

自分の言葉と体、その間に存在する矛盾、ジレンマに気づいた時、「ツンデレさん」達は多分そこから解放される。何よりも、自分の「本心」を既に体が語っているのだから。ただそれに素直になればいいだけなのだ。



【追記】
ツンデレさん達と話していて思うのは、「人との距離の取り方」が上手くないということ。何と言うか、「極端」な人が多い。0か100か、敵か味方か―という感じで。「相手の都合」というものを考えずに、自分のそれを一方的に押しつけるような傾向があるのだ。

意外と人間関係というのは、その部分が「決め手」だったりする。いい意味での「駆け引き」が必要というか。そしてそれは、あれこれ試行錯誤しながら自分で身につけていくもの。過度に「失敗」を恐れず、「程よい距離感」を見つけていくことだ。過去の「失敗」に囚われ過ぎているうちは多分何も変わらない。


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民度

 2009-11-11
仕事の都合上、サイトやブログ内でメールアドレスを公開しているせいか、スパムメールの数が尋常ではない。国内外問わず、毎日200通くらいは軽く届く。最近では、世界的な不況を反映してか、ブランド物のバッグや時計等のコピー商品の販売を謳った内容のものが多い。

その謳い文句がまた笑える。「スーパーコピー」とか「レプリカ」とか。物は言い様だと感心する。いくら言葉を代えてイメージアップを試みようが、結局はパクリはパクリ。「偽物」でしかない。

少し前に、「パクリーランド」と揶揄された中国の遊園地のことが話題になった。日本やアメリカのテーマパークや有名キャラクターの内容や外見を微妙に変えて、「当園のオリジナル」と開き直っていたが、やっていることはそれとまったく変わらない。


昔勤めていた精密機器メーカーでは、特に海外に出回っているコピー商品対策が常に重要課題の一つに含まれていた。ある時、中国やその他東南アジアの国に出張に行った貿易関連部署の人から、それぞれの国に出回っているコピー商品の写真を見せてもらったことがあるのだが、ほとんど冗談の世界だった。

精密機器メーカーが家電を製造することなど絶対にあり得ないにもかかわらず、うちの会社のロゴが入ったヘアドライヤーとか冷蔵庫とかエアコンとか。ある国では、トイレの便器やタンクにもロゴが使用されていたらしい。ここまで来ると、もう笑うしかない。

「それってある意味レアアイテムだよね。ちょっと欲しいかも」等と、みんなで笑っていたのだが、やはり有名ブランドやメーカーのネームバリューというものは、売り上げや消費者へのアピールといったことも含め、いろいろな意味でかなりの影響力があるようだ。


そういったコピー商品や海賊版の販売の類が横行する国というのは、やはり、そこに住む人々の意識の程度や成熟度、いわゆる「民度」が関係しているような気がする。その国の人達全員がそうだということではなく、「倫理や道徳の面での感覚がずれている人が多い」と言ったほうがいいかもしれない。その国の歴史や文化といったものとも関連していると思う。

かつての日本も、「モノマネ大国」と揶揄されていた時代があった。戦後間もない頃から高度成長期にかけては特にだ。欧米で作られた物をそっくりそのままコピーして「猿真似」と非難される―そんな時代もあったのだ。

だが「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、世界でも有数の経済大国と言われるようになった頃から、その「猿真似」は影を潜めていった。生活が豊かになり、道徳心や礼儀といったものに目を向ける余裕がまた出てきたのだ。技術面の向上というものも関係していると思う。

そういった意味では、コピー商品が無造作に出回るような国は、かつての日本、50~60年前の日本や日本人の「レベル」にあるのかもしれない。


しかし、あの頃から桁外れに豊かになった今の日本にも、「民度の低い人」は確実に存在する。「図々しい人」と言ったほうがいいかもしれない。コピー商品の類は勿論のこと、最近では、他人が発表した論文や著作といった「知的財産」を平気で盗用する輩がいるのだ。それもあからさまな形で。指摘すると「文章をお借りした」というような、「悪意はさらさらありません」といった風を装って平然としている。

「お借りした」と言い張るのなら、きちんと「○○から引用」と出典先を明らかにするのが筋であり、世の「常識」だ。いわば最低限の「ルール」。それさえも守らず、「借りた」のひと言で済まそうとするその態度は「盗人猛々しい」とはこのことだと思う。「借りた」と言えば聞こえはいいが、要は「真似した=パクった」ということ。ただの「盗用」だ。

以前私もサイトの文章を無断で「借りられた」ことがあった。こちら側の全面的な変更要求に対して、数時間で訂正・対応できるのなら、最初から自分自身で考えればいいのに―と思う。要はその人の中に「楽をしたい」という欲があったのだと思う。

文章を考える・書くという行為は、それなりに時間がかかるものだ。書き手側の「知恵の結晶」とも言っていい。苦心惨憺して生み出したものを「ちょっと借りるね~」とお気楽に、自分が楽をしたいが為だけに安易にそれを行うのは、まさに「民度の低さ」の表れだ。

相手が費やした時間や苦労、それを黙って盗用する罪悪感とか、そういったものに目を向けることができず、自分の利益しか考えないということは、人としての歪さ故だと思う。

こういったことが、自己啓発やスピリチュアルの分野に関わる人達の間で結構頻繁に行われている。微妙に言い回しや文体を変えたり、いろいろと「工作」をして「盗用」を繰り返す。また本人達も、「バレなきゃ大丈夫」と平然としている。

普段から愛とか光とか魂の向上とか言っている割には、根性が腐っているというか、さもしいというか。そんな人種が行うセミナーやセッションなんて、ちゃんちゃらおかしい。一体何をレクチャーしているのだか。


文章といったものは、書き手の姿がそのまま表れる。いわば「顔」。それをそのまま自分の文章に取り入れると、あからさまな「違い」が余計に際立つ。その部分だけ、違和感が強調されるのだ。精進料理のコースの中に、突然ステーキとフライドポテトが出現したような感じで。調和を欠いたそれは、読む人の中に妙な感覚だけを残していく。そしてそれは、その人自身に対する「不信感」へと繋がっていくのだ。

「身から出た錆」というか、自分の欲が、結果自分自身を貶めることになるということに頭が回らない、想像力が働かないというのは、やはり意識の程度、民度と比例しているのである。例の中国の「パクリーランド」と何ら変わらないのだ。「鳶に油揚げ」ではないが、「美味しいとこ取り」で最初から楽をしようとするその心根は、実にあさましい。



【追記】
結局のところ、その人自身の「品格」の問題なのでしょうね。そういった意味では、「バレなきゃいいんでしょ?」と開き直って他人の文章を平気で盗用するような自己啓発やスピ系に関わる人達のそれは、はっきり言って「下の下」です。愛とか光とか、魂を磨くとか、人様にエラソーに「教え」を説くヒマがあったら、まずはご自分の「民度」を上げてほしいと思います。

「スーパーコピー」「レプリカ」みたいに「お借りした」なんて綺麗な言葉を使って表面上誤魔化しても、無断引用の挙げ句、出典を含めその旨を明記しなければ、結局は「パクリ」「盗用」に違いないので。「盗用厳禁」「引用の際の出典の明記」は、大学生のレポートや卒論でも義務付けられている「当たり前のこと」です。

まあ件の遊園地が最終的に閉園に追い込まれたように、そういった心根の人達の「行く末」もそれに見合ったものになるでしょう。自分の撒いた種は自分で刈り取ることになる―それが業界御用達の決め台詞、「宇宙の法則」というものでしょうから。低過ぎるモラルが蔓延している業界の状態には、ほとほと呆れます。


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フリフリ教の実体

 2009-11-09
「金活」と称して、満月に金運アップの願掛けをする人達がいるということは、以前から耳にしていた。何でも満月の日(昼夜関係ないらしい)、月に向かってお財布や通帳をヒラヒラさせて、「満月、今月もありがとぉぉーーー!!」と叫ぶらしい。

昔、祖母や両親から「蛇が脱皮した後の皮をお財布に入れておくとお金が溜まったり、ギャンブル運が上がる」とか、「春に買ったお財布は縁起がいい(「春=張る」→財布が張る→財布が膨らむ→お金が入る)」といった迷信や言い伝えのようなことはいくつか聞いたことがあった。

だが「月に向かって云々」については初耳で、「へぇー」と思っていたのだが、先日偶然テレビでその「フリフリの会(勝手に命名)」の活動風景を目にした。

夜の公園と思しき場所に十数人が集まって、満月に向かって「今月もありがとぉぉーー!」とやっている。大半の人は財布、何人かは片手に財布、片手に銀行の通帳や宝くじを持って、口々に「お月様~!」と連呼するのだ。そこを通りかかる人達は、皆一様に怪訝そうな顔でその様子を見ているのだが、活動中のその人達は気にも留めない。相変わらず「ありがとぉぉー!!」と、一心不乱に財布やら通帳やらをフリフリしていた。

その人達によれば、満月には月のパワーが最上級に満ちる時なので、それが「財布にお金が満ちる=お金が溜まる」というパワーを運んでくれるのだとか。その他にも、フリフリする前にはレシートやカード類は抜いておくとか、いろいろと「お作法」があるらしい。


まあ人様が嬉々としてやっていることをあれこれ言うのも何なのだが、月とか宇宙とか、人によったら天使とか女神とか、そういった存在にいろいろお願いする人達を見る度に、いつも疑問が湧いてくる。何か、人間の欲望を叶えてくれるような都合のいい、便利な「道具」としてそれらを扱っているような気がして。

「お金が欲しいの!」「早くソウルメイトに会わせて!」「宝くじが当たるようにして!」完全に「便利屋」扱いだ。そしてその「命令」は、必ず「感謝」の形を取る。

「お金をもたらしてくれてありがとう」「ソウルメイトに会わせてくれてありがとう」「宝くじを当選させてくれてありがとう」まだ叶ってもいないことに対して感謝を述べるということは、「絶対に叶えてくれるはず=叶えてくれて当たり前」という前提だから。要は「感謝してやってるだろ?だからさっさと叶えろよ!」ということだ。スピリチュアルお得意の「先取りの感謝」というやつ。

「感謝」とか「ありがとう」とか、「いい言葉」で包まれているので多くの人は気づかない。だがやっていることは、ほとんど恐喝の類と変わらない。件の財布フリフリの会も、「『今月もありがとう!』と”現在完了形”で言うのがポイント」と言っている。それもやっぱり「早く金よこせ!」と言っているのと同じなのだ。大体叶う前にお礼って・・・単なる押し付けというか、明らかに「強要」ではないか。

実生活と置き換えてみれば、どれだけその「先取りの感謝」が不自然なものかよく分かる。会社の同僚に、本来その人が担当する仕事なのにもかかわらず、いきなり未入力のデータの束を渡されて「入力してくれてありがとう」と言われたらどうだろう?やっていることはそれとまったく同じことなのだ。


その「フリフリの会」の主催者の方のブログを見に行ってみたのだが、タロット占い師であり、開運グッズの監修やイベントプロデュース等を手がけているらしい。アイデアグッズやその他ダイエット・美容・健康食品を扱う通販会社が「スポンサー」として付いているし、「フリフリの会」御用達の「開運財布」もその会社から販売されている。

早い話が「ビジネス」なのだ。「フリフリの会」も、いわばコラボと称した「イベント」であり、「仕掛け」。「オーラの○」の影響で、いろいろな意味でスピリチュアルが世の中に根付いた今、「スピリチュアルは金になる」と様々な業界が鵜の目鷹の目になっている。

マスコミ業界は「第二の江○さん」を発掘しようと躍起になっているし、スピリチュアルとは全然関係のない業界まで、いろいろな形でそこに参入しようとしている。何だかんだ言っても、実情はそんなものなのだ。


「フリフリ効果」の体験談もいくつか掲載されていたが、正直「何もしなくてもそれくらいは普通に入ってこないかい?」という程度。お米を十数キロもらったとか、親に中古の電化製品を1万円で買い取ってもらったとか。

中には車や宝くじが当たったという人もいたが、応募者が少なかったり、購入した枚数が多かったり、長年コンスタントに買い続けていれば当然当たる確率も増えるものだ。それが完全に「フリフリ効果」によるものとは一概には言い切れない。大体そんなことをしなくても、バンバン会社の利益を上げている人や、宝くじの類で数億円の当選金額を手にする人は世の中には大勢いるのだ。

「金は天下の回りもの」という言葉があるように、そういったお金(金運)といったものは、ひとつの所にずっと留まってはいない。入ってくる時には入ってくるし、入ってこない時には入ってこないのだ。

「フリフリ教」に入信したからといって、一生豊かでハッピーでいられるという保障はない。「幸せになれるのも救われるのもうちの宗教だけ」そういったご利益を売り言葉にしているそのへんの新興宗教と変わらない。巷に溢れる宗教の信者全員が、その通り「幸せで救われているか?」というと、端から見ている限り、そうは思えない。それと同じことなのだ。

お月様に向かってお財布や通帳を必死で振るヒマがあるなら、何か副業でも始めたらいいんじゃないかと思うのは私だけだろうか。そのほうがよっぽど確実性があると思うのだが。

大体わざわざ満月の日神社の境内とか公園に集まって、お財布フリフリする余裕がある自分がどんなに恵まれた環境にいるか、その自覚はないのだろうか。例えお給料やボーナスが減額になったとしても、とりあえず今住む所があって、仕事があって、毎日ご飯が食べられるということは、それすら適わない人達にしてみれば、喉から手が出るほど羨ましいことなのだ。

お月様に向かって、先取りの「ありがとぉぉーー!!」をやっているのは、「もっと」の部分を考える余裕があるからだ。物質的にも、精神的にも、「最低限のもの」が保障されている証拠。本当にお金に困って、それを必要としている人は、そんな呪文もどきを唱えるお遊びをしている余裕はない。


「楽して儲けたい」「楽して幸せになりたい」人間の欲を叶える為に勝手に願掛けの対象、「道具」にされたお月様や天使や女神―今の日本のスピリチュアルの現状は、そんなもんです。結局そういう妙なスピリチュアルが蔓延している日本は、何だかんだ言いながらも平和だということでしょうね。




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バカップルの戯言

 2009-11-06
はっきり言って、現在の日本のスピリチュアル世界はピンキリだ。まさに玉石混淆の世界。というより、明らかに「おかしい」。ぶっちゃけ言ってしまえば「気持ち悪ッ!」のひと言に尽きる。

筋がまったく通らない意味不明の「教え」を平然と説く自称スピリチュアリスト達が、巷に溢れかえっている。インターネットが普及し、ブログやサイトを使って誰でも情報発信が可能な世の中になってからは特にだ。

スピリチュアル系のブログやサイトを見る度に思うのだが、書いていることが大体愛とか光とか感謝とか、多くの人が「それって大事だよね~」と思うようなことなので、いつの間にかそれが「良いブログ、良いサイト=正しい情報」というような”刷り込み”をされていく。

テレビや雑誌等マスコミで言われていることもかなり眉唾物が含まれているが、チェック機構が存在するだけまだ少しはマシだと思う。インターネットでは発信源の数が膨大なので、真偽の確認も取れないような情報が溢れかえっている状態だ。

基本、それらの大半は「真実、事実」でなく、それぞれ情報発信をしている人達が、「自分が知っていること」を書いているものだと思う。その情報の真偽は、極めて不確かなものなのだ。

特にそれがスピ系の場合、その傾向が甚だしくなる。ナントカヒーリングスクールの卒業生だか何だか知らないが、愛とか光とか癒しのパワーだとか、ソウルメイトを引き寄せる方法とか、甘くて楽しげで明るい言葉を多用したブログやサイト、セミナー等で、人々の自立心を奪うスピリチュアリスト達がいる。

「ソウルメイト婚(自称)」を果たしたパートナーと一緒に、どうやって自分達はソウルメイト婚が出来たのか等という「自慢話」満載のセミナーを主催して、「まだ自分はソウルメイトに出会っていない(と実は思い込んでいるだけ)」と危機感や不安感を募らせている人達を引き寄せる。

「スピリチュアルは成功哲学でもないし、夢を叶える為の”道具”ではありません」と言いながら、その一方で「ソウルメイトに出会う方法」を伝授するセミナーを開催する。「どうしたらソウルメイトに会えますか?」というブログ読者の質問に「会いたいという執着を捨てたら出会えます」と答える。矛盾以外の何物でもない。

「私達ソウルメイト婚で~す♪」と、自分達だけで勝手に盛り上がっているのなら構わない。「そーですか。それはよかったですねー(棒読み)」で終わる。だが、それをネタにセミナー主催って?本人達は自分達の矛盾に気づいていないのだろうか?

ソウルメイトとの出会いや関係性は、人それぞれに違う。100人いたら100通りの展開や内容になる。「こういうことをすれば出会えます」等という「方法」は存在しない。「出会い方を伝授云々」を謳う時点で、既に「おかしい」のだ。


大体「ソウルメイトとの出会い」という大切な、いわば「宝物」と言ってもいいようなものを、「セミナー」と称して自分達のそれを自慢げに吹聴するというその姿勢が、私には理解できない。

本当に大切なものは、自分ひとりの胸の中にそっとしまっておきたいと思うのものではないのか。自分と相手だけが分かっていればいいのではないだろうか。

私の場合、ソウルメイトと出会った時というのは、そんなお気楽でチャラチャラはしゃいだり浮かれたりするような気持ちにはならなかった。静かで秘めやかなもの。だがその反面、どこかで熱狂的とも言えるような感情も存在していたり。その時の感情の動きや、その場の空気感とか―言葉で説明できるような単純なものではない。

あの時感じたものすべて―感情はもちろんのこと、縁の妙や奥深さ等、その「神聖さ」を軽々しく語りたくはない。言葉で語ろうとすればするほど、それは真実からかけ離れたものになるような気がするのだ。

不思議なことに、それについて語ろうとすればするほど意思に反して口は重くなる。まるで何かから「語るな」と止められているかのように。もっともそれは、引き止めているのは自分自身に他ならないのだが。要は「誰にも話したくない」のだ。「軽々しく話すものではない」ということを、自分の意識が知っているということ。だから自分の魂の声に反してまで、それを語ろうとは思わない。

大勢の人達の前で、自分のそれを「公開」するのは、私にしてみれば「見世物」に等しいことだ。「蹂躙」とも言っていい。それだけで安っぽいというか、汚れたような気になる。

大体「パートナーとも、『お互い前に付き合っていた人と別れてよかったね♪』って言い合ってるんですぅ~」と平然とのたまい、卒業したヒーリングスクール直伝の「ソウルメイトと出会うための60項目の理想」とやらを書き出してソウルメイト婚を果たした講師が主催するセミナーって・・・。

愛だの感謝だの言いながら、「別れてよかった♪」と以前付き合っていた人を貶めるようなことを平然と言い放ち、「スピリチュアルは”道具”ではない」と言いながら、「理想の60項目」等のまさに「道具」を駆使してソウルメイトを引き寄せる―。その矛盾っぷりには呆れ返るしかない。いくら綺麗事を並べても、やはり本性までは飾れないようだ。

その方達によれば、「類は友を呼ぶ」ではないが、「自分に見合った人が現れる」ということなので。ご本人達を見ていると、「本当にその通りですね~」と納得しきり。スピ系御用達「宇宙の法則」は、ここでもきちんと働いているようだ。





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甘くて酸っぱい腐れ縁

 2009-11-04
最近の妙なスピリチュアリズムが引き起こしている弊害で、「ソウルメイト」に関しての誤解が蔓延している。特に、恋愛においてのそれについて。

誤解をしている人達の多くは、ソウルメイトとの出会いを果たせば、甘く優しく、ロマンティックで幸せに溢れた夢のような時間が訪れると思い込んでいる。相思相愛で深い愛情に満ちた関係が結ばれ、これから先もずっと、永遠にその状態が続く―そう信じて疑わない。

「そして二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」ソウルメイトとの出会いは、そういったものに違いない、そういうものであると思っている。

「ソウルメイト至上論」を説く勘違いスピリチュアリスト達は、プラスの部分、陽の当たっている明るい面しか語らない。「ソウルメイトとの出会いが人生を変える」とか「ソウルメイトとの結婚こそが人生最大の幸せや喜びを運んでくる」とか。その「メリット」だけを謳い、飢餓感を煽る。

そしてそこで不安や危機感を感じた人達、「自分が幸せでないのは、その人と出会ってないからでは?今の相手がそうでないから幸せでないのでは?」と思い込んだ人達が「ソウルメイトとの出会いを引き寄せる方法」「ソウルメイトを見分ける方法」等をテーマにした各種セミナーやセッションに流れていく。

「私、ソウルメイト婚を果たしました♪」を自称し、且つそのことを最大のウリにしている講師などに、「一刻も早く出会わなきゃいけない」「ソウルメイトとの結婚でなければ幸せになれない」という妙な思想を植えつけられ、余計に焦りを強めていく。


いつも思うことだが、なぜ「ソウルメイトとの出会い・結婚=幸せ」と言い切れるのか不思議で仕方ない。いつ、誰がそう決めたのだろうか?その出会いや結婚が100%幸せで喜びに満ちたものになるという保証はどこにもない。根拠のない誇張は、「無責任」の極みだ。

たとえ「ソウルメイト婚」を果たしたとしても、その関係は「普通の結婚」と何ら変わらない。「ソウルメイト婚のほうが、普通の結婚より幸せ度や満足度が高い。永遠に幸せが続く」等ということはないのだ。すべて「普通の出会い」「普通の結婚」と同じだと思っていたらいい。

どんな恋愛も、出会った当初は「この人しかいない!」そう思うものだ。だが付き合い始めてある程度時間が経つと、冷静な状態で相手を観るようになる。だんだん「アラ」が見えてくる。「意外とこいつ大したことねーな」みたいな。

例え相手がソウルメイトであったとしても、それは変わらない。むしろ「うんざり度」が余計に高くなる可能性もある。当初の期待や興奮が大きいほど、失望した時の落胆も大きくなるものだ。

例えば、その相手と過去生で何百回と一緒に過ごしていたとする。時に夫婦として、親子、兄弟姉妹、祖父母と孫、仲の良い友人、もしかすると敵同士―関係はその都度違う。

しかし、それらのどの人生においても、いつも相手は「身勝手な性格」だった。今生でもその部分は変わらない。大半の過去生では、いつもその性格に振り回されてきた。苦しんだり傷ついたり、衝突や破局の原因等になることが多かった。

そして相手は今生でもそういった傾向が強い。自分の身勝手さに気づいたり、改めようとする気も全然ないようだ―といった場合、今生でも「同様のこと」が再現される可能性もある。

それがいわゆる「過去生から持ち越すパターン」というもの。確かに、かつて味わったような幸せや喜びを再び運んでくることもあるが、それと同様、「かつてのうんざり」もやって来ることがある。

ソウルメイトとの出会いや結婚を、「過去生から続く愛」「永遠の絆」と言えば聞こえはいいが、別の言い方をすれば、「過去生からの腐れ縁」とも言える。だって何十回、何百回何千回と、相変わらず同じ相手とくっついたり離れたりを繰り返しているのだから。

言ってみれば、「よくまあ飽きずに何度も何度も」という相手や状況でもあるということ。魂レベルでは、むしろ「顔も見飽きた」というような「古女房と古亭主」の関係なのだ。

「スピリチュアル大好き!」の人達は、「目と目が合った瞬間に、『この人知ってる!』って思ったんですぅ~」「会った瞬間、お互いすごく懐かしい感じがしたんですぅ~」と、自分達の出会いをロマンティックなものとして捉えたがる。「私達は特別なの♪」と。

夢を壊すようで大変申し訳ないのだが、「知ってる」「懐かしい」と思うのは、「げっ!またおまえかよ!」「あんたこそなんでここにいるのよ!?」と、魂が”別の意味で”反応しているせい―とも言えるのだ。

そしてまた今生で出会ったのも、実は「過去生でやり残した『宿題』にとっとと取り掛かりましょー」という、どちらかというと「修行」に近いものだったりする。「修行」なのだから、そのプロセスは時に厳しく辛いものになることもある。愛だの幸せだの、ぬるいことばっかり言って浮かれてはいられない。楽しく二人でお花畑でキャッキャッと追いかけっこする為だけに再会したわけではないのだ。

巷の妙なスピリチュアルは、その「お花畑」の部分だけを強調する。「ソウルメイトに会えば絶対に幸せになれるのよー、人生が楽しくて明るいものになるのよー」と。それを鵜呑みにした人達は、「修行」の辛さや厳しさが出てくると、「こんなことが起こるのはソウルメイトじゃないからだ」と思い込む。そして「修行」を途中で放棄して、「本物はどこにいるの?」とまたさ迷い歩くのだ。

そもそも、「この人はソウルメイトか?」などといちいち判別したがる、定義にこだわるという時点で、計算高いというか、浅ましさを感じる。要は「ムダなく楽に、手っ取り早く幸せに」ということなのだろう。結局、お墨付きというか、太鼓判が欲しいのだと思う。「この人で間違いない」という保証が。

今自分の目の前にいる人が好きなら、大切だと思うなら、それでいいではないか。どうしていちいちそこに「ソウルメイト」という意味づけが必要なのか。

「その相手がソウルメイトでなければいけない」「ソウルメイトでなければ幸せになれない」ということではない。例え結ばれたとしても、後に離れていくこともあるし、「ソウルメイトとは出会わなければならない」「ソウルメイトとは結ばれなくてはならない」というものでもない。「今生では会わない」「今生では近い関係にはならない」何らかの理由で、お互いにそう決めていることもあるのだから。


出会いを画策したり、その存在に過度に依存したり求めているうちは、ソウルメイトと出会うことはない。「自分自身で、自分の力で幸せになる。いい人生にする」そう覚悟した時、「自立」した時に、その人は現れる。ただ、自分自身の足で、自分自身の人生を歩いていればいいだけだ。

ソウルメイトとの出会いや結婚に執着したり、誰がそうなのかということに拘っているのは、結局「過去生からの腐れ縁」に縛られているということでもある。別れた昔の彼氏彼女に対する未練を断ち切れないのと変わらない。過度の期待は禁物なのだ。


【追記】
「ソウルメイトと出会わなければ幸せになれない」などと意味不明で根拠のない戯言を真に受けて、ソウルメイトを引き寄せるナントカの呪文や怪しいワークを伝授するセミナーに通うヒマがあったら、この三次元―現実の世界で、内も外もピカピカに磨いて、自分のオンナ度・オトコ度をアップする努力をしてください。そのほうがよっぽど健全だと思います。
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12月 自死遺族グリーフケアの会 開催日時

 2009-11-03
12月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 12月6(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 12月2日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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パンドラの箱を開けた後

 2009-11-01
OLの頃の職場は、東京の西新宿にあった。通勤には山手線を利用していた。いつものように、電車が新宿駅に到着して、西口に向かう階段を降りていた時のことだ。

私の斜め前くらいを降りていた女性が突然大声を上げた。「あ!お願い!皆さん止まってください!」突然のことで何事かと思った。一瞬その場がシーンと静まり返った。その場にいた人達が、同時にピタッと動きを停止したその様子は、大袈裟でなく、まるで映画のワンシーンのようだった。

反対側の昇り方向にいた人達まで、ギョッとした顔で足を止め、何事かとその人のほうを見ている。「コンタクトが!コンタクトが落ちちゃったんです!」

平日の朝の通勤ラッシュ時、「乗車率日本一」の山手線を利用したことのある人なら分かると思う。2~3分おきに電車が到着し、その度に夥しい数の人達がホームに吐き出される。押し合い圧し合いは当たり前。その場の空気も少々殺気立ったものがある。慣れない人など恐怖さえ覚えるほどだ。

そんな状況で落としたコンタクトレンズ。普通なら落とした本人は即諦めモードに入る。実際私の同僚も同じ状況下で、買ったばかりのコンタクトの片方を落としたのだが、あの人混みでは「さすがに無理」と、泣く泣く諦めたことがある。

大体「人が冷たい」と酷評される東京で、しかもこんなラッシュアワーの大混雑の中、見知らぬ誰かの落としたコンタクトレンズを気にかけて、わざわざ足を止める人がいるかどうか・・・。ちょっとでも人の流れが止まることがあれば、罵声や怒声が飛んできてもおかしくない状況なのだ。

だが、そこでドラマが起こった。その声を聞いた人達が一斉にその場にしゃがみ込んだのだ。本来関係のないはずの、反対側の昇り方向にいた人達までなぜか一緒になって探している。私も咄嗟にしゃがみ込んで、自分の足元を確認してみた。とにかく踏まないように、その場から動かないようにして探したのだが、私の場所では見つからない。

私の隣にいた30歳前後のサラリーマンの人と目が合い、お互い「ないですねー」と言いながらその場をもう一度よく見たのだが、やはり見当たらない。周りでも「ないなー」「どの辺で気づいたんですか?」等という声が行き交っている。落とした女性は「すみません!本当にすみません!」と半泣きになって謝りながらも必死で探している。

その時、女性の隣にいた50代くらいのおばさんが「こういう時ってね、意外と襟元とか、服の上に落ちていたりするのよ。ちょっとこっち見てごらんなさい」と、女性を自分のほうに向かせ、丹念に服の上を調べ始めた。周りでは相変わらず捜索活動が続いている。

女性の襟元を凝視していたおばさんが叫んだ。「あった!」同時に「おー!」という歓声と一緒に拍手が沸き起こった。幸いにも、コンタクトレンズは女性がしていたマフラーの表面に付いていた。

「ありがとうございました!本当にありがとうございました!」と何度も周りに頭を下げる女性に、「よかったですねー」「今度から気をつけてね」と声が掛かる。そしてまた、何事もなかったように一斉に人の波が動き始め、その場にいた人達はそれにまぎれていった。いつもと変わらない新宿の朝の風景―。


その間、3~4分の出来事だったと思う。だが、無機質な人の群れが一瞬にして「血の通った存在」になる瞬間を目撃した時に感じたものは、今でも忘れられない。だがおかしなことに、いざそれを言葉で説明しようとすると、未だに適切な表現が浮かばないのだ。

「連帯感」「義理人情」そんな言葉も確実に含まれるのだが、到底一つの言葉では表しきれない何か。もっと複雑で、でも温かい―。それをどうしても表現したくて仕方なかったのだが、とうの昔に諦めた。言葉に出来なくても、それを感覚で覚えていたら、思い出せたらいいじゃん―と思えたから。

本当に大切なことというのは、言葉で言い表わすことが難しいのかもしれない。

でもその時、その場に居合わせた自分の中に、自然と浮かんできた言葉は言える。「まだまだ日本も捨てたもんじゃないな」

バブル真っ盛りの東京で、文化や経済を含め、中心が「人」から「金」へ―という、悪い意味で「アメリカナイズ」の風潮に傾き始めた当時の日本で、本来の日本という国の”ブランド”である「人間力」というものは、まだ死んではいない―と確信できたから。


「風体は汚いが、目は爛々と輝き、姿勢は凛としている」江戸時代、来日した外国人が、当時の日本人に感嘆し、そんな言葉を書き残している。

鎖国が解かれて以来、欧米化の波に呑まれると同時に失われたと言われる、かつて「忠・仁・義・礼・信」を重んじた日本人本来の本質、「魂の核」とも言うべきものが、まだ確実に存在しているという、何か「希望」の欠片のようなものを見つけたような気がした。

ギリシャ神話で、粘土から創られた人類最初の女「パンドラ」が好奇心に駆られ、憎しみ・怒り・嘘・盗み等、あらゆる諸悪や災難、苦悩が入った禁断の箱を開けた時、最後に残ったのが「希望」であったように。

日本という国、日本人という民族から、本来の「輝き」が失われたとされる今も尚、自分の利益しか考えない「利己主義」が蔓延し、どこか暗く殺伐とした風潮の今の時代でも、それはまだ多くの人達の中の、魂の奥底で、小さくとも静かに燃え続けていると、私は信じよう。





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