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あれこれ考える前に

 2009-10-27
「電車やバスの中で、自分の前にお年寄りが立っているとどうしたらいいか分からなくなるんです」時々こんなことを言う人がいる。

「どうしていいか分からないって、どういう意味ですか?」「席を譲ったほうがいいのかとか・・・」「だったら譲ればいいじゃないですか」「でも、いろいろ考えちゃうんです。どんな顔をして、何て言えばいいんだろうとか・・・。結局頭の中がパニックになって、何もしないで終わっちゃうんですよね。そうこうしているうちに先を越されたり、そのまま気がつかない振りをしちゃったり・・・」

その人達が席を譲れないのは、性格や人格に問題があるからというわけではない。答えは簡単。人生の中に、『席を譲った経験が存在しないから』だ。その証拠に、「○○さん、今までに席を譲ったこと一度もないでしょ?」そう聞くと、必ず「はい」という答えが返ってくる。

やったことがないから、未知のことだから、いざその時になると、どういうリアクションを取ったらいいのか、どんなアプローチをしたらいいのか、その「方法」を知らないから何も出来ないのだ。

これが一度でも誰かに席を譲った経験があれば、「どういう顔をして何て言ったらいいのか分からない」などという言葉は出てこない。あれこれ脳内で考えたりせず、反射的にスッと立って「どうぞ」とやっているはずなのだ。「あ、お年寄りだ」目で確認すると同時に体が動いている。

それは過去に席を譲った経験―その時の状況や感情、取った行動等を脳が全部記憶しているから。「データ」として保存されている。だから同様の状況がまた目の前で再現された時、脳内に記憶されているそのデータが引っぱり出されてくる。

「こういう場合には、まず立てばいい」「『どうぞ』っていう言葉を言えばいい」以前に「習ったこと」を繰り返しているのだ。記憶をなぞっている。


以前、友人がケガをした野良猫を保護したことがあった。先住猫と会わせてみると相性が良かったので、そのまま飼うことになった。元々人懐っこい子だったし、新しい環境にもすぐ慣れて何の問題もなかったのだが、まったくと言っていいほど、おもちゃに興味を示さない。

それまでそういった物とは無縁で生きてきたせいか、定番のおもちゃ、「猫じゃらし」で遊んであげようとすると、きょとんとして見ているだけで、まったくの無反応。だが、先住猫が猫じゃらしで遊んでいる様子を見て、その使い方というか、遊び方を認識したらしい。しばらくすると自分から猫じゃらしをくわえてきて遊びを催促するまでになった。

例えばアマゾンの奥地で、何百年も前から変わらない生活をしている原住民に携帯電話をポンと渡したとする。初めて見る物に対しての興味で、最初はあれこれいじくり回すだろうが、それがどういう物なのか、どうやって使うのかということを教えなければ、遅かれ早かれ飽きて地面に放り出して見向きもしないだろう。

そういった面では、人間も猫も大差はない。席を譲れないと言う人も、これとまったく同じこと。やったことがないから、それに対する「記憶」がないから、どういう反応を示したらいいのか分からない。馴染みのないもの―それに対する記憶が存在しないものに対しては、脳は反応しないのである。

特に人間というものは、未知のものを恐がる傾向が強い。将来とか、初めて会う人とか、新しい環境とか。「思考」という人間特有の能力故でもあるのだが、時として「考え過ぎる」「物事を複雑に捉え過ぎる」という状況を生み出すことになる。「もし~だったら」という「仮定」の域にまで思考が広がってしまうので、逆にそれが足枷になることがある。

だが一度それを経験してしまうと、「なーんだ」という感じで、恐怖やそれに伴う戸惑いは消えてしまう。

「あれこれ考えて席を譲れない」と言う人達も、一度思い切ってそれを経験してみればいいのだ。「前例=経験」を自分の中に作ってしまえば、また同じような事が起こった時、「何て言えばいいのか」「どうすればいいのか」ということは、脳が勝手に教えてくれる。

「席を云々」に関わらず、今まで経験のない未知の世界に踏み出す時も、あれこれ考えず、まずはやってみたらいい。同じ時間を過ごすなら、あれこれと悩み続けることよりも、「とりあえず」でも行動してみるほうが絶対にいい。「行動」と「経験」はイコールだ。「思考」だけでは経験にはならない。

そうやって、どんどん自分の中に「経験」を積み重ねていけば、多分「恐いもの」は、ほとんど無くなるのではないだろうか。未知のものは誰だって恐い。でも、それをいつまでも「恐い、恐い」とただ遠巻きにして見ているだけでは、何も変わらないのだ。

ごちゃごちゃ考えるよりもまずは行動してみる―それは思っているよりも、意外に簡単なものだ。それが本当かどうかは、実際にやってみればよく分かる。何よりも、自分の中にそれを「やってみたい」という気持ちがあるのだから、迷わずそれを実行してみればいいのだ。



【追記】
「いい人ぶってると思われるのがイヤ」「周りから注目されるのが恥ずかしい」席を譲らないことに対してそういった理由を挙げる人がいる。しかし、そういうことを頭の中であれこれ考えたり計算したりして行動するから、結果「いやらしいもの」になる。躊躇せずに、自分の思ったままにスッと行動に移せば、そこには「自然さ」しか感じられない。

誰かが席を譲るのを見て、「いい人ぶっちゃって」「あんな目立つことして恥ずかしくないのかな」等と内心思っているから、そんな考えが浮かぶのだと思う。同じ行為を目にしても、そんなことをまったく思わない人もいる。結局その人に自分自身を投影している。「自分がその人のことをそう思っているのと同じように、人からそう思われたくない」ということなのである。

「幼児や動物が自分に近寄ってくると、どうしていいか分からない」と言う人達(大半が男性)もいる。
もしその子供や動物を見て、少しでも「可愛い」と感じるのであれば、「可愛い」「愛おしい」と思う者に対して、人はどういった行動を示すのか考えてみたらいい。

多分、自分の中の好意を何らかの形で相手に伝えようとするはずだ。例えば笑いかけるとか、「いくつ?」「お名前は?」と話しかけてみるとか、撫でてみるとか。自分の「感情」に、素直に添えばいいだけだ。


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あの手この手のスピリチュアル

 2009-10-25
例によって例のごとく、また見知らぬスピ系の団体から小冊子の類が送られてきた。いつもならパラパラ捲って「いらね( ̄ω ̄)ノ」とすぐにゴミ箱行きなのだが、ちょうどヒマだったので、じっくり目を通してみた。・・・何というか、「相変わらず日本は平和だな~」と。

「このセッションはこんな人におすすめで、こんなことが学べまーす♪」と、それぞれのセッション毎に但し書きのようなものが書かれている。

「リラックスするのが苦手な人、遊び方が分からない人、義務感で働いている人、仕事を辞めたいけれど、やりたいことが見つからない人に最適でーす。遊びながら好きなことを見つける方法とか遊びが仕事になる方法とか、ストレスをリラックスに変える方法を教えまーす」

クダラネーーーー!!ショーモネーーー!!アホクセーーー!!( ゜Д゜)( ゜Д゜)( ゜Д゜)

主催者側には大変申し訳ないのだが、こういった内容のセミナーやセッションの企画を日夜懸命に考えている時点で、もう「あんたらヒマやな・・・( ̄ω ̄)」と思う。そして「こんな人に最適で~す」という部分を見て、「まさに私のことじゃないの!」と飛びつく人も、間違いなく「時間とヒマを持て余している人」だと思う。


リラックスするのが苦手?「リラックスできない」って、どんな時なんですか?その場面に緊張する要素があるなら、リラックスできない方が「普通」ですよ。でも24時間緊張しっぱなしってことはないでしょ?自然とリラックスしてる時もあるでしょ?それでいいんですよ。逆に「常に緩みっぱなし」っていうのもあり得ないんで。そんなに考え過ぎなくてもいいんじゃないですか?

遊び方が分からない?それじゃそれが分かるまで、他の人の遊び方でも見て、真似してみたらどうです?「形から入る」って言葉もあるし。「面白そう」って思ったら、とりあえずやってみたらいいんじゃないですか?でも遊びって、そんなに考え抜いてやるもんなんですか?それって、何となく始まって、いつの間にか楽しんじゃってた・・・っていうような感じだと思うんですけどね。

義務感で働いている?はい、当然です。労働は国民の「義務」です。憲法にもそう書いてあるでしょ?「義務」っていうのは、自分の立場に応じてしなければならないことですよ。人が義務感を失ったら、職場放棄続出とか職業意識や倫理観が低下して社会がめちゃくちゃになりますよ。大体どうして義務感を持って働くことがいけないんですか?大事なことじゃないですか。仕事っていうのは、好き嫌いとか、向いている向いていないだけでするもんじゃないですよ。

仕事を辞めたいけどやりたいことが見つからない?あのですね、それこそが「本末転倒」っていうやつじゃないんですか?「やりたいこと」を仕事を辞めるための「口実」にするんですか?それじゃ「やりたいこと」が見つかる度に仕事辞めるんですか?あなたの言ってることはそういうことですよ?

要は「今の仕事を辞めたい」ってだけのことでしょ?辞めたいなら辞めればいいじゃないですか。転職するなり何なりすれば?「やりたいこと」がなければ仕事辞めちゃいけないんですか?まあ仕事を続けていても「やりたいこと」は見つけられますけどね。

遊びながら「好きなこと」を見つける方法?「好きなこと」って遊びながらじゃないと見つけられないもんなんですか?

遊びを仕事にする方法?それって逆に楽しくなくなる部分も出てくるんじゃないですかね?遊びと仕事、どうして一緒にしなきゃいけないんですか?遊びは遊び、仕事は仕事、別々じゃいけないんですか?「いつの間にか仕事が遊びみたいなもんになっちゃったよ~」ってこともあると思いますけど。どうして「遊びが先」「遊びから」じゃないといけないんでしょう?

ストレスをリラックスに変える方法?なんでストレスをそこまで罪悪視しなきゃいけないんですか?人間適度なストレスは必要ですよ。場合によってはそれがやる気を生んだりしますからね。科学でも証明されてますし。まったくストレスがない状態っていうのも、それはそれで異常なんで。

それに深刻なストレスって、本人は全然気づいてないことが多いんですよ。周りが心配しても、本人は「え?別に何ともないけど」って感じで。大体すぐにリラックスに変換できるようなストレスだったら、最初からそれほど大した程度のものじゃないと思うんですけど。

・・・と、まあこんな感じでツッコミどころ満載なのだ。どこを取っても「なんかおかしくね?」という感じのもので埋め尽くされている。いちいち取るに足らないようなことを大袈裟に取り上げて、それを「問題」にして「それは大変なことですよ!」と騒ぎ立てて、わざわざ大ごとにしている。

「リラックス」とか「楽しむ」とか「遊びながら」を必要以上に強調するのも、それが「できない人=そのやり方が向かない人」を不安にさせているだけというか。

大体常日頃から、「ありのままを受け入れなさい」「あなたはあなたのままでいいのです」と言っている割には、「リラックスできない人」「楽しめない人」「遊び方が分からない人」をどうして問題視するのだろうか?だったら「リラックスできない人」も「楽しめない人」も「遊び方が分からない人」も、”そのままで”いいはずではないかと思うのだが。

スピリチュアルの世界に関わる人というのは、中途半端に「いい人」が多いので、これまた中途半端に「良いこと」を言う。まあ「普通にいい人」なので、その人達が「え?!リラックスできないの?!それは大変!」となると、大半の人は不安になる。「こんないい人達が大変って言ってる。それじゃリラックスできない自分は変なのかな?ダメなのかな?」といった感じで。

そして一生懸命「リラックスしなきゃ」「楽しまなきゃ」と、自分に対して「~でなければならない」という縛りを課していく。「いい人達」と”同じに”なりたいから。なぜなら「いい人達は正しい」に決まっているし、「いい人達が言うことは正しい」から。

いつの間にか「それが正しいこと、それだけが正しい」という思い込みで、意識が支配されていく。それは「洗脳」だ。

取るに足らないような「くっだらねーこと」をいちいち「問題」として取り上げて不安にさせて、愛とか光とか、「楽しむ」とか「遊びながら」とか、リラックスとかハッピーとか、そういった「緩くて甘い」言葉や意識を刷り込んでいく現在のスピリチュアルのやり方は、私にはただ「自分で考えて選択していく力」を奪って、都合良く大人しく言うことを聞く「家畜」を生産するための洗脳にしか思えない。

そして、家畜化された「魂を抜かれた人」がどこに向かうか?それはスピリチュアルの世界。ヒーリングにリーディング、セミナーや開運グッズ―そういったものを受けたり持つことによって、「ダメな自分」を救ってもらおうとする。

しかし敵もさるもの。うまく「優越感」をくすぐってくる。「ううん、そこで気づいたあなたが素晴らしいのよ!自分の内面と向き合おうとするあなたは魂のレベルが高いのね」そう言われると、「ダメな自分」を克服することに果敢にチャレンジしようとしている自分が、なんだかちょっと上等な人間になったような気もしてくる。

だが結局は、彼らにとっての「お客様=収入源」であり、絶好の「カモ」でしかないのだ。不安を煽って洗脳して、依存せずにはいられないような体質や環境を作る。そうやって「魂を抜かれた人」は、自分達の下に集まり、お金を落としていってくれる―。こんなおいしい話があるだろうか。「うまいことできてるなー」と、半ば感心することしきり。


スピリチュアル世界も、有料でそれを行っている以上は「ビジネス」だ。それは悪でも何でもなく、当たり前のこと。ヒーラーや占い師、講師等の能力や時間、場所を提供してもらい、自分もそこから得るものがあるのだから、それに対して報酬を支払うのは当然だ。

その点を肝に銘じておくというか、きちんと理解して割り切ることが必要なのだ。やはり相手も商売、「これはいける!」と思えば、「売れ筋」はどんどん突いてくる。消費者の購買意欲をくすぐるというか。相手の仕掛ける「流行」に、どっぷりはまらないことだ。

あの手この手でスピリチュアルの売り込みはやって来る。どーでもいいようなことを大袈裟に取り上げるということは、ネタが尽きてきたということだ。スピの世界にも「流行」はある。言われていることが自分に該当するからと、いちいち気に病んで、焦ってそういったものに飛びつく必要はない。それはまんまと相手の思惑に嵌るということだから。

「自分はリラックスするのが苦手」「遊び方が分からない」「どうしたら遊びながら好きなことが見つけることができるんだろう?」そんなことを四六時中気にしたり、考えている余裕があるということは、かなりヒマで、且つ幸せなことなのだ。本当に深刻な状況にある人というのは、そういったことを考えるヒマすらない。

リラックスする方法とか、遊び方を教えてもらうとか、そんな「しょーもないこと」に世界的に有名だか何だか知らないが、外国人ヒーラーの60分の個人セッションに、通訳付きで6万8千円も払う人達が大勢いるということからして、やっぱり日本は「ヒマ」なのだ。


「リラックスできない」「遊び方が分からない」「遊びを仕事にする方法」それって本当に大事なことですか?命に関わるくらい重要なことですか?それが出来ないと生きていけませんか?幸せになれませんか?

そんなことを考えて悩んでいるヒマがあったら、家中を綺麗にお掃除したり、電車の中でお年寄りに席を譲ったり、道に落ちている空き缶を拾ってゴミ箱に捨てたり、今就いている仕事に集中してください。些細なことに囚われたり気に病むのは、偏った意味で「自分のことしか考えてない状態」であり、「地に足がついていない」ということなので。

そして、「どうして自分はリラックスするのが下手なんだろう」「どうしたら遊びを仕事にできるんだろう」そんなことを四六時中考えたりできる環境に自分がいられることに感謝をしてください。これが戦時下の国だったら、そんな悠長なヒマはないです。

日本という国に今いること―それだけでも十分に恵まれて幸せだと思いますけど。1回ウン万円もするセミナーをはしごするよりも、「悩む時間がある自分はそれだけで十分に幸せだ」そこに気づくほうがよっぽどスピリチュアルです。



【追記】
「楽しむ」とか「リラックス」とか「ハッピー」とか、現在のスピリチュアルや自己啓発の世界で「常套句」となっている言葉というのは、日本人にはそぐわない。なぜならそれはすべて「欧米発信」のものだから。

本来の日本人―日本の文化や習慣の中で生まれ育った人達には適応しないというか、無理がある。「真面目に」「誠実に」「秘すれば花」というような土壌、「精神性」の上に成り立っている国には、欧米諸国の「Don't worry, be happy」という思想やスタンスはまさに「正反対」であり、元々相容れないものがあるのだ。

スピリチュアルも自己啓発も、所詮は欧米で生まれ、日本に輸入されたもの。そしてそれをそのまま、日本人のメンタリティーやバックグランドといったものをまったく考慮せず、「直訳」するから歪が発生する。

「リラックスするのが苦手」「楽しめない」それが出来なくても何の問題もない。所詮はすべて欧米発信のものの「猿真似」に過ぎないのだから。それを真に受けて気に病んだりする必要はまったくない。
カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

気がつけばニャンニャンニャン

 2009-10-24
今ブログの編集画面を開いて気づいた。「記事番号222?うわ!いつの間にか222個も記事書いてる!」

ブログを開設したのは去年の8月。計算してみると、平均して2日に一度の割合で更新していることになる。正直当初は、ここまでマメに更新するとは思ってもいなかった。

まあ子供の頃から文章を読んだり書いたりすることは好きだった。小学校から高校くらいまでは、全国区の読書感想文や作文コンクールでは毎年必ず入賞していたし、学生時代は、たまにプロアマ混合の同人誌に投稿したりとか。だが社会人になると同時に忙しさも手伝って、「書く」ということからは遠ざかっていった。

このブログを開設したきっかけも、「自死遺族グリーフケア」の為だった。どちらかと言えば、会合に関する「お知らせ」というか、掲示板代わりに・・・と始めた。

セラピストの仕事自体も忙しいし、肩入れする気はまったくなかったのだが、まあこれが当初の意思に反して、自分でも「結構マメに書いてるじゃん」という状況になってしまった。これは意外というか、予想外というか・・・私自身驚いている。

「1つの記事を書くのに、どれくらいの時間がかかるんですか?」セラピーやカウンセリングにいらっしゃる方達からもよく聞かれるのだが、平均すると大体2~3時間だろうか。いや、それ以上かもしれない。

もちろん1時間くらいでパパパッと書き上げてしまうこともあれば、「あーでもない、こーでもない」と四苦八苦しながら2日くらいかけて、他のエントリーと並行しながら書くこともある。(まあ文章が長いせいもあるのだが・・・)

べつに誰に頼まれたわけでもなく、強制されたわけでもないのに、せっせと書き続けているということは、やっぱり自分は「書くこと」が好きなんだな~と。「好きこそ物の・・・」というやつだと思う。

ランキング等に参加しているわけでもなく、ひっそりコソコソやっているブログだが、結構読んでくださっている方達がいるようで・・・。時々メールフォームから感想をいただくこともある。今までで一番多かったのが、「最初男の人が書いてると思ってたんですけど、プロフィール見たら女性だったのでびっくりしました!」というもの。

サロンにセラピーやカウンセリングを受けに来られた方達も「ブログの文章と全然イメージが違いますねー」と口々におっしゃる。(まあもともと口も悪いし、物事をはっきり言う性格なんで・・・)

その方達がブログに辿り着いた経緯もそれぞれで面白い。サロンのHPからという人も多いが、「そのキーワードでどうしてここに?」というようなことも結構ある。だが、やはりそれも「ご縁」かな・・・と。

思ったことや感じたことを好き勝手に書いているだけだが、願わくば、読んでくださっている方のインスピレーションのきっかけになったり、「こういう考えもあるんだなー」という別の観点を提供できたらいいかな・・・と。でもまあ自分が好きでやっていることなので、そういったことは後からついてくればいいと思う。

これからもちょこちょこ更新していきますので、よかったら読んでやってください♪
222番目の記事、「ニャンニャンニャン」とキリがよかったので、読んでくださっている方達に感謝を込めて・・・ありがとうございました♪





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自分らしさ症候群

 2009-10-22
サラリーマンやOL等、世間で言うところの「一般的な仕事」に就いている人達に特に見られる傾向なのだが、「自分らしく生きたい」「自分らしさを生かした仕事がしたい」と口にする人が多い。

「それでは、あなたが言う『自分らしさ』『自分らしい』って何ですか?」そう尋ねると返ってくる答えは様々で、人それぞれ違う。だが、その人達の多くに共通していることをざっくりまとめてみると、どうやらそれは「個性」ということらしい。

「自分の個性が生かせる仕事」「自分の個性が表れた人生」という意味合いのようだ。「組織の中にいると、その歯車の中に自分が埋もれていって、自分という存在が失われていくような気がして仕方ないんです」多くの人は言う。

私自身、かつては会社組織の中に身を置いていたので、そういった気持ちは理解できないでもない。実際同じように感じた時もあった。だが、属する組織もない、他からの何の制約も受けない、すべて自分の采配で行っていく「自由業」に就いている現在、私は思う。

「何をしているか、どこに所属しているかっていうことと、『自分らしさ』には、それほど大きな関係はないよ」と。

「組織の中にいるから自分らしく生きられない」「組織の中にいるから自分らしさが出せない」そう思っているうちは、多分どんな仕事に就いて、どんな場所にいたとしても、その「自分らしさ=個性」というものは出てこないと思う。

他の人とは違う、その人個人にしかない性格や性質、特徴―いわゆる「個性」というものは、置かれている状況や条件等には左右されない。なぜならそれは、「自然と滲み出るもの」だから。

例えば、学校の制服。みんなと同じ格好をしなくてはならないことを嫌がる子は多い。「だって全員が同じ服を着るなんてつまらないし、自分らしさがなくなる」思春期の場合は特にそうだ。

だが休みの日、制服を脱いで『自分らしい服』を着て、街にいるその子達が「個性的」か?というと、そうは思えない。同じような髪型やメイク、服―正直見分けがつかない。自分が嫌がっている「みんなと同じ」状態になっていることを、本人達はまったく気づいていない。だが当の本人達は、至ってご満悦の様子。

結局それと同じこと。みんなとまったく同じ制服を着ていても、誰だか分かる、見分けがつく―それが「個性」というものなのだ。「自分らしさ」「自分らしく」ということは、結局本人達の自己満足や願望、言い訳の域を出ないものに過ぎないと思う。そして、それは自分が決めることではない思うのだ。

自分のやっていることや自分の生き方を誰かが端から見て、「○○さんらしいね」そう感じるものこそが、みんなと同じことをしていても「どこか違う」と思わせるものがあることが、「自分らしさ=個性」なのではないだろうか。


例えば、組織に属さない「自由業」のセラピストの仕事にしても、他の同業者と同じような内容、画一的な「ありふれたセッション」をしていれば、それは「個性的」とは言えない。

クライアントが期待する以上の何か―それはセラピストの人柄や信念から出てくるものであったり、内容の違いや濃さ、サロンの雰囲気等、「プラスαの要素」が加わって、初めてそれが「そのサロンの特徴=セールスポイント、個性」というものになる。

「あなたらしさ」ということを最大の売りにしているスピリチュアル関係のサロンやセラピストなど、「没個性」の例の最たるものだ。内装は十中八九、天使のオブジェや絵画に始まり、ローズモチーフの小物やクリスタルやパワーストーンが必ず置いてあって、白(もしくはピンク系)を基調としたヨーロピアン調の雰囲気でまとめられている。

セッション内容も、何だか巷でよく聞くようなものばかり。言っていることも大抵同じ。愛とか光とかギフトとか。ホームページなど、どこも全然見分けがつかないくらいよく似た雰囲気の作りになっている。「あなたらしさ」と連呼する割には、まるで判で押したかのように似通った雰囲気のサロンばかりなのはなぜだろうか?


どこにいても、何をしても、「自分らしさ=個性」というものは決して失われたり、損なわれたりはしない。むしろ一度「型」にはまった時、同じスタートラインに立った時にこそ、それは顕著になるのではないだろうか。そこで表れた「プラスα」の何かこそが「自分だけの特徴=個性」なのだ。

「自分らしさ」「自分らしく」の意味をはき違えているうちは、多分何も変わらない。言葉の表面上の響きに踊らされているだけ。「サラリーマンだから、OLだから自分らしく生きられない」ということもない。なぜなら「個性」には、条件も環境も関係ないのだから。



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たかがトイレ、されどトイレ

 2009-10-21
先日友人と食事に行った先で、お手洗いに立った時のことだ。

店内はすべてお座敷席なので、トイレには専用のスリッパがある。ドアを開けてスリッパに履き替えようとすると、片方が見当たらない。「あれ?」見ると入り口から1メートル位の場所に、その片方のスリッパが置いてある。

「お、あるじゃん」スリッパを履いて個室に入った。「何これ・・・」思わず声に出して呟いてしまった。2つあるペーパーホルダーの中、手前側にあるほうはペーパーが床に届くくらいの長さまで、でろーんと垂れ下がっているし、床には予備用と思しき別のロールが転がっている。

「何でこういう使い方をするかねー」トイレットペーパーを拾ったり巻き直している時に気づいた。スリッパが変な位置に片方だけあったのは、それを履いていた誰かが脱ぎ散らかしたせいだ。

よく見ると、洗面台の上には口紅が着いたティッシュペーパーや使用済みの油取り紙等が置かれたままになっているし、ゴミ箱の横には丸まったペーパータオルが落ちている。仮にもそこは女子トイレ。それらを片付けている時、「お里が知れる」という言葉が頭に浮かんだ。大体、散らかしたままにしていないかどうか、トイレをを出る前に確認したりしないのだろうか?


私が子供だった頃、祖母や両親がいつも言っていた。「玄関とトイレと水廻り(台所・洗面所等)を見れば、その家がわかる」要はその部分が綺麗に片付いている家は、きちんとした家庭、きちんとした人達だということ。

「お友達の家にお邪魔して靴を脱ぐ時は、爪先をドアに向けて、きちんと揃えて端のほうに置きなさい。お手洗いを借りた時も、綺麗に使いなさい。もし汚した時はきちんと掃除すること」子供の頃からそう教えられてきた。特に母には「あんた達がだらしないと、親がだらしない育て方をしていると思われるんだからね!」と、しつこいくらいに念を押されていた。

頭と体に染み込んだその教えは今も消えない。そして、大人になるにつれて実感するようになった。やはり「玄関とトイレを見れば云々」ということは、「正解」だと思うのだ。そしてその部分の使い方―例えば、玄関での靴の脱ぎ方やトイレの使い方に、その人の品格というか、「育ち」のようなものが表れるということも。

嫌味な小姑みたいであまりこういうことは言いたくないのだが、正直、セラピーやカウンセリングにいらっしゃった方や、その他仕事関係のお客さんがトイレを使った時等、その後に入って「え・・・」と思うことが時々ある。

スリッパが脱ぎ散らかしてあったり、電気も点けっぱなし、トイレットペーパーがダラーンと垂れ下がっていたりとか。男性の場合は、飛沫がそのままになっていたり(床まで汚れている時もある)、便座が上げっぱなしだったり。女性の場合は、便器の中に長い髪の毛が何本も落ちていたりすることもある。

そういった光景を見ると、正直がっかりする。「今生での自分の使命や課題を知りたい」「自分の意識を高めたい」「自分はこの仕事に人生を賭けているんです」そういった高尚なことをいくら熱く語られても、「そんなことより、まずはトイレを綺麗に使うことから始めましょうよ」と思ってしまう。

日常の小さなこと、「トイレを綺麗に使う」という当たり前のことさえ出来ないのに、「自分の今生での使命」とやらが本当に果たせるのかい?―なのだ。

多くの人が知りたがる「自分の使命」「今生での課題」という大きなテーマは、日常の小さなことの中、その積み重ねの先に存在していたり、繋がっているのだと思う。その部分に目を向けようともしない、疎かにしているということは、結局自分の使命や課題を疎かにしているということでもある。

「トイレの使い方くらいでそんな大袈裟な」そう思う人もいるかもしれない。しかし現実に、目の前の小さなこと―スリッパを揃えたり、自分が汚した場所を綺麗にするということに意識を向けられない人というのは、やはり地に足が着いてないというか、「頭でっかち」な傾向が強い。実が伴っていないのだ。

玄関で靴を脱ぐ、トイレに入るということは、日常の中のありふれた当たり前の行為だ。そういった「当たり前の行為」は、無意識で行われている。自動操縦のように、「習慣」として、体と意識両方に組み込まれている。だから人は「これから靴を脱ぎまーす」「便座に座りまーす」と、いちいちその行為に対して意識を向けたり、注意を払ったりしない。

ということは、靴を脱ぎ散らかしたり、トイレが雑然として汚れた状態のままで平気な人というのは、普段から「靴を揃える」「トイレを汚したら綺麗にする」といった習慣が身についていない、意識にないということなのだ。

人間の脳や意識というものは、経験のないものに対しては働かない。つまり、家でもどこでも「同じこと」をしていると言ってもいい。

訪問先でトイレを借りて時、トイレを汚してそのまま出てくる人は、自宅のトイレも汚れている可能性が高い。電気を点けっぱなしにしてくる人というのは、家のトイレの電気の消し忘れが多いだろうし、スリッパを脱ぎ散らかす人は、多分自宅の玄関は出しっぱなしの靴で雑然としているはずだ。

無意識である時ほど、その人の「素」が表れる。いくら表面だけを飾ったり、取り繕っても、そういった自分の気づかない所で、自分の中味―本質というものは露呈されているのである。

たかがトイレ、されどトイレ―取るに足らないような所で行われる自分の行為の中にも「自分」はちゃんと表れているし、それを観る人は、ちゃんと観ているのだ。



【追記】
ある程度の年齢になれば、周囲も「子供じゃないんだから当然わかっているだろう、わかっているはず」と、「当たり前のこと」についてはいちいち注意したり、言い聞かせたりしない。万が一思っていたとしても、相手が「大人」の場合には、いろいろと躊躇する部分もあって伝えづらいものだ。それを伝えることによって相手に恥をかかせては・・・というところもある。

結果、「誰も注意してくれない、教えてくれない=自分は全然気づかないまま」ということになりやすい。しかし、ある程度の年齢になったら「自分で学ぶ、意識する」ということが「当たり前」。結局は自分自身の「責任」なのだ。かかなくてもいい恥をかかないように、自分の普段の日常の行為を改めて確認してみてもいいかもしれない。

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ネガティブさん

 2009-10-19
昔、知り合いに「超」がつくほどネガティブな思考をする人がいた。

例えば、昼休みにみんなで見ていた雑誌のグルメ特集に「烏骨鶏の卵と○○牛のミルクだけで作られた一日限定30本のカステラ」などとあって、「おいしそー!食べたーい!」と私達が言っていると、「とか何とか言って、その辺の普通のニワトリの卵使ってるんじゃないのぉ?本当に烏骨鶏かどうか分からないじゃない」と言い出す。

外出先で見知らぬ人から道を尋ねられれば、「私ってそんなにお人好しに見えるのかな・・・」とか。社内恋愛で以前付き合っていた人と、偶然廊下ですれ違ったり、エレベーターで一緒になったとする。その際、相手の人がスッと目を逸らしたり、自分から離れた所に身を置くと、「私のことを警戒してる」とか。一事が万事、いつもそんな感じなのだ。

「何?!烏骨鶏の卵じゃなかった?!騙された~!でもまあ美味しかったからいっか~♪」「道を聞かれたってことは、一応『ちゃんと答えてくれそうな人』って信頼してくれたのね♪」「あら、目逸らされちゃった。気まずいのかな?でも社内恋愛が不発に終わった時って、大体こんな感じだよね。それに今は職場で勤務時間中だし。まあ仕方ないか~」

同じシチュエーションでも正反対の考え方をする私には、何でもネガティブに捉えるその人の思考パターンが不思議で仕方なかった。いつも裏を読もうとするというか、深読みし過ぎるというか・・・嫌いではなかったが、正直「めんどくせーな( ̄ω ̄) 」と思っていた。

というより、「よく疲れないな~」と。毎回そんなふうに物事や人の裏を読もうと頭を働かせることは、いろいろな意味で、かなり疲れる作業だと思うのだ。基本「面倒くさいこと」が嫌いな私には、「体力ありますね・・・ 」としか思えない。


セラピストの仕事を始めて、この「疲れることをする人」が世の中には結構存在するということを知った時は驚いた。年齢性別関係なく、「ネガティブさん」がわんさといるのだ。

その人達の多くに共通しているのは、やはり「深読みし過ぎ」ということ。観ていると、いろいろな意味で「がっかりしてきた人」だと思う。本人達にしてみれば、「がっかりさせられてきた」という言い方のほうがピンと来ると思う。

例えば、いじめを受けて傷ついたとか、誰かに裏切られたとか、自分が望む方向に人生が進まなかったとか・・・自分の好き嫌いや意志にかかわらず、すべて逆に、逆にと物事が起こったり、進んでいった経験が多い人。そういった経験が多ければ多いほど、人間というものは疑い深くなっていく。

ある意味、いつも「期待」を裏切られてきたので、やがてはそれを諦めてしまう。「どうせ後でがっかりする結果になるんだから、期待するのは止めよう。最初から最悪の結果を予想していたほうが楽だ。もしそうなった時はショックが少なくてすむし」ある種の「自己防衛」だと思う。

気持ちは分からないでもない。だがその人達を観ていると、その深読みする癖が、かえって面倒な事態を引き起こしたりしていることが多々あるのだ。本来必要のないことまで背負い込んだりしている。そのまま素直に物事を受け取ったらいいのに、常に疑って裏を読もうとするから、どんどん事態が拗れていく。

「本当は○○に違いない」と、いちいちネガティブな意味を見い出して勝手に心配したり、気にしたり、落ち込んだり、腹を立てたり・・・何というか、すべてが「自己完結型の妄想」なのだ。


学生時代の話なのだが、ある時友人の一人が妙に元気がなかった。訳を聞いてみると、「同じサークルのAちゃんに無視された」と言う。廊下ですれ違って「おはよう」と言ったのに、見向きもされなかったらしい。ちょうど数日前に、サークルのミーティングでその子と意見が対立したという経緯もあり、「多分私のことを良く思ってないんだ。嫌われてるんだ」と落ち込んでいる。

Aちゃんのことは、私も知っていた。同じゼミだったし、いくつか同じ講義を取っていたこともあって、話をすることも多かった。決して腹いせで無視するようなタイプではない。「気がつかなかっただけじゃないの?」そう言っても彼女は納得しない。相変わらずしょげている。

その日の午後、ある講義で一緒になったAちゃんに聞いてみた。「あのさー、なんか○○ちゃんがAちゃんに無視されたって落ち込んでるんだけど、何かあった?」「え?!何それ?!私無視してないよ?!」当のAちゃんは仰天である。挨拶云々の話をすると、「あー!わかった!コンタクト外してたからだわ」

何のことはない。ド近眼のAちゃんはコンタクトを外していて彼女に気づかなかっただけなのだ。「ったく、あんたは妄想が激しいんだから」「すみません・・・」結局誤解も解けて、笑い話に終わった。

ネガティブな思考パターンを持つ人というのは、大抵がこんな感じだ。最初から疑ってかかるから、すべてが疑わしく思えてくる。事実を確認することもせず、脳内で勝手に妄想を繰り広げた挙げ句、「絶対そうに決まっている」と勝手に思い込むのだ。想像力を働かせるのは結構だが、もっと生産的な方向にそれを使ったほうがいいと思うのは、私だけだろうか。

まずは素直に受け止める―物事に対しても、人に対しても、大事なのはまずそこだと思う。色眼鏡で見れば、そこに必要のない余分な色が着いて、本質や真実が見えなくなる。

ネガティブに物事を捉える人は、結局その状況を自分自身で作り出しているとも言える。最初から疑いのスタンス、その観点からしか見ようとしないから、当然見えてくるものもそれに見合ったものになる。

ポジティブ過ぎ、信じ過ぎというのも、それはそれでちょっと困った部分もあるのだが、まずはどちらにも偏り過ぎない「中心」に立って、そこから観る―ということが大事だと思う。

いずれにしても、それは性格から来るものではなく、今までの経験から身につけた思考パターンであり、いわば「癖」。

「中心に立つ、思い込みや決めつけを捨てる。そして物事をありのままに捉える」今までに身につけた「癖」を直せば、ネガティブのスパイラルからはいつでも脱出可能なのだ。



【追記】
癖は自分で気づいた時から直せます。



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口だけ系自己満足型スピリチュアリスト

 2009-10-13
仕事や趣味等も含めて、いろいろな意味でスピリチュアルに関わっている人達を観ていると、「口ばっかりじゃん」と思うことがよくある。言っていることも、「あのー、どうしたらそういう理屈になるんですかね?」というような、めちゃくちゃなものが多い。

ブログランキングでたまたま目に付いたブログなのだが、スピリチュアリストを自称して、セミナーやら何やら主催している人の書いた記事にはぶっ飛んだ。

スーパーで、本来置いてはいけない場所に堂々とカートやカゴを放置していくおば様グループに遭遇して、「その中の誰か一人くらい『ちゃんとしようよ』と言う人はいないのでしょうか?!」と憤慨している。

何せものすごくご立腹の様子だったし、ご立派なことをいろいろと書いていらっしゃるので「そらそーだわな。で、おば様方にガツンと注意はしたのかい?」と、当然こちらは期待した。ところがその人は、「その時に生じたモヤモヤした感情を、ただ感じきろうと思いました」と。

「マナーの悪いおば様方をジャッジするのは簡単だけど、自分の中のどういった価値観がそのモヤモヤを引き起こすのか、そこに焦点を当てること、『ただ感じきること』のほうが大切なんです!」

「今自分の目の前に起こっている事をただ感じる―それだけで本来自分の魂が望んでいるプロセスを進んでいっているような気がします。だって私達は喜怒哀楽を含め、『体験する為』に地球に来たのだから」

・・・・・・はい?(゜∇゜;) 

「感じきること」ってそんなに大切なんですか!?「ただ感じきる」だけで魂が進化しちゃうんですか!?

私からすれば、マナーの悪いおば様方に面と向かって注意する勇気も気概もない自分を正当化したいだけなんじゃないかと思うんですけど!?

「あんたに必要なのは『感じきること』じゃなくて、そのおばちゃん達が放置していったカゴやらカートやらを片付けることじゃないんかい?! ( ゜д゜# )」

これがうちのサロンのクライアントだったり、友達だったりした場合、私は躊躇いもなくそう言っている。

そういった行儀の悪さを目の当たりにして、気分が悪いのは分かる。でもその気分の悪さ、モヤモヤを「感じきる」って??そもそも「それって必要なことなんですか?」なのだ。

私だったら「ったく!なんで私がやらなきゃいけないのよ!」」と思ったとしても、さっさと自分で片付けるほうを選ぶ。そのモヤモヤした感情をイライラしながらいつまでも”感じきって”いるよりも、「はいはい、困ったばばあがいるもんですねー」と、さっさと片付けて「はい!おしまい!」にすればいいだけの話ではないか。

その場も片付いて綺麗になるし、多少の腹ただしさは残っても、その「モヤモヤ」が消える速度は格段に速まると思うのだが。

「感じつくす」「味わいつくす」スピリチュアルの、さも高尚なワークを行っているように見えるが、「注意できなかった自分」「片付けなかった自分」の意気地のなさや罪悪感を言い訳しているだけだ。どうしてそこまで自分を正当化することに拘るのか不思議で仕方ない。

大体「感じつくすだけ=見ているだけ」で魂が望むプロセスを進んでいくなんて、「そんなことあるわけないやないかーい!!( ゜д゜# )」なのだ。こういった意味不明のスピリチュアリズムが、「口ばーっかで結局何もしない人」を増殖させていくのだと思う。

「自分の言葉に酔うタイプ」の人というのは、全然行動が伴っていない。「絶対的な愛に満たされたんですよー!」「啓示に打たれたんですよー!」そんな感じで、いちいち大袈裟だ。「自分はすごい体験をした!」そう思いたいだけなのだ。結局それは自己満足でしかない。ある種の「選民思想」でもある。

放置されたカートやカゴをそのままにして”感じつくしている”よりは、さっさとそれを片付けるほうが、本来のスピリチュアルの道理に適っていることだと思うのだが。


理解には、必ず行動が伴う。いくら脳内で”感じきった”としても、そこで終われば結局何も感じなかったことと同じなのだ。巷に溢れているスピ本やセミナーから得た知識を、「=知恵」と勘違いしているお寒いスピリチュアリスト。まったくもっておめでたい。



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愛は「愛」でしかない

 2009-10-11
テレビを点けたら、スピリチュアルの世界でも有名な大御所歌手のコンサートの告知CMが流れていた。CMの最後に、その方の声が流れる。「この世で最も美しいものは愛なのです」

その時思った。「愛が最も美しい?そんなこと誰が決めたの?」

物事というものは、かならず両極、両面がある。「愛は最も美しいもの」であると言うのなら、「愛は最も醜いものである」とも言えるのだ。


時々過去生回帰のセッションで、特定の人との関係に対して「過去生ではあんなに愛し合っていたのに、どうして今生では自分を振り向いてくれないのか?受け入れてくれないのか?愛してくれないのか?」と言う人がいる。

「遠い昔から、遥かな過去生から続く愛」と、一見ロマンティックで美しいものとして捉える人もいるかもしれない。だが「ソウルメイトが自分を愛してくれない」と悩む姿は執着の極みだ。本人は「相手に対する愛情、思いの深さ」と思いたがるが、実はそれは「相手に対する執着の深さ」に過ぎない。

相手の気持ちや状況そっちのけで、結局自分を満たすことしか頭にない。そんな姿に未練がましさは感じても、美しさは感じない。

強い愛が、それよりも更に強い愛を生み出すとは限らない。強いが故に、その力が対極の方向に働いた時、強い憎しみや執着といったものが生まれることもある。ストーカー行為等は、その最たるものだ。

愛を「美しいもの」と定義付けるのは、あくまでもその片方の面にしか目を向けていないということだ。物事は表裏一体であり、一つのものの中には相反する性質のものが同時に存在する―ということを理解していれば、こういった言葉は出てこない。


最近では、日本でも欧米並に「愛」という言葉を連呼する人が多くなった。自己啓発セミナーやスピリチュアル系のセッション等、講師も生徒も「愛愛愛愛」うざったくて仕方ない。「愛ある言葉」とか「愛あるセッション」「愛を送ります」とか。聞いていると背中が痒くなってくる。

男性でも、照れもせずにその言葉を口にする人が増えた。「僕は世界に愛を広めたいんですッ!この世界にいる人すべてを愛そうと思ってるんですッ!」」などと熱く語るのを聞くと、「いや、べつにあんたの愛なんていらねーし」と思う。思うのは勝手だが、勝手に愛されるほうは迷惑だ。

それ以外の分野、例えばデパートや小売店等の販売業でも「愛で売れ!」と、社員に檄を飛ばしている所もある。私がお客だったら、まあ普通に礼儀正しくて、自分の欲しい商品についての知識をちゃんと持っている店員さんであればそれでいい。欲しいのは商品であって、愛じゃないんで。


もうお亡くなりになったが、ライターであり、評論家でもあった竹中 労氏が生前言っていた。「地球を救ったり、人類愛を言い始めるのは芸のない証拠。自分を長持ちさせる為に一番逃げ込みやすい所なんです」


実際「愛」を連呼している人達を観ていると、「実はあなた自身が、その『愛』ってものを欲しいと思ってるんじゃないですか?」という状況にある人が多い。結局、自分の中の欠乏感を周りの人や地球に投影しているだけ。愛ある言葉をかけて欲しいのも自分、愛して欲しいのも自分なのだ。愛してもらう為に愛する。一種の「等価交換」だ。

その人達の多くが言うところの「愛とは見返りを求めない無償のもの」が真実なら、実際の状況は全然当てはまらないではないか。執着、押しつけ、見返りを求める、自分を満たすだけのもの―それのどこが「美しい」のか。

そしてまた、目を背け、耳を塞ぎたくなるような要素も存在する、それが「愛」なのだ。

「至上の」「永遠の」「無償の」「最も美しい」「最も尊い」そういった形容詞は、本来一切必要ないものなのだ。あれこれそれを付けたがるのは、人間側の勝手な思い込みや理想、自分の存在意義や言動に対する意味付け・理由付けの為でしかない。いわば「エゴ」だ。

愛は、ただ「愛」であって、それ以上でもそれ以下でもない。それを飾る言葉など必要ないのだ。







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鵜呑みにする人々

 2009-10-10
セラピストの仕事を始めて以来ずっと気になっていることなのだが、今の世の中、メディア―特に「その道の権威」と言われている人の言葉を何でも鵜呑みにする人がかなり多い。

自分自身で検証もせず、考えもせず、それが「真実=正しいこと」と思い込む。それは「盲信」に他ならない。ある意味「狂信者」の姿だ。

例えば、絶大な人気を誇るスピリチュアル界の大物が「あの神社のパワーは絶大です」などとテレビで発言したり、本に書いたりすれば、その神社には次の日から参詣者が溢れかえる。「ご神木の皮を剥いで、お守りとして持っているといいです」発言があれば、日本中の神社のご神木の皮が手当り次第剥がされるということが起こったり。

「35歳過ぎると羊水が腐る」発言で騒動になったアーティストも同じ。釈明謝罪インタビューでは、「昔そう聞いたので、本当だと思っていた」等と言っていたが、これも典型的な鵜呑みが引き起こす例。「○○らしいよ」と、小耳に挟んだだけの話が、いつの間にか自分の中で「○○だ」という「真実」にすり替わってしまっている。

相手がどんなにいい人でも、偉い先生でも、その人が言ったことが「すべて正しいこと」とは限らない。


数年前、20代のOLさん2人が、過去生回帰のグループセッションを申し込んできた。ちょうど冬の時期で空気が乾燥していたことに加え、休みなしで連日セッションが続いていたこともあり、喉の調子が良くなかった。

事前カウンセリングの最中ちょっと咳き込んだ時があったのだが、その時のOLさん達の様子が何かおかしい。同時に2人で顔を見合わせて、目顔で何か言い合っている。最初は「?」と思ったが、特に気にしなかった。だがその後、数回同じようなことがあったので、「何か?」と聞いてみた。

すると一人の方が、おずおずといった感じでこう言った。「あの・・・先生は首を吊って亡くなった過去生があるんですか?」「は?どうでしょう・・・まあ過去生は人によったら何百何千あるので、1回や2回はそんな死に方をしている人生があるかもしれませんね。でもどうしてですか?」「この前テレビで三○さんがおっしゃってたんです。『急に咳き込む人は首を吊って死んだ過去生があるって」

これではうっかり咳もできない。その番組を見ていた人達は、誰かが急に咳き込む度に「あの人って・・・」と心の中で思っているのだろうか。もしそうならたまったものではない。それが絶対確実で間違いようのない真実というなら、世の中そういった過去生を持つ人だらけではないか。


何でも鵜呑みにする人というのは、「学ぶ」ということがどんなことか―ということを理解していない人が多い。それは「素直さ」とはまったく別のものだ。どちらかというと、「学校や教師というものは、答えを教えてくれる場所や存在」と思っている人だ。学歴とかそういったものは関係ない。いろいろな意味で「受け身の勉強」をしてきた人だと思う。「教えられたものが正しい」そう思っている。

なぜ「学問」というのか?わざわざ「問う」という文字が入っているのはなぜか?それは「相手に答えを問う」ということではない。「自分自身に問う」のだ。教えられたことを「本当にそうなのか?」ということを、自分自身に問う。

そして「いや、ひょっとしたら違うかもしれない。別の答えがあるかも」と、それを一度疑って否定してみる。その疑いや否定は、別の答えややり方、いわば「可能性」を探す為のものだ。そして自分自身で、それについてもう一度よく考えてみる―それが「学ぶ」ということなのだ。

「本当にそうか?」と一度否定してみる。その部分こそが「学ぶ」という行為の中で、最も重要なところだと思うのだ。その一連の過程を経て、初めてそれは「知識」になる。

鵜呑みにする人の場合、それは「知識」というよりも、むしろ「洗脳」だ。コピー機で印刷したように、自分の思考が一切含まれないそれは、ただの「盲信」。理解というものがなく、ただ思想を刷り込まれただけのその状態は「無知」とも言える。

作家メルヴィルが著書「白鯨」の中で、「無知な人間ほど『恐怖』を感じる」と書いている。その「恐怖」の感情を逆手にとって、洗脳は行われていくのだ。そして、「自分で知ろうとしない、考えようとしない」その姿勢こそがそういった状況を招いているのだということを認識すべきなのだ。


そもそも、「三○さんが言っていること=正しいこと、真実」と誰が決めたのだろうか。いくらその人が人格者であろうと、いくら霊的に高いものを持っていようと、そんなことはまったく関係ない。この世に肉体を持って生きている以上は、その人も「ただの人間」に過ぎない。

人間であれば、間違いを犯すこともある。「完璧」ではないのだ。言ってみれば、その人が正しいかどうかということは、50%の確率でしかない。そしてその「正しい」の後には、常に「かもしれない」という言葉が続くのだ。

「正しいかもしれないし、間違っているかもしれない」そういった不確実な要素は、どんなものにも存在している。「あの人が言うのなら間違いない」そういった不確実な部分に自分のすべてを委ねてしまうということは、実は危険なことなのだ。思考を失い、誰かや何かに自分を委ねるというそれは、「家畜」と変わらない。

「スピリチュアルなことはすべて素晴らしくて美しい」と無条件に賛美傾倒する人がいるが、やはりそれも「家畜化」されているだけだ。「自分で考える」という、人間にとって最も大事な要素を抜き取られている。

全部自分の中に取り込む前に、改めて自分で調べてたり考えてみる―それが抜け落ちている限り、「本当の学び」を得たとは言えない。

「教祖様の言っていることはすべて正しいことであり、真実だ」20年前、そう思い込んだある宗教の信者達が教祖の指示に従い、地下鉄に毒薬のサリンを撒いた。「三○さんが言っていたから」と、その言葉を鵜呑みにすることは、それとまったく変わらないことなのだ。

自分自身で調べて考えみる。物事を一度疑い、否定し、再構築する―そしてそこで得たものが、「真実」に近づく鍵となるのだ。




【追記】
以前三○さんが、「天皇家の宗教は神道」とおっしゃっていたが、天皇家には「菩提寺」があります。


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Mの属性

 2009-10-09
【属性 attribute】

①事物の有する特徴・性質。
②(哲)偶然的な性質とは区別され、物がそれなしには考えられないような本質的な性質。

(広辞苑より)



最近とみに思うのだが、考え方でも行動でも、毎回同じパターンを繰り返し、その度に後悔したり歯痒い思いをしている人というのは、結局M―マゾ体質なのだと思う。

その人達は一様に言う。「自分でも分かってるんです。『あー、またいつものパターンだ』って。分かってはいるんですが、でもそれがなかなか・・・」

「自分で認識してるんでしょ?だったらそこで止めたらいいじゃないですか」なのだが、当の本人達は「もう嫌なんですぅ~いい加減このループから抜け出したいんですぅ~」と言いながら、またせっせと同じことを繰り返す。そしてまた同じ言葉を言うのだ。「もう嫌!」と。

今は痛みが治まっている虫歯を、必要もないのにわざわざ舌で触って確かめずにはいられない―そんな様子によく似ている。「痛いのはこの歯だったよね?触ったらまた痛くなるのかな?今度はどれ位痛くなるんだろ?」そして痛みがぶり返すと、「ほら、やっぱりまた痛くなってきたー」と、痛みによって虫歯の存在を確認している。

治りが遅くなる、痕が残るとわかってはいても、やって出来たかさぶたを無理矢理剥がすような―。

「だから止めとけって言ったのに!」「だって気になるんだもん・・・」何のことはない。自分自身が”やりたくて”やっているのだ。

恐い思いをすると分かっていながらも、お化け屋敷に入ってしまう―そんな心理にも近いと思う。「恐かったぁー!もう二度と入りたくない!」と半泣き状態になりながら、次の夏が来ると、あの恐怖をまた確かめずにはいられなくなるのだ。

わざわざ虫歯を舌で確かめるのも、かさぶたを剥がすのも、お化け屋敷に入るのも、痛みや恐怖を受けることで「ほらやっぱりね!」という、ある種の精神的な満足感を得る為なのだ。さんざん過去にやり尽くして、結果は既に分かっているのに、例の「やっぱりね」を体験してみたい。「自分の予想は正しかった」それを確認したいのだ。ある種の被虐趣味、「マゾヒズム」と言ってもいいと思う。

同じ思考や行動パターンを繰り返し、その度に後悔する人も、それとまったく同じ。自分達が毎回取るパターンの結果を確かめずにはいられない。さんざん過去に同じ事を繰り返して、同じ結果になって、同じように後悔しているにも関わらず、「例の満足感」をまた味わいたくて仕方ないのだ。

本人達が口々に落胆を訴えていたとしても、その裏には「満足感」が必ず存在している。苦痛と快楽の同居、そしてそれを自ら求めに行く―もう思いっきり「ドM」なのだ。環境に左右される性質の強い性格の問題というよりも、それはもって生まれた気質や天性、「性癖」と言える。

ドSの私からすると、毎回自分から痛い目に遭いに行くMの人達のその姿は「全然意味わかんねーし」なのだが、本人達が何と言おうと、M属性の人達は、もう一つの隠れた欲望、「ほらやっぱり」という例の落胆を今回もまた味わいたいという欲望を自ら満たしに行っているのだ。

いくらその人達が「そんなことはない!」と言ったとしても、「いやいや、そうですよ」なのだ。本気で嫌がっているなら、とっくの昔から、自分達がそのパターンの存在を認識しているのであれば、その時点で抜け出しているはずだ。未だにそこに留まり続けているということは、全然その気がないということ。ある意味「満足しているから」なのである。

人間が「本気」になった時、出るのは愚痴や溜息でなく、「行動」だ。それが伴わないということは、その人達が本心では「自分のパターン」の変更を望んでいないということなのである。

結局「人生においてMであり続けること」を自分で選択している。だから毎回痛い目に遭うと分かっていても、その行動や思考のパターンを変えようとしない。なぜならそれを変えてしまえば、もう一つの隠れた欲望、「ほらやっぱり」という例の感情を味わうこと、満たすことが出来なくなるから。

「なんだかんだ言ってる割には結構その状況好きでしょ?」なのだ。口では嫌だとかうんざりとか、抜け出したいとか言ってはいても、自分本来の「性癖」を変える気はさらさらないのだ。

ややこしいことに、その「性癖」は本人達のアイデンティティーの一部、もしくは完全に同化していたり―ということも多い。「それが消失するということ、その性癖を手放すということ=自分自身でなくなる」という思いが無意識に存在するので、結局本人達は思考や行動のパターンを含むすべてのことを変えずに、「そのままでいること」を選択するのだ。

そういった「生まれついてのもの」というのは、他人があれこれ口を出して治ったり、変わったりするものではないのだ。

「毎回同じような事で失敗する」「抜け出そうと思っても抜けられない」そう嘆いている皆さん、本当はそれを望んでいるのではないですか?

ループに陥るその原因は、痛い目に遭うことを自ら望んでいる、あなたの中の「M属性」が引き起こしているのだ。




【追記】
「Mの人」というのは、その都度理由をつけてセラピーやカウンセリングを受けに来ても、結局いつも「同じこと」で悩んだり迷ったりしている。一見まったく違う問題のようだが、その根本にある「原因」はまったく同じものだ。そしてその原因は何に繋がっているかというと、その人の中の「M属性」。

「迷う自分」「悩む自分」「繰り返す自分」といったものが、ある意味「普通の状態」になってしまっている。また「それこそが自分という人間である」と無意識で思っているので、結局それを改善したり解決しようという気はない。なぜならそれをしてしまえば「自分ではなくなる」し、何よりも「自分自身がそれを望んでいない」から。だから次から次に悩みを見つけ出す。「普通の自分」であり続ける為に。

口ではあれこれ言いながら、まったく行動が伴わないのがMの人達に共通する特徴だ。結局本人達は、その状態からいろいろな意味での「満足感」を得ているのだと思う。それがどんな形であっても、ある種の「利益」が得られるのであれば、人間というものはその状況からなかなか離れようとはしないものだ。

その中には「自分が前に進めない理由」を、過去生や今生での過去に見い出そうとする人も多い。実際にその部分と関連していたとしても、今度はそこに執着してこだわり続ける。結局「可哀想な自分」に終始することを、自分自身で選んでいるのである。


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11月 自死遺族グリーフケアの会 開催日時

 2009-10-08
11月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 11月1(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 10月29日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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声格

 2009-10-05
「人格」や「品格」という言葉がある。それと同様に「声」にも格というものは存在する―と私は思う。

ヒプノセラピーというのは、セラピストの「声」が物を言う。オペラ歌手の歌声からイメージするような「美声」である必要はないが、「いい声=質の良い声」であるのに越したことはない。

セッション中、クライアントはセラピストの声の誘導で、催眠状態に入っていく。クライアントが潜在意識の深部にアクセスしている最中、それを妨げるようなものであってはいけない。大き過ぎず小さ過ぎず、大袈裟過ぎず、ゆったりと落ち着いて、冷静でありつつも深い安心感を与えるような―。いろいろな意味で「深み」がある、そんな声であることが望ましい。

いろいろと調べてみたのだが、「いい声」とは、ノイズが少なくよく響き、話し方や間の置き方、声の大きさというものが大きく関係しているようだ。特に「声の質」を左右するのは「ノイズ&ハーモニクス」、雑音と響きのバランスにあるらしい。


自分自身が声を使う仕事をしているせいか、やはり人の声というものが気になる。セッション中にクライアントの方と話している時は勿論だが、普段テレビを見ている時でも、そこから流れている声をいつの間にかチェックしていたことに気づくことがある。

訓練を受けたテレビ局のアナウンサーであっても、「いい声」でない人はいるものだ。聴いていると段々苦痛になってくるので、そういう時はすぐにチャンネルを変える。結構面白がって見ている24時間放送のテレビショッピングの番組も、同様だ。興味がある商品でも、商品を説明しているナビゲーターの声が良くないと、音声を消して画面だけ見ている。

癇に障るというか、釘か何かでガラスを引っ掻いているような音を延々と聞かされているような気になってくるのだ。「いぃぃぃぃぃーーーッ!」という感じで、イライラしてくる。気分はジャイアンのリサイタルを無理矢理聞かされているのび太君。


声質や話し方を含む「声」というものは侮れない。「その人自身のすべてが声に出る」と言っても過言ではない。多くの人は、多分自分の声というものを普段それほど意識することはあまりないと思う。

だが、これまで多くのクライアントの人達を観てきて思うのは、「すでに声に(すべてが)表れている」ということだ。話し始めて間もない時点で、その人自身の性格や考え方等の片鱗が見えてくる。

お会いする前に電話で話した時などは、声から受けた印象やそこから描いたイメージというものが、実際のそれとほとんど変わらない。安定感のある声の人は、いろいろな意味で「バランス」が取れているし、そうでない人は何かが不足していたり、欠けていたりする。「声」が与える情報は、想像以上に多いのだ。

人間というものは、本来備わっている「五感」を使って相手を判断する。特に初対面の場合、視覚と聴覚からの情報が、判断材料の大半を占めている。

ある調査で、興味深い事実が事実が判明している。それによると、人は相手が話している内容よりも、大きさや高さ・抑揚・話し方等を含め、「声そのもの」から感じるもので相手の印象を決定付けているらしい。


特に仕事で人と接していて思うのは、話し方や抑揚等を含め、「声で損をしている人が多い」ということ。「この部分を変えたら、人に与える印象がもっと変わるのになー」「もっとコミュニケーションがスムーズになるのに」という人が結構多いのだ。

例えば、一本調子で話す人というのは、人付き合いを苦手としていることが多い。もともと一人でいることが好きで苦にならない。「大事なことだけ伝わればいい」と思い込んでいる節があるので、メモや報告書を読み上げているような感じで、あまり感情が感じられない。悪く言えば、「言いっ放し」で突き放すような印象を受ける。

経営者や、組織の管理職に就いている人等、日頃から命令や指示を出すことに慣れている人も、一方的な話し方をする人が多い。そんな人ほど部下とのコミュニケーションに悩んでいたりする。話し方や発声の部分で、「ここを変えたらどうですか?」とアドバイスを差し上げたりすると、実際にそれが功を奏するということもよくあるのだ。

声がひょろひょろと定まらず、時々裏返ったりする人は、いろいろな意味で「不安定」だ。安定感のない声と同様、自分の中のポリシーや信念といったものが定まり難い傾向がある。人の意見に左右されたり振り回された挙げ句、結局何も決められなかったり―という傾向の人が多い。

営業職の人や、弁護士や検事等、相手を説得することが必要な仕事に就いている人も、独特の癖がある。人の話はよく聞くのだが、相手を言い負かすというか、「相手より優位に立つ」という意識があるせいか、相手よりも高く大きいトーンで、畳み掛けるように話す人が多い。相手の声に自分の声を被せるような感じ。

仕事上ではそれでOKかもしれないが、プライベートでも同じ調子だと、相手が威圧感を覚えたりする可能性が大きい。頭がきれる人が多いので反応も素早いのだが、人によっては急かされたり、尋問されているようで落ち着かなく感じることがある。どちらかというと、弁論大会の出場者のような話し方に近いかもしれない。

極端に声が細くて小さい人やぼそぼそ喋る人は、一見内気に見えたりするが、中味は結構その反対だったりする。あまり表面には出さないが、実は「あなたが私の話を聞きなさいよ」的なものが存在することが多い。

「私の声が小さい?だったらあなたが耳を澄ませて聴くべきでしょ」相手に自分を合わせようとする気はあまりない。むしろ相手が自分に合わせるのが当然―と思っているようなところがある。意外と自己主張が強く、マイペースなタイプだ。

地声の大きさとは別に、むやみやたらと大声を出すような人というのは、その声の大きさとは逆に、意外と気が小さくて神経質な所があったりする。自分を誇示したい、大きく見せたい、自分の存在を認めてほしい―そういった願望を持っている。自分の中の弱くて小さい部分を見せまいとするが故の大声なのだ。

あからさまな作り声や話し方も、ふとした瞬間に「地」が出ることがある。いくら「わたくしは○○ですの」「お父様、お母様」などと上品ぶった言葉を使ったとしても、その人の普段の生活にそういった要素が含まれていない場合、そこに「調和」はない。所々繋ぎ合わせたような、ちぐはぐな印象だけが残り、強調される。

自分では上手くやりおおせたと思っていても、周りの人はその違和感を、確実に五感で捉えているものだ。外見はいくらでも変えたり隠したりできる。だが指紋と同様、その人の声紋、「その人の本来の声」というものは変えられないのである。


数年前、ボイストレーナーをしている方がセラピーにいらっしゃった。セッション終了後、「ボイストレーニング受けられたんですか?」と聞かれたので、「いえ、一切受けてないです。地声です」と答えると、「そうなんですか?いや、仕事柄やはり声が気になるもので。『ええ声やな~』と思ってたんです」と、もったいないことをおっしゃってくださった。

昔から友達などに「ミラちゃんの声、好き」と言われたり、友人の結婚式の二次会で司会をした時、「プロの方ですか?」と聞かれたことはあった。だがテープに録音された自分の声を聴いて、「げっ!変な声~」と思ったことはあっても、それほど意識することはなかったのだが、やはり本職の方に褒めていただくと嬉しいものである。

先日も数年ぶりに知人と電話で話をしたのだが、その方が電話を切る間際におっしゃった。「でも樫田さん、前と変わらない腰の低い声で安心しました」大変お世話になった方で、こちらは「滅相もございません!」なのだが、そのひと言には改めてハッとさせられた。

「以前と同じ声で安心した」というその言葉で、日頃から自分が心掛けていることが、今のところは出来ているらしい―という確認にもなった。そして同時に、改めて気が引き締まった。

やはり「声には出ている」のだ。人となりや心根等、いろいろなことが知らず知らずのうちに。そして周りの人はそれを完全に感じ取っている。その人を測るバロメーター。そう、「声は語る」のだ。





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仏を殺せ

 2009-10-02
最近やたらと「女神の・・・」「天使の・・・」で始まるヒーリングやリーディング、アチューンメント、セミナーの案内メールや郵便物の類が届く。

毎度のことに少々うんざりしながらも、ちょっとネットで検索してみた。まあ驚いた。「女神 ヒーリング」「エンジェル ヒーリング」のキーワードで、それぞれ120万件、100万件のサイトがヒットするではないか。

正直、ちょっと背筋が寒くなった。200万件を超えるこの中に、果たして「本物の天使」「本物の女神」と繋がっている人はどれだけ、いや、本当に存在しているのだろうか?

大抵は、「女神○○と繋がってメッセージを受け取ります」とか「大天使○○があなたをサポートしてくれるように働きかけます」とか、あちら側の世界での「大御所」というか、「超有名人」に相当する存在を引き合いに出している。

ネットだけで200万件以上、ネットに載っていないものまで含めたら、多分潜在的な数は少なくとも2倍以上にはなる。それだけの数のチャネラーやヒーラーが、常時「ビッグネーム」とコンタクト可能って・・・?謳っていることに目を通していくにつれ、疑問ばかりが膨らんでいく。

「もし同日同時刻に、世界のあちこちで千人のチャネラーが大天使○○と繋がろうとしたらどうなるわけ?順番待ちとかしてんの?」と思い、「天使のオーソリティー」と言われている世界的に有名な人の書いた天使本を読んでみたのだが、何だか「後出しジャンケン」されたような気分になった。

その本によると、「大天使○○」のような大御所様は、大変パワーがおありになるので、同時に複数(無限大らしい)の場所や人のところに行けるんだとか。「それはずるいよー」と言わざるを得ない。それだったら「何でもあり」、「言ったもん勝ち」ではないか。

大体、その大天使や女神が「100%本物」だという認定はどのように行われているのだろうか?もしそれが、大天使や女神の名を語る「成りすまし」だったら?「本物」と「贋物」の区別はどうやって?

そういった疑問に答えているチャネラーやヒーラーは皆無に等しい。「私が繋がっているのは間違いなく大天使○○です」「本物かどうかは感覚で判るんです」まったく根拠がないのだ。

「私がそういってるんだからそうなんですッ!」と、半ば逆ギレする人もいる。挙げ句の果てに、「信じられない人は霊的に覚醒してない」とか「心が曇っている人は天使や女神の存在を認めたがらない」等と言い出したり。

問題なのは存在の是非でなく、その「真贋」なのだ。皆が皆、「自分が繋がっているのは本物」と主張するのも、失礼かもしれないが余計に胡散臭い。200万を超える中に「すみませーん。実は大天使○○だと思ってたんですけど、なんか違うみたいですぅー」と言う人が数人くらいいてもいいような気がするのだが。そのほうが余程信憑性がある。


日本禅宗二十四流の一つ、臨済宗開祖・臨済は言っている。

「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷を殺せ。始めて解脱を得ん」

中国の唐の時代、寺院も経典も要らない、本尊も祀らない、ただ坐禅という修行を通し、自分自身の中に本来備わっている仏性を見い出すことを目的、「悟り」とする仏教が生まれた。教えを守るには、ただ人間だけがいればいい。そしてその人間こそが「仏」である―という思想を元に生まれたもの、「禅」だ。

禅の世界では、ただひたすら坐禅を組んで自分と対峙する。時にはその最中に「仏」と名乗る存在が現れるかもしれない。「自分は仏と会った」その思い込みが「自分は特別な存在である」という驕りを、「仏が現れたということは、自分は悟りを開いたのだ」そんな勘違いを生む。

臨済の言葉の解釈は様々ある。だが私は、「戒め」の言葉だと解釈している。「自分こそが本物である」「自分が繋がっているものが本物である」そういった驕り―ある種の「選民思想」に対する警告の言葉だと思うのだ。特に、「自分は女神や天使、高次の存在と繋がることができる」と言う人達に対しての。

瞑想の最中に、大天使や女神を名乗る存在が現れる。感激の涙を流してその存在を受け入れることは容易い。「仏に会いたい」そう思っていれば、自分の中にあるその期待や欲望は、やがて仏の姿を目の前に映し出す。

だが、そうやって映し出された仏が「本物」であるとは限らない。砂漠で道に迷い、水を求める旅人が、緑豊かなオアシスの幻影を見るのと同じことなのだ。自分の欲や期待は、時に本物を装った「偽者」を作り出したり呼び寄せたりすることもある。

「天使や女神と繋がりたい」「会いたい」「話したい」という執着や欲が強ければ強いほど、違う存在を引き寄せる可能性が高くなる。霊的に覚醒しているから、心が澄んでいるから女神や天使と繋がれるのではない。そう考えること自体、既に勘違いの選民思想に染まっている証拠であり、期待しているものとは別の存在から、「カモ候補」として目をつけられていたりすることもある。

わざわざ躍起になってコンタクトを取ろうとしたり、メッセージをもらおうとしなくても、今この時を一生懸命に誠実に生きている人に、天使も女神も微笑むのだ。



【追記】
以前「女神や天使と繋がった後は妙に肩が凝って重くなる」と言っていた人がいた。確実に「別の存在」と繋がっているのだと思います。


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