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浮気者の詭弁

 2009-09-25
心と体と魂は三位一体。「体だけ」「心だけ」の恋愛というものは本来あり得ない―と私は常々思っている。

ことに恋愛に関しては「いつも本気」の私、友達から「ミラちゃん見てると情熱的やし、なんか瀬戸内寂聴さんと被るねん」と言われて以来「小寂聴」を名乗っている私には、「その場限りの遊びの関係」という概念がどうもピンと来ない。

大体「浮気」と「本気」相手や状況によっていちいち言葉を分けること自体、どうなんだ?と思うのだ。国によっては一夫多妻、一妻多夫の制度もある。第一夫人が本気で、第二夫人が浮気―っていうことでもないと思うのだが。

周りから、特に女性からは「えー!?」と言われることが多いのだが、私は昔日本にも存在した「側室制度」もありだと思う。ただし、「男女共において」だ。オスという生き物は、同時に複数のメスを愛することが出来るといわれているが、それはメスに関しても同じ。男女差はあまりないと思う。

男性でも一人にしか目が向かない人もいるし、女性でも同時に複数の人を好きになる人もいる。「一人」か「複数」か―まあどちらにしても二分の一の確率なのだ。

若い頃は、「同時に複数?それってどーよ?!」と思っていた時期もあったのだが、世の中や人というものに対して、いろいろな意味で寛容になってきた今、「好きなら仕方ないわな・・・」と思うのだ。

一夫多妻制、一妻多夫制というのは、生物学的な観点、「本能」という面からしても、理に適ったことだと思う。同時に人間の心の持つ複雑さ、「どちらも好き」「全部好き」という揺れや矛盾といった部分を「自然な状態、当たり前のこと」として受け入れ、理解した上で作られたものだと思う。

何よりも「第二夫人」とか「側室」とか、社会的に認められた身分を与えるということは、ちゃんとそこに「責任」といったものが存在している証拠だ。「本気である」という意思表示でもあるのだ。相手にも、世間に対しても、きちんとそれを明確にしている。

だが一夫一妻制度になった今、女性にしろ男性にしろ、「浮気」と称する無責任な恋愛をする人が巷にわんさと溢れている。

事が発覚した時に「あれは一時の気の迷い。遊びであって本気じゃないから!」とパートナーに向かって必死に弁解するような人は、はっきり言って浅ましいというか、意地汚い。「この期に及んで四の五の言うくらいなら最初からそんな真似すんな!このタコっ!」と思う。

「ごめん!でも2人とも本気で好きなんだ!」くらいのことを堂々と言ってのける器でないなら、意地汚いつまみ食いや盗み食いは控えて、脳内妄想の域で留めておいたほうがよっぽどいい。その時の自分の感情や行動に対して、「これは本気」「あれは浮気」といちいち判別してもっともらしい逃げ口上をでっち上げる人は、計算高くて卑怯に感じる。

「隠し通すのも愛情」という考えも世の中にはあるが、大抵のそれは、面倒臭い事態を避けたいがための詭弁。特に「前科」があって、更にそれが明るみに出たことがある人の場合は特にだ。あの修羅場がまた繰り返されることになるかと思うと、げんなりするのだ。

「今度同様のことが起こった場合には、これだけの慰謝料を払います」と、誓約書の類を書かされているのかもしれないし、既に弱みを握られている身にとって、ここでまた新たな事実が発覚してはこの先何かと不都合なことがあるのかもしれない。

「隠すのも愛情」と、さもパートナーの心情を慮ってのように見せても、「それって結局自己保身じゃん」と思う。ある意味「保険」を掛けているのと同じだ。仮に「浮気相手」との仲が終わっても、何の支障もなく、すんなり元の場所に帰っていけるのだから。

しかし、こう言う人に限って「詰め」が甘い。「墓場まで持って行く」ことができるのは、「運が良ければ」での話。例え自分が死ぬまで隠し通したとしても、自分の死後、相手が遺された家族を訪ねてきたり、真相を知る他の誰かがうっかり(わざと?)口を滑らしたり、写真や手紙や日記、携帯に残ったメール等で発覚したり―ということもある。予測不可能な「突然死」の場合には特にだ。

そういった場合、パートナーをはじめ遺された家族は感情、特に怒りの矛先を向ける人間が既にこの世にいないということで、余計に苦しい思いをすることになる。実際そういった話は世間に割と多いのだ。最後の最後で徹を踏むというか、余計な置き土産を残していく可能性も十分にある。

だが「キスマークや香水、石鹸の匂いが着いていた」「携帯のメールや着信記録が残っていた」等と確固たる証拠は掴めてないにしても、パートナーは「なんかおかしい・・・」と薄々どこかで感じている。ただ口に出さないだけ。

先日たまたまニュース番組の中で見たのだが、特に女性に関しては、相手の嘘を見破る能力がずば抜けて高いらしい。調査結果によると、その確率は約67%、対する男性は36%程度だった。まあ自分自身に置き換えても、その数字は納得できる。

ちょっとした視線の動きや仕草、声の調子等、相手の持っている「空気感」とでも言うのだろうか、その微妙な変化というものを女性は見逃さない。

それぞれの事情や考えがあってその時知らぬふりを通していたとしても、大分時間が経ってから「実は・・・」と自分から白状した時や、明るみ出た時に「ほら、やっぱり。そうじゃないかと思ってた」という展開になる場合がほとんどだ。人間の勘というものを舐めてはいけない。

まあその勘の恐ろしさを知っているからこそ、無理に残業を入れたり、友人と飲み歩いたり、インターネットカフェで時間を潰したりして、できるだけ顔を合わせることがないように、パートナーや家族が寝静まった頃を見計らって帰宅する人が世の中には多いのだとは思うが。

気の毒というか、往生際が悪いというか、「いろいろ大変ね」と同情心すら覚える。まあそれも本人の責任、自分で撒いた種なので。撒いた種から生えた草をそのまま放置して逃げ出すか、きちんと刈り取るかは、その人の「器」次第だと思う。

昔から「他人が持っていると羨ましくて、自分が持つと大変なのは別荘と愛人」などと言われているが、それに対してちゃんと手間隙掛けられる覚悟がなければ最初から手を出さないほうがいい。そのほうがよっぽど潔い。

たとえそれが一時の気の迷い、遊びの「浮気」と言い張っても、ちゃんとそこに「責任」は存在するのだ。



【追記】
まあいろいろな人から話を聞くと、奥さんや旦那さんなどの「正室」には「バレないように」ということも含め必要以上に気を使って、「側室」には全然気を使わないという人もいるみたいですね。

同じ秘密を共有している気安さもあるのだとは思いますが、聞かれてもないのに平気で「ご正室様」の話を出したりとか、「デリカシーのない人」も結構いらっしゃるようで。第三者側から意見を言わせてもらえば、「両方に気を使え!」ですね。それも責任であり、「ルール」だと思います。


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カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

浮気のボーダーライン

 2009-09-24
①2人だけで食事や遊びに行ったりする 
②手を繋いだり腕を組む 
③キスをする 
④セックスをする

「どこからが浮気だと思いますか?」と聞かれた時、人によって答えは違う。「2人だけで会おうとする時点でもう許せない!」と言う人もいれば、「手を繋ぐくらいだったらまあ・・・でもキスはダメでしょ」と答える人もいる。「最後に自分のところに戻ってくるのであれば、時々の『出来心』は仕方ないかな~」と、寛容な(?)考えの人まで様々だ。

20代くらいまでは、私の浮気のボーダーラインは「③キスをする」だった。だが現在、私にとってのそれは②になった。「手を繋いだり腕を組む」時点で「はい!そこからは浮気ですよ~!」と思う。

「外国人の友達もいて、向こうに住んでたこともあるのに?あっちではキスとかハグとか普通でしょ?手を繋いだだけで浮気認定って厳しくない?」と、友人達は意外らしい。

確かに欧米ではキスやハグの習慣がある。そういった習慣がない国の人間から見ると、一見誰彼構わず気軽にそれを交わしているように見える。だが、よく彼らの様子を見ていると、結構気を使っているのだ。特に異性に対してそれをする時は。特に配偶者や婚約者等、既にパートナーがいる人などは、妙な疑いを持たれないよう、きちんと「加減」を弁えている。

キスやハグ等、「体に触れること」がどれだけ人の心理に影響を与えるのか、習慣を通じて彼らは体で、無意識で理解している。あくまでも私の勝手な推察なのだが、欧米で近親相姦が発生する率が日本より桁外れに高いのは、キスやハグといった習慣が少なからず影響しているせいではないかと思うのだ。

「体に触れる」ということは、いろいろな意味で、想像以上に心身に多くの影響を及ぼす。セラピストの仕事をしていると、その関係性や影響というものを日々実感する。手や腕も「体」。「たかが手、されど手」なのだ。

以前のエントリー「触れない理由」でも書いたことだが、病気等明確な理由や原因があってのもの以外のセックスレス、セックスの行為そのものだけでなく、キスやハグを含めたボディータッチがないという状態は、「相手に興味がない」ということだ。

相手に対する愛情があれば、触れたいと思うのが自然なこと。逆にそれがなければ、相手に触れたくないし、触れられたくない。


学生時代、アルバイト仲間と一緒に飲みに行った帰りのことだ。その中に偶然家が近所の人がいた。悪い人ではないのだが、生理的に受け付けないタイプ。まあ同じ職場ということで普通に仲良くやってはいたが、それ以上の興味はなかった。

一人で帰すにはちょっと危なっかしいくらいに酔ったその人を、同じ駅を利用している私が送っていくことになった。一緒に電車に乗って、地元の駅に着いて、その人の家の方角に歩いていた時にこう言われた。「手、繋いでいい?」「やだ」間髪入れず即効で断った。

男友達の一人も同じことを言っていた。「残業の帰りに同期の子が腕を組んでこようとしてさ。カバン持ち替えたりしてガードしたよ。何とも思ってない子だから参ったわ」

お互いが合意の上で手を繋いだり腕を組む、互いの体に触れる、それを許すということは、やはりそこに何かしらの感情がなければ成立しない。憎からず相手に異性としての魅力を感じたり、好意を持っていなければ「起こりえないこと」なのだ。


例えば、風俗の類に行くことも、男性は「男の甲斐性」「ほんの出来心」「生理的なもの」などと、いろいろもっともらしい理屈をつけたがる。だが、そういう人に限って行きつけの場所を持っていて、毎回指名する「お気に入りのコ」がいたりする。

なぜお金を払ってでも毎回同じ子に会いに行くのか?なぜならそこには、金銭のやり取りがあって、お互いの需要と供給が合致する「ビジネス」とは別に、「肌の触れ合いから生まれたもの」があるからだ。

少し前に、女の子の膝枕で耳かきのサービスを提供する店の常連客が、お気に入りだった従業員の女性を殺害する事件が起きたが、仕事上必要なサービスであったとはいえ、あれも「膝枕」という行為が図らずも生み出してしまった誤解が発端になっている。

犯人は、その従業員の女性に会うために毎月30万くらいの金額をつぎ込んでいた。「いつもこれだけの金額を使っているんだから、こっちの気持ちはわかってるだろ?付き合ってくれ」そう言って自宅まで付け回していた。

多くの人は認めたがらないが、風俗だろうがホストクラブだろうが、お金を払ってでも毎回同じ女の子、男の子に会いに行くということ自体、それはもう「ただの遊び」とは言えない。本人が意識していなくても、遊び以上の感情が存在している可能性が高い。

お気に入りのホステスさんやキャバ嬢、ホストの男の子に、マンションや車、ブランド物を貢ぐのは「本気」だから。男女関わらず「どうでもいい相手」には、金銭に関することを含め、いろいろな意味でシビアになる。それが甘くなるということは、やはりどこかにそういう感情が存在するからだ。

ひょっとしたら、あれが膝枕でなく、普通のエステ用ベッドに横になって専用の器械等を使用して自動で行われるものだったら、「あのスタッフのおねえさん可愛いな」程度で終わった可能性もある。

特に昔に比べていろいろな意味で人との繋がりが希薄になっている今、例えそれが商売上のものであったとしても、「人肌の温もり」「肌の触れ合い」というのはそれだけ人を惹きつけるものなのだ。


最終的な行為、セックスだけが「浮気」ではないのだ。むしろそこに至るまでのプロセス、「手を繋ぐ、腕を組む」という一見何でもないような、取るに足らないと思えるような行為からそれはもう始まっている。「体から始まる恋愛もある」というのは、そういうこと。ほんのわずかな触れ合いも、侮ってはいけないのである。

心と体と魂は三位一体。「体だけ」「心だけ」ということは、本来不自然なものなのだ。そういった意味では、精神的なものだけで繋がっている「プラトニックラブ」や、「体だけの関係」というものはあり得ないものなのかもしれない。



QOL―生命の質

 2009-09-21
今日は「敬老の日」。調査によると、今日現在、日本の100歳以上の人口は4万人を超えるらしい。男性5447人、女性349524人―その内の86.5%が女性。やはり生き物としての生命力は、女性の方が強いのかもしれない。

以前何かの本で読んだのだが、もし男性が妊娠・出産が可能と仮定した場合、全体の8割は陣痛時の段階に、その痛みでショック死するだろうという予測がされていた。無事に出産に至る割合は、1割程度らしい。身体的な構造も含め、やはり「女は強し!」のようだ。

ただいつも思うのは、その中のどれだけの人が、心身共に健康で「人として」生きているのか?―ということ。医療の進歩と共に寿命は延びたかもしれない。だが、やはりその中には「ただ生きているだけ」という人も、かなりの数含まれていると思うのだ。そう考えると、果たして「長生き」ということは、人間にとって本当に幸せなことなのだろうかと思う時がある。


ここ数年、医療の現場を中心に「Quality of life(QOL)生命の質」というものが重視され始めている。

1989年、WHOがガンの診断時から終末期に至る過程を重視する医療を提唱したのがきっかけとなった。最近では医療だけでなく、「どれだけその人が人間らしく、望み通りの生活や人生を送ることができているか」という尺度として、様々な分野で幅広い意味で使われている。

確かに幸せの尺度いうものは人それぞれだが、そのQOLがカバーする領域―身体・心理・ウェルビーイング・人間関係・宗教・スピリット(魂や意識)という部分から考えると、ただ単純に「長生き=めでたい」だけでいいのかと、いろいろ思うところや考えるところも出てくる。


数ヶ月前、実家の父と電話で話をしていた時、親戚のおばあちゃんが亡くなったことを知らされた。父の姉―伯母の嫁ぎ先のお姑さん。伯母の義理の母親にあたるので、私達とは血の繋がりはないのだが、子供の頃に遊びに行った時など、すごく可愛がってもらった記憶がある。

失礼な話なのだが、驚いたのは亡くなったということでなく、「最近まで生きていらっしゃった」ということだ。なんと御歳104歳!思わず「ひえ~!」と仰け反った。最後にお会いしたのが小学校6年生くらいだったと思う。確かに子供の目から見ても、かくしゃくとした元気なおばあちゃんだった。

長年書道の先生をしていて、上品で知的な人だった。私と弟が遊びに行くと、ニコニコしてお菓子を用意してくれたり、犬を連れて一緒に散歩に行ったり、いつも遊び相手になってくれた記憶がある。大人になるにつれて足が遠のいてしまったが、父が訪ねる度に「お子さん達は元気?」と気にかけていてくれた。

最後に会ったのが30年位前、その間に伯母が亡くなり、伯父が亡くなり・・・ということもあり、おばあちゃんのこともいつの間にか忘れてしまっていた。というよりも、勝手に「亡くなっているだろう」と思い込んでいた。言い訳するわけではないが、私達がよく遊びに行っていた当時、既に70代半ばでいらっしゃったので、「もうてっきり・・・」と思っていたのだ。

自分の息子やその嫁のほうが、先に逝ってしまった。息子夫婦が亡くなった後、その息子である私の従兄とその家族と同居していたのだが、亡くなる日の2日前まで庭の草取りをしていたという。

「なんだか疲れたわね~」と、その翌日から起きられなくなった。だが食欲はちゃんとあり、亡くなった当日、朝ご飯をきちんと全部食べた後、「ちょっと寝るわね」とそのまま眠っている間に逝かれた。寝ついたのはたったの1日。まさに大往生。

それだけでも「おばあちゃんすごい!あやかりたい!」だったのだが、98歳まで近所の老人ホームで週に2回、書道を教えていたというのだから、もう口あんぐりである。入所者の方、生徒さん達は自分より全員年下。家族の顔も、自分がどこにいるのかもわからなくなっている人達が多い中、頭も耳もはっきり、元気でかくしゃくとしたおばあちゃんは、「スーパーばあちゃん」と評判だったらしい。


今回の100歳人口調査によると、100歳を超えても心身共に元気で過ごしている人というのは、70歳、80歳を過ぎてから、絵画や書道、軽い運動等、何かしら「新しい挑戦」を始めた人が多いという。

何かに対して興味や好奇心を持てるということは、本当の意味での「若さ」があるのだと思う。それがどんなものであれ、新規で何かを始めるということは、やはりエネルギーが必要になる。それができるということは、それだけのパワーがあるということだ。若さに年齢は関係ないのである。

先日、日本で最高齢の男性、京都在住の112歳の方の日常生活の様子がニュースで流れていたが、朝食後から3時間、虫眼鏡を使って新聞を隅々まで丹念に読んでいらした。やはり社会やその動きや流れといったものに対する好奇心を失っていない。

「長寿の秘訣は?」というインタビューに、「規則正しい食事と前向きな心持ち。『苦にするな。嵐の後に日和あり』ですよ」と答えていらっしゃった。112年の生涯からの言葉は、そのへんの妙な自己啓発セミナーの講義より、よっぽど重みがある。本当の意味で、「質の高い人生」を送っていらっしゃるのだなと思った。

この112歳のおじいちゃん然り、104歳で亡くなった親戚のおばあちゃん然り、その「Quality of life 生命の質」を見習いたいものだ。「どう生きるか?」42歳の「ひよっこ」が改めて考えさせられた今日、敬老の日。

全国のおじいちゃん、おばあちゃん、元気で楽しく毎日をお過ごしください。



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共に歩む人

 2009-09-20
世間一般では、セラピストは「導く・治す・癒す人」であり、クライアントは「導いてもらう・治してもらう・癒してもらう人」というような、ある種「一方的な関係のもの」という捉えられ方をしている。また、当のセラピストやクライアント自身がそう思い込んでいる場合も少なくない。

特に心理分野に関わるセラピストやカウンセラーに多いのだが、相手―クライアントを「助けてあげたい、支えてあげたい」という思いを、仕事上のモチベーションや信念にしている人がいる。それは決して悪いことではないのだが、早晩「共倒れ」という憂き目を見る可能性がかなり高い。

「人を助けてあげたい、支えてあげたい」という思いからこの仕事に就いたセラピストやカウンセラーの中には、「誰かを助ける、支える」という行為を通して、実は「自分が救われている」という人がいる。

その人達にとって、誰かを助けたり支えたりするということは、かつての「助けてもらえなかった自分、支えてもらえなかった自分」に手を差し伸べていることと同じなのだ。クライアントに過去の自分の姿を投影する。相手の中に、かつての自分の姿を見ている。クライアントの役に立つことや支えになることで、望んだものを与えてもらえなかった「過去の自分」が間接的に慰められるのだ。

そういった傾向にあるセラピストやカウンセラーの多くは、「自分のために生きていない」。人のために、誰かのために―美しく思えることだが、その人達にとってのそれは、ただの「共依存」。自分は相手の役に立っている―そう実感することでしか、自分自身の存在意義を見い出すことが出来ない人である場合が多い。「人に必要とされることを必要とする人」だ。


「セラピスト」の語源は、「共に歩む人」だ。上から目線のような、高みから一方的にあれこれ指図したり、「~してあげる」というような押しつけがましい性質のものではない。

その人の隣に並んで、しゃがんだり寝転がったり、背伸びをしたり、角度や高さを変えたりして同じものを見てみる。そうすると、クライアントが見ているものとは「違う何か」が見えてくる。「ねえ、ちょっとここからも見てみない?さっきとは違って見えるよ」と、別の視点に立つことを提案してみる。

クライアントがそれに応じて「あれ?本当だ~」と、新たな視点を発見したら、「じゃあ、次はこっちからも見てみる?」と、その人の手を取って他の場所に一緒に向かう―それがセラピストの「本来の役割」だ。クライアントは共に歩む相手であって、自分の「身代わり」ではない。


本当に人を支えられるのは、「自分のために生きている人」だと私は思う。自分以外の何かや誰かのために―というのは、後から付いてくればいい。自分のために生きた上で、「おまけ」として、最終的に誰かを支えたことになったり、役に立ったことになればいいだけの話だ。

「自分自身の人生を生きること、生きていること」これこそがセラピストやカウンセラーに必要な一番の資質だと思うのだ。大体自分の人生を引き受けることが出来ない人間が、他人の人生まで引き受けられるわけがない。

どんな仕事も人生も、すべては「自分のため」にある。他の誰かのため、何かのため―そこに意義を見い出そうとすること自体、もう最初から軸ずれしている。

「~のため」自分以外の所に支点を置いて始まった仕事や人生が、万が一思ったようにいかなかった場合、「~のため」は「~のせい」と、それはたちまちの内に非難に変わる。「自分は悪くない」と、被害者や犠牲者のポジションに自分を置き換えてしまうのだ。

自分以外の何かに重きを置いた他律のそれは、結局自己満足の域を出ない。美辞麗句を並べ立てて雄弁に語っても、結局は「自分のため」でしかない。

また、「セラピストに何とかしてもらおう、解決してもらおう」「セラピストやカウンセラーというものは、すべての答えを教えてくれる人だ」という間違った期待を抱いている人も、いま一度自分を省みつつ、認識してほしいと思う。

「人は何も教えることはできない。できるのは、その人自身が自分で見つけるのを助けることだけだ」ガリレオはそう言い遺している。

自分の人生に対する答えは、自分で見つけるものなのだ。「誰かに何とかしてもらおう」それはただの依存。自分の人生に自分で責任を持つ覚悟をする「自立」からはかけ離れている。時には誰かのサポートを受けることも必要だが、それを全部相手に丸投げして「あとはお願いします」と、答えが出てくるのをただ待っているだけではダメなのだ。

それぞれ自立しながら共に歩む―セラピストとクライアントの関係は、本来そういうものだ。

「人の役に立ちたい」そういった思いでセラピストやカウンセラーを志望する人が最近増えている。サロンで相談を受けることも多い。そう思うことは素晴らしい。だが、「その思いはどこに繋がっているのか?」ということを、まずきちんと認識しなければ、本来の役割を果たすこともできないし、セラピストやカウンセラーであり続けることは難しくなる。

「人のため」もいいが、まずは「自分のため」に生きてみる。そして、それが結局は「人のため」に繋がっていくものなのだ。


【追記】
セラピストとクライアントの関係は、ある意味「夫婦」や「結婚」というものに似ている。「相手に幸せにしてもらおう」一方的で勝手な期待を相手にしているうちは、何も始まらないし、本物の関係は築けない。


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ロイヤルオーラ

 2009-09-17
秋篠宮ご夫妻のご成婚から2~3年経った頃だったと思う。ご夫妻を2メートルの距離からお見かけしたことがある。

当時の職場は、東京の西新宿にある高層ビルだった。ある時、仕事の合間を縫って、連絡通路で繋がれた隣のビルの1階にある銀行に向かっていた時だった。

連絡通路を歩いていた時、向こうから「樫田さ~ん!」と、ブンブン手を振っている女性がいる。「あ、Iさん」彼女は、私が今から行こうとしていた銀行の営業ウーマンだ。彼女の銀行とうちの会社が業務提携していたこともあり、彼女とは顔見知りだった。

「こんにちは~」と手を振り返すと、興奮した面持ちのIさんが、こちらに向かってダーッと走って来た。「樫田さん!紀子様がいる!!」「え?!どこ?!」「こっち!」彼女に手を引っ張られて走っていくと、連絡通路の出入り口近くの某カメラメーカーのショールーム前に、小さな人だかりができている。

見ると、ショールーム入り口、ドアの前に秋篠宮様と紀子様が立っているではないか!思わずIさんと顔を見合わせた。「紀子様、きれい!!」


その数日前、偶然新聞の記事で見ていたのだが、そのカメラメーカーのショールームでは、皇太子様や秋篠宮様の従兄にあたる方の写真展が開かれていた。アメリカのホスピスとその患者達を題材にした日本初の写真展であり、皇族所縁の人が撮影者ということもあって、新聞でも割と大きな記事で取り上げられていた。

ご夫妻はその写真展にいらしていたのだ。ちょうど関係者からの出迎えの挨拶をお受けになっていたところだった。

私達の手前に紀子様、その隣に秋篠宮様が立っていらっしゃった。お忍びだったのか、SPも3人しか付いていない。周りにいる私達にも何の制限もなく、お2人が立っていらっしゃる所から半径2メートルほどのところに自然とできた人垣にも「ここから先は入らないでください」的なロープも張られていなかった。

「SP少ないですね」「こんな簡単な警備でいいのかな」Iさんと最前列でヒソヒソ話しながらも、目はお2人に釘付けだ。特に目の前にいらっしゃる紀子様に。秋篠宮様もスラリとした素敵な方だったのだが、どうしても紀子様に目が行ってしまう。

淡いピンクのスーツを着た紀子様は、本当に美しかった。意外だったのは、背がお高いこと。皇族で一番背が高い178センチの秋篠宮様と、それほど変わらないのだ。3センチ位のヒールの靴を履いていらっしゃったのだが、多分170センチ前後はおありになると思う。

お肌も色白ですべすべ、お顔なんかキュッと小さくて、足も細くてスタイル抜群。映像や写真から受ける印象よりも、ずっとスリムでいらっしゃった。同性の私でも見惚れるくらいだ。秋篠宮様の一目惚れ―というのも頷ける。

秋篠宮様より半歩下がって立っていらっしゃるその姿は清楚で控えめ。楚々とした佇まいなのだが、自然と目が惹きつけられてしまう。何というか、天女や観音様、マリア様といったような常人離れした美しさ。「高貴」「神々しい」とはこういうものか―と思った。

発しているもの、「オーラ」が全然違うのだ。まるで真珠のような、柔らかくてしっとりとした美しさ。後にも先にも、あの時の紀子様と同じ雰囲気や美しさを持つ人に、私は一度も会ったことがない。

私達以外の人達も、紀子様に目を奪われて「綺麗」と口々に囁き合っている。会場に入られる時、お二人はボーッと見惚れている私達のほうを見て、にっこりと会釈をしてくださった。私達も慌てて一斉に頭を下げる。そしてお二人は会場の中に消えていった。

その間、多分5分程度だったと思う。だが、お二人のいらっしゃったその間、その場の空気が明らかに違っていた。明らかに澄んで清々しいものになっている。

Iさんとも言っていたのだが、ご夫妻の周りが「明るい」のだ。大袈裟でなく、まるで後光が差しているというか、ご夫妻から光が出ているような感じで。

私達の後ろにいた50代くらいのおじさんが、私達の話を聞きつけて、「やっぱりそうですよね?私だけかと思っていたんですけど」と話しかけてきた。「ですよね?なんだったんだろう?」3人で首を捻っていたのだが、本当に不思議な現象だった。


その昔、中世のヨーロッパ―イングランドやフランスでは、国王が手を触れただけで病気が治る「ロイヤルタッチ」という現象の存在が認識されていた。治る病気は限られたものだった等、諸説あるようだが、そういったことが現実に起こっていたのは事実だ。

だが、秋篠宮ご夫妻を間近で拝見して、その「ロイヤルタッチ」に関しても「十分あり得ることだ」と頷ける気がした。ご夫妻と私達の間を隔てるテープの類もなく、SPの制止もなく、お二人との間に自然とできたあの2メートルの距離、あれこそが「やんごとなき方達」との「差」なのだ。

近寄りがたいというのとはまた違う、「恐れ多い」というような、自然と平伏してしまうような、そんな「特別さ」。大統領や大臣クラスのVIP、世界のセレブリティー等ともまったく違う明らかに一線を画すもの、「犯すべからず、触れるべからず」そういった畏敬の念を自然と抱かせるような、皇室や王室だけが持ち得る「威厳」「風格」というものなのだと思う。

当時のアメリカ大統領、クリントン氏が来日中の時だった。ファーストレディーのヒラリーさんが単独で東京都知事を表敬訪問したところに偶然居合わせたことがある。都庁の正面玄関に横付けされた車から颯爽と降り立ったヒラリーさんは、黒のパンツスーツにブロンドの髪が映えて、「威風堂々」といった感じだった。その頃から「スーパーウーマン」のオーラ全開だったが、やはり皇族、王族の持つそれとは違っていた。

阪神淡路大震災の時、天皇皇后両陛下が被災地を訪問なさった時の映像に、お声をかけられて感極まって涙を流す人の姿があったが、悲しみや感謝の感情以外にも、お二人の「神々しさ」のようなものに魂が反応したのだと思う。人というものは、そういった人知を超えた神々しい何かに出会った時、涙を流すものなのだ。


「さっき紀子様見ちゃった~♪」「え~?!いいな~!」と、散々職場の同僚を羨ましがらせた挙げ句、家に帰っても父に「今日紀子様見ちゃった~♪」と自慢すると、妙な所で負けず嫌いの父は、「へえ!でも、お父さんなんか美智子様見たことあるもんね~」と反撃してきた。(まあ「この親にしてこの子あり」なのだが・・・)

だが、私が「紀子様オーラ」について話すと、父も同様のことを言っていた。「なんだかわからないけど、美智子様の周りがやたら明るくて眩しかったんだよな~」と。

やはり「やんごとなき方達」というのは、オーラまで私達パンピーとは違うようだ。「わたくしはあなた方とは違う世界の人間ですのよ」とばかり、変にカリスマを気取りたがる「勘違いの平民」とは訳が違う。黙っていても滲み出てくる、神々しさに自然とひれ伏したくなる―それが備わった「格」というものなのだ。


【追記】
中世ヨーロッパの宗教画で、聖人や高貴な人物の頭の上に光の輪が描かれていることがある。あれもやはり、その人物の持つもの、放っているものである「オーラ」を表現しているのだと思う。やはり、その人の中の「光」といったものは、五感で感じ取れるものなのだ。


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データは「未来」じゃない

 2009-09-15
確かに「データ」というものは、今後に対する予測や目安の材料になる。だが、それはあくまでも予測、「過去の実績から予想すれば、おそらくこういった結果になるであろう」という域を出ないものだ。データが導き出した予測が、たとえ100%に近い数値を示していたとしても、必ずその通りの結果になるとは限らない。

この世には、「絶対」「必ず」「間違いなく」というものは存在しない。「一寸先は闇」その言葉が示すように、予想や想像もしなかったことが起こるのが人生というものだ。自分に、世の中に、これから何が起こるのか―そんなことは誰にもわからない。

ソビエト連邦や「ベルリンの壁」の崩壊、黒人のアメリカ大統領、太陽系の惑星から冥王星が外される等、2~30年前には「絶対にあり得ない」と言われていたことだ。「人類が100メートルを9秒台で走るようになるには、あと50年かかる」ある物理学者が導き出した説は、その1年後にあっさりと覆された。「絶対」は存在しないのだ。

人生についてもまったく同じ。過去の経験、そこから得た情報や知識―確かにそれを活用することは大事だと思う。だが、その過去のデータ、「経験値」を遥かに超えたことが人生には起きる。


以前の知り合いで、やたらデータにこだわる人がいた。「もっとデータを集めてから」「過去のデータによると」「今までのデータにはそういったことは無いから」もともと理屈っぽい人ではあったが、そのこだわり具合を見ていると、未来や未知の世界を過度に恐れているように思えた。

過去の実績や結果、データにこだわる人というのは、「過去に縛られる人」でもあると思う。

「やってみなくちゃわからない」そういったチャレンジ精神が欠けている。それが悪いとは言わないが、融通が利かないというか、振り回され過ぎというか・・・自分で自分の可能性を狭めているように思える。

過去に経験したことのない未知の分野に踏み出す時でも「データ云々」となるので、いつまで経っても前に進まない。私のような「走りながら考える」タイプの人間からすると、そのスタンスはなかなか理解し難いものがある。大体「やったこともないことを始める前に集めるデータって何よ?」と思うのだ。

確かにある程度のリサーチは必要だが、始まってみなければわからないことのほうが断然多い。データを集めるにしても、どれくらい集めればいいのか、いつまで集めればいいのか―ということになる。切りもないし、収集もつかなくなってくる。結局訳がわからなくなって、その場に留まり続けることになる。

20代の頃に勤務していたメーカーでは、商品企画・開発部門に所属していたので、市場調査やそこから得たデータというものの重要性もよく知っている。だが、やはりそれはあくまでも「データ」でしかなく、「絶対」ではないのだ。

例えば、新製品発売前に行ったモニター調査で7割の人が支持しなかった商品でも、いざ市場に出してみると大どんでん返しの大ヒットになることも多々あった。当然その逆のこともあった。

そもそもデータというものは、あくまでも「統計上のもの」なので、「必ずその通りになる」と断言するものではない。仮にそのデータが99%の確率を示していたとしても、まさかの、残りの1%が起こる―ということもあり得るのだ。

スポーツ経験者ならわかると思う。スポーツの試合では、最後の最後で予想だにしなかった大逆転がよく起こる。ゲームセットまでの残りの2秒でロングシュートが決まったり、9回裏2点差の二死満塁の場面でサヨナラホームランが出たり、首位を争っていた隣のコースの選手が、ゴール直前で転倒したり―。人生もそれと同じ。「何が起こるかわからない」ものなのだ。

実績や経験値を重視するのもいいが、それはあくまでも「参考」の域に留まるものに過ぎない。振り回されたり盲信したり、必要以上に崇め奉るものではないのだ。

走り出してからではないと得られないデータもある。むしろ、その部分のほうが大きいと思うのだ。人生に関しては。

他の人達の人生のデータ取りをして、それを基準にして自分の人生を作り上げていく、他人の人生の良い所をそれぞれ切り取って繋ぎ合わせるような「パッチワーク」は人生にはあり得ないのだ。自分の人生は、あくまでも自分自身で作り上げていくものだから。

自分の人生を歩くのに、他の誰かの人生のデータなんていうものは必要ないのである。



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カリスマ

 2009-09-13
「カリスマ性」というと、一瞬でその場を魅了する力、威圧、圧倒する雰囲気やオーラがあることだと多くの人は思っている。だが、「真のカリスマ性」を持った人というのは、むしろ良い意味で「普通」だ。威圧、圧倒などという言葉とは程遠く、「発するもの」は穏やか―と言っていい。

「カリスマ」に対して華やかさや明らかに人とは違う「一線を画す何か」を求める人達には、彼らの持つ雰囲気や言動は、ある意味「拍子抜け」するものに映るかもしれない。だが、その穏やかさや静かさは、「真の自信」に裏打ちされたものからやって来る。

自分自身、その信念や思考に確固たるものを持つ人は、自分の存在を声高に周囲にアピールする必要などないのだ。自分を必要以上に目立たせるような振る舞いや、「特別な存在」に見られるような言動や雰囲気を作る必要もない。

わざわざそんな凝った「演出」などしなくても、「真のカリスマ」には、自然に、いつの間にか人々の目や関心が引き寄せられるものだから。どんなに小さな声で控えめに話していたとしても、人々の耳は確実にその人の声を捉える。部屋の隅で目立たぬように立っていたとしても、人々の目は必ずその人の姿を見つけ出す。

そしてそれは、人々の目をパッと惹きつける打ち上げ花火のような一瞬の華やかさや明るさで終わる「一過性」のものではない。その人の言葉に耳を傾けずにはいられない。その人の存在を求めずにはいられない―そういった状態に、いつの間にか気づかぬうちに引き込まれている―それが「カリスマ」なのだ。

ただ目立つこと、一瞬だけその場の視線を集め、人々の注意や関心を惹きつけることは誰でもできる。花瓶の豪華な花に目を奪われ、その香りを期待して近づくと精巧にできた造花だった―という感じで最初の関心は徐々に失われ、その場に埋もれていく。

だが、カリスマのそれは「継続」する。埋もれたり消滅することなく、その場に調和しながらもその輝きを失わない。時折それはキラッと小さな煌きを見せる。そしてその煌きは人々を惹きつけて止まない。

だが「カリスマ」本人は、自分の中のそういった「要素」をそれほど意識しているわけではない。彼らにとったら、そんなものは「どうでもいいこと」なのだ。ただ、「自分が”自分として”そこにあること」だけが大切なのである。それらしく見せるわざとらしい演出とは程遠い「自然体」、肩肘張らない脱力加減の妙が人々を惹きつける。

自分の中にカリスマ性があるかどうか、自分は人を魅了できる力があるかどうか―そういったことを気にする人ほど、その要素、本質からは遠ざかっている。というより、気にする時点でその人の中に「カリスマの要素」など存在しないのだ。

言うなれば、カリスマは「ロングセラー」「定番」のようなものだ。ある時期に、ある層の、ある種の人達だけに熱狂的に受け入れられ支持されるような類の、一過性の「流行りもの」とは明らかに違う。「昔流行ったあれ、何だっけ?」「あー、なんかそういうのあったよね」と、時間と共に失われていくものではないのだ。

時が経ったとしても、しばらく遠ざかっていたとしても、いつかまたそこに戻っていく。また目が向く。そして盲信や停滞でなく、「やっぱり間違いない」「やっぱり変わらない」という安心や信頼をそこに感じるのだ。新たなものをドンドン取り込みながら、根っこの部分―信念は、ますます太く揺るぎないものになっていく。そして、それに触れる度に、いつも新たな何かを得ることや感じることができるのである。

ナントカ夫人とかナントカ姉妹とか、ああいった派手な「わたくしを見るがいいわ」的な、人を圧倒するような「いかにも!」というきらびやかさや、目立つことが「カリスマ性」なのではない。一瞬で目を奪われるが、だんだん「お腹いっぱい」になって関心が薄れていく―それは「ただ派手で目立つ」ということだけ。

わざと奇をてらった振る舞いや格好をして周りとの「差別化」を図ったり、自分を大きく見せようと必要もないのにいきがったり高圧的な態度を取ったり―そんな小細工はカリスマには必要ないのだ。

本当のカリスマというものは、群衆の中にこそ存在している。ひょっとしたらその中の多くの人達よりもひっそりと、普通以上に普通の生活をしているかもしれない。だが、どんな職業に就いていようと、どんな場所にいようと、その人の中にあるそれは、時折強いきらめきを見せるのだ。


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シュガー・オン・シット

 2009-09-10
例えば、朝の通勤電車の中、電車が揺れる度に同じ人に何回も足を踏まれた。その人は自分があなたの足を踏んだことに明らかに気づいている。だが、その人から「すみません」の言葉を聞くことは一度もなかった。

「ったく・・・礼儀知らない人だな」その人に対する腹ただしさが込み上げてくる。だが次の瞬間、あなたはその怒りの感情を打ち消そうと必死になる。「こんなことで腹を立てるなんて人として器が小さい」

例えば、その同僚とはどうにも相性が悪い。何かにつけてあなたを目の敵にする。最初は仲良くしようと努力もしたが、相手の態度は一向に変わらない。正直なところ、できたら話もしたくないし、関わりたくもない。顔を見るだけで憂鬱になる。「あの人か自分、どちらか別の部署に異動にならないかな~そうしたらきっと毎日楽だろうな~」

そんなことを知らず知らずに考えていた自分にあなたはハッとする。そして思う。「こんなことじゃダメだ。人を嫌うなんて良くないことだし」頭に浮かんださっきの考えをすぐに追い払おうとする。


誰かや何かに対しての怒りや嫌悪、妬み等、いわゆる「負の感情」と呼ばれるものが自分の中に存在することを認めない、「自分はそんな感情を持つような人間ではない」と、それを見せまい、悟られまいと、「いい人」でいようとする。

「臭い物には蓋」「猫をかぶる」的なこの状態を、英語では「sugar on shit」と言う。「sugar」は言わずと知れた「砂糖」、「shit」は「くそ!」「ちくしょう!」等、失敗した時や悪態をつく時に使われる言葉でもあるが、「排泄物」を意味する。

汚い物の上に砂糖をかけて隠す。誤魔化す。一見砂糖で綺麗にコーティングされて見映えはいいが、中味は変わらない。いくら自分の中にある負の感情を隠そうとしたり、見てみぬ振りをしたとしても、その時自分が感じたものを完全に消すことなどできないのだ。そういった感情が自分の中に存在した、存在するという事実は変わらない。

ここ最近、妙な理屈や理論を掲げた「スピリチュアルもどき」の思想が世の中に蔓延しているせいか、怒りや嫌悪、妬みといった感情を持つことは罪悪だと思い込む人が増えている。

「怒りを手放しなさい」「許しなさい」「愛しなさい」私からすれば「はぁ?なんすかそれ?」である。大体、どうして怒りや嫌悪といった感情を持つことが「いけないこと」になるのだろうか。

その怒りや嫌悪が「正当なもの、きちんと理由のあるもの」であるなら、そういった感情を抱くこともまた「正当なこと」ではないだろうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか?)」キリストでさえ、ゴルゴタの丘で磔になった時、最期、神に対してある種の「恨み」と言ってもいい感情を抱いたのだ。

例えば、愛する子供を通り魔に殺害された両親が、その犯人を憎んだりすることは「いけないこと」なのだろうか?理不尽に子供を奪った犯人を許したり、愛したりすることは必要なのだろうか?「そうしなければならない」ことなのだろうか?

「原因」と「結果」は比例する。「因果応報」という言葉はその法則を指している。怒りや嫌悪を引き起こすようなことが起これば、怒りや嫌悪が生まれるのも当然なのである。

自分の中の負の感情を隠したり、押し殺してまで「いい人」を演じる「sugar on shitな人」というのは、この因果応報の「法則」を無理矢理に捻じ曲げようとしている。それも間違った形で。

「怒ったり、嫌ってもいいじゃん」と、私は思う。神や仏ではないのだから。感情があってこその「人間」なのだから。正当な理由があるのなら、怒ってもいいし、嫌っても構わないのだ。なぜそこで「~してはいけない」「~であるべき」と、自分に不要な「縛り」をかけるのか。

結局そこにあるのは、「人からどう思われるか?どう見られるか?」という拘りでしかない。「周りからの評価=自分の価値」と思い込み、それに囚われているだけ。ある意味、「自分を自分で評価する目、自分に自信を持てない人」でもある。

「自分がそんなことで怒ったり、人を嫌っている人間であるということがわかったら、周りの人はきっと自分を受け入れてくれない」そういった「恐れ」を抱いている。

べつにそんなことは「問題」でも何でもないのだが、あえてその人達の「問題」は何か―と言うのなら、「負の感情を持つことが悪い」と思い込んでいること、「負の感情を持っている自分を隠そうとすること、否定すること」だと思う。

怒ることや嫌うことが「人として器が小さい」ことなのではない。「私はそんな人間じゃありません!そんなこと思ったこともありません!」」と、その感情を隠したり否定しようとすることこそが、「小さい器の人間がすること」なのだ。そこまでして、本来の自分を隠してまで、自分を大きく、良く見せたいと思っているということなのだから。

本当に器の大きな人間は、そんな小細工をしたり、見栄を張ったりしない。大体「器の大きさ云々」ということは、自分が決めることではない。結局そこにあるのは「人から器の大きな人間に見られたい」といった願望なのだ。気にしてるのは「人の目」であり、「こう見られたい」という自分自身の欲。


人間なのだから、時には腹が立ったり、落ち込んだり、嫌ったり、心が揺れるのは当たり前。それが「普通」の状態。毎日が平穏無事で心穏やかで・・・などということはあり得ない。むしろその時の感情を、無理矢理否定することなく、気の済むまで向き合えばいいと思う。

さんざん向き合った挙げ句、疲れ果てたり、飽きてきたりして、自然と「もういいや」と思えるようになったら、それでいいのだと思う。「どうやって隠そうか」と思案するよりも、「どうやってその感情を処理しようか、発散させようか」ということを考えた方がよっぽど建設的だ。

たとえその時、その感情を押さえ込むことに成功したとしても、その分の「揺り返し」は後々どこかで、形を変えて必ずまたやって来る。

「完璧」になろうとしなくても、「聖人君子」になろうとしなくてもいいのではないだろうか。自分の中のそういったドロドロした感情も含め、「これが自分。これも自分」と思えるようになったら、それで十分だと思う。

負の感情を完全に消し去ることはできない。だが、それが気にならなくなるくらい、自分の長所、光の正の部分を広げていけばいいのだと思う。光で影を包み込んでしまえばいい。

長所も短所も含め、「ありのままの自分」を認識するということからすべてが始まる。「ありのまま、事実」を受け止める強さと潔さがあれば、sugar on shit―自分を偽り、誤魔化す必要などなくなるのだ。



【追記】
人間なのだから、さまざまな感情や好き嫌いがあって当たり前だ。特に人に対しては、理性よりも本能から来るもののほうが先にたつ。どうしても受け入れられない、好きになれないという人を、無理矢理好きになる必要はない。自分の心を曲げて、「好きにならなきゃいけない。仲良くしなくてはいけない」と思うから苦しくなる。

例えば、職場等、個人の好き嫌いよりも優先しなくてはならないものがある場においては、人として、社会人として、同じ職場の人間として、礼節ある態度で、誠実に、普通に接していればいい。同じ場所で時間を過ごす間だけは、互いが気持ち良くいられるよう、挨拶や必要な心配り等をしていればいいのだと思う。

「怒り」に関しても、要は「伝え方」だと思う。頭ごなしに怒鳴りつけることだけが怒りを表現する方法ではない。態度や言葉等、ちょっとした部分を変えるだけで、穏やかにそれを伝えたり、表現したりすることができるのだ。それが「大人のたしなみ」というものです。




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驕れる者は久しからず

 2009-09-07
以前アメリカの医学生に密着したドキュメントを見た。全米でも優秀さと傑出した人材を輩出することで定評のあるその大学での入学後初の授業、講義を担当する教授が言った。

「自分が医者に向いていると思う者は手を上げろ」その場には60人前後の学生がいた。全員選りすぐりの優秀な学生ばかり。自信満々で、その大半が手を上げた。

それを見た教授が言った。「今手を上げた者はその思い込みを今すぐ捨てろ。自分が医者に向いていると思う奴は医者になるな」

一瞬シーンとした後、教室がざわめいた。「あの教授、何言ってんだ?」戸惑った様子の学生達に、教授は同じ言葉を繰り返した。「自分は医者に向いていると思う奴は医者にはなるな。この言葉の意味をこれから自分で考えていけ」

10年以上前の番組だったのだが、「医者に向いていると思っているならなるな」という言葉が意外だったので、今でもよく覚えている。その時は、何となく「こういう意味なのかな」と思うことはあったのだが、セラピストの仕事に就いている今、その言葉の意味がはっきりとわかる。


この仕事を始めて以来、千人を超えるクライアントと会ってきた。セッションの方向性や、内容、セラピストとしてのあり方・・・あらゆる面で年々理解が深まり、自分のスタイルというものが確立されていくような気がする。「余裕が出てきた」とでも言ったらいいのだろうか。

だが、今でも私はセッション前には緊張する。緊張を「恐怖」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。それは初めて会う方でも、リピーターの方でも変わらない。開始時刻の5分前には、その緊張はMAXになる。そういった状態はどこから来るのか―それは「自分はこれから一切手抜きのできない一回きりのがちんこ勝負に臨む」という緊張感からだ。

以前のエントリーでも書いたと思うが、私は自分がこの仕事、セラピストやカウンセラーに向いていると思ったことは一度もない。「なんでこんなことやってるんだろ?」と、未だに自分でも不思議に思う時がある。

人生初のヒプノセラピーに衝撃を受けて「この仕事すごい!私これやる!」そんな単純な理由で始めてしまった。「人の役に立ちたい」「困っている人を助けてあげたい」そんな高い志を持った人達が多いこの業界で、「自分がやりたいから」というだけの理由で、「人様のため」などとこれっぽちも思ったこともなくこの仕事に就いてしまった私は、ある意味「異色」だ。

本来の私は「ネコ人間」なので、仕事関係以外は自分がしたいことしかしないし、やりたくないことは一切やらない。自分が大好き、自分が最優先という性格なので、本来「誰かのために!」などということは不向きなのだ。確かに過去には自分以外のものを優先していた時期もあったのだが、ある時面倒くさくなってやめた。

自由奔放、自分勝手といった面は、仕事では一切出すことはない。それはモードチェンジ、仕事スイッチへの切り替えだ。

一人でいることが大好きで苦にならない。常に自分のペースじゃないと嫌。誰かの面倒を見るのも見られるのも好きじゃない。確かに人と話すことは好きだが、「=人が好き」ということではない。私はむしろ人が好きというよりも、「生き物としての『人』に興味がある」のだと思う。実際、学生時代に進路を決める時、人類学や民俗学の分野も選択肢の中に入れていた。

そんな私がよりによって人と密接に相対する仕事に就くとは・・・人生とは意外性に満ちていて且つ面白いものだ。

タイムマシンで10年前の自分に会いに行って、「今から10年後、セラピストの仕事してるよ」と言ったら、多分10年前の私は「嘘だぁ~(笑)」と、絶対に信じないと思う。


様々な因果で始まったこの仕事だが、年々面白さと奥深さが増してくる。そして、「慢心」は禁物、常に自分を省みる「謙虚さ」を持ち続ける意識や覚悟を持ち続けることが必要な仕事だという実感も強くなってくる。

「自分はこの仕事に向いていると思って」とこの仕事に就いた同業者が意外に多いので驚いたことがある。「人と話すのが好きだから」「人の役に立つことをするのが好きだから」その理由というか、根拠は人それぞれだが、不思議なことにそう言った人から辞めていく。

先出の教授の「自分が向いていると思うなら医者になるな」という言葉はこういうことかと思う。

「自分は向いている、適性がある」そう思っている人というのは、その時点で既に慢心がある。「自分はできる」どこかで舐めてかかっているというか、心に「隙」が生まれるのだと思う。その隙が、「自分はできる→できている→できているに決まっている」という根拠のない自信、傲慢さに繋がっていく。

そして、その先にあるのが、医療ミスや患者やスタッフとの確執、焦点のぶれた訳のわからないセッションやカウンセリング、症状の変化や新たな発見、本質を見い出す目の喪失や怠惰さといったものなのだと思う。

「自分が医者に向いていると思う奴は医者になるな」あの言葉は、「常に謙虚であれ」という戒めの言葉だ。どんなに長くその仕事に就こうが、どれだけ多くのクライアントと接したのか、それは然程重要なことではない。経験の長さや多さに胡坐をかいていれば、それは遅かれ早かれ必ずやって来る「失墜」を意味する。いわゆる「慣れ」だ。

「慣れ」は、「プロ」としてのスキルの向上や探究心といったものを忘れさせる。心理学に関わらず、どんな分野でも日々進歩や変化というものがある。それを知ろうとすること、学ぼうとすること、興味を持つこと―「より遠くへ、より高みへ」そういった気持ちや意識を保つことが要になるのだと私は思っている。

仕事と、その上で関わる人々を敬う気持ちと謙虚さと―。そして一期一会の中にある神聖さへの畏怖の念と―。決して驕らず、慢心せず―。常にまっさらな心で物事や人に臨む覚悟と―。そういった気持ちを持ち続けること。そして仕事や人に対する興味―探究心というものをどれだけ持っているかということが、「セラピストであり続ける」ということの核になるのだと思う。

自信を慢心と混同する驕れる者は、やがて滅び行くものなのだ。


【追記】
以前別のテレビ番組で、高層ビルの窓拭き業をしている方が話していた。「自分がこの仕事に就いて間もない頃、先輩に言われたことがある。『恐怖心がなくなったらこの仕事は辞めろ』この仕事に就いて10年近く経つが、自分は今でもビルの高さが恐いです」慣れが引き起こす油断が大事故に繋がる。どんな仕事でも慢心は大敵だということだ。


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10月 自死遺族グリーフケアの会 開催日時

 2009-09-06
10月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 10月4(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 9月31日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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「感」で物を言うスピリチュアリスト達

 2009-09-04
ナントカリーディングとか、ナントカと繋がるチャネリングとか、ナントカ占いとか・・・そういったものに関わっているチャネラーや占い師、「スピリチュアリスト」と呼ばれる人達の中で、どれだけの人が「直観」と繋がっているのだろうか?

失礼かもしれないが、その大半、9割以上の人達が繋がっているものは、「直観」でなく「直感」だと思う。この2つの言葉を混同している人も多いが、意味はそれぞれまったく違う。

【直観】
一般的に、判断・推理等の思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接的に知的に把握する作用。「直観」ではなく、「直知」。

【直感】
説明や証明を得ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ。

(広辞苑より)


「直観」は、感情等を含まず、客観的に事実を直視し、いわば「理性」で物事の本質を見抜くこと。対する「直感」は、字そのものが表すように、「感情」等流動的なもので左右される性質のものだ。理性と感情―まったく相対する位置にある。


チャネリングでも占いでも、「人知を超えた大きな存在」「高次元の存在」と繋がってそこからメッセージを降ろすという割には、その内容は妙に感情的且つ情緒的、そして多言過ぎる。

詐欺師は饒舌で話が上手いというが、それと同じものを感じるのだ。大体、60億を超える人間がいるこの地球で、アジアの小さな島国の一般市民相手に1~2時間も「メッセージ」とやらをペラペラ喋る高次の存在って・・・。「そんなにヒマなんですか?」と思う。

私は、そういった「高次元の存在」というものは、多くの人が望み思い描いているような温かくて優しく、明るい雰囲気というよりは、むしろ冷静で淡々とした、どちらかというと素っ気ないとも言えるような「あっさり」した傾向にあるものだと思っているので、愛だの光だのとやたらと情に訴えかけて強調してくるような饒舌な存在は、正直胡散臭く感じる。

むしろ「高次の存在からのメッセージ」というよりは、その媒介役となっているスピリチュアリスト個人の「直感」からのものとしか思えないケースが多々あるのだ。

特に、その人が感情の起伏が激しすぎるタイプ、それをコントロールすることができない感情に支配されやすいタイプの場合は尚更だ。今まで公私両面でそういった方達にお会いしてきたが、世間でどんなに「すごい」と評判の人であっても、やはり過度に感情の起伏が激しい人というのは、明らかに「直感」でものを言っているとしか思えない部分が多い。

自分のその時思ったことや感じたことを「真実」として口にする。話を聞いていても、「それってあなたの価値観とか好き嫌いだけで言ってませんか?」と思うことが度々あった。大体その人が言うことが本当のこと、「真実」であるという証拠はあるのだろうか。

言うことがその都度その都度コロコロ変わる。同じことを質問しても、前回と真逆のことを言ったりとか。当の本人は、そのことをまったく覚えていない。もしもそれが「直観」に根付いたものだったら、本当に「高次元の存在」と繋がった結果のものだったら、毎回答えが変わったり、正反対の答えが返ってくるなどということは起きない。

彼らの答えが毎回変わるのは、感情で、その時の気分や雰囲気に左右されることが多い「直感」から来たものだから。彼らが繋がっているのは、「直観、真実」ではなく、「自分の感情や価値観」なのだ。特に相手に対しての「思い入れ」が強い場合などは、余計にその傾向が強くなる。

自分の友達や知り合い全員が顧客になっていたり、顧客を友達として取り込むような公私混同するタイプの人は特にそうだ。それまでに得た情報や印象で物を言っている。それは明らかに「直感」だ。

以前、個人的に知り合いだったチャネラーの人と一緒に食事をしていた時、いきなり「メッセージ」と称することを言い出した。私と実家の家族との関係に関しての発言だったのだが、「本当は~だと思う」とまったく根拠のないことを言い始めた。

私からすると、「それはどこから出てきたわけ?そういった事実はないんだけど」だったのだが、その人は譲らない。その「メッセージ」を真実として前提において話すので、余計混乱してくる。

あまりに決めつけが激しいので、こちらもイライラしてきて「何を根拠にそう言うの?うちの家族のことや事情を全部知っているわけじゃないでしょ?大体そんな事実ないし」と言うと、その人は言った。「言葉では説明できないけど、自分が感じたことをそのまま言っただけ」

「なーんだ」と思った。「それってただの『感』で言ってるだけじゃん。要は思いつきとか思い込みで言ってるってことでしょ?」

そういった人達―直感で物を言う人達の常套句、「どうしてかわからないけど」「なんとなくここ(胸を指して)でそう感じる」「言葉では説明できないけど」というのは、それが「直観からのものではない」ということを示している。

「理屈ではない」多くのスピリチュアリストは言う。だが、スピリチュアルの世界にも「法則」と呼ばれる理屈が存在する。特に「直観」からのものは、「どうしてそう思うのか」というその根拠をきちんと説明できるものなのだ。

「感情」や「直感」が悪いと言っているのではない。ただ、瞬間瞬間で変化する実体のないそれは、時と場合によっては根拠のない思い込みや妄想を生み出すことがある。

特に感情に支配されるタイプの人というのは、「感情=自分」「自分が感じたもの=真実」なので、それを否定されると自分自身の存在まで否定されたように思い込む傾向が強い。相手がその人の言葉を否定したり疑問視した場合、大抵「逆ギレ→ケンカ→決裂」という流れになる。

自分の思ったことを口にするのは自由だが、例えばそれが相手の人生やプライバシー、心に関するデリケートなことである場合、時にはそれを飲み込む、自分の胸にだけしまっておくということも必要だと思うのだ。

「感じたから」「思ったから」と何でも口に出せばいいというものでもない。その判断ができないということは、人としての未熟さの表れだと思う。無邪気さや素直さとはまったく別のものだ。何よりも、必ずしも「自分が思ったこと=絶対の唯一無二の真実」と思い込むこと自体傲慢だ。

「真実」に感情は要らない。そのままの状態を、一切の感情や好き嫌い、自分自身の価値観を排除して、その事象をありのままに観る「観察者の目」だけが必要とされる。そこに感情や価値観等の「私情」が少しでも入り込めば、それは真実からかけ離れた偏ったものになる。ただの個人的な好き嫌い、個人的な判断の結果、思い込み、妄想というものに変わってしまう。

占いやチャネリング、リーディング―そういったものを否定しているわけではない。依存するのではなく「参考」にする気構えがあれば問題ないと思う。ただ、くれぐれも「ぶれない人」を選んだほうがいい。どれだけその人が冷静に事実を観る目を持っているか―それをちゃんと見極める目を、自分もまた持つこと。

だが、それを見極める目を持ったら、自分自身の直観と繋がるようになったら、多分そういったスピリチュアルなものに目が向かなくなるはずだ。なぜならその直観にこそ、自分が求めている答えが存在するのだから。


【追記】
友達や知り合い全員がクライアント、クライアントを友達として取り込む―そういった公私混同タイプのスピリチュアリストには特に気をつけたほうがいいと思う。公私の区別がつかないという時点で、もう「プロ」とは言えないし、公私に渡っての一石二鳥を狙っているというそれは、ある意味「支配」だと思う。

セッション中や鑑定中に涙を流したり、やたら感情が高ぶるスピリチュアリストも正直どうかと思う。「何かが、誰かが憑いている」可能性も否めない。繋がっているのは高次元の存在でなく、「憑いているもの」ということもある得るので・・・。まあすべてを鵜呑みにせず、自分で真実を見極める「心の眼」を養いましょう。


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虫愛づる姫君

 2009-09-03
先日所用で難波を歩いていた時、何やら歩道の一角に人だかりが出来ていた。「何?」と覗き込んでみると、カブトムシやクワガタが入ったケースがいくつも並べられている。「オオクワガタ 4000円」「カブトムシ3500円」段ボールの切れ端に黒いマジックで、それぞれの値段が書かれている。

かれこれ20年近く前のバブルの時代、東京都内のデパートでは、カブトムシやらクワガタやらが1万円前後の値段で売られていたこともあった。信じられないことに、そんなアホみたいな値段がついたカブトムシが飛ぶように売れていたのだ。バブルが弾けた今でこそだいぶ値崩れはしたものの、やはり結構な値段が付いている。

「クワガタほしい~」と孫にせがまれてお財布を出すどこぞのおじいちゃんを見て思った。「カブトとかクワガタは買うもんじゃなくて採ってくるもんでしょ!(`・ω・´)」


昔から、女の子の多くは虫が苦手―と相場は決まっている。小学生の時でも、窓から蛾が入ってきたりすると、キャーキャー大騒ぎして逃げ回るのは大抵女の子だったし、男の子が校庭の草むらから採ってきたカマキリとかバッタを頭の上に乗せられて、恐怖で固まっていた子もいた。

そういうリアクションを取る子というのは、なぜだかとても女の子らしく見える。か弱いというか、「守ってあげたい」的な保護欲をくすぐられる。同性の私から見てそう思うのだから、男の子などからしてみれば尚更可愛く思えるのではないだろうか。女としてのアドバンテージを取られたようで、ちょっと悔しかったりもする。

ある時同じクラスの男の子がやって来て「手出して」と言う。「うん」と言って手を出すと、校庭で見つけたらしいカミキリムシを手の平に乗せられた。

「カミキリムシだね~( ・ω・)」

「・・・なんで驚かないの?(´・ω・`)」

「・・・なんで驚かなきゃいけないの?( ・ω・)」

「もっと驚けよぉ~!!ヾ(*`Д´*)ノ」

「だって恐くないもん( ・ω・)」

「なんでだよお~!もっと驚けよ~!恐がれよ~!ヾ(*`Д´*)ノ」

「・・・(なんだこいつ?)??( ・ω・)??」

平安時代の短編物語集「堤中納言物語」に、毛虫が大好きな一風変わった、今でいう「毛虫オタク」のお姫様の話「虫愛づる姫君」があるが、平気で虫を触ったりするような女性は、やはり平安の昔から敬遠される傾向にあったのだ。女性に求められる要素というものは、今も昔もさほど変わっていないのかもしれない。

いろいろと知恵のついた今なら理解できる。全然怖くなくても「きゃ~こわ~い!(>ω<*)」と、男の子の喜ぶリアクションを即座に取れる。それもかなり上手く。(I君、あの時はごめん。あれから数十年経って、君が求めていたものがわかったよ ( ̄∀ ̄)b)


子供の頃から、虫を触るのは何ともない。1時間くらい庭にしゃがみ込んだまま、アリの行列をジーッと観ているような子供だった。高校2年の頃、顔に向かって飛んで来られて以来ゴキブリはNGだが、それ以外のほとんどの虫は大丈夫。特に虫好きという訳でもなかったのだが、小学生の頃は同い年の幼馴染みの男の子達と、よく虫捕りに行っていた。

今でも「夏休み」というと、カブトムシやクワガタ採りのことを思い出す。朝の5時頃、遊び場になっている近所の空き地に集合して、自転車で片道20分くらいかけて町外れにある雑木林に向かう。狙いをつけた木を2~3人くらいで揺すると、バラバラとカブトムシやクワガタが落ちてくるのだ。

虫かごがいっぱいになるまで採って一旦家に帰り、朝ご飯を食べて、採った虫を持って誰かの家に集合する。そこで互いのカブトやクワガタを交換し合ったり、相撲を取らせたりして遊んでいた。

その中で、私は「名人」と呼ばれていた。採る名人ではなく、「育てる名人」。特別なことは何もしないのだが、カブトムシやクワガタを幼虫から育てるのが得意だった。これがまた、どういうわけか、かなりの確率でちゃんと立派に育つのである。

家から車で20分ほどの所に、父の姉―伯母が住んでいた。その家の敷地内にある竹林の中に、なぜかいつも結構な量のおが屑が捨てられている場所があった。そこを掘ると・・・いるのだ。カブトムシやクワガタの幼虫が。多い時で20匹くらい、少ない時でも必ず5~6匹はいたのだが、それを家に持って帰って成虫になるまで育てるのである。

母などは「そんなに採ってきてどうするの?」と呆れ顔だったが、子供時代に虫捕りに熱中した口の父は、ノリノリで付き合ってくれた。ある時などは、縁側の横に「虫かご専用棚」を作ってくれたこともあった。そして成虫になったカブトムシやクワガタを、近所の虫捕り仲間に分けていた。だんだん育っていく様子を見ているのも面白かったし、友達が喜んでくれるのも嬉しかった。

OLの頃、通勤電車を待っていた地元の駅で、その頃の幼馴染み兼虫捕り仲間だった男の子と十数年ぶりに偶然再会した。「わあ!久しぶり!」と乗換駅までの20分、子供の頃の思い出話をしていたのだが、その時に彼が「そういえば、よくカブトとかクワガタもらったよね?あれは嬉しかったな~」」と懐かしそうに言っていた。

「あの雑木林ってまだあるのかな?」「いや、あの辺は全部住宅地になったはずだから。多分なくなってると思う」「そっかー。考えたらさ、あの時採ったやつ、売ればよかったね(笑)」「あ、俺も同じこと思った(笑)」

でも私達にとっては、やはりカブトムシやクワガタは「自分で採るもの」なのだ。早起きして、友達と長い距離を汗をかきながら自転車こいで、みんなで協力して、採ったものを分け合って―。ビルの谷間で、知らない誰かが採ってきたものをお金を出して買う―ということは、「なんか違う」のである。

最近では、男の子でも虫を嫌がって触りたがらない子が増えていると聞く。親が嫌がるものには、大抵子供も同じような反応を示すものだ。そういった意味では、自然を知らない大人が増えてきているのかもしれない。

何だかんだ言いながら、良き昭和の時代に子供らしい時間を過ごせた私は恵まれていたんだな~と、しみじみ思う夏の終わり、今日この頃。

たまに「ほら見て~♪」と、セミとかカマキリを平気で掴んでドン引きされることもあるけれど・・・ま、いっか♪

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勘違いのイメチェン

 2009-09-02
「ちょいワル」「艶女(アデージョ)」等の言葉が流行るきかっけとなった雑誌が創刊された当初、街中で、いかにも「○オン読んでます!」「二○ータ読んでます!」という感じの人を見かけることがあった。

御堂筋線に乗っていた時、途中から乗車してきた30代後半くらいの男性が「まんまジローラモさん」だったのには、思わず二度見してしまった。何のお仕事をなさっているのかわからないが、ノーネクタイのスーツで、シャツのボタンを2つ開けて、首にシルバーのチェーンをするのを許されるのは、多分自由業だろう。

持ち物、外見、すべて「○オン参考にしました!」という感じなのだ。まあ失礼にならない程度に観察させていただいのだが、どうしても違和感が見え隠れする。本人も十分人の目を意識して「俺ってちょいワルだぜ」的に振舞っているのだが、こちらからすると「無理してないっすか?」という感じなのだ。いまいち「なりきれてない」というか。

中学高校時代を真面目に勉強一筋でがんばってきて、念願の大学に合格した子が「これから4年間遊びまくるぞー!」と今までとは打って変わったチャラ男に変身するような、いわゆる「大学デビュー」という言葉を彷彿とさせる。

男性でも女性でも、大抵「○○デビュー」したての人というのはすぐにわかる。いろいろな面でチグハグ感があるというか、調和していない。まあひと言で言えば「不自然」。

例えば、世慣れた風に振舞ってはいるが、その実目がおどおどして落ち着きがなかったり、その人の雰囲気と持っている物や着ている物の感じがしっくりしてなかったり。すべてにおいて「統一感」といったものが感じられないのだ。

御堂筋線で遭遇した「エセジローラモさん」も同様で、何かかしっくりこない。ファッション評論家のピーコさんではないが、「あなたの顔立ちとか雰囲気には『かっちり感』がある格好が似合うって。ちょいワルイタリア男より、NYのヤングエグゼクティブみたいな雰囲気狙ったほうがいいと思うけどな~シルバーのチェーンも要らないよ。首が太めだから余計短く見えるって。なんか窒息しそうに見える」などと頼まれもしないのに、脳内で勝手にファッションチェックをしていた。

「ジローラモさん」が下りた後、私の横に座っていたOLさん2人が「ボタン開けすぎやんな?」と、やはり彼の服装についてチェックを入れていたのには思わず笑いそうになった。見ず知らずの人間からこれだけやいやい言われるほうはたまったものではないと思うが、それだけ似合っていなかったというか、違和感があったのだ。馬鹿にしているということでなく、ズレた方向性が、何か痛々しく感じられるのだ。


数々のヒットメーカーで知られる作詞家の松本隆氏が、インタビューの中で「不純な動機で得た知識は、不毛な作品しか生まない」ということをおっしゃっていた。

Q.「作詞をする時、何を参考にするのか?」
A.「今まで自分で読んだ本、観た映画、自分がした体験」
Q.「これから、今、何かから吸収するということはあるのか?」
A.「しない。それは違う」

そして、先の「不純な動機で・・・」という言葉が出た。

結局、外見も含めての自分のキャラクター作りということもそれと同じだと思う。「流行っているから」「こういう外見になったらモテるから」「かっこいいから」それだけの理由で何にでも飛びつくのは、自分を知らない、わかっていないということだと思う。

付け焼刃的にインスタントに身につけたそれからは、浅薄さしか感じられない。例えば、普段立膝でテーブルに肘をついて平気でご飯を食べているような人が、正式な晩餐会や懐石料理の席で上品ぶって振舞ったとしても、ふとした時、思わぬ時にボロが出る。

化粧気のまったくない日焼けした体格のいいスポーツ少女が、いきなり巻き髪でファンデーションを塗りたくって、まつ毛にエクステ付けて、フリフリのドレスで女の子チックに変身!といっても、やはり無理があると思うのだ。だったらその健やかな外見を生かすようなファッションや髪型にしたほうが余程自然で美しく見える。

好青年が目いっぱい悪ぶってみても、「またまたぁ~わざとそんなことして~本当はいい人なんでしょ?」的な、自然とその人が醸し出しているもの、その人の本質のようなものは、どんなに隠そうとしても隠し切れないものだ。

職業に関してもそれは同じ。例えば、医者やカウンセラー、セラピスト、どんなに如何にも然と装ったとしても、その人の中に確固たる信念や自信が欠けている場合、それは患者やクライアントに全部伝わっている。それは医大やスクール等で学んで身につけるものではない。全部自分が過去に体験してきたこと、積み重ねてきたこと、いわば「人間力」から湧き出てくるものだ。

「医者らしく見られたい」「カウンセラー、セラピストらしく見せるには?」中には「その振りをするのが上手い人」もいるが、そういった「不純な動機」から後付けされた要素は、結局早かれ遅かれ崩れ落ちていく。そして不毛さだけが残るのだ。

自分がいくらそうなりたいとしても、自分の中にその要素が一欠けらも見られない場合、やはりそれは自分のものではない。今自分の中にあるもの、自分が今までに積み重ねてきたもの、その中からイメージチェンジの種、ヒントを見つけたらいい。いい意味での等身大、まずは「自分を知る」ということだ。

そしてそこに、自然な調和や統一感を感じられるとしたら、それはもう大成功だ。イメチェンというより、むしろ「隠れていた新しい自分の登場」。そして、そこで思い切り「新しい自分」を楽しんだらいい。人間どんなことも、「勝負は積み重ねてきたもので!」なのだ。



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成功者が強調する「ツキ」の実体

 2009-09-01
男女かかわらず、自分で会社を立ち上げたような、いわゆる「経営者タイプ」に特に多く見られるのだが、やたら自分の運とかツキといったものを必要以上に強調する人がいる。

「運やツキに恵まれる人=選ばれし者」という妙な選民思想が世の中にあるせいか、多くの人は「成功者」の話を鵜呑みにする。そういった人の成功談を聴く講演会やセミナーは、いつの時代も満員御礼状態だ。

20代の頃、何度かそういった講演会に足を運んだこともあるが、正直その人達の話を聴くごとに違和感が増してくる。彼らが殊の外強調する運やツキといったものに対して、「それって本当にそうなの?それを運とかツキって呼ぶの?」という疑問が湧いてくるのだ。

セラピストになってからは、仕事柄好む好まざる関係なく、そういった「ツイてる!ツイてる!」の人に会う機会が増えた。確かに「それはすごいですね~」という部分もあるのだが、前以上に違和感や疑問が増してくるのはなぜだろうか。


もう何年も前の話で、結局お会いすることはなかったのだが、関西から離れた場所に住む会社経営者を名乗る方からヒプノセラピーのご予約をいただいたことがあった。その予約方法というか、連絡の仕方があまりにも一方的で勝手なものだったということもあり、今でもよく覚えている。

ヒプノセラピーの場合、内容がデリケート且つ慎重さを求められるものなので、こちらから最低限のお願い事項を設定させていただいている。必須事項の記入漏れがあった場合や当日の予約は受けられない等、その旨もサイトで繰り返し説明している。

その日は午前と午後、2件の予約が入っていた。午前のセッションが始まる1時間程前に、予約メールのチェックをしていた時のことだった。その中に今日のセッションを希望するメールがあることに気づいた。受信したのはつい30分ほど前。とりあえずメールに目を通してみると、こちらでお願いしている書式を完全に無視した内容だった。

それに加え、「とにかくどうしても今日受けたい」「今から大阪に向かうのでよろしくお願いします」「すぐ返信をください」こんな具合で一方的な希望だけを書き連ねてある。こちらの都合を尋ねるとか、そういうことも一切なし。

「今から大阪に向かうって・・・何それ。知らないよ~」困ったと思いつつ、とりあえず連絡しなくちゃ・・・と緊急連絡先を見ると、記入必須事項である電話番号が書かれていない。「え~!?」と思い、とにかく送られてきたメールにそのまま返信をしたのだが、一向に返事が来ない。宛先が携帯メールのアドレスだったので、多分PCからのメールをブロックする設定になっていたのだと思う。

電話番号は書かれていない、メールも届かないで、連絡の取りようがない。結局そのままセッションに突入して、夜の7時までメールチェックができなかった。最後の方を送り出した後、PCを開いたのだが、その方からのメールが立て続けに入っていた。

「連絡はまだでしょうか?」「遅い時間帯でもいいので絶対に受けたいんです」「どうしても今日じゃないとダメなんです」など等。相変わらず一方的で自分の都合しか考えていない。こちらからすれば「そんなこと知るかー!」である。自分勝手な言動に振り回される方の身にもなってほしいと思う。

世間ではセラピストやカウンセラーというと、そういった人にも「仕方ないわね~」と優しく微笑みつつ対応するような、まるで仏様のように「できた人」というイメージを持たれているようだが、礼節を欠いた言動の人に礼を以って応える必要も義務もないと私は思っている。大体最低限の礼節も守れない人が、自分の魂の深部と向き合うことなどできるわけがない。

それ以降、その方からの連絡はなかった。結局いろいろな意味で「ご縁がなかった」ということなのだと思う。万が一お会いすることになっても、それが心地の良いものになるとは到底思えなかった。やはりお会いしなくてよかったのかもしれない。

その方からのメールを読み返している時に思った。「もしこれで万が一セッションを受けることができた場合、この人にとったら『自分は運がいいから』『ツイてるから』っていうことになるんだろうな」と。同時に、その方の会社の経営方法や経営方針も何となく想像できた。多分それは、その強引な言動と一致したものだ。

「当日の予約は不可」のサロンで、一か八かで大阪に行って、それでもセッションを受けられた―多分その人にとったら、それは運のいい自分、ツイている自分が起こした「奇跡」になるのだと思う。でもそれは、何のことはない「ただのゴリ押し」の結果だ。

あつかましいというか、押しが強いというか、そういった自分の強引さがその時たまたま通っただけのこと。「ほら~私って運がいいからぁ~」などと自慢するようなことではない。むしろ相手に多大なる迷惑をかけていることのほうが多いと思う。

「しょうがないなー」と、相手が根負けした末の結果であるかもしれないことを、いちいち「選ばれし者である自分」に備わった(と勘違いしている)運とかツキに結び付けて考えるのは、ある意味傲慢さの表れだと思う。

自分の運とかツキを過度にアピールする人というのは、その点が共通している。すべてを自力や大きな存在からのサポートだけで成し遂げたように強調するが、その陰の部分、自分が知らないうちに周りの人達ににかけたかもしれない迷惑や、させたかもしれない嫌な思い等にまったく目を向けようとしないのは、想像力の欠如だと思う。

「自分さえ良ければ」という気持ちの表れであり、人に対する心配りが欠けているということ。そういった見えない部分に思いを馳せることができない人というのは、結局先が知れているような気がする。自分自身を「ラッキーガール」「ラッキーボーイ」に祭り上げたり、それを自称したりするのは自由だが、謙虚さの欠片もないその言動は、その人の本質を示していると思う。

「成功者」が運とかツキとか言っているものは、彼らの「単なる思い込み」や、周りの人達の我慢や寛大な取り計らいの上に成り立っているものかもしれない。そういった陰の部分―相手やその他の見えない所を思い遣ってこそ、初めて運やツキは発動するのだと思う。それを疎かにすれば、運もツキもやがては消える。それはきっと二つで一つといったような、「セット」になったものだと思うのだ。

あまり成功者の体験談にこだわらず、惑わされず、過度に賛美感心せず、陽の面だけを見過ぎることなく、冷静に自分の立ち位置を掴んでいったらいいのだと思う。

成功者(と自分で思い込んでいるだけかもしれない人達)の、「ツイてる!ツイてる!」の過度な連呼にくれぐれも惑わされないように。「洗脳」は、単純な響きの言葉であるほどよく効くものなのだ。


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