FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

幸せへの道

 2009-08-28
誤解を恐れずに言うが、悩みや問題について「なぜそうなったのか?」という原因を探ることに、大して意味はないと思う。

「なぜそれが起きたのか?」「どうして自分はこうなったのか?」相談者―クライアントの大半は、「問題の原因」に固執する。悩んでいる本人からすれば、その原因を探ることで物事が解決したり、状況が少しでも好転するということへの期待があるのだと思う。だが、それが判明したからといって問題解決への糸口や答えが見つかるとは限らない。

原因が判明したらしたで、「もしあの時~していれば」「もし~だったら」と、今度は存在し得たかもしれない「たられば」の可能性を追求し始める。過去に起こった事実は変えられない。「もしもあの時・・・」と、起こり得たかもしれない別の可能性に思いを馳せても、やはりそれは永遠に「もしも」の域を出ることはないのだ。「過去は過去」でしかない。

原因に執着するということは、過去に目を向けているということでもある。変えられない過去をを追求したり、あれこれ仮定してみても意味はない。むしろ後悔だけが大きくなっていく。変わらないからこそ、変えられないからこそ、執着が増す。

結局原因というものは、例えそれが判明したとしても、「ただ知るだけ」でいいのだと思う。「知る」ということは大事だが、必要以上にそれに拘ったり、無理に追求しようとすることは必要ないと思う。なぜなら、それは「原因に囚われる」ということだから。

カウンセリングで相談者―クライアントを見ていると、原因の呪縛から逃れられない人が多い。知りたいと望んだことが判明したらしたで、今度はそこに囚われる。皮肉なものだと思う。

だったら、「なるほど」と自覚したら後はそれを忘れて、それを手放して、それに拘らないで、これから先の未来へその分のエネルギーを注いだほうがいい。そのほうがよっぽど健康的且つ建設的だ。

「たられば」よりも、「じゃあこれからどうしていこうか」と未来に目を向けることが幸せへの道だと思う。未来に向かうために過去に戻ることは、必ずしも必要ではないのだ。今自分がいる場所、この「現在」から始めたらいい。

「こうしたい」「こうなりたい」「こうしよう」それでいいのではないだろうか。時間に逆行しようともがこうとするよりも、未来に向かうその流れに乗ってみる。沿ってみる。それが自然な形であり、宇宙の原理、法則に適ったことだと思うのだ。

原因よりも、どんな答えを出すかということ、「どこに向かうか」それを考えることの中に未来も幸せも存在するのだ。



スポンサーサイト
カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

裸の王様

 2009-08-27
先日見た某ドラマの中で、想いを寄せる女性が自分の後輩と惹かれ合っていることに気づいた男性が、後輩に向かって「お前を信じてる」と言うシーンがあった。その時思った。「うわー!いやらし!姑息!」

いちいちそういった面倒くさい遠回しの牽制なんかせず、「俺の女に手を出すな」とはっきり言ったらいいのだ。「お前はそういう奴じゃないだろ?俺を裏切ったりするわけないよな?」と、相手の情や良心を揺さぶりつつ同時に罪悪感を植えつけるそのやり方、腹黒ささえ感じてしまう。

男性でも女性でも、私はこういった「回りくどい」タイプは大嫌いだ。例えば、全部事の顛末を知っているくせに「まさか~なんかしてないよね?」とか「あなたはそんな人じゃないって信じてるから」とか。要は「そういうことをするな」ってこと。「だったら最初からそう言えよ!」と思う。こういうやり方をされるともうダメだ。何というか、「めんどくさ・・・」と思ってしまう。

大抵こういったタイプの人は、「話し合いができない」人が多い。一方的に自分の都合を押し付ける反面、相手には自分にとって都合の良い答えだけを要求してくる。聴きたい答えしか聴かない。それが叶わないと逆ギレとか。そういうことを、世間では「自分勝手」とか「わがまま」と呼ぶ。

「話し合いができない人」との付き合いは、結局長くは続かない。なぜなら、彼らは相手の話を聴こうなんて最初から思っていない。「支配と服従」「命令と承諾」それしかない。それも、あくまでも自分発信に限られている。一方通行のコミュニケーションというか、むしろそのコミュニケーションを拒否している状態。そんな状態で心を通わせようとか、分かり合おうなどというのは、所詮無理な話なのだ。

そういったタイプの人は、主義主張等がない「自分がない人」や気弱な人、世間知らずな人、無邪気な人を周りに侍らせていることが多い。ある意味単純というか、実にわかりやすい。彼らが求めているものが、そのままそこに表れている。洗脳や支配は楽で手間がかからないほうが都合がいい。

確かに周りが自分に従う様は気分が良いのかもしれない。だが「それって本当に幸せなの?」と思う。イエスマンしかいないその状態は、まるで「裸の王様」だ。

男性でも女性でも、良い意味での「ケンカができる人」がいいな―と思う。「平和主義」を自称して争いを避けたがる人は、結局逃げているだけだと思う。ぶつかり合って、壊れた後に生まれるもの、残るものもある。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか研磨できない。美しい輝きを持ったダイヤは、そのダイヤ同士の摩擦から生まれるのだ。

だが、彼らは結局「寂しい人」なのだと思う。支配や洗脳、命令―そういった形でしか相手を繋ぎとめておくことができないのだから。


カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

アメリカにて「星を見ていただけなんです・・・」

 2009-08-26
アリゾナやニューメキシコ等、アメリカ南西部では夜間の照明が規制されている地域がある。それは星空を守る為。星明りを妨げない為の配慮で、外灯も必要最小限しか配置されていない。もっとも土地が広過ぎて人口密度が低いので、外灯が少なくてもそれほど困ることはないのだが。

観光客が集まる宿泊施設や商業施設の周辺でもそれは同様だ。照明の色も、間接照明で使われる柔らかいオレンジ色の灯りが大半。日本の都市部のように、昼間と見間違うような煌々とした明るさはない。

以前ナバホの居留地に住むウィーバー(ラグ織職人)の女性を訪ねた時、ちょうど彼女の中学生の孫娘が遊びに来ていた。私が日本から来たと知ると、「日本ってラスベガスみたいだよね!」と言う。「は?ラスベガス?」「うん!だって夜でも街が明るくてキラキラしてる」

聞けば1週間ほど前、テレビで「ジャパン特集」を見たらしい。その時に東京の繁華街の様子が映っていて、夜でもキラキラしている街が、彼女にはラスベガスのように見えたらしい。「なるほどねー、ラスベガスか・・・」思いもかけないその喩えが、妙に新鮮だった。

東京や大阪等の大都市に住んでいると、「街中は明るくて当たり前」という感覚があるので、外灯のことなど特に気にかけたこともなかった。むしろ、駅やビル等の公共・商業施設等で蛍光灯が1つ切れただけでも「なんか暗い」と感じるのは、その過度の明るさに慣れてしまったからなのだろう。

そういえば、Google Earthで「世界の夜」という衛星からの画像を見た時、日本は、北海道から九州まで、日本列島の形がはっきりと確認できるくらい光で満たされていた。「光で作られた日本地図」といった感じで。だが、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス等のアメリカ南西部付近は、黒い部分―明かりのない暗闇の部分が大半だった。(山岳・砂漠地帯が多いということもある)

アリゾナの大自然の中の居留地で生まれ育った彼女の目に、日本の夜の街がラスベガスのように映るのも当然のことなのかもしれない。

空気もきれいで外灯も少ない―当然星がよく見える。アリゾナを初めて訪れた時、何気なく見上げた夜空に、それこそ降るような夥しい数の星が光っている光景を見て、その場で固まってしまったことがある。

「空にはこれだけの星があるのか・・・」その迫力に圧倒された。昔信州で見た星空も圧巻だったが、アリゾナの星空は更にそれを超えていた。ハッと我に返ると首が痛くて動かせない。「痛ッたぁー!」下を向けないので腕を目の高さにまで持ち上げて時計を見ると、かれこれ40分近くもその場に突っ立って空を見上げたままだった・・・。

それ以来、アリゾナやニューメキシコに行く度、夜は必ず外に出て空を眺めるようになった。もともと星を見るのが好きで、小学生の頃からプラネタリウムに行ったり、星座板を買ってもらったりしていた。星座に関連したギリシャ神話もよく読んだ。

1967年生まれの私が子供だった頃は、首都圏でも結構星は見えていた。小学校の理科の宿題でも、「北斗七星とオリオン座の星の動きを時間ごとに観察しなさい」というのがあったくらいだ。だが、年々星が見えにくくなっていくこと、歳を経ていくのと比例して忙しくなる生活に、しげしげと夜空を見上げる機会も少なくなっていった。

が、アリゾナで星空を見たことがきかっけで、往年の「お星さまを観察しよう!魂」にまた火がついてしまった。

世間が寝静まった深夜1時くらいに、こっそりと部屋を出る(別に「こっそり」でなくてもいいのだが)。そのままホテルの建物の裏手、駐車場と隣接したサッカーコートくらいの広さの芝生の庭に向かう。そしてそのまま芝生の上にゴロンと横になる。頭の上には満点の星―。これがとにかく気持ち良いのだ。

日本で同じことをしたら不審者として職務質問をされそうだが、ここはアメリカ。深夜で宿泊客も寝静まっているし、周りには人っ子一人いない。邪魔されることなく、好きなだけ空を眺めることができる。大地に寝転がるというのも、自分が地球と繋がっているような感覚がして心地が良い。

その晩も、そうやって星を眺めていた。流れ星の数が信じられないくらい多い。時々衛星や飛行機が通過したりする。「あの星の光は何光年かな~」「あそこにある星はいつ生まれたのかな~」などと取りとめもなく考えていた。


が、次の瞬間、私は誰かに激しく体を揺さぶられるのを感じて飛び起きた。「Hey! Are you OK?(ちょっと!あなた大丈夫?)」見ると横には、心配そうに私を覗き込む60代くらいのご夫婦がしゃがみこんでいるではないか!「え?あ?Yes, I'm OK. Thank you...(大丈夫です。ありがとう)」

咄嗟のことで状況もわからず、何がなんだか訳が分からないままそう答えると、お二人はホッとしたように口々に言った。「よかった~駐車場に車を止めようとしたらライトの先に誰かが倒れているじゃないの!死んでるのかと思ってびっくりしたわよ~一体こんな所でどうしたの?!」「まったくだよ!驚いたの何のって!こんな時間にここで何をしてるの?!」

どうやら私は星を見ながらいつの間にか眠ってしまったらしい。そういえば遠くで誰かが「大変だ!誰か倒れてる!」と叫ぶ声がしていた。その声を聞きながら「あら!それは大変!」と思っていたのだが、その「大変な人」は私だった・・・。

「す、すみません。あの、でも、星がきれいだったから見ていただけなんです・・・寝ながら見ると首が疲れないし楽だし・・・あの・・・その・・・本当にごめんなさい!」恥ずかしさでしどろもどろになりながらそう言うと、そのご夫婦は「まあ確かに星はきれいだけど・・・」と呆れた顔をしていた。

「もう遅いから部屋に戻ったほうがいいわ。さ、私達と一緒に行きましょ」背の高いお二人に挟まれてエントランスまでトボトボ歩く私は、悪いことをして補導された中学生の気分だった・・・。「ま!背中にこんなに草と土をつけて!」髪やTシャツの背中を奥様に払ってもらって、完全に「しょーもないコ」扱いされた私はまったく立つ瀬がなかった。


翌朝、フロントで両替してもらっていると、後ろから肩をポンと叩かれた。振り向くと昨晩のご夫婦がニコニコしながら立っている。

「あ、昨日はいろいろとありがとうございました。お騒がせしてすみませんでした」「今日も星を見るの?」「え?うーん・・・また死体に間違われたらと思うと・・・」「そうね~、びっくりしたわよ~(笑)横に看板立てておいたら?『心配しないでください。ただ今星の観察中です』って」「あ、それいいですね~」

事情を知ったホテルのスタッフが、笑いながら折りたたみ式のデッキチェアを貸してくれると言ってくれたのだが、結局お借りすることはなかった。やっぱりゴロンとアリゾナの大地にそのまま寝転がって見るほうが断然いい。空と大地の間にサンドイッチされるあの感覚が気持ち良いのだ。イスを使えば身体的には楽だし快適だとは思うが、何となくその感覚が妨げられるような気がする。

いくら髪や背中に草や土が付こうか、死体に間違われて驚かれようが、やっぱり「地面に直接ゴロリン」は止められない。いい歳したアラフォーの人間のすることとは思えないが、でも私はまた深夜こっそり外に出て、アリゾナの大地の上で、キラキラのお星さまを心ゆくまで堪能するのだ。



【追記】
ある時、例によってアリゾナで星を見ながらホルストの「惑星」を聴いたのだが、鳥肌ものの「神の領域」だった。きれいな星空の下で「惑星」を聴く―おすすめです!




カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

イメージの向こう側

 2009-08-23
イメージの有効性が科学的に証明されたのを受け、スポーツの世界では、イメージトレーニングが当たり前のようにメニューに組み込まれるようになった。欧米では、イメージ力の強化を図るため、オリンピック選手を始めとする多くのアスリートがヒプノセラピストと契約している。実際、イメージトレーニングを行った時とそうでない時では、その成績に格段の差があるという臨床報告もされている。

「イメージ」というものは、それだけ人間の心身に大きな影響を与えるものなのだ。

日本でも、自己啓発やスピリチュアルの分野が根付いて以来、「イメージ」の重要性について語られることが多くなった。「なりたい自分、成功した自分の姿をイメージしましょう」とか「欲しいものが手に入った場面をイメージしましょう」とか。

世の中には、そういったイメージの重要性や効果について書かれた本が山のように出版されている。書店で一度くらいは手に取ったことがあるという人もいるのではないかと思う。

ヒプノセラピーやカウンセリングを受けに来る人というのは、真面目で自分を磨くことに熱心な人が多い。当然そういった自己啓発や精神世界の分野にも興味があったり、実際にそこで言われていることを試してみた経験がある人が大半だ。もちろん、イメージの効果といったものも熟知している。

しかし、その中の多くの人は言う。「イメージしてもその通りにならないんです。何が間違っているんでしょうか?」真面目さ故に自分を責める人もいる。「イメージ通りにならないのは自分がダメな人間だからではないか?」

だがそれは違う。イメージした結果にならないのは、その人達がダメな人間だからでも、何かが間違っているからでもない。何のことはない。彼らは「イメージの向こう側」に行こうとしないのだ。

何というか、ただイメージして終わり。そこに向かう行動を何も起こさないという人が大半なのである。イメージさえしていれば、いつの間にか自分はその状態になっているはず、イメージから近づいてくるはず―そういった思い違いをしている。

例え行動を起こしたとしても、ちぐはぐというか、全然見当違いのことをしている。例えば、南に向かわなくてはいけないのに東に歩いていったり、花屋で働きたいと思っているのに建築事務所の面接を受けに行ったり、アメリカに留学するのに中国語の勉強を始めたり・・・という感じで。

目的地からドンドンずれていく。「あなたは結局何がしたいわけ?」端から見ると、首を傾げざるをえないような見当違いの行動をしている。いつの間にか、本来の「目的地」自体が途中で変わってしまうのだと思う。

だがどちらにしろ、「イメージの向こう側」に行かない人というのは、結局のところ本気でそれを望んでいないのだと思う。実際、その人達は自分が行かない理由、それをしない「正当な理由=言い訳」を次々に並べ立てる。「家族が反対するから」「お金がないから」「成功する保証がないから」「時間がないから」云々。

人間、本気の時に出てくるのは愚痴や言い訳ではない。「行動」だ。もし本気だったら、家族が反対しても、どうしたら説得できるか、お金がないならどうやってそのお金を調達するか、どうやって時間を作るか―そういった問題をクリアする方法を考えるはずなのだ。

以前、学生時代からの友人に相談を受けたことがある。「○○に行って、△△をしたいんだけど」「行けばいいじゃん。やればいいじゃん」「・・・そうだね」人によったら素っ気なくて冷たいと思うかもしれないが、結局そういうことなのだと思う。「自分がやりたいのならやる」答えはこれしかないのだ。

いくらイメージをしても、誰かがそこに連れて行ってくれるわけではないし、いつの間にか気づいたらそこにいたということもない。あくまでも自分の意志で、自分の足で向かっていくものなのだ。

「イメージの向こう側」そこからの景色は爽快で、今まで見たこともないような色彩に満ちている。思い切って行ってみるか、今の場所に留まるか―それは自分次第なのだ。



カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

体育会系脳

 2009-08-22
最近とみに思うのだが、人間の脳と行動、それに伴う意識の変化というものは、想像以上に密接な関係にあるのではないだろうか。

セッション後、私は独自のカルテを作っている。セッション内容はもちろんのこと、クライアントの思考の特徴やパターン、その人から受ける印象等も書き込んでいる。リピーターの場合には、表情や言動を含め、前回との変化や比較等が加わる。

先日、思い立って今までのセッション記録を見直してみた。お会いした人の数がいつの間にか千人を超えていたのも驚きだったが、良い意味で「変化する人」と「そうでない人」には明らかな「違い」、「傾向」といったものが存在することが興味深かった。

そしてそれは「性格の違い云々」ということではなく、「脳の使い方」によるのではないかと思うのだ。

脳の「前頭葉」の部分は、「行動」と密接な関係がある。例えば、現在の自分の行動によって生じる未来の結果を想像・認識したり、より良いものを選択する判断力―そういった部分と深く繋がっている。

「変化する人」を観ていて思うのは、とにかく行動を起こすのが速いということ。私は勝手に「体育会系脳」と呼んでいるのだが、その人達はセラピーやカウンセリングを受けて何かに気づいた時、「そうか!わかりました。とりあえずやってみます」となる。

「今から校庭30周!」と、絶対服従の先輩から言われたかのように「はい!」という感じでそれに取り掛かる。「でもぉ~それって難しくないですか?」「わかってはいるんですけどねー」などと、御託を並べたりしない。

多分「体育会系脳」の人は、その行動を起こすことによって自分の中の何が変化するのか、その変化が未来に何をもたらすのか、それを瞬時に想像・判断できるのだと思う。それは性格ではなく、脳の働きの違いによるものだと思うのだ。その証拠に、似たような性格の人達でも、「変わる人」と「そうでない人」に二分される。

ここ数年「脳トレ」ブームだが、脳を鍛えることに必要な要素は「集中」と「継続」だ。まさに「体育会系」の要素。スポーツ経験者なら、それが苦手な種類のトレーニングだとしても、毎日継続してやらなくてはならなかったということを経験していると思う。気を抜いていれば怒声が飛んできたり。

「やりたくない」「苦手だから」逃げてばかりでは技術も体力も身につかない。脳に関しても同じこと。やらない言い訳や理由を考えている暇があったら、「まずやってみる」ということだ。やる前から四の五の御託を並べて行動しないのは、ただの「逃避」。逃避からは何も生まれない。

「わかっているけどなかなか行動に移せない」そういう人ほど、「行動」というものから逃げてはいけない。「行動に移せない」「できない」から「行動に移す」「やる」という発想への転換、トレーニングが必要なのだ。

「変わらない人」を観ていると、「継続」の部分がすっぽりと抜けている。「継続=しばらくやってみる、がんばってみる」ということなしに、ちょっと齧っただけで、ひどい人はやる前から「やっぱり苦手だから」「好きじゃないから」と投げ出す傾向が強い。変化に至るには継続は不可欠だ。その部分を放棄しているのだから、変化が訪れるわけがない。

「何も状況が変わらない」そう嘆いている時こそ、脳の鍛え時だ。四の五の言わずにまずはやってみる、そしてそれをしばらく続けてみる―そうすることで、意欲も新たな発想や展開も出てくるのだ。


カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

二兎を追う者

 2009-08-20
セラピストの仕事をしているとつくづく思う。人間は「欲張り」な生き物だと。「どちらも欲しい」「全部手に入れたい」気持ちは理解できるのだが、所詮は無理なことだ。何かを選ぶということは、それと同時に何かを捨てる、失うということでもあるのだから。

特にそれが「相反するもの」である場合は尚更だと思う。例えば、「早く結婚したい。でも、自由な時間を失いたくない」とか、「やってみたい仕事がある。でも今の地位や安定した収入を捨てるのが嫌」とか。対局にあるもの、相反する性質のものを同時に欲しがるこの矛盾性は、人間特有のものだと思う。

「それは無理な話でしょう。やはり何かを得るためには、捨てるものや失うものも出てきますよ」そう言うと、どちらも手に入れたがる人達―「二兎を追う人達」は半ばむきになって反論する。「でも、世の中には自分の欲しいものを全部手に入れている人だっているじゃないですか」

彼らは理解していない。自分の欲しいものを全部手に入れている人、正確には「欲しいものを全部手に入れているように見える人」も、その都度の段階で何かを捨てたり、何かを失ってきたのだ。今現在自分の目に映るその人の姿は、あくまでもその人がしてきた選択の「結果」。そこに至るまでには、取捨選択のプロセスが存在するのだ。


もう何年も前だが、同い年のOLの方から「いいですよね。自宅でお仕事なんて羨ましいです」と言われたことがある。多分その人からすると、通勤のために早起きしなくてもいい、満員電車にも乗らなくていい、職場での面倒な人間関係や付き合いもしなくていい自営業の私が自由で気楽に見えたのだと思う。

だが、「自由で気楽な自営業」にもリスクはある。誰かが毎月お給料を払ってくれるわけでもないし、決まった額の収入が入る保障もない。自宅兼職場は確かに通勤等の面では楽かもしれないが、精神的な面では鬱陶しいことも多い。休みでゆっくりしたい時でも、仕事関係の電話やFAX、メールはこちらの都合などお構いなしに入ってくるし、防犯面での不安も出てくる。面倒な人付き合いがない代わりに、業務を始めとするすべての負担は全部自分一人にかかってくる。

私が自由に気楽に楽しく生きているように見えるのなら、それは私が「安定」「安心」「安全」を選ばなかった「結果」だ。それを捨てたが故に得たもの。「自由も安定も手に入れたい」というのは、所詮虫のいい話なのだ。

「本来は一人でいることが好きだけど、友達がいないと思われるのが嫌なので無理矢理人付き合いをしている」「結婚する気は全然ない。でも親族や周りから変に思われたくない」最近こういったことを言う人が増えている。

結局これも同じこと。「あれも欲しい、これも欲しい。でもリスクは嫌」まったく虫がよすぎる。逃げているだけというか、自分自身や自分の行動に責任を負う覚悟がないのだと思う。そして結局、最後は何も得られずに終わる人が多い。

どんな事にも二分の一の確率でリスクは付き物。過度に恐れる必要はない。リスクよりも恐いのは、むしろ「何も選ばないこと」だと私は思う。それを恐れるあまり行動しない―そのほうが余程リスキーだ。

まずは自分が追いたい一兎を決める。そしてそれを全力で追ってみたらいい。ひょっとしたら万が一にもラッキーが起こって、二兎を得られるかもしれない。



カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

「繰り返す人」が手放さないもの

 2009-08-14
ここ数日、NHKで深夜の時間帯に放送されている連続ドキュメント番組「EXIT アメリカ更生学校の10週間」を観ている。

アメリカ全土には、「Alternative school(もう一つの学校)」と呼ばれる「更生学校」が存在する。こういった種類の学校は日本には存在しないが、アメリカでは公立学校の教育制度の一環として組み込まれている。決してめずらしい機関ではない。実際、私が週に1回日本語教師を勤めていた中学校でも更生学校に送られた男子生徒がいた。

この「更生学校」に通うのはどういった生徒なのか?そのものズバリ、「問題児」だ。通っていた学校で大きな問題を起こした生徒―窃盗、武器所持、ドラッグの所持・使用、教師への反抗や暴言、暴力、校内で暴動を起こしたり、他の生徒達との間で喧嘩や暴力が絶えない等、学校側が「手に終えない」と判断した超問題児が、教育委員会の審査を受け、更正学校への入学を言い渡される。

彼らの年齢は大体13~16歳。「更正学校」という名の通り、時間や規則の厳守、授業態度、宿題や提出物、服装等、生活態度に関するすべてを「再教育」される。そしてその全部の審査にOKが出されると、EXIT(元の学校に戻れる)ができる。

番組で取り上げられているのは、フロリダ州ジャクソンビルにある「マティ・ヴィ更生学校」。13~16歳の、約200名の男子・女子生徒が在籍している。「フロリダ一の殺人都市」と呼ばれている土地柄もあり、問題のある家庭出身の生徒が大半だ。だがこの学校は、生徒の約7割が立ち直ってEXITしていくことで、全米から高い注目を集めている。

最短日数で元の学校に戻れる生徒もいれば、素行不良が原因でEXITが取り消される生徒や、無事EXITしたにも拘らず、数ヵ月後、また問題を起こして戻ってくる生徒もいる。

カメラは学校だけでなく、彼らの日々の生活―家庭での姿にも密着する。その様子を見ていて興味深いのは、EXIT出来る生徒と出来ない生徒の「差」というものだった。

更生学校に送られてきたばかりの生徒は、精神面や思考パターンが見事なほど共通している。いろいろな面で、自分自身を「被害者」と見なしている。自分の素行が原因であるのを棚に上げて、「自分がこんな所に来なきゃならなくなったのは家庭のせいだ、先生のせいだ、社会が悪いせいだ」そう思っている。「悪いのは自分じゃない。自分をこんなふうにした周りが悪い」

だがしばらくすると、心境に変化が表れてくる生徒が出始める。「自分が受け入れてもらえないことに腹を立てていたが、自分が相手を突っぱねていたのかもしれない。相手が自分を理解してくれなかったのは、自分も相手を理解しようとしなかったからでは?優しくしてもらえなかったのは、自分が相手に優しくしたことがなかったからだ。自分が相手を尊重しなければ、自分も尊重されるわけがない」

今までの自分を、「被害者」という視点からでなく、別の角度から省みるようになる。「自分は悪くない」そういった頑な思い込みの枷が外れた時、生徒は劇的に変化していく。

だが、そうでない生徒―相変わらず「悪いのは周りだ」と被害者意識から抜け出さない生徒は、更生学校に在籍中も、EXITの後も、同じような問題を繰り返し続ける。


その様子を見ていて興味深いのは、更正―変化する生徒7割、変化のない生徒の割合3割という確率や意識の持ち方というものが、サロンでセラピーやカウンセリングを受けたクライアントにそのまま当てはまるということだ。

セラピストの視点からクライアントを見ていると、過去も現在も含めて自分自身をきちんと見返ることができる人というのは、どんどん変化していく。だが、そうでない人というのは、見当違いの見栄やプライド、「自分に非はない、悪くない」という思い込み、ある種の「特別意識」を頑なに手放そうとしない。

そういった人は、様々なセラピーやカウンセリングの類を受けたとしても、回数を重ねたとしても、結局根っこの部分は変わらない。表面上の理由をあれこれ並べ立ててサロンを訪れても、毎回同じことが問題の根になっている。言い換えてみれば、その一つのことがすべての問題の核であり、すべてそこから派生しているということを全然理解していない。

「自分は間違っていない」「自分は悪くない」と、相手や外に原因を求めることに固執するのは、形を変えた「上から目線」とも言える。ろくに自分自身を省みることもせず、「自分は正しい」ということを大前提で物事を見ていれば、見えてくるものも見えてこないはずだ。「被害者意識」が、いつの間にか「傲慢さ」にすり替わっている。

マティ・ヴィ更生学校の生徒達とも共通するのだが、例えば、いじめを体験した機会や人から理解されなかった状況が多いほど、その期間が長いほど、そういった意識からなかなか抜け出せない。

その原因や要素、何らかの非が自分にもあったとしても、いつの間にか相手が全面的に悪い「加害者」といった「すり替え」や「書き換え」が、意識の中で行われていたりする。自分のプライドや傷ついた心を守るための、ある種の「自己防衛」「逃避」の表れだと思う。

そういった方向違いの思い込みが、高くて分厚い心の壁や殻となる。この壁や殻が高ければ高いほど、厚ければ厚い人ほど頑なで、相変わらず「悪いのは自分じゃない」と、相手を責めることに終始して自分を省みない傾向が強い。その姿勢は傲慢さ以外の何物でもない。

「自分がこんな目に遭うのは周りのせい」そういった気持ちが強く自分の中にある人ほど、まずは冷静に、素直に、いま一度自分自身を省みてほしいと思う。自分以外の誰かの、何かのせいにしか思えない時ほど、実は「自分自身をよく観ること」を疎かにしているものだ。

「卑屈」ではない「謙虚さ」というものが、人の成長や変化、負のスパイラル思考からの脱出への第一歩になるのだ。



カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

結局は初恋に還る?

 2009-08-11
これはあくまでも私個人の意見だが、本格的な思春期に入る少し前、小学校5~6年生くらいの時に身につけたものや感じたものというのは、その後の何十年間、「大人」になった後にも、何らかの影響を与え続けるような気がする。

11~12歳頃というのは、人目を意識したり、損得勘定で物事を測ったりするような知恵がまだ完全に身についていない時期だ。感覚や行動に関しては、直感で感じる好き嫌い、いわば「本能」が優先される。どちらかというと「動物」としての要素が強い時期。

理屈よりも感覚、損得計算よりも自分の感情を優先する―いわば「飾らない素の自分」が本能で直感的に選んだものや感じたものが、現在の自分の「基礎、基準」になっているような気がする。例えば、その頃に「なんとなくこの人嫌い」と感じたタイプの人が今でも苦手だったり、好きで興味があったことが今も変わらなかったりとか。

そういったことが顕著に表れるのは、特に「異性の好み」だと思う。あの頃、無条件に本能で「好き」と感じた異性のタイプが、「終生変わらない理想のタイプ」「基準」としてインプットされているような気がする。ある種の「刷り込み」。そしてまたこの「刷り込み」が、なかなか侮れない。


私が小学校5~6年生の時に好きだった男の子は、みんなを引っ張っていくようなタイプだった。目立つけどうるさくはない。ぶっきら棒で最初のとっつきは決して良くないのだが、芯が強くて、いろいろな意味で「男っぽい」子だった。

少し前、ドラマ「ROOKIES」の再放送をやっていたのだが、市原隼人君演じる「安仁屋くん」がまさにそのものだった。ぶっきら棒なところとか、一見クールだけど中味は熱くて優しいとか、ごちゃごちゃ言わずに行動で示すとか。「あら~K君みたい」(ただしK君はサッカー少年だったが)と、しばし遠い昔を思い出しながらテレビを見ていた。


昔からの、学生時代から付き合いのある友人達は口を揃えて言う。「あんたの男性の好みは全然わかんない」それは自分でも自覚しているので反論はしない。

別に私の「趣味」がマニアックだとか、おかしいとか、そういうことではない。事実、「変人」は好きだが「変態」は嫌だし、決して面食いではないが、イケメンは好きだ。誰だって綺麗なものは好きだし、見ていて楽しい。お花を見て「きれいね♪」と言っているのと同じだ。その点は至って普通というか、「人並み」だと思う。

ただ何というか、今までご縁のあった人達のタイプが見事なくらい違うのだ。それも極端過ぎるくらいに。外見や性格も含めて、すべてが違う。

大体、人には自分の好みというか、「好きになりやすいタイプ」があると思う。例えば、惹かれるのはいつも明るいスポーツマンタイプとか、芸術家タイプに弱いとか、優しい癒し系の人と付き合う割合が多かったとか。

私の場合にはこれがない。見事にバラける。昔から「どういうタイプが好きなの?」と聞かれると、「好きになった人が好きなタイプ」ずっとそう答えてきた。

事実そうだったと思う。頭脳明晰なインテリ系やバリバリ体育会系スポーツマン、クール系から熱血系、優等生から問題児まで―実にバラエティーに富んでいる。友人達が首を傾げるのも無理はない。

しかし、その人達とのことを振り返って見た時、気づいたことがある。一見バラバラに思っていたのだが、全員に共通するものがあった。それは「男っぽい」ということ。チャラチャラしているように見えても中味は全然違っていたり。なんのことはない。中味しろ、外見にしろ、あの「K君」の要素をみんな何らかの形で持っているのだ。恐るべし、初恋の刷り込み・・・なのである。

「しょう油顔」とか「ソース顔」とか好きになれば何でも構わない。ただ、失礼かもしれないが海パンで「関係ねー!」を連呼する某芸人さんのような「暑苦しい顔」は、どんなにいい人でも昔から生理的に受け付けない。最初の時点で「論外」だ。「濃い顔」と「暑苦しい顔」は全然違う。「涼しげ」「精悍」といった要素に私は弱い。

今までを振り返ると「例外」もあるのだが、全体の骨格、「輪郭が丸くない人」が圧倒的に多かった。歌舞伎の女形や女装が違和感なく収まるような、物腰の柔らかい女性的、中性的な外見や雰囲気の人は生理的に「なんか違う」とまず思う。丸より四角、カクカクゴツゴツした男性的な人に目が向く。

「生理的に」ということも決して侮ってはいけない。最初に「嫌だ」と思った部分は、やはり最後まで嫌なままなのだ。「いい人だし、そこさえ我慢すれば」と無理に目をつぶったとしても、相手に対する気持ちが冷めた時など、その「生理的な部分」が前以上に目に付いて、ますます嫌いになっていく。

自分の中に熱いもの、信念のようなものを持っている人―というのも絶対に外せない。結局その部分が人としての「核」になると思うので、それがない人や感じられない人に興味はない。いくら優しくても「核」がない人のそれは、本当の優しさではない。弱さからくるものだ。そういった弱さからのものは、後々大きな違和感を生み出していくことになる。

なんというか、「男は黙って・・・」というような、不言実行の「武士」「昭和の男」「多少の猫パンチをくらってもまったく動じない大型犬」タイプがストライクゾーンなのだと思う。性格然り、ルックス然り、とにかくいろいろな意味で「男!」でないとダメなようだ。この大元は、遡っていくと全部K君に辿り着く。本当に「あらま~」である。

若い時などは自分と正反対の性格の人に惹かれたり、周りからの目を意識したり、「条件」で相手を選ぶこともあるが、結局思春期の入り口少し手前で確立された「永遠の理想像」というのは、ずっと変わらないままなのかもしれない。時々「自分が好きなタイプが分からなくなった」と言う人がいるが、小学5~6年生の頃に好きだった子を思い出してみるといいかもしれない。

そしてそれは、意外と「本質」を突いていると思うのだ。何と言っても「計算抜き」で、「本能」が告げたものだから。結局、人は「原点」に還っていくのかもしれない。


カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

ユリイカ

 2009-08-08
【ユリイカ(eureka)】
「見つけた」「わかった」など、意外な発見をした時や、素晴らしいひらめき等があった時に発する言葉。古代ギリシャの科学者、数学者、技術者であるアルキメデスが、王冠の金の純度を測定する方法を発見した時に発した叫び。→「アルキメデスの原理」




最近、セラピーやカウンセリングをしていて気になることがある。すぐに答えや方法を知りたがったり、誰かにそれを教えてもらいたがる「他律」「依存」の人の数が、年々増加傾向にあるのだ。

年齢や性別、職業といったものはあまり関係ない。だがここ最近の不安定な時勢を反映してか、「失敗」を過度に恐れたり、「楽に、手早く、リスク少なく」自分の求めているものを手にしたいという、ある意味「虫がいい」というか、「二兎」を追いたがる人が増えている。

自分で考えてみる。行動してみる。しばらく続けてみる―「理解」というものに必要不可欠なプロセスを全部抜かして、少しでも早くゴールに到達したがる。そういった「手間=時間」を惜しむということは、忍耐力の欠如の表れでもある。別の言い方をすれば、「こらえ性がない」とか「せっかち」とか。だが、どの道「楽して得したい」というものが根底にあることは否めない。

安楽なショートカットを求めるその気持ちは、「学びの放棄」でもある。

例えば、超難問を何時間もかけて自分の力だけで答えを導き出した末の「わかった!」と、「ねえ、これってどうやるの?」と、最初から誰かにやり方を教わりながら得た答えに対しての「わかった!」はまったく違う。どちらが本当の「実」になるか―考えてみればわかることだ。

何かに、誰かに頼るなということではない。自分自身で思いつく限りのことはやり尽くして、考え尽くして、努力した上でのことだったら構わない。だが、安易に答えや方法を知りたがる人というのは、最初から人任せだ。自分で調べてみようともせず、「教えてもらえばいいや」と、すぐに人を当てにする。まさに他力本願。

特に人の心というものに関しては、そんなにすぐに、すっぱりと明快な答えが出るものではない。迷って悩んで、行きつ戻りつ―得るまでに時間が必要な答えもあるのだ。

答えをすぐに知りたがるのは、結局自分にとって都合が悪いから。答えがないというその状態が、どっちつかずで気持ちが悪い。居心地が良くないから。

悶々として答えを探し続ける、それが出るのを待ち続ける―そういった時間もすべて必要なこと。いわばそれも答えの一部。そして、そういったプロセスを経て得た答えは、体中の全細胞で感じ、理解する、本物の「ユリイカ!(わかった!)」を運んでくるのだ。









カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

さなぎから蝶へ―それぞれの死生観

 2009-08-05
京都の竜宝寺住職であり、「死に方学」でも有名な中野東禅氏が、某テレビ番組の中で死生観について語っていたことが興味深かった。

中野氏は、自身が講義を持っている大学で、学生700人を対象に「死」というテーマで作文を書かせ、その内容―死を考え感じたきっかけ別に「直接的体験」「間接的体験」と分類している。

①「直接的体験」―人格が変わるほどショックを受けたとみられるもの。
例:「大手術をした」「事故に遭った」「家族や親しい人との死別」等

②「間接的体験」―人格が変わるほどのショックとは思えないもの。
例:「ペットの死」「事故を目撃する」「孤独、いじめに遭う」

中野氏曰く、「間接的体験をした人達は、『死ぬのは恐くない』とか『自分は地獄へ行くだろう』など、観念で物を言う。既成のものさし、概念で説明しようとする。死というものを説明する時、『人間はいつ死ぬかわからない。だからあれをしたい。これをしたい』と自己中心的だ。

しかし、「直接的体験をした人達は、『人間はいつ死ぬかわからない。だから家族を大事にしたい。恋人を大事にしたい』と周りの人を中心に見る。これは大きな違いである。直接的体験の人達は、『エゴ』から解放されている。事実を事実のままに純粋にみられる」

さらに、滋賀県の看護師100人に「自分が初めて直面した患者の死で、どんなことを感じたか?」というアンケートを取ったところ、その20数%が「厳粛な気持ちになった」、50数%が「恐いと思った」と回答したことを受け、「恐いと思うのは、『連続性』がないから。いわば『心が繋がっていないから』だ」ということをおっしゃっていた。

人格が変わるほどのショックを受けた死の「直接体験」の人はエゴから解放されていて、「間接的体験」の人はそうでない?初めて直面した患者の死に恐怖を覚えるのは「心が繋がっていない」から?

果たして本当にそうだろうか?中野氏がおっしゃっていることが間違っているとか、そういうことではない。死に対する考え方、感じ方は人それぞれだ。どれが「正しい」とか「間違っている」とか、そういったもので単純に括れない。人の数だけ死生観があるはずだ。

仏教の最終目的は「エゴを捨て去ること」だ。中野氏のおっしゃっていることは、あくまでもこのスタンス、いわば僧侶としての立場、宗教的な観点からのものなので、万人には当てはまらないと思う。自我、いわゆる「エゴ」の存在否定を中心に置いたそれは、大きな「偏り」があると思うのだ。


「さなぎから蝶へ」生から死へのプロセスはそれと同じ―と、私は思う。

小学生の頃、家の庭の木の枝に、アゲハ蝶のさなぎが付いていたことがあった。いつ蝶になるか楽しみで、毎日観に行っていた。そっと指で触ると、もぞもぞ動く。その様子を見て、子供心にそこに「命」の存在を感じていた。

ある朝いつものようにさなぎを観にいくと、さなぎの背中側が割れていて、中の蝶は既に飛び立った後だった。がっかり半分、安心半分で、しばらくそのまま残ったさなぎを観たり触ったりしていたのだが、なぜか急に恐くなった。そこに残ったさなぎに「命」は感じられなかった。無機質な物体と化していた。いわば骸(むくろ)、残骸。昨日までその中にあった命がないというだけで、こんなにも感じ方が変わることが不思議だった。

今までに何人かの身内の死を経験してきたが、やはり私には、その体が「その人」だと思えないのだ。ただの「入れ物」だけがそこにあるような感じで―。

初めて患者の死に直面した50数%の看護師の方達が恐怖を感じたのも、そのためではないかと思うのだ。肉体の機能が停止した瞬間から、命が骸、残骸へと変化するそのスピードに畏怖驚嘆する―それが「恐い」という表現になったのではないだろうか。

「恐い」という言葉には、「人知でははかりがたい、すぐれた力がある。驚くべきである」という意味もある。そしてそれは、20数%の人が回答した「厳粛な気持ちになった」ということと大差はないのだ。「心が繋がっていないから云々」の話ではないのである。


過去生回帰のセッションでは、毎回その人生での死の場面までクライアントを誘導することになる。過去生での死後、またこの世に生まれ変わってくる。「魂は永遠」それを実感した人は口を揃えて言う。「死ぬことが恐くなくなった」私も同様である。死ぬことは恐くない。それは古い殻を脱ぎ捨てるようなもの。魂は死なない。

死んで生まれ変わる、生まれたら死ぬ、そしてまた生まれて―。繰り返される輪廻の法則への理解は、人を「内」へと向かわせる。真の自我と向き合うきっかけになるのだ。その結果、多くの人は思うようになる。「もっと自分を大事にしよう。限りある時間なのだから、もっと自由に思うままにやってみよう」と。

それはわがままとか勝手とか自己中心的というものではない。まずは「自分ありき」なのだ。物事には順番がある。周りの人を大事にするのもいいが、それはまず自分自身を大事にしてからの話。あくまでも優先順位は「自分」だ。自分を大事にできない人が、自分以外の人を大事に出来るわけがないのだ。

中野氏の言うところの「エゴから解放され、周りの人を中心に見ることができる直接体験の人達」は、私にとってみれば、ただの「他律」にしか思えない。そもそも自分の人生は自分のもの。誰かのためでなく、自分のために人は生きるのだ。

私はいわゆる「直接体験者」だが、中野氏の説に則れば、完全に「間接体験者」側のようだ。私は常々思っている。「いつ死ぬことになっても、たとえそれが明日でも、一切の後悔なく、最期に『楽しかった!』と思って死ねるような人生を送ろう」と。

エゴから解放されなくても、煩悩の塊と言われたとしても、私は自分中心、エゴ中心の人生で行こうと思う。事実をそのまま観ることにエゴの有無は関係ない。

そしてこの人生が終わる時、今の体、古いさなぎの殻を脱ぎ捨て、蝶になって、自由に軽やかに宇宙(そら)を飛ぶのだ。


カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

9月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-08-04
9月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 9月6(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 9月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



カテゴリ :グリーフケアに関するお知らせ トラックバック(-) コメント(-)

制服フェチ

 2009-08-03
「制服が好き」などという発言をすると、男性の場合白い目で見られたりすることがあるが、女性にも男性の制服好き―いわゆる「制服フェチ」はかなり多い。

私の友人の一人は、黒の詰襟の学生服に目がない。一番上の息子を出産した時、分娩を担当してくれた産婦人科の先生から「男の子ですよ~」と言われた時、「やった!詰襟着せられる!」と心の中でガッツポーズをしたらしい。行きつけの美容室の美容師さんは、サラリーマンがワイシャツ姿でIDカードぶら下げている姿にクラッとくると言っていた。

私も「制服大好き!」である。身近な所では警察官、消防士、自衛隊員とか。仕事柄、皆さん筋肉質で良いガタイをしていらっしゃるせいか、実に制服が似合う。姿勢が良いのもかなりポイントが高い。猫背で自信なさ気にしている人には、こういった職種の制服は絶対に似合わない。

これは私の独断と偏見だが、猫背の姿勢の悪い人というのは男女関わらず、基本「自分が一番可愛い」と思っている人だと思う。失礼を承知で言えば、自分のことしか考えてない「自己チュー」の人が多い。そういった人と話していると、早かれ遅かれ、やはり途中でその傾向が現れてくる。どんなに「いい人」に見えたとしても―だ。

「動物」として人間を捉えた場合、猫背―前屈みの姿勢というのは、「生き物の一番弱い場所」である腹部を防御するためのものだと思う。攻撃された時、弱点をすぐに守れるよう、自分の身を小さく抱え込めるようにしておくには、胸を張った姿勢より猫背のほうが時間的なロスが少ない。相手を警戒している時の犬や猫の様子を見ていたらそれが分かる。

結局「保身」と「防御」というものが大前提且つ中心にあるので、自分以外の人のことに目を向ける余裕がない。いくら人当たりが良くて優しかったり、日頃大言壮語していたとしても、何かあったら自分だけ真っ先に逃げ出すタイプだと思う。

スピリチュアル風に言えば、「ハートを守っている」。前屈みの猫背でハートを大事に抱え込んでいる状態。だが、抱え込んでいるが故に「心の内を見せない、開かない、隠している」という状態でもある。

グチの多い人、過去の出来事にこだわり過ぎる人、執着が強過ぎる人、ネガティブ思考な人・・・こういう感じの人に共通して見られる特徴は姿勢の悪さだ。

話していても、「頑な」な傾向が強い。「誰も理解してくれない」「どうして理解してくれないのか」そういった不満の大元の原因は、自分が「見せない、開かない、隠している」という部分、いわば自分自身にあるということに気づかない。

自分のことしか考えられない人、自分を守ることに精一杯の人が、「自分以外のため」に動けるはずなどないのだ。警察、消防、自衛隊等、「国のため、人のため」に働く人達に猫背の姿勢の悪い人が見当たらないのは、そういったことも関係しているのかもしれない。


うちのすぐ近所に中国領事館がある関係で、その周辺、半径100メートルの所に365日24時間、警察官の方達が立っていらっしゃる。領事館の斜向かいにあるスーパーに行く時など、当然警備中の警察官の方を目にすることになるのだが、その度にチラ見する。友人達には「こだわりが細か過ぎてよくわからない」と言われるが、ズボンの裾をハーフブーツの中に入れている所が、特に「ミソ」なのだ。

先日など、消防士の方達が公園周辺にある消火栓の点検をしているところに偶然遭遇したのだが、チラ見どころか、「ガン見」してしまった・・・。テキパキと行動するその様子は実に頼もしげ。「やっぱり男はこうでなくちゃね~」などと思いながら、目をハートにしてその姿を見ていた。

整備士のおにいさん達が着ているような白いつなぎも好きだ。機械油とかで汚れていたりすると尚良し。ドクターや研究者が着ている白衣も、ストライクど真ん中である。白衣を着て、細身で銀縁のメガネなぞかけたいらっしゃった日には、多分キュン死ものだと思う。

先日私がかっこいいと思う男性の1人である棋士の羽生善治氏が、某テレビ番組内の実験に参加されていた。詰め将棋をしている最中の脳の動きを測定するとかいう内容だったのだが、なぜか羽生さんは白衣を着せられていた。以前から「羽生さん、絶対に白衣似合うよな~着てくれないかな~」などと思っていたので、そのまさかの白衣姿にはやられてしまった・・・。ツボもツボ。まさにはまり過ぎ、似合い過ぎで、目が釘付けになってしまった。

それも含め、今までで最高にかっこよかったのは、アメリカ海軍の司令官の制服だと思う。私の「アメリカのお父さん」のギルは、当時海軍の司令官だった。当然仕事の時は制服着用となる。その制服姿がとにかくかっこいいのだ。ギル自身、ダンディーなジェントルマンなのだが、制服を着るとさらに男前度が3割アップする。

リチャード・ギアが主演した「愛と青春の旅立ち」のラストで、主人公が着ていた海軍の正装である白と金モールの制服などは、本当に溜息が出るくらい素敵なのだ。特に司令官のように組織でも上の階級になると、さまざまな階級章などで、さらにゴージャス且つ迫力が出る。

ギルの奥さんのマージも、「ね?素敵でしょ?この制服にやられちゃったのよ」と笑っていた。国は違えど「制服好き」の女性は確実に存在するようだ。


20代の頃組織に籍を置いていた時もあったが、基本私はどこかに属するということは向いていない性格だと思う。チームワークを重要視される団体競技の類も好きではない。出発から解散まで四六時中他の参加者と一緒・・・というような団体ツアー等、苦痛以外の何物でもない。もちろんそういった場にいても上手くやっていけるし、実際やってきたのだが、「やっぱり向いてないわ」と、最近つくづく思う。

だから「組織に属している証拠」でもある制服を身につけている人を見ると、ただただ尊敬する。私のような得体の知れない怪しい自由業の人間からすると、特に警察、消防、自衛隊といった上下関係の強い組織に身を置きつつ、人のために働く―などというのは本当に「すごいこと」なのだ。

タフさとストイックさと―。男性に「体育会系」の要素を求める私には、「制服の男達」はかなり魅力的なのだ―と熱く語る私はやっぱり自他共に認める「制服フェチ」だ。



【追記】
姿勢の悪い人というのは、同時にお辞儀の仕方も美しくない。特に男性の場合、きちんとしたお辞儀ができないと「貧相」に見える。首だけでヘコヘコしたり、腰がくねっとなったり。そういった日常の所作にも、その人の「素」が表れる。周りの人は、意外にそういった所を観ているものだ。


カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

アメリカにて「チップを受け取らない理由」

 2009-08-01
世界最大級のインターネット旅行会社エクスペディアが世界各国のホテル経営者や従業員らに行った調査によると、宿泊客として最も評価が高いのは日本人、最下位はフランス人だった。同社が10日までに発表した。
調査は6月、約4500人のホテル関係者を対象に実施。27カ国の旅行者について、礼儀正しさやチップの額など9項目の評価を尋ねた。

日本人旅行者は礼儀正しさ、清潔さ、静かさ、苦情や不満の少なさなどでトップ。総合点で英国人が2位、カナダ人が3位で続いた。4位はドイツ人、5位はスイス人。

フランス人は外国語への順応性、寛大さ、チップの額などが27カ国中で最下位。礼儀正しさや態度全般も26位だった。総合点で26位はスペイン人、24位でギリシャ人とトルコ人が並んだ。

部門別では、チップの額が最も多いのは米国人、ベストドレッサーはイタリア人だった。(共同)

[2009年7月10日8時39分 日刊スポーツcom.より]



この調査結果に関して、「日本人が苦情を言わないのは、言葉の問題や外人コンプレックスがあるからだ」等、ネット上ではいろいろと意見が飛び交っていたようだ。

確かに的を射ている。添乗員付きの団体ツアーの場合、苦情や不満があったとしても、それがそのままの形で直接ホテル側に伝わることは少ない。添乗員がそれを肩代わりする役割をしているからだ。その「ワンクッション」の有無による差は、かなり大きいと思う。

以前サイパンに行った時、参加ツアーの添乗員と思しき人に、部屋に対する不満をホテルのロビーで大声でぶちまけている日本人観光客を見たことがある。これがもし個人旅行なら、その人が同じような口調でホテルのスタッフに苦情を言うとは思えない。「静かなのは内弁慶故・・・」というのが、大方のところだと思う。

だが、そういった点を差し引いてみても、やはり日本人旅行者の質は世界でも上位にランクされると思う。実際、こちらが日本人だと分かるとホテル側の対応が明らかに変わってくる。サービスや接客態度等、格段に違ったものになるので戸惑う時さえある。

今では6年来の常宿となったアリゾナのホテルに初めて宿泊した時がそうだった。ネットを通じて自分で予約をしていたのだが、チェックインする時にフロントスタッフがパソコンの画面を確認しながら「from Japan, good!」と大きく頷いたのだ。特に気にするようなことでもないと思うのだが、なぜかその時の様子が微妙に引っかかるというか、気になるというか・・・後にこの理由が判明するのだが・・・。

そのホテルには7連泊することになっていた。朝部屋を出る時に、掃除やベッドメイキングのためのチップをベッド脇のテーブルに置いていっていたのだが、3日目の夜部屋に戻ってくると、なぜかそのままチップが残っている。部屋はちゃんと掃除されているし、ベッドメイクも終わっている。「取り忘れ?」と思い、特にそれ以上は気にしなかった。

そして次の日、外出する時にいつもと同じようにチップを置いていった。が、夜になって戻ってくると、またしても1ドル紙幣がそのままの状態で残っている。掃除もベッドメイクも相変わらず完璧だ。「また取り忘れてる・・・」呆れながら、掃除完了の印にテーブルに置かれているカードに書いてある担当者の名前を確認してみた。「Beth」と書かれてある。確かチェックインして以来、毎回同じこの名前がカードに書かれていたのを思い出した。

「さすがに2日間取り忘れはまずいでしょ・・・」と思い、そのまた次の日、ホテルの便箋に大きく「チップ取り忘れないで!」と書き、取り忘れた2日分と合わせ、合計3ドルを一緒に置いて部屋を出た。

そしてその日の夜・・・またしてもチップがそのままの状態で残っているではないか!「え~?!どういうこと?」と思っていると、私が「取り忘れないで!」と書いた便箋に、何やら文字が付け加えられているのに気づいた。見ると「Thanks! But that's OK.(ありがとう!でもいいのよ)」と書かれている。サインはまた同じ「Beth」だ。

「ちょっと待って。『いいのよ』って全然よくないよ~なんで?!」と思い、そのままフロントに行って今までの経緯を説明した。

アメリカ国内でのメイドの給料は決して高くない。言ってみれば「3K」の職業、低所得者層の域に入る。お客からのチップも重要な収入源だ。それを「いいのよ」って・・・。

私の話を聞いたフロントスタッフは、「ああ、そのことね」という感じで特に驚く様子もない。と、そこに当の本人、ベスが通りかかった。フロントスタッフの男性が「あれがベスだよ。ベス!ちょっと!」と呼び止めると、彼女がこちらにやって来た。怪訝そうな顔で私達を見ている。

「何かしら?」「ほら、例のチップの件で。彼女がチップを取らない理由を知りたいんだって」

とりあえず自己紹介して、どうしてチップを取らないのか彼女に聞いてみた。「そういえばメモを残してくれていたわよね。でも本当にいいの。気にしないで」と彼女は笑っている。

「だって部屋の掃除もベッドメイクもやってもらっているのに・・・悪いから受け取って!」と言うと、ベスはこう言った。「だってあなたの部屋、いつもすごく綺麗なんだもの。10分もしないで終わっちゃうから本当に楽なのよ。だからいいの」「そんなこと言われても・・・」「本当にいいから!ね!」「うーん・・・」

フロントスタッフは笑いながら私達のやり取りを見ている。「ねえ、あなたからもベスに何か言ってよ」「それはボクの役割じゃないよ。チップを受け取るのも受け取らないのも彼女の自由だよ」「もう・・・」

確かに私は部屋を汚さない。几帳面なところがあるので、やはり旅先でも家にいる時と同様にちょこちょこ片付けたりすることがある。でもそれはメイドスタッフに悪いとか、そういったものではなく、綺麗で片付いた空間にいることが好きだからだ。言ってみれば自分のため。道楽というか習慣みたいなものなので、「楽だから助かるわ~」と言われてもあまりピンと来ない。

「だからチップは必要ないから」「えー、本当にいいのかなぁ・・・」「いいから、いいから!」そんなこんなで、結局滞在中のチップは「免除」されてしまった・・・。


それ以来、ロビーや廊下、コインランドリールームなどでベスとすれ違う時、ちょっとした立ち話をしたりするようになった。聞けば彼女はメイドリーダーのようで、この仕事も子供が手を離れて時間ができたので、いわばちょっとしたパート感覚でやっているようだった。ご主人は小さいながらも建築関係の会社を興し、ものすごく裕福とまではいかないが、そこそこ快適な生活ができる収入はあるとのことだった。

まあその辺のところは安心したのだが、でもやっぱりすっきりしない。彼女の仕事に対する報酬なのだから受け取るべきだと思うのだが、相変わらずベスは頑として「チップは要らない」と言う。

「何かお金に代わるもの・・・」と考えていた時、ふと思いついてスーツケースを開けた。「これなら受け取ってくれるかも」と、アメリカ人の友人達に大好評で、お土産に持ってきていた「柿の種」と「コ○ラのマーチ」を取り出した。

日本のお菓子は世界で1~2位を争うクオリティーだと思う。何というか、すべてが「繊細」なのだ。特に「コ○ラの・・・」などは、中に入っているコアラの模様が1個ずつ異なるなど、アメリカではまずあり得ないタイプのお菓子なのだ。全体的に「大味」のアメリカ物に比べると、レベルの差は歴然だ。

今まで私がアメリカの友人達にお土産で持っていたお菓子で特に人気があったのは、「柿の種」「コ○ラのマーチ」「カ○ル」「チーズおか○」「きのこの○」「たけのこの○」だった。特に「柿の種」は大人にも子供にも人気があって、「また買ってきて」と頼まれることが多い。

「あのね、これ日本のお菓子なんだけど、よかったらどうぞ」「まあ!なんてキュートなパッケージなの!これコアラでしょ?子供が喜ぶわ。ありがとう!」と受け取ってくれた。「こっちは『柿の種」っていって、ちょっと辛いライススナックだから」「うちの家族はメキシコ系だから辛いのは大好きよ!」

そして翌日、外出先から戻ると、テーブルの上にメモが置いてあった。ベスの字で、「家族全員が大喜び!本当に美味しかった!ありがとう!」と書いてある。

それ以来、そのホテルに泊まる時は、必ず例のお菓子をいくつか買っていくことにしている。ホテルスタッフの休憩室でも大好評のようだ。お菓子も立派な文化交流の材料になるのだ。


今ではすっかり顔なじみになったベスやその他のスタッフ達は口を揃えて言う。「日本人旅行者の部屋はいつも綺麗だから助かる。大声で騒いだりもしないし、マナーも良い。EXCELLENTだね」

以前そのホテルにアジア某国の観光客が団体で泊まった時は、本当に大変だったらしい。他の宿泊客から騒音の苦情や、敷地内にあるプールの使い方のマナーに関する苦情が殺到して、対応が大変だったとのこと。「部屋なんかもう大災害が起きた後みたいに散らかってたわ」と、ベスが言っていた。

「容姿は似てるけど、全然違う」やはり日本人観光客に対する評価は断トツに高い。「立つ鳥跡を跡を濁さず」の精神が、やはり日本人に染みついているからだろうか。すべての日本人がそうとは限らないが、やはり評価されると嬉しいものである。


「I'm back!(ただいま~)」「Welcome back!(おかえりなさい!」の後は、いつものお約束のやり取りだ。「分かってると思うけど」「チップは要らないんでしょ?(笑)」「そのとおり!(笑)」「あ、また例のヤツ持って来たよ」「まあ嬉しい!みんなで楽しみにしてたのよ!」「だったらさ、今度から『日本人旅行者のチップは柿の種とコ○ラのマーチにしてください』って予約の時に伝えておいたら?」「いいわね、それ(笑)」

ある時、部屋に戻ってドアを開けた瞬間、チリソースの匂いがする。「?」と思ったら、テーブルの上にアルミホイルを被せた物が置いてある。ホイルを取ると、手作りのタコスがお皿に乗っている。添えられているメモを読むと、「外食ばかりは飽きるでしょ?よかったらどうぞ。 ベス」と書いてあった。

彼女の手作りタコスを食べながら、しみじみ思った。ちょっとした気遣いというか、心がけからいろいろなものが生まれるんだなぁ―と。宿泊客とホテルのメイド。通常だったらお互いの顔や名前、その存在すら知らないままで終わるのが「普通」の関係だ。

だが今私は、もしかしたら存在を一生知らないままで終わったかもしれない人の作ったタコスを食べている―。何だかとても不思議な気がした。人の縁というものは、本当に何がきっかけになるかわからない。


そろそろまた、「柿の種」と「コ○ラのマーチ」を持って、アリゾナにでも行ってこようかな・・・。

カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。