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語学の達人

 2009-07-26
ここ数年、小学校の授業に英語を必須科目として取り入れるかどうかについての議論が、あちこちで行われている。子供のうちから外国語に触れる機会を持つことは、確かに悪いことではない。しかし、まずは「国語力」をつけることが先決だと思う。

これは私の独断だが、外国語を取得する能力、いわゆる語学力のレベルというものは、その人の母国語のレベルに比例すると思う。

それは、その外国語をカタコトでしか話せない人は、母国語もカタコトでしか話せない―ということを言っているのではない。同じゼロからのスタートで始めた場合、今自分が話している母国語のレベル(ボキャブラリー・表現・内容等)を、その言語においても再現できる可能性があるということ。

例えば、日本語で書かれた学術書を読んで、その内容を理解することができたら、英語やその他の言語で書かれた同じ程度の内容の書籍を読解できるレベルの語学力を身につけることができる可能性が潜在しているかも―ということだ。

そもそも日本語で表現できないことを、外国語で表現できるわけがないのだ。


「どうしたら英語を話せるようになるんですか?」と、いろいろな人に聞かれる。大抵そう質問してくる人は、「CNNやBBC等で話されているような難解な表現や単語を使いこなすこと=英語を話すこと、英語が上達すること」と思い込んでいる。

英語圏の国に住んだり、旅行した経験のある人は分かると思うが、ああいったニュース番組のキャスターが話しているような単語や表現は、日常生活ではほとんど聞かれない。「え?こんなもん?」と、拍子抜けした経験のある人は多いと思う。

なぜか日本人は「正統」が好きな人が多い。例えば、八百屋さんの店先でリンゴの値段を聞きたい時、「すみません。このリンゴはおいくらですか?」というような感じの表現を、わざわざ使いたがる。そんなものは、リンゴを指して「いくら?(How much?)」と聞いたらいいのだ。

八百屋のおじさんも「はい、それは1ドル50セントです」などともったいぶった言い方はしない。「It's」とか「doller」とか「cent」さえ付けず、「one fifty」としか言わない。教科書に出てくるような紋切り型の文章で話している人なんかいない。わざわざ文章にしなくても、単語だけで十分事足りるのだ。

わざわざ関係代名詞とか、そんなややこしいものを使わなくてもいいのに、なぜか日本人はその「ややこしいもの」を進んで使いたがる。

「ニューヨークに住んでいる友達がいるんだけどね」と言いたい場合、「I have a friend who lives in NY」と言わなくても、「I have a friend and she lives in NY」と言ったら十分だ。確かにさり気なく関係代名詞を使いこなせたらぶつ切りにならずにスマートだし、「本物」っぽい。だが、それはあくまでも自己満足の域だと思う。「アメリカ人みたいに関係代名詞を会話に混ぜて話せる私って素敵♪」というところだろう。

いつも思うのだが、日本人の語学の勉強方法はどこかズレているような気がしてならない。必要のない所に力を注いでいるように思えるのだ。「小難しい言葉を使う=格調高い英語」と思い込んでいる節がある。

確かにボキャブラリーが多いほうが何かと便利だ。だが、それよりも「言い換えの能力」を身につけたほうがよっぽど役に立つと思う。

例えば「電子レンジ」。アメリカ英語では「microwave(マイクロウェイヴ)」だ。だが、もしこの単語を知らなかったとしても、「ほら、あれ何て言うんだっけ?冷えた料理を温める機械」と言えば、「ああ、microwaveね」となる。何も辞書に載っている単語を全部覚えなくても、簡単な言葉でその対象を説明できたらそれで事足りる。

「病院」は「ケガをした人や病気の人が行く所」、「学校」は「勉強する場所」、「薬局」は「薬を売っている所」・・・そんな感じで、対象物の特徴等を説明できる力を磨いていく。そしてそこで得た単語や表現を、どんどん取り入れていく。その「言い換えの能力」が、実は一番重要且つ必要とされることではないかと思うのだ。

「使える語学」とは、そうやって身につけていくものだと思う。TOEICで高得点の成績を取っても、ほとんど英語が話せない、使えないという人が世の中どれだけ多いことか。

以前勤務していた職場の某部署に、TOEIC850点という人がいたのだが、国際電話や海外支社からの外国人スタッフとの打ち合わせや会議でのやり取りはグダグダだった。その様子を見て、「日本の語学教育はやっぱりおかしい」と真剣に思ったものだ。

TOEICとか英検とか、ああいったものは「単なる目安」。「得点の高さ、持っている級=その人の語学力」ではないのだ。

英語に限らず、私の周りで語学ができる人―その国の言語で、その国の人達と討論できるようなレベルの語学力を持つ人のほとんどは、そういった検定の類を一切受けたことがないと言う。だが、「TOEIC800点です~」「英検1級持ってます~」と言う人達よりも、「かなり達者」だ。

私自身、中学2年の時に英検2級を取って以来、そういった検定試験とは無縁でここまで来てしまった。当時の2級は、確か高校レベルだったと思う。高校に入ったら準1級や1級にチャレンジしてみようかと思っていたのだが、その後もなんだかんだと受けそびれて、結局そのままになった。TOEICも一度受けようかと参考書や問題集を買ったりしたこともあったが、何だか面倒くさくなって受けず仕舞い。

それでも、筆記試験・面接共3分の2が英語で行われた日本語教師の選抜試験には合格したし、OL時代は、時々文書作成や海外支社とのやり取り等で英語が必要だったが何の支障もなかった。

「資格としてそういったものを受けておいたほうがいいのかな」と何となく思ったので、当時会社に出入りしていたアメリカ人の英会話講師に相談してみたことがあった。

「留学する予定でもあるの?」「今のところないです」「ボスに受けろって言われたの?」「いえ、何も」「受かったり、良い点数を取るとサラリーはアップするの?「多分それはないと思います」「うーん、だったら別に受けなくてもいいんじゃない?受けたいと思うなら別だけど。あなたには必要ないと思うけどな~」と言われたので、「じゃあいいや」とそのままになった。

確かに高校まで週一のペースで英会話スクールに通っていたが、「役に立ったか?」と聞かれると、正直「うーん・・・」という感じだ。講師の先生が外大出身で留学経験があるとしても、やはり「限界」というものがある。発音がいくら上手だとしても、やはり「ネイティブ」のそれには敵わない。

学生時代はイギリス文学とアメリカ文学、いわゆる英米文学専攻だったので、割と頻繁に原書を読まされたり、英語で何十枚ものレポートを書かされたり、ディベートや外国人講師による講義もあった。それなりに英語力は必要だったし、身についたとも思う。

後は中学2~3年生からずっと、オーストリアのウィーン在住の同い年の男の子と女の子と、24~5歳まで英語で手紙のやり取りをしていた。洋画や洋楽も好きだったし、部屋にいる時はFEN(米軍極東放送。現在はAFN)をかけっ放しにしていた。そういう意味では周りの友達よりは英語に触れる機会が多かったかもしれない。

そんな感じで、特に「英才教育」を受けたわけでもない私だが、中学生の頃以来、今もずっとやり続けていることがある。それは、例えば新聞や雑誌、小説でも何でも、日本語の文章を見つけたら「これを英語にしたらどうなる?」と、脳内で英訳すること。何もすることがない時など、暇つぶしにやっていたりする。電車の中の吊り広告の文章とか、歌の歌詞とか、ドラマの台詞とか、ネタはいくらでも転がっている。

電子辞書はいつも手元にあるので、思い立った時はすぐに調べたりする。アメリカの友人達とのメールも良い勉強になる。先日、同時通訳を20年されている方とお会いしたのだが、やはり電子辞書等をいつも持ち歩いていて、「あれ?」と思った時には、電車の中だろうがどこでもその場で調べるとおっしゃっていた。小学校から中学までの9年間をイギリスとアメリカで過ごした帰国子女で、プロ通訳者として20年のキャリアを持つ人さえ、そういった努力を未だに続けているのだ。


あくまでも私の持論だが、外国語を習得したかったら、「日常生活において、どういった形でも、常にその言語がある状態」にしておくべきだと思う。○CCとか、NO○Aに週1回通って、2時間程度のレッスンを受けて、次のレッスンまでテキストも開かない―という状態では、正直何もしていないのと同じだ。「長く通っている割には全然変わり映えがしない」と言う人は、大抵このタイプだ。


以前、「本当は埼玉出身疑惑」があるデイヴ・スペクター氏ばりの日本語を話すアメリカ人の大学院生と会ったことがある。彼は大学に入学して初めて日本語に触れた。前から日本に興味はあったが、周りには日本語を話す人は誰もいない環境だった。たまたま大学の授業に日本語のクラスがあったので、軽い気持ちで選択したという。

その「軽い気持ち」で始めた日本語に、彼はどっぷりハマってしまった。意味も分からないのにケーブルテレビやビデオショップで日本の映画やドラマを見まくり、辞書やテキストを片時も話さず、同じ大学の日本人留学生を見つけては片っ端から話しかけて友達になり、日本語を教えてもらった。「日本人観光客に話しかけて警戒されたこともありましたね」と、彼は笑っていた。

大学3年の時に、交換留学生として日本に滞在した1年間で、彼の日本語は更に磨きがかかった。「日本にいた時は、夢も日本語で見ていました」そしてネイティブがお世辞抜きで感心する日本語を身につけたのだ。それまで日本語には一切無縁で、大学に入ってゼロから始めた日本語をそこまでのレベルにするために、彼はそういった努力をしていたのだ。

彼だけでなく、第二外国語を自由に操る人達は、やはり彼と同様のことをしている。365日、毎日平均して2~3時間はその言語に触れているのではないかと思う。週1回2時間のレッスンで、次のレッスンまでテキストも開かず、「話せるようになりたい」などと言うのは、本来虫が良過ぎる話なのだ。

在住経験があれば話せるというものでもない。語学学校に留学して2年になるが全然英語が話せない―というような、いわゆる「留学生崩れ」の人も本当に多い。もちろん真面目に頑張っている人もいるのだが、特に日本人留学生の多いアメリカ西海岸の地域では、「何しに来たの?」というような類の人を目にする機会がかなりあった。

学位を取るために大学や大学院に留学する人、研究職や企業からの派遣等、仕事が目的で留学する人と比べて、段違いにお気楽な語学学校では、やはり気も緩むのだろう。授業にも出ず、親から出してもらったお金でリッチなアパートを借りて同じ日本人留学生と同棲したり、遊び回っているケースはめずらしくない。授業には出ない、日本語しか話さない相手と一日の大半を一緒に過ごす―そんな環境では5年アメリカに住んだとしても、カタコト英語しか話せない。

「学問に王道なし」と言われるように、手っ取り早くそれを身につける方法などない。今自分が「あれくらい話せたらいいな~」と羨ましく思っているその人の語学力は、その人が見えない所で一生懸命努力してきた結果なのだ。

「何か楽な方法はないかな~」と考えるその甘さを捨てること。そんな方法は元から存在しないのだから、ボーッと考えている暇があったら言い回しの一つでも覚えたほうがよっぽどいい。そして、その心構えを持った時が本当のスタートラインだ。



【追記】
ここれでは触れなかったが、語学を学ぶ基本は、やはり「聞くこと」だ。相手が何を言っているか聞き取れなければ、何も始まらない。「英語がわからない」と言う人を見ていると、その場の状況を考えず、相手の発している音もよく聞かずに、すぐに自分の知っているよく似た単語に結びつけてしまうことが多い。

例えば「I need a dish.(お皿が要るんですけど)」と言っているのに、「dish(ディッシュ)」を「え?ティッシュ?ティッシュペーパー??」といった具合。だから双方「???」と、とんちんかんなやり取りになってしまう。

多分普段聞きなれない外国語で話しかけられて焦ってしまって、ある種のパニックを起こすのだと思うが、聞き取れなかったらもう一度聞き返すこと。そうすることで相手も表現を変えたり、他の手段を考えることができるのだ。「わかったふり」と「早合点」は禁物だ。


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カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

スピオタ男子

 2009-07-24
先日、ネット上で「合コンで思わず引いてしまう○○男子ランキング」という記事があった。それによると、占い等、目に見えない世界の存在を信じる「スピリチュアル系男子」が3位にランクされていた。

見えない世界の存在を信じる人は男女年齢問わず大勢いる。このランキングで言われているのは、そういったものを盲信したり、しがみついて拠りどころにしているような、いわば「スピリチュアルおたく」の男性のことだと思う。

この「スピリチュアルおたく男子」(以下「スピおた系」」、率直に言って「中身が乙女」の人が多い。良いとか悪いとかではなく、思考パターンや感受性等含め「女性性」が強い人達だ。物腰も柔らかいし、優しいし、時々女性といるような錯覚を起こす。

セラピストになるまで、正直こういった種類の男性とは縁がなかった。私の周りの男性の友人知人は、大半が「体育会系」だ。スポーツマンとか、ノリがどうこうとかいう話ではなく、いわゆる「即行動!」というタイプ。「ウダウダ言ってる暇があったらとりあえずやってみようぜ!」という感じ。いろいろな意味で「フットワーク」が軽い。

私自身「走りながら考える」タイプなので、彼らのテンポは一緒にいて気持ちが良い。たまにはそういった目に見えない世界の話もするが、「とりあえず大事なのは今だよな!」と、現在に焦点を置くという所も共通している。

その対極とも言える「スピオタ系男子」との最初の出会いは、セラピスト養成スクールの講座だった。20代から60代まで、男性が圧倒的に多かったことも意外だったが、何よりも私を仰天させたのは、その男性陣の大半が「スピリチュアル大好き!」という人だったことだ。

心理学も含め、彼らは「目に見えない世界」のことが大好物のようだった。数種類の占い本を持ち歩いている人もいれば、オーラソーマやアロマの勉強をしている人もいる。「ソウルメイト」などという言葉も会話の中にバンバン出てくる。何というか、すべてが「乙女の会話」なのだ。会話だけ聞いていると、まるでOLさんの昼休みのようだ。

極めつけだったのが、気功と整体の治療院を経営している50代くらいの男性だった。何でもその人は、相手に関するいろいろなことが「見える」と言う。オーラはもちろんのこと、体の異常、今その人が抱えている悩み、何歳の時に何があったか等というものが映像で見えるというのだ。

台湾とか海外からも自分の治療院に通ってくる患者さんがいるとか、そういった自分の「見える能力」を事あるごとに自慢する。授業中にもかかわらず、同じテーブルに座っている人相手に「浄化」と称したヒーリングを始めたりする。態度も横柄で、そういった行為を含めて正直鬱陶しく思っていたので、グループワークの時を除いて、その人と関わらないようにしていた。

「ちょっと常識知らない人だよね」私を含め、女性陣はその様子を冷ややかに見ていたのだが、その他の男性陣は違った。休憩時間等、その人の周りに群がり、夢中で質問したりしている。まるで「キリストとその弟子」みたいな感じだ。

多くの人がちやほやする中、私がシラーッとしているのが気に入らないのか、その人は事あるごとにアピールしてくる。二人一組になって行うワークの時、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

次々に相手を変えてクラス全員と組むことになるので、当然その人と組む時もやって来た。周りの人達より少し早めに終わったので、私はテキストを見直しながら注意点等を書き込んでいた。

その時だった。その人が突然私に向かって「今何を悩んでいるか知ってるよ」と言ったのだ。振り返ると、訳知り顔をして私を見ている。今までの経緯もあったし、ちょうどその頃プライベートが大荒れの時期だったこともあって、カチンと来た。無断で部屋を覗かれたような気がして不快に感じた。見えたり分かったりするのは勝手だが、それをわざわざ相手に言う必要があるのだろうか。

「はあ?鑑定してくれってお願いしましたっけ?頼んでもないのに失礼じゃありません?いい加減にしてくださいね」それだけ言って自分の席に戻ったのだが、それ以来、その人は私と目が合うと慌てて視線を逸らすようになった。

もちろん良い人もいるのだが、正直「地に足が着いてない」という印象を受ける人が多い。何でもかんでもスピリチュアルに則った意味づけをしないと納得できない、行動できないとか。

その人達にかかると、神社の境内で転んだのも、財布を落としたのも、プロジェクトのリーダーから外されたのも、ソウルメイトと未だ出会えないのも、全部「何かそこには深い意味がある」ということになる。

その人達を観察しながら横で話を聞いていると、「いや、転んだのは雨上がりで滑っただけでしょ」「そんなヒップハンガーのジーンズ履いて、ウォレットチェーンも着けないでお尻のポケットに財布入れてたらそりゃ落とすでしょ」「プロジェクトリーダー外されたのは部長との過去生のカルマのせいじゃなくて、その優柔不断で自分の意見がないところが原因じゃないの?」「会社と家の往復だけで、休みも家でゴロゴロしてたら出会うものとも出会わないでしょうが」ということが大半だ。

すべて逃避のための意味づけなので、「もっと現実見ようよ!ね?!」と、たまに体を揺すぶりたくなる時がある。何というか、非常に疲れる。「すべては必然」と思いたいならそれで一向に構わないが、「偶然の必然」というものも存在するのだ。いちいちそこに意味を見つけようとするなんて、疲れないのだろうか。私からするとよっぽど体力が有り余っているか、ヒマなのだとしか思えない。

基本私は「命に関わること以外」大したことはないと思っているので、悩むことはほとんどない。世の中というものは、為るようにしかならない。結局為るようになるのだったら、あれこれ悩んでも仕方ないじゃん―と思う。

ナントカの言葉を一日千回連呼して事態を好転させるとか、パワースポットでエネルギー補充とか、過去生のカルマの解消とか、そんなことをしなくても、そうなる時はそうなるし、ならない時はならないのだ。そこを焦ってなんとかしようともがいているスピオタ男子は、自分の器とか気の小ささや弱さを露呈しているようなものだ。

こういったスピ系の世界にハマると、実は男性のほうが厄介だ。女性は端から見るよりも案外冷静に物事を捉えているところがあるので、それほど心配ないのだが、男性は違う。際限なくのめり込んで、どっぷり首まで浸かってしまう人が多い。「男」という生き物の特性でもある「集中力」を、妙な方向に向けてしまうのだ。

ハマるきっかけも、公私での失敗や挫折、悩みから―といったケースが圧倒的に多い。いくら考えても納得・理解できなかったことが、「カルマ」とか「ナントカエネルギーが不足しているせい」とか、そういった言葉でちゃんと答えが返ってくるということも、ある意味「魅力」なのだと思う。

男性は「わかりやすい答え」を常に望む。白黒の二元論で考える生き物なので、「どちらでもない部分、グレーの部分」が存在することが我慢できない。現実世界で説明できないことが、スピ系の世界では説明がついたりする―そういったことから一気に傾斜していくのだと思う。

オンナの勘は男性が思っている以上に鋭い。その「目に見えない世界」への傾倒ぶりが、どこから来ているのかちゃんと分かっている。何でもかんでもスピリチュアルベースで地に足着いていない夢見る夢男クンから伝わってくるものは、「ちょっとこの人大丈夫?」という頼りなさだけだ。

いくら感受性が豊かで優しくても「生き物」として頼りない男を、女は最終的には選ばない。女というものは、現実主義の生き物なのだ。

「君とボクはね!時を越えたソウルメイトなんだよぉぉ!」と目を星にして熱く語る人より、自分の夢や目標、信念を持って行動する人に女は惹かれるものなのだ。


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私は私、あなたはあなた

 2009-07-23
私は私のことをする
あなたもあなたのことをする

私は私
あなたはあなた

私はあなたの期待に応えるために この世に在るのではない
あなたも私の期待に応えるために この世に在るのではない

でも もし偶然にお互いに出会うことができたら それは素晴らしい
しかし そうならなくても仕方ない



これは、心理学の「ゲシュタルト療法」の提唱者である精神分析家、F.S.パールズが書いた「ゲシュタルトの祈り」という詩である。この詩の中で詠われているのは、「人と人との出会い」と「出会った人との関係の在り方」だ。

人によったら、この詩から「素っ気ない」「冷淡」といった印象を受けるかもしれない。だが、この詩は真っ向からその「本質」を突いている。そして、「自立した人間」とはどういうものか―それをさり気なく示してくれている。


最近世の中の人達を見ていて思うのだが、相手に対して「一方的に期待をする人、それを押し付ける人」が目立つ。「自分は~してあげたんだから、相手はこれくらいしてくれて当たり前」、「この人なら絶対にこうしてくれる」そんな感じで相手からの「お返し=見返り」が来るのを待っている。

そして望みどおりのものが相手から返ってこないとわかると、「どうして?!私はあなたに○○してあげたでしょ?!」「そんな人だと思わなかった!」と騒ぎ出し、相手を責める。

気持ちは分からないでもないが、それは「自分勝手」というものだ。相手は自分がそんな期待をされていること、自分がそう思われていることなど露ほども思っていないのだから。「わざわざ言わなくてもそのくらい察してよ!」そう思うのも同じこと。相手に何かしてほしかったら、素直に言葉でそう伝えたらいいのだ。

自分の中だけで勝手に期待して、期待していたような答えが返ってこないとキレたりイライラしたりする―結局自分のことしか考えていない。

確かに相手から「お返し」が来たら嬉しい。だがその「お返し」は、あくまでも「おまけ」だ。「おまけ」だからこそ、期待していないところへポンと付いてくるからこそ嬉しいのだと思う。

相手からの見返りを当然と思っていることは、その「おまけ」を無理矢理強要しているようなものだ。自分が気に入って通っている商店街の八百屋さんで「いつも買ってあげてるんだから、たまには何か寄こしなさいよ!」そう言っているのと同じこと。「おまけ」はあくまでも先方の気持ちの問題であって、「強制」ではないのだ。


カウンセリングの最中でも、人間関係に不満や悩みを抱えている人のほとんどは、この「自分勝手な期待」が大元の原因になっている。自分で勝手に期待して、勝手にがっかりして、勝手に腹を立てたり苛立っている。「~であるべき」「~しなくてはならない」自分の都合や期待、思い込みの一方的な押し付け―この身勝手さが、すべてを招いている。

相手に満たしてもらおうとするその姿勢は「依存」であり、自分にとって都合の良い反応を引き出そうと画策するのは「支配」だ。原因と結果は比例する。そういった「欲」を持って相手と接すれば、当然それに見合ったものが返ってくる。

相手に対する自分勝手な期待や依存、支配欲―そういった「執着」を捨てること。相手は自分の要求に応えるために存在しているのではないし、自分もまた相手の要求を満たすために存在しているのではない。それぞれが自立した個々の存在。その理解がなければ、それは「本物の関係」とは言えない。

私は私、あなたはあなた―一見淡白とも思えるこの言葉の根底には、人間関係や自立に繋がる大きな鍵が隠されているのだ。



【追記】
公私両方において、私を「優しい」と言う人が多い。だが、それはあくまでも私の「一部分」でしかない。優しい面もあれば、冷淡で厳しい面もある。だが、どちらも「私」だ。一面だけを見て、「=その人」という決めつけは、「この人はこうであってほしい」という自分の「期待」でしかない。光が強ければ、その分影は濃くなる。「優しい人」には、それと同じくらい冷たく厳しい面も存在するのだ。

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「できること」よりも「やりたいこと」

 2009-07-18
「失敗するよりは成功するほうがいい」誰だってそう思っている。物事が上手くいっている時と、そうでない時では、精神状態も全然違う。何よりも「楽」だ。余分な労力も時間も使わないで済むから。

だが、「どれだけトラブル無しで物事を進めることができるか、上手くやれるか」ということに強くこだわる人は、「チャレンジ」ではなく「安全パイからの選択」を好む。

「リスクをどれだけ避けられるか?」ということに常に重点が置かれているので、自分が「やりたいこと」よりも、「できること」の中から物事を選択しようとする傾向が強い。能力や技術等、今まで自分が身につけてきたもの、経験してきたもの、いわば「自分ができる範囲のもの」の中だけで「今の自分がやりたいこと」を見つけようとする。

その姿勢は「慎重」「堅実」という言葉で表現することもできる。だが、言ってみれば「できること以上のことはしない」というそれは、「逃避」と「放棄」でもあると思う。

そういった傾向の強い人は、いわゆる「いい子」が多い。いろいろな意味で、昔から自分の希望や意思よりも、親や周りの人達の希望を優先して、尚且つそれに向かって努力してきたタイプ。周りからしたら、無謀なこともしないし、安心して見ていられる、いわば「優等生」。

だが、人生を賭けなければならないような時、誰にも必ず訪れる人生の重大な「決断」をしなければならないような時、その「優等生」の部分が思わぬネックになることがある。

「できること」の中からすべてを選択してきたその「癖」は、ある意味、「意識に刷り込まれたパターン」となっている。何か一つの物事を選ばなければならない時、「できるか、できないか」という基準だけでそれを捉えてしまうのだ。

もしそれを「やりたい」と思ったとしても、今の自分の能力や経験値、条件や状況等と照らし合わせた結果NGサインが出ると、「自分にはできない」となる。そして心を残しながらも、「できること」の中から、無理矢理「やりたいこと」を探そうとするのだ。

今の世の中、世代や性別関係なく、「やりたいことが見つからない」と言う人が多い。私からすると、それは当然のことだと思う。なぜならそう言っている人の大半が、「できること」の中から「やりたいこと」を見つけようとしているのだから。

人は「できない」と思うから「できない」のではない。「できない」と思うから「やらない」のだ。

「もっとも誤りやすい決定は、間違った妥協である」と、経済学者のP.F.ドラッカーが言っている。「できることから選ぶ人」は、まさに、この「間違った妥協」で物事を決定しているのだ。自分自身の不安や自信のなさ、迷い等を誤って認識した末の選択が何をもたらすか?それは「間違った結果」だ。「こんなはずじゃなかった・・・」そういった後悔や違和感を生み出すことになる。


そもそも、多くの人が恐れる「失敗」って何だ?と思う。単にそれに費やした時間と労力が、成功した時のそれと比べて多少多かったくらいのことだと思う。それに、成功するか失敗するか、2つに1つなのだから、どちらかに転ぶ確率は、両方50%なのだ。

私は「失敗」という言葉が好きではない。大体何を以って「失敗」とするのか?その「失敗」を次の機会に生かしたら、それは「経験」になる。失敗した時に「もうダメだ」と投げてしまえば、それは「失敗」で終わる。だが、またトライし続けたら、それは「失敗」ではなく、「成功へのステップ」となる。


どんなこと、どんな仕事にも共通していることだが、「やりたい」と思って始めたことと、「これならできる」と思って始めたことでは、全然気構えが変わってくる。自分から「やりたい!」と強い思いを持って始めたことは、やはり興味も情熱も尽きないものだ。「惚れ込む」といったような強い想いは、すべての「火種」となる。そしてその火種が消えない限り、情熱も続いていくのだ。

そもそも始める前から失敗すること、リスクを心配しているのなら、もうその時点でやめたほうがいい。「備えること」と「躊躇うこと」は、まったく違う。

どんなことにもリスクは伴う。それを恐れるあまりどちらの道も選べない、そこに留まることしかできないというその状況は、ある意味生き物としての「死」を意味する。草食動物が肉食動物に襲われる時、逃げも戦いもせず、ただそこに立ちすくんでいたら確実に死が待っている。その状況と同じだと思うのだ。

全力で逃げ延びるか、それとも反撃に出るか―例えそれが一か八かの選択だとしても、結果はまったく変わってくる。「死」の他に、もう一つ別の可能性が現れることになるのだから。ひょっとしたら、その「もう一つの可能性」に事態は転ぶかもしれない。

「わかるけど、でもやっぱり・・・」と思うなら、それは自分が今の場所にい続けることが心地良いのだと思う。結局、いろいろな意味で今の状態に満足しているということ。「変えたい」「変わりたい」と心底本気で思っていたら、「でも・・・」という言葉は出てこない。相変わらず「できること」を基準に考えているということ。しかし、それが悪いということではない。ある意味「やっぱりやらない」という決断でもあるから。

「できるか、できないか」そんなふうに物事を考えていたら、答えなんか永久に出てこない。「やりたいか、やりたくないか」「やるか、やらないか」決断する時にはこの問いかけだけで十分なのだ。

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親の心子知らず、子の心親知らず

 2009-07-16
母は「超優等生」だった。小学校から高校までの12年間、学年で1番から下の成績を取ったことがない。祖母が保管していた当時の通知表を見せてもらった時、綺麗に「優」や「5」だけで埋め尽くされたそれを見て、あまりの成績の良さに、逆に「この人おかしい・・・」と思ったものだ。

家のすぐ近所には、母の高校時代の同級生が住んでいた。私の幼馴染みのお母さんでもあるその人は、「あなたのお母さん、本当にすごかったのよ~」と、その超優等生ぷりを折に触れて私に話してくれたので、やはり名実共にそうだったのだと思う。

勉強だけでなく、いろいろと才能のある人だった。運動神経も良かったし、料理はプロ級、編み物や裁縫等も上手だったし、華道と茶道、着付け等の御免状、独学で情報処理2級の資格も取っていた。

だが、子供にとってはこういった「出来過ぎた親」というものは、「目の上のたんこぶ」というか、ものすごいプレッシャーになる。大抵親というものは、自分自身を基準にして子供を測る。やはり無意識のうちに、当時の自分を重ねて子供を見ていることが多い。そして子供にとったら、それが良くも悪くも鬱陶しい。

きちんと自分と子供を分けて考えてくれているのならいいのだが、「分身」のように思われていたりすると、もう堪ったものではない。親がその当時やりたくてもできなかったことや夢、全部子供に託そうとしてくる。親の希望と子供の希望が合致しているのなら問題ない。だがそうでない場合、子供にしてみたら有難迷惑にしか感じない。

その当時の自分と子供を比較して「どうしてあんたはそうなの?!」などと言われても、答えられるわけがない。やりたくないものはやりたくないし、できないものはできないのだから。


子供の頃、学校での成績はそこそこ良かったと思う。学級委員とか、児童会・生徒会の役員等をするような子供だったし、まあ世間で言うところの「良い子」だったと思う。しかし、母は満足しなかった。多分同じ年頃の自分と比較すると、いろいろな意味で私は「物足りなかった」のだと思う。

例えばテストで80点を取ったとする。クラスの平均点は60点くらい。私はクラスで1番。父は普通に「がんばったなー」と言ってくれるのだが、母は違った。「どうしてこの2箇所間違ったの?ここを間違わなければ100点で1番だったのよ?」となる。

一事が万事そんな感じで、足らない所や出来ない所ばかり指摘されるので、だんだんこちらも嫌になってくる。「この人が私に満足してくれる時は来るんだろうか?」そう思ったことも一度や二度ではない。

習い事も、全部母が選んだものだった。ピアノ、クラッシクバレエ、書道、学習塾、英会話等・・・小学生の時は週のうち6日は習い事が入っていた。だが、私が自分で「やりたい」と思ったものは何一つない。「来週木曜日の5時に数学の家庭教師の人が来るから」「土曜日の3時からピアノ教室ね」そんな感じで自分の知らないところで、都合や希望を無視され勝手にスケジュールを決められた。

今は「友達親子」などと、まるで本当の友達同士のような関係の親子も多いが、私達が子供の頃、親というものは「絶対的で恐い存在」だった。逆らえば、やはりそれなりの覚悟はしなくてはならなかった。以前「子供に手を上げたことは一度もない」と言う方がいらっしゃったのだが、私達の世代からすると信じられない話だ。親からの体罰は当たり前の時代を過ごした人間からすると、つくづく時代の変化を感じる。

親からしてみれば、「子供の能力や可能性を高めてやりたい」とか、「少しでも将来の役に立つことを」と思ってのことだと思うのだが、母を含めその他の世間の親というものを見ていると、やはり「自分ができなかったことを子供にはやらせたい」という願望のほうが強いような気がする。

完全に「もう一人の自分」という目線で子供を見ている。多分、タイムスリップして若返った自分がそこにいる―という感覚なのだと思う。「あの時こうしていれば」「本当はこうしたかった」と蘇ってくる思いを我が子に重ねる。自分がやりたかったことを、「もう一人の自分」である子供がやっているのを見ることで、自分自身も「何か」を取り戻せたような満足感を得ることができるのだと思う。

気持ちは分かるのだが、それは完全な独りよがりの自己満足でしかない。名目上は「子供のため」になっているが、実は「自分のため」でしかない。

学歴コンプレックスを持っている親が、子供には世間で言うところの「良い学校」に入学させたいと必死になるのもそうだ。「自分達のした学歴での苦労を子供にさせたくない」という気持ちも当然あるのだが、その実子供に入学してほしいと思う学校を選ぶ最大の基準は、子供の適性よりも「自分が行きたかった学校」であることを優先させていることが多い。

それが子供の希望と同じであるのなら問題はない。だが子供からしたら、親が熱心であればあるほど自分の気持ちよりも親の希望を優先させようとする。親の期待を裏切りたくないし、その期待に応えることが子供の役割だと思っているからだ。「期待に応える子供でありたい」「親に認めてもらいたい」という思いを、子供は常に持っている。

私が勝手に習い事を決められたり、褒められることがなくても大した文句も言わず従っていたのは、やはり「期待に応えなきゃ」「認めてほしい」という思いが、自分の中に強くあったからだと思う。


例えば、17歳の我が子が17歳の時の自分と比較すると、自信も目標もなく、いい加減で頼りなく見えたとしても、「目標を持ちなさい」「どうして自信が持てないの?!」「やりたいことはないの?!」などと追い立てるのは、一見子供のためを思っての言動に見えるが、結局「自分のため」であることがほとんどだ。

「自分の子供がこの程度であるはずがない」「自分の子供ならもっとできるはず」という、ある種の「期待」が根底にある。結局自分の期待、思いを子供が満たしてくれるのを望んでいるだけだ。


血は繋がっていても、子供は親の「分身」ではない。自分ができること、自分にとって良いことが、子供にとってもそうだとは限らない。魂レベルでは「親子」という名称は関係ない。まったくの「個々」の存在なのである。

子供には子供のやり方や考え方、スピードがある。それを尊重しながら、必要に応じて手を差し伸べてやる―それが本来の親の役割だと思う。

じれったいと思っても、行きつ戻りつしているそのプロセスは、その子にとって必要なものなのかもしれない。それを黙って見守ることもまた、子供に対する信頼の証になるのだ。わざわざ口に出して言わなくても、「あなたが自分で道を切り開いていける子だって信じてるよ」という無言のメッセージになる。

そして、親からのその信頼の気持ちを受け取った時、確認した時に、子供は自分自身の力で飛ぶことができるのだ。


セラピストの仕事は、「子育て」と共通する部分が大きい。時には「四の五の屁理屈言ってないでサッサとやりなさい!」とか、「いつまで同じ所でグズグズしてるの?!」「もっとしっかりしなさい!」などと言いたくなる時もある。しかし、その度に「親の気持ちって、多分こんな感じなんだろうな~」と思うのだ。

特に、クライアントが過去や出来事に執着し過ぎて進むことを拒否していたり、故意にチャンスを手放そうとしている時等、「どうしてこの子は!」と、その様子をやきもきして見ている親と変わらない。

答えや方法だけを教えるのは簡単だ。だが、そんなインスタントで付け焼刃的なやり方は、「子供」―クライアントの為にならない。時に黙って見守り、時に励まし、そして信じ、その人の能力や意識を最大限に引き出す手助けをする―まさに「親」の役割であり、「子育て」そのものだ。

実生活では子育ての経験はないが、仕事を通して「親」の役割というものを知った今、世間の親御さんの気持ちも何となくではあるが、想像、理解ができるようになった気がする。そうした上でやっぱり思うのは、「親は親であり、子は子である」ということだ。つまり「子供は親の分身でもないし、親の道具でもない。一個人としてその存在や力を認め、信じること」が、結果「大きなもの」に繋がっていくのだと思う。

親の心を子供が理解するには時間がかかる。子供の心を親が理解することは容易ではない。だが、結局のところ「知らない、分からない」で終わるのではなく、「知ろうとする心、お互いに歩み寄ろうとする努力」といったものが、間にあるその溝を埋めるのではないだろうか。

「親の心子知らず、子の心親知らず―とはよく言ったものだな~」と、クライアントと向き合いながら思う今日この頃―。最近子供さんについて相談をされる方が多かったので、まあ親の立場、子の立場から、それぞれ思うところを記してみました。少しでもご参考になれば幸いです。


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one for all , all for one

 2009-07-15
カウンセリングの最中、ほぼ100%と言っていいほどクライアントから出てくる言葉がある。それは「頭では分かっているんですが・・・」という言葉。

しかし、その「分かっている」は、「=理解している」ということではない。単に「こうしたほうが良いということは知っている、理屈を知っている」というだけのこと。脳の中にそれに関する情報や知識があるという状態。だが、「持っている、知っている=理解している」ではない。

この仕事をしていて思うのは、「体・心・意識(魂)は三位一体」ということ。この思い、実感は年毎に強まってくる。意識が変われば、心の持ち様も変わる。そして意識と心が変われば、その変化は体にも表れる。すべては繋がっているのである。「体だけ」「心だけ」ということはあり得ないのだ。

だから「頭では分かっている」ということも、「三位一体の法則」からすると、本来はあり得ない理屈になる。


私自身の経験や、今まで仕事で関わった多くのクライアントの様子を見ていると、心と意識(魂)のあり方や状態が変化すると、それは最終的に体、すなわち「行動」として表れる。また、その逆の場合もある。まず行動パターンを変えていく努力をしていくうちに、心や意識が変化していく人も多い。

体・心・意識(魂)―このいずれかの部分のうち、どれかに変化が起こったとしたら、多少の時差はあったとしても、残りの二つも必ず変化していく。


「頭では・・・」と言う人達には、特徴がある。それは「行動が伴わない」ということだ。頭(体)と心や意識(魂)は別物だと思い込んでいる。脳と心はまったく違うもの、切り離して考えるものという傾向が強い。その証拠に「頭では理解できるが、心では納得できない」という言葉が出てくる。そしてその部分に執着するあまり、前に進むことができない。

本来頭も心も関係ない。そもそも分類する必要などないのだ。「頭では理解できるが、心では・・・」と言うのは、実は「頭でも理解していない」ということなのだ。体・心・意識のうち、どれかがそれを理解しているのなら、出るのは「頭では・・・」などという言葉や理屈ではなく、「行動」なのである。

「理解する」ということは、頭だけでするものでも、心だけでするものでもない。体・心・意識(魂)―そのすべてで行われるものなのだ。「頭云々」と、脳みその中であれこれ理屈を捏ね繰り回しているうちは、理解に至ってないということだ。

本当の理解というものは、理屈を超えたところにある。プライドも意味づけも要らない。頭とか心とか、いちいち切り離して考えたり、その部分に拘る必要もない。ただその事象を「観る」姿勢と、向き合う覚悟―必要なのはそれだけだ。


【追記】
「赤毛のアン」の作者、ルーシー・モンゴメリーが、こんな言葉を遺している。「決めたということは、行動するということ」。「決めた」という部分を「理解する」という言葉に置き換えてみると、やはり「行動」が示すもの、その「元」になっているものが分かると思う。




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求めよさらば与えられん

 2009-07-12
例えば、電車の中で自分の前にお腹の大きい妊婦さんや、杖をついてやっと立っているようなお年寄りが立っているのに寝たふりをする人とか、駅の切符売り場やスーパーのレジ付近で小銭を撒き散らしてしまってそれを一生懸命拾い集めている人を、一瞥しただけで通り過ぎていく人とか、外国の人が駅のホームで迷っていたり、切符の買い方が分からなくて困っている横を、目を合さないように通り過ぎようとする人とか―。

もしかしたら、その人達にも事情があったのかもしれない。連日の残業で非常に疲れていたのかもしれないし、体の調子が悪かったのかもしれない。取引先を訪問する時間が迫っていて足を止める間がなくて、心を残しながらその場を立ち去ったということも考えられる。

だが、人の窮状等いろいろな事を「見て見ぬ振りをする人」というのは、その時の事情を考慮しても、結局のところ「何もしない」ことが多い。多分こういった人達は、他人に対して積極的に悪事を働いたり、自分から攻撃を仕掛けていくことはない。だがその一方で、自分から積極的に人に対して役に立つことをしようとか、良い事をしようとも思っていないのだと思う。

世間一般で言うところの「普通の人」だと思う。しかし、その実「帯に短し、襷に長し」で、どっちつかずの中途半端な人でもある。日本の人口比率でいったら、多分かなりの割合を占める人種かもしれないが、実は「一番やっかいな人達」であるかもしれない。

その言動を見ていると、そこそこ常識もあり、きちんとした社会生活を送っている人が多い。だが、いろいろな意味で「事なかれ主義」だ。自分を守ることに精一杯で余裕がない。それが悪いとは言わないが、どちらかと言うと「自分さえ良ければ」というものが前面に出ている。

基本、その人達が他の人の状態に目を向けることはあまりない。自分に迷惑がかかりそうな危険性のある時以外は無関心。しかしそれが一転して、自分が窮状に追い込まれた時、他の人間に救いを期待する。そしてそれが叶わない時、「世間は冷たい」とか「所詮人間は独り」だとか恨み言を言ったりする。

人に対して何もしない人、してこなかった人が今更何を言うのかと思う。人を助けようともしない人間が、「誰も自分を助けてくれない」と平気で言ったりする。非常に利己的だ。だが、本人はまったくそのことに気づいていない。「自分勝手」とは、まさにこういうことを言うのだと思う。

目の前のお年寄りや妊婦さんに席も譲れない人が「今生での自分の使命は?」「自分が生まれてきた目的は?」などと言っても、まったく説得力がない。完全なる筋違い。自分の使命を気にする暇があったら、「とりあえず席を譲ろうよ」と言いたい。

「一日一膳」とは言わないが、そういった日常の小さな積み重ねの中や、その先に自分の求めているものが存在するのに、そこに目を向けようともせず疎かにしているのは本当にもったいない。まあそういった「回り道」も、その人の魂に必要なプロセスなのだとは思うが・・・。


今の人生の現状を嘆く暇があったら、これまでの自分の言動を振り返ってみたらいい。それは過去生のせいでも、カルマのせいでもない。「今生での自分自身」が招いた結果なのだから。都合の悪いことは全部過去生のせいにするのは、ただの「逃げ」だ。今の自分と向き合うことを避けているだけ。

「誰も自分のことを理解してくれない」と言うのなら、あなたは周りの人達を理解しようとしてきただろうか?
「誰も自分を助けてくれない」と言うのなら、あなたは人を助けてきただろうか?助けようとしてきただろうか?

自分から与えることが、与えられることに繋がっている。「与える」ということも、「与えられる」ということも、表裏一体。結局は同じことなのだ。求めよさらば与えられん。


【追記】
時々ブログを読んでくださっている方達から「自分のことだと思いました」という感想をいただいたりする。しかし「イタタタ・・・これ自分のことだ」と思っても、その気づきを今後の行動に反映しなければ何も変わらないと思う。昔、CMでもあったが「反省だけならサルでもできる」なのだ。



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「ヒーラー」じゃなくて「セラピスト」です!

 2009-07-10
今日ポストに郵便物を取りに行ったら、何やら大きな封筒が入っていた。表に会社名が印刷されているが、全然知らない団体。その名称の雰囲気から予想はしていたのだが、中身を確認してみると、やはりスピリチュアル関連の団体からだった。

同封されている手紙には「ヒーラー 樫田ミラ先生へ」とある。いつから私は「ヒーラー」になったのだろうか・・・。まあ今回のように「ヒーラー」扱いされることは初めてではない。しかし、日本でもいい加減にヒプノセラピーを「オカルト、スピリチュアル」として扱ったり、混同するのは止めてもらえないかと思う。

ヒプノセラピー(催眠療法)は、れっきとした「精神療法」だ。それも「世界最古」の。過去のエントリーでも取り上げたが、心理学や超心理学に属する分野。欧米、特にアメリカでは1950年代には「医療」の認可を受け、保険も適用されるものだ。精神科医等が、普通に治療の一環として行っている。

欧米では、プロスポーツ選手が個人的にヒプノセラピストと契約しているケースも多い。いわゆる「イメージトレーニング」として、ヒプノセラピーを応用している。そしてその効果は科学的にも証明されているのだ。

確かに、一部「過去生」「前世」等が関係してくる部分もあるので誤解されやすい面もあるのだが、如何せん「取っ掛かり」が微妙に良くなかった。

ヒプノセラピーが日本を含め、全世界で知れ渡るきっかけになったのは、ベストセラーでありロングセラーでもあるブライアン・ワイス博士の著書「前世療法」だ。うちに来られる約6割くらいの人は、この本がきっかけでヒプノセラピーに興味を持ったと言っている。

20年ほど前、高名な精神科医でもあるこのアメリカ人医師が書いた本の内容は、ある意味衝撃的だった。特に輪廻転生を否定しているキリスト教の信者が多い欧米では、まさにセンセーショナルな扱いだった。「そんなことをしたら、次は虫に生まれ変わるからね!」等と、日常に、自然な感じで、ある意味「普通に」輪廻転生の思想が組み込まれている日本では、この本はすんなりと受け入れられたと思う。

しかし、やはり「過去生」「前世」という非科学的でミステリアスなイメージが先行して、結果「オカルト」の分野に振り分けられてしまった。その括りが未だに解けない。

まあ実際、日本では、何でも過去生に結び付けたがるセラピストや、ヒプノセラピーと過去生回帰(前世療法)の区別や説明もできないセラピスト、なぜかチャネリングやリーディングが含まれるセッションをするセラピスト等、スピリチュアルな要素だけを全面に押し出してセラピーを行う人も多いので、世間の多くの人がそう誤解するのも無理はないのだが・・・。

しかし、精神療法として行っているセラピストからすると、率直に言って自分が「ヒーラー」「チャネラー」の部類に組み込まれることは不本意だ。

私のセッションには、チャネリングもリーディングも含まれていない。カウンセリングに時間をかけ、あくまでも理論、心理学の領域で押していく。いわゆる「スピリチュアルな話」もあまりしない。そういった話題が好きで興味がある人、話したがる人、現状をすべて過去生や前世、子供時代のせいにしたがる逃避傾向のある人にほど、「現実」を認識してもらう方向性でセッションを進めていく。

大変失礼かもしれないが、占いやチャネリング等のように「あなたの守護霊様がこう言ってます」「高次の存在からのメッセージでは・・・」「あなたの生まれ星がそう示しています」等と「逃げられない」のだ。そう言われたら、大抵の人は「そうなんですか」と納得するしかない。

理屈や理論、そして自分の観察眼等だけでクライアントを納得させること、セッションやカウンセリングの内容をクライアントの気づきや学びにどう結びつけ、「変化」へと導いていくか―それは、決してお気楽なものではないのだ。「熱く見る目」と「冷めて見る目」―この2つの目、「中立」の姿勢が必要不可欠なのである。ある意味ものすごく「現実的」な部分が必要とされる。

そして結果、それがクライアントの「癒し」(この言葉は正直好きではない)や「理解」へと繋がっていけばいい。

「自己治癒能力」「自己浄化力」は、本来どんな人にも備わっている。自分を癒せる最も強力なヒーラーは、実は自分自身なのだ。そして「ヒーラー」自称している人達も、そのことを決して忘れてはいけないと思う。ヒーラーの仕事は、クライアントを癒すことではない。クライアントの中にある本来の自己治癒能力を高める助けをすること―それが「ヒーラー」の役割だ。

「自分の能力が人を癒す」等と思い込むのは、ただの「驕り」だ。傲慢さの表れ。セラピストやカウンセラー、ヒーラーやチャネラー、その役割はあくまでも裏方の「黒子」。「主役」はクライアントなのである。

目の前のクライアントを、どれだけ「地に足をつけた状態」に持っていくか―それをセッションの最終目的に考えている私は「ただの普通のセラピスト」だ。




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踊るアセンション

 2009-07-09
ノストラダムスが予言した「1999年のハルマゲドン」が終わったと思ったら、今度は「2012年12月のアセンション」に大騒ぎしている人達がいる。最近、不景気だの凶悪犯罪増加への懸念だのいろいろ言われているが、目に見えない世界で起こることに大騒ぎできる人達が住む日本は、つくづく平和な国だと思う。

5~6年前位からチラホラとそれに関する情報は耳にしていたが、特に興味もなく、「ふーん」で終わっていた。小学生の時に「ノストラダムスの大予言」がリアルタイムで流行していた世代なのだが、友達が真剣に怖がっていた「空から降ってくる恐怖の大王」とやらにも全然興味がなかった。1999年に世界が滅亡するという説も、「そんなこたぁーない」と冷めた目で見ていた可愛げのないお子様だった。

ちょうどその頃、両親がたまたまご縁で知り合った占い師の人がいた。当時小学校3~4年生だった私のことを観てもらうと、「この子は長生きしますよ~」と開口一番に言われたらしい。それを親から聞かされていたので、「ということは、自分はおばあさんになるまで生きるんだ~」等と思っていた。

なぜかノストラダムスの予言より、その無名の占い師のおばさんの言葉のほうがピンと来た。子供心に自分が1999年に32歳で、世界の滅亡によって死ぬ―ということはあり得ないと思ったのだ。そして現に今、42歳になった私はピンピンしている。

そんな過去があるので、今回のアセンションに関してもまったく興味がない。アセンション信奉者に熱く語られても「で?」という感じで冷めている。こういったブログを持っていると、いろいろな所から資料やらDMやら送られてくるのだが、一通り目は通すがそれだけだ。相変わらず「ふーん」だけ。


物の本や巷に溢れている情報によると、アセンションとは「次元上昇」を指すらしい。なんでも2012年12月に地球の波動レベルが上がるとかで、その時の地球の波動レベルに適応する物質(人間を含む)だけが存在する状態になるらしい。その波動の上昇に耐えられないものは、死をもって肉体の解放を行って、自分と波動の合う他の星に移住する―とかなんとか。

私からすると、もうこの段階で「はあ、そうですか・・・」なのだが、人によっても言ってることが全然違う。食物をまったく必要としない肉体になると言っている人もいれば、食事の摂取量が今の半分の量でOKになって、肉体が「半霊半物質化」すると言う人もいる。

アセンションが起こるといわれている日時もバラバラだ。12月22日説を唱える人もいれば、23日とか。21~23日にかけて起こると言う人もいれば、「アセンションは既に始まっている。そのピークが2012年だ」と断言する人もいる。もう何が何だか・・・なのだ。

他の国ではどうかと思い、ちょっと英語圏のサイトを検索したところ、こちらは日本よりもぶっ飛んでいる発言が多かった。確かアメリカのチャネラーの女性のサイトだったと思うが、もう完全にSF映画の世界なのだ。そこに書かれていたことを、一部翻訳してみると、こんな感じだ。

「2012年12月22日、地球の次元がより高度なものにシフトします。私達地球人をサポートする為に、他の星から多くの人々が地球にやって来ます。世界中、空は一面信じられない数のUFOに埋め尽くされます。そして私達に「道」を指し示すでしょう。彼らの指示に従ってください。彼は私達をサポートする為に訪れた味方なのです!」

こんな映画が昔あったような気もするが・・・。まあその他にもこんな調子でいろいろと書いてあったが、それを読んでも私は相変わらず「で?」の域を超えない。小学校5年生の時に初めてUFOを見て以来、今までにも何回か目撃している。実際、一昨年に真昼間のアリゾナの某所で遭遇した。UFOや宇宙人は存在すると思うが、「ピラミッドは宇宙人が造った」等というトンデモ論は信じてない。

そういった異次元の世界と交信できる力を持つ人達の中には、いたずらに人々の不安や恐怖を煽るような発言、情報を流す人がいる。物質が消失するとか、「この大変革を生き残るには、生き抜くには~をしなければいけない」とか。

スピリチュアルビジネスでは、アセンションにターゲットを置いたセミナーやヒーリングセッションの類が花盛りだ。アセンションに備える為に聖地を訪れる何十万円もする海外旅行ツアーとか。まったくアホらしい限りだ。情報が錯綜していることをいい事に、世界中で多くの人が踊らされている。

しかし、冷静にこの騒ぎを分析してみると、この「アセンション」という思想を発しているのは、キリスト、ユダヤ、イスラム教圏の国々だということがわかる。いわゆる「世界の終焉が来た時に、助かるのは自分達○○教徒だけである」という終末思想が根底にある宗教信者達とその国々。これがどういうことを示しているのか、何と繋がっているのかは、考えてみればわかることだ。


例えそのアセンションとやらが2012年に起こったとしても、我々人間には与り知らないことだ。というより、「関係ない」。「アセンションに生き残らなきゃ」と必死になる必要もないし、慌てることもない。ただ日々を誠実に一生懸命過ごす努力をしていればいいだけだ。

「アセンションだからきちんとしなくちゃ」とか「アセンションで生き残りたいから○○する」などというのは愚の骨頂。そういう「さもしさ」から出た行動や言葉はたかが知れている。

「アセンションを成功させよう!」などと言っている団体もあるようだが、そもそも最初から「次元」の違う所での話しなので。まあ頑張ろうと張り切っていらっしゃるので、その辺は自由にやっていただいたらいいと思う。


アセンションが起こるとされている2012年の12月21~23日あたり、まあ私は多分、ヒプノセラピーのセッションか、カウンセリングをしていると思う。

空がUFOで埋め尽くされようが、物質が消滅しようが、目の前にクライアントがいればその人に意識を集中していると思う。「たとえ世界が明日終わりであっても、私はリンゴの樹を植える」と言ったルターのように。



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

羅生門現象

 2009-07-08
ある一つの事象を複数の人間が目撃したとする。同じ一つの事象にも関わらず、それに対しての解釈が目撃者ごとに異なる―その状態を「羅生門現象(Rashomon effect)」という。

羅生門現象は、その名の通り、芥川龍之介の小説「藪の中」を、故黒澤 明監督が手がけた映画「羅生門」に由来している。


平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。妻に目を付けた多襄丸は、夫をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった―。

物語は、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)、捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の証言により構成される。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのかわからない。

盗賊によると、女がどちらか生き残った方に付いていくと言うので夫と対決し、彼を倒したが女は消えていたと言い、妻は妻で、盗賊に身を任せた自分に対する夫の蔑みの目に絶えられず、錯乱して自分を殺してくれと短刀を夫に差し出したが、気が付いたら短刀は夫の胸に突き刺さっていたと告白。そして夫の霊は、妻が盗賊に、彼に付いていく代わりに夫を殺してくれと頼むのを聞いて絶望し、自分で自分の胸に短刀を刺したが、意識が薄れていく中で誰かが胸から短刀を引き抜くのを感じながら、息絶えたと語った。

役所での審問の後、羅生門の下で雨宿りをしている杣売と旅法師は、同じく雨宿りをしていた下人(上田吉二郎)に事件について語る。下人は、短刀を盗んだのは杣売だろうとなじり、羅生門に捨てられていた赤ん坊の衣服を剥ぎ取ると行ってしまった。呆然とたたずむ杣売と法師。杣売は、赤ん坊を引き取って育てるという。法師が彼の行為に一縷の希望を見出し、映画は終わる。

(goo 映画「羅生門」より引用)



「コップに半分の水」の喩えも、これに相当する。コップの半分に水が入っている。それを「もう半分しかない」と思うのか、「まだ半分ある」と思うのか―。人によったら感情抜きで「コップの半分に水が入っている」と、ただ目の前にある事実(状態)を認識するだけかもしれない。

三者三様の受け止め方。しかし、見ているのはまったく同じ物。「半分水の入ったコップ」なのだ。

自分の見ているもの、考えているものだけがすべてではない。視点が変われば受け取るものも変わってくる。自分にとっての「正解」が、その他の人にとっては当てはまらないということもあるのだ。

そして、人はそれを知るべきなのだ。つまり「物事は表裏一体である」ということを。同じ一つの事象を表と裏、それぞれ違う角度から見て、その視点からの違いをあれこれ論じ合っているだけだということを。


例えば「虹」。日本では、虹は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の7色と認識されている。だが、アメリカやイギリス等では、藍色と青を区別せず、6色とされている。同じ欧米諸国でも、ドイツでは橙を区別しない5色、アフリカでは「暖色と寒色」「明と暗」という分類しかしないため、2色とされている。

ニュートンによる色彩学の定義では、「虹は7色」とされている。しかし、「7色が正解」ということではない。6色、5色、2色―多分どれも正しい。そして、ひょっとしたらそれらの定義は全部間違いなのかもしれない。しかし見ているものは同じ。「虹」という一つの現象なのである。


今自分が囚われている状況がマイナスに思えるとしても、別の角度から見たら実はそうではなかった―ということもあり得る。囚われている状況からの突破口というものは、そういった発想や視点の転換、「表裏一体」の理解の中に存在するのだ。


【追記】
虹の色の数に対する認識がそれぞれ国によって違うのは、「その色を表現する言葉の有無」「色の違いを認識する能力」、いわば感受性等も関係するらしい。

アメリカやイギリスでは、虹の色彩に関して青と藍は区別しないが、藍は「ディープブルー」「ネイビーブルー」「インディゴ」等と表現される。しかし青と藍を1色としてカウントするのは、いわば「大雑把なお国柄」というものも大いに関係しているのではないかと思う。

それに、瞳の色の影響もあるのではないだろうか。日本人の黒や茶色の瞳と、欧米人のブルーやグリーンの瞳に映るものは、やはり多少なりとも違ったものになると思うのだ。

ちなみに、日本では「赤」を表す言葉は朱・緋・紅・茜・臙脂・赤紫等、約80種類あるといわれている。これだけの色彩を認識できる日本人の感性は、本当に豊かで繊細なのだと心底実感する。
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8月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-07-07
8月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 8月2(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 7月28日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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「ソウルメイト」にこだわる人

 2009-07-02
最近やたらと「ソウルメイト」というものにこだわる人が多いので、ちょっとネットで検索してみた。「ソウルメイト」で検索した結果、該当件数は137万件。その数の多さだけでも驚きものなのに、関連キーワードとして、「ソウルメイト 見分け方」「ソウルメイト 特徴」というものがあったことにも仰天した。

つまり、「ソウルメイトはどうやって見分けるの?どうしたら『運命の人』だって確信できるの?」と思っている人が、世の中に多く存在しているということだ。

正直「なんだかな~」という思いが否めない。ソウルメイトの特徴や見分け方を知って一体どうするのかと思う。今自分が一緒にいるパートナーがその特徴に該当しない場合、その人とサッサと別れて「自分が出会うべき本物の運命の人」を探し始めるのだろうか。その特徴を満たす人だけと恋愛しようとでもいうのだろうか。

結局根底にあるのは「損はしたくない」という浅ましさなのだと思う。計算の上に成り立つ関係なんて「恋愛」とは言えない。そんなにリスクを避けたいのなら、お見合いでもしたらいいのだ。コンピューターで自分と相性の良い相手をマッチングしてくれる結婚相談所の類もある。

ソウルメイトの特徴とか見分け方とか、そういった部分にこだわっている状態こそが、自分の直観や目を曇らせることになるということがどうして分からないのか。

大体「ソウルメイト探し」に血眼になっている人というのは、ちょっと心惹かれたり、好みのタイプの人が目の前に現れたりするだけで、「この人こそ自分のソウルメイトに違いない!」と思い込む傾向が強い。その人との間に起こったほんの些細な出来事でも「シンクロニシティー!」等と騒ぎ立てて、全部そこに結びつけてしまうので、あっという間に「運命の人一丁あがり!」となる。

自分だけで勝手に盛り上がってしまうので、相手からしてみたら迷惑この上ない状況になることがある。一方的に自分の想いを押しつけるので、同じテンションにない相手から当然のごとくそれを拒否するような態度を取られると「ソウルメイトなのにどうして?!」と、愕然としたりする。

基本こういった人達は「ソウルメイトとは必ず結ばれるもの、自分が相手を求めれば相手も自分を求めるもの」という誤解をしている。だから相手から拒否される事態が起こると「え?何か間違っていた?」と、特徴やら見分け方やら、いわゆる「マニュアル」に目が向くのだ。

「正しい方法、正しい答え」人と人との出会いにおいて、そういったものは存在しない。「運命の人か、そうでないか」そう考える時点で、既に軸がずれている。

「魂の伴侶」とか「運命の人」とか、上っ面だけの言葉の響きに囚われている人が多いが、別の言い方をすれば「因縁のある人」でもある。良くも悪くも、大なり小なり、いろいろな意味で縁のある人―それがソウルメイトなのだ。そこにはもちろん「腐れ縁」や「先祖の縁」というものも含まれる。決して甘くて優しいロマンティックな要素だけで成り立っているものではないのである。

ひょっとしたら相手を一目見てビビビッと来たのは、何代も前のご先祖様が「おのれ~、ようやく見つけたぞ!ここで会ったが百年目!○○家の子孫、逃すものか~!」と、あちらの世界で反応しているせいかもしれないし、「あの時の過去生ではよくも酷い目に遭わせてくれたわね!今回その分償ってもらうからね!」「はい、わかりました・・・」というものかもしれない。

だが、ソウルメイトに強いこだわりを持つ人達を見ていると、「相手が自分の好みのタイプであったことによる一目惚れ、思い込み」というケースがほとんどだ。世の中で言うところの適齢期を過ぎても独身の人、子育てから解放されて自由な時間が増えた人、結婚して何十年も経ってそろそろパートナーに飽きてきた人・・・そんな人達ほど「ソウルメイト」「運命の人」という言葉に惑わされやすい。

だからちょっとその人に何かを感じたり、ドラマティックめいたことが起こったりすると「もしかしてこの人が?!」と、容易に結びつけてしまうのだ。そういった傾向が強いということは、いろいろな意味で、自分自身が満たされていないという証拠でもある。

巷では「ソウルメイトを引き寄せる」とか「運命の人と出会う方法」とか妙なスピリチュアリズムを唱えている人達が大勢いる。もしそれに自分が反応しているのであれば、「弱点」を突かれているということだ。

「ソウルメイトの特徴、見分け方」などとマニュアルを求めて、相手に自分の満たされない部分を埋めてもらおうとしている間に出会った人は、いわゆる「もどき」だと言っても過言ではない。自分がそう思い込みたいだけ。

大体相手がソウルメイトかどうか、そうでないかを気にする時点で既に「計算」がある。類は友を呼ぶ、今の自分が「ふさわしいもの」を引き寄せる―自分が計算しているということは、相手もまったく同様のことをしているということだ。結局は同じ穴の狢。


ソウルメイトの見分け方とか特徴とか、そういったマニュアルや計算を求めるさもしさを捨てること。そして、今目の前にある縁を大切にしていくことだ。出会いはその先にあるのだから。



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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