FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

その場所の気

 2009-06-22
サロン兼自宅になっている今の部屋は、一瞬で入居を決めた。不動産業者の人に案内され、玄関を入ったと同時に「ここだ!」と直感したのだ。リビングに入って、その直感は確信へと変わった。「決めました。ここにします」

その日は他にも3つほど部屋を案内してもらっていた。だが、どれもピンと来なかった。特にその中の1つは、建物に入った瞬間から「なんとなくイヤ」だった。平日の午後の早い時間で、建物自体は静かだったのだが、何というか「落ち着かない」のである。目的の部屋の階でエレベーターを降りた瞬間、その「落ち着かない感」はピークに達した。

玄関のドアを開けた瞬間、「やっぱりイヤだ。ここじゃない」と思ったのだが、不動産屋さんの手前、とりあえず部屋を入ってみた。

が、リビングに入った瞬間「何この空気・・・」と思わずたじろいでしまった。窓を開けて空気を入れても、最初に感じた重苦しさや、澱んだ感じは一向に消えない。落ち着かないザワザワとした感じは相変わらずだ。「こちらが洋室になります」と案内された部屋に入ると、なぜかその感覚が強くなる。

「変な部屋だなー」と思っていると、不動産屋さんが「実はですね」と言い出した。多分私の様子を見て、この部屋は選ばないと確信したのだろう。「お隣の部屋なんですけど、親子で住んでいらっしゃるんですが、結構頻繁にケンカをされるようでして・・・時々ご近所から騒音のクレームが来たり、パトカーが呼ばれるらしいんですよね。悪い人ではないようなんですが・・・」

そのお隣と壁を隔てているのが、先ほどの洋室だった。どうやらあの落ち着かない感じは、そのお隣の部屋から来ているもののようだった。そして、その「気」はフロア全体にまで蔓延している。結局その部屋には正味5分もいなかった。


その後に案内された部屋は、建物自体割と新しく、お洒落な感じだった。エントランスなどちょっとしたホテルのロビーのようだし、使いやすそうな間取りだった。交通も便利。問題のある住人もいないとのこと。

だが、建物を入った時に最初に感じたことが引っかかった。「なんとなく暗い」のだ。照明とか日差しの入り方といったことではなく、雰囲気的に「暗い」。全体的に「どんより」という感じなのだ。

ベランダも広いし、花や木が植えられた中庭に面しているし、その「どんよりした暗さ」さえなければ完璧だった。「決めちゃおうかな」と思ったりもしたのだが、「でもやっぱり・・・」と、なかなか決心がつかない。「よし!」とは思うのだが、次の瞬間やっぱり躊躇する気持ちが出てくる。

そういった自分の中から出てくる声、「直観」というものを侮ってはいけない。躊躇するのには何か理由が存在するのだ。ある意味それは、潜在意識からの「警告」でもある。

「すみません。他の部屋、見せていただいてもいいですか?」そうしてやって来たのが今のマンションだ。当初予定には入っていなかったのだが、不動産屋さんが手持ちの資料を見て、「ここはどうですか?行ってみます?」と急遽行き先変更してやって来たのがこの部屋だ。

なんというか、とにかく部屋の空気が気持ち良かった。前に住んでいた人が出られてから1年ほど経つということだったが、良い意味で「前の住人の痕跡」が残っていない。

前に住んでいた人のエネルギー、思念のようなものは、やはり何らかの形で部屋に残ると思う。それはその部屋の空気等の中に留まっていたりすることが多い。そして、その部屋の「気」が、自分の発する「気」と相容れない場合、「なんとなくイヤ」「居心地が悪い」という感覚によって、それを知ることができる。それは部屋や家だけに限らず、他の場所にも共通する。


うちにセラピーやカウンセリングを受けにいらっしゃる方達は、「なんか神社みたいですね!清々しいです~!」「玄関を入った時から空気が違いますね」などとおっしゃってくださる。「気持ちが良い」と、しきりに深呼吸される方もいる。

いろいろなご家庭に出入りする機会の多い業者の方達―電気系統や内装関係等は、やはり仕事柄そういったことに敏感になるのだろう。同じようなことをおっしゃる。その後は決まって「何のお仕事をされているんですか?」と聞かれることになる。

「気」というものは、ごまかしが利かない。動物的な部分である「本能」に直接訴えかけるものだからだ。特に自分の家に関しては、自分自身の発しているものがそのまま反映される。その場所に流れる気とは、まさにその場所の本当の姿を映し出している「鏡」であり、その場所の本質そのものなのである。


【追記】
パワーストーンを置いたり、盛り塩をするのも結構だが、「基本は毎日の掃除」だと思う。特にサロン等人の出入りが多い部屋は、掃除や整理整頓、空気の入れ換えは欠かせない。

前日や前の時間帯の人の「気」が残っている状態で、その後にいらっしゃる人をお迎えするということは失礼に当たる。また、掃除をすることによって自分自身の気、サロン自体の気が整い、清められる。

内も外もクリアに保つ―パワーストーンや塩での浄化に頼る前に、まず基本である掃除・換気をきちんとしてください。

スポンサーサイト
カテゴリ :ちょっと不思議な話 トラックバック(-) コメント(-)

「釣られた魚」の本音

 2009-06-20
男が「釣った魚に餌をやらない」のはなぜか?それは彼らが、釣れた魚は永遠に自分の手元にいるもの、絶対に逃げないもの―そう考えているからだ。

魚が自分の釣り針に掛かり、それを苦心しながら釣り上げ、クーラーボックスに入れる。もうその時点で、彼らの魚への関心は失われる。なぜなら獲物は完全に確保された状態にあるのだから、何の心配も要らないのだ。

確かに、誰かがこっそり蓋を開けて魚を盗もうとしたり、高波でクーラーボックスが攫われることもあるかもしれない。でもそういった事態は滅多に起こるものではないし、もし仮にそういった事が起こった時は、十分対処できると思っている。なぜなら魚は完全に自分の手の内にあるのだから。

中で魚がずっと激しく暴れていたり、クーラーボックスから水漏れがしたり、よほどのことがない限り、魚に注意を向けることはない。目に見える範囲で特に大きな異常がなければ、万事OKと思っている。彼らにとって一番重要なプロセスは「獲物を狩るまで」なのだ。それが釣り人―狩人としての本能を持つ男の思考方法なのである。

その思考は、魚―女との間に大きなすれ違いやギャップを生む。というより、そもそも最初から噛み合ってなどいないのだ。

定年退職の日、「長い間お疲れ様でした」という言葉の代わりに「別れてください」と離婚届を差し出す妻に肝を潰す熟年男性が多いのも、この「ズレ」からだ。彼らにしてみれば、まるで世界がひっくり返ったに等しい衝撃だ。なぜなら結婚してから数十年、表面上、妻の様子に特に変わったものは見られなかった。家事や育児、親戚付き合い等もきちんとこなしていたし、自分に対して語気荒く不満をぶちまけたことも、派手な喧嘩もなかった。2人でそこそこ上手くやってきたつもりだった。「それなのになぜだ?」


多くの男は理解していない。女とは、たとえ不満を感じていたとしても相手に尽くせる生き物だということを。女は「守り慈しむ」という特性を持った生き物だ。いわゆる「母性本能」。そしてそれは自分の身近な人間だけでなく、見ず知らずの人にさえ向けられることがある。世間で言うところの「おせっかい」が、女に多いのはそのせいだ。

人形を自分の子供に見立て、可愛がり、世話を焼く―幼児の頃からお人形遊びに熱中するのも「母性」の表れ。自分の周りの人間を気にかけ、世話を焼くということは、女という生き物の性なのである。それはほとんど「条件反射」と言ってもいい。


以前友人と一緒に、彼女の子供を幼稚園までお迎えに行ったことがある。ちょっと早めに着いたので、庭で遊んでいる子供達の様子を見ていた。そこに、併設されている保育園の赤ちゃん達が、特製の大きなベビーカーに乗せられてお散歩から帰ってきた。多分先生達の手描きなのだと思うが、一面に可愛らしい絵が描かれたベビーカーに乗った赤ちゃん達は、本当に愛くるしかった。

「ちょっと見て!可愛い~♪」「いや~ん♪天使みたい♪」私達が目尻を下げてその様子を見ていると、庭で遊んでいた年上の子供達が「赤ちゃんだぁ~!」と一斉に駆け寄っていった。ベビーカーに乗せられた赤ちゃんをあやしたり、先生達に「だっこさせて」とせがんだり、大騒ぎしている。

が、その時面白いことに気づいた。赤ちゃん達に駆け寄って行ったのは、すべて女の子なのだ。男の子達はチラッと見ただけで、相変わらず自分達の遊びに熱中している。男と女の生き物としての違いは、既にその頃から顕著なのである。


長じるにつれ、女の母性本能はますます大きく成長していく。だから喧嘩の最中で、別室でお互いに「フンッ!」という状況の中でも、心の中で相手に対する不平不満が渦巻いていても、女は相手の洗濯物を畳んだり、相手の分の食事まで作ることができるのである。なぜならそれは生まれ持った特性であり、生き物としての「本能」だから。そしてそれは、時に自分の感情や都合といったものを後回しにできるほど強いものなのだ。

どんな状況でも、相手が誰であろうと、今目の前に自分の助けを必要としている人間がいれば、考えるより先に手を差し伸べてしまう―女とはそういう生き物だ。

その女の特性を、男は誤解する。「損得」で物事を考える傾向の強い彼らには、不満があるのに相手に尽くすということが理解できない。「ギブアンドテイクの法則」が行動の根底にある男には、「相手がいろいろやってくれるということは、自分にはそれだけの価値があるということだ。自分に満足しているから尽くしてくれているに違いない。自分も満足、相手も満足。従って自分達の間には何も問題はない」そう思い込むのだ。

そして「その時」が来た時、「ええッ!?なんで!?」と、ショックを受け、パニックに陥るのである。


「釣った魚は逃げない」自分が相手に飽きることがあっても、女の側の気持ちは変わることがないと思い込んでいる男は多い。「俺じゃないとダメだろ?」などと平然と言ってのける男は、結構世の中に存在するのだ。自信家なのか、超ポジティブ志向の表れなのか―女からすると、まったく理解し難い生き物だ。

表情や言葉に一切出ていないとしても、その「俺様発言」を女はシラーッと聞いている。「脳内でグーで殴ってた」「はあ?って感じだよね。本気で言ってるならかなり寒いわ」「めんどくさいから『はいはい、そうですね』って聞いてる」

時と場合によって、女は男よりも現実的に冷静に物事を見ている。「この気持ちがずっと続けばいい」とは思うが、それが永遠に続くものではないということを女は知っている。だから、相手に対する評価や感情も刻々と変化する。

出会ってすぐのラブラブの状態の時でも、女というものは、意外と冷静に相手の評価を下している。女同士のガールズトークでは、相手に対するシビアな発言がバンバン出てくる。「知らぬは男ばかりなり」なのだ。

女の思考システムは「ポイント制」だと思う。相手に尽くしつつ、それを男が当然と思ってふんぞり返っていたりすると、まずそこで「がっかりポイント」1点が加算される。その時々の言動によってポイントは加算されていく。もし仮に彼女が喜ぶことをしたとしても、今までの「がっかりポイント」が無効になったり減らされることはない。あくまでも「それはそれ、これはこれ」なのだ。

人によってポイントの数値は違う。50ポイントで「はい!ポイント達成しました~!」という人もいれば、500に設定している人もいる。いずれにせよ「ポイントががいっぱいになった時」、女は爆発するのである。

女の特性から来る「尽くすという行動」を、「=自分への愛情」と勘違いしていると、早晩「痛い目」に遭うことになる。「こいつダメかも」という思いがあったとしても、女は世話を焼いたり気にかけたりできる生き物なのだから。

物言わぬ魚の思いは、その分深いものなのだ。


カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

アメリカにて「日米ハンバーグ対決」

 2009-06-17
初めてアメリカに行ったのは、20歳の時だった。オレゴン州で1ヶ月間のホームステイ。オレゴンに到着した3日目、ホストマザーのキャレンが「今日のディナーは裏庭でバーベキューをしましょう」と言い出した。

「わ~い!バーベキューだぁ~♪」と大はしゃぎする私を見て、ホストファーザーのデイヴィッドが大笑いしながら裏庭でコンロの準備を始めた。

アメリカの映画やドラマでは、必ずと言っていいほどバーベキューのシーンが登場する。家の裏庭で家族や友人達とハンバーガーやホットドッグ、ステーキやチキンを焼いたり―。いかにも「アメリカ!」というその光景は、私の憧れでもあった。

デイヴィッドがコンロの調子を見ている間、私とキャレンは、キッチンでハンバーガーとホットドッグの準備に取りかかった。ホットドッグ用のソーセージは焼くだけだし、パンやピクルス、チーズ等も揃っている。ハンバーグだけ作ればいい。

キャレンが冷蔵庫から大きな牛挽き肉のパッケージを取り出してボウルに入れ、それに塩こしょうすると、私に向かって「混ぜてくれる?」と言った。挽き肉をこねながら、「あれ?」っと思った。キャレンは一向に卵やパン粉、牛乳、玉ねぎの類を入れようとしない。そうこうしている内に「もうそれくらいでいいわ」と言って、キャレンはお肉をハンバーグの形にし始めた。

「え?挽き肉だけじゃん」そう思って「あの・・・それでいいの?」と聞くと、彼女は怪訝そうな顔をしている。「そうよ、これでいいのよ。どうして?」「え?あ、何でもない・・・」


その時初めて知ったのだ。アメリカのハンバーグとは、挽き肉に塩こしょうしただけのものだということを。ある意味ものすごいカルチャーショックだった。「本家」のやり方が、これほどシンプルなものだと思いもしなかった。

日本の家庭で作られるハンバーグは、挽き肉・玉ねぎ・牛乳・パン粉はマストだ。それに塩こしょう、ナツメグ等の香辛料が加わる。家庭によってはにんじん等、いろいろな野菜が入ったり、その他の調味料が加わったりする。

ハンバーガーはアメリカから入ってきた物。だから当然作り方も一緒だと思っていた。が、日本式ハンバーグは、アメリカ式ハンバーグとは「まったく別物」だったのだ。

そのアメリカ式ハンバーグは、正直あまり美味しいとは思えなかった。お肉とケチャップとマスタードの味しかしないのだ。ものすごく単調な味なので、半分食べたくらいで飽きてくる。キャレン達はパクパクと食べている。その様子を見ながら心の中で思った。「よし、日本式ハンバーグの美味しさをぜひ2人に伝えねば!絶対にこっちの方が美味しいもん!」


それから10日ほど後、キャレンに「今日のディナー、バーベキューにしない?」そう言ってみた。「いいわよ。デイヴィッドも今日は早く帰ってくるし。じゃあ買い物に行きましょ」「あのね、今日は私にハンバーグを作らせてくれない?」「いいわよ」

買い物から帰ってくると、私は早速ハンバーグ作りに取りかかった。横で見ていたキャレンが、調理台の上にズラリと並んだ玉ねぎや牛乳、卵、パン粉、バター、ナツメグ等を見て、「ハンバーグを作るんじゃなかったの?」と驚いている。「ん?ハンバーグだよ。まあ見てて」


「すごい!なんてゴージャスなハンバーグなの!食べる前から絶対に美味しいってわかるわ!」ずっと横で見ていたキャレンが歓声を上げた。「ふふふ♪まだ終わりじゃないよ~ん♪」とほくそ笑みながら「今日はフライパンで焼くね」とハンバーグを焼いているところにデイヴィッドが帰ってきた。

「この信じられないくらい良い匂いは何だ?!一体君達は何を作っているんだ?!」と、玄関から真っ直ぐキッチンに入ってきた。「今日はジャパニーズスタイルのハンバーグよ」とキャレン。「ハンバーグ?こんな良い匂いがするハンバーグは見たことがないよ」「ソースも作るから待っててね」と私。

お皿に移されたハンバーグをこっそり味見しようとして、デイヴィッドはキャレンに叱られていた。「がまんできない!」「ダメ!もう少しだから待ちなさい!」

ケチャップと、家にあった醤油と、オリエンタルフードの食料品店で買ってきた日本のメーカーのウスターソースと、フライパンに残った肉汁でソースを作った。「できたよ~」「すごい!待ちきれないよ!早く食べよう!」


その後の食卓はシーンとしていた。食べるのに夢中で2人共無言なのだ。あっという間にデイヴィッドが最初の一つを平らげた。「このハンバーガーだったら20ドル出してもいい!」アメリカで20ドル出せば、かなり良い物が食べられる。ファストフードのハンバーガーなどは、2ドルちょっと出せば買える。

キャレンが言った。「これからは我が家のハンバーガーはこれに決まり!後でレシピ教えて!」

それから日本に帰るまでの3週間、何度ハンバーグを作ったかわからない。キャレン達があちこちで「ジャパニーズハンバーグ」のことを言いふらすので、「食べてみたい」と2人の友人達が次々に家にやって来たからだ。みんながレシピを欲しがるので、キャレンがコピーショップで30部ほどコピーしてきたのだが、すぐに全部なくなってしまった。

「こんな美味しいハンバーグは食べたことがない!」そのレシピで作った人達は、みんな家族や友人に大絶賛されたらしい。その中の1人は、娘さんのガールスカウトのイベントの時に40個ほど作っていったのだが、あっという間になくなってしまったという。「お代わりがないってわかった時、みんな本当にがっかりしてたわ」そんなこんなで、私はいつの間にか「日本から来たシェフ」ということになってしまった。


アメリカに行く度に思うことだが、日本人の味覚は本当に繊細だと思う。日本料理の味は複雑で深い。それは味覚を感じる「味蕾(みらい)」の数が多く、優れているからだ。世界ではフランス人、イタリア人、中国人がベスト3の味蕾を持つということを、以前何かの本で読んだ。その後に続くのが日本人。アメリカ人に至っては・・・言うまでもない。

だが、決してアメリカ人が「味オンチ」ということではないと思う。味覚が訓練されていないだけだ。私のアメリカ人の知人は、奥さんが日本の人だ。もともと大の和食好き且つ普段から食べ慣れているせいか、昆布や鰹節等で取ったお出汁の味がちゃんとわかる。

ある時奥さんが「ほ○だし」を使ったら「だしパウダーを使ったな」と、すぐにわかったらしい。その横で福岡出身の奥様が「そうなのよ~舌が肥えちゃってて困るわ~手抜きするとバレるし」とこぼしていた。

和食を知らないアメリカ人に「おすまし」を飲ませてみると、大抵「味がない」と顔をしかめる。「薄く味のついたお湯を飲んでるみたい」と言うことが多い。だしの繊細で複雑なうま味というものは、アメリカ人の食生活の中には見当たらない。そういった味を普段経験することがないので、それを感じ取ることができないのだ。

日本でも子供はケチャップやマヨネーズ等の「単純でわかりやすい味」を好む。それはまだ味蕾が十分に完成されてないから。アメリカ人の多くもそれと同じで、いわゆる「子供舌」なのだ。

だが、あの「大雑把な味」も、アメリカの空気の中で食べると不思議に「イケる」と思う時がある。その土地の空気や水といったものが、味覚に何らかの影響を与えるのかもしれない。たまにあの「大味」なハンバーガーが無性に食べたくなる。


あれから20年以上経ったが、キャレンとデイヴィッドとの付き合いはまだ続いている。彼らの家のハンバーガーの味も、ずっとあのレシピのまま変わっていない。この20年の間、彼らには2人の娘が誕生した。その子達が言うらしい。「マミーの作ったハンバーガー以外食べられない」

特に上の子は最近料理に興味を持ち出したらしく、ハンバーガーを作る度に「これはどうやって作るの?何を入れるの?」と質問するらしい。私のレシピは、どうやら2世代に渡って受け継がれていくことになるようだ。


日米ハンバーグ対決の結果は、日本の完全勝利のようである。





カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

自己啓発のナンダソリャ(6)「同じ穴の狢(むじな)」

 2009-06-15
いつも不思議に思うのだが、自己啓発やスピリチュアルの分野の仕事に関わっている人、そういったことが好きで興味があって、熱心に取り組んでいる人というのは、どうして「お金」という言葉をあんなに毛嫌いするのだろうか。

そういった類のセミナーで、誰かが「お金云々」などと口にしようものなら、まるで守銭奴か何かを見るような視線をその人に送る。「心や魂を成長させる為のこの場所で、『お金』ですって。なんて低俗なんでしょ。イヤだわ~(ヒソヒソ)」というような、冷た~い空気が一瞬その場に流れる。

だが見ていて面白いのは、そういった嫌悪の表情を露にしている人達を見ると、大抵が「金運アップ」に効果があるとされているパワーストーンのブレスレットを、必ず身につけているということだ。

ブレスレットに使用されている石を見れば、その人がどんなご利益を望んでいるのか丸わかりだ。人によったら二重三重、両腕にジャラジャラと身に着けていたりする。

「お金が入ってきますように~」「ソウルメイトと出会えますように~」「仕事運が上がりますように~」と、目いっぱい願掛けした「ご利益ブレスレット」を平然とあからさまに身につけている割には、唯物的発言をした人を「低俗」と見下している。自分達の矛盾にまったく気づいていないことが可笑しくて仕方ない。

誰かがその矛盾を指摘したとしても、その人達は絶対にそれを認めようとしない。なぜなら自分がそんな低俗な物、「お金」に執着しているなんてことはあってはならないことだからだ。その人達の「定義」の中では、「霊的に進化した人間」はそういったものには決して執着しないものなのだ。

だが、「お金」という言葉を嫌うその人達が、掌を返したようにものすごい食いつきを見せる言葉がある。それは「豊かさ abundance(アバンダンス)」という言葉。

自己啓発やスピ系では、それこそ至る所で使われている。「あなたの人生に豊かさを呼び込みましょう」とか「途切れることのない豊かさを手に入れましょう」とか。うま~く言葉で核心をぼかしてはいるが、早い話が「お金」ということ。ただ言葉を変えただけであって、中身はまったく同じものだ。

そして、その「豊かさ」とやらを自分に引き寄せるナントカのアファメーションを真剣に、呪文のように毎日唱え続ける。「私の人生に豊かさが存在することに感謝します」「私が豊かさを手にしたことを感謝します」と、スピ系人間と自己啓発大好き人間の大好物であり、「定番」の「先取りの感謝」をしていたりする。

だがその実、言っていることは「カネよこせ~!」なのだ。それも「さっさと持って来い!」と急かしている。言葉は丁寧だが、やっていることは「お金貸してくれたらうれしいな~」と、路地裏で気の弱い中学生をカツアゲしている人と変わらない。毎年株主総会の時期になると現れる○会屋の方達も、言葉は大変丁寧だ。が、結局目的は同じ。

言葉を摩り替えられただけということにも気づかず、「丁寧な言葉」で「カネよこせ~!」と真剣に唱えている人達を見ると、浅ましさを感じると共に「もっと頭使って考えなよ」と、つくづく思う。

自分達が毛嫌いする「お金」という言葉も、喜んで唱えている「豊かさ」もまったく同じものだということに、どうして気づかないのか不思議で仕方ない。まあ「自分で考える」という一番大事な「核を」奪って依存させるのが自己啓発やスピ系の世界の目的であり、手段と罠でもあるのだが。


豊かさ云々と唱えているということは、「楽してそれを手に入れたい」という「さもしさ」の表れでもある。楽してお金が手に入るなどという「おいしい話」はあり得ない。だったら副業やパートを始めるとか、家計を見直すとか、そういったことに労力や意識を注いだほうが、よっぽど現実的且つ堅実な方法だと思う。

しかし、その人達の決まり文句でもある「すべては必然である」ということが真実で、本当にその意味を理解しているのなら、たとえ今の自分に「豊かさ」がなくても、その状況を感謝して受け入れられるはずだと思うのだが・・・。それを必死で覆そうとするところに、その人の「本音」が表れていると思うのだ。

結局なんだかんだ言っても、自分達が嫌悪・批判している唯物論者となんら変わりはないのだ。1つの穴の中にひしめき合っている同じ種類の狢(むじな)なのである。


カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

ゴーマンかます人

 2009-06-14
「思い内にあれば色外に現る」という言葉がある。心の中で思っていることは、おのずと言動や表情に出るものだ―という意味。

どんなに隠しても、隠そうとしても、やはり人間というものは無意識の内に、気づかないうちに、自分の中にあるものを露呈している。その多くは「言動」、特に「言葉」に表れる。その人が何気なく口にする言葉や口調が、その人の本質や本音といったものを的確に示すことがある。しかし当の本人は、それにまったく気づいていないことが多い。

特に「傲慢さ」というものは、無意識のところで一番出やすい。謙虚を装っていたとしても、その人の中にそういったものが存在している場合、いくら言葉や口調、振る舞い等に気をつけていたとしても、完全に隠しきれるものではないのだ。

そもそも「傲慢」とは、「常に自分は相手より上位にある」という意識がベースになっている。「自分が正しい」「自分のほうが強い」相手より優位に立つことが前提だ。「力関係」へのこだわり。

「傲慢な人」は、この力関係のバランスに敏感だ。今自分は相手より上にいるか、相手に押されてないか―常にそこに意識が向いている。だからちょっとでもそのバランスが崩れた時、自分より相手が優位になったと感じた時、必死でアドバンテージを取り戻そうとする。「自分は相手より強い、優れている」それを躍起になって示そうとするのだ。

「知ってた?」と聞かれてもないのに、「○○なんだって」と相手が何か言えば、「そうよ」と、にべもなく答える。そこには「そうよ。そんなこととっくに知ってるわ。当たり前のことじゃない。あなたは知らなかったの?」というニュアンスが込められている。まあ「優越感」のようなもの。

「あなたが知らなかったことを、自分は前から知っていた」ということを示したいのだ。それに、素っ気なくかわすことで勢い込んできた相手の出鼻を挫くことができる。そしてその様子を見て、密かに溜飲を下げる―。何というか、「暗いな~」と思う。ジメっとした陰湿さのようなものを感じてしまう。

そういった人は、大抵「負けず嫌い」だ。でも「ピントのずれた負けず嫌い」。見当違いの変な部分で相手と張り合おうとする。相手をへこますことで「自分の正しさ」を証明しようとするのだ。そして、自分の中にそういった要素があることを認めようとしない。その傲慢さを必死に隠そうとする。だがそれは、いくら隠そうとしても何かの拍子に露見する。

「隠そうとしなくてもいいじゃん」と、私は思う。神や仏ではないのだから。人間なのだからそういったものがあって当たり前。要は「見せ方、表し方」だと思う。そういった自分の中のダークな面を、明るく軽妙に見せてしまえばいい。変に「いい人」ぶって隠そうとするから、ややこしいことになるのだ。

言動が一致しない時、それを見ている人達はそこに違和感を覚える。そしてそれは「不信感」へと繋がっていく。上手く隠そうとすることに神経を使っているくらいなら、「どうやったらそれを明るくさっぱりと見せることができるか」というやり方を考える方がよっぽど生産的だと思う。

「傲慢さを隠すこと」と「傲慢にならないように気をつけること」は、まったく違う。

人に対して「見返り」を求めることも同様だ。「あれだけやってあげたのに」と、相手から感謝が返ってこないことに失望するということは「やってやったのだから感謝されて当然」という驕りの心があるということ。

わかりやすい表面上の態度だけでなく、「傲慢」というものは形を変えて、人間の中に多く存在する。

「傲慢さ」の裏側にあるものは、「恐れ」だ。自分が相手より劣っていることを認めることへの恐れ、自分が間違っていることを指摘されることへの恐れ、相手に受け入れてもらえないかもしれないことへの恐れ―。そういったものの裏返し。それを悟られたくないが故だ。

「私は謙虚で腰の低い良い人でーす。傲慢なんてそんな低次元のレベルのものは私の中にはありませーん」と、自分の中にあるものを隠そうとする時点でおかしい。「自分は傲慢な人間ではない」と、自分自身で思っている時点で、既にもう傲慢なのだ。




カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

恋愛の賞味期限

 2009-06-13
生物学上の観点から言うと、人間の場合、恋愛感情が継続するリミットは4年間らしい。つまり、4年過ぎればどんなに熱烈な恋愛関係にあったとしても、お互いに対する感情は4年目を境に、年々冷めていく傾向にあるということだ。

昔から「奇数の年は危ない」等と言われているが、「リミットは4年説」からすると、あながちデタラメではないのかもしれない。

もちろん出会った時の情熱や感情をずっと持ち続けている人達もいるが、やはり同じ相手と何十年―というのは、相当の努力や覚悟、忍耐が必要だと思う。「結婚50年目の金婚式を迎えるご夫婦」などと聞くと、もうそれだけで尊敬する。約10年で結婚生活を打ち切った私から見ると、気の遠くなるような話だ。

結婚生活や付き合う期間が長くなればなるほど、やはりお互い「馴れ」というものが出てくる。それは決して悪いものではないが、注意しないと「倦怠」になる可能性がかなり高い。相手の存在に飽きあきしてくる、鬱陶しくなる―そんな感情が生まれてくる。

相手の好ましいと思っていた部分に違和感を覚えたり、今まで気づかなかった欠点が目に付いたり。「私の好きだった人って、こんな人だったっけ?」と、まるで別人のように思えてくる。出会った当初とは全然「別人」になってしまった相手の姿を見て幻滅したり、関心が薄れてくる。

いわゆる「倦怠期」だ。夫婦でも恋人でも、多かれ少なかれこの時期は誰もが体験する。生き物には「バイオリズム」というものが存在する。体の機能や行動の周期性、いわば「波」のようなもの。ある時は高く、ある時は低く―。ずっと同じ高さの波が続くことはない。そしてそのリズムは、体だけでなく、感情にも存在する。

そういった意味では「倦怠期」というものは、生き物としては「当然」且つ「正常な現象」なのかもしれない。


以前動物の生態に関するドキュメント番組を見ていたのだが、なかなか興味深い内容だった。数回に分けてのシリーズ物で、その回は鳥類を取り上げていた。

その中でも面白かったのは、ツバメのペアリングだった。なんとツバメは「浮気」するのである。人間でもイケメンはもてる傾向にあるが、それはツバメでも同じらしい。ツバメの「イケメンの条件」は、しっぽが長いこと。人間で言うと「背が高い」といったところだろうか。

電線に数羽のオスが並んで止まっている。その中の1羽のしっぽが、他のオスよりも明らかに長い。しばらくすると、1羽のメスがそこに飛んできた。オスは一斉にそのメスに対してアピールを始める。そのアピールタイム終了後、メスが選んだのは、一番しっぽの長いそのオスだった。

しかもそのイケメン君は、既にパートナーがいることが観察で判明していた。「奥さん」がいるにもかかわらず、ピャーッと飛んで来た別のメスと関係を持ってしまったのだ。その上、彼の「浮気」はその1回では済まなかった。

デートから帰って来た彼は、また仲間達とさっきの電線に止まっている。するとそこに、先程とは違うメスが飛んで来た。オス達は一斉にアピールを始めた。しかしそのメスが選んだのは、またしてもあのイケメン君だったのだ。

正味2回の浮気。立て続けに彼にメスを持っていかれた他のツバメ達は、心なしかしょぼんとしている。その様子があまりにも人間くさくて、思わず笑ってしまった。

ツバメだけでなく、その他の「一雄一雌制」と言わている鳥達も、生態観察の結果、実際はそうではなかったということが判明した。人間に比べて、子孫を残す為の本能が格段に強いせいだとは思うのだが、「奥さん」とせっせと巣作りしながらも、その一方で2回も浮気したイケメン君を「ずっと同じ相手と一緒にいるって、ツバメでもやっぱり飽きるのかな~」などと思いながら見ていた。


これはあくまでも私の独断だが、人間の場合、自分にも相手にも「どれだけ抽斗(ひきだし)があるか」ということが、その後の関係や感情に大きく関わってくるような気がする。

恋愛感情の賞味期限切れ、いわゆる「倦怠期」というものは、相手の中に興味や魅力が見い出せなくなったことに由来すると思うのだ。

「すべて見切ってしまった、知り尽くしてしまった」という落胆と物足りなさ。長年馴染んできたものは安心感や安定をもたらすが、新しい発見が何もないという状態は、新鮮さや刺激に欠ける。そういったことが、大きな要因になっているような気がする。

脳科学者の茂木健一郎氏が、「ギャップ理論」というものを紹介している。例えばモーツァルト。映画「アマデウス」でも描かれていたが、彼の作品と人柄には大きなギャップがある。そのギャップが意表をつくほど実は本物である―という理論。

そのギャップこそが「抽斗」、いわゆる「魅力」だと思うのだ。「何この人?どういう人なの?」そう相手の好奇心をかき立てるような要素。開ける度に、次から次に思いもかけないような物が飛び出してくるマジックポットのような―。掴んだと思ったらスルリと抜け出して掴みどころのないような―。「どれが本当の姿なの?」そんな多面性を持っている人。

その「意外性」が大きければ大きいほどいい。見た目と中身がまったくで「多分こうなんだろうな」と、簡単に予想できてしまって、実際まったくその通りだったりする人の場合、好奇心を刺激されないし、飽きるのも早い。外と内があまりにも合致しすぎると、正直あまり面白くない。

自分の抽斗(ひきだし)を、常にいっぱいにしておくことだ。相手にだけそれを求めるのは虫が良過ぎる。自分が相手をつまらないと思っているということは、相手もまったく同じことを思っているということ。

「未知の領域」が多いほど、人間としての幅や奥行きが広くて深いほど、たとえ一時期「倦怠」に陥ったとしても、その後それが「嫌悪」へと変化し、「別離」へと至るような確率は、かなり低いような気がする。そして再び上昇傾向を示すような展開になる可能性が高い。

恋愛の「賞味期限」は、それぞれの「抽斗の中身」にかかっているのだ。



カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

言葉でわかるお国柄

 2009-06-12
OL時代、私は通常業務以外に部長秘書の役割も勤めていた。ある時、部長がアメリカ支社に出張することになった。出発が4日後に迫った時、部長から買い物を頼まれた。先方の支社長とその家族に渡す手土産を見繕ってきてほしい―とのことだった。

現地では、支社長宅でのディナーがスケジュールに入っていた。アメリカではそういった際には手土産を持参するのが礼儀だ。定番はワイン、チョコレート、花束と言ったところだろうか。だが好みもあるので、相手が初対面の時には結構困ることがある。

それに慌しいスケジュールの中、現地で調達するのも手間がかかる。それに、どんな物が喜ばれるのか「ツボ」を知っている人間が選んだほうがいいのではないかということで、私がその役目を仰せつかった。

勤務先は新宿だったので、周囲には数え切れないほどの買い物スポットがある。とりあえず、駅近くにある大手百貨店をいくつか覗いてみることにした。

荷物になるようなかさばる物ではなく、何か軽くて小さめの物―ということを必須条件にしていろいろ見て回った結果、家族の人数分の箸と箸置き、掌に乗るくらいの大きさの雛人形、風呂敷、そして和紙の千代紙のセットを購入した。

お客さんを招待してのディナーは、やはり会話を楽しむことがメインになる。それに、その国特有の伝統的な品は、会話のネタやきっかけにもなるので何かと好都合なのだ。

買ってきた物を見た部長は「お!これはいいね~」と言ってくれた。「部長、お雛様とか風呂敷の由来を説明できるようにしておかれたほうがいいですよ」「なるほど、なるほど」そう言うと、部長は早速和英辞典を使っていろいろと調べ始めた。「ほー、雛人形は『a doll displayed on the Girl's Festival day』って言うのか・・・」等と呟いている。

ネイティブ並みの英語力を持つ人が同行するのでその辺は心配することはないのだが、知っておいて損はない。それに部長は向学心が強い人なので、そういったことも決して人任せにしないのだ。

それからしばらくして、部長が話しかけてきた。「『つまらない物ですが』って英語で何て言うの?」


日本語の「つまらない物ですが」に該当する表現は英語には存在しない。しいて言えば「気に入っていただけるといいのですが」という「I hope you'll like it.」がそれに相当する。

日本文化は、相手を立てて自分をその下に置く「謙(へりくだ)る文化」だ。控え目に振る舞うことが良しとされる。「あなたに比べて劣った人間である私」という位置づけなので、「劣った自分」に属するものは、すべて「劣ったもの」になる。

そんな劣った人間の私が贈る物は、あなたに気に入ってもらえるかどうかわからない。そんな物でもよろしければお受け取りください―というスタンスから「つまらないものですが・・・」という表現が生まれる。

日本では常套句の「当たり前のこと」であり、礼儀でもあり、習慣であることが、その他の国―特に欧米では、「まったく不可解なもの」として受け止められることがある。時には相手の国の「非常識」に相当する場合もある。

特にアメリカでは、「謙(へりくだ)る」という発想は基本的に存在しないと思ったほうがいい。幼児のうちから「あなたは素晴らしい」と、自分の存在を肯定される「称賛の文化」なので、自然と「自分は素晴らしい人間である」という「 I am No1思想」が育っていく。だから「自分は他の人より劣った人間である」などという考えはあり得ないのだ。

「相手も素晴らしい。自分も素晴らしい」あくまでも「対等」が基本なので、自分を相手より低い位置に置く「謙遜」や「謙る」、「相手を立てる」といった日本流の発想はない。相手を褒めるが、それと同時に自分自身もガンガン前に押し出していく。

「褒められて当然」なので、子供でも少々の言葉では満足しない。日本語の「よくできました」は、アメリカでは「まあまあ、そこそこ」くらいの意味でしかない。学校などでは、先生達は「super」「excellent」「fantastic」「marvelous」を連発する。

「自己肯定の文化」と「自己否定の文化」その違いは、いうなれば「個性」でもあるのだが、そのままそれを持ち込むと、変な誤解が生じることがある。

日本式の「謙遜」は、日本の文化をよく知らない外国人には、時に「卑屈さ」や「煮え切らなさ」として映ることがある。反対にアメリカ式の「対等」は、「尊大さ」や「強引」「無礼」として受け取られる。

自国の文化や風習を、相手が理解可能な形に「変換」することが必要になってくるのだ。

日本語には「愚妻」「愚息」などという言葉があるが、英語ではそんな言葉は存在しない。自分の愛する家族を「これが私の程度が劣っている不十分で不完全な妻です」と他人に紹介するなどということは、最大の侮辱であり、大袈裟でなく、家庭崩壊の危機に繋がりかねない行為に値する。

「人前で平気でけなすくらい出来の悪い人をなぜ選んだんだ」というのが、彼らの言い分であり疑問になる。「This is my wonderful wife.(私の素晴らしい妻です)」と、時には赤面物の歯の浮くような言葉で、実際は「そこそこでフツー」であったとしても、自分の家族をそう紹介する文化を持つ国の人からすれば、「愚妻」「愚息」などという言葉は、まったく理解し難いものなのである。

余談だが、中近東のどこかの国では「奥さんはお元気ですか?」と聞くことは、「あなたの飼っているニワトリは元気ですか?」と聞いているのと同じことらしい。だからその国の男性同士の会話には、奥さんの話題が上ることはない―と、以前何かの本で読んだ。イスラム圏での女性の立場をよく表している。

日本人が謙遜して「つまらないものですが」と渡した物も、彼らからすれば「だったらどうしてそんな物を贈るんだ。大体自分がつまらないと思っている物を贈るなんて失礼じゃないか」ということになる。

文化や風習の違いから来るものを、あれこれ言い合っても仕方ない。そういったものに善し悪しは存在しない。だからそこでお互いが理解可能な共通する部分を見つけ出す「歩み寄り」が必要になってくる。相手のバックグラウンドに合わせた発想の転換、表現の変換をする―それが「相互理解」というものなのだ。


「ですから部長、相手から褒められたら『No! No!』とか否定しないで『Thank you』っておっしゃってくださいね。相手のことも何でもいいから褒めてください。『いい靴ですね』とか『いいネクタイですね』とか」」「はい。わかりました(笑)」


「肯定の文化」と「否定の文化」どちらも一長一短だ。結局のところ、その間を取った「ほどほど」、いわゆる「中庸」がいいのかもしれない。だがどちらにしても、相手の文化、「お国柄」といったものを尊重すること、それを理解しようとする姿勢が、何よりも大切で必要不可欠なことなのだ。


カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

とどのつまり

 2009-06-09
学生の頃の友人に、13歳の時に一目惚れした人を20年近く想い続けていた子がいた。中学校の入学式で初めてその人を見た瞬間、本人曰く「全身に電流が走った」らしい。それ以来、彼女はずっとその人だけを追いかけてきた。

その約20年の間、彼女も別の誰かと付き合ったりすることもあったのだが、どうしても彼のことが忘れられないようで、結局どんな人とも長続きしなかった。当の彼は、彼女の気持ちをずっと前から知っていたのだが、あくまでも「仲の良い友達の一人」という枠を崩そうとしなかった。

端から見ていて、いろいろと思うところはあったのだが、周りの人間があれこれ口を挟むことではないので、黙ってその様子を見守っていた。

ある時、彼女が出会ってから何度目かのアタックを試みた。「友達ではなくて、女性として見てほしい」その時彼から返ってきた答えは「おまえは友達以上恋人未満だ」というものだった。

傷つけたくないという気持ちもあるのだろうが、「友達以上恋人未満」という微妙で曖昧な、いつかどこかのタイミングで、友達から恋人に昇格できる可能性があるような、そんな希望を持たせるような響きのある言葉を彼女は誤解した。

「いつか彼とそうなれるかも。自分を選んでくれる時が来るかもしれない」と、さらに燃え上がってしまった。周りが何を言っても受け付けない。そして、結局その「いつか」は来なかった。彼は他の人を選び、その人と結婚した。


「友達以上恋人未満だと思っている」とか「このまま友達でいよう」とか、相手からそういった答えが返ってくるということは、見も蓋もない言い方をすれば、ズバリ相手には「全然その気はない」ということなのだ。もっとはっきり言えば、「異性としての魅力をあなたには感じません」ということ。

男性でも女性でも、自分の想いを受け入れてもらえなかった時、「自分が拒否された理由」を知りたがる人が多い。その理由をスピリチュアルな面、例えばカルマや過去生等に求める人もいる。「拒否される自分」を正当化したい、相手が自分を拒否する正当な理由、正当な理屈が欲しいのだと思う。

相手に対する好き嫌いの感情は、過去生のカルマや理屈や理論だけで導き出されるものではないのだ。確かにそういったものの影響はゼロではないが、「生き物としての本能」に根ざした部分からやって来るものも大きい。

過去生で熱烈に愛し合っていた相手と今生でまた再会したとしても、現在の生身の自分の本能が、現在のその人を生理的に受け付けなければ、恋愛感情は生まれない。「生理的なもの」というのは、時に多くのものを超えてしまうのだ。

「何となくその気になれない」「異性として見ることができない」そういった相手の「生理的なものから来る答え」は理屈で説明できないものだ。だから余計に苛立たしく理不尽に感じるのだと思う。

「何となく・・・」その言葉が相手から出たら、もう潔く引いた方がいい。曲がり間違って、万に一つ、何かの拍子に瓢箪から駒・・・ということもあるかもしれない。しかし本能の部分は簡単に覆るものではない。

想う相手に拒絶されるということは、確かに辛い。ましてや「何となくその気になれない」等と曖昧で納得し難い答えが返ってくれば尚更だ。だがその曖昧さは、ある種「武士の情け」だと思う。また、そこに込められた意味を察して黙って引く潔さも、相手に対する愛情だと思うのだ。

理屈ではどうしようもできない本能の部分を、いつまでも「どうして?どうして?」と拘り続けるのは、子供が駄々を捏ねているのと変わらない。また、そういった人に限って相手が自分を拒絶する「本当の理由」を尋ねるのを怖がっていることが多い。

「なぜ自分を拒否するのか?」相手に直接尋ねることもせず、その理由や原因を過去生に求めたりする。それは完全な「逃避」。結局、相手の「本音」を聞いた時、ショックを受けて傷つくことが怖いのだ。だからすべてを過去生やカルマのせいにして夢の世界にい続けることを選ぶ。それは「打たれ弱さ」と「幼さ」の表れでもある。

恋愛は、甘美で優しいものだけで成り立っているのではない。「現実と向き合う強さ、それを受け入れる潔さ」「忍耐」、そういった対局にあるものも含めてが「恋愛」なのだ。甘さや楽しさだけを求めているのなら、それはただの「ごっこ」。

酸いも甘いも存在するのが「大人の恋愛」、そして「恋愛には酸いも甘いも存在する」そう理解できるのが「大人」というものなのだ。


カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

7月自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-06-08
7月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 7月5(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 7月2日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み(本ブログ右側下部にあるメールフォームからでも申し込み可能です)

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



カテゴリ :グリーフケアに関するお知らせ トラックバック(-) コメント(-)

衣食足りても、足りなくても

 2009-06-03
最近、いろいろな所で「今の世の中、『変な人』が増えたような気がする」という声を聞く。

相手に対して礼節を欠く態度を取る人、個人的な感情を仕事等に持ち込んでパワハラ、セクハラ、集団いじめをする人、モンスターペアレント等に見られるように、自分の非を棚に上げて逆ギレする人、ストーカーのように、相手の都合や感情を完全に無視した一方的で勝手な言動を取る人―そういった類の人達が増えたと、多くの人が言う。

だが、それは決して「人数が増えた」わけではない。「目にする機会、遭遇する確率が増えた」だけ。昔からそういう人達は存在していたのだ。

例えば、今でこそ「ストーカー」という呼称がついているが、20年位前はそんな言葉はなかった。当時は「付きまとい」等と言われていたが、取る行動は今とまったく変わらない。今ではそういった迷惑行為を規制する法律もできて警察等の介入も可能になったが、以前は生命に関わるような程度のものでなければ見過ごされることがほとんどだった。

見ず知らずの人に向かって失礼な態度を取る人も、今に始まったことではない。OL時代、通勤時の電車の中で、足を踏んだ踏まないで、いい歳をしたサラリーマンが駅のホームや車内で掴み合いのケンカをしている光景は日常茶飯事だった。もちろん痴漢の類や、いきなり奇声を発するような人もいた。

職場でのパワハラやセクハラも当然存在したし、犯罪被害者や加害者の家族等に匿名で嫌がらせの手紙を送ったり、中傷の電話をかけたりする輩も大昔からいた。嫌いな芸能人に剃刀の刃を入れた手紙や荷物を送ったりということも、よく聞いた。

何十年も前から、かなり以前から、そういった「変な人達」は存在したのだ。ここ15年ほどでインターネットが普及した為に、目や耳にする情報量や機会が圧倒的に増えた。それが余計に増加の印象を与えるのだと思う。

今の世相の反映もある。先が見えない不安等から猜疑心や警戒心が強くなって、自分を守ることしか考えられない「余裕のない人」が増えた。それは、自分さえ良ければという「我良し」「我先」の心を生み出していく。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。「生活に余裕ができて、初めて人は礼儀や節度をわきまえられるようになる」という意味。だが、日本全体が潤っていたバブルの時、「衣食足りていた時」も、礼節を知らない人は存在していた。

反対に、物質が今とは比べ物にならないくらい圧倒的に少なかった江戸時代、当時の日本を訪れた外国人が、人々の精神性や道徳心の高さに驚嘆、賞賛する記述を多く残している。現代と比較すると「衣食足りない」とも言える時代、日本人の心は豊かで美しかった。

結局のところ、行き着くところは「足るを知ること」だと思うのだ。足るを知る者は富む―分相応に満足できる者、満足することの意義を知っている者は、生活が貧しくても心は豊かであるということ。英語でも「Content is a kingdom.(満足は王国なり)」という言葉があるが、「足るを知る」ということは、世界中どこでも、国や民族に関係なく、すべての人間に必要なことなのだと思う。

「まだ足らない、もっと欲しい」という心の飢餓状態が、自分のことしか考えられないような余裕のなさを生み出していくのだと思う。そんな状況では人のことを思い遣ることなどできるわけがない。

「譲り合う」「思い遣る」「察する」「弁える」かつて日本人の美徳と称されていた精神が、今完全に抜け落ちている。「変な人」が増えたというより、「変な国」になったのはそのせいだ。精神性の欠如。それが大きく影響している。

自分の我欲を押し通そうとする前に、ちょっと他の人のことも考えてみる―そういったことをお互いがほんの少し心がけていくだけで、今の日本の「変な状況」は大分改善されていくと思うのだが。

「なんだかんだ言っても、自分は恵まれているんだな~」そう思うことができたら、「足るを知っている」ということ。そしてそれは、周りの人達に向けられる「心の余裕」を持っているということでもあるのだ。

カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

「覚えない男」と「忘れない女」

 2009-06-02
先日、カウンセリングに来られたリピータの方とも話していたのだが、どうして男と女というのはこれほどまでに違うのかと思う。「男は火星から、女は金星から来た」という表現があるが、やはり「違う種類の生き物」だと思う。

思考回路然り、表現の方法然り、まったく違う。「男の常識は女の非常識、女の常識は男の非常識」と言ってもいい。男女間の諍いや誤解の類は、大抵その部分が「発生源」になっている。


私は、世の中には4つの種類の生き物がいると思う。「男性性の強い男性」「男性性の強い女性」「女性性の強い男性」「女性性の強い女性」世の中の男と女は、この4種類に分類できる。

男性性は「冷静、論理的、理性的、合理的、行動的、攻撃性、目的達成志向、現実主義」、女性性は「情緒的、繊細、直観的、包容力、優しさ、理想主義、受け身、柔軟性、他者への共感」等が、特徴として挙げられる。

もちろん男性にも女性性は必要であり、且つ持ち合わせているものだ。それは女性に関しても同じこと。良いとか悪いとかではなく、どちらも存在するのが人間なのだ。ただ、どちらか一方の面が強く前に出るという傾向はある。だから「中身が乙女」な「女性性の強い男性」もいるし、「性格が男前」な「男性性の強い女性」もいる。

その4種類のタイプを、さらに大きく2つのグループに分けるなら、「女性性が強い女性」と「女性性が強い男性」、「男性性が強い女性」と「男性性が強い男性」となる。さしずめ「女子グループ」と「男子グループ」と言ったところ。


この「女子グループ」が、どうしても理解できないことがある。それは「なぜ男子グループは誕生日や記念日を平気で忘れるのか?」ということだ。女子グループに属する人達の大半が、相手に対する不満をぶちまける時に必ず出てくる内容の一つでもある。

「10年近く付き合ってるのに、いつも誕生日を忘れる」「結婚記念日を覚えてない」「こちらから言わない限り思い出してくれない」「付き合って何年も経つのに、誕生日を覚えてない。2月生まれなのに『8月だっけ?』と言われた」「入籍した日を覚えているか聞いたら、真剣に考え込まれた」など等。

だが「男子グループ」は、なぜ自分達がそれほどまでに責められるのか理解できない。「誕生日や結婚記念日を忘れたくらいで、どうしてそんなに怒るのか?たかが日付じゃないか」

男子グループが平然と言い放つその態度に、女子グループの怒りは倍増する。そしてその様子を見て、男子グループはますます釈然としない思いを深めていく。結局水掛け論に終始する。


実はここが両者の最大の違いだ。性格とか思いやりとか、そういったことはあまり関係ない。思考回路の違い、いわば「生き物としての生態」から来るものなので、どちらが悪いとか正しいとかの問題ではないのである。犬に向かって「どうして『ニャー』って鳴かないのよ!?」と言っているようなものだ。

女子グループは、基本「大切な人のことは全部知りたい、知っておくべき」と考える生き物だ。また、「相手に関する情報は常に覚えておくべき」と考える。何気ない会話の中に出てきたこと―例えば、その人が小学生の時に飼っていた犬の名前とか、高校の時の部活とか、それがどんなに些細なことであったとしても、「それを覚えていること=その人に対する想いの深さ」と思っている。

「その人に関すること全部=その人」を意味する。だから昔飼っていた犬の名前や、何の部活に入っていたか等という取るに足らないと思えることも「=その人、大切な人の一部」となる。

女子グループにとって、相手の誕生日や結婚記念日を忘れる、覚えていないということは、絶対にあり得ないことなのだ。その人がこの世に生まれてきた大事な日を疎かにするということは、その人を疎かにしていることと同じなのである。

そして「相手も自分と同じように考えるべき。いや、そう考えているに違いない」と思っている。だから誕生日や記念日を忘れられるということは「自分の存在を軽視されている、大事にされていない」という不満や怒りに繋がるのだ。


男子グループは男子グループで、相手が自分にそんなことを期待しているなどとは夢にも思っていない。ましてや誕生日や記念日などというものは「単なる日付」という概念しかない。相手は相手、誕生日は誕生日―相手と相手の誕生日を同一視するという思考は、元から存在しない。相手は大事だが、その誕生日を忘れないということまでは、そこには含まれない。生身の人間と、単なる記号に過ぎない日付が、どうして同列に並ぶのか理解できないのだ。

何よりも、男子グループは「重要度、優先順位」というもので物事を測る傾向が強い生き物だ。彼らにとって「誕生日や記念日を覚える」ということは然程重要なことではなく、ましてやその順位はかなり低い。極端な話、命や人生、日常等に大きな影響を及ぼすものでない限り、関心は持たないものなのだ。


この思考方法の違いが「ズレ」を生む。これはもう「仕方のないこと」だ。お互い「そういう生き物なのだ」と認識するほかない。文化の違う外国人と付き合っていると思ったらいい。どちらが優れているとか、正しいとか、そういった問題ではないのだ。

まあお互い、相手がどういう思考回路を持つ生き物なのかということを知っておくのは悪くない。誕生日や記念日を忘れられたからといって、自分は愛されてないのかと悩む必要はないし、相手に関する些細なことを覚えているということが愛情表現になるということを知っておけば、いちいち大袈裟な言葉や態度でそれを示そうと無理をしなくてもよくなる。

所詮「別の種類の生き物」なのだ。お互いの「生態」を認識すれば、完全に消すことは不可能でも、その「ズレ」は縮まっていく。理解へ至る道は、まず認識から―なのである。




カテゴリ :男と女・恋愛・結婚の話 トラックバック(-) コメント(-)

不安な人ほどよく怒る

 2009-06-01
昨日、仕事の合間に近所のスーパーに買い物に行った時のことだ。日曜の昼過ぎということもあり、店内は結構混み合っていた。買った商品を詰める台にも、順番待ちをしている人達がいる。

レジとその台の間のスペース、出口までの通路になっている部分はそれほど広くない。混雑時には、台で荷物を詰める人、その後ろで順番を待つ人、出口に向かう人で通路が塞がってしまうことがある。荷物を持って出口に向かおうとした時が、まさにそんな状況だった。前には何人もの人がいて、進もうにも進めない。

その時だった。すぐ後ろで「邪魔、邪魔!」という声がする。振り向くと、車椅子に乗った80代くらいのおばあちゃんが私のことを睨みつけている。おまけに犬や猫を追い払う時のように、手で「シッ!シッ!」とやっている。介護士さんと思しき車椅子を押している女性が「そんなことせんでも・・・」と、困った顔をしている。

「邪魔なもんを邪魔って言ってどこが悪いねん!」と、おばあちゃんは相変わらずの様子だ。さすがにムッとしたが、介護士の女性が本当に申し訳なさそうに目顔で謝っているので、何も言わずに道を空けたのだが、私の横を通り過ぎてからも、自分の進路にいる人達に向かって「邪魔!」と、やっている。

「まあ、元気なおばあちゃんやね~長生きしはるわ~」周りの人達は、その様子を呆れたように見ていた。

そのおばあちゃんのことは、以前何度か見かけたことがあった。仕事柄人の顔はすぐに覚えるので、すぐに思い当たった。だが、その人の顔をよく覚えているのにはもう一つ別の理由があった。

なぜなら、そのおばあちゃんはいつも不機嫌そうにしていたから。一緒にいる人に向かって、常に何か文句を言っていた。自分の欲しい物が見つからないとか、ダレソレさんの介護のやり方が悪いとか―それが結構大きな声なので、付き添う人も困っているようだった。

その不機嫌そうな様子や、人に当り散らす態度を見て思った。「この人、不安なんだろうな」


母親の姿が見えなかったり、周りに誰もいなくて心細くて不安な時、赤ちゃんや子供は泣く。「自分はここにいる。誰か来て」その泣き声を聞いて、必ず誰かが駆けつけてくれるから。いわば泣き声は「救助信号」であり、自分の存在をアピールするための手段でもある。

だが年齢が上がるにつれ、泣くことは、段々難しい行為になっていく。「許されなくなる」といったほうが適切だろうか。いい歳をした大人が泣いていると、見て見ぬ振りをするのが礼儀や親切と思って、誰も近寄らない。だから不安になると、大人は泣く代わりに怒るようになっていく。

大人が怒っていれば、誰もが「どうしたんですか?」と注意を向けてくれる。何か余程の理由がなければ大人は怒りを露にしない。「この人が怒っているのは何か正当な理由があるに違いない」だから周りの人はその人に注目する。怒りとは、たちまち自分に注意を惹きつけることができる一番効果的な方法なのだ。

「誰も自分を見てくれない。誰も自分を理解してくれない。自分は独りだ」そういった欠乏感や不安を抱えている人ほど、無意識に怒りを利用しようとする。

OL時代、常に声を張り上げてあーだこーだと文句を言っている上司がいた。一緒に仕事をしているうちに、いつも強気に見えるその態度や大声にもかかわらず、その実ものすごく心配性で気が小さい人であるということがわかった。職場や仕事上で、自分の存在を蔑ろにされることを恐れているようにも見えた。

強気な態度はその裏返し。猫は威嚇の時に毛を逆立てて体を大きく見せ、臆病な犬ほどよく吠える。それと同じことだ。


怒ることでしか自分自身の存在や不安を訴えることができない―最近そういった人が増えてきているような気がする。だがそれは、その人の精一杯のSOS。「自分は不安でたまらない、誰も自分を見てくれない、理解してくれない。それが寂しくてたまらない」

怒りの裏側にあるのは、実は大きな心細さなのだ。







カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。