FC2ブログ

瞑想の形

 2009-04-14
【悟り・覚り】
①理解すること。知ること。また、気づくこと。感づくこと。察知。
②(仏)まよいが解けて真理を会得すること。(広辞苑より)



目を閉じて座り、心静かに神に祈ったり、心を一点に集中し、「無」の境地になる―これだけが瞑想の方法ではない。わざわざお寺に行って座禅を組んだり、そういった時間を生活の中に特に設けなくても、「悟り」は得られる。

瞑想とか、座禅とか、そういった「目で見える形、形式」に囚われ過ぎる人を見ていると、ただの「自己満足」の域を出ていないような気がする。「儀式化」することによって、安心や満足感といったものを得ているだけのような気がしてならない。

精神世界に関わっている人や興味を持っている人を見ていると、瞑想を日常に取り入れていることが多い。しかし、その大半が、瞑想で得られると言われている「雑念のない澄み切った意識」や「あるがままの真の自由」や「一切の迷いのない、明鏡止水の心境」に一向に到達できていないように見えるのはなぜだろうか?

精神世界の要素がいくらか含まれている仕事をしている割には、私は瞑想といったものは一切やらない。「しよう」とも「したい」とも思わない。

先日、何かの拍子に「この前最後に瞑想したのはいつだっけ?」と思い出そうとしたのだが、まったく思い出せない。何のことはない。やってないことを思い出せるわけがない。それくらい無関心なのだ。

しかし、瞑想を否定しているわけではない。催眠状態と瞑想状態の時の脳波はまったく同じものだ。ヒプノセラピーのセッションにおいても、やはり普段から瞑想の習慣のある人は、催眠状態にも容易に、スムーズに入っていくことが多い。リラックス効果もあるし、精神統一や集中力の向上にも良い。やりたい人は活用したらいいと思う。

だが、瞑想という儀式の「参加者」であることによって得られる自己満足や特別意識、安心と拠りどころを求めるための、「勘違い」の動機で実行している人を見ると、違和感を覚える。そして思う。「そんなヒマがあったら部屋の掃除でもしたほうがいいよ」

「瞑想に依存している人達」に多く見られる傾向は、「何事も考え過ぎる」ことだと思う。もともと「考えることが好き」という人が多いので、集中して長時間考え続けたりすることが苦にならない。だが実は、そこが大きな「落とし穴」でもある。

考えるのが好きで、苦にならない―それ故に「思考の無限ループ」に陥る。「発想の転換」というものがそこにあればいいのだが、なぜか「瞑想に対する依存度が高い人」は、同じ観点から同じ事を延々と考え続けるタイプの人が多い。

自分の方法や考え方を変えたり、物事を別の視点から観てみようという意識や発想が欠けている上、妙な拘りや頑固さを持っている。それが邪魔をして、結局、瞑想しても何も変わり映えしない―という結果になる。何のことはない。手放すべきもの、不要なものを、頑なに持ち続けているからだ。

そういった場合、瞑想で何か新しい考えや答えを得たとしても、それを全部自分で握りつぶしてしまう。長い間馴染んできた古い考えや感情を優先してしまうためだ。そしてそれは、自分の魂の答えである「直観」を信じていない、自分自身を信じていない―ということでもある。

そんな状態で瞑想に臨んでも、何もならない。結局堂々巡りの無限ループを繰り返すのであれば、部屋の掃除でもしたほうがよっぽどいい。部屋も綺麗になるし、自分も気分が良い。一石二鳥だ。

儀式や形に拘る必要はないのだ。日々の暮らしの中に気づきの機会は多くあるのだから。わざわざ時間を作って静かに座って目を閉じて―ということをするより、今自分がいる場所で、今自分ができること、やるべきことを一生懸命集中してやっていたら、それは既に「瞑想」なのだ。瞑想の別の形。瞑想の形や方法は一つではない。

例えば看護師の仕事をしている人なら、重傷の患者に何時間も集中して付き添いながら、自分ができることを最大限に行い、心からその人の回復を祈り、見守る。営業マンなら、商談の席で「どうしたら得意先の要望に最大限に応えることができるか?」と一生懸命話を聞き、知恵を絞る。喫茶店を経営している人なら、世界で一番美味しいコーヒーを出すために、その一杯に精魂を込める―もうそのこと自体が「瞑想」なのだ。

毎日瞑想の時間を取っているとしても、一番肝心な部分、日常の「今ここ」が抜けていたら何もならない。何でもない普段の日常、その中にこそ「核」がある。

上っ面だけのスピリチュアルは、いつも「特別」を謳う。儀式化や呪文化、選民思想を煽るセミナーや書籍―そんなものは「贋物」だ。そういったものに踊らされての儀式化された「瞑想パフォーマンス」ならやらないほうがいい。「禅病」になるのが関の山だ。

日々の生活の中で、今自分がいる場所で、今自分がやるべきこと、今自分の目の前にいる人に100%の意識を集中して一生懸命に向かい合う―それが本来の瞑想の形。「一所懸命」の精神―それで十分だ。そこで感じたもの、得たものが、自分にとっての「悟り」の一歩になるのだから。






スポンサーサイト



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫