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木を見て森を見ず

 2009-04-13
例えば今ここに、目の前に100本の木があるとする。私はその100本を全部触ってみたい。1~2本触って「これが木というものだ」と思い込むことはしたくない。同じように見えるとしても、幹の手触り、太さ、枝についている葉の形や色は、それぞれの木ごとに微妙に異なる。1本として「同じ木」など存在しないのだから。

100本全部触ったとしても、「これが木というものだ」と断言したくない。今自分が触った100本の他にも、この地球上にはまだ無数の、私の知らない木が存在するのだから。

地球上の木を全部触ったとしても、「これが木というものだ」とは決めつけたくない。「木ってこういうものなのかな?」という「可能性」を残しておきたい。「木って何だろう?」その存在に対しての興味をそこで終わらせてしまいたくない。


今自分の中にある想像力は「十分でない」ことを知るべきだ。今想像できることが、その対象のすべてを物語っているわけではないのだ。今見えていること、今知っていることだけで、わずかな情報だけでそれを判断し、決めつけ、それ以上のものを見い出そうとしない姿勢は、「想像力の欠如」の表れだ。

少ない事例や経験だけで、まだ未知の部分、残りの部分まで「きっとこうに違いない、そうに決まっている」と見もしない、触れもしないというのは、意固地さでもあると思う。結局意地を張っているだけだ。「自分が正しい」という前提でしか物事を見ていないということ。

そのつまらないプライドは、すべての可能性を途切れさせる。結局自分自身で、自分の前に広がっている可能性を断ち切っているのだ。

どんなことも、どんな人も、自分がその対象を100%理解、把握できることはない。今自分に見えているもの、その物事や人物に対してイメージできることは、全体のほんの一部に過ぎない。そのわずかな部分だけを見て、すべてを理解したつもりになっているのは愚の骨頂だ。単なる驕り。

「すべてのものに謙虚であれ」自分以外の者や物事に対して、常にそうありたいと思うのだ。素直に、相手やその物事のすべてを観る。自分のちっぽけな想像力が下す判断、先入観など必要ない。「知った気になっている」その驕りの姿勢が、心の目を曇らせる。

常に知ろうとする姿勢、新たな面を見い出そうとする姿勢が、結果、すべての存在の根底に流れる「大きな何か」に繋がっていくのだと思う。そして、その姿勢こそが、人としてのレゾンデートル、存在理由の一つでもあると思うのだ。


自分が隅から隅まで知り尽くした森の奥深くで、ある日1本の木が倒れたとする。その木が倒れる音を聞いた時、多分私は森の奥へと向かう。どの木が倒れたのか、どちらの方向に倒れたのか、どんなふうに倒れたのか、枝や葉はどうなっているのか―その倒れた1本の木を確かめるために。





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カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
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