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ジャパニーズイングリッシュで何が悪い!

 2009-04-24
【日本人として赤面するほど恥ずかしい「まるで酔っ払いの英語」】

●彼はホントに留学したのかね

麻生首相といえば、学習院大政経学部卒業後、米スタンフォード大に留学。しかし、親族がアメリカかぶれすることを嫌い、その後、ロンドン大学政治経済学院に移らせた。首相の留学期間は1963年9月から66年8月までで、なるほど、これだけ海外生活が長ければ、英語がしゃべれるのも納得がいく。外相時代は「ヘンに自信を持っていて勝手にしゃべられるので困った」なんてこぼす外務官僚もいたほどだ。

ところが、首相就任以降、その英語力に大きな疑問符がついている。首相になった直後にニューヨークの国連総会で演説したときもミョーな発音だったし、「ありゃりゃ」と思ったのが18日に行われた国際オリンピック委員会評価委員会を前にした2つのスピーチだ。

「ようこそ、日本へ。私は1976年のモントリオール五輪で選手だった」「リラックスして、日本の伝統的もてなしを楽しんでください」「開催地が東京になるような報告をしてくれることを望みます」などと英語で語ったのだが、ジャパニーズイングリッシュをヘンに崩したような発音で酔っぱらいがカラんでいるような言い方なのである。日本での生活が長いジャーナリストのマーク・シュライバーさんはこう言った。

「あの世代の日本人の典型的な発音でしたね。ま、何を言っているのかは理解できますが、非常に“日本なまり”があります。文章はテキストがあるのでしょう。あまりにもフォーマルで硬い表現の英語です」

ふつう、国のトップはよほど自信がなければ、こういう公式の場で英語は使わない。ところが、麻生は“この程度”の英語でも意気揚々と使ってしまう。周囲は唖然とするが、イイ気になっている本人は得意満面。

ちなみに留学時代にはほとんど勉強しなかったことを本人が語ったことがある。日本人として恥ずかしい。

(日刊ゲンダイ2009年4月20日掲載)



麻生首相の英語を「日本語訛りがある」とか「表現が硬い」だのと難癖をつけているジャーナリストのシュライバー氏にしろ、それを受けて「日本人として恥ずかしい」とのたまっている日刊ゲンダイの記者氏にしろ、「はあ?あんたら何言ってんの?」である。

「ま、何を言っているのかは理解できますが(シュライバー氏)」だったらいいではないか。内容が相手に伝わっているのであれば何の問題もない。

実にくだらない内容の記事だと思う。日本人を小ばかにしているアメリカ人と、それに追従する外人コンプレックス丸出しの日本人の戯言だ。

このシュライバー氏、日本在住経験が長期にわたるそうだが、氏の話す日本語は、きっと日本人と見まごうような、流暢で完璧なものに違いない。多くのアメリカ人がいくら教えても「こんにちは」を「カニチワ」、「酒(さけ)」を「サキ」、「空手(からて)」を「クラーリ」などと、アメリカ英語訛りバリバリのイントネーションとアクセントで発音することなど絶対にあり得ないにきまっている。

だって「非常に日本訛り」で「典型的な日本人の発音」で、日本人が英語を話すことに対してこれだけ厳しい意見をお持ちの方だ。きっとご自分が日本語を話す時は、「非常なアメリカ訛り」で「典型的なアメリカ人の発音」ではなく、完璧なネイティブスピーカー並みの日本語を披露してくださるのだろう。

「お国訛り」の何がいけないというのか?日本国内にだって方言があるではないか。アメリカやイギリスでもそれは同じだ。大体アメリカの南部の人達が話す英語など、同じアメリカ人でも聞き取れないことだってあるのだ。イギリスだってロンドン訛り、「コックニー」がある。自分の出身地のアクセントやイントネーションが反映されることを、なぜ「恥ずかしい」と思うのか?

国際的な場所で、日本人が日本語訛りの英語を話すことが恥ずかしい―そう思っていることのほうがよっぽど恥ずかしい。そもそも、そういう考え自体が「見栄とコンプレックス」の表れなのだ。まったく見当違いの部分で「ええかっこしい」をしたがる日本人の悪い癖。器の小ささが丸わかりだ。


「英語が話せるようになりたい」と言う人は多い。「どうしたら話せるようになるんですか?」そう聞かれたことは何回もある。ただ、長年不思議に思っていたことがあった。その中には、海外旅行先で何の不自由もないくらいの英語力がある人まで含まれていたから。

「え?だって話せるじゃないですか」と言っても、「話せるようになりたい」の一点張り。レストランで自分でオーダー出来て、買い物中に同サイズの色違いの商品はあるかどうか質問できて、現地の人と「どこから来たの?」「日本から。あなたは?」というような、ちょっとした世間話ができたら十分「英語を話す」という目的を果たしていると思うのだが―。


だが、最近ようやく分かった。日本人の「英語を話せるようになりたい」という言葉の本当の意味は「アメリカ人やイギリス人のように」ということなのだ。「ネイティブスピーカーのアクセントとイントネーションと発音で話せるようになりたい」ということ。

「ジャパニーズイングリッシュでもいいじゃないですか~」と言うと、「え~、でも~」と不服そうだ。「相手に伝われば、それでいいと思いますけどね~」「う~ん、でもやっぱり話せたほうがかっこいいし」

日本人の多くが外国語に対して抱いているコンプレックスの根っこは、ここにある。「英語を話している自分が、周りからどう見えるか、かっこよく見られているかどうか」という、「自分の意思を相手に伝えるためのもの」という、本来の目的とは完全にずれたところに軸を置いてしまっているからだ。

だから多くの日本人は、「完璧でなければ話してはいけない、完璧でなければ恥ずかしい」という間違った思い込みによる観念、「足枷」を自らはめてしまう。多くの外国人が「日本人はシャイだ」と言うのも、自分の語学力のレベルを躊躇して、黙り込んでしまうその態度からだろう。

言葉はコミュニケーション、「伝えるため」のもの。「かっこよさ」は関係ない。自分や自分の国に自信や誇りを持っていたら、お国訛りを気にすることなどない。それを隠そうとしたり、気にし過ぎたりするのは「コンプレックス」の裏返しだ。

大体英語なんて、「F 、L 、R 、V 、TH 」の発音だけきっちり押さえておいたら何とかなるものだ。あとは「リズム」。特にアメリカ英語はリズムが大事だと思う。そのあたりは関西弁とよく似ている。私が気をつけているのはこれくらいだ。

かなり大雑把だとは思うのだが、アメリカ人からは結構評判はいい。ただし、イギリス人からは「君の英語は完全なヤンキーイングリッシュ」とからかわれる。そんな時でも「通じれば何でもいいじゃ~ん」と、私は平然としている。そう、要は「通じればいい」のだ。

うまく話そうとする人ほど、自分の英語をどう思われるかを気にしている人ほど、周りの目を気にして話そうとしない。教科書の例文のように、文法も含め、すべてが完璧でないといけないと思っている。

一流大学出身や英検、TOEIC等の高得点をマークした人ほどその傾向は強い。読み書きは得意だが、会話やヒアリングが全然できないという人もかなり多い。

大体日本人が完璧なアメリカ英語やイギリス英語を話すなんて、あちらの人は全然期待していない。だから日本語訛りでも、片言でも、どんどん躊躇せずに話したらいいのだ。その「伝えよう」とする部分が一番大事なのだから。

外国の人から、片言の日本語で一生懸命話しかけられたら、文法も単語もメチャクチャで言ってることがよく分からなくても、聞いてあげようとすると思う。それと同じこと。語学の習得に「かっこよさ」なんて必要ない。


学生時代、時事英語とディベート(討論)の授業を担当していただいた先生の言葉を思い出す。その先生は、各国との首脳会議等で、歴代の日本の首相の通訳とマナー等の教育係を勤めた人だった。当時60歳くらいでいらっしゃったと思うが、アメリカ育ちの豪快な女性で、H先生という。

H先生は口癖のように言っていた。「とにかく何でもいいからしゃべりなさい!あんた達はアメリカ人でもイギリス人でもないの!間違ってたってかまわないから、しゃべりなさい!相手に伝えなさい!恥ずかしいと思う気持ちを捨てなさい!」


麻生氏の件のスピーチの様子をニュースで見たが、悪い印象はなかった。声質でちょっと損をしている気はしたが、ホスピタリティーに溢れたものだったと思う。まあ異例ではあると思うが、通訳が間に入る従来のやり方より、首相自らが―という今回のスタイルは、相手には断然好感度が高いはずだ。

訛りがどうこうとか、発音がなんたらとか、口うるさい小姑根性丸出しで、重箱の隅を突っつくようなことしか言えないのだろうか。

「あまりにもフォーマルで硬い表現の英語です(シュライバー氏)」あのスピーチをした席は、十分「フォーマルな場」だったと思うのだが。

H先生が言っていた。「変なスラングを使って悦に入っているより、多少堅苦しくても丁寧な表現や言葉を使っていれば間違いないんです!くだけた言葉より丁寧な言葉を使うこと!」


カンチガイ外人の言葉を真に受けた挙げ句、自分のコンプレックスを露呈した記者氏―果たして「恥ずかしい」のはどちらだろうか。


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清水由貴子さんの死について思うこと

 2009-04-23
【タレント 清水由貴子さんが自殺か・・・父親の墓前で】
 
21日午後1時20分頃、静岡県小山町大御神の霊園に女性が倒れているのを霊園職員が見つけた。御殿場署が調べたところ、女性は死亡しており、近くで車いすの女性が意識を失っていた。

同署幹部によると、死亡したのはタレントの清水由貴子さん(49)(東京都武蔵野市)。清水さんは父親の墓前でポリ袋に顔を入れて倒れており、袋から硫化水素が検出された。袋の中にはバケツと洗剤容器などがあり、所持品から遺書らしいメモも見つかった。同署は、自殺を図ったとみて調べている。車いすの女性は母親で、生命に別条はないという。

所属していた芸能事務所によると、清水さんは1976年に日本テレビ系の「スター誕生!」のグランドチャンピオンとなり、77年に「お元気ですか」で歌手デビュー。萩本欽一さんの番組などに出演した。06年3月、「母の看病に疲れ、いい仕事ができない」として事務所を辞めた。

(2009年4月21日21時15分 読売新聞)




清水由貴子さんの死に対しての、連日のマスコミ報道を見ていると虚しくなる。原因究明と、彼女を自死に追いやった「犯人探し」に終始するばかりの内容。「母親の介護疲れか?」「介護に伴う鬱が原因か?」「国の政策が悪いせいだ」「『○○ファミリー』の一員だったのに、どうして助けてやらなかったんだ」

私を含め、たぶん多くの自死遺族はこう思っている。「真実は亡くなった本人にしかわからない」と。後に残された者達がいくら議論をしても、それは結局「推測」の域を出ることはない。死の真相は永遠に解明されることはないのだ。

明るくて、朗らかで、真面目で責任感が強くて、一生懸命で―。「自死」という言葉とは、まったく無縁に思えるような彼女がそれを選択したということで、世の中の多くの人は改めて認識したと思う。自死を選ぶのは、「弱い人」でも「甘えている人」でも「無責任な人」でもないのだということを。


自死は誰にでも、どんな人にも起こりうる可能性のあるものなのだ。自分でも、周りの人達も「絶対にそんなことはしない、あるはずがない」と思っている人でも、それは同じ。人間の心というものは、常に形を変えていくものだ。何がきっかけで変化するか分からない。

自死に至る確率はかなり高い。自死を選ぶか、選ばないか―2つに1つ。50%の確率。そして自分が自死遺族になる確率も同じ数だけあるのだ。ニュースやドラマの中だけの「他人事」の話ではなく、それだけ身近にあるもの。「当事者」や「遺族」になり得る可能性は、どんな人にも必ず50%は存在する。

彼女の死の原因であると言われている「介護疲れ」。だが、理由はこれだけではないと思う。自死の原因は決して一つではない。多くの要因が複雑に絡み合っている。今回一番の原因として報道されている「介護疲れ」は、あくまでも「その中の一つ」。簡単に「これが原因だ」と、一つに絞れるものではないのだ。そして真相は、当事者である故人にしか分からない。

「相談できる人がいなかったせいでは?」という意見も多い。確かに自分の心の内を明かすことのできる存在がいるということは助けになるかもしれない。だが、本当に悩んでいる人、その悩みが深ければ深いほど、人は誰かにそれを打ち明けるということができなくなるものだ。

「何か悩んでいるんじゃないの?何でも話してみて!」と、相手が善意で言ってくれたとしても、自分から話したいと思った時以外は、かえって自分の前に立ちはだかられたような圧迫感を覚えて、人は何も言えなくなる。相手の厚意を無にしたくなくて、ある程度まで話すことはあるが、それは必ずしもすべてではない。自分の抱えているものが深くて重いほど、人はそれを隠そうとする。

本気で死を考えている人は誰にも止められない。本気で死のうと思ったら、人はドアノブ1個、ヘアピン1本あったら死ねるのだ。24時間監視カメラがついて、飛び降りるための窓も、首を吊るための紐や場所もない、そういった危険性のある物が一切排除された部屋で自死を遂げた例もある。

自死の決意を感じた家族や友人が付き添って、そばを離れないようにしていても、わずかな隙をついて目的を遂げた人もいる。「そんなことを考えた自分が馬鹿だった。もうそんなことは絶対にしないから安心して。大丈夫だから」と、以前の快活さや様子をすっかり取り戻したように見えて、周りも安堵した矢先に逝った場合もあるのだ。


自死というものは、単純に「良い、悪い」で決められるものではないと思う。「どうして自殺はいけないのか?」母が亡くなって以来、私はそれに答えられない。「与えられた命を粗末にしてはいけない」「生きたくても生きられない人がいるのに、自分で死ぬなんて許せない」多くの人がそう言う。確かにそうかもしれない。しかし、未だ私が心から納得する答えは見つからない。


自死を選ぶ人というのは、もうその時点で疲れ果てているのだと思う。疲れ切って、もう「死」しか行き場がない、それしか残っていないという極限の状態になるのだと。周りから見たら、「そんなことで?」と思うようなことでも、本人からしてみたら切実な問題なのだ。そしてそれは本人にしかわからない。

自分には理解し難い理由で誰かが自死を選んだ時、「許せない」という感情を抱く人がいる。特に難病を抱えて、常に死と隣り合わせで生きているような状態にある人から見たら当然だと思う。

しかし、理解しなくてもいいから、「認知」してほしい。人にはそれぞれ「事情」というものがあるということを。そこに至るまでに、その人には計り知れないくらいの苦悩や悲しみを自死者が抱えていたことを。人の痛みは自分の物差しでは計れない。「許せない」と思うのは、そこに自分の物差し、エゴがあるからだ。

私は自死者を非難できない。年月が経つほどに、自ら命を絶った母の背景にあるものがよく見えてくるようになったから。でも、それは「自死容認」ということとも違う。ただ「あれが母の選択だった」と、ある種淡々として思うようになった。いいとか悪いとか、許せないとか、悲しいとか―そういった感情もなく、「事実」として受け止める自分がいる。

軽々しく命を考える人など、誰もいない。だからこそ、自分で命を絶つということを選ばざるを得なかった自死者が、どれだけ追い詰められていたか、その苦悩がわかる。

今はただ、清水由貴子さんが安らかであるように・・・と願うだけだ。彼女が、死によって得たいと願っていたものが手に入っていますように。すべての苦悩や痛みから解放されていますように。そして、ご遺族の皆さんが、笑顔で清水さんを思い出して語れる時が一日も早く来ますように・・・。



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タラレバ夢想

 2009-04-21
過去に起こったことや、現在自分が置かれている状況に対して、「もしあの時~だったら」「もし今~であれば」と、「たられば」を駆使した想像を巡らす人がいる。

「もしあの時~していれば、もっと違う展開になっていたかもしれない」「もし今自分に~があれば、もっと満足できる状況になっているかもしれない」想像は果てしなく続く。

そこにあるのは「後悔」ばかりだ。「それをしなかった自分」「それを手に入れなかった自分」に対する落胆と悔しさ、そして、もし違う選択をしていれば手に入れたかもしれない「(多分)幸せと満足に溢れた充実しているであろう、今とは違う状況」に対する羨望―そういったもので、その「後悔」は成り立っている。

しかし安心してほしい。なぜなら今思い描いている状況は、もし「あの時」、万が一の「たられば」が起こったとしても決して実現することはなかったはずだ。仮に違う選択をしたとしても、結局今とまったく変わらない状況、もしくは大差ない状況になっているはず。

なぜなら「たられば」は、現実にはあり得るはずのない、あてもない、根拠のない「夢想」と、そこからは何も生まれない「後悔」の産物でしかないからだ。実体のない幻、幻想だから。

現実にないことを、さもそれが存在するかのように感じ、考えるということは、それに囚われているから。「時間を巻き戻してやり直したい」という、実現不可能なことに、ずっとしがみついているが故だ。

いわば過去に生きている。時がそこで止まっている状態。しかし、それを止めているのは自分自身なのだ。そこから離れようとしない自分のせい。

「想像」と「夢想」はまったく違う。「想像」は「後悔」を伴わない。そして「想像」は、未来へと繋がっていく。

後悔から生まれた「夢想」は、すべてを過去に引き戻す。過ぎてしまったことを、あれこれ仮説を立てて、その実現の可能性の有無を証明しようとしているだけだ。


「たられば」にしがみつく人は、多分「証明したい」のだと思う。「自分にも可能性があった」ということを。「自分は、そういった可能性もあり得る有望な人間だった」ということを。今の自分ではそれが証明できない―だから過去の、存在したかもしれない、実体のない可能性にしがみつく。

そもそも、今誇れるものがあるなら、今の自分を誇らしいと思えるなら、「たられば」という言葉は出てこない。

「それじゃ、今度同じような状況になったら絶対にこうしよう」と、次に繋がる「反省」はいくらでもしていい。しかし後悔からは何も生まれない。

「たられば」で自分を語ったり、「たられば」ベースの夢想をしていることに気づいたら、それは「今現在を生きろ」というサイン。

過去に囚われず、拘らず、現在を生きる。そして理解するのだ。「今どんな状況にあろうと、あの時自分が選択した道、ここに至ることになった道を選んだことは決して間違いではないのだ」ということを。

「間違った道」「間違った選択」そんなものは存在しない。自分が今いる状況、自分が下した選択は「すべて正しい」のだから。


テーブルの上にこぼれたミルクは戻らない。こぼしたことを嘆くより、こぼしたその後をどうするか―。
「その後=未来」のために「想像力」は使うものだ。戻らない過去を嘆くために使うより、未来を考えるために使うほうが断然楽しいに決まっている。

「たられば」で築き上げた「ひょっとしたらそうなっていたかもしれない別の人生」なんて、「脳内限定」のものでしかない。所詮「バーチャルはバーチャル」。


今を生きるか、過去にしがみつくか―すべては自分の選択次第なのだ。











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口弁慶

 2009-04-19
自己啓発やスピリチュアルの分野に興味のある人、実際にセミナーを受講したり書籍を読む機会が多い人は、喋ることだけ達者で、行動の伴わない「口弁慶」になる傾向が強い。

セミナーや書籍で謳われている方法や理屈、アファメーションの言葉が、頭の中にどんどん蓄積されていく。会話の中にも「手放す」「受け入れる」「許す」「気づき」「愛」「光」そういった「業界用語」がバンバン出てくる。

しかし、熱く語る言葉の壮大さとは裏腹に、その実情は「お粗末」なことが多い。そういった言葉をよく口にする割には、全然手放してなかったり、全然受け入れてなかったりする。「こういう気づきを得たんです!」と感動、興奮している割には、自分が得たその「気づき」とやらを、考えや行動に反映させようとする気配が一向に感じられない。

知識を詰め込むだけ、「知るだけ」で満足してしまうタイプ。「それを知ること、口にすること=理解すること」だという大きな勘違いをしている。だから「理解」というものの必ず先にあるもの、必ず対になっている「行動」というものがまったく伴わない。だから「語るだけで終わる」のだ。


ヒプノセラピーでもカウンセリングでも、2回目、3回目・・・と受けにいらっしゃる「リピーター」の人達のその部分を、私はまずチェックする。数週間前、数ヶ月前、数年前・・・人によって、前回お会いした時の間隔は違う。「わあ~!お久しぶりですね~!」という人から、「あら、いらっしゃい。今日もお仕事の帰りですか?」という人までそれぞれだ。

だが、日付上の間隔の長さは、実はあまり関係ない。つい最近セッションを受けたばかりで日が浅い人であっても、本当にその人が「真の理解」を得たのであれば、何らかの「変化」というものは必ず表れているものなのだ。

表情、声、言葉、立ち居振る舞い―目に見える部分にも、その変化は表れる。本人は気づいていないことがほとんどだ。しかし、玄関で迎えた瞬間に、それはもう一目瞭然だ。その人の発しているもの、「気」とでも言うのだろうか、それが前回とはまったく違うものになっている。

何というか、「いい感じ」なのだ。「元気そう」とか、そういった表面上のことだけでない何か。「すべて」が良い感じに調和している。たとえ多くを語らずとも、その人が、前回受け取ったものをきちんと自分の日々の行動や考え方に反映させているかどうかは、少ない言葉の中にもきちんと表れる。

「行動を起こしたか、起こしていないか」そこにすべては集約される。いくら熱心に語ったとしても、前回と何も変わってなければ、それは口先ばっかりの口弁慶。セッションを受けることや、受けた回数を「拠りどころ」にしているだけだ。いわゆる「依存」。セミナージプシー、セッションジプシーの典型的な特徴でもある。

自分が行動を起こさないことに対する「言い訳」に終始することも多い。尤もらしい事を言っているように聞こえても、結局屁理屈や自己弁護の域を出ていない。


理解は行動で示すもの。達者な言葉、雄弁さは必要ない。自分が口にする言葉の響きに酔って、理解した気になっているうちは、それは「真の理解」ではないと思ったほうがいい。頭の中で「知識」を捏ね繰り回しているだけでは何も変わらない。

大切なのは「知ること」でなく、「知ったことを活用していくこと」なのだ。知識を知恵にすること。そして、そうしていこうとする心構えと姿勢。それが本当の理解というものだ。

自己啓発やスピ系セミナーや関連本、受講したり読んだりしている割には「何も変わっていない」と感じるのなら、つまりはそういうことなのだと思う。自分と同類の、その他の口弁慶達と「烏合の衆」集団を形成して、そこでお互いを慰め合ったり、安心感を得たり、そんな生ぬるい「ごっこ遊び」を拠りどころにしているうちは、真の理解には到達できない。


行動を起こした人、本当の理解というものを得た人は、どんどん変わっていく。本人もその速度に、自分で驚くくらいだ。でもそれは「当たり前のこと」なのだ。理解と行動の法則に則った自然な流れ。

口弁慶が熱く語っても、そこには違和感だけしか残らない。いくら素晴らしいものを得たと吹聴しても、それを生そうとする「本気」がなければ何もならない。宝の持ち腐れ。

「気づき」だの「啓示」だの、大袈裟な言葉で語ろうとするほど、それは真実、理解からかけ離れていくことに気づくべきだ。

「飾るな、語るな、騒ぎ立てるな、そして黙って行動に移せ」真実、理解に至る道のりは、思っているよりもずっとシンプルなものなのだ。



【追記】今回のエントリーの内容と、どこか関連するものを感じるので、引用した記事を掲載しておきます。


「鶴の恩返し勉強法と瞬間集中法」 

勉強を始めようとする時に、「時計の長い針が12のところに来たら」と先延ばしにしたり、「机を片づけてから」とか、「この漫画を読み終わってから」と条件を付けたりしていると、実際に勉強を開始する時間がどんどん遅れてしまう。

そのようにしてさぼっていると、「やっぱり私はダメなんだ」と自己嫌悪の気持ちがわき起こってきて、ますます勉強に集中するのが遅れてしまう。
 
思い立ったら、瞬時に始める。「時計の長い針が12のところに来たら」などと悠長なことを言っているのではなく、とにかく「一秒後」にはもう勉強を開始して、一心に集中する。どんな状況でも、すぐに「鶴の恩返し」の「つう」のような一心不乱な気持ちになることができるようになれば、もうその人は勉強の達人である。

(ヨミウリ・ウィークリー 2008年7月20日号 茂木健一郎「脳から始まる」第111回より抜粋)





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瞑想の形

 2009-04-14
【悟り・覚り】
①理解すること。知ること。また、気づくこと。感づくこと。察知。
②(仏)まよいが解けて真理を会得すること。(広辞苑より)



目を閉じて座り、心静かに神に祈ったり、心を一点に集中し、「無」の境地になる―これだけが瞑想の方法ではない。わざわざお寺に行って座禅を組んだり、そういった時間を生活の中に特に設けなくても、「悟り」は得られる。

瞑想とか、座禅とか、そういった「目で見える形、形式」に囚われ過ぎる人を見ていると、ただの「自己満足」の域を出ていないような気がする。「儀式化」することによって、安心や満足感といったものを得ているだけのような気がしてならない。

精神世界に関わっている人や興味を持っている人を見ていると、瞑想を日常に取り入れていることが多い。しかし、その大半が、瞑想で得られると言われている「雑念のない澄み切った意識」や「あるがままの真の自由」や「一切の迷いのない、明鏡止水の心境」に一向に到達できていないように見えるのはなぜだろうか?

精神世界の要素がいくらか含まれている仕事をしている割には、私は瞑想といったものは一切やらない。「しよう」とも「したい」とも思わない。

先日、何かの拍子に「この前最後に瞑想したのはいつだっけ?」と思い出そうとしたのだが、まったく思い出せない。何のことはない。やってないことを思い出せるわけがない。それくらい無関心なのだ。

しかし、瞑想を否定しているわけではない。催眠状態と瞑想状態の時の脳波はまったく同じものだ。ヒプノセラピーのセッションにおいても、やはり普段から瞑想の習慣のある人は、催眠状態にも容易に、スムーズに入っていくことが多い。リラックス効果もあるし、精神統一や集中力の向上にも良い。やりたい人は活用したらいいと思う。

だが、瞑想という儀式の「参加者」であることによって得られる自己満足や特別意識、安心と拠りどころを求めるための、「勘違い」の動機で実行している人を見ると、違和感を覚える。そして思う。「そんなヒマがあったら部屋の掃除でもしたほうがいいよ」

「瞑想に依存している人達」に多く見られる傾向は、「何事も考え過ぎる」ことだと思う。もともと「考えることが好き」という人が多いので、集中して長時間考え続けたりすることが苦にならない。だが実は、そこが大きな「落とし穴」でもある。

考えるのが好きで、苦にならない―それ故に「思考の無限ループ」に陥る。「発想の転換」というものがそこにあればいいのだが、なぜか「瞑想に対する依存度が高い人」は、同じ観点から同じ事を延々と考え続けるタイプの人が多い。

自分の方法や考え方を変えたり、物事を別の視点から観てみようという意識や発想が欠けている上、妙な拘りや頑固さを持っている。それが邪魔をして、結局、瞑想しても何も変わり映えしない―という結果になる。何のことはない。手放すべきもの、不要なものを、頑なに持ち続けているからだ。

そういった場合、瞑想で何か新しい考えや答えを得たとしても、それを全部自分で握りつぶしてしまう。長い間馴染んできた古い考えや感情を優先してしまうためだ。そしてそれは、自分の魂の答えである「直観」を信じていない、自分自身を信じていない―ということでもある。

そんな状態で瞑想に臨んでも、何もならない。結局堂々巡りの無限ループを繰り返すのであれば、部屋の掃除でもしたほうがよっぽどいい。部屋も綺麗になるし、自分も気分が良い。一石二鳥だ。

儀式や形に拘る必要はないのだ。日々の暮らしの中に気づきの機会は多くあるのだから。わざわざ時間を作って静かに座って目を閉じて―ということをするより、今自分がいる場所で、今自分ができること、やるべきことを一生懸命集中してやっていたら、それは既に「瞑想」なのだ。瞑想の別の形。瞑想の形や方法は一つではない。

例えば看護師の仕事をしている人なら、重傷の患者に何時間も集中して付き添いながら、自分ができることを最大限に行い、心からその人の回復を祈り、見守る。営業マンなら、商談の席で「どうしたら得意先の要望に最大限に応えることができるか?」と一生懸命話を聞き、知恵を絞る。喫茶店を経営している人なら、世界で一番美味しいコーヒーを出すために、その一杯に精魂を込める―もうそのこと自体が「瞑想」なのだ。

毎日瞑想の時間を取っているとしても、一番肝心な部分、日常の「今ここ」が抜けていたら何もならない。何でもない普段の日常、その中にこそ「核」がある。

上っ面だけのスピリチュアルは、いつも「特別」を謳う。儀式化や呪文化、選民思想を煽るセミナーや書籍―そんなものは「贋物」だ。そういったものに踊らされての儀式化された「瞑想パフォーマンス」ならやらないほうがいい。「禅病」になるのが関の山だ。

日々の生活の中で、今自分がいる場所で、今自分がやるべきこと、今自分の目の前にいる人に100%の意識を集中して一生懸命に向かい合う―それが本来の瞑想の形。「一所懸命」の精神―それで十分だ。そこで感じたもの、得たものが、自分にとっての「悟り」の一歩になるのだから。






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木を見て森を見ず

 2009-04-13
例えば今ここに、目の前に100本の木があるとする。私はその100本を全部触ってみたい。1~2本触って「これが木というものだ」と思い込むことはしたくない。同じように見えるとしても、幹の手触り、太さ、枝についている葉の形や色は、それぞれの木ごとに微妙に異なる。1本として「同じ木」など存在しないのだから。

100本全部触ったとしても、「これが木というものだ」と断言したくない。今自分が触った100本の他にも、この地球上にはまだ無数の、私の知らない木が存在するのだから。

地球上の木を全部触ったとしても、「これが木というものだ」とは決めつけたくない。「木ってこういうものなのかな?」という「可能性」を残しておきたい。「木って何だろう?」その存在に対しての興味をそこで終わらせてしまいたくない。


今自分の中にある想像力は「十分でない」ことを知るべきだ。今想像できることが、その対象のすべてを物語っているわけではないのだ。今見えていること、今知っていることだけで、わずかな情報だけでそれを判断し、決めつけ、それ以上のものを見い出そうとしない姿勢は、「想像力の欠如」の表れだ。

少ない事例や経験だけで、まだ未知の部分、残りの部分まで「きっとこうに違いない、そうに決まっている」と見もしない、触れもしないというのは、意固地さでもあると思う。結局意地を張っているだけだ。「自分が正しい」という前提でしか物事を見ていないということ。

そのつまらないプライドは、すべての可能性を途切れさせる。結局自分自身で、自分の前に広がっている可能性を断ち切っているのだ。

どんなことも、どんな人も、自分がその対象を100%理解、把握できることはない。今自分に見えているもの、その物事や人物に対してイメージできることは、全体のほんの一部に過ぎない。そのわずかな部分だけを見て、すべてを理解したつもりになっているのは愚の骨頂だ。単なる驕り。

「すべてのものに謙虚であれ」自分以外の者や物事に対して、常にそうありたいと思うのだ。素直に、相手やその物事のすべてを観る。自分のちっぽけな想像力が下す判断、先入観など必要ない。「知った気になっている」その驕りの姿勢が、心の目を曇らせる。

常に知ろうとする姿勢、新たな面を見い出そうとする姿勢が、結果、すべての存在の根底に流れる「大きな何か」に繋がっていくのだと思う。そして、その姿勢こそが、人としてのレゾンデートル、存在理由の一つでもあると思うのだ。


自分が隅から隅まで知り尽くした森の奥深くで、ある日1本の木が倒れたとする。その木が倒れる音を聞いた時、多分私は森の奥へと向かう。どの木が倒れたのか、どちらの方向に倒れたのか、どんなふうに倒れたのか、枝や葉はどうなっているのか―その倒れた1本の木を確かめるために。





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エナジーヴァンパイア

 2009-04-12
自分の中のエネルギーが低下している時、欠乏感や孤独感を感じる時、周りの人や物、場所からその不足分を補おうとする人がいる。パワースポット、ヒーリングスポット巡りや、パワーグッズ収集はもちろんのこと、友人知人問わず「元気な人、強い人」と繋がろうとする。

自覚がある人もいれば、そうでない人もいる。どちらにしてもその対象からエネルギーや何がしかのパワーを吸い取っていることには変わりない。吸血鬼、ヴァンパイアのようなものだ。

悪気があろうとなかろうと、自分の中に、何か「欠如しているもの」がある時にそれを求めようとするのは、実は「自分のことしか考えてない」ということの表れでもある。

「パワーを分けてもらおうと思って」「癒されたい」一見謙(へりくだ)っているニュアンスがある。しかしそこにあるのは、ただの「自分勝手さ」だけだ。「早く足らないものを埋めなくちゃ」という焦り。ヴァンパイアが人間の血を求めるのとまったく変わらない。

「パワーをもらう」「癒してもらう」と、自分が「してもらう」こと、取ること(take)しか考えてない。そして、もらうだけもらっておいて、自分からは何も返さない。返すこと、与えること、「give」が完全に抜け落ちている。

「パワーをもらった」「癒してもらった」その「感謝」の中の大半は、対象に対するものではない。自分の足らないもの、欲しかったものを得られたことに対する「満足感」に対して向けられている。「私の欲求を満たしてくれてありがとう」というのが本当のところだ。

「たまには相手にも返せば?」と思う。人や物、場所、そこからエネルギーをもらったり、癒してもらったのであれば、どうして「お返し」しようとしないのか?「よかった、よかった。元気になった。癒された」と機嫌良くなるのは結構だ。しかし、それで終わるのは完全な「taker(取ってばかりの人)」。

自分が元気になった分、ほんの少しだけだとしても、どうして「お返し」をしようとしないのか?アニメの「ドラゴンボール」ではないが、「お陰で元気になりました。小さい元気玉だけど、お礼に置いていきますね」と、どうして考えないのか?

自分の中の「古いエネルギー」とやら言うものや、ネガティブな思いとか、憑いていたものとか、その他諸々の「自分が要らないもの」を、一方的に、全部相手に押し付けているだけではないか。何というか、ものすごい自分勝手だと思う。

自分は気分が軽くなったり、元気が出たり、万々歳かもしれない。しかし「要らないもの」を押し付けられたり、置いていかれたりした側はたまったものではない。その分こちらが疲れたり、汚れたり、重くなったりするのだから。人でも物でも場所でもそれは変わらない。

「あそこに行くとパワーをもらえる」「あれを持つと癒される」「あの人と会うと元気になる」どれもこれも、それは「自分が取っている、奪っている」ということでもあるのだ。

どんな世界にも「仁義」というものが存在するのだ。「取ったら与える、与えたら取る」のギブアンドテイク。それが「道理」というものであり、必要な「けじめ」。それが欠けている人があまりにも多過ぎる。大体、「エネルギーを自分の外からもらう、補充する」というその意識からして既におかしい。

エネルギーは自分で作っていくものだ。自家発電のように、自分自身の「内部」で作っていくもの。「エネルギーが落ちている、今エネルギーが低い」という人達に限って、実はそのエネルギーを全然使っていない。「本当のエネルギー」は、使えば使うほど出てくるものだ。

「落ちている」「低くなった」「減った」と感じるのは、それが「本物」ではなかったということだ。自分以外のものから吸い取っていたものを、ただ使っていただけだから。ヴァンパイヤと同じ。自分の体の中にあるエネルギーが無くなる度に、それを補充できる「獲物」を求め探していただけだからだ。

エネルギーは自分で作り出すもの―そこに気づかなければ、パワースポット巡り、パワーグッズ集め、相談という名の愚痴をぶつける相手、「獲物」を探し求める日々は永遠に続くことになる。べつに神社仏閣に行かなくても、パワーストーンのアクセサリーをじゃらじゃら身につけなくても、誰かに心の内を明かさなくても、エネルギーは湧いてくる。

「エネルギーをもらう」「癒してもらう」自分の中にある、その「受け身」の意識を捨てた時、その本質を知るだろう。今自分が足らないと思っているものは、もう既に自分の中にあるのだ。






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トンボと繋がる阿房のナントカ

 2009-04-11
 東京都下水道局が昨年、制服に付ける都のシンボルマークを添えたワッペンを2万枚作製したところ、シンボルマーク使用に関する内規に反したとしてこれを使わず、新たに約3400万円をかけて、ワッペンを作り直していたことがわかった。

 デザインは組織名の下に5センチ余の波線を付けたシンプルなものだったが、この責任を問い、都は担当幹部2人を訓告処分にしていた。内規を杓子(しゃくし)定規に解釈した「お役所仕事」の典型とみられ、公費の支出の在り方に批判が集まりそうだ。

 都下水道局では、所属する計約3000人の職員用に、予備を含めて計約2万着の制服を作っているが、1978年から同じデザインだったため一新することにし、右胸に付けるワッペンも新たに作ることにした。

 ワッペン(縦2・5センチ、横8・5センチ)はシリコン製で、イチョウ形をした都シンボルマークの横に局名を記し、「水をきれいにするイメージを出したい」との願いを込め、その下に水色の波線(約5センチ)を添えることにした。職員が考案したものだった。

 ところが、約2万枚のワッペンが完成し、一部は制服への縫い付け作業が始まった昨年11月に開いた局内の会議で、ワッペンのデザインが、シンボルマークの取り扱いについて定めた都の内規「基本デザインマニュアル」に抵触する疑いが浮上。内規には、マークの位置や文字との比率などが細かく記載されており、誤った使用例として「他の要素を加えない」と規定。同局では今回、この規定を厳格に解釈したという。

 ただ、この規定は例外も認めているが、同局では、波線部分を取り除いて作り直すことを決定。制服を含めた費用は当初、約2億1300万円だったが、新しいワッペンの作製費と縫い替えの費用として、約3400万円を追加支出した。

 都は今年3月、最初のワッペンのデザインを決めた担当の部長と課長(いずれも当時)を訓告処分とした。今月から制服を一新したことは発表したが、ワッペン作り直しに関する一連の事実は公表していない。

 下水道局は「事前に規定を見ていれば防げたもので、担当者のミス。多額の費用負担を生じさせて申し訳ない。次のデザイン更新は何年先になるかわからず、それまで誤ったワッペンを続けることはできなかった」と説明している。

(4月10日付 読売新聞記事より)




やはり公務員の意識というものは、一般社会のそれと、かなりかけ離れているのだと思う。民間企業では、まず「絶対にあり得ないこと」が罷り通る。

お金が湯水のように湧いてきて、使い道に困るくらい有り余っている状態なら未だしも、この不況の時代に、ワッペンの作り直しに3400万円・・・なんというか、怒りを通り越して呆れるしかない。石原都知事が「バカじゃねぇかほんとに」と激怒したというが、まったくもって同感だ。

「事前に規定を確認していれば防げたもの」というコメントも、「今更何言ってんだ」という感じ。どんな仕事においても、「事前の確認」は当たり前のこと。いわば「基本中の基本」だ。注意するとかされるとかの前に、そんなことは個人レベルで身についているのが「普通」。そもそも既にその最初の段階から「おかしい」のだ。

大体、制服への縫い付け作業が始まった後の会議で、初めてデザインが規定に抵触している疑惑が浮上―ということも「あり得ない」。「チェック機関」は存在しなかったのだろうか?2億もの予算が動くプロジェクトにしては、あまりにもお粗末な仕事ぶりだと思う。

20代の頃に勤務していた電気機器メーカーでは、「プレスリリース」というものがあった。自社製品を発表する際、新聞雑誌等マスコミに向けて配布する資料。製品の写真にはじまり、機能等、製品についての詳細な情報が記載されている。

宣伝部の担当者が作成したそのプレスリリースが、社長の承認を得て正式にマスコミ発表されるまでに、各関係部署の本部長や最高責任者5~6人の承認印が必要だった。担当者レベルだけでも、正式発行までのチェックに関わる人数は常に10人前後はいたと思う。

作成した内容はそのままメディアに流れる。同時に数億、数十億の金額が動く。間違いがあってはならないのだ。

やはり民間企業と違って、そのあたりの「緊張感」というものが欠如しているような気がする。勤めている会社の経営状況や売り上げといったものが、直接自分の給与や生活に影響するという部分が少ないせいかもしれない。「公務員」という安全な枠で守られているが故の緩みだろう。「所詮他人のお金」という意識で税金を捉えているから、こういった軽々しい、考え無しの使い方ができるのだと思う。

担当者は訓告処分らしいが、民間企業で同様のことが起こった場合は、減給・停職レベルだ。今回のワッペンの失敗は公表せずに伏せられていたとか、事前の規定の確認を怠った為のミスとか、杓子定規のお役所判断に基づいてのやり直しと追加支出とか、すべてにおいて「幼稚さ」を感じるのは私だけだろうか。石原都知事ではないが、「バカじゃないの?」と言いたくもなる。

過去何十年にも渡って行われてきたであろう「おバカ」な仕事っぷりと、ゆる~いお役所体質―その積み重ねが生んだのが今の状況。まあ因果の法則には適っているが。

しかしまあ、呆れるというか、腹立だしいというか・・・おまけに、たかがワッペンに数千万円をつぎ込むその感覚・・・やっぱり「阿房の鼻毛」は長いことに変わりないようだ。まったく実にくだらない。


「阿房の鼻毛で蜻蛉をつなぐ」

この上もなく愚かなこと。
阿房の鼻毛は蜻蛉(とんぼ)を繋げるほどに長いという意味から。(広辞苑より)





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自然体

 2009-04-10
「作った笑顔」は必ずばれる。「笑っていなくちゃ」そう思って作る笑顔は痛々しい。その裏に潜む「笑っていなければならない」という必死さは、いくら本人が隠しているつもりでも、周りには全部伝わっている。

その笑顔が「本物」でないということ、その人の心の深い部分から自然に発生したものでなく、無理矢理に、意図的に作り上げたものだということを、相手は一瞬で感じ取る。

その人の笑顔の大きさと、自分がその人から感じ取ったもの、その「笑顔の裏に潜むもの」のギャップが大きければ大きいほど、人は相手を「警戒」する。「そこまでして、無理をしてまで必死に笑顔で隠そうとしているものは何?」その人の抱えている「闇」の深さを無意識で感じるが故だ。

人間も所詮動物。そういった、相手が発している「気」には敏感だ。ピンと一瞬で感じるもの、「直観」から来るもの、それは「真実」を正確に突く。無意識の力を侮ってはならない。

「笑っていなくちゃいけない」と思っている健気な天使が放つその毒、それに反応した人々は、激しく五感を刺激される。痛々しさや鬱陶しさ、苛立ち、警戒―自分の中に存在する「毒」が、それに似ているほど反応は激しくなる。気にならない人には気にならない。しかし、気にならなくても「わかってしまう」。

水や空気のように無味無臭だが、実は有毒―わざと作った笑顔には、そんな毒が潜んでいる。天使の毒。作った無邪気さは有害なのだ。自分にその気がまったくないとしても、知らないところでその毒は発動している。

笑わなくてもいいのだ、笑いたくなければ。心がついてこない笑顔は仮面に等しい。

笑えない時は、礼節ある真摯な態度で相手と向き合えばいい。笑顔だけが好意や共感を示す唯一の方法ではないのだから。

今の自分の心の状態のあるがままに、素直に立っていたらいい。構えることなく、ごく自然に。無理に作った笑顔の仮面で向き合えば、相手も仮面を外さない。

自然でいいのだ。自然体で―。あるがままで―。










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5月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-04-10
5月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 5月10(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 5月7日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

 2009-04-07
すべての自死遺族に、同じ自死遺族の一人として言いたいことがある。それは「あなたはちっとも悪くない。あの人が自ら命を絶ったのは、あなたの責任ではない」ということだ。そして、多分、「誰も悪くない」。自死を選んだあの人も含めて―。

今心の中に、逝ってしまったあの人に対して抑えきれないほどの怒りや憎しみを抱いているとしても、彼や彼女の選択した行為を恥じる気持ちがあったとしても、それを無理に打ち消そうとする必要はない。

「こんなふうに思うなんて、自分はなんて冷たい人間なのだろう」今あなたはそう思っているかもしれない。あの人が死を考えていることにも気づかず、何の手立ても講じることができなかった無力な自分。それなのに、こんなことを思っている―死者を鞭打つような自分に対する罪悪感で押しつぶされそうになっているかもしれない。そして途轍もなく深い後悔の気持ちと。

だが、今あなたの中にあるその感情は「極めて当たり前のもの」なのだ。すべての自死遺族が経験するものであり、経験してきたもの。今自分の中にある感情の波、次々と湧き上がり、そして一瞬のうちに変化する、その目まぐるしい心の動きは「当たり前のもの」だ。残された者達が皆経験する「普通の状態」。あなたが狂っているわけではないのだ。

「自分も死んでしまいたい」と、絶望に打ちひしがれている人もいるかもしれない。多くの自死遺族が同様の思いを抱く。そんなふうに心が揺れるのは、あなただけではない。そう思うのは、それだけあの人を愛していた証拠。

今、世界が終わったように感じているとしても、この先自分の人生に、楽しいと思えることや嬉しいと思えることが二度と訪れないような気がしていても、あなたは復活する。以前と同じように笑ったり喜んだりすることができるようになる時が、必ずまたやって来る。

確信と共に言う。あなたは大丈夫だ。絶対に大丈夫。なぜならここに、「あの時」から20年経って「大丈夫になった」人間がいる。


「You'll be OK(あなたは大丈夫。きっと乗り越えられる)」20年前、母を亡くしてまだ間もない時、アメリカで、同じ痛みを持つ人にそう言われた。彼女は16歳の時、父親を猟銃自殺で亡くしている。

しかし、正直何年もの間、素直にその言葉を信じることができなかった。「本当に?本当にそうなれるのだろうか?」それほど私の受けた衝撃と傷は、大きくて深いものだった。

四六時中、母のことが頭から離れない。一瞬の内に目まぐるしく変化する感情、自分の意思とは無関係に、不意に湧き上がる涙、数々のフラッシュバック―。まるで、永遠に降りることができないジェットコースターに乗っているかのようだった。感情のアップダウンの激しさに、心身共に疲れ果てた時もあった。

「いつまでこの地獄が続くのか?いつになったらこの地獄から解放されるのか?」その闇のあまりの暗さに、深い絶望を感じることもあった。


だが信じてほしい。「夜明け」は必ず訪れる。あの人のことを、懐かしさと愛情を持って話せる時は必ずまたやって来る。穏やかに、深い理解と共に、「あの人の選択」を受け入れることができるようになった自分を、あなたは発見するだろう。その時は、静かに、優しく訪れる。

怒りも、悲しみも、動揺も、絶望も、恨みも、無力さも、罪悪感も、今は感じていていいのだ。それは、あなたが回復するための「正常なプログラム」に組み込まれていることなのだから。心の中にそういった感情が存在するということは、あなたが回復のための正しいプロセスにいるということ。

あなたは悪くない。あなたには、あの人の死に対する何の責任も落ち度もない。あなたは「罪人」ではない。

あなたの人生は終わってはいない。これからも、以前と同じように、他の「普通の人達」と同じように、自分の人生を生きていいのだ。楽しく、明るく、好きなように―あなた自身の人生を謳歌していいのだ。

今の辛さや苦しさ、それは後に姿を変えて、あなたに「何か」をもたらすだろう。すべてが「ギフト(贈り物)」に変わる瞬間。そして「それ」は、あなたの「人生の一部」となる。

私は知っている。あなたが必ずこの状況を乗り越えることを。

You'll be O.K.―きっとあなたは大丈夫。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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沈黙の悲しみ(5)不幸につけ込む人々

 2009-04-03
母の葬儀の翌日、私達家族は疲労困憊していた。自死ということもあり、その前後には警察の取調べや現場検証等が伴う。それと同時進行で通夜や葬儀の準備をしなければならなかった。「普通の葬儀」の場合でも、遺族は心身共に消耗するものだ。自死遺族の場合、いろいろとプラスαされるものが出てくるので、疲労や消耗度が倍増される。

私はアメリカからの長時間のフライトの疲れがどっと出て、フラフラの状態だった。とりあえず葬儀も無事に済んだということで、気が緩んだのだと思う。父は目の下に隈が出ていたし、弟も叔母や祖母も、顔色が良くなかった。家族みんなが疲れていた。

その時、玄関のチャイムが鳴った。玄関に一番近いところにいたということもあり、私が応対に出た。ドアを開けると、女性ばかり5~6人の人達が立っている。その中の2人はご近所の人だった。他は面識のない人。とりあえず挨拶をして、「あの、何か?」と言うと、一番前に立っていた50代半ばくらいの女性が「この度は本当にお悔やみ申し上げます。私ども○○と申しまして・・・」と、有名な宗教団体の名前を言った。

この悲しみを乗り越えるためにも、これを機会に私共の宗教に入らないか、今私達がここに来たのも何かの縁だと思う云々・・・要は宗教への勧誘だった。そういえば、一緒にいるご近所の2人はその宗教団体の熱心な信者だと以前聞いたことがあった。その後も延々と喋り続けるし、きりがない。「すみませんが、来客中ですので」と嘘をついて、お引取り願った。

「何だって?」「宗教の勧誘。○○に入らないかだって」と、話しているそばからまたチャイムが鳴った。ドアを開けると、今度は知らない男性と女性が2人立っている。「何でしょう?」「私達は○○という宗教団体の者なのですが」と、今度は別の有名団体の勧誘だった。

それからの一週間というもの、毎日宗教への勧誘がひっきりなしに訪れた。一日に何度も玄関のチャイムが鳴る。有名どころから初めて聞く名前の団体まで、多分20近くあったのではないかと思う。居留守を使っていると、その後必ずポストには宗教関連の小冊子やチラシが山ほど入っていた。

中には東北地方等、遠方の団体からのものもいくつかあった。日本にこれだけの数の宗教団体が存在しているということも驚きだったが、どこからそういった情報を得るのか本当に不思議だった。


自死遺族の多くが、やはりそういった宗教の勧誘を受けた経験があると言っている。「故人は成仏できずに地獄にいて苦しんでいる。成仏させてあげられるのはうちの宗教だけ」「今ここで供養しないと、また自殺者が出る」「あなたの家系は自殺の因縁があるから、今ここでそれを切らないといけない」遺族の「弱み」を的確に突いてくる。

「見えない世界」のことを持ち出されたら、ましてや故人があの世でも苦しんでいる等と言われたら、平気でいられるわけがない。それでなくても、自死遺族は「どうして助けてやれなかったのか」「自分がもっと早く気づいてあげていたら」「自分の言ったことが原因なのではないか」と、罪悪感や無力感に苛まされているというのに。

宗教というものは、誰かから勧められたり、強要されて入るものではないと思う。自分がそれを本当に求め、必要としているのであれば、自分からそこに向かっていくようになっている。

大体人が弱っている時に勧誘しにやって来るなど、「弱みにつけ込む」以外の何物でもない。「お助け」とか「救済」とか、ご大層なことを言う割には、その実やっていることは「押し売り」と変わらない。

自分が良かれと思ってやっていることでも、相手がそう思わなければ、それは単なる押しつけ、迷惑でしかない。葬儀の翌日からやって来るなんて、礼節を欠くというか、魂胆が見え透いているというか・・・勧誘の「ノルマ達成」のカモにされるこちらはたまったものではない。


多くの宗教で、「自殺は罪深いこと」「神に背く大罪」とされている。「地獄に落ちる」「無間地獄をさ迷い続ける」そういった恐怖に満ちた言葉で表現されているのが常だ。しかし、それは「あくまでも宗教上での表現」だ。その宗教で「罪」「悪」とされることを犯した時に、「こんな恐ろしいことが起きるのだぞ」という、「恐怖感の植えつけ」。恐怖感や罪悪感を植えつけ、縛る。畏怖と束縛―宗教の原則だ。

キリスト教の宗教画や仏典の絵巻物で描かれている「地獄」の様子は、「デフォルメ」されたもの、いわば大袈裟に表現されたものだ。言葉を解さない幼児、文盲の人等にも一目で分かるように、意識して大仰に描いている。釜茹でにされるとか、針の山を歩かされて舌を抜かれるとか、実際にそういった情景が、絵という形で視覚に訴える効果は想像以上に絶大だ。

霊能力者による鑑定等の場合も同様だ。その人が受け取ったビジョンというものは、その霊能力者の「フィルター」を通して伝えられる。内容は同じでも、霊能力者によって表現や描写がまったく異なるのはそのせいだ。

「いかにも」というような、何かおどろおどろしい描写をする能力者の場合、その人自身の本質や、その霊能力の出所というか、繋がっている所が、そういう質のものなのだと思う。表面上の言葉や表現に惑わされたり、過度に気にする必要はない。それが100%の真実とは限らないのだから。実際その後に「私が成仏をさせてあげます」と、高額なお布施を要求された人もいる。

地獄のイメージは、あくまでも人間が創ったもの。「この宗教を信じていれば、こういう所に行かなくてすむ」というアピールであり、「脅し」だ。依存と束縛を強化するためのツール。

それを逆手にとって、人の不幸に乗じた火事場泥棒的な嫌らしさを感じさせる「輩(やから)」は、悲しいかな、現実に、数多く存在する。他人の痛みや苦しみを食い物にする人種が、世の中に、自分の周りにこれだけ存在することを思い知らされることは、新たな悲しみ、落胆をもたらす。

人間は、どこまで残酷になれる生き物なのだろうか―。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

 2009-04-02
肉親に自死者がいるというだけで、何か遺伝性の悪い病気を持っている家系のように忌み嫌う人もいる。「自殺は伝染する」「自殺は遺伝する」実際そんなふうに思い込み、信じ込んでいる人も多い。かと思えば「家系が呪われているんじゃないか」「悪霊に取り憑かれたせい」と真剣にオカルト論を展開する人もいる。

どこの未開地の話かと思うような反応だが、現在の日本に横行している自死に対する偏見の実情はこんなものだ。極めてプライベートな部分が関わっている為、なかなかその事実や背景が公に明かされないこと、社会的に「触れてはいけないもの、タブー」としての認識が強いということ等も関係して、勝手な憶測や想像だけが一人歩きする傾向が強いせいもあると思う。

「何だかよくわからないけど、不気味で得体の知れないもの」結局のところ、多くの人の自死に対する認識はこの程度だ。実態が分からないために生まれる根拠のない風評や無知が、遺族を余計に苦しめる。


「自死に至った人達の8割~9割は鬱、または抑鬱状態にあった」という調査報告がされている。私は実際にはほぼ100%に近いと思う。やはり自ら死を選ぶ、そういったことを考えるということは「普通」の状態、通常の精神状態ではない。

「鬱病は心の病気、精神に問題がある人が罹る病気」「性格や心に問題があるから鬱になる」と、世の中の大半の人がそう思い込んでいる。

確かにその人の本来の性格や気質、ストレス等が発症の引き金や下地になったりすることもあるが、セロトニンやノルアドレナリンといった脳内神経伝達物質の減少・機能の低下等が原因で発症するものでもあるのだ。また、体の別の部位の病気が原因で、鬱病の症状が出ることもある。「心の病気」と、単純に分類できる性質のものではない。


血の繋がった肉親を自死で失った人達の多くは、「自分にも同じ遺伝子、自死を引き起こすような遺伝子があるのではないか?自分もいつか同じことをするのではないか?」」という不安に苛まれる。特に、身内に自死者が何人もいたりする場合、余計に不安が増すようだ。しかし、自死は遺伝しない。自死を引き起こす遺伝子といったものもないと思う。

あえて言うのであれば、「自死のきっかけになることが多いと言われる鬱病になりやすい体質」というものは遺伝すると思う。肉親であれば、やはり体質や細胞もよく似ていたりする。もし親が脳内神経伝達物質の減少や低下が起こりやすい体質であれば、子供も同様の体質になりやすい。

身内に鬱病が多かったり、鬱病が原因での自死者が多いのであれば、それは呪いでも遺伝でもなく、「体質が似ているから、体質が似ていたから」というだけの話だ。もしくは、考えや価値観が似やすい身内であるが故に、よく似た思考や行動のパターンに陥りやすいせいで、同じような行動を取る可能性が増えるためだ。

身近な誰かが自死を選択した場合、良い悪いは別として、「こういう方法(自死)もありなんだ」と、「選択肢の一つ」として無意識に刷り込まれるといった影響もあると思う。故人によって「タブー」が既に破られているので、同じ道を選択しやすくなる確率も、それに伴ってどうしても高くなる。

しかし、誰にでも、どんな人にも自死の可能性はある。そもそも「自死するか、しないか」2つに1つの選択しかないのだから。「自分は絶対にしない」と今思っていても、いつどこで、その気持ちが変わるか分からない。人の感情や心に関しては、「絶対」という言葉は存在しない。

「明日はわが身」自死に関して、この言葉は誰にでも当てはまる。そして、自分が自死遺族になる可能性も、どんな人にも50%の確率で存在するのだ。

自殺の遺伝子とか、呪いとか、根拠のない都市伝説のようなものだ。真実を知ろうとも、確かめようともせず、「~らしい」という又聞きの風評を鵜呑みにするその姿勢が間違った認識を呼ぶ。自死者の死因等、ゴシップには好奇心満々で、背後にある真実には無関心。まさに本末転倒だ。


10年ほど前、体調を崩したことがあった。その頃、公私共にいろいろなことがあり、原因はそういったストレスからくる自律神経の乱れ。その当時、私には母親同然の人がいた。私は彼女を信頼していたし、母の自死に関する詳細も全部話していた。

しかしある時、妙な話が耳に入ってきた。その人が、私に関することをあれこれ周りの人に話しているというのだ。それが一人や二人ではなく、「どうしてこの人まで?」という広範囲で、いろいろな人に話しているという。その内容は、誹謗中傷以外の何物でもなかった。何よりも、まったく根拠のないでたらめの、事実無根の内容だった。

「あの子には母親と同じ遺伝子が流れているから、神経がおかしくなった」とか「自殺した母親から生まれたから頭がおかしい」等、俄かには信じがたいことをあれこれ吹聴していた。特に「あの子の母親は頭がおかしくなって自殺した」という件(くだり)では、呆然とするしかなかった。

いろいろな人に確認したところ、その内容は一致していた。怒りよりも、悲しみのほうが大きかった。これがすべて事実なら、まだ納得できる。その人がどういった経緯で、どんな意図をもってそういったことを言ったのかは分からない。私の悪口を言うのも構わない。あくまでもそれが「事実」であるのなら。

しかし彼女の言葉は違っていた。私に関することも、母や母の自死に関することも、すべて事実無根。全部創作、作り話と言ってもいいものだった。

数年前、共通の知人を通じて、彼女が「謝罪したい」と言ってきた。お断りした。二度と会って話す気もないし、「まったく見当違いのこと」で謝罪されても無意味でしかない。

多かれ少なかれ、こういった噂や誹謗中傷の類を多くの自死遺族が経験している。

「本当は保険金目当てに殺されてたりして」「死にたくて死んだんだから幸せじゃないか」「首吊りがあった家に平気で住んでいられるなんて信じられない」「自殺者の出た家の人となんて結婚させられない。うちの家系にそういう遺伝子が入られたらかなわない」「親御さんがそういうことになったんだから、普通の結婚はもう無理だろうな。まあ一人でも生きていけるようにがんばりなさい」

私がお会いした遺族の方達が、今までに、実際に言われたことや耳にしたことだ。これはほんの一部でしかない。

間違った情報や認識が、どれだけ遺族を傷つけ、孤独に追いやっていくものなのか、それは実際に経験した者でなければ分からない。無知から生まれる罪は、思っている以上に重く大きいものなのだ。

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沈黙の悲しみ(3)偏見

 2009-04-01
故人の死因が周囲に伝わり始めた瞬間から、遺族達は世間の「好奇の目」に晒されることになる。自分達の身に起こった出来事に茫然自失の状態にある時に、今度は周囲の人々の物見高い目、偏見や中傷といったものが襲いかかって来る。そしてそれは、故人の死以上に遺族を傷つけ、苦しめることもある。自死が遺族にもたらすものは、悲しみや衝撃だけではないのだ。


母の通夜、葬儀は自宅で行われた。葬儀社の手配で、自宅玄関の門扉の前に、その日程を知らせる札が立てられた。町内会をはじめ、ご近所の人達が葬儀の手伝いをしてくれることになり、その前日は打ち合わせや準備等で、人の出入りが慌しかった。

うちの家族を含め、もともと何十年もそこに住んでいる人達が多いので、ほとんどのご近所は気心が知れている。私が生まれる前からのお付き合いの家も多く、何人かの幼馴染みも急を聞いて手伝いに駆けつけてくれた。

大体の準備が済み、手伝いに来てくれた人達が帰ってひと息ついた頃、郵便物や夕刊をポストに取りに行っていないことに気づいた。玄関のドアを開けた瞬間、数人の話し声が聞こえてきた。うちの門柱と塀のすぐ向こうで話しているようだ。特に気にすることもなく、門扉の内側から郵便物を取り出し、玄関の照明の下でそれらをチェックをしていた時だった。

「自殺なのにお葬式するのね~」と言う声が聞こえた。「え?」と思わず聞き耳を立てると、その人達がうちの家族のことを話していることに初めて気づいた。遅い時間帯でもあったし、内容が内容だけにさすがに声は潜めているが、その会話の中味はよく聞こえた。

「自殺の原因は何か?」ということに始まり、明日の葬儀のことまで、話題はすべてうちの家族に関してだった。すぐ中に入ってしまえばよかったのに、足から根が生えたように、なぜかその場から動けない。結局最後までその人達のひそひそ話を聞く羽目になった。

長い付き合いのご近所の人達なのか、それとも最近新しく町内に越してきた人達なのか、その人達が誰だったのか、今でも分からない。でも、それが誰だったかということより、「自殺なのに大っぴらにお葬式をするなんて」という言葉のほうがショックだった。

その時初めて、世の中で「自死」というものがどんな位置にあるのか、人々からどう思われているものなのかということを知らされた。そして亡くなった故人だけでなく、その遺族である私達も同様の目線で、見られるということも。「自死」という大罪を犯した罪人と、罪人の家族―決して大袈裟でも誇張でもなく、自死者と自死遺族は、社会ではそれに近い扱いを受ける。

ショッキングなものであるが故に、その真実や詳細が明るみに出ることが少ない。憶測と勝手な想像と決めつけ、思い込みが一人歩きする。芸能界のゴシップと同じだ。次々と尾ひれがついて、根拠のない出鱈目な作り話が世間に出回って、それが実しやかに語られる。真実は故人にしか分からないのに。


母の死後、5年くらい経った頃だったろうか。同じ町内に、いつも利用していたクリーニング店があった。うちの両親と同世代のご夫婦で経営している店で、いつも奥さんがカウンター業務を担当している。長年通っていることもあり、すっかり顔見知りになっているので、時々世間話をすることもあった。

ある時父に頼まれて、喪服のクリーニングをお願いしに行った時だった。喪服から、「最近のお葬式はいろいろ凝った演出をするらしい」という話題になった。その時急におばさんが「でもどうしてお母さん自殺したの?」と言い出した。唐突だったし、何よりも店先で立ち話するような話題ではない。

どうしたものかと言葉に詰まっている時、おばさんの目に浮かんでいるものに気づいた。好奇心以外の何物でもなかった。クリーニングの腕もいいし、いい人だったし、ご近所としての付き合いも考えなければいけなかったのかもしれないが、それ以来私がその店に行くことは二度となかった。

つい最近父と話していた時に知ったのだが、父も同様の経験をしていた。母が亡くなった翌年、駅前の銀行で、昔近所に住んでいた人と偶然会ったらしい。その人は私もよく知っている人で、人柄は悪くないのだが、ちょっと無神経なところがある人だった。

「久しぶりですね」という挨拶の後、その人は、お昼時で混雑しているロビーの真ん中で、大声で「なんで奥さん自殺しちゃったの?びっくりしたよ~」と言ったそうだ。もともと声の大きい人なので、決して悪気はなかったと思う。しかし、その時、銀行ロビーが一瞬しんとしたそうだ。そしてそこにいる人達の視線。居たたまれなくなって、父はそのまま銀行から出たという。

私も父も、それまで自分が経験しことは一切話さなかった。でもその時、お互いに、家族が自分が知らない所で、それぞれ同じようなことや思いを味わっていたと知った時は、何ともやり切れなくなった。何も言わないが、多分弟も同様の経験をしている可能性はある。

そうした世間の目に耐え切れなくなって、引越しする人、人付き合いから遠ざかる人、精神的に参ってしまって体調を崩す人は少なくない。自死遺族には、こういった目が一生ついて回る。


偏見に伴う「差別」も存在する。私自身も経験したことだが、特に親や兄弟姉妹が自死者の場合、就職や結婚の際の興信所等の調査によって内定取り消し、破談となるケースが現実にある。

私の場合、就職先を探していた時だった。一部上場の某企業を受験した時、書類選考、筆記試験、面接と順調に進んだ。そして最終の役員面接が終わったその場で内々定をいただいた。2日後にその企業指定のクリニックで健康診断を受け、問題がなければ正式内定とのことだった。

一週間後、その企業から通知が来た。結果は「不採用」。信じられなかった。健康診断の結果も問題はないはずだし、内々定が出た最終面接では、配属される可能性のある部署の話までしていたのだ。

ただ、一つだけ思い当たることがあった。健康診断を受けた日の翌日、隣のおばさんが「昨日興信所の人が来た」と知らせに来てくれた。その時受験していたのはその一社だけだった。他に興信所の調査をされるような覚えはない。調査の依頼主がその企業であることに多分間違いはなかった。

思い返せば、面接の際、やたら母親の不在理由を聞かれてはいた。調査で引っかかったのは、母の自死のこと以外に考えられない。保守的な社風の企業だったので、自死した母親のいる家庭、「世間的に問題のある家庭」の人間は入社させたくない―というところなのだと思う。

自分自身の言動や問題でそういった結果になったのであれば、まだ納得はできる。しかし、どうして自分以外の人間、母のしたことのせいで私がこういう目に遭わなければならないのか―その時初めて母に対する猛然とした怒り、憎しみに近い感情が湧き上がってきた。

自分ではなく、自分の家族がした行為によって自分が判断され、レッテルを貼られる―社会の偏見とそれに伴う差別は、遺族を、故人に対する怒りや憎しみの感情に追い立てることにも繋がっていく。

責めたくても、誰を責めたらいいのか分からない。事の発端となった故人はこの世にいないし、社会のそういった偏見に抗議し、闘うにも限界がある―そうして、受けた衝撃、怒りや悲しみ、虚しさといったものは放出されることなく、自分の内側に積もっていく。

自死という、ドラマやニュースでしか見ることのない「ドラマティックでショッキングな行為」は、幸運にもそういったことと無縁で過ごしてきた人達にとっては、「好奇心をそそられるもの」なのだろう。自分の中の「覗き見願望」を刺激されるもの。「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだ。

ただの野次馬根性、覗き見願望は、好奇心とは言わない。そこにあるのは「卑しさ」だけだ。その卑しさが、無意識とはいえ、どれだけ人を傷つけることになるのか―多分そこに気づく人は少ない。そして世の中に蔓延っている自死への偏見や無知が、自死遺族達にどれだけの痛みや苦しみをもたらしているのかということも。

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