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情けは廻る

 2009-03-31
誰かから受けた親切や恩というものは、いつかそれを返す時機が来るようになっているのだと思う。持ち回り、順番・・・そんな感じで、さりげなく自然なタイミングでその機会は訪れる。


高校2年の時の修学旅行は京都・奈良・広島を5泊6日で巡るものだった。最近では海外に行く学校はめずらしくないが、私が中高生の頃は、関東地方の学校の修学旅行先と言えば、京都や奈良等、関西方面が定番だった。

京都に着いた翌日は、丸一日完全にグループ別での自由行動だった。スケジュールの詳細はもう忘れてしまったが、どこかの神社とお寺との間を、京都の市バスで移動する予定を立てていた。友人達と地図を片手にバスに乗り込んで、目的地に着いてバスを降りようとした時だった。

料金を払おうと財布を開けたら、10円足りない。残りは全部お札だ。慣れない土地で、予想外のことが起こって一瞬頭の中が白くなったせいもあり、その時のやり取りはほとんどおぼえていない。でも、千円札で払えるかどうか運転手の人に聞いたところ、お札は使えないというようなことを言われた。

グループの友達はもうバスを降りてしまっている。自分の後ろには、降りる人達が大勢並んでいる。「どうしよう・・・」と呆然としていると、すぐ後ろにいた人が「どうしたん?」と声をかけてくれた。「10円足らなくて・・・お札が使えないらしいんです」と言うと、その60代くらいの女性が「ほんなら、おばちゃんが出してあげるわ」と言って、10円玉を渡してくれた。

突然のことに驚きながらも「え?いいんですか?」と言うと、「ええねん、ええねん。はよ降り」と言う。降りる人の流れを止めてしまっているので、「すみません。ありがとうございます」と言って、料金を払ってバスを降りた。

続いて降りてきたその女性に「ありがとうございました。お借りしたお金、お返ししますのでちょっと待っていただけますか」と言って、友達にお金を借りようとしたところ、「そんなんええよ」と言って歩き出そうとする。「いえ、そんなわけには・・・ちょっと待ってください」と慌てる私に、その女性はこう言った。

「もし今度、同じようにお金が足りなくて困っている人がいたら、おねえちゃんが助けたってな。その人におばちゃんの10円あげたって」とにっこりして言うと、反対方向にスタスタと歩いて行ってしまった。

旅行中、京都と奈良で結構な数の神社仏閣を廻ったが、私が本当に感動した「仏様」は、あの見ず知らずのおばさんだった。今でも「修学旅行」という言葉を聞くと、真っ先に、あの10円玉のおばさんを思い出す。


それから15年が過ぎ、大阪在住5年目となったある日、私は大阪市バスに乗っていた。当時、御堂筋線沿線に住んでいたのだが、自宅からすぐ近くにバス停があったこともあり、地下鉄の最寄り駅を利用する時等に利用していた。

目的地でバスを降りようとすると、私の前にいた小学3~4年生くらいの男の子が料金箱の前でモジモジしたまま降りようとしない。

「どうしたの?」と声をかけると、「財布を忘れた」とのこと。途方にくれた顔をしている。「いいよ。払ってあげるから大丈夫」と、その子と自分の料金を払って一緒にバスを降りた。「どこにいくん?」と聞くと、天王寺のおばあちゃんの家だと言う。

「お財布ないと困るでしょ?おうちの人にここまで持ってきてもらう?」「うん、そうする」と言うので、私の携帯を渡して家に電話をさせた。家の人が来るまで一人でいるのは心細いだろうと、その子とおしゃべりをしながら、一緒にバス停のベンチに座って待っていた。割と近くに家があったこともあり、電話をもらったその子のお母さんが、すぐに車でやって来た。

その子とお母さん2人の、こちらが恐縮するほど丁寧なお礼と、その様子を何事かと見る通行人の目が恥ずかしくなって、「とんでもないです。じゃあ急ぎますので」と、そそくさと地下鉄の階段に向かう私に、お母さんが「あ、お金!お返しします!」と追いかけてきた。

「いえ、いいですから」「でも」の押し問答があったが、それを無理矢理振り切って階段を降りた。お母さんの「ありがとうございました!」という声を背中で聞きながら、私は何かを思い出そうとしていた。デジャブのような、何か古くて懐かしいもの、何だったっけ・・・その瞬間、京都の10円玉のおばさんの顔が浮かんだ。

同時に、おばさんから言われたことを思い出した。「今度同じように困った人がいたら助けたって」というあの言葉。「あ!」と思った。15年経って、やっとおばさんの親切を返せたことに気づいた。それと同時に、因果とか、廻り合わせとか、「情けは人のためならず」とか、そういったことの根底に共通して流れているものが、一編にストンと胸に落ちるのを感じた。

結局、「繋げていくもの、繋いでいくもの」なのだと思う。親切や、それに伴う縁というものは。リレーのように、受け取ったバトンを次の人に渡していく―結果それは、何か大きなもの、すべての「根源」のようなものに繋がっていくのだと思う。

自分が渡したバトンは、やがてまた自分の元に返ってくる。時を変えて、場所を変えて―。情けは廻るものなのだ。




(追記)20年近く前になるが、当時大学生だった弟が、地元の駅の駐輪場に停めておいた自転車を盗まれたことがあった。それから1週間位して、隣駅に住んでいるという見知らぬ女性から電話をもらった。

犬の散歩コースにしている道の電柱の陰に、数日前から自転車が停めっぱなしになっているという。最初は誰かが故意に置いているのかと思ったが、どうもそんな感じではない。気になって自転車に貼ってあった名前と電話番号をメモして、わざわざ知らせてくれたらしい。

ちょうど弟が留守の時で、私が電話を受けたのだが「お礼に伺いたいのでお名前を・・・」と言ったところ、その女性は「いえ、お気持ちだけで結構です。実は以前私も自転車を盗まれたことがありまして、その時見ず知らずの方が知らせてくださったお陰で見つかったことがあったので・・・」と、おっしゃっていた。

今回のエントリーを書いていて、そのことをふと思い出した。とうとう最後までお名前は教えてもらえなかったが、あの節は本当にありがとうございました。



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カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

機能不全カップル

 2009-03-30
日本性科学会が掲げる「セックスレス」の定義は、「特殊な事情(例えば病気等)が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交、セクシャルコンタクトが1ヶ月以上もなく、その後も長期に渡ることが予想される場合」だそうだ。

現在、国内でその定義に当てはまる夫婦は約3割、実際に1年以上性行為がない夫婦は2割、つまり今、日本の夫婦の5割がセックスレスという状態にあるということだ。だが現実には、それ以上、5割は軽く越える比率になると思う。

実際、カウンセリング中にそのことに関する悩みを話す人も多い。非常に私的な部分なので、親しい友人にも話していないと言う人がほとんどだ。そういった公になっていない潜在的な数を含めると、多分最終的には7割くらいに達するのではないかと思っている。

文化や考え方の違い等もあると思うが、アメリカでの定義は「1年に10回を下回る=セックスレス」らしい。ハグやキス等日常でのスキンシップが当たり前の国の人達から見ると、そういった習慣がない上、調査で「セックスの回数が全世界で一番少ない」ということが判明した日本人が、不思議に思えて仕方ないようだ。

アメリカ人の友人などは、「キスもハグもしない、おまけに滅多に『愛してる』って言わない、セックスもしない、一体日本人はどうやってパートナーと愛情を確かめ合っているわけ?」と半分呆れている。彼女は日本に10年近く住んでいたこともあり、日本の文化や習慣、日本人というものをよく理解している。その知日家の彼女が言うくらいだから、多分その他の多くの国の人達からしてみても、理解不可能かつ「不自然な状況」なのだと思う。

回数が多いことが良いことだとか、外国を見習おうと言っているのではない。そういったことには個人差もあるし、一概に何が良いとか悪いとか判断する基準もない。あくまでも「個人の自由」だと思う。

しかし、私自身の経験や考え等を含め、多くのセックスレスのカップルを見ていて思うのは、「お互いの体に触れない、触れる気が起こらない」ということは、やはり不自然」ということだ。「生き物」として、オスとメスとして「機能していない」ということなのだと思う。

心と体は一体だ。「病は気から」というように、心の状態が肉体に反映される。体が離れている、触れない、触れたくない、触れられたくないということは、つまり心が離れているということなのだと思う。

「セックスはしないけど、でも仲は良いです。相手のことも好きだし」と言うカップルは多い。確かにその人達の夫婦仲は悪くない。むしろ誰が見ても「仲が良いな~」という印象を持つ人達がほとんどだ。しかし、それ故に「不自然」なのだ。だったらなぜ相手に触れない?好きならどうして相手に触れたいと思わないのか?つまり、「心と体の法則」に反しているということなのだと思う。

「仕事が忙しくて疲れているから」「時間がないから」「夫婦というより『家族』になってしまっているからその気になれない」「自宅だと生活感が強くてマンネリでつまらない」セックスレスの人達の言い分は様々だ。でも実は、それは全部「言い訳」に過ぎない。

一見もっともらしく聞こえるが、「自分がセックスをしない正当な理由」を引っぱり出しているだけだ。本能は理屈ではない。本当に自分の本能が相手を求めているなら、時間とか体調とか、そんなことなど考えずに、考える前に、とっくに相手に触れている。

いくら仲が良くても、どんなに相手が良い人で、いくら好きだと思っていても、やはりその「本能」の部分が機能しないということは、自然界の法則に逆らっている「不自然な生態」なのだと思う。

以前、海外のホテル勤務をしていた友人が、現地のスタッフに「どうして日本人はハネムーンなのにツインのベッドルームを希望するの?」と聞かれたそうだ。系列のいろいろな国のホテルに転勤になった時も、その国の現地スタッフにまったく同じ質問をされて困ったと言っていた。

同じ部屋の同じベッド、同じ布団に寝るということは、実はとても大切なことなのだと思う。ちょっと寝返りを打つと相手の体にぶつかる、いつもお互いの体のどこかしらが触れている状態にあること―何でもないことのように思えるが、その「何でもないこと」にすべてが集約されているように思う。

男と女の間には、理屈で計り知れないことがたくさんある。特に感情面でぶつかり合ったりした場合、言葉でいくら説明しても完全に理解し合えることはない。仲直りしたとしても、その後もお互いの心の中では何かが燻っていることも多々ある。その燻っている何かを消す方法が、触れ合うことだ。

日頃のちょっとした行き違いとか、不満とか、そういったものもどうでもよくなってしまう―そういう理屈を越えた力がセックスにはある。お互いの体に触れる、相手の肌を感じることで、言葉では説明できなかったものが、肌を合わせた瞬間に、すべて理解できてしまうこともあるのだ。

セックスレスのカップルのほとんどは、押しなべて仲が良い。会話も多い。しかし、それは体で埋めるべきものを、代わりに言葉で埋めているに過ぎないのだ。そしてその歪みは、やがてどこかに表れてくる。不自然さは不自然な結果を招く。しかし、それは道理にかなっている。因果の理だ。

公私に渡って、多くのセックスレスのカップルを見てきたが、早かれ遅かれ、どうやら最終的には離れていくことになるようだ。自然界の、生き物の法則に反しているのだから、これは当然の結果なのだと思うが。

本来の、生き物としての本能が機能しないということは、自分が思っているよりも、相手との仲が深刻だということなのだ。「触れない、触れたくない、触れられたくない」それはその「サイン」。心の状態が体に表れる。心と体の法則はシンプルだ。そして誤魔化しは効かない。


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お役所仕事とプロ意識

 2009-03-26
最近の世論を受けて、役所等の行政機関、民営化された郵政公社のサービスは以前と比べて良くなったと言う人も増えてはいるが、正直「まだまだ」だと思う。意地の悪い言い方をすれば、「良くなった」というよりも「マシになった」程度の域。

もちろん、きちんとした応対をする人もいるのだが、そうではない人の数が、まだ圧倒的に目に付く。形式的で、非能率的な、いわゆる「お役所仕事」、「お役所体質」が全然抜けていない。何というか、「サービスの本質」というものをまったく理解していない。

ドアが開いて誰かが入ってくる度、誰かが出て行く度に「いらっしゃいませ~!」「ありがとうございました~!」と、フロアの職員全員で、居酒屋並みの大声を張り上げることが「サービス」なのではない。以前より礼儀正しくなったということだけで、「=サービス向上」と勘違いしている節がある。まあ結局のところ、「中味」は全然変わっていないということだ。

先日郵便局に行った際、窓口の職員がイライラした様子で「だからぁ~、そう言ってるじゃないですかぁ~」と、お客さんに向かって言っているのを見た時は驚いた。お客に向かってその言い方、人相手のサービス業では絶対にあり得ない。というより、決してあってはならない対応だ。

私を含め、その窓口の前で順番を待っていた人達は、皆呆れてその様子を見ていた。50歳前後の、多分管理職であろう男性だったが、あの接客態度は全然なっていない。でも当のその男性職員は平然としている。

挙げ句、その後窓口業務を交代した別の職員の横に座り、同じ職場のナントカさんの結婚披露宴の様子について、延々とあーだこーだと話している。かなり大きい声だったので、話は全部筒抜けだ。交代した別の職員の人は、しきりに周りを気にしていたが、件の職員は相変わらずの態度。

「なんだかな~」と思って見ていると、私の隣にいた60代くらいのおじさんが「なっとならんな」と、ひと言呟いた。知らない人だったけど、思わず振り向いて「ですよね~」と同意してしまった。

順番を待つ人達から丸見えなのに、勤務中に雑誌を広げてお互いの髪の毛をいじり合っている市役所の女性職員とか、「はい」「いいえ」の言葉しか喋れないのかと思うくらい無愛想な電話応対をする税務署関係の職員とか・・・一般企業ではあり得ない勤務態度がまかり通っているのが不思議だ。


20代の頃勤務していたのは一部上場の電気機器メーカーだった。国内外の知名度は、ほぼ100%だと思う。会社名がそれだけ世の中に浸透しているということは、社員にもそれ相応のものが求められることになる。なぜなら社員一人ひとりが社名を背負っているということ、「社員の質=その企業のイメージ」となるからだ。

特にメーカーは、消費者あって成り立つもの。まさに「お客様は神様」だ。私が当時在籍していたのは本社の中枢部署だったので、直接消費者、自社製品のユーザーと関わることはほとんどなかったのだが、「ユーザーは、何においても最優先されるもの」というその姿勢や理念は、所属部署は一切関係なく、全社に徹底して浸透していた。

カスタマーサービスの質を競うコンテストや民間の調査機関が行う調査等で、常に「お客様満足度」の上位にランクされていたし、取引先の企業からも評判の良い企業だったと思う。社内の雰囲気も、それに見合うものだった。「気持ちよく仕事ができる職場だったな」と、今でも思う時がある。


相手が求めているものは何か、どうしたら一番いい形でそれを提供できるのか、言葉遣いや態度を含め、自分はどういった対応をしたらいいのか、どうしたら相手に満足してもらえるか―それが「サービスの基本」であり、その仕事に携わる者としての「プロ意識」だと思う。

先日の郵便局にしろ、その他多くの行政機関にしろ、その部分の理解や心構えというものが完全に欠如している。本質への理解がなければ、それは行動には反映されない。自分達の対応レベルが、一般のそれからどれだけ逸脱しているのか、劣っているのか、本人達にその自覚がないから結局何も変わらないのだ。「税金泥棒」とか「お役所仕事」とか、そういったレッテルがいつになっても剥がれないのはそのせいだ。

どんな仕事でも、業務に就いているその時間の間は「その仕事のプロ」だ。それはサラリーマンでもOLでも変わらない。「素の自分」よりも「公の場での自分」が最優先される時間。

ホテルやデパートの従業員の人達を見ていれば、「プロに徹する」ということがどういうことか分かりやすいと思う。寝癖のついたクシャクシャの頭で、眠そうな顔をして接客しているホテルのフロント係はいない。不機嫌そうにガムを噛みながらそっぽを向いているデパートの従業員はいない。それと同じこと。公と私の部分をはっきりと分ける、それに基づいて行動する―それが「プロ意識」というものだ。

例え良いところが9個あったとしても、最後の1個がそれを全部帳消しにすることがある。信用や印象といったものに関しては、特にそういう面が強い。その自覚を持たない人、理解しない人、疎かにしている人が「お役所」には多いと思う。

構造改革も結構だが、職員の意識改革もしっかりやってほしいとつくづく思った郵便局での出来事だった。


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オンリーワンの気概

 2009-03-23
過去に何回か雑誌で取り上げていただいたことはあるが、宣伝広告の類は一切打っていない。同業者主催の団体組織に属してもいないし、卒業したスクールや誰かの後ろ盾があるわけでもない。開業から今まで、一匹狼的なスタンスでやってきた。大した露出はしていないと思うのだが、時々、同業者の「偵察」がある。

予約の段階から、同業者であるということが伏せられていることがほとんどだ。セッション当日、名前や住所等を記入してもらう用紙の職業欄にも「自営業」とだけ記入されている。しかし、いくら先方が隠そうとしても、「同業者の勘」というやつでピンと来るものだ。その勘は、今まで外れたことはない。

セッションルームを見回している時の様子、私を見る時の視線や仕草、発する言葉―そういった「ちょっとした所」にそれは表れる。「同じ匂いがする」というのだろうか。無意識が発するものは完全には隠せない。

夫婦二人で小料理屋を経営している知人が、以前同様のことを言っていた。料理人であるご主人はカウンターの中に入っていることがほとんどで、接客は奥さんが担当している。ご主人曰く、「料理人は店に入ってきた時からわかる」とのこと。お互い何も言わないし、匂わすこともないのだが、会計を済ませて店を出る時に「やっぱり」と思うらしい。

普通の人は帰る時、レジにいる奥さんに向かって「ごちそうさま」と言って店を出ることがほとんど。しかし同じ料理人である場合、カウンターの中にいるご主人に向かって「ごちそうさま」と言うとのこと。その他にも、その人自身の手や、包丁捌きをみている時の目等で分かるそうだ。勘というものは恐ろしい。


「失礼ですけど、同業者の方ですよね?」と尋ねると、一様にギョッとした表情になる。「どうして分かったんですか?」「いえ、ただの勘です。どうしてうちに来られたんですか?」「いろいろな所でお名前を聞くもので、どういうセッションをしていらっしゃるのかと思って」

もしくは、確信があっても私からはまったく触れないこともある。相手も最後までそれを明かすこともない。だが、セッション後にいただいたメールで、「実は・・・」と事実が判明することもある。

どちらの場合でも、相手が同業者であろうがなかろうが、私はそれ以上のことに興味はない。べつに相手が同業者だからといって「がんばらなきゃ、良いところを見せなくちゃ」と張り切ることもないし、それをプレッシャーに感じることもない。

サロンに来た理由が何であれ、その人が誰であろうと、相手はクライアントであり、私はセラピスト―という事実に変わりはない。相手がセラピーに求めているもの、セラピストとして私が提供できるもの、それをセッションの中に込めて、ただ全力で行うだけだ。

いくら私のやり方を真似ても、それはただの「コピー」に過ぎない。スキルだけでなく、サロンの持つ雰囲気、そこに流れる「気」の質、私自身が発するもの―そういった「核」まではコピーできない。

言葉一つにしても、同じことだ。誰かの言った言葉をそのまま口にしても、そこにその人自身の理解や実感がなければ何にもならない。ただ繰り返すだけなら、九官鳥やオウムで事足りる。「模倣は模倣」でしかなく、そこにその人の「真実」がなければ相手には何も伝わらないし、何も残らない。

「偵察」に来る人は一様にして、「迷い」があるように感じる。自分のスタイルが確立されていない。またそれをどう確立していったらいいのか分からない、試行錯誤、暗中模索―そんな印象を受ける。そしてそれは、その人自身の魂や、人としての核が確立されていない、中心がぶれているという表れでもあると思う。

自分以外の人のやり方や見せ方、外から見える「ソフト」の部分に拘るのはそのせいだ。一番分かりやすく、目に付く部分にしか目が行かない。その人と同じようにしたら、今の自分にない部分を真似したら、今よりもっと予約が増えると思い込んでいる。

味やサービスの評判が芳しくない店が、いくら費用をかけて店舗の外装工事をしたとしても、客を惹きつける肝心な部分を改善しなければ、結局は何も事態は変わらない。そして、その肝心な「ハード」の部分は、誰かの真似をしたりすることでは決して得られない。

老舗の人気店の洋食屋に、「お宅のデミグラスソースの味が気に入ったんですが、作り方を教えてくれませんか」と、近所で新規でオープンしたばかりの店の料理人が頼みにいっても教えてもらえることはない。万が一作り方を教えてもらえても、決して同じ味にはならないはずだ。なぜなら「核」は真似できないものだからだ。

うちのサロンは「ご紹介」が多い。2回、3回と通ってくださる方、その後ご家族や友人知人を紹介してくださる方が多くいらっしゃる。手前味噌承知で言わせてもらうなら、うちのサロンの「核」の部分を評価してくださっているのだと思う。本当にありがたいことだ。

全力でセッションに取り組むことは、セラピストとして当たり前のことだ。手抜きは一切しない。しかし、それプラス、私が常に心掛けていることがある。それは「自分の中に偽りを持たない、ぶれない」ということだ。いろいろな意味で「偽り」や「ぶれ」が自分の中に存在するセラピストやカウンセラーは、いつかどこかでその「歪み」が表れる。

自分に、魂の部分に偽りを持つということは、結局「発するもの」もそういった質のものになると思う。自分の中にある偽りが、相手の真実を見えなくする。偽りのパイプを通った言葉は、結局偽りでしかないのだ。どれだけ自分に正直であるか、どれだけ自分の中の真実と向き合っているか―セラピストやカウンセラーに大切なものはこの部分だと思う。

人として、自分の魂と真実の間にある「差」をどこまで詰めていけるか、どこまで「まっさら」になれるか、偽ることなく、どれだけ自分の中にあるものを正直に相手に見せることができるかということが、すべてに繋がっていくのだと思う。そしてそれが、自分自身の確立、「核」の確立ということでもあると思うのだ。

世界にただ一人の、「オンリーワン」のセラピスト、カウンセラーは、核の確立から生まれていく。自分に対する揺るぎない自信、ぶれのない軸―「オンリーワン」とはそういうものだ。






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見栄とプライド

 2009-03-17
日本は「体面を重んじる文化」だ。他人がそれを見た時、どう見えるか、どう思うか―その様子や形といったものに重きを置く。体裁、面目、世間体といったもの。鎌倉幕府成立以降から始まった武家社会等は、その最たるものだと思う。武士としての名誉を重んじた刑罰である「切腹」もその表れだ。

日本文化では、本来「体面」とは、「誇り」という意味合いで捉えられていたと思う。だが最近、その本来の意味を理解していない人、はき違えている人がかなり多いような気がする。


4年位前だった思う。アリゾナとニューメキシコ州へのジュエリーの買い付けの際、帰国便が日本の航空会社だった。アリゾナのフェニックスから国内線でLAまで飛び、そこから国際線に乗り換えて関西空港まで―という流れ。

正午くらいにLAに到着し、今回利用するエアラインがあるターミナルへ向かった。ちょうど時間的に、アジア方面への離発着の重なるラッシュアワーということもあって、そのターミナル自体も大混雑、航空会社のカウンターにも長い列が出来ていた。

日本の航空会社ということもあって、搭乗手続きのために並んでいる人達の大半は日本人だった。私が並んだ列は、前方にツアーの団体客でもいるのか、遅々としてなかなか前に進まない。

時間に余裕を見てきたので焦る必要もなかったのだが、朝食を抜いて空腹だったせいか、段々イライラしてきた。「まだかな~、お腹空いた~、フードコートでランチ食べた~い」と心の中でブツブツ言っていたその時、それまでクローズされていた隣のカウンターがオープンになった。

アメリカ人女性スタッフが「こちらへどうぞ~!」と言っている。「ラッキー♪」と思い、オープンしたばかりで、まだ誰も並んでいないそのカウンターにさっさと並んだ。

搭乗手続きをしている最中、ふと見ると、わたしの後ろには誰もいない。「え?何で並ばないの?」と、今まで自分が並んでいた隣の列の人達を見ると、みんな心なしか固い表情でパスポートとチケットを握り締めながら、こちらを見ている。

「こっちに並べば早いのに。何してんだろ?」と怪訝に思っていた時、「Have a nice and safe trip!」と、パスポートとチケットを渡された。「Thank you」とカウンターを離れ、セキュリティーチェックのポイントに向かう時、ちらっとその人達を見ると、相変わらず、がら空きの隣のカウンターに移ろうとする人はいない。

そのカウンターのアメリカ人スタッフが、いくら「お待ちの方はこちらへどうぞ~」と声を張り上げても、まるでその声が聞こえないかのように、今並んでいる列から頑なに動こうとしない。むしろ、その人と視線を合わせるのを避けているようにも見えた。その様子に、アメリカ人スタッフは両手を広げ、呆れたような仕草をしている。

「なるほど」と、その時気づいた。他のカウンタースタッフは、すべて日本人だったのだ。相手が日本人なら、日本語が通じる。だが日本語を話さないアメリカ人スタッフでは、当然やり取りは英語になる。つまり「恥をかきたくない」ということなのだろう。

もしアメリカ人スタッフの問いに答えられなかったり、言っていることの意味が理解できなかったりした場合、自分の英語力のなさを、大勢の「同胞」の前で露呈することになる。なんとか自分の意思を拙い英語で伝えようと奮闘する「みっともない姿」を大勢の人の前に晒したくないのだ。

「なんつーええっかっこしい・・・」と半ば呆れて見ていると、突然その列の人達が一斉に動き出した。どうやら業を煮やしたアメリカ人スタッフが、日本人スタッフを呼んでカウンター業務を交代したらしい。私の後、人っ子一人いなかったそのカウンターの前に、あっという間に長い列が出来ている。

何というか、ちょっといただけない光景だった。同じ日本人として言いたくはないが、島国根性というか、卑屈さのようなものが滲み出ていた。「しっかりしろよ!日本人!」という感じ。それは、かつて世界から「美しく、崇高な精神を持った誇り高い人々」と敬意をもって呼ばれた姿ではない。

今の日本人の多くは勘違いをしている。「プライド」という言葉を口にする割には、その言葉の意味を本当にわかっていない。現在の日本人が「プライド」と思い込んでいるのは、実は「見栄」だ。

自分をよく見せようと、ただ体裁を取り繕っているだけ。自分の器の小ささを必死に隠し、必要以上に大きく見せようと片意地を張っているだけだ。実にくだらない部分にエネルギーを使っている。猫が相手を威嚇する時、自分を大きく見せようと毛を逆立てるが、それと変わらない。

本当のプライド、誇りとは何か―それは「ありのままの自分」で勝負する覚悟ができているということ。どこの国でも、どんな国の人でも、どんな地位の人が相手でも、そのままの自分で、自分自身に自信を持って、堂々と渡り合えることができること。一人の人間としての自分に価値を見出し、その自信を持って生きるということだ。学歴、出自、地位等、そんなものは関係ない。

ネイティブスピーカーでないことを、なぜそんなに恥じるのか?日本人なのだから、英語が話せなくて当たり前。外国で日本人観光客を見ていると、「どうしてそこまで自分を卑下するのか」と思うことがある。

日本語アクセントの英語でいいではないか。日本人なのだから。なぜレストランやファストフードで注文する時、教科書に出てくるような文章で注文しなくてはいけないとガチガチになるのか?隣の席の料理やメニューの写真を指差して、笑顔と共に、ひと言「プリーズ」でいいではないか。

「言葉ができないのに来ちゃってすみません」と申し訳なさそうに旅行しているのは、世界で日本人くらいのものだ。言葉が出来ないとしても、堂々と礼儀にかなった態度で振舞っていれば、それは相手に必ず伝わる。

格好悪いところを見せたくないため、見栄を張りたいがためだけに、リスクを避けるなどというのは、卑屈さ以外の何物でもない。そこには「誇り」なんてどこにもない。

肩書きとか学歴に必要以上に拘ったり、気にしたり、拠りどころにするのも同じことだ。「素の自分」で勝負できる自信がないから、そういった「条件」を必要以上に気にしたりする。それは、ただ見栄からくるものでしかない。

もしそのプライドが「本物」なら、例え恥を掻いても、失敗しても、自分でそれを笑い飛ばせるような爽快さがある。「誇り」というものは、単なる自己保身のためにあるのではない。


堂々と、美しく、誇り高く―本来日本人が「あるべき姿」に戻る時が来た。




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沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

 2009-03-13
母は遺書を残していた。父、私、弟、祖母、実の妹である叔母に、それぞれ1通ずつ。通勤に使用していたバッグの中に、「家族へ」と書かれた大きな封筒に一緒にまとめられていた。

アメリカから急遽帰国した私が、父から真っ先に渡されたのはその遺書だった。アメリカに住み始めて以来、時々母から手紙をもらっていたのだが、その最後の手紙も、同じエアメール用の薄い便箋に書かれていた。

その手紙は今は手元にない。自死ということもあり、警察の捜査、現場検証の折、家族宛の遺書は全部証拠物として押収され、それっきり戻ってこない。でも、今でも文面ははっきりと覚えている。

結婚や出産等、これからの人生で母親の助けが必要になることがたくさんあるというのに、こんなことになってしまって本当に申し訳ないと思っていること、私は一人でも生きていける子だから何も心配していないということ、人に後ろ指を差されないように、でも自分が思ったように自由に人生を生きなさいということ、自分の49年の人生は何も後悔がないこと―そういったことが、便箋2枚にびっしりと書かれてあった。

何度も「ごめんなさい」と書かれてあるその手紙を読んだ時、不意に今まで経験したことのないような感情が湧き上がった。自分自身思いもかけないようなものだったので、正直戸惑った。


私と母の関係は、正直あまり「良い」とは言えないものだった。「愛憎半ばする」そんな言葉が当てはまるようなものだった。子供の頃、「早く大人になりたい」と口癖のように言っていたのも、母から解放されて自由になりたいが故だ。

あれこれ尤もらしい理由を付け、その必要もないのに半ば強引に19歳で実家を出た時もそうだったが、日本語教師としてアメリカで勤務することになった時は本当に嬉しかった。「これで母から自由になれる!」そう思った。「もう私の人生にこれ以上口出しさせない」


それほどまでに母から自由になることを望んでいた私が、彼女からの最後の手紙を読み終わった瞬間に思ったことは「母に見捨てられた」。怒りや悲しみや絶望感、そういった自分でも説明のつかないような複雑な感情が一瞬のうちに湧き上がってきた。矛盾しているのはわかっている。だが、母にこう言ってやりたかった。「どうして私を見捨てたの?!」


自死遺族の大半は、私と同じ感情を体験する。「見捨てられ感」とでも言ったらいいだろうか。多かれ少なかれ、親しい人や近い関係の人が別れも告げず、はっきりとした理由も告げずに、自死という、ある意味一方的な形で自分の前から突然去っていった経験を持つ自死遺族は、生前の故人との関係の良し悪しに関係なく「見捨てられた」と感じる。

続柄も関係ない。故人が親であろうが、子供であろうが、兄弟姉妹であろうが、配偶者や婚約者、友人であろうが、感じることはまったく同じ。

最後の手紙や電話やメール、その中で、故人がどれだけ自分への愛情を表現してくれていたとしても、それは関係ない。むしろそれが強いものであればあるほど、「自分は見捨てられた、あの人は自分を見捨てた」という思いは強くなる。これは理屈で説明できるものではないのだ。

最後に示してくれた自分への愛情に感謝して、その道を選ばざるを得なかった故人を許し、理解してあげる―そんなことは分かっている。そうしてあげたい。またそうするのが遺された自分自身を納得させる一番の方法だということも十分理解している。

しかし、どうしようもないのだ。それが簡単にできたら、何年も何十年も遺族が苦しみ続けることはない。故人を許せない自分、自分を大切に思っていてくれた人に対して、いつまでもこんな思いを抱き続ける自分自身に嫌悪感や罪悪感を抱いて悩む人もいないはずだ。

自死に至る理由が何であれ、例えそれが「無理もない」と納得できるようなものであったとしても、心の中では「裏切られた」という思いが消えない。「一方的に裏切られた」という気持ちがあるから、多くの遺族は故人に対しての「怒り」を捨てられないのだと思う。遺族が感じる「見捨てられた」という思いは、「裏切られた」という意味でもある。

一番身近な人、一番親しい人に「裏切られた」という思いは、ますます遺族を孤独に追いやっていく。

「自分を信頼していなかったから打ち明けてくれなかった、助けを求めてくれなかった。こんな自分に相談しても何もならないと思っていたから、あの人は黙って逝ってしまったにちがいない」そんなふうに、「役立たずの自分」に対して強い無力感を覚える人もいる。そしてそれが人としての「無価値感」へと繋がっていく場合もある。

親しい人を突然の形で失ったことに対する恐怖から、周囲の人達と意識的に距離を置くようになる人もいる。それほど親しい人でなければ、万が一同じことが起こっても、その時のショックは少なくてすむからだ。

自死遺族の心情というのは、同じ経験をした者でなくては理解できないような複雑なものがある。感情のうねりや受けた衝撃等、そういった経験のない人達には、なかなか理解し難い。

気遣ってくれたり、話を聴いてくれたりして、一生懸命力になろうとしてくれているその気持ちは本当に有り難い。しかし、「わがまま、勝手」と言われても仕方がないことなのだが、どうしても「経験した者」と「そうでない者」との間にある壁、理解や共感の「限界」のようなものが存在することも事実だ。

私自身、そして今までお会いした自死遺族の方達全員が、多かれ少なかれその「壁」を何度となく感じてきた。テンションの違い―とでも言うのだろうか。そういった経験のない人達からしてみれば、「どうしてそんなことが?」と、ただ未練たらしく拘って、引き摺っているようにしか思えないことが、遺族にとっては一番苦しく辛い部分であったりする。

家族の死から1年経った頃、まだ立ち直れない自分の様子を見て、「もういいじゃないの」と友人に言われ、傷ついた経験のある人もいる。「もういいって、何が?いい加減に悲劇のヒロインぶるのはやめろって言いたいわけ?」そう思ったそうだ。

私も同様のことを言われたことがある。その人に他意はなかったと思う。表面上は以前と変わらない私の様子を見て、「その調子で、過去のことは割り切って前向きに生きなさい」という意味での、ある意味励ましの言葉だったと思う。しかし、自死遺族に関しては「もういい」「割り切る」という言葉、そう思える時は、多分永遠にないと思う。

一番理解してほしい部分を理解してもらえない―これは本当にもどかしく、辛く苦しいことでもある。その噛み合わない部分が、「誰も自分の気持ちを理解してくれない。自分は独りだ」という思いを余計に募らせる。自死遺族の4人に1人が「死にたいと思った経験がある」と言うのも、こういった孤独感が大きく影響していると思う。

家族とも、親しい人とも自分の胸の内を語り合えない、思いを共有できないその閉塞感は、言葉では言い表わせないものがある。そしてその感覚は、人によったら何年も、何十年も続いたりする場合もある。長く暗い、出口がまったくないトンネルに入り込んで、そこを灯りもなく一人で心細く歩いているような感覚に襲われる。

「ここからいつ出られるのだろう?この闇はどこまで続くのだろう?」そう思いながら歩き続けるしかない。時にはその暗さや、出口の見えない苛立ちに耐えかねて、叫び出したくなることもある。だが、行きつ戻りつ、折り合いをつけながら、少しずつでも進んでいくしかない。簡単にそこから抜け出す方法なんか、誰も教えてくれない。暗闇の中で、手探りしながら自分で見つけていくしかないのだ。

ただわかっているのは、その闇が途轍もなく深いということ。「孤独」という言葉の本当の意味を、自分が今はっきりと理解したということだけだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。


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沈黙の悲しみ(1)その衝撃

 2009-03-11
自死遺族の胸中が、第三者に向けて語られることはほとんどないと言っていい。

同じ家族であったとしてもそれは変わらない。故人のこと、故人のした行為は「家族のタブー」となり、故人に関することは、それ以降一切口にすることがない、口にすることができない雰囲気が出来上がってしまう場合もある。

故人の名前も、故人にまつわる思い出話も、会話の中に一切出ることのないよう、それを避けようとする。触れないように、忘れたかのように、まるで何も起こらなかったかのように―何気ない日常会話にさえ神経を尖らせるような状況に陥っていく。遺された家族がお互い息を殺すように、神経を張り詰めて過ごす。

自分の不用意なひと言が、今以上に家族を傷つけたりしないか、動揺させることにならないか、それが怖いのだ。なぜなら皆、もう十分傷ついて苦しんできたのだから。「これ以上誰も傷つけたくないし、傷つきたくない」そういった思いがお互いにあるので、誰も自分から語ろうとはしない。自分の中の怖れが、「もう誰も、何もこれ以上失いたくない」という思いがそうさせる。ある種の防衛反応でもあると思う。

同じ体験や思いを共有した一番近い人達、家族とさえ、互いの胸の内を話し合うことができない。それは息苦しさや悲しみと共に、例えようのない「孤独感」をもたらす。自死遺族が抱えるそういった思いは「沈黙の悲しみ」と呼ばれる。

それは、自分の感情を露にすることを否とし、耐え忍ぶ傾向の強い日本文化に生まれ育った自死遺族だけに見られる特徴ではない。オープンマインドな印象の強いアメリカでも、「胸中を明かさない、自分だけで耐える」という自死遺族の傾向はまったく変わらない。自死遺族の「沈黙の悲しみ」については、世界共通している。

自死という形で身近な誰かを失うことによって生じる衝撃の度合は、暴行・強盗・強姦・テロや戦争・大災害の被害に遭う、誘拐され人質になる、拷問を受ける、大事故に巻き込まれる等、命に関わるような経験をした人、いわゆる「地獄を見た人」が受けたショックと同じ強さと言われている。こういった被害者の多くが経験する心的外傷後ストレス障害―PTSDの症状が表れる自死遺族が多いのもこの為だ。

自分の受けた衝撃が強すぎるあまり、今の自分を保つことで精一杯になる。「誰かに話したくても話せない」というのが正確なところだと思う。なぜなら自分自身、自分の身に起こったことが信じられないのだから。通常の思考パターンなど完全に吹き飛んでいる。人に話そうにも、考えが頭の中でまとまらない。

すべてが夢の中で起こっているような気がして現実感がない。足元がフワフワして、足が地に着いてないような感じが何ヶ月も、何年も続く。自分の感情とはまったく関係なく、気がつくと涙を流していたりする。「どうして気づいてあげられなかったのか、何もしてやれなかったのか」という罪悪感、「なんてことをしてくれたんだ」という故人への怒り、自死を選ぶまで追い詰められていた故人への憐憫―そういった感情が、脈絡も無く浮かんでは消える―ということが延々と繰り返される。

「かわいそうだった」と思う次の瞬間、どうしようもない怒りが込み上げてくる。そして一瞬の後には何もできなかった自分への強烈な罪悪感が襲ってくる。そしてその次の瞬間にはまったく違う感情が―というように。その無限ループから解放されるのは、眠っている時だけだ。

周りからは通常の状態、以前の生活に戻ったように見えたとしても、それはあくまでも表面だけ。本人の中では、実は「あの時」から時が止まったままだ。今と「あの時」を、行ったり来たりしている。普通に誰かと会話をしていても、頭の中では「あの時」を絶えず巻き戻しては再生している。

「もし~だったら」「もし自分が~してあげていたら」取り返しがつかないことに対して、頭の中で、事実とはまったく異なるシナリオを書いては、何通りもの違う結末の話を想像している。

いくらそこから離れよう、今までと同じ生活に戻ろうと思って努力しても、いつの間にか、また「あの時」に戻っている自分自身に気づいて愕然とする。自分の意思とはまったく関係なしに、無意識で繰り返されるそれは、心身を消耗させる。

頭では事実を理解していても、心はそれを受け入れられない。自死遺族にとって、実はここが一番辛い部分だと思う。

「どうして?なぜ?」その間も、常に心はそう叫んでいる。その叫びは「あの時」からずっと続いている。どんなに時間が経っても、それは決して消えることはない。消えたと思っても、それはただ小さく、囁きに変わっただけだ。

母が亡くなって20年経ち、時間と共に事実や当時の母の心情も自分なりに理解し、受け止められるようになった今でも、私の中の「どうして?なぜ?」という声は消えない。そしてそれは、多くの自死遺族も同じなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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4月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-03-11
3月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 4月5(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 4月1日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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スピリチュアリスト達の矛盾

 2009-03-06
やたら「愛」という言葉を連呼する人達がいる。大抵は、自己啓発や精神世界に熱心な人達だ。だが、その人達が四六時中口にする「愛」は、「LOVE」ではない。愛は愛でも「馴れ愛(合い)」だ。

その人達は、とても「なかよし」だ。みんなで仲良く、和気あいあいと楽しく過ごしている。誰かが口にする言葉に対して「そうよね~そのとおりよ~」と、一様に頷き合う。しかしそこで、ちょっとでも疑問や反対意見を口にすれば、その場の雰囲気は一変する。まるで裏切り者や悪魔が紛れ込んでいたかのような騒ぎになる。

なぜなら疑問や反対意見を口にすることは、その人達にとっては「愛がない行為」だから。「愛に満ちた人」なら「絶対にしない、してはいけない」とされていること、いわゆる「タブー」に相当することだからだ。

要するに、「イエスマン」しか要らないということ。その場の空気を読み、その雰囲気を保つこと、相手の言うことを全部肯定賛成し、お互い気持ち良くいられることが大前提だということだ。違和感や反対意見を覚えたとしても、その場を和やかに保つためなら決してそれを口にしてはいけない―「馴れ合い」以外の何ものでもない。

自己啓発や精神世界の類のセミナーでは、大抵がそんな感じだ。ちょっと有名だったり人気のある講師やヒーラーの周りには、たくさんの取り巻き、「イエスマン」が大勢いる。その様子は、ちょっとした新興宗教のようだ。教祖と信者―といった感じ。「教祖」の顔をうっとりと見つめ、しきりに頷いて賛同の意を表す。教祖には誰も反対意見を唱えない。信者同士でもそれは同様だ。

そばで見ていると、非常に寒々しい。某講座でその光景を目の当たりにした時、正直気持ちが悪かった。

大体「愛、愛」と連呼する割には、反対意見を口にした人に対して反論する様子は、はっきり言って「攻撃」としか思えないような質のものだったりする。日頃「愛のない言葉はナンタラカンタラ」と言っているが、そこには愛なんてものはどこにも感じられない。あるのは自分を否定されて面白くないといった、ある種の「恨み」のような感情だけだったりする。

愛とか光とか、穏やかなことを唱えている割には、すぐ激高するような感情の起伏が激しい人が多いのも特徴だと思う。きちんと根拠のある反対意見や批判を、即「自分への否定」と思い込む。感情論で終始するので、きちんと筋の通った話ができない。論理に感情では噛み合うはずがない。

自分達と異なる考えや意見を持つ人を、即「悪」「裏切り者」と決めつけ排除するその姿勢―どこに「愛」があるんだか・・・。その人達が言うところの「愛」が、「その人を自分の価値観で決めつけず、裁かず、その人のありままの姿を受け入れること」であるというのなら、まったく矛盾している。

愛とか光とか、そういった明るい響きのものに拘っている人ほど、強烈なネガティブ思考やマイナス感情を抱えているような気がするのは私だけだろうか。ある種のコンプレックスの裏返しだと思う。自分の中の闇が深いほど、明るいものを求め、惹かれるものだ。

セミナーの参加条件の中に、「周りの人と仲良くする気がない人はお断り」等と書いてあるのを見ると、一体何を目的としているのだか疑問が湧いてくる。みんな仲良く、楽しく、お互いを褒め合っていい気持ちになるのが「愛」であるというなら、そんな愛は要らない。同志だけで「馴れ愛」の幻想を楽しんでいればいい。

愛とか、ワンネスとか言っている割には、実はものすごく狭い世界で、限られた人達だけで、ちまちまと「スピリチュアルごっこ」を楽しんでいるに過ぎない。変な選民思想とか、そういったものを増長しているだけ。狭く、閉鎖的な世界でもある。

自分達の言動の矛盾にまったく気づかないスピリチュアリスト達―それこそが最大の矛盾だ。




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九分の幸せ

 2009-03-05
年毎に年齢は増えていくが、それとは逆に、気持ちは軽くなっていく。すべてにおいて「体感」が軽い。すべてにおいて「執着」がない。軽やか―とすら言える。


若い頃、30代半ばくらいまで、「何かを得ることが幸せ」と思っていた。仕事上でのキャリアや名声、夢や目標の実現、資格や技術取得のための習い事、有名ブランドの服やバッグやアクセサリー、高価な化粧品やエステ、海外旅行、一流レストランでの食事、いい関係を築けるパートナー・・・物心両面に渡って、「手に入れること、満たすこと=幸せ」と思っていたような気がする。

若さゆえの背伸びで、周りからしたら不釣合いに見えることもあったかもしれないが、それはそれで良い経験をしたと思う。実際に経験してみなければ実感できないことも、この世にはたくさんある。

そして、実際にそれらを一通り経験してきてみて、40代になった今思うのは、私自身にとっての幸せは、「得ることではない」ということだ。むしろその逆で、「捨てることが幸せ」なのかもしれない。


今の私の生活は、とてもシンプルだ。昔から物をため込んだりするタイプではないが、今自分の周りには「本当に好きなもの」しかない。例え100円ショップに行ったとしても、気に入る物が見つからなければ何も買わない。しかし気に入った物であれば、少々値が張っても即決する。

「まあこれで我慢しておくか」というような妥協で買った物は、何ひとつ我が家にはない。シーツ一枚、コップ一個にしても、全部気に入って買った物だけだ。でももし仮に、「スーツケース一個だけで、今すぐ外国に移住しろ」と言われたとしても、まったく問題はない。

物だけではなく、人もそう。人との繋がりは大切だが、無理に仲良くなろうとか、知り合いを増やそうとは思わない。「本当に心から付き合っていきたいと思う人」だけ。上辺だけの付き合い、便宜上の繋がりは要らない。友達の数等で自分の顔の広さを競うのは、何か筋違いのような気がする。500人分のメルアドを持っているとしても、「その数=自分の価値、自分の人気」を表すものではない。

それは人をシャットアウトするということではない。縁あって出会って、自然な流れに任せて、お互いを大切な存在と思うようになった人達と、自然体で付き合っていくことができたら、私はそれで十分だ。

だが、その人達にも執着するつもりはない。縁があれば付き合いは続いていくだろうし、ある時期に離れることもあるかもしれない。でも、それでいいと思う。薄情と思う人もいるかもしれないが、多くの人が悩む人間関係は、その執着から発生するものだと思う。流れに任せて、淡い水のように繋がっていれば、それでいいのではないだろうか。

お金にしても、確かにあったら助かるが、特に「大金持ちになりたい」「大豪邸に住みたい」とも思わない。何かの拍子でそういった環境が与えられたら、多分それはそれで楽しむとは思うが、過去に「銀行残高4322円」を経験して以来、毎日ご飯が食べられて、住む場所があって、仕事があればそれで十分―と思うようになった。

時々、冗談で友達と「もし宝くじで2億円当たったら○○ちゃんにこれくらいあげるね♪」と言い合っているのだが、未だかつて、その宝くじを買ったことがない。マンションから歩いて20秒の隣のコンビニでも売っているのに、買おうとも思わない。まあ買わなければ当たらないのは当然だが、「試しに一度買ってみよう」とすら思わないのは、多分、今の生活に満足しているからだ。


人というものは、自分のところに廻ってきたものだけで十分幸せに生きていける―と、私は思っている。

とかく物事は自分の思い通りにいかないもの。だから望んでいたことの九分まで叶えば十分なのであって、それで満足すべき―という意味の「九分で十分」という言葉がある。

人によっては、この言葉を「今の状態で我慢しろ、妥協しろ」という意味で捉えるかもしれない。足らないもの、欠けているものに目が向いてしまうのは人間の常であり、自然なこと。だが、日常の中の「小さくて平凡なラッキーや幸せ」に気づくと、今の自分がどれだけ恵まれた環境にいるか、それが分かってくると思う。

「私達は、今手に持っているレモンだけでレモネードを作るしかない」と、ミュージシャンのマドンナは言っている。配られたカードで精一杯の勝負をする、自分に与えられた環境や条件の中で、どれだけがんばって、その人生を良いものにする努力をしていくか―ということだ。

「あれもほしい、これもほしい」「あれが足らない」手に入れることだけ、満たすことだけが幸せと思い込んでいるうちは、「満足する時」は決して来ないだろう。今自分が手にしているもの、今自分の目の前にあるもの―実はすでにそれだけで「十分」なのだ。現に今までそれで「なんとかなってきた」のだから。

「それがないと絶対に生きていけない?それがないと絶対に困る?」そう自分に問いかけた時、どれだけのものが「要らない」という答えになることか。「本当に必要なもの」はごく僅か。人生は、わずかなものだけで渡っていけるようにできている。

その真理に気づいた時、人は「身軽」になる。自分自身で作り上げた「執着」からも自由になる。「幸せの定義」は人それぞれだが、意外と今自分が拘っているもの、囚われているものの対極に存在するものが、自分にとってのそれなのかもしれない。

今の私は、とても「幸せのハードル」が低い。コンビニのおにぎり一個で、十分それが越えられる。「九分」どころか「一分」で十分。ある意味「安上がり」かもしれないけど。

バブルの時代、東京のど真ん中で”貪欲に”生きていた頃からは考えられない。あの頃は「自分にとっての幸せは得ることだ」と信じて疑わなかった。「九分で十分」なんて、どこ吹く風のあの頃。

「九分でも満足しなかった昔の私」と「一分で十分の今の私」どちらも愛おしい。そして今の私は「一分で満足する今の自分」がとっても好きだったりする―と言える私は、今十分幸せだ。


(追記)

若いうちは、貪欲でいいと思う。それが「若さ」でもあるのだから。物事は両方経験してみなければ、本当の形は掴めない。どっちも経験してみたらいいと思う。それが世間から公明正大に許される時期でもあるのだから、その機会を十分に「利用」したらいい。失敗を恐れたり、「正しくありたい」と思うあまり、「お利口さん」で留まっている必要はない。

長年修行を積んできた老僧みたいに、早い時期から悟りきってパサパサになるなんてもったいない。若いうちは油ギトギト、欲望ギラギラで構わない(笑)







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リーダーの資質

 2009-03-03
サロンにいらっしゃる人は、30代~50代が多い。社会でも組織でも、いわゆる「中堅」としての役割を担っている世代。自分で起業している人もいれば、組織で管理職に就いて、部下を持っている人もいる。

特に春は人事異動の季節でもあるので、毎年この時期はそれに伴う悩みや相談が増える。人によって相談内容は様々だが、一番多いのは「自分のリーダーシップ対する不安」について。昇進して、初めて部下を持ったばかりの人から、数十年以上に渡って自分で会社を経営し、従業員を抱えている人まで、その悩みは共通している。


10年位前だと思うが、南極の昭和基地に勤務する越冬隊員達に密着したドキュメント番組が放送されていた。隊員はすべて男性、滞在期間は1年から2年。仕事上で面白くないことがあっても、気軽にどこかに気晴らしに行けるような環境ではない。周りには雪と氷があるだけだ。

家族や親しい人達とも離れ、気晴らしも儘ならない南極での生活。やはりストレスも溜まってくる。それが人間関係や仕事にも影響してくるのは当然のことだ。

「大変だろうな~」と思いながら見ていると、食堂での食事風景が映っていた。隊員達はそれぞれ気の合った者同士でテーブルを囲み、談笑しながら食事している。そんな中、昭和基地の総責任者でもある隊長だけが、隊員達と離れ、一人で黙々と食べている。

時々聞こえてくる部下達の会話の内容に、ニヤリとすることはあるのだが、決してその輪の中に入っていこうとはしない。そしてそれは毎回同じだった。部下達との関係が悪いわけではない。話しかけられればにこやかに答えるし、その答えに隊員達が爆笑することもある。

しかし相変わらず、隊長はいつも食事中は一人だった。ある時取材スタッフが聞いた。「どうして皆さんと一緒に食べないんですか?」

「こんな辺鄙な所で男ばっかりでいると、どうしてもギスギスすることがあります。時々、輪の中から外れる者も出てくる。そんな時は私が受け皿にならなくてはならない。私が毎回特定の隊員達と食事をしているとしますよね?もし輪から外れた者が、私と食事をしている隊員の誰かと軋轢があった場合、相談しにくいでしょう?そういったことはもちろんですが、あえて憎まれ役を買って出なければならない時もあります。正直孤独を感じる時もありますが、まあ隊長という職はそういうものです」


「人をまとめる」ということは、その人達の顔色を伺うことではない。自分が好かれているかどうか、よく思われているか―そんなことは「どうでもいいこと」だ。自分のリーダーシップに不安や悩みを抱えている人は、そこのところを誤解している。部下達に好かれることが、「リーダーの条件」と思い込んでいる。

「いかにして好かれるか」と気にしているうちは、正直リーダーとしての器ではない。「上に立つ者」というのは、部下の意見を汲み取り、それを反映させるが、顔色は伺わない。嫌われたくないばかりに、言うべきことを言わずにいる人も多い。

部下のご機嫌取りに必死になるというのは、自信のなさの表れでもある。自信のなさを露にしているリーダーに、部下は従わない。能力云々が問題なのではない。そういった姿勢、「好かれたい」等という個人的な願望や欲を仕事上に優先させているその考え方にこそ問題があるのだと思う。

「リーダーとしての自信が・・・」と不安や悩みを訴える人達の大半は、実はこの部分が根本の原因だったりする。


リーダーの一番大切な役割は、部下達が仕事をしやすい環境を作ることだ。いろいろな意味で、いかにして快適な「仕事環境」を提供していくか、部下達の状況や仕事の進捗状況を正確に把握し、今後の展開を読みながら臨機応変に対応し、仕事を進めていくこと。

自分が好かれているかどうかなどと考える必要はない。そんなものは二の次。人には相性があるのだから、お互いに良い感情を持てないことがあっても、それは当然のこと。ただ、同じ組織で一緒に仕事をする者として、社会人として、人として、”普通に”礼儀正しく接していればいい。たとえ個人として好かれなくても、リーダーとして認めてもらえればいいだけだ。

職場は「なかよしクラブ」でも、友達を作るためのサークルでもない。「仕事」をする場所。私情を最優先する場所ではない。「プロ」に徹する―職場とはそういう所だ。

「プロのリーダー」として、「プロの気構え」を持って、「プロの仕事」をするという覚悟を持つこと―それこそがリーダーに求められていることだ。




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盲信

 2009-03-02
人を信じることは大切だ。しかし、誰かを信じるということは、その人にすべての責任を押しつけるということではない。「信じる」ということは、その人を信じた結果、例え自分が望まない展開や答えになったとしても、それさえも全部自分で引き受ける、受け止めるいう覚悟をすることだ。

多くの人は「信じる」という意味を勘違いしている。「あの人の言うことに間違いはない」「いい人だから正しいに決まっている」根拠もなく、そう思い込むのはただの「盲信」。その根底にあるのは、「依存」と「甘え」だ。相手を「拠りどころ」にしているだけ。

人というものは、結局「自分の見たいように見て、思いたいように思う生き物」だ。必ずしも、常にその人やその物事の「真実の姿」を捉えているというわけではない。あくまでも、自分にとっての都合のいい姿、自分が勝手に思い描いている「期待像」を投影して、それを見ているだけ―という場合が多々ある。

自分の期待したものが相手から返ってこない場合、人は騒ぎ立てる。「そんな人とは思わなかった」「あなたを信じていたから、言ったとおりにしたのに」相手から「裏切られた」という思いが込み上げてくる。

しかしその人は、多分最初から何も変わっていないはずだ。「裏切られた」と思った部分も、初めから見せていたはずだし、隠そうともしていなかったはず。「自分が見ようとしなかっただけ」だ。無意識に相手に何かを求め、依存した結果。

「信じる」ということは、信頼や真実の中心を自分自身の中に置くこと。あくまでも「自分」を拠りどころにするものだ。誰かから、何かから「お墨付き」を得ることでもたらされる安心や安らぎに甘んじることは「信じる」の本当の意味からは程遠い。

誰かの言葉を「バイブル」にする必要はない。真実は人の数だけ存在する。その人にとっての真実が、自分にとっての真実とは限らない。その人から言われたことを、そのまま「それが正しいこと」と鵜呑みにして信じ込むのは危険だ。盲信は自立の心を奪う。

自分自身で感じ、考え、選ぶ―真実はそうして見つけていくものだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。



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