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 2009-02-20
学生の頃、東京都内の学習塾で講師のバイトをしていた。生徒は小学校3年生から高校3年生。1クラス大体10名前後で、成績別のクラスに分けられていた。各学年、AからDまでの4クラス。一番成績の良いクラスから順にDクラス、Cクラス・・・となっていく。

私がメインで受け持っていたのは小学5・6年生と中学2年生のDクラスとAクラス、高校1年生のBクラスだった。一番成績優秀なクラスと一番成績が良くないクラス、そして平均的レベルのクラス―満遍なくというか、すべてのタイプの子達と接するのは、なかなか面白かった。

当時の私自身、まだ19、20歳の子供だったので、生徒と言うより、弟や妹に勉強を教えているような感覚で、それほど大したことはしていなかったと思うのだが、その子達と接していくうちに気づいたことがあった。

それは各クラスの特徴というか、「差」のようなものだった。知能のレベルがどうこうというのではなく、「思考パターンの違い」のようなものだ。これが明らかに違う。それは質問の仕方等にも表れる。

例えば、数学の方程式の問題を生徒に解かせていたとする。その問題が解けなかった時、成績の良くないAクラスの生徒達は「どうやって解くの?」と、使用する公式等、「答えを得るためのやり方、方法」をすぐに知りたがる。そしてそれ以上の質問をしない。

しかし、成績の良いDクラスの生徒達は、「この方程式の場合、この公式を使うと・・・」と説明すると、「どうしてその公式を使うの?」と、さらに突っ込んだ質問をしてくる。「なぜその公式なのか」という「理由」を尋ねてくる。

「どの公式を使うの?」と「どうしてその公式を使うの?」この違い、「差」は、実はとても大きい。

前者は、「手っ取り早く答えを求めればいい」と思っている。いわば「対症療法」的な思考方法だ。「とりあえず、この問題の答えがわかればいい」という、ある意味「付け焼刃」のような考え方。その時はそれでよくても、根本の解決にはなっていない。

「どうして?」という、その先にあるもの、またはその根っこにあるもの、「理(ことわり)」に目を向けることが、「理解」には必要不可欠だ。そこに至るまでの「プロセス」を飛ばして安易に答えを求めようとすることは、結局何の広がりも生まない。「応用力」が身につかない―と言ったら分かりやすいだろうか。

これは方程式に限ったものではない。最近、セラピーを受けに来る人達の中にも、そういった傾向が強い人がかなり見られる。「早くこの状況を変えたい」「どうしたら楽になれるか」ということにしか目が向かない。カンフル剤のように、効き目の即効性を求めるだけで、その問題の根本にある原因を探ろうとしない。

こういったセラピーやカウンセリングを受けに来られる人達が求めているのは、「変化」だと思う。その気持ちはよく理解できる。しかし、物事には「順序」というものがある。「変化」に至るまでには、ちゃんとその間に存在する「プロセス」を踏む必要がある。

まずは「認識」、今の自分の状況を、冷静に、客観的に観て、「なるほど。今の自分はこういう状況にいるんだ」と知ること。そして、「でも自分はこうなりたい。だったら今のこの状況の、どの部分を変えていったらいいんだろう?」と考える。「じゃあ、こういうことをやってみよう。ここをこう変えてみよう」と、それを実際の「行動」にする。その行動を「継続」する。あきらめずにずっと続けていく。その先に「変化」がある。

「認識」→「行動」→「継続」→「変化」の順番となる。これが「変化」に至るまでのプロセスだ。

しかし、「すぐに答えを求めようとする人」は、一番大切な部分―「行動」「継続」の部分がすっぽりと抜け落ちている。その部分に取り組もうともせず、楽をして、すぐに「変化」、「結果」を求めたがる。

こういったタイプの人は、「応用力」が身についていない。悩みや問題があると、すぐにその解決方法を知りたがる。仮に解決したとしても、所詮「対症療法」で、その「原因」をまったく理解していないので、また何か新しい問題が出てくると大騒ぎする。その「根っこ」が、前回とまったく同じものであったとしても、表面に表れている姿かたちが違うと、もうそこでアウト。

成績の良くないAクラスの生徒達は、その傾向が強かった。努力や勉強量の割に、成績が上がらない。ただ詰め込むだけで、「どうして?」という部分への探究心や好奇心が欠けているので、その先に進めないし、広がっていかない。

「勉強は人から教えてもらうもの」という受け身の考えをしているうちは、何も変わらない。人生に関しても同じことだ。悩みや問題の解決方法や答えを人から教えてもらって楽になりたい、教えてもらえばいい―と思っているうちは、人としての成長も、ある段階で足踏み状態となる。自己啓発セミナーやセラピー、占いの類にベッタリと、依存状態になる人に多い傾向だ。

目の前にあるものにしか目を向けず、その原因や、なぜそこに至ったのか―ということを自分で追求していこうという好奇心や探究心が欠けているが故だ。「分からないことや知らないことを、まず自分で考えてみる・調べてみる・それがどんなものか、自分で体験してみる」という「癖」がついていない。

学歴とか卒業した学校のレベルとか、そういったものは一切関係ない。世間で言うところの「いい学校」を卒業した人でも、「受け身」の勉強をしていた人は、その癖が抜けない。すぐに楽になれる方法、「答え」を求めたがる。答えを丸写しするのは簡単だ。しかし、それでは何も身につかない。

学校や教師、セミナーやその講師、カウンセラーやセラピストは「答えを教えてくれる場所、答えを教えてくれる人」ではない。「自分が求めている答えのヒントを与えてくれる場所、ヒントを与えてくれる人」にしか過ぎない。「勉強」は、自分が主体となる「能動態」でしていくものだ。

心の面に関しては、「近道」はあり得ない。きちんと段階を踏んで、自分でその都度考え、学んでいくというプロセスを通らなければ「理解」にはたどり着かない。人としての成長に、マニュアルなどないのだ。それを求めるのは、ただ楽をしたいがための浅ましさでしかない。

「自分で学んでいく」その姿勢と覚悟が、人としての成長へと繋がっていく。「どうしてこうなるんだろう?」「何が原因なんだろう?」理(ことわり)への好奇心や探究心が、すべての源(みなもと)となるのだ。



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カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

3月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-02-19
3月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 3月1日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 2月26日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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「オス」の不在

 2009-02-19
最近、自分の信念を持った気骨のある男性が減ってきているような気がする。一本筋の通ったピシッとした人と、そうでない人との差が極端になっている。

「草食系」とか「三低」とか・・・良く言えば、協調性が高くて優しくて穏やか、でもその反面、優柔不断で事なかれ主義とも言える。見ていると、どうも後者の傾向が強いような気がする。

「優しい」ということは良いことだ。だが、「その優しさがどこから来ているか?」ということが大事だと思う。人と揉めたくないとか、物事を穏便に済ましたいがための「便宜上の優しさ」は、本物ではないと思う。自分の弱さから来るものを、「優しさ」とはき違えている人が多い。

ある意味「臆病」なのだと思う。ぶつかり合った後で訪れる理解もあるのに、それを最初から避けようとする。相手とぶつかる、やり合うということの「表面」しか見ていない。ただの「行為」としか捉えていないからだ。

「ぶつかる=争い」と思い込んでいるので、それに近い行為、例えば議論の類も避けようとする。ちょっと厳しくつっ込まれたり、少々不満があったとしても、「自分が我慢すればこの場は丸く収まる」と、あっさりと持論を引っ込めて相手に迎合したりする。

「本当の理解」というものは、その先にあるのに、それを最初から放棄しているようなものだ。「放棄して折れる」ということは、ただの「回避」だ。自分が痛い目を見ないための防御。それを優しさや協調性と勘違いしている人があまりにも多い。

本来「挑戦する」ということは男性性の大きな特長でもある。それを避けるということは、既に「雄(オス)」ではないということだ。生物の雄(オス)としての本能が機能していない。「去勢済み」と言ったところだろうか。


数年前、ニュース番組の特集で「結婚相手に求める資質」のアンケートを男女各世代別に集計していた。対象は20代~60代。それをさらに20代前半・後半、30代前半・後半というように細分化している。

それによると、男女共20代~30代前半までは第1位は「優しさ」だった。男性に関しては、20代~60代すべての世代を通して、「優しさ」が1位。しかし女性に関しては、30代後半~50代前半の第1位は「強さ」だった。「優しさ」は3位くらいだったと思う。2位は確か「経済力」だった。

これはなかなか興味深い結果だと思う。世の中や現実というものを理解でき、冷静に捉えることのできる世代にある女性達が、パートナーの男性に一番に求めるものが「強さ」だという。

対象者の女性の結婚歴の有無等も、結果に大きく関わってくるとは思うが、私自身もまったく同様の回答だ。20代~30代の若いうちは、「わかりやすいもの」に目が向きやすい。人生経験もまだ少ないし、世の中や人についても、それほど深く理解しているわけではない。どうしても表面上のものだけで判断しがちになる。

しかし年齢を重ねて経験を積んでいくと、だんだん物事の真意、深い部分まで理解が及んでくる。「本当の強さや優しさとは何か?」そういったことが実感を伴って分かってくる。

そしてそこで気づく。これまで相手の優しさと思っていたものが、実はそうではなかったということを。それがどういった所から派生しているのか、その部分まで見えてしまうようになる。「優しい人」が、実は「ただの事なかれ主義の優柔不断な人」だったいう事実を知ることとなる。

女性の「勘」は鋭い。動物としての、雌(メス)としての本能は「弱いオス」を選ばない。野生の世界では、弱くて優しいオスは家族を守れない。優しさで獲物を捕らえることはできないし、敵を追い払うことはできないのだ。人間も所詮「動物」。そこは他の野生動物と変わらない。

結婚率の低下を男性だけ責任にするつもりはないが、「男性の中性化、女性化」の影響はかなり大きいと思う。結婚の本来の目的は「子孫を残すこと」、いわば動物としての本能に直結しているものだ。本来の本能が低下・消失している「メス化したオス」とペアを組むことは、種の絶滅に繋がる。メスとメスではDNAは遺せない。生き物としての男性を見切っているというか、あきらめているというか―。

だいぶ前に「おやじギャル」という言葉が流行ったが、「草食系」の男性が増え出したのはその頃からのような気がする。繊細で穏やかで優しいが、その人にしかないもの―「個性」や信念が感じられない。ユ○クロの大量生産された服のようで、「一点もの」という売りがなく、つまらない。

女の眼はシビアだ。「本当の優しさ」と、そうでないものは、ちゃんと見抜いている。ただむやみやたらと優しいだけの甘い男より、人として一本芯の通った、尊敬できる男を求める。自分の弱さや幼さを、優しさと勘違いして、フニャフニャと生きている男は「オス」ではない。

多くの女が求めているのは「強いオス」。優しさを最大のウリにしている草食系クン、三低クン達は、そこのところを勘違いしないように。まあ、くわえタバコで窓に肘をかけて車を運転しているオス化したメスもどうかと思うが、これもオスの不在の反動かと・・・。

実際、今から500万年後には、男性特有のY染色体が消滅する、「男」という生き物が地球上から絶滅する可能性があるという説を発表した科学者もいる。

「日本男児」「大和撫子」という言葉が死語になりつつある今の時代、本来の「男の役割」「女の役割」といったものも、改めて見直す時なのかもしれない。

先日電車で隣に座っていた女子高生二人組みが、「女の子といるみたいで全然ときめかへんねん」と、付き合い始めたばかりの彼氏のことをぼやいていたのを耳にしたので、ちょっと思うところを書いてみました。





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泥中之蓮

 2009-02-18
人間の記憶というのは妙なものだ。小学校卒業からそろそろ30年経とうとしているのに、母校の校歌を未だに覚えている。1番から3番まで完璧に歌える。時々掃除中等に、いつの間にか鼻歌で歌っていることに気づいて思わず苦笑することがある。

その校歌の作詞者は、有名な詩人の先生だった。何かの学校行事の折、主賓として招かれたその方に、当時児童会副会長をしていた私は花束贈呈の役を仰せつかった。

60代前半くらいの、黒縁のメガネをかけた優しそうなおじさんだった。花束を渡しながら「この人が校歌を作ったんだ~」と、しげしげとその顔を見つめた記憶がある。

校歌の3番に「はき溜めにえんどう豆咲き 泥池から蓮の花が育つ 人皆に美しき種あり 明日何が咲くか・・・」という行(くだり)がある。

実は真っ先に私が思い浮かぶのは、このフレーズだ。セラピストとして、いろいろな方達と仕事でお会いするようになってからは特にだ。

「人間の本性は善である」という性善説、その反対の立場から唱える性悪説―どちらも真実だと思う。
善と悪、両方の面を持っているのが人間だ。時と場合によって、どちらかの面が強調される。

生まれながらの善人、生まれながらの悪人はいないと思う。どんな人でも、そのどちらにもなり得る可能性があるのだと思う。

だが、いつも仕事の度に実感することは「人皆に美しき種あり」ということ。どんな人にも「良い所、長所」は必ずある。まあセラピストも人間なので、クライアントの方との相性はある。中には、正直「やりづらいな~」と思う人もいる。

しかし、「この人の良い所はどこだろう?」という目でその人を見て、接していくと、それは必ず見つかるものだ。

無理にそう思い込もうとするということではない。その「種」に気づくと、その人の短所というか、あまり好ましく感じられない部分が気にならなくなってくる。

気になる部分を消そうとするのではなく、良い部分を大きくしていったらいい。顕微鏡で拡大するような感じで。

人間関係や、それに伴う人との相性で苦しんだり悩んでいる人が多いのは、その相手を「無理に好きになろう」「好きにならなければならない」と思い込んでいるから。「その人を嫌ってはいけない」「悪い感情を抱いてはならない」と、自分に強制しているからだ。

人間なのだから、相性や好き嫌いがあって当たり前。また、そういったことは理屈ではない。自分の本能が告げているものなのだから、ある意味仕方のないことなのだ。「嫌うこと=悪」ではない。

しかし、嫌っているものほど、実はそれをよく見ていないという場合が多い。「見ようとしない」と言ったほうが適切かもしれない。

「一面のこの泥の中に、花の種なんかあるわけがない」そう思い込んでいる。探す前からあきらめ、決めつけている。ひょっとしたらあと10センチ掘り進んだら、綺麗な花を咲かせる種が見つかるかもしれないのに。

どうしても気が進まないというのであれば、それはそれで仕方ないが、何もしないうちから決めつけるのは、とても「もったいない」ことだと思う。

人の中の「種」を見つけようとしない人は、自分自身の中の「種」も見つけようとしないことが多い。自分の中の長所や可能性、そういったものを含め、自分自身を認めず、信頼していない。自分自身に対してできていないことを、人に対してできないのは当たり前だ。

明日何が咲くか―その人の「本当の姿」が分かるのは、ひょっとしたら明日かもしれない。ゴミの山からえんどう豆が芽を出すかもしれないし、泥の中から綺麗な蓮の花が咲くかもしれない―。どんな人の中にも、可能性や美の種はあるのだ。


「泥中之蓮(でいちゅうのはす)」の本来の意味は、「どんなに環境が汚れていても、それに染まることなく清く、正しく生きていること」の喩え。汚い泥の中に生えていながら、清らかに美しく咲く蓮の花の意から。

(学研 故事ことわざ辞典より)




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三次元と向き合えない人々

 2009-02-17
「生身の女性の体が気持ち悪い」モデルを使用して行われるデッサンの授業を、次々に退出するデザイン専門学校の学生に関する記事を目にした。

ヌードクロッキー、何も身につけていない裸の女性モデルをデッサンする授業中、気分の悪さを訴える学生が続出したという。その中には、男子学生だけでなく、女子学生も含まれていたらしい。

教室を退出するまではいかずとも、目の前のモデルの裸体から目を逸らし、俯いて、実際の体とはかけ離れた「アニメの女の子」を描いた学生もいたとのこと。

「二次元萌え」の、典型的な傾向だ。現実の世界(三次元)の、生身の女性や男性に興味が持てず、アニメ等の平面の世界(二次元)、バーチャルな、想像の世界のキャラクターにしか愛着や興味を感じない。中にはそれが嵩じて真剣な恋愛感情にまで発展する人もいる。

それが「悪い」ということではない。そういった分野には特別関心のない私だって「デスノート」の天才探偵・Lには思い切りハートを鷲掴みにされてしまった。頭脳明晰で冷静で、しかしどこかに熱いものを秘めていて、たまにユーモラス。そしてあの「変人」っぷり―私のストライクゾーンのど真ん中だ。

しかし理想は理想。Lや、Lのような人はなかなか存在しないのが現実だし、想像上の世界の人だからこそ、掻き立てられるものがあるのだと思う。


今まで何人か、アニメやゲームの中の登場人物にしか興味を抱けないという人達と話したことがある。自分が生きているこの現実の世界での恋愛経験が、まったくないという人もいた。異性に興味を持ち始める思春期から現在まで、真剣な恋愛感情を持ったのはアニメの登場人物だけだったという。

その人達の嗜好がどうこうというのは関係ない。趣味嗜好は個人の自由だ。しかし、あえて「問題」と言うのなら、そういった傾向にある人は「相手と向き合うことを恐れている」人がかなり多い―ということだと思う。

自分以外の誰かと関わることが怖い。相手に自分の意思を伝えること、相手から返ってくるものを受け止めること―そういった「コミュニケーション」能力が成熟していない。「不慣れ」と言ったほうがいいかもしれない。

二次元の世界との繋がりは、ある意味「一方的」だ。例えばアニメの主人公に対して、熱烈な恋愛感情を持ったとしても、相手からそれを拒否されることは絶対にない。「あなたには全然魅力を感じない」とか「そういうのって迷惑なんです。うざいからやめてもらえませんか」等という言葉が返ってくることもないし、嫌悪感に満ちた冷ややかな眼差しを向けられることも、無視されることもない。

現実の世界ではストーカー呼ばわりされるような言動をしても、相手が二次元の人物の場合は、一向に差し支えない。いくらでも自分の思いや感情をぶつけることができるし、自分が望むシチュエーションや会話の内容を作り上げて、好きなだけそれに浸ることができる。

意思のない、想像上の人物だからこそ、自分の意のままに動かせるし、自分の望むことしか起こらない―という状況が可能となる。

しかし、これが生身の現実の人間が相手の場合は勝手が違う。相手には意思も感情もある。その人からいつも自分がほしいと思っている答えが返ってくるとは限らないし、予想もしていなかった事態が起こる場合もある。しかし、それが「現実」というものであり、「人と関わる、向き合う」ということでもあるのだ。

二次元の世界にどっぷり浸りこむ人達に限ったことではない。最近カウンセリング中によく感じるのは、自分の推測や憶測だけで物事を捉えている人が多いということ。例えば相手に直接真意を尋ねてみるべきところなのに、それをしようとしない。自分の中だけで「~にちがいない」と思い込んで、勝手に結論付けようとする。

相手の心情に至るまで、すべて憶測の域での、自分だけの勝手な「想像」でしかないのに、それを「事実」だと思い込み、納得しようとする。根拠のない想像は「妄想」でしかない。そこには相手の存在がまったく含まれていない。自分本位の勝手さしか存在していない。

生身の女性の体にショックを受けた学生達も、アニメやゲームの登場人物にしか興味や恋愛感情を抱けない人達も、相手と向き合うこともせず、自分の憶測だけで事実を捉えようとする人達も、結局同じなのだ。現実や真実と向き合っていない。

現実や真実が、いつも美しく素晴らしいものであるとは限らない。時には残酷で、落胆をもたらすこともある。

しかし、アニメの女の子の肌には絶対にない毛穴や皺がある生身の人間の体は、「生き物」としてのリアルな躍動感や生命力を教えてくれる。バーチャルな人物との一方的な「恋愛」は、自分の願望を満たしてくれるかもしれないが、現実の世界の相手は、人間対人間の中にしか生まれないエネルギーや、通じ合うこと、繋がる喜びをもたらしてくれる。

「向き合う」ということは、その人、その物事の「すべて」を知ろうとすることだと思う。いい面も悪い面も、美しい面も醜い面も、丸ごと全部を知り、受け止めることだと思う。

「美しいもの」「自分に都合のいいもの」「自分の知りたいこと」だけを見たい、知りたい、聞きたいと望み、執着するのは「幼さ」の表れだ。

「知ること」を恐れる必要はない。それは必ず「理解」や「成長」へと繋がっていくのだから。もしそれによって傷ついたとしても、その傷によって人は磨かれていく。人とダイヤモンドは傷ついて美しくなる。恐れることは何もないのだ。



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「自称」の罠

 2009-02-14
チベット仏教ゲルク派の法王、ダライ・ラマ14世は言う。

「『ダライ・ラマは癒しの力を持っている』と言う人達がいます。しかし、私はそんな力は持っていません。私は『自分には人を癒せる力がある』と言う人達を疑っています。私はよく冗談でこんなことを言います。『そんな力が自分にあったら、この間から首の後ろ側にできているこの湿疹を、まず最初に治しています』(笑)」

近年のスピリチュアルブームで、やたら「ヒーラー」や「ライトワーカー」という言葉を耳にするようになった。以前仕事で名刺交換をした人達の肩書きに、「ヒーラー」「ライトワーカー」という文字が印刷されていたのを見て、どん引きしたことがある。

「ヒーラー」は言わずもがなだが、「ライトワーカー」は「神々と共にこの世を守り、人々の人生を光で照らし愛を広げる人。さまざまな恐れの影響から、人々を解き放つ手助けをすることを、自ら選んで生まれてきた人」という意味がある。

肩書きをどうしようと個人の自由ではあるのだが、しかし、自分で自分を「ライトワーカー」って呼ぶって、それってどーよ・・・と、正直思ってしまった。

「○○さんって、ヒーラーだよね」「○○さんは、ライトワーカーの役割をしていると思う」といった感じで、他の人達が言うのなら、まだ理解できる。しかし、「私、ライトワーカーです」って「自称」するって・・・。そもそも「ヒーラー」「ライトワーカー」なんて肩書きは存在しない。

「私は世のため、人のために一生懸命がんばっている素晴らしい人なんです!」「私があなたを救ってあげます!」というような、どこか押し付けがましいというか、「驕り」のようなものを感じてしまうのは私だけだろうか。宗教の勧誘時に感じるものと、よく似ている気がする。


人を癒せる力があることは、素晴らしいことだと思う。しかし、その力が「真実」であるのなら、自分自身で、そう認識しているのなら、それは尚更声高に口にするものではないと思う。

どんな人間にも、多少なりとも自己顕示、名誉欲というものは必ずある。それがない人間などいない。

しかし「私は人を癒せる」と自ら口に出して言うことは、「自分は人を癒すことのできる人間である」という、「虚栄心」を生む。そしてそれは「自分は選ばれた特別な人間である」という、勘違いの「選民思想」や驕りへと繋がっていく。

ウルトラマン然り、仮面ライダー然り、スーパーマン然り―正義のヒーロー達は、決して自分達の正体を明かそうとしない。普段は市井の人として、ひっそりと目立たなく生きている―それは自分が正体を明かした先にあるもの、それによって、心ならずも変わってしまうものがあるということを分かっているが故だ。

自らを「ヒーラー」「ライトワーカー」と名乗るのは構わない。しかし、肩書きが先行して「中味」がまったく伴っていない「ナンチャッテヒーラー」「ナンチャッテライトワーカー」が、あまりにも多い。自分だけでその気になって、そう思い込んでいるだけの、いわば「ヒーラーもどき」「ライトワーカーもどき」だ。「肩書き」に自己陶酔しているだけ。

「~なつもり」という、勘違いでボロボロの土台の上に築かれた家は脆い。いくら「愛だ、光だ」と連呼しても、その実が伴わなければ何もならない。

「肩書きの多さや立派さ=その人の価値」なのではない。そういった「スペック、条件」に惑わされる人が、あまりにも多過ぎる。一番大切なのは、「その人の言動が一致しているかどうか」だ。その人自身を「観る」こと。

「自称」している人達も、常に自分を省みることが必要だ。自分ではそのつもりがなくても、いつの間にか浮かれ気分になって、大きく筋を離れてしまっている―という場合もある。

わざわざ「ヒーラーです」「ライトワーカーです」と名乗らなくても、今自分がしていることが、結果的に、「おまけ」として、人のため、世の中のためになっていけばいいのではないかと思う。自分の役割を誇示したり、「私がなんとかしてあげる」と気負って取り組むものではないと思う。

明るく、大きく、自分の中にある「光」を育てて輝き続けるだけで、灯台のようにどっしりとそこにあって、ひたすら光を放ち続けていればいいのだと思う。そして、その光が知らないうちに他の誰かの暗闇を照らしたり、それをたまたま見た人に勇気や慰めを与えることができたなら、それだけでいいのだと思う。

「癒してあげよう」「癒してあげたい」と思わなくても、どんな人にも本来そういった力は備わっている。

ヒーラーやライトワーカーの役割は、「癒してあげること」ではない。その人の中に眠っている自己治癒能力を引き出すこと―その人の中に既にそういった力があるということを気づかせるという役割、いわば「サポーター」であるに過ぎない。「主役」はその人自身であって、ヒーラー、ライトワーカーは表に出ることのない「黒子」。

「自称ヒーラー」「自称ライトワーカー」の人達は、そこのところを、ゆめゆめ「勘違い」しないように。「正義のヒーロー」は、自分からは決して名乗りません。


(余談)
ヒーラーとかライトワーカーとか、「スピリチュアル」に関わっている人のブログやサイトって、どうして背景が「黒」ベースが多いんでしょうか??光だとか愛だとか言っている割には、なんかおどろおどろしい雰囲気を醸し出している色使いなのがコワイです・・・

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

「婚活」という名のマインドコントロール

 2009-02-12
数年前、大学生の子と話していた時「就職活動」を「就活」と言うのを聞いて、「シュウカツ?へぇ~、今はそう言うんだ~」と新鮮に感じたものだが、「婚活」という言葉に関しては、正直「何それ?」と思う。

未婚率の増加に伴う出生率の低下を防ぐ為の「操作」だということが、見え見えだ。マスコミを使っての、国を挙げての、ある種の「マインドコントロール」。テレビや雑誌等のマスメディアが「婚活、婚活」と連呼するのは「暗示」に他ならない。繰り返すことで潜在意識に刷り込んでいく。

「活動」という言葉を被せることによって、どんな人でも、人生で一度くらいは体験する、人生において避けて通れない「関門」として、どんな人間もそれを果たさなければならない「責務」のような響きを持たせることによって、「結婚」という制度に目を向けさせようとしている。

人生のパートナーを見つけるまでの期間を、あえて「活動」という言葉を使って、「期間が限定されているもの」という意識を植えつけている。そうして「焦り」の気持ちを煽っている。

人間は、切羽詰った危機感がなければ行動しない生き物だ。しかし、実際に何事もなかったとしても、自分の周りの多くの人が慌しく動き出すと、自分も何か落ち着かない気分になってくる。ある種の群集心理だ。

誰が作ったのかは知らないが、「婚活」という言葉は、巧みにそこを突いている。「人並み」という言葉に、極度に敏感に反応する日本人の心理を上手く利用している。

その効果も手伝ってか、結婚相談所等の申込者は増加傾向にあるらしい。一般的な結婚相談所の実際の成婚率は10%前後とのこと。多いと見るか、少ないと見るかは個人によると思うが、「婚活」という言葉によって、多くの独身者の意識が結婚に向かっているのは間違いないと思う。


セラピーやカウンセリングを受けに来られる人の年齢は様々だ。下は19歳から、上は75歳までの幅がある。しかし、男女とも30代~40代の層がずば抜けて多い。既婚者と独身者は、大体半々くらいの割合だが、やはり最近、その年代の独身者の方達から「結婚したい」という言葉を聞くことが多くなった。

結婚したい理由は人によってそれぞれ違うが、必ず共通する言葉が出てくる。それは「一人でいるのは寂しい」ということ。パートナー不在の孤独な晩年を迎える勇気がないと言う。

まあ気持ちは理解できるのだが、孤独を埋めるための結婚は、早晩その期待を裏切られることになる。愛し愛され、相思相愛の人と一緒に暮らしていても、寂しさや孤独を感じることはある。それが例えどんなに幸せなものであっても―だ。

孤独の解消のために結婚を望む人は、その部分を勘違いしている。二人でいれば、独りの時に感じていた寂しさが、全部消えてなくなると思い込んでいる。誰かと一緒にいても、余計にその寂しさが増す―ということだってあるのだ。物質的な条件を満たすことで解消されるものではない。「パートナーの存在・結婚=孤独のない人生」ではないのだ。

孤独を恐れるのは、まだそれを経験したことがないから。未知のものへの恐怖。でもそれは、ある意味幸せなことなのかもしれない。なぜなら、孤独を知らずに今まで生きてこられたということだから。

結婚は、親を安心させるためにするものでもないし、「周りがみんなしているから、自分もしたほうがいい」と思ってするものではない。わざわざ「婚活」などという言葉に縛られ、追い立てられて、血眼になって探し回るようなものではない。

「適齢期」などというものは、そもそも「子孫を残す目的に対して、心身共にバランスの取れた良い時期」というだけのことだ。あくまで一般論であって、個体差は含まれていない。「人それぞれ」でいいのだ。「自分が結婚したいと思った時」が、適齢期だ。

30年位前は「クリスマスケーキ」等と言われ、女性の適齢期は25歳と言われていた。25歳以降は「売れ残り(いき遅れ)」。私が20代の頃は、「年越し蕎麦」だった。31歳まではOK。一般論でも時代と共にこれだけ変化していくのだから、気にすることはない。

結婚は「しなければならないもの」ではない。自分がしたかったらしたらいいし、したくなかったらしなくていい。あくまでも自分が中心だ。大体「婚活」などと、無理矢理自分を奮い立たせてパートナーを探して回るなんて、どこか悲壮感すら漂ってくる。それが必死であればあるほど、焦っていればいるほど、その人の孤独に対する怖れの度合を知ることができる。

孤独を感じる時というのは、実は自分のことしか考えていない時でもある。でもそれも、ある意味幸せなことなのかもしれない。自分自身のことにだけ集中していられるということでもあるのだから。


マスコミの情報操作によって作られた状況にハマることなく、踊らされることなく、自分の道を、自分の信念を持って、自分のスピードで歩いていけばいいのだと思う。

少子化ストップのために作られた、つまらない言葉に惑わされることほど馬鹿らしいものはない。


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真実

 2009-02-11
神性や霊性に「特別」を求めるな

それは日々の行(ぎょう)―何気ない日常の中、ごく「当たり前で普通のこと」の中にある

礼節を以って人と接すること、心身の健康を保つ、またそれを心がけること、

日々のそれぞれの糧を感謝と共に食すこと、他者に対する思いやりや気配り、住環境を清潔に整える―

そういった、一見何でもないようなことの中にある


美辞麗句―表面を飾り立てた言葉に騙されるな

真実を語るのに「形容詞」は要らない

表面だけの流麗、荘厳、甘美の響きに惑わされるな

神髄からの言葉はシンプルだ

時としてそれは幼子の言葉のように、単純にして明快なもの

執着、こだわり、思い込みを捨てなければ、真実(まこと)にはたどり着かない


行動の伴わない理解は、妄言に等しい

いくらそれを熱弁しても、そこに実際の行動がなければ、真の理解に至ったとは言えない

その言葉を口にすることと、それを実際に行うことはイコールではない

「理解」は言葉で証明するものではない


真実は自分の中にある

何かから、誰かから、外からもたらされるものではない

自分の中から湧き上がってくるものを観て、感じて、聴くことだ

人の思惑や目、一般論は必要ない

時代や状況によって変化する不確かなものを「物差し」にするのは愚の骨頂


真実と、そこに至るまでの道程を大袈裟に飾り立てようとするな

物事の中心を捉える眼、自立の姿勢とその覚悟―それらを以って粛々と進むのみ

気負いや華々しさを求めるのは、エゴでしかない

自分を「特別な存在」に仕立て上げたいがための欲でしかない


日常の中、ありふれた日々の生活の中、小さなものの中にあるそれを見逃すな

分かりやすく派手なものに眼を奪われるている間は、それを見つけることはできない


その道々で得たものを繋げると、それは一本の線となる

真実へと続く道となる

その道を、ただ真っ直ぐに、前を向いて、信じて進んでいけばいい

真実(まこと)はその道の先にある


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作法の理

 2009-02-07
「作法」―いわゆる「きまり」や「しきたり」、「マナー」というものには、ちゃんと理(ことわり)がある。時代によって変化していく場合もあるが、現在まで変わらず残っているものは、やはりそれだけ重要な意味があるということでもあると思う。

子供の頃、両親共に躾けには厳しかった。特に母は茶道と華道のお免状を持っていたこともあって、そういったマナーに関しては、父以上にうるさかったと思う。当時教えられたことの中で、今でも私が特に気をつけているのは、「よそのお宅にお邪魔する時は素足はNG」ということ。

特に女性は、夏場には素足でサンダルやミュールを履くことが多い。だが、自宅以外で靴を脱ぐ時、素足では失礼に当たる。仲の良い気心の知れた友人宅でもそれは変わらない。「親しき仲にも礼儀あり」だ。

「どうしても素足で靴を履きたい」という時は、靴下やショートタイプのストッキング、フットカバー等を持参して、玄関先でひと言断ってからそれを身につけるのが礼儀だと思う。

なぜ素足は失礼に当たるのか?それは日本文化に由来している。畳敷きである日本家屋や、武家社会で盛んだった茶道の影響が大きい。

茶道では、素足では茶室の中に入れない。ストッキングも素足と見なされる。洋服でお茶席に上がる時は、白い靴下を履くのが作法だ。畳文化の日本では、足に付いた外の泥や埃、足の裏の汗や脂で畳を汚すことは、大変失礼なことに当たる。

汚れた素足で家に上がるのは、土足で上がることと変わらない。匂いや雑菌も気になるし、周りの人に不快感を与える場合もある。

最近では電器量販店や引越し業者の宣伝文句にも「新しい靴下に履き替えてお伺いします」と謳っているところもある。それだけ素足で家に上がることが失礼にあたるということだ。

セッションを受けにいらっしゃった方達を見ていても、夏場で素足にミュール履きでも、「ちょっと失礼します」と言って、用意してきた靴下を玄関先で履く気配りをされる方は、やはりこちらも気持ちがいい。「きちんとした人だな」と思う。


最近相撲でも、朝青龍の振る舞い―土俵上でのガッツポーズ等が「横綱の品格がない」等と顰蹙を買っている。敗者に対する思慮を重んじ、「驕ることなかれ」という勝者に対する戒めの精神がある日本文化で、自分の力を誇示するようなあの態度は確かに反感を買う。

しかし、なぜガッツポーズがいけないのか?スポーツの試合で勝った時や、物事がうまくいった時等に喜びを表す動作だが、本来拳を握る、拳を突き上げるという行為は、「反体制」の意味がある。「抵抗」や「反抗」を表す。

先日テレビで、日本や相撲の文化の有識者が今回の朝青龍の行為に対して見解を述べていた。
それによると、

「相撲は素手で、自分の肉体のみを使って闘う競技である。取り組みの後、勝った力士が行司から賞金をもらう時、手刀(手指を揃えて真っ直ぐに伸ばし小指の側の側面を刀のように使うこと)を切るのも、「自分は手の中に何も武器は隠し持っていない。正々堂々と自分の肉体と力だけを使って勝利した。自分にやましいものはない」ということを示す意味がある。だから土俵上で拳を突き上げるという行為は、まったく反対の意味となってしまう。

歓声を上げる観客に対して手を振って応えるという行為も、国技に携わる者のすることではない。そもそも国技が行われている場所で、観客に向かって手を振ることができるのは天皇皇后両陛下だけ。身分からして、力士はお辞儀で応えなくてはならない」

マスコミをはじめ、至るところで「品格」という言葉が連呼されていた。確かに彼のふてぶてしい態度は品があるとは言えないが、それが実際にどういったことを指しているのかは、正直ちゃんと理解している人はいなかったと思う。しかし、この識者の解説で納得がいった。

そしてその有識者曰く「朝青龍の、取り組みで勝った後の手刀の切り方はとてもいい加減だ。手形の意味をはじめ、相撲の動作に込められている意味、国技としての位置付けや歴史、日本の精神の神髄をまったく理解していないからだ。多分それを説明できる人が周りにいないからでしょう」


「なぜそれがダメなのか」その理由を教えなければ、理解は生まれない。子供だって、順序立てて分かりやすく、納得できる説明をしてあげればちゃんと納得するのだから。

「そんなの古い考えでしょ~気にしなくてもいいんじゃない?」と言う人もいるが、なぜその作法が昔から今まで変わらずに受け継がれているのか―それを知り、理解する必要がある。必ずそこには理由があるのだから。「知らない」「分からない」「気にしない」「そんなものは必要ない」「誰も教えてくれなかった」で済まそうとするのは、ただの屁理屈と勉強不足。

年齢に関わらず、そういったことは自分自身で学んでいくことだ。「知ろう」とする姿勢。受け身では身につかない。

作法や礼儀は、その人の骨格でもあると思う。その理を理解して、ピシッと筋の通った人になろう。




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オプティミスト

 2009-02-06
1年ほど前、30歳のOLさんが、セラピーを受けに来られた。事前カウンセリングでいろいろと話を聞いていくと、大変な心配性だということが分かる。とにかく何でも先回りして、今現在心配しなくてもいいようなことにまで気を回して悩んでいる。次から次に自分で悩みを作り続けるので、きりがない。

「この前、いろいろ考えていたら眠れなくなったんです・・・」「何かあったんですか?」「今、年金問題がいろいろと世の中で言われているじゃないですか。近い将来年金がもらえなくなる可能性もあるとか。私が65歳になった時、年金はもらえるのかどうか考えていたら不安になって、朝まで全然眠れなかったんです」

私は「くだらない悩み」というものはないと思っている。ただ、「深刻さの度合」はあると思う。

「○○さんって、案外オプティミストかもしれませんね」と私は言った。彼女は「え?その逆だと思いますけど。仲のいい友達からはよく悲観主義とかマイナス思考とか言われるし、自分でも心配性だと思います」と、意外そうな顔をしている。

「でも○○さんが年金をもらえるようになるには、あと35年あるわけでしょ?つまり、35年後も自分がこの世に存在しているということを信じて疑っていないということですよ。大地震とか災害とか、何が起こるか分からないこのご時勢に、35年後の年金の心配をできるって、ある意味楽天家だと思うけどな~」

先のこと、未来のことなんて、誰にも分からない。極端な話、5秒後だって「未来」だ。その5秒の間にひょっとしたら車が突っ込んでくるかもしれないし、急な心臓発作に襲われるかもしれない。そんな目に遭うなんて、5秒前には想像もしていなかったはずだ。数秒前のことさえ分からないのに、数年先、数十年先のことなんて分かるはずがない。

「やりたいとは思うけど自信がない」と言う人も同じだ。自信のなさを言い訳にして物事を先延ばしにしている人は、自分にはまだこの先、十分な時間が与えられていると思い込んでいる。自信とやらが身につくまで、それができる自分になるまで待っていようと、のんびり悠長に構えている。「いつか」という言葉が出てくるのは、「時間やチャンスはこの先無限にあるはず。まだ動かなくてもいいや」という怠惰な心の表れだ。

「まだ若いから」「もう歳を取りすぎてるから」そんなものも言い訳に過ぎない。20歳の人が、1ヵ月後に交通事故で亡くなっているかもしれないし、70歳の人が、あと30年生きるかもしれない。

先のことを考え過ぎて悩む人も、物事を先延ばしにしてズルズルと決断を引き伸ばす人も、いろいろな意味で「楽天家」だと思う。どちらもこの先十分な時間が自分にはあると信じて疑っていないということだから。何の確信も保障もないことを、疑いもなく信じ込めるのは楽天主義に他ならない。

そのOLさんはしばらくポカンとしていたが、そのうちケラケラと笑い出した。「そうかもしれない。考えたら私の悩みって、自分がそれまで生きているっていう前提でのものかも。途中で状況が変わったりすることもあり得ますよね。そうか~、考え過ぎなんだ」と、納得していた。

「今お仕事も順調で楽しく働けているんだったら、今はそれでいいんじゃないですか?年金のことはあと20年くらいは考えなくてもいいと思うけど。年金がもらえるかもらえないか今から心配するくらいなら、貯金を始めたほうがよっぽどいいんじゃないですか?」と言うと、「そうですよね~」と、しきりに頷いていた。先日、1年ぶりにその方にお会いしたのだが、「あれ以来悩みが減りました(笑)」とおっしゃっていた。


未来というものは「今現在」の延長にある。今を積み重ねていくもの。過去はそれを積み重ねてきたもの。すべての起点は「今現在」にある。

「今ここを生きる」今現在自分がいる場所で、今目の前にあること、今目の前にいる人に100%の意識を集中すること。今を捨て、疎かにして、先のことに囚われ過ぎる人は「今ここ」を生きていない。

今をきちんと一生懸命生きていれば、未来も必ずそういったものになる。何か予想外のことが起こったとしても、それが起こった時にやるべきことをやって、きちんと対処すれば、ちゃんと切り抜けられる。物事に備えるのは大切だが、それに過度に振り回されないことだ。人生は、何か起こって当たり前。物事は、起こる時は起こるのだ。まだ来ないうちから先取りして気に病む必要はない。

「時は金なり」時間は無限に与えられているものではない。自分の持ち時間がどれだけあるかは分からない。はっきりと言えるのは、それは一瞬ごとに確実に減っていっているということだ。「いつか」という言葉を言い訳にしている間は、その「いつか」はやって来ない。「時間切れ」の合図があった時、呆然とならないように、今を大切にすることだ。

今現在を大切に楽しく、一生懸命に、「ケ・セラ・セラ、なるようになる」と生きていれば、人生はそうなっていくものだ。


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パッチワーク

 2009-02-05
色や模様、大きさも違うさまざまな布片を繋ぎ合わせて模様を作り出すパッチワーク。ベッドカバーやクッション等になっているのを見たことがある人も多いと思う。

友人のイレインは、パッチワークキルトを趣味としている。子供の時、母親がやっているのを見て興味を覚えたのがきっかけらしい。いろいろなコンテストにも入賞したり、かなりの腕前だ。

以前呉服屋さんの前を通りかかった時、店先で、さまざまな着物の切れ端が「一束1000円」で売られていた。アメリカでは着物の生地はめずらしいし、なかなか手に入らない。ちょうど1週間後にアメリカに行く予定だったので、彼女用のおみやげに買って帰った。

それを渡した時、彼女はとても喜んでくれた。一枚一枚広げて丹念に見ながら「日本の着物って、どうしてこんなに綺麗なのかしら」と溜息をついている。少し前に制作に取りかかった壁掛けの中に、その生地を取り入れると言って、張り切っていた。

それからまた1年近く経って、彼女の家を訪れた時、真っ先に見せられたのが、例の壁掛けだった。出来上がったことや、その作品が大きなコンテストで優勝したことは彼女からのメールで知っていた。しかし実物を見るのはその時が初めてだった。

目の前に広げられたそれを見た時、「わあ~すごい!」と思わず目を見張った。色とりどりの布が、畳一畳くらいの大きさに繋ぎ合わせられている。色彩の洪水だ。本当にさまざまな布が使われている。

18世紀末のアンティークレースや、彼女の子供が小学生の頃に着ていた服の一部だった赤と黒のタータンチェック、日本の友禅―それぞれまったく違う個性を持った布が、全体で見た時、それ自体を「一枚の布」として見た時、見事に調和していることに驚嘆した。

その色の組み合わせの妙は、彼女の美的センスの賜物でもあるのだが、「調和のもたらす美」―というのだろうか。すべてが違和感なく、「しっくり」と溶け合っている。それぞれが何の矛盾もなく、うまくつり合いが取れている。


「人」も、それと同じことだと思う。その人の全体、「すべて」が調和しているかどうか―。

「人のため」と言いながら、それが報われないと「あれだけやってあげたのに」と、「見返り」がないことに不満を覚えたり、毎日ナントカの言葉を呪文のように唱えて「愛や感謝が大切」と言いながら、人を自分の都合のいいように動かそうとしたり、妬んだり―。

いくら「いい人」に見えても、普段いいことを言っていても、言動の一致がなければ、それはその人本来の姿ではない。「その言葉を口にすること=実際に行動すること」ではない。いくら夢を語っても、その夢を実現するために何の努力も行動もしないのであれば、つまりはそういうことなのだ。

何かや誰かの受け売りで身につけたうわべだけの言葉や態度は、その人の魂の核と結びついたものでなければ、かえってその部分を「悪目立ち」させる。何の理解や構想も考えもなく、ただ切り貼りしただけのものは、ただの違和感しか与えない。ある種の「安っぽさ」、人としての浅さを感じさせるだけだ。

矛盾と不一致。そこからは「真実」は生まれない。言動の一致、態度や信念の一環、笑顔の奥の目が本当に笑っているか―。そこから感じられるものこそ、それが告げるものこそ、その人の真の姿だ。




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命を食する

 2009-02-04
但馬牛を育てている家族に密着したドキュメント番組を見たことがある。

朝から晩まで、小学生の子供から80歳をとうに過ぎたおじいちゃん、おばあちゃんまで、一家総出で世話をしている。3~4頭の牛を飼っていて、毎年子牛が1~2頭生まれる。そしてその子牛は、8ヶ月経つと競りに掛けら売られていく。子牛の誕生から売られていくまでの8ヶ月の様子を撮影したものだ。

正直、牛には関心を持つことはなかった。人間のパートナーになる犬や猫とは違う種類の、「食用の生き物」というような、ある種「ドライ」な感覚で捉えていた。確かに小学校や中学校の遠足等で牧場を訪れた時、生まれたばかりの子牛を見て「可愛い」と思ったこともあるが、やはり「ペット」である犬や猫を見る時とはちょっと違う感覚でいたと思う。

だが、牛を育てているその家族の様子は、私達がペットの犬や猫を可愛がるそれと、まったく同じものだった。また、牛があそこまで人に懐いたり、表情が豊かな生き物であるとは思わなかった。

そこの家のおばあちゃんが、餌をやりに朝牛小屋に行くと、子牛は嬉しそうに近づいていく。頭をスリスリして甘えている。餌を食べている途中も、時々体を擦りつけにいく。おばあちゃんは笑顔で「可愛い、可愛い。いっぱい食べるんだよ」と、子牛の頭や体を撫でてあげている。

ブラッシングをしてもらっている間も、子牛は離れようとしない。小屋の掃除も終わって、おばあちゃんが家に戻ろうとするといたずらをする。服の裾を口で咥えて引っ張って、行かせまいとする。そんな子牛の様子におばあちゃんは笑って「はいはい、いい子だね~」と頭を撫でると、子牛は気持ちよさそうに目を細めている。

小学生の男の子の兄弟二人が、自分達の何倍もある大きな大人の牛を放牧に連れて行く。牧草を食べている牛の背中に乗ったり、その上で寝転がったりしている。牛も馴れっこなのか、男の子達を背中に乗せたまま、平気な顔で草を食べ続けている。やがて帰る時間が来て、遠くにいる牛達に「帰るぞ~」と声をかけると、ちゃんとこちらに戻ってくる。

名前こそ付いていないが、「家族」の一員としての扱いだ。普通の人が、家で飼っているペットを可愛がり、その世話をするのとまったく同じ。

そうやって慈しんで大切に育ててきた牛を競りに送り出す。「嬉しい時でもあるけど、やっぱり寂しいね~」と、おばあちゃんは言う。8ヶ月間大事に育てた牛だ。情も移るだろう。予想以上の高値で買い取られた子牛を見送るおばあちゃんは笑顔ではあったが、どこか複雑な表情をしていた。

「8ヶ月大事に可愛がって育てた牛を手放すのは寂しいし、辛いものがある。でも高く売れるとやっぱり嬉しいし、良い値で売れてほしいとも思う。まあこれが仕事だけど、大事に育てた命を平気で売り渡して、お金をもらって喜んで・・・そうして入ってきたお金を平気で使って生きている。これじゃまるで鬼みたいだね」と、呟いた。

いろいろな「命」をいただいて、人は生き永らえている。動物や植物、この世の多くの命の上に、自分達の命が成り立っている。

外国の友人達と食事をする時も、私は日本語で「いただきます」「ごちそうさま」を言う。「それって食事の前のお祈り?」と聞く友人達に、「これはすべてに対しての感謝の言葉。神様もそうだけど、この牛や、牛を育てた人達、牛を加工した人達とか、この料理を作ってくれた人とか、このお皿に乗るまでの間に関わったすべての人の労力とか、今日もおいしい食事が食べられることに対する感謝とかが含まれてるんだよ」という説明をすると、ものすごく納得する。

何人かの友人は、「それはとっても素晴らしい」と言って、私と食事をする時、一緒に「いただきます」を言うようになった。ただ、何度教えても「イタダカマス」になってしまうけど・・・。

「食べ物」とひと言で言うのは簡単だ。しかしそれは「=命」でもある。食事をするということは、「命を食べる、いただく」ということでもある。忘れがちになるが、お菓子だって、小麦やお米、さとうきび等、植物の命で出来ている。

そしてそこには、動物や植物を育てた人達の愛情や努力、時間も含まれている。一回の食事の中に、それだけ大きなものが存在しているということ。そういった見えない部分にあるものにも、心からの敬意や感謝を込めて「いただきます」「ごちそうさま」を言いたいものである。


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ソウルメイト幻想

 2009-02-03
占いやスピ系世界の影響だと思うが、「ソウルメイト」というものの定義を勘違いして捉えている人が多い。甘くてロマンティックな関係、運命の人―そういう存在だと思っている。

そもそも「ソウルメイト」は、恋愛の対象になる人だけのことを指しているわけではない。異性だけとは限らない。言ってみれば、今現在自分の周りにいる人達―家族やパートナー、友人、会社の同僚や上司等、「近い関係にある人」全員がそうであると言ってもいい。

ソウルメイトとの関係は、決して心地の良いものだけではない。時としてその出会いや関係が、試練や悩み、激しいぶつかり合いや、悲しみ、憎しみ、葛藤というものを運んでくる場合もある。甘くて優しいものだけを与えてくれる存在ではない。

ソウルメイトに過度の幻想や憧れを抱いている場合に多いのだが、例えば現在のパートナーとの関係が思わしくないのは、「その相手がソウルメイトではないからだ」と思い込んでいる人がいる。運命の人ではないから不平不満が沸き起こってくる、ソウルメイトではないからこんなに辛い思いをさせられている―そういったある種の「被害者意識」で、相手を責め、未だ運命の人との出会いを果たしてない「可哀想な自分」を嘆いたりする。

そういった人達には共通点がある。それは「幼さ」だ。年齢や性別は関係ない。何かこう、常に受け身というか、「与えてもらうことを待っている」人が多い。相手に「幸せにしてもらおう」と思っているタイプ。白馬の王子様の登場を待ち焦がれている「夢見る夢子さん」、「ぼくのプリンセス」との出会いを待ちわびている「夢見る夢男くん」といった感じ。

数年前、過去生回帰のセッションを申し込んできた男性がいた。書かれていた希望理由の中に、「ソウルメイトが誰だか知りたい」という部分があった。詳細は書かれていなかったのだが、現在恋愛で悩んでいて、自分のソウルメイトが誰だか分かれば、状況が変化するのではないか―云々とある。

過去生に戻っても、今の人生で関係のある人達すべてが登場するとは限らない。実際その過去生で、今現在知っている人が誰も出てこなかった―という場合もある。「自分のソウルメイトであるかどうか知りたい」と思っている相手が、その時代に存在しているかどうかも実際に回帰してみなければ分からないし、登場したとしても、期待しているような間柄ではなく、浅薄な関係だった可能性もある。

メールを読むかぎり、完全に「定義」を誤解しているようだった。しかしそれ以上に、何か引っかかるものがある。いわゆる「セラピストの勘」というやつだ。本人はうまく隠しているつもりでも、使う言葉ひとつ、言い回しひとつの些細な部分にもそれは表れる。

確認と説明のために何回かやり取りをしたのだが、思った通りだった。「ソウルメイトが誰か知りたい」という裏には、「負け戦はしたくない」という計算があった。「勝ちに行く」というか、「もしソウルメイトでないなら、結ばれる可能性がないなら、これ以上の努力、無駄な努力はしない。したくない」という、ある種の浅ましさがあった。

恋人や配偶者となるソウルメイトとの出会いや結末が、すべて「めでたし、めでたし」になるわけではない。必ず結ばれて生涯を共にするとは限らない。前の時代に「また会おうね」と約束したとしても、本当に会うだけ、「あ、また会ったね。やっぱり今度も同じ時代に生きてたんだね。元気でよかった。それじゃまたね~」」と、お互いの「生存確認」をするためだけの一瞬の出会いもある。

望みどおりに結ばれたとしても、その後にさまざまな苦難が起こって疲れ果てたり、「こんなはずじゃなかった」と、相手に失望して離れる場合もある。ソウルメイトとの出会いすべてが、必ずしもハッピーエンドになるとは限らない。

「必ず結ばれて幸せになれる運命の人」という思い込みをしている人は、多分その誤解に気づくまで延々とループを続けることになる。その相手と、ちょっと都合の悪いことや意に添わないことが起こると「こんなことが起こるのはソウルメイトじゃないからだ」となるからだ。そしてまた「私のソウルメイト、ぼくのソウルメイトはどこにいるの?」と、「運命の人」を探してさ迷い歩く。

時に厳しく、時に甘く―ソウルメイトとの関係はそういうものだ。砂糖の塊のような、ただ甘いだけの関係は、お互いの成長を妨げる。それは本当のソウルメイトとは言えない。「毎日が幸せなのは、運命の出会いだからよね~♪」と浮かれているのも結構だが、それはお互いの「ソウルメイト幻想」が、ただ合致しているだけだったりすることもある。

自分のソウルメイトは誰だとか、幸せじゃないのはソウルメイトと出会ってないからだとか、そういったことを気にし過ぎたり、囚われ過ぎたりしないことだ。「その人がいなければ、それがなければ幸せになれない」と依存があるうちは、まだ「その時」ではない。

そういった出会いというものは、その時期が来れば、準備ができたら、必ずやって来るものだ。自分自身で、一人でも人生を楽しめることができるようになった時―「自立」した時にそれは訪れる。

幸せじゃないのは、ソウルメイトと出会っていないからではない。そういった、自分の外にあるものに責任を転嫁したり、原因を求めたりするその心根にこそ問題がある。

時にはロマンティックな世界に浸るのもいいが、現実からの逃避のために、実体のない「幻想」に惑わされすぎないよう、くれぐれもご用心を―。

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

礼節

 2009-02-02
人との付き合いに関して、何を重視するのかは個人によって違うと思う。
私の場合、それは「礼節」になる。公私共に、その部分は昔から変わらない。どんなに「いい人」だったとしても、礼節―「礼儀と節度」のない人との付き合いは長く続くことはない。

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるが、礼を以って人に接するということは、相手を敬う気持ちの表現でもあると思う。初対面の人であろうと、年下であろうと、長年付き合っている友人であろうと、それは変わらない。

寄せつけないとか、排斥するということではなく、人との付き合いには「一線を引く」ということが大事だと思う。相手の都合や心情等、「見えない部分」を察して尊重するということ。自分の都合や興味だけを優先させることなく、土足で相手の中に踏み込まないよう心配りをすること―それが「礼節」だと思う。

その部分が欠けている人は、結局、自分のことしか考えていない「勝手な人」なのだと思う。こちらの都合を無視して、常に自分の要求を一方的に突きつけてくるばかりの人とうまく行くわけがない。なぜならそれは「コミュニケーション」ではないからだ。

以前仕事関係で知り合った人がいた。頭も良く、人柄も悪くない。仕事の後、一緒に食事をしたのがきっかけで、時々プライベートでうちに遊びに来るようになった。

個人的な付き合いが始まって2ヶ月ほど過ぎた頃だった。もうすぐ終電がなくなる時間だというのに、その人は一向に腰を上げる気配がない。「大丈夫なのかな?タクシーで帰るつもりなのかな?」と思っていたが、そんな様子でもない。

あと10分で終電時刻になる―という時、とうとうこちらから「もうすぐ終電なくなるけど大丈夫?」と聞いてみた。するとその人は「今日は泊まるつもりで来てるから」と言う。「泊まるってどこに?」「ここ。ダメ?」なんとその人はうちに泊まるつもりでいた。

驚いたのは私のほうだ。その人がそんなつもりでいたなんて全然知らなかったし、大体明日は朝一番でセッションが入っている。何よりも泊まってもらうほど親しい関係ではない。結局その夜その人は帰っていったのだが、こちらの都合を完全に無視されたようで、正直あまりいい気持ちがしなかった。

その以降「ちょっと図々しくない?」と思うような言動が度重なったこともあって、顔を合わせるのが億劫になってしまい、こちらから連絡を取ることはなくなった。その他にもいろいろとあって付き合いをやめてしまった。

本人からしてみたら親しみを表していたつもりだったのかもしれないが、私を含め、周りの人達はそうは思っていなかった。「礼儀を知らない人」というのが、共通の評価だった。そしてそのことが原因で、多くの人がその人から離れていった。

何年か前「ナントカプロデューサー」を名乗る人と、メールでのやり取りを何回かしたことがある。仕事熱心な人だとは思うのだが、最初にメールを送ってきた時以来ずっと気になっていたのは、メールの文章や言葉遣いが妙に馴れ馴れしいということだった。

もちろん一度も会ったことのない人だ。初対面の、それも仕事関係の相手へのメールの文末に「よろしく!」とある。最初のメールからそうだった。社会人としての常識を持ち合わせているなら、「よろしくお願い致します」「よろしくお願い申し上げます」と打つべきところだろう。

最初に感じた違和感が、やり取りを重ねていくうちにどんどん大きくなってくるので良い兆候ではないと思っていたのだが、案の定予感的中だった。こちらから自分の思うような返事が返ってこないことが分かると、掌を返したような態度になった。

人との関わりあい方、接し方にはその人の根っこの部分が表れる。いくら上手く取り繕っていても、ちょっとした部分に表れたりする。メール一通、電話一本にさえ―だ。

礼節の欠如は、相手を尊重する気持ちの欠如でもある。相手を軽んじている、相手を大事にしていない―ということだ。

礼節を無視して人と接する人が、礼節を以って相手から扱われることなどないのだ。人を粗末に扱えば、自分も粗末に扱われる。因果応報の理(ことわり)だ。

礼儀を以って、節度を以って―「いい加減(良い加減)」の距離を保ちながら、人との関係を築いていきたいものだ。



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幽霊からのクリスマスプレゼント

 2009-02-01
幾分季節はずれの話だが・・・

私の「アメリカの両親」である、ギルとマージはとても知的なカップルだ。そして感性が豊かで鋭い人達でもある。二人とは本当にいろいろな話をしたが、今でも忘れられない話がある。

その内容がかなり不思議というか、「奇跡」や「見えない世界」の存在を身近に感じさせられるものだったことと、当時、アメリカ海軍で最も若くして司令官になった「エリート仕官」のギルから聞いたという意外性のようなものがそうさせているのかもしれない。


その日はクリスマスだった。友達を大勢呼んで大騒ぎしたパーティーがお開きになった後、私達はリビングの後片付けをしていた。残りは明日片付けることにして、ちょっとお茶でも飲んで休憩しようとなった。既に夜中の12時を過ぎていた。

思い思いにソファに座ったり寝転んだり、私達はしばし疲労とお祭り騒ぎの余韻でボーッとしていた。その時ギルが突然私に向かって言った。「幽霊って信じるかい?」

クリスマスに幽霊の話が出てくるとは思わなかったので、ちょっとびっくりしたのだが「うん、いると思う」と答えると、「じゃあ、奇跡って信じる?」と、今度はそう聞かれた。

どちらかというと、ギルとは日米の文化や政治等、現実的な話をすることが多かったので、幽霊とか奇跡とか、そんな言葉が彼の口から出てくるのが意外だった。

「奇跡はあると思う」そう答えると、そばで聞いていたマージがウインクをして「それじゃあ、絶対にこの話を聞かなきゃダメよ」と言う。「クリスマスに幽霊が奇跡を起こした話なんだから」


それは、まだギルが生まれる前の話だという。

ギルの父方の一族は、代々LAに住んでいる。家族間の結びつきが強く、一族で機械工場を経営していた。ギルが生まれる前、経営者だった彼のお祖父さんが、ある機械と、機械用部品を発明した。それは当時画期的な製品で、アメリカ国内はもとより、ヨーロッパ等からも注文が殺到し、工場はかなりの利益を得るようになった。

しかし、そんな矢先、お祖父さんが50代前半の若さで、心臓発作で急死した。葬儀も終わり、工場を再開させようとした時、問題が起こった。現在の工場の利益の大半を占めるお祖父さんの発明した機械と部品の最重要部分の製造方法は、発明した本人の、当の亡くなったギルのお祖父さんしか知らなかったのだ。

製造工程の要、トップシークレットの部分が解らない。お祖父さん自身、まさか自分がこの若さで亡くなるとは思ってなかっただろうし、大学を出て間もない、ファミリービジネスに加わったばかりの息子達には、追々伝授していこうというところで、不測の事態が起こってしまった。

全員で苦心惨憺、試行錯誤してみたのだが解決しない。どこかに製造工程を書いた書類があるかもしれないと探したが、それも見つからない。注文を受けることができないので、利益を上げることができない。当然工場の経営は、たちまち傾きだした。

お祖父さんが亡くなって半年、年明けまでに何とかしないと工場の経営が立ち行かなくなる―という状況にまで追い込まれた。全員が工場閉鎖を覚悟していたという。明日はクリスマスイブだというのに、お祝いする元気もなく、家族皆が暗く沈んでいた。

その次の日、クリスマスイブの夜、一番上の息子―ギルのお父さんが、彼の父親―亡くなったお祖父さんの夢を見た。夢の中のお祖父さんはとても元気そうで、生前の姿そのままに見えた。そして現在の家族の状況を案じていたという。その夢の中で、お祖父さんは息子を工場に連れて行った。そして自分しか知らない例の機械と部品の製造工程を詳しく説明し始めた。

実際に工具を使い、時には息子の手を取って、詳細に製造方法を教えたという。その時のお祖父さんの手の感触は、夢とは思えないくらいリアルなものだった―と、ギルのお父さんは後に家族に語っている。

そして詳細を教えた後、実際に一人で作ってみるように息子に言い、彼がちゃんと仕上げることができるのを確認すると、こう言った。「さあ、今すぐ起きて教えたことを全部ノートに書き出すんだ!」

その瞬間、ギルのお父さんは目が覚めた。訳も分からないまま、手近にあった紙に、夢の中で父親が自分に教えた方法を夢中で書き留めたという。

驚くのはこればかりではない。翌朝、まだ夜も明けきらないうちに、2番目の息子―ギルの叔父さんが兄の家に駆け込んできた。たった今、夢に亡くなった父親が出てきて「もう心配することはない。作り方は全部お前のお兄さんに教えたから大丈夫だ」と言ったという。

お互いの話を聞いた二人は口も利けず、しばらく驚きのあまり放心状態だったらしい。しかしすぐに家族全員を叩き起こすと、自分達に起こったことを伝えた。その場にいた全員が驚き、興奮したが、やがてそれは感動の涙に変わっていった。

そして実際に工場で、夢の中で教えられた方法で作ってみると、すんなりと、何の支障もなくそれは仕上がった。またそこで全員が新たな涙にくれたという。

奇しくもその日はクリスマスだった。亡くなったお祖父さんからが家族に贈ったクリスマスプレゼントだった。そしてそのことにより、また工場の経営状況は回復した。その後お祖父さんが家族の夢等に出てくることは、一度もなかったという―。


「だから僕の一族はこのことを『クリスマスの奇跡』って呼んでるんだ」

その話のあまりの内容に、私はいつの間にか呼吸をすることさえ忘れていたらしい。ギルが話し終わると同時に大きな溜息が出た。ただただ、圧倒されていた。まさに奇跡―。どんな言葉も、その事実の前には霞んでしまう。思わずぬかずきたくなるような、そんな神聖な気持ちが満ちてくる。

こういった不思議な現象や、この世のものではない存在を真っ向から否定、排斥する人がいるが、時空を超えた奇跡は確かに存在すると思う。信じる、信じないは個人の自由だが、科学で証明できること、目に見える世界のもの、自分が理解できるものだけがすべてではない。

クリスマスに起きた奇跡、お祖父さんの幽霊がくれたクリスマスプレゼント―現代のお伽話だ。

私達は、改めてクリスマスの乾杯をした。クリスマスの奇跡に―。家族の危機を救ったギルのお祖父さんに―。魂の神秘と永遠に変わらないその絆に―。




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