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別離の理由

 2009-01-30
恋人や配偶者と別れた理由の第一位は、必ず「性格の不一致」となっている。これを見るたびに「どういうこと?」と疑問に思うのは私だけだろうか。

「性格が一致しない、合わない」って、そんなことは当たり前だ。そもそも血の繋がった肉親でさえ性格的に相性が良くないこともあるのだから、赤の他人であれば尚更だと思う。

「性格の不一致」という言葉を生み出した人は、多分苦し紛れからのものだと思う。「なんだかよくわからないけど、一緒にいるとイライラしたり、ケンカしたり、どうも具合が悪い。これは多分性格が合わないせい、相性が悪いせいだろう」ということで、「不一致」という言葉を当てはめたのだと思う。

お互いの性格の傾向なんて、付き合う前、結婚する前に大体分かっているはずだ。むしろ自分と違う部分、自分にはない部分―その「不一致の部分」に惹かれたことがきっかけだったりする。いわば「納得ずく」ということだ。しかし時間が経つにつれて、その魅力的だった「不一致」の部分は、「理解し難い部分」に変わっていく。

多くの人は、この時点で「やっぱり自分と違う性格の人だと一緒にいるのは難しい」と思い込む。だが実は、問題はそこにあるのではない。

私自身の経験や私の周りの人達を見ていて思うのは、別れる原因は性格にあるのではない。「人として生きる方向性の違い」にあると思う。さらに加えるなら、「共感の欠如」だ。

「似た者夫婦」という言葉もあるが、それぞれがまったく違う個性を持った組み合わせ―「不一致」のカップルも大勢いる。「不一致」でもうまく行っているのはなぜか?それは相手の中にあるものと、自分のそれが重なるところがあるせい、同じ質のものをそれぞれの中に感じているからだ。

それは信念であったり、人としての在り方や生き方だったり、それぞれのカップルによって異なると思う。しかし、その「人としての核」の部分、「魂」の部分で共鳴できるものがあれば、性格の違いなんて問題ではない。男女という前に、「人」としての共感があることが大切なのだと思う。

相手に対して求める条件に「性格」や「同じ価値観」を挙げる人が多いが、何かのきっかけで一瞬で変わってしまう不確かなものに囚われていると、早かれ遅かれその「不一致」で落胆することになる。

「違い」を恐れる必要はない。違っていても、違っていていいのだ。共感、共鳴できるもの―その人の中にある「光」を感じられたら、見つけられたらそれでいい。


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能天気ノススメ

 2009-01-29
ここ2週間ほど、マンション全体で、水道管等の給水設備や量水器廻りに関するリフォーム工事が行われていた。全世帯対象なので、かなり大掛かりなものだった。各部屋半日近くかかる入室作業も無事に済み、作業員の方達を「ご苦労様でした~」と送り出したその3時間後、思わぬことが起こった。

パソコンを使って作業していた時、どこかで水音のようなものが聴こえてきた。防音のしっかりした造りなので、隣の部屋の音等はめったに聴こえることはない。「?」と思ったが、特に気にすることもせず、そのまま作業を続けていた。

作業に熱中してしばらく経ち、ふと気がつくと、先ほどの音がかなり大きくなっているのに気づいた。最初は「ポツ、ポツ」くらいだったのが、「ザーッ」と、まるで水道の蛇口を思い切り開けた時のような感じの音になっている。

嫌な予感がして、音がする洗面所に行ってみたところ、なんと天井の通気孔から大量の水が勢い良く流れ落ちている。洗面所一面水浸し。置いてあったタオルや洗剤類もぐっしょりと水を吸っている。

一瞬、何が起きているのか分からず呆然としていたその時の私は、たぶん「( ゜д゜)」という顔をしていたと思う。勢いよく流れ落ちる水を見ながら、なぜか子供の頃に行った「流れるプール」を思い出していた。

が、次の瞬間我に返って下の階にいる作業員の方を呼びにいった。作業員の方も仰天である。とりあえず水が落ちてくる場所にバケツを置き、水がこれ以上床に広がるのをくい止めることにした。その間も、天井周りに水が回ったらしく、天井全体からも滴が落ちてくる。作業員の方も私もずぶ濡れ状態。

そうこうしているうちに、他の作業員の方達が駆けつけてくれた。上階の部屋で作業中に大量の水が出たらしい。しかしそれはうちの真上の部屋でなく、3階上の部屋だという。その水が全部うちに来てしまったらしい。うちと水の出た部屋の間の2部屋はまったく被害がないというのも不思議だが、多分構造上、水の通り道のようなものがあって、そこを伝わってきたのではないかということだった。

調べてもらうと、お風呂場の天井や換気扇部分からも水が落ちている。天井裏に通じている蓋を外すと、大量の水がザーッと落ちてきた。幸いなことに上水だったので、汚れ等の被害はなかったのだが、とにかくものすごい量の水だった。結局全部の水が落ち切るのを待つしかない。完全に水が止まるのに、1時間くらいはかかるだろうとのことだった。

作業員の方達をはじめ、現場責任者の方も平謝りだったのだが、全然腹は立たなかった。別にいい人を気取っているわけでもなく、無理に寛大ぶっているわけでもなく、「まあわざとじゃないし、仕方ないさ」としか思わなかった。

本来の私は気短だと思う。クレームがあったら、堂々とその場で伝えるタイプだ。今回も言ってみれば先方の作業ミスのとばっちりを受けたわけだし、その被害状況からして、激怒してもまあ「正当なもの」として許される範疇のものだったと思う。実際、知人に今回の話をしたところ「なんで怒らへんの?!」と呆れられた。

昔から「竹を割ったような性格」と言われることが多く、確かに物事にはあまりこだわらないほうではあるが、特にここ数年「命に関わること以外、この世に大したことなんてないんだな~」と思う気持ちがより強くなってきた。

過去には「なんで私がこんな目に遭うの?」と思った時もあったが、「辛いことも楽しいことも、両方あって当たり前。いろいろなことが起こるのが人生」ということを実感してから、大抵のことは何とも思わなくなった。歳を取って丸くなってきたせいもあると思うが、何かや誰かに対して腹を立てたりすることがほとんどない。一瞬ムッとすることがあったとしても、次の瞬間「ま、いっか」となる。

無理にそう思おうと、思えるようになろうと努力したわけでもなく、「理解」と共にその心境に至った。
自己啓発やスピ系では、「そういうふうに思えるようにならなくてはなりません」となるのだろうが、そんなものは「理解」が伴えば自然とそうなっていく。

べつに「今回の水漏れ事故はなぜ起こったのか?自分の中の何が引き寄せたのか?」「これは○○というメッセージではないか?」等と、無理矢理スピリチュアルな意味を見い出そうとする必要もない。「起こるものは起こる」のだ。

人生はいろいろなことが起こって当たり前。多くの人は平穏無事な状態が「普通」だと思っているが、そのほうが実は稀有なことなのだ。

すべてのことには意味があるが、そのすべてに深い意味があるわけではない。取るに足らないようなものもある。ピンキリの世界。いちいち大袈裟に取り上げる必要はない。すべてに意味を見い出そうとするのは、自分自身を納得させるための、単なる「理由付け」でしかない。人は理屈の生き物だ。事態と自分の折り合いをつけるために「理由」が必要になる。

最初に思ったのは、「火事じゃなくてよかった」ということだった。水だったら乾かせばいいだけだし、水漏れで溺死することはない。水を吸い込んだバスマットも「そろそろ洗わなきゃ」と思っていたところだったので、すぐに洗濯機にそのまま放り込んだ。買ったばかりのニュービーズは入れ物の箱はダメになって、中味も濡れてしまってはいたが、十分使える状態だった。

急を聞いて駆けつけた管理会社と施工会社の統括責任者の方達と一緒に被害状況を確認、補償について話し合った結果、ダメになった天井のクロスの張替えと、浴室全体のクリーニングをしてもらえることになった。

一昨日その作業が行われたのだが、今現在うちの浴室と洗面所はピカピカの状態だ。さすがプロの仕事は違う。浴室の換気扇の掃除までしていただいて、ものすごく得をした気分だ。

今回の水漏れがなかったら、こんなサービスは受けられなかった。悪いことがあれば、必ずいいことも起こる。それがこの世の理(ことわり)―と、ピカピカのお風呂で湯船に浸り、「人生楽ありゃ~♪」と「水戸黄門」のテーマを鼻歌で歌いながらそう実感する今日この頃である。


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尊異論

 2009-01-28
フェラーリのデザインを手がけるイタリアのピニンファリーナ社で、かつてデザインディレクターを勤めた奥山清行氏は言う。「組織の中に敵を作れ」

これは「物事を多数決だけで決めるのではなく、少数意見であっても、それをじっくりと考え、良いものであると思えば採用していく「尊異論」でもある。

先日、オバマ氏がアメリカ合衆国44代大統領に就任したが、彼も随所にこの「尊異論」を取り入れているのがよく分かる。

大統領選の敵対候補であったヒラリー・クリントン氏を国務長官に任命していることや、主任スピーチライターとして、ジョン・ファヴロー氏を抜擢したのも、当時23歳だった氏が、民主党大会時に、舞台裏で基調演説の練習をしていたオバマ氏の言い回しについて具申したことがきっかけだったという。

自分と異なる考えや信条、やり方を持つ人を受け入れるということ、その批判を受け止めることは、時に勇気が必要になることもある。

「批判」と「否定」―人によってはこの2つの言葉の意味を混同、もしくは同一のものとして捉えているが、意味合いはまったく違う。

【批判】
①批評し、判定すること。
②人物・行為・判断・学説・作品等の価値・能力・正当性・妥当性等を評価すること。

【否定】
①「そうでない」と打ち消すこと。価値等を認めないこと。

(広辞苑より)

「否定」には、それを有無を言わさず押しのけ、しりぞける「排斥」の意味合いが濃い。

男女問わず、「深読み」をする傾向がある「女性性」が強い人は、「自分への批判=自分のすべてが否定された。受け入れてもらえない」と思い込むことが多い。

例えば、自分がした仕事について注意や批判を受けた場合等、自分の全人格や能力まで否定されたと思って落ち込んだりする。時にはそれが人間関係の亀裂にまで発展することもある。しかしそれは、受け止める側の完全な誤解に因るものだ。

「批判」は恐れるものではない。むしろ全員が同じ意見で同じ方向を向いている状態、同じように見たり感じたり、考えたりすることを強制されるのは、ある種「歪な状況」であると思う。宗教・自己啓発系によく見られる、「みんな一緒に仲良く同じに」という「洗脳状態」と言っていいと思う。

先出の奥山氏は言う。「内部に『敵』がいない組織に発展はない」

「良薬は口に苦し」という言葉があるが、耳に痛い言葉の中にこそ「真実」が込められていることがある。宝は灰の中にある。

人からの意見や批判を感情ベースで受け止めて一喜一憂するのではなく、中立の位置に立ち、耳を傾けることに成長の鍵がある。



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廻るもの

 2009-01-27
自己啓発やスピ系セミナーで言うところの「引き寄せの法則」では、「今の自分の内面の状態が、今現在周りで起きていることや状況に反映される」らしい。もし今自分が望まない状況、物事がうまく回らない状況にあるのであれば、それはすべて自分自身―考え方や感情、人としての在り方等に原因があると言う。

「すべての元凶は自分自身」という前提の考え方が浸透している。だからそういったセミナーや書籍では「自分を磨こう」「今の自分を変えよう」「もっとポジティブな考え方や態度をしよう」ということを謳う。

「ツイてないのは自分のせい」「自分のネガティブな考え方や態度が、今の不幸な状況を招き寄せた」―「自分自身が最大の加害者である」といった「刷り込み」をされている。

そういった「刷り込みをされた人」は、セミナーやヒーリングの類に救いを求める。誰だって幸せになりたい。だから今の「不幸な状況」を何とかしたくて、自分自身を「矯正」しようとする。そんな自分を変えてくれそうな、ナントカセミナーやナントカヒーリングの「信者」となる。

「信者」になった後も、状況が何も変わらなかったり、相変わらずツイてない状態が続いている場合は「自分のがんばりが足りないせい」と、ますます自責の念を深めて、アファメーションの言葉を躍起になって唱えたりして、どんどん「教え」にはまっていく。もしくは「もっと効果のあるものが他にあるかもしれない」と、様々なセミナーやヒーリングの類を渡り歩く「セミナージプシー」「ヒーリングジプシー」となる。


運やツキ、幸や不幸は、どんな人にも平等に廻ってくるもの―と、私は思っている。今の自分がツイてないのは、自分の精進が足りず、人として未熟だからでもないし、自分の中にある「邪悪な部分」がそれを引き寄せているのでもない。運やツキ、幸福が来ないのは、まだその時期ではないからだ。まだそれが廻ってくる順番ではない―ということ。

例えば、デビューして苦節20年、ようやくヒットに恵まれたミュージシャンがいるとする。デビュー以来、真面目に一生懸命努力してきて、曲も素晴らしいのに、なかなか世間に認められない。しかし20年経ってようやく日の目を見た―それは「順番」が廻ってきたから。

もし「引き寄せの法則」が真実であるなら、やる気に燃えて、夢を叶えるために日々真面目にがんばっていたはずのそのミュージシャンは、すぐに売れているはずだと思う。

「引き寄せの法則」に始まり、現在巷に溢れている自己啓発やスピ系セミナーの類は、率直に言って「宗教」だと思う。「人は生まれながらに罪人である」と原罪説を唱えるキリスト教やその他の宗教と同じだ。「自分を劣っているもの」として位置付け縛るそのスタンスは、宗教以外の何物でもない。

日々を清く正しく生きていたとしても、起こるものは起こる。「水戸黄門」の主題歌に「人生楽ありゃ苦もあるさ」という歌詞があるが、まさにその通り。「今の自分がどうこう」ではなく、人生全体を大きな一つの流れとして捉えた時、それが納得できるだろう。「楽ばかり」「苦ばかり」という人生はない。どの時期も平等にやって来る。

自分が置かれている状況を嘆く人は、人生の一部分しか見ようとしない。そのわずかな部分を最大限に拡大して、人生そのものだと、それがすべてだと思い込んでいる。だから「自分はいつもツイてない」となる。

必要なのは、ポジティブになることでも、自分を磨くことでもない。人生に甘さや楽だけを求めるその「浅ましさ」と「執着」を捨てることだ。そして、この世の秩序と理(ことわり)を理解すること。苦しい時期をただ嘆くのではなく、力を蓄える時期だと考え、黙々と努力をし続け、必ず廻ってくるチャンスを信じて待つことができる力を身につけることだ。

運もツキも、幸も不幸も、すべて平等に、万人に廻ってくる。それが宇宙の理だ。


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2月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2009-01-26
2月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年 2月1日(日) 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 1月29日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。




■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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逆恨み

 2009-01-18
心理学において、「合理化」という用語がある。満たされなかった欲求に対して、都合の良い理由を付け、自分を正当化しようとすることを意味する。

最近、社会で起きている「逆恨み」が原因の事件も、結局根っこはこの部分にあるのかなと思う。自分自身の非が引き起こしたことなのに、それを認めようとしない。その原因を周りの人や物事のせいにして、自分の中に沸き起こった怒りや不満を「正当なもの」として位置付ける。

「自分は悪くない」という価値観や感情に基づいて行動するので、相手からしてみれば理不尽極まりない攻撃も、本人にしてみたら、すべて「正しく理にかなったもの」となる。ある種の「幼さ」と「頑なさ」の表れだと思う。

セラピストやカウンセラー、その他接客・サービス業等「人を相手にする仕事」に就いている場合、そういった出来事に遭遇する確率も高くなる。自分が気をつけていれば避けられるといった類のものではないので、その時々で対応するしかない。

言ってみれば仕事の一部、「付き物」のようなものだ。また、そういった「リスク」も全部承知で腹をくくっていなければ、この仕事はできない。

うちのサロンでは、セッションの申し込みに当たっては、サイトの「必須項目」の熟読と理解を、最小限且つ絶対条件としてお願いしている。クライアントがセラピーの内容を理解していなければ何もならない。無からは何も生まれない。

数年前、個人セッションを申し込んできた人がいた。やり取りをしているうちに、何か噛み合わない部分が出てきた。サイト内容を読んで理解していれば、絶対出てこないような質問をしてくる。「おかしい」と思って確かめてみると、案の定予想通りの答えが返ってきた。

本人が理解していなければ何もならない。その点も説明し、ご予約をお断りした。本人も自分が熟読・理解をしていないことを認め、納得し、その話は終わった。

しかし、それから数時間後、その人からまたメールが届いていた。目を通すと、先ほどとは一転、罵詈雑言が書かれている。その人曰く、私が予約を断ったのは、その人のセッションを引き受ける自信が私にないからだと言う。「自信がないから断ったって正直に言いなさい」と書かれている。

予約を断ったのは、その人が指定されている条件を満たしていないこと、守っていないことにある。私は自信の有無で仕事はしない。「自分がセラピストとして提供できるもの、できないもの」「セラピストとしての倫理や信念からやらないもの、やりたくないもの」はあるが、自信云々でどうこうは、プロではないと思っている。

その後のやり取りでも、こちらの言うことをすべて「裏」の意味で取ろうとするので、きちんと話ができない。その他にもいろいろと捨て台詞のようなことを書いたメールが来た。

「記憶を消してくれ」と言ってきた人もいた。内容以前に、予約を受け付けられない条件に該当する人だったのでお断りすると、「ネットで名前を晒してやる。おまえのことなんか潰してやる」という罵詈雑言で溢れたメールはもちろんのこと、公衆電話からの迷惑電話、コンビニからの迷惑FAXを送ってきた。

同業者等の間でも、こういった話は少なくない。実際、この類の嫌がらせや中傷で精神的に参ってしまって、辞めていく人もいる。

精神科医をしている知人からも同様の話を聞いたことがある。ネットでの中傷の書き込みをはじめ、注文した覚えのない通信販売の商品がクリニックに大量に届いたりしたことがあるらしい。警察介入後に判明したのだが、犯人は元患者だった。処方を希望した薬を出してもらえなかったことに対する腹いせだったらしい。


なんというか、「自分勝手な人」が最近世の中に増えたと思う。「自分が気に入らないこと」を相手がしたから攻撃する―という「幼稚化」が進んでいる。「自分に落ち度はなかっただろうか」という自省の欠如や、「自分の希望は通って当たり前」という、訳のわからない思い込みをして我を通そうとする人が本当に多い。

「義務」を果たすことをせずに、自分の「権利」だけを振りかざす。それは一方的で勝手な「要求」、「押付け」でしかない。自分の利害だけしか念頭にない、ただの「利己主義」だ。

自分以外の人やものに全責任を押付ける前に、まず「本当にそうだろうか?」と、冷静に自分自身を省みることができる余裕を持った人でいたいものだ。
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松田聖子

 2009-01-17
私が中高生だった80年代、彼女は「スーパーアイドル」だった。

あの頃、日本中の多くの女の子が「聖子ちゃん」になりたがっていた。レイヤーをたくさん入れて、サイドの髪をふんわりさせた「聖子ちゃんカット」や、レースの襟のブラウスやフワフワのスカート―彼女が当時着ていた女の子らしい「ガーリースタイル」のファッションを真似した子達が、街中に溢れていた。

クールで大人っぽくて、ちょっと不良っぽいイメージの明菜ちゃんと人気を二分していたが、男女の区別なく、一般受けする―という点では、聖子ちゃんは断トツだったと思う。

「なんかフニャフニャした子ね~」と、彼女に幾分批判的な目を向けていた母でさえ、「ああいう感じの可愛い格好したら?」と言うくらいだった。

当時「とんがったコ」だった私は、日本のアイドルには全然興味がなかった。友達との会話に乗り遅れない程度に歌番組はチェックしていたから、アイドル事情はそこそこ把握してはいたのだが、私はもっぱら「クールでかっこいい」洋楽やハリウッドスターに熱を上げていた。

子供の精一杯の背伸びもあったと思うが、「クールでかっこいい」ものを好んでいた当時の私は、正直彼女が「苦手」だった。

彼女を表す代名詞でもあった「ブリッコ」の部分―首を傾げて「うふ♪」と笑うところとか、相手の保護欲をくすぐるような、ちょっと上目遣いの目線とかを目の当たりにすると、その「甘さ」にこっちの方が恥ずかしくなってきて、背中がムズムズした。

「オンナの武器」を全開モードで駆使して、全身から「私って可愛いでしょ?」光線を振りまく彼女に、軽い嫌悪感すら覚える時もあった。

そして、そんな彼女に夢中になっている同性の友達や、クラスの男の子達を、どこか批判的に見ていた。「なんであーゆー『いかにも』っていうタイプに引っかかるかな~」と、内心馬鹿にしていたとも思う。「みんな『分かりやすい』のが好きなんだね。単純!」といった感じで。

しかし、彼女のことは好きでも嫌いでもなかった。スターダムに駆け上がっていくと同時に、どんどん綺麗になって、華も出てきたその姿は圧倒されるものがあったが、押しも押されぬスーパースターの地位を手に入れ、その一挙手一投足がメディアに取り上げられるようになっても、「ふーん」という感じで、特に関心も持たずにいた。

同世代でもあるので、その人気をデビュー以来ずっとキープし続けていることに関しては「すごい」と思っていたが、あくまでもその域を出ることはなかった。美容室の待ち時間で読む週刊誌や、ヒマな時にぼんやり見ているテレビのワイドショーの中だけでの「お付き合い」でしかなかった。


私が初めて「松田聖子」という人に興味を持ったのは、彼女の二度目の離婚の後からだった思う。
偶然見ていたテレビ番組に、彼女が出演していた。その時「あれ?」と思った。「この人って、こんな顔だったっけ?」

歌っていた彼女の表情に、なぜか惹きつけられた。相変わらず綺麗で若々しいのだが、今までとはどこか雰囲気が違う。何と言うか、「強さ」のようなものが、そこに加わったような気がした。すっきりと真っ直ぐに伸びた若竹のようなイメージが浮かんだ。「聖子ちゃん」と呼ぶのが躊躇われるくらいの「貫禄」があった。

「何が彼女を変えたんだろう?どうして彼女は変わったんだろう?」そこから私の「人間 松田聖子」への興味が始まった。彼女の変化の理由が知りたかった。これまでまったく彼女に無関心だった人間に、これだけ強い興味を抱かせるものは何なのか―その「正体」を知りたかった。それくらい彼女が「新しく身につけた顔」は、魅力的だったのだ。


確か2年くらい前だったと思う。彼女の生活に密着したドキュメント番組を見た。何ヶ月にも渡って、プライベートから仕事までの姿を追いかけたものだ。そこに映っている彼女の姿は新鮮な驚きだった。

プライベートでのリラックスした様子も映っているのだが、どこを取っても感じるのは、彼女の「プロとしての意識の高さ」だった。スタッフとの打ち合わせのやり取り、レコーディングの様子―彼女はまぎれもない「プロ」だった。

「歌手 松田聖子」というポジション、あり方、見せ方―すべて把握している。客観的に自分を見ることができる人だ。それは、「アイドル出身の、おつむの弱いお人形さん」には決してできないことだ。彼女自身が「松田聖子のプロデューサー」でもあった。

だが、何よりも強く感じたことは、彼女の「覚悟」だった。多分彼女は決めたのだと思う。「蒲池法子ではなく、松田聖子として生きること」を。「世間が何と言おうと、人からどう思われようと、自分の思うように生きよう」と。

数々の恋愛遍歴や二度の結婚と離婚、家族間の確執等のスキャンダルやバッシング―そういった「影」の部分も含め、「松田聖子としての人生」を生きることを決めたのだと思う。

悩み抜いたこともあると思う。折れそうになったこともあるだろう。私が彼女に感じた「強さ」は、その部分を通り抜けた者だけが得ることができる、ある種の「爽快さ」だと思う。長く暗いトンネルを歩き切った者にだけ備わる力。それは覚悟なくして手に入らない。

年齢を重ねるごとに彼女は美しく、魅力的になってくる。「お金かけてるんだから当たり前」と言う人もいる。しかし、内面から出てくるものは、お金では得られない。

しなやかに、したたかに、大胆に、そして美しく―。彼女と同世代の同性のファンは、そんな部分に惹かれるのだと思う。ある人は自分の人生と重ね合わせて共感を持って―。またある人は自分ができない、決して選ぶことがないであろう人生を走る彼女への憧れと尊敬とエールを込めて―。

私は「強い女」が好きだ。世間の批判や中傷を優雅に受け止め、かわしながら、嫣然と微笑んで自分の信じた道を進んでいく―そんな強さやしたたかさを持った人が好きだ。自由と、強さと、覚悟と、そしてほんの少しの毒と―それを備えた人は魅力的だ。

松田聖子―彼女はそれを全部持っている。何よりも、すべてを突き抜けた後、覚悟を決めた後のその姿は美しい。


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青い鳥症候群

 2009-01-15
【青い鳥】
メーテルリンクの童話劇。1909年刊。
チルチルとミチルの兄妹が幸福を象徴する鳥を探して、さまざまな国を夢の中で遍歴するが見つからず、目が覚めて幸福の鳥は身近にいることを知る物語。

(広辞苑より)


それが手に入れば、場所が変われば、自分はもっと幸せになるに違いない。今抱えている悩みも全部消えて、きっと楽になるに違いない―。

もしそう思っているのなら、それは「青い鳥症候群」だ。欲しいものを手に入れて、住む場所や職場等、環境が変わったとしても、悩みや問題が消えてなくなるなんて、それはただの「幻想」に過ぎない。そういったものは、どんな時も、どこにいたとしても、必ずついて回る。

「青い鳥」を求め歩くのは、ある意味「逃避」であり、「転嫁」なのだと思う。「自分が幸せじゃないのはやりがいのある仕事に就いてないせいだ」「こんなに孤独で辛いのはパートナーがいないせいだ」そんなふうに、今自分が不幸なのは、その「青い鳥」が自分の手元にいないせいだと思っている。

仕事然り、結婚然り―自分がその仕事に就けば、結婚してパートナーを手に入れれば「幸せになれる」と思い込んでいる。いつの間にか「その仕事に就くこと」「結婚すること」が最終目標―「ゴール」にすり替わってしまっている。

「それを達成すること=幸せ」と思っているので、いざゴールした時には、思い描いていたものと違うことに気づいて落胆する。「こんなはずでは・・・」と、肩を落とす。一時的には達成感や満足感を得られたとしても、それは一時的なものだ。早晩、結局は何も変わっていないことに、何も解決していないことに気づくことになる。

「青い鳥を手に入れること=幸せ」ではない。

必死で「青い鳥」を求める人は、自分がしているその勘違い、いつの間にかすり替わってしまった目標に、まったく気づいていない。

「愛する人と一緒にいたい」と言うのなら理解できる。しかし「結婚したい」と言う人達は、「世の中の多くの人が参加している『結婚』という制度に自分も加わりたい。『人並み』になりたい。『人並み』に見られたい」ということが前提となってしまっている。

「幸せにしてもらいたい、幸せにしてくれるはず」という、受け身で依存的なものが大きいので、相手が自分の期待に応えてくれない場合、たちまち不平不満でいっぱいになる。「パートナー=結婚」と、区別が付かなくなっている状態なので、相手に対する失望は、そのまま結婚に対する失望になる。そして思う。「結婚すれば幸せになれると思ったけど・・・なんでだろう?」と。

「結婚すること=ゴール」ではない。仕事に関しても、それは同様だ。そこから先の努力や、その他諸々のことが必要になってくる。そういったものがなければ、幸せも成功も充実感も得られるわけがない。入籍しただけ、その仕事に就いただけ―で幸せになれたら誰も苦労しない。

「青い鳥を追い求め続ける人」でいる限り、どんな人と結婚しても、どんな仕事に就いたとしても、決して満足することはないだろう。どれだけ対象が変わっても、自分自身が変わらなければ、結果は同じだ。

「それがなければ、自分は幸せになれない」「自分が幸せではないのは、それが欠けているからだ」そう思っているうちは、何も変わらない。何かからの、誰かからの援助や支配を受けず、自分の力で身を立てる「自立」がそこになければ、永遠に青い鳥を追い求めることになる。

誰だって幸せになりたいと思っている。しかし、幸せとは依存することでも、与えられることを待っているものでもない。強がりや見栄等ではなく、今の自分や状況に感謝できて、一人の時間を楽しめて「一人でも生きていける」と思えた時、本当の幸せはやって来る。

「青い鳥」を探しに行く必要はない。自分の不幸の原因を外に求めることや、心細さにあまり、必死になって幸せを求めることを止めた時、自立の道を歩き始めた時、それはいつの間にか自分の肩に止まっているはずだ。



注)本来の「青い鳥症候群」の定義は、「期待されていることと現実との落差が見えず、自分の進路の選択等に当たって、自己決定ができない、現代青年の病理の一つ。母子関係が濃密である、環境や集団に過適応する、自我を主張しない等の幼児性がある」ということです。
(参考:百科事典マイペディア)

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天道

 2009-01-12
あなたの姿を、誰かが必ず見ている。

誰にも知られないところで一生懸命努力していることも、

電車の中で見ず知らずの人に席を譲ってあげたことも、

落ちている空き缶を拾ってゴミ箱に入れたことも、

泣いているベビーカーの赤ちゃんに笑いかけてあやしたことも、

テレビのニュースを見て、職や住む場所を失って肩を落とす人達の姿に心を痛めたことも、

満員電車の中で隣の人を気遣って、ずっと同じ体勢で踏ん張り続けていたことも、

一人の食事の時も「いただきます」「ごちそうさま」とちゃんと手を合わせて言っていることも、

いつの間にか部屋の中に入り込んだ虫を、窓を開けて外に逃がしたことも、

全部知っている。

何気ない日常の中、あなた自身さえ忘れているような些細なことでさえも―。

あなたの魂が小さな光を放った瞬間を、その存在は見逃さない。

あなたが誰かに、何かに向けて放った光は、やがてあなた自身に返ってくる。

時を変えて、場所を変えて

より一層の輝きと明るさをもって。

もしかしたら、その目映さにあなたは戸惑うかもしれない。

だがそれは、あなたの魂が放った光の欠片の結晶だ。

あなたの魂の大いなる煌き。

一人ひとりの中にある光。

その煌きの中、あなたは知るだろう。

天地(あめつち)の法則の真理を。





【天道(てんとう・てんどう)】

①天地を主宰する神、天帝。
②太陽、日輪。
③天帝の道。超自然の宇宙の道理。

(広辞苑より)













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アメリカにて「ちょっとびっくり・・・アメリカ流?お金の数え方」

 2009-01-11
アメリカに行く度に、つくづく「日本のレベルって高いよな~」と思う。いろいろな面で、「平均レベル」がものすごく高いのだ。「日本の平均レベル=アメリカのトップレベル」と言ってもいいかもしれない。日本では「普通、当然」のことが、アメリカでは目を見張るほどのことだったりする。

アメリカのスーパーマーケットでは、店内のサービスカウンターで両替をしてくれる所が多い。だからコインで財布が重くなると、買い物ついでに両替をしてもらう。

その日もやたら財布が重かった。確かめてみると、25セント硬貨(クウォーター)や10セント硬貨(ダイム)がわんさとある。数えてみると、ちょうど8ドル分あった。タイミング良く、スーパーに買い物に行くところだったので、いつも利用しているお店で両替してもらうことにした。

入り口を入ってすぐの所にあるカウンターに、ちょうどスタッフの男性がいた。「ジム」と名札を付けている。「すみません。両替してほしいんですけど」と、コインをカウンターに出すと「いいですよ」と、快く引き受けてくれた。

「全部お札で?」「ええ、お願い。多分8ドルあると思うけど、確かめてね」」「OK」―と、ここまではよかった。その後の彼の行動に、思わず目が点になった。「ちょ・・・マジっすか・・・」その男性、ジムのお金の数え方は、日本人である私には、ちょっと信じ難いものだったからだ。

ジムはおもむろに、カウンター一面に全部のコインを広げ始めた。「?」と見ていると、そこからコインを拾い始めた。最初はクウォーターを4枚、そしてレジを開け、そのコインを中に入れると、今度は1ドル札を取り出してレジを閉め、そのお札をカウンターの端に置く。そしてまたクウォーターを4枚集めると、レジを開けて1ドル札を出し―ということを繰り返している。

「ひょっとして・・・ふざけてる?」と思ったりしたのだが、彼はいたって真剣そのものだ。相変わらず4枚集めてレジを開けて、1ドル出して―の作業を延々と繰り返している。額には、薄っすらと汗すら浮かんでいる。そこまでで、既に5分近く経過している。

カウンターには、まだかなりのコインが残っている。ジムの額の汗は、すでにワイシャツの袖で拭うほどの量になっている。私はその様子を呆気に取られて横で見ている。

「1ドル毎にレジ開けなくてもいいじゃん!まずクウォーターとダイムを分けて、その数を数えたらいいだけでしょうが!ダイム10枚で1ドルでしょ?!なんでわざわざそこでクウォーターと混ぜようとすんの?!あーーっもうっ!ナニかったるいことしてんのよ!」

しかし、ビッショリわき汗までかいて、一心不乱にコインを数え続ける彼に対し、やさしい私はさすがにそう言えなかった・・・。

そして、両替を頼んでから10数分―。ジムは満面の笑みと共に、8枚の1ドル札を差し出してくれた。ネクタイは歪み、水色のワイシャツは汗で濃いブルーに変わっている。顔もサウナに入った後のように真っ赤になっている。しかし、彼の顔は仕事を完璧にやり遂げた誇らしさに満ちている。

「お時間取らせてしまって、ごめんなさいね」「いやいや、とんでもない!またいつでもどうぞ!」ジムはビッグスマイルと共にそう言ってくれた。しかし、売り場へと向かう途中、何気なく後ろを振り向くと、両手をダランと下げ、口を半開きにして、宙を見つめて放心状態になっているジムの姿があった。

その疲労困憊した彼の姿を見て、私は心の中でそっと呟いた。「今度から両替は2ドルまでにしよう」


アメリカ人からすると、特に日本人の、数に関する能力は驚異的なものがあるらしい。アメリカ人の友人達と割り勘で食事をする時等、いつも私が「計算&会計係」になる。

「えーっと、ダイアンはアイスティーとターキーサンドだから○○ドル○○セントね。サンディーは○○ドル○○セント。それじゃ私にお金集めて。なに?ぴったりないの?大丈夫。・・・ねえ、10セントない?そしたらクウォーター1枚で渡してあげられる。ある?それじゃ、これお釣りね」と、電卓も使わずにパッと暗算でやるものだから、それが信じられないようだ。「日本では普通だよ。べつにすごいことじゃないし。ていうか、できないほうが不思議だよ~」と言うと、呆れたように首を振る。

例えば、スーパーで2540円の買い物をしたとする。そのまま3000円を出してもいいのだが、小銭を増やしたくない場合等、3550円を出す―というような小ワザは、日本では誰もがよくすると思う。しかし、アメリカではこれを咄嗟にできる人が少ない。あまり現金を持ち歩かない「カード・小切手社会」であることも影響していると思う。

アメリカのコンビニでこのワザを使った時、アルバイトと思しき高校生くらいの男の子が、お金を見つめたまま固まってしまったことがあった。1ドル札2枚出せば済むところを、他にもジャラジャラとコインが付いてきたので、混乱したのだと思う。

小学校で算数の計算問題を、電卓を使ってやる国の人達にとっては「ミラクル」らしい。(そういえば、勤務先の小学校で、手だけでは足りなくて、足の指まで使って問題を解いていた子がいたっけ)

先日、うちの近所のスーパーで買い物をした際、サービスカウンターで両替をしてもらった。100円と50円と、10円玉が、サササッと1000円札1枚と500円玉1枚の1500円となって返ってきた時、「やっぱり日本はすごいわ」と、しみじみ思った。

ごく一般の人のレベルがこんなに高い国は、多分世界には他にないと思う。来日・在住経験のあるアメリカ人の友人・知人達も、こぞってそれを言う。特に、件の両替のような、サービスのスピードや的確さを知った後だと、アメリカのレベルがものすごく低く思えてしまうらしい。

アメリカではこちらから頼まないとやってもらえないことでも、日本では、黙っていてもそれを察してくれる。先回りというか、以心伝心のようなサービス、心遣いが素晴らしいと言う。まあアメリカを始め、大半の国では「黙っているのはOKということ」という認識があるので、日本が稀なのかもしれないが。でも、それは「日本の底力」に通じていると思う。

「両替事件」以来、私は「両替は一度に2ドルまで」のルールを固く守っている。「あのジム」を日本に連れて来て、うちの近所のスーパーで研修させたら、きっと別の意味で放心状態になると思う。両替のスピードを見て、彼はその場で卒倒するに違いない。



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霊能力

 2009-01-09
この世ではないものの存在を見たり感じたり、その声を聴いたり、実際にその存在と会話をしたりする力―「霊能力」は存在すると思う。

しかし、メディアの影響もあるのだとは思うが、そういった不思議な力や、その能力を持つ人を盲信し、自分も同じようにその力を得ることを望んだり、憧れる人が増えている最近の風潮は、正直問題だと思う。

霊能力の有無は、人間としての価値に比例しない。。「霊能力の高さ=人格」ではない。「その力を持つ人」というだけであって、「=特別な人」ということではない。そこを勘違いしている人が、あまりにも多い。「人とは違う」という、ある種の「選民思想」、名誉欲をくすぐられるのだと思う。

今まで霊能力を持つと自称する人達と会ったが、「本物」の確率は、正直2分の1以下だと思う。その大半は「気のせい」。常にそういったことに注意を向け、囚われているから、何でもないことでも、すぐに霊現象と結び付けてしまう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、まさにそれだ。

以前、そういった能力や世界に過度に憧れを持っている人がヒプノセラピーのセッションを受けに来られたことがある。霊能力が自分には備わっていると言う。

まだ若い方だったので、そういったものに流されたり、興味を持つことは仕方のないことなのかもしれない。しかし、話をしていると、何でもその方向に結び付けてしまう傾向が強いのが気になった。

すると、セッションルームの天井付近から、断続的に音が聞こえてきた。大きなものではなく、ラップ音とも違うもので「プツッ、プツッ」と聞こえてくる。数回それが続き、またしばらくすると・・・いうことが、繰り返された。実はその数日前から、その音がするようになったのだが、原因はわからなかった。

その音がし始めたのが、ちょうどその人が自分の能力や、今まで体験した不思議な出来事を話していた最中だったこともあり、ある意味「タイミング」が良かった。その人曰く「その音は霊現象」だとのことで、自分の「霊能力」で感じることを、いろいろと言い始めた。

しかし私は瞬間的に「いや、違うでしょ」と思った。多かれ少なかれ、「何かを感じる力」というものは、どんな人にも備わっている。自分の中から来るもの―「直観」というものは、時に、一瞬にしてその真実を伝えてくる。例え相手が著名で高い霊能力を持つ人だったとしても、その言動の中に真実がなければ、人はそれを瞬時に察する能力がある。「違和感」というものも、その一つだと思う。

そしてその日の夜遅く、「霊現象」の原因が判明した。何のことはない。「水道管の水漏れ」だった。
知らなかったのだが、音がした天井付近には、上階の部屋の水道管が通っていた。老朽化した箇所から水漏れがして、その水滴が天板に当たる音だったのである。翌日水道管の修理が行われてから今日まで、その音はまったくしていない。

この件に関わらず、何事もそういった「思い込み」前提で捉えていると、真実は見えてこない。

時には、この世のものではない存在が、一瞬部屋を横切ることがあるかもしれないし、一時的にそこに留まるような場合もあるだろう。

しかし、どっぷり霊的なものに偏っている人にかかると、それが害のない類のものであっても、「長年この場所に棲みついている地縛霊」や「助けを求めに来ている不成仏霊」というように、「大袈裟」なものになってしまうことがある。

いちいち大袈裟に取り上げるから、大騒ぎになる。見えたり感じたりしたとしても、放っておいていたらいいだけのことだ。知らんふりして無視していたらいい。本来相手は「見えない世界」の存在なのだから、無理に見る必要も、関わる必要もないと思う。その道の「プロ」に任せておいたらいい。「素人」が生半可に関わる領域のものではない。


オーラが見えたとしても、別にどうってことはない。大体オーラは瞬時にして変化する。生まれてから死ぬまでずっと同じ色でいることはあり得ない。

そもそもオーラというものは、目で見えるだけではない。実際に目で見えない人でも感じることはできる。例えば、明るく活発で陽気な人を見れば、自然と明るい元気な色、オレンジや黄色等のビタミンカラーを思い浮かべると思う。クールで常に冷静沈着な人を見れば、青やシルバー等の落ち着いた色を―。それと同じことだ。

アメリカで日本語教師をしていた頃、空き時間にサポートしていたキンダーガーテン(幼稚園)の園児の一人が、私を描いた絵をプレゼントしてくれた。画用紙の真ん中に、スマイルマークのような顔が大きく描かれているだけのものなのだが、オレンジと紫の絵の具が使われていた。

当時4歳だったその子に、オーラを目で見る能力があったのかは分からない。しかしその時、その子は私からオレンジと紫の色を感じたのだと思う。これが「オーラ」というものではないだろうか。

だとしたら、オーラは「見る」だけではなく、「感じる」ものでもある。それが「見える」ことが優れているということでも、「すごい」ということでも、「特別」ということでもない。

霊能力のある・なしは、あくまでもその人を表す「条件」でしかない。メガネをかけているか、かけていないかくらいの違いでしかない。勘違いからくる「選民思想」「特別意識」は、人としての軸を狂わせる。そういったものに振り回され過ぎず、盲信し過ぎず、依存し過ぎず、「今ここ、現在」に、しっかり足を着けて歩いていくことだ。

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ナルシシスト

 2009-01-08
必要以上に「被害者意識」や「加害者意識」が強い人は、ナルシシストだと思う。どちらも自己陶酔、自己憐憫の世界に、どっぷり浸っている状態。

「あの時、あんなことが起こらなければ、あの人と出会わなければ、まったく別の展開になっていたかもしれない」と、戻らない時間や失ったチャンスを思って嘆く人。「自分は人を傷つけてしまった。これからも傷つけてしまうかもしれない。自分は存在してはいけない人間なのではないか」と悩んでいる人。

真剣に悩んでいる本人達を前にして、大変申し訳ないのだが、第三者の立場から、セラピストからの視点から、あえて言わせてもらうと「そんなこたーない」なのだ。

それは決して「くだらない」ということではない。深刻度の程度はあるが、「悩みは悩み」だ。

こういった傾向の強い人は、「真面目で繊細な人」が多い。そして「考えること」が好きだ。一つの事象が起こると、それがどんなに些細なものでも、真剣に取り上げ、何らかの理由付け、意味付けをすることに熱中し始める。

それは悪いことではない。しかし、そこには難点がある。それはその人達が「一つの観点からしかその問題を見ようとしないこと」だ。ある一定の角度から見ただけのものを、「すべて」として捉えていること、その部分だけに拘り、囚われ、それ以外の観点を一切拒否しているその姿勢にある。

「真面目で繊細」を別の観点から見ると、「融通が利かず、ちょっとしたことでも大袈裟に取りすぎて、いつまでもこだわり続ける」ということになる。

ほんの少し横にずれてみたら、目の高さを変えてみたら、今までとはまったく違ったものが見えてくるかもしれないのに、それをしようとしない。なぜなら本人にその気がないからだ。

現在見えている部分の中だけで、自分の納得のいく答えや意味を見つけ、折り合いをつけようとするから苦しくなる。三択の問題なのに、そこに正解が含まれていないようなものだ。

本人達は決してそうは思ってはいないが、それはある意味「意固地」でもある。頑なに意地を張って、結局自分の観点しか認めようとしない。

なぜならその人達―ナルシシストは、自分が描いている「幻想の世界」で生きている。「被害者」であることも、「加害者」であることも、結局それは、その世界で自分自身が好んで描いているものだからだ。自分がその姿でいることを、その役割をすることを、自分自身で選んでいる。「その状態でいる自分が好き」と言ってもいいかもしれない。

「悩んでいる」「変わりたい」「こんな自分が嫌」―彼らはそう言う。しかし、本当に変化を求めているなら、いつまでも「傷ついた悲劇のヒーロー、ヒロイン」でい続けてはいない。本人がどう言おうと、そこに行動や発想の転換がなければ、結局「口ばっかり」ということでしかない。本気でないから、行動が伴わない。

「傷つけられた」「傷つけた」―どちらも中心にあるのは自分自身。結局自分の受け取り方をベースとした、一方的なものでしかない。相手から、別の観点から見たら、それはまったく異なるものになったりする。

「あの出来事がなければ、あの人と出会わなければ・・・」もしあなたがそう思っているなら、それは違う。どの道、どんな展開になっても、あなたはきっとまた同じことを言うはずだ。なぜならあなたは「いつも被害者でいること」を、自分で選んでいるから。自分の外にあるものに責任転嫁して「自分は悪くない」と言い張っているほうが楽だから。誰だって弱い立場の被害者には優しく寛容だ。

本当にあなたは「失うだけ」だったのだろうか?そこから得たものは、本当に何ひとつなかったのだろうか?

「人を傷つけてしまった。自分の存在は人を傷つける」あえて乱暴に、極端な言い方をするが、命に関わること以外、この世に深刻なことはない。生きていれば、普通に日常生活を送っていれば、多少の摩擦は起こる。すべての人と良好な関係を築くことは不可能だ。親しい人との間にも、時折波風は立つ。しかしそれは「お互い様」だ。人間関係に付き物の、ごく当たり前のこと。

「傷つけた」というのは、ある意味「上から目線」の言葉だ。自分を相手より優位な立場として捉えている。根底にあるのは、実は「傲慢さ」だったりする。「自分は人を傷つける存在」と、自らを高みに押し上げているだけだ。自分というものを買い被りすぎている。

「被害者」も「加害者」も、ナルシシストに共通しているのは「痛み」を感じていること」だ。自分に対して―。相手に対して―。その痛みは、一つの「合図」でもある。「自分の作り上げた幻想の世界から、いい加減に目覚めなさい」ということ。

自分の中の自己憐憫や自己陶酔を捨て去って、「今を生きる時が来た」というサイン。前に進むために、古くて重い殻を脱ぎ捨てる時。身軽になる時だ。まやかしで作り上げた自分の姿にうっとりするのはもう終わりにしよう。古い殻を捨て去った時、本当の世界―「今ここ」を生きることができる。


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夢知らせ

 2009-01-06
【夢知らせ(ゆめじらせ)】

遠方で起こったことや、これから起こるべきことについて、夢で知らせがあること。

(広辞苑より)


子供の頃から、眠っている時に見る夢の内容が現実になることが多かった。
数週間後、数ヵ月後、数年後―その時々によって違うのだが、夢で見たとおりの情景そのままのことが起こる。

一般的に夢の内容というのは、意味不明で辻褄の合わない場合がほとんどだが、私の場合、正夢になるものは、はっきりとした特徴がある。

①登場人物の会話の内容、情景等含め、詳細がかなりリアルで理路整然としていること
②眠っているにも関わらず、「これは夢だ」と思っていること(いわゆる明晰夢)
③起きて大分時間が経ってからも、全部内容を覚えていること

大体は自分自身や、家族、友人達等、近い人達に関することが多い。

小学生4~5年生の頃だったと思う。ひと回り以上歳の離れた父方の従兄が結婚する夢を見た。朝食を食べている時、両親に「○○ちゃん、結婚するんだね~」と言ったら、二人ともきょとんとしている。

「誰が言ったの?」「んー?誰も言ってないよ。夢で見た」「なんだ、夢の話か(笑)」で終わったのだが、それから一週間ほどして、夢に出てきた従兄の父親である伯父が訪ねてきた。例の従兄が婚約したという報告だった。おまけに、他の親戚にはまだ知らせてないという。両親も伯父もびっくりである。

私としては、ごく当たり前のことだったので、逆に周りのその驚きっぷりにびっくりした。子供心に「こういうことは、言っちゃいけないんだな」と思い、それ以来人前ではあまり口に出さなくなった。

数ヶ月前にも、暗示的な夢―「象徴夢」を見た。亡くなった母が、炊飯器のお釜に入ったお米をしきりに見せる夢だった。夢分析上、お米は金銭、財産の象徴だ。「お金が入ってくるのかな」と思っていると、数日後、お一人様で10万円を超えるインディアンジュエリーのご注文をいただいた。

夢は潜在意識からのメッセージだ。潜在意識には、すべての答えがあると言われている。無論そこには未来の情報も含まれている。今後自分がどうなるのか、この先何が起こるのか―その答えのすべてが潜在意識に存在する。私が経験したことも、何の不思議もないことだ。どんな人にもそういった感覚は、元々備わっているのだから。

潜在意識からのメッセージは、時々ふとした時に送られてくる。夢はもちろんのこと、それは「ひらめき」だったり、「直観」だったり―。軸がぶれていなければ、自分自身を信じていれば、必ずそれを受け取ることができる。魂との共鳴運動がもたらすもの―それが「夢」なのかもしれない。



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転生の意味

 2009-01-05
アメリカを代表する企業、「フォード」の創設者であり、「自動車王」として世界に名高いヘンリー・フォードは、生まれ変わり―「転生」を信じていた。そして次のような言葉を遺している。

「あなたも私も、つまり、私共は皆、何度も繰り返し生まれてきて、何回も人生を生き抜き、豊かな経験を蓄積するのである。いわゆる直観的才能と見られるものは、実は多くの労苦を経て手に入れた経験に他ならない」

過去生回帰のセッションをする度に感じるのは、人が何度も生まれ変わる理由は「自己(魂)の成長と改善」にある―ということだ。

過去生で学んだことや得た才能を、今生でもっと進んだ形―もっと洗練された段階のものに高めるために―。途中であきらめ投げ出したものにまた向き合うために―。誰かと交わした誓いや約束を守るために―。そうして人は生まれ変わってくるのだと思う。

「自分が過去生から持ち越していること、今生での課題は何か?」多くの人がそう思っている。自分がこの世に生まれてきた意味―それは「日常の中」にある。自分が今置かれている環境、自分の考え方や感じ方、周りの人との繋がりや関わり方―そういったごく当たり前の、何気ない日常の中に、そのヒントが隠されている。

例えば、今の自分が人に対して依存傾向が強かったりする場合、「自立」ということを学びのテーマに設定しているのかもしれないし、頭で考え過ぎて結局行動に移せずに終わってしまうことが多いのであれば、「行動力」を今生での課題にしているのかもしれない。

どんな小さな「不正」でも許すことができないと思っているのであれば、「清濁併せ呑む」「寛容」ということを、今生で向き合うテーマに決めていたりすることもある。

「好きでやっていること、興味を惹かれること」の中には、過去生から引き継いでいるものも多い。今生ではその才能を伸ばすことを決めたのかもしれない。

たとえ今現在、「生まれてこなければよかった」と思っていたとしても、「誰が産んでくれって頼んだ」と、親を憎んでいるとしても、「どうしてこんな人生なんだ」と嘆いているとしても、この世に肉体を持って生まれることを望んだのも、その親を選んだのも、その人生を選び、状況を設定したのも、すべて自分自身に他ならない。肉体を持つ魂の状態の時に、自分でそう決めたことだ。

辛いこと、苦しいこと、苦手なこと―その中にこそ、魂のテーマが隠されている。逆境を乗り越える強さを身につけるために、それを通り抜けた先にあるものを掴むために、自分でプログラムしたことだ。すべては納得済みのこと。そして「自分はやり遂げることができる」と確信しているからこそ、その道を選んだのだとも言える。

今現在自分の身に起こっていることは、すべて必要なこと。その一つひとつが、魂の成長へと繋がっていく。転生を繰り返し、経験を積み重ねていくことで、魂は練られ、磨き上げられ、その輝きを増していく。



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ヒプノセラピーの真実(1)「その歴史と現状への警鐘」

 2009-01-04
紀元前5世紀、エジプトのナイル川の畔に、豊穣と理知、治癒力を司る女神イシスを祀る「眠りの寺院」が建立された。そこでは、傷病者が神官の誘導によって深い眠り(催眠)に落ち、潜在意識下に病気や怪我を回復させるための「暗示」を施されるという治療法が行われていた。

時には、催眠状態に入った傷病者の潜在意識にイシスが現れ、その病気や怪我の診断と、治療法を告げたと言われる。

古代エジプトの最古の医学文献「エベルス・パピルス」には、王妃の出産時の痛み等を和らげるため、その「治療法」―「催眠と暗示」が用いられたという記録が残されている。実際、BC3000年頃のエジプト王家の墓には、ヒエログリフ(象形文字)で催眠の手順が刻まれている。

その後、その療法は古代エジプトから古代ギリシャへ、またその100年後、古代ギリシャからローマ帝国へと継承された。「医学の父」といわれる古代ギリシャの医学者、ヒポクラテスもそれを活用した一人である。

これが催眠療法―いわゆる「ヒプノセラピー」の起源。「催眠 hypnosis」の語源は、ギリシャ語の「眠る hypnos」に由来している。

ヒプノセラピーは、スピリチュアルなものでも、オカルトでもない。人類史上最古の「精神療法」「行動療法」だ。

中世の時代には、オカルトとしてのレッテルを貼られ、魔女や魔法等の「怪しく、人を惑わすもの」としての扱いを受け、歴史の表舞台から葬り去られることを止むなしとされた時期もあったが、旧約聖書の冒頭書である「創世記」には、催眠を「麻酔=ペイン・コントロール」として用いている場面がある。

第一次世界大戦中と戦後、麻酔薬の供給が底をついたドイツ軍は、ペイン・コントロールとして、戦闘神経症等の治療に催眠を導入した。

アメリカでは、第二次世界大戦と朝鮮戦争の時代、ドイツ軍と同様に、ペイン・コントロール―「痛みの緩和」と、PTSD等の症状を癒す治療の手段として催眠を用いた。1958年には、催眠療法は医療として正式認可されている。

現在の日本では、テレビ番組や書籍の影響等で、「スピリチュアルな世界、精神世界のもの」としての「誤解」「偏見」が蔓延している。ヒプノセラピーの本質を、よく理解していないセラピスト、「流行のスピリチュアルブーム」に乗って、「スピリチュアル」の方向に極端に偏ったセッションをするセラピストの存在がそれに拍車をかけている。

以前別のエントリー「潜在意識の不思議」(2008年9月15日付)でも触れたことだが、「ヒプノセラピー=前世療法・過去生回帰」ではない。

催眠と暗示で成立する「ヒプノセラピー」という、ひとつの大きなジャンルがあって、その中には複数のカテゴリーが存在する。前世療法や過去生回帰は、その複数のカテゴリーの中の一つであり、ヒプノセラピーを構成している部品の一つでしかない。

前世や過去生といった「スピリチュアル系」の要素も含まれてはいるが、セラピストはあくまでも「中立」でなければならない。

スピリチュアルと理論―そのどちらにも、極端に偏ってはならない。先人達の英知と歴史と、本来のセラピーの目的を見失ってはならない。セラピストとしての「本来の在り方」を忘れてはいけない。

セラピーを受ける側であるクライアントにも「気構えと理解」を持ってほしい。今生の自分は過去生の積み重なった結果でもあるが、今生での様々な出来事や出会いの結果のすべてが過去生にあるわけではない。

今生での現実から、事実から逃避する「言い訳」「慰め」「理由付け」としてそれを求める人があまりにも多過ぎる。

「○歳の時の記憶を消してほしい」「自分は前世で○○(歴史上の有名な人物)だったと言われた。それを確かめたい」「今のパートナーがソウルメイトか知りたい」今まで何人か、そういった人達がいた。そして、結局そこにあるのは「逃避」と「虚栄」と「打算」だけだった。

「自立」なくして先人達の遺した英知は生きてこない。他からの援助や支配を受けず、言い訳や逃避や慰めに拠りどころを求めず、自分の力で身を立てるという覚悟があって、初めてそれは力や知恵となる。

囚われ過ぎず、盲信し過ぎず、依存し過ぎず―その気構えが出来た時こそ、自分の潜在意識と向き合う「正しい時」だ。




人々は、霊性について学びたいという気持ちが強すぎるあまり、自分の目の前に差し出されたものに、善し悪しも見定めずに飛びついています。

しかし、自分が何をしているのか、ちゃんと理解していないと、実際には自分自身を傷つけることになるでしょう。

インディアンの宗教を実践しようとする時には、本当の真剣さが必要になります。
それはそれは神聖なものを学んでいるのですから、いい加減に取り組んではならないのです。

人は自分のルーツに立ち返って、そこから学ばなくてはなりません。自分自身の原点から学ぶのです。

そうすれば、自分自身の中に秘めている霊性のありかにたどり着くことでしょう。

(北米ネイティブアメリカン オグララ・ラコタ族の長老ブラック・エルクの孫娘 オリビア・プーリエの言葉)

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