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1月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2008-12-27
1月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2009年1月10日 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 1月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。


--------------------------------------------------------------------------------



■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          

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人生は誰のもの?

 2008-12-25
自分以外の人はどう思っているのか、自分はどう見られているのか―人の目、世間体を気にする人は多い。しかしそれは当然のこと。社会性を持ち合わせていることの表れでもある。

しかし、自分自身の生き方や在り方については、親兄弟からの期待や望み等も含んだ「人の目」は、一切必要ないし、関係ない。それを中心に据えて人生を構築しようとするから苦しくなる。

「本当はこうしたい。でも、こっちを選んだほうが親は安心するだろうな。世間的にも受けがいいのは絶対こっちだし・・・すべてが丸く収まるなら、まあこれでいいか」

そんなふうに選んだ道は、最初のうちはいいかもしれない。みんなが満足して「めでたし、めでたし」だから。しかし心のどこかでは「自分の心を曲げた。自分はみんなの為に我慢してそれを選んだ。選ばされた」という感情のしこりが残っている。

そしてそういったことが度々繰り返され、積み重なっていくと、やがてそれは「自分は犠牲になった」という、ある種の被害者意識へと変わっていく。「自分は何も選んでない」という思いが湧き上がってくる。選ばされた人生、自分の思いや希望が反映されていない人生―「自分のものではない人生」という虚しさが広がってくる。

親兄弟を含め、自分以外の人達の期待や望みに応える必要はない。自分のそれと合致しているのなら構わない。しかし、もしそうでないのなら「優先すべきは自分自身」だ。「自分はこうしたい」「自分がしたいこと」―それをしたらいい。

それは「自分勝手」「わがまま」ということではない。むしろそれが当てはまるのは、勝手に期待して、あちら側の望みを一方的に押し付けてくる周りの人達のほうだったりする。罪悪感を持つ必要はない。そもそも相手側のする期待は、「相手にとっての都合の良いもの」でしかないのだから。

またそれは、そういった「壁」にぶつかった時は、自分の信念を試される時でもある。どれだけ自分が「本気」なのか―その思いの強さ、覚悟の度合を試されている。

簡単にあきらめて、すぐに方向転換することが浮かんでくるのなら、所詮は「その程度」だった―ということだ。本気でも、「本物」でもなかったということ。

自分の人生は誰の為にあるのか、誰の為に生きているのか―それを考えてみたらいい。

「でもやっぱり・・・」そう思うのなら、それでいい。でも少しでも違和感を覚えたり、何かを感じるのであれば、それは自分のものではない―ということだ。「言い訳」に過ぎないということ。選んだ道の先に広がっているかもしれない不安や恐怖を避けたいが為、それと向かい合うことができない臆病な自分を正当化する為のものでしかない。

それはある種の「狡さ」でもある。「親が望んでいるから」「世間の目があるから」―自分が行動しない理由を、もっともらしく外に押し付けている。結局すべてを誤魔化している。

自分以外の人達は、それぞれ勝手なことを言う。なぜなら自分の人生ではないから。血が繋がっていようがいまいが、所詮は「自分以外の人の人生」。だからどうとでも言える。最終的な責任は自分が取るのではないから、好きなことを言える。

世間体、人の目というものは、結局その程度のものでしかない。「人の噂も七十五日」と言うように、「一過性」のものだ。世間の評価、価値観、常識といったものは、何かの拍子、時代の流れで変化する不確かなもの。それに踊らされ、振り回されるのは愚の骨頂。

自分の人生は自分のものであって、親のものでも、他の誰のものでもない。今の自分を、今の自分の人生を嘆いているのなら、それはすべて自分自身の責任だということだ。誰のせいでもない。自分で選択してきたことの結果。自分の臆病さを棚に上げて逃げているだけ。

何かの、誰かのせいにして、自分の人生が思うようにいかない理由、自分が行動しない理由を数え上げているうちは何も変わらない。

誰の人生か?誰の為の人生か?誰がこの人生の「主役」なのか?

生き方に関して、「~すべき」「~でなければならない」というものはないと思う。身動き取れないと感じているのは、勝手な思い込みや決めつけで、自分自身を縛っているから。

その呪縛からは、いつでも解放される。「自分の人生を生きよう」と決心した時に。

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自由と覚悟

 2008-12-23
「あの人のように生きたい」「あんなふうに生きることができてうらやましい」
誰かのことをそう思って見ている時、目に映っているその姿は、あくまでも「結果」でしかない。

その人が下してきた選択の先に辿り着いたもの、その選択の際に発生する物事に向き合い、取り組み、そして至った「結果」を見ているにすぎない。

「自分らしく生きたい」「好きなように生きたい」と誰もが口にする。しかし「自分らしい生き方」も「好きなように生きる人生」も、そんなものは存在しない。

人生は常に選択と決断の連続だ。

朝起きる時間や出かける時間、朝食に何を食べるかという日常生活においての些細なことから、どの学校を選ぶか、どんな職業に就くか、結婚するかしないか、家を買うか等、今後の人生の展開に大きく関わってくるような重要なことまで、その連続だ。

「自分らしい人生」も「好きな生き方」も、その選択と決断の上に成り立っているものだ。その延長線上に存在するもの。

その人の選択したものが、決断したものが、最終的に「自分らしさ」「好きな生き方」と言われるものに繋がっていくのだと思う。

「自分らしく」「好きなように、思うように」という部分に拘っている人ほど、レールから外れることを恐れる。人の目や評判、思惑、世間の常識―そういったものを極度に気にする。そこに縛られている人ほど、「自由に」「好きなように」という言葉の表面だけの響きに振り回される。

そして、結局その人達は、今いる場所に留まることを「選ぶ」。「レールから外れない」ということを「選んでいる」。

しかし本人達はそう思ってはいない。「自分はそれを選ばざるをえなかった。自分の意思や希望とは無関係に、限られたものの中からそれを選択しなければならなかった」と思い込んでいる。あきらめのようなものが、そこに存在する。

仮にそうだとしても、その人達は「限られた選択肢の中から選ぶということを、自分が選んだ」ということに気づいていない。「それ以外のものを選ばない」という選択を、自分がしたことを気づかない。

そういった思い違いや勘違いをしているから、「好きなように、自分らしく生きている人」が羨ましく思えて仕方ない。やがては自分自身の運命や存在価値といったものにまで、その嘆きが及んだりする。占いやセミナーに入れ込んで、それを拠りどころにする人もいたりする。

自分の思ったとおりに、好きなように生きているように見える人は、選択と決断をその都度繰り返してきたに過ぎない。「自分らしさ」ということにも、強いこだわりはない。

ただ、その人達は「自分で選ぶ」ということを決めている。それは「覚悟」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。「それがどんなものであろうと、自分で選んだことに対して一切後悔はしない。どんな結果になったとしても、それを受け止める。決して逃げない」ということを、自分の中で決めている。

どこかで野垂れ死にすることになっても、孤独な人生になったとしても、全部自分でそれを背負うという覚悟の下で「好きなように、思ったように」生きている。

そこに至るまでのプロセスで、多くのものを失ったり手放してきたとしても、そこに後悔はないはずだ。なぜならそれは「自分で選んできたことに対する結果」なのだから。

好きなように、思ったとおりに生きている人なんて、この世には存在しない。
もしその人のことをそう思えるなら、そう見えるなら、それはその人の「覚悟」の形だと思ったらいい。

覚悟なくして自由はない。
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自立

 2008-12-21
寂しい時というのは、「自分のことだけしか見ていない時」でもあると思う。

自分の中の寂しさの部分にしか目が向いてない状態。欲しいものが欠けていて、物足りなくて満たされない。そして、そのことがとても心細い。

「寂しい人」は、その欠けている部分を埋めようとする。常に何かと、誰かと関わろうとする。「繋がり」がないと安心できない。繋がる対象があるということは分かりやすい。なぜならそれによって「自分は孤独ではない」と、目に見える形で確認することができるから。

自分が必要とされる存在になることで、自分の存在意義を確信することができるから。

だがそれは、ある意味「自分本位」なものだったりする。
自分の中の隙間を埋めることが前提のものなので、結果それが叶わない時、相手から「お返し」がなかった場合「あれだけやってあげたのに」と、たちまち不平不満が爆発する。結局「すべては自分のため」だったりする。

それは別の言い方をすれば「自立していない」ということ。誰かや何かの援助や支配を受けず、それに依存したり拠りどころとするのではなく、委ねることなく、自分の力で立つことが出来ていないということ。

本当の意味で「自立」している人は、自分の外に、自分の存在意義を見い出したりはしない。時に寂しさを感じたとしても、恐れることなく、それと向き合うことができる。

人としての成長は、孤独の深淵を理解した時に訪れる。孤独は恐れるものではない―それを理解した時、人は成長する。

寂しさを感じる時こそ、自分の内面と向かい合う時だ。目を向けるのは、自分以外の人やものでなく、自分自身。

その理解が訪れた時、「自立」の一歩が始まる。
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ある魂の物語

 2008-12-19
その魂が、いつからこの地球上に存在するようになったのかは分からない。

自分がどこからやった来たのか、いつからこの星に存在しているのか、何のためにここにいるのか―魂自身、それを記憶していない。

地球という星で、人として生きることを、その魂は選択した。なぜそれを選んだのか、その理由は思い出せない。しかし、それが自らの選択であったということだけは、何となく感じている。決して無理強いされたものではないということを、どこかで認識している。

ある時期、その魂はエジプトという国で、男性として生きることを決めた。そして、やがて神官となった。ある場所で、人々の意識を改革し、その肉体を改造・変化させるということに携わっていた。それが彼の仕事だった。

そして、意識の改革が起きた時、病気や傷は治癒するということを認識した。人間の意識に秘められた力と、意識と肉体との深い繋がりに、彼は驚嘆した。

やがて彼の中に一つの欲望が芽生えた。「もっと違う形でその力を使ってみたい。それを他の目的に使いたい」意識の持つ力、その可能性を、極限まで追求してみたかった。

彼が望んだことは、許されないことだった。定められた目的以外のことに、その力や方法を利用することは固く禁じられていた。それは「掟」でもあった。だが彼はそれを破った。欲望の赴くまま、それを実行した。そしてその事実が明るみに出て、彼は禁を犯した者として処刑された。

また別の時代、その魂は中国という国に転生していた。群雄割拠する時代、権力者として、かなりの力を持っていた。そして、裏切りや陰謀が渦巻く中で命を落とした。

日本のある時代では、戦に負け、落城と共に自刃した城主の父親と一緒に、5歳で果てた男児だった。

フランスのマルセイユでは、教会の掃除婦の私生児として生まれた。そして、母親の死後に孤児となった自分を養ってくれたその教会の修道女になった。17歳の時、志願して、異国の地に宣教の旅に出た。出発から数日後、乗っていた船が大時化に遭い難破、そのまま船と一緒に海に沈んだ。

スペインでは、その土地の有力者の妻、熱心なカソリック教徒だった。しかし教会の神父と恋に落ち、夫を裏切った不埒な妻、カソリックの禁を犯した罪人として、その身を追われた。そして年老いて死ぬまで、人里から遠く離れた場所で孤独に人生を送った。

幸せで平穏な時代もあった。ある時期は日本で、愛情をその身に余るほど受けて育った裕福な商人の娘として。自然と共存し、穏やかな人生を送った北米・南米大陸の原住民の時代。自分の正義を貫き、理解者にも恵まれたイギリス人の新聞記者としての人生。中近東の砂漠の民だった時代―。

その魂が、この地球上で、どれだけの転生を繰り返しているのかは分からない。何百回か、何千回か―今分かっているのは、そのほんの一部でしかない。

しかし深い意識の底には、そのすべての記憶が刻み込まれている。「知らない」「わからない」のではなく、「思い出していない」だけだ。

今その魂は、日本にある。人生の折り返し地点にほぼ差しかかった今、何となく自分が何のために生きているのか、この人生で何をしようとしているのか、それを理解しつつあるようだ。

しかし、そのゴールが何なのか、何と繋がっているのかは、まだ分からない。だが、それは「今現在」というものの延長線上に、確実に存在するということを知っている。

だから決して迷わない。今自分がいるこの場所で、今自分がやるべきこと、やろうと決めたことに真摯に取り組んでいれば、必ずそこにたどり着くことが分かっているから。

「平穏無事」という言葉とは無縁な今の人生も、全部自分自身でプログラムしたということを納得している。どうやら魂の「仕上げ」の段階にいるらしい。

自分以外の、何人かの人達にも、それは分かるようだ。「今回が最後ですね」そう言われる。人として生きることの総決算。この地球上での最後の転生。そのフィナーレを飾るように、目いっぱいの課題を、学びのテーマを、その人生に詰め込んだようだ。

それぞれの人生で縁のあった人達との再会も、次々と果たしている。どうやらこの星での、最後の挨拶を交わすためらしい。えもいわれぬ懐かしさと、数々のデジャブと―初対面で、お互いの中にそれを確認する不思議な感覚。縁(えにし)の糸は途切れない。

この人生の後、その魂がどこに向かうのかは分からない。しかしこの地球上での旅は、まだしばらく続く。最期の時まで、魂は旅を続ける。


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自己啓発のナンダソリャ4「許す」

 2008-12-17
「許せない」ということは、結局「許したくない」ということなのだと思う。

「I can't」ではなく、「I don't want to」。自分の中の深い部分から来る「感情」の領域。感情と繋がっているものに対して、理屈や理論、建前は通用しない。

「頭では分かっている。でもやっぱり許せない」と言う人が多いのがその証拠。心が拒否していることは、いくらがんばっても行動には移せない。

なにやら自己啓発やスピ系においては、「許せない相手に対し、『感謝できることは何か?』を探してみる。心からできないなら、まずは『形』からでよい」などと公言している人々がいる。「その人のことを思い浮かべ、『ありがとうございます』の言葉を繰り返し唱える」のだそうだ。

「その人を許せないという思いを紙に書き殴って、発散させることもよい。その後で感謝をすれば、感謝という強力なプラス想念によって、『許せない』という想念は消える。『許せなかった苦しみ』から解放されて、精神的自由が手に入る」らしい。

もし本気でそう言っているのなら、この人達は「人」ではない。神や仏。そうでなければ、とんでもない大嘘つきか理想主義者か―そのどちらかだ。

許せない相手に対して感謝を唱える―このメソッドを考え出した人は、多分幸せな人だ。本当に、心の底から、本気で相手を殺したいと思い詰めるくらいの出来事や、激しい憎悪の感情を経験したことのない人だと思う。そうでなければ、こんな悠長な発想は出てこない。本当の意味で、人というもの、人の心というものを理解していない。

人が「許せない」という感情を持つ時は、よっぽどのことだ。そういった感情を持つに至るまでの「原因、経緯」が必ず存在する。そして、その部分に対しての「得心、理解」がなければ、決して「許す」ことはできない。

「許す」にあたっての一番大事な部分、そこに至るまでのプロセスを完全に無視して、いきなり「相手に感謝をしろ」と来ること自体、訳が分からない。どうしてその人に「感謝」をする必要があるのか?なぜ「許せない」に対して、「ありがとう」が必要なのか?私には理解できない。

ずっと後になって、その時の経験や苦しさが、自分の人としての成長に大きな役割を果たしてくれたと自然に思えるようになったのであれば、「あの時は辛かった。でも、いい勉強をさせてもらいました。ありがとうございました」なら分かる。なぜならそこには「理解」があるから。きちんと順序を踏んで、そこに至った流れ―「理(ことわり)」が存在する。

何よりも、なぜ「許せない」という感情を持つことが「良くないこと」とされるのか?なぜ「マイナスの想念」として、「ネガティブな負の存在」として扱われるのか、甚だ疑問だ。そもそもプラスとかマイナスとか、ネガティブとかポジティブとか、なぜ区別する必要があるのか?

原因があれば結果がある。「許せない」ということは、「許せないと思う出来事があった」という「原因」に対しての「結果」でしかない。それは理(ことわり)であり、「法則」である。良いも悪いも関係ない。

プラスとかマイナスとか、苦しみとか喜びとか、自由とか束縛とか―どうしてそこには「二元論」しか存在しないのか?

例えば殺人事件の被害者の家族が、その犯人を許さないことは「悪いこと」なのだろうか?自分の家族を手にかけた犯人を許せば、「許せなかった苦しみ」から自由になることができるのだろうか?家族を奪った犯人に、何を感謝しろというのか?なぜそこに「感謝」が必要になるのか?

「許せない」と思うことは「悪」ではないし、「許す」ことが「善」ではない。

「許せない」と思うなら、許さなくていい。相手を許せない自分はダメな人間なのか、いつまでも拘っている自分は、人としての器が小さいのか等と悩む必要はない。許したくない理由があるのだから、きちんと理に適っている。

「許したい。でも許せない」と悩んでいるのは、自分にとって都合が悪いから。どちらでもない、ある意味中途半端ではっきりしない、どっちつかずのその状態が居心地が悪いだけ。一刻も早く決着をつけてすっきりしたいと思っているから。

ただ、「許すということ」をあえて言うなら、それは「そのことを気にしなくなったこと」だと、私は思う。

許すとか許さないとか、そういったことさえ気にならなくなった状態になること。「まあ、もうどうでもいいや」と思えるようになったら、拘らなくなったら、それは「許した」ということになるのかもしれない。

事実は変わらないが、その時の怒りや苦しみ等も全部含めて「ま、いっか」と、いつかそう思えたら、それでいいのだと思う。

自分の感情を捻じ曲げて、心にもない無理矢理捻り出した感謝の言葉を捧げて許した気になっても、その不自然な「歪み」は必ずどこかに表れる。何よりも、「ありがとう」を唱えて感謝するだけで物事が解決したら、悩む人は誰もいない。「ありがとう」は確かに波動の高い言葉だ。しかしすべてを解決する「魔法の言葉」ではない。

自己啓発やスピリチュアルの分野においては、「まず形から」はあり得ない。最初に「理解」がなければ「形=行動」にはならない。理解や心がない「形」は、ただの「惰性」だ。そしてその「惰性」は感覚を麻痺させていく。繰り返すことにより「自分は理解している」という、大きな勘違いを生み出す。

繰り返しの言葉や行動は「暗示」だ。この場合「洗脳」と言い換えてもいいだろう。許せない相手に対して「ありがとう」を唱えていくうちに、許せた気になっていく。しかしそれは本当の「理解」から出てきたものではないから、効果は長く続かない。どこかで必ず揺り返しが来る。

「人を許す方法」などというものは存在しない。きちんとその部分と向き合い、考え、理解し、そこに至るのが本来の道理。感謝とか呪文とか儀式とか、そんなもので得た許しは、ただの「まやかし」だと思ったほうがいい。

自分の心が「許せない」と思うなら、今無理に許そうとがんばらなくていい。自分の理解がちゃんとそこに及んだ時、必ず答えは出るのだから。

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

本気

 2008-12-15
私の経験上から言うと、本気でそれに取り組んでいる時は、不平不満等の「グチ」は出てこない。

人間、本気になったら出るのは「力、パワー」であって、グチではない。つまり、グチが出るということは「本気ではない」ということだ。「中途半端」ということ。

例えそれがなかなか上手く進まないとしても、やる事が山積みだとしても、それを「苦」とは思わない。というより、そんなふうに思っている暇がない。ただ無心に、ひたすらそれに取り組むだけ。

何よりも、本気であるならば、出てくるのは「実践、行動」だ。

「グチを言う人達」を見ていると、一様に共通する言葉を発している。「やる気が・・・」「うまく行くという保証がないから・・・」「不安で・・・」―すべて実体のない曖昧なものに囚われている。

そういった目に見えない不確かなものに、いつまでも依存して焦点を当てているから、そこから前に進もうとしない。「進めない」と本人達は言うが、「~できない」のではなく、自分が「~しない」だけだ。あれこれ理由を付けて、そこに留まり続けていることを正当化しているだけ。ただの「言い訳」に過ぎない。

今現在そういった不確かなものに依存して、拠りどころや言い訳にしているということは、この先も同じことを繰り返すということ。

「そんなことはない。変わることもあるはず」と思っているのなら、もうその時点で先は見えている。
「~するはず」という、曖昧な部分に重きを置いていること自体、既にそこには「自分」というものが含まれてない。自分あってのことなのに、いつの間にか「やる気」「保証」「不安」云々が中心になってしまっている。

それではこのまま「やる気」が出なかったら、「保証」がなかったら、「不安」が消えなかったら、今いる場所に、このままずっと留まり続けるということだろうか?

「本気になる」ということは「覚悟を決める」ということだ。

やる気とか、保証とか、不安とか、そういったものを持ち出して、溜息をついて「やっぱり難しいよね・・・」と溢し、お茶を濁しているのなら、それは「本気ではない」ということ。「覚悟がない」ということだ。今自分の信念が試されていることに、まったく気づいていないということでもある。

ゴチャゴチャと、あれこれ理由を持ち出しているのなら、それは自分にとって必要のないもの―ということだ。本当にそれが必要なら、喉から手が出るほど欲しいものなら、とっくに行動を起こしているはず。さっさとあきらめて、別のものを探したほうがよっぽどいい。

本気だったら、どんな手段を使ってでも、それを手に入れようと必死になる。必死さが「行動」となって表れる。それが自分にとっての「本物」であるのなら、尚更だ。

グチの数と本気度は反比例する。だが言い換えれば、まだまだ自分の中に出せる力があるということ。

その力を出すのか、出さないままで終わるのか―それはすべて自分次第だ。


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ペルソナ

 2008-12-13
【ペルソナ(persona)】

「パーソナリティー」の語源で、ラテン語においては「仮面」の意味。
心理学においては、個人が社会等、対外的に示す行動や態度を指す。




誰でも2つの顔を持っている。いわゆる「外面」とも言われる表向きのものと、まったくの「素」の部分。
ある程度の年齢になれば、人は意識的にそれを使い分けるようになる。

その「使い分け」は、決して「悪」ではない。特に社会生活を営む者であれば、いろいろな意味で、それが必要になってくる。それが出来ないというのなら、その人は「大人」ではないと思う。

カウンセリングの最中、その「使い分け」に対して溢す人がいる。「相手や場面に対して、態度を変えたりすることに罪悪感のようなものを覚える」と。「素のままで相手と向き合っていない自分って、人としてどうなのかな・・・って思うんです」

そういった人達の大半は、真面目な「いい人」だ。真摯に相手と向き合っているからこそ、「作っている自分」に対して抵抗を覚えるのだと思う。「猫を被っている」「二枚舌」―自分が裏表のある、狡猾な人間のように感じてしまうのだと思う。

しかし、そういった意識がある人は、まったく問題ないと思う。「使い分け」ができるのは、人として正常な証拠。誰もかれもが本音をぶつけ合っていたら、世の中収集が付かなくなる。人として、ちゃんと成長しているということだ。

しかし、やっかいなのは、「素の自分」と「作った自分=ペルソナ」の区別が出来なくなっている人だ。
人によってそこに至るまでの経緯はそれぞれ違うが、一様に共通しているのは「(自分に対して)しんどさを抱えている」ということ。

ある人は、自分自身や周囲の人達に対する訳の分からない苛立ちに、ある人は自分の中に常にある強い不平不満に、またある人はコントロールが困難なほどの、相手に対する自分の攻撃性の中に、それを感じていたりする。

特に自分の中にそういったものが存在することを、はっきりと認識している人達は「それは自分の幼さ、人としての未熟さに原因があると思う」と言う。確かにそうだ。それも原因のひとつ。

しかし、それよりももっと大きな所に、その問題の根っこはある。それは、その人達が「自分自身を、どちらかに統一しなければならない」と思っているということ。

「素の自分」と「ペルソナ(仮面)の自分」―自分自身の中に、その両方が存在することが許せない。「素」か「ペルソナ」か、どちらかでなければいけないと思っている。

だから余計に混乱する。「素の自分」の言動を「ペルソナの自分」は責めたり嘆いたり、また「素の自分」も、それと同様のことを「ペルソナの自分」にしたりする。そういったことが自分の中で度々繰り返されると、やがてどちらが「本当の自分」なのか分からなくなってくる。

「どちらが本当の自分なのか分からなくなっている人」は、言動が一致しない。矛盾している。そして大抵本人はそれに気づいていない。

例えば「自分は人とすぐに打ち解けられる。心を開いて、腹を割って話すことができる」と言っていても、それは今後再会の可能性の少ない、付き合いが続くことのない「その場限りの行きずりの人」に限られている。

日常生活では割と殻に閉じこもり、人を寄せ付けない傾向が強かったり、「人との付き合いなんて面倒くさいだけですよ」と言いながら、自分の周りに心を開いて付き合える人がいないことを嘆いたりする。

その大半は、「二元論者」だ。良いか悪いか、好きか嫌いか、0か100か―「中間」「どちらでもない」「どちらでもいい」という考え方がない人。いろいろな意味で「潔癖主義」と言える。自分の中に「基準」があって、そこに当てはまらないものは排除する傾向が強い。頑固というより「意固地」。

しかし、そうなったのは本人のせいではない。その多くは昔、例えば子供時代の周囲の人達との関わり方が大きく影響している。特に親兄弟等の近い存在、「家族」との関係の中で、「素」か「ペルソナ」か、どちらかの自分しか受け入れてもらえなかった―という経験から来ていたりする。

素であれ、ペルソナであれ、「その時に相手から受け入れられなかったほうの自分」にNGが出され、それが潜在意識に刷り込まれてしまう。「こちらの自分は受け入れてもらえない。だから二度と表に出してはいけない」

それはやがて「自分はこうでなければならない」「こうあるべき」という、ある種の「呪縛」へと変わっていく。自分で自分を縛り付けている状態。その振り幅の差が大きければ大きいほど、辛さも増していく。


人間というものは、簡単に割り切れるものではない。黒白だけでなく、むしろそのどちらでもない曖昧な「グレー」の部分が大半だと思う。特にそれが心や感情といった部分であれば尚更だ。

その人達にとって一番必要なことは、「寛容になること」。甘やかすということでない。「どちらも自分。どちらでもない自分がいてもいい」と許すこと―と言ったら分かりやすいだろうか。

どちらか一方を否定して消し去るのではなく、「自分はそういう面もあるんだな」と、ただ認めたらいい。
それがイヤでも、我慢できなくても仕方ない。なぜなら「どちらも自分」なのだから。

「素」だけでも、「ペルソナ」だけでも、人は生きられない。
自分の中のそういった「矛盾」と向き合っていくこと、折り合っていくことで「自分」というものが形成されていく。

物事は表裏一体。「素の自分」も「ペルソナの自分」も、結局は同じ一人の人間、「自分自身」。どちらか一方を締め出す、否定するということは、実は自分の「すべて」を否定しているということ。

陰と陽、プラスとマイナス―どちらもあっていい。その両方を持ち合わせているのが「人間」なのだから。


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肩書き

 2008-12-11
肩書きや学歴にこだわる人がいる。
大抵は劣等感によるものと、外部に対しての自己主張、「みえ」によるもの。

以前両親の知り合いの中に、一風変わった年賀状を毎年送ってくる人がいた。世間に普通に出回っている印刷された文面の、いわゆるごく当たり前の年賀状なのだが、変わっているのは最後の部分。

家族全員の名前が連名で印刷されているのだが、一人ひとりの名前の横に、「○○大学○○学部○○学科在学」「○○株式会社○○部勤務」等、いちいち肩書きが添えられている。

大学名や勤務先の名前まで入れる人を初めて見た。そこに書かれてあった大学も企業も、全国区の知名度のある、いわゆる超有名一流どころだったので「なるほどね~」と思った。

両親に聞いたところ、そういう部分にかなりこだわる人とのことだったので、納得がいった。


肩書きも学歴も、その人を構成するスペック、「仕様」の一部でしかない―と、私は思う。簡単に言えば、「部品」の一部。全体の中のネジ一本、クギ一本にこだわって、あれこれキーキー言っている人を見ると不思議で仕方ない。

大事なのは全体の「バランス」だと思う。いくら一部のネジクギに最高級品を使っていたとしても、その他が調子が狂っていて動かなければ、何の役にも立たない。

必要以上に劣等感を持ったりする人も、誇示する人も、結局「自信がない」ということだ。「素」の自分、本来の自分で勝負できる自信がないということ。


高校生の時だった。東京の上野公園付近に、「ある事」で有名なホームレスの男性がいた。話には聞いていたのだが、ある日アメ横に買い物に行った時、初めてその人と遭遇した。

まだ高校生の子供だったので、その時はかなり怖かったのだが、そのおじさんのした事がかなり興味深かったので、今でもはっきりと覚えている。

その人は駅の地下道にいた。地上に出る通路を歩いている私を「ちょっと、お嬢ちゃん」と、おもむろに呼び止めて近づいてきたと思ったら、手に持っている筒から一枚の賞状を取り出した。

固まりつつもその様子を見ていると、私の目の前にその賞状を広げてみせる。よく見ると、それは某国立大学の修士課程の卒業証書だった。四隅が折れたり、ちょっと汚れが付いていたりしてはいたが、本物だったと思う。

それ以上のことは何もなかった。やがておじさんはニッと笑うと、その証書を筒に入れて、最初にいた壁際に、また戻っていった。

その人は、いつもそうやって通行人に自分の卒業証書を見せることで有名だった。友人の一人も同じように見せられたらしい。不思議なのは、その人が何も言わないことだ。ただ黙って目の前でそれを広げてみせるだけ。

あのおじさんが何のために、道行く人に卒業証書を見せていたのか、今でも分からない。
何か禅問答のようなものを仕掛けられたような気がしないでもない。

「腐っても鯛」と言いたかったのか、それとも「一流大学の修士課程を出ても、こういう境遇になるんだよ」と言いたかったのか・・・今でもたまに思い出す時がある。

不思議だったのは、如何にもホームレス然としたそのおじさんが、ちっとも可哀想に思えなかったことだ。どことなく飄々としていて、楽しそうにすら見えた。

その人に肩書きはなかった。あえて言うのなら「上野のホームレス」。社会の最底辺にいる、普通なら多くの人が気の毒に思う境遇にある人なのに、なぜかそんなふうには思えなかった。


卑屈になったり、自慢したり―。自分を構成するもの、「部品」に縛られてどうする―と、私は思う。いい学校、いい勤務先―得することもあるだろうが、ほんの一時のこと。人としての核がない者がそれを振りかざし、誇示する様は、浅ましく痛ましい。

大切なのは、「素」の自分でどれだけやれるか、どれだけ通用するか―だと思う。そういったものにこだわって、拠りどころにしている限りは、本当の自分の価値に気づけない。

「木を見て森を見ず」

小さなことに囚われて、もっとずっと大切なものを見失わないように―。
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本物

 2008-12-09
薬草等を用いた伝承の療法で病気を治したり、部族の儀式を司る「メディスンマン」は、今なおネイティブアメリカンの社会において重要な位置を占めている。

その存在は「医者」や「ヒーラー」としての役割を果たすだけではなく、人々の精神的な支えでもあり、ネイティブアメリカンの文化の核を成すものといえる。

ただ残念なことに、最近かれらの哲学や伝承療法が教育や医学等各方面で注目を集めて以来、「自称メディスンマン」のいわゆる「にせもの」が増えていることも事実だ。ネイティブアメリカンの人々の間でもにせもの」の出現を嘆く声が多数あがっている。

以前友人の Chuck Twofingers が「最近ニセモノのメディスンマンが多くて嫌になるよ!皮肉ってこんなのを作ってみたんだけど読んでみてくれない?」とメールで自作の詩を送ってきた。

彼は部族の歴史やしきたりに精通し、ラコタ語を完璧に話す「伝統派」のネイティブアメリカンなので、ニセモノの横行するこの現状が我慢ならないようだ。かれらの哲学や儀式、現代の生活の様子も垣間見ることができる興味深い内容だと思い、Chuck の許可を取って翻訳してみた。




「インチキ メディスンマンの見分け方~”にせもの”の証拠トップ10」 byChuck Twofingers

[証拠その10] あなたに『聖なるレッドロード(*1)』の早道切符を売りつけようとしたこと

[証拠その9] 「ネイティブアメリカンの伝統的なハーブ薬(*2)だ」とあなたに手渡したのは実は I.H.S(インディアン・ヘルス・サービス)から支給されたタイレノール (*3)を砕いて粉末にしたものだったこと。

[証拠その8] 彼が開催するサンダンス(*4)のスポンサーはペプシコーラ社。

[証拠その7] 彼の儀式は全部、映画『ビリー・ジャック(*5)』をそっくりそのまま真似したものだったこと。

[証拠その6] 彼が部族社会にとどまる理由はただひとつ、政府からの支給金が目当てだから。

[証拠その5] カリフォルニアからやって来たリッチなレディ達に、聖なる4つの方角(*6)への捧げ物として、それぞれの方角を表す色(*7)で塗られた最新式の2005年型ピックアップトラック4台が必要だと信じ込ませること。

[証拠その4] ウエブサイトを持っているのはもちろんのこと、そのメールアドレスは www.howmuchyougot.com (www.いくら儲けた?com)。

[証拠その3] メディスンバッグ(*8)に入っているのはポータブルのクレジットカード読み取り機だけ。

[証拠その2] 彼の儀式に参加したいならチケット販売業者に問い合わせをしなくてはならないこと。

[証拠その1] 彼のホワイトバッファロー(*9)はスプレーペンキの臭いがすること。


[*1] 聖なるレッドロード(Sacred Red Road):ネイティブアメリカンにとってレッドロードを歩くことは、人生の真実・友情・個人の霊性・博愛を重んじ創造主の意思の下で生きることを意味する。生涯をかけて追求する自己発見と悟りの道でもある。

[*2] ハーブ薬:主に利用されるのはセージ、スイートグラス、シーダー、タバコ。場合によってラベンダー、ピニョン、タイムも使われる。

[*3] タイレノール:解熱鎮痛薬の商標名

[*4] サンダンス:太陽に感謝して自らの体を祈りとして捧げる、ネイティブアメリカンの最古の儀式のひとつ。サンダンスを踊れるのは、そのための夢やビジョンを見た者に限られる。ダンサーはその期間中、食べ物も水も取らない断食をし、『命の木』の周りで4日5晩踊り明かす。

[*5] 『ビリー・ジャック』:ネイティブアメリカンと白人の混血青年ビリー・ジャックが、ネイティブアメリカンへの差別に人一倍強い正義感で挑んでいく姿を描いた、1970年の映画作品。アメリカ国内でカルトな人気があり、シリーズ化もされている。

[*6] 聖なる4つの方角:東西南北の4方向。東は空気、西は火、南は水、北は大地を表す。

[*7] 4つの方角を表す色:東=黄色、西=黒、南=白、北=赤

[*8] メディスンバッグ:北米大陸に住むネイティブアメリカンが、超自然的なパワーをもたらす様々なアイテム(主にハーブ・ストーン・タバコ・動物の骨・フェザー・とうもろこしの粉・フェティッシュ等)を入れる物。主に動物の皮等で作られます。通常首にかけたりベルトに着けて使用。メディスンバッグは、持ち主の霊性や超自然的なパワーを高めるといわれている。

[*9] ホワイトバッファロー:ラコタ族では神の化身とされ、地球の人々に平和と相互理解の時代の到来を告げるものとされている。1994年ウイスコンシン州で牝のホワイトバッファローが生まれ、『ミラクル』と名付けられた。ホワイトバッファローが生まれる確率は遺伝学上1000万分の1、それを見ることができた人には奇跡が起きるといわれている。(注釈は樫田ミラによる)




「にせものメディスンマン」の出現は、今の日本のスピリチュアルブームの現状とよく似ている。
「ヒーラー」「チャネラー」が、そこら中に跋扈している状態。

以前友人に誘われて、ナンタラとかいう、大掛かりなスピ系イベントに行ったことがある。出展の誘いを毎回もらうということもあって、どんなものか見に行ってみようと思った。しかし、その場の空気の異常さと気持ち悪さに我慢できなくなって、30分程で友達を置いて先に帰ったことがある。

主宰者側の中には「本物」もいたかもしれないが、その大半はそうではないと思う。自称というか、いわゆる「ナンチャッテ○○」の類だと思う。自分で「そう思い込んでいる人、信じ込んでいる人」。中には「○○認定」とかいう肩書きが付いている人もいたが、それはそれで大いに疑問だ。

ネイティブアメリカンの「本物のメディスンマン、メディスンウーマン」は決して表には出てこない。
自分からは絶対に名乗らないし、周りも声高に吹聴しない。むしろひっそりと生きている。「知る人ぞ知る」の存在だ。

日本でもネイティブアメリカンの「スピリチュアルリーダー」を招いて、セレモニーやイベントを主催している人や団体がある。そこにいる人達が「ニセモノ」とは言わない。しかし、本来の在り方としては、大きく道を外れているような気がする。

自分達が先祖から大事に守って、継承してきた「核=魂」を切り売りするようなやり方を、快く思っていない人達、認めていない人達が数多くいることも事実だ。

また、そういった切り売りされたものに嬉々として群がり、彼らの文化や魂を理解した気になっているような外国人を、彼らは冷めた目で見ている。

今の日本のスピリチュアルの現状と重なって仕方ない。


スピリチュアルに関わっている人達は「いい人」が多い。親切で礼儀正しくて、熱心で―。信頼できるというか、「こんな人が友達にいてくれたら」というタイプ。

しかし、能力と人柄は比例しないと思ったほうがいい。無関係と言ってもいいかもしれない。

そこに毒が仕込まれていたとしても、甘くて美味しい部分のほうが多ければ、その毒の味や匂いに気づけない。

スピリチュアルに関しては、「いいとこ取り」はあり得ない。

その本を読んだ時、その人と話した時「何かおかしい」「何か引っかかる」といったものが少しでもあるのなら、つまりそれはそういうことなのだ。自分の潜在意識が、仕込まれた「毒」に反応しているということ。

「この部分は引っかかるけど、ここはいい事を言っているから、この部分だけ取り入れよう」というのは、実は危険なことなのだ。「自分は大丈夫。ちゃんとそれは判断できる」と思っている人ほど、実は危ないと思ったほうがいい。その過信は、既にガードが下がっている証拠だ。

微量でも毒は毒。積もり重なっていけば死に至ることもある。99.9%いい事を言っていたとしても、0.1%の毒が含まれていたとしたら、そういったものだと判断したほうがいい。かつて世間を騒がせた宗教団体等を見れば、それがよく分かる。

「引っかかる部分がたったそれだけなのに、他のいい部分まで全部否定するなんて・・・」と思う人もいるかもしれない。しかし、スピリチュアルに関しては、その厳しさや冷静さ、判断力を持たなければ危険だ。気がついたら魂が食われていた―ということになってからでは遅い。

本来スピリチュアルには「情」は要らない。「それくらい大丈夫」という「蟻の一穴」から崩壊することもある。

目に見えないものだからこそ、惑わされないように。見失わないように。過信しないように。

そういった世界やものに拠り所を求めるある種の「依存」は、心の隙間を一時は埋めてはくれるかもしれない。しかしその分、魂は侵食される。

スピリチュアルの分野に限らず、「本物」は「力、パワー」になる。

惑わせ、依存させ、魂を抜き取り、自立の力を奪うものは「本物」ではない。
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セレンディピティー

 2008-12-07
運やツキというものは、目をギラギラさせて待ち構えているうちはやって来ないと思う。
それは自然に、「来るべき時」が来た時に飛び込んできたりする。

誰もが「幸せになりたい」と思っている。「こんなふうになればいいのに」「今の自分に、あとこれさえあったなら絶対に幸せになれるのに」―そんなふうに思っている。それはパートナーであったり、地位や名誉、財産だったり―人によって様々だ。

でも「これさえあったら」と思い詰めているものほど、実は意外に「なくても大丈夫」という程度のものだったりする。単なる自分の価値観から来る「執着」や「思い込み」という場合がほとんどだ。

人間、自分に必要なものは必ず手に入る。必要なものが手に入る―というのが、私の永年の持論。

1億円の当選宝くじや、信じられない金額の万馬券、そういったタナボタ式の一攫千金のチャンスだって、その人にそれが本当に必要なものであれば必ず手に入る。

自分が引き寄せるとも言えるし、自分の意思の及ばない、何か大きな見えない力が働くのかもしれない。多分その両方なのだと思う。

高額金の当たりくじや馬券を夢見て、そういったものを購入する人もいるだろう。でもその大半の人は自分の望んだものを手にすることなく終わる。

どんなに強く、長い間それを待ち望んでいるにも関わらず、そういったチャンスがないのであれば、それは本当は必要のないものなのかもしれない。もしくは、実際にそれを手にしたら、思わぬ方向に流れが変わってしまう場合があるから当たらないようになっているのかもしれない。

「○○さえ手に入れば」「○○になれば」という願望の中にあるのは、実は果てしの無い「欲」でしかなかったりする。分相応、現状に対する感謝や満足がすっぽりと抜け落ちていることから来ているものだったりする。

「欲」を持つことが悪いというのではない。本当にそれが絶対に自分に必要なのか、なかったら絶対に困るものなのか、自分の生死に関わってくるほど重要なものなのか―もしそうでないなら、それは「必要」なものではないのだと思う。

今のご時勢を見れば、今後に対する不安が出てくるのは当たり前。先のことは誰にも分からない。リストラや倒産に直面するかもしれないし、給料が大幅にカットされるかもしれない。子供や親の面倒をどうやってみていこうか悩むかもしれない。

でも、今この瞬間、住む所があって、働ける場所があって、毎日ご飯が食べられる環境にあるのなら、それはとても幸せなことなのだ。

そういった当たり前のことに対する感謝や満足が抜け落ちている限り、いくら大当たりのくじや馬券を望んでも決して手に入ることはない。

日々普通の、「人並みの生活」が出来ているにも関わらず、「今現在の自分は幸せである」そう思えないのであれば、仮に1億円が手に入っても決して満足はしないだろう。「あともう1億あれば」「もう少し多く買っていれば2億になっていたかも」―「欲」から来るものは際限なく増長していく。

日本や世界に伝わる民話や言い伝え―私はすべて現実に起こったことだと思っている。
舌切り雀然り、花咲かじいさん然り―日々の生活に満足し、他者に対する憐れみの心をもった人達に幸運がもたらされた。

思わぬものや幸運を招きよせる力―「セレンディピティー」は、現在の状況や「当たり前の普通のこと」に満足や感謝ができる「足るを知る」人達に働くのである。アヤシイ呪文や、ナンタラの言葉や、天使や女神にお願いして引き寄せるものではない。

「宝くじが当たらない」「万馬券が来ない」もしそう残念がっているのなら、あなたは自分で思っているよりも、かなり幸せな状況にあるということだ。「本当に困っている人」は、残念がったり、悔しがったり、そんな「余裕」はない。

運やツキといったものは「プラスα」のもの、あくまでも「おまけ」だと思う。与えられた条件の中で、如何に強く逞しく生きていくか―よほど不当なものでない限り、今の環境や条件は、今現在のその人にとって相応のものと言ってもいいと思う。

「本当にがんばっている人」は「おまけ」を望まない。

なぜなら今の自分の努力やがんばりが、今後の状況や結果に必ず反映されると分かっているから。

それが結果として、運やツキに繋がると分かっているから。だから「タナボタ式」のおまけには拘らない。

「おまけ」は付いていたら嬉しいけれど、なくても困らない。


今日ご飯は食べましたか?今日する仕事はありますか?今日帰っていく場所、寝られる場所はありますか?今健康ですか?

もしあなたがこの条件を満たしているなら、あなたは「十分に幸せな人」だ。
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アメリカにて(3)「キアーナ」

 2008-12-05
その子は、夏休みが終わった直後にやって来た。

受付カウンターで、母親と一緒に転入手続きをしているところを偶然通りかかった。目が合ったので笑いかけると、はにかんだ様子で小さく手を振り返してきた。黒々としてよく光る瞳が、印象的な子だった。それがキアーナとの最初の出会い。

その2日後、緊急のスタッフミーティングが開かれた。話の中心は、新しくやって来た転校生、キアーナについて。少し遅れて出席した私は、「あれ?」と思った。いつもと空気がまったく違う。普段ならジョークや笑い声が飛び交っているのに、みんな一様に渋い顔をしている。

とりあえず渡された彼女の資料に目を通す。まず驚いたのは、転校の回数の多さ。用紙の欄からはみ出るくらいの数だ。それも東部、中西部、南部・・・と、アメリカ国内を転々としている。一つの学校に在籍している期間も異様に少ない。平均すると3~4ヶ月といったところだろうか。

私が日本語教師として勤務していた当時、カリフォルニア州サンディエゴでは、アフリカ系アメリカ人等、いわゆる「ブラック(黒人)」の生徒は、就学時に必ず学力テストを受けることを義務付けられていた。

それは人種差別という観点からのものではない。アメリカ国内でのマイノリティー、特にブラックの人々は貧困層が多く、子供達が未就学のまま労働しているケースがかなり見られるためだ。文字の読み書きがままならないという人達の数、「識字率」が飛び抜けて低いことによる。親が労働力として子供を働かせ、小学校にさえ通わせないこともある。

そのため、学校での授業についていけるか、年齢に合った学力が備わっているかをチェックすることが、州法で定められていた。必要に応じて、個人教授としてチューターが付いたり、特別なサポートカリキュラムが組まれたりする。

キアーナは、どこから見てもアフリカ系アメリカ人だった。しかし彼女の母親は、入学時に記入する書類の中の「人種」の項目、「Jewish(ユダヤ人)」にチェックを入れていた。

スタッフを渋い顔にさせていたのは、これだった。「ユダヤ人」ということは、ブラックの生徒に義務付けられている学力テストを受けさせることができないことを意味する。

本人達が「自分達はブラックではない。ユダヤ人だ」と言えば、周りがどう言おうと関係ない。彼らは「ユダヤ人」なのである。ユダヤ人の生徒に、ブラックの生徒が受けるテストを強要することはできない。

(様々な人種が入り混じるアメリカならではの話だが、現在イスラエルでは「ユダヤ人を母とする者、またはユダヤ教徒であることを「ユダヤ人」と定義している。キアーナの一家はユダヤ教を信仰している「ユダヤ教徒」ではあるが、血統的には完全にアフリカ系アメリカ人である。彼女の母親は「自分達はユダヤ教徒であるから、紛れも無いユダヤ人だ。ブラックではない」と主張していた)

キアーナの家庭は、問題が山積みだった。母親と2人の妹と4人で、車の中で生活している「路上生活者」であり、彼女の母親は定職を持たず、一家は国からの生活保護を受けて生活していた。移動する先々で生活保護を申請し、その期限が切れるとまた新しい土地に移動するという生活を何年も続けていた。転校回数が異常に多いのはこの為だった。

キアーナの担任教師になったシェリーの報告によると、自分の名前を書くのがやっとで、読み書きを始め、本来5年生の子供が身につけているべき学力はゼロに等しいとのことだった。

この学校は公立ではあったが、カリフォルニアでも10本の指に入るほどのレベルの高さだった。市のモデル校にも指定されていて、生徒の学力はもちろんのこと、生活態度等の面でも評価が高く、時々他の学校からも視察の人々が訪れていた。教師達も熱心で優秀な人が多く、私立校にも決してひけを取らない。

キアーナは、この学校では、ある意味「異端」だった。多分数ヶ月して生活保護受給期限が切れれば、一家はここを離れ、新しい土地に移っていく。数名のスタッフからは「数ヶ月しか在籍しないと分かっている生徒に対して何ができるというのか」という意見も出た。

確かに数ヶ月という限られた時間では、学校側ができることは本当にわずかだ。キアーナ用の特別カリキュラムを組んだり、教育委員会とチューター派遣のための調整をしたり、決して楽な手間ではない。スタッフの意見ももっともだった。

しばらく喧々囂々のやり取りが続いたのだが、その場の進行役でもあり、教頭先生でもあるマージの「今私達があの子に対してできること、あの子に今必要なことを精一杯やりましょう。ムダに終わるかどうかはこの際関係ないわ。私達は『教師』よ」というひと言で、結論が出た。


私が受け持つ「Japanese Culture Class」にも、キアーナが加わることになった。日本語の音や文字の形、文化―彼女には新鮮だったようだ。特に日本人小学生の日常をドラマ仕立てにしたビデオを見せた授業の時には、他の子供達と同様、目をキラキラさせて、興奮して見入っていた。

キアーナは、賢い子だった。学力こそ高くないが、知能は決して劣ってはいない。授業中に折り紙を折らせた時、誰よりも早く折り方を覚えたのも、カタカナとひらがなで自分のフルネームを、お手本を見ずに、クラスで一番に書けるようになったのも彼女だった。

「Hey! You must be Japanese!(本当は日本人でしょ!)」と褒めると、最初に会った時と同じようにはにかんだ笑顔で、でもとても嬉しそうにしていた。

読み書きのためのチューターが派遣されると、キアーナの能力の発達は目覚ましかった。まさに乾いたスポンジが水を吸い上げるように、彼女はいろいろなものを吸収していった。必要な環境や栄養を与えれば、植物はどんどん成長する。「人も同じだ」彼女を見ていてそう思った。

学力がつくと自信もつく。最初は控え目だった彼女も、だんだん活発になっていった。クラスにも溶け込んで、友達も大勢できた。ランチタイムの時にカフェテリアを覗いたら、隣に座っている子と一緒に楽しそうに話している。最初の頃、時々彼女の目に浮かんでいた、「あきらめ」を含んだ大人びた表情はそこにはなかった。年相応に子供らしく振舞っているキアーナを見て、心底ホッとした。

それから3ヶ月ほどして、5年生を受け持つシェリーが私のところにやって来た。「ちょっとこれを見てほしいの」と、渡された画用紙を見ると、そこには新幹線の絵が描かれていた。その横には笑顔で手を振っている女の子もいる。上の方の余白には、「I want to go to Japan someday and I want to ride shinkansen!」とオレンジ色のクレヨンで書かれていた。

それはキアーナが描いたものだった。「将来の夢」というタイトルがついている。感無量だった。自分の名前を書くのがやっと、文字すらも満足に読むことができなかった子が、「いつか日本に行って、新幹線に乗りたい」と言う。「新幹線=shinkansen」の綴りもバッチリだ。

さらにシェリーが続ける。「ここを見て」指を指したところは、新幹線の窓。窓の中に誰かいる。「これはあなたなんですって」

シェリーが「これは誰?」と聞いたところ、「Ms.Kashida」と言ったらしい。

「うわ!まずい!」思わず泣きそうになった。「ちょっと~、職場で泣かさないでよ~」と、シェリーに文句を言うと、彼女も目をウルウルさせている。いい歳をした大人が2人、昼休みの小学校の廊下で泣き笑い状態。「これだから教師は辞められないよね」「ほんとほんと」そして私達は肩を組んで意気揚々と、スタッフルームにいる他の先生達に、キアーナの絵を見せにいった。


それから4ヵ月後、キアーナは学校からいなくなった。家族と国内を転々とする生活に、また戻っていった。転校手続きに来た母親に担任のシェリーが聞いたところ、次の行き先は決まっていないとのことだった。だからその後キアーナがどうなったのか、誰も知る人はいない。

元気でいるなら、27~8歳になっているはずだ。20年近く経つのに、今でもふと彼女のことを思い出す時がある。一緒に過ごした時間は、一番短い子だったのに。

元気なのだろうか?結婚はしているのだろうか?今どんな生活をしているのだろうか?

ニュースでアメリカ国内の映像が流れる時、彼女の顔が浮かんだりする。奇跡でも起こらない限り、キアーナと会うことは、この先二度とないと思う。でも会えなくても、彼女自身が幸せだと思える人生を送っていてくれたらそれでいい。

「change(変化)」というスローガンを掲げる史上初の黒人大統領の下、もうすぐアメリカは「新しい時代」を迎える。勝利演説の中の「子供達の為にチャンスの扉を開かなくてはならない」の言葉のように、自分の意思とは無関係にその可能性の芽を摘まれてしまうキアーナのような子供が、アメリカから、世界中から一人もいなくなるように―と願ってやまない。
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ループ

 2008-12-03
同じことを何度も繰り返す人がいる。いつも同じようなことで悩んだり、失敗して後悔したり―それを延々と繰り返す。

スピリチュアルに妙な傾倒をしている人だと「それは自分のカルマだから仕方ない」等と、無理に自分を納得させるところかもしれないが、それ以前の問題だ。

何のことはない。「問題の根本」を、まったく理解していないからだ。

その問題の「原因」を理解していないから、何度も同じことを繰り返す。今の状況を「結果」とするなら、現在に至るまでのきっかけ―「原因」というものが必ずある。

「繰り返す人」は、その「原因」を省みようとしない。

今自分が置かれている現状―「結果」を見て、ただそれに慌てふためいている状態。

「どうしてこんなことに」「どうして私がこんな目に」―「どうして?どうして?」と言ってはいるが、それは「原因」を省みているわけではない。「どこでどう間違ったのか」「何が悪かったのか」―そこに至るまでの「プロセス」や「方法」にしか目を向けていない。


物事の真理はシンプルだ。今抱えている様々な悩みも、根っこはひとつ。まったく違う種類のものに見えたとしても、同じひとつの所に繋がっている。

発熱、頭痛、腹痛、咳、くしゃみ、悪寒・・・風邪を引くと出る症状は様々だ。でも原因はひとつ。風邪のウイルスが引き起こしている。それと似ている。

「繰り返す人」は、「対症療法」をしているに過ぎない。熱には解熱剤、咳には咳止め・・・といったように、それぞれの症状を抑えることはするが、その元となるウイルスを放置している状態。それがいつまでも残っているから、いつまで経っても良くならない。

その「ウイルス」の種類は、人によって違う。ある人のそれは「自分自身に対する嫌悪感」だったり、またある人にとっては「心や考え方の頑なさ」だったり、「人に対する劣等感」だったり。人それぞれだ。

現在の状況を引き起こした、その途中のプロセスや方法の不具合の発見に固執しても何も変わらない。必要なのはウイルスを発見して、治療すること―「原因」を探して「解決策」を見い出すことだ。

今自分が悩んでいる問題を思い起こしてみる。何が、誰が、自分をイライラさせて落ち込ませているのか?そのことの、その人の何が自分をそういう状態にさせるのか?そしてその状態は自分にどんなものをもたらすのか?そのことの、その人の何が自分にとって「不都合」なのか?

そうやって自問自答をしていくと、その問題の根っこ―「ウイルス」に辿り着く。そうすると自分が取るべき態度や対処の方法等、解決策が見えてくるはずだ。

無限ループから抜け出すのは、思っているよりずっと簡単だったりする。因果の法則の理解と、発想の転換があればいい。問題を難しく、複雑にしているのは、自分自身の思い込みや決めつけ、拘っているものだったりする。

物事の真理はシンプルだ。余分なものを取り払った時、真実が見えてくる。
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人生はチョコレートの箱

 2008-12-01
自分の未来が分かったら、多分誰も悩まない。

先が見えないということは、とても不安だ。手探りで闇の中を進むようなものだから。

今自分がやっていることや、これからやろうとしていることが、この先どこに繋がって、どう展開していくのか―それは蓋を開けてみないと分からない。ギャンブルのようなもの。

自分がその時にした選択が、思いもかけない結果を運んでくることもある。そしてそれは、必ずしも自分が望んでいたものとは限らない。

自分が思い描いていた結果にならなかった場合のことを考えて、人は臆病になる。
「もし失敗したら」「もし不幸になったら」「もし間違っていたら」―恐怖や不安で自分を縛りつけ、その場に立ちすくんでしまう。前に進む勇気がなくなる。

そして結局、状況を把握できていて、安心して存在していられる「今」に留まることを選ぶ。しかし多くの場合のそれは、現在の状況に「ただ甘んじているだけ」だったりする。

一見「選択」をした結果に思えるがそうではない。実は「逃避」や「停滞」であることがほとんどだ。


人生は「二元論」で測れるものではない―と、私は思う。

成功か失敗か、幸せか不幸せか、正しいか間違っているか―どちらかにしか当てはまらないというものではないと思う。

そもそも「これこそが幸せな人生」「これこそが正しい人生」「これこそが成功した人生」といった「定義」は存在しない。

それぞれの考え方や感じ方によって、それは異なってくる。人の数だけ人生の種類がある。自分の人生を「ひな型」に当てはめようとする必要はない。


映画「フォレスト・ガンプ」の中で、主人公の母親が言う。「人生はチョコレートの箱。開けてみるまでは分からない」

箱の中にズラリと並んだチョコレート。自分が選んだチョコの中に、何が入っているのかは分からない。アーモンドかもしれないし、クリームかもしれない。あるいはウイスキーかも・・・齧ってみて初めて分かるものだ。

人生においての選択も、そうしたらいい。まず齧ってみる―選択や決断をして「やってみる」。もしそれが美味しかったら、好きな味だったらそれでいい。もし美味しいと思えなかったら、自分の嫌いな味だったら、食べるのを止めて別のものを選んだらいい。

最初から自分の好きな中身のものを引き当てられたら、それはラッキーなことだ。誰もが望む形。でもそうではない場合でも、決してムダではない。確かに一発で好きなものを選べた場合に比べたら多少の手間はかかったかもしれない。でも齧ってみたから「これはイヤ、好きじゃない」と分かった。

どれを選ぼうか迷ってただ見ていただけでは、その味も、自分がそれを好きかどうかも、美味しいのかといったことさえも分からなかったはず。

自分の人生がどんな味に、どんな形になるのかは、この人生が終わる時に初めて分かる。

最初はハート型でナッツの入ったチョコを作るつもりでいたのが、最終的には丸い形でウイスキーが入っていた―という場合もあるだろう。

でも、それでいいのだと思う。当初の予定と違う味や形になったとしても、それを自分が好きで美味しいと思えたら、それでいい。

時に材料の組み合わせを間違ったりして、とんでもない味になったとしても「最初に試作したやつ、あれはすごく不味かったね~」と笑って言えたなら、それでいいのではないだろうか。

「もし嫌いなものだったらどうしよう」「美味しくないものができたらどうしよう」と、作る前、食べる前にあきらめる―それはとても、もったいない。せっかくその機会が与えられているのに。もしかしたらそれが極上のものだったりする可能性もある。そうでなかったとしても、それを食べたから、作ったからこそ、その味を知ることができたはず。

人生において、ムダになることは何ひとつない。すべて自分のやってきたことや、自分が失敗と思っていることでさえ、後々の何かに繋がっていく重要な伏線の場合もある。

本来「失敗」という言葉は人生には存在しない。それは「経験」というものになる。

真っ直ぐな階段を、順調に、スムーズに昇ることに拘っている間は何も変わらない。ジグザグに進んでもいいのだ。形等の体裁に拘ることは必要ない。大切なのは「自分がそれを好きかどうか」―ただそれだけ。

人生の賞味期限は、自分が思っている以上に短いもの。迷っているうちに、躊躇っているうちに、どんどん日々が過ぎていく。「気がついた時には・・・」では遅いのだ。

自分の手元にあるチョコレートを、どれでも思い切って、ひと口齧ってみたらいい。何が出るかはお楽しみ。

そう、「人生は開けてみるまで分からないもの、齧ってみなければ分からないもの」なのだ。


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