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12月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2008-11-30
12月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2008年12月7日 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 12月5日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。


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■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          

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強い人 弱い人

 2008-11-28
カウンセリング中、クライアントからよく出る言葉というものがある。
その中のひとつが「自分は弱い人間なんです・・・」というもの。

何を以って「弱い」とするのかは、人それぞれ定義が違う。「強い」ということに関しても同じこと。

この世の中には「弱い人」も「強い人」もいない―と、私は思う。

1人の人間の中には、弱い部分と強い部分、両方あるのだと思う。今、自分を「弱い人間」と感じているのなら、それは今、その「弱い部分」が表に出ている時期―その要素が強まっている時期なのだと思う。「強い」に関しても同様だ。その部分がもう一方を凌駕している状態。

「弱いまま」「強いまま」というように、どちらか一方の状態がそのまま永遠に続くことはないと思う。


ただあえて、どんな時に人としての「強さ」が表れるかというと、「その時に起こったこと、その状況にどう対応するか」という部分においてだと思う。

人間生きていれば、どんな人でも時には失敗したり、気落ちする時がある。その時、その人がそれをどう捉え、どう対処するのか―その態度に集約されるのではないだろうか。

マイナスの域に陥った時、「ゼロ地点」―通常の状態に戻るまでにかかる時間、速さの違い―ともいえるかもしれない。「立ち直りの早さ」。被ったダメージから、いかに早く自分を取り戻せるかという「回復力」。


自分自身を「弱い」と言う人には、特徴がある。

「もし~だったら」「もし~をしていたら」といったように、終わってしまったこと、やらなかったこと等「過去」に対する「後悔」の念が強い。そしてそこに執着して、なかなか前に進もうとしない。その地点で立ち止まったまま。「たられば」で過去を回想して、狂ったシナリオにただ絶望しているだけ。

そしてそこには「今、現在」というものが完全に抜け落ちている。過去に生きているだけ。

生きていれば紆余曲折、波があって当たり前。時には落ち込む時もあるし、落ち込んでもいい。でも、そこに留まって嘆いていても、状況は何も変わらない。

自分を「弱い」と称する人は、落ちた地点に留まる時間が長い。むしろ、自分でそこに留まり続けることを選んでいるように見える。なぜならその人がしているのは「後悔」だから。後悔からは何も生まれない。次に繋げていくものがないから、前に進めない。そして今度はまだ起こってない未来のことまで心配し始める。


自分を弱い人間だと嘆く前に、いま一度自分自身と向き合うことだ。
「自分は弱い」と自分自身を納得させることが、前に進むことを拒否する「言い訳」になっていないか、自分は今後どうしたいのか、どうなりたいのか―そうすれば自ずと、自分が取るべき態度が分かってくる。

自分の中の弱さを完全に消すことはできない。というより、弱さがあってもいい。強さも弱さも両方ある―それが人間だから。

「強くなりたい」と思うなら、その弱さを超える強さを身につけたらいい。強さで弱さを包んでしまえばいいだけだ。無理に打ち消したり、消し去ろうとする必要はない。

今の自分の姿は、すべて自分の意識が作り上げたもの。意識が変われば行動も変わるし、思いも変わる。「なりたい自分」にはいつでもなれる。

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散華

 2008-11-26
母方の祖父には一度も会ったことがない。
私が生まれるずっと前、第二次世界大戦が終わる3年前、昭和17年に27歳で戦死しているから。

実家の仏間に飾ってある遺影と、祖母の手元に残っている数枚の写真でしか祖父の顔は知らない。

色白で、ちょっとえらの張った顔で、くっきりとした二重まぶた。眼鏡をかけていて、髪は少し癖がある。細身で、物静かな印象を受ける。文学青年みたい。目のきれいな人だ。孫の私から見ても「いい男」だと思う。

祖母や母方の親戚、祖父の兄弟達から聞いた話によると、とても「いい人」だったらしい。

高校生の頃、祖父が戦地から家族に送ってきたハガキを見せてもらったことがある。10枚近くあっただろうか。どれも大分傷んでいて、数箇所に押されている「検閲」の赤いインクも所々擦れていた。

それを見ると彼の人柄が忍ばれる。祖母と、当時2歳と0歳児だった私の母と叔母に向けて書いたそのハガキの文面は、文章も文字も、余白に書かれた絵も、すべてが優しかった。

趣味で絵を描く人だったらしく、多分戦地に持っていったと思われる絵の具で、ハイビスカスやバナナ、椰子の木等、熱帯のめずらしい植物が丹念に描かれていた。戦死した場所は「南方戦線」としか分からない。ニューギニアではないかと言われているが、未だに詳細は不明だ。でもハガキに描かれた絵から推測すると、やはりそのあたりなのかもしれない。

当然遺骨や遺品も戻ってきていない。祖母によると、石ころがひとつ、骨箱の中に入っていただけだったという。

東京でサラリーマンとして働いていたところに召集令状の「赤紙」が来て、結婚3年目の妻と、2歳になろうとする娘と、間もなく生まれてくる予定の子供を残し、彼は出征していった。そしてそれから1年後に戦死した。

ニューギニア、フィリピン、ジャワ、ビルマ(ミャンマー)等「南方戦線」は特に悲惨だったと聞く。生きて帰って来られた人は本当に少ない。戦闘でよりも、餓死、マラリアやコレラ等の伝染病で命を落とした人が多かったという。

祖父がどんな死に方をしたのかは分からない。ただ、「もっと生きたかったろうな」と思う。まだ27歳で、まさに「人生これから」という時に、戦争という自分の意思等が一切及ばないことで死んでいくことを、どう感じていたのかと思う。

祖父だけでなく、あの当時戦場で死んでいった多くの人達も同じだ。みんな「お国の為に」「愛する者を守る為に」そういった思いを抱いて散っていった。日本の未来が明るいものになるよう、愛する者達が幸せに生きていけるよう―その為には自分達が犠牲になることも厭わなかった。「きっといい国になる」「きっといい未来になる」そう信じていたはずだ。

戦後60年経った今、日本は豊かになった。経済大国としての地位も得た。だが、今の日本の現状はどうだろう。我先に他人を踏みつけ、自分のことしか考えない。「もっともっと」「よこせよこせ」の欲のかたまり。

「もっと豊かな人生を手に入れるために!」「ソウルメイトと出会うための○○」「運命を好転させるための○○」―ただの欲望を満たすための妙なスピリチュアルや自己啓発で溢れかえっている。またそれに群がる者の多さと浅ましさ。

今の日本に住む人達は「ヒマ」なのだと思う。「平和ボケ」と言ってもいいのかもしれない。切羽詰った生命の危険にとりあえず晒される心配がない。ただ個々の衣食住の確保だけを考えていればいいといった状況。

これが内戦や戦闘地域に住む人達だったらそうはいかない。「どうしたらソウルメイトに会えるのかしら」等と、ぼんやり考えていたらミサイルや爆弾が飛んでくる。

「もっと豊かな人生になるには」などと考えている暇はない。今日食べる物を手に入れるには、どうすれば明日まで生き延びられるか―それだけで精一杯だ。

今自分達がこうやってフワフワとお気楽に人生を悩んでいられる時間を持てるのも、すべて先人達のお陰。あの人達が命を賭してくれたから。彼らにはそういったことを思い悩む時間など、ほとんどなかっただろう。「お国のために」「愛する者のために」―ある意味「自分のものではない人生」を送った人達だ。

「彼氏彼女とうまくいかない」「人間関係が辛い」「仕事にやり甲斐がない」―くだらない悩みとは言わない。ただ、そうやって自分自身のことだけに集中して悩んでいられる今の状況が、どれだけ幸せで恵まれたものなのか、それを認識してほしいと思う。

今の自分の人生が、どれだけ多くの人達の犠牲や思いや献身の上に成り立っているものか、それを考えてほしいと思う。表に出ない「陰」の部分―「お陰様」あっての今の自分があるということを。

そういった感謝の気持ちや理解がなければ、「自分を磨く」と言って様々なものに手を出しても、何の意味も持たない。

今の日本や、そこに住む人々の現状を見て、あの人達はどう思うか―最近よく考える。
嘆く人もいるかもしれない。怒る人もいるかもしれない。呆れる人もいるだろう。でも意外に、些細なことで青息吐息している私達を見てニコニコしているかもしれない。

祖父が戦地から家族に宛てたハガキには、こう書いてあった。「ただ、ただ、みんな元気でいてください。元気でさえいてくれればそれで十分です」

仕事がどうの、人間関係がどうのと、自分のことしか考えていない勝手な私達を「しょうがないな~でもいいよ、いいよ。平和な時代でよかったね」と笑って見てくれているような気がしてならない。

祖父が亡くなって66年。孫の私は祖父の年齢を遥かに越えてしまった。

もし祖父が、先の戦争で逝った人達がもし今の時代に生まれ変わっているのなら、どうか平和な国で―。例え物質的に豊かでないとしても、好きなことができて、好きなことを言えて、自分の意思で生きられる人生を―。戦争の前に、それぞれが夢見ていた、思い描いていたような人生を送れていますように―。

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弁えるもの

 2008-11-24
【常識】(common sense)
普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般知識と共に、理解力・判断力・思慮分別等を含む。(広辞苑より)


セラピストの仕事を始めて、驚いたことの一つは「常識のない人、弁(わきま)えない人」の存在の多さ。特にセッション内容等に関する問い合わせの際のメール、FAX、電話等において。

何の挨拶も自己紹介もなく、例えば「あがり症にも効きますか?」と、その他の状況説明等もなく、その一行だけ、ただ用件だけを書いて送りつけてきたり、延々と自分の悩みを書いたメールやFAXを一方的に送りつけてきて「必ずお返事をください」と、こちらからの返信を強要する見ず知らずの人もいる。(「お時間のある時で結構ですので」とある場合も、一見丁寧ではあるが強要していることに変わりはない)

営業時間を大幅に過ぎた深夜に近い時刻に、電話をかけてくる人もいる。電話に出ると、「夜遅く申し訳ございません」や「私○○と申しますが」等の言葉も一切なく、「サイトを見たんですけど、どうして過去生を知ると癒されるんですか?理解できないんですけど」と、こちらの状況や都合を無視して、いきなり持論をまくし立てる。深夜1時過ぎ、早朝6時に電話をかけてきた人もいた。

こういった人達は、道に迷った時も「すみません」のひと言もなく「○○ってどこよ?」と、いきなり見知らぬ人に対して、ぞんざいに質問を投げつけたりするのだろうか。

年齢や職業、性別等は一切関係ない。20歳そこそこの若い学生の人でも、きちんとしている人は多いし、年配の人でもそういった礼儀を知らない態度を取る人もいる。

しかし、同業者やその他の接客業者の話を聞くと、やはり同じような人が少なからずいるらしい。特にここ数年、常識のない言動を取る人の数が増えているような気がする。

街中やマスコミの報道等で、そういった類の言動をする人を目にすることはあったが、実際に、直接自分が関わる機会が多くなると、世の中の乱れというか、人の意識の崩壊のようなものをより一層痛感せざるを得ない。

「知らない」とか「関係ない」とかいう問題ではない。「常識」はどこの国でも存在する。

違う考えを持ち、違う感じ方をする人間が、同じ場所でお互いが気持ちよく生きていくためのもの。つまりは生きていく上での「最低限のルール、約束事」だ。


「常識のない人」には、「想像力」が欠けている。
自分の言動が相手や自分の周りの環境に与える心理的・物理的影響、そこから生じる結果を想像できない。

「思い遣る」という部分が抜け落ちている―と言ってもいいと思う。

相手が今自分と話せる状況なのか、自分への返信に相手が費やす時間や手間、自分が相手に伝えるべき最低限の情報―そういったものを想像できない。

そういった人は、基本「自分優先」で、自分のほしいものが手に入りさえすれば、自分が良ければ、自分だけがハッピーなら後は知らない―という勝手な思いが根底にあるので、相手の都合はお構いなしになる。「自分勝手な人」でもある。


特に初対面の人に対して、挨拶がない、名乗らないということは常識以前の問題だ。
自分の所属を明らかにすることは、最低限の礼儀であり、「名乗ること」は相手に敬意を表す作法でもある。名乗らないということは、相手を軽んじているということ。

時代劇等で「名を名乗れ!」というシーンがよく登場する。闇討ちに遭った武士が、正体を隠し、名乗らずに逃げた相手を「卑怯者!」と罵倒する。

つまりはそういうことなのだ。「卑怯者」がする卑劣な行為。

犯罪の被害者や加害者、その他世間に何かの形で名前が出たりすると、匿名で嫌がらせの電話や手紙、メール等を送る―それも同じこと。

特にこちらが名前や所在地等を全部公表していて、こちらの情報を知っているにも関わらず、自分はどこの誰かさえも名乗らない。しかし自分に必要な情報や答えはもらいたい―という。あまりにも虫が良過ぎるのではないだろうか。フェアとは言えない。

延々と自分の悩みを電話で話し出す人に「失礼ですがお名前は?」と尋ねると、いきなり電話を途中で切ったり、「どうして名前を言わないといけないんですか?」という答えが返ってきたり、そのまま黙り込んでしまったり・・・一体どういうつもりなのか理解に苦しむ。名前を知られると後ろめたいことでもあるのだろうかと思ってしまう。

その人達からすれば、私は「会ったことのない知らない人」だから怖い―という思いがあるのかもしれない。しかしそれはこちらも同じことだ。

例えば実際にどんな人が来るのかは、セッション当日にならなければ分からない。相手は私の住所や連絡先、プロフィール等、大体の情報は持っている。しかし私が知っているのは、その人の名前と緊急連絡先だけだ。偽名を使われたり、まったく違う人が来たとしても、それを知りようがない。

あくまで予約成立までのやり取りから、その人を推し量り、信用するしかない。むしろ怖いのはこちらのほうだったりする。持っている情報量に格段の差がある。幸いなことに今までそういう目には遭ったことはないが、実際にクライアントの人達を含め、いろいろな人から「怖くないですか?」と聞かれることも多い。

社会人として仕事を持っている人なら、取引先等の社外に電話をする時、自分の所属や名前を伝えるのは当たり前のこととして定着していると思う。それは公の場に限らない。「私」の部分でもまったく同じだ。常識や礼儀には「公私」の区別はない。

組織の中ではできるのに、「私」の部分ではできない―それは「ただの付け焼刃」だから。本当に自分に身についたものではないからだ。

「公」での常識は「私」でも常識、「公」での非常識は「私」でも非常識。

そういった小さな部分、自分では大したことがないと思っている部分にこそ、その人の本質が表れる。

小さな部分を軽んじる者が「自分の魂の目的は?生まれてきた意味は?」等と騒いでみても、まったく無意味だと思う。魂云々と言う前に、人としての基礎ができていなければ、何にもならない。

いま一度自分のそういった部分を見直してみてほしい。
「公」においても、「私」においても、常識や礼儀に「区別」はない。
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福禄寿

 2008-11-22
東洋の思想において、幸せの基本的概念を表す「福禄寿」という言葉がある。

有名な「七福神」の中にも、長い頭と髭を蓄え、経巻を結びつけた杖を持ち、たくさんの鶴を従えた同じ名前の神様もいるから、耳にしたことのある人も多いと思う。

「福」は「子孫繁栄・人間関係や環境等に恵まれること」、「禄」は「財産・経済・身分に恵まれること」、「寿」は「心と体の健康に恵まれること」を表す。その3つを合わせて「福禄寿」。そして、これがすべて手に入った状態を「三徳」と呼ぶ。

精神と物質と肉体の幸せ―確かに日常生活においてこの3つが手に入ったら、自他共に認める「幸せな状態」と言えるのかもしれない。

ただ、人によって求める「程度、レベル」があるので、傍から見て「もう十分じゃないですか!」と思える状態にあったとしても、本人自身がそう思えないのなら、その人は「幸せではない」のだと思う。

逆に、周りから見て「うわー、大変そうだな」と思う状況にあったとしても、当の本人がまったく気にせずに「いえ、そんなことはないですよ。幸せですよ」と思っているなら、その人は「幸せ」なのだろう。

結局、幸せの形は「その人の意識の持ち方次第」なのだと思う。

自分に欠けているものや足りないものに意識を向けてばかりいる人は、どんなことにおいても決して満足することはない。「自分にはこれがないから○○できない」「もし○○だったら、こうなっていたかもしれない」と、常に言い訳と後悔ばかりしている。将来に対する観方も悲観的だ。

今現在足らないと思っているものが手に入ったとしても、今度は「あれも持っていない」と、多分別の何かを欲しがるはず。それは際限のないループだ。


この仕事を始めて1年目の時、銀行残高4千円を経験したことがある(笑)

離婚と同時期のスタートだったので、引越しやそれに伴う出費、仕事等の準備にかかるお金は相当なものだった。その当時は、預金通帳を見るのが本当に怖かった(笑)

幸運なことに、私はそれまでお金に関しての苦労は一切経験したことがなかった。嫌味に聞こえるかもしれないが、「お金がない」という状態がどんなものか、正直分からなかった。本当に恵まれていたと思う。

でも新たな選択に伴って、新たな経験がやって来た。それが「お金がない」ということ。

今だから笑って話せるが、通帳に印刷された「4322円」の文字を見た時はさすがに考え込んだ。そして初めて分かった。「そうか。私、今お金がないのね」と(笑)

初めて感じる心細さに、ちょっと涙も出てきたりして「お金がないって、こういうことなんだ」と、しみじみ理解した。実家に連絡すれば、即日お金を振り込んでくれるのは分かっていた。離婚した元旦那さんも「困った時はいつでも連絡しておいで」と言ってくれた。でもそのどちらに頼るのも嫌だった。

しばらくメソメソしていたのだが、だんだん泣くのにも疲れてきたし、飽きてきた。

なぜかキッチンに足が向かった。何気なしに冷蔵庫を開けると、昨日買い物してきたばかりなので結構食料品が入っている。それを見た時に思った。「うまく節約したら1週間~10日くらいはもたせられるかも」

そしてこうも思った。「今月分の家賃は払ったから、1ヶ月は住む所があるってことよね」

「料金滞納しても、水道は一番最後に止められるって聞いたことがある。人間は食べなくても水さえあったら2~3ヶ月は生きていけるって言うから、万が一の時は近くの公園でお水汲んでこよう」なんてことが、次から次に浮かんできた。そしてたどり着いた結論は「なんだ~結構大丈夫かも。まあなるようになるさ♪」

そして現実に何とかなってしまったのだから、意識の力は恐ろしい(笑)

そういう時を経験しているから、多少のことではへこまない。何とかなると分かっているから。

今でも時々その時のことを思い出すが、その経験が私に教えてくれたものは「当たり前のことを当たり前にできることへの感謝」ということ。

毎日ご飯を食べられるということが、どんなに恵まれているか、健康で毎日を過ごせることがどれだけ素晴らしいことなのか、自分や自分の生活を守って支えてくれる人がいるということが、どれほど有り難いことなのか―そういったことを本当に、心から実感することができた。

コンビニの100円のおにぎりを食べた時も、ちょっとお高いレストランで食事をした時も、その後の「ごちそうさまでした」の重さは、まったく同じ。心からの感謝と共に言えるようになったのは、その経験のお蔭だ。

先日のニュースで、住む場所がなく、ネットカフェを転々と泊まり歩いているネットカフェ難民の人達や不況の煽りで職を解雇され、ホームレスになるしかない季節労働者の人達のことが取り上げられていた。

現在住む場所があって、毎日ご飯が食べられる生活ができることが、どんなに幸せで恵まれていることなのか―自分自身が「当たり前、普通」と思っていることを見直してみるといい。その当たり前で普通のことが適わない人だって、今現在大勢いるのだ。

「もっともっと」と思って願うものは「欲」だと思う。
「欲」がベースの幸せは、けして満たされることはない。それはただの貪り、欲しがる心の表れ。

どんな小さなことの中にも、幸せはある。それに気づいたら「三徳」どころか「四徳」にも「五徳」にもなるかもしれない。

今の自分を幸せだと思えないなら、「もっと」という気持ちが強くて満足できないのなら、それは幸せを感じたり見つけたりする「幸福力」が落ちていること。

人は自分が思っているより、実はずっとずっと幸せなのだ。
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蓼食う虫

 2008-11-20
恋愛に関する心理テストの類をすると、必ず「ギャップに惹かれるタイプ」と出る。
まさにその通り。当たっている。恐るべし心理学。なかなか侮れない。

良くも悪くも「見た目そのまま」という人には、正直興味が湧かない。その背景が簡単に想像できてしまう人は、どこか物足らなく感じてしまう。例えば見るからに「好青年」で、中身も外見と同じく、爽やかで性格も良かったりすると、もうその時点で「つまんな~い」となる。

意外性が大きければ大きいほどいい。

例えば棋士の羽生善治氏。自宅から対局が行われる将棋会館へ電車で向かう姿は、サラリーマンそのもの。実際誰一人として羽生さんに気がつかない。だが、将棋盤に向かうと彼は一変して「勝負師」の顔になる。その変化がかっこいい。サラリーマン然とした先ほどの平凡さは微塵もない。ものすごいオーラ、存在感が漂う。私が「かっこいい」と思う人の一人だ。

友人達に「羽生さんって素敵♪」と言うと、大抵よくわからない顔をされる。彼女達が「素敵よね~」と騒ぐ芸能人には見向きもせず、ある意味「平凡な」羽生さんを、どうしてそこまで褒めちぎるのか理解に苦しむらしい。ネットで羽生さんの動画を探して、それを嬉々として見ている私は「変わり者」と言われている。


街中や人の集まる場所で、恋人や夫婦と思しきカップルを見る度にいつも思う。「どうしてこの組み合わせなんだろう?」外見上まったく正反対の特徴を持つ組み合わせもあれば、兄妹かと思うくらいにすべてが似ている場合もある。

どんなカップルにも、お互いを選んだ理由が必ず存在する。たまにその理由を聞いてみたくなる時がある。60億以上の人間がいるこの世界で出会うなんて、ものすごい確率だと思う。

よく行われるアンケート等を見ていると、「相手に望むもの」という質問に対する第1位の回答は「価値観が同じ」というもの。男女共にそれは変わらない。確か皇太子ご夫妻のご婚約時のインタビューでもそれについて触れられていたような覚えがある。


多くの人が拘る「価値観」というもの、実はとても脆く曖昧なものだ。
「価値」等とご大層な名前が付いているが、別の言い方をすれば、「それぞれの考えや好みの違い」というだけ。そしてそれは、何かのきっかけで一瞬で覆ったりする。次の瞬間には正反対に転ぶかもしれない危うい部分に皆固執している。

子供の頃に美味しいと思わなかったものが、年齢を重ねるにつれて味覚が変わり、好物になったりする。それと同じようなものだ。永遠に続くものではない。

「価値観=自分自身の価値」と思い込んでいるから、それを誰かに否定された時、大抵の人は怒ったり反発したりする。自分自身を、その存在自体を否定された気になるのだと思う。

「価値観」と言いながら、実は相手に自分の好みや考え方を押し付けているだけのことが多い。それぞれまったく違う人間なのだから、判で押したようにそれがぴったり重なることのほうが稀だと思う。そもそも全部が同じ―ということはあり得ない。


この世にはその「価値観」がまったく違っていても、上手くいっている人達はたくさんいる。食べ物の好みや趣味、嗜好―すべてにおいて正反対で、まったく共通点がないにもかかわらず、いい関係を築いているのはなぜか?

それは「人としての方向性が同じ、似ているから」だと思う。

それもきっちり同一地点ではなく、「なんとな~くこの辺り」という緩い感じの。

人としての生き方というか、人生において「目指すもの」が近いのだと思う。

どんな形でもパートナーになると、自分と相手の考えや感じ方が「同じでなくてはならない」「同じであるべき」と、無意識のうちに思い込んでしまう人が多い。だからちょっとでも相手が今までと違う反応をしたり、自分の考えと反対のことを示したりすると、それは「おかしいこと」になる。

その違和感は、やがて反発や不平不満に変わっていく。そして結果「あの人は変わってしまった」と嘆くようになる。

しかしそれは何のことはない。ごく当たり前のことだ。「価値観」という不確かなものに重点を置くからそういうことになる。大袈裟に捉え、囚われるからそういうことが起きてくる。

そもそもの根本がずれているから、当然結果もそういったものになる。

どちらかというと女性によく見られる傾向だが、外見から考え方等の中身にいたるまで、すべて相手の好みに自分を合わせようとする人がいる。それも「無理矢理に」。

そんなことまでして「価値観」を合わせる必要があるのだろうか。そもそも合わせる必要のある、調整が必要な価値観って?

別に違っていてもいいのではないだろうか。
何となく、「まあ最後のほうに、大体こんな感じになれてたらいいよね~」という感じで。

いちいちすべてを相手と同じように考えなくても、感じなくても、進む方向が同じだったら多少ずれていても、違っていてもいいのではないだろうか。

ぴったり同じ場所でなくても、半径100メートルくらいの所に相手の姿が確認できる程度であれば問題ないと思う。


「価値観」という上辺だけの響きに囚われ過ぎず、流され過ぎず―大事なのはもっとその先、その奥にあるものだと思う。考え方や好みは変わっても、魂の本質は変わらない。その部分に共感できるものがあったら、それでいいのではないだろうか。

きっとこの地球上の多くのカップルは、お互いの魂の中にある何かに惹かれるのだと思う。「あの人のどこがいいの?」と、周りの人達に不思議がられたとしても、本人達にはちゃんと分かっている。

魂の結びつきに、外見とか条件とか価値観は然程重要ではない。共感と理解と尊重があればいい。
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左利き

 2008-11-18
最近食べ物関係のCMやテレビ番組を見ると「時代も変わったな」と思う。
左利きのタレントやリポーターが、ごく普通に左手で箸を使っている。ひと昔前なら考えられないことだ。

20年以上前だが、何かのトーク番組で、ある左利きの女優さんがカメラの前で箸を使う時は、ものすごく気を使うと話していた。

レギュラー出演していた料理番組で左手で箸を使ったところ、かなりの数の視聴者から「みっともないから直したほうがいい」と、テレビ局にクレームが来たとか。それ以来、仕事の時は右手で箸を使うようになったと言っていた。


実は私は左利きだ。普段箸やペンは右手を使うので、親しい友達でも知っている人は少ない。でも箸は左手でも使える。食事中に中座して戻ってきた後などは、気がつくと、いつの間にか左手に持ち替えて食べていたりする。

便利なのは左利きの人と食事をする時。カウンターで並んで食べる時等、どうしても相手の左腕と自分の右腕がぶつかる。そういった時は左手にスイッチする。

文字に関しては、小学校までは左手を使うことが多かった。でも中学校に入って、みんなの前で文字を書く時「あ、左で書いてる」と、いちいち言われるのが嫌で右手を使うようになった。それ以来文字は右手。

PCのマウスは右利き仕様を左手で、スポーツも左、携帯メールを打つ時も左。文字を書く時と包丁を持つ以外は、ほとんど左手を使っている。でもやれと言われれば、右手でもできる。咄嗟の時にも出るのは左手だ。

左利きは全世界の人口中、約10%だそうだ。ある意味「マイノリティー」。右利きの人はまったく気づいてないと思うが、世の中のあらゆる物は右利き仕様に作られている。

最たるものが駅の自動改札機。気をつけてはいたのだが、先日隣のレーンの改札機に切符を入れてしまった。

左利きの人間は利き手を常に空けておくために、どうしても荷物は右手で持つことになる。だから切符を入れる時、体を捻ったバックハンドの姿勢で、左手を目いっぱい伸ばして入れることになるので、結構大変なのだ。しかし人の流れを止めてしまって、あれはちょっとヒンシュクものだった。

自動販売機もコインの投入口は、右手で入れることを前提としている位置にある。ビデオやカメラも左利き仕様は販売されていない。シャッターのボタンも右手で押す位置に付いている。

お茶を入れる時に使う急須の取っ手も、位置によってはちょっと面倒くさいものになる。バックハンドでお茶を入れることになるから。でも年配の人の中には「逆さ急須」といって「縁起が悪い」と嫌う人もいるので、注意が必要になる。

一昨年の夏、テレビの特集で、扇子が取り上げられていた。その時に左利き用の扇子があることを初めて知った。なぜか扇子が上手く閉じられず、最後の部分が互い違いになってしまうのは、右利き仕様の物を左手で使っていたためだった。

後日デパートで左利き用の扇子を試してみると、あれだけ苦労していた開閉がスムースにできた。あれは本当に感動ものだった。

他にもハサミや文房具の類、台所用品、ギター等の楽器類・・・数え上げたら切りがない。でも大抵の左利きの人は、それに慣れている―というか「慣らされている」。右利き仕様の物を左手で使うことができる人も多いし、そのまま右手で使える人もいる。

利き手は3~4歳で決まると言われている。「遺伝的なもの」と「左右の脳の発育速度の違いによるもの」が原因という説が一般的だが、詳細は未だ解明されてないらしい。

私の場合は、遺伝的な要素が強いのかもしれない。母方には左利きはいないのだが、父方には数名左利きがいる。両親は揃って右利きだが、私と弟は左利き。

両親によると、生まれて間もない頃から、私達は左手を使うことが多かったらしい。おもちゃを右手に持たせても、すぐに左手に持ち替えていたと聞いた。


私達の世代は、「左利き矯正」世代。小学1年生の時の担任の先生が、50代半ばくらいの年配の女性だった。いわゆる「左利きはみっともない!」の世代。

クラスで左利きは私一人。だから余計に先生は気になったに違いない。左手の使用を一切禁じられてしまった。授業中、赤いリボンで左手をグルグル巻きにされて、鉛筆を右手で持つことを強要された。給食の時も、スプーンを左手で持つと怒られた。

今だったらPTA等で問題にされそうなことだが、あの当時、学校や先生は「絶対」だった。父兄側も「先生、ビシビシやってください」と逆にお願いするような時代だったので、子供の言い分等は二の次だ。今の時代からは考えられない。

先生が親身になってしてくれたこととはいえ、当時の私にはものすごいストレスだった。しばらく学校に行くのがとても嫌だったことを今でも覚えている。その先生のことも、ちょっと嫌いになってしまった。

どういう訳か、両親は矯正を強要することはなかった。だから学校では右手を使い、家に帰るとまた左手に戻る―という二重生活のお蔭で、私は左右どちらの手も使えるようになった。

中学生くらいから包丁を使うようになり、それも最初左で使っていたのだが、側で見ている人が怖がるのと、やはりちょっと使いづらいことから右手に替え、以来そのまま定着している。


世の中の右利き仕様の多さをこぼすと、多数派の右利きの人などは「右手でできないの?」と簡単に言うが(ちょっとムッとしたりする(笑)、自分達が当然のように右手で行っている動作を「全部左手でやってみろ」と言われたら、その大変さが分かると思う。

今では左利きを無理矢理矯正することはないようだが、どちらかを禁じるというやり方ではなく、両方使えるように仕向けてあげればいいのに―と私は思う。やはり生まれついてのものだから、良い悪いの観点だけで判断するのも、ちょっと違うような気がするのだが。

無理に右手に矯正された場合、そのストレスから、吃音やチック等、神経症の症状が出ることもある。利き手を制限されるということは、かなりの精神的ストレスを伴うものなのだ。試しに自分が普段していることを全部左手でやってみると、それが理解できると思う。

中川しょこたんや国分太一君などが、CMで左手にお箸を持っている姿を見る度に「時代と共に常識や価値観も変わっていくんだな~」と、つくづく思う。

ちなみに、レオナルド・ダ・ビンチ、ナポレオン、モーツァルト、ニュートン、アインシュタイン、エジソンも左利きだったとか。「個性」という面では、なかなか稀なものを秘めているのが左利きの特長かもしれない。別の言い方をすると「変人」になるのかもしれないけど(笑)


最近クライアントの方から、お子さんの右利きへの矯正を相談されたので、左利きからの意見としてちょっと思うところを書いてみました。ご参考までに・・・

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見えない世界

 2008-11-16
「目に見えない世界」の存在と会ったり、話したいと言う人が大勢いる。ポピュラーなところでは天使とか、妖精とか・・・最近では「女神」と繋がる人もいるらしい。

私は「目に見えない世界」は存在すると思う。天使も妖精も女神も、幽霊も妖怪もいると思っている。だが、自分から積極的に進んで関わろうと思ったことはない。

常々周りの親しい人達にも「死んだ後にわざわざ挨拶に来なくていいから」と言っている。サプライズを仕掛けるのは好きだが、仕掛けられるのは好きじゃない。

やはり江原氏や三輪氏等の「視える人」の影響が大きいのだろうか。そういった存在が「視える」」ことはすごいこと、尊敬に値することであり、その能力が備わった人は「特別な人」―と思う人が増えているような気がする。

自分もその「特別な人」になりたい―と憧れや願望を持つ人が多い。占い師やチャネラーに関しても同様の傾向があると思う。


通常目に見えないものが視えたり、その存在と話したり、未来が分かるといったことは、そんなに「特別ですごいこと」なのだろうか?

個人差はあっても、どんな人でもそういった能力は少なからず備わっていると思う。でも、過度の憧れや興味を持つ人は「元々備わっているものがそれほど強くない人」だと私は思う。

人は、自分にはないものに心惹かれる。恋愛と同じで、自分の足りない部分を相手に埋めてもらおうとする。それと同じことだと思う。

そういった特殊な能力に対して過剰に憧れや興味を持つ人は、「表の部分」しか見ていない。
自分の視たい時だけ、視たいものだけが視える―と思い込んでいる。

「見えない世界」が視えるようになるということは、あちら側にいる「全部の存在」が視えたり、それと繋がるということだ。天使や妖精と繋がることは、「それ以外のもの」とも繋がる可能性があるということ。

キラキラした金粉と共に現れる妖精や天使のような美しいものだけでなく、目を背けたくなるようなドロドロしたものと接触する可能性もあるということだ。

実際に能力を持つ人達は言う。「こんな力は無いほうがいい」

それを自分の意志でコントロールできる人もいれば、できない人もいる。そういった力が備わっているが故に、普通に生活していれば巻き込まれないような、常人の理解を超える「面倒くさいこと」に関わってしまうこともある。

だから巷に溢れる「チャネリング講座」とか「霊能力開発講座」とか、一体何の目的のために存在しているのか非常に疑問だ。大体において、後天的に開発されたり身につけたりした能力は「本物」ではない―と思ったほうがいい。

(ヒプノセラピスト養成講座のプログラムの中に「チャネリング講座」が含まれている団体等の話を聞くと不思議で仕方ない。「心理療法」に、なぜチャネリングが必要なんでしょうか??)

最近「天使もの」が乱立しているせいか、その「余剰分」が「女神」に流れてきているようだ。
アチューンメントで天使や女神と繋がる力を得るって、どういうことだろうか。物をあげたりもらったりするようにやり取り可能な能力なんて、かなり疑わしい。

「見えない世界」は視えないままでいいのではないだろうか。
本当にそれが自分に必要であるなら、遅かれ早かれ道は繋がり、開かれ、関わっていくことになると思う。

何のためにその能力を身につけたいのか―安易に関わろうとする前に、きちんとその部分と向き合うべきだ。

その能力を人を助けることに使いたいから?それではなぜ人を助けたいの?その能力を使って人を助けることは、自分にとってどんな意味がある?そしてそれはどんなものを自分にもたらす?

「人を助ける」と簡単に言うが、その「大義名分」の底にあるものは何だろうか?

そういった能力を自分以外の誰かのために使うということは、自分の身を削ることでもある。
自分のすべてを捨てるということ。生活も、時間も、全部犠牲にすることを意味する。

プライベート等一切ないと思ったほうがいい。40度の熱が出ようが、親兄弟が死のうが関係ない。そういった覚悟がないなら、安易に手を出すべきものではない。

物理的に見えないということは、「見る必要のない世界」だとも言える。「視えない」ということは、「視なくていい」ということ。関わる必要性がないということだ。

そちらの世界にばかり気を取られるということは、この世にきちんと根を張っていないということ。地に足がついていない、グラウンディングできてない表れ。魂がフラフラしている状態―今現在を生きてないから、どうしてもそちらに流される。「夢見る夢子さん状態」。ある意味での「現実逃避」だ。

自分がそういう傾向にあると思うなら、現在の生活を見直すこと。きちんと規則正しい生活をしているか、体に良いものを食べているか、自分の周りの人達と誠実に関わっているか―そういった人としての「基礎」的な部分を蔑ろにしていれば、それに見合った世界と繋がることになる。

この世界で世間知らずであれば、あちらの世界でも世間知らず。いきなり「ランク」が上がることはあり得ない。そもそも「視える人」「分かる人」が、「人として上等」ということではないのだから。そういった能力と人格は、必ずしも比例しない。

スポットの当たる、分かりやすく華やかで甘い面だけに囚われることなく、まず今、自分がいるこの世界を大切に―。それが本当の「スピリチュアル」ということ。
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自己啓発のナンダソリャ3「メンター」

 2008-11-15
巷の自己啓発セミナーで、最近流行のキーワードは「メンター」らしい。

「メンターを探す」「あなたもメンターになれる」「メンターを作るとこんな素晴らしい変化が訪れる!」―セミナーや関連書籍の類の中に「これでもか!」というくらい溢れかえっている。


「メンター」とは、「優れた指導者・助言者」「恩師・師匠」「顧問」を指す言葉。自己啓発分野では、「よき指導者・助言者」の意味合いで使われる。まあ簡単に言えば「尊敬できて、頼れるリーダー的存在」と言うところだろうか。

セミナー講師やカウンセラー・セラピスト等、自己啓発系の分野に関わる仕事をしている人や、そういった分野に興味を持っている熱心な人は、どうやらこの言葉が「大好物」らしい。

「僕のメンターは」「私のメンターの○○さんは」―その人達の会話の中に、必ず出てくる言葉のひとつ。最近では一般企業の社員教育の一環として、「メンター制度」とかいうものが取り入れられているらしい。


自己啓発の分野にも、「流行り廃り」というものがある。ちょっと前までは「潜在意識」等、「自分の内面や可能性の開発」がその中心だった。最近ではそれに飽き足らず、「外」に向かっている。正確には「向かわされている」。つまり「仕掛ける側」の意図に、まんまと乗せられているということだ。

こういった「流行」は、自己啓発に限らず、精神世界の分野でも同様だ。ファッションと同じで、ある程度の周期を経て、また同じものが流行る。つまり限られた種類のものを、延々と「使い回し」しているということ。多少の違いはあるが、基本は変わらない。

多分もうしばらくすると、また「内面」に戻るはず。そしてその後は再び「外」へ向かうだろう。
自己啓発では「内と外」―その2つの間を行ったり来たり、ただ繰り返しているだけだ。なぜならそれは「流行」だから。

そして今は「外の時代」。ある意味世相を反映している。モンスターペアレント等に代表されるように「原因は外にある」と、自分以外の人や状況等に責任転嫁したり、依存する傾向が強い時代。


「メンターを求める」ということは、これとよく似ている。

尊敬する人がいるということは素晴らしいことだと思う。そういった人との出会いが、自分の成長に繋がることは喜ばしいことだし、幸せなことだと思う。

しかし、日本の自己啓発の分野で提唱されている「メンター」の意義には疑問を覚える。なぜならその言葉の本来の意味を取り違え、自分の都合の良いものとして求めている勝手な人が、あまりにも多いからだ。

見ていると「自分を元気にしてくれて、有益な情報や助言を与えてくれて、常に自分の成長を考えていてくれる人」と思っている人が、本当に多い。その発言を聞いていると、何か「相手から一方的に受け取ること」しか考えてない。

そこにあるのは「甘えと依存」だけ。「いざという時の避難場所、救助してくれる人」という程度の認識しかない人が、驚くほど多い。

また逆に「あなたもメンターになれる!」「メンターになろう!」等と、意味不明なことを謳うセミナー団体も存在する。

そもそも、「メンターになりたい」って?「メンターになれる」って?

そういったことは、人から「なれ」と言われてなったり、自分で「なりたい」「なろう」と思ってなるものなのだろうか?

それが「自然発生的なもの」だったら理解できる。自分の人としての生き方や考えに触れ、それに対する共感や尊敬の念が、自然に相手の中に沸き起こってくる―そういった所からすべては始まるのではないだろうか。

それを「なりたい」とか「なろう」って・・・?何か、資格でも取るようなことと勘違いしているのではないかと思う。


こういった人達がよく引き合いに出すのが、アメリカの経済界や企業のケース。アメリカが大発展を遂げた理由はのひとつに、「メンター」の存在が挙げられる―というもの。

アメリカでは、財界や大企業の成功者の陰には、必ず偉大なメンターの存在がある。メンターに育てられ、大きな成功を手にした人が、今度はメンターとなり、新たな人材を育てる役割を担う。そういった社会的な背景が存在する。

しかしアメリカでそれが大きな効果を生んだのは、そこに「ギブアンドテイク」の精神があったからだ。優秀な後継者を育てることは、結果として自分に有益なものをもたらすことになる。「先行投資」のようなものだ。

そしてそれを受ける側にも、ちゃんと「お返し」をする心構えが出来上がっている故だと思う。あくまで才能や頭脳が優れている者を見極め、ふるいに掛けた上でのこと。ある意味ドライでビジネスライク。

それは、「冷たい」ということではない。それぞれがお互いの役割や、その意味、目的をきちんと把握しているということだ。

しかし日本で現在提唱されているメンターの役割は、もっと「情緒的」な要素が強い。どちらかというと「人情」の面が強調されている。「情けをかける」とか「面倒をみる」「頼る」のような、ある種の「ウエットさ」が目立つ。何か「なかよしクラブ」の活動をしているかのような「甘さ」がある。

それぞれの側が「引き上げてもらうこと」「引き上げてやること」というように、「一方的なもの」としてその関係を捉えているのであれば、それはアメリカのような成功例、システムや土壌を作ることは難しい。そもそも、その根本がまったく違う。

いかに日本の自己啓発が欧米の猿真似か、よく分かると思う。そのまま額面どおりに受け取って「直訳」したものをばら撒くから、おかしな思い込みと誤解、方向が出来上がる。


自分をメンターとして見ている人を、「自分のファン」として捉える人もいる。「ファンは自分に従う」という思い込みがあるから、その人達を「支配」しようとする。「自分の言うことを聞いて当たり前」といった勘違いをする。そこにあるのは「支配と服従」だ。

「勘違いをしている人」は、「一緒に」「みんなで」という言葉を頻繁に使う。「一緒にがんばろう」「みんなで幸せになろう」―聴こえはいいが、その実、やっていることは一方的な「強要」だったりする。自分の周りに集まる人を、体のいい「使い走り」程度にしか思っていない人もいる。

「一緒に」「みんなで」その言葉で相手を縛る。「運命共同体」を強調するが、実は「良い時期に限って」という、見えない「但し書き(条件)」が付いていたりする。

そういう人の元からは、人は育たない。なぜなら「出る杭」を打つから。最終的には「奴隷化」して、いつまでもその人の周りから離れられなくなり、自立の機会を奪われる。結局「取り巻き」として終わる。


メンターは支配者ではないし、依存する対象でもない。

まずどちらも「自立」していることが前提で、初めて成り立つものだ。

「自分の心細さや不安、経験の少なさを補ってくれる存在を持つこと=メンターを持つこと」ではない。

尊敬できる人がいるのは素晴らしいことだ。しかし、その人をわざわざ「メンター」―「助言者、指導者」として位置づける必要があるのだろうか。特定の言葉でその人を表すことで、意識が変化してしまう場合もある。「あの人は私のメンターだから」と、依存的なものを引き出す可能性も大きい。

実際「メンター」云々と言っている人達の多くに、そういった傾向が見られる。自立の芽をその存在が摘むことに繋がるのであれば、それは本末転倒だ。

育ててもらうことばかりを期待しているのであれば、そんな存在は要らない。「見本」となって、メンターとして慕われることが自分の存在価値になると思っているのであれば、なろうとしなくていい。

「自分以外の人は皆、師である」
どんな人からでも、教えられることはある。時にはまだ物心つかない子供からも学ぶことがある。

メンターの是非とか、そういったことを言っているのではない。
うわべだけの言葉や表現に惑わされてはいけない―ということだ。


ゲシュタルト療法の提唱者である精神分析家パールズが書いた詩がある。


私は私のことをする。
あなたもあなたのことをする。

私は私。あなたはあなた。

私はあなたの期待に応えるために、この世に在るのではない。
あなたも私の期待に応えるために、この世に在るのではない。

でも、もし偶然にお互いに出会うことができたら、それは素晴らしい。
しかし、そうならなくても仕方ない。

(「ゲシュタルトの祈り」)


依存の種を外に撒くことなく、自分自身の中の根っこを、きちんと張っていこう。
血眼で必死に「メンター」を探さなくても、あなたは自分の足で歩いていける。

答えは外からもたらされるものではないし、誰かが与えてくれるものでもない。

すべての答えは自分の中に存在する。そしてあなたはすでにそのことを知っているのだから。

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心根

 2008-11-14
「心根(こころね)」とはよく言ったものだ。
その人の、人としての根っこ。つまりは「心の底」「本性」。


以前ある講座を受講した時、そこには「カウンセラー」とか「セラピスト」とか、そういった肩書きを持つ人や、その志望者が大勢いた。

休憩時間に集まって雑談をしていた時だった。心理療法関係で有名な人が開いているサイトについての話題になり、その流れから、自身のサイト運営の仕方とか内容等について話が移っていった。

その時、そこにいた数人が「他のサイトから内容や文章をパクっても、バレなかったらOK」という発言をした。要は「無断転載しても気づかれなかったらいいじゃん」ということを平然と言っている。さらにこう続けた。「ちょっと文章を変えれば大丈夫だし、わからない」

冗談で言っているのかと思ったが、そうではなかった。その人達は本気でそれを言っていた。

何ヶ月か一緒に過ごしていたので、悪い人達ではないのは分かっている。だが、その時その人達の本性というか、人としての本質のようなものが垣間見えたような気がした。聖人君子を気取るつもりはないし、「必要悪」というものも理解している。しかしどこか引っかかるというか、何か嫌な感じがあった。

実際その数ヵ月後、その中の1人が私のサイトの文章を無断転載するということが起こった。

「やっぱりね」―怒りよりも、納得のほうが大きかった。それ以来その人との付き合いは一切なくなった。


日常の何気ない言動、ちょっとした部分に、その人の本質は表れる。

どんなに本人が隠そうとしても、それは隠しきれるものではない。「いい人」を装ったとしても、その人自身の中身がそうでないのなら、遅かれ早かれ事実が露見することが必ず起こる。

世の中には「その振りをするのがうまい人」がいる。

でもその「本質」と「装った姿」がかけ離れている場合、必ず「綻び」が生じる。
それは言動の不一致だったり、目の奥の表情だったり―何気ない部分に表れる。

「人を疑え」という意味ではない。

その人のありのままの姿を観てほしい。好きとか嫌いとかの「感情」や、その人の肩書き等の「条件」に囚われず、振り回されず、まず「観る」ということが重要だということ。

心の根っこがきちんと張っている人は、それが生き方にも表れる。
どんなに綺麗で立派に見える花を咲かせていたとしても、根っこが貧弱では、いづれその木は倒れる運命にある。

「見かけ倒し」の姿に騙されず、心の目をちゃんと見開いて、その人の本当の姿―「魂」を観ていこう。
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アメリカにて(2)「レストランでドキドキ」

 2008-11-12
店の外観の雰囲気の良さに誘われて、何気なく入ったレストランが地元でも有名な人気店で、世界的に有名な某レストランガイドブックで2つ星の評価を受けている店だった―ということがある。

内装、使用している食器類、スタッフのサービス、客層―どこを取ってもまさに「一流店」だった。もちろん料理も最高に美味しくて文句なし。

後でアメリカ人の友人に聞いたところ、週末の予約等は6ヶ月待ちくらいの繁盛振りらしい。そこの常連になって「一番良い席」を確保するのが地元セレブのステイタスとか。

そんな店に「一見さん」の私が、あっさりと入れてしまった。多分ホリデーシーズン直後の平日で、夕方の割と早い時間帯だったのがよかったのかもしれない。

当時定宿にしていたホテルの近くということもあり、前から目をつけていたのだが、外から見ると可愛らしい感じの印象なので、まさかそんなに格式高い店とは思わなかった

一歩店内に入って、ドレスアップしてきたことに感謝した。ジーンズでは絶対に入れない。

私はとにかく、国内外問わずどこでも一人で出かけるし、外国でもエスコート無しで、平気でレストランに入ったりする。もともとあまり物怖じしない性格なので、どこに行っても割と平気だ。

でも今回はちょっと勝手が違った。いきなりフロアのど真ん中、店内で一番目立つ席に案内されてしまった。

大体6割くらいの席が埋まっていただろうか。みんなカップルや複数で座っている。それも皆さん見るからに「お金持ち!」という人達。エスコート無しで入ってきた私を、興味津々の目で見ている。

アメリカ人は好奇心旺盛だ。そしてそれを隠さない。他人をジッと見つめる人が結構多い。そういう視線には慣れっこになっている私でも、さすがにその時は緊張した。「お願い!あの窓際の席が空いてるじゃない!あそこにして!」と心の中で訴えていたのだが、ウエイターはにこやかに、その一番目立つ席に私を案内する。

他のお客さん達は、相変わらず私を凝視している。もうそこで観念した。
スイスの有名フィニッシングスクールを卒業した友達のケリーも言っていた。「場違いだと思う場所でもね、そこに馴染んでしまえばいいのよ。最初はただの『振り』でもなんでもいいの。それらしく振舞えばいいのよ。それが目立たないための一番の方法よ」

確かにそうだ。欧米人が大半を占めるような場所で日本人旅行者を見ると、明らかに「浮いている」。
やはり「外国人コンプレックス」があるせいか、どことなく気後れした感じでオドオドした印象を受ける。やはりリラックスしていつもの自分でいることが一番だ。

ふと視線を感じて、隣のテーブルを見ると、50代くらいの素敵なマダムとそのご主人らしき男性と目が合った。2人ともニコニコと私を見ている。好意的なその笑顔を見たら何となく緊張が解けて落ち着いてきた。

「よ~し!楽しんじゃえ~」と開き直った私は、完全に通常モードに戻った。そうしたら、なぜかとても楽しくなってきた。

ウエイターを呼んで、いろいろ聞きながらメニューを決めていく。日本人はすぐにフルコースを頼んでしまうことで有名だけど、ア・ラ・カルトで選んでいくほうが楽しいと思う。量的にもメインとサラダ、スープ位がちょうどいい。今日はチキンがお勧めとのことなので、メインをそれに決めて、オードブルとスープ、グラスワインを頼んだ。

ほっと一息ついて改めて店内を見回すと、やはり素敵だった。よく見ると食器はすべてジノリで統一してあるし、グラス類はクリスタル。店内に飾ってある花のアレンジメントも、すべて生花。シックでエレガントだが、全然嫌味がない。すべてが「いい感じ」。お料理もすべて「おいし~♪」と楽しく味わって食べることができた。

デザートを食べている時、先程笑いかけてくれたご夫婦が席を立った。そのご夫婦はそのまま私の横に来るとこう言った。「お食事中ごめんなさいね。でもどうしても伝えたくて。あなたのテーブルマナー、素晴らしいわ。完璧よ。私達感心していたの。彼女はどこかのフィニッシングスクールを卒業したに違いないって」

思いがけないことだったので本当に驚いたが、嬉しい言葉だった。「エレガントに食事のできる女性は素敵だわ」そう言ってマダムは私をハグし、彼女のご主人は私の手にキスして、2人は帰っていった。


マナーというと「窮屈なもの」と思っている人が多いと思う。特にフルコースでナイフやフォークがズラッと並んでいるのを見て気後れする人もいる。でもそれは「間違った物を使ったらどうしよう」とか「うまく使えなかったらみっともない」と、自分が恥をかくことを恐れているからだと思う。

気持ち良く食事を楽しむためにあるものが、いつの間にか「自分に恥をかかせるかもしれない恐れのあるもの」に取って代わってしまっているせいだと思う。フルコースの後で「緊張して全然味が分からなかった」と言う人が多いのも、このせいだろう。

「間違ってもいいのに」私はそう思う。間違った物を使ったら、すぐに代わりを持ってきてもらったらいいし、食べ方が分からなかったら、素直に尋ねたらいい。「知ったかぶり」が一番みっともない。隠してもわかる人には分かる。

「こんなことを聞いたら馬鹿にされるんじゃないか」と思う必要もない。お店の人は来た人に食事を楽しんでもらうことを望んでいるのであって、馬鹿にして扱き下ろすためにいるのではない。その時間を楽しく過ごしてもらうためにいる「サポーター」として存在している。あちらはすべてを心得たプロ。素直にその助けを借りたらいい。

日本は「箸」の文化。ナイフやフォークが上手く使えなくても当たり前。堂々としていたらいい。日本に来る外国の人達が、箸を四苦八苦して使っている様子を見て「大変そうだな」と思うことはあっても「まあ使い慣れてないからね~」と大らかに見ていると思う。それと同じこと。

大体欧米人でもマナーの出来ていない人は大勢いる。というか、それほど拘ってはいない。私の知人などは「いちいち切るのが面倒くさい」と言って、最初にステーキを全部小さく切ってから食べている(笑)一度「ねえ、それってマナー違反じゃないの?」と言ったら、「美味けりゃいいんだ」と平然としていた(笑)

アメリカとヨーロッパでは全然違う部分があるし、「どれが正しいの?」と混乱する時もある。でも基本、日本で「ダメ」とされていることは、大抵の国にも通用する。例えば、口に物が入っている時には話さないとか、クチャクチャ音を立てて食べないとか。要は自分が相手にされたら気分の悪いことをしなければいい。そこを押さえていれば何とかなるものだ。

マナーは、みんなで気持ちよく食事を楽しむためのもの。縛られるものではない。

たまにはああいったリッチな雰囲気に自分を置いてみるのも悪くない。非日常的な空間を味わうことは自分自身を磨くことにも繋がる―と、2つ星レストランに支払ったかなりお高い金額を正当化するために言ってみたりする(笑)
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偏見

 2008-11-10
誤解を恐れずに言うが、身体的にハンディキャップがある人を「かわいそう」とか「気の毒」とか思ったことはない。ただ「不便だろうな」とは思う。だから助けが必要な時は、いつでも手を差し伸べる準備はある。でもそれ以上のものはない。なぜなら彼らは「特別な人」ではないから。

中学3年の時の同じクラスに、Nちゃんという子がいた。生まれて間もない頃の高熱が原因で小児麻痺になり、言葉(発語)と動作が不自由だったが、頭の良い子だった。彼女本人とご両親の希望で、小学校からずっと普通学級で学んできた。

私達クラス全員、彼女を「特別扱い」したことは一度もない。至って「普通に」接してきた。彼女もまた、「普通に」クラスに溶け込んでいた。

確かに最初の頃は、彼女の言葉が不明瞭なため、なかなか聞き取ることができずに苦労したこともあったが、慣れてしまえば何の問題もなかった。なかなか活発な彼女は、自分から人に話しかけたり、冗談を言って皆を笑わせることもあった。お互いにふざけたり、笑ったり―私達は”普通の”クラスメイトだった。

ただ動作が不自由な分、どうしても「限界」というものがある。その時は近くにいる誰かがカバーしていた。如何にも「やってあげてます!」という感じではなく、ごく自然に―。例えば喫茶店で一緒にお茶を飲んでいた友達が、それをこぼしたとする。多分誰もが紙ナプキンを渡したり、一緒にテーブルにこぼれたお茶を拭いたりすると思う。そんな感じ。

特に「Nちゃんの世話係」という人もなく、誰に言われたわけでもなく、話し合ったわけでもないが、クラス全員がそうしていた。またNちゃんも、卑屈になることなく、傲慢になることもなく、素直に皆の気配りを感謝して受け取っていたと思う。確かに言葉や動作は不自由だけど、そういったことも含めて「これがNちゃん」と、ありのままの彼女をみんなは受け入れていた。

外見上はちょっと自分達とは違うけど、でも自分と同じ人間で友達―「違うけど同じ」。
彼女のハンディキャップ―その「違い」を、人としての「個性」として見ていたと思う。

だからNちゃんを「かわいそう」と思ったことはない。それは当時のクラスメイトも同様だったと思う。

断っておくが、私達は「天使のような心を持つ子達」ではなかった。どこにでもいる「普通の中学生」。多分当時の「時代」も大きく関係していたと思う。

1967年生まれの私が子供だった頃、家族・学校・地域等の関係はとても密だった。大人と子供、親と子供、教師と生徒、子供と子供―それぞれきちんと繋がっていたような気がする。確かにあの当時も「いじめ」はあった。だが今の時代のような、陰湿で卑劣さを感じるものではなかったと思う。苛める側も限度を知っていたし、仲裁に割って入る子が必ずいた。

特に子供達の間では、お互いの間に無言の了解というか、不文律の「約束」があったと思う。

例えば鬼ごっこをする時でも、運動が苦手で体力ない子や年下の子等が混じっていた場合、「おみそ(「みそっかす」の意)」と言われる「制度」があった。「おみそ」の子達は、たとえ捕まっても「鬼」にならない。いわゆる「免除」制度。そうすればどんな子でも一緒に楽しく遊べる。体が弱いからといって遠慮して参加できなかったり、仲間外れになることもない。

そういった「弱い者」に対する思いやりや、受け入れる姿勢というものが、日常で自然に培われるような土壌があったと思う。だから私達とNちゃんの関係も、そういったものの延長にある「ごく当たり前のもの」だった。


ただ、他の人達が必ずしも私達と同じように彼女を受け入れていたかというと、そうではない。
課外学習に出かけた先で、Nちゃんを奇異の目で見る人もいた。特に事情を知らない人達からすると、「障害を持つ」Nちゃんと、「障害を持つ子と一緒にいなくてはならない、かわいそうな子達」として映るらしい。「特殊な子」であるNちゃんが、当たり前のように「普通」である私達の中にいることが、なかなか理解しがたいものに思えるようだった。

ある時、東京都内の美術館で絵の鑑賞をする課外授業があった。かなり大掛かりな展覧会だったので、私達の学校の他にも、大勢の一般来場者が詰め掛けていた。その中の見知らぬおばさん達数人が、Nちゃんを気の毒そうに見ていた。まあいつものことなので、Nちゃん自身も私達も慣れっこになっていて、特に気にすることもなかった。

するとその中の一人のおばさんがこちらに近づいてきて、そこにいたクラスメイトの一人に「あなた達も大変ね」と声をかけたことがあった。「大変って何が?」一瞬言われた言葉の意味が分からず、そこにいた私達は皆ポカンとしていた。

そのおばさんに決して悪意はなかったと思う。でも見知らぬ人から思いもかけない言葉を言われて、何か得体の知れないモヤモヤする後味の悪さがあった。その人に対して言いたいことはあるのに、どう説明していいのか、それを表現する言葉が出てこなかった。そのまま私達は沈黙していた―。


よくハンディキャップを持つ人を「かわいそうで気の毒な弱者」として扱ったり、「障害に負けず健気に毎日を生きている純粋な人達」と”持ち上げる人”がいるが、それは「偏見」だと思う。

以前あるブログに「某テレビ局が毎年放送している番組の中で、障害者の人達がマラソンをしている姿を見て、感動して涙が出た」と書かれていた。まあ感じ方は個人の自由だが、はっきり言って障害者を「美化」して、その一面しか観ていないと思えるような言葉が並んでいた。その反対でもまた困ったものだが、結局どちらも偏った見解―「偏見」なのだと思う。

以前何かの時にNちゃんが言った。「みんなが特別扱いしないのが嬉しい」と。

彼女自身や彼女と同じ小学校出身の子達によれば、小学校時代のNちゃんは、かなりわがまま勝手をしていたらしい。「すご~くわがままだった」と本人が言うくらいだから、相当のものだったと思う。

先生もクラスメイトも、腫れ物に触るように彼女に接していたらしい。どんなわがままを言ってもそれがまかり通る。本人曰く「図に乗った(笑)」とのこと。でも、周りが自分のわがままを聞いてくれることが、余計「自分はみんなとは違う」ということを見せつけられているようで、イライラしていたと言う。頭の良い感受性の強い子だから尚更だったと思う。だから「普通に接してくれること」が嬉しかったと。

私達は、毎年行われる校内マラソン大会で走るNちゃんを見ても泣いたりしなかった。彼女が5キロのコースを完走してゴールしても、涙と拍手で迎えることもせず「お疲れ~」と淡々としていた。なぜならそれは「普通のこと」だから。

マラソン大会に出場するなら、走るのが当たり前。Nちゃんは出場者として走っただけ。みんなと同じ、当たり前のことをしただけだ。だから私達も特に気にかけない。「当たり前のこと、普通のこと」には感動しない。

以前知人が街中で、後ろから来た車椅子の人に「邪魔!」と怒鳴られたという話を聞いた。おまけにすれ違う時に舌打ちをされて、他にも失礼なことを言われたらしい。

「条件」や「違い」でその人を決めつけたり思い込んだりするのは、筋違いだと思う。

障害者全員が「健気で一生懸命に生きている人」ではない。そうでない人もいる。大体彼らを「一括り」にして扱うこと自体失礼だ。

障害があることは「不幸なこと」なのだろうか?

私はそうは思わない。「障害がある=不幸である」という見方は偏見でしかない。
健康でも自分を不幸だと思う人はいるし、障害があっても「自分は幸せだ」と思う人もいる。

うわべだけの「違い」や「条件」だけで、周りがどうこう判断することではない。

障害とか人種とか、どんな人にもかかわらず、まずその人の中身、その人自身を観てほしいと思う。その人の「核」を観れば、本当の姿が見えてくる。偏った見方は、心の目を曇らせ、狂わせる。

ゼロから、白紙の状態から相手を観る―そこから本当の関係が生まれてくる。
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丸投げ

 2008-11-08
【丸投げ】 仕事を請け負った者が、その全部を他者にさらに請け負わせること。(広辞苑より)

北京オリンピック男子柔道で金メダルを受賞、数々の「過激発言」でも注目され、最近プロ格闘家への転向を表明した石井 慧氏が、両国国技館で講演中のチベット仏教最高指導者であるダライ・ラマ14世に「進路相談」をしたことがニュースで取り上げられていた。

「今、自分の中でまったくわからない世界に来ている。いろんな人からアドバイスをもらっているが、最後は自分で決めたほうがいいのか、長いものに巻かれるというやり方も時に必要なのか?」というのが石井氏の質問。

それに対し、ダライ・ラマ14世はこう答えた。「たくさんの方のアイディアを取り入れることも為になると思うが、仏教的な観点から答えれば、状況をよく調べ、考えてみること。それによって自分自身で判断を下すことが、最終的になさねばならない道だと私は思う」

この回答に「肩すかし」を食らった人も少なからずいたようだ。「もっとすごい答えが返ってくるのかと思った」「案外普通の答えですよね」等と言う人もいる。だが、カウンセリングを行う者の立場からすれば「仰るとおりです!」の、「究極の答え」だ。

時々「相談」と称して、自分の抱えている悩みごとをそのまま相手に「丸投げ」する人がいる。

「相談」というのは、お互いに意見を出し合って話し合うことだ。自分自身もそれについて考えながらも、別の角度からの考えや見方を相手に求めること。

「今自分は転職を考えている。A社とB社から誘いを受けているが、どちらを選んでいいのか分からない。自分はどうするべきなのか教えてください」

これは「相談」とは言わない。ただ相手に答えを全部委ねているだけ。もっとはっきり言えば「無責任」の極み。自分自身の問題なのにそれを放棄している。まさに「丸投げ」。相談されたほうも「そんなこと言われても困るんですけど~」となる。

もしこれが「今A社とB社、どちらに転職するか迷っている。A社はこういう感じの仕事内容で、社風はこういう感じ。B社の仕事はこういうもので、会社の雰囲気はこんなふう。どちらもいい会社なので決めかねている。でも自分は今後、仕事上でこういう目標がある。○○さんの目から見て、どちらの会社が自分に適していると思われますか?意見を聞かせてくだされば嬉しいのですが」というものであれば、それは「相談」だ。後者は本人の考えや展望が、きちんと含まれている。それが一番大きな違い。

最近カウンセリングをしていても、相談ではなく「丸投げ」をする人が多い。相手に問題の解決方法を全部考えてもらって、それを教えてもらおうとするだけの「楽をしたい人」が増えている。また「相談とはそういうことだ」と勘違いしている。

はっきり言って、それは「依存」。手っ取り早く解決方法を得たいだけ。物事を解決する上で一番大切な部分、「自分で考える」というプロセスを完全に放棄している。そんなことでは結果も「それなり」だろう。

サロンには、ヒプノセラピスト志望の人がよく来る。また、うちのサロンでセッションを受けたことがきっかけで、セラピスト志望になった人も多い。「スクールを紹介してください」と頼まれたことも何回もあった。中には「先生と同じスクールに行きたいので、ぜひ紹介してください」と言う人もいた。でもその都度私はこう答えてきた。「ご自分で探してください」

これは、意地悪で言っているのではないし、面倒くさいからというわけでもない。私と同じスクールに行きたいと言う人は、多分私を「信用」してくれているのだと思う。セラピストとして、人として、また私の仕事ぶりから何かを感じて、それを信じてくれたのだと思う。それはとても有り難いことだ。でもそれは「諸刃の剣」でもある。

紹介するのは簡単だ。でもその人自身の「自立」の芽を摘んでしまうことに繋がる恐れもある。今後の人生に大きく関わることになるかもしれない学校の選択等を「この人の通った所なら間違いない」と、その学校が自分に合っているかどうか、カリキュラム等の詳細はどうかということも自分自身で吟味せずに決めるということは、ある種の「依存」の始まりでもある。

また、これだけ様々な情報がすぐに手に入るインターネット時代において、人から教えてもらうことだけを期待している人の底には「楽をして手に入れたい」という浅ましさが少なからず存在しているように思える。実際「調べるのが面倒だから聞いたほうが早いと思って」と言う人もいた。

自分がどんなセラピストになりたいのか、セラピストになってどんなことをしたいのか、何を身につけたいのか―それによっても選ぶスクールは変わってくる。私には合っていた所でも、他の人にはそうではないという場合もある。

どんなことでも、まず「自分はどうなりたいのか、どうしたいのか」―その部分をまず固めなければ物事は進展しない。相談はその部分を固めてからするものだ。フニャフニャのままで「相談」しても、余計混乱するばかりで結局何も変わらない。

人間の最も大きな特長である「考えること」を疎かにする人が増えつつある今の時代、生き物として「退化」している兆候ではないかと、たまに思う時がある。

「楽をすること」は「悪」ではない。だが、自分自身で考えて判断を下すところを他に頼って安易にスルーすれば、その分は後々必ず返ってくる。その時は「楽で得した」と思えても、後になって「こんなはずではなかったのに」では遅過ぎる。

悩んだり迷ったりしたら、「自分はどうなりたいのか、どうしたいのか」―それを考えてほしい。すべての答えは自分の中にある。外からもたらされるものではない。

何かに、誰かに自分の悩みを丸投げして、そこからの「お告げ」を期待することは筋違い。それは自分自身や人生そのものを投げているということでもある。自分でよく調べ、よく考える。そして決断する―「自立」することで人生は開いていく。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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引き寄せの法則

 2008-11-06
私が通っていた高校では、毎年クラス替えをすることになっていた。1年生の時のクラスがとても良い雰囲気で、皆で「離れるの寂しいね」「また一緒だといいね」と、全員で言い合うくらい仲が良かった。

男女共ユニークで個性の強い「おもしろい人」が集まったクラスで、且つ性格的もいい人が多かった。実際、当時担任だった先生も「おまえ達をバラバラにするのが気が引ける」と言うくらいだったから、私達からしてみれば、離れ難い気持ちはそれ以上のものだった。

でも規則は規則。2年進級時、その恒例のクラス替えがやって来た。

新学期の始まる朝、昇降口の掲示板にその発表の紙が貼り出される。その日まで自分がどのクラスになるのか分からない。もうドキドキものだ。

その日は、いつもより少し早目に登校した。学校に着いて、早速掲示板の方へ。すでにその前はすごい人だかりだった。人をかき分け、なんとかその前にたどり着いた私は呆然となった。「嘘・・・あり得ない・・・」

まさに信じられないことが起こった。その時私は、心の底から本気で「バチが当たった」と思った。

なぜなら新しいクラス名簿には、私が「絶対に同じクラスになりたくない人」と、ノートに書いた名前のほとんどがあったから。

おまけに1年の時に仲の良かった友達は、私以外は全員同じクラス。もう目の前が真っ暗状態・・・


春休みに入った直後、私は部屋でゴロゴロしていた。そんな時でもやっぱり気になるのはクラス替えのこと。暇に飽かせた私は何を思ったか、落書き用にしていたノートに、思いつく名前を片っ端から書いていった。男女合わせて20人位はあったと思う。日頃校内で目にしたその人の言動や、また聞きの噂等から、関わるのは「絶対無理!」と思っていた人達だった。正直に言ってしまうと「嫌いな人」。

その頃の私は、いろんな意味で「とんがった子」だった。人の好き嫌いも激しかったと思う。一度でもその人の言動が自分の神経に障ると、徹底して自分の中から閉め出すというか、切って捨てるタイプだった。まあそれは思春期の子供に見られる、ごく正常な反応や行動なのだが、あの頃はその度合いがとても激しかったと思う。

だから自分が書いた名前のほとんどがそこにあるということは、そういった自分に対する、神様の罰かと思った。


しかし何よりも驚いたのは、書いた名前のほとんどが合致していたことだ。

当時私達の学年は8クラス、360人近くいたと思う。1クラス約42~3人というところだったろうか。その中で起こったことなので、かなりの確率だと思う。

自分と同じクラスになる人を予知したのか、それとも自分が名前を書いた事実がその人達を引き寄せたのか―果たしてどちらに該当するのかは今でも分からない。

しかしヒプノセラピーや潜在意識の観点からすると、そのどちらも当てはまる。

潜在意識の中にはすでに未来の情報が存在するし、良くも悪くも自分がイメージしたものが現実になる。

しかし、私が名前を書いたことでその人達を引き寄せたとしたら、イメージというものが潜在意識や、その結果(実現)に大きな影響を与えるかが分かると思う。

潜在意識は「良い悪い」の区別ができない。カメラで写真を撮ることとよく似ている。
そこにあるもの(自分の描いているイメージ)を、そのままフィルム(潜在意識)に焼き付ける。

だから私が名前を書き出したことに関しても、「そうですか、今あなたがピントを合わせているのはそれですね。それではそれを写しておきます」という具合だ。

現像後の写真を見て、「この岩が邪魔だな~これが写ってなければもっとよかったのに」と思っても、それはカメラのせいではない。撮影した側の自分にある。カメラは自分がレンズを向けた方向にあるものを忠実に写し撮っただけだ。それと同じこと。

カメラ(潜在意識)にとって、それ(イメージ)が撮影者(自分)に「都合の良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが関係ない。「イメージはイメージ」という認識しかない。ただその「事実」だけがある。

よく「宇宙の法則」として言われているが「自分が見たものが拡大される」という言葉の意味は、このことを言っているのだと思う。

大体において、ネガティブな傾向が強い人は心配ばかりしている。「もしこんなことが起こったらどうしよう」そんなふうにマイナス要素の強いことを常に考えて、思い描いている。そしてそれも「イメージ」だ。そうイメージするから潜在意識にそれが取り込まれ、やがて実現することになる。なぜなら自分が
そうイメージしたから。ちゃんと理にかなっている。

つまり「どうせイメージするならポジティブなものにしよう」ということ。

都合の良いものも悪いものも両方引き寄せるのであれば、やはり「良いもの」に越したことはない。
そしてそれを実際に引き寄せるのは簡単だ。「ポジティブなイメージ」をしたらいいだけ。なぜなら自分がイメージしたものが実現するのだから。

ポジティブなイメージはポジティブな状況を、ネガティブなイメージはネガティブな状況を運んでくる。
それは理に適った「法則」だ。

ひょっとしたら私も、あの時「同じクラスになりたい人」の名前を書いていたら、違う状況になっていたかもしれない。すべては私自身が引き寄せたことだった。

あの当時は今と違って、潜在意識とかイメージの効果とか、そういったものはまだ一般的ではなかった。どちらかというと「オカルト」として扱われていた。でもあの高2の時の「デスノート事件」が、潜在意識の「真髄」を教えてくれた気がする。なぜならそれ以来、私はマイナス要素のあるイメージは一切しなくなったから(笑)

イメージするならハッピーでポジティブなものを、話したり書いたりするならハッピーでポジティブな言葉を―現実を創っているのは自分自身と、自分がしたイメージ。また、そのイメージが今の自分を創っているのだから。



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アメリカにて(1)「無国籍なオンナ」

 2008-11-04
一昨年、アリゾナのセドナに滞在した時のことだ。

場所柄、ダウンタウンには観光客向けのインディアンジュエリーショップが軒を連ねている。

現地の友人との待ち合わせの時間にはまだ間があったので、時間潰しがてら、その中の一軒のショップに入ってみた。店の規模もそこそこ大きく、ネイティブアメリカンの工芸品等も割と充実している。

工芸品のコーナーに行くと、60代くらいの、ロシアのエリツィン元大統領を髣髴とさせるような男性が、商品を手に取り、熱心に眺めていた。カメラを提げているので観光客だと分かる。

近づくと、何やらひとり言を呟いている。またその声がやたら大きい。完全にひとり言の域を超えている。「おじさん、声大きいよ」とは思ったものの、まあそれ以上気にすることもせず、私は彼に背を向ける位置にある商品を眺めていた。

すると突然「Excuse me! What's this for?(ちょっと!これは何に使うの?)」という声がした。

私は彼がそのショップの店員に質問しているものと思い、そのまま自分が興味を惹かれた商品を手に取って眺めていた。するとまた「Excuse me!」とやっている。「お店の人~、おじさんが呼んでるよ~」と心の中で呟きながら、私は別の商品を手に取った。

しかし次の瞬間、いきなり誰かに肩をつつかれて驚いた。
何とそのエリツィン似のおじさんは、私に向かって話しかけていたのだ。

「え?私?」

「そう、君だ。ところでこれは一体何なんだ?」

見るとおじさんの手には、儀式で使うパイプが握られている。見たところラコタ族のパイプのようだった。

「ああ、これはピース・パイプ(平和のパイプ)ですね。パイプセレモニーで使われるものです。ここにタバコを詰めて、皆で回し飲みするんですよ」

「どうして彼らはタバコを吸うんだ?喫煙は体に良くないだろう」

「このピース・パイプの煙は、その場や人を浄化する力があるんです。それにその煙と一緒に、その祈りが天にいるcreator(創造主)に届くと言われているんですよ。ピース・パイプセレモニーで、その煙を分かち合うことで、平和と平等を誓い、誠心誠意語り合うというお互いの意思を確認するわけです」

「ほお!それは興味深い!で、何で違う種類の形があるんだい?これとあのパイプの違いは何かあるの?」


「なんで私が説明せなあかんねん」と内心思いながら、親切な私はまた説明してあげた。以前ラコタ族の友人に教えてもらったから知っている。

「えっと、こっちの形は父親が持つパイプなんですね。つまり独身の男性はこの形のものは持てないんです。でも結婚して子供が生まれて父親になったらこれを持てるようになると」

「なるほど!実は先月息子夫婦に子供が生まれたばかりでね。よし、息子には父親になった印として、このパイプをお土産に買っていこう」

「そうなんですか?おめでとうございます。いい贈り物になると思いますよ」

「おお、ありがとう!私もそう思うよ。ところでアメックスのカードは使えるかね?」

「は?アメックス?多分使えると思いますけど・・・私は分からないんでお店の人に聞いてください」

すると今まで上機嫌だったおじさんの顔が、ちょっとムッとした表情になった。

「わからない?なぜ?」

「なぜって言われても・・・私、日本からの観光客なんで・・・」

その瞬間の「エリツィンおじさん」の表情は、今でも思い出すと噴き出しそうになる。
目と口を大きく開けたまま、しばらくその状態で固まっていた。

「は?日本人?!ぼくはてっきり、ここで働いているネイティブアメリカンの女性だとばかり・・・なんで日本人の君がネイティブアメリカンのことにそんなに詳しいんだ?!」

「えっとですね、日本でインディアンジュエリーを扱う仕事をしてるので・・・」

「いやいや、なんてこった!」おじさんはしばらく一人で大笑いしていたが、しばらくして笑いの発作が治まると、おじさんは「いやあ、いろいと教えてくれてありがとう!それにしても君の知識は素晴らしい!」と言って、私の両頬に盛大な音を立ててキスをすると、上機嫌でレジに向かっていった。

そして大袈裟なジェスチャーとあの大きな声で、そのレジにいる「本物の店員さん」に「君達は今すぐあの女性を雇うべきだ!」と言っている。その時店の中にいた人全員が、おじさんの説明を聞いて、笑いながら私を見ている。店のオーナーと思しき男性が、奥のほうから「優秀な人材は大歓迎だ。いつでも雇うよ!」と大きな声で言うものだから、その笑い声はますます大きくなった。

「それじゃあ、日本からの引越し費用と飛行機代もよろしく。あ、片道分だけでいいから」と言い返したら、店内大爆笑になってしまった。

多分こういうところが「日本人らしくない」と言われる所以だと思うのだが・・・
思いがけないハプニングであった。


どういうわけか、私は日本人に見られないことが多い。
特に私が訪れることの多いアメリカでは、現地の人―アメリカで生まれ育った「○○系アメリカ人」と思われることがほとんどだ。なぜか「ニューヨークから来たの?」と聞かれることが多い。ハワイの日系3世に、同じ日系人だと思われていたこともあった。

インディアンジュエリーの仕事に関わるようになってからは、ナバホ族と間違われることが多い。
ネイティブアメリカンの中でも、ナバホ族は一番モンゴロイドの遺伝子が強い。顔もアジア人に近いものがある。お年寄りなどは、日本の藁葺き屋根の家の縁側で座ってお茶を飲んでいたとしても、絶対に分からないと思う。

実際ナバホの居留地に初めて行った時は、ナバホのオバチャンに「あんた、もっと肌の色が黒かったら私の姪っ子そっくりだよ」と言われたこともある。そういえばモニュメントバレーで、すれ違った他の観光客が「彼女、ナバホかしら?」と、連れの人に言っているのを聞いたこともあった。

だがなぜか、中国人からは「タイの人?」と聞かれる。「日本人」と答えると、皆一様に不思議そうな顔をして首を傾げる。台湾の人からは同じ台湾出身だと思われ、かと思えばLA空港ではツアーから逸れたと思しき韓国人のオバチャンに、切羽詰った様子で韓国語で話しかけられる。

そういえば、マサチューセッツに住んでいた頃、アルメニア系移民のお祭りに招待された時「ブリヤート族(ロシア、シベリアのバイカル湖周辺に住むモンゴル系の人々)か?」と聞かれたこともあった。

究極なのは、LA空港の出発ゲートで、関空行きの便を待っていた時だった。
座って雑誌を読んでいたら、急に「Excuse me・・・」と話しかけられた。目を上げるとアジア系の20代前半くらいのカップルがカメラを持って立っている。ディズニーランドの袋を持っていたので、中国かどこか、アジア諸国からの観光客だと思った。

「Yes?(何でしょう?)」と答えると、たどたどしい英語で「Please take our picture」と言って、カメラを差し出す。「Sure(もちろん)」と言ってカメラを受け取ると、何やらもじもじしながら囁き合っている。様子から見ると、出発ゲートの看板を背景に入れてほしいらしい。

「ゲートの看板を背景に入れたいんですね?」と聞くと、「え?え?何ゆうてるかわからへーん」と、いきなり関西弁が返ってきた。驚いて「関西の方なんですか?」と日本語で聞くと、ものすごくびっくりした顔をして「え?あ、はい・・・え?え?日本人なんですか?びっくりした~アメリカの人かと思ったから~」と言われた。

なんと京都からハネムーンで、LAに来たカップルだった。「私、大阪ですよ~」と言うと、「えー!」と二人して吉本新喜劇のようにコケていた―。


そんな私を友人達は「カメレオン」と呼ぶ。「多分現地に同化すんねんで」と笑う。確かに言い得て妙だ。

まあ、どこの国の人か分からないというのも、ちょっと謎めいていていいかもしれない。
ミステリアスでエキゾチック―なにか自分がものすごーく「イイ女」になった気分になる。ただその「同化度」が高いあまり、初めて行く場所でも、やたら他の観光客に道を聞かれたりするのはちょっと困るけど(笑)


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パピコちゃん

 2008-11-03
最近新しい友達ができた。人間ではなくて犬の友達(笑)

パピヨンの女の子で、多分4~5歳くらいだと思う。良く手入れされた毛並みといい、着けている首輪といい、たまに着ているお洋服といい、見るからに可愛がられて大事にされているのがよく分かる。

多分可愛い名前を飼い主さんは付けているとは思うのだが、知らないから勝手に「パピコちゃん」と呼んでいる。(これが男の子なら「パピオ君」となる笑)

サロンから歩いて2~3分のところにスーパーがあるのだが、パピコちゃんとはここで知り合った。
入り口付近の駐輪場の柵にリードを繋がれて、大人しくお座りして、中で買い物をしているとおぼしきご主人様を待っていた。

もともと犬猫は好きなので「可愛い子がいるな~」と思っていたら、目が合った。その瞬間パッと立ち上がってシッポを振って私をジーっと見ている。おまけに「遊ぼう」のポーズをする。

・・・負けてしまった。
仕事の合間で「あんまり時間がないんだけどな~」と思いつつ、思わず誘いに乗ってしまった・・・

しゃがんだら膝の上に上がってくるし、本当に人懐こくて可愛い。真っ黒でキラキラ光るつぶらな目で見つめられると、思わず「連れて帰っちゃおうかしら」と不謹慎な考えが浮かんできたりもした。

それが初対面だった。

それ以来スーパーに行く度に、パピコちゃんがいる。

私の生活は仕事のスケジュールが最優先される不規則なもの。毎日買い物に行くわけでもないし、ましてやその時間帯もバラバラだ。

それなのに、そのイレギュラーなスケジュールにも関わらず、必ずパピコちゃんがいる。
彼女も私が来るとすぐに分かるらしく、数十メートル先からシッポを振ってこちらを見ている。

いつも不思議に思うのだが「犬は視力が悪い」というのは本当だろうか?
匂いとか足音だけで分かるとしても、真っ直ぐにこちらを見ている彼女を見ていると、ちゃんと目でも確認しているとしか思えないのだが・・・

大体5~10分くらい一緒に遊んで、私は店内に入る。「バイバイ」と言うと、ウルウルした目で「行っちゃうの?」とこちらを見るその様子に、もう後ろ髪引かれまくり状態だ。罪悪感さえ浮かんでくる。

そして買い物を済ませて戻ってくると、パピコちゃんはいない。ご主人様と帰った後。

不思議なことに彼女の飼い主さんを、一度として見かけたことはない。多分店内で知らないうちにすれ違ったりもしているのだろうが、男性なのか女性なのか、それさえも分からない。

でもパピコちゃんの表情や様子を見ていると、少なくとも犬好きで、きちんとした方なんだろうと思う。
犬でも猫でも、可愛がられて大事にされている子は表情で分かる。

以前住んでいた家の近所に、可哀想になるくらい構われない犬がいた。
柴系の雑種の子だったけど、外に繋がれっぱなしで、おまけにリードの長さが十分でなく、動けるスペースが限られていた。

ご飯はちゃんともらっていたようだったが、冬の寒い日でも犬小屋の中には毛布等もなくて、いつも寒そうに丸くなっていた。人間に対しても不信感のようなものがあるのか、家の前を人が通りかかるたびに、敵意むき出しで吠えかかる。表情のないその目が、その子の扱いを表しているようで不憫だった。

「どうしてこの子を飼ったんだろう?」その子を見るたび、いつもそう思った。

最近では諸事情で飼えなくなったペットを平気で、自ら保健所等に持ち込む飼い主が増えていると聞く。新しい飼い主を探すとか、そういったことを一切せずに「飼えないから処分してくれ」と、まるで粗大ゴミか何かを処分するかのように、あっけらかんとしているらしい。

中には病気になったペットを「治療費が高いから」「世話が大変になるから」という理由で連れてくる人もいるという。

ペットを飼うということは、命を引き受けることでもある。
「処分してくれ」は「殺してくれ」ということだ。自分の親や子供に置き換えたら同じ言葉を言えるのだろうか。人間だから、動物だから―という言い訳は通用しない。何か薄ら寒いものを感じる。

知人の家に、保健所から引き取られたミニチュアダックスがいる。保健所に勤務する友人が「4日間だけ預かってくれ」と連れてきたのだという。

翌日処分されることになっていたその子が、どういう理由で連れてこられたのかは聞かなかったが、現在その子は、知人が経営するショップの看板犬になっている。

前の飼い主から虐待を受けていたらしく、1ヶ月くらいは怯えた様子だったらしいが、今では新しい飼い主にもすっかり慣れて、大事にされて、ショップのお客さん達にも可愛がられ、今ではそんな経緯があったことなど微塵も感じられない。表情も豊かで、のびのびとしている。

その子やパピコちゃんのように、大事にされている子を見るとホッとする。「よかったね」と、いつも心の中で思う。

今一緒にいるペットも、過去生で繋がりがあった―ということもある。今は犬だが、過去生でその子は飼い猫だったかもしれないし、馬だったかもしれない。実際に過去生回帰をして、自分の現在の飼い猫が、過去生でも飼い猫だったという人もいた。

縁は人と人との間だけにあるのではない。動物も同様だ。縁あって再会したソウルメイト。その貴重な出会いを大事にしてほしいと思う。


どうかすべてのペット達、動物達が幸せな時間を過ごせますように・・・
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元を辿れば

 2008-11-01
以前知り合いで、必要以上に「自分を可哀想に見せる人」がいた。

会えばいつも愚痴や、どれだけ今自分が大変な思いをしているか、どれだけ大変な目に遭ってきたか―それを延々と話し続ける。傍から見る限り、その人の状況は決してそういったものには思えない。

必要以上に物事をネガティブに捉えるから、その分どうしても話が大袈裟になる。共通の知り合いの人達にも聞いてみたことがあるが、私とまったく同じ考えだった。当時その人が置かれていた状況は、その逆。人から羨ましがられるようなものなのに、愚痴ばかり出てくるのが不思議だった。

毎回同じことの繰り返しだから、こちらもだんだん嫌になってくる。話題を逸らせても、またそこに戻っていく。その人と会った後はいつも妙に疲れを感じた。何かこちらのエネルギーを吸い取られているような気がしていた。

実際、いつも別れ際のその人は明らかに来た時よりも元気になっている。それほど深い付き合いでもなかったが、だんだん顔を合わせるのが苦痛になってきて、結局連絡を取り合うこともなくなった。

今思うと、その人は「人からの同情」という形でエネルギーを集めていたのだと思う。
自分を悲劇の主人公に見せることによって、人の関心を引いていた。そんなことをしなくても十分魅力的で人は集まってくるのに、その人は相変わらず、自分を「弱く可哀想な存在」としてアピールしていた。

結局、その人はその「方法」しか知らなかったのだと思う。
ある時、その人とご両親との関係や過去に起こった出来事の話を聞いた。それが現在のその人に多分に影響しているように思えた。

両親との間に起こった出来事がきっかけで、その人は自分を「弱く、助けが必要な者」として見せることで、その愛情や関心を集める癖がついてしまったのだと思う。「自分が弱い存在であり続ければ見捨てられずにすむ」と。そして今尚、身につけたその方法で、自分の周りに人を引き寄せている。


そういった癖―いわゆる「パターン」のほぼ9割は、家族、特に親との関係に起因している。
大体7歳くらいまでの間に起こったことがその元になると言われている。相手が夫や妻、子供であろうが、その人達との間に現在起きている問題の根本的な原因は、かつて自分が子供だった頃の親との関係にあると思っていい。

子供の頃、常に自分が親から見捨てられるという恐怖や不安を感じていたのなら、大人になっても配偶者や恋人から見捨てられることを恐れるという感情がついて回る。だから自分を殺して必要以上に相手の意向に添おうとする。

親から過度の干渉を受け、親の勝手な期待や思いを押し付けられた子供時代を過ごせば、人との深い付き合いや干渉を避けたり嫌ったりする。だから周りの人に対しても、さほど執着せず、淡々とした関係を求めたりする。

頭を押さえつけられるように親からコントロールされてきた人は、自分がされてきたのと同じように自分の周りの人達をコントロールしようとする。もしくは誰かから、何かからコントロールされようとしているのを感じ取ったりすると、それに対し過剰に反応したりすることもある。

分別のつく年齢、「大人」になっても、その親子関係で身につけたパターンは変わらない。
対象が「親」から「配偶者、恋人、子供、友人」に取って代わるだけ。

かつて親が自分に対して行ったのと同様のことを配偶者や恋人等からされた時、爆発する。それが嫌な思い出や感情と結びついている場合は尚更だ。

そういった時、人は相手を責める。だが、実は自分が腹を立てて反応しているのは目の前にいる相手ではなく、「自分の親」なのである。その目の前の相手に、自分の父や母を投影しているに過ぎない。
相手はあくまでも「ダミー」であり、その本当の矛先は自分の親に向いている。

相手の中に、かつての親の姿と、彼らが自分に対してした行為を見ているということ。

今目の前にいる相手に腹を立てていたとしても、その怒りは全体の1割に過ぎない。残りの9割の怒りは、実は自分の親に対して向けられている。当時親に対して爆発させたかった怒りを相手に向けているだけ。つまり目の前の相手は、八つ当たりされているようなものだ。

現在の自分の周りの人達との関係性や、その中で起こる諍い、相手への不平不満―それらの根本的な原因は、自分と親との関係にある。それを知り理解すると、不思議なことだが相手への怒りや不満が嘘のようになくなったり軽減されたりする。

実際に私自身、そのことを認識した時に驚いた。自分自身に対してもそうだが、何よりも相手の心情も理解でき、思いやれるようになる。

親に対して、かつての怒りをぶつける必要はない。ただそれを認識するだけでいい。そしてそれは、自分の周りにいる人達との関係に、新たな何かを運んでくる。

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