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シナリオは要らない

 2008-10-30
「イメージしたことが実現しない」と言う人がいる。「望んでいたこととは、むしろ逆のものになる」と。

その人達の話を聞いていると、ある共通点がある。
それは「イメージすること=シナリオを書くこと」と思っていること。

それでは「イメージ」と「シナリオ」の違いは何か?

例えば、今自分がマイホームを手に入れたいと思っているとする。

自分の望みどおりの家を手に入れて、その家の前でニコニコしている自分を想像する―これが「イメージ」。

「場所は大体この辺り。3階建てで5LDK、間取りはこんな感じで価格は○千万円くらい。ある時新聞に、その家の売り出し広告が入ってくる。早速家族で見に行き、一目で気に入ってその場で購入を決める。○○銀行に住宅ローンを申し込んで、すぐに融資が下りる。そして正式に契約が済んで、その家は自分のものになる」―これが「シナリオ」。

これは私自身の考えだが、「イメージ」はゴールに到達した部分―「目的のものを既に手に入れたシーンだけ」を思い描いていればいいのだと思う。

どんなふうにその家を見つけて、こうやって購入資金を手に入れる―といったようなプロセスの部分は一切必要ない。極端に言ってしまえば、昔話の最後の部分「めでたし、めでたし」のシーンだけでいい。

どうやってその「めでたし、めでたし」に辿り着いたのか―鬼退治とか、お供の動物に次々に出会ってきび団子をあげて・・・とか、そういった途中のプロセスは一切不要だ。

なぜなら、それは「イメージ」ではなく「シナリオ」だから。

「シナリオを書く人」というのは、その途中のプロセスに拘るあまり、どんどんゴールから外れていく傾向がある。

例えば「マイホームを手に入れる」ことが自分の目指すゴールなのに、シナリオに書かれた順番や台詞通りに物事が進んでいく方を重視するようになってしまう。

「この台詞の後には、絶対にこういう出来事が起きなくてはならない」といった感じで、台本に書かれていないアドリブが入るとNGになって、また最初からやり直し。

「家を手に入れること」がゴールだったはず。それがいつの間にか、その家と出会うタイミングや、どうやって購入資金を手に入れるか―というプロセスの部分が、ゴールになってしまっている。

はっきり言って、「どうでもいいようなこと」「拘る必要のないこと」に執着して囚われている。最初に設定したゴールは、いつの間にかすり替わってしまっている。

最終目標が変更されれば、当然のことながらそのプロセスも変わる。そこに辿り着くまでの流れや起こること、そういったことが全部変わってくる。

「描いたイメージ通りにならない」と言う人は、最初に設定したゴールが変わってしまっているから。

「マイホームを手に入れる」というゴールが、いつの間にか「マイホームを購入する資金を手に入れることがゴール」になってしまっている。

一見同じことのように思えるが、それはまったく違う。

だから潜在意識は混乱する。「どっちがゴールなんですか?あなたがほしいのは家なんですか?それともお金なんですか?」と。

ゴールが変更されたことに自分自身で気づいていないから、「どうしてイメージ通りにならないんだろう?」と首を傾げることになる。

そしてそれが立て続けに起こると、自分に対する不信感が生まれてくる。「自分は何も実現できない無力でダメな人間だ」と。そしてこうも思う。「望んでもムダだ」

今までイメージしたことが実現しなかったと言う人は、その使い方を間違っていただけ。実現しなかった今までのイメージを振り返ってみると、そのほとんどが「シナリオ」だったことに気づくだろう。

その違いを知ってこそ、初めて潜在意識はその力を発揮する。

ゴールを設定、それを実現したイメージを描いたら、後は一切変更しないこと。
それが実現するプロセスの細々した部分まで考えることは必要ない。そして、後は流れに任せる。
その流れの中で起こること、やるべきこと―その都度それに対処していったらいいだけだ。

夢の実現に必要なのは、「イメージ+行動・努力」。シナリオは要らない。
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カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

辻占

 2008-10-28
「辻占(つじうら)」

①四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて物事の吉凶を判ずる占い。
②偶然起こった物事を、将来の吉凶判断のたよりとすること。
③紙片に種々の文句を記し、巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもの。「-売」。

(広辞苑より)


私には、子供の頃からの「変な癖」がある。
それは悩んでいる時や考え事をしている時、必ず本棚の前に立つこと。

そして何気なく目に留まった本を抜き出し、適当にページを開くと、そこには今悩んでいることや考え事のヒントになるようなこと、求めていた答えそのものが書かれていたりする。

いつからこの癖が始まったのかは、まったく覚えていないのだが「適当に選んだ物の中に答えがある」ということが子供心に不思議だった。そしてそれは今でも変わらない。

実は当サロンの名称「カンテ・イスタ」はそうやって決まった。
何か良い名前はないかとずっと考えていたのだが、なかなかこれと言ったものが浮かばない。あれこれ考えた中から3つに絞り、その中から決めようとしたものの、なぜか気が乗らず決めかねていた。

そして私は、また例によっていつの間にか本棚の前に立っていた(笑)

その時目に付いたのが「インディアン魂」という本。北米ネイティブアメリカン「ラコタ・スー族最後のメディスンマン」と言われる、ジョン・ファイアー・レイム・ディアーの口述をまとめたもので「ネイティブアメリカン文学の古典」とも称される。

折に触れて所々拾い読みをしていたのだが、なぜかその本がやたら気になる。というより、本がしきりにアピールしているような気がした。手に取り、何も考えず開いたページに「カンテ・イスタ」という言葉があった。意味は「心の目」―。見た瞬間、「これだ!」と思った。その間約5秒。何日もかかって頭を捻って考えた他の名前が一瞬で消し飛んだ。

思えば、インディアンジュエリーの仕事を始める時もそうだった。

やはり輸入業ということもあり、他の販売業に比べ、買い付けや旅費等の掛かりが大きい。また準備段階でも結構な時間と費用が必要になる。手間がかかる割にはリスクも大きい仕事だ。
いろいろな面で、やはり気軽に始めるというわけにもいかず「どうしようか」と、あれこれ考えていた。

当時住んでいたマンションのすぐ近く、小さな川を挟んだ道の向こうに神社があった。ベランダに出ると、その神社の境内がよく見えるくらいの距離。確か「商売繁盛」のご利益があるとかで、スサノオノミコトに所縁のあるものだったと思う。土地神様でもあるので、時々ご挨拶がてらお参りに行っていた。

ある日、ベランダで洗濯物を干しながら仕事のことを考えていた。「やるのか、やらないのか」―そのことだけを考えていた。その時だった。ふと目を上げた瞬間、神社の上空に何か白っぽい、半透明なものがフワフワ浮いているのが見えた。最初は透明なビニール袋が風で舞い上がって流されているだと思い、さほど気にも留めず、また洗濯物に手を伸ばした。でも次の瞬間思った。「風なんか吹いてない」

その日は無風で、穏やかな晴れだった。ビニール袋が舞い上がるほどの風は吹いてない。
もう一度確かめようと、ジッと目を凝らした時、その白っぽい半透明の何かは、まだ上空にあった。不思議なことに、さっき見た時と同じ位置に留まっているように見える。そしてそれは、その高さを保ったまま、徐々にこちらに近づいて来るように見えた。

私のいるベランダはマンションの5階。「何か」はその高さとほぼ同じくらいの高さの空中にあって、そのまま水平に滑るような感じで、フワフワと近づいてくる。怖いとかそういった感じはないが、なぜかそれから目が離せない。

やがてその距離が5~6mに縮まった時、全身に鳥肌が立った。

今でもその時のことを思い出すと、とても現実に起こったこととは思えない。実際に体験した私でさえ未だに半信半疑なのだから。

その白っぽい半透明の「何か」の正体は、無数の白い羽根だった。

真っ白で、大きさは大体2~5cmくらいだったろうか―信じられないことに、その無数の羽根が空中で直径60cmほどの円を形成して浮かんでいたのだ。膨らませた透明なポリ袋に白い羽根が詰め込まれていて、それが風船のように宙に浮かんでいる感じ―と言ったら分かりやすいだろうか。

どうしてあの無数の羽根達がバラバラにならず、空気中でまとまった状態を保ったまま、100m近い距離を移動できたのかは分からない。でもその時の私は、目の前で実際に起こっていることに対し、ただただ唖然としていた。

やがてその羽根は、私の目と鼻の先、50cmくらい手前まで近づいてきた。そのまま息を殺して見ていると、何かの合図が出たかのように、一斉に目の前でパラパラと下に散った。すると次の瞬間、いきなり風が吹き、落ちた羽根を全部吹き飛ばした。それと同時にハッと我に返った。そして思った。「やろう!」

俄かには信じがたい話かもしれないが、実際に起こったことだ。もっともその場に私しかいなかったので証人になってくれる人はいないけど。

ネイティブアメリカンの世界では、羽根は「成功」の象徴であり、彼らの執り行う数々の儀式では欠かすことのできない聖なる物として扱われている。それが土地神様の方向から、このタイミングでやって来るなんて―。

これはある種の「シンクロニシティー」だと思う。自分の潜在意識と、誰かの、何かのそれが重なり合う瞬間、それは起きる。しかしそれは特別なことではない。空中で自分の出した電波と相手の電波が繋がる感じ。例えばそう、電話が繋がるような感じで。ユングも言っている。「すべては意識下で繋がっている」

よく時代劇にも出てくる、街角の辻占師。先人達は、日常ごく当たり前のこととして、シンクロニシティーを捉えていたのかもしれない。

本気でそれを求めた時、答えはやって来る。

ただし、自分の内側がクリアで、自力で立ち、歩もうという決意ができた時に―だ。依存度満載で、誰かに、何かに答えを与えてもらうことだけしか考えていない場合には、それが反対の方向に作用することもある。

自分の、人としての「立ち位置」を明確にし、覚悟を決め、内なる声を聴く―答えは必ずそこにある。
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絵にまつわる不思議な話

 2008-10-27
以前アメリカのカリフォルニア州サンディエゴに在住していた頃、住んでいた場所のすぐ近くにショッピングモールがあった。

住宅地の中の、そこの住人向けに建設されたものなのでそれほど大規模なものではなかったが、入っている店舗のセンスがなかなか良く、結構頻繁に利用していた。

そのモールの中に、1軒のギャラリーがあった。

アメリカ国内の現代画家の作品はもちろんのこと、美術史に名を残す有名画家達の作品やそのリトグラフ(複製画)を取り扱っているところで、その幅広い品揃えとセンスで、地元でも評判のギャラリーだった。

もともと絵を観るのが好きなこともあり、モールに行く度にそこに立ち寄っていた。
地元アーティストの作品を何点か購入したこともあって、オーナーやスタッフ達とすっかり顔馴染みになった。私以外に客がいない時などは、まだ店頭に出していない他の絵を倉庫で見せてくれたり、その絵の背景や画家について教えてくれることもあった。

日本に帰国する1ヶ月前、その報告と今までのお礼を言うために、そのギャラリーを訪れた。
皆でひとしきり別れを惜しんで話をしている途中、展示されている1枚の絵が目に留まった。

それは「睡蓮」等の作品で有名なフランス印象派の中心的存在の画家、モネの絵だった。
「Boulevard Des Capucines―カピュシーヌ大通り」というタイトルが付いている。そのリトグラフ。

全体的にグレーがかった水色の色調で、冬のパリの情景を描いたもの。
使われている色味のせいもあってか、閑散とした、どこか寂しさを感じさせる絵だった。

その当時は、どちらかというと色彩や個性の強い作風の絵が好みだったので、私からすると、どこか「まとまりすぎている」印象を受けるモネの絵は、正直あまり関心がなかった。

でもどういうわけか、惹きつけられて仕方がない。自分の好みとは正反対とも言えるその絵が、妙に神経を刺してくる。もうそれ以外の絵は目に入らない。号数も結構大きいということもあり、リトグラフとしてはかなり高額だった。地元有名アーティストの直筆の絵が3枚くらい買える値段だったと思う。

ちょっと迷いはしたのだが「帰国の記念に」と思い、結局その絵を購入した。

しかし、その絵を手に入れた日からとんでもない目に遭うことになった。
絵を部屋に運び込んだその日の夜から、私は一睡も出来なくなってしまったのだ。

自慢ではないが、私はどこでも寝ることができる体質だ。
棚の上に置いてある物が落ちるような規模の地震でも、まったく気づかずに熟睡していて呆れられたこともある。成田→サンフランシスコ間の10時間近くのフライトを、一切の機内食も飲み物を取らず、トイレにも立たず、着陸の30分程前にスチュワーデスに起こされるまで眠り続けたこともある。

そんな私がまったく眠れなくなってしまった。
夢見が悪いというか、真夜中の変な時間に目が覚めて、それっきり眠れない。眠っている最中でも何か妙な圧迫感を体全体に覚えて熟睡できない。そして目が覚めると、きまって絵の置いてある場所に最初に目が行く。

いわゆる「嫌な感じ」ではないのだが、その絵から何か強烈なパワーのようなものが出ていたのは間違いないと思う。それがいい意味でも悪い意味でも、私には強過ぎた。もともとそういった「気」のようなものには敏感なので、その絵の場合も同様だと思う。

最初は気のせいかと思い、試しに1日だけその絵を別の部屋に置いてみたところ熟睡できた。そしてまた部屋に戻したところ、また眠れなくなる―その繰り返し。「これはやっぱり絵のせいだ」と確信して、思い切って絵を返品しようと決めた。

日本と違い、アメリカでは返品はごく当たり前のこと。サービスの一環のような位置付けにあるので、よっぽどのこと以外は販売側も気軽に応じてくれる。

絵を購入してから10日後、ギャラリーに絵を持っていった。事前に電話で返品希望の旨を伝えたところ、快く了解してくれた。返品手続きを待つ間、思い切ってオーナーにその理由を話してみた。

オーナーは私の話を聞き終わると、特に驚きもせずにこう言った。「あなたは感受性が強いから、そういうものをキャッチしやすいのね。実はね、この絵、前にも同様のことで返品されてきたのよ。買ったのはやはり女性だったけど、彼女も『この絵があると眠れない』って言ってね。買ってから3日目に返しに来たわ」

「最初に言ってよ!」という感じなのだが、それを聞いて妙に納得した。絵には描いた者の念が入る。複製とはいえ、そこに込められた念の強さは変わらない。画家の持つ何かと、それを観る者の何かが同調するのだと思う。いわゆる「波長が合う」ということ。

多分あのモネの絵に込められたものと私の中にあるものが反応したのだと思う。それがどういう種類のものだったのかは今でも分からない。しかしあの絵が放っていたものは、決して悪いものではなかった。本当に強烈ではあったけど。

もう20年近く前の話ではあるけれど、今でもあの絵のことをふと思い出す時がある。
ネット上で同じリトグラフを見たことがあるが、今でもどうして自分があの絵に惹かれたのかは分からない。自分の意識で選んだのではないような気がして仕方ない。

あの絵は今、誰かのものになっているのだろうか・・・


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「過去生回帰」体験談1

 2008-10-25
カンテ・イスタで「過去生回帰」のセッションを受けた方からメールをいただきました。
ご本人の許可を得て、「体験談」として掲載させていただきます。以下本文です。



ミラさん

9月**日にお世話になりました。Mです。
帰りの時間にバタバタしてしまい、充分な振り返りを出来ず帰路についたのですが、帰宅してから自分なりに整理し書き留めました。

1ヵ月半が経ちましたが、あの日から一日たりとも欠かさずに思い出しています。
本当に不思議な体験、有意義な時間でした。


私が裕福な貴族の箱入り娘(笑)とは・・・。今の自分からは結びつかないので、???でしたけど・・・。
ただ、感覚的なものとして、「本当にそうかも?」と思えることがあることに気づきました。

私の仕事(こちらに転勤する前)が司会業だとミラさんにお話ししました。
テレビ、ラジオ、イベント、パーティ等ひととおり経験してきましたが、私が「一番好き」なのは「結婚披露宴」の司会でした。

なぜか?・・・大きな広間(披露宴会場)におしゃれをした人々が集まり、「ハレ」の気分で皆さん高揚している・・・。
これって、過去世での「舞踏会」のイメージなのでしょうか?

確かに、ヨーロッパ調のイメージのホテルの時はいつも気分良くお仕事できましたし、人数が多いほどわくわくしていました。
私自身も、大きなリボンやお花のついたお洋服、くるくる巻き髪にするのが大好きで、巻き髪スタイルはかれこれ15~6年ほど続いております。

リボン服も、仕事柄着ているうちに好きになったのかな?と思っていましたが、本当はもともと大好きで、それを仕事をきっかけに思い出したということになるんでしょうか。(今は’お母さん’という立場上、普段は着れないのですが)

そう思うと、本当に嬉しい気持ちでいっぱいです。
過去世と現世がつながってる気がしますね。

ということは、来世へもつながる・・・。

今は、来世へもつながる大切な時間なんですね。今を大事に生きる、とは良く聞きますが自分事で実感できるなんて嬉しい限りです。


子どもへの対応がきっかけでミラさんを訪ねましたが、以来、子どものみならず夫への対応も少し変わったと思います。(けんかで)今までは無性に腹が立っていたことも「でも自分でこの人と結婚するって決めてから生まれてきたしぃ」と思えるようになりました。


もっともっとミラさんに報告したいことがあったのですが、いざとなると、まとまりませんね(笑)。

あ、私、バルサミコ酢が大好きなんです。子ども時代に母親の作る料理では一度も食べたことなかったんですが、大人になって初めて口にして以来、とりこです。これも関係アリでしょうかねぇ。


またぜひ伺わせてください。
本当にありがとうございました。お世話になりました。




魂というものは過去生で縁が深かったり、思い入れ等の強い場所や人に惹きつけられる傾向が強い。この方のように、その部分が現在の服装や食べ物等の趣味嗜好に反映されているケースが多く見られる。

例えば、日本以外の国―欧米の国々に転生している割合が多かったりする人は、お刺身等の生魚やお米等が苦手だったり。またその逆で、日本での転生が多い人は、日本食以外受け付けなかったり―そういったごく日常の身近な部分に、過去生の性質が表れている場合もある。

「理由もなく」ということは、存在しない。すべてのことには「理(ことわり)」がある。

「過去生回帰」をすると、その「理(ことわり)」の部分が観えてくる。
何かこう、「ああ、だからなんだ。なるほどね~」という感じで腑に落ちるものがある。

その時の感覚をひと言で言い表わすなら、まさに「スッキリした」という感じ。
何の捻りもない表現だが、体験した人はその感覚を理解してくれると思う。

この体験談を寄せてくださったMさんのように、その理が現在の自分の人生に繋がっている―ということを肌で実感する。

過去生回帰のセッションを受けた人達が一様に言うのは、「過去生が今の人生にこれほど大きな影響を与えていることに驚いた。もし来世というものがあるのであれば、今の人生がそこに影響を与えることになる―そう思ったら今の人生を、もっと一生懸命に生きようと思うようになりました」ということ。

実はその部分は、私がクライアントの人達に一番受け取ってほしいと望んでいることでもある。

過去生の積み重ねの結果が今の自分であるように、すべての源、「核」は自分自身である―ということを理解すると、自分の足で人生を歩んでいける強さが生まれる。「生まれる」というよりも「思い出す」と言ったほうがいいだろうか。

何らかの理由で、忘れていたり隠れていた本来の自分の魂の強さや輝きといったものを取り戻す。

そうすると、ヘンな呪文を唱えるとかナントカに祈るとか、そういった外部のものに依存することなく、自分の力を信じ、人生を歩んでいける。

過去生回帰は題材を過去(過去生)に求めるが、それは決して「逃避」ではない。
あくまでも「現在」と「未来」に向かうためのもの。自分の魂の歩んできた経緯を知り、そこにある理を理解することで、現在の人生や未来に対しての思いや意識も変わる。

それが過去生回帰の本来の役割、意義でもある。


今回体験談を寄せてくださったMさん、本当にありがとうございました。
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11月 自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2008-10-24
11月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2008年11月2日 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 10月31日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。


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■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          



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「enjoy」の本当の意味

 2008-10-23
「enjoy」は、英語で「喜び」「楽しむ」という意味。「中に(en)喜び(joy)を持つ」という原義がある。

アメリカ人は日常生活の中で、この「enjoy」という言葉をよく使う。
「Enjoy yourself!(楽しく過ごしてね)」「Please enjoy your dinner.(夕食をお楽しみください)」等。

母親が、友達と遊びに出る子供に向かって「いってらっしゃい」の意味で、友達との別れ際「じゃあ元気でね、またね」というニュアンスで言ったりするし、相手に飲み物等を勧める時、「どうぞ召し上がってください」という意味でも使われたりする。

日本人とって、この「enjoy=楽しむ」という言葉はあまり馴染み深くない表現だと思う。実際相手から「Enjoy!(楽しんでね)」と言われ、「どう答えていいか分からなかった」と言う人もいる。

元来日本文化は「秘すれば花」という言葉にも表れているように、「自分の感情を内に秘めて、相手に見えないようにする」といった、いわば「隠す文化」だ。自分の感情、喜怒哀楽を露わにすることはあまり好まれない。

アメリカ文化はその真逆。良くも悪くもすべてがオープン。「伝えてなんぼ」の文化なので、顔の表情やジェスチャーも大きい。言葉や体全部をフルに使って、自分を表現する。

片や「根性と忍耐、恥、隠」の文化、片や「自由と平等、表現」の文化―対照的だ。

「控えめ」が美徳される日本では、特に「喜」と「楽」を全面的に押し出すことを苦手とする人が多い。
「他の人に悪いのではないか」というような「自分だけ申し訳ない」といったある種の罪悪感や遠慮のようなものを感じるのだと思う。

だからいきなり「Enjoy yourself(楽しんでね)」と言われると、どうしていいのか分からない。
「みんな一緒に、みんなと同じに」を良しとしてきたのに、皆を差し置いて「自分が、自分だけが楽しんでいい」と言われているのだから、戸惑って当たり前だ。

最近ますます、様々な分野で欧米の思考法やスタイルを取り入れるケースが増えてきているように感じられる。仕事や勉強で海外に在住したり、そういった経験を持つ人達が増えたことも一因にあると思う。それに伴って「楽しむ」という言葉も、あちこちで聞くことが多くなった。

特に欧米資本の企業―ホテルチェーンやデパート等は、社員教育のマニュアルも、本国のものが採用される。その中で日本人社員が一番戸惑うのは、「enjoy your job=自分の仕事を楽しめ」という部分。

「仕事は真面目に、真剣に取り組むもの」という社会的な認識がされている日本で、一部の職種を除いては、「自分が楽しむ」という観念はまず見られない。「顧客を楽しませるなら分かるが、『自分が楽しむ』ってどうしたらいいんだ?」と首を傾げる。

多分これは、通訳の仕方や翻訳の仕方―マニュアルを訳す者が、どれだけその言葉の本質を理解しているか―という部分も大きいと思う。

確かに「enjoy」は、「喜ぶ、楽しむ」という意味で認識されている。
しかし、実はそれだけではない。「満喫する」「享受する」「経験する」「(収入・信頼等を)持っている」というものも含まれる。

つまり「enjoy your job」は、「自分の仕事を満喫しなさい。経験しなさい。精一杯悔いのないように打ち込みなさい」ということ。「仕事は明るく楽しいもの、自分を幸せにしてくれるもの」「またそう思って仕事をしろ」という意味ではない。

先日深夜のトーク番組で、北京オリンピックで、日本の野球チームを率いた某氏が出演していた。
アルコールも入っていたこともあるだろう。オリンピックや球界の裏話や選手事情等、かなりあからさまな内容を話していた。

その中で、某氏はかなりご立腹の様子でこんなことを言った。

「近頃の若い選手は『楽しむ』ということをよく言う。こっちは仕事で野球をしているんだから楽しんでどうするんだ。『楽しむ』ってのは、後から楽しかったと思えばいいんだ。『楽しんでやってきます』なんて、最初からヘラヘラやってるんじゃないよ。まったく!」

世代の差や仕事観の違い等も大きく関係しているとは思うが、先のオリンピックで野球がノーメダルだった一因が分かったような気がした。

次のWBCの監督が下馬評通りの人選だった場合、マリナーズのイチローはじめ、現メジャーリーグで活躍中の選手達は参加しない意向を表明したらしいが、このあたりも何か関係しているのかもしれない。

彼らは、「enjoy」の本当の意味を肌で理解していると思う。「楽しむ=悪」というような捉え方をしている某氏との相性は、決して良いとは言えないだろう。受け取り方、感じ方の違い一つで溝が深まる場合もある。

「enjoy(楽しむ)」は、楽しくて愉快なもの―というだけの言葉ではない。
自分自身に対する信頼や、全力を尽くす、やり尽くす―という意味も含まれる。「楽しむ」ということは、ある意味自分にハッパを掛けることでもある。自分を鼓舞する言葉。

So, just enjoy your life!

カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

1粒に7人

 2008-10-21
「お米1粒には7人の神様がいるんだよ」
子供の頃、祖母からそう聞かされた。

祖母は大正生まれ。第二次世界大戦を経験してきた世代だ。
東京大空襲の時は、隅田川を泳いで渡って逃げ延びた。

「1個の玉子を3人で分けて食べていたこともあったねぇ。本当に食べる物がなくて、道端に生えている草を取ってきて煮て食べたこともある」

戦時中の食料難の話を、よく聞かされたものだ。

だから、祖母は炊飯器のお釜に残っている数粒のお米さえ、丁寧にしゃもじや手で取って、決して無駄にすることはなかった。「お米1粒には・・・」というのは、その時に聞いた言葉。

それ以来、ご飯―お米を残すことができなくなった。
「自分がお米を残したら、神様がたくさん死んじゃう」と思ったから(笑)

今でも誰かと食事をする時、その人が最後の一粒まできちんと食べるのを見るとホッとする。
「きちんとした家庭で育ったんだな」と、その人のバックグラウンドを垣間見るような気がする。

「きちんとした家庭」というのは、「お金持ち」とかそういう意味でなく、「最後の1粒まで大事にいただきなさい」というような、人の道というか、「核」になるものをきちんと伝えることのできる家庭―ということ。実際ちゃんとした食事の仕方をする人は、それ以外の面でもきちんとしていることが多い。

やはり本能と直結している行為だからか、その人の「素」というか、「本質」が表れる部分でもあると思う。

以前飲食店の裏口で、従業員の人が残飯を処理しているところを見かけたことがある。
それはびっくりするくらいの量で、また、その大半がお米のようだった。仕方のないことかもしれないが、正直あまり気持ちのいい光景ではなかった。

自給率が低下しているとか、食品の価格が高騰しているとか・・・現在のこの状況は、ひょっとしたら今までの「飽食のツケ」なのかもしれないと思う時がある。「お米1粒に7人の神様」―敬って感謝していただくという思想は、もう日本に存在しないのだろうか。

「いただきます」「ごちそうさま」はタダ(無料)の物に対して言う言葉―最近子供にそう教えている親も出てきたと聞く。「食べる」ということは、自分の命を永らえるために、他の動物や植物の命をいただくこと―という根底をまったく理解していないからだと思う。

以前幼稚園の教諭をしていた知人に聞いた話。
「お魚の絵を描いてみましょう」と言ったところ、スーパーで売られているお刺身パックの絵を描いた園児が数人いたとのこと。

動物や野菜の「生きている姿」を実際に見たり感じたりする機会が昔に比べて減っているせいだろうか。加工された後の姿、無機質な物体「モノ」にしか見えないから「命をいただく」ということが、なかなか実感できないのかもしれない。

「時代が変わった」と言われればそれまでだが、何か割り切れないものを感じる。
食生活は命に通じる大事なもの。それを疎かにしている今の日本人は、自分の命を自分で粗末に扱っているということでもあると思う。

食べ散らかした後、「ごちそうさま」も言わずに平然と席を立つ人は、どこか人として歪なものを感じてしまう。


お米の中に、もう神様はいないのだろうか・・・


カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

「スピリチュアルに生きる」って?

 2008-10-19
世間は「スピリチュアル」ブーム。
テレビの番組、雑誌の特集・・・やたら「スピリチュアル」という謳い文句が氾濫している。

ヒプノセラピーは本来心理療法の一種だが、そのカテゴリーの中に「過去生回帰(前世療法)」等、いわゆる「スピ系」の要素も含まれるため、やはりそこを無視することはできない。

特に過去生回帰を希望するクライアントの大半は、その希望理由のひとつに、「スピルチュアルな部分に惹かれて・・・」ということを必ず挙げる。ブライアン・ワイス博士の著書「前世療法」等も、大きな影響を与えていると思う。

「今生での自分の使命は?」「この世に生まれてきた意味は?」―多かれ少なかれ、どんなクライアントもそれを知りたいと思っている。

だが、あえて厳しいことを言わせてもらえば「自分の今生での使命」や「生まれてきた意味」に強く拘る人ほど、浮き足立っている印象が強い。

地に足が着いていない。
スピルチュアル風に言えば、「グラウンディングできてない」。

口では「使命」とか「意味」とか高尚なことを言っている割には、まったく中身が伴っていない。
書籍やセミナーから得た受け売りの知識は、本当に多く持ってはいるが、まるっきりそれを活用できていない。「理解できてない」と言ったほうが正確かもしれない。

「自分はそれを知っている」という、ただの安心感だけ。ある意味「自己満足」と、それに伴う「慢心」しかない。そして決まってこう言う。「スピリチュアルに生きたいんです」


そもそも「スピリチュアルに生きる」って、どういうことだろうか?

瞑想に励むこと?常に明るくポジティブでいること?すべての人を許し、愛すること?人の役に立つこと?世界平和を祈ること?

確かにそれも大切なこと。
でもそれは、きちんと「土台」を作った上での話。

土台のいい加減な家は、遠からず倒壊の危機に見舞われる。
人間だって同じこと。人としての「土台」ができていなければ、まっすぐに自分の足で立つことはできない。

人としての重要な部分がしっかりできていなければ、いくらスピリチュアルな知識を身につけても宝の持ち腐れ。ただの物知りの頭でっかちに過ぎない。
足し算や引き算ができないのに、いきなり方程式を解こうとするようなものだ。


それでは、その「人としての土台」はどう作るのか?

それは「日常の中」にある。

ごく当たり前のように過ごす毎日、その中に存在している。それも至る所に。

「きちんと挨拶すること」「人の話をちゃんと聞くこと」「規則正しい生活をすること」「体に良い物を食べるようにすること」―そういった何でもない、「当たり前の、ごく普通のこと」の中にある。

誰にでも、子供でさえできるような簡単なことのように感じられるかもしれないが、実はこの「簡単なこと」ができてない人が意外に多い。「そんなことはやっている」「自分はできている」と思うかもしれないが、そう自分で思い込んでいるだけだったりする。年齢が上になるほど、その傾向は強くなる。

実際その点を指摘すると、「そういえばいつも夜更かしして寝坊することが・・・」「作るのが面倒だからつい外食が多くなってしまって・・・」「性格的に合わない人には結構つっけんどんな対応をしているかも・・・」―そんな答えが返ってくる。

「子供でもできる当たり前のこと」さえできないのに、「今生での使命」とか「この世界での自分の役割」とか鼻息荒く言われても「それってどーよ?」となる。

本末転倒というか、「物事には順序がある」という理(ことわり)を完全に無視している状態。
その時点で、結果は既に見えている。

だからまず、「自分の使命」とか「役割」とか壮大なことはとりあえず横に置いておいて、自分の足元から、「身近な日常」から見直すことが先決。

「箸の上げ下ろしを疎かにしない」とか「脱いだ靴をきちんと揃える」とか「部屋を掃除する」とか、そういった一見何でもないようなことがきちんとできた上で、その先にある「使命」や「役割」に辿り着く。

すべては「積み重ね」の先にある。
「当たり前のこと」を当たり前にできない人が、どんな美辞麗句を並べても、何も響かないし残らない。

ブームの影響で「スピリチュアル」という言葉の本来の意味が、薄くて浅い、安っぽいものに成り下がってしまった。何かこう、ただ甘ったるくてフワフワした、楽しくてお気軽なものに。
まさに一番大事な部分、「魂」を抜かれてしまった。

「スピリチュアル spiritual」という言葉の元は、「スピリット spirit」。
そして「スピリット spirit」の原義は「呼吸」。「生命力の根源は、息(呼吸)の中にある」と考えられていたことによる。

誰でも、生きていれば当たり前に呼吸をする。
つまり、「呼吸のような、ごく当たり前の行為・活動の中にすべてがある」ということ。

小さなものの中にすべてがある。すべては小さなものの集合体。

日常の生活の中に、「今生での自分の使命」や「役割」が存在している。
日常を疎かにすることは、自分の使命や役割を疎かにするということだ。
華やかで甘美な面だけに囚われ、目を奪われていると、一番大事な「核」を見失ってしまう。

毎日の生活の中の「ごく当たり前の小さなこと」の中に、それはある。

そういったことを省みながら、一つひとつ丁寧に行っていくことが、結果として「自分の今生での使命」や「役割」に繋がっていく。

物事の真理はシンプルだ。スピリチュアルについても、それは同様。

まずは自分の足元から―日常に溢れる小さな当たり前のこと、一瞬一瞬を大切にすること―それが「スピリチュアルに生きる」という本来の意味。
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思い出に変わるまで

 2008-10-18
人との別れは、時に辛さを伴う。

その人が今までいた場所がぽっかり空く―それは想像している以上の寂しさをもたらしたりする。そしてそれに慣れるまでに、意外と時間が必要なこともある。

カウンセリングの最中でも、親しい人を失くした話が出てくる時がある。
「忘れられないんです・・・」そう言うと俯いて、肩を震わせた人もいた。


「忘れられない」―それは「無理に忘れようとしている」ということ。

その人との記憶を、別れの辛さを、自分の中から無理に追い出そうとしている。その別れが辛いものであればあるほど、それを締め出そうとする。

でもそれは人間としての「本能」に基づいたものであって、自然な行為だ。
なぜなら「忘れる」ということは、人が生きていく上で必要な、いわば元から備わっている「機能」だから。

「残された者」は、これから先も生きていかなければならない。悲しみに浸ってそこに永遠に留まることは、生き物としての停滞や死に繋がる。だからそこで、「忘れる」という機能が働く。そこから前に進むための、生き続けるための、いわば「生命力」の成せる業。

でも意識して「忘れよう」としている間は、かえって辛くなる。なぜならそこに意識を集中しているということだから。集中している部分は拡大される。つまりそれは思いに反して、より鮮やかに意識に焼き付けているということ。

「忘れる」ということは、「意識しなくなる」ということだと、私は思う。

その時の感情や状況を振り返った時、「そういえば、あんなことがあったな」という感じで、ただその「事実」が存在したことだけを思い出す―そういうことだと思う。

古いアルバムを見ている時に、あれこれ当時のことに思いを馳せることがある。その時の感じに近い。時には、当時の自分には辛かった出来事も思い出すことがあるかもしれない。でも意外と冷静に振り返ることができたりする―それと似ている。

しかし「忘れよう」「忘れたい」と思っていることに限って、実はそれとよく向き合っていない―という場合が多い。

やはり人は、辛いことや悲しいことは早く忘れたいと思っている。できることなら「なかったこと」にして、自分の記憶からすべて消し去ってしまいたいと思う。だから一刻も早く「忘れよう」とする。

でも向き合うことをせず、無理に押さえ込んで蓋をした分は、かならず歪みをもたらす。
忘れたい一心での、すぐ効果を得るための、ある意味「対症療法」的な処置をしただけなので、それが「完治」することはない。またすぐに痛みがぶり返す「慢性」のものになる。

事実は事実として、受け止めてみる。それが良いとか悪いとかジャッジせずに、ただその事実だけを観る。そのことによって傷ついた自分を、冷静に、客観的に観る。

人によったら、大変な勇気を必要とすることかもしれない。
でも「向き合う」という段階を経て、はじめて次のステップに進むことができる。それはすべてのことに通じる「道理」でもある。

「なるほど。今自分はこういう状況なんだ」ということを、まず「認識」することが必要不可欠。
「変化」を求めるのであれば、「認識」の部分を飛ばすことはできない。

特に自分が「残された側」の立場だと、ある種の「被害者意識」」や傷ついたプライドが邪魔をして、目を背ける原因となっている場合もある。いわゆる「防衛本能」が先に立ってしまう。

「自分は相手から何かをされた側」という意識に囚われ拘っている限り、何も変わらない。
一つの視点から観ている間は、一つの考えしか見い出せない。

「忘れる」ということにも、ちゃんと「段階」がある。
今悩んだり苦しんでいるのは、その段階をスルーしてきたということ。

それと向き合うことで、必ず何らかの変化が訪れる。
起こった過去の事実は変えられない。でも、過去に対する思いは変わる。

浮かんでくるものをその度に打ち消すのではなく、一度とことん考えてみると、意外とすっきりしてしまうこともある。

やがてそれは、「思い出」へと姿を変えていく。そのことについて考える時間が減っていき、忘れている時間のほうが増えていく。淡々とそのことを振り返ることができるようになる。

それは過去に起こったこと。確かに「過去の自分」は傷ついたかもしれないが、「今の自分」を傷つけるものではないのだから。

そこに今でも拘っているということは、自分の中にそれと向き合う力があるということでもある。
「向き合ってみようか」とちょっとでも思ったら、すでにそれを乗り越えつつあるということだ。

そしてその「思い出」は、きっとこれからの自分の糧となる。
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セレブ論

 2008-10-17
「セレブ」という言葉が浸透し始めたのは、ここ10年くらいだろうか。

女性誌を始め、テレビ番組等でも「セレブ特集」と銘打った企画をよく目にする。
「セレブのお宅拝見」「セレブ御用達」「「セレブな○○」「セレブの○○」―。

「セレブ」という言葉は、英語の「セレブリティ(Celebrity)=有名人、著名人、名士」の略語。
欧米では、「メディア等に登場することの多い有名人」という意味で使われる。

その定義は、「rich and famous=金持ちで有名」。

各国の王族、芸術家、大富豪、政治家、プロスポーツ選手、俳優、スーパーモデル、ミュージシャン等が該当する。故ダイアナ元イギリス王室妃、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その典型的な例だ。

例えば、10歳の子供から80歳のお年寄りまでの幅広い世代のほとんどが「知っている」と答える人―それが「セレブ」。

しかし日本では、「rich and famous」の「rich=金持ち」の部分だけが強調され、「高級」「優雅」「ゴージャス」「裕福」というニュアンスで使われている。

大体雑誌やテレビの「セレブ特集」に登場する「セレブ」は、「あなた誰?」という人がほとんど。
確かに見るからに裕福でゴージャスな生活をしていらっしゃるが、いわゆる「一般人」。

子供から大人まで、日本国民の多くが「知っている」と答える「全国区レベル」の知名度ではない。
はっきり言って、「地元・業界の有名人」の域。

「成城で歯科医院を経営、ポルシェを3台所有するサイトウさん」「銀座にビルを複数所持して、親の代から買い物はデパートの外商というスズキさん」「外科医のご主人を持ち、プール・ジャグジー付きの8LDKの自宅に住み、週2回高級エステに通い、週末は家族で軽井沢の別荘で過ごす渋谷区のコバヤシさん」はセレブとは呼ばない。それは「ただのお金持ち」。


人の「品格」というものは、所持品や財産、社会的地位と、必ずしも比例するものではない。
「清貧」ということではなく、そういった目に見える分かりやすい「条件」が一切無くなった時、「素」のその人、「ただの人間」という存在になった時、それは表れると思う。

上品に振舞うこと―上品な振りをすることは誰でもできる。

過去に起こった詐欺事件の犯人等がいい例だと思う。元皇族の名を騙った者、名門一族の一員だとすっかり周りを信じ込ませた者・・・その言葉遣いや振る舞いに、周囲は完全に騙された。被害に遭った人達は、口々に同様のことを言う。「てっきりそうに違いないとばかり・・・」

その犯人達は知っていたのだと思う。本来の自分に「欠けているもの」を。

身に備わっていないものを、身につけるのは簡単だ。「ただ勉強すればいいだけ」だから。
勉強すればしただけ「知識」は増えていく。

それと同様に、自分に上品さが欠けていると思えば、「どうしたら上品に見えるのか、上品な人達はどんなことをするのか」―それを学んでいったら、見せかけの、上辺だけの上品さは身につく。真似して、「演技」をしたらいいだけだから。

しかし「本当の上品さ、品格」というものは、実はここからだ。
もともとそれが備わっている人は、「応用」が利く。

そうでない人―インスタントに身につけただけの人は、それができない。「どうしたら上品に見せることができるのか」―その「知識をただ持っているだけ」だから、それをどう使ったらいいか分からない。自分が意識している間は問題ない。しかし、無意識の中や咄嗟の時に、生来のものが出てしまう。

「知識」を活用したものが「智恵」になる。その「活用する」という部分が、その人達にはない。
なぜならそれは、インスタントで身につくものではないから。ただの「コピー」の域を出ない。

例えばそれは、「本物」と「よくできた贋物」くらいの差がある。
よく路上で海外有名ブランドのコピー商品を売っているのを見かけるが、一見そうと分からないほど精巧に作ってはあるのだが、何となく違和感を覚える―それと同じこと。

その「なんとなく違う」という部分―その人自身が全体から放っているもの、「生来のもの」と合致しない時に生じる違和感に、それは表れる。

「本物」は、すべてが調和している。
いくらカジュアルな格好をしていたとしても、乱暴な言葉遣いをしたとしても、それらはその調和を乱すことはない。むしろ、一層の魅力をかき立てるというか、その中にさえ「品格」を見い出すことができる。しかし「贋物」は違う。下品なことをすれば下品にしか見えない。


6~7年前だったと思うが、テレビ番組の中で、セレブ限定のお見合いパーティーに、ある女性タレントが変装し、隠しカメラを仕込んで潜入取材するということをやっていた。

「セレブ限定」というだけあって、男性の出席者は全員、職業・年収等の厳しい条件をクリアした人達だった。医師、弁護士、会社経営者等、玉の輿を狙う女性だったら飛びつきたくなるような条件を兼ね備えた、いわゆる「3高」揃い。女性参加者も同様で、やはりそういったレベルの人達が集まっていた。

いわゆる、世間では「いいとこの人」と評されるタイプの人達が一堂に会した様子は、なかなか興味深いものがあった。

が、しかし、その実情はすごかった。
独断と偏見で言わせてもらうなら、その場に「セレブ」と呼べる人は一人もいなかった。
はっきり言って、「セレブまがい」。そういった振りをしているだけ。

その女性タレントが、イヤホンでいろいろと指示を出され、その通りに実行していく。
例えば「そこでワインをこぼせ」とか「よろけた振りをして、肩にぶつかれ」とか。

出された指示の内容も、「ちょっとそれは・・・」と思うものが多かったが、それよりも驚いたのはそこにいる「セレブ達」の反応。

指示通り、床にケーキを落とし、困った振りをしているその女性タレントに対し、誰もフォローをする人はいなかった。「大丈夫ですか?」のひと言もない。バッグに仕込まれた隠しカメラで、周りにいる人達の表情はすべて撮影されている。みんな冷ややかに、彼女がケーキの残骸を集めている姿を見ているだけだった。その後もいろいろとあったのだが、見ているうちに不愉快になってきたので、チャンネルを変えた。

その人達の様子から感じられたのは、ただのエゴ。
お目当てのパートナーさえ手に入ったら、後は関係ない―というその態度と浅ましさ。
卑しいというか、下品さしか感じなかった。こういう人種が「セレブ」と呼ばれ、もてはやされている今の日本は、一体どうなっているのだか。

30年近く経った今も、私の中に印象深く残っているある話がある。
確か小学校4~5年生の時、道徳の教科書に載っている話だった。

ちょっとどこの国かは思い出せないのだが、多分イギリスかどこか、ヨーロッパの王室の女王が取った行為について書かれたものだった。

ある外国からの使者が、その国の女王の正式晩餐会に招待された。
主賓としての招待なので、席も女王の隣。その席で、フィンガーボールが供された。

フィンガーボールは、手を使って直に食べる料理や果物に添えて出される、水やぬるま湯を入れてある小さな器。汚れた指先を洗うためのものだ。

しかし、その外国からの使者は緊張のあまり、フィンガーボールを手に取ると、一気にその中の水を飲み干してしまった。女王陛下の前で、そんな行為をした使者を、周りの人々は呆然として見つめるしかなかった。

すると次の瞬間、信じられないことが起こった。
その女王は、なんの躊躇いもなく、自分のフィンガーボールを手に取ると、同じように中の水を飲み干した。女王の行為に一同は驚愕したが、自分達もそれに倣って、一斉にボールの水を飲み干した―。

客に恥を感じさせないように取った咄嗟の行動や気遣い―これこそが本当の「品格」であり、「応用力」だと思う。

王室や皇室では、帝王学の他に、そういった対処法も学んでいるとは思う。でも、本当にそれが身についてなければ、咄嗟に反応することはできない。方法を知っていても、いつ、どこで、どんな時にそれを使うのか判断できなければ、何の意味もない。

件の「セレブ限定お見合いパーティー」の参加者達の反応は、インスタントの付け焼刃でしかない、上辺だけの、ペラッペラの「品格もどき」でしかないということを露呈していた。はっきり言って、「成り金」のいやらしさ。

自分のライバルとなりそうな人を、頭から爪先まで値踏みするようにジロジロと見たり、会場ではにこやかに上品に振舞っている「社長令嬢」が、化粧室ではくわえ煙草でメイクを直したり。

「贋物」は、どこかチグハグな印象を受ける。
言動が一致しないのはもちろんのこと、顔は笑っているのに目が笑っていなかったり―わずかな違和感が、実はその人の「本質」を表していることがある。

財産とか社会的地位とか、そういった上辺だけの「条件」に振り回されたり、振りかざしたり―そういった「セレブ願望」「セレブもどき」は、あさましさしか感じない。

「神に祝福された人」という意味でもあるセレブリティ―。
果たして神が祝福しているのは、その人の財産や肩書きなのだろうか。

早かれ遅かれ、「メッキ」が剥がれる時は必ずやって来る。
ボロボロの土台の上に建てられた家は、やがて崩壊する。それと同じこと。

そういったマスゴミが仕掛けたくだらないブームや定義に踊らされ拘っているのは、自分が「上辺だけを重視する人間」だということを露呈しているようなもの。ある意味それは、「大変みっともない」。

自分や相手の「条件」ではなく、自分や相手の「本質」に誇りを持って、敬意を払って生きていこう。




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Arizona in my heart

 2008-10-16
アリゾナは不思議な場所だ。

あの大地に降り立った瞬間、完全に魂を持っていかれてしまった。
あまり人や物や場所に執着しない私が、地球上で唯一こだわる場所。

強い日差し、乾いた熱い風、赤い土、蒼過ぎて時々漆黒にも見えてくる空―それらを無性に体で感じたくなることが時々ある。そんな時は多分、向こうに残っている自分の魂の一部が呼んでいるのだと思う。


人と土地には「相性」があると思う。特にアリゾナは、受け入れる人を選ぶ場所だ。

インディアンジュエリーの同業者でも、アリゾナに行くとヘトヘトになる人を数人知っている。
一般の旅行者であっても、それは変わらない。

住んでいる人間は、至って普通に何の問題もなく生活しているが、日本と比べて高地で酸素が薄いせいだろうか、疲労度が通常より早く、バテ気味になる人が多い。
日差しも一年を通して強く、空気も乾いているから水分補給を意識して行わないと、たちまち脱水症状に陥る。

「アリゾナとあまり相性のよくない人」は、決まってこう言う。「見るところなんて何にもない」「ただ広いだけ」。もしくは、移動中に通過するだけで、滞在の機会がなかったり。
そして極めつけは、「アリゾナにいると妙に疲れる」のひと言。

私がアリゾナに滞在する平均期間は、大体1週間~10日くらい。
その間の睡眠時間は、3~4時間。普段は6~7時間だから、約半分の長さになる。
でも何の問題もない。

私はもともと時差ボケに強い体質らしく、どこに行っても、体がすぐに現地時間に順応する。
「眠れなくて困る」「変な時間に起きてしまう」ということも、一度も経験したことがない。

特にアリゾナ滞在中は「あ~よく寝たぁ~」と朝起きると、3時間しか眠っていないことに気づいて、自分で驚くこともある。いつもの半分の睡眠時間なのに、体はむしろ元気になっていく。日中眠くなることもない。

多分、エネルギーの相性が良いのだと思う。
人間も場所も、それぞれが持っている「気」というものがある。そしてその相性もある。

「気が合わない」という言葉があるが、お互いのエネルギー(気)の質の相性が悪い、反発するということなのだと思う。

そういった意味では、私とアリゾナの相性はバッチリだ。
大地を歩けば歩くほど、自分の中に新たなエネルギーが満ちてくるのが分かる。

歩きながら燃料を補給しているような感じ。だから全然疲れを感じない。気分的にも高揚感がずっと続く。たまにそれが過ぎて、持て余す時さえある。

現地の友人達は、そんな私を見ていつも笑う。「それは君がアリゾナウーマンだから」と。
「家を買え」とも、よく言われる。半分本気、半分冗談で、売家を何軒か見に行ったこともあった(笑)


どういう経緯でかは自分でも分からないが、小学校1年生くらいから「大人になったらアメリカで働く」ということを、両親や周りの大人に言っていった。そしてその思いは、ずっと自分の中で変わらなかった。

22歳でそれが実現した。日本語教師という形で。自分でも意外だったけど。

任期が終了して帰国した後、まったく畑違いの仕事に就いた。仕事は充実していた。でも不思議なことに、「いつかまた、アメリカと繋がる仕事をすることになる」と、心のどこかでぼんやりと感じていた。でもそれが何なのかは、その時はまったく分からなかった。

そして、それから何年もが過ぎ、その時の予感どおり30代半ばで、インディアンジュエリーと関わることになった。それがアリゾナとの出会い。


数年前、引越しの準備のために荷物を整理していた。
その時、古い1通の手紙を見つけた。封筒の宛名は、「10年後の私へ」となっている。

高校卒業間近、当時の担任の先生の発案で、10年後、28歳になった自分に宛てて手紙を書くことになった。その手紙は、10年間先生が大事に保管し、その時が来たらそれぞれに送ってくれるという。
みんな結構面白がって書いていた記憶がある。その時の手紙だった。

そして10年後、約束どおり、先生はその手紙を送ってきてくれた。
18歳の、まだ子供だった自分が書いたものだから、何かこう面映く、でも懐かしく読み返したのを覚えている。だが、それっきり、他の物と一緒にクローゼットにしまい込んだまま、10年近く、一度も手にすることはなかった。

しかし、改めて手紙を読み返して、呆然となった。
18歳の私が、何を思ってこの手紙を書いたのかは分からない。20年先に起こる未来のことを、知っていたとしか思えない。

そこにはこう書いてあった。「私の人生は、アリゾナで変わる」

まさにその通りだった。私の人生の大きなターニングポイントになることが起こったのはアリゾナだった。まさにアリゾナからすべてが始まった。

ヒプノセラピストの仕事を通じて、「答えはすべての自分の中にある」「潜在意識の中では、すべて知っている」ということは、自分自身やクライアントの体験を通して知っていた。

しかし、18歳の自分が書いた手紙がもたらしたものは、それを遥かに超えていた。
神聖な、何か大きな存在に対する畏敬の念のようなものを覚えて、体が震えた。
そして改めて思った。「やっぱりアリゾナに呼ばれていた」と。

初めてアリゾナに行った時、「ただいま」という言葉が、突然頭に浮かんで慌てたことがある。
あの独特の赤い土や岩を見た瞬間、「触れたい!」という衝動に近いものが湧きあがってきて、戸惑ったこともあった。

あちらこちらで頻繁に感じるデジャブ、なぜ初対面のネイティブアメリカンの気難しい人が、会った瞬間から私に気を許すのか、なぜ出会う人皆が「あなた、ここに住んでいるんでしょ?」と最初から決めつけるのか、アリゾナ滞在中、街を歩いていると、なぜアメリカ人観光客に度々道を尋ねられるのか・・・そういったことがすべて繋がったような気がした。

ひょっとしたら、遠い昔から、私の魂は既にアリゾナにあったのかもしれない。
この地球上で一番スペシャルな場所。私の魂の故郷。
多分それはこれからもずっと変わらない。Arizona in my heart―。
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石の不思議な話3

 2008-10-14
何年か前、ヒプノセラピーのセッション後、クライアントの人と雑談をしていた時のこと・・・

「少し前に水晶を買ったんです。枕元に置いて寝ているんですけど、毎日変な夢を見てうなされるんです・・・」と言う。

ピンと来て、「その水晶、浄化しました?」と聞くと、きょとんとして「え?水晶って浄化しないといけないんですか?」という答えが返ってきた。買ってきたその状態のまま、寝室に置いていたらしい。

それを聞いた私のほうが驚いた。それでは毎晩夢見が悪くてうなされても当たり前である。


水晶を始め、パワーストーンに興味を持っていたり、実際に購入して身につけたり、部屋に飾る人は多い。でも、「浄化」に関しては無頓着というか、まったく知識のない人もかなりいるし、「水晶は浄化のパワーが強いって聞くから、浄化は必要ないと思っていました」と思い込んでいる場合もある。

確かに水晶(クリスタル)のパワーは強い。そのパワーは数ある宝石の中でも断とつで、オールマイティーの方面に及ぶと言われている。

でも忘れてはいけないのは、「石は生き物」ということ。

生き物だから、人間と同様疲れたりする。
自分の持っている水晶が曇って見える時、それは水晶が疲れているということ。

いろいろなもの、例えば人や場所の「気」とか「念」とか、身につけている本人の負の感情とか・・・
そういったものを四六時中吸収しているから。

言うなれば、24時間、365日休まず働き続けているということ。
人間だって、そんなふうに休み無しで働いていたら疲労困憊する。水晶だって例外ではない。
たまには休息させてあげる必要がある。

パワーストーンのお店で買ってきたものは、もうその時点で「かなり疲れている状態」にあると思う。
店内に陳列されていれば、不特定多数のお客さんが手に取るのは当たり前のこと。

そして、その水晶に触れた人達の「気」を吸収してしまう。
「良い気」も、「悪い気」も、すべて関係なく・・・である。

また直接触れなくても、お店には大勢の人達が出入りする。その分は言うまでもなく、加えてそのお店自体が持つものの影響も多分に受けている。

だから、良いものも、悪いものも吸収しているその水晶を、まっさらな「ゼロ」の状態にしてあげることが必要になってくる。それが「浄化」。

浄化の方法はいくつもあるけど、私自身がやっている方法はこれ。

①陶器の皿に粗塩を敷く。
②その上に水晶を置く。
③皿の上の水晶を覆うように、その上に粗塩を被せる(粗塩と粗塩で、水晶をサンドイッチする感じ)
④そのままの状態で一昼夜放置。
⑤塩の中から水晶を取り出し、水道水で付着した塩を洗い流す。
⑥水気を取って、装着

*浄化に使用した塩は、全部捨てること。(普通に流しやトイレに捨ててOK)

・・・といった感じ。

浄化した後の水晶は、素人目にもはっきりと違いが分かるくらい綺麗に、ピカピカになる。
パワーストーンのブレスレット等を毎日身につけている人ほど試してみてほしい。
その輝きの違いに、皆さんびっくりする。


それからしばらくして、件の夢にうなされる人からメールをいただいた。
例の水晶を浄化したところ、使用した粗塩がカチンカチンに岩のように固まっていたこと、洗い流した後の輝きが目を疑うほど美しかったこと、浄化して以来夢にうなされることはなくなったこと等が書いてあった。

水晶やその他のパワーストーンのアクセサリーを身につけている人ほど、その石の状態によく気を配ってあげてほしい。石からパワーをもらったり、守ってもらったり「もらうこと・受け取ること」ばかりに終始するのではなく、例えば浄化とか、自分からも石に「与えること」をするのを忘れないでほしいと思う。

石のパワーを「もらうこと」しか考えていない人は、結局のところ石を都合よく利用しているだけ。
石は「奴隷」ではない。そして、そんな心を石はちゃんと見抜いている。
そのあたりを心して、石と向き合っていただきたいと思う。
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過去と未来が繋がる場所で

 2008-10-13
旅に出る時は、荷物は最小限しか持たない。
一人で海外に行くことが多いので、旅慣れたせいかもしれない。

例えば、10日間の予定でアリゾナに滞在する場合も、トランクの片面しか使わない。
それも、その片面の3分の2程度のスペースで事足りる。パッキングも30分あれば十分だ。

以前サンフランシスコで、国内便に乗り換える際の荷物預けで「15年この仕事をしてるけど、こんな軽いトランクは初めて!」と航空会社のカウンタースタッフに目を丸くされた(笑)

現地に着いてからの予定は、ほぼ未定。
人と会うとか、そういったことは組み込んであるけど、あとはその日の気分次第。

自分の自由になる時間でも、特に観光スポット巡りやショッピングに出かけるわけでもなく、宿泊先のテラスのリクライニングチェアでごろごろしながら、日本から持ってきた本を読んでいたりする。

食事も、地元の人御用達のスーパーや、ホテルのスタッフに教えてもらった評判のデリで買った物で済ませたり。友人達曰く、「せっかく海外にいるのにもったいない!」確かにそうかもしれない。これじゃ日本にいる時と変わらない(笑)


多くの人は、旅を「新しい何かを得るためのもの・場所」という感覚で捉えていると思う。
だから「思い出満載、おみやげ満載」の状態で帰ってくる。

でも私の場合、少し違うようだ。
旅に出る度に、自分がどんどん「身軽」になっていくような感覚を、数年前から感じるようになった。精神的に楽というか、体感が軽いというか・・・

そして、ある時気づいた。
自分は「捨てるために」旅をする―ということを。

旅というのは、不思議なものだと思う。
現在であり、現実ではあるが、いつもと同じ日常ではない。「非日常的な空間」に身を置くことになる。

そしてその空間にいる間、仕事や人間関係や、日々の雑事に向けられているアンテナが、一斉に自分の内側に向かう。自分に集中する。だから自然と、いつもは日常にかまけてなおざりになっている自分の根本と向き合う時間ができる。

私の場合、どうもその時に、様々な「取捨選択」を自分の内側で行っているようだ。
「これだけは捨てられない」と思うものを、そこで選び出している。
そして選んだもの以外は、すっぱりと捨てる。

心を煩わせるものや状況が一切ないから、直観が研ぎ澄まされてくる。
決断に迷いはない。一瞬で答えが決まる。そうして得た答えに、一度として後悔したことはない。

その度に確信する。「今を、今の自分、今の自分の思いや考えを大切にしよう」「今の自分を信じよう、今の自分が出した答えを信じればいい」と。

そして身も心も軽くなって、自分の場所―「今ここ」に戻ってくる。
「これだけは捨てられない」というものだけを持って。

思い出を作ることだけが旅ではない。
たまには何か捨ててくる旅も悪くない。
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尽くす人

 2008-10-12
「人から好かれたい」と思うのは、人としてごく自然な感情だと思う。

人が自分に好意を持ってくれるのは、「自分は受け入れられた」という安心感をもたらす。そしてそれは、「自分はここに存在していいのだ」という、精神的な「お墨付き」「許可」を得たに等しい。

でも、「好かれたい」と思うことと、「好かれなければ」と思うことはまったく違う。
この部分を履き違えて捉えている人は、かなり多い。

そして、「相手を好きにならなければ」「嫌ってはいけない」と思い込んでいる人もいる。

でもその人達の根底にあるのは、実は「自分だけが、皆より先に幸せになってはいけない」というものだったりする。


彼らは、ある意味、「責任感」が強い。
自分自身だけでなく、自分の周囲の人達―家族や友人等―の心や状況の面にまでも責任を持とうとする。いや、むしろ「責任を持たなければならない」と、自らを追い込んでいる―と言ったほうが適切かもしれない。無理やりに人と関わろうとする。

相手が常にハッピーでいることに心を砕き、責任を負おうとする。そうなるといつも相手を優先することになってくるから、必然的に自分のことは後回し。その結果、「気がついたら自分だけ」―という状況になっていて呆然としたりする。

でも、実はその人達が一番恐れているのは「人から嫌われること」。

なぜなら自分だけが先に周りの人より幸せになってしまうと、そこから浮いてしまうから。
集団から「浮いた人」―「自分達とは違う人、異端児」は、社会では敬遠される傾向にある。

それが怖い。周りから浮いて敬遠されるのが、嫌われるのが怖いから、まず自分を犠牲にして人に尽くす。人を先に幸せにすることを優先する。

そしてこう思う。「自分がその人を嫌わなければ、相手も自分を嫌わないはずだ」。
だから「好きにならなければ」と、それを「義務化」して自分に課す。

だが、根底にあるのは「自分を受け入れてもらえないこと」に対する恐怖と、「自分がこうしなければ、相手からの好意や愛情を受けられないのではないか」という不安だ。

そして、どんどん「いい人」になっていく。時には自分の中に相反する感情が湧いてきたとしても、それを必死で打ち消そうとする。「そう思ってはいけない」と。

でもやがて、それが「爆発する時」はやって来る。「どうしていつも自分ばっかり!」


人から好かれようと、受け入れられようと装った姿は、本来の自分ではない。
ただ相手の都合や好みに合わせて作られた、カスタムメイドの人形のようなもの。
何よりも「装った姿」で得たものは、やはりそれに値したものでしかない。

人からの好意や愛情を得たいがために、その一心でやってきたことだから、それが報われなかった時に不平不満が出る。「これだけやってあげたのに」と。

そこにあるのは、相手が自分の期待に応えてくれなかったことに対する怒りや不満だけだ。

結局それは、相手からの好意や愛情を引き出すための、見返りを求めるためにやった行為であり、計算に過ぎない。

「自分がここまで尽くしたら、きっとお返しがある」、そういった勝手な期待と浅ましさから出たものに過ぎない。だから相手からの「お返し」がないと、爆発する。

相手は自分が期待されているなんて、まったく知らない。
ましてや自分が「お返し」をしなくてはならないなんて、考えたこともないだろう。

でも彼らはこう思う。「それくらい察するべきだ」

でも、自分が「そうしたい」と本心から思ってやったことなら、そんなことは思わないはず。

「尽くすこと」で何かを得ようとしているのなら、それは筋違い。
それは一見美しいことのように思えるが、実は自分を満たすことだけしか考えていない―というのが本当のところ。

「自分ばかり損をしている」「これだけやってあげたのに」「どうして自分の気持ちを察してくれない」―そういう思いが出てくるのであれば、自分の行ってきたことは「取引目的の行為」に過ぎなかったということだ。

一度尽くすのを止めてみたらいい。
本当の好意や愛情は、そういった何かの「代償行為」で得るものではないのだから。

何よりも、尽くすことに自分の存在価値があるのではない。
自分の価値を、そういったことで自分の外に見い出そうとしているうちは、「本物」には出会わない。

嫌われることを、受け入れられないことを恐れる必要はない。
素のままの、ありのままの自分でいたらいい。

ありままの自分で存在することは、真実と繋がっている。真実を引き寄せる。
そしてそこには「本物」が存在している。

だから恐れず、ありのままの自分で―。
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50対50の法則

 2008-10-11
例えば、Aさんという人物がいるとする。
そして、そのAさんを知っている100人が、ここに集まっているとしよう。

その100人に、こんな質問をしてみる。「Aさんのことをどう思いますか?好きですか?嫌いですか?」

そこには、「どちらでもない、普通」という答えは設定されていない。
「まあ嫌いではない」は「好き」に、「好きとは言えない」「苦手かも」は「嫌い」を選択してもらうという、完全な二者択一形式。

そして100人の回答の結果は、「好き」「嫌い」、ほぼ半々の割合になるそうだ。
大体その中の半分、50人がAさんを「好き」と答え、残りの半分の50人が「嫌い」と答える。

そして興味深いことに、これはどんな人にも当てはまると言われている。
多少の差はあるものの、ほぼ半々の割合となる。これが世に名高い「50対50の法則」。

つまり、1人の人物に対し、その人を知る2人の人間がいれば、必ずその中の1人は「好き」と答え、もう1人は「嫌い」と答えるという確率が、かなり高いということ。

雑誌等でよく、「好きな芸能人・嫌いな芸能人トップ10」というようなアンケート調査が行われる。
興味深いのは、「好きな芸能人」に名前が上がっている人が、同時に「嫌いな芸能人」にもランキングされていることがある。つまりここでも、「50対50の法則」が働いている。

同じ人物に対しての評価が、必ずしも全員一致するとは限らない―まさにそれを証明している。

「現代の聖母」と言われた、あのマザー・テレサでさえも、多くの人々から慕われ尊敬される一方、強い非難や批判も少なからず受けていた。


やはり自分が周りから好かれているかどうか、どう思われているのか―年齢や性別に関わらず、それを気にする人は多い。

気持ちは分かるが、でもそれは、ある意味「仕方のないこと」でもある。
自分が好意を持ったからといって、相手も同じように思ってくれるとは限らないし、その反対の場合もある。

特に仕事が最優先される社会人の場合、人の好き嫌いや相性云々等とは言ってられない。
同じ職場に性格的に合わない人がいることが、精神的なプレッシャーになっている人も少なくない。

「そういう人と、どう付き合っていけばいいんでしょうか?」という質問もよく出てくる。

単刀直入に言ってしまえば、「普通にしてたらいい」だけ。
社会人として、人として、礼節ある態度で「普通に」接していたらいい。

社会人としての、「最低限の常識」を以って接する―挨拶をきちんとして、話しかけられたら礼儀正しく相手の話を聴き、答えていたらそれでいい。
皆さん意外そうな顔で「それでいいんですか?」と言うが、それで十分。

どうしてそこで悩むかというと、その相手を無理矢理好きになろうとしているから。

「もういい歳した大人なんだから、そういったことに拘っていてはダメだ」と、無理矢理自分の感情を曲げようとするから辛くなる。

人間なんだから、好き嫌いや相性があって当たり前。年齢等も一切関係ない。
「嫌い=悪」ではない。ある意味それは仕方のないこと。

嫌いな人を愛せたら、この世に戦争というものは存在しない。
大体すべての人を愛するなんて、神様仏様の領域だ。

「いい歳をしてこんなことでグチグチ言っている自分は、人間として器が小さいのか」等と悩む必要もない。だってそれは「当たり前のこと」なんだから。

でも、同じ職場で仕事をする都合上、やはり居心地が良いのに越したことはない。
だから、一緒に同じ空間にいる勤務時間中、お互いが居心地良く過ごすために、社会人としての最低限の礼儀というか、気配りをしたらいいだけ。べつに相手を無理矢理好きになる必要はない。

仕事を離れれば、社内行事以外の接点はないはず。プライベートでも関わってくることはまずない。
だから「この人とは仕事上だけの、勤務時間内だけでの付き合いなんだから」と割り切ってしまう。
そしてその限られた時間内で、最低限の礼節をもって接していたらいいだけ。

大体職場には仕事をしに行くのであって、友達を見つけにいくのではない。
まあ全員と上手くやっていければそれに越したことはないが、全員と「仲良し」になる必要はない。

その人を無理に良く思おうとか、好きになろうということを止めて、「割り切った関係」を受け入れると、精神的にかなり楽になると思う。実際多くの人がその変化を体験している。

それまでのプレッシャーは、「大人になる」という意識を「間違った部分」に向けていたせい。
それを今から軌道修正したらいいだけのこと。そして、案外それは思っているより簡単だったりする。

何よりも、どんな人でも好かれるのも嫌われるのも、同じ「50対50」の割合なのだから、全員に好かれることはまずあり得ない。そう見える人でも、隠れた所に「アンチ」が存在している場合もある。

「人から好かれること=自分の価値」という思い込みを捨てたら、もっと身軽になる。
自分の価値を人の中に見い出そうとするのは、ちょっと筋が違う。
何よりも、「好かれること=理解されていること」ではない。

自分の内にあるものと、きちんと向き合っていけば、人の感情のような、そういった一時的で不確かなものに囚われたり、振り回されることはなくなるはずだ。

そしてもっと身軽になって、軽やかに歩いていこう。
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「普通」の定義

 2008-10-10
「普通」とは、「多くの人がそれを行っている割合が高い状態」だと思う。
でもそれは「正しい」「そのように考えるべき、そのようにあるべき」という意味ではない。

世の中の多くの人は、「普通」ということに拘る。
「人並みに」という言葉があるが、その表れだと思う。

特に、自分自身のポリシー―「自分はこう思う」「自分はこうありたい」というような「信念」のない人ほどそれに振り回されているような気がする。

なぜなら、その人の中に確固とした「軸」がないから。
照らし合わせるものが自分の中に存在しないから、どうしていいか分からない。
だから比較対象を自分の外に求める。

「他の人はどうなんだろう?」「こういう場合は、みんなどの答えを選択するんだろう?」

目に見えない部分、形を持たない思考に関して、特にその傾向が強くなる。

物事を選択・決断する時に一番大切なのは、「自分はどうしたいのか?」ということ。
自分の中から出てくるものを信頼したらいいだけだ。

でも「普通に拘る人」は違う。
まず考えるのは、「他の人はどう思っているんだろう?」ということ。

そして「他の人」の多くが考えていることと、自分のそれが異なった場合、途端に今までの考えを翻したりする。「本当はこうしたいけど、でもやっぱり・・・」という感じで。

結局のところ、自分に自信がないのだと思う。自分を信じていないということ。

その答えを出した自分を信じていないから、信じていない自分が出した答えだから、自信が持てない。

だから多数決に流される。「他の人と同じようにしていたらまず間違いはない」と。
それが自分にとって適切な答えなのかどうか、そんなことは気にならない。

むしろその人にとって一番大事なのは、答えがどうこうと言うよりも、「みんなと同じ」という「安心感」だから。だから自分以外の人の意向が気になる。


何年か前に「負け犬」という言葉が流行った。
30代以上・未婚・子なしの女性を指す言葉。

それ以来、男女の区別なく、その部分に拘る・・・というか、囚われる人が増えたように思う。

うちに来られる人でも、30代以上で未婚だったりすると、カウンセリング途中で、それに関する話が必ずと言っていいほど出てくる。

でもこちらが「結婚したい気持ちはあるんですか?」と聞くと、その大半の人は「いえ、べつに特にしたいとは思ってないんですよね。一人でいるのが好きだし、気楽だし」と言う。

「だったらしなくてもいいんじゃないですか?」と言うと、今度は「でもしたほうがいいような気がして・・・親も歳を取ってきたし、孫の顔を見せてあげたほうがいいのかなって」と返ってくる。

「じゃあ、したらいいじゃないですか」「いや、それほどしたいとは・・・」

・・・と、この繰り返し。

結局のところ、その本音は「世間一般の人が”普通に”している結婚をしていない自分は、どこか欠陥のある、『普通でない人、変わっている人』と思われるのではないか」ということを心配している部分にある。簡単に言ってしまえば「世間体」を気にしてのこと。

「人の噂も七十五日」という諺がある。
他人は、他人の人生だから、何でも好き勝手なことを言う。
言われた側はそれを忘れずに、長い間気にしていたりする場合もあるが、当の言った側は完全に忘れていることもある。所詮そんな程度。

自分の評価が気になるのは分かるが、人の言葉や考えを、いちいち気にする必要はない。
そこに囚われ続けていると、仕舞いにはどれが自分の考えなのかさえも分からなくなってくる。

自分の人生は自分のもの。
例え家族がいたとしても、基本的なそれは変わらない。
まず自分があって、家族がある。あくまでも優先順位は自分だ。

それは決して「自分勝手」ということではない。
まず自分の意見や考えを相手に伝えてみる。その上で、相手の意向等を取り入れて、お互いが折り合える部分を見つけていったらいいだけ。

「みんながやっていること」が自分にも良いとは限らない。合わない場合も多々ある。

「自分の中のみんなと違うところ」―それが「個性」だ。

「みんなと同じ」ということに拘り、囚われて、狭い幅の道を行くより、多少はみ出しても、多少険しくても、「自分だけの道」を行くほうが楽しいと思う。それが「自分の人生を生きる」ということ。

「人並み」から得られる安心感は、ほんの一瞬のものでしかない。

でも「自分で選んだ」という確固たる思いは、ずっと自分の中に存在し続ける。
人生を照らす灯りとなる。

目先の安心感に惑わされず、「自分だけの道」を行ったらいい。
迷ったら、悩んだら、まず自分自身にこう問いかけてみる。「どうしたいの?どうなりたいの?」と。

最初に出てきた答え、それが本当の答えだ。

ちなみに私は40代・バツイチ・子なし。
自分が選んだ道は、時に険しかったり、穴が開いていたり、物が落ちていたり、「通れるのかな?」と思う時もあるような結構ワイルドな道(笑)

世間の大半の人のものと比べても、かなーーり変わっている道だと思う。

でも、それが楽しい。
人がどう思っているか知らないが、自分が楽しいのだからそれでいいと思っている。

価値観なんて一瞬で翻ったりする。
今世間で「普通」と思っていることだって、20年先には違っているかもしれない。

そんなあやふやで不確かなものにしがみつき、囚われるのはやめて、自分自身の答え、自分自身の道を見つけることに目を向けていけばいい。ただそれだけだ。
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成功への鍵

 2008-10-09
日本人のノーベル賞受賞ラッシュが続いている。

物理学賞を受賞した、シカゴ大名誉教授 南部陽一郎氏(87歳)、エネルギー加速器研究機構名誉教授 小林誠高氏(64歳)、京都産業大学教授 益川敏英氏(68歳)。そして、化学賞受賞のボストン大名誉教授 下村 脩氏(80歳)―。

某ニュース番組で、受賞者の一人である益川氏の生中継のインタビューを偶然目にした。
10分にも満たない短いものだったが、その中で、あるコメンテーターが「一つの事を長く考え続けるための秘訣は?」という質問をした。
それに対し益川氏が、「それをおもしろいと思うこと」と即答されたのが、とても印象的だった。


宇宙誕生の謎を解く「小林・益川理論」をまとめた両氏は、共に京大理学部助手だった30代の頃から、36年もの月日をかけてこの研究に取り組んできた。

1972年当時、「物質の最小単位、素粒子(クオーク)は3種類しか存在しない」というのが通説だった。しかし両氏は「6種類存在する」という仮説を立て、その証明に取り組んできた。実際、残りの3種類も1994年までにすべて発見されている。

その当時の両氏をよく知る人は、「黒板に数式を書き合って議論を戦わせる2人は、まるで子供のように、実に楽しそうだった」と言っている。


結局、「そこ」にあると思うのだ。物事を成功、成就させる鍵は。

それを「おもしろい」と思う心、「それって何だろう?」と思う心、「その先には何があるんだろう?どうなっているんだろう?」と思う心、「よし、確かめてやろう、確かめてみたい」と思う心―。

「好奇心」と「探究心」。

そして、その「おもしろい」「好き」「それは何だろう?」「確かめたい」というものの積み重ねが、数十年に及ぶ研究を継続できる力、「集中力」となる。「情熱」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。

小林、益山両氏だけに限らず、今回の受賞者各氏、そしてその他のあらゆる分野、あらゆる仕事に永年携わり、真摯に取り組んでいる人々に共通しているのは、その部分だと思う。


今現在、多くの人はいろいろな意味で「成功」に拘る。社会的にも、人生においても。

ある人にとっての「成功」は、「財を成すこと」であったり、またある人には、「社会的に高い立場や名声を得ること」だったり、世間でよく言わている「セレブ婚」に自分が乗ることだったり―。

何かこう、「有利な位置」に自分が立つ、それを手に入れる=「成功」と思っている風潮がある。
それも他人から見ても分かりやすい、条件や状況の面だけで測っている節が、唯物論的なものに偏っている傾向にあるような気がする。むしろ、それはただの「欲」や「欲求」。

確かに「成功」という言葉には、「目的を達成すること」「地位や富を得ること」という意味がある。
しかし「功」の字には、「成し遂げた仕事、その結果」「経験・仕事等の蓄積」という意味も含まれている。

今回ノーベル賞を受賞した各氏のインタビューの様子をテレビで見たが、周囲の熱狂振りを尻目に、皆さん謙虚で淡々とした面持ちだった。永年の研究成果が認められたことに対する喜びはひとしおだと思うが、各氏にしてみれば、ある意味今回のことは、大きな「おまけ」に過ぎないのではないだろうか。

自分の好奇心や探究心に従い、ひたすら進み続けてきた結果、ここに辿り着いただけ―というような。そして今回の受賞は、「思いがけないプレゼント」―。だからこそ、あの淡々とした謙虚さなのだと思う。

「上手に」「真面目に」「一生懸命に」・・・多分そういった形容詞の言葉は、今まで各氏が経てきたプロセスにはなかったと思う。ただ自分の思いや信念に従い、それを継続してきただけ。

今自分がいる場所で、今目の前にある事に、全力で取り組んできただけ。そこには人の目とか、評判とか、そんなものも存在しなかっただろう。

「今を生きる」―まさにそれを、身をもって行ってきた人達だと思う。


以前、棋士の羽生善治氏が某テレビ番組の中で言っていた。
「才能とは、一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力」と。

そしてその情熱や努力を継続できる力は、やがて大きなものへと繋がっていく。

成功というものは、アファメーションの言葉やナントカヒーリングや、ナントカに祈って引き寄せるとか、そんなものでもたらされるものではない。それは自分の「核」にあるものを信じ、努力し、行動し、継続して、自分自身で掴み取るものだ。

今回の各氏の受賞は、そのことを知らしめてくれた。

成功への鍵、それは自分の中にある。
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気配リノススメ

 2008-10-08
つい先日、某テレビ番組で「江戸しぐさ」について取り上げていた。

【江戸しぐさ】
日本における江戸期の商人の生活哲学・商人道。
しぐさは仕草ではなく思草と表記する。もともと商人(あきんど)しぐさ、繁盛しぐさといわれ多岐にわたる項目が口伝により受け継がれたという。

【主な江戸しぐさ】
往来しぐさ・傘かしげ(雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違う)

こぶし腰浮かせ(乗合船で後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作る)

肩引き(道を歩いて、人とすれ違う時、左肩を路肩に寄せて歩くこと)

三脱の教え・肩書きで人を見ることなかれ

時泥棒・断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪にあたる。

うかつあやまり:たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。

(ウィキペディアより)

なんでも、小中学校の道徳の時間でも取り上げられる動きが現在広がっているとか・・・
学校の授業でわざわざ取り上げられるなんて、今の日本は「当たり前のこと」が当たり前にできない風潮なんだということをつくづく思った。

確かに街中至る所で、そういった光景に出くわすことが増えた気がする。

地下鉄の中で、お互いの足を踏んだ踏まないで口論している人達
狭い通りですれ違う時、こちらが道を譲っても知らん顔で通り過ぎていく人
道端に平気でタバコの吸殻や紙くずを捨てていく人・・・

年齢や性別等は一切関係ないと思う。
年配の人でもそういうことを平気でする人もいるし、10代でも、きちんとしている人は多い。

結局のところ、鈍感というか、「無神経」なのだと思う。
そして「自分以外の人間、自分のいる環境以外はどうでもいい」という「無関心さ」の表れでもあると。

その割合、「自分以外のことに無神経で無関心な人」が増加した結果が、今の世の中の状況だと。
・・・ある意味当然の結果なのかもしれない。

私達の世代、いわゆる「アラフォー」世代は、祖父母との同居の経験がある人が比較的多い世代だと思う。友達の誰かの家に遊びに行っても、おじいちゃんやおばあちゃんがいる家が多かった。

私自身、母方の祖母との同居の経験がある。
母が仕事を持っていたこともあって、普段の家事は祖母が取り仕切っていた。

祖母は大正生まれ。
特に厳しく躾けられたという覚えはないが、日常生活の中で、自然といろいろなことを教わっていたのかもしれない。

今でも時々思い出すのは、「立つより返事」という言葉。
呼ばれた時は、まず何よりも真っ先に返事をしなさい―ということ。

これは今でも思わぬところで出たりする。
銀行等で名前を呼ばれたりすると、思わず「はい!」と大きな声で返事をして、周りにいる人をびっくりさせたりとか・・・注意して見ていると、返事をする人がほとんどいないことに、私のほうが驚いた。

その他にも、「江戸しぐさ」と相当することは、「ごく当たり前のこと」として日常にあった。
「(人から)教えられた」というよりも、「(自分で)自然に覚えていった」という感覚だと思う。
「こういう時はこうするんだな」というように。

例えばドアを閉める時は、後ろに人がいないか必ず確かめる。いた場合、その人のためにドアを押さえておく。エレベーターに自分が最初に乗った時は、後の人のために「開」のボタンを押して、目的の階を聞いてあげる等々。

でも最近、そういった他人の厚意、気配りに対して、何の反応も示さない人がいる。
お礼を言ってほしいというのではなく、会釈のひとつもなく無言で平然としている人を見ると、「なんだかなー」と思う時がある。

セラピストの仕事をしていると、必然的に人を観察する癖がつく。
多分普通に企業で仕事をしている人に比べて、人と会うことが多いせいだと思うが、そういった観察眼のようなものは年々鋭くなっていくような気がする。

ちょっとした一瞬のその人の仕草、目の動きや表情、言葉、口調・・・そういった本人さえ意識していない些細なところに、その人の全人格、「核」のようなものが表れたりする。

本当に僅かな、些細なものなのだが、それを目にした時に感じたことは、結局本質を突いている。

つまり、そういった小さなことにもその人の本質が表れるということ。

街中で見知らぬ人のそういった気配りを無視する人は、多分家族や友人・知人等にも同じことをしている可能性が高い。

「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、そういった人の周りには似たようなタイプの人が集まっているから不思議である。

いくら上品に振舞って、高価な物を身につけていたとしても、日常の気配りを疎かにしている人は所詮その程度。外見だけ立派で、中身はスカスカの「張りぼて」に過ぎない。

「気配り」とは、そんな大袈裟なものでなくていい。
自分がされたら嬉しいと思えることを、他の人にするだけ。

例えば、少し遅れて入っていった自分の靴音を聞いて、先に乗っていた人がエレベーターを待たせてくれていたら・・・

キャベツ1個だけを持ってスーパーのレジで順番待ちをしていた時、前の人が「私のほうが(買った物が)多いから、お先にどうぞ」と順番を譲ってくれたら・・・

小さなことかもしれないけど、とてもその厚意を嬉しく感じないだろうか?

ほんの数秒のやり取りで、その場が、心が和んだりする。
一人ひとりのそういった心の有り様が、世の中の無関心な波動を変えていくかもしれない。

だから今こそ、気配リノススメ―。
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「自信がない」ということを言い訳にする人

 2008-10-07
「自分に自信が持てない」「~することに自信がない」「できるかどうか自信がない」

こんなふうに言う人は、大体において「勘違い」をしていることが多い。

「自信」というものは、誰かから励まされたりすることによって生まれるものであったり、いつの間にか自然と身についているもの―そんなふうに思っている。

外部から、「自分の外」からもたらされるもの―というように、あくまでも「受け身」の姿勢で、自分がそうなる時をひたすら待ち続けている・・・そんな感じ。


「自信がないと言う人達」と話していると、そこには大きな共通点がある。
それは「自分自身を信じていない」ということ。

自分がそれをできる人間であることを、自分がその価値に値する人間であることを、自分の信念や考えが正しいということを、その人達はまったく信じてない。

信頼していない自分が出した答え、信頼していない自分が考えたことだから、「正しいわけがない」「信用できない」―そう思っている。

すべてにおいてそれが前提になっているから、その人独自の「スタイル」がどこにも感じられない。
生き方においても、考え方においても。

他の人―「自信がある(ように見える)人」の考えや方法をパッチワークで繋ぎ合わせただけだから。
だから同じ言葉や表現を取っても、どこか実感が伴わないものになる。ただの受け売りにしか感じられない。

なぜなら、それはその人が実感して得たものではないから。絵空事の域を出ないものになる。
どんなに上手に真似をしても、そこに実感や真実がなければ、所詮真似は真似でしかない。ただの「コピー」。

自分の考えを、自分の言葉で表すことを恐れて、人の考えや方法に便乗するのも、自分を信じていないから。

だからやることも中途半端になる。自分がやると決めたことなのに、「こんな自分ができるわけがない」と信じているから、実現に向けての行動も、どこか気の抜けたものになる。最低限今やるべきことさえやっていない。

やるべきことをきちんとしていなければ、目標が実現しなくて当たり前。
でもそういう人は、それが実現しなかった理由、できなかった理由を「自信がない」せいにする。
そして呟く。「ほら、やっぱりね」と。


「自信がない人」は、気づいていない。自分の「信じる力」を正反対の方向に使っていることを。
「自分はこれを成し遂げられない人間だ」「自分は価値のない人間だ」そう思うことに、その力を使っている。

精神世界でも「自分が信じることが現実になる」、そう言っている。
それはポジティブな面だけに作用するものではない。
「自分の目標は実現しない」「自分は無価値な人間」そう信じていれば、それが実現する。

つまり、今の自分を作り上げたのは、他ならぬ自分自身。

何よりも、そういった人ほど「自信」という言葉に拘る。
自信があるとかないとか、目標や夢を実現することに、そんなことは必要ない。

大体何か未知のことを始める前から、自信満々だったらおかしい。

「自信がある人(あるように見える人)」は、そんなことはちっとも考えてない。多少の不安はあるが、「自信云々」の部分に拘っていることはまずない。

そういった人達は「自信がない」と言って悩んでいる暇があったら行動する。「今やるべきことは?次は何をしたらいいか?」そういったことを考えている。

なぜならその人達は「本気」だから。「今やるべきことをきちんとやっていれば、必ず実現する。そして自分はやるべきことをちゃんとできる人間だ」ということを信じている。

夢を叶えるためのナントカの言葉とか、おまじないとか、その人達には必要ない。

大体どうしてまだ実現してもないことに対して「私の夢が実現したことに感謝します」と、先取りで感謝の言葉を唱える必要があるのか?

もし「自分を信じている人達」が、あえてそういった言葉を唱えるのであればこう言うだろう。
「今私がこうやって夢に向かって努力できる環境を与えてくださったことに感謝します」

先取りの感謝の言葉は浅ましい。ご利益をもらう前提での言葉は、ある意味「強制」だ。
「それをくれたら感謝してあげる」という「取引」。そこにあるのは感謝どころか「脅迫」に近いもの。


時には愚痴をこぼしてもいい。人間なんだから、そういう時もあって当たり前。
ただ、物事には順序があるように、愚痴をこぼすのにも順序がある。

「自信がない」は、やるべきことをちゃんとやって、努力した上で言う言葉だ。
もっとも、そのプロセス(経験)を経ていれば、その言葉はもう出ないはずだし、「自信がある・ない」等ということさえ、多分気にならなくなっているはずだ。経験も自信をもたらす。


「自信がない」は「自分を信じていない」ということ。
その言葉を発するということは、「私、自分を信じてないんです。自分を信用できないんです」と、世間に吹聴しているようなものだ。

自分を信じられない者は、自分以外の者も信じることはできない。
つまり、「私は誰も信用してません」と言っているのと同じことでもある。


自分の発したものは、必ず自分に返ってくる。
自分を信じていなければ、やはりそれに値するものが返ってくるだろう。


自信のあるなしを言い訳にしてはいけない。それは完全な筋違い。
なぜなら、すべては自分自身の中に存在しているものから始まっているのだから。
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魂は死なない―ガリレオとニュートンとアインシュタインと

 2008-10-06
「地動説」を打ち立てたガリレオ・ガリレイ、「万有引力」を発見したニュートン、「一般相対性理論」でノーベル物理学賞を受賞したアインシュタイン・・・時代も生まれた国もまったく違うこの3人、実は同じひとつの魂が転生したものである―という説がある。

ある魂が、ガリレオという名でイタリアに生きた時代に「地動説」を打ち立てた。
そしてその肉体が死という形で滅びた後、今度はイギリスのニュートンという人物に転生して「万有引力」を発見して生を終えた。ニュートンの死後、その魂はユダヤ系ドイツ人のアインシュタインという物理学者に生まれ変わり、「相対性理論」を証明した―。

簡単に言ってしまえば、姿かたちこそ違うが、その「中味」はまったく一緒・・・ということ。
1人の役者が、衣装やメイクを変えて、3役をこなす―と言ったら分かりやすいだろうか。

その「1人の役者」が「魂」であり、その魂の演じたそれぞれ3つの役柄が、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインということ。3つの役柄をこなした役者は、同一人物。

一見すると荒唐無稽な説かもしれない。
だがノーベル賞を受賞した時、アインシュタインはこう述べている。

「この物理法則は有史以前の人類が既に知っていたことであり、私はその記憶に目覚めたにすぎないのであろう」

ガリレオとニュートン、それぞれの発見がなければ、アインシュタインの相対性理論は成り立たない。
その理論は、2つの発見が基礎となって構築されている。

あの言葉を、アインシュタインがどんな意味を込めて言ったのかはわからない。
しかし、もし彼が「輪廻転生」という観点から言っているのであれば、すべて腑に落ちる。

同じひとつの魂が、時を経て、段階的に、相対性理論を完成させた―ということだと思う。
もしかしたら、理論を完成させることは、その魂が持ち越してきた「課題」だったのかもしれない。


過去生の才能は、往々にして持ち越される時がある。それは特に有名な人物に限ったことではない。

例えば、特に誰が教えたわけでもなく、そういった才能が開花するような環境が与えられているわけでもなく、近い身内にも似たような才能を持った人間がいるわけでもないのに、ある分野で秀でた能力を発揮する人がいる。

周りの人間は首を捻る。「一体誰に似たんだ」と。それこそが過去生から持ち越している「才能」だったりする。
モーツァルトが3歳で楽器を弾きこなし、作曲さえ行ったのは、この「過去生から持ち越した才能」故だとも言われている。

過去生で極めたこと、好きだったこと、日常で手がけていたこと―必ずしも全部とは言えないが、その部分が現在の才能や趣味嗜好に関わっていることが多いようだ。

例えば、過去生で画家だった人が、現在も美術に関わる仕事や勉強をしていたり、寺の修行僧だった過去生を持つ人は、寺巡りが趣味だとか。フランス革命の時代に貴族として生を送った時代がある人は、ロココ朝テイストの物に強い愛着を覚えたり・・・自分でも気づかなかったような部分に反映されていたりする。

想像している以上に、過去生からの影響は大きい。
そして、それが積み重なった結果、過去生の集合体が「今の自分」なのだ。


うちのサロンのすぐ近くに、小さな公園がある。
そこには桜の木が何本か植えてあって、毎年春になると見事な花を咲かせる。

桜の花が咲くと、私はいつもその木の真下に行って花を眺める。
そしてその度に思う。「生まれ変わりってこういうものかもしれないな」と。

木の幹は「魂」、花は「人生」。

同じ一本の木の、違う枝に、毎年違う花が咲く―同じひとつの魂が、毎回違う時代に生まれ変わり、違う名前で、違う容姿で生まれ変わる。そしてその肉体が滅びた後、また違う時代の、違う場所に、違う名前と姿で・・・ということを繰り返す。それと同じことだと思うのだ。

ひょっとしたら、ガリレオであり、ニュートンであり、アインシュタインであったあの魂は、今別の体に宿っているかもしれない。前の3つの時代の記憶を、深い意識の中に抱えて。

花は散っても、木は残る。肉体は滅んでも、魂は生き続ける。

魂は死なない。永遠に―。

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「ヒプノセラピスト」という仕事

 2008-10-05
「どうしてヒプノセラピストになったんですか?」ということを、よく聞かれる。

答えは「やりたかったから」。本当にそれだけの理由。
人生で初めて受けた過去生回帰(前世療法)に、ものすごい衝撃を受けたから。

ある人との間に、ある出来事が起こって、半年近く茫然自失の状態だった。
どんな人と話しても、どんな本を読んでも、解決のヒントは見つからない。

今でもあの半年間の記憶が一切ない。まったく思い出せないというか、覚えていないのだ。

当時のスケジュール帳は今でも残っているが、そこに書かれてある予定、例えば「○月○日○時、○○さんと打ち合わせ」「○月○日、○○さんの原稿〆切」といった重要な内容なのに、自分が実際にその通りに行動したのかも記憶にない。(後に確認してみたが、ちゃんと行動していたらしい)

それだけショックが強かったということだと思う。
そんな時、一度読んで以来、手に取ることのなかったワイス博士の「前世療法」の本を、本棚の片隅に見つけた。もう内容も完全に忘れていたのだが、何気なくページを捲っているうちに背筋を何かが走った。

「私に必要なのは、ひょっとしたらこれかもしれない」

その前世療法のセッションで、衝撃的な体験をした。「この仕事すごい!私この仕事をやろう!」
帰り道で、すでにそう決めていた。そして2ヵ月後にはスクールに在籍、そしてセラピストになった。

「自分にできるだろうか?」そんなことは一切頭になかった。ただ「やる!」それだけ。

そんな中で始めたことだから、本当にクライアントの人には申し訳ないのだが、「人を助けたい、救いたい」「人の役に立ちたい」なんて一度も思ったこともない。それは今もまったく変わっていない。

「立派なお仕事ですね」「なかなかできるものではないですよ」と言ってくださる人も多いのだが、逆に恐縮してしまう。自分がやりたいからやっているだけのことであって、人様から褒めていただくような、そんな立派な心がけから始まったものではないから。

自分のやった仕事が、結果的にクライアント自身の気づきや学びに繋がっただけ。
セッションの効果も、クライアントの人達からいただく感謝の言葉も、あくまでも「おまけ」に過ぎない。

だから、すごく無責任かもしれないが、自分が「やりたくない」と思ったら、すぐに辞めると思う。
多分次の日にはハローワークに行っている。

自分が「やりたい」と思って始めた仕事を、気持ちが変わったまま、嫌々続けるのは自分の本意ではないから。大体クライアントの人に大しても失礼だ。

私がセラピーを受ける側だったら、自分の仕事に対して「やる気がない」等とほざいている、テンションも仕事に対する思いも干上がったセラピストのセッションなんか受けたくない。

でも、幸せなことに、私は現在もセラピストを続けている。
正直、今まで「やめてやる!」と本気で思ったことは2回だけある。実際にコンビニで「とらば~ゆ」も買った(笑)


このセラピストという仕事、特にヒプノセラピストの仕事は一筋縄ではいかない。
「過去生なり、潜在意識なり、催眠状態にしてそこまで誘導していったらいいだけでしょ?」と思っている人がいる。

現実に「まさに催眠誘導だけ」という内容のセッションを行っているセラピストも多い。
(「はじめまして。こんにちは」の初対面の挨拶からセッション終了まで、90分間しかかからないセッションをするところもあるそうだ。その「早技」、一度体験してみたいものだ)

正直、そこまでだったら誰でもできる。中学生や高校生だって、訓練を積めばできること。素人仕事で十分事足りる。

だが、ヒプノセラピストの仕事はここからだ。
どうしたらクライアントの問題を解決できるか、どこにその鍵が隠されているのか―そこに辿り着かなければプロの仕事ではない。

カウンセリングの中で、クライアントが遣う言葉、表現、表情や目の動き、仕草、口調等・・・そういったことを、自分の頭の中にあるカルテと照合していく。話の内容は一貫しているか、論理に破綻はないか・・・それもクライアントと会話を交わしながら、行っていく。全神経はクライアントに向けられているが、それと同時に頭の中もフル回転している。

相手には、カウンセリングであるというこさえ意識させないくらい、それは自然に行われる。
そして、自分にとって必要且つほしい情報を得るために、的確な質問をしなくてはならない。
「ただ相手の話を聞いている」だけでは、それはカウンセリングと言わない。

何よりも、セッションをどんな展開へと持っていくのか、そのためのヒントを得る貴重な部分だ。
そして、セッション内で使用する、そのクライアントに最も適した言葉や表現、暗示、誘導方法等の詳細が、ここで決定される。もちろんこの間、クライアントとの間に信頼関係も築かなければならない。

そして催眠暗示誘導へ。

誘導中も、気は抜けない。予想外のことが起こるのは日常茶飯事だから。
どこに導けば、クライアント自らその問題の核心に辿り着けるか、この後どんな展開に持っていくのか―その判断は、一瞬で下さなければならない。私の場合、2秒以内にそれを行うようにしている。

その間、必要と判断すれば、さまざまな心理療法のテクニックを始め、その他の対応を、どんどん即興で取り入れていく。ある意味セッションは生放送であり、ライブでもある。大まかなシナリオはあるが、その通りに進むことはまずない。ハプニング続出、アドリブの連続は当たり前。

そしてその後の事後カウンセリングでは、クライアントがセッションから受け取ったものを一緒に振り返り、すり合わせていく。心理学的な見地からもその内容の詳細な解説ができなければ、意味がない。

なぜこうだったのか、どこにその問題があったのか等、きちんと論理立てて、セッションの内容と併せて、クライアントの疑問にも応えていく。そして最終的にクライアントが納得して、そこで初めてセッションと言える。

・・・ざっとこれが、ヒプノセラピストの仕事。

心理学はもちろん、哲学、宗教学、精神医学、精神世界全般等・・・ありとあらゆる分野の知識を学ぶことが必要になってくる。「これでOK」というラインがないので、ある意味毎日が勉強だ。

自分のセッションに満足した時点で、セラピストはそこで終わる。

ゴールのない道を、ひたすら努力し続けながら走っていくようなものだと思う。そこには導いてくれるコーチはいない。すべてが自分にかかっている。


うちにはセラピスト志望の人もやって来る。時には同業者の「偵察」もある。
資格取得のためにスクールに在学中の人もいれば、その道に踏み出すかどうかを迷っている人もいる。セラピストを目指す理由もきっかけも、それぞれ違う。

「人の話を聞くのが好きだから向いてると思って」「人に向いてるって言われたから」「人の役に立ちたいから」・・・等々。

それが良いとか悪いとかではなく、そういった理由でセラピストを目指すと、後々苦しくなるかもしれない。なぜならすべての軸が、自分の外にあるから。

それでは、人の話を聞くのが嫌になったらセラピストを辞めるのか、
それでは、人から向いていないと言われたら、セラピストを辞めるのか、
それでは、人の役に立たないと思ったら、セラピストを辞めるのか・・・

極端な話かもしれないが、でも結局はそういうことなのだ。
実際「自分の外ベース」の理由の人は、どんどん辞めていく。

この仕事は1年に100人が起業したら、翌年80人が辞めていく。ひょっとしたらそれ以上かもしれない。私の周りの辞めていった人達全員の共通点は、動機が「人の役に立ちたい」「人を救いたい、助けたい」というものだった。

この仕事はストレスも、プレッシャーも多い。時には相手から罵詈雑言を浴びることもある。心身共に調子を崩す人も少なくない。

「動機が自分の外ベース」の人達が、そういったスランプに陥るとどうなるか―
「人を助けたい」が「助けてやってる」に変わる。そしてそれが最終的に「やらされてる」になる。

いろいろな意味で疲れ果てて辞めていく―これが現状。

クライアントは全力で助けを求めて縋りついてくる。その重みと、そこから来るプレッシャーに耐えるには、自分の中に確固とした何かがなくてはならない。そうでなければ務まらない。

それはこの仕事だけでなく、どんな仕事にも当てはまる。
でもこの仕事ほど、それを必要とし、それが支えとなるものはないと思う。

セラピスト自身の「信念」が、セッションに反映される。

その部分がぼやけたセラピストのセッションは、核心がぼやけたものに・・・
それがないセラピストのセッションは、筋の通っていないグニャグニャで訳のわからないものに・・・
それが偏ったセラピストのセッションは、偏ったものになるだろう。

自分のすべてが映し出されることへの覚悟を持って、仕事に臨むことが要求される。それがこの仕事。

セラピストには誰でもなれる。でもセラピストであり続けることは難しい。

多分、私はまだ当分はこの仕事を続けていくと思う。なぜなら「まだやりたいから」。ただそれだけ。
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過去生が教えてくれるもの

 2008-10-04
これは「過去生が存在する」という前提での話だが、どんな人にも、少なくとも80個の過去生があると言われている。つまり、少なくとも80回くらいは生まれ変わっているということ。

でも、人によったら今の人生が800回目の転生かもしれないし、2000回目かもしれない。
しかし最低ラインは80回らしい。

現在自分の周りの近い関係の人―例えば家族、友人等は、過去生でも一緒だったことが多い傾向にあるようだ。すべての過去生で一緒だったかどうかは分からないが、同じ時代を生き、そこでも現在のように、何らかの形で関わりがあった・・・という比率がかなり高い。

例えば、現在の夫が、ある過去生では自分の母親だったり。妻が、別の時代では自分の息子だったり。自分の娘が、その昔自分の婚約者の男性だった・・・という場合もある。

(現在女性だからといって、過去生もずっと女性だったというわけではない。それは男性も同じ。
ある時代は男性として生き、別の時代は女性・・・というように、男女両方の性別を経験してくる)

しかしそのすべての関係は、必ずしも「近しく、親密なもの」とは限らない。
現在親子でも、ある過去生では憎み合う敵同士の間柄・・・というような、別の意味で濃密で、因縁深いものもある。

そして、時代・国・性別・容姿・関係等も今とまったく違うその過去生において、自分と相手に共通の学びのテーマというものがある。「研究課題」と言ったら実感が湧きやすいかもしれない。その課題は、肉体を持って生まれる前、魂の状態の時に、お互いの合意の上で決定される。

その課題を仕上げることを目標として、その人生を生きていく。

仕上げることができた時もあれば、肉体の死等のやむを得ない理由で、それを途中であきらめなくてはならなかった時もある。かと思えば、まったく課題に手をつけなかった―ということも当然ある。

でも大体において、今生でまた、親子、配偶者等の近い関係として出会った理由は、「過去生でやり残した、手をつけなかったあの課題にまた一緒に取り組もうね。この人生で仕上げようね」というところにあるようだ。

そしてその課題は、相手の中の、「自分が苦手で嫌いなところ、反発を覚えるようなところ」等の中に設定してあることが多い。相手にとってもそれは同様。

例えばパートナーを始め、家族や友人、知人に対して「カチン」とくるところ、「なんであなたはいつもそうなのよ!」と苛ただしさ等の感情を覚える部分に、自分自身の課題、その相手との共通の課題が隠されている場合が多い。

もしくはいつも同じことで言い争いになったりする場合、その時の状況・相手や自分の取る反応・湧き上がってくる感情の中に、そのヒントが存在することもある。

人によったら、「何でそんな面倒くさいことをするんですか?!」と不満の声が上げる。

でも、その面倒くさい環境の中に、やるべき課題を設定したのは「自分自身」だ。
誰に指示されたのでも、強要されたのでもない。自らの魂が「こうしよう」と、選択した結果。


肉体を持つ前の魂は、「チャレンジャー」。
小学校に上がる直前の、子供のようなもの。

入学のために買ってもらった、まだ何も入っていない空っぽのランドセルを背負って、ウキウキと家中を歩き回る。そこには学校という「新しい環境」に対する期待しかない。

新しい友達や先生、新しく勉強すること・・・そういったものすべてが楽しそうに思えて仕方ない。
何でも体験してみたくて、ワクワクしている―そんな状態。

だから、「次に肉体を持って生まれたら、こんなことをしよう。あんなこともしてみよう」といった感じで、手当り次第に次の人生での課題を選んでいく。そうすることで、空っぽのランドセルがどんどん重くなっていく。でもそのことさえ気にならず、むしろ嬉々として、目いっぱい詰め込んでいく。

「前の人生ではお金にも恵まれて、周りの人にも愛されてすごく良い人生だったなー。でも何でも順調に行き過ぎて、刺激がなくてつまらなかった・・・

それじゃ何をやっても上手くいかなくて、孤独な人生ってどんな感じなんだろう?それってなんか面白そうかも・・・

決めた!今度は、お金もなくて、理解して受け入れてくれる人もいなくて、やる事なす事うまくいかないっていう人生を送ってみる!そして、そこから物事が上手くいって、お金や人にも恵まれるって、どんなに幸せなことか実感することを学ぶ・・・っていうことを経験しよう」

と、こんな感じ。

同様に、それぞれの相手との間にも、そういった感じで「課題」を取り決めていく。

「私ね、『人から裏切られる』ってどういうものか経験してみたいの。前の人生では、あなたも含めてみんな優しかったから、それがどういうものか分からない。だから私を裏切る役目をしてくれない?」

「いいよ。それじゃ次の人生では、こういう関係で、こんな出来事が起こって、そこでボクがこんなことをして裏切る・・・っていうのはどうかな?」

「それいいかも!引き受けてくれてありがとう。じゃあお願いね」「うん、わかった」

・・・と、こんな感じ。

「えー!?」と半信半疑の人もいるが、実際に過去生回帰をしてみると、皆さん心からそれを納得する。「全部自分の魂が選んだ結果」ということを過去生を通じて確認するようだ。確認と言うよりも、むしろ「確信」に近い。

なぜ身近な人との間に、重要な課題を設定するのか?

それは近い関係のほうが、より課題に向き合うことができるから。
近い関係であればあるほど、それに向き合わざるを得ない状況が出来上がる。常に課題が目の前にあるという状態。つまり、課題にとりかかるための最適の環境というわけ。

でも、それも全部自分の魂が決めたこと。
いくら顕在意識(心)で「イヤだ」と思っていても、潜在意識(魂)ではすべて納得している。
「よし、計画通り」と。むしろ魂レベルでは、「頼んだとおりにしてくれてありがとう」と、相手に感謝さえしていることさえあったりする。

もちろん、その課題をスルーすることも全然「あり」。手をつけなくても構わない。
でも、来世というものが存在するのであれば、スルーした分は必ず次に持ち越されると思う。
結局「いつやるのか」の違いだけ。

だから今、こうしてまた出会っている。課題に取り組むチャンスを、また与えられたということ。
何よりも、また肉体を持ってこの世に生まれ変わることを選択したのは自分自身。
課題に取り組むことを決めたのは、他ならぬ自分なのだから。

人生において無意味なものは何ひとつない。
そして、自分の一番身近なところにそれは存在している。

目を背けることなく、避けることなく、あえて相手の中のその部分と向き合ってみてほしい。

宝物は灰の中に隠れている。
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自己啓発のナンダソリャ2「受け入れる」

 2008-10-03
自己啓発セミナーや関連本でよく言われている「すべてを受け入れましょう」という言葉。
「物事、相手、そして自分自身を、あるがままの状態(姿)で受け入れる」ということ。

「受け入れる」と言っても、実際にはそう簡単にはいかない。
大半の人が躓くのは、実はこのポイント。

講師や本は、何度も「そのままのあなたを受け入れたらいいんです」と繰り返すけど、そもそも「受け入れる」とはどういうものか、どうやっていいのか分からないから、余計混乱してくる。
挙げ句、それを理解できない自分、実際にできない自分に嫌悪感を覚える・・・というのが常。

「受け入れる」とはどういうことか?

【受け入れる】
①収め入れる。「外国文化を―・れる」
②引き受けて面倒を見る。迎え入れる。「亡命者を―・れる」
③人の言うことを承認する。「要求を―・れる」

(広辞苑より)

要は、「それを自分の中に招き入れて、自分の一部にする」ということだと思う。
これは自分が好ましく思っていることや人であれば、そんなに難しくはないと思う。

でも自己啓発は、「自分が嫌いなことや、嫌いな人にも同様のことをしろ」と言う。
そうなってくると勝手は違う。抵抗を感じる人がほとんどだと思う。

でも、抵抗を感じて当然。
なぜなら自己啓発で言っている「受け入れる」ということは「好きになれ」ということだから。
それも「無理矢理に」という言葉が付いてくる。

「嫌いなものを好きになれ」と強要されれば、誰だって反発する。
好き嫌いというものは理屈ではない。生理的に、感情的に・・・本能から湧いてくるものはコントロールしようがない。


もともと自己啓発の発祥は欧米諸国。だからすべてその国の人々の思考・思想・言語・文化等を前提として作られ、設定されている。

現在の日本の自己啓発の大半は、それを「日本向けにアレンジしたもの」が浸透したもの。
テキスト等は日本語に翻訳されてはいるが、その「ベース」は変わっていない。

だから、どうしてもいろいろと「無理」が出てくる。
そのひとつが「言葉」。「翻訳の拙さ」と言ってもいいと思う。

その代表が、「受け入れる」という訳語を充てたこと。

英語圏の人は、「accept」という言葉を、日常的によく使用する。
日本語に翻訳すると、確かに「快く受け取る、受理する、受け入れる、容認する」という意味になる。

しかし一方で、この言葉には「(事態・運命等に)やむなく服する」という意味もあるのだ。

日本の自己啓発セミナーでは、「受け入れること」を「喜んで好きになれ」という意味で捉え、それを強いる。「快く、心から喜んで好きにならなくてはいけない」と。
「accept」の持つ、「陽の面」だけにしか焦点を当ててない。

光が強ければ、その分影も濃くなる。
それと同じで、プラス面ばかりを強調していれば、マイナス面がより一層引き立ってくるのは当然のことだ。

何かを、誰かを受けれるということは、綺麗ごとだけではいかないこともある。
「仕方なく、やむなく」といった葛藤や、痛みや苦しみを伴うこともある。

その部分をすべて押しやって、「明るく、楽しく、前向きに」といった面だけを強調し、「それが正しい道であり、本来の正しい人のあり方」と断言するから、受講者は困惑する。
「抵抗を覚える自分は、人としておかしいのか?間違っているのか?」と

何よりも、主催者側が「受け入れる」という言葉の本来の意味を、まったく理解していない。
結局は、欧米からのウケウリ理論を、それらしく振りかざしているだけ。
本当に根底を理解していたら、「受け入れましょう」とはならないはずだ。

最も必要なのは「確認すること」、「認識すること」。
「確かにそうだ」と認めて、はっきり確かめること。物事を見定めて、その意味を理解すること。

「今の自分はこうなんだ」と、観て確かめる―それだけ。
良い悪い等のジャッジは要らない。
「喜んで、快く」という形容詞も一切要らない。

どんな変化の前にも、必要なプロセスがある。
自分が、現状が、相手がどんな姿をしているのかよく見ないうちから、知らないうちから「受け入れる」なんて、それこそ本末転倒。

犬だって、初めて会う人の匂いをかいで確かめる。ひとしきり嗅いで、そして初めてしっぽを振る。
確かめて、受け入れたということ。

人間だって「動物」だ。
確かめる部分をすっ飛ばして、いきなり受け入れることを強要されるから戸惑う。

生き物としての本能、習性を理解していないから。
本来の道理を無視している。

本当の意味で、人というものを理解していないから、十把一絡げに考えているから、訳の分からない論理や思考で固めた内容のセミナーになる。


すべての人を、すべてのことを受け入れ、理解することは必要ではない。
ただその違いを認めたらいい。
受け入れて自分の一部にしようとしなくても、それがそこに存在することを知っていたら、確認・認識していたらいいだけ。それがやがて「受け入れること」に繋がっていく。


自己啓発系で言われていること、書かれていることのすべてが正しいとは限らない。
所詮は人間が作ったもの。間違いがあって当然。ご神託のように崇め奉る必要はない。

物事には順序があり、理(ことわり)がある。
それを無視して、根本の理解なしで作り上げた理論や思考法だから、混乱する人が続出するのは当たり前。

人としての成長にマニュアルはない。
セミナーや本で言われたことだけを実行していればそれでよし、というものではない。

発信する側だけではない。それを何も考えずに従っているだけの、常に受け身でい続ける受講者側にも問題がある。それは「依存」以外の何ものでもない。「言われたことをすればいい」という甘えの姿勢。

「このセミナーが、この人が、この本が、今度こそ自分を変えてくれるに違いない」
そう期待をしている間は、何も変わらない。
自分の成長は、何かが、誰かがもたらしてくれるものではない。

セミナーも、本も、自分の中にある疑問を解決するための「ヒント」を与えてくれるものであって、「正解」をズバリ教えてくれるものではない。自分でその答えを見つけていくための、あくまでも「きっかけ」に過ぎない。

その部分を履き違えず、自分のやり方で進んでいったらいい。時間をかけて、ゆっくりと。
焦って得たインスタントな「学び(のようなもの)」は、所詮その程度でしかない。

自分で考え、自分で歩く―その気構えで進んでいけば、必ず答えは自分で見つけられる。
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石の不思議な話2

 2008-10-02
高校2年生の頃だったと思う。
昼休みに数名の友達とおしゃべりしていた時、その中の一人から聞いた話。

彼女には4歳年上の、当時大学生だったお兄さんがいた。
そのお兄さんが、ある時ひょんなことがきっかけで、大ぶりのラピスラズリのペンダントを手に入れたらしい。それは当時まだめずらしかったインディアンジュエリーでもあった。

なぜか妙に気に入って、毎日お守りのように身に付けていたらしい。

ある日、仲の良い友達から連絡があって「新車の試し運転に付き合ってくれ」とのこと。
早速二人でドライブに出かけたところ・・・運転していた友達がハンドル操作を誤って、高速道路の壁に激突、車は大破に近い状態になった。

幸いなことに乗っていた二人に大きな怪我はなく、他の車を巻き込むこともなかった。
運転していた友達は、かなり強く首を打った様子だったものの、外傷はなし。
友人のお兄さんは、かすり傷ひとつなくピンピンしていたらしい。

現場に駆けつけたレスキュー隊員が、車の状態を見て「正直ダメだと思った」くらいの事故だったという。これくらいの怪我で済んだのは奇跡としか言い様がないと言われたとか。

とりあえず救急車で病院に運ばれて、いろいろ検査を受けたのだがお兄さんはまったく問題なし。
運転していた友達は、やはり強度の鞭打ち症と、肋骨に何本かひびが入っていることが判明した。

異常もなく、怪我もないので、お兄さんは処置室の外で、友達の治療が終わるのを待っていた。
それからしばらくして友達が出てきて、二言三言交わしていたのだが、その友達の目が一点を凝視したまま動かない。

変に思って「何だよ?」と言ったところ、友達が「・・・おい、おまえ、見てみろよ・・・」と自分の胸元を指差すので見たところ、そのラピスラズリのペンダントが真っ二つに割れていた・・・


これはインディアンジュエリーではよく聞く話で、「身代わりになった」ということ。
お兄さんが受ける災難を、ラピスラズリが代わりに受けてくれた―

もともとラピスラズリは魔除けのパワーが強い石。
災いを洗い流し、心を浄化させ、幸運へと導いてくれる力があると言われている。

日本では「瑠璃(るり)」と呼ばれ、仏教では極楽浄土を飾る7つの宝の一つとして知られている。
インディアンジュエリーでも、ターコイズと並んでよく使用される石だ。


これは私個人が感じることだが、ラピスは「持つ人を選ぶ石」だと思う。
人間に喩えたら、「好き嫌いのはっきりした、自己主張の強い、妥協を許さない人」というイメージ。

その色合いも、日本人の平均的な肌の色、黄みのかったオークル系の肌にはちょっと難しいトーンかもしれない。色白の人より、どちらかというと浅黒い肌の人に似合うと思う。

ターコイズはどちらかというと、どんな人でも受け入れる寛容さや優しさのようなものを持つ石だと思う。石のほうで、その波動を持つ人に合わせてくれるような・・・そんな感じ。

でもラピスは違う。
「この波動まで自分を高めてこい!」というような、厳しく男性的なものを強く感じる。
喩えるなら、自らを厳しい修行に投じる僧や修験者―といったところだろうか。

実際、その気迫に怖れをなすかのように、ラピスを手に取る人は少ない。
「綺麗」と言いながらも、遠慮がちに、遠巻きに眺めている。
まあそれが「石との相性」という意味でもあるのだが。

自分がその石を選んだと思っていても、実はその反対のこともある。
でもどちらにしても、それは「お互いが引き合った」ということ。

何か「共通するもの」、お互いの中にあるエネルギーのようなものが共鳴した結果だと思う。

これは石だけではなく、人にも共通する。
「気が合う」という言葉があるが、これはまさに、「それぞれが出しているもの、エネルギー=気」の質が同じ、もしくは近いものがあるということなのだろう。

石も、人も、互いのエネルギーに惹かれあって生まれた出会いは、きっと何か意味がある。
どんなに小さな出会いだとしても、それを大切にしていきたい―石に触れる度、そういった思いを新たにする。

心惹かれる石を見つけて手に取った時、何か感じるものがあった場合・・・例えば「どうしてもこれがほしい」と瞬間的に思ったり、「何となくいい」と感じたり・・・それはその石があなたに向かって送っている「サイン」なのかもしれない。



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自己啓発のナンダソリャ1「ポジティブ」は無理

 2008-10-01
巷の大半の自己啓発セミナーや関連本は、「いつもポジティブで!」を謳っている。

講師も著者も、その言葉を何度も呪文のように繰り返す。
これも「暗示」のひとつ。同じ言葉を繰り返すことによって、潜在意識に刷り込んでいく。

自己啓発系で、多分一番連呼されているであろうこの「ポジティブ」という言葉―
何度もそれを繰り返し聞くことで効果を発揮するなら、受講者全員がもれなくポジティブになっていてもいいはず・・・

それなのに、なぜ「何も変わりませんでした」と、肩を落として言う人がこれほどまでに多いのか?

なぜなら、それは「無理なこと」だから。

「いつもポジティブでいる」なんて、そんなのできるわけがない。
それができるのはドラッグでハイになっている人くらいだと思う。

むしろ「できなくて当たり前」。

人間なんだから、感情の波がある。
すべてのことが楽しく幸せに感じられて気持ちが高揚する時もあれば、何をやっても気乗りがせず、誰とも話したくない時もある。

「いつも心穏やかに、人には愛を持って寛容に」ということも同じくらい言われているけど、それができたら人間じゃない。神や仏の領域。

そういったセミナーで言っている一番ヘンな点は、すべてにおいて「いつも」を付けること。

「ポジティブ」や「心穏やかに、寛容に」ということが悪いと言っているのではない。
そこに「いつも」が付くことで、意味がまったく変わってしまう―そのことを講師側がまったく理解していない。既にスタートからおかしいということに気づいていない。

教える側の理解が欠けている状況の上に成り立っていることだから、学ぶ側が理解できなくて当然のこと。本来の道理から外れている。


もう20年くらい前だと思う。
学生の頃、友人に誘われてアメリカの団体が主催する潜在意識開発セミナーを受講したことがある。

当時はそういったセミナーの類はまだ少なく、初級講座だけの受講だったが、ワークの内容等は結構面白かった記憶がある。

そこでもキーになっていたのは、「ポジティブシンキング」。

最初は「ふむふむ」と聞いていたのだが、時間と共にだんだん疑問が湧いてきた。
講師の人が「いつも」「ずっと」という言葉を連発するのだ。

「いつも前向きに」「ずっとポジティブでいられるように」等々。

だんだんその違和感に我慢できなくなって、質問してみた。
「どうしていつもポジティブでいないといけないんですか?なぜネガティブだとダメなんでしょうか?」

講師曰く、「ネガティブな態度や考えは、良くない状況・良くない人・良くない運等を引き寄せます。だからいつもポジティブでいることが必要だし、大切なことなんです」


自己啓発でも精神世界でも、「すべてのことには意味がある」「今起こっていることは必然です」「すべてを受け入れましょう」ということが必ず言われる。そのセミナーでも同様だった。

だったら今自分がネガティブな精神状態にあって、良くない人や状況に囲まれているとしたら、それにもちゃんと意味があって、自分に必要だから起こっているはず。

しかし一方では、そうしたことを「寄せつけないように」と、自分にとって「都合の悪いこと」を避ける方法として説いている。

「啓発」という言葉の、「知識をひらき起こし、理解を深めること」という本来の意味からは大きくかけ離れている。

大体、根底にあるものの意味を最初から履き違え、本質を理解さえしていないのに、いったい何を「啓発」するのか。

そこでやっていることは、ただの「マニュアル」講座。
「こういったことが起きた場合、こういうふうに対応しましょう」「こうしていれば大丈夫ですよ」と教えることだけ。

そもそも意識や感情のような複雑で、個々の違いが大きいものを、なぜたった一つのマニュアル、考えで括ろうとするのか?

100人いたら100通りの感じ方や考え方がある。まったく違う個性を持つ100人の人間に、同じ内容のマニュアル1冊で対処しようとしても限界がある。該当しないケースもあるだろう。

それを無理矢理に、受講者のほうをマニュアル(考え・方法)に添わせようとするのが、現在の自己啓発のやり方。ある意味「押しつけ」。

だから「できない」「変わらない」と悩む人がいても、それは当然のことだ。

同じ薬や治療法でも、効く人と効かない人がいる。全員に効果があるとは限らない。その人の体質や状態等も大きく関係してくる。それと同じこと。


仕事柄、今まで何度か自己啓発系のセミナー主催者や本の著者と会う機会があったが、正直なところ、「いつも・・・」を本当に実践できている・身についていると思える人は誰もいなかった。

むしろセミナーや著書の中で自分が提唱していることを、実は自分自身ができていないということで悩んでいる人もいた。実情はこんなものだ。

セミナーや本で言われていることは、「究極の理想像」と思っていたらいい。
「まあ死ぬまでに、この姿にほんの少しでも近づけていたらいいですけどね~」くらいの、「ゆる~い」感じでいたらいい。

「こうでなければ!「こうあるべき!」そんなふうに肩をいからせて必死になる必要もない。

なぜなら「~でなければ」「~であるべき」ということは、この世に何一つないから。

試しに今自分が「~でなければ」「~であるべき」と思っていることを振り返ってみるといい。
多分そのほとんどが、人から強制されたものではなく、自分自身の思い込みや決めつけから出たものだと気づくから。

つまり自分を縛っているのは自分自身ということ。

むしろ、「ネガティブではいけない」と思うのか、「ネガティブであること」は、自分にどういったものをもたらすのか・・・そこを観ていくことが必要。

「なぜネガティブであることを、自分は否定するのか」―なぜ自分がそこにこだわるのか、囚われているものの正体がみえてくる。実はそこがすべての始まり。
そして意外とそれは、「大したこと」ではなかったりもする。

落ち込んでいる時は、その日一日、とことん落ち込んだらいい。
無理にそこから抜け出そうとするから、余計に辛く、苦しくなる。

そして、明日元気になっていたら、昨日よりほんの少しでも元気になっていたら、それでいいと思う。
いつまでも落ち込んでいる状態が永遠に続くことはない。必ず浮上する時が来る。

「今なんとかしたい」とあがくのは、単に自分にとって都合が悪いから。
つまりは、「早く楽になりたい」というエゴでしかないということ。ただそれだけ。

そんな時は自分の好きなことや、気分転換になることをしたほうがよっぽどいい。
大袈裟に捉えるから、それは意識の中で余計に拡大されていく。

言われたこと・書かれていることをそのままやるのではなく、「このままだとやりにくいから、ここをこんなふうに変えてみようかな」というように、「それを知っている状態=知識」を活用して、初めてそれは「知恵」になる。それが自己啓発の本来の姿。

「いつも」という言葉に囚われる必要はない。
その部分を、まず自分ができそうだと思える言葉に置き換えてみたらいい。

「時にはポジティブに」
「たまにポジティブに」
「ちょっとだけポジティブに」

かなり印象が変わってくると思う。
そしてその部分を、「いつも」の方向に、ちょっとずつ広げていったらいいだけこと。

ちょっと意識や視点を変えるだけで、「できない」が「できるかも」になる。

ひとつのやり方、ひとつの考え方に囚われることのない柔軟さを持って、自分流にアレンジをして、自分のやり方を作り上げて、自分のスピードで進んでいったらいい。

それが本当のポジティブシンキングだと思う。

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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