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部屋は心を映し出す

 2008-09-30
よく言われていることだが、「部屋を見ればその人が分かる」「部屋に精神状態が表れる」というのは本当だと思う。

部屋の状態と、そこに住む人の精神状態(魂や心の状態)は比例する。
「部屋=本人」と言ってもいいと思う。


以前、ふとしたことがきっかけで出会った人の家を訪ねる機会があった。
いわゆる「スピリチュアル系の仕事」に関わっている人だったが、家に行って正直驚いた。

一人暮らしというのに、とにかく「物」が多い。
4人家族が住んでいるのかと思うくらいに、所狭しといろいろな物が置いてある。
家具・家電類はもちろんのこと、部屋の装飾品含め、「多過ぎる」というのが正直な感想だった。

でもその時、ふと思った。「この人、寂しいのかもしれない」

「寂しい人」、いろいろな意味で「満たされてない人」というのは、物をため込む傾向がある。
特に、感情面が関わってくる部分で満たされてない場合だ。

例えば「自分は愛されてない」「孤独感」等、実体のない、自分の努力や思いだけではどうしようもできない部分に対して欠如感を抱えている人は、目に見えて、感触を味わえる実物の「物」でそれを埋めようとする。

愛とか孤独とか、そういった目に見えない実体のない「感情」等とは違って、「物」は目で見て確認できて、触れれば手でその感触を確かめられるから。
その存在感というか、実感が確実に味わえるからだと思う。「安心感」とも言えるかもしれない。

「買い物依存症」「過食症」等も、根底にあるものは同じだと思う。


そして・・・やっぱりその時の感は当たった。

その人の、人との付き合い方にそれは表れていた。
本人が意識してやっていたのかは分からない。でもその人と、その周囲の人達との関係を見ていると、それはとても「一方的なもの」に思えた。

精神的にも、物質的にも、自分に依存せざるを得ないような状況や関係を作り出し、相手が自分から離れられないようにしていく。「支配する者とされる者」―そうとしか見えなかった。

多分その人はそういった形で周りの人達を縛り、自分の「支配下」におくことで、ある種の「安心感」を得ていたのだと思う。

精神と物質、両方の面で縛っておけば、相手が自分から離れていくことはない。
万が一、どちらか一方だけになったとしても、相手が”完全に”自分から去っていくことはない。

どんな形になったとしても、自分の周りにはいつも誰かがいる状態、つまり「自分は孤独ではない」「決して独り取り残されることはない」という安心感と保障を得ることができるから。

その人の根底にあるものは、「孤独への恐怖」。
周りの人を自分に依存させることで縛り、物をため込むことで、それを打ち消そうとしてきたということ。

本人さえ気づいていない、その人の最も深い部分を、部屋は鏡のように映し出す。

物が乱雑に散らかっている部屋は、現状や自分の中の感情・考え等がまとまらず混乱している状態。

ずっと前に捨てようと思った物が、まだそこに置いてあるような部屋は、古い考えやパターンに執着して手放せない状態。

どこかテイストがちぐはぐな印象の部屋は、自分の本質や目標を理解していないか、見失っている状態。


これは個人に限ったことではない。
セラピストやカウンセラー、占い師やチャネラーにも当てはまる。

セッションルームがそういった状態の人のセッションは、「そういう質のもの」だと思う。
自分の内面がごちゃごちゃの状態で、クライアントの内面の混乱を整理できるわけがない。

例えその状態の中で、その時は良いセッションをしたとしても、やがてその「隙」から崩れることもある。言動や見た目の不一致は、その最初のサインでもある。


あなたの部屋はどうだろうか?
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カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)

「こけたら立ちなはれ」

 2008-09-29
「雨が降ったら傘をさす、こけたら立ちなはれ」

これは、松下電器産業創業者 故 松下幸之助氏の言葉。

「生きる」ということは、結局こういうことを繰り返していくことだと思う。

多くの人は平穏で幸せな人生を望むけど、やはりそうはいかないのが世の中の常。
生きていれば本当にいろいろなことが起こる。

自分の意思や願いに反して、躓いてこける(転ぶ)時もある。
ひょっとしたら痛い思いもするかもしれない。

でも、こけたらまた起き上がって、そこから歩き出したらいいだけ。

雨が降ってきたら、人は当然のように傘を広げる、お腹が空けば何かを食べる―それは自然で当たり前のこと。今現在起こっている状況をありのままに観て、「じゃあこうしよう」と、ただしかるべき対応を取ればいいということ。


多くの人は「人生においてこけること=失敗すること」を恐れる。
仕事・学業・家庭生活・・・人によって恐れる「失敗」は違う。

でも、「まだ起こってもいない失敗」「過去に起こった失敗」を恐れ、そこに囚われている人が、今どれだけ多いことか―またそれは、人生を前に進んでいくための歩みを鈍らせてしまう。

人は未来を心配し過ぎるか、過去に囚われ過ぎるかのどちらかだと思う。
でも共通しているのは、意識が「現在=今ここ」にないということ。

「今」というものがすっぽりと抜け落ちている。
それは「今」を生きていないということ。

未来は「今」を積み重ねていくもの、過去は「今」を積み重ねてきたものだ。

つまり、すべての原点は、「今現在」にあると言う意味。
すべてが集約されている「今」を生きていない、今を疎かにしているということは、未来はその結果が反映された質のものになるだろうし、そして多分、過去もそういうものだったと思う。

「こけるのを怖がる人」を見ていると、大体においてその経験から何も学んでいないように思える。

いや、「こけたことと向き合ってこなかった」と言ったほうがいいかもしれない。

ある人は「なかったことにしよう」と目を反らし、ある人は「何で私だけがあんな目に遭ったのよ!」と怒り続け、またある人は「もうあの痛さを経験するのは絶対にイヤ」と、その時の恐怖を抱き続ける。いろいろな意味で、そのことと、その時の感情に、今なお囚われたままだ。

同じ場所に止まったままで、そこから歩き出そうとしない。
なぜなら「また同じ目に遭ったらどうしよう」と思っているから。

でもまたこけたとしても、前と同じ痛さとは限らない。
案外軽く「イタ・・・」で済むかもしれないし、ひょっとしたら今回はまったくこけないという可能性もある。

どうなるかは分からない。
でも、それもすべては歩き始めてからの話、行動を開始した上で、初めてあり得る話だ。


発明王エジソンは、白熱電球を完成させるまでに繰り返した数千回に及ぶ失敗について、こう言っている。
「自分は最初の数千回の試作品を失敗と思ったことは一度もない。失敗などというものは存在しない。あるのはフィードバックだけだ」

「数千回こけ続けた男 エジソン」は、その度に立ち上がり続けてきたということ。


自分がそれを「失敗」と思えば、失敗になるし、「成功に繋がるためのプロセスだった」と思えば、それはそういうものとなる。

あなたが羨んでいる彼女の幸せ、それは数十回目に彼女が掴んだものかもしれないし、あなたが悔しがって妬んでいる彼の成功、それは彼が数百回目にやっと手にしたものかもしれない。

過去に囚われ過ぎず、未来を心配し過ぎず、今をきちんと歩いていけばいい。

そして、もしこけても「また立ちなはれ」



カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)

石の不思議な話

 2008-09-28
インディアンジュエリーを取り扱う仕事が本格的に始動する少し前、ある人からこんなことを言われた。

「いいですか?気をつけてくださいね。いい加減な気持ちで石を取り扱うと、石にとり殺されますよ」

それを聞いた時、「そうかー、怖いなー」とチラッと思っただけで、特にそれ以上のものはなかった。
その人も怖がらせようとか、脅そうとしたのではなく、「それくらいの気構えを持って(石と)向き合いなさい」という意味で言ったのが分かっていたから。

その人は「ある種の能力」を持った人で、通常は見えない世界のものが見えたり、聴こえないものが聴こえたりする人。その人曰く「石というものは、誰にでも取り扱えるものではないんです。人を選ぶんですよ」とのことだった。

私は自分が「好きだから」「やりたい」からと思ったのが最初のきっかけであって、べつに自分が「選ばれた者」とか思ったことは一度もない。

ただあえて言うのなら、「(石に)呼ばれちゃったのかな」という思いはある。

もともと子供の頃からネイティブアメリカン(当時は「インディアン」と呼び方が主流だった)に興味があったこと、初めてインディアンジュエリーに触れた19歳の時に感じた魅力が自分の中で色褪せなかったこと、ある時某ショップで一目見た瞬間「自分の物だ!」、そう強烈に感じたターコイズのバングルに出会ったこと等がきっかけだった。

まさか自分がそれを取り扱う側になろうとは、夢にも思わなかった。
しかし・・・なぜか始まってしまった(笑)


その人に言われたからというわけではなく、折に触れて思うのは、「石は生きている」ということ。

石は生きている―人間と同じように呼吸して、そこに存在している。
たまにその気配さえ感じる時がある。
色が鮮やかに見えたり、輝いて見えたり・・・日によって表情も変化する。

気のせいとか、思い込みとか、そういったこともあるかもしれない。
でも、それを差し引いても、そう思わざるを得ないものを感じる時がある。


「物には魂が宿る」―日本では古代からそう考えられてきた。
ネイティブアメリカンの世界でも、それは同様だ。

彼らにとって、石―特にターコイズ(トルコ石)に対する思いは格別のものがある。

空と水を表す聖なる石、邪悪なものを遠ざけ、持つ者を守護する石、成功と成就をもたらす石、心と心を繋ぐ石―ネイティブアメリカンの世界では、ターコイズは特別な位置にある存在だ。

そのターコイズを使用することが多いインディアンジュエリーは、普通の一般的なアクセサリーやジュエリーより、そこに込められている「念」というか、「パワー」のようなものが格別に強いような気がする。

そういったパワーの強い石を常に身に着けていられるように、「お守り」の要素を込めて作られた物でもあるということ、ひとつひとつすべて彼らの手作り―ということ等も関係しているのかもしれない。


私がインディアンジュエリーを取り扱う「きっかけ」となったブレスレットとの出会いには、強烈な出来事があった。

その当時、私はまったくツイていなかった。
公私全般に渡って災難続き、そのあまりの酷さに呆然自失・・・という状態だった。

そんな時、気分転換に出かけた先のショップで、そのバングルと出会った。
見た瞬間「私のものだ」と思った。19歳で初めてインディアンジュエリーを手にして以来、いくつかのコレクションはあったが、ここまで強烈に魅かれるものには出会ったことはなかった。
それがどこから来るものか分からないが、「私を守ってくれる」・・・そう直感した。

そのバングルを着け始めた翌日から同じ夢を4日連続で見た。
シチュエーションはそれぞれ違っているのだが、その夢の中で私は常に”戦って”いた。

ある時はベトナム戦争のようなジャングルの中で、
またある時は鎧兜を身に着けた武士として・・・
あまりに生々しくて、起きた時には逆に疲れ果てているような状態だった。

しかしその夢を見て間もなくだったと思う。すべての事態が好転し始めた。
あれだけがんじがらめの状態だったのに・・・止まっていた歯車がまた回りだしたようだった

何年か前、親しいネイティブアメリカンの友人にあの夢の話をしたことがある。
彼は聞き終わるとニヤッとしてこう言った。
「ミラ、ヴィジョンクエストは4日4晩続くんだよ。」

あの時の夢を、心理学の観点から分析してみると、興味深いことが分かってくる。
それぞれの戦場で戦うことは「その状況・そこに含まれている課題から目を背けずに挑むこと」を表し、自分が兵士になるということは、「自分の意志とは無関係に社会的規範や人間関係を強制されること、心を縛っている強迫観念」ということを意味している。

そして「4」は、ユング心理学では「魂の本質」とも言うべき「セルフ=自己」のシンボル。

まさに当時の私が置かれている状況と、その原因となっているもの、今後自分が取るべき道を示唆するものだった。

ターコイズに限らず、時に石は潜在意識と繋がるための「ブリッジ(橋)」の役割を果たすことがある。
それは、太古の時代から世界中で宗教的儀式等に石を用いていたことにも表れている。
やはり「単なる物」としての存在ではない。

ある意味怖い話かもしれないが、インディアンジュエリーを「ただの商品」としか見ていない人、それを作るネイティブアメリカンのことを、表面上では親しげに振舞って取引をしてはいるが、内心では馬鹿にしているような業者は、どんどんこの世界から去っていく。最初は順調に利益を得ていたとしても、やがて経営面を含め、自ら止めざるを得ない状況に陥っていく・・・

だが結局のところ、こういったことも「因果応報」で不思議ではないことなのかもしれない。
自分から出たものは、やがて自分に返ってくる―それが法則というものだから。


うちで取り扱っているジュエリー達は、すべて私自身が現地で見つけてきたもの。
そのひとつひとつにエピソードがあるし、思い入れも強い。

ジュエリーが売れた時、他の人の手に渡る時のことを、私は密かに「お嫁入り」と呼んでいる(笑)
「お嫁入り前」には、銀磨き用クロスで丁寧に磨きながら、「よかったね。可愛がってもらうんだよ」と心の中で呟いている。(ちょっとアヤシイけど(笑))

「石を取り扱えるのは選ばれた人だけ」とは言われたけど・・・そんな高尚さとは明らかに無縁とも言える、あくまでも自分流の、「ゆる~い」感じの石との付き合い方だけど・・・私はそれでいいと思っている。

例え緩くても、そういった石への愛着や思いをきちんと持って接していれば、石は必ず応えてくれるから。そういった意味でも、やっぱり「石は生きている」―そう思うのだ。

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当たるも八卦、当たらぬも八卦

 2008-09-27
「占い本に書かれていることや、占い師に言われたことは必ずその通りになる」
そう思い込んでいる人達がいる。

メジャーな所では、ナントカ殺界とか。
自分にとって何か都合の悪いことが起こったりすると、「やっぱり今年はナントカ殺界だからこういうことが起こったんだ」「今の状況が上手くいってないのは、ナントカ殺界の時に○○をしたせいだ」等々。
傍から見ていると「それは関係ないんじゃない?」というものまで、そのせいにしたり。

特にそういう時期でなくても、日常普通に生活していれば十分起こり得る出来事でさえも、無理矢理そこに繋げようとするから、あっという間に「悪いことが蔓延している状態」ということとなる。

「悪い出来事が起きている日が続いている→それは今年がナントカ殺界に当たるからだ」という思い込みの図式がたちまち出来上がる。
「そういう時期だから悪いことが起こる」ということを、躍起になって証明しようとしているかのようだ。


占いやリーディング、チャネリングの類は、「天気予報のようなもの」―私はそう思っている。
そういったものを受けた時点での、その人の現状・考え方・意識や魂の状態のままで進んでいけばそういう結果になる・・・ということだと思う。

例えば、朝7時の天気予報で「正午過ぎから午後6時までの降水確率は80%、お出かけの際は傘を忘れずに」と言っていたとする。でも実際に、その日はまったく雨が降る様子はなく、むしろ晴天になった・・・という時がある。

その天気予報は決して「嘘」ではない。
午前7時の時点での雲の状態・気圧・風向き・・・そういった「当時の条件・状態」に変化起こらず、このままでいけば、午後からの降水確率が80%の天気になる「可能性」があるという事実を告げたもの。

占いの類もそれと同じ。

気圧や雲の状態の変化によって天気が変わるように、その人の考え方・意識の持ち方・行動・選択が変われば、運命も変わってくる。いろいろな意味で、占いが「当たった」「当たらなかった」の違いは、この部分にあると思う。

「あなたは将来人に騙される」と言われたのであれば、それを気に病んで疑心暗鬼になる必要はない。まず「人に騙される可能性があるというのは、自分のどんな部分からきているのだろう?」、そう考えたらいい。

そうやって自分を冷静に、客観的に観ていくと「お人好しで、深くその人のことを知らないのに簡単に信用してしまう」といった傾向が自分の中にあると気づいたとする。

「それじゃ人に対してもっと慎重になろう、すぐに結論を出そうとしないで、もっとじっくりと時間をかけてその人を見ていこう」―そうやって一層の注意を払っていくようにしたらいいだけ。

「人に騙されることを避けられるように」と言って、ナントカの言葉を唱えるとか、パワーストーンを購入したりする必要はない。あくまでも自分自身が気をつけて、そういった部分に注意を払ったらいいだけの話。

何よりもそういった状況は、自分自身の考え方や意識が引き寄せているということなので、アファメーションを唱えたり開運グッズを身に着けたりしても効果はない。
「この言葉を唱えていれば大丈夫」「これを身に着けていれば避けられる」というのはお門違い。

真実と向き合わなければ、そういったものはただの気休めであり、結局自分自身から目を反らせ、外に依存の対象を求める「甘え」を増長させるものになりかねない。そういったものは、まず自分自身を省みて行動した上で初めて効果を発揮する、あくまでもサポートグッズに過ぎない。

つまり、すべては自分次第ということ。


そもそも占いは「統計学」。

【統計学】
数量的比較を基礎として、多くの事実を統計学的に観察し、処理する方法を研究する学問。

(広辞苑より)

つまり確率の問題。
「この干支、この生年月日の人達は、大体こういう性質で、こういった人生を送る傾向のある人が多い」と言っているに過ぎない。

その証拠に、同じ生年月日の人達が一人残らず、まったく同じ性格で、同じ職業に就いているということはあり得ない。生まれ育った環境等も、大きく関係してくる。あくまでも「そういう傾向にある人が多いですよ」ということ。

あたかも「ご神託」が下ったかのように、その結果に一喜一憂する必要はない。
「悪いこと」を言われたとしても、「今のままでいくと、そうなる可能性があるんだな」と思って、気をつければいいだけ。そうやって考えや意識の持ち方が変わってくれば、行動も変わるし、それに伴って選択も変わる。そうすれば必然的に未来も変わる―ということ。

未来も運命も、自分でいくらでも変えられる。

悪い意味で「占いで言われたとおりになった」と言う人は、「言われたことは本当に起きる、私はこうなる」という「暗示」を、自分自身にかけた人―とも言える。

潜在意識に、その暗示を刷り込んでいるから、その方向に自ら向かっていく。
だから「ほらね?本当に悪いことが起こったでしょ?」と、それを証明するかのような結果が訪れる。

占いの本来の役割は、人がより幸せになるなるための「ツール」だと思う。
人が自分を、占いに合わせていくものではない。主役はあくまでも人であり、自分自身。

占いは「参考書」ではあるが、「バイブル」ではない。


ちなみに、ごく最近まで私は、そのナントカ殺界の占いで、自分が何星人であるかも知らなかった。
占い好きの友人が調べてくれて、初めて自分が「天王星人(-)」であることを知った次第である(笑)

友人と一緒に天王星人の項目を読んでみたが、まったくピンとこない。
その友人も、その占いを知っている他の友人・知人にも、私が天王星人であることが意外らしい。
本で書かれている天王星人の特徴と、私のそれが全然合致しないからだ。

人生の流れもまた然り。むしろナントカ殺界に該当する時期に、人生の中でもベスト5に数えられるようなハッピーなことがバンバン起こっている。

かと思えば、書かれていることが「全部当てはまる」と言う人もいる。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」―「占いは当たりもするし、はずれもする」という意味。
先人達は既にこのことを知っていた。

盲信することなく、過信することなく、畏れる(恐れる)ことなく、常に自分の直観と照らし合わせながら・・・そんなふうに「占い」というものに向き合ってみたらいいのではないかと思う。



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)

日本人のヒンシュクとアメリカ人のヒンシュク

 2008-09-26
常々思っていた。「アメリカ人女性はがさつだ」と。

最初にお断りしておくがこれは悪口や中傷ではない。
以前別の仕事でマサチューセッツとカリフォルニアに在住していたこともあるし、現在の仕事の関係もあって、 アメリカ人の友人知人は少なくない。

私のことを「ウチの2番目の娘のミラだよ」と 言って紹介してくれる「アメリカの家族」もいる。
ひょっとしたら日本の家族や友人達より結びつきが強いかもしれない。

まあ時々は国民性から来る考え方の違いで意見が衝突する時なんかは、「何それ?!むかつく~!これだからヤンキーの考える事は!」となることもあるが、それでもアメリカ人は好きだ。
私にとってアメリカは、もう一つの故郷であると言ってもいい。

しかし、これだけは言わせていただきたい。失礼になろうが何だろうが、やっぱりアメリカ人女性はがさつである。

べつに彼女達が下品であるという意味ではない。
いつもチャラチャラしているように見えても、実はアメリカ人はマナーにうるさい。特に食事の場や公共のスペースで はそれが顕著に表れていると思う。

レストランや映画館での順番待ちでも、「いつまで待たせるんだよ~」とブツクサ言いながらも、みんなきちんとおとなしく待っている。日本では時々列に割り込んだりする「ヒンシュクな人」もいるが、私は今までアメリカでそういう人に遭遇したことは一度としてない。
人が多く集まる観光地に行っても、ゴミが散乱してる・・・なんてことはめったになかった。

これは私の独断であるが、あれだけ多くの人種的・文化的背景が異なった人達が一つの国に暮らしているので、「この国に住んでいるからには最低限これだけは守って仲良く暮らそうね」という部分が「マナー=約束ごと=掟」として定着しているからではないかと思う。

多くの方がご存知だと思う。汚い話で恐縮だが、アメリカでは「げっぷ」は大変失礼な行為である。
日本ではむしろ下半身のほうからの音が失礼とされているが、アメリカでは逆である。

もし自分がそれを人前でしてしまった場合、すかさず” Excuse me.”となる。4~5歳くらいの小さな子供でもそれは同様である。
(ちなみにアメリカでは、子供が喋れるようになると、「Please」「Thank you」「Excuse me」の言葉を真っ先に、且つ徹底的に教え込むのが常である)

ましてや女性なら尚更である。まさに赤面ものの行為にあたる。

それなのに!どうして彼女達は、あくびをする時に人前で扁桃腺まで見えそうなくらい大口をあけるのだろう?どうしてくしゃみや咳をする時に、手で口を覆わないで豪快に飛沫を飛ばすのだろうか?あれだけげっぷに対して神経を使うのに・・・である。


以前、マサチューセッツに在住していた頃、週末に、友達のジョンと彼の友達カップルと4人でボストンに遊びに行った時のことである。ちょうど夏休みの最中ということもあり、どこに行ってもすごい人混みで、私達全員ぐったりしていた。ちょっと休憩しようということになり、コーヒーショップに入った時のことだ。

ジョンの友達のガールフレンドのエリンがあくびを連発し始めた。大学院生だった彼女は、前日遅くまでレポートを仕上げていたとかで、寝不足だったのだと思う。それを見ていた私もつい、つられてあくびをしてしまった。

その私の様子を不思議そうにジョンが見ていたのには気づいていたが、別段気にも留めなかった。
コーヒーショップを出た時、ジョンがこっそり私に耳打ちしてきた。「ミラ、どうして君達日本人女性がエレガントなのかその秘密がわかったよ」と言う。

私はがさつではないと思うが、「エレガント」と評されるほどの領域にはないと思うので、その言葉に少々びっくりした。

「何がわかったって?」

「いや、エリンがあくびをした時に気づいたんだよ。日本人はあくびをする時、手で口を隠すのが習慣なの?」

「当たり前じゃない。だって人前で失礼でしょ?」

「なるほど。そこが大きな違いなんだな!」と彼は何度も頷きながら「ビューティフルな習慣だ」と、しきりに言っていた。


それ以来、私はアメリカ人、特に女性ががあくびをする時の様子をチェックするという妙な癖がついてしまった。20年近く経った今でも・・・ である。

なるほどジョンが言った通りである。ほぼ100%に近い女性が大口をあけていた。はっきり言って、あれは同性から見てもかなり興ざめする光景である。

先日、LAの空港でフェニックス(アリゾナ)行きの乗り継ぎ便を待っていた時のことだ。

私の斜め前にスーパーモデル顔負けのアングロサクソン系の美女が座った。思わずタメ息が出そうなくらいきれいな人で、私を含めてその場にいた人全員、男女問わず、彼女に目が釘付けになっていたと思う。

ひょっとしたら、LAという場所柄、女優かモデルの仕事をしている人だったのかもしれない。とにかくものすごい美人だった。彼女もみんなの目が自分に集まっていることを十分意識して振舞っていた。

・・・と、その時である。その美女が突然うつろな目で宙を見つめたかと思うと、「へーくしょんっ!」と豪快なくしゃみを2回連発したのである。

その瞬間、私を含めてうっとりと彼女を見つめていた人達全員が決まり悪そうに目をそらした。まるで魔法が解けたかのようだった。

その後そっと周りを見回してみると、彼女を見ている人は誰もいなくなっていて、それぞれ新聞や雑誌に没頭していたり、連れの人とおしゃべりをしていた。当の美女本人はそれをまったく気にする様子もなく、バッグをかき回してティッシュペーパーを取り出すと、盛大な音をたてて鼻をかんでいた・・・

あくびやくしゃみ等の小さな行為にさえ、国民性の違いが表れる。
アメリカ人が悪いとは言わないが、あらためて日本人の他者に対する気遣いや「美学」を認識した気がする。

アメリカ人女性のパワフルさに、あとほんの少し日本人の持つ繊細さが加わったら向かうところ敵無しだと思うのだが・・・

アメリカでくしゃみやあくびをする女性を見る度に、「手で隠したほうがいいですよ」と言ってあげたくてたまらなくなる私は、骨の髄まで「日本人」である。


カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)

「やりがい」というもの

 2008-09-25
「仕事」と「恋愛」は、一見対極に存在しているように見えるが、実はよく似ている。

それは、「どちらも”相手”に対して、ピンと来る瞬間がある」ということ。

出会った瞬間に「これだ!」と感じることもあれば、付き合っていくにつれて「ひょっとするとそうなのかも」という気持ちがだんだん強くなっていったり。

でも、何よりも、そういった「ピンと来る相手」に出会えた人は、とてもラッキーだということだ。


ここ最近立て続けに、「やりがいのある仕事を見つけたい」と言う人達と話す機会があった。
皆さん共に30代。それぞれ勤めている会社では入社して10年以上経つという「中堅」。
任されている仕事も、それに伴う責任もなかなか大きい。役職就き・部下持ちの人もいる。

傍目には順調で、恵まれた環境にいるように見える。
でも揃って口から出るのは「やりがいのある仕事がしたいんですよね」という言葉。

入社して10年以上経ち、仕事も覚え、それなりの権限も与えられるようになった。
でもそういったことに慣れてきて、精神的に余裕が出てきた分、毎日同じことを繰り返している気がしてきた。「ひょっとしたらこの仕事は、自分じゃなくてもいいのかもしれない」―そう思い始めたらしい。

そして行き着いたのが、「やりがいのある仕事に就いたら、多分もっと違う毎日が、もっと楽しくて生き生きとした有意義な人生が送れるに違いない」という考え。


「やりがい」っていうこの言葉、多くの人が口にして拠りどころにするけれど・・・でも皆、本来の意味というか、根底あるものを勘違いしているような・・・そんな気がする。


「やりがいのある仕事を見つけたい」と言うことは、「好きな人を見つけたいので、恋愛したいんです」と言っているのと同じだと思う。

「好きな人を見つけよう」と言って恋愛をする人はいないと思う。
何らかの形で、お互い見知らぬ者同士として出会って、一緒に過ごしていく内に相手に対する興味や特別な感情が出てきて、「気になる人」になり、やがてそれが「好きな人」になる。
意図的に作り出す状況や感情ではない。それと同じこと。


「やりがいのある仕事」は存在しない。
日本中、世界中、この世のどこを探しても存在しない。

なぜならそれは、自分がその仕事の中に、ピンと来る何かを感じた時に初めてその存在を表すものだから。別の言い方をすれば、自分が「この仕事をやりがいのあるものにしよう」と決めた瞬間から、それはもう自分にとっての「やりがいのある仕事」となる―ということ。

こうも言える。
「この世に存在するすべての仕事が『やりがいのある仕事』になる可能性がある」
「今やっている仕事も、今後『やりがいのある仕事』になる可能性もある」

「自分はこの仕事に就こう、自分をこの仕事に賭けてみよう」と、人生の早い段階でそういったものに出会える人もいる。でもそれはごく少数。自分が人生に何を求めて、どういった方向性に進むか・・・それを早々に決断した、とてもまれなケース。

でも結局それは、どんな人にも共通していることだと思う。

「この仕事に賭けてみよう、やりがいのある仕事にしてみよう」

そう決めるのが早いか遅いかの違いだけ。


日本語教師、メーカーのOL、翻訳、インディアンジュエリーの輸入販売、ヒプノセラピスト・・・
20代から現在まで、私が経験してきた仕事だ。

それぞれの仕事を選んだ理由は違うけど、でも最初のきっかけはみんな、「その仕事って何?どういうことするの?」という「好奇心」だった。

自分のアンテナにちょっとでも触れたもの、それを選んでやってきただけ。
微かな触れ具合のものもあったし、瞬間からビビッと感じたものもあった。

そして「自分がやる」と決めたその仕事を、一生懸命やってきた。ただそれだけのこと。
その結果、その全部が「やりがいのある仕事」になった。

「やりがいのある仕事」は、いくら探しても、いくら待っていても現れない。
ましてや誰かがもたらしてくれるものでもない。

「いつか自然とそれに出会えるはず」というように、受身の姿勢でいるうちは何も変わらない。

何よりも、「やりがい」という目に見えない不確かなものに執着している限り、答えが既に自分の中にあることさえ気づかず、今の状況を繰り返すことになる。

自分のアンテナに触れたものを片っ端から試してみたらいい。
「試してみたけどやっぱり違う」、そう感じるものもあるかもしれない。
「その時間をムダにした」、そう感じる時もあるかもしれない。

「ムダ」ということに拘る人がいるが、この世にムダになることは何一つ存在しない。

そのムダが、この先何に繋がっていくか分からないからだ。あえて言うなら「必要なムダ」。
それが分かるのは、多分何年、何十年先のこと。

何よりもそれを試してみなければ、「それが自分に向いていない」ということも分からなかったのだから。それだけを取ってもムダではなかったということ。

私を含め、私の周りで「やりがいのあるお仕事ができていいですね。毎日楽しそうですね」、現在そう言われる人達は、みんなそうやって「やりがいのある仕事(こと)」を見つけてきた。

「興味があったから試してみただけ」「最初はそうでもなかったけど、続けていくうちにだんだん面白くなってきて」―そんな「些細なこと」からすべてが始まった。現在の状態はそれが積み重なった結果でしかない。本人達はいたってお気楽。「やりがいとは!」などと、特に力んでもいない。

人は不安定な時ほど、その原因や理由を外に求めがちになる。
でもその答えはすべて自分の中にある。

やりがいは、見つけるものではなく、「決めるもの」
つまり、すべては自分次第ということだ。

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「利己」を主張する人達

 2008-09-24
「個人主義」と「利己主義」―「個」「己」と、それぞれ「自分」という存在が含まれていることが共通していますが、意味はまったく違います。


「個人主義」(individualism)―個人を立脚点とし、社会や集団も個人の集合と考え、それらの利益に優先させて個人の意義を認める制度。→個体主義。自由主義。

「利己主義」(egoism)―自己の利害だけを行為の基準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。自己主義⇔利他主義。

(広辞苑より)


簡単に言えばこういうことでしょうか。

「個人主義」―「私はこうしたいの。でもあなたはそうしたいと言っている。私とまったく違うのね。
それじゃ、私達が折り合える所はどこかしら?お互いが満足できて歩み寄れる地点を一緒に考えましょうよ」

「利己主義」―「私はこうしたいの。でもあなたはそうしたいと言っている。私とまったく違うのね。
だったらあなたが私に合わせなさいよ!あなたが折れるのが当たり前じゃない!」


セッションをしていても、街中にいても、テレビ見ていても、最近感じるのは「自分だけ良ければそれでいいという人が増えたな」ということ。自分の都合や損得を中心に考える人。こちらの予想を遥かに超えたその言動に唖然とする時があります。

一番分かりやすい例が、最近ドラマの題材にもなった「モンスターペアレント」。
うちのサロンには教職に就いている人も数多くいらっしゃるので、セッション中、そういった話を聞くことも多いのですが・・・

あのドラマやその他マスコミで取り上げられている内容、決して大袈裟ではないのです。
むしろ現状はそれ以上のようで・・・にわかには信じ難いような話がいくらでも出てきます。

また反対に、お子さんを持つ人達からは、学校や教師側の言動や対応についての、これもまた耳を疑うような話を聞くこともあります。

どちらの言い分にも、それぞれ共感するところ、理解するところはあります。

でもあえて言うなら、「どちらにも問題がある」と感じるのが正直なところです。

学校・教師側、生徒・父兄側・・・それぞれの話を聞いていると、大なり小なり、双方共が「相手側がおかしい、問題がある。改善すべきなのは相手側だ」というニュアンスが含まれているのですね。

それぞれの「立場」というものもあるので、それももっともなことなのですが・・・
でもそれでは問題の解決は難しいかと。

何よりも、双方の価値観やスタンスといったものにお互いが固執して譲らないので、事態が進展せず同じやり取りが繰り返され、膠着状態に陥るのですね。

でもこの「利己主義」、己の押し付け合いはこのケースに限ったことではないのです。
親子間、夫婦間、友人間・・・家庭で、職場で、学校で・・・自分の身近な日常、人間関係の中でも起こりがちです。

「相手はこうあるべき」「どうして察してくれないのか」「やってくれて当然」など等・・・

特に、自分の思っていたように相手が動いてくれない時、相手から自分の望んでいた反応が返ってこない時にイライラする場合、その根底にあるものは「エゴ(利己)」ですね。

相手に対して、自分が、自分の中だけで勝手に期待をしているということ。
「きっとこうしてくれるに違いない」、そう自分勝手に決めつけて思い込んでいるだけ。

それは相手がどうこうと言うより、むしろ自分の側の問題なのですね。

自分の期待通りのことを相手がしてくれた場合、それはとてもラッキーなこと。
決して「当然のこと」ではないのです。むしろレアなケース。

でも自分では「当たり前のこと」と思っているから、それに対する感謝の気持ちや言葉が出てこない。

そして実は、相手も同じように考えているのです。「どうしてもっと喜んでくれないんだろう?感謝されることを自分はしたのに。普通だったらこういう言葉が出てきてもいいんじゃないの?」

その結果、自分だけが尽くしているように感じられ、報われないことに対して疲れを感じていくのですね。そして自分が疲れた原因を相手に求めて非難する―言ってみれば、同じ一つの舞台上で、同じシーンを、まったく違う台本を持ってそれぞれが演じているようなもの。噛み合うはずがありません。

今、社会全体の至る所で、そういったことが起きているような気がします。
「一億総自分勝手」状態、結局自分のことだけ、「己が利益を得ること」しか考えてない―

自分を尊重することも大事ですが、それは自分の損得や権利だけを声高に叫んで、責任や原因を自分以外のものに押し付けるというような、一方的で浅ましいものではないと思います。

それはただの「自分勝手」。
そこを履き違えている人が、特に最近増えたように感じます。

自分と同じくらい相手を尊重する気持ちを持つ、思い遣る―日本人の美徳の一つとされたそれは、一体どこに消えたのでしょうね・・・相手の状況や見えない部分に思いを馳せる、考えを廻らすことができないのは、ある意味「想像力の欠如」の表れでもあると思います。

そして多分、精神的な余裕がない、ある意味「追い詰められた」状態なんでしょうね。
自分のことだけでギリギリ精一杯で他者を気遣う暇もないという。

精神的に追い詰められている人は、そのことしか頭にない、考えられないという状態なので。
現在の世相を考えると、そういった人達が増えるのも無理のないことなのかもしれませんが・・・

でもそういった世の中だからこそ、「利己」に走らず、「個人」を追求していきたいと思うのです。



・・・あなたの中心にあるものは何でしょう?「個人」ですか?それとも「利己」ですか?































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ネイティブアメリカンと友達になる方法

 2008-09-23
「ネイティブアメリカンと友達になりたいんですけど、どうしたらなれますか?」時々こんな質問をされることがある。「友達ねぇ・・・」私の答えは既に決まっている。「普通にしてたらいいんじゃないですかね」大抵の人達は「はあ、そうなんですか」と頷きながらも、分かったような分からないような釈然としない表情を浮かべるのが常である。

愛想も何もない答えだと思うが、べつに私はオーソリティーを気取って意地悪をしているわけでも、もったいぶっているわけでも何でもない。事実そうすること、「普通であること」がベストだからだ。

「ネイティブアメリカンと友達になりたい」と熱く語る人達は、大抵その時点で既に「ネイティブアメリカン大好き!」である。「彼等の哲学や生き方に共感する」「人種差別と戦っている姿がかっこいい」「スピリチュアルな世界に生きる人達だから素晴らしい」など等・・・その理由は様々だ。賞讃に近いものがある。

しかし、残酷なようだがそう思っている時点で、彼らを「賞讃」している時点で、「ネイティブアメリカンと友達になる」という望みは限りなくゼロに等しいと思ったほうがいい。

「友達」の定義の真ん中には、「対等」という言葉が存在すると思う。そして良くも悪くも「ギブ&テイク」という関係がそこには絡んでくる。そういった意味ではネイティブアメリカンと「ネイティブアメリカン・ファン」の間には、最初から対等な関係など存在していない。

そこにあるのは「信仰」「崇拝」、ある意味「片思い」にも似た一方通行の感情だけである。そして常に一方の側からだけのギブのみ、テイクのみというような不公平さ、ある種の「力関係」が生じてくる。そうなってくると、そこにはもう「友達」という言葉は当てはまらない。


正直なところ、「ネイティブアメリカンの友達がほしい」と言う人達に対して、違和感を覚える。彼らがネイティブアメリカンだから友達になりたいのか、ネイティブアメリカンだったら誰でもいいのか、「スピリチュアルでかっこいい友達」を持っていると自慢できるからなのか、そしてそんな友達がいる自分も、「上等な人間」になったような気分になれるからなのか―どうして「ネイティブアメリカン」という言葉に、そんなに過剰な反応をするのかと。

「その国の人だから」「その人種だから」そういった「条件」に惹かれて友達になりたいという考え方は、どこか偏ってないだろうか。今までの自分の人生を振り返って、置き換えてみればよく分かると思う。

学校や職場で出会った多くの人達の中から、どうやって友達を選んできたのか―中には損得勘定で近づく計算高い人もいるとは思う。だが、大抵は「気が合うから」「性格が良いから」「一緒にいると楽しいから」そんな理由で選んできたのではないだろうか。そこには相手に対する単純な、でも純粋な興味や気持ちから始まったはずである。

「友達」の選び方は、外国に行っても同じだ。お互いへの興味や人間性が最優先される。 そしてそこに「計算」が入ると、「単なる知り合い」で終わってしまう。

それに、「友達になるということ」には、相手の意志も大きく関わってくる。いくら自分が相手のことを友達だと思っていても、相手が同様に自分を受け入れてくれない限り、決して「友達」と呼ばれるものにはなれないのだ。双方の合意があって、はじめて成り立つ関係である。


私には、親しくしているネイティブアメリカンの友人が数人いるが、最初はみんな「ただの知り合い」だった。出会ったシチュエーションはそれぞれ違うが、知り合った当初の印象はそれぞれ「良い人」だった。しかし、正直「手強いな」と思った。

私の本業はセラピスト。毎日のように、様々なタイプの人達とお会いする機会がある。喩えは悪いかもしれないが、この世の中に存在する人間のサンプルを見せられているようなものだ。どんなタイプの人にも対応できる自信はある。言ってみれば仕事柄人に馴れている私が、「やっかいだな」と感じたのである。 ある意味、彼らは「やっかいで難しい人々」なのだ。

ネイティブアメリカンの人々は、大きく2つのタイプに分類できると思う。(これはあくまでも私の経験上からのものなのであり、彼らを断定するものではないことをご了承いただきたい)

「(一見)オープンな(に見える)人」と「そうでない人」である。観光客向けのツアーガイドやジュエリー・アーティスト、居留地内のカジノ、ホテルやレストラン等の娯楽施設で働く人達の大半は、「オープンな人」に属していると思う。いわゆる「人馴れしている」のと、自分の仕事の成果が収入(チップ等)に反映されることもあり、愛想も良くフレンドリーな人が多い。

いろんな意味で、彼らは人々が「自分達に求めているもの」を知っている。そして、その『役割』を演じることを厭わない。「割り切っている」と言ってもいいかもしれない。日本人を含む観光客の多くが、「ネイティブアメリカンはみんなとてもフレンドリーで親切だった」と感激する場合、大抵このタイプに出会っている。

一方、「そうでない人」は、見るからに頑なな印象を受ける。居留地内に住むお年寄りに多いタイプかもしれない。挨拶をしてもニコリともしないし、こちらが気まずくなるくらい愛想がない。無表情な眼差しで凝視したり、「もの好きなよそ者が来た」くらいの無関心な態度を取るので、慣れていない観光客等は、かなり居心地の悪い思いをすると思う。

「身内(ネイティブアメリカン)」と「部外者(ネイティブアメリカン以外)」の区別がはっきりしていて、その「境界線」は決して縮まることも、なくなることもない。そしてこの二つのタイプ、いわばネイティブアメリカン全体に共通する点は、「なかなか心を開かない」ということである。

知っている方も多いと思うが、ネイティブアメリカンと日本人は、ルーツが同じである。双方とも先祖はモンゴロイドだ。まだ地球が地続きだった頃、凍ったベーリング海峡の上を渡ってアメリカ大陸に移動したのがネイティブアメリカン、日本列島に定住した者が日本人のルーツだと言われている。

南アメリカのインディオも含むネイティブアメリカンには蒙古斑があること、近年も2000年位前のネイティブアメリカンのミイラが発見され、その細胞の組織検査を行ったところ、日本人のDNAとほぼ100%合致したという結果が得られたこと等からも、彼らと日本との関係は深いものがある。

そのことが影響しているのかどうかは分からないが、ネイティブアメリカンの哲学や文化はとてもアジア的であり、東洋思想そのものと言ってもいい。彼らの言葉や態度、他人との距離の取り方等はいろんな意味で日本人を髣髴とさせるものがある。

加えて、彼らは人を見る。「読む」と言ったほうがいいかもしれない。そして、「したたか」でもある。事あるごとに差別を受けてきたという経験から培われたものなのかもしれないが、相手の裏を読むことに長けていると思う。そして相手にはそれを微塵も感じさせないという隠す術にも。

だから、目をハート形にして「ネイティブアメリカンとお友達になりた~い」などと近寄って行くと、「痛い目」に遭うことになる。言葉は悪いが、早かれ遅かれいろんな形でそこにつけ込まれることになる。

でも、決して彼らはそれをあなたに感じさせることはない。「友達(のようなもの)」として扱ってくれる。しかし彼らにとってあなたはあくまでも「友達」ではなく、「のようなもの=都合の良い知り合い」なのである。「崇拝」という目隠しをされている限り、あなたはその事実に気づくことはない。 それくらい彼らの術は巧みなのである。


彼らと知り合って間もなくの頃だったと思う。その中の一人が「良いアーティストを知ってるんだけど」とメールで「売り込み」をしてきた。どうやら彼のナバホ族の友人の姪で、ビーズ細工をするらしい。同時に彼女の作品の写真が数枚添付ファイルで送られてきた。

正直写真で見た瞬間、ピンとこなかった。商品としても今ひとつの印象だった。ちょうど一週間後にアリゾナに向かう予定だったので、実物を見てから判断させてほしいという旨の返事を送っておいた。

そして、実際に手に取ってみたところ、やはりそれはイマイチだった。「う~ん、悪いけどうちでは扱えないな」私がそう言った瞬間、彼の顔色が微妙に変わった。「これのどこが悪いんだ!色の組み合わせだって素晴らしいじゃないか。デザインだって悪くないよ!」

彼らからの頻繁な売り込みの様子から、私を「利用」しようとしていることは前から気づいていた。当時の彼らからしたら、私は金持ちの国、日本から来たインディアンジュリーを売っている「もの好きなレディー」でしかなかったのである。はっきり言って良い金蔓、「付き合っておけば損はない、運が良ければ商売できるかも」くらいに思われていたのだと思う。

しかし、あまりにあからさまなその態度に、私も少々鬱陶しさと腹ただしさを感じていた。 こういった場合、お互いの今後の為に物事ははっきりさせておいたほうがいい。特にアメリカでは必要なことだ。ネイティブアメリカンも『アメリカ市民』である。強引さは他のアメリカ人と大差ない。

幸か不幸か、私はかなり物事をはっきり言う人間である。日本では周りから引かれることもあるが、アメリカではちょうどいいくらいのレベルになる。

「確かにデザインも色の組み合わせも素敵だと思う。でもこの部分を見てよ。ビーズが2つ分抜けているでしょ?こういう場合は普通やり直すんじゃないの?まるで虫食い痕みたいに見える。それにこの金具の接続部分ね。こんなに曲がっていたらおかしいじゃない。すごくいい加減に付けたのがよくわかるし。はっきり言って商品として売れないと思う。

もしあなたが買う側だったらこれにお金を払う?あなたは自分も買わないようなものを私に売りつけるわけ?あなたは私のことを友達だと言うけど、本当にそう?私は友達に何かを無理に売りつけようとか絶対に思わないし、やらない。むしろできないと思う。

あなた達が私のことを利用したいならすればいい。ビジネスをしたいならそれも構わない。 でもどうせ売るなら最高品質の物だけにしてよ。納得できるものなら買うから。それにビジネスに有利になるかもしれないからって、無理に友達って呼んでくれないでいいよ。「取引相手」って呼んでくれて結構。

それから、これだけは言っておくね。私はただジュエリーを売るだけのことはしたくないと思ってる。その背景にあるもの、ネイティブアメリカンのスピリットみたいなものも伝えていきたいの。あなた達の世界と日本を繋ぐ架け橋みたいな役割ができたらいいと思ってる。

正直言って、このビジネスはあなた達が思っているより儲からないよ。関税もかかるし送料も結構高いしね。利益を優先するなら私はこの仕事はしていないと思う。その点をわかってくれたらうれしいんだけどな」

私の言葉を聞いている友人の目の中に、初めて見る表情、「何か」が浮かんだ。この時からだと思う。彼らとの関係がガラリと変わったのは。「知り合い」から「友達」になった瞬間だった。


数年前の世界的なネイティブアメリカン・ブーム以来、彼らの哲学や文化に興味を持つ人達が格段に増えた。 そして彼らを高みの存在、「スピリチュアルな人々」として必要以上に祀り上げる「ネイティブアメリカン教」の熱心な信者の数もうなぎ登りだ。

当の本人達は、世間の熱狂ぶりを淡々と受け止めている。しかしその反面、彼らは自分達の「商品価値」を十分承知している。そこがネイティブアメリカンの人々の「したたかさ」でもある。憧れ賞賛という名の「信仰心」と共に近づいて来る人達を、彼らは遠慮なく利用するだろう。そこに友情は存在しない。あくまでも一方通行の関係であり、そこから先に進むことはない。


彼らが私を受け入れた最大の理由は、私が彼らを特別視しなかったことにあると思う。今までネイティブアメリカンの哲学について述べた書籍はほとんど読んだし、素晴らしいとも思う。しかし、そこで書かれていることの大部分は、日本でも昔から言われていたような、いわゆる「当たり前のこと」である。

ネイティブアメリカンだけが語れる特別な神秘ではない。読んだ人達が「素晴らしい」と思うのは、忘れかけていた大切な何かの存在を思い出した感動によるものだ。それを感じる力は最初からどんな人にも備わっている。別に特別なことでも、神聖なことでも何でもない。「ごく当たり前のこと」だ。

「あら~私達同じような考え方するのね~」とばかり、エライ人や有名な人にも臆さず平気で話しかける「大阪のオバチャンモード」で、「普通に」接していたところがよかったのだと思う。昔も今も、彼らのほうが精神性が高い「上等な人達」だなんて思ったことはない。

ネイティブアメリカンの中にだって、どうしようもない奴や性格の悪い嫌な奴はいくらでも存在する。立派な人格者もいるが、皆が皆高い精神性を持っているわけではない。彼らも私達とまったく変わらない「普通の人間」だ。ローンの支払いに四苦八苦したり、夫婦間のことや子供の成績のことで悩んだりする。決して霞を食べて生きているわけではないのだ。

実際、彼らからも、「大抵の人は、ネイティブアメリカンに対してすごく気を遣うか、あからさまに侮蔑的な態度を取るか、もしくはどう接していいか分からなくてオドオドするか、やたらチヤホヤするかのどれかだね。ミラはそのどれでもなかった。言いたい事や文句も平気で言うし。態度が自然だった。正直な人だと思ったよ」という言葉が返ってきた。

まあ私のやり方は間違いではなかったいうか、どうやら上手くツボにはまったようである。私は人によって態度を変えるということが好きではないので、彼らにも例外なく、いつもの自分のやり方で接していただけだ。

しかし、彼らも私も、お互いを完全に受け入れた、理解したとは思っていない。人種や国籍関係なく、自分以外の者を100%受け入れ、理解することは不可能だと思う。 だが、どのくらいの割合を占めるのか分からないが、その受け入れられない部分をあえて「違い」と呼ぶのなら、それを楽しむべきだ。埋めることが叶わないのであれば、お互いにその「違い」を楽しんだほうがいい。そこからまた何か新しいものが生まれてくる。


2年くらい前のことである。ネイティブアメリカンの友達の一人からメールが来た。「何これ?」少なく見積もっても500人分くらいの名前がズラーッと書き連ねてあるリストのようなものだった。すべてネイティブアメリカンの人々の名前で、住んでいる居留地名や部族名も表記されていた。

添付されていた文章を読むと、どうやらアリゾナのフラグスタッフ、グランド・キャニオン近辺にスキー場と宿泊施設を建設する計画が進行中らしい。州政府の財政状況を好転させる為、スキー客の誘致を図ろうというのだ。

グランド・キャニオンは、ネイティブアメリカンにとって聖地の一つでもある。最初のネイティブアメリカンは、グランド・キャニオンから生まれたという伝説もある。日本に生まれ育った者なら、富士山に対し何かしらの感情、畏敬の念のようなものを持っていると思う。国民全体に浸透している、いわゆる暗黙の了解があるから日本のシンボル、霊山である富士山にスキー場を建設しようなどという考えは、まずありえないだろう。

しかし、アメリカでは、グランド・キャニオンがネイティブアメリカンにとっての聖地だろうが何だろうが、「ただの景勝地」として、まったく意に介さない人々も大勢いる。多国籍国家のアメリカならではの環境であるが、そこからまた人種間の新たな軋轢が起こってくる。

メールで送られてきたリストは、スキー場建設反対の為の署名運動だった。チェーンメールのようなもので、署名をしたら次々に友人知人にメールで送っていくようになっている。一万人の署名が集まったら州政府に提出するという旨が記されてあった。おまけに私にも署名運動に加われと書いてある。

「署名って・・・ネイティブアメリカンじゃないのに?」「本当にいいの?部族名はどうすんの?居留地は?」と早速友人にメールで聞いてみたところ、「居留地はジャパン、部族はオーサカでいいさ。ハハハ!」という、思わず「ほんまかいな~」と突っ込みを入れたくなる返事が返ってきた。

そしてこうも書いてあった。「キミは僕達のrelative(親戚)だからね。参加しなくちゃダメだよ」かくして、「Mira Kashida Tribe:Osaka Reservation:Japan」という、一人の「ネイティブジャパニーズ」の署名がリストに加わったのである・・・。


彼らと出会って数年、いつの間にか「友達」から「親戚」になっていた。最初の「事件」は、今ではファミリー・ジョークになっている。

「そういえば、やたらジュエリー売りつけようとしてた時があったよね~」「またその話!?勘弁してくれよ~ちゃんと謝ったし、あれ以来売り込みはしてないじゃないか。本当はキミは日本人じゃないだろ!日本人女性はすごく従順で優しいって聞いてるぞ」「失礼な!ネイティブアメリカンって、とーってもスピリチュアルな人達なんでしょ?さっきから聞いてると、ローンの支払いとかそんな話ばっかりしてるじゃん。本物のネイティブアメリカンだったらそんな下世話なことは話さないと思うけどねー『友よ、慌てるな。風の声を聴け。その中に答えはある』とかなんとか言ってそうじゃない」「何をエルダー(部族の長老達)みたいなことを言ってるんだ!・・・まいったな」

それぞれ言いたい放題言った後、私達は一緒になってゲラゲラ笑う。そこには何のわだかまりも計算もない。 あるのは、「こいつ、おもしろいじゃん」というお互いに対する人間としての好意だけだ。

人種的背景の異なる人々と交流する時、多かれ少なかれ戸惑いを感じると思う。しかしそれは決して複雑なものではない。同じ人間として「普通に」接したらいいだけだ。自分が何をされたら嫌か、どんなふうにしてもらったら嬉しいか―同じことを相手にフィードバックしていけばいいだけの話だ。

核にあるものはこんな感じの、至ってシンプルで「当たり前のこと」だと思う。大切なのは、相手を「違う国に住む同じ人間」として扱うことだ。国籍や人種的背景を含めたお互いの「違い」を認め、受け入れること―すべてはそこから始まる。


最近ネイティブアメリカンの友人達が頻繁に私に向かって口にする言葉は、「We are same.(俺達同じなんだな)」である。それに対する私の答えも毎回決まっている。「Yeah, we are just same, there is no big difference between us.(うん、大した違いはないよね)」そして彼らもまた私の言葉に「Exactly.(まったくだ)」と深く頷くのである。

「長年会っていなかった兄弟のように向かい合おう」北米大陸のネイティブアメリカンの部族の一つ、ウマティッカ族に伝わる言葉である。彼らとの友情に「崇拝」は要らない。ただ人としての、同じ線上にいる個人としての「共感」があればいい。必要なものはそれだけだ。


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「自分が嫌い」と言う人

 2008-09-22
「自分が嫌いなんです・・・」
セッション中、たまにこう言う人がいます。

「○○な所や△△な所とか・・・もうイヤでたまりません。」
「私って良いところが全然ないんです。欠陥だらけなんです」
「自分が嫌いで自信が持てないから、他の人に対していつも気後れしてしまって・・・」
「外見も含めたすべてが嫌い」、そう言い切る人もいます。

でも最後に必ず続くのは、「どうしたら自分を好きになれますか?受け入れることができますか?」という言葉。

現在の自分を「嫌い」と否定しているとしても、「どうしたら?」と解決を求める言葉が出てくるということは、潜在意識の部分で「自分自身を嫌っている今の状態は、自分が本当に望んでいる状態でない」と分かっているから。

「自分が嫌いと言う人」と話していて思うのは、何よりも「完璧主義」であるということ。
理想やプライドがとても高く、頑固でもありますね。そして自分に厳しい。「これくらいでいい」と思うことができず、「完全であること」を追求します。でもとても心が優しく思いやりもあり、繊細で努力家・・・そんなタイプの人が多いです。

自分のことを否定するのは、「何かと・誰かと、比較している対象が存在している」ということ。

それは自分が「こうありたい」「こうあるべき」と思っている理想の自分像であったり、「あんな人になりたい」と憧れている誰かだったりします。

また、それは両親や周囲の人から「こうあってほしい」と、自分の意思とは関係なく「一方的に期待され、押しつけられた理想像」という場合もあります。

このタイプの人達は基本的に努力家ですから、「理想像」というものを自分の中に設定すると、それに少しでも近づこうと努力をするのですね。例えそれが人から押しつけられたものであっても同様です。

自分の意思で選んだものでなくても、長年に渡って子供の頃から「こんなふうになってほしい」と身近な人達に繰り返し言われ続けていたり、直接的な言葉でなくても態度で示されたりしていれば、それはある種の「暗示」になります。

繰り返し聞かされ、見せられ、感じさせられることによって、それはその人の潜在意識に刷り込まれていきます。

そして刷り込まれてきたものを、「自分の中から出てきたもの=自分の意思」と錯覚するようになります。自分からのものか、自分以外の人からのものなのか、その区別がつかないので、その期待(暗示)に応えよう(実行しよう)とします。

このタイプの人達がよく口にする「~でなければならない」「~すべき」という言葉にも、それは表れています。「やりたくないこと」を、あえて「~しなければ、~すべき」と「義務」や「強制」といった形に変換して、自分にその状況を強いるのですね。

でも潜在意識(魂)の領域は、世間の常識、人の目、思惑等にまったく縛られない「自由な部分」です。自分の意思が及ばない領域でもあります。真っ白な、自由な「素の自分」が存在する所です。
「自分は本当はどんな人間なのか」といった「自分の本質」を、そのレベルでは分かっているのです。

今の自分を受け入れられないのは、その「本質」とかけ離れた自分像を実現しようとしているから。

別の言い方をすれば、潜在意識が「今なろうとしている姿・なりたいと思っている姿は、自分の本当の姿じゃない」と教えてくれているということ。

確かに理想に向かって努力するということも大切だと思うのですが、そもそも設定したゴールが最初から見当違いのものなので、設定を見直すことが必要なのですね。

「それはどこから来るものなのか?自分自身が望んでいることなのか?」

「こうならなければ」「こうなるべき」「人からこう見られたい、こう思われたい」―
案外自分を縛っているのは自分自身だったりする場合もあります。

「自分の本質」は、意外とあなたが「~でなければいけない」「~であるべき」と思っていることの対極に存在するのかもしれません。

例えば「いつもきちんと部屋を片付けておかなければ」と思っているのなら、意外と本質は「だらしがない」のかもしれませんし、「わがままな人を見ると腹ただしい」と感じるのなら、自分のわがままを普段押さえ付けて我慢しているのかも。

正反対のものや人に反応するということは、「同質のものが自分の中にもある」ということ。

ものごとの真理は、とてもシンプル。
同じ一つのことを違う角度から見て、その結果をそれぞれ違う言葉で表現しているだけ。

英語の諺に「すべての雲は銀色の裏地が付いている」というものがあります。

雲は雨や雪や嵐を運んできます。時に災害が発生する原因になりますが、その反面農作物の生育や人間の生活に恵みをもたらしてくれます。

災害と恵み―まったく正反対のものを運んでくるものですが、実はまったく同じ、一つのものなんですよね。「雲は雲」、ただそれだけ。

長所も短所も、これと同じことだと思うのです。
視点を変えれば長所は短所にもなり得るし、短所は長所にもなり得るということ。
「表裏一体」ということですね。

自分の中の嫌いな部分、それは見方を変えれば、自分の長所になる(思える)可能性があるということ。ちょっと別の視点から見ると、案外悩むほどのものではないと思うこともあるので。

後は徐々に、自分の中のその割合を変えていけばいいだけです。

「私は自分を愛しています」とか「私は自分の存在に感謝しています」など等・・・
一日に何度も、巷に溢れるアファメーションの言葉を唱える必要はないです(笑)

いくらそういった言葉を唱えても、自分の潜在意識(魂)の部分でそう思っていなかったら何の役にも立たないので。

「意識を変える」ということは、「視点を変える」ということです。
そしてそれは、自分自身だけが行うことができるものです。
アファメーションとか瞑想とか、そういったものは一切必要ありません。

「今から視点を変える」―そう”意識して”行ってください。
「自然にできるようになる」等ということを期待しないでください。
これは自分が決めること、「やるか、やらないか」―そのどちらかです。

すべては地道な「行動」「継続」、そこから始まります。

そういった視点から、もう一度自分を見直す機会を持ってみてください。

そして、嫌いな部分が多いということは、好きになれる部分をたくさん持っている可能性があるということも忘れずに・・・















































































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伝える

 2008-09-21
カウンセリング中よく思うのは、「コミュニケーションの面で損をしている人が多い」ということ。「損をしている」というよりも、「もったいない」と言ったほうがいいかもしれない。

最も多いのは「言葉の面でもったいない人達」。「言葉の多すぎる人」と「言葉の少なすぎる人」、大体この2種類のタイプに分かれる。「~過ぎる」というように、どちらかに偏りすぎるのも、ちょっと困りものだ。

「言葉の多すぎる人」は、いわゆる「ひと言多い」と周りから言われるタイプ。今言う必要のないことまで口に出してしまって、後で「しまった!」と思うことが多い人。どちらかというと、女性に多いかもしれない。女性は話しながら考えをまとめていく特性があるので、話の中心に辿り着くまでに結構時間がかかる。

こちらの質問に対して、その時の状況から自分の感情まで事細かに説明をするので、それに関連して話があっちこっちに飛んだりすることも多い。自分が何を言おうとしたのか途中で忘れてしまうこともある。「自分で話(状況)をややこしくして、その渦に巻き込まれていくタイプ」だ。

その逆に、「言葉の少なすぎる人」は、「言葉を省きすぎる」という傾向がある。どちらかというと「必要なこと・大事なことだけ伝わればいい」と思っている節がある。特に男性に多いタイプだ。

基本的に、「話すこと=大事なこと(用件)だけを伝えること」という思い込みが強いので、相手によっては、つっけんどんで事務的な印象を受けたりする。近寄りがたいと敬遠されることも少なくない。「自分の意思とは無関係に誤解されることが多いタイプ」だ。

まったく異なる2つのタイプだが、実は共通点がある。それは「自分の言おうとしていることを(相手に)察してほしい」と思っていること。

「言葉の多すぎる人」は、「私が今まで話してきた言葉の中に、ヒントがたくさんあるでしょ?そこから私が何を言いたいのか察してよ!」と、「言葉の少なすぎる人」は、「べつに改めて説明しなくても、今までの状況を見ていれば、そんなことはわかっているだろ?ぼくが何を望んでいるか察するのは君の仕事だよ」という感じ。無意識の場合もあれば、そうでない場合もあるようだ。でもほとんどの人は、それに気づいていない。

日本には、「以心伝心」という諺がある。

【以心伝心】①(仏教・禅家で)言語では表されない真理を師から弟子の心に伝えること。②思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること。「―で通じる」(広辞苑より)

ちなみに英語では、「以心伝心」に当たる言葉は存在しない。「telepathy、tacit understanding」という言葉がそれに相当する。ある意味、日本特有の概念と言えるかもしれない。

確かに、「相手の思いを察する」ことは大切だ。だが、「自分の思いを言葉で伝える」ということも、それと同じくらい大切なことだと思うのだ。言葉を尽くして語り尽くした後、そこで初めて「以心伝心」というものが生きるのではないかと思う。

多くの言葉を費やしても相手に伝わないのは、その言葉が中心から外れているから。言葉を省くのは、「相手が自分の思いを察するべきだ」と自分勝手な期待しているから。どちらも自分が中心で「独りよがり」なのだ。それは本来の「コミュニケーション」の形からは、大きくかけ離れているものだと思う。

「この人は本当は何を言いたいんだろう?」「この人にはどんな言葉を使って話したら、自分の思いがきちんと伝わるだろうか?」そういった気配りの姿勢を忘れている人が多くなってきているような気がする。

「お腹は空いてないかな?」「トイレに行きたいのかな?」「どうしたら泣き止んでくれるのかな?」まだ言葉が話せない赤ちゃんやお互いの言語が違うペットにはそういった気配りをすると思う。それと同じことを相手にしたらいいだけ。


今日近所のスーパーで、まだヨチヨチ歩きの男の子と30歳くらいのお父さんが買い物していた。まだ喋ることのできない赤ちゃんだが、店内に置いてある物を指で差しては、お父さんに向かって、一生懸命に何か言っている。

そのお父さんも、大人には理解不可能な「赤ちゃん語」で喋るその子に対して、「うん、そうだね~」「これ?これはにんじんさんだよ~にんじんっていう野菜。昨日食べたよね?」と面倒くさがらずにその都度ちゃんと答えてあげている。そんなお父さんに、赤ちゃんはとても満足そうな顔を見せていた。

そんな二人の様子を見ながら、「コミュニケーションの本来の姿って、こういうものかもしれないな」と改めて感じた今日の夕方。























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変われない人(2)「その人に足りないもの」

 2008-09-20
世の中に溢れている自己啓発セミナーや個人セッションの「必須項目」とも言えるのが「イメージワーク」。

「成功した自分の姿や、その時の情景を思い浮かべてみましょう」「さあ、今あなたは自分が心から望んだ状態になっています。今あなたが感じている感情をリアルに味わってください。そしてそれを常に思い出すようにしてください」など等・・・

主に「願望実現」のための「ツール」として取り入れられているパターンが多いようです。コーチングやNLPの要素の利用ですね。

確かに「イメージすること」は大切だと思います。
実際にスポーツ界ではトレーニングの一環として「イメージング」を導入していますし、その効果は科学的実証もされています。

アインシュタインも「あなたの持っている最もパワフルなツールはイマジネーション、想像力である」と述べています。

多くのアスリートが競ってトレーニングメニューに取り入れ、その実際の効果も幅広く認識されている「イメージング」・・・それなのに「一向に効果が出ない」という人が、なぜ存在するのでしょうか?

特に自己啓発のためのイメージングが功を奏さないことが多い理由は何でしょう?


「変われない人(1)その理由」でも触れましたが、「自分に対する信頼感の欠如=無価値感」にその根本の原因があることはもちろんですが、その他にも理由があります。

それは「ただイメージしただけで終わり」ということ。

「変われない人」の中でも、特に「自分のイメージが実現しない人」の大半は、この部分が大きな要因だと思います。

その人達の話を聞いていると、大きな一つの共通点があります。それは「イメージしたけれど、その後は何もしなかった」・・・

その人達は、本当に「何もしない」のですね。「アクション、行動がまったくない」のです。

ただ「『なりたい自分』『成功している自分』を思い浮かべてさえいたら、いつか必ずそうなるはず」
「イメージさえしていれば何もしなくても自然とそうなれる」・・・そういった思い込みでイメージングを捉えています。

行動を伴わないイメージは、ただの「妄想」です。
そこを勘違いしているから、根本から違っているから、いつまで経っても何も変わらないのですね。

物事には順序があります。それと同じように「変化」に至るまでには「順序」や「プロセス」があります。

まず、今の自分自身やその状況を、感情や「良い悪い」等のジャッジ抜きで「今の私や状況はこうなんだ」と、ありのままに観る「認識」、

そして、「自分はこうなりたい、それではどこを変えていったらいいんだろう?それじゃ、ここを改善していこう。それにはこれとこれをすることが必要だからやってみよう」と、実際に何らかのアクションを起こす「行動」、

そしてその行動を「継続」すること、

「認識」→「行動」→「継続」→「変化」・・・この順序です。

「変われない人」は、この中の「行動」「継続」がすっぽりと抜け落ちています。
もしくは「行動」したけれど、1~2回だけ試して「継続」しない。

・・・大体その内のどちらかです。

アスリートのイメージングが成功するのは、「行動」「継続」があるから。

そのイメージに近づくために、イメージした最高のパフォーマンスを実際にできるようにするために、日々努力しているから。イメージだけして練習をしなければ、何の意味もありません。

イメージだけですべての目標や願望が叶うのであれば、この地球上から「努力」といった言葉は、とうのの昔に消えているでしょうね。何よりも、そんな「おいしい話」は存在しません。

「将来はプロのピアニストになっている」とイメージしても、その人がピアノが全然弾けなければそれは実現することはないでしょう。でもピアニストになるためにまず必要なこと・やるべきこと・・・例えばピアノを習い始めたり等、何らかのアクション起こせば結果が変わってくる可能性が大きくなってきます。それと同じこと。


私がヒプノセラピーのセッションでよく言うのは「根拠のないイメージは存在しない」ということです。

イメージできるということは、自分がそれを「既に知っているから」。

つまり、自分を、自分の中に存在するものを確信しているということなのです。
自分が、イメージしたものを達成できることを(自分の潜在意識下で)知っているから、そのイメージができる。

そしてそのイメージをしている自分自身を信じてこそ、イメージングは初めてその力を発揮するのです。しかしそれも、「やるべきことをちゃんとやる、努力する」という前提での話。

「変わらない自分」「実現しないイメージ」・・・その部分で悩んでいるなら、今必要なのは「イメージの向こう側」に行くことではないですか?

イメージは魔法でも、奇跡を起こす杖でもありません。
あくまでもがんばっているその人をサポートするための「一介のツール」です。

喩えるなら、「シンデレラ」に出てくる魔法使いのおばあさん。
彼女は魔法を使って、シンデレラにお城での舞踏会に出席する機会を与えてくれました。
素敵なドレス、立派な馬車や従者達・・・

なぜシンデレラは王子様と出会えたのでしょうか?

なぜならシンデレラが「舞踏会に行きたい」、自らそう望んで行動したから。

ドレスや馬車が用意されたとしても、もしシンデレラが尻ごみをして行動を起こさなかったら?
用意された馬車に乗らないという選択もあったはずでは?

つまりは、すべては自分次第ということ。

魔法や奇跡を起こすのは、あなた自身です。


■J・Pモルガンの言葉

「どこかに辿り着きたいと欲するならば、今いる所には留まらないことを決心しなければならない」

J・Pモルガン(広辞苑より)
モルガン商会を興し、鉄鋼トラスト・鉄道・海運・工業・通信・銀行等に広範な支配網を確立したアメリカ人実業家。1837年生まれ~1913年没











































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「思い込み」と「決めつけ」

 2008-09-19
セラピストの仕事をする上で、「これだけはしてはいけない」ということがあります。

それはセラピーを受けに来る人、クライアントを「第一印象や自分の感情や思い込みで、その人を決めつけない」ということ。

セラピストに求められる条件はいろいろありますが、それは「何をおいても優先しなくてはならないもの」「大事にしなくてはならないもの」であると、私は思っています。

20代はアメリカで日本語教師、メーカー勤務のOL、
30代は翻訳、インディアンジュエリーの輸入・販売の自営業・・・といった具合に、どちらかというと人と接する機会の多い仕事をしてきましたが、ヒプノセラピストの仕事では、そういった経験を遥かに上回る数の人との出会いがありました。

「地球上に存在する人間のサンプル」
それを日々の仕事で見せられている気がします。

その人達を、性格や特徴等でグループ分けしていくと、皆さんどこかのグループには必ず該当するのですが、やはりそういった条件だけで一括りにはできない「複雑さ」というものが人間にはあります。

同じように見えても、それぞれはまったく違う存在―それが「人」、「個人」なのだということを認識させられる毎日です。


世間では、セラピストやカウンセラーは「誰にでも優しく分け隔てなく、世話好きで温和な人」といったイメージで見られているようです。そしてそれは他の職業においても同様だと思います。

警察官は正義感の強い人が多い。
公務員は真面目で勤勉な人が多い。
芸術家は風変わりで神経質な人が多い。

といったような「イメージ像」というものが存在します。

世間一般のセラピストのイメージで私自身を見ていくと・・・ある意味「規格外」ですね(笑)
世間でのイメージを満たしていくのなら、セラピストに向いているのは神様仏様だけになると思います(笑)

セラピストも人間ですから、やはり人に対して」「相性」といったものを感じる時もあります。
クライアントの中には「苦手だな」と感じる人もいますし、ご予約段階のやり取りで、相手の言葉遣いや口調、態度等にムッとすることもあります。

こういったことを言うと「え!?」と驚かれる人がいらっしゃいますが、それは多分、その人が抱いている「セラピスト像」に反しているからでしょうね。自分が持っているイメージを覆されることへの驚きなのだと思います。

ある意味、「イメージとは、個人の勝手な思い込みである」という言い方もできると思います。
実は、すべて「に違いない」という言葉が続きます。

警察官は正義感の強い人が多いに違いない。
公務員は真面目で勤勉な人が多いに違いない。
芸術家は風変わりで神経質な人が多いに違いない。

日本中の警察官が一人残らず正義感が強いとは限りませんし、明るく陽気で大雑把な芸術家もいます。

そしてそれは職業に関してだけでなく、個人に対しても同様です。

数年前のことですが、ある一人の女性から始まって、その人の職場の同僚や上司が連続して10人セッションを受けにいらっしゃった時がありました。

もう10年以上そのメンバーで仕事をしているので、気心も知れ、プライベートでも付き合いがあり、まるでもう一つの家族のような関係だということでした。

でも興味深かったのは、10人それぞれが「でも私がこんなことを考えて悩んでいるなんて、皆は夢にも思っていないと思います」というようなことをおっしゃるのですね。

私は全員を知っていますから、そうでないことは分かっています。
でも守秘義務がありますから、それを他の人に話すことはできません。

その中の一人、Aが「Bさんはすごく明るくて性格も良くてみんなから好かれるし。何の苦労もしたことのない人が、あんなふうになれるんでしょうね。うらやましいです」とおっしゃいました。

でもそのBさんは「何の苦労もしたことのない人」ではありません。むしろその逆です。
Aさんの言うところの「明るくて性格も良くてみんなから好かれるBさん」になる現在までに、多くの紆余曲折やご苦労があったのです。


「人は自分が見たいように見て、聞きたいように聞いて、思いたいように思う生き物」だと思います。

「あの人達は~に違いない」「あの人に私の気持ちなんか理解できっこない」
でも、実際に確かめたこともないのに、どうしてそう断言できるのでしょう。

思い込みや決めつけのフィルターを通して人や物事を見ていくと、その「本質」は見えてきません。
その人や物事の今見えている部分だけ、表面上だけを見ているだけでは、真実は永遠に見えないままだと思います。

むしろ見えない隠れている部分に、それは隠れていることが多いのではないでしょうか。
「察する」ということですね。「思いやる」とも言えると思います。

思い込みや決めつけは自分自身を閉ざすことに繋がっていくと思います。
「自分をオープンにする」ということは、「思い込みや決めつけを捨てて、人や物事を見るということ」、私はそう考えています。

「私はこの人達のことをよく知っているし、十分に理解している」

・・・本当にそうでしょうか?
最後に「に違いない」は付いていませんか?

「自分は大丈夫、できている」と思っている時ほど、本質からかけ離れている場合があります。

「(この人の中には、この中には)まだ自分の知らない部分、実はよく見ようとしなかった部分があるのかもしれない」

そういった「謙虚」な気持ちを忘れずに、思いこみや決めつけを捨てて、自分の周りの人達や物事を、今一度見直してみてください。

























































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変われない人(1)「その理由」

 2008-09-18
ヒプノセラピーのセッションやカウンセリングをしていて思うのは、「変わりたい」と思っているのに「変われない」と悩んでいる人がとても多いということ。そして、その人達は「原因はすべて自分自身にある」と分かっています。

分かっているのに「でも・・・」と、なかなかその場所から進めない。
「変わりたい」という気持ちとは裏腹に、実際に足踏みしているままの自分自身が歯痒くて、これといって悩んだ様子もなく「楽に生きている(ように見える)人」がとても妬ましく思えてくる。そして他人をそんなふうに思っている自分に対して、ますます嫌悪感や無力感を覚えてしまう―

そういった、出口のない「思考のループ」に陥っているパターンがよく見られます。

セラピーを受けに来る人は「真面目な人」が多いです。
どうしたら自分自身をより高めることができるのか、人生をより意義あるものにするにはどうしたらいいのか―そういった意識がとても高く強い人・・・という印象を受けます。

学歴が高いとか、勉強ができるということではなく、世間一般で「頭がいい」と言われる人。

自分を磨くことに対して熱心ですから、かなりの数のこういったセッションや自己啓発セミナーへの参加経験を持ち、多くの関連書籍も読んでいます。

それなのに、なぜかそういった人ほど「変わりたいのに変われない」という悩みを口にします。
「今の自分や状況を変えたくて、セミナーにも出席したり本もたくさん読んできました。そこで言われたことや書かれていたことは全部やりました。でも何も変わらないんです・・・こんな自分はダメな人間なんでしょうか?」

「ダメな人間だから変われない」ということはありません。
そして「変われない自分はダメな人間」ということでもないのです。

「変われない人」を見ていると、そこには一つの共通点があります。
それは「自分自身を信じていない」ということ。

自己啓発セミナー等でよく、「そうなったところ(成功した場面・うまくいった場面等)をイメージしてください」と言いいますよね?

興味深いのは、「イメージ通りに実現した人」「イメージしたけど実現しなかった人」に二分化されることです。

「その差」は何か?

まず「実現した人」に見られる大きな特徴は、イメージに限ったことでなく「それを信じて疑わない」ということです。そのイメージを、そのイメージ通りの成功を自分が成し遂げることを、自分がその成功を成し遂げる人間であることを信じている―

「イメージを作り上げる」というよりは、「なるほど。やっぱりこうなるのか」と、むしろ「自分の潜在意識の奥にあるものを、それによって再確認する」という行為に近いような感じです。「確信」をより深める感じ―と言ったら分かりやすいでしょうか。

そして「実現しなかった人」の共通点。
よくよく話を聞いてみると、「実現しなかった人」は、押しなべてこんなことを言うのです。

「イメージする時『こんなふうになればいいな』と思っていましたが、どこかでそれを疑っている自分もいました。『イメージして実現するなんてあり得るのか?今までそれほど自慢できることもしてこなかった自分が、こんな大それたことをできるんだろうか?』という思いがどこかにありました」

結局のところ、「イメージしたものを成し遂げる力が自分にはない、自分はそれを成し遂げる力を持たない人間だ」と、”別の意味で”「自分を信じている」ということ。

加えて、「実現しなかった人」のイメージは現実からかけ離れたものであることも多いです。
イメージと言うより、むしろ実現不可能な「妄想」に近いものと言えるかもしれません。

実はこれも「自分を信じていない」ということの裏返しなのですね。

過去記事でも触れましたが、人は皆、本能的に「変化」を恐れる生き物でもあります。
「自分を信じない人」は、特にこの要素が強いような気がします。
「イメージ通りになる」ということは、何らかの形で今の状況が「変化する」ということを意味します。

「実現不可能に近いと自他共に認識しているゴールを設定すれば、それが実現する可能性が低くなる→可能性が低ければ、自分が変化する確率も下がるし、なんだかんだ言っても今のままが楽だ。変化するのは今まで経験したことがない状況だから不安だし怖い。もしそうなったら自分は対処できるだろうか?そうは思えない→だから実現不可能に近いことを設定しよう。そうすればそういったことを経験しなくてもいいんだから」

と、いうような思考パターンになります。

自分が変わらないことを、周りの人や環境等のせいにする人というのは、実はそのほうが楽だから。
でもそれが筋違いということは、その本人自身よく分かっている。
だから最終的に自分自身の中に、セミナーやセラピーを通じて、その理由を見い出すことに向かうのだと思います。

それは自然な流れではあるのですが、そもそもの原因が「自分に対する信頼感の欠如=無価値感」と結びついていることに気づいていないので、余計混乱して自分を否定する気持ちが強くなってしまうのですね。
混乱したままの状態で答えを求めて歩くから、「セミナー・ジプシー」「セラピー・ジプシー」を卒業できない―


「自分を信じていない人」は「(誰も・何も)信じられない」と、よく口にします。
でもそれは「信じられない=できない」ではなく、「信じない=しない」と、自分で決めているのだと思います。結局のところ、それは「できる、できない」の問題ではなく、「するか、しないか」なのです。

「変わりたいのに変われない」も同じこと。
変わりたいと思っているのなら、変わったらいいのです。
誰にも止める権利はありません。

「でもそんなことを言ったって・・・」と思うのであれば、それは単なる「言い訳」です。
「変われない自分(変わらない自分)」を正当化したいだけ。
本当は自分自身がそれを望んでいないということ。

物事の真理は「シンプル」だと思います。
「やるのか、やらないのか」「好きなのか、嫌いなのか」・・・そういうものだと思います。

「できる、できない」といったような、目に見えない曖昧な、正解が用意されていない、ある意味不安定な部分に縋ろうとするから、余計苦しくなるのではないでしょうか。

もし「できない」という観点から自分や物事を見ているのなら、現状は変わらないと思います。

あなたはどちらですか?
「する、しない」で決めることを、「できる、できない」の観点で考えていませんか?

「自分はそれを成し遂げる人間である」ということを信じていますか?

自分の思考・感情が行動と噛み合っていないと感じるのなら、自分自身を見直す「サイン」なのかもしれません。

迷ったら、答えを出すことができないのなら、自分自身に問いかけてみてください。
「どうしたいの?どうなりたいの?」
・・・最初に浮かんだ答え、それが自分の潜在意識からの、魂からの声です。




















































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魂は知っている

 2008-09-16
ヒプノセラピーを受ける理由は人それぞれ違いますが、多かれ少なかれ、どんな人にも「変わりたい」という欲求がそこに含まれているようです。今の現状から、今の自分から・・・より良く、より大きく、より楽しくなるために・・・そのきっかけを求めてセッションを受けに来られるのですね。

暗示によって深い催眠状態に入ると、潜在意識に到達します。そして人によっては、更に深い超意識―自我を超えた「自分の中の内なる神」が存在する部分まで行く場合もあります。

潜在意識も超意識も、「自分の魂の本質」の部分です。
そこには人の目や思惑、常識、これまでの人生で経験したことから、知らずに身に付けてしまった思い込みや決めつけ等、日常自分を縛る要因となるものはまったく存在しません。

真っ白で、何にも縛られることのない、誰にも汚されることのない自由で無垢な領域です。

そしてそこには、「すべての答え」が存在しています。
すべての過去生の記憶はもちろんのこと、今現在自分が悩んでいることに対する解決方法も、3年後、10年後、未来の自分がどこにいて、何をしているのかも・・・すべて、潜在意識・超意識下では「既に」知っています。

精神世界では「すべての答えは自分の中にある」と言われていますが、「自分の中」というのは、実は「自分の潜在意識・超意識の中」ということなのです。

時々「自分の中に答えがあるなら、どうして今こんなに悩んでいるんでしょうか?」と疑問を口にする人がいらっしゃいます。無理もないですよね。
「答えがあるなら、それを見つけてさっさと次に進みたい」、誰でもそう思うでしょう。

でも、その「さっさとスルーして」の部分に、実はとても深い今生での学びのテーマが隠されていることがあります。この世に生まれてくる前、魂だけの状態の時に「今度は絶対にこれを学ぼう」と、自分自身が納得して決めた「課題」です。
「課題」ですから、それをきっちり終わらすまでは、そこはスルーできないようになっています。

昔いませんでしたか?手をつけていない夏休みの宿題を提出するまで、何ヶ月経っても忘れてくれない先生(笑)あんな感じですね(笑)取りかかるまで、終わるまで、それから離れることはできません。

そしてなぜか、その課題は「今生で自分が苦手なこと・人・物、嫌いなこと・人・物」の中にあることが多いようです。肉体を持つ前の魂は、それはそれは「チャレンジャー」ですから(笑)、あえて苦難な道を自ら進んで設定するようです。ある意味「マゾ」です(笑)

でもなぜそういった苦難の中に課題を設定するのか・・・
それは道が険しければ険しいほど、そこに到達することがどんなに素晴らしいものになるのか、既に魂のレベルで知っているからだと思うのです。そしてどんなに険しく辛い道のりであったとしても、必ず自分はやり遂げることができるということも。

またそれは、過去生で終わらせることができなかった「課題の残りの部分」なのかもしれません。
人によっては同じ一つの課題を、幾つもの過去生を通して学ぶということもありますから。
「3つの過去生を通じて8割まで終わらせた。今生では残りの2割をがんばって終わらそう」と計画している場合もあるのです。

もし「今の自分・今の状況」を「辛い」「苦しい」と感じているのなら、目を背けることなく、あえて直視してみてください。「勇気をもって」「真面目に」「一生懸命に」といった形容詞は一切必要ありません。
「観る」―ただそれだけです。

それを観た時、何か気づくことはありませんか?何か浮かんでくるものはないですか?自分の中から湧いてくる思いや感情は?以前にも同じような状況や思いを経験したことは?

そこで気づいたことの中に、繰り返される「パターン」の中に、あなたの魂の課題が存在しているのかもしれません。ひょっとしたら課題にとりかかる「チャンス」であり、適切な「時期」が来たのかもしれませんよ。恐れることなく、向き合ってみてください。いずれにせよ、「それとどう向き合ったらいいのか」「どうしたら乗り越えられるのか」「何をそこから学ぶのか」・・・あなたの魂はすべて知っていますから。
















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潜在意識の不思議

 2008-09-15
ヒプノセラピーのセッションを受けにサロンに来られる理由は、人それぞれ。
年齢、職業もそれぞれです。

サラリーマン、OL、主婦、学生、医師・看護士・臨床心理士・カウンセラー等の医療従事者、弁護士、会計士、俳優や歌手等の芸能関係者、教師、自営業者、作家、デザイナー・イラストレーター等のアーティスト、下は19歳から上は77歳まで・・・と、実にバラエティーに富んでいます。


ヒプノセラピー(催眠療法)は、「催眠」に「暗示」をプラスした心理療法です。

日本でもよく知られている、アメリカの精神科医 ブライアン・ワイス博士の著書「前世療法」「魂の伴侶」等の影響か、「ヒプノセラピー=前世療法(過去生回帰)」と認識している方が多いですが、それは違います。

「ヒプノセラピー(催眠療法)」という、一つの大きなカテゴリーがあり、それを構成する要素の一つが「前世療法(過去生回帰)」であり、「インナーチャイルド」等である・・・と考えていただければいいかと思います。(ヒプノセラピストを自称している方達の中には、この違いを認識していない方・説明できない方もかなりいらっしゃるので仕方のないことかもしれませんが・・・)

そしてそこには、心理カウンセリングや心理分析、NLP(神経言語プログラミング)、コーチングはもちろんのこと、暗示や潜在意識等の超心理学、輪廻転生思想等の精神世界・哲学・宗教学等に関する要素が含まれています。別名「世界最古の心理療法」「心理療法の母」、それがヒプノセラピーです。

最近では「イメージ・トレーニング」という呼称で、特にスポーツ分野において広く認知されるようになってきました。いわゆる「スポーツ催眠」です。欧米ではオリンピック選手をはじめとし、多くのプロスポーツ選手がヒプノセラピストと契約を結ぶのは当たり前の状況になってきているようです。

日本国内でも、プロ・アマを問わず、何らかの形でイメージトレーニングを取り入れるアスリートが増えてきています。それは、意識・無意識に関わらず、潜在意識に刷り込まれる「イメージ」の力がどれだけ「現状(結果)」に大きな影響を与えるか・・・科学的な実験が行われ、その成果が実証されたことも大きなきっかけになったと思います。

スポーツ選手に限らず、人は誰でも何らかの形で「暗示」を潜在意識に刷り込まれています。
それは「普通の日常」の中に、「普通に」存在します。

分かりやすいところでは、テレビのCM。
音楽(メロディーや歌詞)やキャッチコピーと商品を結びつけ、そのイメージを消費者の潜在意識に刷り込んでいきます。

最近では、スタジオジブリ制作「崖の上のポニョ」でしょうか(笑)
「ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子~」というあのフレーズが脳内で延々とループされる・・・そんな方が多かったのではないでしょうか。
実は私もその一人(笑)無意識に口ずさんでいることに気づいて赤面したこともありました(笑)私の周りでもあの歌が頭を離れずに、映画館に行った人が数名います(笑)

あれも潜在意識への「暗示」です。
ある一定のリズムや言葉を繰り返すことで、その暗示はそれぞれの潜在意識に刻み込まれていきます。加えて、それは好き嫌い等、本人の意思とはまったく無関係に刷り込まれていくのです。

そしてその「暗示」は、CMだけに限りません。
身近な人、例えば一緒に生活をしている家族から長年言われ続けている言葉等にもそれは含まれています。

整理整頓が苦手な人が、子供の頃から母親に「本当にだらしのないダメな子ね!」と長年言われ続けたとします。そうするとその人の潜在意識は、母親に言われた「だらしのないダメな子」という言葉をそのまま写し取ります。カメラがファインダーの中に見えている景色をそのまま写し取る・・・それと同様のことが起こるのです。

そこには良いとか悪いとか好きとか嫌いとか、正しいとか間違っているとか、そういったことは一切関係ありません。ただ目の前のあるものをそのまま写し取る・・・ある意味、未編集の記録映画のようなものです。

ですから本人がその言葉を(顕在意識上で)まったく気にしていなかったとしても、「自分はだらしのないダメな子」という「暗示」は、そのまま潜在意識に記録されます。そしてそれが自分が自身に抱いているセルフイメージ等に、思いもかけない影響を与えることもあるのです。

これはある年配の女性のケースですが、「悲しいのに、どうしても泣けない」という方がいらっしゃいました。とても感受性の強い、人に対する共感能力がとても高い方なのに、「なぜか泣けない。自分で意識して涙や泣くことを無理に止めているような気がする。でもいくら考えても原因が分からない」とおっしゃるのです。

年齢退行をしてみたところ、原因が分かりました。
何十年も前の幼児だった頃、ある時母親に「泣く子は大嫌い!」と言われたことがその原因でした。育児中の親であれば、誰でもこういった言葉を口にすることは少なくないと思います。
彼女の母親からしてみても、それ以上の他意があって言った言葉ではなかったはずです。

でも、彼女の潜在意識は「泣く子は大嫌い!」というその言葉を
「大好きなおかあさんは泣く子は嫌い→泣いたらお母さんに嫌われる→おかあさんに嫌われるのはイヤ→だから私は泣いちゃいけない」という暗示として受け取ったのです。

半世紀以上も前に言われた母親の些細な言葉が、自分の感情面にこれほどまでに大きな影響を与えていたことに対し、その方はとても驚くと同時に、潜在意識の持つ不思議さも感じていたようです。
セッション中、深い催眠状態に入りながら、今まで流せなかった涙を取り戻すようにずっと泣いていらっしゃいました。

セッションから1週間後くらいだったでしょうか。
その方からお礼と、その後の報告を兼ねたお手紙をいただきました。

自分が泣けない理由が分かって、とてもすっきりしたこと、
半世紀以上前の、自分でも完全に忘れかけていた光景が鮮明に蘇ってきて驚いたこと、
不思議なことに、セッション以来自然と涙を流せるようになったこと、
そのことに対して驚きと共に、当たり前のことを当たり前にできることの喜びや感謝の気持ちが湧いてくること・・・

そういったことが、とても温かい言葉で綴られていました。
その最後に、「最近では子供達に『おかあさん、また泣いてるの?よく泣くね~』と呆れられるようになりました」と書いてありました(笑)

「なぜ彼女は泣けるようになったのか?」
それは、潜在意識で彼女が自分自身にかけた「泣いてはいけない」という暗示を解いたからです。
そして、「いつでも自分が泣きたい時に泣ける、泣いていい」という新しい暗示を入れたから。

でも新しい暗示が功を奏したのは、彼女自身が「それを望んだから」です。
潜在意識の世界では、本人が望んだことしか起こりません。

もし彼女の潜在意識のどこかに「やっぱりこのままでいい」「泣くことができるようになったら、自分はどうなるのだろうか」等という「変化への不安や恐怖」があれば、彼女は今でも泣けないままでいるでしょう。

人間とは不思議な生き物です。
自分にとって、その変化がどんなに良いものであると分かっていても、どんなにその変化を自分が望んでいたとしても、長年慣れ親しんだ自分が今いるその状況を心地良く感じて、離れがたくなるのです。たとえ今自分がいる場所が、どんなに自分にとって「不都合だ」と感じていたとしても。
そしてそれは、そこに存在した年数と比例する傾向があるようです。

変化への不安や恐怖は、動物としての「本能」から来るものです。
多かれ少なかれ、誰にでもあります。
でも「変わる人」と「変わらない人」の差は、そこにあるのではないでしょうか。

口では「変わりたい」と言っていても、潜在意識ではそう思っていない場合があります。
「変わらなければ」「変わったほうがいい」「変わるべき」・・・そういった「脳=顕在意識」で考えて出てきた「変わりたい」は、実は潜在意識からのものではありません。

本当に潜在意識からのものであれば、まず「行動」が伴うはずです。
ですがそうでない場合、行動を起こさないので、それに付随する変化は当然ながら起こらない・・・ということになります。

「なかなか状況が変わらない」、「変わりたいのに変われない」「イメージしているのに実現しない」
そう感じているなら、その思いがどこから来ているのか・・・もう一度自分自身に問いかけてみてください。

「自分の中のことなのに自由にできない。なんでだろう?」そう思う方もいらっしゃるかもしれませね。でもそれが潜在意識の、一番不可思議で興味深い部分なのです。

































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10月の自死遺族グリーフケアの会開催日時

 2008-09-14
10月のグリーフケアの会、開催日時のお知らせです。


■日時 : 2008年10月5日 13時~16時

■場所 : ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ内

■参加費用 : 無料

■参加定員 : 4名(先着順)

■申し込み方法 : 10月3日までに、メールまたはFAXで参加希望の旨をお知らせください。

*詳細は以下をご覧ください。





■参加資格 : 原則として「自死遺族」であること          

・父母・兄弟・姉妹・子供・配偶者等、故人と「家族・親戚関係」にある人
          
・故人と、婚約者・恋人・親しい友人関係にあった人


■参加条件 : 特にありません(年齢・性別・宗教等は問いません) 
ただし、現在精神科・心療内科に入院・通院中の方で参加ご希望の方は必ず担当医にその旨を伝え、参加許可を得てください。


■参加費用 : 無料


■開催場所 : 「ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ」内
地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車⑨番出口より徒歩3分)
詳細な地図は、①ブログ右側の「リンク先」から「ヒプノセラピー カンテ・イスタ」をクリック
→サイト内の「アクセスMAP」をご参照ください。


■開催日時 : 毎月第1日曜日 午後1時~4時


■定員人数 : 4名(最多時)


■参加方法 : メールまたはFAXで申し込み

・メール(PC・携帯)でのお申し込み : info@cante-ista.jp

*PCご利用の方へ:当方のプロバイダーはyahooです。yahooメールを受信拒否設定にしている方は、設定を解除してくださるようお願い致します。

*携帯メールご利用の方へ:PCからのメールを受信拒否に設定している方は、設定を解除してくださるようお願い致します。


・FAXでのお申し込み : 06-6443-6807

申し込み時に、「氏名」「緊急連絡先(電話番号・メールアドレス)」「故人との関係」を必ず記入してください。
尚、お申し込みをいただいた時点で、既に定員数に達している場合は、翌月に回っていただくことに
なりますので、その旨ご了承くださるようお願い致します。早目のお申し込みをお勧めします。

お申し込みをいただいてから、1~2日以内に折り返しご連絡をさせていただきます。
2日以上経っても返信がない場合、こちらにメールやFAXが届いていない可能性があります。
もしくは、参加希望者側のPCや携帯の受信設定でこちらからのメールが届かないということも時々あるようです。

その際は、受信設定や迷惑メールホルダー等を確認した上で、再度ご連絡をいただけますようお願い致します。


■留意事項

①グリーフケアの会は、「グループシェアリング」という、複数の人々が同時に集い、話し合うスタイルを採択しています。最大定員数は5名(主催者の樫田ミラを含む)を想定していますが、
申し込み状況によっては、定員数以下での開催となる場合もありますので、ご了承ください。

また、会に出席する際、他の参加者にプライバシー(氏名等)を晒したくない場合は、
「匿名」での参加も可能です。お申し込み時にその旨をお知らせください。

②会への参加は、参加者の意思に任されています。
「継続的に参加し続けなければならない」といったような強制等は一切ありません。
ご自身が「一度の参加で十分だ」と思えばそれで結構ですし、「また参加したい」と思えば、
いつでもお好きな時に参加していただけます。完全に個人の自由意思です。

③宗教の勧誘や物販等の「利益」を目的とした参加、精神医学・心理学等の「研究」目的の参加・見学等を前提としたお申し込みは固くお断り致します。
もし、他の参加者からその旨に関する苦情や訴えがあった場合、理由の如何を問わず、
今後の会の出入りは禁止させていただきますので、ご了承ください。

④参加者の個人情報は、法の定める守秘義務に基づき、厳重に保護されます。
参加者の氏名、会で話された内容等、プライバシーに関する事項は、一切外部に漏れることはありませんので、ご安心ください。

⑤やむを得なく会を欠席される時は、必ず事前にご連絡くださるようお願い致します。


■その他

尚、主催者のプロフィールをお知りになりたい方は、
①ブログ右側にある「リンク先(ヒプノセラピールーム カンテ・イスタ)」をクリック
→②サイト内、「セラピスト紹介」の項目をご覧ください。
          





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「あの人」が逝った理由

 2008-09-14
母が亡くなって、今年でちょうど20年になる。

やはり「時間薬」のせいだろうか。冷静に当時のことを振り返り、母に対する思いや自分の感情を整理できるようになった。日を追うにつれて、「あのこと」は「思い出」になりつつある。

それは「無理に記憶から消す=忘れる」ということではなく、20年という時間をかけて、いつの間にかここに辿り着いた・・・そんな自然なものだ。

アルバムを捲りながら、「こんなこともあったよね」と、ある種の懐かしさと共にその当時を思い出す・・・といったような「淡々とした感じ」と言ったら分かりやすいだろうか。

だが、その反面、月日が経つごとに深まってくる思いがある。それは「なぜ母は自殺という道を選んだのか」ということ。

母は家族全員、一人ひとりに宛てて遺書を残していた。自殺ということもあり、それは証拠書類として警察に押収され、今でも戻ってこないままだが、私に宛てたその手紙の文章は今でもはっきりと覚えている

私は一人でもきちんと生きていける子だから何の心配もしていないこと。人生を自分の思ったように生きていきなさいということ。ただ、結婚・出産といったような、母親の助けが必要になってくるこれからという時に、力になってあげられないことや、自分の自殺が私の人生に大きな支障を与えてしまうかもしれないことに対する謝罪の言葉。でももう自分の気力が限界で、これ以上家族に迷惑をかけたくない―。

そういった心情が、便箋2枚に渡ってびっしりと綴られていた。他の家族に宛てた手紙も読んだが、やはり共通しているのは「これ以上家族に迷惑をかけたくない」ということだった。

母が、ああいった道を選んだきっかけは「病苦」だと思う。彼女自身も遺書にそう書き残している。私達家族も、当時はそう思っていた。だが、彼女がこの世を去ってからの時間と反比例して、そのことを疑問に思う気持ちがますます強くなってくるのだ。自殺者の家族や、その周囲の友人・知人を含む自死遺族達を長年苦しめるのは、実はこの部分だと思う。「あの人はなぜ自殺したのか」

これは、遺書等の有無に限ったことではない。「本当のこと=なぜあの人は自殺したのか」は、自殺した本人以外には分からないことなのだ。どんなに仲が良くて近い存在でも、明らかに「これが引き金になったとしか思えない」という状況や条件があったっとしても、「本当の理由」は本人にしか分からない。分からないからこそ、永遠に真実を知ることができないことだからこそ、遺された者達は苦しむことになる。

「あの時もっと親身に話を聞いてあげれば」「もっと気にかけてあげれば」「自分があんなことを言ったせいかも」 そういった後悔や苦しみは延々と心の中で繰り返される。故人から真実を聞くことができないことが、余計遺族達を苦しめるのだと思う。ある意味、形を変えた「地獄」のようなものだ。

故人が選んだ道とその結果を、自死遺族達は自分の意思に関わらず、ただ受け入れることしかできない。いや、「受け入れざるを得ない」のだ。「選択の余地がない」ということも、余計に苦しさを増す要因になっていると思う。

先日ある精神世界系のブログで、「自殺をする人は魂や心が弱いからだ」と書いてある記事を読んだ。世間一般でも、そういった思い込みや決めつけで自殺者を見る傾向が強い。

「魂や心が弱い人=自殺を選ぶ人」であるなら、私の母はこれには該当しない。何を以って「強い人・弱い人」とするかは分からないが、世間で言われている「強い人」の定義では、母は本当に「強い人」だった。自分の手で人生を切り開き、常に努力を惜しまない気丈な人だった。母の死を知らされた人達は一様に「あの気丈な人がなぜ?」と、最初に思ったと言っていた。

「どうしてあなたのお母さん(父親・子供・兄弟姉妹・夫・妻)は自殺したんですか?」という質問ほど、遺族を苦しめるものはない。質問者の意思や意図に関わらず、その質問は遺族にとって「故人を助けることができなかった人達」として、非難されていることと同等の意味を持つから。私がお会いした自死遺族のほぼ全員が、「故人の死後、何らかの形で自分が責められているような気がした」もしくは「あからさまに言葉や態度で非難されたことがある」と言っている。

「どうして自殺したの?」それを一番知りたいのは遺族なのだ。母が亡くなって20年経った今でも、それは時々私の頭をよぎることがある。だが、今はこう思うのだ。「母にはあれしか選択の道がなかったのだ」と。「あれが母の選択だったのだ」と。

そう思えるようになった時、私は何かから解放されたような気がした。それは、母の死の原因を解明するのを「放棄した=あきらめた」ということでなく、「母の選択や、その時の母の気持ちを受け入れた」ということなのだと思う。そう思えた時、初めて母の死を心から悼むことができたような気がした。

「手放すこと」で見えてくるもの、掴めるものがある。私の場合、母が亡くなった当時はまだ若かったこともあり、「許せない」という怒りの気持ちが、強く自分の中にあった。自殺といった選択をせざるを得なかった母を可哀想に思い、彼女を助けてやれなかった自分を責める時もあるのだが、次の瞬間気持ちが一転するのだ。私だけでなく、自死遺族はそういった不安定な感情の波を経験する。個人差はあると思うが、私の場合、それは12年近く続いた。

しかし、あれから月日が経ち、自分が母が亡くなった年齢に近づくにつれ、だんだん母の心境を理解できるようになってきた。若過ぎて理解できなかったことが、実感を伴って受け入れられるようになってきたのだ。そこに至るまでの私は、母を思い出す時は「母=自殺」と、それに伴う出来事や感情が真っ先に浮かんできて、正直「思い出したくない出来事」としか思えなかった。

だが、ある時、何かの拍子に「そういえば昔、あんなことしてくれたなあ」と、懐かしさと共に母を思い出している自分に気づいたのだ。それを境に、私の中の何かが変化していった。懐かしさや感謝の気持ちと一緒に、「母が私にしてくれたこと」を思い返せるようになったのだ。

すべての怒りや悲しみが消えたわけではないが、楽しかったことも思い出せるようになり、そしてその割合の比率が逆転していった。私の中の、壊れた母の存在部分が、再構築されつつある・・・そんな気がした。

「母を完全に許せたか?」それは正直、今でもわからない。でも、少なくとも母の選択を「受け入れる」ことができたのだと思う。それが結果的に「許せた」ということに繋がっていくのかもしれない。故人に対して、喜びや悲しみ等、そういった両極の感情が心の中に戻ってきた時、また私達の人生は新たな歩みを始めるのだと思うのだ。

その出来事以来ずっと、今も故人を許せなくても構わない。まずは「故人を許せない自分」を許して(受け入れ、認めて)ほしい。正直時間はかかると思う。だが、故人の死と共に自分の中から失われた・奪われたと思ったものが、必ず戻ってくる時はやって来る。

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カテゴリ :自死遺族としての声 トラックバック(-) コメント(-)
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