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クローズド

 2017-02-13
いわゆるネットスラングだった「コミュ障=コミュニケーション障害」という言葉も、ここ数年ですっかり世間に定着した感がある。

他者とのコミュニケーションを苦手としたり、それを苦痛に感じる人を指す言葉だが、多くの人は、それを「人見知り」「空気を読まない人」というニュアンスで捉えていると思う。だが、そういった傾向にある人達だけが「コミュ障」ではないのだ。今の世の中、対人スキルに一見何の問題もないように見える人でも、「実は・・・」という「隠れコミュ障」である場合が多い。

パッと見、その人達は「一見普通」「一見まとも」だ。取り立てて問題もなく普通に社会生活を送っているように見える。だが、彼らと実際に接点を持った時、その「兆候」は現れる。

その人達は、いろいろな意味で非常に「一方的」だ。「自分にとっての常識=世界標準」だと思っている。「自分の常識は相手にとっての非常識」になる可能性があることを想像すらしないのだ。「基準は自分」の彼らからすれば、「おかしいのは常に相手」であり、「自分は何も間違っていない」のだ。

彼らの特徴の一つでもあるのだが、「伝えること=自分が言いたいことを言うこと」だと思い込んでいる。自分の言葉を相手が理解しているか、ちゃんと真意が伝わっているか―相手の理解度や心情、都合といったものを無視して、ただただ一方的にまくし立てる。相手の反応さえ確かめずにひたすら言葉を続けるその様子は、まるで「ひとり言」だ。

彼らにとって重要なのは、「自分が言いたいことが言えればいい」ということなので、相手が理解しようがしまいが、そんなことは「どうでもいいこと」なのだ。なぜなら、「自分の言葉を理解できない相手が悪い」のだから。「ズブの素人に対して行う説明に、専門用語を並べ立てるスペシャリスト」を想像してもらえればいいと思う。

加えて、彼らは「ムダ」を嫌う。自分の労力や時間を他者に費やすということを良しとしないので、会話も手短に、「要点」だけ伝わればいいと思っている節がある。言葉を省くのも、彼らの傾向だ。だが、彼らが不要・ムダと思って省いた部分が、実は相手にとっては重要だった―ということもあるのだ。

どうしたら相手に理解してもらえるか、どんな言葉を使えば伝わりやすいか―そういった「配慮」がまるでない。「受け取る側からの視点」が、完全に抜け落ちているのだ。そして、自分の「想像力の欠如」を棚に上げ、彼らは自分の言葉を理解しない相手を責める。

以前、仕事上で関わったこの手の人との会話で、その一方的な話し方に閉口したことがある。仕事の流れに関する説明を受けていた時、その人は突然「そこにヤマがあるじゃないですか。そのヤマの・・・」と言い始めた。突如相手の口から出てきた「ヤマ」という言葉が何を指しているのかわからず、私は戸惑った。

「は?ヤマ?何それ?この人何言ってんの?」一向に見当が付かないので、「ヤ・・・マ?ですか?」と聞き返すと、「そう!ヤマですよ!ヤマ!そこにあるじゃないですか!」焦れたように「ヤマ」を連呼するその人の視線の先を見ると、少し離れたキャビネットの上に、20センチくらいの高さまで書類が積み上げられている場所があった。

「あのー、もしかして『ヤマ』って、あそこの、書類が置かれている所のことですか?積まれている書類のこと?」「そうですよ!」その人が言う「ヤマ」は「山」であり、「積み上げられた”書類の山”」のことだったらしい。まあ確かに、高々と積み上げられた書類の束は「山」を連想させないこともない。

だが、初対面のその人の、人となりや物の言い方の癖を把握していない私からすると、「わかるわけねーだろ!最初からそう言えよ!」なのだ。長年の付き合いで気心知れた人とでさえ、「あれ」「これ」「それ」で100%話が通じるわけではないのだ。自分の脳内イメージだけで話が円滑に進むのなら、誰も苦労はしない。

「あそこに、書類が積まれて山みたいになっている場所があるでしょ?」という説明にならず、自分のイメージだけでひたすら「山」を連呼するのは、その人が自分の中だけで「完結」しているからだと思う。相手の都合を無視した一方的な説明になるのは、その人の世界に他者が存在していないからなのだ。

一言で言えば「利己的」―それが彼ら、「隠れコミュ障」だ。「山の人」のような例はめずらしくない。むしろデフォルトだ。どういうわけか、彼らは脳内にある自分の思考やイメージとまったく同じものを相手も共有していると信じて疑わない。

例えば、「果物」という言葉を聞いた時、どんな果物を想像するかは人それぞれ違う。ある人はミカンを想像するかもしれないし、ある人はリンゴかもしれない。だが、彼らの場合、自分がバナナを想像した時は、相手も同様にバナナを想像していると思うのだ。「自分にとっての」と「相手にとっての」は違うということを考えようとすらしない。

一事が万事、それ前提で話が進むから、厄介なのだ。そういった勝手な思い込みが齟齬を生み、余計な混乱を招く要因になっていることを、彼らは一向に気づかないのだ。そして、自分達の言葉足らずの説明を棚に上げ、それを理解できない相手を問題視する。彼らの典型的なパターンだ。

彼らがなぜそうなったのか、多分「きっかけ」はあったと思う。生まれ育った環境や周囲の人達との関係とか。だが、途中で「軌道修正」できる機会は絶対にあったはずなのだ。もしかしたら、そういう部分を指摘してくれた人も、過去にはいたかもしれない。自分を省みたり、自分以外の人の言葉に耳を傾けたり―。理由は何であれ、そのチャンスをものにしなかった「責任」は、ほかでもない彼ら自身にある。

ある意味、それは「驕り」なのだ。いわゆる「できる人」に多く見られる傾向なので、「過信」から来ていることは間違いない。自分のやり方を信じて疑わないから、それを改めようともしない。もし、仮に気づきながらもそのやり方を続けているのであれば、責任は、やはり彼らにある。「閉じた世界」に居続けることを自分自身で選んでいるのだから。「変わらないことは楽」なのだ。

「閉じた世界の住人」とのコミュニケーションは不可能だ。相手が一方的に発信するものを、ひたすら受け止めるしかない。それはもはや「コミュニケーション」とすら呼べないものだ。

多くの人が「世知辛い世の中」と嘆いているが、こういう「一方的な人」が増えたせいではないかと。自分の言いたいことを言うだけ言って満足した後は、ぴしゃりとドアを閉じて取り付く島もない―そういう「自分にしか関心のない人」が、他者に関心を持つわけがないのだ。「世間のその他大勢の人達」がどんな状況にあろうと、自分が満足できる状態にあれば、彼らはそれで十分なのだ。

ある意味、彼らは「ミニマリスト」なのだ。コミュニケーションも、人との関係も、必要最低限のものだけで良しとする。周りからは、味気なく、寒々しく見えるようなものであっても、「持たないこと」を最上とする彼らには、今のその状況は「最高」なのだ。

「省くこと」にしか価値を見出さない人達にとっては、「余分」は単なる「無駄」でしかない。だが、「対 人」に関しては、その「無駄」こそが必要なのだ。「コミュニケーション」とは、本来そういうものだ。一方的に「要点」だけを伝えるのであれば、それは単なる「報告」や「発表」、もしくは「命令」だ。

間違った断捨離―彼らを観ていると、そんな言葉が浮かんでくる。がらんとした部屋で一人満足そうにしているその様子は、本人の思いに反して、周りにはひどく頑なで寒々しいものに映るのだ。何でもかんでも「効率」を重視・優先して省いて回るその姿勢は、やがて「孤立」と「孤独」を運んでくる。

だが、もしかしたら、それこそが「持たないこと」を良しとする彼らが一番望んでいるものなのかもしれない。そして、それもまた「生き方の一つ」なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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ラブレター

 2017-01-14
人生には、「奇しき縁」としか喩えようのない出会いが時々訪れる。

初めて会うのに、まだろくに言葉すら交わしていないのに、ふと視線が合った瞬間に、その人のすべて―「本質」ともいうべきものに、期せずして触れてしまうのだ。

その人のことは何も知らない。年齢も、名前も、最低限の個人情報すらわからない状態であるにも関わらず、「ああ、この人はこういう人なのだ」と、意思の力の及ばない領域の奥深い場所で、それを「知って」しまうのだ。その人に関する「情報」のすべてが、抗う間もなく、奔流のように一気に自分の中に流れ込んでくるような感覚に近い。

そして、それが「当たり外れ」とは無縁のものだということも、既に「知っている」のだ。加えて、まったく同様のことが相手の身に起こっているということも。それは「直感」などではなく、揺るぎのない「確信」なのだ。疑う余地のないほどの―。この先も決して変わることはないと断言できるほどの―。

好むと好まざるに関わらず、期せずして、不意打ちに訪れた一瞬に起こったそれを、私はあえて「魂の交感」と呼ぼう。

図らずも、相手の「深淵」に触れ、自分のそれに触れられたことを「僥倖」と呼べるかどうかはわからない。「共有」から生まれる高揚や喜びも、そこには存在しない。期待や熱情の欠片さえも。感情の揺れはなく、意識はあくまでもしんと澄んだまま、冷徹に事態を捉えている。

なぜそれが起こったのか、それがどんな意味を持つのか―そんなことはどうでもいいことだ。ある意味、それは「確認」なのだ。昔読んだ小説の主人公の、すっかり忘れていたその名前を、再び本を開いた時に、「そうだった。こういう名前だった」と思い出すような―。そんな淡々としたものだ。

ただ、意識と細胞に刻み込まれた「感覚」だけが鮮烈なままなのだ。多分、それはこの先も変わらない。それが消えずにずっと自分の中で息衝いていくことは、「あの瞬間」からわかっていたことだ。それは、もはや「諦観」なのだ。

お互いの中に、刹那の中に見た「永遠」。

束の間のものだったとしても、それに触れた後には、「意味」さえも価値を持たなくなる。

例え互いの人生が交差したのはこの一瞬の為だけだったとしても、ただその「事実」さえあればいい。意味付けは不要であり、それに執着することは愚陋の極みだ。

自分と、そしておそらく相手も見たであろうものとそれが持つ煌めき。それを同時に共有したという「確信」。もう、それだけで十分なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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砂の城

 2016-11-22
自分自身を必要以上に卑下したりする「卑屈な人」というのは、たちが悪い。だが、その反対に、「過剰に自己評価が高い人」というのも、別の意味で厄介だ。

「自身を過剰に高評価する人」というのは、「自分のことが好き」ということともまた違う。そういった「自己愛」よりも、「自惚れ」が勝っている。自分で自分を、実際以上に優れていると思い込んでいるところに、たちの悪さがあるのだ。才能や人間性等、自分に対しての強い自負があるので、それに反する評価を絶対に受け付けない。「現実」と「思い込み」の落差を認識しようとしないのだ。

「自称 まっすぐ」「自称 やさしい」「自称 ピュア」本来自分以外の人から評価されるべき部分を自称するのは、「自分はそうである」という自信があるからだ。だが、その実は、「自分を客観視できない人」なのだ。

物事には必ず二面性がある。陰と陽、白と黒、光と影―どちらか一つということはない。彼らは、自分自身の「片面」しか見ていないのだ。

他人から見れば、「まっすぐな自分」は、「融通の利かない意固地な人」「自分が正義だと思い込んでいる人」「他者や他者の意見を排斥する人」になる。「やさしい自分」は「誰彼構わずいい顔をする八方美人」「嫌われることが怖い人」に、「ピュアな自分」は「単純で幼稚」「短絡的で物事を深く考えない人」になる。

彼らが認めようが認めまいが、そのどちらもが「正しい」のだ。物事は表裏一体なのだから。同じものを見ても、別の角度から見た場合、まったく違う顔が見えてくる。それは当然のことなのだ。

だが、彼らは「自分側から見た高評価の部分」しか認めない。それが自分にとっての「よりどころ」であり、「存在価値」「プライド」になっているのだ。しかし、それは「傲慢さ」「慢心」とイコールでもある。「自信」と「正しさ」は違う。彼らはそれを混同している。

この手の人達は、自分に対する他者からの言葉や評価に対して非常に敏感だ。表向きはそう見えなくとも、内心は「自分は人からどう思われているか、どう言われているか」ということを常に気にしている。おそらく、過去の経験に由来していると思うのだが、「悪く思われる」「悪く言われる」ということに対する「耐性」が低いのだ。過敏になるあまり、「批判」と「中傷」を混同するのも特徴だ。

実際、「齟齬」を指摘された時、彼らの多くは反発する。「自分を否定された」と感じるのだ。その時点で、彼らの「驕り度合い」「盲目度」がわかるのだ。「自分が思っている自分」と「実際の自分」、その違いを確認・認識しようともしないのだから。「反省が欠けた反発」は、単なる「反応」だ。やられたからやり返す―彼らのそれはその程度のものであって、そこに気概や道理はないのだ。

そういった自惚れからか、彼らは自分の言動に関しては呆れるほどに「鈍感」だ。「まっすぐな人」「やさしい人」「ピュアな人」にあるまじき言動を、時々無意識で平然と行っていたりする。

「まっすぐな人」が我先に自分の「利益」を確保しようとしたり、「ピュアな人」が相手を試そうと画策したり。「は?あなたのどこが『まっすぐ』なんですか?どこが『ピュア』なんですか?」という部分を露呈する。だが、本人達はそれにまったく気づいていない。アウトプットに対するチェックが非常に甘いのだ。

自分を観る目がぬるいというか、自称している人間像とは程遠い言動をしていても、その矛盾にさえ気づかない。万が一誰かがそれを指摘しても、彼らは受け入れないし、認めない。「裸の王様」でい続ける。だがそれは、彼ら自身が選んだことなのだ。

結局、彼らのそれは、「自画自賛」のレベルでしかないということだ。あくまでも「偏った自己評価と履き違えたプライドの上に成り立っているもの」でしかない。いうなれば、それは「砂の城」なのだ。表向きは立派だが、実態は、非常脆く、弱い。

自分を客観視できなくなった時、「成長」はそこで終わる。傲慢さと履き違えたプライドがもたらす「罠」にかかった時、その人の世界は閉じていく。虚構と自己欺瞞の世界の住人として、そこから先を生きていくのだ。

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イミテーション

 2016-10-10
自らを「やさしい」と称する人のそれは、本当の「やさしさ」ではなく、「処世術」なのだと思う。実際、そのやさしさも、後から考えると「どうでもいい」「それくらいは誰でも」というような、「わかりやすい」程度のものだったりする。同時に、これみよがしなアピール感を若干感じるのは、多分彼らがそれを意識して行っているからだ。

特に何事も起こらず平穏な時、その人達は、文字通り「いい人」だ。だが、実際何か事が起こった時、その印象は一変する。そのやさしさの「正体」が、いわゆる「世渡りのための方法」だったということが露見する。

その瞬間、「論理」と「経験」の不一致が起こり、すべてが「綺麗事」になる。彼らの言葉も、態度も、今まで「やさしさ」と思われていたそれは、「人の為」ではなく、すべて「自己保身の為」であったことが暴露されるのだ。

弁解を並べ立て、自分を正当化しながら、火の粉が降りかからないようその場を逃れようとする様、耳に心地の良いことをあれこれ言いながらも、結局核心に触れず、問題を先送りにして「現状維持」に徹しようとする様は、彼らが、実際は「ただのご都合主義の平和主義者」であることを教えてくれる。言葉だけは立派だが、火中の栗は拾わない―それが、彼らだ。

「自称 やさしい人」が一番恐れるのは、「人から嫌われること」だ。「孤独」への耐性も低い。自分から人が離れていくということが耐えられないのだ。だから、彼らは「やさしい」のだ。嫌われないように、悪く思われないように、独りにならないように―そのやさしさは、結局「自分のため」なのだ。

その手の人達が一番やさしくする相手は、他ならぬ「自分自身」だ。一番かわいいのも自分。一番大事なのも自分。一番守りたいのも自分。中心は、あくまでも自分自身。それが彼らの「本性」だ。

「巻き込まれること」を恐れる彼らは、その危機に面した時、本来の姿を見せる。いかに上手くとばっちりを避け、この場を丸く収めて安全圏に脱出できるかを算段する狡猾な顔が現れる。もしくは、「あわよくば最小限の修復可能なダメージの範囲内で事を済ませたい」そう思っている。

そして、その間も、人から嫌われることのないよう、上辺だけのフォローは欠かさない。響きだけの、心のこもっていない綺麗な言葉で、形ばかりの理想論や正論を語ったり、無責任な慰めや励ましを言ったりするのは、人を怒らせることへの恐怖や「人を怒らせる自分」を正視できないからだ。この期に及んでも「やさしい」のは、人から嫌われたくないから。

彼らは思い違いをしている。「やさしいこと」は、嫌われることの「免罪符」にはならない。「みんなにやさしい」ということは、「=みんなから好かれる」ではないのだ。「自称 やさしい人」は、多分こう思っている。「みんなにやさしい自分が嫌われるわけがない。やさしくていい人は嫌われない」そういう思い込みがあるから、彼らは人にやさしくする。

とってつけたような、「いかにも」な態度や表情。綺麗事と理想論だけの融通性のない言葉。中身のない、ただひたすら相手の機嫌を取るためだけの美辞麗句。むやみやたらの「共感」と「肯定」―計算高さや自己保身から発生する「やさしさ」は、どこか作り物めいた匂いがする。結局、彼らは「演じている」のだ。彼らの言う「やさしさ」とは、自分の利益を計りながら、親切そうに振舞うことなのだ。

彼らにとっての「やさしさ」は、嫌われることを避けるための、いわば「先手必勝」の、相手からの攻撃―嫌悪や悪意を封じ込めるための「布石」なのだ。根回し、計算―すべては「戦略」であり、「技術」なのだ。すべては、相手のためではなく、自分のためのもの。

だから、彼らの「やさしさ」は薄っぺらい。奥行きもなければ、深みもない。時間と共に消えていく類のものだ。後には何も残らない。後に彼らを思い出す時に浮かぶのは、「やさしい人」ではなく、「中身のない上辺だけの人」という印象だけだ。勇気も気概も覚悟もない、自分を守るためだけの「やさしさ」は、結局爪痕さえも残せない。塵芥と同等のそれは、何の価値も残さない。

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対 峙

 2016-10-01
今年の1月、3年ぶりにブログを再開して改めて思ったことだが、やはり私は、誰のためでもなく、「自分自身のために書いている」のだなー、と。

書いたものをこういう形で公開している以上、不特定多数の人の目に触れることは避けられない。それを読む人がいるということで、その存在や反応を考えないわけではないが、基本気にしない。

「メッセージ」を発信しているつもりもない。どう捉えるかは、読む側の自由だ。そう受け取りたい人はそうすればいい。最低限、そこに自分が「込めたもの」を読み取ってもらえたらいいとは思うが、それ以上の期待はしていない。結局人は、物事を自分が思いたいように思い、見たいように見るのだから。

人の期待や希望に応える気もない。時々、「こういうことについて書いてほしい」「こうしてほしい」等という「注文」が来ることもあるが、それを取り上げる気はない。いくら需要があろうが世間受けしそうだろうが、原則、何を書くかは自分が決める。自分が書きたいことしか書かないし、自分がやりたいようにやる。それはこの先も変わらない。

「共感してもらうこと」にも興味はない。読み手の好みや感想は、それ以上でもそれ以下でもない。それを知ったからといって、私は何も変わらない。「読んでほしい」とも思わない。「読みたきゃ読めば?」そう思う。気に入らないのなら読まなければいいだけの話。強制も懇願も存在しないのだから、自由にしたらいい。

読み手ありきの前提で書かれた文章というのは、どうしても「媚び」が鼻につく。「読者を増やしたい」「共感されたい」「よく思われたい」そういった承認欲求が底にある場合、どうしても基準は「外」になる。そちらを優先するあまり、「本来自分が言いたいこと」からどんどんズレていくこともある。論旨と軸がぶれた文章など、書く価値もない。それは「私がしたいこと」ではない。

「自分が読んで面白いもの」それがすべてだ。書き上がったものを読み返して、納得できないものは、迷わず消去か全面的に書き直す。もしくは、コンセプトはそのまましばらく月単位、年単位で寝かせておいて、後々別の切り口や表現で再アプローチする。

「産みの苦しみ」を端から放棄して、誰かや何かの文章を丸写ししてその場をしのぐような柔なことはしない。「徹底的にそれと向き合ってやる」その気概は絶対に捨てない。それは私の「プライド」だ。

「自分とはどういう人間なのか」それを確認するために、私は書いている。ブレていないか、媚びていないか、潔いか―自分自身のスタンスと信念を再認識し、定着させるために、私は書く。

自分の中にあるものをどう表現するか、それを表す「完璧な言葉」にどう近づくか、届かない歯がゆさや昇華の前の苛立ちをどうねじ伏せるか―「書くこと」は、いわば「格闘」であり、「挑戦」なのだ。自分の能力と情熱の限界を確かめるために、それを超えるために、私は書く。

そして、最終的なジャッジをするのは、ほかの誰でもなく、あくまでも私自身なのだ。私を評価するのは、私だ。自分が認める自分になる―私は、私自身と対峙している。

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