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糊 塗

 2016-05-21
自己啓発セミナー講師やセミナー巡りを繰り返す信者を観ていて思う。あの「ネクラな人が無理してはしゃいでる感ありありのポジティブごっこ」、なんとかならないもんかと。公私両面でその手の人達と関わったことがあるが、率直に言って、「ポジティブとか言ってるけど、根本は何も解決してないよね?違う?」という感じの人達ばかりだった。

特に講師の人に多いのだが、この手の人達は、一見顔はにこやか。だが、目が全然笑っていない。発する言葉も態度も明るいのだが、如何せん、その「笑っていない目」が、彼らの「必死さ」と「本当のところは」を表しているようで、痛々しくなる時がある。

結局、すべてが「振りをしているだけ」なのだ。解決したふり、順調に行っているふり、ポジティブ思考になったふり―。彼らの大好物の台詞、「すべてはうまくいっている」ほど、それを如実に表しているものはない。それがそこに存在することを認めない―彼らの「信仰」は、「見ないふり」の上に成り立っている。臭いものには蓋をしろ的な、いわば「上塗り」が、彼らにとっての「解決」なのだ。

特定の言葉を繰り返し、感覚を麻痺させ、だんだん「その気」にさせていく。だが、事態も自分も、実は一向に変わっていない。それは、いわゆる「洗脳」というものだ。洗脳は、本人がそれを無意識レベルで望んでいなければ功を奏すことはない。彼らのそれが一向に解けないのは、「彼らがそれを望んでいるから」なのだ。むしろ、その状況下から外れることを極度に恐れていると言っていい。彼らは洗脳状態が続くように、少しでもそれを解くような響きのある言葉を自分の世界から締め出そうとする。

周囲の人のネガティブ発言やマイナス思考を、必要以上に罪悪視するのもその表れ。彼らは、他人のネガティブさを許さない。相手の状況や都合も考えず、自分以外の人間にやたらとポジティブ思考を強要してくるのは、彼らが「恐れているから」だ。自分の洗脳状態を解く可能性のあるものを遠ざけたがったり、同じ思考で周りを固めたがったりするのは、本人達がなんと言おうと、「自分達こそが究極のネガティブ思考であるという事実」に気づくのが怖いから。彼らの中には、常に「ネガティブへの恐怖」がある。ようやく手に入れた「避難場所」を手放すまいと必死なのだ。

大体、「常にポジティブでなければならない!」と考える時点で、既にネガティブなのだ。「~でなければならない」という、ある種の強迫観念に囚われているのだから。「それ以外は許されない」と、自らを追い込んでいる状態。自分の中に存在するものを受け入れず、目をそらし、「ないもの」として考える―必死で「事実」から逃れようとする様は、ネガティブ以外の何物でもない。

ポジティブ思考は大いに結構。だが、「そうでなければならない」というものではないし、そういう状態に達するまでには「プロセス」というものが存在する。自己啓発信者のやり方は、その部分をすっ飛ばし、尚且つ「なかったことにする」という乱暴なものだ。それは、きちんとしたプロセスを経てたどり着いたポジティブさとは全くの別物だ。

物事には順序がある。事象には、そこに至るまでの過程がある。自分の中に存在するネガティブなものと向き合い、その存在を認め、「どうしたらこれを乗り越えられるか?どうしたら解決できるか?」と思考し、それを実行してみる。しばらく続けてみる。それがうまくいかないようなら、また思考して、実行して―という部分を経て、初めて事象に、徐々に自分が望む場所に行き着けるのだ。そうして得た「本物のポジティブ」は強い。多少揺らぐことはあったとしても、インスタントで身につけたものとは違い、完全崩壊することはない。鍍金と純金の「差」なのだ。

自己啓発セミナーに縋る人というのは、この「思考―実行―継続」の部分に嫌気が差し、「楽」を選んだ人だと思う。時間や思考を使って自分自身で手に入れることよりも、他人の考えに乗っかって、いち早く目的地に到着する便利さを求めた人。「自分よりも他人を信じた人」とも言える。こういった人は、「自分に優しく」と「自分に甘く」の区別がつかない。変なところでせっかちだし、中途半端な欲深さを持っている。まあ「楽で便利」を求めるのも、なんら不思議ではないのだ。

それが「本物のポジティブ思考」かどうかは、逆境やピンチの時に明らかになる。事実を突きつけられて、それから目を反らすことも、逃げることもできない状態の時、その人がそれをどう捉え、どう動くか―「洗脳」で塗り固められた「張りぼて」のそれと、「本物」の違いは大きい。そして、それは「自力」と「他力」の違いでもあるのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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【再掲載】踊るアセンション(2009年7月9日掲載記事)

 2012-12-22
ノストラダムスが予言した「1999年のハルマゲドン」が終わったと思ったら、今度は「2012年12月のアセンション」に大騒ぎしている人達がいる。最近、不景気だの凶悪犯罪増加への懸念だのいろいろ言われているが、目に見えない世界で起こることに大騒ぎできる人達が住む日本は、つくづく平和な国だと思う。

5~6年前位からチラホラとそれに関する情報は耳にしていたが、特に興味もなく、「ふーん」で終わっていた。小学生の時に「ノストラダムスの大予言」がリアルタイムで流行していた世代なのだが、友達が真剣に怖がっていた「空から降ってくる恐怖の大王」とやらにも全然興味がなかった。1999年に世界が滅亡するという説も、「そんなこたぁーない」と冷めた目で見ていた可愛げのないお子様だった。

ちょうどその頃、両親がたまたまご縁で知り合った占い師の人がいた。当時小学校3~4年生だった私のことを観てもらうと、「この子は長生きしますよ~」と開口一番に言われたらしい。それを親から聞かされていたので、「ということは、自分はおばあさんになるまで生きるんだ~」等と思っていた。

なぜかノストラダムスの予言より、その無名の占い師のおばさんの言葉のほうがピンと来た。子供心に自分が1999年に32歳で、世界の滅亡によって死ぬ―ということはあり得ないと思ったのだ。そして現に今、42歳になった私はピンピンしている。

そんな過去があるので、今回のアセンションに関してもまったく興味がない。アセンション信奉者に熱く語られても「で?」という感じで冷めている。こういったブログを持っていると、いろいろな所から資料やらDMやら送られてくるのだが、一通り目は通すがそれだけだ。相変わらず「ふーん」だけ。


物の本や巷に溢れている情報によると、アセンションとは「次元上昇」を指すらしい。なんでも2012年12月に地球の波動レベルが上がるとかで、その時の地球の波動レベルに適応する物質(人間を含む)だけが存在する状態になるらしい。その波動の上昇に耐えられないものは、死をもって肉体の解放を行って、自分と波動の合う他の星に移住する―とかなんとか。

私からすると、もうこの段階で「はあ、そうですか・・・」なのだが、人によっても言ってることが全然違う。食物をまったく必要としない肉体になると言っている人もいれば、食事の摂取量が今の半分の量でOKになって、肉体が「半霊半物質化」すると言う人もいる。

アセンションが起こるといわれている日時もバラバラだ。12月22日説を唱える人もいれば、23日とか。21~23日にかけて起こると言う人もいれば、「アセンションは既に始まっている。そのピークが2012年だ」と断言する人もいる。もう何が何だか・・・なのだ。

他の国ではどうかと思い、ちょっと英語圏のサイトを検索したところ、こちらは日本よりもぶっ飛んでいる発言が多かった。確かアメリカのチャネラーの女性のサイトだったと思うが、もう完全にSF映画の世界なのだ。そこに書かれていたことを、一部翻訳してみると、こんな感じだ。

「2012年12月22日、地球の次元がより高度なものにシフトします。私達地球人をサポートする為に、他の星から多くの人々が地球にやって来ます。世界中、空は一面信じられない数のUFOに埋め尽くされます。そして私達に『道』を指し示すでしょう。彼らの指示に従ってください。彼らは私達をサポートする為に訪れた味方なのです!」

こんな映画が昔あったような気もするが・・・。まあその他にもこんな調子でいろいろと書いてあったが、それを読んでも私は相変わらず「で?」の域を超えない。小学校5年生の時に初めてUFOを見て以来、今までにも何回か目撃している。実際、一昨年に真昼間のアリゾナの某所で遭遇した。UFOや宇宙人は存在すると思うが、「ピラミッドは宇宙人が造った」等というトンデモ論は信じてない。

そういった異次元の世界と交信できる力を持つ人達の中には、いたずらに人々の不安や恐怖を煽るような発言、情報を流す人がいる。物質が消失するとか、「この大変革を生き残るには、生き抜くには~をしなければいけない」とか。

スピリチュアルビジネスでは、アセンションにターゲットを置いたセミナーやヒーリングセッションの類が花盛りだ。アセンションに備える為に聖地を訪れる何十万円もする海外旅行ツアーとか。まったくアホらしい限りだ。情報が錯綜していることをいい事に、世界中で多くの人が踊らされている。

しかし、冷静にこの騒ぎを分析してみると、この「アセンション」という思想を発しているのは、キリスト、ユダヤ、イスラム教圏の国々だということがわかる。いわゆる「世界の終焉が来た時に、助かるのは自分達○○教徒だけである」という終末思想が根底にある宗教信者達とその国々。これがどういうことを示しているのか、何と繋がっているのかは、考えてみればわかることだ。


例えそのアセンションとやらが2012年に起こったとしても、我々人間には与り知らないことだ。というより、「関係ない」。「アセンションに生き残らなきゃ」と必死になる必要もないし、慌てることもない。ただ日々を誠実に一生懸命過ごす努力をしていればいいだけだ。

「アセンションだからきちんとしなくちゃ」とか「アセンションで生き残りたいから○○する」などというのは愚の骨頂。そういう「さもしさ」から出た行動や言葉はたかが知れている。

「アセンションを成功させよう!」などと言っている団体もあるようだが、そもそも最初から「次元」の違う所での話しなので。まあ頑張ろうと張り切っていらっしゃるので、その辺は自由にやっていただいたらいいと思う。


アセンションが起こるとされている2012年の12月21~23日あたり、まあ私は多分、ヒプノセラピーのセッションか、カウンセリングをしていると思う。

空がUFOで埋め尽くされようが、物質が消滅しようが、目の前にクライアントがいればその人に意識を集中していると思う。「たとえ世界が明日終わりであっても、私はリンゴの樹を植える」と言ったルターのように。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。



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エソラゴト

 2012-09-01
「嘘も百回繰り返せば真実になる」という言葉があるが、「スピリチュアルという名のオカルト教」や「常にポジティブ!自己啓発教」の狂信者・盲信者を観ていると、まさにその通りだと。

後に付き従い、言われた通りに行動する人―いわば「追随者」である彼らは、リーダーや教祖の言動を模倣することから始める。教祖が「一日に『ありがとう』を千回唱えなさい」と言えば、カウンター片手にいそいそとそれに取り組み(実話)、「すべては愛なのです。光なのです」と言われれば、「そうなのよ!すべては愛と光なのよ!」と思い込む。

それらを有り難がり、事あるごとに自分に繰り返し言い聞かすことで、段々「その気」になっていく。彼らはそれを「覚醒」と呼ぶ。だが、それは「洗脳による思い込み」だ。「洗脳」は、「繰り返すこと」で定着していく。本人自身がそれを望み、信じ、受け入れる準備が整っていれば、更にその状態は深くなる。

典型的な例は、20年前、東京の地下鉄にサリンを巻いたオウム真理教。「修行」と称した彼らの道場内での様子を見れば、それは明らか。「ひたすら繰り返す」その行為が、「自分」を消していく。

だが、所詮は「思いこみ」。化けの皮は何かの拍子に簡単に剥がれ落ちる。「本来の自分」が所々で顔を覗かせる。「言動の矛盾」という形を取って表れる。そして、その「本来の自分」はやっぱり何も変わっていないのだ。啓発はされるものの、実態はまるで追いつかない―それが彼ら。それが「自称覚醒者」の実情なのだ。

何かや誰かの「信奉者」「崇拝者」「賛美者」「狂信者」「取り巻き」「子分」「手下」となる人達―「追随者」は、基本「依存体質」だ。大抵は「自分に自信がない人」。思考、感覚、経験―そういったものを含め、「自分がすること」「自分の中から生まれるもの」を信用できない。常に「これでいいのか?」「これで正しいのか?」という不安を抱えている。自分の中に「確固たるもの」が存在しない。結局、「自分という人間を信じていない」のだ。

そんな彼らには、「縋るもの」が必要なのだ。強いリーダーや教祖、マニュアル、バイブル―。「こうしなさい」「こうするべき」有無を言わさず自分を従わせてくれるものを常に求めている。「自分を信じていない人達」には、そのほうが断然楽なのだ。自分の思考ややり方に、いちいち不安を感じなくて済む。今まで苦痛だったプロセスが、「従うこと」で解消できるのだから。思考や行動を含め、「すべて」を完全に他者に委ねることで、解放感や安堵感を得ることができる―世の中には、そういう種類の人達もいるのだ。

「この人の言うことを信じていれば大丈夫」「これをしていれば大丈夫」彼らにとって、そこで得た「安心感」は何物にも代え難いものだ。「正しい答え」「正しいやり方」がやっと見つかったのだから。「自信がない人」にとって、それは「命綱」にも等しい。だから、それを手放すまいと必死になる。「同調」することよって、安定したその状態を保とうとする。

「自分に対する不信感」が強い人ほど、「同調」の程度が激しくなる。そこに理屈や理由は存在しない。時に理性を失うほどに、異常なまでにそれを「正しい」「真実」と信じ込み、執着する。「盲信度」と「狂信度」は、その人の「自分への不信度」と比例している。「平信者」から「宣教師」になる人ほど、その傾向は強くなる。

盲信や狂信から生じる「同化願望」から、リーダーや教祖の言動を模倣し、それを繰り返すようになる。そこから「洗脳」が始まっていく。「自分は、教えを完全に理解している」「これこそが真実だ。真理だ」そう思い込んでいく。そこに自分自身による体験や思考、検証が一切伴っていないにもかかわらず。

「教える」「伝える」「伝授する」盲信者や狂信者達は、そう言って、リーダーや教祖の教えをブログやサイトで広め始める。「これは真理なのです!」それが果たして「本当のこと」なのか、確証もなく、検証もされないそれを声高に叫ぶ。中には、まるで自分自身がその教義の提唱者本人であるかのように振舞う者もいる。これも、「百回繰り返した挙句の果て」なのだ。

だが、所詮はただの追随者であり模倣者。自身で体得したものでないそれを語っても、まったく説得力がない。それを「真実」「真理」だと言うのなら、自分の「思考」と「体験」、そこに至った過程を語ってみろ、と。それが出来ないのであれば、自分が「真理」「真実」だと思っているものは、結局は付け焼刃、模倣、洗脳の果ての思いこみでしかないということだ。「実感」の伴わないそれは、単なる絵空事でしかない。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

【追記】「スピリチュアリズムがこれだけ広まったのは、それが真理だからです!」と言っているスピオタがいるが、「勘違いしなさんな」と。単に、守護霊とか輪廻転生とかオーラとかソウルメイトとか霊障とか、一昔前は「怪しい世界の話」と表立って話題に出来なかったような、いわば「話す人を選ぶような話題」が、E原氏のオーラ番組がきっかけで、その当時に比べ、職場や学校等公の場で多少気軽に出来るようになってきたというだけのこと。

大体、信者を含め、「スピリチュアリズム」と「オカルティズム」の区別もつかない人や言葉の意味さえ知らない人が世の中の大半を占めているこの状況で、「広まった」とは言えませんわ。今流行中なのは、確実に「オカルティズム」なんで。

先日、明石家さんまさんが司会をされているバラエティ番組で、「フリフリ教」の話題が出たのだが、それを聞いたさんまさん、非常に呆れた顔で「そんなヒマあるなら働けよ」と。観覧席を含め、スタジオ中が失笑状態。世間の多くの人の「スピリチュアル教」に対する認識や印象は、所詮その程度です。どう考えても、さんまさんのおっしゃっていることのほうが理に適っていると思いますけど。

「類友」の法則で、スピオタの周りにはスピオタが集まります。まあ、批判者や懐疑派を締め出して、自分達に都合のいいことしか受け入れないような狭い世界にいれば、自分達が「多数派」になったような錯覚を起こしても当然かと。そのへんはくれぐれも勘違いしないように。ちゃんと「現実」を知ってください。

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反動

 2012-08-19
「霊感体質」を自称する人達の中には、「自分は想念の影響、特にマイナス想念や悪念の影響を受けやすい」と言う人が多い。それは、「あちらの世界」のものに限ったことではない。

いわゆる「生霊」とも称される、「生きている人が発する念」もそこに含まれる。悪意、敵意、妬み嫉み、好意―。「想念」とは、いわば「むきだしの強い思い・感情」だ。

確かに、「気」「想念」というものの存在やそれに伴う影響はあると思う。誰でも多少なりとも日常で経験しているはずだ。「元気かな?」と思い浮かべた友人から数分後に電話がかかってきたり、起きる直前に見ていた夢に出てきた人から、まさにその夢を見ていた時刻にメールが来ていたり。特定の場所や人に対し、居心地の良さや悪さを感じたり。それを「テレパシー」と呼ぶ人もいる。

テレビ、ラジオ、携帯電話、無線―この世界には、様々な電波が飛び交っている。それらの中に、人や物が発する「不可視のエネルギー」が混じっていてもおかしくはない。太古の時代、それはむしろ「当たり前のもの」だったはずだ。それを感じ取る能力も、「普通に」備わっていたはず。「虫の知らせ」という言葉が、それを示している。

だが、いちいちそこに「マイナス」「悪」「負荷」等という言葉を付けることは、果たして必要なことなのか?と思うのだ。

そもそも、「マイナス想念」「悪念」「霊的負荷」というその意味付けは、それを受けたり感じたりした本人の独断だ。いわば「結果論」。あくまでも「その人から見た場合」という前提での話。「自分にとって都合の悪いもの・相性の悪いもの」は、当然「マイナス」「悪」となるわけで。

「念」は「念」であって、それ以上でもそれ以下でもないはず。「良い」「悪い」という区別は、結局それを受け取る側の「都合」にかかっている。

恋愛においてのストーカー行為などはその最たるもの。される側にしてみれば、迷惑この上ないものだ。しかし、それをする本人からすれば、純粋な好意や強い愛情の表現だ。それとまったく同じこと。

そういった、受け取る側の意識が大きく関わってくるものだからこそ、自分の意識や立ち位置の状態を冷静に見返ることが必要なのだ。

スピリチュアル系ブログなどに目を通していると、「想念の影響云々」と言っている人達というのは、ほとんどがマイナス思考だ。加えて、自己防衛本能が過剰だ。例えば、「批判」を「悪口」「誹謗中傷」、「忠告」を「脅し」と思い込んで「攻撃された!」と大騒ぎしたり逆恨みしたりとか。

基本、「自分を悪く言われることが我慢ならない」という人達。プライド以前に、「嫌われること」に対する強い不安や恐怖を抱えているような印象がある。多分、それに纏わる嫌な記憶や体験を持っていて、未だにそれを引きずっているのではないかと。おそらく、その時に失われた「自信」や「プライド」が未だに回復していないのだと思う。それらしきニュアンスを少しでも感じ取ると、過剰に反応するのはそのせいだ。

そういった傾向が強い人が言う「想念の影響」とは、正直どんなもんかと。自分の感情に囚われて、深読みや裏読みをした挙句、被害妄想に陥って、何でもないことを「マイナス認定」している可能性が非常に高い。すべてがマイナスから始まるのだから、その分割り引いて考える必要がある。

彼らを観ていると、「自称悪魔に憑かれた人達」とよく似ている。キリスト教の宗派の一つ、カソリックで今なお行われている「悪魔祓い」の実態は、そのほとんどが「気のせい」らしい。

「自分は悪魔に憑かれている」と訴え、エクソシストに悪魔祓いを依頼してくる人達の97%が、「本人の思いこみ」もしくは、「何らかの精神疾患が原因(幻覚や幻聴、強い被害妄想といった症状を伴う統合失調症等)」であると報告されている。「本物」は、実に1%以下の割合であると。

ベクトルを「自分の外=悪魔、人からの想念」に向けるところ、自分の不具合の原因を「自分以外のもの」に求めるところなど非常によく似ている。ある種の「逃避願望」の現れだと思う。自分ですべての責任を背負い込むより、誰かや何かのせいにしたほうが、人は断然楽なのだから。

「想念の影響云々」と言う人達が「マイナス想念」「悪念」と思い込んでいるものの「97%」は、実は「気のせい」だったりして―ということもある。

被害者意識が強いということは、「自分は正しい側にいる」「自分は悪くない」という意識が強いということでもある。当然、「正しい自分にとって都合の悪いもの=悪、マイナス」と捉えるようになる。被害妄想や被害者意識、過剰な自己防衛本能が、勝手にその「影響」を大袈裟にしていたり、本来そこにないものを自分で作り出している可能性もある。一概に「外からの影響」とは言い切れない。

スピリチュアル教信者や「想念の影響云々」と言う人達を観ていると、いつも不思議に思う。彼らは、何の躊躇いもなく、自分達を「正」「光」の側に据える。例えば、それは「マイナス想念が及ぼす危険に晒される自分」だったり、「『正しい教え』と共に『正しい道』を歩んでいるにもかかわらず、一方的に攻撃される自分」だったり。常にどこか「非の打ち所のない被害者」「本来いわれのない迫害を受ける殉教者」といった意識が言動の端々に覗く。

別の可能性、例えば、実は自分達のほうが「悪」「闇」、逆に「加害者」「迫害者」であるかもしれない可能性を疑ったりすることはないのだろうか?と。1ミリの疑いをも持っていないようなその様子、「狂信」は何を根拠に生まれるのかと不思議でならない。


人間には、必ず「両極」が存在している。陰と陽、相反する二つの要素が、どんな人の中にも存在しているのだ。「優しさと厳しさ」「温かさと冷酷さ」どちらか一つの要素だけで占められているということはない。

例えば、普段「おとなしい人」が、怒った時は別人のようになったりすることがある。それもその表れ。その人の中には、同等の「激しさ」も存在しているということだ。普段どちらの要素が多く「表面」に出ているか、出しているか―ということなのだ。

それは、「霊感」等の領域に関してもまったく同じことだ。「念の影響を受けやすい」ということは、必ずその反対の要素、「念を飛ばしやすい」という要素も持っている。本人は「受けること」ばかりに意識が向いているが、「自分が飛ばしていること」「飛ばしているかもしれない可能性」に関しては、まったくの無頓着。

「自分は正義の側、被害者側にいる」という思い込みが強い彼らには、それを「受けること」はあっても、自分が「飛ばす側」になることはあり得ないと思っている。「自分はそんな人間じゃない」根拠のない自信が彼らの中には存在している。

この国においての「念」というものの在り方も大きく影響しているかもしれない。「願掛け」「祈願」といったものに始まり、この国では、古来から「念」というものが身近だった。だが、「念を飛ばす」ということに対しては、どちらかというと「負」のイメージが先行している。

文学の中でも、「念=良くないもの」としての位置付けで描かれる機会が圧倒的に多い。「源氏物語」の中の、光源氏の愛人 六条御息所の生霊が、嫉妬心から正妻 葵の上を取殺す場面はその最たるものだ。

生霊、怨念、祟りといったものを含め、「タブー」として描かれる機会の多さによって、「それをする者=自分を制御できない人間、精神力が弱い人間、良くない意味で執着心の強い人間」という印象が植え付けられてきた。「それをすること=良くないこと」として、意識に刷り込まれているのだ。

そういった文化的な土壌に加え、「高い波動を持った魂」を有難がるスピリチュアル教では、そういった「念を飛ばす」、とりわけ「マイナス想念を飛ばす」などということは禁物だ。「愛」と「光」「高い波動」だけが存在するその世界では、それは「あり得ないこと」なのだ。

そこでしばしば言われる言葉、「委ねる」「明け渡す」ということは、「執着しない」「考えない」ということなのだから。その不文律の掟、無言のプレッシャーが、信者の中に「自分は念を飛ばすような人間ではない」という意識を植えつけていく。狂信者ほど、その思い込みは強くなる。

だが、その「隙」、「慢心」こそが、「念」の抜け道なのだ。「まさか自分が」その根拠のない思い込みは、ある種の傲慢さと言える。

「無意識に支配されている自分」を意識することはない。理性や常識でコントロール出来ない領域だからこそ、「まさか自分が」ということが起きても不思議ではない。「自分に限ってそんなことはない。そんなことをするような人間じゃない」そう思いたいのは本人の自由だが、そこに100%の根拠はない。

悪意、敵意、悔しさ、妬み―。「そんなものは自分の中に存在しない。あるわけがない」そんなふうに自分を過度に理想化している人ほど、「もう一人の自分」から目を背けようとしている人ほど、「まさか」を起こしている可能性がある。

ここ最近、警察官や消防士、教師や僧侶による痴漢行為のニュースが立て続けに報道されているが、いずれの職業も、公私に渡って強い倫理意識を求められるものだ。スピリチュアル教信者の意識の状態も、非常にそれと近いものがある。

「~でなければ」「~すべき」彼らの場合、自分達が信仰する宗教、「スピリチュアル教」の教義で自身を律している。だが、その「枷」が外れた時、自分を律することから生まれる「抑圧」の分、噴き出すものは大きくなる。

「すべては光であり愛である」という一元論の教義で縛られたスピリチュアル教信者は、自分の中に存在する「闇」「悪」を決して認めない。自分はそんなものとは無縁の人間だと信じている。自分達を「覚醒した存在」だと思い込んでいるから。

だが実際は、事実から目を背け、排除し、気づかない振り、見ない振りをしているだけに過ぎない。それは変わらずそこにある。「意識的に表面に出している部分」と同等レベル、もしくはそれ以上のレベルで存在している。

日頃はスピリチュアル教の教えに従い、表面上は「平和主義」に徹している人であっても、普段の「抑圧」が強い場合、無意識に飛ばす「念」もそれに見合ったレベルのものになる。本人の意に反して、「好戦的」「攻撃的」だったりする場合もあるわけで。

「気に入らないこと」を言われた時の、彼らのキレっぷりを見れば、その可能性は非常に高いのではないかと。常日頃唱えている「愛と光」「高い波動」はどこに行った?という感じの、その片鱗も見当たらないような「怖っ!」「きつっ!」というような言葉を平然と吐いたりするのだから。

スピリチュアル系ブログやサイトのコメント欄や掲示板等で時折発生する「戦争」では、その手のことはめずらしくない。アンチに対する信者の「暴言」は、かなりのものがある。「兆候」は、既に現れているのだ。咄嗟の、その感情に任せた反応こそが、彼らのシャドー、「隠されたもう一人の自分」の存在を告げている。

「受けやすい」と自称するのであれば、「飛ばしやすい自分」も意識すべきなのだ。自分が「加害者」になる可能性も、必ず同等の割合で存在しているということを。「知らないのは自分だけ」それも大いに有り得るのだから。「無意識はコンロトール不能な領域」それを忘れないことだ。

「念を受けやすい」自分の「霊的な敏感度」を誇示したいがために言うその言葉は、「自分は念を飛ばしやすい」と言っているも同然のことなのだ。受けやすいは飛ばしやすい―その「敏感体質」は、決して誇れるだけのものではない。必要以上に自分を買い被らないことだ。人は、「一元論」で成り立っているわけではないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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身の程

 2012-08-15
スピリチュアル系ブログによく見られる「敏感体質自慢」、目にする度に「なんだかなー」と。霊的な存在や場所が持つエネルギー、「気」の影響をどれだけ自分が受けやすいか―その手の話が飽和状態。特にお盆の前後は、その数が一気に増える。テレビ番組の「怪談特集」と同じで、「季節物」といった感じ。スピ系ブログには「お約束」というか、「付き物」の話題だ。

「敏感自慢」の人達を観ていると、その多くは、「霊的なものの影響を受けやすい自分=霊的に進化した存在」と言いたがっているような節がある。「敏感度=霊的能力の高さ、繊細さ、正確さ」だと思い込んでいる人も少なくない。ヒーラーやチャネラー、霊能師等の有料プロに至っては、「商売上のセールスポイント」としてそれを大々的にアピールしていたりする。

敏感だの鈍感だの、人様の「体質」のことはどうでもいいのだが、「選民意識」がそこはかとなく感じられるその物言いが正直うざい。「だから何?」と。「そんなんいちいち言わんでもよろしいがな」とうんざりする。

その人達の常で、「誰にでも霊感はあります」「特別なものではありません」と言いながら、憑いたの感じるだのと一番騒がしいのは当の本人達だ。「当たり前のもの」なら騒ぐなよ、と。上辺だけの謙虚を装いつつ、「それを感じることができる自分達」を全面に押し出しているあたりが、実に小細工感満載なのだ。

特に、その影響を受けた場合、肩がこったり頭痛がしてくる等体の具合が悪くなると言う人に関しては、「結局それがあなたの『レベル』でしょ」と。憑かれたり具合が悪くなったりするのは、その人自身の問題だ。同じ場所、同じ状況で、同じものを見たり感じたりしても、平然としている人もいる。仮に「何か」が憑いたとしても、ほんの一瞬だけしかその状態が続かない人も現にいるのだから。

大体、いくら「感じる力」が高かろうが、「何らかの影響を受けた場合の対処」が出来ないのなら、何の意味もないし、ひけらかすようなことでもない。「勘違いしなさんな」と。


「自称敏感体質の人且つスピリチュアル教信者でもある人」の言動を観ていると、マイナス思考のサンプルのような人が多い。本来針の穴ほどの大きさの悩みを、妄想力と思い込みであっという間にスイカくらいの大きさにしてしまうようなタイプ。被害妄想と被害者意識が強く、「じめじめ」「じとじと」という感じで、常にどこか「湿り気」を感じさせるというか。

亡くなった後もこちらの世界に留まり続けたり、強い念を残すような存在は、基本「ネガティブ」だと思う。恨み、悲しみ、後悔、執着―それがどういう種類のものであれ、生前の「感情」を断ち切れないままでいるのだから。言ってみれば、「往生際が悪い」というか、「粘着質」というか。

そういった要素が、「自称敏感体質」の人達の「ウェットさ」に反応するのだ。結局「同類」が引き合っているということだ。

それらの存在との遭遇に関して、彼らがよく引き合いに出す「高い波長云々」という説も、あまり関係ないかと。見える時は見えるし、聞こえる時は聞こえるのだ。特に相手が「必死な状態」にある時などは、波長の高低差は問題ではない。あの手この手で簡単に超えてくる。

大体、その「高い波長」とやらを保っているかどうかをチェックするのは誰なのか?目安は何なのか?という話になる。結局それも「自己申告」「自称」でしょ?と。はっきり言って、あてにならない。何かと「自分に甘い人」であるなら尚更だ。

そんな曖昧な定義より、たとえ見えたり聞こえたり感じたりしても、動じないでいることが、本当の意味で「波長が高い」ということではないか、と私は思う。そして、どう対処するか、どう関わり合うかを心得ていることと。

「ドライさ」「冷淡さ」それらを適切に用いることが出来ないのであれば、「異次元」とは関わらないほうがいい。道路標識や雑踏に混じって時折聞こえてくる話し声に対する関心と同じ程度の、いわば「無関心」とも言えるような態度で平然とやり過ごすくらいで丁度いいのだ。この三次元の世界で「普通に」生きていくのであれば、本来「関わる必要のない世界」なのだから。

ただ騒ぐだけで、何もできない・何もしてあげられないのであれば、最初から関わるべきではない。そのほうがお互いのためだ。中途半端な状態で騒ぎ立てたりするから、余計にややこしいことになる。「隙」を作っているのは自分。「受けやすい」というよりは、自分で「受け入れやすい状態」を作っているのだから。

実態は、決して「受身」ではなく、極めて「能動的」なものだ。それも、極めて不健康な。結局その「アピール」は、「選民意識」の表れなのだ。

影響を受けたり憑かれたり―その「責任」は、「受け手」である自分自身にあるのだ。「相手」が悪いのではない。それらは「ただ存在しているだけ」「ただ反応しているだけ」なのだから。

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カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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