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不勉強の害(2)

 2016-09-08
ネットを利用していて思う。サイトやブログ等そこで発信されている情報は、「正解」「真実」を述べているものより、「発信者が知っていることを書いている」もののほうが圧倒的に多い。

そして、そのほとんどが、いわゆる「焼き直し」だ。「引用」「また聞き」という感じで、どこかのサイトやブログで見たり読んだりしたことに多少の持論を加えたものを発信しているに過ぎない。

それは、「伝言ゲーム」とよく似ている。最初の元ネタがあり、それを見た人達によって新たな尾ひれがつけられ、またそれが発信され・・・ということが無限に繰り返され、拡散していく。引用元のチョイスの仕方も非常にいい加減だ。「それっぽい」「信用できそう」という「印象」が基準なのだ。それは検証されることもなく、無責任に次々とコピーペーストされていく。

元ネタが間違っている場合、当然その誤った情報が「正解」「真実」として、ねずみ算式に広まっていくことになる。そして、「数の多さ=正しいこと」と思い込む人々によって、事実に反することが「常識」「定説」として認識されるようになるのだ。都市伝説の類も、おそらくこういったことの延長線上にあるのだと思う。

今現在ネット上に出回っている情報の大半は、そういった背景から生まれてきたものだ。確証性は低い。多数の人間が同じことを言っているとしても、それが「本当のこと」だという保証はないのだ。「多数によりもたらされる安心感」は当てにならない。それは「マジョリティーの怠慢」だ。

特に、それが有名人や権威的な存在の人から発信されたものである場合、多くの人は疑いもせずに鵜呑みにする。「知名度」「スペシャリスト」という肩書きに弱い人やそれにコンプレックスを持つ人ほど、その傾向が強くなる。だが、彼らが信じた発信者もまた、実際のところはその大半が、「自分が知っていることを書いているだけ」「自分が思ったことを書いているだけ」だったりする。

中には、「専門家」「有識者」と呼ばれるような立場にありながら、とんでもない発言をする人達も多い。数年前、「鬱は甘えだ!精神が弱いからだ!山登りでもさせておけば治る!」とあちこちで発言していたバカな内科医がいたが、その典型だと思う。「昭和」に蔓延していた偏見。「日進月歩」と言われる医学の世界で、昭和の情報と価値観が未更新のままの医者とか、ある意味問題ではないかと。こういう「化石」のような人が未だ存在することに驚くと同時に呆れる。

世間の多くの人は、「医者=医学全般に通じているスペシャリスト」と思っているが、実際は、自分の専門分野以外に関しては非常に疎い。関心度も低いし、それについての最新情報をわざわざ得ようとすることなど、ほぼ皆無だ。知識レベルもそのへんの素人と変わらないくらいか、下手をするとそれ以下だったりする。精神医学に無知で無関心な内科医や心臓外科医がいても、何ら不思議ではないのだ。

「病は気から」という言葉が古来からあるにもかかわらず、体と精神と心の繋がりを軽視する医者は多い。残念なことに、件のバカ医者のようなケースは、決して少なくないのだ。医者でありながら、未だに「鬱やPTSDは単なる甘え」と断言する人もいる。そういう認識不足の専門家が公の場で偏った持論を展開することは多々あって、迷惑この上ない。

何をどう思おうと勝手だが、自分の価値観や思い込みを「情報」と混同して発信するのは、いい加減やめてもらえないかと。「医者」というブランド力が物を言うことも多いこの国では、何気ない一言であったとしても、「医者の言葉」というだけでそれをありがたがり、正誤関係なく受け入れてしまう人もいるのだから。

その道のプロであろうがなかろうが、どんな形であれ何かを発信する立場にいるのであれば、「確認」は最低限の義務だ。きちんと自分の言葉の「裏」を取れよ、と。

先頃の熊本地震や今回の台風10号の東北地方への被害にあたって、被害者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)等の発症が懸念されているが、例のごとく、「古い情報とクソの役にも立たない思い込みで無責任にモノを言う人達」があちこちに涌いている。

「PTSD?そんなもんは気の持ちようだよ。ストレスに対する耐性がないんだろ?精神的にヤワなんだよ。戦争を経験した世代を見てみろよ。目の前でどんだけの人が死んだと思ってんの?それでもケロっとして生きてるじゃん。トラウマなんて気力でなんとかなるんだよ。気力だよ気力!」

面白いことに、心理学や精神医学の分野に無関係且つ無関心な人やPTSDを経験したこともない人、自分に対して妙な過信をしている人ほど、こう言うのだ。「門外漢」と「幸運な未経験者」の言葉には、なんの説得力もない。それはただの「誹謗」だ。どこまで行っても「他人事」なのだ。自分以外のことに対しては、人はどこまでも無責任になれる。その典型的な例だ。

よし、あんたら今からイスラム国の人質と交換されてこい。それとも、サファリパークの猛獣エリアに置き去りにされるのとどっちがいい?せっかくだから好きなほうを選ばせてやるわ。怪我の程度は関知しないけど、ぎりぎり最低限の生命だけは保証してやる。「明日は我が身」「紙一重」を身を以て経験したほうがいいわ。

生還して普通の日常生活に戻った後、街中やテレビで中東系の人を見て体がビクッとなったり、コーランの音読をテレビで聞いて全身が震えたり、トラ柄の洋服やライオンの写真を見て冷や汗が出るようになったり、動物園やサファリパークやペットショップに行けなくなったり、子供におもちゃのピストルを向けられた時に心臓がバクバクしたり、包丁やナイフ、はさみ等の刃物類が持てなくなったり、家でくつろいで楽しく食事をしている最中に、突然「自分は死んでしまうかもしれない」と思ったり、足元が、まるで雲の上を歩いているかのようにふわふわと覚束なかったり、ちょっとした物音や人影に死ぬほどびっくりするようになったり、

家族や友人知人を、理由もなく「危害を加えるのでは?」と疑いや警戒の目で見るようになったり、どこにいても落ち着かない気分になったり、体は疲れているのに全然眠れなかったり、妙にやる気が出なかったり、気分が沈んだり、人質として監禁されていた部屋の壁の色や空気の匂い、ライオンに追いかけられていた時に首筋に感じた息遣いを気がつくと繰り返し思い出していたり、誰かにあの時の体験を話そうとするけど、なぜか言葉が出てこなかったり、悪夢を見てうなされたり―そういうことが1つも起きなかったら、あんたらの言う「気力論」を認めてやってもいいわ。

テレビや映画の影響で、「トラウマ」というものが、非常に誤解されて世間に広まってしまったと思う。その中でも、よく取り上げられる「フラッシュバック(追体験)」という症状は、「その瞬間の場面の記憶が突如蘇る→恐怖に悲鳴を上げ、パニック状態になる→そして失神」という形で描かれることが多いせいか、言葉は悪いが、何か非常にドラマティックで大げさなものだと思い込んでいる人が多い。

確かに、そういう症状を示す人もいないわけではない。だが、実際のそれは、当事者の内面で起こっている状態に反して、表面上の変化は周囲には分からないほど静かなものであることが多いのだ。

その時の「嫌な感情」を自身で能動的に思い出そうとしているわけでもないのに、意志とは無関係なところで、説明がつかないほどの強い恐怖心が突然湧き上がってくるのだ。時と場所を選ばずに、それは不意打ちにやってくる。自分の制御不能な領域で起こるのだ。

気がつくと、その感情やその時の状況を脳内で延々と反復していたりする。自分の意思に反して。その間全身がこわばって動けなくなったり、震えが止まらなかったり、会話が困難になる人もいる。現れる反応は人によって千差万別。ドラマで描かれるイメージは、あくまでも一例だ。「外からはわからない」「気づきにくい」もののほうが圧倒的に多い。

「傍目にはケロっとして生活している(ように見える)戦争経験者達」でも、本人や周囲が認識していないだけで、実はPTSDの後遺症が戦後70年以上経った今も残っている場合がある。

戦争中のことを「忘れた」「覚えていない」と言って、話したがらないのもそう。反対に、涙ぐみながら当時の話をすることもそう。イモ類等、戦時中に主な食料だった物が食べられない、もしくは食べたがらないこともそう。風船が割れる音や打ち上げ花火の音、車のタイヤのパンク音、飛行機やヘリコプターが発する音、パトカーや消防車のサイレン等、空襲や銃声を想起させるような物音が苦手なこともそう。当時疎開していた親戚の家や防空壕のあった場所を避けたり、行きたがらないこともそう。「戦争物」のドラマや映画を見ることを避けたり、とにかく「戦争にまつわるもの」を遠ざけようとすることもそう。

日常の、些細で何でもないように思えることの中にも、当時の「トラウマ」は存在し続けている。テレビの中で描かれるような「大袈裟なもの」だけがトラウマではないのだ。本人に自覚がないだけで、実は慢性的なものになっているケースも多い。PTSDに関する情報と知識が圧倒的に不足しているため、自分が長年抱えている原因不明の心身の不調の原因が、まさか70年以上も前の戦争体験に起因しているとは思わないのだ。

当時のことを思い出して、強い気分の落ち込みや波を経験しても、「辛い思いをしたのは自分だけじゃない「みんなも同じことを経験してきたんだから」「もう昔のことだから」とあれこれもっともらしい理由をつけて、自分を無理矢理納得させてきただけなのだ。「忍耐」を美徳とし、時にそれを強要されるこの国では、それ以外の方法は許されなかったから。「抑圧」は「解決」を生まない。相変わらず「傷と痛み」は残り続ける。時間と共に色褪せたり薄まることはあっても、それは決して消えることはないのだ。

長年「根性論」がまかり通ってきたこの国では、精神医学の分野は欧米に比べ、確実に30年は遅れている。PTSDに対する世の中の認識も治療法も、ようやくスタートラインに立ったばかりだ。精神医学の分野は、この国では、昔から「アンタッチャブルの領域」だった。それゆえに、根拠のない風評や憶測が飛び交い、正しい知識を得る機会もなく、今日までその状態が続いてきてしまったのだ。特有の「隠す文化」「恥の文化」も、それに追い打ちをかけた。

そして、今尚そういった傾向は変わらない。ネットで膨大な情報が得られる時代にありながら、結局は「自分が関心があること」しか知ろうとしないこの国の人間の怠惰と無関心と―。面倒くさいことは人に丸投げ、「与えてもらうこと」に疑問すら抱かないで盲信する依存心の高さと―。自分の考えや持っている情報を過信し、省みない傲慢さと―。この国の「怠慢」が生んだ現状だ。

今の世の中、件のバカ医者や「気力論」を振りかざす無知な人間のような、その分野のことに関してなんの知識も持たない素人風情がデマを垂れ流すことが多々ある。ネットに出回っている情報がすべて正しいわけではない。たとえそれが、「自分が信頼している人が書いていることであっても」だ。

「信用する=鵜呑みにすること」ではない。「思考」を投げ出すことは「依存」の始まり。その第一段階だ。そういう些細なところから、「侵食」は始まるのだから。他人の思考に執着することは、自分を明け渡すことと同じことなのだ。

インターネットが一般に普及し始めて20年以上経ちながら、大半の人間は、結局「自分が知りたいこと」しか調べない。知識の量と幅は、案外普及前と大差ないのかもしれない。「考えて、調べる。そして考える」この国の人間に、今現在圧倒的に足らない部分。無知が蔓延する世の中がもたらすものは、「混沌」と「停滞」だけだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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覇 道

 2016-08-08
「セラピスト」「カウンセラー」という名称が付く仕事をしていて言うのもなんだが、世の中、こんなにも第三者からの「アドバイス」を求める人が多いことに驚く。特に、生き方や進む方向について。これがプライベートなら、「自分が思うようにしたらいいんちゃいます?」で終了なのだが、「仕事」となるとそうはいかない。

私自身は、信頼する友人に、「私はこう思うんだけど、あなたはどう思う?」と「意見」を求めることはあるが、それは「アドバイスを求める」ということとは違う。私が欲しいのは、「正解」などではなく、「別の角度からの視点」と「それがもたらす可能性」なのだ。

例え誰かにアドバイスを求めたところで、人間というものは、自分が受け入れたいことしか受け入れない。「いいアドバイスをもらった」と喜んでいる人は、結局は、「自分が聞きたい言葉を相手が言ってくれた」というだけのことなのだ。相手が「正論」を言っているとしても、それが自分が期待していたものとは違っていた場合、人はそれを受け入れない。

大抵の場合、人は「違和感」という言葉を使い、相手の言葉に同意・共感することを拒む。だがそれは、「期待していたものが返ってこなかった」という落胆を、それらしい言葉を持ち出して、自分が拒否する理由をもっともらしく正当化しているだけなのだ。自分が望むものと違っていたら、そりゃ「違和感」も感じるでしょうよ、と。

結局、人は、無意識下で「自分がどうするか」ということを決めているのだ。何を受け入れて、何を拒否するか―「自分はどうしたいのか?」その答えを、既に自分自身の中に持っている。誰かにアドバイスを求めるのは、潜在意識にあるそれを、顕在意識で実感したいから。曖昧でぼんやりとしたそれを、その行為によって具現化しようとしているのだ。

端的に言えば、それは「手段」であり、「作業」なのだ。既に存在する答えを明確にするための。乱暴な言い方をすれば、アドバイスの内容は、さほど重要ではない。むしろ、そこで行われる「やり取り」のほうが重要なのだ。誰かと思考や言葉を交換することで新たな波が起こり、その動きが、自分と「答え」を近づける。

多くの人は勘違いをしている。「相談」とは、相手にすべてを丸投げして答えを教えてもらうことでも、指示を仰ぐことでもない。自分の思考を放棄して行うそれは、「ただの依存」だ。そして、相談者に思考を放棄させ、自分の意に従わせようとする相手もまた、「ただの支配者」でしかない。「答え」を持っているのは、あくまでも自分。第三者からそれがもたらされることはない。

私個人としては、それに対する経験や知識がないにも関わらず、頼んでもいないのに口を挟んでくる人達の言葉は、「単なる個人の感想」に過ぎないと思っているので、聞き流すことにしている。「うっせーよ」と心の中で毒づきながら、一応の内容はチェックする。だが、意味のない雑音を取り込む気はない。世間で言うところの「大人の態度」で、華麗にスルーして終わらせる。

実際、そういう人達の言葉というのは、根拠のない思い込みや偏見、「~らしい」という出処が不明の、噂話の域から勝手に憶測したようなレベルのものがほとんどなので、聞く価値があるかどうかも疑問だ。中には、親切を装ったことを言いながら、妬み嫉みの感情から足を引っ張って、引きずり降ろそうとする人もいる。もしくは、自分の存在感を示したいばかりに嘴を突っ込んできたり、自分が他人に与える影響力を試そうとする人とか。

ある時思ったのだ。そういう、人の生き方や思考に対してあれこれもっともらしいことを言いながら口を出してくる人達を見て。「なんだかんだ言っても、結局自分以外のことは『他人事』」なんだなー」と。

所詮自分の事ではないから責任はない。責任を取る必要はないんだから、そりゃ好き勝手に言いたいことを言えるわな、と。それぞれが言っていることも見事にバラバラなのも、結局は「個人の好み」でしかないという証拠。そして、そのほとんどが、「何の役にも立たない感情論」でもある。端的に言えば、「相手のことを思って」というよりは、「自分が言いたいこと」をあれこれ自由に言っているだけなのだ。

実際、自分が言った「アドバイス」とやらの内容を、全く覚えていない人もいる。未知の領域に手を出そうとしている相手に対し、「そんなことして大丈夫なの?」「やめておいたら?」「うまくいくわけがない」等と散々言っておきながら、いざそれが成功すると、手のひらを返したように誉めそやすとか。「自分が生きるわけではない人生」に対し、人はそれだけ無責任になる。

結局、自分の人生を自分以上に真剣に考えてくれる人などいないのだ。以来、「自分のことは自分で決める。自分が思うやり方でやる」と決めた。所詮人間は、自分が信じたいものしか信じない。「自分が信じるやり方」でやることは、ある意味非常に理に適ったことだと思うのだ。

人間は、非常に厄介且つ勝手な生き物だ。基本、「自分が一番正しい」と思っている。極端な言い方をすれば、「自分以外は全員変でおかしい人」なのだ。血縁関係にある親兄弟であってもそれは同じ。家族間で起こるいざこざの類も、「この家族の中で、分別があってまともなのは自分だけ」そういう意識を各々が持っていることに端を発している。

「自分のやり方、自分の考えがベスト」そう思っているから、人は「よかれ」と思い、口を出す。だが、それはあくまでも「その人限定の、その人にだけ有効な方法」でしかない。血が繋がっている家族だろうが、赤の他人だろうが、所詮は「他人事」。まさに「自分以外の他の人の事」なので、その人達に自分のセオリーが100%通用するわけではない。

自分にとってはベストでも、相手にとっては違う。「自分とその人は違う」一見ごく当たり前のことだが、それを理解・意識している人は、それほど多くはない。世の中の構図は、「自分と自分以外の人達」なのだ。

例え、それが「貴重な経験から得た教訓や人生観」だったとしても、「あくまでもその人自身のみに適用可能なもの」でしかない。「アドバイス」「忠告」そう言われているものは、結局は「一例」なのだ。「自分の場合はこうだった」それが自分にもたらした「結果」を語っているに過ぎない。ましてや、それが唯一無二の「真実」であるということなどないのだ。

結局、自分が思ったように、したいようにするのが一番なのだ。例えそれが望まぬ結果になろうとも、恨み辛みを言わずに自力でどうにかする―という覚悟を持っていれば。

以前、プライベートでお付き合いのある占い師の方を、友人に紹介したことがあった。後でその友人から聞いたのだが、その占い師の方曰く「樫田さんはね、あの方、私が『この時期は絶対に動いちゃダメですよ?いいですね?』って念を押しても動くんですよねー。でも彼女、良くない時期や運勢の時も、自分でなんとかしちゃうんですよ」

私としては、他人の意見も占いも、現在の自分の立ち位置や今後の可能性を確認、客観視する為の、「あくまでも参考意見」という位置付けなので、人が難色を示そうが、占いの鑑定結果が凶と出ようが、あまり関係はない。「よっしゃ、動くで~!」「今やりたい!」となったら即動く。

もちろん、事前のリサーチや内容の吟味は十分行う。だが、データ収集や机上のプランにはキリがない。予想と現実には「ズレ」が付き物だ。実際に何か事が起きたら、その時対処すればいいと思っている。すべてが計画通りに行ったら、誰も苦労などしない。

その反面、「チャンス」だの「もったいない」だの、いくら人から勧められようが、占いで最高の結果が出ようが、自分が納得しない時は、てこでも動かない。それは、あくまでも、「その人から見た場合は」「確率的には」の話なのだ。参考にはするが、最終決断は自分自身で下す。

他人の意見も占いも、その時々で変化する「天気予報」のようなもの。不確かなものに縛られる気はないし、自分の人生を生きるのに、自分以外の人の言葉を最優先する気もない。万人から理解を得られるわけではないのだから、反対派の意見をいちいち気にしても仕方ない。自分の人生に誰かの「許可」をもらわないといけないなんて、そんなのはまっぴら御免だ。

すべてが停滞している時であったとしても、良い運気の波がやってくるのを受身でじっと待っているよりは、考えて、行動して、チャンスを自分で作ってしまえばいい。もし、自分が「そうしたい」と心底思うならば。

最近、SNS等でのリア充アピール、「いかに人から幸せそうに見られるか」ということに対して熱心な人が多いが、そういった「こういう人生こそが幸せなのよ」という、世間の多くの人が望み、定義する「幸福」の要素が、私には全然ピンと来ない。平穏無事、安定、堅実―正直、「それって面白いか??」と。少なくとも、私自身の「幸福の定義」の中には入っていないし、優先順位も低い。

それに、「人からどう見えるか、どう思われるか」が基準になる人生ってどーなのよ?と。もし、自分がやりたいことが他人から見て「幸せそうに見えない」場合はやらないんですか?と。他人の目や思惑を気にして、欲しい物をみすみす逃すとか、私からしたら「アホくさ!ありえねー!!」なのだが。

そういった「他人の目を基準にする人」というのは、物でも何でも、「自分が好きなもの」より、「持っていると羨望の眼差しで見られるもの」を選ぶのだと思う。「これ絶対に可愛い!」と思うノーブランドのバッグより、自慢できる有名ブランドのバッグとか。

「個性より無難」「みんなと同じが安心」それは、「自分自身に対する自信のなさの表れ」なのだ。「自信のない自分」がした選択だから、自信が持てない。自分の感覚よりも、「他人の評価」を信じる人。「その他大勢」に混じれば、多少の不満はあったとしても、「安心」は得られる。まあ、本人達が「それでいい」と言うのなら否定はしない。それもまた「一つの生き方」だ。

昔から、綺麗にアスファルトで舗装された道よりも、「ここ、本当に歩けんの?」というようなけもの道に、「面白そう」という理由だけでわざわざ入っていくようなタイプだ。人から見たら、「なんでわざわざそんな所を!?」と思われても、本人がそちらに魅力を感じるのだから仕方ない。「王道」は、私にとっては退屈だ。これはもう「性分」と諦めるしかない。

良くも悪くも「見たまんま」「予想がつく」ということに全然魅力を感じないし、興味も持てない。「どんなもんなの?」と試しに手を出してみたこともあるが、案の定、秒速で飽きた。人も生き方も、「意外性」がないとつまらない。

そういう「マイノリティー」の感覚を、今更人に理解してもらおうとも思わない。「自分を理解してもらうこと」は、私にとっての「幸福」ではない。自分自身が思う、「自分に合うもの」「自分が欲しいもの」を自力で手に入れるまでのことだ。第三者の意見より、自分の中に存在する感覚や思考に従う―「今までどおり」に、それをやっていくだけだ。これから先も。

けもの道での逆風やトラップも、力技で強引にねじ伏せて進む―そんな生き方があってもいいんじゃない?と。もし、どんな結末でも引き受ける「覚悟」があるのなら、ね。必ずしも、「王道」が万人に向いているとは限らないのだから。「王者よりも覇者であれ」私は自分にそう望む。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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月の裏側

 2016-07-17
こういう仕事をしていると、「人を見る目」というものについて聞かれることが多い。「どうしたら人の本質を見抜けるようになるのか?」という言い方をしてはいるが、実のところ、それについて尋ねる人は、多分「自分の期待に応えてくれる人」を見分けるテクニックやマニュアルを求めているのだと思う。

もっと踏み込んで言えば、「自分に危害を与える人かそうでない人か」を判別する手がかりが欲しいのだ。そして、口には出さずとも、ほぼ確実に「初対面で、ひと目で、短時間で」という但し書きが付く。

見る目云々を口にする人は、過去に人間関係で何らかの「痛い目に遭った人」が多い。信頼していた人に裏切られた等の経験がある人。そういったリスクとの遭遇率を可能な限り回避したい、また同じ目には遭いたくないという強い気持ちがあることも共通している。

だが、結論から言ってしまえば、初対面のわずかな時間でその人の本質を見抜くのは100%無理だ。一代で大企業を築いた社長やスカウトした人物が後に大スターになった芸能プロデューサー等「カリスマなんとか」と呼ばれる人達の中には、「自分は人を見る目があったから成功した」みたいなことを言う人もいるが、実際のところ「見抜けた率」は、多く見積もっても、せいぜい50%くらいじゃないかと。

「成功者」が書いたHowTo本の類が大好きな人は、こういう言葉を真に受けて、「やっぱり凡人とは違う」と感心した挙句、心酔して「信者」になるパターンが多い。そして、「人の本質を見抜く目を養う10の方法」のようなタイトルがついた自己啓発本を○mazonで検索し、「お急ぎ便」で注文したりする。出版側もそのへんはよく心得ていて、その手の本が巷にはゴロゴロしている。

「カリスマなんとか」が何と言おうと、大抵のそれはギミックだ。その手の人達には、「レジェンド」「物語」が必要なのだ。カリスマ性や存在感を、さらに盛り立て、引き立てる為の道具・仕掛け・特殊効果―いわば「策略」。「成功者」は、「普通の人」であってはならない。彼らと「普通の人」を隔てる何か、その違いや差を見せつけるために混ぜ込んできたエピソード。そこに書かれていることを鵜呑みにしないほうがいい。それが「事実」かどうかは、本人にしかわからないのだから。

どういうわけか、世の中には「活字になったことは全部本当のこと」と信じ込む人が多い。だが、「活字マジック」に踊らされている自分自身を認識したほうがいい。「なりすまし」が横行するこの時代。著者の実体とはかけ離れた内容が書かれていることが当たり前になっている。見ず知らずの人間の、真偽も定かではない言葉を鵜呑みにせずに、自分で考え、自分で検証してみることだ。

なんだかんだ言っても、彼らや出版社の目的は「売ること」なのだ。いわば「商売」なのだから、利益の為には何だってする。多少話を盛るくらいのことは日常茶飯事だ。その手の話は5割引いて読むくらいが丁度いい。

人には、「承認欲求」というものがある。「周囲に認められたい、好かれたい」という思いを、形に多少の違いこそあれ、どんな人も持っている。余程特殊な考え方をする人を除いて、自分に良い印象を持ってもらおうと、人は努力する。いわば、全力で「いい人」を演じるのだ。特に初対面において。

「一番いい自分」を全力で演じている人から、「欠点」を探し出すのは難しい。相手は意図的に細心の注意を払って自分のそれを隠しているわけだから、容易にボロを出すわけがない。そんな状況で、「ひと目でその人の本質云々」は到底無理な話なのだ。

「人を見誤った」ということに対して苦い経験をした人というのは、今、自分が見ている部分だけが「=その人」だと思い込んでいる。それがそもそもの間違いなのだ。人はそれほど単純なものではない。

人は、幾つもの「顔」を持っている。「装う」「作る」は当たり前。本人が意図的に、もしくは無意識に隠している顔もある。「自分が知っているその人」「世間に浸透しているその人のイメージ」だけで、「この人はこういう人」と結論付けることは早急過ぎる。

「自分には人を見る目がある」と言う人を、私は信用しない。そこにあるのは、「過信」と「傲慢さ」だけだ。まるで「神の視点」を持ったかのように、相手のすべてを知った気になっているのだから。相手の中に「それ以外の可能性」が存在することを知った時、慌てたり手のひらを返したような態度を取る人は、大抵がこのタイプだ。自分が非常に短絡的な思考をする人間であることさえ、彼らは認識していない。自分のことを客観的に観られない人間の「人を見る目」など、所詮その程度だ。

「いつも人に騙される」とぼやく人も同様だ。私個人としては、この手のタイプが一番厄介だと思っている。この場合、責任の多くは本人にある。こういう人達は、過去の経験もあって、最初は非常に疑い深い。だが、安心感を感じる等、相手が自分が設定している「合格点」をクリアすると、途端に今までの距離を一気に詰めてくる。

その「合格基準」は、非常に単純だ。「自分が好ましいと思うような、望むような対応をしてくれたかどうか」最初は人を疑ってかかる割には、「自分の好き嫌い」「自分の都合」でしか物事や人を見ないという短絡さが、騙される云々の事態を招いているのだ。

彼らの多くは、「適切な距離感が掴めない人」だ。一度心を許すと、相手に非常に依存的になる。自分が一度「この人はこういう人」と思い込むと、他の一切の感覚や思考を閉じてしまう。最初の頃の反動で、「早く仲良くなりたい」「もっと仲良くなりたい」という気持ちも手伝って、焦って距離を詰めようとする。自分が見たいように見、思いたいように思うので、見逃したり勘違いする部分も多い。そんな状態では、彼らが言うところの「騙される=こんなはずじゃなかったのに」という事態が起こるのも、何ら不思議ではないのだ。

結局、彼らは「人に期待をしている人」なのだと思う。「今度こそ。今度こそは」という感じで。そして、その「期待」の根底にあるのは、多分「孤独」だ。孤独感から来る依存―それが彼らの目を曇らせる。その部分を自覚、直視してこなかったことが、望まぬ状況を招いてきたのだと思う。「騙される」「騙された」という受身の意識にしがみつくのは、ある意味筋違いだ。

「早く、短時間で、すぐに」と望む気持ちも理解できないわけではない。だが、それは、「楽に損なく」という計算高さの表れでもある。どんな形であれ、損得が最初にくる関係は、所詮その域を出ないと思う。「心を許せる友達がほしい」「信頼できる人と付き合いたい」と言いつつ、「でも損はしたくない。ムダな時間は使いたくない」というのも、ちょっと虫がいいんじゃない?と。求めるものが大きければ、対価もそれに見合ったものになる。質の高いものを手に入れるには、吟味する時間も待つ覚悟も必要なのだ、

「今見えている部分=その人」と思い込む人は、人を判断するポイントも断然甘いし、的外れなことも多い。例えば、「良いことをしているからいい人」「良いことを言っているからいい人」と、単純に思い込む。だが、悪人は善人のふりをする。笑顔で右手で握手している人が、背中に回した左手に刃物を隠し持っている可能性もある。悪人でも、「良いこと」はできる。例え、それが一時の気まぐれであったとしても。それがその人の「別の顔」。人間は、それだけ「複雑」なのだ。

「人を見る目」にこだわる人も、一度考えてみたらいい。「相手から見た自分」を。自分という人間が、相手にどう映っているのか?ということを。自分が相手を観察するということは、同様に「自分も相手から観察されている」ということだ。「自分には見えない自分」を、相手は見ている。

「騙されたくない」「傷つきたくない」「自分だけがいつも損をする」そういった、ある種の「被害者意識」を持つのは仕方ない。だが、果たして本当にそうですか?と。相手から見た場合、「被害者」とは違う顔が見えていたりする。

本性を見抜いてやろうと、相手の一挙手一投足を疑心暗鬼で凝視したり。何か魂胆が隠されていないかと、警戒心丸出しで、言葉の裏の裏まで探ろうとしたり。「本性が判明するまでは・・・」と、作り笑いで上辺だけの態度で接したり。

リスクを回避しようとする警戒心や他人に対する不信感は、得てしてそういった面を浮き彫りにする。相手からしてみたら、「なんだかやたら疑い深くて、全然本音を見せない人」になる。

だが、当の本人達は、そういった部分が自分の中にあることにまったく気づかない。彼らの焦点は、「被害者である自分」にしか向けられていないのだから。「騙される自分=自分は純粋」という思い込みを無意識の中に持っている彼らは、その「ポジション」を容易には手放さない。なぜなら、「純粋な自分に非はない」のだから。

「見抜きたい」のなら、「見抜かれること」を覚悟することだ。「人の本性は見抜きたいけど、自分が見抜かれるのは嫌だ」とか、そんな虫のいい話はない。相手にいろいろ求めるのは勝手だが、まずは自分のそれと向き合うべきなんじゃないの?と。

人の本質というのは、ある程度距離が縮まり、親しくなってから見えてくるものだと思う。「承認欲求による全力の演技」が落ち着いてきた頃、それは現れ始める。

図々しい頼みごと、礼節の欠けた振る舞い、人を舐めた言動、道徳に反した行為等、メッキが徐々に剥がれてくる。数週間後、数ヶ月後、数年後、数十年後―それがいつかはわからない。だが、相手に対して気を抜いた時、そこに表れた顔が、その人の「素」なのだと思う。その人の「もう一つの顔」。それを直視するかしないかは、自分自身の裁量だ。

人には、いくつもの「顔」がある。本人が意図的に、もしくは無意識に見せていたり、隠していたり。本人すら気づいていないものもある。それは、必ず複数存在する。物事もまた然り。今見えている部分だけが「すべて」ではないのだ。裏と表を同時に見ることはできない。

「人を見る目」とかいう、何だかよくわからないものにこだわるより、まず、「期待」を捨てて、相手をよく観なさいよ、と。一時の感情や思い込み、自分の都合や損得に流されないで、しばらく相手と付き合ってみれば?と。人との関係において、「早技」や「テクニック」は存在しないのだから。「馬には乗って見よ。人には添うて見よ」物事は、実際に経験してみないとわからない。

諸々の面倒臭さを含めての人間関係だ。綺麗なものばかりで人間も人生も出来ていない。それでも、「やっぱり傷つくのは嫌だ」とか「騙されたくない」と言うのなら、一切の人間関係を断って、人里離れた山奥か無人島にでも移住するしかないんじゃない?

そして、波風の立つ世界を厭いながらも「孤独」への覚悟も持てない。でも、「おいしいところ」は欲しがる―というその心根こそが、あなたの「裏側」なのだ。

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インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。



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アポステリオリ

 2016-07-01
「きっかけがほしい」「きっかけがあれば」何か行動を移す際にそう言う人がやたらといるが、何か思い違いをしてませんか?と。

「今の自分の状況を変えたい」と思っているなら、「きっかけ」なんて必要ない。自分の中に、既に「こうしたい。こうなりたい」という「希望」や「目標」があるのだから、それで十分ではないか。行動するための理由や動機は揃っているのだから、後は実現に向けて、やるべき必要なことをさっさと実行したらいい。そこまできていながら、「きっかけがほしい」とか。何言ってんの?と。

彼らが言うところの「きっかけ」は、いわば、後押ししてくれる何か―行動に移すことを躊躇っている自分を、「よし!やろう!」と実際に腰を上げる気持ちにさせてくれるような、覚悟を決めさせてくれる出来事やストーリーを指しているのだと思う。

そこにあるのは、どこか他人事めいた、運任せのような、「他律」の響きだ。自らは動かずに、それがあちらからやって来ることを期待している―そういった虫の良さのようなものが感じられる。それは、自分自身の現状や行動、思考を変える時でさえ、その手がかりや弾みとなるものを、「自分の外」からもたらされることを望んでいるということだから。

結局、「きっかけ」という言葉が、「逃避」の手段になっているのだ。「きっかけ」なんていうものは後付けだ。「そういえば・・・」と、後々になって気づくもの。時々、「やりがいのある仕事を見つけたい」と中二病をこじらせた本末転倒なことを言う人がいるが、それとまったく同じ理屈だと思う。

仕事は仕事であって、やりがい云々は、実際にその仕事に就いて、続けていくうちに感じていくものだ。「やりがいがあった」と、後々になってから思うもの。「仕事」に「やりがいのある」という形容詞を付けるのは自分自身だ。「きっかけ」についても、それは同じ。「運命の人」とか「運命的な出会い」もそう。最初から付随しているものではないのだ。

公私にわたる経験から言わせてもらえば、それにこだわる人や期待する人は、その「きっかけ」、もしくは「後にきっかけとなる可能性のあるもの」と直面する機会があったとしても、結局それを自分のものにしない。その言葉にしがみついている割には、いざとなると及び腰になるのが常だ。そして、あれこれもっともらしい理由をつけてお茶を濁し、次のきっかけとやらを探しに向かうのだ。

彼らは、結局依存的なのだ。いわば「他律の人」。自分の意志ではなく、誰かや何かの命令や束縛によって行動する人。だから、自分以外の誰かや何かからの刺激がないと動けない。ある意味「不精」でもある。その手の人達を観ていて思う。彼らにとって、「思い」は「燃料」にはならないのだ。「主役」がすり替わっている本末転倒な状態に自分があることにさえ気づかない。

「何やってんの?何がしたいわけ?」と。結局、今までそうやって逃げてきたんでしょ?自分の怠慢や意気地のなさを「きっかけ」という便利な言葉で誤魔化して。自分のやる気スイッチを押してくれる何かをウロウロ探している暇があったら、自分からさっさと動けよ、と。「行動」より先に「きっかけ」が来ることはないのだから。

「ドラマチックな」とか「運命的な」とかいう形容詞がつく転機がやってくるのを期待しているヒマがあったら、行動しなよ。それが、探し求めている「きっかけ」とやらに近づく方法なんだから。いい加減認めれば?今までも「きっかけがー」とか言いながら、結局グダグダウジウジ何もしないで、チャンスもタイミングも潰してきたのは他ならぬ自分自身だって。

御託並べて「欲しい欲しい」を連呼するのは勝手だけど、そんなにほしけりゃ自分で作ればいいんじゃないの?雨に濡れることは嫌がるくせに、虹が出ることは期待するとかやめてくれる?それって超あさましい考え方だから。はっきり言うけど、「卑しい」よ。変化やリスクや掛かる手間にビビって進めない自分を、もっともらしい言葉で正当化する「狡さ」もね。言い訳に終始するその様子はね、ズバリ言わせてもらうけど、「美しくない」んですわ。潔くないその姿を、「不潔」と言います。

まあ、とりあえず「きっかけがない」とか言っておけば、「動かない自分には、動きたくても動けない理由があるんです」って、自分にも周りにも言い訳できるもんね。「自分は悪くないもん!きっかけが見つからないのが悪いんだもん!」ってね。そう言われれば、みんな何となく納得するやん?「なんかよくわからないけど、そうなのね」って感じで。便利な言葉があってよかったね(にっこり)。

経験から言わせてもらうが、人間、本当に手に入れたいものがあるのなら、「きっかけ」なんてものに囚われたりしない。「どうしたら手に入れられるか?」本気だったら、その方法を考えたりするけどね。「きっかけがー」に終始する人は、「手に入れる方法を考え始めること」にさえ、きっかけを欲しがる。なにそれ。意味わかんねーし。なんでそーなるわけ?

こだわった挙句何もしないのは、結局のところ、「これじゃなくてもいいや」というレベルのものなんじゃないの?違う?「そうじゃない」って言うのなら、四の五の言わずにさっさと動けよ!非現実的なおとぎ話やドラマが起こることを期待するヒマがあったら自分自身に期待しろ!いつまでも自分の人生から逃げ回ってんじゃねーよ!

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 2016-06-03
アザラシやシャチ等、天敵がいる海に一番先に飛び込むペンギンには、当然危険が伴う。だが、そのハイリスクは、ハイリターンの可能性も同時に秘めている。危険を冒して真っ先に海に入った分、群れの仲間達よりも多くの餌を得ることができるのだ。そして、ファーストペンギンによる「安全確認」が完了すると、他のペンギン達がその後に続く。

「人が持っているものは自分も持ちたい」という欲求が強い人は、「自分が持っていないものを持っている人」に対し、強い妬みや不公平感を抱いている。だが、大抵の場合、そういった人は「ファーストペンギンになりたがらない人」だ。

セカンドペンギン、サードペンギンといった、「様子見の後に飛び込む他のペンギン」の思考やスタンスなのだ。はっきり言うが、「ずるいよね」と。ファーストペンギンが苦心惨憺して道なき道を切り開いていく様子を見て、そのやり方を真似して、時間もエネルギーも大幅に節約できるのだから。良く言えば、慎重なタイプ。同時にそれは、自分の思いやオリジナリティーよりも、「失敗しないこと」「利益優先主義」を選ぶ人の特徴でもある。

だが、この手の人達は厄介だ。ファーストペンギンが得たものと同等のものを自分も手にしないと満足しない。さんざん模倣した挙句、それさえも棚に上げて、「今以上」を要求する。自ら努力を放棄しながら、「二番煎じ」では満足しない―そういった矛盾した貪欲さがある。そして、ファーストペンギンが何か新しいやり方、うまい方法を持っていないかと、常に鵜の目鷹の目で、その様子をこっそり窺っているのだ。

その姿を視界の隅に認めながら、ファーストペンギンは思う。「楽しようとするなよ」まったく変わらない相手の思考回路に、呆れると同時に感心をする。だが、ファーストペンギンは、もはや相手を見てはいないのだ。意識の中に、既に相手はいない。「どうでもいい存在」に興味はない。目と意識を向けるのは、自ら率先して海に飛び込むことを厭わない気概のある者だけだから。

誰かの後にしか続けない者、誰かの真似しかできない者、虚構にしか生きられない者―執拗ににまとわりつこうとするそれらを優雅に躱し、ファーストペンギンは静かに笑う。自分を止められる者はいないのだ。もはや自分自身でさえも。それでもいい。自分が見たいのは、「まだ誰も見たことがない景色」だから。「決めたから行く」ただそれだけのことが自らを突き動かす原動力になることを信じられない者達からの理解など不要だ。

そのペンギンは、今日も海を望む崖の上に立つ。水平線の彼方にあるものを確かめるために。自分の背後にひしめき合い、こわごわ様子を伺う群れ成す者達を振り向き、ふわりと笑みを浮かべた後、鮮やかに、躊躇いなく海に身を躍らせるのだ。

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