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不毛な論争

 2012-06-06
今年初め、自殺対策強化月間のPR用に内閣府が考案した標語が、世論を賑わせた。今現在大人気の某アイドルグループの名前をもじって名付けられたそれは、当初の「あなたもGKB47宣言!」から「あなたもゲートキーパー宣言!」に変更された。

変更の理由は、国会審議中の答弁及び世論の大半を占めた「深刻で重いテーマを扱っているのに軽過ぎる。不謹慎だ」という意見を受けてのこと。そのアイドルグループを宣伝広告の類に起用することを念頭に置いての、いわば「その人気にあやかること」を前提にしての「あえてのもじり」だったのか、それとも逆に世論の大きさに「開き直った」結果のものなのかはわからないが、イメージキャラクターとして、件のアイドルグループがCMに起用されている。

内閣府が提唱する「ゲートキーパー」とは、「その人が発している自死のサインに気づき、話を聴いて、専門の相談機関に繋ぐ役割を担うことを期待される人」を指す。それを「国民みんなでやりましょう」と呼びかけているわけだ。国を挙げて、大々的に自死防止に取り組もうとするその姿勢は評価したい。だが、率直に言って、この啓蒙運動によって状況が変化する可能性は極めて低いと思う。なぜなら、問題の本質を完全に履き違えているから。この国特有の価値観や思考、民族性といったものを考慮せずに作られたそれは、結局表面的なものでしかない。

「ゲートキーパー」は、いうなればボランティア的なものだ。「強制」「義務」という言葉には敏感且つ従順だが、自主性を求められると途端に腰が引ける人が多いこの国で、果たしてどれくらいの人が自ら進んでその役割を担おうとするのか甚だ疑問だ。

ましてや人の命に関わることだ。「自分には荷が重過ぎて無理」「敷居が高い」となるのは目に見えている。もうその時点で、世の中のほとんどの人が及び腰になる。そして、それは「ふさわしい人がやればいい」「自分がやらなくても誰かがやるだろう」という、この国の人達にありがちな思考へと繋がっていく。

「本音と建前」「事なかれ主義」「よそ様」多くの日本人に見られる思考や感覚の特徴を考えれば、そういったやり方はかえって逆効果だ。良くも悪くも、「特別な役割」を自分が背負わされることを重荷に感じたり、避けたがる人が多いこの国では、任命制度も強制力も何もない、自覚を促すための宣伝に使用された「単なる標語」、いわば便宜上のものだったとしても、「ゲートキーパー」などとわざわざ固有名詞化されたそれに対し、無意識に警戒心を抱く。

人気絶頂のアイドルのグループ名に引っ掛けて、いい意味での「気軽さ」や「親しみやすさ」を狙ったのだろうが、「ボランティア=奇特な人」という意識が根強いこの国では、個人の自主性に訴えようとするやり方はそぐわない。かえって「裏目」に出る可能性が高い。

定義されている「ゲートキーパー」の役割が非常に曖昧であることも気にかかる。「死んでしまったほうが楽だと思う」「生きていくのが辛い」「いつも死ぬことばかり考えてしまう」そういった希死念慮(きしねんりょ)を持つ人に対応するには、細心の注意が必要だ。専門の知識を持った精神科医やカウンセラーでさえ困難を伴うもの。ただ本人の話を聴いていればいいというものではないのだ。話を聴く側が、精神的に引きずられることもある。たとえプロであってもそれは同じだ。

そういった一筋縄ではいかない要素を含む役割を、知識も経験もない一般人、いわば「素人」に丸投げして、果たして本当に大丈夫なのか?と。企業によっては、ゲートキーパー育成のための研修制度を設けているところもあるようだが、わずか数回、数時間の研修で身につけるもので十分な対応が出来るとは到底思えない。下手をすれば、「二次災害」の可能性も起こってくるのだ。政府の見解が安直過ぎるような気がしてならない。


この件を審議していた国会中継を、その日たまたまリアルタイムで見ていた。「軽薄だから変更すべきだ」「遺族の心情を考慮してない」「作成者は誰だ?許可者は誰だ?」等の批判や非難、標語の発案趣旨に始まり、その決定までの経緯説明等が行われていた。

それらの一連のやり取りを最後まで見ていたのだが、自死遺族として、個人として、セラピストとして―どの立場からしても、ただ「不毛」としか思わなかった。「本当にこれで成果が出るのか?」疑問や違和感しか残らないのだ。何というか、そもそもの出発点からして間違っているような気がするのだ。その実体や状況をよく知らない人達が想像力だけで練った政策と現実との「ずれ」というか。

自死防止に全力で取り組んでいる方達の努力や苦労を重々承知の上で、敬意を払った上で、あえて言わせていただくが、本気で自死を考えている人を止める術はない。それは、私自身の経験とこの4年間グリーフケアでお会いした多くの遺族の方達とお話させていただいた中で得た実感だ。

本気で死を覚悟した人というのは、それを決して周囲の人に悟らせない。「そんな気配はまったくなかった」遺された多くの人達は言う。それだけ自死者本人は「本気だった」ということだ。それを止められないように、確実に遂げられるように―本気で死を覚悟した人達が望んでいることはそれなのだ。彼らにとってそれは、唯一自分に残された「希望」であり、「救い」なのだ。いわば「最後の砦」。それを守るために必死になるのだ。自分の目的を悟られないように、全力でそれを隠そうとする。

万が一、周囲の人が何らかの変化に敏感に気づいて、その時は未然に食い止められたとしても、大半の人は別の機会を見つけて目的を遂げる。本人が「本気の覚悟」を捨てない限り、それは時や場所を変えて、必ず起こりうる。そして、それは誰にも止められないのだ。たとえ「ゲートキーパー」が身近にいたとしても、国中総出で防止に取り組んだとしても、だ。

実際、親身になってくれる親族や友人に恵まれた人でさえ、それを悟らせることなく逝っている。決して「自死をする人=希薄な人間関係」にあった人達ではないのだ。あえて身も蓋もない言い方をするが、周囲による防止活動には「限界」があるということだ。

自死遺族のグリーフケアに関わり始めてから特に思うことだが、この国の人々の「自死」というものに対する認識は、20数年前から何も変わっていない。国策の重要課題として取り上げられるようになった現在でも、それは以前と変わらず「遠巻きにされるような類のもの」なのだ。「何か特殊な事情や問題を抱えた人や家庭にしか起こらない事」であり、「タブー視される領域のもの」という思い込みが根強い。

国民に大きな影響を及ぼす立場にあるメディアでさえ、そういう認識なのだ。毎年、国の統計で自死者の数が発表されれば、その時は「一大事!」という姿勢を取るものの、それも一時のもの。数日経てば、見向きもしなくなる。そして翌年、また統計が発表されると、前年とまったく同じ事が繰り返される。

ニュース番組で自死や心中のニュースが流れる度に、解説委員やコメンテーターが「死ぬ勇気があれば生きられたはず。もっと頑張れたはず」という使い古された筋違いの精神論を持ち出して、その話題を締めることがお約束になっていることからもそれは明らか。結局、すべてが上っ面なのだ。自死者本人の精神状態や置かれていた状況に焦点を当てたとしても、そこから先を深く掘り下げようとはしない。

「ゲートキーパー宣言」等の啓蒙運動を通じて国民の意識へ訴えかけるやり方は否定しないが、如何せん時間がかかり過ぎる。それは、この20数年間の様子―自死に対する世間の認識、メディアの取り上げ方等を見ていればわかるはずだ。受け取る側に「所詮他人事」という感覚しかないのであれば、そういった取り組みのすべては無駄に終わる。

「防止」を最優先課題にするのであれば、「死を考えている人」を中心にして考えるべきなのだ。自死者の8割以上が、いわゆる「鬱(状態)」であったということに焦点を当てたほうがいい。調査の結果として、根拠のある数字として報告されているその事実に目を向けようとしないことが不思議で仕方ない。ほぼすべての自死者に共通するその特徴を、なぜ掘り下げようとしないのかと。

国民の意識の変化を促すなどという、いつ結果が出るかもわからない茫洋としたものに期待をかけるより、自死に至る寸前の段階、その心身の状態―「鬱病(状態)」を改善する手段を講じるほうが、現実的なのではないかと思うのだ。

この国では、鬱病に対する誤解や偏見が蔓延している。「心の弱い人や真面目な性格の人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなるもの」と思い込んでいる人が大半を占める。

その言葉がいつ使われ始めたのかは不明だが、鬱病は、「心の風邪」とも称される。「誰でも罹る可能性のある病気」「決して特殊ではない病気」という意味合いで、「風邪」という言葉が当てはめられているのだが、意図に反して、あらぬ誤解を招いているのだ。「風邪?だったら病院に行かなくてもそのうち治るだろう」という思い込みを人々に与えてしまっているのだ。そして、その思い込みが、無知の状態が、いつのまにか「本当のこと」として変換され、人々の意識に定着してしまっている。

鬱病というのは、セロトニンやノルアドレナリンといった脳内神経伝達物質の減少や機能の低下によって引き起こされると考えられている。いわば、「脳の病気」「体の病気」なのだ。決して「気の持ちよう」でなんとかなるようなものではない。投薬等適切な治療が必要とされる、れっきとした「体の病気」なのだ。

「心の弱い人がなる病気」「放っておいてもそのうち治るもの」等という鬱病にまつわる様々な誤解を正すことから始めたほうがいい。先日、知り合いの心療内科のドクターが言っていたが、最近健康番組等で鬱病が取り上げられることが増えてきたせいか、鬱病の症状を訴えて受診する人が増えたとか。一様に、「今までは気持ち的なものだと思っていたんですが、体の病気だと知って診察してもらおうと思ったんです」と。

心療内科や精神科を受診することが、長い間「恥」「怖いこと」「忌むべきこと」とされてきたこの国では、そのことに対し、いまだに強い抵抗感を覚える人が少なくない。「鬱病は体・脳の病気であること」「鬱病が心と体にどんな症状をもたらすのか」等といった正確な情報を与えることによって、自死を覚悟する人が必ず通る段階でもある「鬱病(状態)」に対する認識を高めるほうがいいのではないかと。

自死というもの・それに伴う心身の状態、そういった事態に繋がる可能性のある主な疾患と症状、心と体の深い関係性、心療内科や精神科が担う役割、誤解や偏見の是正等年齢に応じた内容で行う学校での教育、入社時の研修内容に必須項目として取り入れる等「義務化」して周知徹底させるとか。

心身の不調を感じている本人やそれに気づいた周囲の人が、「病院に行ってみよう」「病院で診てもらったら?」と抵抗なく思えたり言えたりする環境作りが最優先課題だと思うのだ。それが「当たり前のこと」「自然なこと」という意識が定着した時、初めて「防止」に結びつくのだ。多分そういったことが、自死者の数に反映される。

わざわざ国家予算を使って、人気アイドル達にただキャッチフレーズを言わせるだけの、わずか十数秒程度の訳のわからないCMを流すより、よっぽど確実で効果があると思うのだが。肝心なものが伝わらないCMなど、一体何の役に立つのかと。件のそのCMを、私は今日まで一度しか見たことがない。

そもそも「ゲートキーパー」という言葉自体、まったく世の中に浸透していない状態なのだ。例の騒動で、ようやく知ったという人がほとんど。そしてその後、現在も、その制度に関心を持つ人はほとんどいない。「あー、この前なんか騒いでたやつね。でもあれってどういうこと?いまいちよくわからないんだけど」その程度だ。時間も予算も使って、あれだけ大騒ぎした挙げ句がこの状態。結局あの騒動は何だったのかと。軸の外れた政策や20数年間変わらない世の中の認識―今まで個人の関心度や自主性任せにしてきた結果がこれなのだ。

本気で社会全体で自死防止に取り組むのであれば、一層のこと、自死やそれと関連性が深い疾患等について学ぶことを「義務化」したほうが確実だ。人間は、物事を見たいように見て、見たいものだけを見て、思いたいように思う生き物だ。元来、「トップダウン方式」「長い物には巻かれよ方式」に慣れているこの国の人達には、「押しつける」くらいの強引なやり方で丁度いいのかもしれない。それぞれの個人の自主性への期待やそれを重んじることは大事だが、時と場合によっては、「スパルタ式」が必要なこともある。

何よりも、真実と実状を知らない人が世の中の大部分を占める今の状態では、自主性云々の話ではないのだ。それは「土壌」が完成してからの話。荒れて雑草だらけの土地に種を撒いても、芽は出ない。政府はいい加減そこに気づけよと。だからいつまでたってもこの問題は、「他人事」と「偏見」の域を出ることがないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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沈黙の悲しみ(7)「遺族が受ける傷」

 2009-05-09
「トラウマ」という言葉が、世の中で当たり前のように使われるようになったのはいつ頃からだったろうか。世の中の大半の人が日常でその言葉を多用するようになって以来、その本来の意味や定義自体も「軽いもの」として捉えられるようになってしまった。

トラウマ、いわゆる「心的外傷 psychic trauma」の本来の定義は、「強い不安や恐怖や屈辱の感情を伴う心の傷」だ。

暴行・強盗・強姦・テロや戦争・大災害の被害に遭う、誘拐され人質になる、拷問を受ける、捕虜になる、大事故に巻き込まれる等、命に関わるような経験をした人、いわゆる「地獄を見た人」が受けたショック、強い恐怖感や無力感等を受けた強烈なストレスによって生じるもの。幼児期の虐待や愛情の剥奪、愛する人との別離、人生の挫折等も、そこに含まれる。

「子供の頃、無理矢理に食べさせられたことがトラウマになって、今でも○○が食べられない」そういった「一般的によくある嫌な思い出」等に対して使う言葉ではないのだ。

自死という形で身近な人を亡した時に受けるショックや心の傷は、先に挙げた「地獄を見た人」が受けるそれと、まったく同等なものであると言われている。そういった「地獄を見た人」の多くが経験する心的外傷後ストレス障害―PTSDの症状が表れる自死遺族が多いのもこの為だ。

全身の倦怠感や疲労感、不眠、頭痛やめまい、肩こり、耳鳴り、手足の震え、動悸、呼吸困難、胃腸等の消化器官の不調、焦燥感(イライラ)、抑うつ、注意力・集中力・記憶力の低下、無感動等、神経症や鬱等に見られる症状が表れたりする。感情のコントロールが困難になる、人の視線が怖い、フラッシュバック等もその一部だ。

簡単に言えば、PTSDの症状は、その体験によって受けたショックに脳が耐えられないために起こる。それは脳内物質のコントロール機能が大きく関係しているので、本人の意思でどうこうできるものではない。精神力の強さとか、性格といったものはまったく関係なく起こる。決して「弱い人間だからそういった症状が出る」ということではないのだ。

ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の多くが、帰還後PTSDの症状に苦しんだことは、日本でも広く知られている。その中には、勇敢で強い精神力を持った士気の高い兵士も多く含まれていたという報告がされている。それは、どんなに「強い人」であったとしても、決してPTSDとは無縁ではないという証明でもある。どんな人でも、「なる時はなる」のだ。

PTSDの症状が表れるまでの期間には個人差がある。直後(トラウマ体験後、1ヶ月未満の時点で類似の症状が現れている場合は「ASD 急性ストレス障害」)に表れる人もいれば、その出来事から何年も経ってから―という場合もある。

実際、故人の死から10年近く経ち、心の整理もついてすべてが落ち着きを取り戻したと思っていた矢先、突然陥った体調不良の原因が、10年前に起こったトラウマ体験によるもの(PTSD)だったという事例もある。

心身に関しては予測不能の部分が大半だ。しかし、もし先に挙げた症状が1ヶ月以上続くのであれば、躊躇うことなく、心療内科を受診してほしいと思う。

最初は内科の受診、そしてそこで肉体的な原因が見当たらないというのであれば、心療内科に行くことをお勧めする。適切な治療を受ければ必ず症状は改善される。一人で抱え込まず、専門家の助けを求めてほしい。

また世の中の多くの人にも、自分が知っている情報や思い込み、世間の風評等でトラウマ体験によって引き起こされるPTSDやそれに苦しむ人々―自死遺族に関わらず―を誤解しないでほしい。その人達は決して「弱い人、甘えている人、未練がましい人」ではない。

自分の知らないうちに、いつの間にかガン細胞が体内に巣くっていた―それとまったく同じことだ。自力でコントロール不可能な、自分の意思や力が及ばない所で起こる「体の問題」なのである。

同じ体験をしても、そういった症状がまったく出ない人もいる。それは「その人の心が強い」ということではない。「たまたま」、「幸運にも」その体験がもたらすショックに体が反応しなかっただけ―ということだ。

自分がよく知っていると思い込んでいる情報が、「真実」とは限らない。思い込みや決めつけに惑わされることなく、それらを認識してもらいたい。誤解と偏見―「無知」は真実を見る目を曇らせる。そういったこともまた、自死遺族を含むその他のPTSDの症状で苦しむ人達を更に追い詰めていくことにも繋がっていく。

心と体と魂は一体だ。その出来事によって、自分の心と魂が大きく傷を負ったのであれば、体も同じ位のダメージを受けている。傷ついた自分のケアをすることも、「回復」へ至るまでの必要不可欠なプロセス。自分自身を大事にすること―それを忘れないでいてほしい。

【追記】
「地下鉄サリン事件」の被害者とその家族の多くが、事件後から電車に乗れなくなったり、突然の手足の痺れや呼吸困難等、様々な不安障害の症状や強い恐怖を伴うフラッシュバック、情緒障害に悩まされ、通常の生活を送ることが困難になった。

最初の数ヶ月は職場等、周囲も理解を示していたのだが、その内「いつまで事件を引き摺っているんだ」「終わったことなんだし、助かったのだからいい加減に立ち直れ」「甘えてるんじゃないか」「もう少し強くなれば?」というような言動を被害者に示すようになった。孤立し、居たたまれなくなった被害者が仕事を辞めざるを得なくなるケースが多くあった。これも社会の人々のPTSDに対する認識不足、「無知」が招いた弊害である。


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沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

 2009-04-07
すべての自死遺族に、同じ自死遺族の一人として言いたいことがある。それは「あなたはちっとも悪くない。あの人が自ら命を絶ったのは、あなたの責任ではない」ということだ。そして、多分、「誰も悪くない」。自死を選んだあの人も含めて―。

今心の中に、逝ってしまったあの人に対して抑えきれないほどの怒りや憎しみを抱いているとしても、彼や彼女の選択した行為を恥じる気持ちがあったとしても、それを無理に打ち消そうとする必要はない。

「こんなふうに思うなんて、自分はなんて冷たい人間なのだろう」今あなたはそう思っているかもしれない。あの人が死を考えていることにも気づかず、何の手立ても講じることができなかった無力な自分。それなのに、こんなことを思っている―死者を鞭打つような自分に対する罪悪感で押しつぶされそうになっているかもしれない。そして途轍もなく深い後悔の気持ちと。

だが、今あなたの中にあるその感情は「極めて当たり前のもの」なのだ。すべての自死遺族が経験するものであり、経験してきたもの。今自分の中にある感情の波、次々と湧き上がり、そして一瞬のうちに変化する、その目まぐるしい心の動きは「当たり前のもの」だ。残された者達が皆経験する「普通の状態」。あなたが狂っているわけではないのだ。

「自分も死んでしまいたい」と、絶望に打ちひしがれている人もいるかもしれない。多くの自死遺族が同様の思いを抱く。そんなふうに心が揺れるのは、あなただけではない。そう思うのは、それだけあの人を愛していた証拠。

今、世界が終わったように感じているとしても、この先自分の人生に、楽しいと思えることや嬉しいと思えることが二度と訪れないような気がしていても、あなたは復活する。以前と同じように笑ったり喜んだりすることができるようになる時が、必ずまたやって来る。

確信と共に言う。あなたは大丈夫だ。絶対に大丈夫。なぜならここに、「あの時」から20年経って「大丈夫になった」人間がいる。


「You'll be OK(あなたは大丈夫。きっと乗り越えられる)」20年前、母を亡くしてまだ間もない時、アメリカで、同じ痛みを持つ人にそう言われた。彼女は16歳の時、父親を猟銃自殺で亡くしている。

しかし、正直何年もの間、素直にその言葉を信じることができなかった。「本当に?本当にそうなれるのだろうか?」それほど私の受けた衝撃と傷は、大きくて深いものだった。

四六時中、母のことが頭から離れない。一瞬の内に目まぐるしく変化する感情、自分の意思とは無関係に、不意に湧き上がる涙、数々のフラッシュバック―。まるで、永遠に降りることができないジェットコースターに乗っているかのようだった。感情のアップダウンの激しさに、心身共に疲れ果てた時もあった。

「いつまでこの地獄が続くのか?いつになったらこの地獄から解放されるのか?」その闇のあまりの暗さに、深い絶望を感じることもあった。


だが信じてほしい。「夜明け」は必ず訪れる。あの人のことを、懐かしさと愛情を持って話せる時は必ずまたやって来る。穏やかに、深い理解と共に、「あの人の選択」を受け入れることができるようになった自分を、あなたは発見するだろう。その時は、静かに、優しく訪れる。

怒りも、悲しみも、動揺も、絶望も、恨みも、無力さも、罪悪感も、今は感じていていいのだ。それは、あなたが回復するための「正常なプログラム」に組み込まれていることなのだから。心の中にそういった感情が存在するということは、あなたが回復のための正しいプロセスにいるということ。

あなたは悪くない。あなたには、あの人の死に対する何の責任も落ち度もない。あなたは「罪人」ではない。

あなたの人生は終わってはいない。これからも、以前と同じように、他の「普通の人達」と同じように、自分の人生を生きていいのだ。楽しく、明るく、好きなように―あなた自身の人生を謳歌していいのだ。

今の辛さや苦しさ、それは後に姿を変えて、あなたに「何か」をもたらすだろう。すべてが「ギフト(贈り物)」に変わる瞬間。そして「それ」は、あなたの「人生の一部」となる。

私は知っている。あなたが必ずこの状況を乗り越えることを。

You'll be O.K.―きっとあなたは大丈夫。

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沈黙の悲しみ(5)不幸につけ込む人々

 2009-04-03
母の葬儀の翌日、私達家族は疲労困憊していた。自死ということもあり、その前後には警察の取調べや現場検証等が伴う。それと同時進行で通夜や葬儀の準備をしなければならなかった。「普通の葬儀」の場合でも、遺族は心身共に消耗するものだ。自死遺族の場合、いろいろとプラスαされるものが出てくるので、疲労や消耗度が倍増される。

私はアメリカからの長時間のフライトの疲れがどっと出て、フラフラの状態だった。とりあえず葬儀も無事に済んだということで、気が緩んだのだと思う。父は目の下に隈が出ていたし、弟も叔母や祖母も、顔色が良くなかった。家族みんなが疲れていた。

その時、玄関のチャイムが鳴った。玄関に一番近いところにいたということもあり、私が応対に出た。ドアを開けると、女性ばかり5~6人の人達が立っている。その中の2人はご近所の人だった。他は面識のない人。とりあえず挨拶をして、「あの、何か?」と言うと、一番前に立っていた50代半ばくらいの女性が「この度は本当にお悔やみ申し上げます。私ども○○と申しまして・・・」と、有名な宗教団体の名前を言った。

この悲しみを乗り越えるためにも、これを機会に私共の宗教に入らないか、今私達がここに来たのも何かの縁だと思う云々・・・要は宗教への勧誘だった。そういえば、一緒にいるご近所の2人はその宗教団体の熱心な信者だと以前聞いたことがあった。その後も延々と喋り続けるし、きりがない。「すみませんが、来客中ですので」と嘘をついて、お引取り願った。

「何だって?」「宗教の勧誘。○○に入らないかだって」と、話しているそばからまたチャイムが鳴った。ドアを開けると、今度は知らない男性と女性が2人立っている。「何でしょう?」「私達は○○という宗教団体の者なのですが」と、今度は別の有名団体の勧誘だった。

それからの一週間というもの、毎日宗教への勧誘がひっきりなしに訪れた。一日に何度も玄関のチャイムが鳴る。有名どころから初めて聞く名前の団体まで、多分20近くあったのではないかと思う。居留守を使っていると、その後必ずポストには宗教関連の小冊子やチラシが山ほど入っていた。

中には東北地方等、遠方の団体からのものもいくつかあった。日本にこれだけの数の宗教団体が存在しているということも驚きだったが、どこからそういった情報を得るのか本当に不思議だった。


自死遺族の多くが、やはりそういった宗教の勧誘を受けた経験があると言っている。「故人は成仏できずに地獄にいて苦しんでいる。成仏させてあげられるのはうちの宗教だけ」「今ここで供養しないと、また自殺者が出る」「あなたの家系は自殺の因縁があるから、今ここでそれを切らないといけない」遺族の「弱み」を的確に突いてくる。

「見えない世界」のことを持ち出されたら、ましてや故人があの世でも苦しんでいる等と言われたら、平気でいられるわけがない。それでなくても、自死遺族は「どうして助けてやれなかったのか」「自分がもっと早く気づいてあげていたら」「自分の言ったことが原因なのではないか」と、罪悪感や無力感に苛まされているというのに。

宗教というものは、誰かから勧められたり、強要されて入るものではないと思う。自分がそれを本当に求め、必要としているのであれば、自分からそこに向かっていくようになっている。

大体人が弱っている時に勧誘しにやって来るなど、「弱みにつけ込む」以外の何物でもない。「お助け」とか「救済」とか、ご大層なことを言う割には、その実やっていることは「押し売り」と変わらない。

自分が良かれと思ってやっていることでも、相手がそう思わなければ、それは単なる押しつけ、迷惑でしかない。葬儀の翌日からやって来るなんて、礼節を欠くというか、魂胆が見え透いているというか・・・勧誘の「ノルマ達成」のカモにされるこちらはたまったものではない。


多くの宗教で、「自殺は罪深いこと」「神に背く大罪」とされている。「地獄に落ちる」「無間地獄をさ迷い続ける」そういった恐怖に満ちた言葉で表現されているのが常だ。しかし、それは「あくまでも宗教上での表現」だ。その宗教で「罪」「悪」とされることを犯した時に、「こんな恐ろしいことが起きるのだぞ」という、「恐怖感の植えつけ」。恐怖感や罪悪感を植えつけ、縛る。畏怖と束縛―宗教の原則だ。

キリスト教の宗教画や仏典の絵巻物で描かれている「地獄」の様子は、「デフォルメ」されたもの、いわば大袈裟に表現されたものだ。言葉を解さない幼児、文盲の人等にも一目で分かるように、意識して大仰に描いている。釜茹でにされるとか、針の山を歩かされて舌を抜かれるとか、実際にそういった情景が、絵という形で視覚に訴える効果は想像以上に絶大だ。

霊能力者による鑑定等の場合も同様だ。その人が受け取ったビジョンというものは、その霊能力者の「フィルター」を通して伝えられる。内容は同じでも、霊能力者によって表現や描写がまったく異なるのはそのせいだ。

「いかにも」というような、何かおどろおどろしい描写をする能力者の場合、その人自身の本質や、その霊能力の出所というか、繋がっている所が、そういう質のものなのだと思う。表面上の言葉や表現に惑わされたり、過度に気にする必要はない。それが100%の真実とは限らないのだから。実際その後に「私が成仏をさせてあげます」と、高額なお布施を要求された人もいる。

地獄のイメージは、あくまでも人間が創ったもの。「この宗教を信じていれば、こういう所に行かなくてすむ」というアピールであり、「脅し」だ。依存と束縛を強化するためのツール。

それを逆手にとって、人の不幸に乗じた火事場泥棒的な嫌らしさを感じさせる「輩(やから)」は、悲しいかな、現実に、数多く存在する。他人の痛みや苦しみを食い物にする人種が、世の中に、自分の周りにこれだけ存在することを思い知らされることは、新たな悲しみ、落胆をもたらす。

人間は、どこまで残酷になれる生き物なのだろうか―。

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沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

 2009-04-02
肉親に自死者がいるというだけで、何か遺伝性の悪い病気を持っている家系のように忌み嫌う人もいる。「自殺は伝染する」「自殺は遺伝する」実際そんなふうに思い込み、信じ込んでいる人も多い。かと思えば「家系が呪われているんじゃないか」「悪霊に取り憑かれたせい」と真剣にオカルト論を展開する人もいる。

どこの未開地の話かと思うような反応だが、現在の日本に横行している自死に対する偏見の実情はこんなものだ。極めてプライベートな部分が関わっている為、なかなかその事実や背景が公に明かされないこと、社会的に「触れてはいけないもの、タブー」としての認識が強いということ等も関係して、勝手な憶測や想像だけが一人歩きする傾向が強いせいもあると思う。

「何だかよくわからないけど、不気味で得体の知れないもの」結局のところ、多くの人の自死に対する認識はこの程度だ。実態が分からないために生まれる根拠のない風評や無知が、遺族を余計に苦しめる。


「自死に至った人達の8割~9割は鬱、または抑鬱状態にあった」という調査報告がされている。私は実際にはほぼ100%に近いと思う。やはり自ら死を選ぶ、そういったことを考えるということは「普通」の状態、通常の精神状態ではない。

「鬱病は心の病気、精神に問題がある人が罹る病気」「性格や心に問題があるから鬱になる」と、世の中の大半の人がそう思い込んでいる。

確かにその人の本来の性格や気質、ストレス等が発症の引き金や下地になったりすることもあるが、セロトニンやノルアドレナリンといった脳内神経伝達物質の減少・機能の低下等が原因で発症するものでもあるのだ。また、体の別の部位の病気が原因で、鬱病の症状が出ることもある。「心の病気」と、単純に分類できる性質のものではない。


血の繋がった肉親を自死で失った人達の多くは、「自分にも同じ遺伝子、自死を引き起こすような遺伝子があるのではないか?自分もいつか同じことをするのではないか?」」という不安に苛まれる。特に、身内に自死者が何人もいたりする場合、余計に不安が増すようだ。しかし、自死は遺伝しない。自死を引き起こす遺伝子といったものもないと思う。

あえて言うのであれば、「自死のきっかけになることが多いと言われる鬱病になりやすい体質」というものは遺伝すると思う。肉親であれば、やはり体質や細胞もよく似ていたりする。もし親が脳内神経伝達物質の減少や低下が起こりやすい体質であれば、子供も同様の体質になりやすい。

身内に鬱病が多かったり、鬱病が原因での自死者が多いのであれば、それは呪いでも遺伝でもなく、「体質が似ているから、体質が似ていたから」というだけの話だ。もしくは、考えや価値観が似やすい身内であるが故に、よく似た思考や行動のパターンに陥りやすいせいで、同じような行動を取る可能性が増えるためだ。

身近な誰かが自死を選択した場合、良い悪いは別として、「こういう方法(自死)もありなんだ」と、「選択肢の一つ」として無意識に刷り込まれるといった影響もあると思う。故人によって「タブー」が既に破られているので、同じ道を選択しやすくなる確率も、それに伴ってどうしても高くなる。

しかし、誰にでも、どんな人にも自死の可能性はある。そもそも「自死するか、しないか」2つに1つの選択しかないのだから。「自分は絶対にしない」と今思っていても、いつどこで、その気持ちが変わるか分からない。人の感情や心に関しては、「絶対」という言葉は存在しない。

「明日はわが身」自死に関して、この言葉は誰にでも当てはまる。そして、自分が自死遺族になる可能性も、どんな人にも50%の確率で存在するのだ。

自殺の遺伝子とか、呪いとか、根拠のない都市伝説のようなものだ。真実を知ろうとも、確かめようともせず、「~らしい」という又聞きの風評を鵜呑みにするその姿勢が間違った認識を呼ぶ。自死者の死因等、ゴシップには好奇心満々で、背後にある真実には無関心。まさに本末転倒だ。


10年ほど前、体調を崩したことがあった。その頃、公私共にいろいろなことがあり、原因はそういったストレスからくる自律神経の乱れ。その当時、私には母親同然の人がいた。私は彼女を信頼していたし、母の自死に関する詳細も全部話していた。

しかしある時、妙な話が耳に入ってきた。その人が、私に関することをあれこれ周りの人に話しているというのだ。それが一人や二人ではなく、「どうしてこの人まで?」という広範囲で、いろいろな人に話しているという。その内容は、誹謗中傷以外の何物でもなかった。何よりも、まったく根拠のないでたらめの、事実無根の内容だった。

「あの子には母親と同じ遺伝子が流れているから、神経がおかしくなった」とか「自殺した母親から生まれたから頭がおかしい」等、俄かには信じがたいことをあれこれ吹聴していた。特に「あの子の母親は頭がおかしくなって自殺した」という件(くだり)では、呆然とするしかなかった。

いろいろな人に確認したところ、その内容は一致していた。怒りよりも、悲しみのほうが大きかった。これがすべて事実なら、まだ納得できる。その人がどういった経緯で、どんな意図をもってそういったことを言ったのかは分からない。私の悪口を言うのも構わない。あくまでもそれが「事実」であるのなら。

しかし彼女の言葉は違っていた。私に関することも、母や母の自死に関することも、すべて事実無根。全部創作、作り話と言ってもいいものだった。

数年前、共通の知人を通じて、彼女が「謝罪したい」と言ってきた。お断りした。二度と会って話す気もないし、「まったく見当違いのこと」で謝罪されても無意味でしかない。

多かれ少なかれ、こういった噂や誹謗中傷の類を多くの自死遺族が経験している。

「本当は保険金目当てに殺されてたりして」「死にたくて死んだんだから幸せじゃないか」「首吊りがあった家に平気で住んでいられるなんて信じられない」「自殺者の出た家の人となんて結婚させられない。うちの家系にそういう遺伝子が入られたらかなわない」「親御さんがそういうことになったんだから、普通の結婚はもう無理だろうな。まあ一人でも生きていけるようにがんばりなさい」

私がお会いした遺族の方達が、今までに、実際に言われたことや耳にしたことだ。これはほんの一部でしかない。

間違った情報や認識が、どれだけ遺族を傷つけ、孤独に追いやっていくものなのか、それは実際に経験した者でなければ分からない。無知から生まれる罪は、思っている以上に重く大きいものなのだ。

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