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芽吹き

 2012-07-05
時々、ゲスト講師としてカウンセリング指導やそれに伴う講義を行うことがある。招かれるスクールはその都度違うし、時期も決まっていない。その時々で受講生の数も変化する。だが、平均すると1クラス20名前後だろうか。年齢も性別もバラバラ。プロのカウンセラーやセラピストもいるし、プロを目指して勉強中の人もいる。どのクラスもそれぞれ個性があって面白い。

その第一回目の講義の冒頭で、私は毎回必ず同じ質問をする。「この中で、キリスト教とか仏教とか、何か特定の宗教を信仰している人はいますか?」2~3人の手が上がる。「それでは、E原さんやM輪さんとか、スピリチュアルに興味があったり、そういう世界が好きな人は?」半数近くの手が上がる。「自己啓発系に興味のある人や好きな人は?」前回と同じ位の手が上がる。「それじゃ、スピリチュアルや自己啓発、自分の信仰している宗教、もしくはジャンル関係なく、以前読んだり聞いたりした言葉で、自分が気に入ったものを何かに書き留めている人はいますか?」今度は、ほぼ全員の手が上がる。

この段階で、受講生は皆一様に不安げな表情を浮かべている。隣の人と目を見交わしている人もいるし、「何が始まるだろう?」といった感じで、私語はないものの、何となく教室自体がざわついた感じになる。そこで私は毎回同じことを言う。

「はーい、今この瞬間から、自分が信仰している宗教の教義やスピリチュアルや自己啓発で言われているような言葉、気に入って書き留めておいた言葉は全部忘れてくださいねー。少なくともカウンセリングの場には、そういうものを一切持ち込まないように」

教室が水を打ったようにシーンとした次の瞬間、無言のざわめきが大きくなる。「え?どういうこと?」「なんでダメなの?」そんな感じの、とまどったような空気が流れる。

「皆さんが個人的に何を信じようと自由です。べつにスピリチュアルや自己啓発が好きでも結構。お気に入りの言葉をメモってもいいです。でも、それはあくまでも皆さん個人のことに限ってです。カウンセラーやセラピストとして接するクライアントさんに対して、自分の好みや価値観は持ち込まないように。そんなものは邪魔だし、必要ありません。

中心はクライアントさんです。「こう考えるべき」「こう考えなくてはならない」という「正解」はありません。クライアントさんをあなた方の価値観や特定の思想に沿わせるようなことはしないこと。カウンセラーは「宣教師」じゃないですからね。クライアントさんの「ゴール」をあなた方が設定したり、そこに向かわせようとコントロールすることはタブーです。

例えば、親子の縁を切ることを真剣に考えるような家族問題で悩んでいる人に、『E原さんは、魂の学びや課題があるから近い関係に生まれてきたって言ってるんで、もう少し我慢してみましょう』『許すことが愛です』なんて言うようなカウンセラーは必要ないですから。その程度のカウンセリングなら、E原さんの本を渡せば済む話です。隣の家のおばちゃんにでも相談したほうがマシ。

クライアントを弄り回した挙げ句、誰かや何かの言葉を持ち出してきて、そこに全部丸投げして逃げるのはあるまじきことですから。その言葉を実際に自分で身をもって経験して、実感しているならOK。でも、受け売りや綺麗事を並べるだけで自分の言ったことに責任を持てないような人は、カウンセラーを名乗る資格はないですから。いいですね?」

この時点で、毎回受講生の大半がポカーンとした顔をしている。E原さん信者と思しき人は、反発した表情を浮かべていることもある。そのどちらでもないが、「なんだかわからないけど、とにかく持ち込んじゃいけないのね」ととりあえず自分を納得させたような感じの人もいる。

だが、複数に渡る講義や実習が進むにつれ、全員の顔つきが変化していく。私が最初に言ったことに明確な根拠があることを、身をもって理解するからだ。カウンセリングの真髄や目的、自分達の本来の役割といったものを理解し、それが身に刻まれた証拠。

「とりあえず土壌は作れた・・・かな」彼らの顔を見てそれを確認する。指導する側である私が出来るのはここまでだ。後は本人達の自覚や努力に賭けるしかない。


最近、いろいろな人からスクールを主宰することを勧められる。外部からお話をいただくこともあるし、そういった予定の有無を尋ねるお問い合わせも時々ある。だが、自分の性分や仕事に対するスタンスを考えると、多分その可能性は限りなくゼロに近い。「現場主義」ということもあり、いろいろな意味で落ち着きたくない気持ちが強いのだと思う。

大人気警察ドラマ「踊る大捜査線」でいうと、柳葉敏郎さん演ずる「警視庁エリート管理官の室井さん」より、織田裕二さんの「所轄の一刑事である青島君」タイプ。「正しいことをしたければ偉くなれ」という言葉も頷けるが、「事件は会議室で起こっているんじゃない!」の言葉のほうに、より共感する。


「役割」は、年齢と共に変わってくる。今の私の年齢は、後進を「指導・管理する側」に適したものだと思う。自分のことだけで精一杯な20代や30代は、自分以外の人にまで手が回らない。いろいろな意味で「余裕」が出てくるのは、40代からだと思う。

それまでの経験の積み重ねによって、人としての度量や思考の幅も広がってくるのがこの年代だと思う。世の中や仕事、人というものに対する理解が深まってくる時期でもあるので、上の世代、下の世代、そのどちらにも程よい距離感で沿うことができるようになる。「真ん中」ゆえの、ある程度の「中途半端感」は否めないが、それは「中堅」の良さでもある。

先日友人とも話していたのだが、本当に子育てに適しているのは、40代ではないかと思うのだ。精神的な余裕が20代や30代の頃とは全然違う。まあ時々はブチ切れそうになることはあるとは思うが、今なら概ね楽しんで子供と接することができるような確信がある。

昔から、子供と接するのは苦ではない。学生時代の塾講師のバイトやアメリカの小学校での日本語教師等「行きがかり上」とはいえ、なぜか子供と接する機会が多かった。今も、いろいろな場所で見知らぬ子供からちょっかいを出されることが多い。その相手をすることは嫌ではないし、むしろ面白がってやっている。まあ「子供嫌い」ではないと思う。

だが、それでも若い頃は、子育てが楽しそうとは思えなかった。友人達の育児の様子を見ていて、「うわ・・・大変だわ・・・無理」そう思っていた。自分のことは常に後回しで、24時間365日子供と関わる。それもかなりの年数を費やして―当時の私には、とてもそんな覚悟はなかった。いくら自分の子供とはいえ、「自分以外の誰か」のために費やす時間の膨大さを考えると、せっかちな私は気が遠くなりそうだった。

それが今、現実を知らない者ゆえに言えることだとは思うのだが、「育児って面白そう」と本気で思っていたりする。10年前ならとても考えられなかった。これも、人生でいろいろ経験して生まれた精神的な余裕からではないかと。

私の場合、「育児」を「仕事」で経験させてもらっている感が強い。実際に育児経験のある方達からすれば、あくまで「ごっこ」の域を超えないものだとは思うが、根底は同じだと思う。カウンセリングやセラピー、後進の指導等を通じて、「人を育てる」という部分は共通している。

「それならば尚更」と言われても、自分のスクールを立ち上げないのは、正直なところ、「野党」でなくなるのが嫌なのだと思う。通常は地方に住みながらも、中央政治に目を光らせ、有事になれば中央に駆けつけ意見する人―「カントリージェントルマン」を目指す私は、常に「傍観者」「観察者」の立場でありたい。遠くから中央政治を眺めているために、その渦中にいる人達には見えないことがよく見える人。自分自身が「中心与党」になれば、それは難しくなる。

まあ、もともと群れることが嫌いで、「同志」「仲間」と称した仲良しごっこに興じる趣味や「教祖願望」もないので、「組織」「団体」を主催するのは、正直面倒で邪魔臭いということが一番の理由かもしれない。完全に「指導者」の役割に徹することは出来ないが、求められる機会があるのなら、今の自分が出来る範囲でそれをしていこうと思っている。


数日前、4年ほど前に私の講義を受講した方からメールをいただいた。当時30歳で、プロの心理カウンセラーを目指して勉強中だった女性。近況報告によると、現在心理カウンセラーになって3年目とのこと。お元気でご活躍中のようだ。そのメールにこう書いてあった。「先生がおっしゃっていたことが、今実感としてようやくわかるようになりました」と。

自分の価値観や特定の思想をカウンセリングに持ち込むなと言った理由も、現場に出て初めて理解できたと。特に、「どんなに『いい言葉』でも、そこに自分の体験から来る実感が伴わない上辺だけのものなら何の役にも立たないし、クライアントには響かないよ」という言葉が、折に触れて思い出される―そう書いてあった。

その後の受講生の方達の成長を実際に見届ける機会は少ない。だが、この方をはじめ、以前自分が担当した生徒さん達からこういった形でメールをいただいたりする度に思う。「きちんと根を下ろしたんだ」と。

「成長」には、「時間」が伴う。昨日今日ですぐに結果が出るインスタントなものではない。むしろ「待つ」部分が多い領域。心配したり、やきもきしたり―何かと気を揉む時間のほうが多い。だが、時間は掛かったとしても、こんなふうに、多少なりとも自分が手を加えさせてもらった土壌で、種が確実に芽を出し、しっかりと根を下ろし、どんどん伸びていく様を見るのは、やはり嬉しい。生物学的な方法でなくても、自分の「遺伝子」は残せるのだ。


一瞬「『室井さん』になってもいいかなー」という考えが頭をよぎることもあるのだが、まだ落ち着きたくない私は、次の瞬間「いや、やっぱり当分は『青島君』でいこう」とその度に決意を新たにするのだ。

そして願わくば、最終的に「現場一筋ン十年のベテラン”おやっさん”刑事」、故いかりや長介さんの当たり役でもあった『和久さん』のように、野に在り続け、そして要所要所でさりげなく道を示し、自分の後姿だけで後輩の成長を促せるような、そんな「いぶし銀」の輝きを持つセラピストになれたらいいな―と思うのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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ファンタジスタ

 2012-05-20
サッカーにおいて、たった一つのプレーで試合の局面をひっくり返してしまう選手を「ファンタジスタ」と呼ぶ。全体の流れやその先、各場面での「重要ポイント」を一瞬で読み取る「直感」と「直観」の持ち主。プロとしての高い技術―ファンタジスタとは、いわば「何かを引き起こす人」なのだ。誰もが予想だにしなかった展開、人々をあっと言わせる「意外性」をそこにもたらす人―セラピストやカウンセラーに求められるのは、この要素だ。

「ある一つの言葉」や「別の視点からの考え方」を提供することで、クライアントの膠着した状態を完全にひっくり返すのだ。「あ、そうか・・・そんなふうに考えることもできるんだ」「さっきまではこう思ってたけど」その言葉がクライアントから出てくれば、「試合」は一気に形勢が変わる。劣勢だった流れが変わり、逆転の可能性が出現する。だがそのチャンスは、「既にずっとそこにあった」のだ。クライアントには、ただそれが見えていなかっただけ。目の前の覆いを取り除かれた感じ。一気に視界が開ける。

クライアントの数だけ「道」はある。「答え」や「やり方」は一つではないのだ。そもそも、それぞれが「目指す場所」からして違うのだから、当然そこに至るまでの「道」も、それぞれの数だけあっていい。宗教をはじめ、特定の思想や価値観等「既存のひな型」は不要だ。

人生において、「万人に共通する正解」など存在しない。「一般的には」「普通は」「この宗教の教えによれば」カウンセリングにおいて、そんな「基準」は一切不要。むしろ、そんなものは邪魔だ。というより、そういった「後付け」でどうにでもなるようなことを中心に据えること自体おかしいのだ。一般論など、ただそのやり方を支持する人数が多いというだけのことであって、必ずしもそれが「正しい」ということではないのだ。

常識や道徳、世間体といったものを考慮することなど、当然最初から考えの中には含まれている。だが、それは決して「中心」ではないのだ。「一応考えに入れおく必要のある要素」ではあるが、あくまでも「事項」の一つ。極端な言い方をすれば、「最低限必要なレベル」を抑えていたらいいだけの話。「必要最低限あればいい」という程度のものを最優先して、肝心の自分自身を二の次にするから、余計に事態がこじれるのだ。悩みが一向に解決しないのは、「優先順位」を間違えているせい。

その中には、「マジョリティーのやり方」に固執する人も多い。それも、「世間ではこう言われているから」「みんなそう言っているから」というだけの理由で。大部分の人に有効なやり方が、自分にはそうでない場合もある。彼らは、自分や自分が抱えているものが「少数派」「例外」であることを薄々感づいていたとしても、決してそれを手放そうとはしないのだ。柔軟性の欠如―それが彼らの思考の共通点でもある。

例えば、妙ちきりんなスピリチュアル系や自己啓発系ブログのコメント欄等でよく見られるやり取りなのだが、「今の仕事や職場に馴染めません。やる気も出ず、失敗ばっかりしていて、職場に行くのが苦痛です」という書き込みに対し、「スピリチュルの世界では、そういう状況もあなたの今生での『学び』の一つです。修行だと思ってがんばりましょう」とか「『修行させていただいてありがとうございます』と毎日唱えていれば、必ず状況は変化します」とか。

「なんじゃそら?」と。「全然答えになってねーし」と。特定の思想を持ち出してきて、「こう考えろ」「この考えに自分を沿わせろ」と押しつけているだけで、まったく「解決」になっていない。個性や現状といったその人の「事情」は一切無視ですか?と。その人の背景をまったく考慮せず、「スピリチュアルの世界では云々」と自分が信仰している宗教の教義を持ち出して「説得」にかかるとは、随分乱暴な話ではないか。

上から目線の、その一方的な押しつけは、典型的なキリスト教の布教の手口、「宣教師」のそれとまったく同じ。結局は、「これが正解」というものが、既に設定されているのだ。そこに絶対に向かうように「道」が出来ている。正確には、それ以外の道は、すべて寸断されているのだ。完全な出来レース。

一般論や特定の思想や宗教の教義等、「前提されているもの」を自分に言い聞かせることによって、その場は何とか気を紛らわせることができる。その瞬間は、すべてが解決したかのように感じられることもある。だが、それはその場しのぎの「対処法」なのだ。あくまでも一時的なものでしかないので、遅かれ早かれまた同じ悩みが頭をもたげてくる。「根」は、相変わらず残ったままなのだから。

必要なのは、「その人に合ったやり方や答え」なのだ。「スピリチュアルの世界では」とか「人として」とか、特定の思想や一般論なんかどうでもいい。「世間一般のやり方」が有効な人もいれば、そうでない人もいる。言い換えれば、そういった「世間一般のやり方が有効な人」というのは、多分抱えているものの質が、「世間一般のやり方が有効となる内容」なのだ。

少なくとも、カウンセリングにおいては、「誰にでも当てはまるような無難な答えややり方」など用を成さない。必要なのは、「”その人に”有効な答えややり方」なのだ。まず、「その人がどうしたいのか?どうなりたいのか?」という部分を最優先して考えることが大前提。それが固まった上で、後から常識や道徳、世間体といったものを加味して、調整・修正していけばいい。「中心」「最優先」となるのは、あくまでもその人自身なのだから。

同じ悩みを持つ人でも、その人の個性や今現在の状況、望んでいる方向によっては、その答えや方法もそれぞれ異なってくる。この悩みにはこういう答え、この問題にはこの解決法―という「マニュアル」はない。一般論や精神論、特定思想や宗教教義等は、それに当たる。一冊のマニュアルで、すべての人の悩みや問題が解決できるのなら、「悩める人」はこの世に存在しないはずだ。そもそも最初から無理な話。全員が「まったく同じ」にならなくてもいいのだ。違っていていい。むしろ、それが「正常」なのだ。

ファンタジスタは、「フィジカル」に頼らない。つまり、「理屈」や「論理」に過剰に依存しないということだ。決してそれに固執することはない。パスやシュートの度に、いちいちサッカーの技術論を持ち出して、考え込みながらプレーする選手などいない。試合は、「法則」に支配されているわけではないのだ。試合は生もの、つまり、「生きている」のだ。その一瞬一瞬が「生きている」。次の瞬間何が起こるかわからない。そして、それを支配しているのは、「理屈」ではないのだ。

「どうしたら今の局面を変えられるか?」「今自分はどう動いたらいいか?」彼らの頭の中にはそのことしかない。中心は、「今」と「自分」なのだ。そして、たった一つのプレー、「その瞬間に必要だと感じて取った行動」によって、すべてを変える。

セラピストやカウンセラーの役割、「徹するべきこと」はただ一つだ。「クライアントの今の状況を、どうしたら良い方向に変えられるか?」ということを常に考えること。それが大前提。「常識」とか「世間一般の考え方では」などという「法則」は、そこには不要だ。「~すべき」「~でなければならない」という絶対的な基準はない。特定の宗教や思想をはじめ、一つの決まった枠の中に、クライアントを押し込めてはならない。それこそが、「たった一つの」という概念そのものが、悩みや問題の要因となっているのだから。

「ファンタジスタであれ」クライアントの「試合」―その人達が悩みや問題と対峙している状況の中で、不利な流れを逆転させる役割を担うこと。突破口を開くこと。それこそが、セラピストやカウンセラーの本来の仕事であり、存在意義であり、期待される要素なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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騙し絵

 2012-05-15
初対面の人や初めて訪れた場所に対し、「以前この人に会った気がする」「前にもここに来たことがあるような気がする」という感覚に駆られた経験を持つ人は多いと思う。まったくその経験がないにもかかわらず、かつて経験したことがあるように感じることを、「既視感/デジャ・ヴ」と言う。

これに対し、「未視感/ジャメ・ヴ」というものがある。見慣れていたり、既に体験している物事や人に対し、まるでそれを初めて見たり、体験したりするかのように感じること。まるで未知のものが目の前に突然現れたかのような、ある種の新鮮さや驚きを以ってそれを見つめること。

時々、セラピストやカウンセラーを目指している人達に聞かれることがある。「この職業に最も必要なことは何ですか?大事なことは何ですか?」と。多分、その答えはセラピストやカウンセラーの数だけ存在する。そして、そのどれもが「正解」なのだと思う。私にとってのそれは、「未視感を提供すること」だと思っている。相談者―クライアントに対し、「もう一度これを見てみませんか?」と提案すること。「別の角度からの視点を示す」と言い換えてもいい。

セラピーやカウンセリングを受けに来る人達に限らず、人間は、悩みが深い時ほど一つの視点に縛られていることが多い。「そこから見えるものだけに執着している」と言ったほうが正確かもしれない。それと同時に、自分の悩みの種であるそれ自体を、実は彼らは「それほどよく見ていない」のだ。

表面に表れている部分だけを見て、慌てたり、怯えたり、嫌がったり。大抵の場合、悩みや問題というものは、本人にとって「不都合なもの」だ。出来れば避けて通りたい「好ましくないもの」。ある種の防衛本能とそれに伴う条件反射なのだと思うが、それらをじっくり見ようとする人は少ない。

虫や爬虫類、そりの合わない相手等、「嫌いなもの」「苦手なもの」というのは、生理的に、いわば本能が拒否しているものだ。だから、視界に入った瞬間、パッと目をそらす。例えば、ゴキブリが苦手な人に、「ゴキブリの足は何本あるでしょうか?」と聞いても、多分答えられない。なぜなら、「それをよく見たことがないから」だ。「嫌い」「嫌だ」という「感情」ばかりが先に立ち、「冷静さ」や「思考力」が失われる。その結果、「観察」まで手が回らなくなるのだ。

問題や悩みというのは、いわば「苦手なもの」「嫌いなもの」なのだ。ゴキブリや犬猿の仲の相手と同等のもの。だから、それを避けようとする。嫌悪感が先に立つので、出来ればさっさと視界から消えてほしいし、どうにかして回避したい。手っ取り早くそれを片付けようと焦るあまり、上辺だけの「対処」になる。

今現在とりあえずパッと思いついた方法を用いて、一刻も早くそれを何とかしようとするのだが、如何せん「咄嗟に思いついた方法」だ。それも、ろくにそれを見もせず、「なんとかしなきゃ!」という一心で、慌てふためいて出てきたものなので、根本の「解決」には至らない。的外れであることが多い。「方法」というより、単なる「反応」でしかないからだ。

だが、当の本人は、それは命綱にも等しい唯一の解決方法であるという強い思い込みを持っている。その為、なかなかそれを手放そうとしない。「この方法しかない!」「これで何とかなるはず」と、相も変わらず同じ一つのやり方で、悩みや問題と格闘し続ける。違う思考、違う視点―「他の可能性の存在」がまったく目に入らない状態なのだ。

「悩みに囚われた人達」が、同じ場所をぐるぐると回り続けた挙げ句、いつまで経っても埒が明かないのは、「嫌悪感や焦りのあまり、その正体をよく確かめていないことが原因」と言っていい。この状態を何とかするのが、セラピストやカウンセラーの仕事。

今クライアントの目に映っているものを、まず一緒に見てみる。だが、それは「見る」ではなく、「観る」だ。客観性を持った、いわゆる「観察」。感情や損得、自分個人の価値観等を一切交えず、冷徹とも言える眼で、それをしげしげと丹念に「観る」のだ。

そして、その観察から導き出されたものを、クライアントに提供する。「あなたにはこう見えているようですが、実際はこうみたいですよ」「あなたの目指すところはここですよね?だったらこの部分をこうしてみませんか?」という感じで。それにより、クライアントに「未視感」がもたらされる。

今まで自分が見ていたものを、「あれ?」っと、おっかなびっくりながらも、まじまじと見つめ始める。視点や思考を変えるだけで、それまでとはまったく違う姿が出現するのだ。「今まで自分が見ていたものは何だったんだろう」不思議がる人も少なくない。

見え方によって、様々な絵柄に見えるように描かれた絵を「騙し絵」と言う。最初に見た時はトロフィーの絵柄だったのに、視点のポイントを変えてそれを見てみると、今度は人間の横顔が出現したり。同じ一つの絵の中に、実は何通りものモチーフが描き込まれている。そして、それらは視点を変えることで、次々に姿を現すのだ。今まで一つの絵柄しか描かれていないと思って眺めていたキャンバスの中に、いくつものそれがあることに気づき、驚き、それをもう一度新鮮な気持ちで眺める―「未視感」は、騙し絵を見ている時の感覚と同じだ。

「ここには一つのモチーフしか描かれていない」クライアントがそう思い込んでいる絵を、実はいくつもの他の絵柄が描き込まれている騙し絵だということに気づかせること―「ここに目の焦点を合わせてじっと見てください。うさぎが見えてきません?」「この角度から見ると、女の子の顔が見えてきますよ」セラピストやカウンセラーの役割とは、いわば「ガイド」になることなのだ。今までクライアントには見えていなかった、だが実は「既にそこにあったもの」を示すこと。

描き込まれた他のモチーフの存在に気づくことが、クライアントの悩みや問題の解決へと繋がっていく。視点を変えれば、ピンチがチャンスになることもある。絶体絶命だと思い込んでいた状況の中に、打開策が見えてきたり。だが、それは「既にそこにあった」のだ。たった一つの視点とそこから見えるものにこだわり過ぎていたせいで、今までそれに気づかなかっただけ。

同じ一つのものを、どれだけ違う角度から観ることができるか―重要なのは、そこなのだ。騙し絵の中に見るいくつものモチーフ―人や物事はそれとよく似ている。それらは、「たった一つの要素」で成り立っているわけではない。たとえそれが見慣れた景色であっても、視点を変えれば、いつでも新鮮な驚きや感動をもってそれを見つめることができるような、そんな不思議な奥深さを備えたものなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、複数の読者の方達からその旨のご報告を受けています。モラルを守ってくださるようお願い致します。

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共に歩む人

 2009-09-20
世間一般では、セラピストは「導く・治す・癒す人」であり、クライアントは「導いてもらう・治してもらう・癒してもらう人」というような、ある種「一方的な関係のもの」という捉えられ方をしている。また、当のセラピストやクライアント自身がそう思い込んでいる場合も少なくない。

特に心理分野に関わるセラピストやカウンセラーに多いのだが、相手―クライアントを「助けてあげたい、支えてあげたい」という思いを、仕事上のモチベーションや信念にしている人がいる。それは決して悪いことではないのだが、早晩「共倒れ」という憂き目を見る可能性がかなり高い。

「人を助けてあげたい、支えてあげたい」という思いからこの仕事に就いたセラピストやカウンセラーの中には、「誰かを助ける、支える」という行為を通して、実は「自分が救われている」という人がいる。

その人達にとって、誰かを助けたり支えたりするということは、かつての「助けてもらえなかった自分、支えてもらえなかった自分」に手を差し伸べていることと同じなのだ。クライアントに過去の自分の姿を投影する。相手の中に、かつての自分の姿を見ている。クライアントの役に立つことや支えになることで、望んだものを与えてもらえなかった「過去の自分」が間接的に慰められるのだ。

そういった傾向にあるセラピストやカウンセラーの多くは、「自分のために生きていない」。人のために、誰かのために―美しく思えることだが、その人達にとってのそれは、ただの「共依存」。自分は相手の役に立っている―そう実感することでしか、自分自身の存在意義を見い出すことが出来ない人である場合が多い。「人に必要とされることを必要とする人」だ。


「セラピスト」の語源は、「共に歩む人」だ。上から目線のような、高みから一方的にあれこれ指図したり、「~してあげる」というような押しつけがましい性質のものではない。

その人の隣に並んで、しゃがんだり寝転がったり、背伸びをしたり、角度や高さを変えたりして同じものを見てみる。そうすると、クライアントが見ているものとは「違う何か」が見えてくる。「ねえ、ちょっとここからも見てみない?さっきとは違って見えるよ」と、別の視点に立つことを提案してみる。

クライアントがそれに応じて「あれ?本当だ~」と、新たな視点を発見したら、「じゃあ、次はこっちからも見てみる?」と、その人の手を取って他の場所に一緒に向かう―それがセラピストの「本来の役割」だ。クライアントは共に歩む相手であって、自分の「身代わり」ではない。


本当に人を支えられるのは、「自分のために生きている人」だと私は思う。自分以外の何かや誰かのために―というのは、後から付いてくればいい。自分のために生きた上で、「おまけ」として、最終的に誰かを支えたことになったり、役に立ったことになればいいだけの話だ。

「自分自身の人生を生きること、生きていること」これこそがセラピストやカウンセラーに必要な一番の資質だと思うのだ。大体自分の人生を引き受けることが出来ない人間が、他人の人生まで引き受けられるわけがない。

どんな仕事も人生も、すべては「自分のため」にある。他の誰かのため、何かのため―そこに意義を見い出そうとすること自体、もう最初から軸ずれしている。

「~のため」自分以外の所に支点を置いて始まった仕事や人生が、万が一思ったようにいかなかった場合、「~のため」は「~のせい」と、それはたちまちの内に非難に変わる。「自分は悪くない」と、被害者や犠牲者のポジションに自分を置き換えてしまうのだ。

自分以外の何かに重きを置いた他律のそれは、結局自己満足の域を出ない。美辞麗句を並べ立てて雄弁に語っても、結局は「自分のため」でしかない。

また、「セラピストに何とかしてもらおう、解決してもらおう」「セラピストやカウンセラーというものは、すべての答えを教えてくれる人だ」という間違った期待を抱いている人も、いま一度自分を省みつつ、認識してほしいと思う。

「人は何も教えることはできない。できるのは、その人自身が自分で見つけるのを助けることだけだ」ガリレオはそう言い遺している。

自分の人生に対する答えは、自分で見つけるものなのだ。「誰かに何とかしてもらおう」それはただの依存。自分の人生に自分で責任を持つ覚悟をする「自立」からはかけ離れている。時には誰かのサポートを受けることも必要だが、それを全部相手に丸投げして「あとはお願いします」と、答えが出てくるのをただ待っているだけではダメなのだ。

それぞれ自立しながら共に歩む―セラピストとクライアントの関係は、本来そういうものだ。

「人の役に立ちたい」そういった思いでセラピストやカウンセラーを志望する人が最近増えている。サロンで相談を受けることも多い。そう思うことは素晴らしい。だが、「その思いはどこに繋がっているのか?」ということを、まずきちんと認識しなければ、本来の役割を果たすこともできないし、セラピストやカウンセラーであり続けることは難しくなる。

「人のため」もいいが、まずは「自分のため」に生きてみる。そして、それが結局は「人のため」に繋がっていくものなのだ。


【追記】
セラピストとクライアントの関係は、ある意味「夫婦」や「結婚」というものに似ている。「相手に幸せにしてもらおう」一方的で勝手な期待を相手にしているうちは、何も始まらないし、本物の関係は築けない。


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驕れる者は久しからず

 2009-09-07
以前アメリカの医学生に密着したドキュメントを見た。全米でも優秀さと傑出した人材を輩出することで定評のあるその大学での入学後初の授業、講義を担当する教授が言った。

「自分が医者に向いていると思う者は手を上げろ」その場には60人前後の学生がいた。全員選りすぐりの優秀な学生ばかり。自信満々で、その大半が手を上げた。

それを見た教授が言った。「今手を上げた者はその思い込みを今すぐ捨てろ。自分が医者に向いていると思う奴は医者になるな」

一瞬シーンとした後、教室がざわめいた。「あの教授、何言ってんだ?」戸惑った様子の学生達に、教授は同じ言葉を繰り返した。「自分は医者に向いていると思う奴は医者にはなるな。この言葉の意味をこれから自分で考えていけ」

10年以上前の番組だったのだが、「医者に向いていると思っているならなるな」という言葉が意外だったので、今でもよく覚えている。その時は、何となく「こういう意味なのかな」と思うことはあったのだが、セラピストの仕事に就いている今、その言葉の意味がはっきりとわかる。


この仕事を始めて以来、千人を超えるクライアントと会ってきた。セッションの方向性や、内容、セラピストとしてのあり方・・・あらゆる面で年々理解が深まり、自分のスタイルというものが確立されていくような気がする。「余裕が出てきた」とでも言ったらいいのだろうか。

だが、今でも私はセッション前には緊張する。緊張を「恐怖」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。それは初めて会う方でも、リピーターの方でも変わらない。開始時刻の5分前には、その緊張はMAXになる。そういった状態はどこから来るのか―それは「自分はこれから一切手抜きのできない一回きりのがちんこ勝負に臨む」という緊張感からだ。

以前のエントリーでも書いたと思うが、私は自分がこの仕事、セラピストやカウンセラーに向いていると思ったことは一度もない。「なんでこんなことやってるんだろ?」と、未だに自分でも不思議に思う時がある。

人生初のヒプノセラピーに衝撃を受けて「この仕事すごい!私これやる!」そんな単純な理由で始めてしまった。「人の役に立ちたい」「困っている人を助けてあげたい」そんな高い志を持った人達が多いこの業界で、「自分がやりたいから」というだけの理由で、「人様のため」などとこれっぽちも思ったこともなくこの仕事に就いてしまった私は、ある意味「異色」だ。

本来の私は「ネコ人間」なので、仕事関係以外は自分がしたいことしかしないし、やりたくないことは一切やらない。自分が大好き、自分が最優先という性格なので、本来「誰かのために!」などということは不向きなのだ。確かに過去には自分以外のものを優先していた時期もあったのだが、ある時面倒くさくなってやめた。

自由奔放、自分勝手といった面は、仕事では一切出すことはない。それはモードチェンジ、仕事スイッチへの切り替えだ。

一人でいることが大好きで苦にならない。常に自分のペースじゃないと嫌。誰かの面倒を見るのも見られるのも好きじゃない。確かに人と話すことは好きだが、「=人が好き」ということではない。私はむしろ人が好きというよりも、「生き物としての『人』に興味がある」のだと思う。実際、学生時代に進路を決める時、人類学や民俗学の分野も選択肢の中に入れていた。

そんな私がよりによって人と密接に相対する仕事に就くとは・・・人生とは意外性に満ちていて且つ面白いものだ。

タイムマシンで10年前の自分に会いに行って、「今から10年後、セラピストの仕事してるよ」と言ったら、多分10年前の私は「嘘だぁ~(笑)」と、絶対に信じないと思う。


様々な因果で始まったこの仕事だが、年々面白さと奥深さが増してくる。そして、「慢心」は禁物、常に自分を省みる「謙虚さ」を持ち続ける意識や覚悟を持ち続けることが必要な仕事だという実感も強くなってくる。

「自分はこの仕事に向いていると思って」とこの仕事に就いた同業者が意外に多いので驚いたことがある。「人と話すのが好きだから」「人の役に立つことをするのが好きだから」その理由というか、根拠は人それぞれだが、不思議なことにそう言った人から辞めていく。

先出の教授の「自分が向いていると思うなら医者になるな」という言葉はこういうことかと思う。

「自分は向いている、適性がある」そう思っている人というのは、その時点で既に慢心がある。「自分はできる」どこかで舐めてかかっているというか、心に「隙」が生まれるのだと思う。その隙が、「自分はできる→できている→できているに決まっている」という根拠のない自信、傲慢さに繋がっていく。

そして、その先にあるのが、医療ミスや患者やスタッフとの確執、焦点のぶれた訳のわからないセッションやカウンセリング、症状の変化や新たな発見、本質を見い出す目の喪失や怠惰さといったものなのだと思う。

「自分が医者に向いていると思う奴は医者になるな」あの言葉は、「常に謙虚であれ」という戒めの言葉だ。どんなに長くその仕事に就こうが、どれだけ多くのクライアントと接したのか、それは然程重要なことではない。経験の長さや多さに胡坐をかいていれば、それは遅かれ早かれ必ずやって来る「失墜」を意味する。いわゆる「慣れ」だ。

「慣れ」は、「プロ」としてのスキルの向上や探究心といったものを忘れさせる。心理学に関わらず、どんな分野でも日々進歩や変化というものがある。それを知ろうとすること、学ぼうとすること、興味を持つこと―「より遠くへ、より高みへ」そういった気持ちや意識を保つことが要になるのだと私は思っている。

仕事と、その上で関わる人々を敬う気持ちと謙虚さと―。そして一期一会の中にある神聖さへの畏怖の念と―。決して驕らず、慢心せず―。常にまっさらな心で物事や人に臨む覚悟と―。そういった気持ちを持ち続けること。そして仕事や人に対する興味―探究心というものをどれだけ持っているかということが、「セラピストであり続ける」ということの核になるのだと思う。

自信を慢心と混同する驕れる者は、やがて滅び行くものなのだ。


【追記】
以前別のテレビ番組で、高層ビルの窓拭き業をしている方が話していた。「自分がこの仕事に就いて間もない頃、先輩に言われたことがある。『恐怖心がなくなったらこの仕事は辞めろ』この仕事に就いて10年近く経つが、自分は今でもビルの高さが恐いです」慣れが引き起こす油断が大事故に繋がる。どんな仕事でも慢心は大敵だということだ。


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