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アンフェア

 2016-08-15
人間が二人以上いれば、当然「力関係」が生じる。友人同士の場合等、その時々で流動的になったりするケースもあるが、親子の場合、どうしても「親が上」「親が強い」というパターンになりがちだ。親を「○○ちゃん、○○くん」とファーストネームで呼び、服を共有したり、プライベートでもしょっちゅう連れ立って出かけるような「友達親子」もいるにはいるが、それでもやはり、親が主導権を握る場合がほとんどだ。

カウンセリング時、家族の、特に親子間についての悩みや葛藤を話す人は少なくない。親の立場、子の立場―それぞれからの話を聴いていて思う。「親である」というだけで、それだけで既に何らかの「アドバンテージ」を手にしているのだなー、と。

安土桃山時代に入ってきた「儒教」の影響もあり、この国の人達は、「親は自分より偉い」「親は敬い、大事にするべき」という考えを意識下に刷り込まれている。その思想は、民族性とも結びつき、「道徳」として日本人のメンタリティーに浸透していった。先祖代々、脈々と受け継がれてきたそれは、もはや「不文律」と言ってもいい。

「なんでもあり」の感が強い21世紀の現在でさえ、親を「○○ちゃん」と呼ぶような、好き勝手やっているように見える10代や20代の若い世代でも、やはり内心では親の意向を気にしたり、ダメ出しを食らうことを恐れていたりする。

そして、そういった「親の期待に応えるべき」「親をがっかりさせてはいけない」という意識は、子供自身がたとえ50代や60代になったとしても変わることはないのだ。60も半ばを過ぎて、孫もいるような人でさえ、自分の言動に対し、90歳になる自分の親がどう思うかを気にしたりする。いくつになっても親は親。子は子。その関係性は、永遠に変わらないのだ。

ただ、「喉元過ぎれば」の喩えではないが、人間というのは勝手なもので、自分が「親」という立場になると同時に、「かつて子であった自分」を忘れてしまう人が多いのも事実だ。「いやいやいや、あなたも昔は『子供』だったんですよ?ちょっとそれはないと思いますけど」というような、「親としての言動や持論」を平然と振りかざすようになる。

「かつては自分も『子供』だった親」は、なぜか漏れなく「もし自分が子供の立場だったらどう感じるだろうか?」という思考や想像ができなくなる。多分、彼らは無意識でこう思っている。「自分は親なんだから何を言ってもいい。自分が何を言おうと、子供はそれを受け入れてくれるはずだし、受け入れるべき。だって自分は『親』なんだから」

文化や習慣を通じて、気づかぬうちに埋め込まれた「儒教思想」が発動し始めるのだ。「親」になった途端、意識の奥深くに埋め込まれた装置が作動し、同時に、「親としての甘えや狡さ」が覚醒する。それは、ある種の「現象」だ。

子供にとって、親は「絶対的な存在」だ。そんな素振りは一切見せなくとも、「親をがっかりさせたくない」「親の期待に応えたい」という思いは、多かれ少なかれ、どんな子供も確実に持っている。

親との言い争いや反抗的な態度を取った後、罪悪感めいた感情が自分の中に湧き上がってきた経験を持つ人も多いと思う。それもまた、「親に逆らう自分は悪い子」「親に従えないダメな子供である自分」という意識から来ているのだ。

極端な言い方をすれば、親に対して「NO」を言える子供などいないのだ。どんな子供の中にも、「親から見捨てられることへの恐怖」が存在している。同時に、「見捨てられた絶望」も。幼児期以来、本能や意識と強く結びついたそれは、死ぬまで消えることはない。どんな親であれ、その存在は、子供にとっては「大きい」のだ。良くも悪くも、その影響力は計り知れない。

そして、親という存在は、そういった子供の「弱み」を巧妙に突いてくる。自分のポジションが持つ優位性をフルに利用するのだ。

今や「3組に1組」という離婚率増加の影響で、離婚が「めずらしいこと」ではなくなってきた昨今、以前に比べ、それが「最大のタブー」のような扱いをされることはなくなってきた。世間からの風当たりも、若干弱まってきてはいる。都市部から離れた場所では、まだまだ厳しい目で見られることもあるようだが、シングルマザーやシングルファーザーの家庭は年々増加している。

同時に、「バツありの人の恋愛・再婚」に対しても、欧米ほどではないが、まあまあ寛容な目で見られるようになってきつつある。カウンセリング中、そういった話題が出ることもあるし、プライベートで耳にすることも多い。

その機会があるのなら、新しい幸せを手に入れることも「あり」だと思う。「幸せ」を求める権利や自由は誰にでもある。ただ、なんというか、人によったら、「・・・なんだかなー」と思ってしまう人もいるわけで。出会いを求めることや、そこで知り合った人に夢中になるあまり、我を忘れて完全ジコチューモードに突入したり。浮かれ気味になる気持ちはわからなくもないが、傍から見ていると、正直「イタイ」というか。

特に、「バツあり子ありの人」によく見られるのだが、「親であること」を完全に忘れて、「生身のオトコ」「生身のオンナ」になってしまう人がいる。本人達曰く「子供とはよく話し合った」「子供から許しはもらっている」と言うのだが、正直、「それってずるいやり方だよね」と。「親」という立場を利用して、「オトコとしての自分・オンナとしての自分の要求」を押し通そうとしているのだから。

「お父さんが再婚したらどうする?」「お母さん、彼氏作ってもいい?」そう聞かれたら、子供は「いいよ」「いいんじゃないの?」としか言えない。「してもいい?」「もし~だったらどうする?」一見子供の心情を慮っているような言い方ではあるが、実質上は、「そうしてもいいよね?いいでしょ?」という、いわば「念押し」なのだ。

後々そのことについて非難されるような事が起こった時の、「でも、あの時ちゃんと言ったよね?お父さん/お母さんは、あなたにそうしてもいいかどうか聞いたよね?断りを入れたよね?」という、「万が一の時の言い訳」「アリバイ工作」が目的なのだから。

それが、「一応あなたに確認は取ったからね?」という形式上のパフォーマンスだということを、子供は気づいている。内心反対だとしても、それでも、子供は親に対して「NO」は言えないのだ。「親の期待に応えなければ」という理由だけで。

「彼氏/彼女作ってもいい?」「再婚してもいい?」と聞く時点で、既に子供に「YES」を強要しているようなものだ。親からしてみたら、ごく軽い気持ちからのものだったとしても、子供は、その質問が意味するもの―親が無意識にそこに込めた「期待」を読む。だから、親が自分に望む役割を果たそうとする。子供によったら、自分の心を殺してまで、それに添おうとする子もいる。

そこをわかってあげないでどうするのかと。自分も「子供」であり、「子供」であったはずなのに。本心は「NO」であるにもかかわらず、「YES」しか言えない子供の立場や心情を、なぜ汲み取ってやれないのかと。「鈍感な親」が多過ぎるのだ。

中には、「親が幸せなら子供も幸せなんです!」という理屈を持ち出す人もいるが、「本当にそうですか?」と。確かに、親が幸せそうにしているのを見れば、子供は嬉しいかもしれない。だが、必ずしも「親の幸せ=子供の幸せ」ではないのだ。親と子供は完全に別物。子供は、親の「分身」でも、「付属物」でも、「人形」でもないのだ。自分だけに通用する屁理屈を持ち出すな、と。

妙なところで「一心同体論」を持ち出すのは筋違いだ。だったら、子供の気持ちを汲んで、自分の恋愛を諦めることができるんですか?と。「親の幸せが子供の幸せ」というのなら、当然その逆も言えるわけで。もし、自分の恋愛が子供に不幸な思いをさせているのなら、当然相手より子供を選ぶんですよね?だって、「子供の幸せは自分の幸せ」なんでしょ?

結局、自分と自分がしていることを正当化したいだけでしょ?と。「子供と話し合った」「子供に許してもらった」という免罪符があれば、年甲斐もなく恋愛にうつつを抜かしている自分への後ろめたさも減る。何だかんだ言いながら、考えているのは自分のことだけなのだ。

ここ10数年の間に、凄まじい勢いで増えている「再婚相手や同居するパートナーによる連れ子への虐待」も、そういった「利己主義の親」が増えたことに起因している。「うちに限っては大丈夫」「私は絶対にそんなことはしない」なんて考えは通用しない。それは、想定を遥かに超えたところで起きるのだ。

野生のライオンでも、群れのリーダーのオスがよそ者のオスとの戦いに敗れて群れを追われれば、新しくリーダーとなったオスは、前のリーダーの血を引く子ライオン達を容赦なく咬み殺す。それが「本能」なのだ。人間も「動物」だ。同様のことが起きても、何ら不思議ではない。現に今、野生動物の世界と同じことが頻発している。

「本能」が勝った状態にある人間は、歯止めが効かない。それが「理性」を上回った時、もう「行き着くところまで行くしかない」のだ。虐待然り、ストーカー然り―本能に根ざしたそれは、「業」としか言いようがない。自分の中の、「オス」の部分、「メス」の部分を侮ってはいけない。どんな人にも、「スイッチ」はある。そして、それが「ONになる可能性」は、誰にでもあるのだ。決して他人事ではない。

自分の恋愛状況を、子供に逐一報告・相談するような人もいるようだが、子供の側からしてみたら、「自分の親の、オトコとして/オンナとしての生臭い部分」を見せられても困るだけだ。それでなくとも、夫婦が子供の目の前でキスやハグをすることが「普通」の欧米とは違うのだ。そういった日常の光景から、親の「親以外の顔」を自然な形で知らされたり感じたりする機会がないこの国では、それは「衝撃」に近いものだ。

自分自身に置き換えてみたらいい。もし自分が、親の「オトコとしての顔、オンナとしての顔」を垣間見たとしたら、どんなふうに感じるだろうかと。突如「オスの本能」「メスの本能」をむき出しにした父親や母親の姿に、多分「戸惑い」や「居心地の悪さ」、「嫌悪感」を感じるはずだ。私なら、確実にげんなりする。「いい歳した大人だし、べつにいいけどさー、そういうの、私のいないところでやってくれない?」絶対にそう思う。

例えば、もうすぐ60になろうというバツありの父親が、婚活サイトに登録して、自分の子供とあまり年齢の変わらない30歳の女性を恋愛対象として狙っている―なんて情報を知りたい子供なんています?ハートマークや絵文字が満載されたラインやメールを暇さえあればせっせと送っていることや、デートの行き先とか。自分と相手のラブラブの写メをケータイの待受画面にしていることとか。

はっきり言わせてもらう。そういう自分の、極めてプライベートな情報を子供に垂れ流しするって、どういうつもりなんですか?それ、本当に「必要なこと」ですか?お子さんが「生きていくにあたって知るべき重要な情報」ですか?「お父さん、よかったね♪」「お母さん、いい人が見つかってよかったじゃん」とでも言ってほしいんですか?そうまでして自分の幸せを祝福してほしいですか?「自分はみんなに愛されている」って実感したいんですか?

中にはそう言ってくれる子もいるかもしれませんが、お子さんにかなりの心理的な負担を掛けているということを自覚してください。「しっかりした子だから」「理解してくれているから」「親子仲がいいから」と言っても、「子供は子供」です。親の恋愛話を聞く義務は、子供にはありません。そういうことは、ご自分の「友達」とでもしてください。

「隠し事はしたくない。自分のすべてを知っておいてほしい」というのは、あなたの「エゴ」です。「隠し事をしている状態」が、自分にとっては気持ちが悪く、それに自分が耐えられないだけです。すべてを吐き出して、自分がスッキリしたいだけです。

いつもニコニコ聞いてくれているとしても、それは100%の気持ちではありません。本人でさえも、説明がつかない「よくわからない何かモヤモヤしたもの」が、たとえわずかであったとしても必ず存在すると思ってください。そんな自分の中の感情に気づかないふりをしたり、「親の幸せを邪魔しちゃいけない」と、無理矢理打ち消す子もいます。そうしようと努力しながらも、でも、どうしてもそれを受け入れられない―そんな自分を責める子もいます。

自分の子供に「包容力」を求めないでください。子供に「親の役割」「友達の役割」を押しつけてどうするんですか。完全に本末転倒でしょうが。浮かれるのはご自由ですが、お子さんが自分の身を削って示してくれている「優しさ」や「気遣い」に、もっと敏感になってください。

それ、完全に「依存」ですから。それも、かなりたちの悪いね。一方的なそれは、やがてお子さんに「限界」をもたらします。これ以上の負荷をお子さんにかけるのは止めてください。我慢が限界を超えた時、もたらされるのは「亀裂」と「崩壊」です。

たとえ自分が成人していようが、子供や孫がいるような年齢だろうが、やはり子供は、親には「親」であることを望むのだ。毅然とした、親然とした態度の、オトコでもオンナでもない、「父親」や「母親」を。親のセクシャルな部分を見たいと思う子供などいない。家の外で、よその家の父親や母親のそういう話を聞くことがあっても、仮に「そういう親もいるんだな」と理解したとしても、「自分の親だけは違う」子供はそう思いたいのだ。「自分の親は、『親らしい、きちんとした親』であってほしい」と。

父親然、母親然としたその態度が、たとえ建前上の、取り繕った感が満載のものであったとしても、子供はそんなことは百も承知している。子供の前で、無理をしてでも「親の努め」を果たそうとしてくれていることをわかっている。要は、「矜持」「プライド」の問題なのだ。「親として」「人として」の。「それを持った人であってほしい」子供は親にそう望んでいる。そして、身を以てそれを示す親に対し、感謝や尊敬の念を抱くのだ。たとえ口に出さないとしても。

恋愛するのも再婚するのも自由だが、個人主義と利己主義を取り違えなさんなよ、と。そういう相手がいるとしても、子供に対する最低限の「礼儀」は払うべきだ。「子供にも賛成してもらいたい」「オープンに堂々としたい」というのは、単なる「エゴ」だ。結局、すべては自分のため。自分にとって都合のいい環境を作りたいだけでしょ?と。

「浮かれている親」というのは、子供からすれば、「しんどい存在」だ。特に、「久しぶりの恋愛にはしゃいで、ティーンエイジャーのようになってしまっている親」は。「うちの子なら理解してくれるはず。喜んでくれるはず」と思うのは勝手だが、子供に対する一方的で勝手なその期待に、子供が応える義務はない。それに応えるか応えないかを決めるのは、子供なのだ。ましてやそれを強要する権利は、親にはない。

親子関係において、「親」の立場にいるというだけで、もう既に有利なのだ。特にこの国では、子供が親に物申すことは御法度の風潮が強い。「子供の分際で親に向かってなんだ!」のひと言で口を封じることが可能だ。だからと言って、調子に乗って「親の権力」を好き勝手に使い放題するのは、いかがなものかと。都合のいい時だけ「親」になるのはフェアじゃない。

人によったら何十年ぶりかの恋愛で、青春時代を取り戻したような気分になって舞い上がっているのかもしれないが、そこはあえて地に足をつけてくださいよ、と。そういう時こそ、ピシッと自分でけじめをつけられる人が、「かっこいい大人」「かっこいい親」なのだ。それができない人は、周りから顰蹙を買って、陰で「恋愛おじさん」「恋愛おばさん」と呼ばれ、「いい歳してだらしない人認定」されるのがオチだ。

「自分の人生を犠牲にして子供のために生きろ」と言っているのではない。「けじめをつけろ」と言っているのだ。「親」として。「人」として。親しき仲にも礼儀あり。「最低限の礼儀」を尽くしてください―そう言っているのだ。

自分にも、子供にも「責任」「義務」「礼儀」を果たさないのに「自由」を欲しがるのは筋違いだ。これまでさんざん子供に言ってきたはずだ。「やることをやってから権利を主張しなさい」と。肝心の親がそれをしないでどうするのかと。

自分さえよければOK、自分の世界にどっぷり浸り、周囲のことはお構いなし―それじゃ高校生や大学生の「おこちゃま的な恋愛」と変わらないでしょ?と。「心はいつも18歳」とか「少年の心を持ったオレ」とか、そういうのは冗談の世界だけにしてください。40、50過ぎてもそんなことを本気で言っているのは、ただのアホです。

「分相応」その年齢に相応しいものややり方があるのだ。当然、恋愛においても。幼稚な大人がするそれは、「恋愛」などではなく、「ただの恋愛ごっこ」だ。せめて年相応に、凛とした、筋の通った、「かっこいい恋愛」をしてください。

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戦力外

 2016-06-10
コンプレックスの強過ぎる男は面倒くさい。少なくとも、私は苦手だ。職業柄、そういった人と接することもある。だが、その手のタイプは、プライベートでは可能な限り全力で回避することにしている。

男の抱くコンプレックスは、女には容易に理解しがたい。完全に異質なもの。理解不能、手出しできない部分に強く執着している人に対して打つ手はない。経験から、持て余して嫌気が差すことがわかったので、それ以来ムダなところにエネルギーを注ぐことはしないと決めている。

男は相対評価の生き物だ。常に自分を誰かと比較している。相手との比較によって、自分のポジションやレベルを知るところがある。「男ってめんどくさいわー」と思う部分でもあるのだが、女とは違い、男のコンプレックスは、「自分はヒエラルキーの外にいる」という疎外感が根底になっている。

未婚か既婚か、バツありかなしか、学歴や勤務先、年収や役職、身長の高さやルックスの良し悪しといった「スペック」を含め、「自分はそこに到達してない。属していない」という自信のなさが、その大部分を占めているのではないかと思うのだ。

数年前、あるドラマがきっかけで、職場や学校等複数の人間が集まる場で、相手(のレベル)が自分より上か下か、いわゆる「優劣」や「順位」をつけたがる「マウンティング女子」という言葉が流行った。「マウンティング」という行為は、サルやオオカミの群れをはじめ、集団で生活する動物の世界で見られる行動だ。人間も所詮は「動物」。彼らと同じ行動をしても何ら不思議ではない。

きっかけとなったドラマの内容が、ファッション業界に生きる女性達の話だったこともあり、「女子」と限定されてはいるが、実際のところ、女より男のほうが「マウンティング」に対する意識は敏感で強い。「生き物」としての、「オス」としての本能、性質、特徴―いわゆる「さが(性)」に強く関係している部分なので、これも当然のことではある。だが、人間のオスの場合、野生動物のような「力」だけでは決着がつかないことが多い。生きている世界が複雑なので、それに伴う様々な要素に左右される部分が厄介なのだ。

男達の会話を聴いていると、結構「微妙な小競り合い」をしている。身につけている腕時計やスーツのブランドから自分が任されているプロジェクトの大きさや内容に至るまで、「あくまでも世間話のレベル」を装いながら、さりげなく相手の「レベル」を推し量り、自分のそれと比べている。

自分が負けた場合、その悔しさをあからさまに表すことはなくとも、自分の中にあるスコアブックに「負け 1」として確実に記録しているのだ。そして、その後の勝負が10戦10勝だとしても、過去の「負け 1」は、決してチャラにはならない。あくまでも「負け」として永遠に記録され続ける。

女の場合、良くも悪くも図々しい生き物なので、10敗の過去を1勝で忘れることができる。「たった1回でも相手に勝ったという事実」のほうが大事なので、男のように「勝ちは勝ち、負けは負け」という執着の仕方はしない。「負けた!悔しい!でも、この部分は私のほうが勝ってるもん!」という思考をする女には、「過去の負け」はどうでもいいのだ。

だから、女は物ともせずに「上」を目指す。「玉の輿」がいい例だ。「分相応」という言葉に、いろいろな意味で鈍感な女という生き物は、「たった1勝」であったとしても、自分には「レースへの参加資格」があると思うのだ。

だが、同じ状況にあったとしても男は違う。「不釣り合い」という言葉に敏感な生き物である男は、冒険しない。自分に相応且つ「確実に手に入る」と思ったものにしか手を出さない。「逆玉(の輿)」という言葉には、本来手の届かない「そこ行っちゃう!?すげー!!」というレベルに敢えてチャレンジし、それを手に入れた男に対する賞賛とやっかみが混在した複雑さがある。

女からすれば、「総合優勝でなくてもいいじゃん。区間優勝でよくね?」と思うのだが、永遠に勝敗記録を残す男には、その発想はないらしい。「すべてにおいて相手を上回りたい」という思いが、良くも悪くも男を縛る。「負け続けの男」であれば、尚更状況は悪くなる。その結果が、「コンプレックス」なのだ。面倒なことに、男自身が乗り越えたと確信できない限り、それは決して覆らない。そうして、「自信のない卑屈な男」が誕生することになる。

「強過ぎるコンプレックスを持つ男」というのは、ある程度の年齢に達した女からすると、ひたすら面倒な存在でしかない。つきっきりで褒めて、励まして―自分が「母親」にならなくてはならない男は、「オス」として見られない。20代や30代前半等根拠のない自信に満ちている世代にいる女の子や、気力体力に溢れている姐御肌の甲斐性のある女性なら、「私がなんとかしてあげる!」とばかりに張り切って、上手におだてて・・・ということも出来るのかもしれないが、私は「ごめん。パス。」と言わせてもらう。

大体、世間で言う「いい歳」になってまで往生際が悪いではないか。「いい加減、手持ちの札で勝負する覚悟を決めろよ!そうこうしてるうちに人生終わるぞ!」そう思う。

その手の男は、大抵の場合「かまってちゃん」と相場は決まっている。毎日メールや電話をしたがったり、頻繁に会いたがったり。常に誰かがそばにいてくれないとダメな人。「ロマンチスト」を自称するのも、「優しい人アピール」もデフォルト。「しつこさ、押しの強さ」を「情熱」と勘違いし、相手のペースや気持ちを考えず、ただひたすら自分の思いをぶつけてくるような、いわゆる「重い男」が多い。

だが、その「優しさ」が、「弱さ」や「依存」「包容力の低さ」からくるものだと女は知っている。そして、その先に必ずある「束縛」も。女に「救い=逃げ道」を求めてまとわりつく男は、自分の人生を全力で楽しんで、走っている女には、はっきり言って「邪魔!」なのだ。「女が彼らを選ばない理由」はそこにある。

「コンプレックスの強い部分も含めての自分を受け入れて、好きになってくれる人がいい」とか臆面もなく言う男が最近増えているらしいが、なんだかなー・・・。「ありのままの自分」とか、アナ雪かよ。「ダメな自分を変えようとする努力」もせずに、開き直って丸投げですか?なにそれ。何様?ちょー虫が良すぎるんですけど。

「気は強いけど、本当は甘えん坊で寂しがり屋だよね」とか、ボクだけは「本当の君」をわかってるよ的な言葉と共に、したり顔で近づいてくる男もいる。こういう男は、完全に女を舐めている。多分、過去の経験から、その手の言葉の有効性を知ったのだと思う。特に、普段から「私、健気にがんばってます!アピール」の強い、「本当の私を誰もわかってくれない」とメソメソしている女には効くかもしれない。だが、その殺し文句が不発に終わる女もいる。女は皆一様ではないのだ。それを全然わかっていない。

多分、その男は今まで「そういう女としか付き合ってこなかった」のだと思う。結局、「甘えん坊で寂しがり屋の女」が好きなのだ。「依存的な女」はコントロールが可能だし、自分から離れる恐れはないから。見当はずれの自分の理想を無理やり重ねて押しつけてきたり、中二病をこじらせている暇があったら、京大の山中教授に頼んでips細胞からそういう人作ってもらえば?と。

自信のない男ほど、「女を自分より下(のレベル)」に置きたがる。この国の男が古来より「若い女=年下の女」を好んできたのは、子孫繁栄のための本能よりも、「年齢が若くて何も知らない女のほうが何かと都合がいいから」という「計算」のほうが優っているからだ。

実際、学歴や年収等、女の能力が自分のそれを上回るのを嫌がる男は多い。そういった意味では、この国の男達は「自信」など持ったことはないのかもしれない。「自立した強い女」を避ける傾向は、男の自信のなさに比例する。意外と「男尊女卑」の真の意味は、こういう部分に隠されているのかもしれない。

最近の「草食系男子」とか、その誕生の経緯についていろいろ言われてはいるが、結局のところ、同性との戦いに疲れたり、それによって淘汰された結果・・・というのが本当のところではないかと。どんな形であれ、そこから「降りた」ほうが楽なのだから。「勝負」って、何かと疲れるしね。違います?

男に限ったことではないが、「卑屈さ」というものは、確実に表に出る。ふとした瞬間、ちょっとした一言に、ちょっとした目の動きに。女から見た場合の男のそれは、多分同性から見たものよりも、遥かに的を射ていると思う。それは、「メンタル、フィジカル共に強い男の遺伝子を得たい」という生き物としての本能からのものだ。いわば「生存」に関わることなのだから、「弱い男の遺伝子」を欲しがる女はいない。自分を守ってくれるかどうかも定かではない男を信じるほど、女はお人好しではないのだ。

少なくとも、自分の中のコンプレックスや弱さを十分認識した上で、それでもそれを跳ね返そうと、克服しようと努力を惜しまない男でなければ、同性との戦いで同じ土俵に立つこともできないし、女の選択肢に入ることもない。不甲斐ない自分を守るための言い訳に終始して、すっかり慣れ親しんだぬるま湯から出ようともしない、すぐに崩れるような豆腐メンタルの男は、「それ以前」の問題なのだ。

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 2016-03-25
最近勃発した男性ミュージシャンとハーフタレントの女性の不倫騒動が一向に収束しない。当初は、「不倫」という反道徳的な行為を二人が行ったことへの非難が大半だったが、現在は、男性側が完全黙秘で公の場にまったく出てこない点に対して矛先が向いている。

まあ、女性側が早々に会見を開き、騒動の影響からテレビ番組やCMをすべて降板する等一人で矢面に立っている状態なので、「不公平じゃん。こいつだけズルくね?」という感は否めない。所属事務所の意向等「大人の事情」もあるのだろうが、だんまりを決め込んでいる男性に、世間の目は厳しい。

いわば「同罪」なのに、「なんで○ッキーちゃんだけなの?こいつ何してんの?逃げ回ってないで出てこいよ!」というところ。発覚以来一切表に出てこない割には、Twitter上ではいろいろ発言しているような所も反感を買うのだと思う。端的に言えば、「卑怯だ!男らしくない!」というのが、世間の評価なのだ。

「大和魂」「日本男児」いう言葉もあるように、この国には、「男らしさ=清廉潔白」というような概念が浸透している。潔く、行動力や責任感を持ち、私欲よりも人の為、時には自己犠牲も厭わない―それが「男」である、というような。だがしかし、「そんなこたーない」というのが現実なのだ。

もともと「男尊女卑」の意識が長く根付いてきたこの国、そんな高尚な、男性賛美の概念が浸透しているのは、まさに「男尊」の部分から。実際の、生身の男は、もっと下世話だ。「狡さ」と「計算高さ」は男の標準装備。そういった意味では、どちらの要素も兼ね備えたこの男性ミュージシャン、それはもう、「わかりやすいほど、男」なのだ。

「女は感情とその場の空気で動く生き物、男は損得で動く生き物」私はそう思っている。全女性・全男性が該当するとは言わないが、得てしてそういう傾向が強いのではないかと。それが良いか悪いかは別として、何かを決断する時、最終的に、女は感情を、男は利益をベースにして答えを出すようなところがある。

例えば、転職を考えたとする。女の場合、気持ちの割合が「辞めたい:7割」「給料がいいから辞めるのはもったいない:3割」だとすると、ほぼ迷わず7割―自分の気持ち・感情を優先する。だが、男は違う。自分の感情よりも、残りの3割―「自分にとっての利益」を取る。人間関係、報酬や待遇、方針に7割の不満を持っていたとしても、「自分にとっての3割の利益」があれば、男は自我や感情を殺して組織の為に働くことができる。自分の利益>自分の感情―それが「男」だ。

彼らのその「主義」「特性」は、恋愛や結婚等「感情」が大きく占める分野に対しても同様に発揮される。気持ちが相手に8割向いていたとしても、「交際・結婚すれば自由がなくなる」「この人を選んだ場合の周囲の評価が気になる」「もっといい出会いがあるかもしれない」等「2割の損」があれば、男は自分の気持ちに目をつぶる。迷いつつも、同時に自分にとっての「得」を思案し、最終的には「損のない方」を選ぶ。徹底した利益優先主義は、そこでも貫かれるのだ。

渦中の男性のことを、やっていることがゲスだの卑怯だの言っている世の男性達だって、なんだかんだ言っても結局「同類」なのだ。どんなに優しい男だって、彼と同様、「狡さと計算高さ」の特性は細胞に組み込まれている。むしろそういった男のほうが、自分の損に敏感なような気がする。計算も早いし、答えを出すのも早い。いわゆる「変わり身が早い」のがこのタイプ。「優しいから」「誠実だから」といっても、この特性は変わらない。買い被っていると、思わぬしっぺ返しがくる可能性もある。そのあたりは、シビアに冷静に観ることだ。

全くその気はないくせに、自分に好意的な女性に気を持たせるようなことを言ってキープしようとしたりとか。今のカノジョと別れる気満々だとしても、「悪い人」になりたくないばかりに、「お互いの為に距離をおこう」「友達に戻ろう」とかいう中途半端な言い訳でフェードアウトを狙ったりとか。カノジョがいながら、「もっといい相手」がいないかと、こっそり合コンや婚活パーティーに参加したりとか。「面倒くさい」と内心思いつつも、学校や職場の女性達に嫌われないように愛想を振りまいているとか。

そういった「計算」を駆使して、男は日常を生きている。あらゆるものを天秤に乗せて、重いほうを選ぶ。狡いから男なのか、男だから狡いのか―。一貫した利益主義、あれこれ言ってもどうにもならない。女にしてみたら身勝手極まりないことだが仕方ない。それが男という生き物なのだから。だが、女がそれを受け入れるかどうかは、また別の話だけど。

人気上昇中の既婚ミュージシャンと人気タレント―当人達の社会的立場や状況・事情も大きく影響し、こんな騒ぎになってはいるが、ひと皮剥けば、案外どこにでも転がっているような、いわゆる「世間ではよくある話」なのかも。あれこれ付いた尾ひれを全部取り去って蓋を開けてみれば、そこには、それぞれの性別の特性そのままに、自分の欲に忠実且つ損得勘定も忘れない男と、感情のままに突っ走ることを選んだ女がいるだけだ。

一言で言ってしまえば、「ひと組の男女の恋愛にまつわる話」。ただそれだけのこと。大袈裟に見えるゴシップの実態は、意外と単純で平凡なのだ。世界の至るところで、有名無名かかわらず、男と女がいる場所で、当たり前のように発生する「ごくありふれた日常の出来事」に過ぎないのだ。

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泳げ、人魚姫!

 2012-08-22
最近、とある場所で小耳に挟んだ話。かれこれ10数年、20年近くも妻子ある職場の上司と不倫関係を続けている女性がいると。その女性は、アラフィフの年齢で独身。「子供が成長して離婚が成立したら、必ず君と一緒になるから」そんな彼の言葉を信じて待ち続けてきたので、結婚歴はない。その間もずっと彼一筋。

だが、最近どうもモヤモヤして仕方ない。「彼は本当に私のところに来てくれるのだろうか?このまま彼を待ち続けていいのだろうか?」という思いが浮かんできて、正直どうしたらいいのか迷い、悩んでいると。

「妻との関係は冷え切っている。子供がある程度の年齢になったら離婚するつもりだ」という彼の言葉も、最近では素直に信じられない。事情をよく知る親友や信頼出来る人からは、以前から「別れたほうがいい」と言われている。占いなどにも行ってみた。だが、いざとなると心が揺れて決められないとのこと。

「・・・とまあこんな感じの話やねんけどな。どう思う?」とその話を出してきた人の問いかけに、私を含め、その場にいた全員(女性)が、一斉に「そらあかんわ~」と。

「無理無理!とっとと別れたらええねん」「そのおっさんずるいわ~なんやかんや上手いことゆうて気ぃ引くんやろ?おるおる!そんなヤツ!」「大体意地汚いねん。既婚者のくせに若い部下に手ぇ出すとかさーありえへんって!」まあその他にも、「そんな奴は去勢してしまえ!」などと過激な発言もいろいろ出たのだが、それなりに人生の酸いも甘いも噛み分けてきたおねいさん達が全員一致で出した答えは、「そんな男とはさっさと別れてしまいなさい!」

他人の恋愛に首を突っ込む気は毛頭ないが、このケースに関しては、「もうそのへんでやめておいたら?」と。

男女の仲―恋人関係や夫婦関係において、特殊なケースを除いては、「百対ゼロの過失」というものは存在しないと思う。この状況だけ見れば、男性側に非が多くあるような感じだが、「どっちもどっち」というところ。「責任」は二人にある。途中いろいろあったとしても、ここまで関係が続いてきたのは、「双方の合意」があったから。単純に、「被害者」「加害者」という括りは出来ない。

だが、この女性の場合、自分ではもう結論が出ているにもかかわらず、あえてそれに気づかない振りをしているだけのような気がするのだ。それを認めるのが怖くて、ただ悪戯に「決断の時」を先伸ばしにしているというか。ズバリ言ってしまえば、「別れる覚悟が出来ない」のだと思う。

20年近くという長い年月を彼一筋に費やしてきたことが、彼女の決意を鈍らせているのではないかと。その「ブランク」は大きい。それを経て「一人」になること。「彼に費やしてきた時間」が、すべて「無」に帰すということ。「この先、新しい出会いはあるのだろうか?」「自分はまだ女としての魅力を備えているのだろうか?」そういったことに対する強い不安や恐怖、躊躇いがあるのではないかと。

それも無理はない。20~30歳の頃の、世間で「若い」と言われる年齢での恋愛とは訳が違う。若い頃の恋愛は、「次」があった。たとえ失恋したり、別れた後も、ほどなく「次」がやってきて、それにぽんと乗っかるだけでよかった。落ち込んだりしても、意識のどこかは常に楽観的だったような気がする。若さに任せて、「勢い」で恋愛が出来た時期。

だが、年齢を重ねていくにつれ、それが叶わなくなってくる。「大人」としての「分別」「責任」といったものが、ブレーキを掛けるのだ。良くも悪くも「計算」といったものが働くようになる。年齢と共に身に付いた「殻」、一方では「社会的信用」「思慮深さ」とも言えるそれが、「感情」の行き場を妨げる。

「立場」「年齢」「世間体」若い頃には「壁」とも思わなかったようなもの、むしろ「へ!そんなもん!」と笑い飛ばしてきたものが、知らぬ間に大きな「障害物」となっていることに気づき、愕然とする。以前は大して深く考えもせず、ただ「好き」という気持ちだけで突っ走れたものが、「取るに足らないもの」とかつては気にも止めなかったようなことに足止めされている現実に気づいた時、人は臆病になる。

「あれ?自分ってこんなに小心者だったっけ?」と、「いつの間にか変わってしまった自分」「リスクを避け、ちんまり無難にまとまろうとしている自分」に気づき、困惑するのだ。「当たり前だったこと」が、自分のテリトリーから消えつつある状況に慌て始める。

仮にその「壁」を乗り越えたとしても、「リスク」を冒してまで手に入れたそれが、もし失われることがあったら、一体自分はどうなるんだろう?どうなってしまうんだろう?という「恐怖」が先に立つ。「元は取れるのか?」そんな損得勘定も頭を掠める。そこで得るかもしれない「ダメージ」を恐れるようになる。自分の「回復力」に、若い頃のような自信が持てないのだ。

「傷つくくらいなら気持ちを隠しているほうが楽」「片思いでいい」そう思う人が増えていく。そうやって「大人」は恋愛にどんどん臆病になっていく。恋愛に関しては、10代や20代の若い世代より、確実に「ガラスのハート度」が高いのだ。一見余裕をかましているようでも、内心ではビクビクドキドキという状態。何よりも、「真剣度」が違うのだ。

だから「大人の恋愛」は心を隠す。相手の「脈あり度」を慎重過ぎるくらい探るのは、「万が一の事」を考えてのこと。もしそこで「キズ」を負うことがあっても、最小限の被害で抑えたい―そう思っているから。この過剰な自意識、ティーンエイジャーのそれと変わらない。むしろ「大人」のほうが強いかも。

年齢も経験も積み重ねてきた「大人」であるがゆえに、いくつもの「最悪のケース」を、冷静に客観的に思い描くことが出来てしまうということも拍車をかける。まさに諸刃の剣。その領域に踏み出すことが怖くなるのだ。「かつては当たり前だったこと」に躊躇したり、それを出来なくなっている自分に自信がなくなる。不意に「老い」を突きつけられたような気がして、心もとなくなる。

件の女性も、まさにその状態にあるのではないかと。同世代だからこそ、よくわかるのだ。本当は、心のどこかではもう諦めている。彼から心が離れ始めている自分に気づいている。自分が彼にとって「都合のいい女」であることも。多分、彼に離婚する気はないであろうことも。その事実を認める勇気がないだけなのだ。

「彼に捧げた時間」への未練もある。「長い時間待った挙句がこれ?」その「不公平」とも言える結末に納得がいかないのだ。「等価」を受け取れない自分に、「結局損をしているのは自分だけ?」そんな釈然としない思いもこみ上げてくる。だが、いつになっても状況は変わらない。焦りと彼に対する不信だけが日々募っていくばかり―。こういった「不倫」という関係にあって、更に「相手の都合で長期間待たされている人」の心理とは、多分こういうものではないかと。

「それでも自分は彼を待つ」と彼女が決めたのならそれでいい。自分のすべてを犠牲にしても、もしそれが自分の思い描く結果にならなくても、恨み言一つ言わず、すべてを飲み込んで、自分の中だけでその思いを昇華できる「人魚姫」のような女になることを覚悟できるのであれば。

だが、「これだけ待ったのだから責任を取ってよ」「これだけ待ったのだから自分のところに来てくれるはず」と、彼に「見返り」を要求したり期待しているのなら、潔く終わりにしたほうがいい。それは完全な「執着」だ。まあそれも一つの「愛」の形ではあるのだろうが、どことなく「取り引き」めいた感があるのは否めない。

結局、「ゴール」は何か?ということなのだと思う。「自分が求めているもの」「目指しているもの」は何なのか?ということ。

「なぜ彼と一緒にいるのか?」ということを考えてみたらいい。「好きだから」「一緒にいたいから」ではなく、「一人になるのは嫌だから」「次の出会いの保証がないから」「もう歳だから」そんな「条件」が出てきたら、心はもう彼から離れているのかも。「愛情」ではなく、「惰性」で繋がっているのかもしれない。

何よりも、「あ、ダメだな」と思うのが、彼に対して疑念や不安を感じていること。この時点で、もう相手を信用していないのだ。「無責任な彼」を既に見限っているということ。

年齢を重ねるにつれてわかってくる。男にとっての「責任」は、「=愛情」なのだ。そして、仕事でも恋愛でもすべての領域において、「責任を取る覚悟」があってこその「男」だと。

20代の頃などは、恋愛に関して「責任をとって云々」と言われると、まるで義務感から、それを仕方なくされているような気がして、「何それ!?」と憤慨したこともあったが、今ならそれがどんな意味を持つのかよくわかる。「結果を含め、それを全部自分が引き受ける。背負う」ということは、男にとって、並々ならぬ決意や覚悟が必要なのだ。

奥さんや子供にも責任を取らない彼。自分にもそれをしようとしない彼。その人に「男」としての価値がないことを既に知っている。結局、彼が一番大切にしていて愛しているのは、ほかならぬ「自分自身」なのだ。

いくら優しくても、気が合っても、魅力的でも、一緒にいて楽しくても、自分の理想とピッタリだとしても、「無責任な男」「誠実さを蔑ろにする男」はやっぱりダメだと思う。本来「男」にとって一番大事なもの、「男としての価値」「男としての証」が備わっていないのだから。

「責任感の欠けた男」が考えるのは、「自分のこと」だけだ。そこに「誰かの」という要素は含まれない。端的に言えば、自分さえ幸せで気分よく過ごせれば、あとは誰がどんな状況にあっても構わないということ。非常に利己的なのだ。そんな自分の「利益」しか考えない人間との不確かな未来を夢見るより、「自分の幸せ」「自分が理想とする未来」を考えたほうがいい。

その男の「自分第一」という思考は、多分この先も変わることはない。「私が変えてみせる」「私とだったら変わってくれるはず」と頑張ったとしても、その可能性は限りなく低いと思う。彼とめでたく一緒になれたとしても、彼が今度は「別の人」と同じことを繰り返す可能性があることは否定できない。大体、当の本人自身にその考え方を変える気がないのだから。

男というのは、「自分のファン」を欲しがる生き物だ。女よりもその欲求は強い。そういった存在を周りに置くことで、自分の「男としての価値・魅力」を確認できるから。そうすることで、生き物として備わっている「征服欲」を満たすことが出来る。ある種の「ナルシシスト」。

妻や恋人以外の女性に手を出す男は、もともとそういった要素が強いのだと思う。一度でもその「快感」を味わってしまったら、多分その男は、この先も「生涯一人の女」で満足することはない。世の中の「再犯率」「累犯率」を見ていればそれがわかる。

占いやチャネラーの類に走って、「別れたほうがいいでしょうか?待っていていいのでしょうか?」とお伺いを立てたり、スピリチュアル本に書いてあることを鵜呑みにして、「この関係や状況からも学びがあるはず。気づきがあるはず」と無理矢理思い込むことによってその状況に甘んじているような人もいるが、観ていると、それは完全に「現実逃避」と「決断の先延ばし」だ。

「人を好きになるのは理屈じゃない」と言うではないか。理屈が通用しない「本能」の領域に、占いやらスピリチュアル流精神論やらを持ち出してきて、「理屈=頭」で処理しようとしていること自体、既に「終わっている」。「出会った理由」「関係を続ける理由」「今の2人の関係から学ぶべきこと」そういったことにしがみつかないとモチベーションを保てなくなっているのがその証拠。自分がそこに「留まる理由」を見つけるようになったら、その関係は冷め始めていると言っていい。

彼との関係を続けるか否かということに対して一番大事なことは、もっともらしい理由を見つけ出したり当てはめたりすることではなく、「続けたいのか?続けたくないのか?」ということでしょ、と。

夫婦や恋人間の「浮気」にしたって同じこと。世の中には、本当にいろいろな人がいる。価値観もそれぞれ違う。不倫や浮気の類を罪悪視する人もいれば、相手に何の不満がなくても、ただ単純に「自分の魅力を確認するため、したいがため」に浮気をする人も実際にいるわけで。本人達は、それを「遊び」「後腐れのない関係」と称してケロッとしていたりする。

「単なる気の迷い」「遊び」「本気」にかかわらず、そういった事態が発覚した時、自分達の関係を反省したり、何だかんだとスピリチュアル的意味付を行ったりしても、結局最後に行き着くところは、「許すか?許さないか?」「許せるか?許せないか?」なのだ。所詮生身の男と女、理屈や綺麗事だけで片付けられるものではない。

「自分はどうしたいのか?どうするのか?」結局大事なのはそこじゃない?と。恋愛において一番大事なはずの「気持ち」を蔑ろにして、答えなど出るわけがない。彼を含め、「自分以外の誰かや何か」に自分の人生や幸せを委ね切ってはダメなのだ。

件の女性、私には、必死に藁にしがみつこうとしている人魚姫に思えて仕方ないけど。泳ぎ方を忘れ、溺れかけている人魚姫。その「藁=彼」が、多分彼女には大きくて頑丈な救命ボートに見えているのだろうが、「藁は藁」ですって。幻影に惑わされてそれにしがみついたまま、転覆して、結局最後は童話の結末と同じように、海の泡となって―という展開になるのではないかと。

人魚姫の最大の不幸は、自分の幸せを、すべて王子様に委ねたことにある。自分以外の人を選んだ王子様に執着することをやめて、もう一度自力で海を泳ごうと決心した時、ひょっとしたらどこか他の場所で、幸せを見つけることができたかも。

王子様と出会うまでの彼女は、大海原を自由自在に泳ぎ回っていたのだから。「泳ぎ方」をもう一度思い出したらいい。本物の人魚姫は、報われない愛に殉じて最後は海の泡となって消えたけど、視点や思考を変えたら、まったく違う展開になっていた可能性もある。

「海の世界で一番美しい」と称された自分の声と引き換えに、魔女から「人間になれる薬」を手に入れた人魚姫。だが、彼女を待っていた結末は、王子の心を手に入れることなく、自身が海の泡となって消えるというものだった。

皆まで言わずともわかるでしょ?と。自分以外の何かや誰かに託した幸せが、どういう結果になるのかを。「丸投げ」が招く結末は、多かれ少なかれそんなものだ。「どの段階で決断するか」結局それに尽きる。自分の人生、自分の決断に「責任」を持つ覚悟をすることだ。

だから泳げ、人魚姫!藁の王子にしがみつくことをやめて、自分の力でまた泳ぎだせ!幸せも人生も、自分で選んで切り開いていくものだ。それは必ず存在しているし、あなたはきっとそれを見つけるはず。ひょっとしたらそれを手に入れた頃には、「藁の王子様」のことを笑って懐かしく思い出しているかもしれない。

「自分の中の幸福力」それを忘れたらダメですよ。自分の中にそれが存在していることを信じなさいって。

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マテリアルガール

 2012-06-28
「オーガニック婚」とかいうものをした有名モデルの方が、先頃出版した自著の中で、今までの恋愛関係を赤裸々に綴っていることが話題になっている。立ち寄った書店の「話題の本」のコーナーに平積みになっていたので、「どれどれ」と手にとって見たのだが、過去の交際相手達について、かなり詳細に語っている。氏名こそ伏せられているが、読めば明らかに「あー、あの人ね」とわかる。

別れたとはいえ、かつては大切な存在だったはずの相手を、こういった形であれこれ言うのは感心しない。そもそも、「あーだったこーだった」とプライベートな部分を世間に公表する必要があるのか?と。そういう話は、本来「身内」の間だけに留めておくのがルールというもの。相手についてあれこれ吹聴するのは、自分を貶めているのも同然だ。

この年齢になって、いろいろと経験してきて思う。相手がストーカーや病的な性格だった等のケースを除いて、夫婦や恋人、いわゆる男女間の問題については、「100対0の過失」というものはないのではないかと。たとえそれが99.9対0.1の割合だったとしても、どちらかが100%一方的に悪いということはない。恋愛というのは、「どっちもどっち」「喧嘩両成敗」という要素―いわば「お互い様」の部分が大きい領域なのだから。

だが、このモデルさん、どうも一方的というか独善的なのだ。大体、ご自身も妊娠・結婚されて幸せになったというのに、このタイミングで暴露本を出版する意図がわからない。これが「相手だけ幸せになって自分は不幸のどん底」というのならまだわかる。「それは面白くないよね。無理ないよね」と多少は同情も出来る。だが、すったもんだあったようだが、結局すべてが丸く収まったのだから「もういいじゃん」と。

元交際相手の方達に対しても、出版に関しての報告や事前の断り等一切なかったようだし、そんな感じで好き放題やり放題では、バッシングされて当然かと。もし私がこの人の友達だったら、ケンカしてでも本の出版を止めるよう説得するけど。「自分でオンナ下げてどーすんの!」多分そう言う。

「いろいろあったけど、お互い幸せになろうね」と、そこでスパッと終わりにすればよかったのだ。いろいろ納得がいかなかったり、腹の虫が収まらない部分があったとしても、二人で話し合って終わりにすることを決めたのだから。終わった後もあれこれゴチャゴチャまくし立てるのは美しくない。そういう割り切れない部分も、「お互い様」とすべて飲み込んで幕引きするのが「大人の恋愛のルール」ではないかと思うのだ。

交際中、楽しいことや嬉しいこともたくさんあったと思うし、相手にだって言い分はあるはず。「自分だけが」と一方的に「被害者」をアピールするのは筋違いだ。フェアじゃないし、潔くない。

本の中に、やたら「スピリチュアル」という言葉が出てくるのだが、「スピリチュアルな私」をアピールする割には、言ってる事とやっている事は、むしろ非常に「マテリアル」。

ワイドショー等でも盛んに取り上げられていたが、今のご主人から贈られたダイヤの婚約指輪を「(ダイヤが)小さい」と言ったことから大ゲンカに発展し、そのストレスからご主人が体調を崩してしまったらしい。それを「その程度で病気になる器の小さい男」と言い放っている。

他人事ながら、「この結婚、本当に大丈夫か?」と。ご主人が怒ったのは、せっかく贈った指輪を「小さい=ケチ」と言われたことではないと思う。多分、「何と、誰と比べたのか?」という部分に引っ掛かりを感じたのだと思う。今後彼女に何かを贈る度、してあげる度に、彼女の中にあるそれと比較されるのだから。

「一体自分は彼女にとって何なんだ?」という思いが生じたのではないかと。その時の感情の大半を占めたのは、多分「虚しさ」と「まだ元カレを忘れていないのでは?」という疑念だったのではないかと思うのだ。そして、「本当にこの人と結婚していいのだろうか?」という迷いと。取り止めるとしても、既に彼女は妊娠中。かなりお悩みになったのだと思う。そんな過度のストレスにさらされた精神状態では、胃潰瘍になっても当然かと。

挙式先のアメリカから帰国したそのモデルさんを、空港で待ち構えていた報道陣が取り囲んでいた。件のダイヤの指輪をクローズアップで映していたが、決して「小さい」というレベルではない。世間の基準で言えば、むしろ「大きい」。超一流宝飾店の物なので、ン百万は下らないと思う。まあご自身で、元交際相手達は「リッチな人」が多かったと言っているので、過去にその人達から贈られた物と比較してしまったのではないかと。ご主人には同情するしかないのだが、今後もこの手の諍いがちょくちょく起こる可能性は非常に高い。

彼女のようなタイプは、男女関わらず、世の中に結構いる。「気持ち」より「物・値段」を重視するような人に多い。「目に見える物」で、愛情や友情を測る人達。そして、彼らに共通するのは、「常に飢餓状態にある」ということ。際限なく相手に要求し続けるのだ。この「飢えた人達」を満足させることは、並大抵なことではない。

例えば、今その人が激しく落ち込んでいるとする。その人の話を聞いて、こちらが何らかの慰めや労わりの言葉を掛けたとする。「大変だったね」「辛かったね」という短いが、でも十分に気持ちがこもった言葉であっても、彼らは絶対に満足しない。10も20も、それ以上のものを要求してくる。

多分、彼らの中には独自の「基準」のようなものがあるのだと思う。それに達するまでは、決して満足することはない。多くの場合、それに「もう十分」というものはないのだ。ざるに水を溜めようとすることに等しい。注いでも、注いでも、それは決して満杯になることはない。

彼らは常に「欠乏感」を感じている。家庭環境や人間関係等、物心両面で「満たされなかった経験」が原因になっていることが多い。「まだ十分じゃない」「まだ足りない」「自分は何も持っていない」「あの人は持っているのに、自分は持っていない」その意識が強い。もはや「強迫観念」と言っていい。彼らの目には、「自分に欠けているもの」しか映らないのだ。だからひたすら求め続ける。その「空白」の部分を埋めるために。

彼らの多くが「物」に固執するのは、それが「安心感」をもたらすから。指輪でもバッグでも、「目に見えるもの」は形があって、実際に触ってその存在を確認することができる。「自分は今これを手にしている」と、「現実」として実感できる。「お金」も、「自分のためにこれだけ使ってくれた」と、目で確かめることができる。

それに比べ、「気持ち」などといった「実体のないもの」は、ただ感じるしかない。「手に取ることができないもの」は、彼らにとって「無」も同然なのだ。姿形がないものを、彼らは信じることができない。指輪やバッグ、車等「物質」に固執するのはそのせいなのだ。

「相手が自分のために使ってくれた時間や手間ひま」もそう。「見えないもの」であるそれは、彼らには何の意味も持たないのだ。「だったら形で、わかるように、具体的にそれを見せてよ」それが彼らの言い分。

「その人が何をしてくれたか、何を言ってくれたか」ではなく、「何を買ってくれたか、どこに連れて行ってくれたか、いくら使ってくれたか」が、彼らの「基準」なのだ。自分に対する相手の気持ちを量る「ものさし」。言葉でも、その「内容」より、「回数」が重要なのだ。

好きな人が、自分のためにじっくり時間を掛けて丹念に選んで贈ってくれた本やCDより、「やばい!誕生日のプレゼント買うの忘れてた」と慌てて入ったブランドショップで、「上から2段目の棚の、一番右側のやつください」ととりあえず目に付いた、おざなりに選んだバッグのほうを有難がるのだ。「公園デート」なんてもってのほか。彼らにとっての「デート」とは、高級フレンチやイタリアンの店での食事を意味する。

「値段の高さ=自分の価値、自分に対する愛情の深さ」と信じて疑わないそんな彼らに疲れ果て、人はどんどん離れていく。結婚秒読みとも言われていた元交際相手の俳優さんが結婚に踏み切らなかったのは、多分そういうところに気づいたせいではないかと。


恋愛は、本能と感情の領域だ。どんなに熱烈な恋愛だとしても、それはやがて落ち着いてくる。「冷静さ」が戻ってくると、今度は相手の「人間性」に目が行くようになる。人柄、信念、思考、生き方、才能―そういった「人」としての部分がクローズアップされる。その人の「人間力」に対する興味や尊敬といったものが、「好き」という部分に取って代わる。むしろ、今後の関係に与える影響は、その部分のほうが大きく強い。「異性」としてでなく、「人として」の部分が物を言うのだ。ある意味、恋愛感情が落ち着いてきた時からが「勝負」と言える。

相手の外見に惹かれたり、「好き」だの「一緒にいたい」だの「楽しい」だのと浮かれているうちは、多分相手のことは何も見えていない。感情が勝っているその状態は、いわば「期間限定」のものだ。それを過ぎた時に見えてくるものが、相手の「真の姿」なのだ。恋人、夫婦とは言っても、本を糺せば「人対人」。「異性」としてではなく、「人」としてのその人をどう思うか―結局「決め手」はそこなのだ。

「飢えた人」は、相手のすべてを食い尽くす。物心両面において、彼らの「食欲」は凄まじい。それも、決して満腹になることがないというのだから困るのだ。だがそれは、あくまでも彼ら自身の問題なのだ。既に足りていることに、それも十分過ぎるほどに持っていることに気づかない限り、その食欲は収まるところを知らない。飢えた悲しい物質主義者―それが彼らなのだ。

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