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クローズド

 2017-02-13
いわゆるネットスラングだった「コミュ障=コミュニケーション障害」という言葉も、ここ数年ですっかり世間に定着した感がある。

他者とのコミュニケーションを苦手としたり、それを苦痛に感じる人を指す言葉だが、多くの人は、それを「人見知り」「空気を読まない人」というニュアンスで捉えていると思う。だが、そういった傾向にある人達だけが「コミュ障」ではないのだ。今の世の中、対人スキルに一見何の問題もないように見える人でも、「実は・・・」という「隠れコミュ障」である場合が多い。

パッと見、その人達は「一見普通」「一見まとも」だ。取り立てて問題もなく普通に社会生活を送っているように見える。だが、彼らと実際に接点を持った時、その「兆候」は現れる。

その人達は、いろいろな意味で非常に「一方的」だ。「自分にとっての常識=世界標準」だと思っている。「自分の常識は相手にとっての非常識」になる可能性があることを想像すらしないのだ。「基準は自分」の彼らからすれば、「おかしいのは常に相手」であり、「自分は何も間違っていない」のだ。

彼らの特徴の一つでもあるのだが、「伝えること=自分が言いたいことを言うこと」だと思い込んでいる。自分の言葉を相手が理解しているか、ちゃんと真意が伝わっているか―相手の理解度や心情、都合といったものを無視して、ただただ一方的にまくし立てる。相手の反応さえ確かめずにひたすら言葉を続けるその様子は、まるで「ひとり言」だ。

彼らにとって重要なのは、「自分が言いたいことが言えればいい」ということなので、相手が理解しようがしまいが、そんなことは「どうでもいいこと」なのだ。なぜなら、「自分の言葉を理解できない相手が悪い」のだから。「ズブの素人に対して行う説明に、専門用語を並べ立てるスペシャリスト」を想像してもらえればいいと思う。

加えて、彼らは「ムダ」を嫌う。自分の労力や時間を他者に費やすということを良しとしないので、会話も手短に、「要点」だけ伝わればいいと思っている節がある。言葉を省くのも、彼らの傾向だ。だが、彼らが不要・ムダと思って省いた部分が、実は相手にとっては重要だった―ということもあるのだ。

どうしたら相手に理解してもらえるか、どんな言葉を使えば伝わりやすいか―そういった「配慮」がまるでない。「受け取る側からの視点」が、完全に抜け落ちているのだ。そして、自分の「想像力の欠如」を棚に上げ、彼らは自分の言葉を理解しない相手を責める。

以前、仕事上で関わったこの手の人との会話で、その一方的な話し方に閉口したことがある。仕事の流れに関する説明を受けていた時、その人は突然「そこにヤマがあるじゃないですか。そのヤマの・・・」と言い始めた。突如相手の口から出てきた「ヤマ」という言葉が何を指しているのかわからず、私は戸惑った。

「は?ヤマ?何それ?この人何言ってんの?」一向に見当が付かないので、「ヤ・・・マ?ですか?」と聞き返すと、「そう!ヤマですよ!ヤマ!そこにあるじゃないですか!」焦れたように「ヤマ」を連呼するその人の視線の先を見ると、少し離れたキャビネットの上に、20センチくらいの高さまで書類が積み上げられている場所があった。

「あのー、もしかして『ヤマ』って、あそこの、書類が置かれている所のことですか?積まれている書類のこと?」「そうですよ!」その人が言う「ヤマ」は「山」であり、「積み上げられた”書類の山”」のことだったらしい。まあ確かに、高々と積み上げられた書類の束は「山」を連想させないこともない。

だが、初対面のその人の、人となりや物の言い方の癖を把握していない私からすると、「わかるわけねーだろ!最初からそう言えよ!」なのだ。長年の付き合いで気心知れた人とでさえ、「あれ」「これ」「それ」で100%話が通じるわけではないのだ。自分の脳内イメージだけで話が円滑に進むのなら、誰も苦労はしない。

「あそこに、書類が積まれて山みたいになっている場所があるでしょ?」という説明にならず、自分のイメージだけでひたすら「山」を連呼するのは、その人が自分の中だけで「完結」しているからだと思う。相手の都合を無視した一方的な説明になるのは、その人の世界に他者が存在していないからなのだ。

一言で言えば「利己的」―それが彼ら、「隠れコミュ障」だ。「山の人」のような例はめずらしくない。むしろデフォルトだ。どういうわけか、彼らは脳内にある自分の思考やイメージとまったく同じものを相手も共有していると信じて疑わない。

例えば、「果物」という言葉を聞いた時、どんな果物を想像するかは人それぞれ違う。ある人はミカンを想像するかもしれないし、ある人はリンゴかもしれない。だが、彼らの場合、自分がバナナを想像した時は、相手も同様にバナナを想像していると思うのだ。「自分にとっての」と「相手にとっての」は違うということを考えようとすらしない。

一事が万事、それ前提で話が進むから、厄介なのだ。そういった勝手な思い込みが齟齬を生み、余計な混乱を招く要因になっていることを、彼らは一向に気づかないのだ。そして、自分達の言葉足らずの説明を棚に上げ、それを理解できない相手を問題視する。彼らの典型的なパターンだ。

彼らがなぜそうなったのか、多分「きっかけ」はあったと思う。生まれ育った環境や周囲の人達との関係とか。だが、途中で「軌道修正」できる機会は絶対にあったはずなのだ。もしかしたら、そういう部分を指摘してくれた人も、過去にはいたかもしれない。自分を省みたり、自分以外の人の言葉に耳を傾けたり―。理由は何であれ、そのチャンスをものにしなかった「責任」は、ほかでもない彼ら自身にある。

ある意味、それは「驕り」なのだ。いわゆる「できる人」に多く見られる傾向なので、「過信」から来ていることは間違いない。自分のやり方を信じて疑わないから、それを改めようともしない。もし、仮に気づきながらもそのやり方を続けているのであれば、責任は、やはり彼らにある。「閉じた世界」に居続けることを自分自身で選んでいるのだから。「変わらないことは楽」なのだ。

「閉じた世界の住人」とのコミュニケーションは不可能だ。相手が一方的に発信するものを、ひたすら受け止めるしかない。それはもはや「コミュニケーション」とすら呼べないものだ。

多くの人が「世知辛い世の中」と嘆いているが、こういう「一方的な人」が増えたせいではないかと。自分の言いたいことを言うだけ言って満足した後は、ぴしゃりとドアを閉じて取り付く島もない―そういう「自分にしか関心のない人」が、他者に関心を持つわけがないのだ。「世間のその他大勢の人達」がどんな状況にあろうと、自分が満足できる状態にあれば、彼らはそれで十分なのだ。

ある意味、彼らは「ミニマリスト」なのだ。コミュニケーションも、人との関係も、必要最低限のものだけで良しとする。周りからは、味気なく、寒々しく見えるようなものであっても、「持たないこと」を最上とする彼らには、今のその状況は「最高」なのだ。

「省くこと」にしか価値を見出さない人達にとっては、「余分」は単なる「無駄」でしかない。だが、「対 人」に関しては、その「無駄」こそが必要なのだ。「コミュニケーション」とは、本来そういうものだ。一方的に「要点」だけを伝えるのであれば、それは単なる「報告」や「発表」、もしくは「命令」だ。

間違った断捨離―彼らを観ていると、そんな言葉が浮かんでくる。がらんとした部屋で一人満足そうにしているその様子は、本人の思いに反して、周りにはひどく頑なで寒々しいものに映るのだ。何でもかんでも「効率」を重視・優先して省いて回るその姿勢は、やがて「孤立」と「孤独」を運んでくる。

だが、もしかしたら、それこそが「持たないこと」を良しとする彼らが一番望んでいるものなのかもしれない。そして、それもまた「生き方の一つ」なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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 2017-01-14
人生には、「奇しき縁」としか喩えようのない出会いが時々訪れる。

初めて会うのに、まだろくに言葉すら交わしていないのに、ふと視線が合った瞬間に、その人のすべて―「本質」ともいうべきものに、期せずして触れてしまうのだ。

その人のことは何も知らない。年齢も、名前も、最低限の個人情報すらわからない状態であるにも関わらず、「ああ、この人はこういう人なのだ」と、意思の力の及ばない領域の奥深い場所で、それを「知って」しまうのだ。その人に関する「情報」のすべてが、抗う間もなく、奔流のように一気に自分の中に流れ込んでくるような感覚に近い。

そして、それが「当たり外れ」とは無縁のものだということも、既に「知っている」のだ。加えて、まったく同様のことが相手の身に起こっているということも。それは「直感」などではなく、揺るぎのない「確信」なのだ。疑う余地のないほどの―。この先も決して変わることはないと断言できるほどの―。

好むと好まざるに関わらず、期せずして、不意打ちに訪れた一瞬に起こったそれを、私はあえて「魂の交感」と呼ぼう。

図らずも、相手の「深淵」に触れ、自分のそれに触れられたことを「僥倖」と呼べるかどうかはわからない。「共有」から生まれる高揚や喜びも、そこには存在しない。期待や熱情の欠片さえも。感情の揺れはなく、意識はあくまでもしんと澄んだまま、冷徹に事態を捉えている。

なぜそれが起こったのか、それがどんな意味を持つのか―そんなことはどうでもいいことだ。ある意味、それは「確認」なのだ。昔読んだ小説の主人公の、すっかり忘れていたその名前を、再び本を開いた時に、「そうだった。こういう名前だった」と思い出すような―。そんな淡々としたものだ。

ただ、意識と細胞に刻み込まれた「感覚」だけが鮮烈なままなのだ。多分、それはこの先も変わらない。それが消えずにずっと自分の中で息衝いていくことは、「あの瞬間」からわかっていたことだ。それは、もはや「諦観」なのだ。

お互いの中に、刹那の中に見た「永遠」。

束の間のものだったとしても、それに触れた後には、「意味」さえも価値を持たなくなる。

例え互いの人生が交差したのはこの一瞬の為だけだったとしても、ただその「事実」さえあればいい。意味付けは不要であり、それに執着することは愚陋の極みだ。

自分と、そしておそらく相手も見たであろうものとそれが持つ煌めき。それを同時に共有したという「確信」。もう、それだけで十分なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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砂の城

 2016-11-22
自分自身を必要以上に卑下したりする「卑屈な人」というのは、たちが悪い。だが、その反対に、「過剰に自己評価が高い人」というのも、別の意味で厄介だ。

「自身を過剰に高評価する人」というのは、「自分のことが好き」ということともまた違う。そういった「自己愛」よりも、「自惚れ」が勝っている。自分で自分を、実際以上に優れていると思い込んでいるところに、たちの悪さがあるのだ。才能や人間性等、自分に対しての強い自負があるので、それに反する評価を絶対に受け付けない。「現実」と「思い込み」の落差を認識しようとしないのだ。

「自称 まっすぐ」「自称 やさしい」「自称 ピュア」本来自分以外の人から評価されるべき部分を自称するのは、「自分はそうである」という自信があるからだ。だが、その実は、「自分を客観視できない人」なのだ。

物事には必ず二面性がある。陰と陽、白と黒、光と影―どちらか一つということはない。彼らは、自分自身の「片面」しか見ていないのだ。

他人から見れば、「まっすぐな自分」は、「融通の利かない意固地な人」「自分が正義だと思い込んでいる人」「他者や他者の意見を排斥する人」になる。「やさしい自分」は「誰彼構わずいい顔をする八方美人」「嫌われることが怖い人」に、「ピュアな自分」は「単純で幼稚」「短絡的で物事を深く考えない人」になる。

彼らが認めようが認めまいが、そのどちらもが「正しい」のだ。物事は表裏一体なのだから。同じものを見ても、別の角度から見た場合、まったく違う顔が見えてくる。それは当然のことなのだ。

だが、彼らは「自分側から見た高評価の部分」しか認めない。それが自分にとっての「よりどころ」であり、「存在価値」「プライド」になっているのだ。しかし、それは「傲慢さ」「慢心」とイコールでもある。「自信」と「正しさ」は違う。彼らはそれを混同している。

この手の人達は、自分に対する他者からの言葉や評価に対して非常に敏感だ。表向きはそう見えなくとも、内心は「自分は人からどう思われているか、どう言われているか」ということを常に気にしている。おそらく、過去の経験に由来していると思うのだが、「悪く思われる」「悪く言われる」ということに対する「耐性」が低いのだ。過敏になるあまり、「批判」と「中傷」を混同するのも特徴だ。

実際、「齟齬」を指摘された時、彼らの多くは反発する。「自分を否定された」と感じるのだ。その時点で、彼らの「驕り度合い」「盲目度」がわかるのだ。「自分が思っている自分」と「実際の自分」、その違いを確認・認識しようともしないのだから。「反省が欠けた反発」は、単なる「反応」だ。やられたからやり返す―彼らのそれはその程度のものであって、そこに気概や道理はないのだ。

そういった自惚れからか、彼らは自分の言動に関しては呆れるほどに「鈍感」だ。「まっすぐな人」「やさしい人」「ピュアな人」にあるまじき言動を、時々無意識で平然と行っていたりする。

「まっすぐな人」が我先に自分の「利益」を確保しようとしたり、「ピュアな人」が相手を試そうと画策したり。「は?あなたのどこが『まっすぐ』なんですか?どこが『ピュア』なんですか?」という部分を露呈する。だが、本人達はそれにまったく気づいていない。アウトプットに対するチェックが非常に甘いのだ。

自分を観る目がぬるいというか、自称している人間像とは程遠い言動をしていても、その矛盾にさえ気づかない。万が一誰かがそれを指摘しても、彼らは受け入れないし、認めない。「裸の王様」でい続ける。だがそれは、彼ら自身が選んだことなのだ。

結局、彼らのそれは、「自画自賛」のレベルでしかないということだ。あくまでも「偏った自己評価と履き違えたプライドの上に成り立っているもの」でしかない。いうなれば、それは「砂の城」なのだ。表向きは立派だが、実態は、非常脆く、弱い。

自分を客観視できなくなった時、「成長」はそこで終わる。傲慢さと履き違えたプライドがもたらす「罠」にかかった時、その人の世界は閉じていく。虚構と自己欺瞞の世界の住人として、そこから先を生きていくのだ。

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錯誤

 2016-10-23
【「残業100時間で過労死情けない」武蔵野大教授が不適切投稿 ネットで批判うけ大学が謝罪】
産経ニュース(デジタル版)2016年10月12日掲載記事引用

武蔵野大(東京)は、グローバル学部の長谷川秀夫教授がインターネット上に投稿した過労死に関する記載内容が不適切だったとして「不快な思いをさせ、世間をお騒がせしたことについて、謹んでおわび申し上げます」と謝罪するコメントを発表した。

 武蔵野大などによると、長谷川教授は7日、政府が初の「過労死等防止対策白書」を閣議決定したというニュースを掲載したサイトに「月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない」などと投稿した。

 同日、広告大手電通に勤めていた女性社員=当時(24)=が自殺したのは過労が原因として労災認定されたこともメディアで報じられていた。長谷川教授はこの投稿を削除し、8日に同じサイトに「言葉の選び方が乱暴ですみませんでした」などと書き込んだが、ネット上では批判が集まっていた。長谷川教授は東芝財務部企画担当参事や家具量販大手ニトリ取締役などを経て、平成27年に武蔵野大の教授に就任していた。(以下略)


【長谷川教授の謝罪コメント】

私のコメントで皆様に不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。ここで、皆様に返信させていただきます。

(1)言葉の選び方が乱暴で済みませんでした。
(2)とてもつらい長時間労働を乗り切らないと、会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断し、今の時代にその働き方が今の時代に適合かの考慮が欠けていました。

以後、自分の専門領域を中心に、言葉を慎重にえらび、様々な立場、考え方の方々がいることを念頭において、誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります。(原文まま)


民族性というものは、何百年、何千年経とうと、多分変わることはない。戦前から「死ぬ気でがんばれば絶対にうまくいく」「気の持ちようで何とかなる」という「根性論」「精神論」が崇拝されてきたこの国では、今尚そういった思考が幅を利かせている。そして、その「信奉者」も、相変わらず根強く存在する。「残業時間100時間で過労死は情けない」と発言した件の大学教授はその典型だ。

多方面からの批判を受け、本人は上記のようなコメントを発表しているが、「全然わかってないじゃん、この人」と。謝る相手は「コメントを読んで不快に感じた人達」ではなく、あなたが「100時間くらいの残業で過労自死するなんて情けない」と侮辱した女性に対してでしょ?と。

謝罪コメントを読んでも、「ズレ感」しか感じない。世間が自分を叩くのは、「表現方法」と「空気が読めなかったこと」に問題があるからだと思い込んでいるのがよくわかる。おそらく、この人は今でも「自分の発言は間違っていない」と思っているし、自分への批判も納得していないはずだ。

この人の最大の問題点は、「物事の表面」しか見ていないことにある。電機メーカーの経理・財務畑に永年いらっしゃった影響なのか、「残業時間100時間」という、「数字」にしか反応していない。こういった短絡的な思考は、「研究者」としては致命的だと思う。曲がりなりにも今現在「研究者」を名乗るなら、「見えない部分」「それが起こった背景」を推察しろよ、と。推察も分析もない根性論は、たちの悪い「言いがかり」でしかない。

大学教授とはいえ、やはり、この人の根っこは「ゴリゴリの昭和のサラリーマン」なのだ。それこそ右も左もわからない新卒社員の頃から上司や先輩達によって叩き込まれてきたであろう精神ややり方は、「洗脳」と言ってもいい。洗脳の末に植え付けられた「サラリーマン根性」が、未だに抜けていないのだ。

「100時間の残業で云々」と言うが、その人の精神状態や体調によって、「100時間」の意味や影響は変わってくる。「それ位、誰だってやってるよ」「200時間残業してるオレなんかとっくに死んでるわ」世間にはそういった声もあるが、ここでもまた「根性論」なのだ。それぞれの「背景」を無視した見方・受け取り方をする人がいる限り、この国からは「過労死」はなくならない。

人間というものは、自分が経験したことのないこと、もしくは運良く自分が克服・成功したことに対して、理想論や正論、精神論を持ち出し、それを押し付けがちになる。それはある意味「仕方のないこと」ではあるのだが、自分のそれが「あくまでも一例」「一個人としての自分の意見や体験」という認識がない場合、話は変わってくる。

字面だけを見れば、それらは決して「悪いこと」ではない。だが、そのことが余計に逃げ道を塞ぐのだ。「追い詰められた人」は、自分自身を責め続けている状態にある。「悪いのは自分」「自分がダメな人間だから」そう思っている。自分を嫌悪している状態の時に突きつけられるそれは、更にその人を深い淵に落とすのだ。自分がどれだけ「正しいこと」「あるべき姿」から離れた場所にいるのかを思い知らされるから。「追い詰められて弱った人」にとって、正論や精神論の類は「救い」にはならないのだ。

「月当たりの残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い結果を出せるように、人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき」

件の長谷川教授がネットに投稿、批判された文章の全文だが、なんというか、「陳腐だな」と。上っ面だけの綺麗事というか、熱血サラリーマンが主人公の、昭和のドラマに出てきそうな言葉の羅列が非現実的なのだ。いわゆる「意識高い系」特有の、上から目線の理想論でしかない。

「上司を説得」「人的資源を獲得すべく最大限の努力を云々」「長期的に自分への投資を続け云々」これが通用・適用されるのは、心身の状態や時間に余裕があり、職場環境や人間関係が良好な場合だけだ。

「君の残業時間の20時間はムダ」「目が充血したまま、髪がぼさぼさのままで出勤するなんて女子力がない」と上司からパワハラ・モラハラ発言をされたり、休日返上で作った資料を貶されたり、心身共に疲れきって萎縮しきった、ただでさえ立場の弱い新入社員に、上司に立ち向かうエネルギーや勇気が残っているわけがない。ベテラン社員でもハードルの高いことを要求すること自体、現実味がない。それができるくらいなら、今回のようなことは起きていない。

「精神力ですべてが解決できる」この国では、何かと根性論を持ち出すが、自分の意思で起業したような、職場に寝袋を持ち込むくらいのやる気に満ちた人であっても、嫌気が差すことはある。すべてを投げ出してしまいたくなるような状態になることも、一度や二度ではない。だが、それは人間ならば「普通」のことなのだ。当初の情熱が何年も何十年も同じレベルのまま続くほうが、むしろ「異常」であり、「レアケース」なのだ。

何よりも、大学で経営学を教える教授が、「請け負った仕事を完遂する意識があれば、残業時間なんか関係ない」と発言する時点でおかしいでしょ、と。経営学で労働基準法については教えないんですか?経営学の教授が労基法を無視してどうするんですか。法律や人権よりも「根性論」が適用されるって、どう考えてもおかしいんですけど。

この人の言葉をそのまま受け取れば、「経済的活動は、根性で何とかなる」ということになる。そんなわけあるかっつーの。何が「経営学」だよ。そんなの「学問」でもなんでもないじゃん。「学問」の肝である「理論」はどこにいった?結局、この大学教授が言うところの「プロ意識」とは、「組織のために犠牲になれ」の同義語なのだ。それこそ「社畜根性」以外の何物でもない。

これ、本当に「グローバルビジネス科」で教鞭を取っている人の発言ですか??思考が昭和のサラリーマン感全開で、全然グローバルじゃないんですけど。むしろ、時代とか世界的な傾向とか、すべてにおいて「逆行」してますけど、どーなんすかね?

世間では「ワークライフバランス」やらなんやら言ってはいるが、専門家が平然と労基法を無視した発言をし、根性論を振りかざすのが、この国の現状なのだ。「根性があればすべてが解決する。うまくいく」日本人のメンタリティーにがっちりくい込んだ「根性論」は、この先もずっと存在し続ける。そして、それを信奉する「日本人」という民族も、多分この先も変わることはないのだ。

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イミテーション

 2016-10-10
自らを「やさしい」と称する人のそれは、本当の「やさしさ」ではなく、「処世術」なのだと思う。実際、そのやさしさも、後から考えると「どうでもいい」「それくらいは誰でも」というような、「わかりやすい」程度のものだったりする。同時に、これみよがしなアピール感を若干感じるのは、多分彼らがそれを意識して行っているからだ。

特に何事も起こらず平穏な時、その人達は、文字通り「いい人」だ。だが、実際何か事が起こった時、その印象は一変する。そのやさしさの「正体」が、いわゆる「世渡りのための方法」だったということが露見する。

その瞬間、「論理」と「経験」の不一致が起こり、すべてが「綺麗事」になる。彼らの言葉も、態度も、今まで「やさしさ」と思われていたそれは、「人の為」ではなく、すべて「自己保身の為」であったことが暴露されるのだ。

弁解を並べ立て、自分を正当化しながら、火の粉が降りかからないようその場を逃れようとする様、耳に心地の良いことをあれこれ言いながらも、結局核心に触れず、問題を先送りにして「現状維持」に徹しようとする様は、彼らが、実際は「ただのご都合主義の平和主義者」であることを教えてくれる。言葉だけは立派だが、火中の栗は拾わない―それが、彼らだ。

「自称 やさしい人」が一番恐れるのは、「人から嫌われること」だ。「孤独」への耐性も低い。自分から人が離れていくということが耐えられないのだ。だから、彼らは「やさしい」のだ。嫌われないように、悪く思われないように、独りにならないように―そのやさしさは、結局「自分のため」なのだ。

その手の人達が一番やさしくする相手は、他ならぬ「自分自身」だ。一番かわいいのも自分。一番大事なのも自分。一番守りたいのも自分。中心は、あくまでも自分自身。それが彼らの「本性」だ。

「巻き込まれること」を恐れる彼らは、その危機に面した時、本来の姿を見せる。いかに上手くとばっちりを避け、この場を丸く収めて安全圏に脱出できるかを算段する狡猾な顔が現れる。もしくは、「あわよくば最小限の修復可能なダメージの範囲内で事を済ませたい」そう思っている。

そして、その間も、人から嫌われることのないよう、上辺だけのフォローは欠かさない。響きだけの、心のこもっていない綺麗な言葉で、形ばかりの理想論や正論を語ったり、無責任な慰めや励ましを言ったりするのは、人を怒らせることへの恐怖や「人を怒らせる自分」を正視できないからだ。この期に及んでも「やさしい」のは、人から嫌われたくないから。

彼らは思い違いをしている。「やさしいこと」は、嫌われることの「免罪符」にはならない。「みんなにやさしい」ということは、「=みんなから好かれる」ではないのだ。「自称 やさしい人」は、多分こう思っている。「みんなにやさしい自分が嫌われるわけがない。やさしくていい人は嫌われない」そういう思い込みがあるから、彼らは人にやさしくする。

とってつけたような、「いかにも」な態度や表情。綺麗事と理想論だけの融通性のない言葉。中身のない、ただひたすら相手の機嫌を取るためだけの美辞麗句。むやみやたらの「共感」と「肯定」―計算高さや自己保身から発生する「やさしさ」は、どこか作り物めいた匂いがする。結局、彼らは「演じている」のだ。彼らの言う「やさしさ」とは、自分の利益を計りながら、親切そうに振舞うことなのだ。

彼らにとっての「やさしさ」は、嫌われることを避けるための、いわば「先手必勝」の、相手からの攻撃―嫌悪や悪意を封じ込めるための「布石」なのだ。根回し、計算―すべては「戦略」であり、「技術」なのだ。すべては、相手のためではなく、自分のためのもの。

だから、彼らの「やさしさ」は薄っぺらい。奥行きもなければ、深みもない。時間と共に消えていく類のものだ。後には何も残らない。後に彼らを思い出す時に浮かぶのは、「やさしい人」ではなく、「中身のない上辺だけの人」という印象だけだ。勇気も気概も覚悟もない、自分を守るためだけの「やさしさ」は、結局爪痕さえも残せない。塵芥と同等のそれは、何の価値も残さない。

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